2020 あけおめ

今年は暖冬だから、大晦日にしては温かい。
それでも香は硝煙の匂いが燻ぶるモッズコートに包まれた己の二の腕を無意識に擦った。
コートの中身は体に馴染んで動きやすい作業用のつなぎで、
更にその中には防寒対策の機能性インナーを着込んでいる。足先に鉄板の入った安全仕様のワークブーツは、この半日で仕掛けたトラップの成果を示すように泥だらけだ。
ようやく一仕事終えて緊張の解けた香の隣には、撩が同じように立っていて同じように眼下を見下ろしている。
撩はいつものジャケットの上にモッズコートを羽織ってはいるけれど、
前は全開に肌蹴ていてコートとジャケットの下に赤いTシャツ一枚だ。同じように硝煙の匂いを纏っている。
つい先ほど眼下に広がる広大な敷地を有する廃工場を、爆破してきた。
誰もよりつかない郊外の山の中の古い工場跡をアジトにしていた一味は、撩が殲滅し、
香が広大な敷地の周りに幾重にもトラップを張り巡らして撩を援護した。
勿論、警視庁の女豹、野上冴子の許可は貰っている。
そもそも暮も押し迫って厄介事を持ち込んだのは彼女なので、
冴羽商事の2人共後始末に関しては彼女に丸投げするつもりだ。
大晦日だからという訳でもないが、火薬の量が少しばかり多かったかもしれないと香はその光景を眺めながら苦笑した。



今日はまた、火薬2倍サービスデーかなんかなの?カオリン。



そう言いながら撩はジャケットの内ポケットから取り出したマールボロを1本咥える。
爆風を避けるようにして2人で山道を駆け上り、
上った所の少し開けた高台の雑木林の隙間から、現場は一望できた。
幸い、周りには民家も無いし、あるのは点在する産廃業者のスクラップ置き場だけで、
もうすぐしたら色っぽい刑事のお姉さんが手下を引き連れてやってくるので、多分大丈夫だ。
山火事にはならないだろうと撩は呑気に構えている。
ジッポーの蓋を開ける小さな金属音が、思いのほか澄んだ冬の空気に響いて溶けた。



あはは、ちょっと計算違いしたみたい。てか、寒くないのアンタ?



撩の薄着は今に始まったことでもないけれど、
大きくコートの前を開いた撩の首元を見るだけで香は寒気がした。
対照的な香はコートのファスナーを首の一番上までしっかりと上げて、
ファスナーに被る形で防風も兼ねた前立てのスナップボタンもきっちりと留めている。
つなぎの裾はワークブーツの中に収まっているし、
爪の中に泥が入ってかさついた両手はポケットに突っ込んでいる。



うんにゃ、別に。



撩の表情からは特に何も読み取れなかったけれど、2人は昼過ぎから労働に勤しんで腹が減っている。
12月の頭に1件、依頼をこなしていたし、
撩が香を通さず勝手にやってる”仕事”のほうも年末特需なのか連日立て込んでいた。
表向きにも裏側も冴羽商事的には充分潤っていたので、
今年はぬくぬくと炬燵に入って鍋でも囲んで紅白歌合戦でも観ようかと目論んでいたはずが、
何の因果か大晦日にこの有様だ。
2人とも泥だらけで硝煙の匂いに塗れている。
一応、山火事の心配はなさそうだけど、
冴子たちが到着するまでは遠目に現場を見ていようと、撩は手持無沙汰に佇んでいる。
冴羽商事の代表が現場を後にしないので、部下である香も横に並んで燃え盛る工場跡地を見詰めていた。
蓋を開けたジッポーから煙草に火を点ける一連の動作の中で一瞬だけ、撩は香の横顔を盗み見た。
眼下に広がる炎の赤を映して、オレンジ色に染まる香の頬に、
少しだけ見惚れてしまいそうになって目を逸らした。
まるでカウントダウンの花火を見守るカップルのような高揚感をおぼえる。
大晦日の現場は2人にとってはもしかするとデートみたいなものかもしれない。
撩の命懸けでスリル満点のデートに付き合ってくれるような奇特な女は、槇村香ただひとりだ。


今年の初夏に、香の幼馴染とかいうトチ狂った男とやりあった。
留学先のアメリカで極端な理論の虜になった彼の野望を打ち砕き、
寸でのところで世界中が火だるまになるのを阻止した。
あの男の初恋の相手というのが香だったことはきっと嘘ではなかったのだろう。
もしも彼がウォーフェア理論に染まらずに、真っ当なビジネスだけで成功を収め、
あの時自分たちの前に現れていたら、香の手を離したのだろうかと撩はあれから時々考えてしまう。
行き掛かり上とはいえ、ウェディングドレスを着た香の姿は今でも鮮明に瞼の裏に焼きついている。
いつか誰かがあんな香の隣に並んで幸せを噛み締める日が来るんだろうか。
それは俺じゃ駄目だろうか。などと、撩は今年一年を振り返る。


表情の読めない撩の思考回路など、香に解りようもない。
半分ほど吸った煙草を足元に放るとブーツの先で踏み消した。
香が無意識に両腕を擦りながら白い息を吐いた時、不意に撩が抱き寄せた。
気が付くと香は撩の腕の中に囲われ、撩のコートですっぽりと覆われていた。
驚いて首だけで振り返る香に、撩はニヤリと笑った。



ほら、見てみ。



そう言って撩がポケットの中から取り出したケータイの画面は、もうすぐで午前零時をお知らせしている。
あと5秒。
カウントダウンの花火ではないけれど、廃工場の爆破だけれど。






年が明けた。






綺麗だな。

さすがにそれは悪趣味だってば。




撩の言葉を香はまた誤解している。
撩が綺麗だと言ったのは、腕の中の泥まみれの相棒のことであって、
カウントダウン爆破パーティーの話ではない。
そりゃあ勿論、綺麗な服に身を包んで綺麗に化粧を施せば彼女が何処の誰より美しいことは知っている。
けれど撩は、香が作業着だろうがハンマー担いで走り回っていようが鼻水垂らして泣いていようが大口開けて馬鹿笑いしていようが世界で一番、彼女を綺麗だと思っている。
ただ、それを言葉にするのは照れ臭い。







今年もよろしくな、相棒。

うん、こちらこそどうぞよろしく。



暗闇の林道に赤色灯が連なってやってきた。
そろそろ裏稼業の2人は退散して今度こそ炬燵で寝正月を決め込む為に、デート現場を後にした。










ありがとう、CHY(シテハンイヤー)
ことよろです。
スポンサーサイト



[ 2020/01/01 00:21 ] 短いお話 | TB(0) | CM(1)

切ない恋にまつわる5つのお題

書きたいテーマにしっくりくるお題を見付けたのでお題に沿って書き進めたいと思います。
お兄ちゃんのことを軸に書いていけたらと思っています。
なんとなく続いてるような、けれども単体でも読めるようなシリーズとして書く予定です。


1.憂慮
2.追想
3.心音
4.未練
5.誤算



お題配布元:天球映写機さま
        (いつもお世話になっておりますm(_ _)m)

1.憂慮

「要するに槇ちゃんは惚れてんだよ、妹に」





尊敬する警察官の父親がその子を抱いて家に帰って来たのは、槇村秀幸が9歳の時だった。
その頃の秀幸にはまだ全ての事情を明かすことの無かった父親は、ひとこと

この子は今日からお前の妹だよ

そう言って、おくるみに包まれたその温かな小さな子を秀幸の腕に抱かせた。
母親はその数ヶ月前に大病を患って他界していたし、父親は刑事という職業柄まいにち多忙を極めていた。
この子の面倒をいったい誰が見るのだろうと不思議に思いながらも、
秀幸の胸には初めての感情が芽生えていた。
その子は茶色がかった丸い瞳で秀幸を見上げると声を立てて笑った。
まだミルクしか飲まない小さな子が他所の家庭に貰われてくる事情がなんなのか、
秀幸には難しいことは分からなかったけれど。それがとても不憫であることは理解していた。
父親は乳児でも預かって貰える託児所を探してきて、香は昼間そこで面倒を見て貰うことになった。
香が来る前から、秀幸と父親は毎朝通学路の途中まで一緒に歩くのが日課だった。
どんなに遅く帰っても父親は朝のその時間、秀幸と会話をすることを欠かさなかった。
そこに小さな香が加わった。
朝は父親が香を託児所に送り、帰りの遅い父親に代わって夕方は秀幸が香を迎えに行った。
おむつも換えたし、風呂にも入れて、ミルクも飲ませた。泣き出せば抱き上げてあやした。
本棚には母親が残した育児書があったのでそれを読んで、
かつて母親が自分の為に作ったのであろう離乳食を秀幸は作った。
香はいつも秀幸を見付けると、嬉しそうに笑った。


香の本当の両親の話を、唐突に父親が語ったのは秀幸が10歳の時だった。
香は1歳になっていた。
香の本当の父親は事故で死んだけど、生き別れた母親と姉がまだ何処かに居るらしいこと。
その人たちが香を返して欲しいと言ってきたらどうするの?
確か秀幸はその時、父親にそう訊いた。
父親はただ何も言わずに、小さく微笑みながら秀幸の頭を大きな手で撫でたのを覚えている。
頑張ったんだ。
1年間、楽しいことのほうがいっぱいあったけど、
小学生の兄にとって言葉も通じない小さな妹の面倒を見るのは楽しいことばかりでもなかった。
けれどいつか誰かがこの子を自分の元から連れて行こうとするのなら、その時は多分絶対に渡さない。
秀幸はまだ子どもだったけれど、そう思っていた。
香は槇村家の娘だ。自分の妹だ。香も秀幸のことを「にーたん」と呼んでいる。
それが秀幸にとっての現実の全てで、香にとっての全てだった。


父親が捜査中に死んだのは、秀幸が14歳で香が5歳の時だった。
その頃が秀幸にとっては一番辛い時期だった。
秀幸はまだ義務教育が終わってなかったし、香はまだ未就学児だった。
頼れる身内も近くにはいなかったので父親の同僚であった人達が骨を折ってくれて、
槇村兄妹の行く末を案じてくれた。
絶対に香とは離れ離れになりたくないと意固地になる秀幸に示されたのは、
1年間の期限付きで離れ離れになることだった。
あと1年だけ頑張れば、秀幸は高校生になるし香も小学校に入学する。
父親が遺してくれたもので慎ましく生活できるようになるまでの間、
香は児童養護施設へ預けられることになった。
秀幸はこの時期に、父親と同じ警察官になることを目標にした。
志望校に合格して香を迎えに行けるように、毎日必死に勉強をした。
香は槇村家に来て2年後に、正式に父親と養子縁組をして槇村家の娘になっていた。
父親の亡くなったあと、同僚であった警察の人に聞かされた。
結局、別れ別れになった母親と姉が香を迎えに来ることはなく、
色々と煩雑な手続きを経て正式に香の家族が決まるまでに2年の月日が必要だったということだ。
本当ならば、産まれながらにそこにあるべき家族という存在を持たずに、
宙ぶらりんになってしまった可哀そうな妹。
かわいくていとおしくて不憫な香を守るのは自分なのだと、
秀幸が赤ん坊の香をはじめて抱いた時に芽生えた感情は、愛だった。



秀幸が18歳で高校を卒業し晴れて警察官になった時、香は9歳だった。
高卒で警察官になった秀幸には、10ヶ月間の警察学校での訓練という課題が待ち受けていた。
9歳の香はまたしてもその間、児童養護施設へと預けられた。
同じ頃の秀幸は手探りで妹の世話をしたけれど、自分には頼れる父親がいた。
けれど香にはいなかった。
香には、秀幸しかいなかった。
兄妹2人には互いしか頼れる者もなく、2人を繋ぐのは愛情だった。

秀幸が刑事課に配属を希望し、父親の後を追うように刑事になった時、香は中学2年生になっていた。
初潮を迎え、ブラジャーをするようになり、身長はどんどん伸びた。
寝ぐせが付くということを聞かない癖毛を気にするようになって、
朝は身だしなみに時間が掛かるようになった。
思春期がやってきた妹はそれでも素直で、2人は仲の良い兄妹だった。
いつしか仕事に忙殺される秀幸に代わって、家のことは香がやるようになった。
料理を作り、掃除をし、洗濯をして秀幸の帰りを待っていた。
ようやく平和な槇村家を2人で築いて歩き始めていた。
香は頑張って学費が掛からないようにと、都立の高校を受験し合格した。
秀幸は順調に階級を上げて、警察内でも若手有望株と呼ばれた。
キャリアの道を約束された有能な女刑事の野上冴子とコンビを組むことが増え、
夜の街に顔が利くようになった。


秀幸が新宿の片隅で撩に出会ったのは、その頃のことだった。
自分には無いものを持っているように見えた撩に、秀幸は魅せられた。
ひどく自由な男だと、その身軽さに憧れたのかもしれない。
秀幸には大切なものが沢山あって、けれども9歳のあの頃から身軽に生きることなど許されなかった。
その代わりに得た掛け替えのない愛すべき存在を手の中に収めたまま、
秀幸は同時にその自由さに憧れてしまった。
秀幸が警察を辞めたのは、香が高校1年生の時だった。







香は己が槇村家の養女であることを既に知っているようだ。
秀幸がそのことに気付いたのは、香が高校に入学して少し経った頃だった。
それでもその話題を口にすることは、これまで無かった。
2人とも意図的に避けてきたと、今にしてみれば秀幸はそう思う。
2人とも頑張ってきた。頑張って幼い力で、形の無い家族をいちから作り上げたのだ。
血の繋がりなど関係なかった。
それでももうすぐ20歳になる妹に、兄として本当のことを告げなければいけないと秀幸は考えている。
香には自分の人生と向き合う権利があるのだ。
香は賢い子だから、きっと本当のことを聞かされても笑い飛ばして現実を生きるだろう。
それでもこの役目だけは、いつかの父親にやって欲しかった。
優しく微笑んで秀幸の頭を撫でた父親に。

秀幸はただただ、愛する妹に幸せになって欲しいだけだ。
殺伐とした恐ろしい世の中の醜悪なものに触れることなく、明るい世界だけに触れて生きていて欲しい。
自分と相方の暗躍する世界など知らぬまま、妹に悪いことが忍び寄ることのないように。
秀幸が憂慮するのは妹に害が及ぶこと。
けれど秀幸はこの目の前の相棒に、全幅の信頼を寄せている。
この男の凄さはこれまで充分に目の当たりにしてきた。
きっと大丈夫だ、自分と相棒ならば。



「馬鹿いうな、お前には解らないよ。撩。」


そんな訳はない。
これはあくまでも、家族としての愛情なのだ。
あの子を父親が連れて帰って来た時から、あの子を守ると心に決めたのだ。
惚れてるなんて、そんな次元の話ではないんだ。
あの子が、香が20歳になったら笑ってこの指輪を渡しながら、一緒に酒を飲むんだ。
平和で温かな槇村家で。


それは秀幸が依頼人の待つシルキィクラブという店に出向く前の、相棒との短いやりとりだった。
秀幸が29歳で、香はもうすぐはたちになる。
雨が静かに降り始めていた。








2.追想

3月31日、夕方。昼間には晴天だった空模様は、
次第に真っ黒で不気味な雲が垂れ込め今にも降ってきそうな気配がした。
相棒にその話を聞かされた時、撩は素知らぬふりで初めて聞く話のように振舞ったけれど知っていた。
今日が相棒の妹の20歳の誕生日で、6日前に3年振りに再会した彼女は確かにあの頃よりも大人びていた。








おにいさん、何してる人?


撩はあの時そう言って、槇村秀幸に初めて声を掛けた。
その少し前から、撩の行動範囲内をちらつくその男に少しだけ興味が沸いたのがきっかけだった。
幾つかある内の撩の行きつけの店のカウンターに彼の顔を見付けて、撩は声を掛けたのだ。
独特の雰囲気を纏っていた。
普通の勤め人には見えなかったし、
どこか自分と同じ匂いを漂わせているようでけれど暗い所は微塵も無かった。単純に不思議に思えた。
この多少平和ボケしている感の否めない大都会の真ん中で、
自分は特殊で異様な存在である自覚くらいは撩にもあったけど、彼もそれと同じくらい異質に思えた。
彼の場合、一見するとその人波に紛れて凡庸に映るからこそ、撩には尚一層異質に見えた。
いつの間にか居ついた新宿の街で、自分が懇意にしている情報屋と彼が親しげに話しているのを見て、
撩は確信を持った。彼は恐らく同じ種類の人間だと。



何に見える?



槇村秀幸は簡単には素性を明かさなかった。
それから何度も同じ店で顔を合わせるようになり、
会えば数杯のバーボンを一緒に飲んで、彼は顔色一つ変えずに日付が変わる前には帰って行った。
帰る場所があるのだろうと、撩は皆まで訊かずとも理解した。







3月26日、彼女と2度目に会ったあの日。
撩の通報で冴子たち警視庁の連中がブティックの店内を調べているのをよそに、
槇村は撩と香を目の前にして驚きながらも呆れていた。
確かに数日間家を空けて兄に心配を掛けていた彼女を、
依頼の合間に探してくれと撩に頼んだのは槇村本人だけれども。
まさか下着姿の妹が相棒のジャケットを羽織って、
この数週間に亘って目星を付けていた例のブティックにいるなんて槇村の想像の域を遥かに超えていた。
香を囮に使った撩は相棒に大目玉を喰らったし、家出娘は兄にこっぴどく叱られた。
互いに何となくはその存在に気が付いていても、
あえて触れずにやってきたこの数年間が何だったのかというくらい、あっさりと3人はその場にいた。
まるでずっと前から良く知っている間柄のような雰囲気で。








今日はまたずいぶん酔ってるな。


撩が声を掛けると、槇村は今にも眠りこけそうな眼をしてグラスに残ったバーボンを飲み干した。
初めて撩が槇村に声を掛け、一緒に酒を飲むようになってから3~4ヶ月が経った頃、
珍しく正体を無くすほどに酔った槇村がその店にいた。
日付はとうに変わり、いつもの彼ならばとっくに店を出ている時間だった。
撩は面倒事が嫌いだが、カウンターに突っ伏して潰れたそこそこ上背のある男に、
閉店の片付けが出来ない店主はほとほと困っていた。
情報屋でもあり顔馴染みでもある店主の為に、撩はその酔っ払いを持ち帰ることにしたのだ。



ほら、水だよ。飲みな。


遠くて近いような男の声と、固い床に横たわった感触。
頭のすぐそばに水道水で満たされたロックグラスが置かれる音。
槇村が意識を取り戻したのは、馴染みのバーでもなく公団の自室の畳の上でもなく、
コンクリート打ちっぱなしの酷く味気ない部屋だった。
顔見知りだがいまいち素性の怪しい男が、
簡素な椅子の背凭れに頬杖をついてニヤニヤしながら槇村を観察していた。そこで漸く正気に戻った。
槇村は慌てて上体を起こし、己のトレンチコートのポケットを弄った。



探し物はこれかなぁ?



撩は楽しそうに笑いながら、少しだけ草臥れた警察手帳とずっしりと持ち重りのする手錠を揺らして見せた。
槇村は苦笑すると、床の上に置かれたグラスに手を伸ばし遠慮なく水を飲んだ。



槇ちゃんって、刑事さんだったんだ。



そう言って撩は笑った。
本当ならば、酔い潰れて手帳と手錠をかくもあっさりと市民の手に委ねるなどということは、
あってはならないことだけど、その日の槇村にとってはそれは至極どうでもいいことのように思えた。
後輩の婦人警官が殉職した。
彼女は自ら志願して人身売買組織への潜入捜査の囮となることを願い出た。
あの時に先輩として止めておくべきだったと、今更悔やんでもどうしようもない。
彼女が囮だと感付いた組織は彼女を見せしめに殺し、それ以降の足取りはぷっつりと途切れてしまった。



酔い潰れてこんな所に連れ込まれてしまう、ポンコツ刑事さ。


モチベーションはダダ下がりだった。
大事な仕事仲間を喪い、捜査は暗礁に乗り上げた。
素性の知れない男にお持ち帰りされて、自分の帰りを待って茶の間で眠りこけているだろう妹を想う。
とっくに日付は変わっている、酒の臭いをさせて午前様で帰るなど最悪だ、と槇村は思わず笑ってしまった。








俺と妹には、香には血の繋がりがないんだ。



表情の読めない顔で槇村がそう言った。
遠くで小さく雷の音がゴロゴロいっている。まだ雫は落ちて無いものの、春の空気は湿り気を孕んでいる。
生温い風が頬を撫ぜる。
撩はとうの昔に、その話を知っていた。
3年前に、当事者である槇村香の口から聞かされた。
けれどそれが何だというのだろうと、正直撩はそう思う。
槇村秀幸という男に出会い、コンビで働き、数年間そばで彼を見てきた。
彼がどれだけ妹を大切に思っているかなんて、撩は誰よりもわかっている。
戸籍のない透明人間みたいな殺し屋だってすぐ目の前にいるのだ、
少なくとも彼らには法的に正式な家族関係があり、20年間の彼らの歴史の積み重ねと絆がある。
槇村秀幸は妹の香を愛しているし、香も兄を愛している。
それ以外、必要なものなど無いだろう、と撩は思う。
それが家族としての愛だろうがそれ以外だろうが、撩にとってはその違いは些細なことのように思える。










酔い潰れて朝帰りをした槇村が、それでもなんとか次の事件に向き合えたのは諦めなかったからだ。
その時点では一旦、事件は暗礁に乗り上げたけれど地道に捜査を続けて、
いつか大事な後輩を無残に殺した奴らを、 同じ目に遭わせて 殺してやる。
そう考える自分はきっと、警察官という枠から少しづつ逸脱し始めていたのだろうと、槇村は後に思い返した。
きっとターニングポイントはあの時だった。
殺風景な撩の部屋で酔いから醒めて正気に戻ったと思っていたけれど、
実は狂気が芽生えていたのかもしれない。

次に追いかけていた犯人は薬の売人だった。
よくわからない怪しい薬が出回り始めていた。
まだまだ詳しい実態は警察にも把握できていないが、
強力な副作用と禁断症状は命も脅かすほどのものらしい。




奇遇だね、槇ちゃん。



歌舞伎町の奥の奥、野良ネコとドブネズミくらいしかいないような薄暗い路地裏に撩がいた。
咥え煙草で飄々とした言葉とは裏腹に、足元には骸が転がっていた。
それまで槇村が追っていた薬の売人だった。


そっちのホシとこっちの獲物、同一人物だったらしいよ。


これ適当に始末しといて?と言って、撩は懐から茶封筒を取り出すと槇村に渡してその場を去った。
擦れ違った撩のジャケットからは、硝煙の匂いがした。
意識したとたん、辺り一面に濃密な血の臭いが立ち込めているのに気が付いたけど、
その時にはもう撩はいなかった。
その後のことはまるで夢でもみているかのようだった。
撩に渡された封筒の中身は、警察もまだ把握していなかった売人に関する背後関係をまとめた資料だった。
何故だか冴羽撩に関することは、伏せておいたほうが良いような気がして槇村は口を噤んだ。
あくまでも己が発見した時には、すでにあの状態で売人が死んでいたことにした。
封筒は証拠資料として提出した。
出所は歌舞伎町の信用のおける情報筋からのものとしても、それ以上追及されることなどない。
刑事それぞれに信用のおける情報屋と呼ばれる人間が存在し、
聞き込みの際の重要な戦力になっていることなど、暗黙のルールだ。

そんなことがあった数日後、槇村は公安部に呼び出された。
何も理由は聞かされず、ただ例の薬物事犯に関しては今後、公安部が取り仕切ると告げられた。
そして一枚のメモを手渡された。とある住所の書かれたそのメモの場所に独りで訪ねるよう勧められた。
勧められるというよりも、半ば命令のようなものだった。







香の母親が香の為に買ったというその指輪を眺めながら、槇村は苦しげに眉根を寄せた。
この世の何処かに、香と血の繋がった本当の母親と姉が存在するらしい。
子どもの頃に父親にそう聞かされて以来、槇村が心配してきたのはそのことだった。
いつか本当の家族が香を取り戻しに来たら。
可愛い妹を奪うのが誰であれ、それが本当の血の繋がった母と姉であれ、槇村は渡したくはない。


これはおかしいことかな?撩。香がもしも望めば、香を帰すしかないんだろうか?


だとすれば、黙っておく訳にはいかないだろうか、離れたくない、あの子と離れるなんて俺は・・・
そう言って暗い顔をして俯く相棒の表情は、今まで撩が見たことのないものだった。
家族愛なのか男女の愛なのかなんて撩には解からない。
そもそも家族なんて、撩にはいたことがない。




要するに槇ちゃんは惚れてんだよ、妹に


馬鹿いうな、お前には解らないよ。撩。




確かに撩には解からない。
何が正解かなんて解かっていたならば今頃、
こんな世界の片隅で小汚い奴らを始末してまわる掃除屋なんかやってない。
でも良いじゃないかと思ったのだ。
別に兄妹でも愛おしくて互いが大切で、掛け替えのないものを沢山抱えて生きていけるのなら。
撩からすればそれは、眩しくてとても幸せそうなことに思えた。
そして槇村の大切なものを、撩も相棒として遠くからでも護ってやれればそれで良い。










槇村がメモを頼りに訪ねた先は、立派な日本家屋のお屋敷だった。
そこには優しそうな老人が住んでいて、けれどどうやら彼は只者ではない人物らしい、
ということだけはわかった。
槇村を応接間に通すと、老人はニッコリと微笑んで思いもかけない言葉を発した。



新宿におる大きなねずみみたいな男と仲良くしてくれてるらしいの。



それが誰のことを示すのか槇村にとって心当たりは、冴羽撩だけだ。
彼から渡された謎の資料が絡んでいることくらい、もうこの辺りで槇村も気が付いていた。
きっとこの老人は警察の人間では無いだろうけど、公安部とはなんらか関わりのある人物なのだろう。



それは冴羽撩のことですか?

ふぉふぉふぉ、ああ見えて友達がおらんからのぉベビーフェイスは。仲良くしてやってくれ。



老人はまるで孫の心配でもするかのように、優しげに笑った。
槇村には、その老人の素性も撩という男の素性も、何もかも解からないことだらけだったけれど、
この出来事のすぐ後に警察を辞めた。











槇ちゃん

ん?

やっぱ俺が行こうか?シルキィクラブ

いや、依頼人との折衝は俺の担当だ

まぁそうだけど

それより撩、おまえは遅れずに家に来い 香が待ってる

やっと酒が飲めるな、妹と

ああ

雨降りそうだから気を付けて





撩がそう言うと、槇村は背中越しに手を振った。
あんなに妹と相棒を引き合わせることを躊躇っていた槇村は、
意外にもあっさりと撩を槇村家の団欒に招いてくれた。
家族のいる温かさに撩が触れようとした時に、それはいつも訪れる。
そのことにもっと早くに気付けていたらと、
後に撩は何年も後悔することになるのだけれど、この時はまだ幸せだった。