1.憂慮

「要するに槇ちゃんは惚れてんだよ、妹に」





尊敬する警察官の父親がその子を抱いて家に帰って来たのは、槇村秀幸が9歳の時だった。
その頃の秀幸にはまだ全ての事情を明かすことの無かった父親は、ひとこと

この子は今日からお前の妹だよ

そう言って、おくるみに包まれたその温かな小さな子を秀幸の腕に抱かせた。
母親はその数ヶ月前に大病を患って他界していたし、父親は刑事という職業柄まいにち多忙を極めていた。
この子の面倒をいったい誰が見るのだろうと不思議に思いながらも、
秀幸の胸には初めての感情が芽生えていた。
その子は茶色がかった丸い瞳で秀幸を見上げると声を立てて笑った。
まだミルクしか飲まない小さな子が他所の家庭に貰われてくる事情がなんなのか、
秀幸には難しいことは分からなかったけれど。それがとても不憫であることは理解していた。
父親は乳児でも預かって貰える託児所を探してきて、香は昼間そこで面倒を見て貰うことになった。
香が来る前から、秀幸と父親は毎朝通学路の途中まで一緒に歩くのが日課だった。
どんなに遅く帰っても父親は朝のその時間、秀幸と会話をすることを欠かさなかった。
そこに小さな香が加わった。
朝は父親が香を託児所に送り、帰りの遅い父親に代わって夕方は秀幸が香を迎えに行った。
おむつも換えたし、風呂にも入れて、ミルクも飲ませた。泣き出せば抱き上げてあやした。
本棚には母親が残した育児書があったのでそれを読んで、
かつて母親が自分の為に作ったのであろう離乳食を秀幸は作った。
香はいつも秀幸を見付けると、嬉しそうに笑った。


香の本当の両親の話を、唐突に父親が語ったのは秀幸が10歳の時だった。
香は1歳になっていた。
香の本当の父親は事故で死んだけど、生き別れた母親と姉がまだ何処かに居るらしいこと。
その人たちが香を返して欲しいと言ってきたらどうするの?
確か秀幸はその時、父親にそう訊いた。
父親はただ何も言わずに、小さく微笑みながら秀幸の頭を大きな手で撫でたのを覚えている。
頑張ったんだ。
1年間、楽しいことのほうがいっぱいあったけど、
小学生の兄にとって言葉も通じない小さな妹の面倒を見るのは楽しいことばかりでもなかった。
けれどいつか誰かがこの子を自分の元から連れて行こうとするのなら、その時は多分絶対に渡さない。
秀幸はまだ子どもだったけれど、そう思っていた。
香は槇村家の娘だ。自分の妹だ。香も秀幸のことを「にーたん」と呼んでいる。
それが秀幸にとっての現実の全てで、香にとっての全てだった。


父親が捜査中に死んだのは、秀幸が14歳で香が5歳の時だった。
その頃が秀幸にとっては一番辛い時期だった。
秀幸はまだ義務教育が終わってなかったし、香はまだ未就学児だった。
頼れる身内も近くにはいなかったので父親の同僚であった人達が骨を折ってくれて、
槇村兄妹の行く末を案じてくれた。
絶対に香とは離れ離れになりたくないと意固地になる秀幸に示されたのは、
1年間の期限付きで離れ離れになることだった。
あと1年だけ頑張れば、秀幸は高校生になるし香も小学校に入学する。
父親が遺してくれたもので慎ましく生活できるようになるまでの間、
香は児童養護施設へ預けられることになった。
秀幸はこの時期に、父親と同じ警察官になることを目標にした。
志望校に合格して香を迎えに行けるように、毎日必死に勉強をした。
香は槇村家に来て2年後に、正式に父親と養子縁組をして槇村家の娘になっていた。
父親の亡くなったあと、同僚であった警察の人に聞かされた。
結局、別れ別れになった母親と姉が香を迎えに来ることはなく、
色々と煩雑な手続きを経て正式に香の家族が決まるまでに2年の月日が必要だったということだ。
本当ならば、産まれながらにそこにあるべき家族という存在を持たずに、
宙ぶらりんになってしまった可哀そうな妹。
かわいくていとおしくて不憫な香を守るのは自分なのだと、
秀幸が赤ん坊の香をはじめて抱いた時に芽生えた感情は、愛だった。



秀幸が18歳で高校を卒業し晴れて警察官になった時、香は9歳だった。
高卒で警察官になった秀幸には、10ヶ月間の警察学校での訓練という課題が待ち受けていた。
9歳の香はまたしてもその間、児童養護施設へと預けられた。
同じ頃の秀幸は手探りで妹の世話をしたけれど、自分には頼れる父親がいた。
けれど香にはいなかった。
香には、秀幸しかいなかった。
兄妹2人には互いしか頼れる者もなく、2人を繋ぐのは愛情だった。

秀幸が刑事課に配属を希望し、父親の後を追うように刑事になった時、香は中学2年生になっていた。
初潮を迎え、ブラジャーをするようになり、身長はどんどん伸びた。
寝ぐせが付くということを聞かない癖毛を気にするようになって、
朝は身だしなみに時間が掛かるようになった。
思春期がやってきた妹はそれでも素直で、2人は仲の良い兄妹だった。
いつしか仕事に忙殺される秀幸に代わって、家のことは香がやるようになった。
料理を作り、掃除をし、洗濯をして秀幸の帰りを待っていた。
ようやく平和な槇村家を2人で築いて歩き始めていた。
香は頑張って学費が掛からないようにと、都立の高校を受験し合格した。
秀幸は順調に階級を上げて、警察内でも若手有望株と呼ばれた。
キャリアの道を約束された有能な女刑事の野上冴子とコンビを組むことが増え、
夜の街に顔が利くようになった。


秀幸が新宿の片隅で撩に出会ったのは、その頃のことだった。
自分には無いものを持っているように見えた撩に、秀幸は魅せられた。
ひどく自由な男だと、その身軽さに憧れたのかもしれない。
秀幸には大切なものが沢山あって、けれども9歳のあの頃から身軽に生きることなど許されなかった。
その代わりに得た掛け替えのない愛すべき存在を手の中に収めたまま、
秀幸は同時にその自由さに憧れてしまった。
秀幸が警察を辞めたのは、香が高校1年生の時だった。







香は己が槇村家の養女であることを既に知っているようだ。
秀幸がそのことに気付いたのは、香が高校に入学して少し経った頃だった。
それでもその話題を口にすることは、これまで無かった。
2人とも意図的に避けてきたと、今にしてみれば秀幸はそう思う。
2人とも頑張ってきた。頑張って幼い力で、形の無い家族をいちから作り上げたのだ。
血の繋がりなど関係なかった。
それでももうすぐ20歳になる妹に、兄として本当のことを告げなければいけないと秀幸は考えている。
香には自分の人生と向き合う権利があるのだ。
香は賢い子だから、きっと本当のことを聞かされても笑い飛ばして現実を生きるだろう。
それでもこの役目だけは、いつかの父親にやって欲しかった。
優しく微笑んで秀幸の頭を撫でた父親に。

秀幸はただただ、愛する妹に幸せになって欲しいだけだ。
殺伐とした恐ろしい世の中の醜悪なものに触れることなく、明るい世界だけに触れて生きていて欲しい。
自分と相方の暗躍する世界など知らぬまま、妹に悪いことが忍び寄ることのないように。
秀幸が憂慮するのは妹に害が及ぶこと。
けれど秀幸はこの目の前の相棒に、全幅の信頼を寄せている。
この男の凄さはこれまで充分に目の当たりにしてきた。
きっと大丈夫だ、自分と相棒ならば。



「馬鹿いうな、お前には解らないよ。撩。」


そんな訳はない。
これはあくまでも、家族としての愛情なのだ。
あの子を父親が連れて帰って来た時から、あの子を守ると心に決めたのだ。
惚れてるなんて、そんな次元の話ではないんだ。
あの子が、香が20歳になったら笑ってこの指輪を渡しながら、一緒に酒を飲むんだ。
平和で温かな槇村家で。


それは秀幸が依頼人の待つシルキィクラブという店に出向く前の、相棒との短いやりとりだった。
秀幸が29歳で、香はもうすぐはたちになる。
雨が静かに降り始めていた。








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