最終話  不確定な未来

カーテンの隙間から差し込む光が鋭くて、香は目を覚ました。薄いグレイの遮光カーテン越しの室内の明るさで、もうそれが早朝と呼べる時間ではないことが窺い知れる。
覚醒と同時に感じたのは酷い喉の渇きと、二日酔い特有の吐き気を伴う頭痛だった。
そこで香は昨夜の酒盛りを思い出した。確かに昨夜はいつになく酒を飲んだ。
アルコールに関しては、別に強くもないけれど特段弱いわけでも無いはずだ。
それでもさすがに昨夜の酒量は限度を超えていた自覚はある。
完全に寝坊だし、それに気付いた今この瞬間ですら布団から起き上がるのが億劫だ。
いつもは腹が立って仕方ないぐうたらな相棒の朝の様子も、今朝ばかりは共感できる。
自分がこの状態なら、今頃きっと相棒も7階の自室で鼾をかいて寝ているだろうと思ったところで、
ふと香は我に返った。

そういえば昨夜は、いつ眠りについたのかさえ皆目覚えていない。そもそもこの数日間、香は5階の空室に仮住まいしていた筈で、この客間兼香の部屋には依頼人がいた筈だ。でも、今ここには昨夜の部屋着のままの二日酔いの自分がいるだけだ。

(…あれ?健太は?)

そこまで考え始めて漸く、香の頭が働き始めた。
とりあえず寝床でウダウダしていても仕方がないし、たかだか二日酔いくらいでダウンしていたら相棒の奴に何を言われるかわかったもんじゃない。普段から夜中の酒の名残を色濃く残したままのだらしの無い彼に、朝から口煩く小言を言うのは香自身なのだ。そっくりそのままブーメランを投げ返されるのも癪なので、意を決して起き上がると勢いよくカーテンと窓を開けた。

「やべ、吐きそぉ」

目の裏を直撃する午前中の日光が恨めしいし、眩暈も酷いけど、それでもとりあえずは朝ごはんを作らねば。あと、昨日無事に事件が解決した依頼人の所在確認と、撩も起こして、多分散らかり放題であろうリビングの片付けもしなくてはならない。やること目白押しだ。





吐き気を気合で無理矢理封じ込めた香がキッチンで見た光景は、いつもとは真逆の現象だった。
部屋着を洗濯済みの別の部屋着に着替えただけの、冷たい水で顔を洗っても浮腫みが否めないぼんやりした顔の、所々直らない寝癖を半ば諦めて開き直った香とは対照的に、嬉々として朝食を作る冴羽撩の姿がそこにあった。昨夜の酒程度では何の不調もきたさない鋼の肝臓の持ち主は、香の様子に笑みを浮かべた。

「よお」
「おはよ」

席に着いた香の前に焼いた塩鮭と卵焼きを並べながら、何か言いたげにニタニタしている撩。味噌汁の具がシジミなのは自分が二日酔いだからだろうかと香は深読みする。それでも香の薄い白磁にピンクの小花柄の茶碗に、見るだけで食欲が減退しそうなほどに大盛りの白米をよそう撩。そして撩は、深鉢で2人分の納豆と浅葱を混ぜている。にやにやと笑いながら。

「何よ?」
「何が?」
「変な顔でずっと見てるじゃない」
「誰が変な顔だよ、失礼な」

アンタがよ、と香が言うと撩は声を出して笑った。

「だっていつもと逆だからさ」
「…」
「たまにはこういうのも悪くねえな」

こういう時の撩は香をからかうのを楽しんでいるので、
香はもうそれ以上何も言わず食事を始めることにした。味噌汁に口をつけたところで思い出した。
あまりにも意表を突かれて、一瞬忘れていたことがあった。

「そういえば、健太は?」
「…ぁ?帰ったよ、今更かよ」
「いつ?」
「昨夜」
「…全然おぼえてない」
「そうだろうな」

なにせ酔っ払って眠りこけていたのだ。撩が抱きかかえて客間に運んだことすら知らないだろう。どうやって部屋に辿り着いたのかを訊かれたら、撩は曖昧にすっとぼける気満々だったけれど、香がそれ以上質問しなかったので少しだけ肩透かしを喰らった気持ちになった。
もしも相棒がこのラインを越えた時にはこう言おう、こう訊かれたらこう答えよう、撩はいつも先回りをしてリアクションを一度脳内でシミュレートする癖がついている。







香は少しだけ遅い日課をこなしながら考えた。
朝食を終えてリビングに向かうと、予想に反してそこは綺麗に片付いていた。しかも撩はなんと洗濯機も回していおいてくれたらしいし、一昨日の夜まで健太の使っていたリネン類まで洗って乾燥機に放り込んだらしい。極めつけがあの完璧な和定食の朝食だ。なんだか拍子抜けした気分で、香は撩が洗った洗濯物をベランダに干していた。

「やれば出来るんだから、たまには自分でやってくれればいいのになぁ」

そう呟いても、やれば出来る男・冴羽撩は香の食べた後の食器を洗い、楽しそうにコーヒーを淹れると香を独り残して出掛けて行ったので撩には届かない。ただの独り言だ。香も香で、それでもなんだか満更でもない気がしていた。相変わらず二日酔いは残っているし、出来るなら日頃からやれと思うのも事実だけれど、朝から楽し気に香を構う撩のことが嬉しくなかったと言えば嘘になる。





撩がコーヒーを淹れていたので一緒に飲むものだとばかり思っていたさっきの香は、諦めていた寝癖が気になったので自室に戻り、ドレッサーの前に座った時に初めてそれに気が付いた。小さく折られたメモ用紙が化粧水の瓶と乳液の瓶の間にひっそりと挟まれていた。その文字は決して上手ではないけれど誠実に丁寧に書かれていて、書いた本人の善良な人柄と丸刈りだった少年の頃の面影を香に思い起こさせた。昨日までここにいた健太からのメッセージだった。



『槇村へ
 君はもっと自信を持ったほうがいい。君自身が思うよりずっと、君は綺麗だ 』


そんなものを見付けてしまって数分間惚けていたら、キッチンに戻った頃には撩はもう出掛けた後だった。テーブルの上には淹れたての湯気を上げるコーヒーのマグカップと、これまた撩の殴り書きが残されていた。


『二日酔いには昼寝が一番、とりあえず寝ろ』


元同級生の彼とは真逆で、いかにも撩らしいその短い置手紙がまるでラブレターみたいに嬉しいなんて。多分、撩が知ったら笑い飛ばすか、変な顔をして暫く口を利いてくれなくなるだろうと、香は思う。だから香は撩には本当の気持ちは言わないでおくのだ。






撩のパンツを干しながら、ついさっき小さな紙切れを弄びつつキッチンでコーヒーを飲んだことを思い出す。友達は、もっと自信を持てとアドバイスをくれたけど、香にはまだ自信も勇気も足りない。撩の傍で頼れる相棒でいられる自信も、撩の心の奥にアクセスする勇気もまだない。香の言葉が届かない時にだけ、こっそり本音を漏らせるのだ、本人のパンツに向けて。


ねえ、りょお。
こう見えてアタシにも綺麗だって褒めてくれる男の人のひとりくらいはいるらしいよ。










その頃、冴羽撩は駅前の雑踏をぼんやりと眺めながら考え事をしていた。日課のナンパをする名目で家を出たけれど、気分は乗らない。昨夜、香の寝顔を見ながら自分のような男が縛り付けていていい女ではないな、と毎度お馴染みの自虐プレイに浸っていたけれど、そんな自分自身と矛盾するように、今朝は彼女を甘やかしてリアクションを楽しんでいた。一体、この先彼女に何を望んでいるのか、彼女とどうなりたいのか。どんな未来を思い描いているのか。
そんなことは誰より撩自身がわからないし、何より向き合うことから逃げている。撩にはずっと傍に居て欲しいと懇願する勇気もないし、約束の言葉で縛り付ける覚悟もない。彼女から沢山の幸せを貰っている自覚はあるけれど、彼女を幸せに出来るかどうかなんて自信がない。
全部が曖昧で、でもちょうどいいぬるま湯のような陽だまりのような、温かいあの2人の暮らしがあるアパートで白黒つけずに生きていたいだけだ。それが卑怯であることは、撩も重々解ってはいるけれど、どうにかこのまま可愛い彼女と手を取り合って、行けるところまで行くわけにはいかないだろうかと考えている。




まーいっか、今日も生きてるし。お前は笑ってくれるだろ?香。
俺が生きて帰ってくるだけで。







まだこの先の未来など誰にもわからないし、未来は不確定だから生きていかれる。
互いを想い合いながら、まだ今は初めの一歩を踏み出せないでいる2人の物語も、
きっと沢山の不確定な未来という名の障害物を乗り越えながら紡がれていく。
今この一瞬も、次の瞬間には過去になり、未来も今になる。
きっとそうやって気付いた頃には、
あんな時もあったねと笑いながら話せる時が来ることを、2人はまだ知らないでいる。


(おわり)

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[ 2021/04/22 01:32 ] pretend | TB(0) | CM(1)

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[ 2021/04/27 07:50 ] [ 編集 ]

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