3.心音

ほら、羽織っとけ。

へへ、ありがと。





撩はぶっきら棒にそう言うと、己のジャケットを香へ放った。
撩の分身でもあるコルトパイソンは身に着けたホルスターに収まっているので、
ジャケット自体の重みは然程なかった。
香の装いはヒラヒラと心許ない深紅のドレスで防火扉から非常用の外階段に出ると、
香の二の腕は肌寒さに薄らと粟立った。
不特定多数が出入りするパーティーに潜り込み、
とある依頼に応えた2人は招待客に紛れるために扮装している。
香の着ているドレスと撩の着ているタキシードは、某デザイナー先生からの借り物だ。
ターゲットを炙り出し不意打ちを喰らわせると、程よく現場を撹乱させた2人は気配を殺してその場を去った。
後は冴羽商事の2人と同時進行で同じく現場に潜入していた警察の連中に任せて、外に出たのだ。
大騒ぎの捕物帖が展開されている大広間のパーティー会場が落ち着いたら、
今回の仕事を持ち込んだ野上冴子とこの外階段で落ち合うことになっているので、
2人は寒空のもと彼女の登場を待っている。
現場のリゾートホテルは海沿いの立地で、外階段に容赦なく吹き付ける風には潮の匂いが混ざっている。



駐車場で待つことにすりゃ良かったな、しくった。



胸元にピンタックの入ったクラッシックなウィングカラーのシャツに、
愛用のヌメ革のホルスターを着けた撩がそう言うので、香は心配そうに撩を見上げた。
ジャケットは自分が借りてしまっている。



大丈夫?寒いの?



暦の上ではもう春というカテゴリーになるらしいその晩は、
ヒラヒラのドレスとタキシード姿で待ちぼうけをくらうには少々肌寒い。
それでも撩がそう思ったのは無防備に肌を晒した相棒を慮ってのことだけど、
当の相棒は申し訳なさそうに撩を気遣う。
撩はありがたく香の勘違いに乗じて頷くと階段の途中に腰を下ろした香の隣に、わざとくっついて座った。
数ヵ月前に湖の畔で本音を漏らして、
もうすぐ何度目かの3月26日が来るけれど2人はまだ適切な互いの距離感を掴めずに揺れている。
仕事上の距離感ならばこの上なく息の合った相棒同士だが、私生活の2人はどこかまだぎこちない。
2人には少しの勇気とスキンシップが足りないのだけど、
互いにその点には触れないように目を瞑って毎日をやり過ごしている。

大柄な2人が並んで座るには少し窮屈な階段に座り込み、
少しだけ触れ合う肩の温もりの分だけの親密さは今の2人の穏やかな距離感だ。
香はいつかの日のことを思い出して、思わず微笑んだ。



ねぇ、覚えてる?

あ?何を?

あたしが家出してた時にたまたま撩に会って、ブティックで囮に使われた時のこと。




勿論、撩も覚えている。2回目の3月26日だ。
あの時香は下着姿で、撩のいつものジャケットを羽織っていた。
長居は無用だずらかるぞ、と言いながら背中を押す撩と一緒に、
ブティックの裏口からビルとビルの隙間に出ると、呆れたように怒る秀幸が立っていた。
数日ぶりにそんな場所で兄と鉢合わせて怒られているのに香は妙に可笑しくて吹き出したりして、
撩と一緒に更にお説教を受ける羽目になった。
その時の香には裏口の向こう側の店内で冴子たちが後始末をしていたことなどもわからなかった。
まだ子どもだった。



おまぁあん時、槇ちゃん激オコなのに吹き出したりして逆撫でするから、俺まで巻き添えで説教喰らったしな。

撩だって笑ってたじゃん。




撩も香も、あの時嬉しかったのかもしれない。
久し振りに会えた時にはもう、2人は秘密を共有した共犯者だった。
槇村秀幸の抱えた最大の優しい嘘を、優しく守る共犯者だ。
最終的にはどこか浮かれた相棒と妹を前にして、槇村秀幸は呆れたように肩を竦めた。
結局、あの後、撩に託された優しい嘘と指輪の真実を、撩が改まって香に告げることは未だにない。
本当の肉親は1度、香を訪ねてきた。
幸か不幸か香の母親と秀幸はもう既に他界していて、香を巡る骨肉の争いとはならなかったものの、
まるで運命の悪戯のように判断を委ねられた撩の脳裏に浮かんだのは、あの日の槇村の横顔だった。
妹を離したくないと呟いた見たこともない表情をした相棒の気持ちが、当時の撩には解らなかったけれど、
香の姉だというその女性に香の将来の為の最良の選択をと迫られて、撩は柄にもなく狼狽した。
ヤツはこういう気持ちだったのかと、その時はじめて腑に落ちた。
確かに家族の愛というだけでは言い表せない、
男女の愛という陳腐なものでは片付けられない、
同情なのかといえば決してそうではない。
名前の無い感情。
それまではいつでも香を追い出せると思っていた撩は、
本当は追い出したいわけなど無いのだという真実に気が付いてしまった。
香の姉は、“香の知っている真実のほうが私の知っている真実より、より真実だ”と、
本当のことを告げずに帰って行った。
それでは、撩にとっての真実はなんなのか。
撩はずっと何年も考えている、考えすぎて煮詰まって、
耳の穴から煙が出てくるんじゃないかというくらい考えても。正解なんか解らない。
これは多分、人生の行き着く先を神様に問われているのだ。




そうだな、でもあん時の槇ちゃんの顔、面白かったじゃん?

うん、面白かった。




そう言って笑う香の肩を抱き寄せても良いものかどうか、撩は激しく迷って掌に汗を握る。
潮風が無防備で無邪気な相方の癖毛の先を揺らして、甘い薫りを撩の鼻先に運ぶ。
カップルを装った大広間で彼女をエスコートしながら抱き寄せた細いウエストを思い返す。
その全てであり言葉では言い足りない、撩の愛情の在処である彼女自身そのものを、
撩は果たしてどのように取り扱えば良いのか。
正解はどこにあるのか考えて、手を伸ばすことを躊躇ってしまう。
槇村秀幸が撩に託したのは、本当にこのような結末だったのだろうか。
遺された者にはもう、知る由もない。



それでもそんな些細な撩の葛藤に、無邪気に小さく踏み込んでくるのは、いつだって香だ。
冴子さん遅いね、と言いながら触れ合った撩の肩口に頭を凭れさせてくる。
きっと香は無意識だ、大好きな兄貴にしていたように甘えているだけだと、
撩は己に言い訳をしながらぎこちなく肩を抱く。
呆れて心配しながらも寒そうな妹を気遣う、あの時の相棒のつもりで。

香の心臓が小さく跳ねる音が聴こえた気がしたけれど、
それが香ではなく自分のものであることを、撩は仕方が無いので認めることにする。
このままもう少し、野上冴子が来なければ良いのにと願いながら。



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4.未練

あら、この間はどうも。助かったわ。




撩が行きつけのバーの扉を開けると、カウンターに見知った顔があった。
もう少しで日付が変わるかどうかといった頃合いに彼女を見掛けるのは、久し振りだ。
夜の深い時間でさえ彼女のメイクは一切崩れることもなく、濃密で新鮮なゲランの薫りを纏っている。
まるで武装だ、隙がない。
撩の行きつけに槇村が現れるようになって、いつの間にかコンビを組んだ。
この店に初めて野上冴子を連れて来たのは、槇村秀幸だった。

元相棒だ。

槇村がそう言って撩に冴子を紹介すると、
冴子は“現相棒”を値踏みするかのように挑戦的な視線を撩に寄越した。
撩は撩で、槇村がわざわざ2人を引き合わせる意図が読めないので警戒した。
そんな尖った場の空気も物ともせず、槇村は飄々と酒を頼んでいつもの席に腰を降ろした。
槇村にはそういうところがあった。空気を読めないのではない、あえて読まないのだ。
仕方が無いので撩もいつもの左隣に座ったら、冴子は槇村を挟んで右隣に座った。
仏頂面の新旧相棒に挟まれて、槇村は何故だか少しだけ楽しそうだった。





久し振りじゃん?ここで会うの。



撩は当たり前の如く、冴子の隣に座る。
こうして偶然会うことも無くはないけれど、随分久し振りのような気がした。
冴子はワンレングスの髪を耳に掛けながらメンソールの細い煙草の先に火を点けた。
たっぷりと肺に煙を送る間を取って、溜め息を吐くように煙を吐いた。
撩の酒をバーテンがテーブルに置いたのをちらりと見ながら、答える。


忙しいのよ、貴方達と違って。

へーへー、さいですか。野上警部。

やっと大きなヤマがひとつ片付いたの、息抜きよ。

ふーん。


相手も優雅に紫煙を燻らすので撩も遠慮すること無く、ジャケットの懐からソフトパッケージと火を取り出した。
バーテンは見逃すこと無く絶妙なタイミングで、灰皿を撩の前にも置いた。
槇村に連れられてここへ来た後、冴子も時々顔を出すようになった。
撩と槇村と冴子の3人で飲むこともあったし、撩1人のところに冴子が来ることもあった。
槇村と冴子の2人の時もあったのかもしれないが、
撩は別にそんなことはどうでも良かったのであえて聞いたことはない。
聞かなくても2人がただの元同僚同士では無いことくらい、察しがついた。
地味で冴えない風貌のくせに、槇村が意外と良い女にモテることはコンビを組んでみて撩が分かったことのひとつだ。

槇村が警察を辞めると言い出した時、冴子は激怒した。
槇村に対してというよりも、槇村がその頃夢中になっていた撩の存在にだ。
面識は無かったけれど、槇村の言葉の端々から何となく撩の存在は感じられた。
冴子の知っている槇村は、警察官という仕事に誇りと使命を感じて情熱を持って取り組んでいた筈なのに。
いつの間にか彼は、非合法で危ない橋を渡る素性の知れない男に心酔していた。
ほとんどの現場を一緒にコンビを組んでやってきた槇村に、冴子は否定された気持ちになった。
相棒としての感情とは別に、
男としても彼に惚れていたので冴子は公私の別無く彼に思い留まるよう説得を重ねた。
見知らぬ男に嫉妬して(そうあれは今思えば、嫉妬だった)批難する冴子に、槇村は困ったように苦笑した。


君を俺の人生に巻き込みたくないんだ。


けれどその言葉は優しさに見えて、酷く傲慢だと冴子は憤った。
そう思うのならば、警察を辞めるなどと言わずに何故今まで通りでは駄目なのか。
彼は自分の人生だと言うけれど、そこに他者の介在は端から想定していないように、冴子には聞こえた。
それに槇村には最も大切な存在があるじゃないかと思った。
嫉妬すら覚えるほどに恋人よりも何よりも最優先の、最愛の妹が。



じゃあ、どうして私と付き合ってるの?

好きだから。

香さんはいいの?彼女を巻き込むことにはならないの?



冴子がその質問をした時にだけ、槇村の表情にごく僅かな揺らぎが見えた。
いつもこうだ。彼の心を本当の意味で揺さぶることが出来るのは最愛の妹だけだ。
ほんの少し間が空いて、槇村は穏やかに微笑んだ。



香は良いんだ、アイツのことは。



冴子には槇村のその言葉の意味が解らなかった。幾通りにも解釈できる。
妹は兄のことを最も理解してくれているから良いということ?
妹はもう既に兄の人生の一部なので巻き込んでも構わないということ?
恋人よりも妹のほうが大切だということ?
冴子が感情と論理と嫉妬をごちゃ混ぜにして考えた解釈はそのどれもが的外れな気がしたけれど、
その全てが正解のような気もした。
槇村秀幸はわからず屋だった。
冴子が形振り構わず彼の人生の濁流に巻き込まれたいのだ、ということを全くわかっていないように見えた。
冴子はあの頃、撩にも香にも嫉妬していた。
槇村が大切に思っている全てに対して、嫉妬した。
警察を辞めると言われた時に、冴子の知っている世界の外に、
槇村にとって冴子よりも大切なものが出来たのだろうと不安になったのだ。






この間は私、お邪魔虫じゃなかったかしら?



そう言って冴子はからかうように、撩のリアクションを待った。
先日、協力を依頼した現場で冴羽商事の2人はいつもの様に完璧な役割を果たすと、
吹き晒しの外階段で肩を寄せ合って仲良く冴子の来るのを待っていた。
普段ならダルそうに表情の読めない顔で居るくせに、
何となくあの時の撩は冴子の登場に名残惜しそうな顔をしたのだ。
何事も無かったように振る舞っていながら、
直前まで撩が香の肩を抱き寄せていたことくらい容易に想像できた。
香が気付いているのかどうかは知らないけれど、最近の撩の変わり様は驚愕に値する。
そんな表情が出来たのね、というくらい香に対する感情を隠すことをしなくなった。
というよりも、出来なくなったというほうが正解に近いのかもしれない。



はぁ?何言ってんの?馬鹿じゃねーの?



言葉とは裏腹に、撩の耳朶の先がほんのりと朱く染まっているので説得力は無い。
手練れのスイーパーが色恋絡みでわかり易く動揺している様は、見ていて結構微笑ましい。



いつまでストイックに我慢してるのよ、さっさと手ぇ出しなさいよ。

別にそんなんじゃねぇし、なんか勘違いしてんじゃないの?

あら、勘違いかしら?そんな欲求不満みたいな顔してるから、てっきり悶々としてるのかと思ったわ。



冴子がこれ以上無いという華やかな笑顔を浮かべてそんなことを言うから、
撩は思わず無意識に己の頬を撫でて考え込んでしまった。
顔に出るくらい溜まってるか?と。
もしもそれが本当なら、結構事態は深刻だ。
確かにあの時、奥多摩の湖の畔で緊張と緩和の後のひとときを経て、
撩の気持ちはグラグラに揺らぎまくっている。
これまでと何ら代わり映えのしない香の一挙手一投足に、いちいち振り回されている自覚は大いにある。


槇村が警察を辞めて撩とコンビを組んで暫くしてから、冴子は撩を紹介しろと槇村に詰め寄った。
面白がるように槇村は、撩と自分の行きつけの店を冴子にも教え、2人を引き合わせた。
その3人の新しい出会いの後、槇村は冴子の部屋のベッドの中で煙草を吸いながら愉しそうに冴子に訊いた。




どうだった?アイツの印象は?

···んー、まぁ思ってたよりは、良い奴かな。



確かにそれは冴子の本当の感想だった。
冴羽撩は警戒心を隠そうとはしていなかったけれど、それほど感じが悪いわけでもなかった。
冴子が力んで奴を値踏みしてやろうという気持ち満々でその場に臨んだ勢いを、
なんだかよく解らない雰囲気で萎えさせた。
自分から大事な相棒を奪った男は、裏の世界の男だと聞いていたのとは裏腹に、
どこか憎めない少年ぽさを持った男だった。
不思議な透明感を持っていた。この世の何処とも何も繋がっていないような、浮世離れしたような。
槇村が彼を放っておけないと感じたのだろうことが何となくわかった。
きっと乳飲み子の妹が本当の家族から切り離されて、
宙ぶらりんになったのを放っておけなかった頃のことのように。
冴子の現相棒への評価を聞くと、槇村は嬉しそうに笑ってもう一度彼女をベッドに組敷いた。
口付けは煙草の味がした。



君なら、わかってくれると思ってた。



槇村が法の枠から外れて裏の世界に足を踏み入れることを、冴子には止めることが出来なかった。
それならば、彼と離れない為には冴子自身がそれ相応の覚悟を決めるしかなかった。
冴子は彼が大切だと思っている自分以外のもの全てに嫉妬をしていたのに、
当の槇村は無邪気に冴子を大切にしてくれた。
まんまと冴子は彼の濁流に巻き込まれてしまったし、覚悟していた未来が現実になった。





新宿の種馬が形無しね。



冴子が完全に面白がって笑っている。
冴子だけじゃない。
ここ最近、撩と香を取り巻くお節介な連中全員が同じように思っていることなど、撩も重々知っている。



手ぇ出したら、槇ちゃん化けて出てくるだろ?祟られるなんて勘弁だしな。



冴子は会話の中で一言も香の名前を出さずにいたのに、撩が香のことを話すのは即ち。
全て認めているということだ。
撩ほど頭の良い男がこんな誘導尋問に引っ掛かる訳は無いので、
暗黙の了解として色恋沙汰を否定する気は無いのだろう。



良いんじゃないの?槇村の口癖忘れたの?

口癖って?

俺の幸せは妹が幸せになることだ、って。

ぁああ、言ってたね、そう言えば。



撩と香にはこれまでの誰にも分かち合えない2人だけの絆と歴史がある。
それと同様に、撩と槇村にも、槇村と香にも、槇村と冴子にも、そして撩と冴子にも。
過ごした時間の分だけそれぞれが分かち合う記憶がある。



香さんの幸せは貴方のそばにしか無いわ。



冴子には解る。
自分が槇村秀幸のそばに居ることに幸せを見出だしていたように、香はきっと撩のそばに居たい筈だと。


そうかな。

そうよ。



男はわからず屋だ。他人の幸せを勝手に自分の尺度で測ろうとする。
冴子は結局、秀幸の人生に好き好んで巻き込まれたし、彼を喪った。
冴子には未練と想い出以外に彼に纏わるものは何も持たないけれど、それで充分幸せだ。
伴侶を得て家庭を持って責任を伴う幸せも勿論あるけれど、
何も持たない自由さが生み出す幸せだって幸せには変わらない。



ていうか相棒の座は貴方に譲ったんだから、もうそろそろ槇村のこと独占させてくれないかしら?



この先永遠に彼の想い出という呪縛に捕らわれているのは、自分だけでいい。
彼の妹にも彼の相棒にも嫉妬せずに、冴子はただ穏やかに今を楽しんでいる。



5.誤算

撩がアパートに戻ったのは、午前2時を過ぎた頃だった。
自宅前の歩道から6階のベランダを見上げると、黄色みがかった電灯の明かりが点っていた。
香はまだ起きている。
撩は冴子に言われた言葉を思い出していた。
香の幸せが自分の傍にあるということ。
それは確かに可能性としてあり得ない話ではないと、撩も思う。

銀狐に狙われて、お前には俺の相棒は務まらないと撩が告げた時も、
マリーの来訪で、撩以外の人間から撩の過去の話を聞かされた時も、
美樹の制止を振り切って墓地に入り込み、邪魔をするなと撩に突き放された時も、
そして負傷した撩をみて、自分には相棒は務まらないかもしれないと自信を失いかけた時も、
沈みゆく船の中で、必ず生き抜くとガラス越しに誓った時も、香は。
結局、最後には撩の手を取って、笑ってくれたから。
だからもしかすると冴子の言うように、香は香の意思で撩の傍に居てくれていると考えても、
それは撩の勘違いではないのかもしれない。
ただそれが、香にとっての幸せなのかどうなのか、撩にはそれは良く分からない。
もしも香の前に撩ではない別の男が現れたとして、そいつが撩以上に香のことを幸せに出来るとしたら。
撩には自分の元に彼女を縛りつけておくだけの、資格も権利も持ち合わせていないのだ。
ある日、彼女が心変わりをして、ふらっと何処かへ出て行ってしまっても、引き留める術もない。

けれど撩はもう、とうに自覚している。
あの温かな明かりと仄かな生活の匂いを、渇望しているのはきっと他でもない、撩自身であることを。




お風呂、今ならまだ温かいよ。


リビングで髪を乾かしながら、香はそう言った。
それの意味するところは、光熱費を無駄にするなということなので、撩は大人しく従って風呂に浸かっている。
肌寒い3月の夜に外をうろついて帰った撩の体は自分で思っていたよりも冷えていて、
酔いはいつの間にか醒めていた。
このところ、色々と考え過ぎだ。
数年前からの記憶が撩を雁字搦めにする。
これまで撩は、何にも執着せず囚われず、思うままに生きてきた。
槇村秀幸に香を託されたことは、ある意味で重い大きな枷を填められることに似ていた。
槇村もまた、少年の頃、父親から妹を託されて同じ思いに押し潰されそうになりながら生きてきたのだと、
今の撩になら理解ができる。
そして、香の境遇にも撩はシンパシーを感じることができる。
誰にでも普通に平等に与えられる産みの親との縁は、撩も香も薄かった。
撩は秀幸でもあり、香でもあったのだ。
そして、大きな枷でもある彼女の存在が、今では撩が生きる意味でもある。
彼女は撩の中でどんどん大きな存在になり、撩の思考は全て彼女中心に回っている。
春はどうしても考え過ぎてしまう。彼女と出会った3月、彼を喪った3月。
彼女が撩の元に転がり込んできた、4月。



はい、どうぞ。


風呂上がりの撩がリビングへ行くと、香は珈琲の入ったカップを目の前に置いた。
半乾きの髪をタオルドライしながら、撩はカップに口を付ける。
撩が風呂に入っている間に豆を挽いてくれたらしい。
酔いは醒めていたけれど、アルコールを摂取してぼんやりしていた頭がスッキリした。
香も向かいに座り、自分用に牛乳を足したものを飲んでいる。



冴子さんに会ったの?

ぇあ?なんで?

匂いでわかる。



野上冴子と2時間ほどバーで同席した間に染み込んだ移り香を、香は鋭く嗅ぎ分ける。
帰ってきてすぐに、風呂場へ直行させられたのは、もしかすると光熱費の問題ではなく、
移り香のせいだったのかもしれない。



たまたまな、同じ店で偶然あった。

ふーん。会うのわかってたら、言っとけばよかった。昼間、こないだの依頼料、振り込まれてたから。

そんなのいつでも良いんでない?別に。

だめ。明日、電話しとく。確かに受け取りましたって。



香は妙に律義なところがあるので、冴子からの依頼を受けて報酬を受領すると、
そうしてマメに連絡を取り合っているらしい。
香が冴子に初めて会ったのは、槇村が死んで撩の相棒になって暫く経った頃だった。
槇村の死は、撩と香の絆を結んだけれど、香と冴子もまた槇村を介して繋がった人間関係だ。



兄貴と冴子さん、付き合ってたんだよね、昔。

ああ。


これまでの思考の渦を香に読み取られてしまったような気がして、撩は焦ったけれど、
別に他意は無く、香は何となく兄を思い出したらしい。



全然、気付かなかった。兄貴が香水の匂いを付けて帰って来たことなんか無かったもん。一度も。



香の前では槇村は、煙草も吸わなかった。
それでも煙草の匂いはしていたし、上着のポケットに煙草やライターが入っているのを見たことがあるので、
吸っていることは香も知っていた。
けれど、香水の薫りを付けて帰ることも、朝帰りも滅多に無かった。
遅くとも日付が変わる頃くらいには帰って来ていた。



兄貴ね、モテないんだろうと思ってたの。でも、冴子さんみたいな彼女がちゃんといたんだと思うと嬉しかった。

槇ちゃん、ああ見えて意外とモテるんだぞ。

そうなの?

うん、まあその他大勢は眼中に無いみたいだったけどな。きちんと丁寧にお断りしてた。

そりゃあ、兄貴は撩みたいにもっこりスケベじゃ無いからね。

槇ちゃんはもっこりスケベじゃなくて、ムッツリスケベだからな。



にんまり笑いながら撩に憎まれ口を叩く香に、撩がしょうもない反論をすると、
香は撩の顔めがけてテーブル用の布巾を投げ付けた。
昔の撩ならばこんなことは決して、望んでいなかった。平和ボケに浸るのは、命取りだ。
こんなことになるなんて、想定外の大きな誤算だ。
真夜中にこうして冗談を言い合える、家族のような存在が傍にいることに幸せを感じているのは、
自分だけだと撩は思っているけれど、もしも香もこの他愛もないひと時を大事に思ってくれているのならば。
撩は自分が香を幸せに出来るかどうかについては、
全くもって自信が無いけれど、ひとつだけ確かなことがある。

香が撩の傍にずっと居てくれるのならば、撩はきっと永遠に幸せだ。




なぁ、香。

ん?



いつになく真剣な目をした撩に、香は訝しげに首を傾げる。
香はこの目の前の男のことがずっとずっと好きだった。
はじめは兄を悪の道へと引きずり込んだ悪い男なのかと思っていた。
後を付けて、撩の本当の姿を暴いてやれば、
兄は目を覚まして、また立派な警察官へと戻ってくれるんじゃないかと考えていた。
あの頃の香は、まだまだ子どもだった。
それでもそんな子どもの香に、恋という感情を植え付けたのは冴羽撩だった。
大人になって、撩のことをもっと深く知っても、香の恋心は大きくなる一方で。
撩が香を失望させるようなことは、ただの一度もなかった。
むしろ撩を知れば知るほど、ただの恋は深い愛へと形を変えた。
圧倒的な力の差や器の大きさを見るたびに、憧れは強くなり。
彼の幼い頃の境遇を知ることで、守ってあげたいと願うようになった。
撩の強さと逞しさと包容力と狭量さと脆さと危うさを全て包み込んで、
彼の眠る夜が平らかなものであるように、彼の目覚める朝が健やかであるように香はいつも祈っている。




ずっと傍にいてくれるか?



何を言うのかと思ったら、撩が真剣な顔でそんなことを言うから。
香は思わず可笑しくて、吹き出してしまった。
そんなことは、今更だ。
これまで何度でも言ってきたはずだ、アンタの死に様を見届けるまで死ねないとか。
毎年、生きて互いの誕生日を一緒に過ごそうとか。
愛する者を守るために何が何でも生き延びるし、守り抜くとか。
2人でシティーハンターだとか。
だからそんなこと。



当り前じゃない。アタシの居場所はここだもん。



香の居場所は、撩の隣だ。
撩の帰ってくる場所は、香の隣だ。
撩も香もずいぶん人生を迂回して、ようやくここまで辿り着いた。
香は兄を喪い、撩はかつて父親と呼んだ相手を葬った。
生まれながらにして手の中にある筈だった形の無いものを、見失いかけて2人は生きてきた。
けれどそれは、撩にも香にも確かにまだあったのだ。
目には見えない形の無い、愛情という名の一番大切なものだ。




テーブル越しに身を乗り出した撩が香の唇に触れた時、珈琲の匂いがした。
妹の幸せが最終的には、槇村秀幸の幸せなのだとすれば、
彼がたとえ死んでしまっていても、香が元気で幸せに生きている限り、
彼の幸せも同時に叶え続けることが出来るということだ。

81.日常のすぐ隣

向かいのアパートから騒音が聞こえる深夜2時、ミック・エンジェルは少しだけ複雑な気持ちになる。
きっと腐れ縁のアイツは歌舞伎町で飲み歩いてきた振りをして、相棒に制裁を喰らったのだろう。
ついさっきまで一緒にいたミックと撩は確かに数杯の酒を引っ掛けて家路に着いたけれど、
飲み歩いたというほどのものでも無いし、かわい子ちゃんが接客してくれるような店で飲んだわけでもない。
教授経由で請けた依頼は、情報収集をミックが行い、実働を撩が行った。
今夜、都会の片隅でしょうもない輩が始末されたことを知っているのは、ごく限られた関係者数名だけだ。
道化を装ってパートナーにお仕置きをされるのと、こうして恋人が不在の真っ暗な部屋に帰るのと、
果たしてどちらが幸せなのだろうとミックは思う。
別に汗を流して労働したわけでも無いけれど、後味の悪い「仕事」と煽ったアルコールの臭いを消す為に、
シャワーを浴びたらまだ、締め切りの迫っている仕事を幾つか片付けなければいけない。
生憎、ミックの恋人は仕事熱心なので、ミックが外で何をして何時に帰ろうが、
残念ながらお向かいの彼女のようなかわいいお仕置きなんて用意して待っててくれることは無い。
日常と非日常は、意外にも隣り合わせに存在している。
同じ夜を沢山の人々が安らかに過ごしている時に、闇に乗じて汚れ仕事を黙々とこなす男もいたりする。




やぁ、カオリ。


まだまだ爆睡中だった相方を放置して見に来た伝言板には、待望の3文字は記されていなかった。
軽く落胆の溜息をついたところで、香は声を掛けられた。向かいに住む友人だ。


おはよう、ミック。


朝から彼女は清々しいと、ミックは無意識に目を細める。
結局、あの後3つの記事を書き終えてベッドに入ったのは、明け方近くだった。
窓際のデスクで仕事をしながら観察をした結果、彼女は撩に制裁を加えて15分ほど後に、
自室に引き上げて就寝している。彼女の生活パターンは概ね、把握している。
起床時間は、決まって6時30分だ。
逆算すると彼女の睡眠時間は正味4時間ほどだが、
まるでしっかりと8時間くらい睡眠を摂ったかのような清々しさで、無意識にミックのハートを射抜いてくる。
それでもこの後、ミックの言葉で多少なりともこの笑顔が曇るのは解かってはいるのだけれど、
ミックとしては言わなければならないのだ。
その為に、こんな時間にここに待ち伏せていたのだから。



昨日はごめんね、カオリ。

何が?

カズエが不在だったからさ、リョウを飲みに誘っちゃって。遅かったろ?昨夜。

ミックだったのぉ、もうっっ。

おぉ、ごめんよ。昨夜はボクの奢りだったからツケは増えてないからさ、カンベンしてくれよ。

んもぅ、仕方ないわね。

そのお詫びといってはなんだけどさ、カオリ。

ん?

駅の向こう側に出来た新しいカフェに行かないか?勿論、ごちそうするよ。

でも、撩の朝ごはんのお世話しなくちゃだし・・・

良いじゃん、どうせまだアイツ寝てたんだろ?放っておけよ、たまには。

ん~、でもぉ・・・






昨夜の「仕事」には、まだ続きがあった。
香をミックがこうして暫く足止めしている間に、撩はアパートのすぐそばの歩道橋から、
通り過ぎる黒塗りの車の後部座席を狙って狙撃する。
タイミングはほんの一瞬で、一か八か一発勝負だ。
この瞬間を逃すと、この次チャンスがいつ到来するか読めない相手なのだ。
撩とミックはうまいこと役割分担をして、恙無く依頼を遂行した。








りょお、起きて!!朝ごはん出来たわよ。



そう言って香が撩の寝室に入って来たのは、もう朝とは言い難い時間であった。
朝から一仕事終えた撩は、また何事も無かったようにベッドに潜り込んで今に至る。
このままうだうだと布団に潜っていたら、その内彼女は痺れを切らして布団を捲るからそれを待つ。
毎朝恒例のいちゃいちゃタイムだ。
ブラインドが勢いよく開けられ、突き刺すような午前中の光が部屋中に溢れる。
彼女の足音がベッドのすぐ傍まで近付く。
彼女が布団の端に触れたその瞬間、撩はすかさず彼女の手首を掴む。
不意を突かれた彼女がバランスを崩して盛大に、撩のベッドへとなだれ込む。
腕の中に囲い込んだ香の匂いを、まるで野良犬のように撩がクンクンと嗅ぐ。


なんか、旨そうな匂いがする。


そう言われて、香はギクリとした。心当たりは大いにある。
結局、ミックの魅惑的な誘いに乗ってモーニングプレートをごちそうになった。
ミックは美味しそうなタンドリーチキンとレタスのサンドイッチが乗ったプレートで、
香はメイプルシロップとホイップクリームたっぷりのパンケーキのプレートを食べた。


きききき、気のせいじゃないの?


近付いてくる撩の唇を避けるように、香はひらりと身を翻すと間一髪ベッドから抜け出すことに成功した。
白々しく明後日のほうを向いて乱れた衣類を正す。
最近の撩は油断ならない。少しでも隙を見せるとこうして付け入ってくるから、香もかわすのが上手くなった。
ご飯出来てるよ、そう言って撩に背を向けた香の耳朶が真っ赤になっているのを見て、
撩は思わず笑いを噛み殺した。大丈夫だ、ミックと撩の作戦は、無事彼女に悟られることなく成功した。
別に今更なことは撩にも解かっている。
今更、撩が請け負う仕事の内容に関して、香がどうのこうの口を出すとは思ってもいないけれど、
知らないなら知らないほうが良い世界もある。
それに関しては、ミックとも見解は一致している。
大事な女に、薄汚い醜悪な世界など見ていて欲しくはない。
それは彼らのエゴに過ぎないのかもしれないけれど、
彼女に似合うのは朝の清々しい空気のような、平和な夜の静寂のような何でもない普通の日常なのだ。
たとえ、日常のすぐ隣にぽっかりと開いたブラックホールのような暗闇が広がっていたとしても、
撩は必ず彼女の手を取って、その暗闇に落ちてしまわないようにエスコートする。
恥ずかしそうに階下に降りて行った彼女の背中を見送りながら、
撩はキッチンに用意された朝食を思う。
夜と朝のギャップが大きければ大きいほど、その朝の大切さが身に沁みる。
今日も2人の日常が始まる。





チョコレートブラウン

「こうやってご飯の支度してるのを見てると、なんか子どもの頃に戻ったみたいな感覚ね。」



小さい頃の夕方、外で遊んで家に帰ると、夕餉の匂いがした。それを思い出したから。
北原絵梨子はダイニングテーブルに頬杖をついて、楽しげにそう言った。
そぉ?と言って背を向けたまま応える香にとって食事の支度は、毎日の日課なのでよく解からない。
支度と言っても今日は絵梨子が来ることはわかっていて決めた献立なので、それほど準備も要らない。
万年金欠の冴羽商事にしては大奮発の、すき焼きだ。
メインを華やかに彩る豪華黒毛和牛の薄切り肉は、
この家の家主である大食漢の為に驚くほどの分量を用意してある。
瑞々しい白菜や、丸々と太くて甘そうな長葱をまるで計ったように均等に切り揃えて大皿に盛る。
その手つきの迷いの無さに、絵梨子は親友が毎日こうして料理をしていることを改めて考える。
絵梨子は普段、忙しさにかまけて自炊はしない。
都会の真ん中で生活していれば、それは別段困ることでも無い。
誰かしら食事を共にする相手はいるし、美味しい料理を提供する店は星の数ほどある。
仕事関連の相手と会食する場合も多いし、ある意味では食事も仕事の延長線上にある。
たまに自分でご飯を炊いて独りぼっちの部屋で適当に食べても美味しくないから、作らない。
いつからそういう生活をしているのか絵梨子はもう、忘れてしまった。

高校時代の親友に再会したのはもう、2年以上前のことだ。
奥手でボーイッシュで不器用な彼女しか知らなかった絵梨子は当時、
香が男性と同居しているということにまず単純に驚いたし、
色々あってボディーガードとして依頼することになり、
このアパートに数日間滞在した時の彼らの生活ぶりに、更に驚いた。
ほとんど夫婦のような同居生活を送っておきながら、やはり親友は親友だった。
奥手で不器用なところは、ひとつも変わっていなかった。
彼女が彼の為に作る三度三度の食事を、絵梨子も数日間とはいえ一緒に囲み、
驚くほど癒されたのを覚えている。
例えればそれは、まるで実家に帰った時のような安心感にも似た安らぎだった。
お陰で絵梨子は、実家は都内なのに暫く帰っていなかったことまで思い出したくらいだ。

あの時の再会以来、忙しい合間を縫って親友同士の交際を続けている。
あの時、全てが片付いた後にささやかながら絵梨子なりのお膳立てをして2人をくっ付ける手伝いをしたが、
成果は出なかった。それ以降、機会を窺ってはこのアパートを訪れて、進捗状況を香に聞き出しても、
呆れるほどに焦れったい2人のプラトニック関係は暫く続いた。
それでもやっと数ヶ月前に、晴れて恋人同士になったということを香から報告された時には、
まるで自分のことのように嬉しくて、彼女をハグして一緒に泣いた。
とにもかくにも、絵梨子はこうしてたまに用があるとこのアパートを訪れて香に甘える。
今月に入って、絵梨子は2人に仕事を依頼した。
絵梨子が専属契約を結んでいる若いモデルが、ストーカー被害に遭っていた。
犯人の行為はどんどんエスカレートし命の危険を感じるほど深刻な状況になったので、絵梨子は2人を頼った。
ガード対象者は美人モデルで撩が依頼を断る理由も無ければ、
年が明けて1件の依頼も無かった所に舞い込んだ親友からの依頼に香が断る理由も無かった。
冴羽商事の手に掛かれば、すぐに依頼は片付いた。

依頼料を直接渡しに行くついでにそっちに遊びに行く、という絵梨子に夕食を準備するからと応えたのは香だ。
ちょうどタイミングが良かった。バレンタイン前日の今日なら撩は飲みにも行かないだろうし。
絵梨子が電話を寄越したのが午前中のことで、豪華黒毛和牛を頂戴したのが昨日のことだった。
そもそも撩と2人ですき焼きをしようと思っていたので、そこに親友も合流したら香としては申し分ない。
撩がどう思うかは知らないけれど、香はあまりそういうことは気にしないタイプだ。
ご飯は大勢で食べたほうがきっと、楽しいし美味しい。
因みに豪勢なお肉の出所は、教授だ。
撩が頼んでいたらしい資料を取りにおいでと、
撩ではなくわざわざ香を呼びつけたのは教授からのサプライズだった。
用があったのも確かだけど、本当の用件はバレンタインデイのプレゼントを香に渡す為だったらしい。
プレゼントはお肉だった。


「なに?珍しいね、こんな時間に。」

ご飯の炊ける匂いと、割り下の甘辛い匂いがダイニングに立ち込めた頃、彼はようやく帰って来た。
夕飯時に来客があるのは珍しい。
普段、絵梨子がここに遊びに来るのは大抵昼間なので、撩の第一声はそれだった。
その後、ダイニングテーブルに並べられた食材と、真ん中に据えられた鉄鍋とガスコンロを見る。
見るからに上等そうな肉に、撩の視線が止まる。


「なに?今日は。何の日?」


いつもは締まり屋の相棒にしては気前の良過ぎる光景に、撩は警戒心を露わに訝しむ。

満面の笑みの北原絵梨子
妙に上機嫌の槇村香
見るからに上等な黒毛和牛と思しき大量の薄切り肉

これはもしや、可愛くて恐ろしい相棒に何か無理難題を押し付けられる前兆ではないかと、撩は身構える。
香はそんな撩を見ながら少し呆れたように笑うと、ご飯にするから手ぇ洗ってきなよ、と洗面所へと促す。




「で?どうしたの、この肉。」

洗面所から戻り、改めて自分の席に着いた撩がそう問えば、絵梨子も同じように頷いた。
たまに会うだけの絵梨子ですら、
この上等な肉の並ぶ食卓が、普段の冴羽商事では考えられないことだということくらい理解できる。


「もらったの、教授から。バレンタインのプレゼントだって。」

そう言って香は嬉しそうに笑った。
そもそも、バレンタインに女性から男性にプレゼントをしなければいけない決まりなんてないし、
プレゼントがチョコレートでないといけない決まりもないから、と言って老人は優しく笑った。
その量は明らかに撩と一緒に食べるのが前提のものなので、それは多分、2人に対しての贈り物である。

「あ、そういえば。」

撩がふと、思い出したかのようにリビングに戻った。
帰宅してダイニングに入る前に、リビングのソファの上に放っておいたものを今の話で思い出したのだ。
戻ってきた撩の手には、幾つかの紙袋があった。
上等なセンスの良い小さめの紙袋の中身など、改めなくてもチョコレートだと判る。毎年のことだ。
毎年、2月14日前後に撩が街中をうろつけば、こうやって義理チョコを貰って帰宅するのが恒例だ。
ホイ、と言って手渡されたその紙袋を、香は苦笑しながら受け取る。どうせ貰った張本人は食べないのだ。

「毎年、お返しのほうが大変なのよね。この習慣、そろそろ無くなっても良いんじゃないかなぁ。」

そんなことをぼやく香に、撩と絵梨子は思わず顔を見合わせる。
そんなことを言いながら、彼女は毎年何かしら撩の為にチョコレートを用意している。
きっと明日も。


「2人とも、ビールで良いよね?」

撩から受け取った紙袋をそっくりそのまま冷蔵庫に押し込んだ香は、満面の笑みで振り返った。
キンキンに冷えた缶ビールを3本、香がテーブルに並べる。
撩は早々と、小鉢に生卵を割り入れている。
鍋の中の食材は整然と秩序良く並べられ、沸々と煮え始めて割り下色に染まっている。
撩はいつも通り良く食べたし、絵梨子も久し振りの親友の手料理に舌鼓を打った。








「冴羽さん、これ忘れない内に。」

リビングで食後のコーヒーを飲む絵梨子が、同じく向かい側のソファでコーヒーを飲む撩に紙袋を手渡した。
品の良いベージュ色の紙袋には、エリ・キタハラのブランドロゴがゴールドの箔押しで記されている。
受け取ると、見た目よりも重さは無かった。
香は2人の為にコーヒーを淹れると、
自分も一緒に座ってゆっくりと飲めば良いものを、さっさとキッチンに戻って片付けをしている。
香曰く、明朝はゴミ出しの日なので、片付けと軽い掃除を先に終わらせておきたいらしい。

「チョコレートじゃないから安心して、どうせ貴方食べないでしょ?」
「何これ?」

ふふふ多分、貴方が一番欲しいものよ、
そう言うと絵梨子はウィンクをしてカップに残ったコーヒーを飲み干した。
あまり遅くまで居座ったら、恋人同士の2人に申し訳ないので絵梨子はそろそろ退散する時間だ。

「お邪魔虫はそろそろ、退散ね。キッチンで香に挨拶したら帰るわ。」
「送らなくて大丈夫?」
「はじめからそのつもり無いでしょ?その辺でタクシー拾うから大丈夫。」

この後、彼らがどう過ごすのかなんて絵梨子には解かりきっていて今更だ。
幸せそうな親友を見れば、彼女が彼に充分に愛されていることなど一目瞭然である。
楽しそうに冷蔵庫からビールを取り出す香を、愛おしげに目を細めて見詰める撩が、
はじめから客を送って行く気など無いことくらいバレバレだ。豪快に肉を喰らいながらビールを飲んでいた。
バレンタインにチョコを渡す習慣なんか終われば良いのに、と言っていた香はきっと。
義理チョコの話をしていたのだろう。本命となると、話はまた変わってくる。


「バレンタイン、仲良く過ごしてね。」


お節介な香の親友は、そう言い残して帰って行った。
何をやっているのか、香はそれでもキッチンやお風呂場などを忙しなく行き来している。
撩の一番欲しいもの、そう言われるとこの紙袋の中身のことが撩は、俄然気になってしまう。
香がリビングに戻らない内にと、中身を確認するとそれは、

上質なチョコレートブラウン色のシルクサテンのランジェリーだった。
さすがは北原絵梨子、香のボディサイズは抜かりなく把握している。
艶やかなミルクチョコレートのような色合いはきっと、香の白い肌の色に良く映えるだろう。
上品なブラとショーツに、同じ素材のシルクを数枚重ねた贅沢な作りのベビードールには、
まるでアラザンを散りばめたように、シルバーに輝くガラスビーズが縫い止められている。
こんなものを貰ってしまっては、明日のバレンタインは余所に飲みに行ってる場合じゃないなーと、
撩は独り言など呟いてみる。
元から香と過ごす筈だったなんて照れ臭くて認めたくないから、
この下着一式を言い訳にして一晩中彼女と過ごすことにする。

甘い甘いバレンタインを甘い彼女と一緒に。



[ 2020/02/13 20:46 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)