事態は、思いもかけず突然に急転する。
撩との打ち合わせに基づき、冴羽アパートに身を隠した岡崎は不法投棄問題とそれに付随する一連の問題、
また取材の過程で受けた様々な妨害工作と、殺人未遂に関する事実を詳細に記事に起こしている。
撩は依頼を受けて数日後に、岡崎にある提案をした。
撩が調べてきて新たにわかったことや、掴んだネタは逐一岡崎に伝える。
その情報を元に岡崎はどの点について裏取りをしなければならないか、更に必要な情報は無いかを精査し、
それを撩に伝え、更に撩が外に出て必要な情報収集を行う、というものだ。
撩が必要なパズルのピースを探しに行き、岡崎が謎を解くのだ。
撩はまるで鼻の利く優秀な狩猟犬のように、岡崎の求める情報を速やかに拾ってくる。
撩と岡崎は自然と、午前中の数時間をそのような打ち合わせに充てるようになっていた。
午後から岡崎は原稿に取り掛かり、撩は夜行性なので夜に備えて睡眠時間に充てる。
香はそれぞれのサポート役に徹した。
こうすれば狙われている岡崎が表に出る必要はないので、アパートの守りさえ固めていれば安全だ。
向こうが岡崎の居場所を突き止めて襲いに来るのが早いか、こちらが悪事を公表するのが早いか、
それは時間との勝負だ。
「冴羽さん、どんな手法を使ったらこんなにきめ細かな情報を、この短時間で持って帰って来れるんですか?」
実際、岡崎は驚いている。
かつてこれほどまでに仕事の早い人間を、見たことが無い。
「・・・まぁ、別に普通に色々調べてるだけ。」
「冴羽さん、ライター向きですよ。今すぐにでも、転職できる。」
「いや、文章書けるかどうかの問題もあるじゃん?普通に無理だろ。」
「あ、そっか。や、でも冴羽さんなら出来るんじゃないかな。」
「俺、漢字とか苦手だからな~。」
「そうなんですか?」
「うん。フツーに難しいじゃん?漢字。」
妙に香と馴れ馴れしい依頼人の彼と、はじめこそ撩は複雑な心境で向き合っていたけれど、
いつの間にか気が付くとそんなわだかまりは、消えてなくなっていた。
自分の命が懸かっているというのに、岡崎は目の前の巨悪を暴きたいという一心で原稿に取り組んでいた。
確かに調べを進めていくと、ターゲットは思いのほか危険な人物で、
逆に言えばよくもここまでたった独りで調べてきたものだと、撩は言葉にはしないものの密かに感心していた。
「冴羽さん!! 槇村がっっ」
慌てた様子で岡崎が撩の寝室に飛び込んできたのは、まだ早朝7時半頃のことだった。
撩は夜通し動き回って明け方前にアパートに戻り、
香の作るブランチにありつく頃に起き出してくるのがこのところの、タイムスケジュールだった。
香はどうやら毎朝6時頃には、6階に『出勤』し、
朝食の準備を始め、その気配で岡崎は毎朝7時頃に目を覚ましていた。
それがどうにも、今朝は様子が違った。
7時を回っても香は6階に姿を見せなかった。不審に思った岡崎は、5階の部屋を訪ねたらしい。
ドアに鍵は掛かっていなかった。物色された形跡は無かったものの、香だけが忽然と姿を消していた。
「来たか。」
「え?」
「おい、原稿のほうの進捗はどうなってる?公表できる形にはなりそうか?」
「まだ、完全にとはいきませんけど、ある程度インパクトのある告発ができる位のボリュームはあります。」
「編集部のほうは?速やかに掲載できる状況なのか?」
「一応、この記事に関しては自分が持ち込んだ時点の最新号で特集を組むことで話はついてます。」
「よし、行くぞ。」
「え?何処に?」
アイツを取り返しに行くに決まってんだろ。
岡崎がそれほど真剣な表情の冴羽撩を見たのは、後にも先にもその時だけだった。
いつも飄々としていて、ふざけているのかと思えば意外と真剣だったり、かと思えば真顔で冗談を言ったり、
ようやくそんな撩のあしらいに慣れてきた頃の岡崎にしてみれば、
それは唯一、撩の剥き出しの感情の表れのように見えた。
平和な冴羽アパートの中に、ほぼ軟禁状態だった半月ほどで忘れかけていたけれど、
香が何者かの手によって誘拐された事実を目の当たりにし、
如何に今のこの状況が非日常であるのかを岡崎は改めて突き付けられた思いだった。
命を狙われた自分の身代わりに、初恋の人が連れ去られてしまった。
それからの撩の行動は迅速だった。
2人でミニクーパーに乗り込み、撩は勢いよくアクセルを踏み込んだけれど、
何処に行くのか、香が何処にいるのか、まるで初めから解っているかのような素早さだった。
「あの、冴羽さん、訊いてもいいですか?」
「何を?」
「槇村の居場所がわかるんですか?」
撩の横顔がニヤリと笑ったのと、前方の信号が赤に変わったのはほぼ同時だった。
それまでの荒々しい運転とは対照的に、滑らかに信号待ちの列に加わった撩は、
助手席側へ手を伸ばし、ダッシュボードを開いた。
岡崎には見方がよく解らないけれど、どうやらその液晶パネルに表示されたのは東京23区の地図のようだ。
そこに赤く点滅する光点がひとつ。
「そこにアイツがいる。」
それ以上、撩は余計なことは語らなかった。
流れで一緒に着いては来たけれど、今から何が起こるのか岡崎には全く予想もつかなかった。
そもそも何故香が連れ去られたのかすら、上手く理解が出来ないでいる。
それは即ち、岡崎が彼らにガードを依頼したことを、先方にも知られているということか。
その上で香を連れ去ったのならば、香の命が危ないのではないかと随分遅れてハッと気が付いた。
何しろ、駅のホームでしつこく突飛ばそうとしてきたり、
夜道で車を使い尾行した挙句に轢き殺そうとしてくるような輩なのだ。
まるで岡崎の心の内を見透かすように、撩が口を開いた。
「心配すんな、アイツはそうそう簡単に殺られるようなタマじゃねぇ。」
「冴羽さん、槇村のことどう思ってます?」
「どうって?」
「少しは意識してたりします?仕事仲間以上の相手として。」
「俺にその資格は無いから。」
「どういう意味ですか?」
それ以上、撩の返事は無かった。
多分、彼はこの生業でいる限り、彼女を危険に晒すリスクが常にあるからこそ、
言葉の枠の中に彼女という存在を当て嵌めてしまうことを、極端に恐れているんじゃないかと岡崎は想像した。
でも、彼には気が付いていないことがひとつある。
それはただの形式的な彼の中での線引きに過ぎず、
気持ちや感情を無いものとして扱うことはナンセンスだ。
だってそこに確実に、それはあるから。
香は同じ意味合いの質問を岡崎にされて、そう見えるのならばきっとそうなのだろうと言った。
けれど、それでは足りないとも言った。
『好き』だという言葉では小さいと。
きっとそれは撩にとっても同様ではないのだろうか。
たとえ見えない振りをしたとしても、気持ちの在り処までは消せない。
今はただ、一刻も早く彼女を連れ戻しに向かうだけだ。
(つづく)
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