81.日常のすぐ隣

向かいのアパートから騒音が聞こえる深夜2時、ミック・エンジェルは少しだけ複雑な気持ちになる。
きっと腐れ縁のアイツは歌舞伎町で飲み歩いてきた振りをして、相棒に制裁を喰らったのだろう。
ついさっきまで一緒にいたミックと撩は確かに数杯の酒を引っ掛けて家路に着いたけれど、
飲み歩いたというほどのものでも無いし、かわい子ちゃんが接客してくれるような店で飲んだわけでもない。
教授経由で請けた依頼は、情報収集をミックが行い、実働を撩が行った。
今夜、都会の片隅でしょうもない輩が始末されたことを知っているのは、ごく限られた関係者数名だけだ。
道化を装ってパートナーにお仕置きをされるのと、こうして恋人が不在の真っ暗な部屋に帰るのと、
果たしてどちらが幸せなのだろうとミックは思う。
別に汗を流して労働したわけでも無いけれど、後味の悪い「仕事」と煽ったアルコールの臭いを消す為に、
シャワーを浴びたらまだ、締め切りの迫っている仕事を幾つか片付けなければいけない。
生憎、ミックの恋人は仕事熱心なので、ミックが外で何をして何時に帰ろうが、
残念ながらお向かいの彼女のようなかわいいお仕置きなんて用意して待っててくれることは無い。
日常と非日常は、意外にも隣り合わせに存在している。
同じ夜を沢山の人々が安らかに過ごしている時に、闇に乗じて汚れ仕事を黙々とこなす男もいたりする。




やぁ、カオリ。


まだまだ爆睡中だった相方を放置して見に来た伝言板には、待望の3文字は記されていなかった。
軽く落胆の溜息をついたところで、香は声を掛けられた。向かいに住む友人だ。


おはよう、ミック。


朝から彼女は清々しいと、ミックは無意識に目を細める。
結局、あの後3つの記事を書き終えてベッドに入ったのは、明け方近くだった。
窓際のデスクで仕事をしながら観察をした結果、彼女は撩に制裁を加えて15分ほど後に、
自室に引き上げて就寝している。彼女の生活パターンは概ね、把握している。
起床時間は、決まって6時30分だ。
逆算すると彼女の睡眠時間は正味4時間ほどだが、
まるでしっかりと8時間くらい睡眠を摂ったかのような清々しさで、無意識にミックのハートを射抜いてくる。
それでもこの後、ミックの言葉で多少なりともこの笑顔が曇るのは解かってはいるのだけれど、
ミックとしては言わなければならないのだ。
その為に、こんな時間にここに待ち伏せていたのだから。



昨日はごめんね、カオリ。

何が?

カズエが不在だったからさ、リョウを飲みに誘っちゃって。遅かったろ?昨夜。

ミックだったのぉ、もうっっ。

おぉ、ごめんよ。昨夜はボクの奢りだったからツケは増えてないからさ、カンベンしてくれよ。

んもぅ、仕方ないわね。

そのお詫びといってはなんだけどさ、カオリ。

ん?

駅の向こう側に出来た新しいカフェに行かないか?勿論、ごちそうするよ。

でも、撩の朝ごはんのお世話しなくちゃだし・・・

良いじゃん、どうせまだアイツ寝てたんだろ?放っておけよ、たまには。

ん~、でもぉ・・・






昨夜の「仕事」には、まだ続きがあった。
香をミックがこうして暫く足止めしている間に、撩はアパートのすぐそばの歩道橋から、
通り過ぎる黒塗りの車の後部座席を狙って狙撃する。
タイミングはほんの一瞬で、一か八か一発勝負だ。
この瞬間を逃すと、この次チャンスがいつ到来するか読めない相手なのだ。
撩とミックはうまいこと役割分担をして、恙無く依頼を遂行した。








りょお、起きて!!朝ごはん出来たわよ。



そう言って香が撩の寝室に入って来たのは、もう朝とは言い難い時間であった。
朝から一仕事終えた撩は、また何事も無かったようにベッドに潜り込んで今に至る。
このままうだうだと布団に潜っていたら、その内彼女は痺れを切らして布団を捲るからそれを待つ。
毎朝恒例のいちゃいちゃタイムだ。
ブラインドが勢いよく開けられ、突き刺すような午前中の光が部屋中に溢れる。
彼女の足音がベッドのすぐ傍まで近付く。
彼女が布団の端に触れたその瞬間、撩はすかさず彼女の手首を掴む。
不意を突かれた彼女がバランスを崩して盛大に、撩のベッドへとなだれ込む。
腕の中に囲い込んだ香の匂いを、まるで野良犬のように撩がクンクンと嗅ぐ。


なんか、旨そうな匂いがする。


そう言われて、香はギクリとした。心当たりは大いにある。
結局、ミックの魅惑的な誘いに乗ってモーニングプレートをごちそうになった。
ミックは美味しそうなタンドリーチキンとレタスのサンドイッチが乗ったプレートで、
香はメイプルシロップとホイップクリームたっぷりのパンケーキのプレートを食べた。


きききき、気のせいじゃないの?


近付いてくる撩の唇を避けるように、香はひらりと身を翻すと間一髪ベッドから抜け出すことに成功した。
白々しく明後日のほうを向いて乱れた衣類を正す。
最近の撩は油断ならない。少しでも隙を見せるとこうして付け入ってくるから、香もかわすのが上手くなった。
ご飯出来てるよ、そう言って撩に背を向けた香の耳朶が真っ赤になっているのを見て、
撩は思わず笑いを噛み殺した。大丈夫だ、ミックと撩の作戦は、無事彼女に悟られることなく成功した。
別に今更なことは撩にも解かっている。
今更、撩が請け負う仕事の内容に関して、香がどうのこうの口を出すとは思ってもいないけれど、
知らないなら知らないほうが良い世界もある。
それに関しては、ミックとも見解は一致している。
大事な女に、薄汚い醜悪な世界など見ていて欲しくはない。
それは彼らのエゴに過ぎないのかもしれないけれど、
彼女に似合うのは朝の清々しい空気のような、平和な夜の静寂のような何でもない普通の日常なのだ。
たとえ、日常のすぐ隣にぽっかりと開いたブラックホールのような暗闇が広がっていたとしても、
撩は必ず彼女の手を取って、その暗闇に落ちてしまわないようにエスコートする。
恥ずかしそうに階下に降りて行った彼女の背中を見送りながら、
撩はキッチンに用意された朝食を思う。
夜と朝のギャップが大きければ大きいほど、その朝の大切さが身に沁みる。
今日も2人の日常が始まる。





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