槇村香の日課のひとつは、午前と午後の2回、JR新宿駅東口伝言板に赴いて依頼の確認をすることである。
槇村香と相棒の冴羽撩に用のある人間は、そこへXYZの3文字と連絡先を書き込むのが依頼の合図だ。
但し、書き込んだからといって、まだ正式な依頼人とはならない。
書き込まれた連絡先に、香からの連絡が入り大まかな依頼内容と素性を訊かれる。
それから撩と香による面談を行い、依頼人に不審な点が無いか依頼内容の緊急性や危険度などを鑑みて、
主に撩が判断をする。香は窓口担当で、実働は撩の担当だ。
撩が動く必要があると思えばその時点で、正式な依頼人となるわけだ。
「・・・今日も依頼は、無し、かぁ。」
香は無意識に小さく溜息をついた。
先に述べた冴羽商事の依頼に対するスタンスは、あくまで基本であり、例外も存在する。
家計の状況によっては香の強硬によって、撩の気乗りのしない依頼でも請け負う場合もあるし、
依頼人が妙齢の女性であれば、香の気乗りしない依頼でも撩が勝手に引き受けることもある。
要はケースバイケースだ。
このひと月、依頼を意味するXYZの書き込みは無い。
依頼が無ければ収入も無いので、香にとっては死活問題なのだけれど、
当の相棒は一応、香の雇用主でもあるくせに、その辺りについては非常に呑気に構えている。
「もしかして槇村?」
解かり易く落胆している香の背後から、そんな声が聞こえたので香は振り返った。
学生の頃は、よく同級生にそう呼ばれた。今、この街で香のことを名字で呼ぶ人間はあまりいない。
みんな親しみを込めて『香ちゃん』と呼ぶ。
それもこれも、香が撩の相棒だという前提でこの街の住人に認識されているからにほかならない。
「うん、やっぱりそうだ。槇村だろ?」
そう言って、香の背後2mほどの場所に穏やかそうな笑みを湛えた男性が立っていた。
チノパンに薄い水色のボタンダウンのシャツを着て、紺色のシンプルなジャケットを羽織っている。
ノーネクタイだけどPCを持ち歩けるタイプのブリーフケースを持って、
革靴を履いているので勤め人であることは推測できる。
短く刈り込まれた短髪と、日に焼けた肌、がっちりしているけれどそれほど高くはない身長。
人懐こそうな笑顔に見覚えがあった。けれど、数年前に卒業した高校の同級生は、すっかり大人だった。
「もしかして・・・健太?」
「そうそう、岡崎健太。」
「うわぁ、元気してた?すっかり大人になっちゃって別人みたい。」
香はそう言ったけれど、それはそっくりそのまま岡崎の気持ちだった。
気の重い用があって普段は利用しない新宿駅に立ち寄ったら、
久し振りに再会した同級生は驚くほど大人の女に変貌していた。
昔から美少女であったことは勿論知っていたけれど、それ以上に男勝りで元気の良い彼女は。
そのイメージが若干先行気味で、多くの男子生徒にとっては憧れの女子というよりは、
『気の置けない親友』みたいな存在だった。
けれど、岡崎健太は実のところ、彼女が綺麗だと当時から気付いていたし、
そういう男子は自分だけでは無かったんじゃないかと思っている。
彼女は活発で快活で親しみやすい雰囲気はそのままに、めちゃくちゃ良い女に成長していた。
「大丈夫?お仕事中じゃなかったの?」
香はそう言いながら向かい合った席で、コーヒーのカップに口を付けた。
岡崎が偶然に再会した記念にお茶でもどう?と誘うと、香も警戒することなく軽やかに応じた。
彼は普段、そんな風に気軽に女性をお茶に誘うようなタイプではないけれど、
高校時代の同級生という気安さと懐かしさと、ほんの少しの名残惜しさに思わず、誘う言葉が口を吐いて出た。
「あいにく、自由が利く身でね。全然大丈夫。」
「そう、何やってるのか訊いてもいい?」
「フリーのライター。主に環境問題に関するルポを書いてる。」
「ふーん、高校の時そういうことに関心があるって知らなかった。」
「あぁこれは、最近始めたテーマだからね。昔はスポーツライターになりたかった。」
野球部だった彼を、香は思い出した。
副キャプテンだった高校最後の年は、怪我でレギュラーは外れていたけれど野球部のムードメーカーだった。
部活以外の教室の中でも、彼はムードメーカーだった。
誰かがいやな思いをして落ち込んでいると、そうとは悟らせずに明るく励ましてやれるようなタイプだった。
高校を卒業して以来、同級生と会うことは無かったし、
撩の相棒になってからは職業柄、自分から過去の人間関係を意識的に遠ざけてきた自覚はある。
久し振りに偶然会った同級生とこうして向き合うと、当時の懐かしい思い出が蘇って香は自然と笑っていた。
伝言板に依頼が無かったことも、束の間だが忘れていた。
そのお節介な報告をしてきたのは、撩が懇意にしている情報屋のひとりだ。
いつもなら惰眠を貪っているはずの時間帯に、撩の寝室に直接繋がる電話を鳴らして起こした。
用件は実にくだらない。
相棒のデート現場を目撃したとの報告だった。
なんなら今現在、その駅前のカフェに見知らぬ男と向かい合って、楽しそうにお茶しているらしい。
その店のすぐそばにある公衆電話から掛けてきているのだという。
撩は至極めんどくさそうに返事をすると荒々しく受話器を置いた。
向こう側では、『良いのかい撩ちゃん、香ちゃんが・・』という声がまだ何か言ってたけれど、無視して切った。
確かに枕元の時計を確認すると、香は伝言板の確認に行っている時間帯だ。
あと1時間後にはこの寝室に転がり込んで、ブラインドと窓を開け放ち騒々しく起床を促すのだろう。
彼女のルーティンは、撩を酷く安心させる。
表面的には口煩い相棒にうんざりしている顔をしながら、
もしも香が小言を言わなければそれはそれで多分さびしい。
撩はもうそれ以上眠気は訪れない気がして、大きくひとつ溜息を吐くと勢い良く布団を蹴った。
「依頼、あったのか?」
新聞を読みながら朝食のトーストを頬張って、撩が自分のほうからそんなことを訊くから、香は驚いた。
普段から労働意欲に欠ける相棒は、依頼のあるなしにそれほど興味が無いのだと香は認識していたけど。
「無いよ、けど珍しいね。撩からそんなこと訊いてくるなんて。さっきも部屋に行くともう起きてたし。」
雨でも降るのかな?さっき布団干したのに勘弁して欲しいわ、と言いながら香は洗い物をしている。
そんな彼女の背中を見詰めても、答えなんて出ないのは解かっているけれど、
撩は先ほどの光景を、もう一度思い返す。
普段、撩も香も利用しない喫茶店に香とその男は居た。
窓際の良く日の当たる席で、楽しそうに喋りながらコーヒーを飲んでいた。
天気の良い午前中の光が反射したガラス越しでは、
香の唇を読むのは難しく、会話の内容まではよく判らなかった。
結構ながいこと彼女と暮らしてきたし、彼女のことなら良く解かっているつもりでいたけど。
それは撩の見たことの無い類の笑顔だった。
香が誰か見知らぬ人間を前にして、屈託無く笑っている。
その事実が朝っぱらから、香に関しては意外と打たれ弱い撩を更に気弱にしている。
ド直球で、あの男が何者なのかを訊けたらいいけどそれは、
撩にはそんな権限など無いことのような気がして、思わず尻ごみしてしまう。
依頼人ではないことくらい判るはずなのに、
そんな風に遠回しに探りを入れてしまう自分は自意識過剰だと、撩は思う。
「なに?なんかあった?変な顔して。」
そう言って撩を覗き込んだ香は、とっくに洗い物を終えてコーヒーの豆を挽いていた。
何かあったのはそっちのほうだろ、とは言えずに撩は里芋と油揚げの味噌汁をグッと飲み込んだ。
本心を巧く誤魔化す術ばかり身に着いている。
いつも通りを演じている限り、日常は維持される。
彼女の酷く安心なルーティンは、撩に心の安定を齎してくれる。
この相棒同士の距離感は、少なくとも撩にとっては意識的な心の持ちようによって維持されている現実だ。
「別にぃ、変な顔はお前のほうだろが。りょうちゃんは朝から絶好調にイケメンだし。」
新聞を突き破った香の拳が、軽口を叩く撩の顔面にクリーンヒットして、撩はようやく安堵する。
歪んでいるのかもしれない。
けれどもそれは、撩の自信の無さの表れなのだ。
(つづく)
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