5.誤算

撩がアパートに戻ったのは、午前2時を過ぎた頃だった。
自宅前の歩道から6階のベランダを見上げると、黄色みがかった電灯の明かりが点っていた。
香はまだ起きている。
撩は冴子に言われた言葉を思い出していた。
香の幸せが自分の傍にあるということ。
それは確かに可能性としてあり得ない話ではないと、撩も思う。

銀狐に狙われて、お前には俺の相棒は務まらないと撩が告げた時も、
マリーの来訪で、撩以外の人間から撩の過去の話を聞かされた時も、
美樹の制止を振り切って墓地に入り込み、邪魔をするなと撩に突き放された時も、
そして負傷した撩をみて、自分には相棒は務まらないかもしれないと自信を失いかけた時も、
沈みゆく船の中で、必ず生き抜くとガラス越しに誓った時も、香は。
結局、最後には撩の手を取って、笑ってくれたから。
だからもしかすると冴子の言うように、香は香の意思で撩の傍に居てくれていると考えても、
それは撩の勘違いではないのかもしれない。
ただそれが、香にとっての幸せなのかどうなのか、撩にはそれは良く分からない。
もしも香の前に撩ではない別の男が現れたとして、そいつが撩以上に香のことを幸せに出来るとしたら。
撩には自分の元に彼女を縛りつけておくだけの、資格も権利も持ち合わせていないのだ。
ある日、彼女が心変わりをして、ふらっと何処かへ出て行ってしまっても、引き留める術もない。

けれど撩はもう、とうに自覚している。
あの温かな明かりと仄かな生活の匂いを、渇望しているのはきっと他でもない、撩自身であることを。




お風呂、今ならまだ温かいよ。


リビングで髪を乾かしながら、香はそう言った。
それの意味するところは、光熱費を無駄にするなということなので、撩は大人しく従って風呂に浸かっている。
肌寒い3月の夜に外をうろついて帰った撩の体は自分で思っていたよりも冷えていて、
酔いはいつの間にか醒めていた。
このところ、色々と考え過ぎだ。
数年前からの記憶が撩を雁字搦めにする。
これまで撩は、何にも執着せず囚われず、思うままに生きてきた。
槇村秀幸に香を託されたことは、ある意味で重い大きな枷を填められることに似ていた。
槇村もまた、少年の頃、父親から妹を託されて同じ思いに押し潰されそうになりながら生きてきたのだと、
今の撩になら理解ができる。
そして、香の境遇にも撩はシンパシーを感じることができる。
誰にでも普通に平等に与えられる産みの親との縁は、撩も香も薄かった。
撩は秀幸でもあり、香でもあったのだ。
そして、大きな枷でもある彼女の存在が、今では撩が生きる意味でもある。
彼女は撩の中でどんどん大きな存在になり、撩の思考は全て彼女中心に回っている。
春はどうしても考え過ぎてしまう。彼女と出会った3月、彼を喪った3月。
彼女が撩の元に転がり込んできた、4月。



はい、どうぞ。


風呂上がりの撩がリビングへ行くと、香は珈琲の入ったカップを目の前に置いた。
半乾きの髪をタオルドライしながら、撩はカップに口を付ける。
撩が風呂に入っている間に豆を挽いてくれたらしい。
酔いは醒めていたけれど、アルコールを摂取してぼんやりしていた頭がスッキリした。
香も向かいに座り、自分用に牛乳を足したものを飲んでいる。



冴子さんに会ったの?

ぇあ?なんで?

匂いでわかる。



野上冴子と2時間ほどバーで同席した間に染み込んだ移り香を、香は鋭く嗅ぎ分ける。
帰ってきてすぐに、風呂場へ直行させられたのは、もしかすると光熱費の問題ではなく、
移り香のせいだったのかもしれない。



たまたまな、同じ店で偶然あった。

ふーん。会うのわかってたら、言っとけばよかった。昼間、こないだの依頼料、振り込まれてたから。

そんなのいつでも良いんでない?別に。

だめ。明日、電話しとく。確かに受け取りましたって。



香は妙に律義なところがあるので、冴子からの依頼を受けて報酬を受領すると、
そうしてマメに連絡を取り合っているらしい。
香が冴子に初めて会ったのは、槇村が死んで撩の相棒になって暫く経った頃だった。
槇村の死は、撩と香の絆を結んだけれど、香と冴子もまた槇村を介して繋がった人間関係だ。



兄貴と冴子さん、付き合ってたんだよね、昔。

ああ。


これまでの思考の渦を香に読み取られてしまったような気がして、撩は焦ったけれど、
別に他意は無く、香は何となく兄を思い出したらしい。



全然、気付かなかった。兄貴が香水の匂いを付けて帰って来たことなんか無かったもん。一度も。



香の前では槇村は、煙草も吸わなかった。
それでも煙草の匂いはしていたし、上着のポケットに煙草やライターが入っているのを見たことがあるので、
吸っていることは香も知っていた。
けれど、香水の薫りを付けて帰ることも、朝帰りも滅多に無かった。
遅くとも日付が変わる頃くらいには帰って来ていた。



兄貴ね、モテないんだろうと思ってたの。でも、冴子さんみたいな彼女がちゃんといたんだと思うと嬉しかった。

槇ちゃん、ああ見えて意外とモテるんだぞ。

そうなの?

うん、まあその他大勢は眼中に無いみたいだったけどな。きちんと丁寧にお断りしてた。

そりゃあ、兄貴は撩みたいにもっこりスケベじゃ無いからね。

槇ちゃんはもっこりスケベじゃなくて、ムッツリスケベだからな。



にんまり笑いながら撩に憎まれ口を叩く香に、撩がしょうもない反論をすると、
香は撩の顔めがけてテーブル用の布巾を投げ付けた。
昔の撩ならばこんなことは決して、望んでいなかった。平和ボケに浸るのは、命取りだ。
こんなことになるなんて、想定外の大きな誤算だ。
真夜中にこうして冗談を言い合える、家族のような存在が傍にいることに幸せを感じているのは、
自分だけだと撩は思っているけれど、もしも香もこの他愛もないひと時を大事に思ってくれているのならば。
撩は自分が香を幸せに出来るかどうかについては、
全くもって自信が無いけれど、ひとつだけ確かなことがある。

香が撩の傍にずっと居てくれるのならば、撩はきっと永遠に幸せだ。




なぁ、香。

ん?



いつになく真剣な目をした撩に、香は訝しげに首を傾げる。
香はこの目の前の男のことがずっとずっと好きだった。
はじめは兄を悪の道へと引きずり込んだ悪い男なのかと思っていた。
後を付けて、撩の本当の姿を暴いてやれば、
兄は目を覚まして、また立派な警察官へと戻ってくれるんじゃないかと考えていた。
あの頃の香は、まだまだ子どもだった。
それでもそんな子どもの香に、恋という感情を植え付けたのは冴羽撩だった。
大人になって、撩のことをもっと深く知っても、香の恋心は大きくなる一方で。
撩が香を失望させるようなことは、ただの一度もなかった。
むしろ撩を知れば知るほど、ただの恋は深い愛へと形を変えた。
圧倒的な力の差や器の大きさを見るたびに、憧れは強くなり。
彼の幼い頃の境遇を知ることで、守ってあげたいと願うようになった。
撩の強さと逞しさと包容力と狭量さと脆さと危うさを全て包み込んで、
彼の眠る夜が平らかなものであるように、彼の目覚める朝が健やかであるように香はいつも祈っている。




ずっと傍にいてくれるか?



何を言うのかと思ったら、撩が真剣な顔でそんなことを言うから。
香は思わず可笑しくて、吹き出してしまった。
そんなことは、今更だ。
これまで何度でも言ってきたはずだ、アンタの死に様を見届けるまで死ねないとか。
毎年、生きて互いの誕生日を一緒に過ごそうとか。
愛する者を守るために何が何でも生き延びるし、守り抜くとか。
2人でシティーハンターだとか。
だからそんなこと。



当り前じゃない。アタシの居場所はここだもん。



香の居場所は、撩の隣だ。
撩の帰ってくる場所は、香の隣だ。
撩も香もずいぶん人生を迂回して、ようやくここまで辿り着いた。
香は兄を喪い、撩はかつて父親と呼んだ相手を葬った。
生まれながらにして手の中にある筈だった形の無いものを、見失いかけて2人は生きてきた。
けれどそれは、撩にも香にも確かにまだあったのだ。
目には見えない形の無い、愛情という名の一番大切なものだ。




テーブル越しに身を乗り出した撩が香の唇に触れた時、珈琲の匂いがした。
妹の幸せが最終的には、槇村秀幸の幸せなのだとすれば、
彼がたとえ死んでしまっていても、香が元気で幸せに生きている限り、
彼の幸せも同時に叶え続けることが出来るということだ。
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