3.心音

ほら、羽織っとけ。

へへ、ありがと。





撩はぶっきら棒にそう言うと、己のジャケットを香へ放った。
撩の分身でもあるコルトパイソンは身に着けたホルスターに収まっているので、
ジャケット自体の重みは然程なかった。
香の装いはヒラヒラと心許ない深紅のドレスで防火扉から非常用の外階段に出ると、
香の二の腕は肌寒さに薄らと粟立った。
不特定多数が出入りするパーティーに潜り込み、
とある依頼に応えた2人は招待客に紛れるために扮装している。
香の着ているドレスと撩の着ているタキシードは、某デザイナー先生からの借り物だ。
ターゲットを炙り出し不意打ちを喰らわせると、程よく現場を撹乱させた2人は気配を殺してその場を去った。
後は冴羽商事の2人と同時進行で同じく現場に潜入していた警察の連中に任せて、外に出たのだ。
大騒ぎの捕物帖が展開されている大広間のパーティー会場が落ち着いたら、
今回の仕事を持ち込んだ野上冴子とこの外階段で落ち合うことになっているので、
2人は寒空のもと彼女の登場を待っている。
現場のリゾートホテルは海沿いの立地で、外階段に容赦なく吹き付ける風には潮の匂いが混ざっている。



駐車場で待つことにすりゃ良かったな、しくった。



胸元にピンタックの入ったクラッシックなウィングカラーのシャツに、
愛用のヌメ革のホルスターを着けた撩がそう言うので、香は心配そうに撩を見上げた。
ジャケットは自分が借りてしまっている。



大丈夫?寒いの?



暦の上ではもう春というカテゴリーになるらしいその晩は、
ヒラヒラのドレスとタキシード姿で待ちぼうけをくらうには少々肌寒い。
それでも撩がそう思ったのは無防備に肌を晒した相棒を慮ってのことだけど、
当の相棒は申し訳なさそうに撩を気遣う。
撩はありがたく香の勘違いに乗じて頷くと階段の途中に腰を下ろした香の隣に、わざとくっついて座った。
数ヵ月前に湖の畔で本音を漏らして、
もうすぐ何度目かの3月26日が来るけれど2人はまだ適切な互いの距離感を掴めずに揺れている。
仕事上の距離感ならばこの上なく息の合った相棒同士だが、私生活の2人はどこかまだぎこちない。
2人には少しの勇気とスキンシップが足りないのだけど、
互いにその点には触れないように目を瞑って毎日をやり過ごしている。

大柄な2人が並んで座るには少し窮屈な階段に座り込み、
少しだけ触れ合う肩の温もりの分だけの親密さは今の2人の穏やかな距離感だ。
香はいつかの日のことを思い出して、思わず微笑んだ。



ねぇ、覚えてる?

あ?何を?

あたしが家出してた時にたまたま撩に会って、ブティックで囮に使われた時のこと。




勿論、撩も覚えている。2回目の3月26日だ。
あの時香は下着姿で、撩のいつものジャケットを羽織っていた。
長居は無用だずらかるぞ、と言いながら背中を押す撩と一緒に、
ブティックの裏口からビルとビルの隙間に出ると、呆れたように怒る秀幸が立っていた。
数日ぶりにそんな場所で兄と鉢合わせて怒られているのに香は妙に可笑しくて吹き出したりして、
撩と一緒に更にお説教を受ける羽目になった。
その時の香には裏口の向こう側の店内で冴子たちが後始末をしていたことなどもわからなかった。
まだ子どもだった。



おまぁあん時、槇ちゃん激オコなのに吹き出したりして逆撫でするから、俺まで巻き添えで説教喰らったしな。

撩だって笑ってたじゃん。




撩も香も、あの時嬉しかったのかもしれない。
久し振りに会えた時にはもう、2人は秘密を共有した共犯者だった。
槇村秀幸の抱えた最大の優しい嘘を、優しく守る共犯者だ。
最終的にはどこか浮かれた相棒と妹を前にして、槇村秀幸は呆れたように肩を竦めた。
結局、あの後、撩に託された優しい嘘と指輪の真実を、撩が改まって香に告げることは未だにない。
本当の肉親は1度、香を訪ねてきた。
幸か不幸か香の母親と秀幸はもう既に他界していて、香を巡る骨肉の争いとはならなかったものの、
まるで運命の悪戯のように判断を委ねられた撩の脳裏に浮かんだのは、あの日の槇村の横顔だった。
妹を離したくないと呟いた見たこともない表情をした相棒の気持ちが、当時の撩には解らなかったけれど、
香の姉だというその女性に香の将来の為の最良の選択をと迫られて、撩は柄にもなく狼狽した。
ヤツはこういう気持ちだったのかと、その時はじめて腑に落ちた。
確かに家族の愛というだけでは言い表せない、
男女の愛という陳腐なものでは片付けられない、
同情なのかといえば決してそうではない。
名前の無い感情。
それまではいつでも香を追い出せると思っていた撩は、
本当は追い出したいわけなど無いのだという真実に気が付いてしまった。
香の姉は、“香の知っている真実のほうが私の知っている真実より、より真実だ”と、
本当のことを告げずに帰って行った。
それでは、撩にとっての真実はなんなのか。
撩はずっと何年も考えている、考えすぎて煮詰まって、
耳の穴から煙が出てくるんじゃないかというくらい考えても。正解なんか解らない。
これは多分、人生の行き着く先を神様に問われているのだ。




そうだな、でもあん時の槇ちゃんの顔、面白かったじゃん?

うん、面白かった。




そう言って笑う香の肩を抱き寄せても良いものかどうか、撩は激しく迷って掌に汗を握る。
潮風が無防備で無邪気な相方の癖毛の先を揺らして、甘い薫りを撩の鼻先に運ぶ。
カップルを装った大広間で彼女をエスコートしながら抱き寄せた細いウエストを思い返す。
その全てであり言葉では言い足りない、撩の愛情の在処である彼女自身そのものを、
撩は果たしてどのように取り扱えば良いのか。
正解はどこにあるのか考えて、手を伸ばすことを躊躇ってしまう。
槇村秀幸が撩に託したのは、本当にこのような結末だったのだろうか。
遺された者にはもう、知る由もない。



それでもそんな些細な撩の葛藤に、無邪気に小さく踏み込んでくるのは、いつだって香だ。
冴子さん遅いね、と言いながら触れ合った撩の肩口に頭を凭れさせてくる。
きっと香は無意識だ、大好きな兄貴にしていたように甘えているだけだと、
撩は己に言い訳をしながらぎこちなく肩を抱く。
呆れて心配しながらも寒そうな妹を気遣う、あの時の相棒のつもりで。

香の心臓が小さく跳ねる音が聴こえた気がしたけれど、
それが香ではなく自分のものであることを、撩は仕方が無いので認めることにする。
このままもう少し、野上冴子が来なければ良いのにと願いながら。



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