冴羽先生と香ちゃん①(家庭教師)

槇村秀幸は、頭を抱えていた。
大ピンチなのである。
彼は優秀な検挙率を誇る日本警察の、その中でも超多忙を極める捜査一課の刑事である。
衝動的な傷害致死事件から猟奇的な快楽殺人、あらゆる慾に塗れた強盗殺人事件など、
手掛ける事件は、実にバラエティに富んでいる。
秀幸に宛がわれる捜査の殆どが殺しのヤマで、大都会東京・新宿という街を管轄に持つ彼等に、
安寧の日々が訪れる事は無い。

しかし、そんな事はどうでも良い。
秀幸は所詮、世の中の歯車であり、
公僕である限りそんな多忙な身の上も当たり前の事として粛々と受け止めている。
たとえ取調室でトチ狂った殺人犯が、難解な持論を展開して己の殺人を正当化しようがどうしようが。
最終的に、裁きを下すのは自分達の仕事では無いので、必要な言質と証拠を集める事に集中する。

だから彼の頭を悩ませている事は、主に私生活の事である。
秀幸は翡翠色のミルクガラスのマグカップに注いだ煮詰まったコーヒーを飲みながら、
もう一度、手の中の紙切れに視線を落とす。
それは高校3年生で受験を控えている妹・香の、全国模試の試験結果である。
志望校は何処も3流大学にも関わらず、全てD判定という驚愕の成績を叩き出した。
もう季節は秋に差し掛かろうという今。
高校の3年間、普通に勉強をしていれば、普通は安全牌であろうそれらの学校に受からなければ、
それ以外何処に行くというのだろう。
秀幸は途方に暮れていた。
本当ならば、受験生である香本人がもう少し、途方に暮れてもおかしくはないだろう状況だが。
彼女は至って呑気だ。
一応は兄にその成績表を見せる事に、躊躇いはあったらしいが(あくまで本人談)


あははー、D判定だった(テヘペロ)


と笑いながら、その紙切れを秀幸に手渡した彼女の躊躇いとやらが、
如何ばかりのものなのかは秀幸には推し量る事は出来ない。
香は頭は悪いが、秀幸にとっては目に入れても痛く無いほど可愛いたった1人の妹だ。
いっそ、受験自体を諦めても良いのかもしれないのだろうが、
やはりそれは秀幸には簡単に割り切れる問題では無いのだ。
香の物心がつく前に、母親は癌で死んだ。
秀幸と同じ刑事だった父親が殉職したのは、香がまだ小学校に上がる前だった。
母親は昔、中学校の教師だったらしいから。
家族の中で1人だけ、極端に勉強の出来ない妹が誰に似たのか、秀幸は時々不思議になる。
若くしてこの世を去った両親の心残りは恐らく、香の事だっただろう。
彼等は普通に、進学した香や就職した香や嫁ぐ香を見届ける事が何よりの希望だったろう。
今となってはもう叶わぬ彼等の為にも、
秀幸は兄として、香の受験を後押ししてやらなければと考えている。
しかしそれと同時に今、大きなジレンマを抱えている。
果たしてこのまま、自分(と、その肩に乗った両親の亡霊)の多大なる期待だけを妹に押し付けて、
彼女のもっとも苦手とする受験勉強を強いている事が、本当に正しい事なのかどうかという事だ。

決して兄の欲目では無いけれど、香は美人である。スタイルも抜群だ。
炊事洗濯掃除は、子供の頃からみっちりと仕込まれているので完璧だ。
愛嬌もある。
ハッキリ言って、男子にモテる。女子にもモテる。
頭は宜しくないが、運動神経は並外れて優れている。体力もある。
心根も優しい。
それで充分じゃないかと、秀幸はそう思うけれど。
それでもやはり、諦めきれないのだ。
じゃあ、妹の長所をこうして並べて。
どんな未来がすぐに思い描けるか、そう考えた時。








良いお嫁さんになる。




という言葉が、秀幸の脳裏に真っ先に浮かんだ。
そしてそう思えば思うほど、秀幸は何としても進学させて就職させなければと拳を握りしめてしまう。
(相手は居ないが)年端もいかない妹を嫁に出すなど、まだまだ気が早過ぎるのだ。
多少、秀幸の先走り感の否めない、妹の人生のシミュレーションではあるものの(相手居ないし)
彼が妹を溺愛しているからこその、深い悩みである事は間違いない。
一応、受験して(するのは香だが)全部不合格なら、その時考えよう。
そういう割り切りも、時には必要なのかもしれない。
しかし、秀幸は不撓不屈の熱血刑事なのだ。
出来得る最大限の努力はするつもりだ(するのは香だが)

秀幸はジャケットの胸ポケットの中の携帯電話を取り出す。
この草臥れたアンティークばりのガラパゴス携帯(香と一緒に撮ったプリクラが貼ってある)の電話帳には、
最後の望みの綱であるある人物の連絡先が入っている。
学生時代からの腐れ縁、IQ180以上の男・冴羽撩その人である。
秀幸が撩に関して1つだけ懸念する事があるとすれば、その異常なまでのオンナ癖の悪さだが。
如何せん、香はまだ子供である。
撩がとっかえひっかえ遊んでいる女達は、主に成人済みの妙齢の美女ばかりである。
こう言ってはなんだが、撩にロリコンの趣味があるなどとは聞いた事は無い。
些か不本意ではあるものの、こうなれば香の家庭教師役として彼を頼る他に手立てはもう無い。
冴羽撩という男は、新宿の外れで如何わしい何でも屋をやっておりいつも暇を持て余している。
出自は非常に裕福な家庭で、金にも困っていないのだろう。
年中プラプラしているのが仕事の様な男であり、その異常に高い知能指数は完全に宝の持ち腐れである。
受験という〆切が迫る中で、崖っぷちに立たされている自分達兄妹を救えるのは、
悲しいかな彼が適任なのだ。
それに少しだけ家庭教師としての報酬を、友人価格で値切ろうと秀幸は考えている。
受験は何かと金が掛かるのだ。
抑えられる出費は、抑えるに越した事はない。




しかしまだ、槇村秀幸は知らない。
ここで幾許かの必要経費を値切ったとしても、
彼にとって本当に大切なモノは金には換えられないという事を。
何も知らない秀幸は、液晶画面に表示された悪友の名を選んで通話ボタンを押した。



(つづく)




本当にコンパクトに収まるのか?俺。
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[ 2014/12/04 23:53 ] 冴羽先生シリーズ | TB(0) | CM(0)

冴羽先生と香ちゃん②(家庭教師)

想定外だった、良い意味で(むふ)




撩の電話にその連絡が来たのは、先週の事だった。
学生時代からの悪友で、自分とは真逆の性格の正義の味方のお巡りさんである彼は。
昔から、妹一筋の超シスコンボーイであった。
三十路も過ぎ、そろそろカッコイイお兄さんと自称するには気が引ける今日この頃。
(それでも自称するけど。何しろ撩は、自称・万年ハタチのモッコリお兄さんである。)
撩の認識が間違っていなければ、あのダサ眼鏡も三十路は超えている。
撩と秀幸が初めて出逢った頃、彼の妹はまだ幼児であった。
それから十数年、彼に聞く妹話と共に、
逢った事も無い彼女の事を撩は良く知っているような気分になっていた。
それでも、彼女のビジュアルに関しては、撩は何の期待もしていなかった。
何しろ、ダサ眼鏡・槇村秀幸の妹である。


秀幸曰く、長身でスラリとした中性的美人で愛嬌もある、 ので手を出すと殺すとの事だった。
それを聞いて、相変わらずの妹贔屓に撩は電話を挟んで苦笑した。
まさかそんなJK相手に盛れるかよ、と思った。
その時は。








いや、その時はね。

しかしである。
本日、初めての授業をつつがなく先程終了した。
本題の学習面は、もう何て言うか、何とも言いようが無かった。
取敢えず、撩の意見として近い内に秀幸に進言してみるつもりだ。
高い学費を使ってまで、進学する意味があるのかどうかについて。
受験の年のこの時期にこの理解度では、正直、受験料を支払うのも無駄であろう。

それはさておき、問題は彼女のビジュアルだ。
本当に槇村秀幸と共通する遺伝子が含まれているのだろうかと、撩は我が目を疑った。
秀幸の言葉通り、スラリと均整のとれた健康的なスタイルは。
撩の好みからすれば、些か華奢過ぎるけれども。
そこはまだピチピチのセブンチーンなので、これから幾らでも発達が見込まれる。
(主に、おっぱい方面で。)
ハッキリ言って学習面ではあまり賢くは無いのだろうが、それ以外の面での受け答えには、
打てば響くような返しがあり、コミュニケーション能力の高さは高校生のレベルでは無いと撩は感じた。
真っ直ぐに人の目を見て話す、薄茶色の瞳には他人を自然と惹き付ける魅力を備えていた。



かあいい。


ひと言で言えば、そういう事だった。
侮っていた、槇村秀幸のシスコン発言を。
今まで飲んだくれてはクダを巻き、
涙を流しながら芦屋雁之介の『娘よ』と、さだまさしの『妹よ』を熱唱する秀幸を。
撩は冷ややかな目で見詰めていたけれど。
いや。
もしもこれが、自分の妹だったなら。
俺なら家から出さないね、一歩も。と、撩は思う。

危険すぎる、外の世界は。
例えば、新宿の種馬とか呼ばれて毎日ヘラヘラナンパしているような野良犬の様な男が歩いてたりするし。







晩ご飯食べてくでしょ? さえばせんせぇ?


そう言ってニッコリ笑った友達の妹は、やばいほどに可愛かった。
茶碗に炊き立ての白飯をよそいながら、
お兄ちゃんは、今夜は遅くなるって言うから先に食べてよう?とか。
前から、お兄ちゃんに冴羽先生の話しは聞いてたの、馬鹿みたいに沢山食べるって。
だから今日はいつもより、沢山作っちゃった(テヘ)とか言うから。
それに。
鶏肉と大根の味の良く染みた煮付けと、玉葱と厚揚げの味噌汁が異常に旨かったから。
撩は、秀幸には何も言わないでおこうと決めた。




さっきまで、2人で日本史と英語の勉強をしていた時までは。
慎ましやかな兄妹家庭の財政状況を慮って、受験料とそれまでにかかる経費の削減の為にも。
受験自体の見直しを検討をしてはどうかと、ダサ眼鏡に進言するつもりでいた。
けれど数時間、槇村香と過ごすうち。
撩の考えは変わった。
妹想いの教育熱心な兄心に報いなければ(というのは、タテマエである。)
そして、心の中で早逝した彼等の両親に手を合わせた。
彼等の願いが、香の立派な成長と進学と就職とその先の未来ならば、
その助けになるよう頑張りますという意味だ。決して、いただきますの意味では無い。
もしも撩が秀幸に、受験を止めたらどうかとアドバイスして、
秀幸が、やっぱりそうかそうするか、なんてなった暁には。
もうこの夕飯にありつく大義名分が・・・、いや、冴羽撩は至って真剣である。
撩はこれまで何でも屋をやって来て、ありとあらゆる依頼を請けたけど。
家庭教師は初めてだった。


なんつーの?心が震えたっつーの?こんな俺が人の役に立てる事に。
もうこうなったら3流私立大学とか言わず、目指すよね東京大学。
どうせ、結果は同じだし。



そう思いながら、撩は香の夕飯を堪能した。
あのダサ眼鏡の野郎、毎日こんなもん食ってやがるのかと思うと。
腹の底から、沸々とジェラシーが煮え滾った。
香はそんな冴羽先生の邪心になど、微塵も気が付く様子も無い。


まだまだあるからどんどん食べてね?


なんて言いながら、撩の手元にある湯呑にほうじ茶を注ぐ。
今は発展途上のJKだって、時間が経てばいずれ妙齢のモッコリちゃんに成長を遂げるのだ。
出逢ってしまった奇跡はもう誰にも止められない、と。
撩は脳天気なJ-POPの歌詞のように、己の邪心を正当化していた。










この頃、槇村秀幸は鬼のような形相で、一刻も早く帰宅するべく仕事を片付けていた。
間の悪い事に、妹と悪友との初顔合わせに同席する事が適わなかった秀幸は、非常に機嫌が悪い。
同僚や後輩たちが、遠巻きにそんな秀幸を恐々観察している事すら目もくれずに、
一心不乱に書類の山を片付けていた。

しかしもう手遅れである。

秀幸が香の将来の為を想い、手塩にかけて仕込んだ自慢の料理の腕前は。
ガッチリと新宿の種馬の胃袋を掴んでいた。
これまで平穏だった槇村家に、秀幸は自らの手で新たなる風を引き入れてしまった。
世界は常に動いているし、妹も日々成長しているのだ。
まだまだ手の掛かる可愛い小さな妹だと思い込んでいるのは、秀幸1人である。


(つづく)



次くらいに何とか完結させます(汗)
[ 2014/12/06 19:54 ] 冴羽先生シリーズ | TB(0) | CM(0)

冴羽先生と香ちゃん③(家庭教師)

で? なんでお前がいるんだ?




秀幸がそう切り出したのは、随分、時間が経過した後だった。
巷を震撼させていた連続強姦殺人事件の犯人を検挙したのが数日前で、
数カ月ぶりに早目に帰宅できる日々が続いている。
仕事中の秀幸の携帯に送られて来たメールには、絵文字付きで。
今日はお兄ちゃんの好きなカレーにします、早く帰って来てね。のメッセージが入った。
勿論、差出人は香だ。
そして勿論、秀幸は妹の作るカレーは大好物なので、
否が応でも上昇するテンションを抑えながら若干前のめり気味で自宅に戻った。
カレーライスは秀幸の好物なのだが、
この槇村家の2LDKの手狭なダイニングキッチンに当たり前のように居座る、
目の前の大男の好物でもあるらしい。
当たり障りのない世間話の延長線上の、少しだけ棘を含んだ世帯主の疑問に。
隣同士並んで座る妹と、その元家庭教師は不思議そうに顔を見合わせる。





なんでって、ねぇ。 

うん。



2人の間には、秀幸にはよく解らない理屈が存在するらしい。
“ねぇ”と“うん”だけで、会話は成立するらしい。
しかし、それでは秀幸にはどうやら通じないらしいと、香が改まる。





あのね、お兄ちゃん。

なんだ。

なんで冴羽先生がここに居るのかって言うのはね。

うん。

冴羽先生も、カレーが大好きだからだよ。

・・・。






妹を見詰めて絶句する秀幸の視界の端で、撩が楽しげにコクコクと頷く。
そもそも、この2人を引き合わせたのは他でも無い、槇村秀幸本人である。
あまりにも惨憺たる香の成績に、頭脳だけは明晰な悪友に頼ったのは藁にも縋る思いだったのだ。
結果、意外にも香は無事女子大生になった。
撩に依頼した家庭教師の契約は、半年前の1月のセンター試験の前に終了したはずだけど。
何故だか撩は、ここのところ週の半分は槇村家で夕飯を食べている。
しかしそれは、秀幸が一緒に夕飯の席に着ける時のカウントなので、
実際にはもっと入り浸っている可能性もある。


香は私大の経済学部にギリギリの成績でパスすると、サークルにもコンパにも参加せず、
講義以外の時間は、アルバイトをすると秀幸に宣言した。
これまで散々、秀幸に経済的負担をかけて来た事が香の気掛かりの種だったのだ。
少しでも(せめて食費の足しぐらいには)と、香はバイト代を生活費に充てている。
学費に関しては、両親が2人の子供の為にと積み立てていた学資保険や死亡保険金などがあるので、
槇村家の蓄えはゼロでは無い。
そもそも非常に慎ましく質素な暮らしぶりの兄妹は、それほどお金を使わないし。
秀幸は非常に真面目で几帳面な男なので、しっかりと将来を見据えて計算している。
別にバイト代くらい、香の好きに使っても構わないというスタンスだが。
そう言うと香は今この状態が、好きにしている結果だと言って笑ったので、秀幸も好きにさせている。
兄妹は仲が良いので、槇村家はいつも平和だ。



だから問題なのは、そのバイト先なのだ。



バイトを探していた香に、ウチでバイトしなよと誘ったのは撩だった。
ウチというのは、撩が代表取締役兼唯一の社員でもある冴羽商事という会社の事だ。
歌舞伎町の外れにある撩の所有するビルの一室に看板を掲げた、如何わしい何でも屋だ。
一応は探偵事務所らしいが、そうそうドラマチックな依頼が舞い込むとは限らず。
依頼内容に関してはほぼ、来るものは拒まずという感じらしい。

秀幸はもっと、
女子大生らしい感じの(コンビニ店員とか、カフェのウェイトレスとか)仕事があるだろうにと思っている。
それに出来れば、妹と冴羽撩との関係も家庭教師の契約が切れた時点で、
終了させたかったというのが本音である。
秀幸にしてみれば、純粋で無邪気な妹にとって冴羽撩という男は害悪でしかないという認識だ。
家庭教師の数ヶ月間は、言うなれば非常事態だったわけで。
香が無事、合格出来たことには率直に感謝はしているが、
その後の事はハッキリ言って、撩の下心しか感じない。


香が冴羽商事で手伝っている仕事は、些か奇妙なモノが多い。
ついこの間は、ペットのアリゲーター(まだ子供のワニで小さい個体だ)を誤って排水口に流したので、
探して欲しいというものだったらしい。
香は撩と2人で、冴羽商事の会社名の入ったツナギに魚釣りなどで使うサロペット型のゴム長を履いて、
マンホールの下の下水の中を探し回ったらしい。
3日後、無事にワニをサルベージして、飼い主の元へと還した。

またある時は、別の依頼で(この依頼に関しては後日、行きつけの飲み屋で秀幸は撩に大激怒した。)
まるで内職の様な仕事を、香は少しづつ家にも持ち帰り2日ほど根を詰めていた。
どんな内職かといえば、
男性器を象ったシリコン製(ピンク色だ)の本体に小さなモーターを仕込むというものだ。
所謂、大人の玩具というやつだ。
そんな仕事をどんな依頼人がどういう経緯で持ち込むのか、秀幸には想像もつかないけれど。
どうやら急ぎの依頼だったらしく、香は夜更けの槇村家のリビングで黙々とモーターを仕込んだ。
仕事から疲れて帰り、そんな状況を目にした秀幸は思わず。
香に、それが一体何に使われるモノなのか知っているのか、と訊ねた。
ニッコリと微笑みながら、知らなかったケド先生が教えてくれた。と言った香に、秀幸は頭痛を覚えた。
香はそんな時ばかり、経済学部の学生らしく。
これも日本経済の一端を担っているんだよと、秀幸を励ました。


そんなこんなで秀幸は正直、
香と撩が仲良くする事も、香が冴羽商事でバイトをする事も良くは思っていない。
香はどんな如何わしい仕事でも、分け隔てなく頑張っているらしい。
確かにそれは、立派な社会勉強といえばそれはそうかもしれないけれど。
せめてもう、大人の玩具の内職だけはやらせないように、半ば脅迫まがいに撩に確約させた。
そして最近では、香の未知なる能力が開花しているらしい。
何故か香には、猫探しの才能があるらしく。
迷い猫探しの依頼が、ここの所立て続けに持ち込まれている。
妹が他のバイトを探す気も無いらしい事と、次第に冴羽商事での仕事を気に入り始めているらしい事に。
秀幸は少なからず危機感を感じている。



大学での講義の時間以外、香が撩の元でバイトをしているか、
もしくは撩が槇村家に入り浸っているかのどちらかだ。
今日のカレーにしたって、と秀幸は捻くれる。
もしかすると自分の好物だからというより、撩の為なんじゃないかなどと邪推する。
何しろこの所、忙しい身の自分よりも、悪友の種馬の方が妹と一緒に居る時間が長いのだ。
秀幸は全然面白くない、というよりも胸糞悪い。






ふ~~~~ん、カレーが大好きねぇ。ホントに大好きなものが他にあるんじゃないのか?撩。




そう言って撩に視線を移す秀幸の眼鏡の奥の瞳は、冷酷だ。
確か、撩と香を引き合わせた時の、一番最初の電話の向こうで秀幸は。
妹に手を出したら殺す、と淡々と呟いた。
心当たりがあり過ぎる程ある撩は、微妙な笑いで誤魔化しながらカレーを頬張った。
香だけは秀幸の言葉の意味を理解出来ないままに、
付け合せで作ったコールスローサラダの話しをしていると思っている。









槇村秀幸はまだこの時は、何も知らなかった。

妹がもう既に、冴羽商事の散らかった事務所の中で雇い主とファーストキスをした事も。
少しづつ撩の事を、初恋として意識し始めている事も。
兄として両親の分まで、妹の進学や就職や結婚に夢を見ている近い将来。
バイト先がそのまま、就職先になる事も。元先生で現ボスの冴羽撩の元に嫁ぐ事も。
今はまだ、誰も知らない。
嵐の前の静けさのひと時を。
秀幸は憮然としながらも、妹と悪友の他愛も無い話しに笑かされたりして何だかんだで楽しんでいた。



(おわり)



[ 2014/12/10 23:28 ] 冴羽先生シリーズ | TB(0) | CM(0)

15萬打リクエスト~はじめに~

おはこんばんちわ、ケシです。


この糞寒い季節、如何お過ごしでございましょう。
皆様方に措かれましては、お風邪など召されませぬよう謹んでお慶び申し上げます(←マイブーム・笑)


えぇ~~っと、以前にまるん様より 150000ヒットのキリ番リクエストを頂戴いたしておりまして。
そちらの方に、そろそろ取り掛かろうと思います。
ざっくり言えば、パラレル長編になります。
パラレルがお嫌いな方は、リターンでお願い致します(*´∀`*)ノシ

あまり詳細を書くと、面白くないのでざっくり説明。
↓↓↓↓


(まるん様のリク)
りょうちゃんと香ちゃんには、それぞれ彼氏彼女がいる。
(りょうちゃんは、“彼女”じゃなくても可。)
香ちゃんはそこそこの腕前で、ハニートラップなんかもこなすやり手。
りょうちゃんが段々、香ちゃんに惹かれて最終的にハッピーエンドで。




えぇ~と、これをワタシ的に解釈いたしまして、設定を考えました。
設定さえ出来たら、話は自動的にどうにかなるので書いて行こうと思います。
以下、設定。

第1夜 星の降る街で

まるで真っ黒い原石の中に眠る、煌びやかな宝石のように。
濃紺の天鵞絨に散りばめられたスパンコールのように。
輝く街を見下ろすコンクリートの屋上は、冷え冷えと静まり返っていた。
絶え間なく流れるヘッドライトの光の大河と、欲望の渦巻くネオンの底から聳え立つ高層ビル。
大企業の社屋に、高層タワーマンション、シティホテル。
撩には須らく関係の無い世界の代物だ。



撩には根城など無い。
けれどこの数年は、この街に拠点を構えている。
薄汚れた古いちっぽけなビルだ。
あのネオンとライトと喧騒のずっと奥底、この街の深部でまるで深海生物のようにひっそりと存在する。
撩の棲む世界とはそういう所だ。
それは北米に居た時も同じ様なモノだった。
この世は、富める者と貧しき者、持てる者と持たざる者、強い者と弱い者が存在して初めて成り立つ。
撩は初めから何も持たなかった。
否、正確に言えば、何も持たされずこの世の果てに放り出された。
航空機の中から。

放り出された幼児の頃から今までで撩が身に付けてきた全ての事柄は、
全て撩の意思と選択に基づいたものだ。
銃の腕前も、殺し屋という身の上も、その中でも極上と謳われる仕事に関する評判も。
撩は自分という人間を良く解っている。
だからこそ周りからもそれなりの評価を受ける。
いつだって撩は、多くは望まなかった。
そもそもの始まりからして、あの墜落で命を落とさなかった事がまぐれでしかない。
だから(それが幸せなのか不幸なのかは別として)生きているだけで、もう既にアドバンテージだった。
死んでしまっても元々の零に戻るだけ。

そう意識して生きている人間と、
自分の身の上に“死”という厄災が降り懸るワケなど無いと思って生きている人間とでは。
生き方が大きく異なるのも、当然の事なのかもしれない。
撩の身近には、死の臭いが充満している。
他人の“持っている”モノになど興味は無いし、それを奪う事に躊躇も憐れみも無かった。
ただあるのは依頼を確実に遂行する事だけだった。
そうすれば撩は、自分の生を長らえる事が出来た。

でもそれが何だって云うのだと、撩はいつも考えていた。

長らえて一体、自分に何があるというのか。
まだ撩には自分が死ねない事も、生かされている事にも何の理由があるのか。
それともそもそも、その事自体には何の意味も無くただの偶然なのか。
何も解らない。
解るのは自分には社会の一番底の底で、汚物を迅速に処理していく才覚があるという事だけだった。





吐く息が白い晩だった。
そのビルは35階建ての高層ビルで、昼間は何百・何千という人間が働いているけれど。
深夜、誰もが寝静まる頃合いは誰も居ない。
監視カメラと防犯システムと守衛だけがその大きな建物を守っている。
尤も撩にとってはその程度のセキュリティなど、無いにも等しい。
撩が仕事場を選ぶ基準は、どれだけ標的と効率的に接触でき、且つ安全か。それだけだ。
何の変哲も無い普通の晩に、その屋上には先客が居た。


ベージュ色のトレンチコートの懐にライフルを隠し持った撩に背を向けて、女が立っていた。
ダウンの詰まった丈の短い黒いブルゾンに、黒いスキニーパンツに黒いワークブーツ。
手にはM70を握っていた。
色濃く残る硝煙の臭いは、そのライフルが使用された痕跡を物語る。
ブルゾンの襟元に掛かる栗色の柔らかそうな癖毛だけが、何か場違いな印象を撩に抱かせた。
女は撩の気配に、ゆったりと振り返った。

恐ろしく顔立ちの整った女だった。
蒼黒い夜の空気に、女の顔だけはまるで白磁のように滑らかに白かった。
女はまるで花の蕾が綻ぶような柔らかな微笑みを浮かべて、優雅に会釈した。

お先に。

ひと言だけそう呟いた彼女の声は、高いようで低く澄んでいるようで微かにハスキーで。
撩の耳に届いた瞬間に、まるで淡雪のように融けて消えた。
声だけでは無い。
彼女の顔も気配も、鮮烈なようで、淡い。
擦違い様、バニラとジャスミンの混ざったような薫りがふわりと薫った。
それでも撩には遂行すべき依頼があるので、若干の後ろ髪を引かれながらポイントに立つ。
奇しくもそれは、それまで彼女が佇んでいた場所で。
撩はライフルを構えながら、まさかという思いが過った。
そのビルの程近く、対面するように聳える西新宿のシティホテル32階のスイートルームに、
この晩のターゲットが居るはずだ。

スコープを覗くとそこには、撩が仕留めるはずだった黒い噂の絶えない悪徳政治家の骸が転がっていた。
彼はまんまと眉間を撃ち抜かれ、撩の覗くスコープからは流れ出る鮮血までが確認できた。
恐らく彼が息絶えてものの数分。
数分前にそこに居たのは、まるで華奢な子猫の様な女が1人。
撩は慌てて背後を振り返る。


そこには誰も存在せず、残り香すら残さず。
撩の記憶の中にだけ、まるで溶け残った淡雪のように彼女の残像が浮かんでいた。
恐らくは、その記憶ですら時間と共に淡く不確かなモノになるだろうと、その時の撩には感じられた。


(つづく)




第2夜 HotButteredRum

よぉ。

おぉ。






区役所裏のホテル街の内の1つから、撩が出て来たところで偶然にもばったりミックに遇った。
撩は後腐れの無い女としか寝ない。
その日の夕方、たまたま近所のコンビニで顔を合わせたセックスフレンドと、
屋台でおでんを食べながら酒を飲み、適当に空室のあったホテルに入って、セックスをした。
互いに友情にも似た好感以上の感情は無いので、純粋に行為に没頭出来ると撩は思う。
無駄な感情は身を滅ぼす。
撩は女が好きだ。
柔らかくて温かいしっとりとした皮膚の質感は、男には無いモノだ。
けれどそれは、具体的に誰という訳でも無く、ただ漠然と女と寝るのが好きだ。
相手など、病気持ちでなければ誰でも良い。
けれど新規開拓も面倒臭いので、撩は数人のセックスフレンドと適当に遊んでいる。
相手が何処の誰で、何をしているのかなど欠片も興味の無い撩は。
女に質問したりはしない。
女の方にしても、名乗っているのが本名なのかどうなのかも解らない。
それはお互い様であろう。
ついさっきまで一緒に居た女は、良く眠る女だ。
女はいつも先に寝息を立てて寝てしまうので、撩はいつも枕元にホテル代だけを残してサッサと帰る。
疲れている女なのかもしれない。
まるで武装しているようなブランド物のスーツを身に纏い、
仮面の如き化粧を施して、そのクセオヤジ臭い屋台のコップ酒を呷る。
この街では、男も疲れているけれど。
女だって疲れている。






なんだ、やなとこで出くわすな。


そう言って笑った金髪の腐れ縁は、冬の真夜中には不釣り合いな真っ白いスーツを着ている。
撩はマジックミラーになった自動ドアから出て来たところで、
ミックはその前の通りを歩いているところだった。
ミックの傍らに女が居ない所を見ると、今夜は取り込み中という訳では無いのだろう。
自然と2人は並んで歩く。
少し歩いた所に、2人の行きつけのバーがある。
何も言わずとて、2人の足がそこに向かっているのは明白だ。





お楽しみだったのか。

・・・別に、特に楽しかないけどよ。

ふぅん、この節操なし。

お前にだけは言われたくない。




撩が北米からこの島国に移って来た時、ある1人の昔馴染みを頼った。
昔馴染みといっても、撩がその人に初めて逢った時、撩はまだホンの子供で。
その人はその時から既に、老人だった。
その人には沢山の借りがあったし、沢山世話にもなった。
何故だかその人は撩を可愛がり、何の得にも成らない撩の面倒を見てくれた。
一番、世話になったのは薬に冒されて死にかけた時の事だ。

撩が単身この国にやって来た数年後、ミック・エンジェルは撩の後を追うようにここにやって来た。
確か撩より1つ2つ歳は上の筈のこの男は、初めて逢った時からやけに馴れ馴れしく撩に纏わりついた。
初めはゲイなのかと疑ってしまったほどに。
しかしその疑問はすぐに払拭された。
撩はこれまで自分以上の女好きは、この男以外見た事が無い。
そして付合いが長くなるにつれて、この男の他人との距離の取り方を目の当たりにし。
撩にとっては馴れ馴れしいこの距離感は、ヤツにとってはどうやら普通の事らしいと気が付いた。
こう見えて、ミック・エンジェルも殺し屋だ。
けれどミックは、殺し屋と情報屋と表向きにはライターをやっている。
兼業農家ならぬ、兼業殺し屋といったところか。
その昔、2人は手を組んでいた事もあったし、
対立するちっぽけなギャングの用心棒として雇われて対立した事もあった。
(尤も、どんな状況であれ2人の関係性は変わらないので、結果ギャングたちが振り回されて終わった。)








で、振り向いた時にはもう忽然と消えていたと。

うん。




ホット・バタード・ラムのバターが溶けて、アイリッシュグラスの中身がコックリとした黄金色に輝く頃。
撩はその話しを切り出した。
寒い夜更けに無意識に背中を縮めてドアを開けた常連の大男2人に、
マスターは、取敢えず飲んで暖まんな、とそのカクテルを出した。





ちょっとだけ、噂は小耳に挟んだ事はあるな。

どんな?

通称、黒猫。名前の由来は、いつも黒ずくめの服を着てるからとか、猫みたいに敏捷だからとか。それに、



それに?

黒猫みたいに縁起が悪いからとか。

・・・・・・。

でも、死ぬほどイイ女らしいとか。




それは間違いない、と撩は胸の内で呟く。
極上のイイ女だった。
あの屋上で、鮮烈でいて淡い雪の様な相反する矛盾したイメージを喚起させたあの彼女は。
時間の経過と共に、消えて無くなるどころか。
撩はずっと気になっている。
正直言ってしまえば、ついさっきセックスフレンドと獣じみたセックスをしながらも、
頭の片隅の何処かで、彼女のイメージを追っていた。
イメージの端っこは掴めそうで掴めないもどかしい苛立ちを、この数日ずっと撩に齎している。
その感情が何なのか、撩は自分の意思とは裏腹に溢れ出て来るこの感覚を正直、持て余している。




・・・若そうだったけどな。

確か、まだ若いと思うよ、彼女には相棒が居たらしいけど。

けど?

死んだらしい。

相棒って男か?

気になるのか?





厭らしくにやけるミックに撩は、鼻の頭に皺を寄せる。
この男のこういう所が、非常に鬱陶しいのだ。
ミックはそんな撩の表情を楽しみながら、小さく笑う。
ミックは良く笑う。
まるで殺し屋には似つかわしくない程に。





俺もそれ以上の事は、良く知らない。 実際に見た事も無いしね。一度お目に掛かりたいね、是非に。





あの晩、屋上で撩は仕事の先を越された。
普段ならプロの殺し屋として、憤慨するところだが。
不思議と撩はその事に関しては、綺麗サッパリ忘れていた。
クライアントは、撩が殺した訳でもないのに依頼料をきちんと支払ってくれた。
この世の何処かに、もう1人あのターゲットを恨んでいる依頼人が居たという事なのだろうか。
その依頼主は、彼女(黒猫とかいう)を雇い、撩の依頼主は撩を雇った。
そういう事か。
1つの標的に、殺し屋が2人。
それがたまたま、彼女と撩だったというのか。
考えれば考える程、撩は彼女の残像に囚われ続ける。
グラスの中で融けたバターのように、彼女の残像が絡み付く。




酒が進むにつれ、ミックは撩にやたら絡んで、その彼女が気になるのかと冷やかしたけれど。
撩は無視して黙って酒を呷った。
撩のこの心の内を正確に他人に説明するのは不可能に思えたし、面倒臭かった。
けれど違うのだ、気になるとか惹かれるとか、そういう次元では無いのだ。
何故だか撩は、あの彼女とこれから先、
関わっていかなければならないという奇妙な予感めいたものを感じていた。
何の根拠も無いけど。




(つづく)



第3夜 毒蜂

再び撩が彼女を見たのは、豪奢なホテルの大広間で催されたパーティーでの事だった。
擦れ違う時に、彼女からは薔薇の薫りがした。





その宴は、某大手芸能プロダクションの創立40周年記念のパーティーだった。
誰しも一度はテレビで見た事のあるような顔ぶれが、立食形式の会場内にわんさか居る。
勿論、撩には何の関係も無い集まりだが、意味も無くそんな場所には近付かない。
ターゲットはその中に居た。



撩が初めて人を殺した記憶は、非常に幼い頃のものだった。
撩が育ったのは、南米の小国のジャングルの奥地にある貧しい村だった。
元々は、古からその土地に生きる先住民族達の村だったけれど。
近代になって西洋人が開拓という名の侵略を始めてから、その土地の悲劇は始まった。
侵略と抵抗と暴虐と反乱の歴史はそのまま、その村の歴史となった。
支配者たちは勝手に自分達の都合の良いように国を分け、線引きし、領土と領民を我物とした。
その村は、撩が墜ちて来るずっと以前から、国家と名乗るならず者と闘っていた。

自分の名前も年齢も良く解らない程幼かった撩を育てたのは、海原神という男だった。
彼は日系人で、親の代が南米に入植した世代だ。
初めは様々な夢を抱いて、多くの日本人がほぼ地球の真裏へと命懸けで渡って来た。
それから半世紀後、その土地で生まれた海原神の目にその夢の新天地がどう映ったのか。
それは誰にも解らない。
多分、資本主義や白人至上主義に絶望し、世の中を蔑んでいたのだろうと今になって撩は思う。
ともかく、撩を拾ってその村に連れて来て育て上げたのは、海原神だった。
少年になった、けれどまだ戦地に連れて行くには未熟な子供に。
海原は自動小銃とサバイバルナイフを持たせた。
自分の身を守れず死んでゆく人間は、たとえ子供でもその村では淘汰される。
それはまるで野生の動物と同じ理屈である。
撩はそうやって育った。
その村の女子供は、大麻草を栽培した。
栄養と作付面積の少ない土地には、ちょうど良い作物だったし。
収穫した大麻草を高く引取ってくれる仲買人がいて、良い商売になっていた。
その金で、村の男達は武装した。
子供の中で男の子は皆、戦士になる事を前提に育てられた。撩と同じだ。
撩と同い年位の一緒に育った男の子たちは、撩が立派な兵士になる頃には全員死んでいた。
そうやって生き延びて、村の為に闘う男は自然と淘汰されて精鋭へと育った。
それでも、その屈強な男達も。
政府軍との闘いで、簡単にあっけなく死んでいった。
撩には死というものが身近にあり過ぎて、あまりにも日常の一部と化している。








それでは、あの彼女はどうなのだろうと撩は思う。
擦れ違うと花の薫りのする女には似つかわしくない殺し屋という職業を、
何故に女は生業とするのだろう。

彼女は目立つ広間のフロアには姿など見せなかった。
黒い絹のロングドレスは、他の誰より露出は少なく。
長袖に黒いレースのグローブまで嵌めている。
黒い高いエナメルのピンヒールを履いた彼女は、かなりの長身で。
彼女の細い腰に手を回すターゲットの人気俳優と並んでも身長にはさほど差は無かった。
宴が始まってからずっと、ターゲットをさり気なく監視していた撩の目を、いつの間に盗んだのか。
広間の外の廊下で彼女は、ターゲットを射止めたらしい。

擦違い様、彼女が撩の瞳を覗き込んだのが解った。
ホンの刹那、撩と彼女の視線が絡まる。
全く気が付く気配も無い標的を後目に、またしても2人の殺し屋が交差する。



花の匂いを嗅いだのと一続きの動作で、彼女の背中を振り返って。
撩はまるでギュッと心臓を鷲掴みにされたような感触を覚えた。
正面から見ると、まるで喪服のように見えなくも無いほどの黒ずくめの彼女の背中は一転。
大きく背中の開いたデザインのドレスの下には、下着の存在を示す物は何も無い。
真っ直ぐに伸びた背骨と、まるで羽根でも生えてきそうな華奢な肩甲骨。
括れたウエストから広がる女性らしい丸みを帯びた骨盤の張りと丸くツンと上がったヒップ。
背中の開きはヒップの谷間すれすれのところまで延び、
見えそうで見えないというスケベ心を揺さぶる代物だった。
黒猫という名前に反して、撩の脳裏にこびり付いたのは彼女の真っ白でシミ1つ無い背中だった。


それ程、のんびりと眺めていた訳でも無い。
時間にして、ホンの数秒ほどだった。
彼女はターゲットに腰を抱かれ、そのまま高層階用のエレベータの中へと消えた。
またしても撩の目の前で、ターゲットを掠め盗られた。
ちゃっかり標的を横取りされたにも関わらず、撩がまたしてもやられたと臍を噛んだのは翌朝の事だった。







人気俳優の死は翌朝の朝刊で、大きく取り沙汰された。
死因は、飲酒後にバスタブに浸かったまま眠りこんだ事による溺死。
中年と呼ばれる年代になっても独身を貫き、幾つになっても若々しく、女性ファンの多い役者だった。
恐らく、バスタブに沈めたのは黒猫だろう。
もしかすると、依頼の内容から察するに、飲酒では無くオーバードーズの可能性もある。
その辺りは、同じホテルで盛大なパーティーを開いていた事務所サイドの何らかの圧力があって、
情報が公にされていないのだろう。

ハニートラップを張った彼女が実はミツバチではなく毒蜂であったことを、男はどの時点で知っただろう。
死にゆくバスタブの水の底から見上げた彼女は、どんな顔をしていただろう。
撩は無意識に彼女の事ばかりを考えていた。





(つづく)


第4夜 絶対領域

その猫のマークの喫茶店は、表向き至って普通のカフェだけど。
地下には非合法のエリアが存在する。
喫茶店の客は普通の堅気の皆さんであるが、地下を利用する人間は特殊な職業ばかりである。
例えば、撩のように。



伊集院隼人という男は、その昔傭兵をやっていた。
扮装の起こっている各地を転々とし、
ある時期、撩の育ったゲリラたちの村とも対立する政府軍の兵士として闘っていた。
撩とは、その頃からの因縁である。
今でこそ彼は一線を退き、パートナーと共にカフェを経営する悠々自適の生活を送っているけれど。
その巨体には不似合いなエプロン姿は、時に客を委縮させる。
パートナーの美樹も、女だてらに傭兵として跳ね回っていたけれど今ではすっかり、カフェの女主人だ。
彼等にはカフェ経営という表向きの顔とは別に、裏稼業を生業とする裏の顔も持っている。

伊集院はガンスミスであり、武器商人であり、情報屋でもある。
彼の元に依頼しておけば、大概の武器は入手できるし、無いモノはカスタム出来る。
しかし彼は非常に気位の高い男で、己の主義に反する客は相手にしないし、商売気は無い。
即ち、彼の元で取引をさせて貰えるという時点で、
裏稼業従事者としての大きな篩いに掛けられるようなものだ。
この国は、銃器に関して厳しい規制が掛かっているので、
そもそも伊集院ほどの武器商人もそうはいない。
ある意味では、裏街道を歩く人間で彼を知らないとなるとかなりのモグリだし、
彼に相手にされないとなると、大した人物では無いという証だ。







撩がキャッツの店内に入ると、カフェには1人の客もいなかった。
(信じられない事だが、この東京のど真ん中でそれは珍しい事では無い。良くある風景だ。)
終いには、カウンターの中に美樹でさえ居なかった。
そもそもその日は、撩は地下に用があって出向いたのであって、
コーヒーはついでだったので慣れた足取りで、店内奥の地下への階段を降りた。
階段の中程に居たのは、彼女だった。





地下での用を済ませたのであろう彼女は、手ぶらで。
大きく襟ぐりの開いたボートネックのニットのワンピース姿だった。
勿論、黒ずくめは毎度の事だ。


黒いアンゴラのハイゲージニットは、滑らかに彼女の身体にフィットしている。
透き通るように白い首筋には黒い革紐のチョーカーに黒い鳥の羽根飾りがふわりと揺れている。
ワンピースの丈は、マイクロミニで。
膝上まで編上げられた黒いブーツを履いている。
上段を見上げる彼女の唇には、真紅のルージュが引かれ、
ゴールドのラメの光るグロスがぽってりと立体感を強調していた。



撩と目が合うと彼女は、ふんわりと柔らかな笑みを浮かべた。
この地下の存在も、2度のニアミスも、知らなければ誰が彼女を殺し屋だと思うだろう。
彼女は撩からターゲットを掠め盗った事など、まるで悪びる素振りも見せずに。
こんにちわ、と会釈をした。
撩が小さく会釈を返したのと、狭い階段で擦れ違ったのはほぼ同時だった。
擦れ違った彼女からは、イランイランのエキゾチックな薫りが漂った。









撩は伊集院との世間話もそこそこに用件だけを手短に済ますと、
元来たようにカフェへの階段を一段飛ばしで駆け上がった。
先程はカウンターの中に居なかった美樹はいつの間にか戻っていて、
黒の彼女は、会計を済ませている所だった。
一足遅れの撩の為に、カウンターのいつもの席にはいつものコーヒーが置かれている。
撩はドキドキする胸の内を隠したまま、何気ない素振りでいつもの席へと座る。
横目で彼女を観察しながら、コーヒーを口へと運ぶ。
まるで撩と入れ違う様に、彼女は。
さよなら、と言って店を出て行った。
暫く、タイミングを計った後、撩はさり気なく美樹に探りを入れる。





さっきの子、常連?

さっき?

あの、黒のニットの。

あぁ、・・・そうね。 なぁに?気になるの?冴羽さん。

・・・・・・・べ、別にそんなんじゃないけど。

常連さんよ、地下もこっちの方も。

初めて見たな、(ここではね)。

そういえば、冴羽さんとタイミングが合う事は無かったわね、これまで。





美樹はそう言って笑う。
けれど、それ以上の顧客の情報を漏らす気も無い美樹の笑顔に、隙は無い。





何て名前?あの子。





撩のひと言に、店内の静寂が余計に際立つ。
サイフォンのコポコポという音とコーヒーの薫りだけが、店内に広がる。
美樹はニンマリと口角を持ち上げて、他人の悪い笑みを浮かべる。





それ以上の情報には、情報料が発生するわよ?




撩は苦笑いしながら、咥えたマールボロに火を点けた。
深く吸い込んだ煙草の煙の中に、微かにイランイランの薫りが薫ったような錯覚を感じる。
脳内では階段の中程に居た彼女の姿が、フラッシュバックする。
黒いニットに、黒いブーツ、今日も全身黒で固めていた彼女の。
太腿の僅かばかりの絶対領域が、撩の脳裏に浮かぶ。
屋上で見た時も、パーティー会場でも、さっきも。
黒い服しか身に着けない彼女の、それでも撩が思い出すのは。
透き通るほどに真っ白な肌の色だ。
黒が印象的なだけにその中に存在する白は、
余計にコントラストを強めて強烈なインパクトを撩に与える。



あのように体に沿うようにフィットした衣服なら、恐らくは彼女の愛用する銃は。
あのミニスカートの下、サイホルスターに収められているのだろう。
さほど大きな銃を使っている訳でもなさそうだと、撩はコーヒーを飲みながら分析した。


(つづく)




第5夜 赤い夜

撩の育ての親は今、世界を席巻しつつある、ある企業の創始者として辣腕を振るっている。
あの頃、資本主義や拝金主義を憎んでさえいるようにみえたあの男は。
今では世界のブラックマネーを動かすその渦中にいる。
そういう世界も苦しいものだろうと、撩は思う。
撩が昔から闘ってきた相手は、自分自身の運命だ。
時に運命を呪い、世界を憎んだ。
自分の乗った飛行機が墜ちなければ、今頃自分は何をしていたのだろうと夢想した事もあった。
そして、過去がどうであれ、もしかすると自分はこの殺し屋という道を選んでいたのかもしれないと、
漠然と考えたりもした。
いずれにせよ、過去は消えない。


過去はいつも、撩を捕えにやってくる。
気の置けない相棒が出来て、ちっぽけな安穏が訪れようとしたらそれはやってくる。
相棒の幼い娘の命をだしにして、つまらない場末の殺し屋同士の殺し合いをさせる。
撩が抱いた女を消しに来る。
薬と金と権力を使って、残忍なゲームに撩を参加させようとあの手この手で撩に近付く。
あの男が自分に執着する理由が、撩には解らない。
金も地位も権力も手に入れて、あれ以上何を求めているのか解らない。
撩があの男の思い通りに動いた所で、それがあの男の何になるというのだろう。
撩以上にあの男を慕い、忠義を尽くす人間だって掃いて捨てるほどいるだろう。


けれどそれでは駄目なんだろうと、撩は心の何処かで諦めてもいる。
あんなに酷い仕打ちをしたくせに、あの男にとって息子は撩だけなのだ。
撩にとっても親父はあの男だけだ、望むと望まざるとに関わらず。
それでも撩は今はまだ、出来る限りの抵抗をしようと思っている。
確かにあの時彼は撩を拾って、立派に育て上げてくれた。
撩が敵陣でヘタを打って捕まった時、自分の足を犠牲にしながらも救出してくれた。
その恩義を忘れてはいない、けれどもまた、それ以上の数多の恨みも忘れてはいない。
海原神は、闘っているのだろう。まだ未だに。
彼はきっと、何かと闘い続けていないと生きてはいられない男なのだろう。
イデオロギーが歪んでも、
この世のあらゆるものを手中に収めても、
何と闘っているのかという事すら忘れても。
彼は今も苦しい闘いの只中にいるのだろうと、撩は諦めながら同情している。


行きつけのバーの女主人に誘われたから、彼女の場末感漂うアパートの一室でセックスをしていた。
彼女は撩より、随分歳上で撩の遊び相手の1人だ。
恐らく豊富であろう経験は、撩が何もしたくない時には非常に助かる。
ただその若干スプリングがへたり気味のベッドに気怠く横になっているだけで、
彼女は撩を奮い勃たせ、快感へと導き、彼女自身も勝手に気をやってくれる。
撩としては何もしてやった覚えは無いのに、挙句、ありがとうなんて言ってしな垂れかかる。
こうなるともはや、セックスですら無い気がすると撩は思う。
互いに、マスターベーションと同じようなものだ。
どうせマスターベーションなら、気兼ねは要らないと思いながら。
撩はセックスの最中、ずっと考え事をしていた。
昔の事だ。
昔のかつて親父と呼んだ、悲しくて憎い男の事だ。
彼が吸っていた煙草の匂いや、大きく見えた乾いた掌の温度だ。
そして、もっと強くなるための薬だと言って見せられた注射器とアンプルの事だ。
どんなに記憶の底に沈めようと思っても、過去は消えない。



泊まってってもいいわよ?と言った女の言葉を聞かないフリして、撩は表に出た。
どうせ同じ、狭い新宿の街の中の住人なのだ。
撩が落ち着けるのは、自分のねぐらだけだから、女の部屋で眠るなんて真っ平御免だ。
風が刺すように冷たいと思って、撩はポケットの中の携帯電話を確認する。
夜の一番深い時間帯に、さすがにジャケット一枚は堪える。
足早に部屋に帰る途中の路地裏で、4度目の彼女を見た。










ビルとビルの隙間。
コンクリートの壁に背中を凭れるようにして、彼女は座り込んでいた。
ピッタリとした黒い革のツナギ。
首を折って項垂れる彼女の表情は解らない。
茶色い癖毛がビル風に靡く。
利き手には、コルトローマンを握っていて。
その指先から流れる赤い液体が、近付いた撩のすぐ傍まで小さく流れている。
撩の心臓が早鐘を打つ。




おいっっ、大丈夫か



思いの外、大きな声で呼び掛けていた。
彼女の小さな顔が上がる。
真っ白を通り越して、蒼白い。
彼女は撩を見上げると、ニッコリと微笑んだ。
微笑んだ次の瞬間、まるで眠り込むように目を閉じた。




ば、ばっかっっ 寝るなよっっ   おまえ






気が付くと撩は、彼女を抱き上げて連れ帰っていた。
生憎、彼女は死んだわけでは無く。
どうやら撩の腕の中で、寝息を立ててぐっすりと眠り込んでいた。
彼女の指先から滴る赤が、アスファルトに点々と印を残す。
家に着くホンの手前で撩は、この夜がクリスマスイブだと気が付いた。




(つづく)










第6夜 野良猫

撩は自分でも、どうしてそんな言葉が口を吐いて出たのか良く解らなかった。



彼女を連れ帰って、怪我の状況を調べると暗い路地裏では良く解らなかったけれど。
丈夫な革のツナギの上腕部が綻びていて、血はそこから流れていた。
ソファに横たえた彼女のツナギのジッパーを降ろす時に、撩は意味も無く照れた。
彼女は眠っているし、別に疾しい事をするわけでは無くあくまで手当をしようと思っているだけなのに。
心臓は煩いほどに動悸した。
ツナギの下から、黒いTシャツを身に着けた華奢な躰が現れた。
出血が酷いようであれば、教授の所へと連れて行く事も考えたけれど。
一通り調べて、大丈夫だろうと判断して手当てをした。
恐らく弾が掠めたのだろう。
血が滲む皮膚は抉られ、その痛みが如何ほどのものか撩には解り過ぎる程解っている。
そしてこの状況で安堵して眠ってしまっている彼女の疲労が、よほど深いものだという事も。
それからほぼ丸1日、彼女は昏々と眠り続けた。
撩の部屋の、簡素なソファの上でブランケットに包まったまま彼女は寝息を立てた。



長い睡眠から目覚めた彼女に、撩は名前を訊ねた。
彼女は小さな声で、“香”とだけ答えてボンヤリと自分の置かれた状況を確認していた。




貴方が助けてくれたの?

あぁ、大した事はしてねぇけど。

貴方は?

ん?

名前。

んぁあ、冴羽撩だ。好きなように呼べよ。






撩の言葉に香は、生意気そうにフフンと笑った。
撩は自分でも良く解らないままに、怪我が治るまで暫くここに居ろよ。と、言った。
何故、そんな事を言ったのか、どういう心境なのか自分でも説明がつかなかった。



じゃあ、アタシの事も好きなように呼んでね。



と言った彼女の言葉に妙に浮かれていたのかもしれない。
おまぁ、ねぐらは?と、訊ねた撩に彼女は。



沢山あるけど、1個も無い。



と、解るようで解らない返事をした。
ここは良いお部屋ね、そう言って小さく笑った。
すごく落ち着くわ、と香が言った時から。
撩と香の奇妙な同居が始まったのだけど、この時はまだ2人とも何も考えてはいなかった。








香は撩に拾われてから、数日間、何をするでも無く撩の部屋で過ごした。
撩はいつも通りの生活で、昼間に外に出たり、夜は飲みに出掛けたり、軽く仕事をしたりもした。
香はソファで眠った。
もしかすると、撩の居ない間に香も外には出ていたのかもしれない。
気が付くと、着替えの服もいくらか持っていたし、着替えていた。(勿論、真っ黒だ。)
腕の傷はまだまだ治らないし、本当に香は撩の言ったように治るまで居るつもりなのかもしれないと、
撩は思って、思った途端心が弾むのを感じた。
よくよく考えれば、可笑しな話だ。
彼女は殺し屋で、素性も良く解らない。
これまでの撩なら、真っ先に警戒するような相手の筈なのに。
何故だか始めから、撩は彼女に一切危険を感じないのだ。


香は毎回では無いが、気が向いたら料理を作ってくれた。
普通に旨かった事が、撩としては意外だった。
彼女が風呂から上がると、撩は彼女の傷の消毒をしてやった。
別に自分でも出来るだろうが、
撩が何も言わずに手当をするのを彼女も何も言わずに受け入れていた。
不思議と彼女に対して、性欲は抱かなかった。
香という女は、そういう雰囲気を微塵も感じさせなかった。
恐ろしく整った顔立ちに、モデルの様な完璧な肢体。
殺し屋という職業の匂いを全く感じさせない、不思議な雰囲気。
ただ1つハッキリ言える事は、彼女はこれまで撩が出逢ったどんな女とも違っているという事だ。








撩が咥え煙草で香の抉れた皮膚に、脱脂綿に含ませた消毒液を塗り込む。
香は眉1つ微動だにさせず、黙って耐えている。
痛くないワケがないという事は、撩自身が重々身を持って知っている事だ。
表に表せないモノが深ければ深いほど、痛みや傷や後悔や苦しみが大きければ大きいほど。
どんな表情(かお)をすれば良いのかなんて解らなくなるし、言葉は意味を為さなくなる。
撩はその事を、己の経験則から悟っているが。
きっと香もそうなんだろうと無意識に、自分との共通点を探る。
綺麗な肌に残る生々しい傷跡が、撩の胸を締め付けた。


風呂上りの彼女は、シンプルなコットンの黒いショーツに黒いタンクトップだけを身に着けて、
撩のグレイのバスタオルを肩に掛けている。
洗い晒しの癖毛の先から、滴がタオルに染み込んでゆく。
撩の部屋で居候を始めて、彼女からは撩と同じシャンプーと石鹸の匂いがする。
撩はフッと、空気の塊を短く吐き出すように笑った。


おまえさ。


撩の言葉の続きを促すように、香が首を傾げる。
2人とも、恐らくは馬が合うのだろう、言葉数が少なくとも疎通は図れる。
この数日で、内心、互いにそれは感じていた。
皆まで言わずとも伝わる感覚。フィーリング。


着てる下着まで、黒なんだな。




撩の言葉に、香は口の形だけ笑った形になる。
ゆっくりと撩の顔を見詰めながら、撩の唇に挟まれたマールボロを摘む。
撩の口から吸い差しの煙草を奪うと、それをそのまま咥えた。
ゆっくりと深く吸い込み、鼻の穴から盛大に煙を吐いた。
そんな至極オッサン臭い仕草ですら、彼女がやると優雅に見えた。
香は美しい人差し指と中指にマールボロを預けて、目を細める。



喪に服してるのよ。



そう言うと、香はニッコリと微笑んだ。
撩はミックの言葉を思い出す。
死んでしまったという、彼女の相棒の話しを。
死んだ男の存在と、彼女の心の中に占める男の大きさや位置を想像する。
黙り込んだ撩に、香は言葉を続けた。





貴方だってそうでしょう?

???

そんな真っ赤なTシャツとか、変な色のジャケットとか着てても、

余計なお世話だっっ(笑)

全身で喪に服してるの、良く解るわ。





ここで初めて、彼女が死んだ相棒の話しでは無くもっと他の何かについて語っているのだと、
撩は気が付いた。
身近すぎる死の臭いと影。
諦めにも似た悲しみ。
日常に埋もれた非日常。
何となく彼女の言っている事が解るような気がした。
今この時も、次の瞬間には過去に変わる。
撩にも香にもきっと、もう自分ではどうにも出来ない決定的で圧倒的な過去があって。
その事に囚われ続けて、今がある。
足掻いてもそれは、決して解放してはくれないのだ。
彼女はこれまで自分が失ってきたものに対して、哀悼の意を表しているのかもしれない。
そう思いながら撩は、彼女の細い二の腕に包帯を巻いた。



(つづく)


第7夜 奔走

ねえ、撩。

ん?

グリーンピースは好き?食べられるの?






突然の香の質問に、撩は質問の意味を(というよりも、意図を)暫し考え込んだ。
別に好きでも嫌いでも無い。
世の中はクリスマスを過ぎ、どうやら来る正月に向けて盛り上がりを見せているようであるけれど。
殺し屋に、盆も正月も関係無い。
撩はあの貧しいゲリラの村を出るまで、クリスマスや新年の幕開けを祝うという習慣を知らなかった。
否、正確には、知識として知ってはいたけれど。
世界の何処で、そんな事が行われているのか知らなかった。
平和な世界が何処か余所で、その時を同じくして存在するという事を信用していなかった。
その事を考えると、世の中は不公平で不条理で自分の置かれた境遇はあまりにも不幸過ぎるから。
考えないようにしていた。
神様もサンタクロースも平和な世の中もその戦いに勝利する事も、
撩は心の中ではずっとただの理想で夢だと思っていた。
撩はその戦いの中で命を落とさない限り、
死ぬまで永遠にあの地獄からは逃れられないのだと思っていた。
いつもお腹を空かせていて、薄汚れた戦闘服一枚で森の中で何日も過ごし、
少しの物音にも耳を欹て、怯え、食べられそうなモノは何でも仕留めて食べた。


だから、あの村を幾人かの仲間と共に出る事にして、資本主義の大きな世界に潜り込んだ時。
全てが目映く見えた。
甘い食べ物が甘いと感激し、大きな物音が危害を加えるものでは無いという事に喜んだ。
あの時の気持ちと感触は、未だに憶えてはいるけれど。
今では当たり前の事になって少しばかり贅沢になった。
あれから何年経ったのか、数えてすらいないけど。それでも、
撩は何処か浮かれた12月の雰囲気は、好きになれない。
自分の居場所はそこには無いと感じてしまうから。
あの切実だった過去の地獄の世界から抜け出したつもりでいても、
きっと完全には抜け出してはいないのだろう。
否が応でも、あの場所が撩の故郷であり、今の撩を創り上げた場所なのだ。
物理的にそこから逃げ出しても、心と記憶はふとした隙にあの頃へと撩を連れて行く。
嫌いな食べ物など、何も無い。
食べられるモノなら何でもいい。
撩は周りの物事に、多くを望まない。
望んだ挙句に失望する事ほど、痛手は無い。





別に、好きでも嫌いでも無い。何で?




そう言った撩に香はニッコリと笑って、それなら良かったと答えた。
グリーンピースのポタージュスープを、突然発作的に食べたくなったので作ろうと思ったというのだ。
撩の口角は知らず、持ち上がり笑顔を形作る。
撩は多くを望まないけれど、
こうして不意に訪れた楽しみを甘受する程度の器の大きさ位は持ち合わせている。
早い話しが、嬉しいのだ。
得体の知らない殺し屋の女と、ひょんな事から一緒に過ごし、
奇妙な雰囲気に多少呑まれている感は否めない。
撩は信仰を持たないし、神様も信じちゃいないけれど。
香と出くわした事はまるで、神様のボートに揺られているようだと感じている。
どんな女を抱いたとしても、どんなに近い距離まで近付いても。
撩はこれまでまるで地球の内と外に居るような感覚だった。
言葉も通じないし、温度も空気も時間も、全て違う星の生き物のように感じていた。
けれど不思議と香は、他の人間と違って初めて。
撩の前に現れた同じ星の下に生まれた、同じ種類の生き物のように思えた。
撩は床の上に座ったまま小さく伸びをした、黒いニットを着た華奢な背中をボンヤリと見つめた。






撩が新宿の街の住人に誘い出されて飲みに出て、帰って来ると香は居なかった。
キッチンに残された鍋の中には、こっくりと濃い黄緑色の液体が入っていた。
チキンブイヨンと甘い豆の匂いがした。
テーブルの上には、茶色の紙に包まれたバケットが置かれていた。
何処のパン屋で買って来たのかは知らないけれど、それはきちんとイーストの匂いが薫り、
カリカリに焼かれて旨そうだった。
発作的に食べたくなったと言った張本人が、果たして食べたのかどうか解らなかったけれど。
それから香は、丸一日経っても帰って来なかった。










防音仕様の重たい扉を開けると、ガンオイルと火薬とコーヒーの匂いがして、
ヴァイオリンが奏でるジムノペディが流れている。

その部屋の奥の机に座った大男は、依頼人から預かった銃を繊細な手つきで手入れしていた。
撩の姿をチラリと一瞬だけ見て、また視線を手元に戻した。
顎の先だけをクイッと向けて、コーヒーメーカーのある方を差した。
勝手に注いで飲めという事らしい。
いつもの事なので、撩も勝手にそうする。
撩が口を開く前に、男はまるで見透かしたように口を開いた。






猫を拾ったらしいな。

・・・さすが、良くご存知で。

アイツは中々のドラ猫だぞ。




伊集院はそういうと豪快に笑った。
通称、黒猫と呼ばれる香もここの顧客だ。






それがさ、ここ2日ばかり帰って来なくてさぁ。海ちゃん、何処行ったか知らない?

放って置け、元々、野良だ。飼い馴らせるようなタマじゃねぇ。

まぁ、飼い馴らそうなんざ思っちゃいないけどよ。

ほんとか?そうは見えねぇけどな。





いちいち伊集院が皮肉っぽく笑うのが、撩の癪に障った。
大体、この男は。と撩は思う。
こんな怪物みたいなナリをしていながら、あの超絶イイ女と懇ろになって少々、調子こいている。




ばぁかっっ、俺ぁ女には不自由してないっつ~の。



ただ、アイツ、怪我治って無いし。と、ボソッと呟いた撩に、伊集院はフンと小さく鼻を鳴らした。
あの程度の怪我が、自分達にとって大した事では無い事くらい撩とて重々解っている。
もしかすると、彼女を自分の手の中に留めておく為の口実が欲しいだけなのかもしれない。
撩は昨日から、街中を香を探して回っている。
もう数時間で年越しらしいけれど、撩には何も関係の無い事だった。
あれから撩は鍋の中のスープを皿に移して冷凍庫へ入れた。
香が居なくなっただけで、リビングは冷え冷えと感じた。
多くを望まないつもりだけれど、人間は忘れっぽい動物でもある。
撩は自分でも知らぬ内に、少しづつ贅沢になっているのかもしれない。






その翌日も、撩は香を探した。
さすがに正月には、いつもより新宿の街も落ち着いていた。
花園神社の前を通ると、初詣に訪れた参拝客の中の顔見知りに声を掛けられた。
挨拶もそこそこに、撩は歩き回った。
もしかすると、と思ってビルとビルの隙間を確認した。
黒い服に擦れ違うたび、目で追った。
撩には盆も正月も関係無いので、ずっと探し物をしていた。
これまでこんなにも何かに執着した事など無かった。
自分の元から消え去れば、それまでだと思っていた。
自分は一体どうしたいのか、なんで彼女を探さずにはおられないのか、
撩は自分でも良く解らない気持ちに駆られて、焦燥感で喉が渇いた。
元日の日付も変わろうかという頃合い、撩は冷えた身体を引き摺ってアパートに帰った。
何処かで一杯引っ掛けて帰ろうかとも思ったけれど、そういう気分にはなれなかった。





玄関のドアを開けるとそこには、黒いワークブーツが転がっていた。
香の物だ。
撩は思わず目を疑って、急いで靴を脱いだ。
はやる気持ちを抑えてリビングのドアを開けると、子猫はソファの上で丸くなって眠っていた。
恐らくはシャワーでも浴びたのだろう。
濡れたブラウンの癖毛はそのままで、ブランケットすら使わずに寒そうに身体を丸めている。
彼女は、着替えていて。
いつもの黒いインナーでは無く、何故だか撩のクローゼットに仕舞われていた白いTシャツと、
穿き古したぶかぶかのジーンズを穿いていた。
Tシャツの袖からチラリと見える傷跡はそのままで、撩は思わず目を逸らした。
消毒もせず、包帯も巻かずに眠ったのだろう。
少しだけ治りかけた傷に、薄っすらと血が滲んでいる。


それでも、この部屋に気まぐれに帰って来た女に知らず頬が緩む。
一体、外の世界で彼女が何をしてきたのか解らないけれど。
彼女が目を覚ましたら、傷の手当てをして、冷凍庫の中のスープを温め直してやろうと思いながら。
撩は華奢な躰にブランケットを掛けた。




(つづく)



第8夜 理由

撩には、警察内部に多少顔の利くコネクションがある。
所謂、キャリアと呼ばれるその女との出会いはナンパだ。
挑発的なファッションに身を包んだその女が、まさか警察官だとは微塵も思わず撩は誘ったのだ。
彼女との付き合いは数年に亘るけれど、いまだ撩の誘いへの答えは保留のままだ。
半分、コントのシナリオのように撩は目の前に餌をチラつかされて利用されるし、冴子は利用する。



はい、ご所望の内部資料。高くつくわよ?



そう言った女に、撩はフンと鼻を鳴らす。
その手には乗らない、今回に関しては感謝こそされてもおかしくは無いケースだ。



冗談だろ、感謝して貰いたいぐらいだぜ。お前らが、ユニオンに手ぇ出せるっつ~んなら別だけど。




冴子は肩を竦めると溜息を吐いた。
個人としては、断じて許してはおけない連中だと冴子も考えている。
けれど、この国の一部の富裕層や政治家は確実に奴らに掌握されている。
そこには想像を絶する程の巨額な金の流れが存在し、その大河は確実に。
持てる者と持たざる者を対岸に分断し、世界を分けている。




忙しそうな女と別れ、撩は混み合った駅前のカフェに入った。
カウンターでブラックコーヒーを受け取ると、
分煙の為に仕切られたガラスの檻の様なスペースに落ち着く。
クラフトの封筒に収められたレポート用紙には、クリスマスイブに起きた変死事件について記載されている。
歌舞伎町の片隅で額を撃ち抜かれて死んでいる男が発見された。
その場所は、香が座り込んでいた路地の目と鼻の先である。
死体からは複数の成分不明の薬物が検出され、男は身元不明ではあるものの、
一部の捜査員の証言によると、
恐らくはユニオン・テオーペの末端構成員の可能性が極めて高いというものだ。
死体の傍らには、銃弾の残滓とも思われる複数の物的証拠が残されており、
銃弾が貫通したと思われる頭蓋内の状態を見た所、
使用された銃弾は357マグナム弾と考えるのが妥当。と、いう事だ。
これは恐らく、香の握っていたコルトローマンから発射されたものだろう。

撩はそこまで読んで、また元の通りにその資料を封筒に仕舞った。
警察はこの件を一切公にはしていないので、新聞の小さな記事にもこの事は載らなかった。
この数年、驚異的なスピードでユニオン・テオーペが、この小さな国に侵攻を謀っている。
元々は、南米の麻薬密売組織であるその組織は、今や堂々と合法的な製薬会社をフロントに据え、
世界各国にその商売の手を広げている。
その大元締めであり、創業者が撩の育ての親・海原神なのだ。
奴等のやり方はまず、各国の政治家や実業家に取り入る事から始まる。
大きな目的は、軍需産業としての大口の取引なのでフロント企業の業績は二の次だ。
そしてそれと同時に、アンダーグラウンドでも暗躍する。
安い合成麻薬を、盛り場を中心に売り捌く。
当て所無く燻ぶっている連中を組織に引き入れ、末端の構成員として使う。
表向きの商売で上がる利益とは別に、闇のルートから上納される利益もかなりの額である。

それでも警察は、その事に向き合おうとはしない。
捜査線上に“ユニオン・テオーペ”の影がちらつくと、内部機密として扱い問題を先送りする。
末端の問題を論うと、都合の悪くなる連中が確実に存在する証拠だ。
臭いものに蓋をし、事勿れ主義で誤魔化す事が、事態をますます悪化させている。
実際、警察の中枢は別として、
現場レベルではその組織の本当の恐ろしさを理解していないというのが実情だろう。

香が殺ったと思われる件の人気俳優は、麻薬常習者だった。
ユニオンの主力商品は、エンジェルダストという最悪最低の悪魔の薬だが。
それは主に、戦場で戦う兵士向けに開発されたもので娯楽用のカジュアルな商品とは違う。
彼が使っていたのは、ユニオン・テオーペが大衆向けに開発した向精神薬である。
一見、覚醒剤や大麻などのような分り易い副作用は見受けられないが、
その依存性と危険性はどの薬物よりも極めて高い。
彼はバスタブで溺死せずとも、放って置いても2~3年後には死んだだろう。
薬物を使うという事はそういう事だ。
それでは何故、撩の元に(そして、恐らくは香の元にも)彼を消す依頼が入ったのか。
彼はユニオンのフロント企業である製薬会社の広告塔に、大々的に抜擢された。
年末年始の胃腸薬のCM、風邪薬、鎮痛剤、果ては水虫の薬のCMまで彼が務めた。
何も知らない消費者は、露出度の高さやイメージで商品を選ぶ。
その売り上げが、世の中の歪を広げ、組織を巨大なモノへと育てている。
それを阻止する為の依頼だった。

ホテルのスイートルームで狙撃されて死んだ政治家は、かつて厚生労働大臣を務めていた。
その時に、ユニオン傘下の製薬会社の日本支社設立に尽力したのが彼だ。
その裏には、巨額のブラックマネーの存在がある。
殺されるその時まで、彼とユニオンの間には黒い癒着があった。





撩と香の出逢いを考えた時、その全てにユニオン・テオーペが絡んでいる。
撩がその事に薄々気が付き始めたのは、街中の正月気分もそろそろ抜けてきただろうかという頃だった。
彼女の標的も、最終的には。

海原神なのではないだろうか。



その考えが脳裏を掠めた瞬間から、撩の中でその事ばかりが大きく膨らみ続け払拭できないでいた。
撩が今、こうして殺し屋として生きているのは、勿論これしか道が無かったという事も大いにあるけれど。
ひとつには、ケリをつける為。
どんな男であろうと、海原神は撩にとって唯一無二の存在であり、
奴の狂気の発端に、少なからず自分も関わっているのではないかと、
撩はあの時からずっと思い続けている。
そしてあの狂ってしまった男を、狂気の底から引き摺り出せるのは最終的に自分だけだと。
警察が動き出した時にはもう、手遅れだろう。
この国は内側から喰い散らかされて、残るのは無残な骸だけとなるだろう。
過剰なカインドネスと性善説は身を滅ぼす。
それがこの国の国民性であり、美徳でもあるだろうけど、ウィークポイントでもある。
それは世界基準では、ただの美味しいカモだ。
純粋で気高く慎ましやかな民族は、いつだって禍々しい醜悪な世界に蹂躙される。
その事を幼い撩に教えてくれた男は今、死すら恐れない廃人を作り出す悪魔の薬を売り捌いて、
世界を蹂躙している。














どうして、ユニオンを追ってる?





そう撩が訊ねると、香は臥せていた顔を上げて撩を見据えた。
黒いリブ編みのセーターを着て、撩のジーンズを穿いている。
どうやらその古ぼけたジーンズを気に入ったらしい。
気が付けば、撩が香を拾って来てもうすぐ1ヶ月が経つ。
撩のアパートの地下には射撃場があり、そこで2人は向き合った。
ガンオイルと硝煙の臭いが充満する地下室で、彼女からは白檀の薫りがした。





2年前、パートナーが死んだの。




彼女の言葉に、撩の心がザワザワと波立つ。
ミックの言葉が耳に蘇る。
やはり、噂は本当だったらしい。
不思議な雰囲気を纏った彼女の唯一の、男の影。
撩は訳も無く緊張した。




実の兄だったの。死んだパートナー。









兄の秀幸が何故、殺し屋をやっていたのか、香は知らない。
物心ついた時には、香の家族は兄だけだった。
兄は香が同じ道を選び、相棒になると言った時激しく反対した。
けれど香は、人生に於いて他の選択肢など一切考えていなかった。
兄を家族として、愛していた。
もしも兄が死ぬのなら、自分も生きていても仕方ないと思っていた。
だから自分の知らない所で死なれるよりも、一番近い場所で兄と共に生きようと思った。
その兄が殺された。
ユニオン・テオーペという麻薬密売組織に。

兄は生前、ドブネズミにはドブネズミなりのルールがあるし、
行動原理というものがあると常々、香に言って聞かせた。
彼を呼び付けて、自分達の傘下に下るように詰め寄り、承服しなかった彼を組織は殺した。
兄が死ねば、自分も生きてはいけないだろうと思っていた香は、生きている。
生きて、兄を殺した相手と闘うと決めた。
それが香がこの世界に留まっている理由だ。








貴方は? ユニオンに何の恨みがあるの?貴方も追ってるでしょ?






この時、撩はこれまで誰にも話した事の無い事を、何故だか告白した。
彼女になら全て話せる気がした。
撩は被害者でありながら、心の何処かで罪悪感も感じていた。
あんな薬を打たれてあの場で自分が死んでいれば、
その後あれを広めようなんて馬鹿な事を、あの男も考えなかったかもしれない。
自分が生きている事、その事自体をもう何年も撩は悔いていた。
それは懺悔だったのかもしれない。
しがない罪人は、聖母マリアを前にして赦しを乞う為に涙を流す。






エンジェルダストを、この世で初めて投与されたのは



俺だ。










撩は自分でも気が付いていなかった。
撩の頬に伝った一筋の涙を、香が華奢な指先で拭った。
パイプの椅子に情けなく座り込んだ撩を、彼女のしなやかな躰が包んでくれた。
撩の柔らかな黒髪を、香の指先が優しく梳かす。
泣いても良いんだと、まるで甘やかすように。


(つづく)



LastNight an offer

なんじゃ、ベビーフェイス。辛気臭いのぉ、儂の大事な蔵書にカビが生えそうじゃ。




そう言って、撩の昔馴染みは笑った。
実際、撩はこれ以上無いというほど憂鬱な表情で、その屋敷を訪れていた。
マホガニーの猫脚にゴブラン織りの古臭いソファに寝そべった撩を、
その人はかれこれ1時間近くも待たせていた。
散々待たせておいてあんまりな言い草である。
撩が口を開く前に、老人が先手を打った。





最近、子猫ちゃんが棲み付いておるらしいの。



撩は思い切り顔を顰めて、またかよ。と小さく呟く。
伊集院といい、教授といい、撩が何も言わない内から知っているから鬱陶しい。
撩は寝そべったまま、ダンガリーシャツの胸ポケットから煙草を取り出す。




なんで、知ってんすか?誰もかれも。



膨れっ面の撩の言葉に、教授は相好を崩す。
どうやら他の人間にも、香との同居生活について面白がられているらしい。
撩は自覚が無いけれど、意外と子供っぽい所がある。
超一流のスナイパーも老人にとっては、いつまでも初めて逢った幼い時のままだ。




皆、お前さんの事が気になるんじゃよ、愛じゃよ、愛。

きんもっっ、鳥肌立つわ。止めて下さいよ。

ふぉふぉふぉ、可愛いのぉベビーフェイスは。




撩は眉間に寄せる皺をますます深めて、深い溜息を吐く。
趣味の悪いジョークを受け流して、本題に入ろうとするとまたしても老人に先を越された。






それで、そんな顔してここに来たという事は、悩み事かね。子猫ちゃんかな?原因は。

・・・・・・。

そうみたいじゃのぉ。柄にも無く、心を掻き乱されて動揺しておる。そんな感じじゃな♪






撩は楽しげにテンションを上げる老人の言葉を無視して、
煙草に火を点けようとするも、こういう時に限って、愛用のジッポーは中々点火しない。
イライラして、一度咥えた煙草をまたパッケージへと戻す。
確かに撩は今現在、自分でも良く解らない感情を持て余している。
教授のペースとなったこの流れを断ち切るべく、撩は1つ咳払いをする。






ま、そんな事はどうでも良いんですけど。
教授、ご存知なんでしょ? 元々、彼女の事。


まぁね、知ってるよ♪


海原とユニオン絡みの依頼を、俺と彼女の両方に仲介したのは貴方ですか。








撩の質問に、教授は意味あり気な微笑みを湛えながら、窓の外を眺めた。
常緑の庭木以外は寒々しく葉を落とし、片隅の池の水面はピクリとも動かない。




気が付くのが遅いわい、ベビーフェイス。



そう言って撩を振り返ると、老人は盛大に破顔した。
対照的に撩は、真剣な表情で彼を見据える。




何故です?

怖い顔してからに、なんじゃいつもカワイコちゃん紹介したら、喜ぶくせに。

何故です?

お前さんに、お似合いじゃろう? タイプじゃないかね。喜ぶと思ったんじゃがのぉ。

っんだよっっ、見合いのノリかっつ~の。





そう言って唇を尖らす撩に、教授は漸く本当を明かす。






彼女と、お前さん、互いの為じゃ。あの子は真剣じゃ、真剣に神の奴を狙う気じゃ。


俺だって、真剣ですよ。あの男には、色々と恨みがありますからね。


儂はの、撩。お前さんの事は今更、心配はしとらんよ。
でも彼女は別じゃ、神という男は狡猾で頭の良い男じゃからのぉ。
ただ勢いだけでぶつかって勝てる相手じゃない。
お前はあの子のお守りじゃ、そして、あの子もお前のお守りじゃ。
あの子が傍に居る限り、お前は命を粗末には出来んじゃろ。



そう言うと、老人は優しく笑った。
撩はいつだってこの人の掌の上で、上手い事転がされている。
亀の甲より年の功とはよく言ったもんで、撩はいつも彼にだけは全く歯が立たない。




のぉ、撩よ。

はい。

もうそろそろ、自分を責めるのは止めなさい。お前はお前の望むモノを手にしなさい。罰は当たらんよ。








撩は新宿のアパートに戻る愛車の中で、
最後に言った教授の言葉の意味を、何度も考えた。
撩が望むモノ。
金には興味が無い、食べる物にも、着る服にも。
撩が望むモノ。
今撩が、失って一番惜しいと思うモノ。


撩は思い出した。
火薬とガンオイルの匂いの中に混じった、白檀の薫り。
柔らかな指先が髪の毛を撫でる感触。
寒空の中を探し回った時の、焦燥感。
流れる血を見た時の、心臓を引き絞られるような胸の痛み。
彼女の事を、香という得体のしれない女の事をもっと知りたい。

撩は気が付いた。
2年前に死んだという男に、自分は嫉妬している。
その元相棒の為に命を賭して危ない橋を渡っている彼女の瞳に、自分を映したい。
彼女の怪我が治っても、自分の腕の中に囲っておく理由が欲しい。

撩は彼女が欲しい。













おかえり。

ただいま。





撩がアパートに戻ると、車の中でずっと考えていたその彼女は。
寝起き(もう昼過ぎだ)の寝グセだらけの髪で、欠伸をしながらコーヒーを飲んでいた。
いつもの黒いショーツの上に、撩のアラン模様の毛玉だらけでぶかぶかのセーターを着ている。
丈が太腿の中程まである大きなセーターの下から伸びる、すんなりと細い素足。
ソファの上に胡坐をかいて、コーヒー片手に新聞を読んでいる。

いつになく真剣な表情で、目の前に視線を合わせて座った撩に。
香は首を傾げて、飲む?とマグカップを差し出す。
撩は要らないと、首を振る。





なぁ、香。

なに?

お前と俺はさ、最終的な目標は同じな訳じゃん?

そうなの?

そうだろ。

で?







撩は、真剣な表情で居住いを正す。
小さく咳払いをする。





だからさ、オマエには新しい相棒が必要だろ?





香はキョトンとしていた。
無理も無い、撩は教授宅から帰って来るまで、やる気満々で満を持してこの提案をしたのだ。
寝起きの彼女とは、テンションが違い過ぎる。
けれども、元々頭の回転が速く聡明な彼女なのだ。
撩の言葉の意味を理解して、フッと笑った。




うん、まぁ別に良いけど(笑)


ぃよっしゃぁああっっ





大袈裟に喜んで、ガッツポーズなどを決める撩に。
香は初めは吹き出して、それからお腹を抱えて笑った。
笑いながら、気が付くと泣いていた。
香はずっと孤独だった。
兄を失って、自分自身も数え切れないほど沢山の命を奪って来た。
これから先もずっと、そうやって生きて。
目標を遂げたら、死のうと思っていた。
恨みを晴らすだけの無為な人生。
けれど、香にはそうする事しか考え付かなかった。
ごくたまに、もっと他に何か出来る事があったんじゃないかと、考える事もあった。
兄が死んでしまうもっと前に、もっと何か別の方法が。
でも、過去は取り消せないので諦めながら死んだように、生きていた。



でも、撩と逢って。
少しだけ気持ちが変化した。
今までは、同じ場所にずっと居続ける事が苦痛に思えていたのに。
この部屋は、まるで昔から住んでいた場所のように落ち着いた。
何より彼は、一緒に居てとても楽だった。
これまで出逢ったどんな人ととも違う、不思議な雰囲気を纏っている。
彼の事は意外と嫌いじゃない、というよりむしろ好きだ。
彼と居て、香は何年か振りに心から笑ったりした。








宜しくな、パートナー。



そう言って、撩は涙で濡れた香の頬を両手で包んだ。
乾いた指で、そっと涙を拭った。
2人は生まれて初めて、他人の温かみを知る。






あぁぁぁっと、それとな、香。

なぁに?

初めに言っとくけどさ、俺、メッチャクチャえろいからさ。

うん、何となくは知ってる。

取敢えず、パンツ1枚でウロウロすんじゃねぇ。何か穿け。






2人は冬の暖房の効いたリビングで、クスクス笑いながら。
気が付くと、口付け合っていた。
撩の脳内に、老人の言った『愛じゃよ、愛。』という言葉が木霊した。

冴羽撩は生れて初めて、誰かを愛するという意味が少しだけ解りかけたような気がしていた。






(おわり)





まるん様、リクエストこんな風になりました。
カオリンの男の影は、槇ちゃんだったってオチで。
お粗末様でしたぁ~~~~
リクエスト、ありがとうございます(*´∀`*)ノシ

相棒がサンタクロース

土の中に、竹の杭が1本、2本、3本・・・・


香は目測で大体の間隔を置いて、杭を配置する。
意外と地面が柔かくて、罠(あな)を掘るのもすんなりと済んだ。
杭を埋め込んだら後は、不自然にならないように回りの地面と同じようにカモフラージュする。
普段は開店休業状態の冴羽商事には、まるで嫌がらせのようにこんな時期に依頼が舞い込む。
その仕掛けで最後だから、なんとかギリギリイブの内にトラップは完成する。
都心から車で二時間ほどの山の中で、香は黙々とトラップを仕掛ける。
先程まで撩も手伝ってくれてたけれど、撩は今は敵のアジトを見張っている。
表向きは個々人学生や社会人の肩書きを有している集団は、世間一般的には過激派と呼ばれる。
御大層な理想主義と大義名分は、彼等にしか通用しない理屈で。
彼等が革命と呼ぶ危険行為で、全く関係の無い死人まで出ている始末だ。
初めは穏やかだった集団は、徐々に暴力的な側面を帯び、今やヤクザ顔負けの武装をしている。

殺さない程度に、集団の幹部メンバーの身柄を確保する。それが目的だ。
けれど相手は武装しているので、コチラとて出来得る措置は講じるまでだ。
素人のあんちゃん達相手に、プロの厳しさを見せてやらないといけない。



殺さない程度にな。


撩にそう言われて香はコクンと頷いた。
頭の中で、対夜這い防止トラップをイメージして、構成を考える。
要領は同じ事だ。
撩の夜這いを阻止する為のトラップは、あくまで撩の動きを封じるのが目的であり、
撩を殺すつもりは無い。



クリスマスなのに、と香は考える。
クリスマスなのに、こんな時間にこんな所で、香の手も顔もツナギもブーツも泥だらけだ。
でもそれは、撩も同じ事で。
クリスマスなのに、愛銃に弾を込めて待機している。
これが仕事なので仕方がない。
世の中の殆どの人たちは、クリスマスでも働いている。
冴羽商事も同じ事だ。
今回の依頼には、バックに公安のお偉方が付いているので、払いの方も手堅く且つ迅速だ。
年越し前には、懐も潤うだろう。
木々の合間から、真っ黒な空を見上げる。
新宿のアパートから見上げるよりも、星が綺麗に見える。


今頃、サンタさん何処らへん飛んでるかな。


香はクスッと笑う。
子供の頃の香は、サンタクロースが居ないって事を知っていた。
概ね準備が整った頃、撩が現れた。
ホレ、と言って香にMP5を放って寄越す。
ずしりと重い3㎏程の、サブマシンガンを香も慣れた手つきで受け取る。





一応な、護身用に。弾は込めあてる。予備は要らねぇだろ。

うん、大丈夫。 C-4も持ってるし。




香の言葉に撩は苦笑する。
殺さない程度にな、と言っておいたのに、相棒はご丁寧にもプラスチック爆弾まで携行している。
もっとも、相棒なら適切な用法用量を心得ているから、その点は信じている。




じゃ、打ち合わせ通りに頼まぁ。

ラジャー。



香はアジトのすぐ傍まで近付いてゆく、撩のカーキ色のブルゾンの背中を見送る。
“護身用”のサブマシンガンのストラップを肩に掛け直すと、カサッと音を立てて紙切れが落ちる。
拾い上げて読んだそれには、見慣れた撩の文字が書いてあった。




『サッサと終わらせて帰ったら、一緒にケーキ食うぞ。』



知ってたんだ、と思わず香の頬が緩む。
昼間、現場に入る前にアパートのすぐ前のコンビニで、2個入りの小さなショートケーキを買った。
少しはクリスマスらしい事をと、けれど撩には内緒のつもりで冷蔵庫の奥の方へ仕舞った。
帰ってからのサプライズのつもりで。
紙切れには、メッセージの横に。
小さなマルと、小さなバツが沢山散りばめられていた。
まるでこの夜空の星のように。
マルとバツの数だけの、キスとハグ。



子供の頃、香はサンタクロースを信じていなかった。
本当に小さな頃は、サンタクロースはお父さんだったし。
少し大きくなってからは、サンタクロースは兄貴だった。
別にプレゼントなんて要らなかった。
いつも傍に居てくれるだけで良かった。
そして、大人になった香のサンタクロースは相棒だ。



クリスマスディナーもイルミネーションの夜景も高価なプレゼントなんかも、与えてくれないサンタだけど。
でも香に、一番素敵な恋する気持ちをくれたサンタクロースだ。
香は信じている。
彼が世の中の暗闇でやっている物事は、遠回りでもいつか誰かの為になっていると。
誰かの父親と誰かの夫と誰かの恋人が、誰かのサンタクロースが、
毎年、幸せにその役目を届けられるように、世の中の恐ろしい事や酷い事を掃除する仕事。
それが香のサンタクロースの仕事だ。
そしてそれを手伝う事が、香の仕事だ。
きっと遠回りでも、何処かの誰かに幸せを届けられる筈だと。



遠くで聞き慣れた銃声が響いた。
今夜のショーの始まりだと思うと、香は小さく身震いする。
取敢えずの目標は温かな2人の寝室に、互いに無事に帰還する事だ。
それは2人にとって、一番のクリスマスプレゼントになるだろう。
香は今夜も、愛を込めて武器を握る。













クリスマスなのにお仕事は、しがないサラリーマンの哀しい運命です。
メリークリスマス(*´∀`*)ノシ
[ 2014/12/24 21:21 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

26. 冷たい手

冷たい手が撩の裸の胸を擽る。
冷たい手には薄ピンクの桜貝の様な爪が生えていて、
少し細すぎる指には以前撩が贈った7号サイズの輪っかが嵌っている。
冷たいのは手だけでは無い。
彼女の太腿は滑らかですべすべしていて冷たい。
その滑らかでしなやかな細い脚が撩の脚に絡み付く。

冷たいというと、多少語弊があるかもしれない。
彼女は撩よりも平熱が低い。
きっと男と女の身体の違いだ。
華奢で無駄な肉など一切無いように見えて、やはり女なのだ。
裸の彼女の身体は女性らしい丸みを帯び、弾力のある皮膚の奥は何とも言えず柔らかい。
柔らかくてひんやりとしてすべすべしていてそれでいてしなやかな力強さも秘めている。
女の身体はこうして、男が胸に掻き抱いて包み込む為に出来ているように撩には思える。
彼女の身体を包む薄い皮下脂肪の層は、彼女の表面を冷やす。
眠りに就く前には、撩の手に散々弄ばれ燃えるように熱くなっていたその手は、今は冷たい。
隣の男で暖を取るように、彼女は無意識にまるで猫のように撩に擦り寄る。


ここ最近の香は必ず、風呂から上がると完全防備で出て来る。
ネルの冬用のパジャマの下には、薄手のレギンスにババシャツ。
足先は薄い靴下の上にもう一枚、厚手のフリースのモコモコ靴下。
パジャマの上には、赤い絣のちゃんちゃんこ(撩とお揃いだ)を着ている。
色気もへったくれも無いのだけれど、その完全無欠の防寒対策は、
残念ながら布団に入るとすぐに、撩の手によって1枚1枚剥がされる。
湯冷めしないように着込んだはずの香は、結局毎晩、撩の隣で生まれたままの姿で眠っている。
初めは寒いと苦情を言いながらも、撩の手で高められながら香の身体が火照る。
そうやって少しづつ、乱れていく香を見るのが撩は好きだ。
小さく喘ぎながら、絶対に言いたくないと唇を噛み締めながらそれでも最終的に。
撩を求める言葉を言わされる、香の淫靡な表情が好きだ。
彼女をそうさせているのが、他でも無い自分自身だという事が撩の胸に妙な満足感を齎す。
この世で自分だけが、この彼女の表情と温度を知っているという事実が撩を熾す。
滾った撩が香の内側から焼き尽くす。
それでも満足感に包まれて深い眠りに落ちて数時間、明け方の一番寒い時間になると、
彼女はこうして撩に擦り寄る。
まるで寒がりの猫のように。


それで眠りの浅い撩はいつも、目を覚ます。
彼女の身体を腕の中に包み込んで、布団を掛け直す。
暫くすると撩の温みが伝わって、彼女が再び深い寝息を立てる。
撩は知っている。
眠っている彼女に少しづつ触れて意識よりも先に神経に快感を与えると、
再び親密なスキンシップが始まる事を。
気怠そうに覚醒しながら、すんなりと撩を受け入れてくれる彼女の優しさを。
彼女とこうして寝るようになった初めの内は、何度もそうして確認した。
彼女が確かに自分の腕の中に居るんだと。


撩は冷たい彼女の指を目の前に翳す。

清潔に整えられた指先は色を失って、嘘みたいに白い。
彼女の人差し指をゆっくりと、口に含む。
優しく甘噛みすると、彼女の眉間が微かに寄せられ寝息が不規則になる。
起こさないギリギリの所で、撩は遊ぶ。
小さく身じろいで彼女の口から洩れる吐息が、数時間前の彼女に重なって。
撩の鼓動が少しだけリズムを速める。
この先を、無意識に求める本能が撩を急かす。
けれど撩はわざと自分自身を焦らす。
人差し指だけでなく、順番にゆっくりと両の手全ての指を口に含み、舐る。
未だ眠っている筈の香の頬に、ゆっくりと赤みが差す。



食べてしまえたら。
この愛し過ぎる存在を食らい尽くして、己の糧として、自分だけのものとしてしまえたら。


そんな狂った妄想が、撩の脳内を駆け巡る。
柔らかく香の喉元に歯を立てて、柔らかな肉を食い千切り、咀嚼して飲み込む。
香の身体は撩の一部となって永遠に2人は1つになる。
それでもそれは、ただの妄想に過ぎないので撩は、華奢な指先に優しく歯を立てながら舐る。








香が少しづつ目を覚ますと、指の先に柔らかくて熱い粘膜の感触が伝わった。
撩の舌はねっとりと香の指を包み、吸い立てる。
そんな撩の舌の蠢きは、香の胸に数時間前の感覚を呼び起こす。
指を舐められているだけなのに、快感を教え込まれた香の身体には少しづつ火が点る。




・・・りょ・・お?



寝起きの彼女の声は小さく掠れていて、まるで喘ぎ声のようだと撩は口角を持ち上げる。
それまで丹念に舐め上げていた彼女の手を布団の中に戻し、
撩の体温を分け与えるように、大きな手の中に包み込む。
彼女の声の中に含まれる微かな艶と媚に、気が付かないフリをして。
彼女の額に口付る。
香は擽ったそうに首を竦めながら、恥ずかしそうに微笑むけれど。
本当はもっと別にして欲しい事がある事を、撩は見抜いている。
見抜いているけれど、今朝の撩は少しだけ意地悪だ。



なに?



わざとらしく爽やかに微笑む。
今の今まで厭らしく彼女の指先を犯していたクセに、まるで他人事のように。
彼女の眉根は切なそうに寄せられ、
撩の胸板に当たる彼女の双丘の先のささやかな突起が固くなっている事に気付く。
撩自身、激しく求めているけれど、根競べで彼女に負けるつもりは無い。



ねぇ。

ん~?どした?

・・・意地悪。



彼女の紅茶色の瞳を薄っすらと、涙の膜が覆う。
目の縁が赤く色づく。
撩が抱き締めた身体は、いつの間にか温かみを取り戻し呼吸は不規則に乱れる。




どうして欲しいの?



吐息と一緒に、撩が香の耳に言葉を吹き込む。
それだけで彼女の頬に飽和した涙が一滴、溢れて落ちる。
意地悪を言う男に、香はまるで子供のようにむずかる。
解っているくせに解らないフリをする男が憎らしくて、欲しくて堪らなくなる。
柔らかく拘束された腕の中から抜け出した香の両腕が、撩の首に回される。
撩の後頭部の癖毛に指を差し込んで、力を込める。




・・・ス、して。

へぇ、キスだけでイイの?



首を振って撩の問いに答える香の口元に、撩は耳を近付ける。
観念した恥ずかしがり屋の彼女は、囁くように強請る。
彼女の願いを聞き届けた意地悪な男は、満面の笑みを湛えて大きく頷く。
まずは手始めに、御望み通り。
濃厚な口付を。










真昼間から、朝チュンです(*´∀`*)えへ
久々にお題。

58. タイミング

どんなに気が合う同士でも、どんなに仲が良くってもタイミングが合わない事ってあるしね。
と、香は自分に言い聞かす。
ましてや2人の間には、未だ明確な意思の確認というのは為されておらず、
多分、何となくお互いに憎からず思っているんだろうけれど、
もしかすると、時には言葉で明確にする事も必要なのかもしれない。

始まりは些細な事だった。
暮れも押し迫ってお金の出て行く事は山ほどあるのに、依頼は11月の終わりに解決した1件きり。
香は勿論、駅前でいつものビラを配った。
成果は一切無かったけれど、連日店に訪れて溜息を吐く香に見かねて声を掛けたのは美樹だった。
なんでも知り合いの居酒屋で、頼りの綱のアルバイト店員が3名もインフルエンザでダウンし、
この師走の掻き入れ時に、二進も三進もいかないという。
臨時で短期のアルバイトを求めても、何処も人手が足りない状態で簡単に替わりは見付からないという。
猫の手も借りたい店主と、何でもイイから働きたい女の、利害が一致した。
それが、12月20日の事だった。
期間は12月30日までの10日間、それまでみっちりと忘年会の予約は埋まっている。
場所は同じ新宿だし、歩いて行ける目と鼻の先。
またとない好条件のアルバイトだと、香は思ったのだ。
どうせクリスマスは毎年、撩は飲みに行くから独りぼっちだし、
そうじゃなくてもお酒の誘惑の絶えない撩は、毎晩、飲み歩く季節だ。
何時に帰って来るのかも解らない男を待って、1人で観る年末特番だらけのテレビはいつも以上に淋しい。
それならいっそ、その時間を有意義に働いてた方が良いじゃないかと思ったのだ。
意外な事に、そんな香の報告に撩は異議を唱えた。
夕飯もちゃんと作って行くし、迷惑はかけないから。という香に、
いつまでもうんと言わない撩が焦れったくて、香はカッとなった。
誰のせいで生活費が余計に掛かってると思ってるんだという、いつものお小言と小さなハンマー。
けれどそれはいつもの事なので、撩もそこまではいつも通りだった。
撩が言葉を噤んで勝手にしろ、とリビングを出たのはその後の香の言葉を聞いてからだ。



どうせ撩は、
毎晩、飲みに行ってるじゃない。
アタシが独りの時間に何したって、撩には関係無い。





クリスマスだっていっつも、アタシ独りじゃん。
撩は沢山、綺麗なお姉さんたちに囲まれて楽しいのかもしれないけれど。
アタシは毎年、この季節が大嫌いなのよ。という愚痴まではさすがに呑み込んで、グッと堪えた。
撩がプイと膨れて出て行ったリビングで、香は泣くまいと唇を噛んだけど。
少しだけ泣いてしまった。

それから10日、漸く約束の期間が今夜終わった。
明日から店の方も正月休みに入るらしい。
あれから撩と香は、何となく気まずいままだ。
珍しく香の方が午前様で、香が帰ると撩はもう寝室に籠っているし。
香が朝起きても、撩はまだ眠っている。
夕方、バイトに出掛ける前に夕飯を作って行くけれど、
それを撩がいつ食べているのかなんて解らなかった。
家に帰るといつも、空の食器だけがシンクに残されていた。
もしかすると、どちらともなく意地を張り合っていたのかもしれない。










撩はその、香の報告を聞いてなんでこういう時に限ってと、上手く噛み合わないタイミングに苛ついた。
去年のクリスマスは例年通り、香を独りにした。
その秋、撩は香に思いを告げた。
それがどの程度彼女に伝わっているのか、未だにそれは定かではない。
彼女はあれから何も変わらないし、撩も何となく気恥ずかしくて、
あの告白の事を蒸し返すのは避けていた。

そして気が付くと、もう1年が過ぎていた。
この1年、撩は何度となく、香と何らかの進展をと目論んできたけど。
いざ行動にしようとすれば、柄にも無く立ち竦んでしまう己が居た。
良く解らない感情だった。
あの時、目の前で数十人の兵士たちに銃口を向けられた相棒を見て、
これから先、何があっても彼女を守り抜いて一緒に生きて行こうと、心に誓った筈なのに。
その決心は揺るぎ無いものなんだけど、それとこれとは別である。
ただ一言、好きだと囁いて、その手を少しだけ伸ばすだけで。
2人の間に温かい風が吹き渡る事ぐらい、容易に想像出来るのに。
撩は1年間、無駄に戸惑い続けた。
勿論、これではいけないといつも考えていた。

だから、今年のクリスマスは一緒に。
そんな撩の勝手な都合など、知る由も無い香はサッサとバイトを見付けて来た。
10日間、香は知らないけれど、撩は飲み会の誘いを全て断った。
独りでシンとしたリビングで過ごしてみた。
今まで香が見て来た世界を、たまには自分が見てみるのも悪くないと思えた。
夕方には出掛けて行く香が作った夕飯を、温め直す。
テレビを点けてもつまらないから、ボンヤリと考えた。
彼女の事を。
この静かなリビングで、いつも自分の帰りを待つ仔犬の様な彼女の事を。












思いの外、バイト代を多く貰えた。
店主は少しだけ、予定の額よりも弾んでくれたらしい。
今年は大掃除として纏まった時間が取れないから、
昼間の内に少しづついつもより念入りに掃除をした。
それにいつも、掃除は手を抜かずにやっていたから気になるほど汚れてもいない。
ピンと張りつめた冬の夜の空気を吸いながら、香は弾んだ足取りでアパートに向かった。
後、1日。今年はある。
明日は買い物に行って、大した事は出来ないけれど、
お正月はいつもよりも美味しいものを作ってあげようと、香は思う。
誰にというのは、言わずもがな意地っ張りの相棒に。
何だかんだ言って、香の頭の中には撩しかいない。
このバイトの期間中、撩には冷たい夕飯を食べて貰っていたのだ。
結局、何も言わずやりたいようにやらせてくれた事に香は感謝している。








撩は香のバイトが終わるであろう頃合いを見計らって、家を出た。
後、1日。今年はまだ終わっていない。
バイト先は、撩も知っている。すぐ傍だ。
吐く息が白い。
香が通っていると思われる路地に入る。















あ、りょお。







撩が彼女を見付けた時、彼女はぼんやりと空を見上げていた。
紺色のダッフルコートが良く似合っている。
鼻の頭を赤くして、彼女は驚いた様子で撩を見た。





何やってんの、おまぁ。アホみたいな顔して。




そう言って苦笑した撩に、香は頬を膨らます。
アホって言うな、バカ。と、小学生の様なリアクションを返す。
寒そうで淋しがりの撩の相棒は、クリスマスケーキもプレゼントも無いまま良く頑張った。





お月様が綺麗だなぁって思って。




そういう香につられるように、撩も空を見上げた。
確かに綺麗だ。
空気が澄んで、ヒッソリとした新宿の裏路地は猫の仔1匹居ない。
撩は懐からそれを取り出すと、香の首にふわりと巻いた。
今年のクリスマスに、彼女の為に用意したささやかな贈り物。
香が気が付いた時には撩はニコリと笑って、似合うな。と言った。
真っ白なカシミヤのマフラー。





それ、クリスマスプレゼントな。お前居ねえからさ、遅くなったけど。








なんで撩は、いつも。


ん?


こんな風に アタシの心奪って行くの。 ばか。






いつも絶妙なタイミングで、心を縛って、そこから一歩も動けなくしてしまう。
気まずかった事とか、淋しかった事とか、たった一瞬で帳消しにしてしまう。
でもそれはきっと、お互い様だ。
今年はまだ、あと1日残されている。
撩は細い手首を引き寄せて、コートで着膨れた彼女を抱き締めた。
たったこれだけの事に、何年も掛かった。
ずっと好きだった。
漸く今夜、彼女を抱こうと決心出来た。
腕の中で苦しいともがく穢れ無き彼女はまだ、何も知らない。











大晦日ですね

おはこんばんちわ、ケシでございます。

今年も残す所、あと数時間。
曜日の関係で、今年は例年よりものんびりとした休みで、家でマッタリごろごろしております。
完全に独り暮らしを始めて早数年、毎度の事なのですが一切正月らしいイベントなどやらない派です。
年賀状制度はワタシの中では廃止になっておりますし、初詣にすら行きません。
犬の散歩にだけ行ってます。

どうでも良い事ですが、ワタシのスマホの予測変換で
“ダッフルコート”と入力しようと思ったのに、“だっふんだ”って出て来た事が、
最近の一番のニュースです(*´∀`*)ノシ平和ね~~~


今年も1年間、沢山の皆様にお運び戴いて、最近ではもはや書く事も無いのではないかと思うほどに、
相変わらず書き散らかしており、とっ散らかった当ブログではございますが。
飽きもせず読みに来て戴けることに、言葉では言い尽くせない程感謝しております。
そしてこれも毎度の事なのですが、お返事、もう一回言いますね、

コメントのお返事今年もまた、相変わらず・・・・・




ごめんなさいっっ

もうさ、どうやったら収拾がつくのか、自分でも解りません(T∀T)
戴いたコメントは、むふむふ言いながらちゃんと読んでおります。
何度も読んでおります。
こんな不義理な管理人で申し訳ありません。マジでホントに。
もしもですね、どうしても早急にお返事が必要な事案が発生したという方がおられましたら、(居るのか?)
お手数かとは存じますが、メールフォームをお使いになるか、
記事のコメント欄をご利用なさるかをお勧めいたします(*´∀`*)
漏れなくケシ子の暑苦しいお返事が返って来ます。


まあ、何はともあれですよ。
今年も無事、生き伸びてこれた事に感謝。

皆様、良いお年を。
来年もヨロシクお願い申し上げます m(_ _)m
ばいちゃ。


[ 2014/12/31 10:17 ] ごあいさつとお知らせ | TB(0) | CM(0)