2.追想

3月31日、夕方。昼間には晴天だった空模様は、
次第に真っ黒で不気味な雲が垂れ込め今にも降ってきそうな気配がした。
相棒にその話を聞かされた時、撩は素知らぬふりで初めて聞く話のように振舞ったけれど知っていた。
今日が相棒の妹の20歳の誕生日で、6日前に3年振りに再会した彼女は確かにあの頃よりも大人びていた。








おにいさん、何してる人?


撩はあの時そう言って、槇村秀幸に初めて声を掛けた。
その少し前から、撩の行動範囲内をちらつくその男に少しだけ興味が沸いたのがきっかけだった。
幾つかある内の撩の行きつけの店のカウンターに彼の顔を見付けて、撩は声を掛けたのだ。
独特の雰囲気を纏っていた。
普通の勤め人には見えなかったし、
どこか自分と同じ匂いを漂わせているようでけれど暗い所は微塵も無かった。単純に不思議に思えた。
この多少平和ボケしている感の否めない大都会の真ん中で、
自分は特殊で異様な存在である自覚くらいは撩にもあったけど、彼もそれと同じくらい異質に思えた。
彼の場合、一見するとその人波に紛れて凡庸に映るからこそ、撩には尚一層異質に見えた。
いつの間にか居ついた新宿の街で、自分が懇意にしている情報屋と彼が親しげに話しているのを見て、
撩は確信を持った。彼は恐らく同じ種類の人間だと。



何に見える?



槇村秀幸は簡単には素性を明かさなかった。
それから何度も同じ店で顔を合わせるようになり、
会えば数杯のバーボンを一緒に飲んで、彼は顔色一つ変えずに日付が変わる前には帰って行った。
帰る場所があるのだろうと、撩は皆まで訊かずとも理解した。







3月26日、彼女と2度目に会ったあの日。
撩の通報で冴子たち警視庁の連中がブティックの店内を調べているのをよそに、
槇村は撩と香を目の前にして驚きながらも呆れていた。
確かに数日間家を空けて兄に心配を掛けていた彼女を、
依頼の合間に探してくれと撩に頼んだのは槇村本人だけれども。
まさか下着姿の妹が相棒のジャケットを羽織って、
この数週間に亘って目星を付けていた例のブティックにいるなんて槇村の想像の域を遥かに超えていた。
香を囮に使った撩は相棒に大目玉を喰らったし、家出娘は兄にこっぴどく叱られた。
互いに何となくはその存在に気が付いていても、
あえて触れずにやってきたこの数年間が何だったのかというくらい、あっさりと3人はその場にいた。
まるでずっと前から良く知っている間柄のような雰囲気で。








今日はまたずいぶん酔ってるな。


撩が声を掛けると、槇村は今にも眠りこけそうな眼をしてグラスに残ったバーボンを飲み干した。
初めて撩が槇村に声を掛け、一緒に酒を飲むようになってから3~4ヶ月が経った頃、
珍しく正体を無くすほどに酔った槇村がその店にいた。
日付はとうに変わり、いつもの彼ならばとっくに店を出ている時間だった。
撩は面倒事が嫌いだが、カウンターに突っ伏して潰れたそこそこ上背のある男に、
閉店の片付けが出来ない店主はほとほと困っていた。
情報屋でもあり顔馴染みでもある店主の為に、撩はその酔っ払いを持ち帰ることにしたのだ。



ほら、水だよ。飲みな。


遠くて近いような男の声と、固い床に横たわった感触。
頭のすぐそばに水道水で満たされたロックグラスが置かれる音。
槇村が意識を取り戻したのは、馴染みのバーでもなく公団の自室の畳の上でもなく、
コンクリート打ちっぱなしの酷く味気ない部屋だった。
顔見知りだがいまいち素性の怪しい男が、
簡素な椅子の背凭れに頬杖をついてニヤニヤしながら槇村を観察していた。そこで漸く正気に戻った。
槇村は慌てて上体を起こし、己のトレンチコートのポケットを弄った。



探し物はこれかなぁ?



撩は楽しそうに笑いながら、少しだけ草臥れた警察手帳とずっしりと持ち重りのする手錠を揺らして見せた。
槇村は苦笑すると、床の上に置かれたグラスに手を伸ばし遠慮なく水を飲んだ。



槇ちゃんって、刑事さんだったんだ。



そう言って撩は笑った。
本当ならば、酔い潰れて手帳と手錠をかくもあっさりと市民の手に委ねるなどということは、
あってはならないことだけど、その日の槇村にとってはそれは至極どうでもいいことのように思えた。
後輩の婦人警官が殉職した。
彼女は自ら志願して人身売買組織への潜入捜査の囮となることを願い出た。
あの時に先輩として止めておくべきだったと、今更悔やんでもどうしようもない。
彼女が囮だと感付いた組織は彼女を見せしめに殺し、それ以降の足取りはぷっつりと途切れてしまった。



酔い潰れてこんな所に連れ込まれてしまう、ポンコツ刑事さ。


モチベーションはダダ下がりだった。
大事な仕事仲間を喪い、捜査は暗礁に乗り上げた。
素性の知れない男にお持ち帰りされて、自分の帰りを待って茶の間で眠りこけているだろう妹を想う。
とっくに日付は変わっている、酒の臭いをさせて午前様で帰るなど最悪だ、と槇村は思わず笑ってしまった。








俺と妹には、香には血の繋がりがないんだ。



表情の読めない顔で槇村がそう言った。
遠くで小さく雷の音がゴロゴロいっている。まだ雫は落ちて無いものの、春の空気は湿り気を孕んでいる。
生温い風が頬を撫ぜる。
撩はとうの昔に、その話を知っていた。
3年前に、当事者である槇村香の口から聞かされた。
けれどそれが何だというのだろうと、正直撩はそう思う。
槇村秀幸という男に出会い、コンビで働き、数年間そばで彼を見てきた。
彼がどれだけ妹を大切に思っているかなんて、撩は誰よりもわかっている。
戸籍のない透明人間みたいな殺し屋だってすぐ目の前にいるのだ、
少なくとも彼らには法的に正式な家族関係があり、20年間の彼らの歴史の積み重ねと絆がある。
槇村秀幸は妹の香を愛しているし、香も兄を愛している。
それ以外、必要なものなど無いだろう、と撩は思う。
それが家族としての愛だろうがそれ以外だろうが、撩にとってはその違いは些細なことのように思える。










酔い潰れて朝帰りをした槇村が、それでもなんとか次の事件に向き合えたのは諦めなかったからだ。
その時点では一旦、事件は暗礁に乗り上げたけれど地道に捜査を続けて、
いつか大事な後輩を無残に殺した奴らを、 同じ目に遭わせて 殺してやる。
そう考える自分はきっと、警察官という枠から少しづつ逸脱し始めていたのだろうと、槇村は後に思い返した。
きっとターニングポイントはあの時だった。
殺風景な撩の部屋で酔いから醒めて正気に戻ったと思っていたけれど、
実は狂気が芽生えていたのかもしれない。

次に追いかけていた犯人は薬の売人だった。
よくわからない怪しい薬が出回り始めていた。
まだまだ詳しい実態は警察にも把握できていないが、
強力な副作用と禁断症状は命も脅かすほどのものらしい。




奇遇だね、槇ちゃん。



歌舞伎町の奥の奥、野良ネコとドブネズミくらいしかいないような薄暗い路地裏に撩がいた。
咥え煙草で飄々とした言葉とは裏腹に、足元には骸が転がっていた。
それまで槇村が追っていた薬の売人だった。


そっちのホシとこっちの獲物、同一人物だったらしいよ。


これ適当に始末しといて?と言って、撩は懐から茶封筒を取り出すと槇村に渡してその場を去った。
擦れ違った撩のジャケットからは、硝煙の匂いがした。
意識したとたん、辺り一面に濃密な血の臭いが立ち込めているのに気が付いたけど、
その時にはもう撩はいなかった。
その後のことはまるで夢でもみているかのようだった。
撩に渡された封筒の中身は、警察もまだ把握していなかった売人に関する背後関係をまとめた資料だった。
何故だか冴羽撩に関することは、伏せておいたほうが良いような気がして槇村は口を噤んだ。
あくまでも己が発見した時には、すでにあの状態で売人が死んでいたことにした。
封筒は証拠資料として提出した。
出所は歌舞伎町の信用のおける情報筋からのものとしても、それ以上追及されることなどない。
刑事それぞれに信用のおける情報屋と呼ばれる人間が存在し、
聞き込みの際の重要な戦力になっていることなど、暗黙のルールだ。

そんなことがあった数日後、槇村は公安部に呼び出された。
何も理由は聞かされず、ただ例の薬物事犯に関しては今後、公安部が取り仕切ると告げられた。
そして一枚のメモを手渡された。とある住所の書かれたそのメモの場所に独りで訪ねるよう勧められた。
勧められるというよりも、半ば命令のようなものだった。







香の母親が香の為に買ったというその指輪を眺めながら、槇村は苦しげに眉根を寄せた。
この世の何処かに、香と血の繋がった本当の母親と姉が存在するらしい。
子どもの頃に父親にそう聞かされて以来、槇村が心配してきたのはそのことだった。
いつか本当の家族が香を取り戻しに来たら。
可愛い妹を奪うのが誰であれ、それが本当の血の繋がった母と姉であれ、槇村は渡したくはない。


これはおかしいことかな?撩。香がもしも望めば、香を帰すしかないんだろうか?


だとすれば、黙っておく訳にはいかないだろうか、離れたくない、あの子と離れるなんて俺は・・・
そう言って暗い顔をして俯く相棒の表情は、今まで撩が見たことのないものだった。
家族愛なのか男女の愛なのかなんて撩には解からない。
そもそも家族なんて、撩にはいたことがない。




要するに槇ちゃんは惚れてんだよ、妹に


馬鹿いうな、お前には解らないよ。撩。




確かに撩には解からない。
何が正解かなんて解かっていたならば今頃、
こんな世界の片隅で小汚い奴らを始末してまわる掃除屋なんかやってない。
でも良いじゃないかと思ったのだ。
別に兄妹でも愛おしくて互いが大切で、掛け替えのないものを沢山抱えて生きていけるのなら。
撩からすればそれは、眩しくてとても幸せそうなことに思えた。
そして槇村の大切なものを、撩も相棒として遠くからでも護ってやれればそれで良い。










槇村がメモを頼りに訪ねた先は、立派な日本家屋のお屋敷だった。
そこには優しそうな老人が住んでいて、けれどどうやら彼は只者ではない人物らしい、
ということだけはわかった。
槇村を応接間に通すと、老人はニッコリと微笑んで思いもかけない言葉を発した。



新宿におる大きなねずみみたいな男と仲良くしてくれてるらしいの。



それが誰のことを示すのか槇村にとって心当たりは、冴羽撩だけだ。
彼から渡された謎の資料が絡んでいることくらい、もうこの辺りで槇村も気が付いていた。
きっとこの老人は警察の人間では無いだろうけど、公安部とはなんらか関わりのある人物なのだろう。



それは冴羽撩のことですか?

ふぉふぉふぉ、ああ見えて友達がおらんからのぉベビーフェイスは。仲良くしてやってくれ。



老人はまるで孫の心配でもするかのように、優しげに笑った。
槇村には、その老人の素性も撩という男の素性も、何もかも解からないことだらけだったけれど、
この出来事のすぐ後に警察を辞めた。











槇ちゃん

ん?

やっぱ俺が行こうか?シルキィクラブ

いや、依頼人との折衝は俺の担当だ

まぁそうだけど

それより撩、おまえは遅れずに家に来い 香が待ってる

やっと酒が飲めるな、妹と

ああ

雨降りそうだから気を付けて





撩がそう言うと、槇村は背中越しに手を振った。
あんなに妹と相棒を引き合わせることを躊躇っていた槇村は、
意外にもあっさりと撩を槇村家の団欒に招いてくれた。
家族のいる温かさに撩が触れようとした時に、それはいつも訪れる。
そのことにもっと早くに気付けていたらと、
後に撩は何年も後悔することになるのだけれど、この時はまだ幸せだった。


関連記事
スポンサーサイト




コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://swimrec.blog.fc2.com/tb.php/932-645e8182