チョコレートブラウン

「こうやってご飯の支度してるのを見てると、なんか子どもの頃に戻ったみたいな感覚ね。」



小さい頃の夕方、外で遊んで家に帰ると、夕餉の匂いがした。それを思い出したから。
北原絵梨子はダイニングテーブルに頬杖をついて、楽しげにそう言った。
そぉ?と言って背を向けたまま応える香にとって食事の支度は、毎日の日課なのでよく解からない。
支度と言っても今日は絵梨子が来ることはわかっていて決めた献立なので、それほど準備も要らない。
万年金欠の冴羽商事にしては大奮発の、すき焼きだ。
メインを華やかに彩る豪華黒毛和牛の薄切り肉は、
この家の家主である大食漢の為に驚くほどの分量を用意してある。
瑞々しい白菜や、丸々と太くて甘そうな長葱をまるで計ったように均等に切り揃えて大皿に盛る。
その手つきの迷いの無さに、絵梨子は親友が毎日こうして料理をしていることを改めて考える。
絵梨子は普段、忙しさにかまけて自炊はしない。
都会の真ん中で生活していれば、それは別段困ることでも無い。
誰かしら食事を共にする相手はいるし、美味しい料理を提供する店は星の数ほどある。
仕事関連の相手と会食する場合も多いし、ある意味では食事も仕事の延長線上にある。
たまに自分でご飯を炊いて独りぼっちの部屋で適当に食べても美味しくないから、作らない。
いつからそういう生活をしているのか絵梨子はもう、忘れてしまった。

高校時代の親友に再会したのはもう、2年以上前のことだ。
奥手でボーイッシュで不器用な彼女しか知らなかった絵梨子は当時、
香が男性と同居しているということにまず単純に驚いたし、
色々あってボディーガードとして依頼することになり、
このアパートに数日間滞在した時の彼らの生活ぶりに、更に驚いた。
ほとんど夫婦のような同居生活を送っておきながら、やはり親友は親友だった。
奥手で不器用なところは、ひとつも変わっていなかった。
彼女が彼の為に作る三度三度の食事を、絵梨子も数日間とはいえ一緒に囲み、
驚くほど癒されたのを覚えている。
例えればそれは、まるで実家に帰った時のような安心感にも似た安らぎだった。
お陰で絵梨子は、実家は都内なのに暫く帰っていなかったことまで思い出したくらいだ。

あの時の再会以来、忙しい合間を縫って親友同士の交際を続けている。
あの時、全てが片付いた後にささやかながら絵梨子なりのお膳立てをして2人をくっ付ける手伝いをしたが、
成果は出なかった。それ以降、機会を窺ってはこのアパートを訪れて、進捗状況を香に聞き出しても、
呆れるほどに焦れったい2人のプラトニック関係は暫く続いた。
それでもやっと数ヶ月前に、晴れて恋人同士になったということを香から報告された時には、
まるで自分のことのように嬉しくて、彼女をハグして一緒に泣いた。
とにもかくにも、絵梨子はこうしてたまに用があるとこのアパートを訪れて香に甘える。
今月に入って、絵梨子は2人に仕事を依頼した。
絵梨子が専属契約を結んでいる若いモデルが、ストーカー被害に遭っていた。
犯人の行為はどんどんエスカレートし命の危険を感じるほど深刻な状況になったので、絵梨子は2人を頼った。
ガード対象者は美人モデルで撩が依頼を断る理由も無ければ、
年が明けて1件の依頼も無かった所に舞い込んだ親友からの依頼に香が断る理由も無かった。
冴羽商事の手に掛かれば、すぐに依頼は片付いた。

依頼料を直接渡しに行くついでにそっちに遊びに行く、という絵梨子に夕食を準備するからと応えたのは香だ。
ちょうどタイミングが良かった。バレンタイン前日の今日なら撩は飲みにも行かないだろうし。
絵梨子が電話を寄越したのが午前中のことで、豪華黒毛和牛を頂戴したのが昨日のことだった。
そもそも撩と2人ですき焼きをしようと思っていたので、そこに親友も合流したら香としては申し分ない。
撩がどう思うかは知らないけれど、香はあまりそういうことは気にしないタイプだ。
ご飯は大勢で食べたほうがきっと、楽しいし美味しい。
因みに豪勢なお肉の出所は、教授だ。
撩が頼んでいたらしい資料を取りにおいでと、
撩ではなくわざわざ香を呼びつけたのは教授からのサプライズだった。
用があったのも確かだけど、本当の用件はバレンタインデイのプレゼントを香に渡す為だったらしい。
プレゼントはお肉だった。


「なに?珍しいね、こんな時間に。」

ご飯の炊ける匂いと、割り下の甘辛い匂いがダイニングに立ち込めた頃、彼はようやく帰って来た。
夕飯時に来客があるのは珍しい。
普段、絵梨子がここに遊びに来るのは大抵昼間なので、撩の第一声はそれだった。
その後、ダイニングテーブルに並べられた食材と、真ん中に据えられた鉄鍋とガスコンロを見る。
見るからに上等そうな肉に、撩の視線が止まる。


「なに?今日は。何の日?」


いつもは締まり屋の相棒にしては気前の良過ぎる光景に、撩は警戒心を露わに訝しむ。

満面の笑みの北原絵梨子
妙に上機嫌の槇村香
見るからに上等な黒毛和牛と思しき大量の薄切り肉

これはもしや、可愛くて恐ろしい相棒に何か無理難題を押し付けられる前兆ではないかと、撩は身構える。
香はそんな撩を見ながら少し呆れたように笑うと、ご飯にするから手ぇ洗ってきなよ、と洗面所へと促す。




「で?どうしたの、この肉。」

洗面所から戻り、改めて自分の席に着いた撩がそう問えば、絵梨子も同じように頷いた。
たまに会うだけの絵梨子ですら、
この上等な肉の並ぶ食卓が、普段の冴羽商事では考えられないことだということくらい理解できる。


「もらったの、教授から。バレンタインのプレゼントだって。」

そう言って香は嬉しそうに笑った。
そもそも、バレンタインに女性から男性にプレゼントをしなければいけない決まりなんてないし、
プレゼントがチョコレートでないといけない決まりもないから、と言って老人は優しく笑った。
その量は明らかに撩と一緒に食べるのが前提のものなので、それは多分、2人に対しての贈り物である。

「あ、そういえば。」

撩がふと、思い出したかのようにリビングに戻った。
帰宅してダイニングに入る前に、リビングのソファの上に放っておいたものを今の話で思い出したのだ。
戻ってきた撩の手には、幾つかの紙袋があった。
上等なセンスの良い小さめの紙袋の中身など、改めなくてもチョコレートだと判る。毎年のことだ。
毎年、2月14日前後に撩が街中をうろつけば、こうやって義理チョコを貰って帰宅するのが恒例だ。
ホイ、と言って手渡されたその紙袋を、香は苦笑しながら受け取る。どうせ貰った張本人は食べないのだ。

「毎年、お返しのほうが大変なのよね。この習慣、そろそろ無くなっても良いんじゃないかなぁ。」

そんなことをぼやく香に、撩と絵梨子は思わず顔を見合わせる。
そんなことを言いながら、彼女は毎年何かしら撩の為にチョコレートを用意している。
きっと明日も。


「2人とも、ビールで良いよね?」

撩から受け取った紙袋をそっくりそのまま冷蔵庫に押し込んだ香は、満面の笑みで振り返った。
キンキンに冷えた缶ビールを3本、香がテーブルに並べる。
撩は早々と、小鉢に生卵を割り入れている。
鍋の中の食材は整然と秩序良く並べられ、沸々と煮え始めて割り下色に染まっている。
撩はいつも通り良く食べたし、絵梨子も久し振りの親友の手料理に舌鼓を打った。








「冴羽さん、これ忘れない内に。」

リビングで食後のコーヒーを飲む絵梨子が、同じく向かい側のソファでコーヒーを飲む撩に紙袋を手渡した。
品の良いベージュ色の紙袋には、エリ・キタハラのブランドロゴがゴールドの箔押しで記されている。
受け取ると、見た目よりも重さは無かった。
香は2人の為にコーヒーを淹れると、
自分も一緒に座ってゆっくりと飲めば良いものを、さっさとキッチンに戻って片付けをしている。
香曰く、明朝はゴミ出しの日なので、片付けと軽い掃除を先に終わらせておきたいらしい。

「チョコレートじゃないから安心して、どうせ貴方食べないでしょ?」
「何これ?」

ふふふ多分、貴方が一番欲しいものよ、
そう言うと絵梨子はウィンクをしてカップに残ったコーヒーを飲み干した。
あまり遅くまで居座ったら、恋人同士の2人に申し訳ないので絵梨子はそろそろ退散する時間だ。

「お邪魔虫はそろそろ、退散ね。キッチンで香に挨拶したら帰るわ。」
「送らなくて大丈夫?」
「はじめからそのつもり無いでしょ?その辺でタクシー拾うから大丈夫。」

この後、彼らがどう過ごすのかなんて絵梨子には解かりきっていて今更だ。
幸せそうな親友を見れば、彼女が彼に充分に愛されていることなど一目瞭然である。
楽しそうに冷蔵庫からビールを取り出す香を、愛おしげに目を細めて見詰める撩が、
はじめから客を送って行く気など無いことくらいバレバレだ。豪快に肉を喰らいながらビールを飲んでいた。
バレンタインにチョコを渡す習慣なんか終われば良いのに、と言っていた香はきっと。
義理チョコの話をしていたのだろう。本命となると、話はまた変わってくる。


「バレンタイン、仲良く過ごしてね。」


お節介な香の親友は、そう言い残して帰って行った。
何をやっているのか、香はそれでもキッチンやお風呂場などを忙しなく行き来している。
撩の一番欲しいもの、そう言われるとこの紙袋の中身のことが撩は、俄然気になってしまう。
香がリビングに戻らない内にと、中身を確認するとそれは、

上質なチョコレートブラウン色のシルクサテンのランジェリーだった。
さすがは北原絵梨子、香のボディサイズは抜かりなく把握している。
艶やかなミルクチョコレートのような色合いはきっと、香の白い肌の色に良く映えるだろう。
上品なブラとショーツに、同じ素材のシルクを数枚重ねた贅沢な作りのベビードールには、
まるでアラザンを散りばめたように、シルバーに輝くガラスビーズが縫い止められている。
こんなものを貰ってしまっては、明日のバレンタインは余所に飲みに行ってる場合じゃないなーと、
撩は独り言など呟いてみる。
元から香と過ごす筈だったなんて照れ臭くて認めたくないから、
この下着一式を言い訳にして一晩中彼女と過ごすことにする。

甘い甘いバレンタインを甘い彼女と一緒に。



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[ 2020/02/13 20:46 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

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