散る春

色はにほへど 散りぬるを



香は洗濯物の揺れるベランダの手摺に凭れて、遠くを見詰めた。
春の日差しの午後は靄がかかったように霞み、高層ビルが突き刺さる灰色の空も心なしか眠たげだ。
相棒は昼食のソース焼きそばを食べると、日課のガールハントへと出掛けてしまった。
柔らかな春キャベツの緑色をみると、無性に焼きそばが食べたくなったのだ。
香はソース焼きそばを食べる時、いつも牛乳が飲みたくなる。
これはきっと条件反射というヤツで、
香の子供の頃に兄がそうして食卓に焼きそばと牛乳を出したからだろう。
その話しを撩にすると、撩はいつもビールを飲みたくなると言った。
勿論、この冴羽商事に限って言えば、昼酒を喰らうような余裕は無いので。
当然その件は聞かなかった事にした。

今年の桜は、散るのが早かった。
漸く八分咲きという所で、風の強い日が続いた。
おまけにまるで霧の様な雨も、しとしとと数日続いた。
満開を迎える前に桜は散ってしまった。
完全なる不完全燃焼だ。
いつもなら、2人して改めて花見なんかしなくても。
それが咲き誇る僅かな期間の何処かで、偶然を装って満開の樹の下を歩いたりする。
例えば香が、伝言板の確認がてら迂回して公園を通れば何故か偶然撩が居たりして。
それまでナンパしてたクセに、気が付くと隣に並んで無言でキャッツまでの道を歩いたり。
何処までが偶然なのか香には解らないけど、
桜が開いている時期には必ずそんな日が1日はあったりした。
それなのに今年は。





早かったなぁ、今年は。




独り言をいう香の後ろでは、撩のピンク色のワイシャツが揺れている。
残念ながらこの時期に合わせたかのように、つい先日まで仕事をしていた。
撩が依頼から解放された時には、すっかり花は散ってしまっていた。
それでも、例年のようにもう少し満開の時期を楽しめたら。
もしかすると今年も、並んで桜の下を歩いたのかもしれない。
今年は少しだけ期待したのにと、香は思う。
気難し屋で気分屋で照れ屋なアイツも、手くらいは繋いでくれるのではないかと。




我が世たれぞ 常ならむ



絶対に何があっても変わりようが無いと思っていた2人の関係が変わったのは、冬の終わりの頃だった。
香があげた小さな手作りのチョコレートのお返しにと、撩がくれたのは。
初めてのキスだった。
初めて撩が、小さな声で好きと言ってくれた。
勿論、前に。
愛する者、とは言ってくれたけど。
そんな解り難い言い回しでも無く、他人に言って聞かせる体でも無く、
真っ直ぐに2人っきりで、初めて彼の気持ちを聞いた。


きっと、人は変わるのだ。
変わる事が出来る。
香が初めて撩を見た頃、撩はまるで鋭い刃物の切っ先のような恐ろしさを秘めていた。
でもその中に、温かいを通り越して熱い溶岩の様な情の深さを感じたから、好きになった。
そしてその香の直感は、結果として正しかった訳だけど。
それでもこれまでの道のりは平坦では無かった。
とかく考えの読めない男の傍で、何があっても彼の世話を焼き続ける事は簡単な事では無かった。
香は基本的にめげないタイプだし、ポジティブだけど。
何度も心が折れた。
でもその度に、香は自分自身に言い聞かせて来た。
きっといつかは、
きっといつかは彼にとって、自分が必要になる時が来ると。
必要だと言わせてみせると。

人は変わるし、自分も変わる。
毎日が同じ事の繰り返しのようでいて、
実はそうでは無いのだという事に気付かずに誰もが生きている。
香が世間知らずの男の子のような女の子から大人になったように、
撩だってきっと、進化したのだ。
初めの頃、夕飯が要るのか要らないのかも知らせずに飲み歩いていた男が、
(他人と暮らすという事に慣れていなかったからだと、今の香には解っている。)
ちゃんと自分の行動予定を最低限は伝えるようになった。
所構わず煙草を踏み消していた男が、ジャケットの内ポケットに携帯灰皿を持っている。
風呂上りに全裸で部屋中うろついていた男が、下着を身に着けるようになった。
いつの間にか、柔らかい笑顔も自然と見せるようになった。
口を開けば男女とからかい、香を男扱いしていた撩は、
素直に何の他意も無く真っ直ぐ、香の事を好きと言った。
それだけで香は泣いてしまった。
今までの色々な事が、全て報われた気がしたから。
伝わった気がしたし、漸く彼にとっての自分の存在意義が感じられたから。
この世の中に変わらないものなど、きっと無い。
全ては移ろいゆき、きっと2人もいつかは死んでしまうから。
だから好きなんだろうと香は思う。
好きにならずにはいられないのだろうと。
いつかは散ってゆくと知りながら、それでも香は撩という生命の塊が愛おしい。





有為の奥山  今日越えて 浅き夢見じ  酔ひもせず 



その日から1ヶ月近くが経過して、撩とは何度となく口付を交わしている。
それでも、それだけだ。
柔らかく抱き留められて、唇に触れられる。

撩の相棒になってからの数年間、香は間近で彼を見てきたのだ。
香は勿論、それから先の展開くらいは覚悟をしているつもりだ。
彼が口癖のように口走る卑猥な言葉が、何を意味しているのか理解が出来ない歳でも無い。
これまでの撩を知っていたら、
勿論キスをすれば順当にその先へステップアップを図るものだろうと、予測出来る訳だが。
今の所、その時期は一切未定のようである。
というか、香には解らない。
全ては撩に委ねてある。




自分から提案という名のお誘いを掛ける勇気も無いし、
かと言って待っているだけの香の立場としては、“それ”がいつやって来るのかも解らずに。
撩と初めてキスをしてから、香は常に心ここに在らずだ。
まだ何処か、夢を見ているような気分でふわふわしている。
地に足が着いていない。
撩がまるで大事な宝物を扱う様にそっと香に触れたら、香は今にも死にそうな程にドキドキする。

自分が先の事まで予想してドキドキしているなんて撩は解っているのだろうかと、香は考える。
そして、もしも解っていたら。
そんな女の事をどう思うのだろうと、考えても仕方のない事を春の午後のマッタリとした空気の中で考える。
桜は散ってしまった。
まだもう少し楽しませてくれるだろうと思っていたら、春の風が攫っていってしまった。
先の事が何も解らない事は、時として幸せな事でもあるけれど、不安も付き纏う。
香は撩に抱かれたいと思っている事を、撩のワイシャツを干しながら自覚した。
ベランダから見える新宿の街の何処かをフラフラほっつき歩いている彼を眺めるように、
香はベランダの手摺に頬杖を付いた。









何見てんの?



呑気にそう言って笑うのは、今の今まで香の脳内を占拠していた彼だ。
振り返っても何処か、香の心はふわふわ浮いている。
好きな男が帰って来た。




撩のこと。



香がそう言うと、撩の口角は綺麗に弧を描く。
一歩前に近寄って香の頬を摘んで、髪を撫でる。




そこから見ても見えなかったろ?




撩は解って無いと、香は思う。
見ていた。
ずっと、撩の事だけを香は見ていた。
この街の片隅にも、2人のアパートにも、撩の気配は何処にでもあって。
香の頭の中にも心の中にも、撩しか居ない。




見てたの。




撩が香を抱き寄せる。
タイトなジーンズに包まれた、細い腰に腕を回す。
茶色い癖毛に顔を埋めたら、香は甘えるように撩の首に腕を巻き付ける。
初めてキスをした時にはぎこちなかった2人の空気も、
少しづつ親しみ深いものに変わりつつある。




見てたよ?


そうか。


うん。




香の言葉をまるで味わうように、撩は小さく笑って、それからゆっくりと香に口付た。
ゆっくりと、けれど確実に深くなってゆく口付に、
香は無意識で撩の襟足を少し乱暴に掻き乱す。
細くてひんやりとした指先が、撩の地肌を擽る。
今生で撩と巡り逢えて良かったと、香は思う。
いつかはきっと、2人とも死んでしまうから。
夢みたいな幸せも、夢にはしたくない。
多分この先、楽しい事や嬉しい事の何倍も大変な事も待っているだろうけど、
撩と一緒なら大丈夫だと思える。

ふと、唇を離した撩の瞳に香が映る。
目を開けて彼の目を見たら、香は何故だか解ってしまった。
撩もきっと、同じ事を考えているのだと。
香は小さく頷いて、撩の胸に顔を埋めた。










続き物のお話はお休みで、短いお話。
今年の桜は、あっという間に散りました。
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[ 2015/04/08 21:50 ] 短いお話 | TB(0) | CM(2)