№7 隙間

その電話があったのは、もう深夜といっても差し支えない時間だった。
前の晩に、いつものように出掛けて行く撩を玄関で見送った。
明け方か、遅くとも昼前までには戻るだろうという、
香の予想に反して撩は暗くなっても戻らなかった。
撩の分もいつも通りに作った夕食は、ラップをかけて冷蔵庫に仕舞った。
何度見たところで変わらないのに、ベランダに出て表の通りを探してしまう。
夜でも煌々と明るい街灯の下を、赤い小さな車が走っていないか目を凝らす。
何度も確認している時計の針は香を焦らすように、遅々として一向に進まない。
そんな時に、リビングの電話が鳴ったのだ。


「…もしもし」
「俺」
「うん」


繋がった瞬間に、小さくプーッという音が聞こえて、
撩が何処かの公衆電話から掛けてきたことがわかった。
それ以前に、そんな時間に電話を鳴らすのは撩だろうと、香には出る前からそれがわかった。


「無事だから、心配すんな」
「うん」
「朝までには、帰る」
「うん」


言いたいことはもっと沢山あるような気がするけれど、
いつも通り言葉に変換できない二人の間には、沈黙が味方する。


「麗香さんは?大丈夫?」
「ああ、二人とも何ともない。ちゃんと戸締りし…」

プツッ、プープープー


撩の声は、中途半端なところで途切れてしまった。
それでも香は、昼間からの心配が少しは軽くなるのを感じた。
電話の向こうの撩は、至っていつも通りで緊迫感の欠片も感じさせてはいなかった。
けれどすぐに帰って来られない程度には、差し迫った状況なのだろう。



NTTの回線によって、二人の会話を強制終了させられた撩は、
暫く緑色の受話器を憮然と睨んでいた。
ポケットの中の小銭ではそれまでが限界だったので、
もっと彼女を安心させることのできる言葉を探っていたかったけど諦めた。
小さな虫が誘われるように群がった強化アクリル製の箱を出ると、撩は気持ちを切り替える。
この数日、撩を煩わせた連中を一人残らずブッ潰す。
撩にしてみれば間の悪いことに、折角の相棒とのデートをふいにさせられたのだから、
三割増しで仕返ししてやる目論見だ。


香は撩のサンダルを突っ掛けて、もう一度ベランダへ出た。
ブカブカの撩のビルケンシュトックは、撩が履くよりむしろ、香が履く頻度のほうが高い。
夜の空気には、夏の終わりの匂いが混ざっている。
朝までには帰ると言った彼の姿が、表の通りにあるわけもない。
さっきまでの胸を引絞られる様な激しい焦燥感は消えた代わりに、
今度はまた、別の感情が香を苦しめ始める。
今回、撩は麗香と行動を伴にしている。
最初、あのデートがドタキャンとなったあの時に、香は自分に出来ることがないか撩に訊いた。
撩の言葉と表情はこういう時、とてもキッパリと香を拒絶する。
その度に香は、相棒という言葉の意味について深く思い悩んでしまうのだ。
香はこの数年間で、その拒絶の瞬間を上手く躱す術だけが上達してしまった。
撩が望まないことには、どんなに心が折れそうになっても決して踏み込まない。
撩が香に詮索されたくないことを、詮索しない。その代わり、撩を信じて撩を待つ。
ただ待つだけじゃ能が無いから、
撩が帰って来た時に心底安心できるように、空かせたお腹を満たせる食事を用意して撩を迎える。
撩の居場所の番人のように留守を守る。
それでも本音を言えば、香は撩の隣に立って撩と一緒に闘いたい。
撩がどんな相手に向かって、孤独な闘いを続けているのか、
相棒としてそれを分かち合いたいと思っている。
先日の麗香からの電話で、今回の件が彼女絡みの依頼であることを知り、
彼女と行動を共にしていることを知らされて、正直、ショックじゃなかったといえば嘘になる。
色々なことを撩と二人で乗り越えて、撩から色んな言葉を貰った筈なのに。
実際には、肝心な時に自分は彼の役に立てないのだ。

いつまでこんな自分なんだろう、麗香や冴子や美樹たちみたいに、
この世界を渡っていける本当の強さを、一体自分はいつになったら持ち得るのだろう。
香がそう思い、涙が零れそうになった時に、またしても電話が鳴った。
一瞬、撩の顔が脳裏に浮かんだけれど、それをあっさりと打ち消した。
すぐ向かいの大きな窓の向こうで、見慣れた友人が電話を片手に手を振っているのが見えたからだ。


「こんばんは、カオリ」
「こんばんは」


明るい友人の声は、沈みがちだった香を少しだけ明るくさせた。
自然と声に笑いが含まれるのを感じる。


「リョウのやつ、まだ帰らないの?」
「…うん、昨夜から帰ってないの」
「Oh そりゃ心配だね、大丈夫?カオリ?」
「さっき  電話があったの、無事だから心配要らないって」
「あぁ、そうか、なら良かった」
「うん」


優しい友人は、優しいうえにとても勘が鋭いので、
少ない言葉の中に隠れた香の感情は、すぐに読み取られてしまう。いつものことだ。


「でもなんだかとても悲しそうだ、カオリ?なにがあったの?」


こういう時に、こんな風に、優しく気遣われると、
堪えようと思っていた涙が思いがけず溢れてしまう。
涙は一度溢れてしまうと止め処なく、感情も一緒に流れ出てしまう。
電話越しに泣きじゃくってしまった香を、ミックは優しく沈黙で包む。
心配でたまらなかった撩の安否は、本人の至っていつも通りの元気な声を聴いて安心できた。
今夜も世界の何処かで彼は、生きて自分に課せられた宿命と向き合っている。
彼はちゃんと生きているから。
だからそれはもっと、別の涙だ。
悔しい気持ちや、嫉妬の気持ちや、不甲斐なさや、自己嫌悪の気持ち。
そういう全部がぐちゃぐちゃに入り混じって、
何処かで今も一生懸命に闘っている撩にだけは、絶対に見せたくない汚い自分。

なんで麗香は連れて行くのに、自分はダメなのか。
彼女にあって自分にないものと、自分にあって彼女にないものの違いについて。




「違うの、アタシはアタシが嫌いなの」
「カオリ?ボクはキミが好きだよ?」



「撩、いま麗香さんと一緒に仕事してるの」



暫く泣いた香が、鼻声でそう言ったので、ミックにもその涙の意味が理解できた。
香を危ないことに近付けたくないのは、単なる撩のエゴだ。
汚い世界を見せたくないのも、罪を犯した自分を見せたくないのも。男のエゴでしかない。
けれども、例えばそれがミックだったとしても、きっと同じようにする。
香には綺麗なものや楽しいものを、沢山みて笑っていて欲しいから。
それというのも、香のことが好きだからそう思うのだ。
でも、撩の全てを知ったうえで、それを分かち合いたいと思う香の気持ちも理解できる。
ましてや周囲の女達と自分自身を比べてしまうだろうことも。


「そっか、ツライね。…でもさ、カオリ」
「ん?」
「リョウが望んでるのは、家に帰った時にキミが居るいつもの日常なんだよ?」
「…でも、アタシは…、撩と一緒に闘いたいの、撩を苦しめる全部と」
「うん、知ってる、でもボクは撩の気持ちがよくわかるんだ、キミのことが好きだから」


そう言ったミックの言葉を、香は泣きすぎて頭痛のする頭で考える。
黙り込んだ香とミックの間に、静かな沈黙が流れる。
そんな時間でさえ、ミックは好きだ。
ミックは彼女が好きだから、どんな彼女であっても常に彼女の味方でいるつもりだ。
どんなに嫉妬に狂っていても、自己嫌悪で泣きじゃくっていても、
撩にはこんな姿を見せられないと言って、苦しむ彼女ですら可愛いと思う程度には頭がおかしい。
それがミック・エンジェルという男だ。


「カオリ、それをリョウは望んでいるんだ。
 キミが無事で、キミに危害が及ばない場所で、キミの元に帰りたい一心で、
 きっと大急ぎで仕事を片付けてるはずさ。」


リョウのやつってば、健気だなー、とミックが笑いながらそう言うので、香もつられて笑った。
ミックの言葉にはきっと、香の気持ちを紛らわせる為のジョークも含まれているので、
香はいつも話半分で聴いてはいるものの、
確かに少し、胸に仕えたモヤモヤは晴れたような気がする。
誰にでも心の中には、他人に見せられない領域というものがあって、
どんなに強く思い合っていたとしても、
互いに埋められない心の隙間というものはどうしようもなくて。
それはきっと、自分以外の誰かに埋めて貰うような性質のものではないのだろう。
それを埋める為の課題には、皆それぞれが向き合わざるを得ないのだ。



「どんなにキミがキミ自身に失望しても、ボクはキミの味方だから、忘れないで」

「ありがとう、ミック」



友人はいつもこうやって、朝を迎える為の勇気を香にくれるから、香もついつい甘えてしまう。
もしも、このミックと香の遣り取りを撩が知ったら、嫉妬しまくって不機嫌になるだろうことなど、
当の香だけが、いつまでも知らないでいる。


(つづく)





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[ 2021/06/07 20:20 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(0)

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