シンボル

はい、撩のぶん。



そう言って相棒は当然のようにローテーブルのガラスの天板に湯気の立ったマグカップを置いた。
毎食後、それは欠かさず提供される。いつからともなく習慣と化した食後のコーヒータイムだ。
ソファに寝転んだ撩のリアクションは別にどうでも良いらしい。
撩には一瞥もくれずにテーブルを挟んだ向かい側の床に直に座り込んだ。
自分のそばにも色違いで揃いのマグカップを置いて、この数日読み耽っている本を開いた。
ベランダで出来る家庭菜園の指南書だ。
日頃の節約は半分は趣味で、自給自足をする領域にまで足を踏み入れようとしているらしい。


ずっと昔はインスタントだった。撩がまだ独りでこのアパートに居た頃にインスタントを使っていたからだ。
初めの頃こそ香は、そういう撩のそれまでの生活に配慮して合わせてくれていたけれど、
いつだったかそのコーヒーにはこだわりがあるのかと訊かれた。
別に撩としては何でも良かったのだ、インスタントは手軽だから使っていただけで、その通りを香に告げると、
香は、そうなんだ早く訊いとけば良かった、と苦笑した。
そして気が付けば、香は食後にコーヒーの豆を丁寧にミルで挽くようになった。
曰く、槇村家ではいつもそうしていたらしい。
そして更に、同業者で腐れ縁の悪友が近所で嫁と喫茶店など開業してからは、豆にまでこだわるようになった。
どうせ毎日飲むのなら、格安で分けるわよ?と女主人が提案したからだ。
お陰で撩は毎食後、以前とは比べ物にならない程の旨いコーヒーにありついている。

それにしてもと心の中だけで呟きながら、ソファに寝そべっていた撩はノソノソと起き上がる。
香のよりも一回り大きめ(ペアカップの♂用だ)のカップに口を付けて、顔の下半分を良い塩梅に隠してみる。
けしからん。
その言葉も心の中だけで、撩はぼやいた。
撩になど目もくれずベランダ菜園の世界に夢中な香は、撩の目線より一段下に座っている。
きっともうすぐ来たる初夏の良き日に蒔くべく種として、どの野菜がより適しているのかを吟味しているらしい。
そんなことは撩にはどうでもいいことだ。
どうでも良くないのは、本に向けられた俯き気味の彼女の視線と長い睫毛が白い頬に落とす影と、
胸元から覗く意外にも豊かな胸の膨らみとそれに伴う谷間の陰影だ。

最近の部屋着とやらはけしからん。
否、嫌いではない。むしろ好きだと撩は思うけども。
香の大好きな某アパレル量販店では、
カップ付きのタンクトップやらキャミソールやらが部屋着やインナーとして人気らしい。
幾ら春とはいえ、まだまだ肌寒い夜もあったりするこの季節に。
撩の可愛い相棒は、家の中だということに安心しきって露出度全開で撩を困惑させる。
むしろ、撩は好きだ。好きなのだけど、相手が香だという状況下にあってそれは。
ただの蛇の生殺しであり、撩にとっては拷問に等しい。
香は多分、撩がただ大人しく目の前でコーヒーを啜りながら脱力していると思っているのだと推測できる。
人は誰しも他人の思考や願望や劣情や愛情や妄想などを推し量ることなど出来ない。
表面的な視覚情報だけで判ることに、撩の本心を垣間見ることは特に難しいのだ、普段から。



























っちょ  ゃめ    って  りょ   ぉお





そう言って熱い息を吐く香の唇を覆うように塞ぐと、苦しそうに咽喉の奥からくぐもった嬌声が漏れる。
喘ぎごと飲み込みながら撩は香の甘い唾液を啜る。
左手は鳥肌の浮かぶ背中を背骨に沿って触れるか触れないかの微妙なタッチで撫ぜる。
右手は露出多めの部屋着に差し入れて、無警戒なノーブラの胸を揉みしだく。
敏感な先端は固く尖り、本人の意思とは裏腹に主張を展開し始める。
慣れない刺激に小さく縮こまった舌を強く吸いあげると、香の眦に涙の玉が浮かぶ。
頬は突然のことに上気し真っ赤に染まっている。
二の腕は粟立ち、辛うじてこの状況に遺憾の意を示す爪だけが撩の肩口に喰い込み抗議している。
比較的自由に動かせる香の両下肢の攻撃をいなしながら、撩はジーンズの腰をぐいと香の足の間に割り込ます。その時はじめて、撩は己の欲望が痛いほどに漲って、ジーンズの下で張り詰めていることに気付く。





























・・・ぉ? りょおってば、大丈夫?

あ?  ぁあ、うん。

変なの。



撩がふと我に返った時、すぐ目の前に香がいた。
へんだよ、りょお。と言いながら、笑う顔は先程の妄想の中の彼女とは同一とは思えないほどに無邪気だ。
本に熱中していたとばかり思っていた相方は、いつの間にかコーヒーを飲み終え2杯目を淹れに行くところで、
ついでにお替わりを飲むかと撩は訊かれているらしい。




いや、ちょっと飲みに行ってくるわ。



今夜はそのつもりではなかったけれど、急遽、予定変更した。
いつも大人しく己の欲望を封じている男には、ガス抜きが必要なのだ。
この数年恒例となっている歌舞伎町での彼の馬鹿騒ぎは、
たった今しがた脳内を占めていたような妄想を払拭する為の、いわば儀式のようなものだ。
そんな男の気も知らないで、煩悩の根源たる天真爛漫な女は、
あからさまに不機嫌そうに鼻の頭に皺を寄せて、唇を尖らせる。
一度鎮火した導火線にもう一度火が点きそうな予感がして、撩は思わず目を逸らした。
直視できないから目を逸らして軽口を叩く。



そーいえば、桃ちゃんからボトル入れてって頼まれてたのぉ。リョウちゃんってば(むふ)

はあ゛ぁ? こないだツケ全部払ったばっかなんだぞっっ こんのクソモッコリがぁっ



撩は可愛い相方の怒声を背中に浴びながら、リビングを後にした。
仕方がないのだ。
何年間、俺が我慢していると思っているのだと、またしても撩は胸の中だけで愚痴る。
ああやって怒り散らしても最終的には。
へべれけに飲んだくれて帰ってきて昼近くにごそごそと起き出す男に、
朝食と挽き立ての旨いコーヒーを出す女だ。
最近、煙草の量が増えたわよ、
なんて言いながらビタミン補給の為にグレープフルーツを絞ったりして、撩を甘やかす。

殺し屋の私生活としては些か甘すぎる現実には、苦くて酸っぱいグレープフルーツがちょうどいい。







ゆらゆら帝国「グレープフルーツちょうだい」
という曲をイメージして書きました。
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[ 2019/03/17 23:24 ] 短いお話 | TB(0) | CM(1)

5.手を伸ばせば

港の見える公園
クルーズ船で夜景を眺めながらのディナー



昼下がりの情報番組で紹介されていたのは、東京およびその近郊の人気のデートスポット特集だった。
香は家計簿をつけながら自分とは無関係のそのような情報を流し聞きしていたし、
撩も特に気にも留めずにソファに寝転んで趣味の読書に勤しんでいた。
幾つか紹介されているデートスポットは、殆ど定番ともいえる場所ばかりで特にこれといって目新しいものはない。
だから2人が思わず手を止めて、それぞれに想いを馳せたのは4番目にその場所が取り上げられた時だった。
昼間は昼間で一帯の観光スポットや中華街と合わせて楽しめるけれど、その本当の魅力は夜だという。
東京湾を取り囲む街の灯りはまるで星々を散りばめた宝石箱のようで、デートの雰囲気を盛り上げるのに一役買っている。

その公園の名前を聴いて、香の手は止まった。
それまで電卓を叩きながら数字と睨めっこしていた香の気配が変わったことと、
テレビからの情報が無関係で無いことは撩にもすぐにわかった。
他でも無い撩自身でさえ手にした愛読書には集中出来ず、思わず過去の出来事に引き戻されそうになったのだ。
多分、互いに思い出している出来事は、同じだ。
あの時までの撩は、自分の気持ちに向き合う事を避け続け、
心の中に無意味な言い訳をやまほど並べて精神のバランスを保っていた。
本当は初めて逢った日からずっと、彼女に恋焦がれていたことを認める訳にはいかなかったからだ。
ただでさえ自分のせいで警察官としての兄を奪い、その数年後にはその兄自身すら彼女から奪った。
転がり込んできた彼女から普通の女としての幸せを奪い、彼女の想いに気が付いていながら知らない振りをした。
その全てが己の背負った業に因るものだと撩は考えていたから、彼女の気持ちに対する返事など持ち合わせていなかった。
答えを出すことは、撩にとっては己の罪に対する責任を放棄するのに等しいと思っていた。
香を特別な感情で見ることを、意識的に避けてきた。
あの夜を仕組んだのは、お節介で悪戯好きな香の親友だった。
短い依頼の間に、彼女は撩と香の微妙な関係に感づきお膳立てを企てたのだ。
互いに普段は縁の無いような高級な衣服に身を包み、香は化粧を施しウィッグまで着けてまるで別人だったけど、
決して別人ではなかった。
それは撩が見ない振りで避けてきた現実を突き付けられただけのことだ。

槇村香は美しい。

知っていた、けれど知らないことにしていた不都合な事実だった。
待ち合わせのバーのカウンターで、種明かしをしていつも通り口の悪い男を演じて茶化すことも出来たのに、
何故だか撩は出来なかった。
抗えなかった。
それは撩が、それまで強固に戒めてきた己の中の決まりごとを破ってしまったはじめだったのかもしれない。
このまま巧く化けた彼女に気付かない振りをして、デートを楽しみたいという気持ちに抗えなかった。
香がどう出るのか、それを愉しむ気持ちも少しだけあった。





香はそれまで気にも留めていなかったテレビの情報が、
あの夜デートしたあの場所だと気が付いて、心がざわめくのを感じた。
あの頃はまだ、自分の気持ちに蓋をしていた。
知られたら、想いを告げたら、それは撩との関係が終わることを意味していると思っていた。
あの夜から数年経った今、撩とは仕事以外のパートナーでもある。
もう気持ちに蓋をする必要も無いし、
あの頃、頑なに考えていた様々な悩みは今では思い出せない位に些細なことに変わった。
結論から言えば、関係が進展しても2人が終わることはなかった。
今がどんなに幸せで撩に愛されている実感を得ていても、あの夜を思い出した瞬間に香の胸は一瞬で張り裂けそうになった。

忘れかけていた筈のあの頃は、まだ香の胸の中でちゃんと息をしていて強く香の心臓を握り潰す。
今にして思えば、あのバーのカウンターでナンパ男を追い払った撩にいつもの調子で軽口を叩いても良かったのだ。
それでも香はそうしなかった。
少し良い服を纏っただけで、普段し慣れない化粧をしただけで、
毎日顔を突き合わせている自分に気が付かない相棒を、どこまで騙せるか好奇心があった。
少しだけ、自分以外の女性と遊ぶ普段の撩が見てみたくなったのと、
そういう女性たちの立場になってみてどういう気分がするものか、味わってみたかった。
結果、香には苦い思い出としてあの晩のことが残っている。
優しい言葉も眼差しも、それは自分以外の誰かに向けられたものだと思うと、嬉しさより虚しさが募った。
心の奥底で求めてやまない口説き文句も愛情も、自分に向けられていないのならばそれは無いのと同じだ。
はじめは楽しかったデートも、途中その事実に気が付いた後は胸が痛むだけだった。
自分がいつもの自分だったなら向けられることも無かった筈の言葉を貰っても持て余す。
あの晩の唯一の救いは、なんとか苦しい言い逃れで独り現実へと帰って来れたことだった。
撩よりも先に家に帰りつき、メイクを落として変装を解いた。
香が憧れているロングヘアーも、まるで自分ではない誰かを見るようで心が痛んだ。
撩が帰るまでにいつもの自分に戻っておきたくて、急いでシャワーも浴びた。
それがあの夜の全てだ。
香はあの夜に一度、撩への恋心を封印する決意を固めた。

それから今に至る間に、紆余曲折を経て香は撩を愛している。
彼が原因のストレスも沢山あるけれど、喧嘩をしたり仲直りしたり笑ったり泣いたりして普通に暮らしている。
沢山泣いた片思いの日々を忘れかけていると思っていたけれど、
記憶は簡単にあの頃の胸の痛みまで生々しく思い起こさせた。

あの夜のことをこれまで、互いに話題にしたことがなかったことに昼下がりのリビングで2人は気が付いた。










あの夜さ、



先に口を開いたのは撩だった。
あの夜がどの夜か、香にだってわかっている。
撩が次の言葉を紡ぐ前に、香が言葉を継いだ。



アタシね、あの夜自分のことがすごく嫌になってね。撩に恋するのもうやめようと思ったんだ。



そう言った香は、懐かしそうに目を細めて微笑んだ。
笑いながら目の縁に、薄く涙が滲んでいるのを撩は見逃さなかった。
無意識にソファから降りて香に近付くと、頬に落ちた雫を指で拭った。



でも気持ちを無かったことにするのって無理でしょ?だから意地でも撩の傍に居座って良かった。



ニカッと大きく口を開けて笑いながらそう言った香は、もう泣いてはいなかった。
照れ臭そうに笑うけど、気持ちを隠すことはしない。
撩の胸に凭れて甘えることも出来るようになったから、2人とも孤独ではない。
香の柔らかな癖毛に顔を埋めて、撩はあれから言えなかった本当の気持ちを言える気がした。




あの夜、ほんとに好きだと思ったんだ。おまえのこと。




今思えば、あの夜が境目だった。
あの時まで撩はまだ心の何処かで、いつか香と離れる未来も思い描いていた。
けれど実際には、もう引き返せない所まで来てしまっていたことに気が付いてしまった夜だった。
今度の3月23日、数年後のあの日にもう一度あのデートのやり直しをしようと、撩は思った。














都会のシンデレラの続きを妄想。