④ redo(最終話)

ずっと途中だったお話しの続きです(汗)








あ、夜が明けて来た。






香がそう言ってソファを立ち上がったから、撩もつられてベランダに続く掃出し窓を見遣る。
まだ外は薄暗く、それでも暖色系の日差しの兆しが混ざった色になる。
春の初めの明け方は肌寒いけれど、ビルの隙間から太陽の隅っこが顔を出した途端に空気が変わる。
色が変わったら温度が変わる、温度が変わって世界が生き返る。
香はリビングの照明を消して、レースのカーテンを開ける。
刻一刻と色を変える窓の外が、部屋の中よりも明度を増す。
珈琲の薫りが変わったように感じる。
しょうもない事で笑っていた筈の香の横顔には、無意識に本当の笑みが広がる。
ちょっと寒いかも、と言いながらそれでも香はサッシを開けて風を入れる。
少しだけ冷たい空気がリビングの生温い空気を新しいものに変える。


取り消して、また取り消す。
心模様はその繰り返しだ。


撩には確たる言葉が使えない。
確たる未来を語る事など出来ない。
約束なんて出来ない。
言葉は誰かを縛り付けてしまう枷になる。
かつて何度も、撩はその事を経験してきた。
何かを所有してしまう事は、何かを喪う事に怯える始まりになる。
良かれと思った言葉が、この世で最後の酷い裏切りになる事もある。
だから何度も心に描いた願望を取り消して、それでも完全に拭い去る事が出来ずに、
取り消した事を取り消した。
何度も上書きされた撩の心に降り注ぐその感情が何なのか、その点は今の所深く考えないようにしている。
幸い彼女は一見口煩いように見えて、撩の核心には触れないでいてくれる優しさを持っている。
ホンの少しだ。
香が撩の心に入って来るのは。
それも必ず彼女が意識をしていない、ふとした瞬間。
彼女は突然、撩の心の琴線を小さく震わせたりする。







朝が来たなぁ、と香は小さく呟く。
撩には聞こえないように小さな声で。
ベランダ用に置かれた撩の足のサイズに合わせたサンダルはぶかぶかで、夜露で湿っている。
香は構わずに突っ掛けながら、ベランダの手摺に凭れて街を眺める。
撩が気に入ってるこの街は、これから眠る時間だ。
撩の事を心配しながら眠らないまま、いつの間にか朝が来た。

嘘とか闇とか狡さとかそういうもの全部、丸ごと肯定できる。
香はそう思える。
そういうもの全てを纏った撩が、香は好きだ。
何も聞かされなくても何も知らされなくても、撩の口から出る言葉だけが香にとっての事実だ。
撩を取り巻く闇がどんなに根深いものであっても、
撩本人は香にとっては燃え盛る日のように思える。
今しも昇ろうとしているその太陽みたいに、香を温める術を撩は持っている。
だから、この部屋に撩が帰って来るだけで、それだけで良いと香は思っている。
必ず生きて帰るだなんて誓わなくても、酔った振りでふざけなくても、事実だけで良い。
元々香は、それ程多くは望まないタイプだから、相棒でいたい。







少しづつ昇る朝日が、香の輪郭を金色に滲ませる。
日が昇るのを無心に見詰める彼女の背中を見ながら、撩は煙草に火を点ける。
確かにこの部屋に戻る手前でアルコールを摂取してきたけれど、酔っ払うほどでも無かった。
それでも帰り着くと、まるで穢れを洗い流すかのように珈琲の薫りが満ちていて、
その上新しい一日の始まりの匂いを嗅いでしまった。
思わずアルコールと一緒に、罪の色まで洗い流してしまいそうな錯覚を、
重いタールとニコチンが辛うじて現実の事として繋ぎ止めてくれている。

気が付いてしまった。
香だけだと。
撩にとってこの世で味方は、きっと香だけだ。
香の癖毛から少しだけ覗いた耳の先の産毛が金色に光る。
ほっそりとしたパジャマ姿の彼女の影がベランダに伸びる。
気が付かないように気を付けていても、ふとした瞬間にいつも彼女は撩の心にするりと入り込む。
いつの間にか、人懐こい仔猫のように足元に絡み付く。

彼女は、自分の後ろ姿を撩がこんな風に見詰めている事をまだ知らない。
彼は、香が自分の事をどれほど深く想っているのかという事をまだ知らない。
夜の数だけ朝が来る。









ちょっと早いけど、朝ご飯作ろうか?



そう言って振り返った香が、撩には何か神々しい生き物のように見えた。













サンボマスター『だんだん』という曲をイメージして書きました。
随分、長々と時間を掛けちゃいました・・・
最近、ハワイアンキルトばっかりやってます。
出来上がりのサイズは、180㎝×180㎝の予定です。
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[ 2015/05/16 06:43 ] undo | TB(0) | CM(0)

strawberry shortcakes

おひさしゅうございます、ケシでございます。
この前、エグモッチ様よりメールを戴きまして。
今年は当ブログ、諸般の事情により停滞しておりまして、
りょうちゃんとカオリンのお誕生日に更新出来なかったので、
気が向いたらで良いからお誕生日のお話も読みたいです。とのご希望を頂戴しましたので書いてみます(笑)
随分遅くなったけど・・・まぁ、いいか(テヘペロ)
















お誕生日おめでとう、りょお。





そう言って満面の笑みで笑った相棒は、トレイの上に小ぶりなホールケーキを乗せて登場した。
毎年決まって、彼女はケーキを焼く。

香が相棒になって数年後に、昔馴染みが勝手に暴露した撩の過去を、
香はすんなりと、何でも無い事のように受け入れてくれたけど。
本当は少しびっくりしたんだと、ベッドの中で笑いながらそう打ち明けてくれたのは更に数年後の事だった。
当時、撩のプライベートな領域に少しづつ入り込んでくる香に、
撩は戸惑っていたし、可笑しな話だけどまるで小動物のように怯えていたんだと、今の撩になら解る。
撩はあまり、自分の素性を知られたくなかったし、知って香がどのように思うかを一番気にしていた。
それまで他人に自分の生い立ちや素性を知られると、
少なからず距離を置かれたり絶縁されたりして来たから。
何ひとつ良い事の無い人生だった。

だから香が、屋上で誕生日を作ってやると言い出した時。
相変わらず馬鹿なヤツだなぁ、なんて思いながらも。
不覚にも感動してしまった。
何を聞かされても動じない、強い女。
どんな男であっても軽蔑しない、優しい女。
額にキスされただけで真っ赤に照れる、可愛い女。
彼女は、撩に何でも作ってくれる。
ご飯やケーキや快適な暮らしや、誕生日まで。
まるで魔法を操る魔女みたいに、撩を楽しくさせる。
魔女と死神で、なかなか似合いの2人だろうと撩は自負している。

数年経ってから、香がベッドで本音を漏らしたのは何度目かの誕生日の夜だった。
笑いながらその話題を口に出来る関係に成れたその事実が、撩にとっては最高の贈物だった。
それから香は、毎年のように撩に言い続けている。
本当は少し驚いた事、撩を見る目が変わってしまうんじゃないかと不安に思った事。
けれど、少し考えて結論は揺るがなかった事。
香の言葉は、いつでも撩を支えているけれど、香自身はまるで気が付いてはいない。
香の言葉は、撩を生かし続ける魔法の呪文なのかもしれない。


毎年、同じケーキだ。
シンプルなイチゴと生クリームの小ぶりなケーキ。
蝋燭も無い、ハッピーバースデーの歌も無い、
あるのは濃く淹れたブラックコーヒーと、銀色のスプーンが2本。
カットすることなく、2人で反対側からスプーンを入れる。
それ程甘い物に興味の無い撩にもちょうど良い、甘さ控えめの生クリームにイチゴの酸味。
甘いのは隣に座る女だけで充分だ。





ほら、あ~~ん

さっきから、アタシばっか食べてない?りょおのケーキなのに。

まぁまぁ、良いから良いから。




そう言いながら、生クリームの付いたイチゴを頬張る香の横で。
撩は笑いながら、次のイチゴを摘み上げる。
撩のケーキだと香は言うけれど、香は自分の誕生日にはケーキは焼かない。
特別な事は何もしない。
撩がその事を指摘すると、一週間の内に2回もケーキは食べれないからと香は苦笑する。
香もそもそも、甘い物をそんなに食べる方では無いのでそれは賢明な判断だ。
だから撩は勝手に、心の中で香の誕生日のお祝いも兼ねている。
5日しか違わない互いの誕生日だから、それは香のケーキでもあるだろうと。
それに撩の欲しいのは、ケーキより甘い彼女自身に他ならない。
ケーキを食べながら香に甘え、どさくさ紛れにキスを強請るのが撩の毎年の常套手段である。
キスはイチゴの味がする。







ねぇ、りょお。



スプーンを片手に握った香は、気が付くと何故だか撩の膝の上に座らされている。
スプーンで掬ったスポンジとクリームとスライスされたイチゴの地層を、撩の口へと運ぶ。
撩は飄々とそれを咀嚼しながら、香のモヘアのニットに包まれた背中を撫ぜる。
瞳の動きだけで香の次の言葉を促してみせる。



今、この目の前にいる


そう言いながら香が撩の輪郭に触れる。
シャープで髭の感触のする顎と頬。
スッと通った鼻筋、薄くて柔らかい唇。
瞼に触れると撩は楽しげに目を閉じる。



貴方を創り上げた、過去の全てに感謝します。



香はあの時、ベッドで初めてそう言ったのと同じように。
毎年、撩にそう言い続けてくれる。
そう言い続けて貰える自分であろうと、撩はいつも思い続ける。
今、この瞬間も。
数秒後には過去になる。
香と出逢ったあの頃の事も、もう既に立派な過去の思い出だ。
飛行機から投げ出されて始まった、何ひとつ良い事の無かった撩の人生は。
少しづつ良くなっている。
気が付くと自然に、数年前の話しを笑いながら仲間内で語っていたりする。
普段は意識していないそんな自分自身の変化を、撩は毎年この香の作ってくれた誕生日に意識する。
それは満更悪くない。






カオリン、そろそろプレゼント下さい。

しょーがないなぁ、りょおのスケベ親父。

ハタチだけどな。





プレゼントは勿論、ケーキより甘い魔女みたいな恋人だ。
2人は抱き合いながらキスをして、微笑み合う。
毎年積み重なるケーキの数だけ、思い出も重なる。
まるで解けない魔法みたいに。








[ 2015/05/18 15:41 ] 短いお話 | TB(0) | CM(2)

10. チェックメイト

りょぉお~~ ご飯作っといたからぁ、後であっためて食べてねぇ~~









そう言って7階へと続く階段の下から声を掛けたのは、槇村香である。
時刻はまだ、午後5時を回ったばかり。
晩ご飯の支度にしては些か気が早いと、撩はその原因に思いを馳せて溜息を吐く。
今夜の撩はいつもとは逆にお留守番する方で、香はデートだ。
完全に油断していた。
数日前まで依頼人だった男は、昨夜。
撩不在のこの冴羽アパートへ、電話を寄越したらしい。
1つ目の用件は、依頼料の振込を済ませたという業務連絡。
2つ目の用件は、デートのお誘い。
今夜香は、熟成肉とやらを食べさせる人気の炭火焼きの店に連れて行って貰うらしい。




相手は、某区役所に勤める公務員。
彼の担当する部署で行われる公共工事の入札を巡るトラブルの矢面に立たされて、
ヤクザに命を狙われている所を、撩が助けた。
依頼自体は大した事でもなく、数日程度で片が着いた。
彼を狙った輩は今頃、拘置所の中だ。
今回の依頼人に関して、撩は全くのノーマークだった。

依頼人の男が香に惚れる事例として、大抵2つのパターンに大別される。
女性経験が極端に多い男か少ない男か、そのどちらかだ。
少ない男の場合、ほぼ全員に共通して言える事は、人生で初めてと言って良い位、
女性に(しかも、メッチャ良い女に)優しくされて絆されるというパターンだ。
多い男の場合もまた、ワンパターンと言える。
見た目に反して、うぶで世間慣れしていない無垢な女(しかも、メッチャ良い女)を、
自分色に染めたい。といったところだろうか。典型的に、自意識過剰なタイプだ。
因みに撩は上記の事柄に関して、常々、理解出来ないと公言して憚らないけれど。
完全に後者のパターンに当て嵌まる(自覚なし)。
いずれにせよ今回香をデートに誘った公務員は、そのどちらでも無いように撩には見えた。
目測を誤ったとしか言いようが無い。




撩はリビングのソファに仰向けになると、顔の上に開いたエロ本を乗せた。
胸糞悪い。
撩がその報告を受けたのは、午前中の事だった。
いつも通りほぼ昼に食べる“朝食”は、
撩の好きな具合に半熟の目玉焼きと、
たっぷりとした量のオニオンサラダ(香曰く、玉葱は血液をサラサラにするらしい)、
カリカリに焼いたベーコンと、バタートースト。
香が撩の食べているすぐ傍で豆を挽き、丁寧にドリップしたコーヒーは芳醇な薫りを漂わせていた。
申し分ないいつもの朝の風景だったのに。
香の報告によって、事態は一変した。








今日はアタシ、ちょっと夜出掛けて来るから。

んぁ?どういう事?

斎藤さんがね、一緒にお食事でも如何ですか?って誘ってくれたから。

・・・で? OKしたの?

うん。

なんで。

なんでって、断る理由無いし。

OKする理由も無くね?

無いかもだけど、りょおがどーのこーの言う理由も無いよね。

・・・・・・。

晩ご飯、ちゃんと作ってくから適当に食べてね。

そういう問題じゃねーし。

じゃあ、どういう問題なの?

あぁぁっと、なんだその。元依頼人と必要以上に、お近づきになるのは如何なものかと・・・

へぇぇ、アタシはダメで、りょおは良いんだぁ。

んだょ、どういう意味だよ。

・・・前々回の依頼人の、藍子さん。えらくアンタにご執心だったじゃない?
さぞかしデートも、盛り上がってたようで。

・・・・・・んだょ、香のヤキモチ妬き(ボソッッ)

はぁあ?妬いてないし  アンタの方こそ、妬いてんの?

妬くかっっ、ヴァァカ・・・フン、勝手にしろ。

だから、さっきから言ってんじゃない。勝手にするわよ。








その遣り取り以降、香は完全無視を決め込んで、普段通り家事に勤しんでいる。
普段通りも普段通り、掃除機を掛けながら口笛まで吹く始末だ(肉が食えるのが嬉しいらしい)。
撩は啖呵を切った手前、その話しを蒸し返すのもカッコ悪いので何も言えないまま、今に至る。






あら、りょお。コッチに居たんだ。



そう言ってリビングに入って来た香は、すっかり身支度を整えていた。
どうやらさっきは、撩が7階(うえ)に居るのかと思って、大声で声を掛けたらしい。
撩は返事もせずにエロ本を閉じて起き上がると、煙草に火を点ける。
香は撩の機嫌の良し悪しなど気にしない事にしたらしい。
撩のブランチの世話を焼きながら口論した事など、忘れているようにニッコリと微笑んだ。




晩ご飯、作ってあるから。自分でチンして食べてね。

・・・さっき、聞こえた。

あ、そぅ。



5時半頃には、元依頼人(さいとう)が迎えに来るらしい。
紺色の薄手のニットに、白いコットンパンツ。
恐らくこの組み合わせなら、香は素足にトッズのモカシンシューズを合わせるだろう。
ニットは浅いVネックで、綺麗な形の鎖骨が覗いている。
ネックレスなど着けない香の喉元は、ハッとする程白い。
手に持っていた柔らかなヤギ革の銀色のクラッチバッグを、ローテーブルの上に置いて。
撩の不機嫌などお構いなしに、撩の座るソファの前のラグの上に香がぺたんと座る。
向き合って顔を見れば、珍しく香は真っ赤なルージュを引いている。
普段、化粧気の無い肌は、たったそれだけで一気に華やぐ。




ねぇ、りょお。心配しなくても、大丈夫だよ。ほら。



そう言って香が自身の耳たぶを触る。
その細い指が触れたのは、撩が贈ったプラチナのピアスだ。
一度だけ、撩は微妙に解り難い愛の告白をした事がある。
あの言葉が、どれだけ香に伝わっているのか、正直、真意は掴めない。
2人の関係は相変わらず停滞したままで、キスの1つも出来ないでいる。
そのピアス1つ贈るにしても、撩は素直じゃなかった。
正装してパーティーに忍び込む依頼を請けた時に、それとなく渡したのだ。
勿論、流線型のピアスの内側には高性能の小型発信器が仕込まれている。




だから何かあったら、すぐに迎えに来て?



そう言って撩を見上げる上目遣いは、今夜余所の男にも向けられるのだろうか。
そう思うと、腹の底から沸々と嫉妬の感情が湧いてくる。
どうして今朝の食卓で、勝手にしろだなんて言ってしまったのか。
ただでさえ、自分の言葉や思考に縛られがちな嫉妬深い男は、
如何に自分の発言を撤回しようかと考えあぐねる。




何かって、なんだよ。



撩がそう言った次の瞬間、ふわりと香の使うボディクリームの匂いが薫った。
柔らかい感触が撩の頬に触れたと思ったら、またすぐに香の身体が離れて行く。
あまりに突然の出来事に放心する男の頬に、真っ赤なキスマークが残る。




たとえば、こういうこと。



香は笑いながらそんな事を言う。
徐々にその意味が解ると、撩の理性は歯止めを無くした。
吸い掛けて灰が落ちそうになる煙草を、灰皿に押し当てて、
目の前でクスクス笑う相棒の、華奢な手首を握り締めると強引に抱き寄せた。
撩は大好きな栗色の癖毛に顔を埋める。




なぁ、デートなんてやめとけよ、ドタキャンしちゃえ。



ここまで来て、撩は漸く本音が言えた。
本当は、一日中そう言いたかったのだ。
いや、もう何年も前から同じ気持ちだった。
いつか香が自分に愛想を尽かして、他の男を好きになってしまったら。
そう考えると、心底怖かった。
それなのに撩のとる行動は、いつも心とは裏腹だった。
キスだって。
本当は、自分から仕掛けたかったというのに、完全に後手に回ってしまった。





嘘なの。

は?

斎藤さんからご一緒にって言われたの、それ、撩と一緒にって意味なの。





どうやら、人気店の予約を斎藤が入れてくれているのは本当らしい。
完全にしてやられた。
元依頼人の実直そうな男は、2人の焦れったい関係に気を利かせてお膳立てしてくれたらしい。




ねぇ、りょお。デートしよう?





今度こそ、正真正銘。
香の上目遣いのお強請りである。
今夜、余所の男に奪われる心配は無い。
他の誰かに奪われる前に、撩は香を貰う事にした。
うぶな子猫ちゃんが随分健闘したけれど、最後の一手は譲れない。
生憎、彼女がキスをしたのは頬っぺただ。
いつだって彼女は、少しだけ詰めが甘い。





チェックメイトだ、香。



撩は香の耳元でそう囁くと、その柔らかな唇に漸く辿り着いた。









久し振りのお題です(*´∀`*)

91. 夜の使い道

撩ちゃん、わたし撩ちゃんとならエッチしてもいーよ。




薄暗い路地裏でそう言った女は、そのクラブではそこそこの人気ホステスだ。
幾つもある撩の行きつけのひとつの人気嬢は、太客の前では絶対に見せない媚を撩に売る。
店の外に客を見送りに出たついでに、路地裏でサボっていたらしい。
煤けたコンクリートの壁に凭れるようにして細い煙草を燻らせている所へ、撩が出くわした。
軽く当たり障りのないやりとりの中で彼女はあっけらかんとそんな事を言う。
確かに撩は、週に1~2度その店に出向いては羽目を外す。
厭らしいフリで綺麗処を片っ端から口説くけど、落とす気が無い事をホステスたちは見抜いている。

女はママから一度だけ聞いた事がある。
冴羽撩という男は、口では何と言おうと本心を見せない男だから本気になったら負けだと。
同じ店の子には、彼が一番に大事にしている“彼女”とやらを知っている子もいるらしい。
早い時間に店に出てくると、彼のツケを支払いに来る彼女に、ごく偶に出逢える事があるらしい。
女はそんなに早い時間に出勤する事など無い。
大抵は、客の誰かと同伴しているから。
こーみえて仕事熱心なのよね、と女は心の中で思う。




別にエッチくらい、御大層なモンでも無いし。
彼女とか居ても気にしないタイプなの、私。



そんな蓮っ葉な台詞を吐きながら笑う女は、それでもせいぜいハタチそこそこだ。
撩は苦笑する。
世の中には、こういう世界を否定したり、嫌悪する人間も居るだろう。
どうしてそんなに若くして捨て鉢なんだと説教する人間も居るだろう。
けれど撩には、その世界は酷く居心地よく慣れ親しんだ日常だ。
ニッコリと笑いながら、撩は女の指から吸い差しの煙草を取り上げる。
口紅の付いたフィルターを咥えると、甘ったるい煙が胸に広がる。
自分の吸っているいつもの煙草とは全く違う細い煙草を咥えたまま、撩が目を細める。




なんで俺なの?

えぇ~、なんでって。やらしいフリして全然やらしくないから。

なんだよ、それ。



撩はフンと鼻を鳴らして、甘ったるい煙草を放ると靴の先で踏み消す。
誰かさんには、四六時中変態扱いされてるんですけど、俺。と、内心微妙な気持ちになる。
目の前の化粧だけはケバイ彼女は、まだまだお子様だ。











眠れないの?カオリ。

うぅ~~ん、そういう訳じゃないんだけど。  ミックは?

〆切は迫ってるんだけどね。なかなかテンションが上がらなくてね。

そっか。お互い、パッとしないね。




静まり返った夜の街で、雑居ビルにはまばらに灯りが点っている。
けれど、香の居る冴羽アパートの灯りはその部屋ひとつで。
向かいのミックの事務所兼自宅のビルにも、灯りが点いているのはミックの部屋だけだ。




かずえさんは?居ないの?

ああ、居たら今頃夜更かしなんてしてないさ。仲良く、寝室さ。

・・・そ、そう////

リョウの奴は?まぁた遊び呆けてるのか?

うん、相変わらずよ。この間、折角ツケを精算したのに。

ったく、しょうがない奴だな。





香はベランダに出て、ミックは窓際で。
互いに子機を握って、パートナーに放置プレイされてる者同士、深夜のお喋りだ。
数分前、香が何気なくベランダに出て、表の通りを眺めていたらミックが手を振って来たのだ。
香がそれに応えて手を振りかえしたすぐ後に、リビングの電話が鳴った。
向かい側で子機を握ったミックが、手を振っていた。
それ以降、2人の愚痴合戦が始まった。









撩は踏み消した煙草の代わりに、ジャケットから慣れ親しんだ赤いパッケージを取り出す。
撩がジッポーを使う前に、女は自然な動作でカルティエで火を点ける。
深く煙を吸い込んで、ゆっくりと吐く。
つい今しがた、高層ビルの屋上で遠くの窓に見える男を1人殺してきた。





そういう台詞は、お客さんに言わせなよ。自分で言っちゃダメよん。

そうなの?

そうそう、女の子はねエッチさせてくれーって男に言わせてナンボだよ。

ふふふ、あんまりそういうの気にした事無いや。




撩はあはは、と文字通りの音で笑う。
女はもう行かなきゃ、と言いながら立ち去り際。
撩を振り返るとニッコリ笑って言った。



撩ちゃんって、変な人だよね。

うん、良く言われる。







路地裏を出ると、通りは通行人もまばらで平日の夜はあまり賑わっていなかった。
どおりで女が適当にサボっているわけだ。
撩は頭の中に、相棒を思い浮かべる。
変なヤツ、っていつも言う彼女の呆れたような笑顔を思い出す。
エッチさせてくれと言いたいけれど、長年言えないでいる彼女は今頃起きているだろうか。










あ、りょお。おかえり。





撩が部屋に帰ると、香はベランダに出ていた。
撩のビルケンシュトックのサンダルを突っ掛けて、子機を握って撩を振り返る。
香が耳から受話器を離すと、小さく悪友の声で“おかえり~種馬ぁ”と聞こえる。
撩が香の肩越しに向かいのビルを覗き込むと、脳天気な元相棒が小さく手を振る。
撩は香の手の中から、子機を奪い取る。




サッサと寝ろ、エロ天使。



それだけ言うと、撩は通話を切った。
リビングに戻る撩の後に続きながら、香は振り返って小さくバイバイとミックに手を振る。
サッシを後ろ手で閉める香に、撩は背中を向けたまま拗ねたように呟く。




おまぁも、サッサと寝ろよ。



心なしか不機嫌そうなのはヤキモチなのだろうかと、香は少しだけ可笑しくなる。
撩の相棒になって数年間、色々な事があったけど。
数ケ月前に湖の畔で、互いにこれから先何があっても相棒でいようと確かめ合った。
それだけだけど、別に何かしらの進展が二人の間にあった訳では無いけれど。
最近撩は少しだけ、香に対するヤキモチの感情を隠さなくなった。
あまり意地悪も言わなくなった。
それ以外の生活態度は、相変わらずだけど。




りょお。

ん?



香が背中越しに話し掛けると、撩も背中を向けたままで応える。
撩が香の次の言葉を待っている事は、気配で伝わる。







寝た方が良いのは解ってるんだけどね。


解んないの、


夜の使い道が。







撩には趣味と巡回を兼ねた深夜の飲み歩きがある。
ミックには仕事や恋人との時間がある。
それでは自分には何があるんだろうと、香は思う。
眠れない深夜に、観るべきテレビ番組も無く、これといって趣味も無い。
そういう時、普通は何をするんだろう、と。




・・・今度、飲みにでも行くか?



撩は香に訊ねながらも、香の答えを聞く前に足早にリビングを出た。
それでも廊下に出た所で、香が嬉しそうに小さくうん、と答えたのが聞こえた。
勿論、女の子が接客するような店には連れて行けないから。
たまには雰囲気の良いバーにでも連れて行ってやるかと、撩は考える。
本当は、それならエッチさせてくれと言いたい所だけど、今はまだ言えないでいる。


本当の夜の使い道は、もっと他にある事を撩だけは解っているけれど。
今の所、毎晩のように無駄遣いをしている。
このままではいけないと思いながら。








34. エントランス

確かに、今度飲みに行こうと言い出したのは撩の方だけど。
それは反則だろうと言いそうになって、撩は口を噤んだ。
玄関で香の支度が整うのを待っていた撩の前に現れた香は、いつもとは全く違う装いだった。


深い海の底を思わせるようなミッドナイトブルーのワンピースは、ホルタ―ネックで。
胸元には贅沢なギャザーが寄せられている反面、真っ白な背中は腰の辺りまで惜しみなく晒されている。
シミひとつ無い背中を飾りたてるのは、真っ直ぐに伸びた背骨の凹凸と天使の名残の肩甲骨。
首筋と肘の裏から仄かに薫るのは、ニナリッチの軽いオードトワレだ。



お待たせ。


そう言ってニッコリ笑った唇には、ヌーディなピンクベージュの口紅の上に重ねたゴールドのグロスが光る。
まるでデートにでも行くみたいな彼女の隣に並ぶ予定の撩は、至っていつも通りじゃないかと思わず焦る。
白いTシャツに、穿き慣れたジーンズ。ショートブーツ。
相棒がこんなにめかしこむのならば、撩だってもう少し時間をかけて服を選んでも良かったのに。
出がけに不意を突かれてしまった。
香が選んだのは、普段なら履かない8㎝の華奢なピンヒールで、
靴を履く為に軽く屈んだ香の耳元で、シルバーのカジュアルなピアスが揺れる。
いつもと違って綺麗で女らしい彼女に、綺麗だと素直に褒める事が出来なくて、
履き慣れない靴の彼女に撩は、思わず素直じゃない本音を漏らす。




チャラチャラしちゃって、まあ。転ぶなよ。

えへへ、何の為に撩が居るの? 頼りにしてますよ、用心棒さん。




そんな風に軽口を叩く時の彼女は、至っていつも通りの少年の様な雰囲気だ。
よくよく考えたら、彼女はもう立派な大人の女なのだ。
それでもいつまでも、何処かに少年ぽさを漂わせている。
それが撩をいつまでも躊躇わせるひとつの要因なのかもしれない。
いつまでもあの時の、身の上相談のシュガーボーイの彼女の残像がチラつく。
キスも出来ない程に大切な、撩の宝物だ。









撩は最初から最後までずっとバーボンをロックで、香は一杯目にバリーを頼んだ。

ゴールデン・クリッパー
ニューバーグ
ハイハット
ダイキリ

撩にどんなカクテルなのか教えて貰いながら、香はグラスを重ねる。
まるでジュースを飲むように軽く空けていくけれど、意外とアルコール度数は高い。
完全に用心棒を信頼しきって身を委ねている。
撩と旧知のバーテンダーは香とも顔見知りではあるけれど、その店で香が酒を飲むのは初めてだった。
ゆっくりと飲む事。
合間に、何かを摘む事。
会話を楽しむ事。
会話が途切れた時の、空気を楽しむ事。
撩が香に教えてやりたいと思った事。
いつまでも無邪気な少女の様な彼女が大人になるのなら、
その世界を教えてやるのは自分でありたいと、撩は思った。
他の誰でも無く、自分の手で女にしたい女。



ムーンレーカー
デービス
ジュピター




撩が思った以上に躊躇なくグラスを干す香に、撩も酒が進む。
それでもいつもよりは、全然飲んで無い。
なにせ今夜の撩は用心棒なので、正体を無くすまで酔う訳にはいかない。
慣れない靴を履いたシンデレラを、無事2人のアパートまでエスコートするのが今宵の任務である。












ホラ、真っ直ぐ歩いて。

あはは~、道路がぐにゃんぐにゃんしてるぅぅ

ぐにゃぐにゃしてんのは、おまぁの頭ん中だよ。




撩は溜息を吐きながら、香の細い二の腕を掴む。
意外にも滑らかな皮膚の下には、綺麗に筋肉が付いていて美しく引き締まっている。
細い身体はまるで敏捷な小鹿のように、バランスの良い筋肉質だ。
足元は心許なくふらついてはいるものの、転倒してしまうほどの危うさは無い。
身体のコアを支えるバランス感覚はそもそも優れているのが、槇村香だ。
エスコートなど、香相手に限定して慣れてない撩は至極ぎこちない。
肩を抱くのはおろか、腕を組む事も手を繋ぐ事も出来ない不器用な男なので、
仕方なくガッチリと二の腕を掴んでいる。
それでも手荒なように見えて、彼女に触れる手は限り無く優しい。
酔っ払っている彼女には恐らく伝わらない、悲しい優しさだ。
それでも撩には、こうして何の遠慮も無しに彼女に触れる事の出来る僅かな時間が至福の時だ。


至福の時間には限りがあって。
歌舞伎町と目と鼻の先にある、2人のアパートまでの道のりはどんなに時間を掛けても終りが訪れる。
表が暗くなると自動的に点灯するようになっている冴羽アパートの表玄関が、
暗がりの中に浮かんで見える。
シンプルなガラスの扉のエントランスの向こう側に、6階に続く階段があって壁を隔ててガレージがある。
扉の前で、
ちょっと待ってねぇ、と言いながらクラッチバッグの中の鍵を探る香を待っていても埒が明かないので。
撩は何も言わずに、片手で香の二の腕を掴んだまま、もう一方で鍵を開ける。









なんか、階段上がりゅのめんどくさい。




2人の住まいには、残念ながらエレベーターが無い。
そして目の前の酔っ払いは、階段を上がる事よりも更に面倒臭い事になっている。
これまで楽しげにフラフラと舗道を歩いて帰って来た、ご機嫌な相棒は。
何故だか後もう少しという所で、意味不明な駄々を捏ね始めた。
撩は自分で思っていた以上に酔っていたのかもしれない、男を酔わせたのは酒か彼女か。
彼女は階段を上がらないという宣言と共に、8㎝のヒールを脱いでしまった。
それでも、階段を上がらないと家には帰れない。




ったく、しょうがねぇな。我儘ばっかり言いやがって。



裸足の彼女が、いつもの目線の高さに戻ってくる。
撩よりも、頭1つ半小さい彼女。
彼女が踵の高い靴を履くのを撩が嫌がるのは、もしかするといつもと少し勝手が違うからかもしれない。
今夜のデートの為に香が付けた気に入りのオードトワレは、
上気した首筋から、ラストノートのチェリーの薫りを漂わせる。
無邪気な相棒は、無邪気に撩を誘惑する。
ヘラヘラと笑いながらふざける彼女を、コンクリートの壁と己の腕の中に囲い込む。
エントランスの外の、ぼんやりとした照明だけが光源で、香の耳たぶに揺れるピアスが鈍く光る。
薄暗い階段下でも、ハッキリと解るくらい桃色の頬を撫ぜる。
グロスの落ちたピンクベージュの唇が薄っすらと開いて、香の瞳は潤んで揺れている。





お仕置きするぞ、酔っ払い。




撩の声は掠れている。
思わず無意識に壁際に彼女を追い詰めてしまったけれど、その頬の柔らかさにふと我に返る。
それでももう、後戻りする事だけは選択肢に無かった。
今夜、彼女を。




・・・いいよ。




無邪気に酔っ払っているくせに、彼女はそう言って大人びた微笑みを見せるから。
撩はそのギャップに、いつもやられてしまう。
本当は解っていた。
彼女がもう、ウブな少女でも、無鉄砲でやんちゃなシュガーボーイでも無い事くらい。
彼女は、女だ。
初めてのキスは、アルコールと口紅の薄甘い香料の匂いがした。
香が指の先に引っ掛けていたピンヒールが落ちて、コンクリートの土間に乾いた音が響く。

それはガラスの靴ではなく、エナメルのハイヒールなので落としても割れない。
魔法は解けないから、焦らなくてもきっと大丈夫だと撩は何度も自分に言い聞かす。
トラップを仕掛けて廃墟を駆け回り、兄の形見の銃をぶっ放すやんちゃなシンデレラは、
無事、白馬の種馬に出逢う事が出来た。







お願いだから、頑張って部屋まで帰ろうぜ。

・・・じゃあ 抱っこして。

りょーかい。









前回のお題の続きみたいな感じで。
デートに誘っといて、終始振り回されるリョウちゃん(笑)