※原作程度、(中盤、モヤモヤ期くらい)を想定して書いております※香にとって、嘘を吐く事なんて朝飯前の出来事だ。
槇村香は正直者で善人で嘘が吐けなくて、穢れなき存在だと思い込んでいるのは周りの連中だけだ。
香はいつだって思っている事の半分も言葉にはしない。
どんな風に応えれば、どんな言葉を使えば、どういう風に振舞えば、
世の中から乖離して浮かんでいる自分が世間に馴染めるのか、ただ単に良く知っているだけに過ぎない。
それは多分、生まれながらにして香が背負った宿命なのだ。
香自身が物心つく前から既に、香は“可哀相な子供”だった。
荒み切った家庭の愛情も冷めかけた夫婦の次女として生まれ、
生まれ落ちる前に両親は殆ど別居状態で、
両親の離婚から程なくして乱暴者の父親に、半ば誘拐されるように攫われた。
どちらかといえばより安全であったであろう母親と姉の元から連れ去られ、生き別れた。
まだ乳児であった香が、父親とどんな風に生活していたのか。
今となってはもう誰にも解らない。
それどころか、香自身も自身の出自に纏わる事情は良く知らないでいる。
撩にとって嘘を吐く事は、自分の身を守る手段であった。
時には命懸けで敵を欺き、時には仲間ですら欺いた。
喰うか喰われるか、まるで野生動物のように生き延びて来た撩にとっては。
嘘こそ真理、嘘から出た真という言葉がしっくりと馴染んでいた。
もはや撩に纏わる巷の噂の、何処までが嘘で何処までが本当か当人ですら確認の仕様が無い。
それは時として都市伝説のように実しやかに世間を駆け巡り、撩を象る輪郭線を曖昧なモノに変えた。
そしていつしか撩は、世界中にその名を轟かす殺し屋になっていた。
自分で望んだ事など、撩の人生に於いては唯のひとつも無い。
全てはまるで転がる石のように、嵐の海に浮かぶ一艘の小舟のように流れ着いてここまで来た。
普通の何処にでもいる小さな男の子だった。
荒れ狂う波間に落とされたちっぽけな命を、神は嘲笑うかのように掬い上げ翻弄した。
拾ったモノは俺のモノだとでもいうように、育てた男は撩という人間を蹂躙した。
そこには確かに愛情はあったのだ、これ以上無いというほど濃密に。
愛情を掛けるという事と、その人生を踏み躙るという事に矛盾が生まれない愛が存在するだけだ。
海原神というのは、そういう男だった。
彼に出逢った事が撩にとっての幸福でもあり、不幸でもあった。
つまるところ撩に選択肢は無かった。
選択肢など無いも等しかったのは、香も同じだ。
香がまだ赤ん坊の頃、香を攫った父親は人を殺した。
どうしようも無く弱い男だった。
夜中に眠った小さな娘を置いて、出歩いては酒を喰らった。
彼は彼なりに思い描いた理想の人生があった筈で、それでも歳を取る毎に理想からはかけ離れていった。
受け入れがたい現実から目を背けるように酒に溺れた。
酔っ払った盛り場で、下らない諍いが発端だった。
怖くなった父親は現場から逃走し、警察に追われた。
娘の事など脳裏には無かったのだろう。
行きつけの飲み屋の主人から犯人である久石の名前と境遇が証言として警察に齎された。
逃走中の事故によって父親が死んだ頃に、香は簡素なアパートの一室で保護されていた。
槇村家の娘として愛されながら、香はいつも心の片隅に淋しさを抱えていた。
忙しい父と兄、母親は居ない。
愛されている事はちゃんと解っていた。
香も彼等を愛していた。
自分には家族しか拠り所が無い事を知っていたから、淋しくても我慢した。
誰に教わった訳でもないのに、泣いてはいけないと思っていた。
彼等が香を愛してくれるように、香はその気持ちに応えなくてはいけないと思っていた。
落胆させてはいけない、心配を掛けてはいけない、いつも明るく正しくイイ子でいないといけない。
そう思うと本心の半分以上は、言葉に出来なかった。
三つ子の魂百までとはよく言ったもんで、香に染み付いたそんな人との距離の取り方は、
大人になっても変わらない。
香は自分の事を自分では、決して善良な人間だなどとは思っていない。
これまで色んな思いを抱えて生きて来た。
お父さんがいてお母さんがいて幸せそうな友達を羨み、
女の子らしい嫋やかな友達に憧れ、
香の事を小さな頃から育ててくれた父親代わりの様な兄の支えになりたくて金が欲しいと思った。
兄や父を尊敬しながら、それでももしも自分の人生がもっと違うものだったらと考えてしまう事があった。
そしてそんな風に考える自分を心底汚らわしいと思った。
兄が死んで絶望的に悲しんだのも紛れも無い事実だったけれど、
それと同時に最愛の男の相棒の座を勝ち取ったのまた現実で、
兄が生きていれば、撩という初恋の男に近付く事も無かったのもまた現実だ。
兄の死を心の底から悼みながら、兄の死によって深く知った男に骨の髄まで惚れている。
人間は清らかさだけでは本当の生を全うできないと香は思う。
尊さや崇高さと同時に汚らわしさや醜さも持って生まれて来た。
それは香だけでなく、撩もそうだろうと思う。
誰の心にも人には明かせない闇はあるのだろう。
だから撩の闇も香の闇もそれは等しく存在するもので、罪深いのはお互い様だ。
香には宗教などまるで解らないけれど、多分。
人は皆、十字架を背負って生まれて来るのだ。エゴや業を抱えて。
だから香は嘘を吐く。
本当は撩の事が好きだけど、撩を困らせたくはないし2人の関係を気まずいものにしたくないので、
本心に蓋をする。
本当は世界でたった1人だけ僚さえ居てくれればそれで良いんだけど、
そんな事は言えないので無理に笑って冗談を言う。
本当はイイ子なんかじゃない。
淋しいと泣いて暴れる事が出来たら、きっと。
夜中に眠れずに珈琲を淹れたりする事も無いだろう。
死ぬかもしれない男の背中に祈りを捧げながら、笑って送り出す必要も無いだろう。
香が撩に吐く最大の嘘は、この世で一番愛しているという気持ちと淋しくて堪らなく甘えたいという気持ちだ。
それだけは口が裂けても、言葉には出来ない。
紺色の空が少しづつ白み始めて、空の下の方は菫色に変わる。
撩は香の淹れた珈琲を飲んでいると、時々無性に心許ない気持ちに襲われる。
自分の全てを包み隠さず曝け出したいという衝動。
誰にも話した事の無い過去の話しを香に聴かせたい、けれどそれと同時に絶対に知られたくはない。
普通では無い自分の人生を普通の女に知られたら、きっと彼女の自分を見る目は変わるだろう。
けれど全てを知った彼女がどういう風に変わるのか(それとも変わらないのか)を知りたい。
香以外の女と関わる事もあるけれど、こんな風に思った事は一度も無かった。
相手の素性になど興味は湧かないし、別に知る必要もない。
けれど香の事は知りたくなるのだ。
撩がもしも、飛行機事故に遭ってゲリラの村で育ったんだという事を聞かせたら何と言うだろうとか。
今までしてきた悪い事全部、ぶちまけて笑ってやったら嫌われるのだろうかとか。
こんな晩にひとでなしを殺めてきた事を告白したら、香は。
ピュアで可愛い撩の相棒は、撩の事を嫌いになるのだろうか。
この先、いつか。
撩も香も自分の罪深い嘘を告白して悔い改める時がきたら、
薄暗い懺悔室はこのちっぽけなリビングで、互いにとっての神は互いであろう。
香の罪も撩の罪も、信仰を持たない2人には赦しを乞うのも与えるのもお互いだけだ。
御香を焚く代わりに珈琲の薫りを嗅ぎながら、
香は撩が生きて帰ってきた事に感謝を捧げ、撩は無事に戻って来られた事に安堵する。
2人には言えない気持ちが多過ぎて、仕方が無いからどうでも良い話をして笑う。
笑うしかない。
スポンサーサイト