3.わからない事だらけ

撩の視線は数枚のレポート用紙の上を走っている。
夏の午後の新宿中央公園は、遠くに陽炎が浮かぶほど熱気が渦巻いている。
夏の盛りのド平日、一番暑い時間帯の炎天下のベンチに座っているような閑人はそう多くない。
今のところ、冴羽撩ぐらいだ。
しかし、微妙な距離を置いた木陰に、関係者がもう一人居る。
その数枚のレポート用紙を持参した張本人、野上冴子だ。
紫外線が気になる彼女にとっては、撩の座るベンチは些か陽当たりが良すぎる。


こうして冴子経由でもたらされる依頼のことを、彼女はまだ知らない。
撩が教えないからだ。
撩が言わない限り、冴子も撩の判断に委ねている。
自分のねぐらに、仔猫のような彼女が居座ってから、撩にはわからない事が増えた。
撩は紙の上から一瞬だけ視線を上げると、冴子を眺める。
少し離れた日陰で撩に背を向けて、携帯電話を使っている。
ああ見えて忙しい身の上であろう彼女は、部下だか同僚だかに電話越しに指示を与えながら、
美しい人差し指と中指の間に細いメンソールの煙草を挟んで、時折燻らす。
冴子は美しい女だけれど、いつも少しだけ何かに苛ついている。

いつでも追い出せると思っていた。
手頃な賃貸物件を見繕ってやって、ついでに仕事も見つけてやって、
餞別代わりに纏まった額の預金通帳を渡す。
たったこれだけの手配なら、数日もあれば容易い事だ。
実際、そうするつもりだった。
槇村秀幸ならばきっと、可愛い妹を溺愛するのと同時に、この世界には絶対に近付けなかっただろうから。
そして、その気持ちが撩にはよく理解できるから。
だから撩には、たとえ嘘でも良いから香を自分から遠ざける為の理由が必要だった。
思い立ち、心を決めさえすれば、2~3日もあれば済むことを。
撩はもう2年も先延ばしにして、気が付くと香と暮らしている。


危ない事が起こる度、彼女の新しい住まいを見つけなければと考え、
後ろ暗い殺し屋本来の仕事を片付ける度、彼女に相応しい仕事をと考える。
けれど、彼女の佇まいに似た健全な朝を(彼女の手荒なモーニングコールによって)迎える度に、
どうでも良いかも、とうやむやにしたくなる。
真剣な表情で、次は上手くやるね、なんて反省する半人前の彼女を前にして。
無情にも次は無いのだなんて、撩は言えなくなってしまう。
昔はもっと違った。
こんな風に感情に基づいた行いは、自分自身はおろか周囲のものまで破滅させてしまう事をちゃんとわかっていた。
この世で最も敬愛していた男に教えて貰った。
その言葉を鵜呑みにして、己の身体を差し出して、
撩が得たものは人生で最も手酷い裏切りと、死よりも辛い麻薬の禁断症状だった。
だから、たとえそれが取るに足らない、ちっぽけな仔猫みたいな小娘だったとしても、
感情に流される愚かさというものを、決して忘れてはいけないと頭ではわかっている筈なのに。
何故だか槇村香という女には、不思議な性質が備わっているらしく。
そのまあるい瞳でじっと見られると、撩の脳内の優先順位は簡単に感情を選びとる。


彼女は、明日という日が必ずやって来ると信じている。
彼女は、撩という薄汚れたただの殺し屋を盲目的に信じている。
真っ直ぐに馬鹿正直にそんな信頼を寄せられても、どうすれば良いのかなんて撩にはわからない。






手元の資料に集中していると思っていた撩が、何やらぼんやりとしているのを見て冴子は溜め息を洩らす。
暑さのせいか部下は些細な失敗を重ねるし、抱えている案件はどれも停滞気味だ。
その腕前を認めざるを得ない凄腕の殺し屋でさえこの有り様だし、撩がこんな風に考え込んでいるのはきっと。
彼女のことだろうと、冴子は推測する。
冴子にとって彼女は、少しだけ特殊な存在だ。
まだ会ったことも無いうちから、冴子は彼女を知っていた。
好きな男の最愛の家族として。
結局、槇村本人から香を紹介されるようなことは無かった訳だけど、
槇村の死後、皮肉にも撩の相方として彼女を知ることとなった。
撩が自覚しているのかどうかは別として、今のところ彼女は周囲の人間に撩の相方として着実に認知されつつある。




依頼の情報に集中してくれないかしら?撩。




そう言って、取り留めの無い思考の渦を断ち切った雌豹の声に、撩は我に返る。
どうやら、職場内での軽い揉め事はひとまず落ち着いたらしく、冴子の手には携帯電話も煙草もない。
冴子は自分の声音に、若干の苛立ちが含まれるのを自覚する。
それは結局のところ、些細な嫉妬なのだと可笑しな気持ちになる。
槇村秀幸とこの目の前の男と、ある時期には彼らは冴子にとって特別な存在だった。
けれど彼らの何より特別な存在は今も昔も、自分ではなくずっと同じ茶色の癖毛の彼女なのだ。
確かに彼女はとても魅力的だ。
けれど、この世界には似つかわしくない。
本業である殺しの仕事を彼女に打ち明けない撩に、そしてそんな撩の本来の姿を知る自分に、
冴子は気持ちの何処かで、少しだけ安堵している。優越感と言い換えても良いかもしれない。
たとえそれがくだらない妬みの気持ちの現れだとしても、
仕事の上では彼女よりむしろ、自分の方が彼らの役に立てていると自負している。






集中してますよ、警部補殿。




おどけた口振りで茶化す撩に、冴子は肩を竦める。
それでも解っている。
どんなに仕事の片腕として、彼ら(秀幸はもうこの世には居ないけれど)の信頼を得ても。
冴子自身が本当に求めていることは、そういうものでは無いということを。
冴子はきっと、秀幸に形振り構わず自分を求めて欲しかったのだと思う、今ではもうそれも叶わぬ夢となった。






で?急ぎ?

えぇ、なるだけ早いに越したことは無いわ。遣り方は、貴方に任せるわ。

りょーかい。






それで、本題なんだけどさ。





それまでと全く顔色も変えずに、男はその話を切り出した。
冴子は内心、また始まったか。と、彼の様式美に呆れを通り越して感嘆する。









報酬のもっこりはいつにする?今日これからでも、りょうちゃん的には全然OKなんだけどぉ、ぐふふ。

絶対にイヤ。





どうしたらここまで緩むのかと、疑問に思うほど厭らしい顔をした男に冴子は短く拒絶の意を伝える。






しょーがねーなー、貯まってるぞぉ。もっこり残高♪

あら、この間の事後処理で、その件は一旦チャラになったはずよ?

えええ、そうだっけ?初耳ぃぃ。





都合の悪いことは無かったことにする調子のいい殺し屋に、冴子は苦笑する。
彼にとって本当に都合の悪いこととは多分、冴子が誘いに応じることだろう。
最終的には、男女の仲などになり得ないからこそ、撩はこうして軽口を叩くのだ。






ホントはそんなこと思ってもないくせに、誘うのね。

そんなこと無いぜぇ、落とせない女ほど燃えるの俺。






それならば、と冴子は思う。
撩が一番燃えている相手は、やはり香に違いない。
彼女が撩を憎からず想っていることは、疑いを差し挟む余地もない。
恐らくは、撩の方も彼女に惚れている。
周囲から見れば、単純明快で一目瞭然な二人の距離は何故だか縮まらない。
落とせないどころか、落とさないこと自体を楽しむように、撩は香を可愛がっている。
もしかすると、それは当人たちにしてみれば楽しむどころではなく、
激しい葛藤と狂おしい感情の狭間で思い悩む日々かもしれないけれど。
それすらも愛おしい日々なのだということに、いつかは撩と香も気が付く日が来るだろう。
そう思うことは、冴子を深い孤独感に苛む。
冴子が想いの丈をぶつけた男は、春の嵐の日にあっさりと死んでしまった。
人生とは、本当に儘ならない。













撩が冴子との手短な打ち合わせを終え、その案件に纏わる情報を軽く仕入れて回ると、
夏の夕暮れの空に小さく一番星が瞬く時間になっていた。
昼間の暑さとは違い、暑さの中に湿度を孕み、撩のジャケットの襟元に汗の染みを作る。
家中に立ち込める夕餉の匂いを期待して帰った自宅リビングには、期待したものは無かった。
その代わりにあったのは想定外の光景だった。


リビングのフロアに丸くなって眠る相棒は、
気に入りの大きめのクッションを枕にして、健やかな寝息を立てている。
恐らくは昼間から開け放したままの掃き出し窓から入る緩やかな風が、レースのカーテンを小さく揺らす。
彼女の傍には、飲みかけた麦茶の入ったグラスが無防備に置かれ、
寝返りでも打てばひっくり返しそうな状況は、辛うじて現状を維持している。
時刻はとうに19時を回り、部屋の中は仄暗い。
撩は仕方がないから、空腹を我慢して彼女を観察することにした。
彼女の小さな頭のすぐ傍に胡座をかいて煙草に火を点けると、彼女が眉根を寄せる。
撩にはわからない。
彼女を何処か安全な世界へと連れていってやらなければいけないと思いながら、出来ないでいる。
至極簡単なはずの事が、撩を逡巡させる。

撩が2本目の煙草に火を点けたところで、香が起きた。
寝惚けた香と腹ペコの撩の視線が絡まる。






···ゃばい。寝てた。

そうみたいだな。





その時、香は転た寝をする前の考え事を思い出した。
思い出して、当の想い人が目の前に突然現れたことに赤面する。






ところで、香。

ん?

晩飯は?

ない。





薄暗い部屋で、無言で向き合う二人の間に、撩の腹の虫が盛大に空腹を告げる。






しゃあねぇな。行くぞ。

え?

ラーメン、喰いに行くぞ。



思考がついていかない、なんなら未だ寝惚けている香は首を傾げて撩を見上げる。






行かないの?

行く!





慌てて首をブンブン振りながら立ち上がる香に背を向けて歩き出した撩の口角が、綺麗に弧を描く。
自覚はない。
けれど、一緒に食事を摂るという単純な喜びを、二人はいつでも無意識に選び取っている。







前回の続きです。
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[ 2016/09/23 22:04 ] 初恋10のお題 | TB(0) | CM(1)