・・・今夜は、行かないで。
香が耳まで真っ赤にして、意を決したようにそう言ったのは。
あの日から14日後の事だった。
極々小さな声で呟かれたその言葉は、しかし。
僚の耳にはしっかりと届き、まるで砂漠を湿らす夜露のように僚の心を潤した。
2週間経って、美樹の怪我ももう随分良くなってきている。
それでも相変わらず心配性な香は、昼間は僚を連れ立って連日教授宅へと通う。
そして、そこで目の当たりにするのは、伊集院夫妻のアツアツ振りだった。
それは、結婚前から変わらぬいつもの光景だが。
やはり香はそれを見て、自分達を振り返らない訳にはいかない。
それだけでは無い。
向かいのミックと教授の助手のかずえが、同棲生活を始めた。
自分達の周りのカップルは、次々と身を固めてゆくのに。
彼らよりもずっと以前から、一緒に暮らしている自分達に何ら進展は見られないのだ。
何がいけないんだろう、と香は思う。
あの日、僚は確かに自分の事を“愛する者”だと言ってはくれた。
たとえそれが、危機的状況に於ける非常時のテンションだったとしても。
その後、2週間。
僚はあの時の事を否定するでも無く、ただ少しづついつも通りの日常を取り戻しただけだった。
そうなのだ、ただそれだけの事だ。
別段、ケンカをする訳でも無く、意地悪を言うでも無く、ただ穏やかに2人は生活している。
あんな場面で、あんな風に言ってくれて、おでこにちゅうをして、
それでもこうして穏やかで居られるという事は。
裏を返せば、憎からず想ってくれてると考えても良いいんだろうか、と香は思う。
そして、ふと思い返す。
あの時、僚は言葉をくれた。
あんな状況下で敵を倒し、無傷でお互い再会できた。
助けてくれた。
それなら自分は一体、僚に何を返せただろう。
あれ以来、伊集院夫妻を傍で見て来て、羨んでいただけでは無いのだ。
彼らはいつだって、互いに正直で、対等だ。
どちらか一方だけが相手に尽くすのでは無く、互いに労わり合う。
それに気が付いた時、香は僚に果たして何を返せるだろうと思った。
否、僚のしてくれた事に礼を尽くすとかそういう大げさな事では無く。
大事な事は、素直に向き合う事なんじゃないかと気が付いたのだ。
香はいつだって、僚の言葉や出方を待っていた事に気が付いた。
僚は“愛する者”だと言ってくれた、じゃあ、自分は?
そう考えてこれまでを振り返ると、意外と香自身もなかなかの天邪鬼だった。
似た者同士なのかもしれない。
夕飯を食べ終えて、香がリビングにコーヒーを持って来る頃には、腰の辺りがそわそわ落ち着かない。
それはここ数日の、夜のお約束だった。
何となく落ち着かないから、コーヒーを飲み終えるとそそくさとネオンの下へと逃げる。
自分でも意気地なしだという自覚はある。
逃げるまでは良いけれど、キャバクラやラウンジに行く気はしない。
自然と足は、1人で飲めるバーへと赴く。
そんな繰り返しだ。
香と一緒に居たく無いワケでは無い。
むしろ、逆だ。
一時たりとも離れたくはない。
別に用事は無くても、ずっと香を見ていたい。
けれど、そんな欲望のままに香の傍に居たら、多分、歯止めは効かない。
あの日から、時間の経過とともに香への想いは募る一方だ。
香は香で、1人悶々と悩んでいるけれど、そんな事は僚の知る由では無いので。
僚も僚で、悶々と考え過ぎている。
結論としては、似た者同士だ。
言葉に力が宿ると言うのは、本当の事だと僚は思う。
これまで、必死に香を女として見なす事を避けて来た。
初めはその必要があったから、そうして来た。
けれど、いつしかそれが互いを縛り付け、苦しめて来た。
そして一旦解放した戒めは、まるで砂の城郭が崩れ落ちるように、あっけなく決壊した。
後に残るのは、只々香が好きだと言うその感情だけで。
僚は改めて自覚する。
己がこの数年間、如何に香中心に生きて来たのかを。
多分、そんな全てのベクトルを香に一気に向けるのは危険だと、本能がブレーキを掛けるのだ。
香に嫌われたくない。
その一心で、僚は表面上、いつも通りに徹する。
けれど、僚が夜の街へと出て行こうとする度に、香が浮かべる薄い落胆の表情に気付かない辺りは、
僚としても、この数日平常心では無いとも言える。
たまには、自分から素直になってみようかと勇気を出した。
普段の香からは想像もできない台詞に、柄にも無く動揺して、思わずニヤケてしまった。
りょお、・・・・・・・今夜は、出掛けて欲しくない。
何も言わない僚に、香がもう一度言った。
微かに声が震えている。
真っ赤な顔で、目の縁には薄っすら涙が溜まっている。
妙な間を置いて。
僚は香を抱き寄せた。
そこで初めて、僚自身も出掛けたくなど無い事に気が付いた。
ずっとこうしたかった。
すぐ目の前に、柔らかで温かなその存在がいつでもあったのに。
甘える事が怖かった。
甘えたら最後、何かを失ってしまいそうで恐れていた。
けれど、何も失う事など無かったし、恐れる必要も無かったのだという事に、
6年かかって漸く気が付いた。
香が遠慮がちに、両腕を僚の背中へと回す。
そんな仕草すら可愛いと、僚はもう1度キツク香を抱き締める。
変なタイミングで僚から抱き寄せられて、
香がその状況に気が付いてドキドキするまでに、2秒ほど掛かった。
僚は香の言葉に応える代わりに、香を抱き締めた。
僚の腕の中は温かくて、ジャケットからは薄い煙草と硝煙の匂いがした。
顔を埋めたTシャツからは、清潔な柔軟剤の匂いがした。
香が知っている僚の匂いだ。
それは6年間、ずっと香の傍にあった。
手を伸ばせば触れられそうで、その実、香の指先をするりとすり抜けては掴み処が無かった。
甘える事が怖かった。
甘えてしまえば、この2人の完結した世界が崩壊するような気がしていた。
初めて、僚の核心に触れた気がした。
包みたいと思った。
許されるのなら、この孤独で気高く生きて来た、けれどとっても温かい男(ひと)を。
そう思ったのは香の筈なのに、逆に僚から包み込むように抱き締められた。
なぁ、香。
暫く経って、言葉を発したのは僚だった。
僚の胸板にくっ付けた耳を通して聴く僚の声は、いつもより深くて穏やかだった。
ん?
おまぁは、どうしたい?これから。
あまりにも漠然とした質問に、香は一瞬状況を忘れて僚を見上げる。
思いの外近い互いの距離に、更に頬が熱くなるのが解る。
香なりに、僚の質問に全力で答えを探す。
これから先、どうしたいのか。
そんな事を言ったら、答えは山ほどある。
けれど、一番大切で誰にも譲れない事は、1つだけだ。
ずっとずっとずっとずっと死ぬまで、僚の傍に居たい。
ただ、それだけだった。
それは相棒としては勿論だけど、人生を分かち合うパートナーとして。
1人の女として。
僚の一番近くに居たい。
香の答えに僚は、思わず破顔した。
同じだった。
惚れた女と、考える事までそっくりで。
もうこれは、運命なんじゃね?なんて考える。
・・・りょおは?
へ?
りょおはどうしたいの?
それ、訊いちゃう???カオリン
❤ふぇ?????
それまでの真剣な言葉と、
甘い雰囲気が一気に台無しになりそうな厭らしい笑みを浮かべて、
冴羽僚は槇村香の耳元で、囁く。
こういう事がしたい。
それは、目にも留まらぬ早業であった。
流石は泣く子も黙る、新宿の種馬である。
純粋培養の初心者相手に、いきなり本気のキスをした。
それは、2人が。
本当の意味で、“パートナー”になる数時間前の出来事だった。
ただ傍に居たい、そんなシンプルな愛情がすぐそこにあった事に、
2人は6年目にして、漸く辿り着いた。
(おわり)
- 関連記事
-
スポンサーサイト