第8話  圧倒的不利

確かに




午後の西日が射し込む取調室で、槇村秀幸は。
女という生き物の業の深さと、芯の強さを見た気がした。
その女は今、もっとも疑われている人物の1人で。
秀幸自身がこの場所に連れて来た。




私は




何故だか妹夫婦があの場に居て、可愛い可愛い妹は完全に立腹していた。
後輩の刑事が運転するシルバーのセダンの捜査車両の助手席で、
秀幸はどうやって妹の怒りを鎮めようかと、思案した。




夫の不貞には、気が付いておりました。



あの大きな屋敷の中で、庇護される貞淑な妻の顔をしていた彼女は。
悲嘆にくれ、儚さを漂わせていたのに。
この煙草の匂いの染み込んだ取調室に於いて、一切怯む事無く。
彼女は秀幸を正面から見据えた。
それはさも、自分の潔白を自らの態度で示そうという意思の現れにも見える。
けれど。
秀幸は、何処か刑事の勘とも言うべき直感で。
何かをこの女から感じる。
たとえば、殺人には関与していなくとも。
彼女は何か、秘めた物を呑み込んで隠している様に。




けれど、だからと言って。それが人を殺すという事の免罪符にはならない事は、理解しております。



勿論、彼女は。
重要参考人の1人に過ぎない。
彼女の居住するあの家で、事件が起きたからには。
彼女から事情を質すのは、順当な捜査の一過程に過ぎず。
あの家の居住者は彼女1人では無く、もう1人。
世帯主の男たる彼女の夫にも、警察はきちんとそれなりに着目している。












香は朝食の目玉焼きに醤油を掛けながら、昨日の続きの話しを持ち出す。
香の目玉焼きはいつも、黄身が半熟で。
2人とも目玉焼きには、数滴の醤油を垂らす。
焼く時にフライパンに薄くバターを引いて塩コショウを振る。
その上にそっと卵を落とすので、バターの薫りに醤油が合うのだ。

唐沢家のキッチンから押収されたジギタリスだが、実は。
あの色とりどりの花や緑が植えられた庭に、その株が植えられていたというのも。
昨日、秀幸から聞かされた情報だ。
その時の香は、妙子が連れて行かれてしまうというその事だけで頭が一杯になって忘れていたけれど。
昨晩、久し振りに夫と離れて床に就きながら、非常に重要な事を思い出したのだ。
恐らく、あのまま撩の誘惑に流されて、いつものようにイチャイチャしていたら。
きっと、思い出したのはもう少し先の事になっただろう。





ねぇ、りょおたん。

ん?

私さぁ、忘れてたんだけど思い出した事があるの。

なにを?

あの妙子先生のお家のお庭なんだけど、

うん。

アソコからあの、なんだっけ・・キルギスタン?ん?ジンギスカン・・じゃない、え~~~と・・

ジギタリス。

そうそれ、それが出て来たってお兄ちゃんが言ってたでしょ?

うん。





香はキャベツと油揚げの味噌汁を一口啜って、唇を湿らせた。
ふぅと、1つ息を吐いて撩を見る。
撩も箸を止めて、香の話しに聞き入る。




あのお庭、誰が作っていると思う?

彼女じゃないの?



撩はあの屋敷の庭を思い出す。
薔薇の蔓が巻き付いた棚や、繊細なデザインのバードバス。
庭の広さに合わせて、低木を中心にセンス良く配され、
芝生を敷き詰めた中心には、見るからに値の張りそうなガーデンチェアとテーブルが置かれていた。
撩はこの香の質問に、まさかと思う。
時々、撩は自分が先入観をもって物事を見ている事を思い知らされる事がある。
というか、今回に関して。
あの庭についてはそれ程、意識の端に上らなかったというのが正直な所だった。
改めてそんな風に質問されて、初めて。
その事に思い当った。
家の中の細々とした手仕事、彼女の趣味が反映されたインテリア、服装、ティーカップ。
立ち居振る舞い、言動。
人間は、明確な言葉としてそこに示されなくとも、時に総合的な材料として、
物事を見て判断している場合がある。
例えば、唐沢妙子が薔薇の蔓を手入れしている光景は、実際に見ていなくとも。
勝手に脳内で想像出来る。



じゃあ、もしかして?



香は小さく、頭を縦に振る。
艶やかに光る香の唇を、撩はジッと見詰める。
屋上の一角で、香が丹精している野菜たちに声を掛けながら水遣りしている姿を思い出す。
そう言えば、去年の秋。
祖父の家の庭で、赤い掌の様な形の楓の葉を。
香は愛おしげに集めて押し花にしてラミネートすると、撩に透明の栞を作ってくれた。
桜の時期には2人で奥多摩の湖の傍の公園に、花見に行った。
草花を愛でるのは、いつも香で。
撩は香よりも基本的には賢いけれど、香に教わる事は沢山ある。
香自身は、知らないけれど。




ガーデニングは、ご主人の趣味なの。妙子先生は、虫が苦手で土いじりは全くしないんだって。



あの事件が起こる前。
香は窓際で、妙子の話しを聞いていた。
花が好きな彼女の夫は、忙しい仕事の合間にあの庭の手入れをするのが唯一の趣味だと。
他の事は何にも出来ないのよ?と、言いながら。
香がその前に話していた撩の事を褒めていた。
余所の家庭の旦那様を集めて料理を教える事が出来るなんて、素晴らしいと。

香はどうやら、撩が妙子を犯人ではないかと疑っていると思い込んでいるけど。
実際には、昨夜の言葉通り、撩の見解は至ってニュートラルだった。
この事を香に聞くまでは。
夫の不倫の果てに嫉妬に狂って凶行に出るという可能性もあるけれど。
適当にあちこちの花に手を付けて、収拾がつかなくなって愛人を整理するという可能性だってある。
ただ状況は、唐沢妙子にとって圧倒的に不利である。
撩が解せないのは、何故、彼女は昨日秀幸にその話をしなかったかという事だ。
それを言えば、例のジギタリスの瓶詰を制作した人間を解明する重要なキーになるのは間違いない。



けれど、今現在。
妻は警察の取調室に居て、夫は“麻布のホテル”に居るらしい。
それが本当に“ホテル”なのかどうかは、別にして。
冴羽商事の依頼人は、捜査本部に横から掻っ攫われた形だ。
ココで焦って足掻いても仕方ない。
一番手っ取り早いのは、真犯人を挙げる事だ。
仕方がないから、ゆっくり行こうと撩は思う。

取敢えずは、食事が済んだら。
昨夜の続きだ。





カオリン。

なぁに?

ご飯食べたら、エッチしよっか?




別にそれが、夜でなくとも寝室でなくとも。
愛さえあれば、やる事はいつでもどこでもやれるのだ。
それが、私立探偵・冴羽撩(愛妻家)の信念だ。



(つづく)





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[ 2014/08/02 20:47 ] 夫婦探偵社「不実」 | TB(0) | CM(0)

第9話  人を殺す為の動機

秀幸は捜査車両の助手席で、唐沢妙子の言葉を思い出していた。
ここ数日、組んでいる後輩はあまり気の利かない体育大学出のラガーマンだ。
代謝が良いらしく暑がりで、馬鹿みたいに車内の冷房を利かす。
お陰で秀幸はこの所、夏バテ気味だ。
車を一歩出た時の気温差で、余計に疲れるなどと言ったら、年寄り扱いされるのだろうか。




  人を殺したらいけない事くらい解っています。
  私には、彼女たちを殺す理由なんてありません。
  たとえ彼女たちが、あの人の不倫相手だとしても。
  私が殺すとすれば、それは彼女たちなんかじゃなくて・・・

  まずあの人の方でしょ?違います?




秀幸には人妻の身内など、妹以外いないので未知の世界だけど。
正直、腹を決めた女の恐ろしさを垣間見た気がした。
勿論、彼女にも事情を聴いたけど、こうして夫の方の調べも進めている。
取敢えず向かっているのは、三鷹に住む妙子の親友で野口というイラストレーターの家だ。
彼女はあの日、救急車で運ばれた内の1人だ。
妙子とは高校時代からの仲らしい。



昼飯、どうします?何処か適当に入りますか。



運転席の後輩がそう訊ねる。
関係者に聞き込みをするにしても、時間はよくよく見計らった方が良い。
朝の忙しい時、昼食時、夕飯の支度時、これらは意図して外した方が良い。
人は誰でも、忙しい時には機嫌が悪くなるし、口が重くなる。
秀幸は腕時計に視線を落とす。
正直、食欲は無い。隣の男は脳天気に、腹減りましたねー。などと、言っている。

午前中、事務処理をしながら久し振りに香の作った手料理が食べたいと思って、
あの2人の愛の巣へ電話を掛けた。
いつもなら2つ返事でOKする香は、心なしか不機嫌だった。
まさか嘘などでは無いだろうけど、今日は都合が悪いと言った。
なんでも、撩の祖父と(要するに、撩の実家だ)夕飯を食べる事になっているらしい。
それならば仕方ない。一応、妹は冴羽家に嫁いだ身で、
幾ら嫁ぎ先が気の置けない旧知の間柄だとしても、秀幸も一応は遠慮する。




何処でも良い。

うっす。


秀幸は、どうでも良さ気に窓の外を見遣る。
今回、冴子は別の事件に掛かりきりで、秀幸は別に1人でも良かったけれど。
課長にこの後輩と組んで行動するように、指示された。
正直、暑苦しい。
車内は寒いほど冷房が効いているのに、秀幸はとても暑苦しいと思った。
これまで何の意識もしていなかったけれど、やはり、相棒は野上冴子がイイなと思っていた。























彼女は、早くに母親を亡くしての。



祖父は、湯呑の中の玉露を啜りながら彼女の事を語り始める。
実家の応接間の古めかしい革張りのソファに寝転んで、撩は祖父の話しに耳を傾ける。
俯せて頬杖を付きながら、煙草を吹かす。




結婚するまでは長い事、父親と2人暮らしじゃった。
彼女の父親もよう知っておるけど、そりゃあ人の良い商売人じゃった。
定年になったらスッパリ未練なく引退してのぉ、若いモンに跡を譲るとサッサと隠居して。
見事な引き際じゃった。





唐沢妙子の父親は、隠居と共に大部分の財産を整理し、
自分の老後の為に使う分を計算して残すと、余ったものは然るべき所に気前よく寄付し、
それでも残った土地などの財産は、娘に残した。
それだけでも、結構な物だったんじゃないかというのが、祖父の見解だ。
その妙子の父は去年の冬に、肺炎を拗らせて亡くなったらしい。
勿論、都内の一等地を含むかなりの土地を、妙子が相続した。
唐沢夫妻には、子供は無い。
財産は夫婦のもので、どちらかが亡くなれば遺言でも無い限り、それを引き継ぐのは互いだけだ。















・・・いつも、申し訳ないと思ってました。主人にも、妙子にも。




野口環はそう言って、俯いた。
その古い賃貸マンションは、彼女が仕事場として生活の場とは別に借りているものだった。
彼女には夫がいる。
雑誌の編集者で、生活は不規則だという。
ほぼ擦れ違いだらけの夫との住まいには、あまり帰る事は無い。
彼女はこの仕事場で、猫まで飼っているのだ。
仕事場とは言え、普通の賃貸マンションなので。
生活するのに不便は無い、夫とは違う男を連れ込むのにも。
けれど彼女の不貞の次に大きな罪は、連れ込んだ男が、親友の夫だったという事だ。
生温い風が吹いて、ベランダの物干し竿に吊るされた風鈴がチリンと鳴った。
秀幸と後輩の刑事は並んでダイニングテーブルに座り、
目の前には汗をかいた麦茶のグラスが置かれている。
ラガーマンは、先程からしきりにハンカチで汗を拭っている。
野口はエアコンを使わない主義らしい。





妙子さんが、旦那と貴女の関係を知っていたのはご存知ですか?

・・・・・・・え。



秀幸がそう訊ねた時、野口は放心したように、静かに驚いていた。
どうやらバレていないと思っていたらしい。
しかしそんな表情も、数秒後には様々に変化する。
力なく笑う彼女の眼は、何処も見てはいなかった。
恐らく、人間は誰しも。
何が大切で何を守らなければならないのか、見失う事が時としてあるのかもしれないと秀幸は思う。
本来は、自分の夫に埋めて貰うべき感情が燻ぶったまま行き場を無くした時。
傍で優しく誘惑されたなら、何もかも失う危うい橋を渡ってでも一時の寂しさを紛らわすのかもしれない。




・・・・・・殺されても、仕方のない事をしたんだと思います。



今更ですけど、と言ったっきり彼女はもう何も語らなかった。
けれど、少なくとも唐沢真一が野口環に手を出していた事の裏は取れた。
秀幸は他3名、殺された2人と受付嬢の佐々木も真一の愛人だと踏んでいる。














おじいちゃん、この本借りてもいい?



撩と祖父が妙子の身上に関する話しをしている間、香は何やらずっと書庫に籠っていた。
祖父の書斎と一続きの書庫には、かなりの蔵書がある。
撩は度々、そこから必要な本を借りたりもするけれど、香が借りるのは珍しい。
祖父はニッコリと満面の笑みで微笑むと頷いた。




構わんよ、何でも好きなのを持って行きなさい。




そもそもこの日、2人がココに来ているのは。
祖父へと届いた、夏の付け届けの御裾分けに与る為である。
これまで2人が結婚してから、夏に1度、暮れに1度、この季節がやって来て、夏はこれが2度目だ。
ついでに晩ご飯まで家族水入らずで一緒に過ごして、もしかすると泊まって帰る予定だ。
2人がココに泊まる時は、いつも撩が子供の頃に使っていた部屋を使う。
広い屋敷に新婚夫婦と、年寄りと家政婦が1人。
香はこの家の撩が昔使っていたシングルベッドで、撩とセックスするのが意外と好きだ。
屋敷の中は広過ぎて、声が漏れるのを気にする必要すら無いし。
撩は狭いベッドを嫌がるけれど、
香は撩の子供の頃からの賞状や写真立てや、
子供っぽい壁紙の中にいて、まるで香のまだ知らなかった頃の幼い撩に逢える気がして好きなのだ。




カオリン、晩メシなに?



2人がこうして祖父の元で夕飯を食べる時、それを作るのは香の担当だ。
いつもは家政婦と老人だけの静かな家だけど、その日だけ家政婦もゆっくり休めるし、
孫娘の様な可愛い嫁の手料理を、何より祖父が喜ぶ。
香が撩の寝転ぶソファに座ると、撩は吸い差しの煙草を灰皿で揉み消し、
自然な動作で香の太腿を枕にして仰向けた。
撩は祖父の目の前だろうが、嫁とイチャつくのに躊躇いは無いらしい。




すき焼き。



引っ切り無しに届く夥しい数のお中元の中に、霜降りの松坂牛が入った桐の箱があったのだ。
今晩は、家族プラス長年ここに勤める家族同然の家政婦を交えた4名で、豪勢なすき焼きだ。
撩は腕を伸ばして、香の柔らかな頬を抓む。
人を殺す為の動機など、星の数ほどある。
もしもこの愛おしい存在が、撩を裏切るような事があれば。
愛の深さの分、もしかすると殺意に変わらないとは言えない。
勿論、撩は絶対に香を殺したりはしないけど、この世に絶対は無いとも思う。
愛が人を殺す事もある。
それはとても悲しい事だけど。




(つづく)





[ 2014/08/05 23:36 ] 夫婦探偵社「不実」 | TB(0) | CM(0)

第10話  町内会トラップ

どお? ちゃんと映ってる??




そう言って香が、観葉植物の前で手を振る。
公民館の応接室には、都合4ヵ所に隠しカメラを設置した。
超高感度マイクも組み込まれている。
これらは全て、冴羽商事の備品だ。
応接室からは一番遠い倉庫に、今回の司令塔がある。
公民館内の館内放送から、撩の返事が聞こえる。




OK、バッチリ。感度良好。



倉庫の中のモニターの前には、撩が座っている。
そしてその横に伊集院夫妻、ミック・エンジェル、果ては町内会長、副会長まで集まっている。
町内会のアイドル、カオリン&ミキちゃんの食中毒被害に対する報復、という大義名分を掲げ、
公民館をそのトラップの場として快く提供してくれたオッサンたちは。
しかしながら実際のところ、完全に面白がっている。
町内会長は協賛(何の?)と称して、ビールの中瓶(ご丁寧にも冷やしてある)をケースで持参し、
早くも伊集院氏はラッパ飲みでビールを飲んでいる。
狭い倉庫の中に、大人がひしめき合ってパイプ椅子に座り、
背後には、福引のガラガラや紅白の横断幕、くすだまなど雑多なものが押し込まれている。
この後、この公民館の応接室で。
撩は唐沢真一と会う事になっている。











唐沢さんは、いらっしゃいますか?




そのオフィスのフロントに。
尋ねて来た刑事は眼鏡を掛けていて、一見、刑事とは思えぬような柔和な表情で微笑んだ。
佐々木亜矢は、この会社に入社して1年半になる。
社長の唐沢に目を掛けられて、男女の仲になって1年。
あの事件以来唐沢は家には帰らず、
付き合うようになって麻布に借りてくれた佐々木のマンションにずっと居る。
いつかこんな風に警察が尋ねて来るんじゃないかという事は、佐々木自身薄々感じていた事だ。




生憎、唐沢はお客様との打ち合わせの為、外出しておりますが。

そう。  何時ごろ戻ってきます?

それは、打ち合わせの進捗次第と伺っておりますので、今のところは未定ですが。

そうですか、まぁ、唐沢さんにはまた日を改めてじっくりお話しを伺うとして。





そう言うと秀幸は、たっぷりと間を置いて暫し、周りを見渡す。
都心の高層ビルの中の、1フロア。
唐沢の会社はその中にある。
同じビルのテナントには、誰もが聞いた事のあるような外国の企業の日本オフィスや、
飛ぶ鳥を落とす勢いのベンチャー企業の名前がずらりと並んでいる。
彼の会社も同じようなものだ。
この数年で、飛躍的に業績を伸ばし、良いイメージを定着させつつあった。
そこに来て、今回の事件である。
小綺麗なフロントには、高そうな胡蝶蘭の鉢が置かれ、佐々木の背後の真っ白な壁には、
一見何の会社かは判然としないスタイリッシュなロゴマークの看板が掛かる。
そう大きくはないオフィスのフロントの前には、斬新なデザインの椅子が待合の客用に置かれている。
ごくごく絞ったヴォリュームで流れている曲は、モーツァルトだ。
その先のオフィスに、何人くらいのスタッフが居て、何の仕事をしているのかすら解らない程。
フロントはモーツァルト以外は無音で、空調で完全にコントロールされた空気に、
秀幸にはまるでそこが、モダンな宇宙船の中のように感じられた。
警察署の中とはえらい違いだと思う。
引っ切り無しに鳴り響く電話に、同僚たちの半ば怒号の様な掛け合い、
暑苦しい男達が、執念を燃やして働く槇村秀幸の愛すべき職場。
どっちが良いとも思わない、ただ秀幸は世の中にはこういう職場もあるのだと思うだけだ。




貴女にも、一度お話しをお伺いしたかったんですよ、佐々木亜矢さん。



心の中で佐々木は、やっぱりと思う。
佐々木は本当に唐沢が好きだ、好きだったという方が適切かもしれない。
面識もある彼の妻の妙子に対し、後ろめたい思いも確かにあった。
自分の恋が許されない類のものである事は、重々解っていた。
彼の家庭を壊すつもりは無いと、自分に言い聞かせながら付き合って来た。
何故だか、自分と妙子を臆面も無く引き合わせた唐沢真一に対して、
佐々木は小さな違和感を初めて感じた。
それが半年ほど前だった。
それから何度も、あの屋敷に呼ばれた。
嘘くさい幸せを塗り固めたような、幸せで愛される妻を演じているような妙子を。
佐々木は、同情の気持ちで眺めていた。そしてそう思う自分を嫌悪した。
そんな状況をお膳立てした真一に、不信感を抱いた。
こんな関係が健全な人間関係だとは毛頭思っていなかった。
いつか、破たんする。
そう思って日々を過ごす事は、色んな感情を麻痺させた。
自分が傷つく事、他人を傷付ける事に、鈍感になっていたと今なら解る。
可笑しな感覚だけど、佐々木はこの刑事が。
ゲームセットを告げる公正な審判のように思えた、漸く終わる。











その話しは、妙子の昔の恩師だという老人から持ち込まれた。
それまでも何度か、妙子からその人の事は聞いた事があった。
なんでも凄い人らしい、財界にも政界にも顔の利く大物で、
去年亡くなった、義理の父とも親交があったという。
新宿のとある町内会青年部からの依頼。
その青年部長を務めるのが老人の孫であり、
件の事件の際に、妙子に呼ばれていたあの長身美女の夫らしい。
不幸にもあの件に巻き込まれた彼女を、真一は良く覚えている。
非常に美しい女性だった。
もしも彼女が、自分の会社のスタッフだったなら、間違いなく手を出しただろう。
その夫だという男が、どんな男なのか興味が無い訳でも無かった。








すみません、お呼び立てして。




そう言って名刺を差し出した彼の名は、冴羽撩という。
名刺の肩書には、町内会に関する事だけしか記載されてはいない。
恐らくは、ビジネス用では無いのだろう。
これだけでは、何の商売をしているのかは判らない。
非常にカジュアルだ。
ラルフローレンの淡いピンク色の綿のシャツにチノパンツ。
長い脚に短めの丈のパンツの裾から見え隠れする裸の踝。
裸足に履いたトッズのモカシンは、ふざけたような奇抜なオレンジブラウンだ。
ただ、異常に男前だ。
これ程整った顔をした男を、見た事があっただろうかと思う。
小さくて精悍な顔の乗った身体は、服の上からでも判るほど鍛え上げられている。
こういう男だったなら、彼女の様な上玉を娶る事が出来るのだろうかと想像する。
なんでも、町内会の半数以上が自営業者との事で。
経営者の為の節税対策セミナーを開きたいとかいうのが、今回の趣旨だった。
という事はこの男も何か商売をしているのかと、もう一度撩をさり気なく観察する。

その値踏みをする様な唐沢の視線を、勿論、撩が気付かない訳も無く。
撩は内心、唐沢をいけ好かない男だと思う。
香から聞いていた彼の印象は。

“優しそうで、良い旦那さんに見えたんだけどなぁ?”というものだ。

基本的に、男から見た男と、女から見た男のイメージというものには、
埋まらない価値観の溝があると撩は思う。これは、逆もまた然り。
女同士が可愛いとか綺麗と褒めそやす女が、必ずしもイイ女だとは限らないというのは定説だ。
少なくとも唐沢は、いかにも小賢しい他人を見下したような空気を纏った男だった。
こんな男が何人もの女を手籠めにしているというのが、俄かには信じ難い。
それとも、女の前では違った顔を見せるのか。
いずれにせよ、男も女も、異性の前でだけ態度を変えるのは良くないと撩は思うのだ。




初めまして、唐沢と申します。
先日は、奥様とお友達の奥様に大変な迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした。




そう言った男に、撩は曖昧に頷く。
何から切り出そうかと、撩は考える。
この男が事件の鍵だという事は、これまでの調べで十中八九間違いは無い。
動機はある。
犯行を執り行う事に関しても、無理なく可能である。
節税対策など、ただの口実で。
実際の所、この男の口から犯人以外知りえない情報。
所謂、秘密の暴露というヤツを引き出したいが為にこのトラップを張った。












佐々木亜矢は、やけにアッサリと自身と唐沢の関係について認めた。
秀幸が予想していた通り、唐沢は今現在、彼女の住まい(名義は会社のものだ)に入り浸っている。
どうやら、数々の愛人の中での佐々木のポジションとしては、今のところ最上位であるらしい。
事件の渦中で、奴が逃げ込んだのは20以上も歳の離れたこの若い女の元だった。
しかし、先程の軽いやりとりの彼女の言葉の端々には。
男に対する幻滅と諦念と、道ならぬ不倫の果ての疲れが滲み出ていて。
きっと男が信頼しているほど、女の方はその信頼に応える気は無いという印象だった。



哀れだな。


誰に言うでも無く、秀幸は呟く。
この商売をしていると、独り言が増える。
ラガーマンを待たせたあの冷蔵庫の様な車内に戻るのが、憂鬱だった。
そう思っていると、秀幸の胸ポケットで携帯が震えた。
液晶画面には、腐れ縁の旧友の名前。
秀幸は通話ボタンを押した。








はあい、ヒデユキ。今、電話平気?



秀幸はその呑気な声と共に、金色をした彼の髪の毛を思い出す。
今夜、飲みにでも行こうという誘いの電話かと、秀幸は思ったけれど。
結果としてそれは全く見当違いであった。




今さぁ、リョウたちと面白いことやってんだけど、ヒデユキもおいでよ。

あのなぁ、俺はお前らと違ってだな・・

ミスター・カラサワも居るよ、君らも彼には色々と訊きたい事があるんじゃない?

・・・お前ら、何処にいる?

何処って、コーミンカン。

はあ?公民館?? 何やってんだ・・・って訊く方が野暮か。

ふふふ、そういう事。

ったく、唐沢のクライアントってお前らかよっっ  しょうがない奴らだな。





そう言いながらも、秀幸は言葉とは裏腹に笑っていた。
そう言えば、冴羽商事もこの件を追っているんだった。
義弟はああ見えて、のほほんと仕事をやっつけているようでいて、なかなかの切れ者だ。
けれど、事件を追及して真実を暴く事は出来ても、彼に犯人を逮捕する権限は無い。
その為に自分達が居るのだと、秀幸の士気が急上昇する。
この後予定していた聞き込みは、一旦キャンセルにして向かう先は変更する。
向かうはコーミンカンである。
秀幸は先程まで憂鬱に思えていた捜査車両の助手席のドアを、勢いよく開けた。




(つづく)


[ 2014/08/09 05:41 ] 夫婦探偵社「不実」 | TB(0) | CM(0)

言葉で表現するという事

おはこんばんちわ、ケシでっす。


突然ですが、ワタシの好きな作家さんで江國香織さんという方がいらっしゃるのですが。
ワタシがその方の作品に嵌るきっかけとなった作品は、
『ホリー・ガーデン』という小説で、ちょうど20年前に発行された物です。
ハードカバーも文庫も両方買って、2~3年に1度思い出したように読みたくなるんですが。
この数日、また少しづつ読み返してました。

そのお話しは、子供の頃からの親友の2人の女性の恋愛の話しを中心に進んでいきます。
彼女たちは、付き合いの長さと深さと濃さではその間に何人たりとも割り込ませませんが、
だからと言ってべったりと仲が良いという訳でも無く、
お互いの良い事も悪い事も全部知っているからこそ、
時に周りがギョッとするほどに険悪になったりもします。
過去に片方が深手を負った失恋に関して、2人には触れられないタブーが色々と存在します。
それでも基本的にはお互いを尊重している間柄です。
片方は過去の失恋の後遺症で、少しだけ現実から逃避していて、
もう片方は現在進行形で、不倫をしています。

その不倫相手に、親友を紹介するという場面があるんです。
不倫の恋に勤しむ彼女は美術教師で、クールで知的で可愛いというよりもカッコイイ女性です。
過去の失恋に苦しむ彼女はメガネ屋の店員で、誰が見ても美人だという可愛らしい女性です。
お互いがお互いに無意識に、相手の事になるとムキになります。
全く対照的な見た目や性格、自分が相手を否定するのはイイけど、
他の人に言われると、無性に腹が立つ。
アンタがあの子の何を知っているというの?って。
こう言う心理描写が、とっても人間的でよくあるよくあるっていちいち共感できるんです。

それで、不倫相手と親友との面会を終えた後の、
不倫カップルの描写で秀逸だなぁと思った場面があるんです。
不倫相手と彼女は20歳近くも歳が離れています。
不倫相手は芸術家でストイック(しかしこれは彼女から見た男のイメージあって、完全に惚れた欲目です。)なので、
彼女は日頃から、彼に相応しい女でいようと心掛けています。
彼にとって彼女は、多分、歳下の可愛い恋人くらいの感覚にしか過ぎません。

親友の話しとなるとムキになる彼女が可愛いな、と思って彼はニコニコしているんだけど。
そんな彼の表情が柔らかい事を、彼女は親友に逢ったからだと思う訳です。
自分に無い可愛らしさを持った親友は、いつでも場の男の人を和ませる雰囲気を持っているから。
だからきっと彼も、親友の事を可愛いなと思って機嫌が良いのだと、見当外れの嫉妬をするのです。
本当は彼は、目の前の彼女を見て可愛いなって思ってるんだけどそれは、決して伝わりません。




こんな風に、ワタシがしょうもない文章力で必死の説明をしても、
この場面の良さは全然説明しきれないんですが、なんだかその場面って。
人間関係の不完全さを、見事に書き表しているなぁと、改めて思うのです。
別にこの場面は、これだけで、これ以上何の説明も無いし。
彼女が彼に嫉妬をぶつける事も無く、彼が彼女にその愛情を表す事もありません。
それが余計にリアルだし、所詮、他人って言葉を使って伝えなければ、
本当に思っている事など伝わらないんだなって思うのです。
そして同時に、思っている事の全てをぶちまける事の残酷さと、
言わないという事の優しさというものもあるのだと思うのです。
そうやってほんの数㎜ずつ、ずれてゆく思惑の先に疲弊した恋愛感情が残るのか、
それとも都合良く忘れて、美しい事だけを抽出して愛を深めるのかは解らないけれど。
人間って複雑な感情というものを進化の過程で手に入れて、
本当は不幸なんじゃないのかな、と思うのです。
勿論、人間以外の動物にだって感情は豊かに存在するとは思うけど、きっともっとシンプルだろうなと。

それとその擦れ違い方が、まるで。
りょうちゃんとカオリンみたいじゃないかと、萌え萌えしたってはなしなんですけどね。
結局は、そこ。

言葉で表すって難しいけど、やっぱり面白いなぁと、読書しているとそう思います。
あ、それとワタシは、どっちかというと残酷なまでにぶちまける方なので、
幸か不幸か、愛は疲弊しないタイプです。(その前に、破綻を迎えます。)





[ 2014/08/11 01:30 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

第11話  秘密の暴露

そもそも撩は、チャラチャラした見かけに相反して結構賢かったりするので、
このような節税対策セミナーや経費削減セミナーなどというものに、皆目興味は無い。
そういう事は、自分で学んだ方が余程、コストもかからないし自分の実になる。
唐沢が幾つかのプランを提案しながら退屈なセールストークをしている間、撩は彼を観察した。
撩は正直、今回の事件の犯人はこの男だと思っている。
一見すると、身近で浮気を繰り返され殺人の現場となったホームパーティを取り仕切っていた、
この男の妻の方が疑われそうな気もするけれど。(そして、現にそういう状況だけど。)
よくよく考えれば、この男の方にこそ動機は腐るほどあるのだ。

妻の相続した義父の遺産。
拗れた愛人関係の整理。

面倒な女達を始末した上に、その罪を妻に被せ、そのうえ遺産も手に入る。
確かに、不貞を働いたという汚名はついて回るけれど、
それを以ってしても余りあるほど得る物は大きい。
何しろ、妻の譲り受けた不動産の価値はゆうに数十億は下らない。
彼はそれが目当てだったと、撩は予想している。





・・・こちらの講師の先生は、非常に分り易いお話しで好評を得ております。人気ですよ。

唐沢ちゃんが、何かみんなに教えてよ?

え?




いきなりの撩の言葉に、唐沢は虚を突かれてポカンとする。
撩は悪びれもせずにニッコリと微笑む。
それは、男の目から見ても完璧とも言える優雅さで、言葉の軽薄さからは想像が出来ない程、
目には力強い光を宿している。















秀幸がそこに到着すると、いい大人が大勢で狭い倉庫の中でビールを飲んでいた。
伊集院隼人とミック・エンジェルは、差し入れの中瓶を既に数本開けていたが、
何食わぬ顔でモニターを見詰めていた。
その後ろで、キャッキャ言いながら酔っ払っているのは最愛の妹で。
そんな彼女にビールを勧めているのは、町内会長と副会長だった。
なんでも伊集院美樹は、調理場でつまみを作っているらしい。




何やってんだ、何を。

お兄ちゃんっっ



秀幸は苦々しい顔を作って登場してみたモノの、
陽気に抱き付いて来た妹によってアッサリと懐柔される。
この数日、なんだか素っ気なかったような気がする妹に、秀幸は軽く落ち込んでもいたのだ。
これだから、受け持ちの事件に冴羽商事が絡んで来るのは嫌なのだとも思っていた。
けれどこんな風に可愛い妹が猫のように擦り寄って来るパターンは、満更でも無い。
これで香が人妻でなければ完璧なのにと考える兄は、なかなかどうして往生際が悪い。
香が結婚して人の妻になろうが、シスコンはシスコンのままなのだ。更生はしない。
こう見えて秀幸は、そのシスコン振りは世間的にはひた隠している(つもりだ、本人は。)ので。
捜査車両に待たせている後輩には、決してこんなにやけた顔は見せられない。












ははは、私は何の取り柄も無い男ですので、皆さんにお教えする事など何も。



そう言った唐沢の微笑みは明らかに引き攣っており、撩は内心、ユーモアに欠けるなぁと思う。
色も金も好むのなら、人生を愉しむ余裕が必要だというのが撩の持論なので。
この男の野心は、この男の器には到底相応しくない大望でしかないと撩には思える。
だから人を殺したりするんだけど、と。






またまたぁ、例えばさ  ガーデニング教室とかさ。良いと思うんだけど?

・・・。

あ、それに税金って言えば。 莫大な相続税のあれこれに関しても、是非聞いときたいね。
ウチも、じいちゃんの身内俺らだけだし。

何を仰っているのか、私には良く解りませんが・・・





唐沢の表情が、一瞬でサッと曇る。
そもそも、この商談を持ち込んだ件の老人は妙子の恩師なのだ。
唐沢もこれまで数度、面識はあったが、
このタイミングでこのような話しを持ち掛けられた事を疑わなかったと言えば、嘘になる。
老人は、今回の件はお前さん方が一番苦しい時じゃろうて、などと優しげな事を言っていたけれど。
あれはきっと、狸ジジイの演技だと唐沢も気が付いてはいた。
けれど彼の提案は、ある意味では命令でもあるのだ。
唐沢も噂ぐらいは聞いた事がある。
あの老人が、政財界を闇で意のままに操る事の出来る怪物だという事を。
選択肢に、否は無いのだ。





解るように説明してやってもイイけど、そしたら唐沢ちゃん、困るんじゃない?




唐沢は絶句して言葉を詰まらせるが、脳内では目まぐるしく返答を考える。
この場合、何をどう応えるのが得策なのか、
そもそも、この冴羽という男の目的は何なのか、一体何者なのか。
下手を打ったら、墓穴を掘りかねない。
何処に地雷が埋まっているのか解らないまま、唐沢の思考は半ば混乱する。
どうやら完全に何の武装も無しに敵地に乗り込んでしまった事に、ココで漸く気が付いた。





・・・私が?困る? 何が仰りたいのですか、貴方失礼ですよ。



声が震える。
掌に汗が滲む。
唐沢真一は、自分が悪い男だという自覚を持っているつもりだった。
その自覚を持った上で、全てを手に入れる事の出来る選ばれた人間だと思っていた。
今、この時まで。
完全にコントロール出来ていると思っていた。
けれど今、目の前で飄々としている男に完全にコントロールされている。





唐沢ちゃん、アンタは他人に色々と教授出来る素晴らしい経験の持主じゃん?

・・・何を知ってる?

知らないから、訊いてんじゃん?       どうやってあの2人を 殺したのか












桜井栞との出逢いは、仕事を介したモノだった。
とある学生向けの就職情報誌の対談コーナーで、顔を合わせたのだ。
女子学生に人気の雑誌モデルと、今を時めく経営コンサルティングのカリスマとかなんとか、
そういうものだった。

唐沢の好みのタイプは、脚の美しい女だ。
その出逢いから2週間後には、桜井栞は愛人になった。
初めは何とも気楽な女だった。
全く束縛も干渉もしない、互いに遊ぶには最適だった。
その彼女がいつの間にか自分の妻に近付いたのがいつの事だったのかは、もう定かでは無い。
芸能人と半分タレントの料理研究家の友人関係。
料理好きキャラのモデルとしての売り方なのだろうと、唐沢は納得していた。
どんな世界も、売り出し方、自分のキャラクターイメージの方向性、
こういうものが確立していた方がビジネスとしては成功を収めやすい。

テレビ画面の中で、料理教室で、栞と妙子は仲良さそうに振舞っていたけれど。
実際は、夫を寝取られた女と夫の不倫相手の女だった。
真一の目にだけ、世間の解釈とは違った人間関係が映っていた。

あの女が悪いのだ。
都内の無駄に高級なアパートメントの家賃を出してやり、細々と金をせびられ、
あの日、唐沢が彼女を殺そうと決意したのは、彼女からある提案を持ち掛けられたからだった。
整形費用とそれに伴って数ケ月休業する為の資金援助。
それまでとは比べようの無いほどに、莫大な金額だった。
女が妻に自分から近寄ったという事実も、唐沢には何より不気味に思えた。
女が実際には菜食主義の健康的美人などでは無く、
数種類の(それも、極めて如何わしい)ダイエットサプリメントの使用者である事を、唐沢は知っていた。
当人でも何を何種類飲んでいるのかなど、とうに把握出来ていないそのピルケースの、
パーティー当日に飲む分の仕切りの中に、シアン化合物を固めた劇薬を混ぜた所で気が付かれない。
そう思った唐沢の思惑は、怖いほどに的中した。




野村はついでだった。
仕事の面で考えると、殺すのには惜しい女だったけれど。
彼女は完全に会社側の人間であり、妙子側の人間だった。
それでいて、唐沢自身のメンツも立ててくれてはいた。
会社の資金で女遊びをしている事、会社名義で愛人の住まいを契約している事。
それらは全て、唐沢の計算の範囲内で会社の運営に支障をきたす様な額では無かった。
そんな私的流用に一番に気が付いたのが、野村麻衣子だった。
仕事が出来過ぎるのも考え物だ。
彼女はそれを唐沢に直接指摘し、今からでも改めるよう進言した。
唐沢自身が改心して、事業に専念する事を願っているのだと切々と訴えた。

けれど、唐沢真一のもっとも嫌いなタイプの女は、口煩い女だ。
野村が持病を患っていたのは知っていた。
1日に3度、医者から処方された薬を服用していた事も。
そもそも桜井のピルケースに忍ばせた錠剤も、野村の薬に似せて作ったものだ。

多分、あの日の朝。
2人とも何の疑いも持たず、あの薬を飲んだのだろう。
という事しか、唐沢自身も知らない。






悪いのは、あの女達だよ。
私に、指図するから。
2人とも、誰から貰った金で生きているのか忘れるのがいけない。



そう言った唐沢真一の表情は虚ろで、頭の中では桜井の事も野村の事も考えては無かった。
唐沢が思い出すのは、5年前の夏の病室だった。
個室の一番高い部屋で昏々と眠る母親の、人工呼吸機のスイッチを。
深夜、静まり返った病室で、唐沢は切った。
口煩い自分勝手な女は大嫌いだった。
子供の頃に散々、暴虐の限りを尽くされ痛めつけられた。
外面だけは良い母親で、母子家庭で女手1つで息子を育てる感心な母親を演じていた。
誰も虐待を受けている息子の事など、気付きもしなかった。
息子が大人になって事業に成功すると、育ててやった恩を着せるように纏わりついた。
脳卒中で意識不明になった時、唐沢は迷う事無くその機械を止めた。
一切の迷いは無かった、むしろ清々しかった。
葬式で唯一の肉親を亡くした息子を演じる事など、容易かった。
これまで唐沢がやって来たいつもの事だった。
悪いのは、あの女だ。






アンタもいつか、女房の事をそう思う日が来るさ。



唐沢が無表情で、撩にそう言った。
完全に目が逝ってしまっている男に、これ以上撩が掛ける言葉など無いけれど。
その言葉だけは、聞き捨てならなかった。





フン、悪いケド。それだけは、地球が滅亡しても無いね。
胸糞悪いから、アンタと一緒にしないでくれる?






ついでに全部、アンタの話しは記録されてるから逃げても無駄よ?
とは、心の中だけで呟いた。
因みに、司令塔である倉庫の中で、最愛の嫁がべろべろに酔っ払っている事を。
彼はまだ知らない。



(つづく)


[ 2014/08/15 19:37 ] 夫婦探偵社「不実」 | TB(0) | CM(0)

最終話  冴羽家の場合

やけに熱心に読んでるねぇ、カオリン。

ん~~~、面白いよ。




新婚夫婦の寝室には、キングサイズのベッドが幅を利かせている。
風呂上りの2人のこの後のご予定はもう、“寝る”だけである。
2日前に依頼を解決して、今のところ2人には翌朝に早起きしないといけない用事も無い。




一旦、口を割った唐沢真一は、
後はまるで開き直ったかのように自身の犯行を淀み無く自供しているらしい。
野村・桜井両名のみならず、過去の実母の件まで調べを進める必要がありそうだ。と、
秀幸が眉を潜めて話していた。
恐らく、唐沢真一の人格形成及び犯罪に対する罪悪感の希薄さは、
幼少期からの母親との関係性が大きな影響を及ぼしているのだろうというのが専門家の見解だ。
勿論、依頼人・唐沢妙子の殺人での容疑は晴れ、弁護士を通じて離婚の協議に入るらしい。


白いTシャツに、ブラジャーは無し。白いショーツ。
半乾きの癖毛を乾かす事も無く、香はベッドに俯せて熱心に読書をしている。
同じく風呂上りの撩が、寝室に戻る前にキッチンにミネラルウォーターのボトルとグラスを2つ、
取りに行っている間に香は先にベッドに寝転んでいた。
2人はいつも一緒に風呂に入り、まず軽くイチャイチャしてから、2回戦以降はベッドに場所を移す。
暫く夫婦のお喋りタイムや、各々の読書タイムを経て、
大抵は撩が良き所で照明を落とし、本格的に“続き”が始まるのが通例だ。

この所、香は髪の毛を乾かす間も惜しんで本を読んでいる。
祖父の書庫から借りて来た、『野草・毒草辞典』である。
事件以来香は、ジギタリスに始まり毒草全般に興味を持っているらしい。
何れにせよ撩は、香が自分以外のものに興味を持って熱中する事に嫉妬する性質なので。
そんな香の横顔を寝転んで眺めるけれど、香は一向に構わずに読書に没頭している。
撩は視線の中に念(コッチ、向け~~~)を込めながら、
絶対、10秒以内にカオリンはコッチを向く。と言い聞かせて脳内でカウントダウンを始める。

10秒経っても、香の視線は紙の上を走っているので。
仕方ないので撩は、自分から動く事にする。
俯せている香の背中を覆うように、香の上に被さる。
体重は掛けないように肘で体を支えながら、ブラウンの濡れた髪の毛に顔を埋める。
撩がわざと、犬のようにクンクンと鼻を鳴らして匂いを嗅いだら、香は漸くクスクス笑う。
諦めたように擽ったそうに首を竦めると、本を閉じる。
こうなると撩のペースだ。

香は閉じた本をベッドサイドのキャビネットへ置こうと手を伸ばす。
けれど僅かに届かないもどかしい距離に、撩が背中から本を取り上げて香の手が届かない所に置いた。
本を置いて、香の首筋に唇を這わす。
柔らかく押し当てるだけの微かな接触にも、枕に顔を埋めた香の吐息が零れる。
そのまま流される事に抗うように、香が寝返りを打って撩と向かい合う。
絡まる視線はいつものように艶を含み、華奢な腕が撩の首に回される。




怖ぇなぁ、カオリン。最近、毒草に夢中だもん。



おどけてそう言う撩に、香は撩の柔らかな毛先を弄びながらクスッと笑う。
右手で撩の頬を撫でる。
頬を撫でた指先が鼻先を撫で瞼を撫でる。
撩はされるがままに、軽く目を閉じる。
指先が見た目より柔らかで肉厚な唇を撫でた時、撩が香の指先をパクッと口に入れる。




ねぇ、りょおたん。

ん~~?



香の声は笑みを含んで幸せそうに響き、
撩の声は香の指先を舐めながら湿っている。




もしもね、もしも、りょおたんが浮気したら、

しないよ。

だから、もしもの話し。




あまりの撩の即答振りに、香は思わず笑ってしまう。
こういう時、とても幸せだと思う。
この目の前の愛しい人と結婚出来た事に、もう殆ど神に祈るような勢いで感謝してしまう。




もしもね浮気したら、屋上でトリカブト育てるね



撩は香の胸に顔を埋めて、クククと笑う。
撩の可愛い人は、可愛くて独創的で恐ろしい。
恐ろしいほどに愛されている。





私ね、考えたんだけど。



そう言って香は、深呼吸すると目を閉じた。
深く息を吸い込むと、寝室の空気は2人のシャンプーと石鹸の匂いで充ちてとても幸せな気持ちになる。




妙子先生はやっぱり、ご主人のこと愛してたんだと思うの。







目を閉じた香が、何の事を言っているのかは撩には解る。
あの日、公民館の応接室の撩の前で本性を現した唐沢を秀幸が連行したのを受けて、
妙子はその数時間後に取り調べから解放された。
撩と二日酔いの香が、例の唐沢邸を訪れたのは翌日の事だった。

殺人での容疑は晴れたものの、妙子はある事実を懺悔と共に取調室で告白していた。

夫と愛人関係にある女ばかり(結論として、野村は違ったが。)を招いてのホームパーティで、
妙子は日頃の苛立ち紛れにやってはいけない事をやってしまっていた。
野村と桜井を死に至らしめたのは、真一がすり替えた毒薬のせいだった。
妙子自身は、実は直近の健康診断で軽い狭心症の疑いがあるとの診断を受けていて、
それを知っているのは夫だけだった。
心臓に不安を抱えている人間に、ジギタリスを使うという事は明らかな殺意の現れである。
ココまでは、真一の仕業で。

けれどそれ以外の4人にも、食中毒の症状は表れた。
そしてそれは、妙子のやった事だったのだ。
料理に使った豚の挽肉に、故意に腐った物を使用した。
自分の身近な人間(学生の頃からの親友にまで)ばかりに手を出す夫にも、
その甘言に乗って自分を騙している卑怯な女達にも、妙子は静かに怒りを覚えていた。
どうにかして仕返ししてやろうと思っていた。
初めは、自分がやった事で2人が死んでしまったと思った。
けれど、警察から事情を聴く内に、どうやら自分の悪意とは別の殺意が隠されている事が解った。

妙子の夫への疑念が確信に変わったのは、秀幸からジギタリスの話しを聞いた時だった。
その毒草の株が庭から出て来たという事。
それをハーブに隠して、キッチンに忍ばせていたという事。
妙子の健康診断の結果、冬に相続した父の遺産、
結婚してすぐの時期から今まで、悩まされて来た夫の不倫。
夫の愛人関係の清算のみならず、自分に対する殺意を妙子は明確に理解した。
手に取るように解った。
こんな夫婦でも、20年近く夫婦をしてきたのだ。誰よりもお互いを知っている。
そして、妻として夫を誰より理解した瞬間がその時だった事に、妙子はもっとも打ちひしがれた。
結局、妙子の罪としては、傷害罪に相当する。
しかし事情が事情であり、犯行には同情の余地もあるという事と、
罪を認めている上に逃亡などの可能性も極めて低いだろうという警察の判断で、家に帰された。
秀幸の話しによれば、罰則自体もさして重いものにはならないだろうという事だった。
解放されたその足で、妙子は伊集院家と冴羽家に謝罪に訪れたけれど。
生憎、香は酔っ払って眠っていた。




『私達夫婦には、愛情なんて初めから無かったんですよ。』



唐沢家の物悲しいリビングで、そう言って妙子は小さく笑った。
その笑顔が何処と無く晴れやかで、香は悲しくなった。
余所の家の事だから良く解らないけれど、せっかく結婚したのならみんな幸せにならないと悲しい。







・・・やっぱり、愛してたんだと思うの。じゃなきゃ、仕返ししてやろうなんて思わないでしょ?

そうだね。




香の囁くような声を呑み込んで、撩が口付る。
撩のカワイイ嫁兼探偵助手は、いつも関わった事件に必要以上に感情移入する。
もうこれ以上、撩はこの件で香が胸を痛めるのを見たくはない。
その為には、次の依頼が舞い込んで来るまで、
そんな事など考える暇も無い位にイチャイチャするしかない、と冴羽撩は真剣に考えている。




りょおたん、ジギタリスの花言葉知ってる?

知らない。

あの本に書いてあったの。

なに?花言葉。

不誠実。





それは何て、あの仮面夫婦にお似合いの言葉だろうと、撩は皮肉な気持ちになる。
公民館での唐沢の胸糞悪い言葉が甦る。
あの遣り取りを、酔っ払った香が聞いてなくて良かったと、撩は心からそう思う。
あの時、指令室の倉庫に戻った撩に、香はビール臭い息を吐きながら楽しげに擦り寄って来た。
人目も憚らず、早くお家に帰ろう?と言いながらとろんとした目つきで、首に手を掛けた香を。
撩がすぐさまこの寝室に連れ帰ったのは言うまでもない。




ねえ、カオリン



撩はお喋りはもうお終いと言わんばかりに、ベッドサイドのシェードランプの灯りを消した。
寝室は一転して暗くなり、ブラインドの隙間から新宿の街の灯りが入り込む。
お互いの輪郭は闇に溶けて曖昧になるから、その肌を撫でて存在を確認し合う。
瞳に映り込む微かな光がまるで星空のように煌めく。
撩は香の耳元に唇を寄せて、形の良い耳たぶに口付る。



俺がカオリンに花言葉を贈るとしたら、何の花にすると思う?

なぁに?



香の瞳の中の光が楽しげに揺れる。





真っ赤な薔薇。




それ以上、2人には言葉は要らない。
柔らかなベッドに埋もれて、2人はいつまでも口付けあった。



(終り)




[ 2014/08/16 22:37 ] 夫婦探偵社「不実」 | TB(0) | CM(0)

RKにピッタリな、お題をみつけたのです。

おはこんばんちわぁぁ、ケシです(*´∀`*)ノシ



毎日毎日毎日、お暑う御座いますねぇ (´Д`)・゜・。
その内、その内、と先延ばしにしておりました、当ブログの課題の1つと致しまして。
新たなお題を探そうというものがありまして。
(いや、もっと他にも重要課題もあるんですが・・・お返事とかお返事とかお返事・・・汗汗汗

                  非常にm(_ _)m申し訳ない


兎にも角にも、この度。
また新たに、100のお題をお借りする事に致しました。

配布元様: dream of butterfly 様
コチラのサイト様の、『モノかきさんに100のお題』というお題に挑戦してみようと思います。

後程、お題リストを作ってみようと思います。
まずは、ご報告まで~~~            (*´∀`*)ノシ





[ 2014/08/17 21:03 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

お題リスト【100のお題、冴羽商事の場合。】

数が多いので、折り込んでおきます。

お題提供: dream of butterfly 様

お題ページへ、『モノかきさんに100のお題』


これから、少しづつまた挑戦しようと思います。


(2016.02.24.追記)
1.Are you ready  63.柑橘系 44.雪月夜 は、連続した1つのお話になってます。(1→63→44)

4. 万華鏡

ベッドに入る前、網戸を閉めただけのカーテンの向こうで雨の気配がするのは知っていた。
いつもの熱帯夜よりかは幾分マシとは言え、空調を使わない寝室が寝苦しい事に変わりは無い。
香の寝室は客間も兼ねている。
もっとも、この部屋に依頼人がいる事の方が珍しいけれど。
香が、今夜からこの部屋で寝る。と宣言して、
撩が、勝手にしな。と返したのはもう、何年前の事だろうか。
あれからここが、香の居場所だ。
香の人生であの兄と過ごした団地の部屋の次に長い付き合いの天井には、見上げると小さな染みがある。
それはいつでもそこにあって、大きくもならなければ消えもしない。
いつも変わらない。
いつまでも変わらないという事は、香を酷く安心させるので目を覚ましてその小さな染みを見付けると、
香はいつもホッとした。
怖い夢を見た時に目を覚ますと、安心なこの部屋に帰って来れたと安堵するし。
不甲斐無い自分に自己嫌悪に陥って泣きながら寝た夜は、それでもここに居られる事に感謝した。




まるで映画のワンシーンが切り替わるように、香は睡眠の中から一瞬で覚醒した。
眠気は1㎜も無く、目覚めた瞬間に醒めていた。



きっと、撩はまだ帰っていない。
今夜もこの街の何処かで飲んだくれている。いつもの事だ。
あれで意外にも肝機能は正常らしいから、というよりむしろすこぶる健康らしいから、
香はいつも、彼の身体能力というか体質というか生命力のしぶとさというか丈夫さに舌を巻く。
雨の気配はもうしない。
一旦、目が冴えるとどんなに目を瞑っても眠れないから。
香は起き上がる。
ベッドのすぐ脇の窓に掛かったカーテンは夏用の薄い木綿で、夏らしい薄い緑色だ。
風を良く通す生地が、少しだけ揺れている。
それをほんの少しだけ開けると、真夜中の空は明るい。
この街の空は、いつでも少しだけ明るい。
ベッドの上に正座して、窓枠に頬杖を付く。
雨が上がった後の夜の空気は清浄で、心持ち澄んでいるように思える。

万華鏡みたいだと、香は思う。

遠くに見える色彩りどりのネオンとイルミネーションとテールランプの全てが、複雑に融け合って絡まる。
この街の全てが、まるで万華鏡の中のスパンコールやガラスビーズのようで。
その雑多でキラキラした欠片の中には勿論、香の相棒もいる。
香は撩に出逢うまで、この街の事など何も知らなかったし。
撩はいつも万華鏡の中で輝いている美しい欠片で、
香はいつもそんな撩を小さな窓の中から眺めている。
あの天井の小さな染みのすぐ上の7階の寝室に、いつも眠っていても。
香から撩までの距離は、遠い。
まるで何万光年も離れた星に憧れるように、香は恋をしている。











何やってんの、おまー。





撩が帰って来た時、いつもの客間に香の気配が無かった。
一瞬、焦ったけれどそれは杞憂だった。
相棒の微かな気配は屋上にあって、だから撩は寝室にも入らずに真っ直ぐ屋上に向かった。
彼女は何故だか屋上のど真ん中のコンクリートの上に、大の字になって目を瞑っている。
グレイのTシャツに色の褪せた紺色の短パンを穿いている。
足は裸足で、スリッパは何処にも無い。
穏やかな呼吸に合わせて、静かに上下する胸の膨らみを見なければ。
死んでいると見間違いそうなほど、挙動が不審だ。
撩が香の顔を覗き込むと、ゆっくりと目が開いて、茶色の瞳が撩を真っ直ぐ見詰めた。





星、見てたの。

見てたって、目ぇ瞑ってたくせに。




撩はそう言って低く笑いながら、香の頭側のコンクリートの上に胡坐をかいた。
香がもう一度、ゆっくりと目を瞑ると。
カチンと、撩のライターの蓋が開く音がする。
耳を澄ましたら、煙草の先にジジジと火が点く音が聞こえる。
暫くあって嗅ぎなれたマールボロの薫りが、香の鼻腔に届く。
香は他人の煙草の臭いは嫌いだけど、撩の匂いは好きだ。
それは誰にも言わない、香だけの恋の匂いだ。




でも、見てたんだもん。



瞼の裏に、美しい硝子の欠片の様な。
香にしか見えないお星様を見ていた。
何処ほっつき歩いてんのかなぁと、思いながら。
香は目を瞑ったまま、煙草の匂いの混じった夜の空気を深く吸い込む。
死ぬほど撩が好きだと、香は思う。





万華鏡みたいでしょ?

そうかぁ? っつーか、星なんて見えねえし。

・・・見えるよ。




見えるの、と小さく香は呟いた。
それは殆ど、独り言で。
撩は何も答えずに、香の隣に寝転んだ。







目が醒めちゃって。お水を飲もうと思って起きたの。

そうか。

うん。





何故、水を飲もうと思って屋上にいるのかとか、スリッパはどうしたのかとか、
突っ込み所は満載だけど、撩は何も訊かない。
程よく酩酊した身体に、夜更けの雨で微妙に生温くなったコンクリートが妙に心地良かった。
真夜中でもちゃんと、夏の匂いがする。
香とこうして何でも無い1日を過ごしながら、何度目の季節が巡っただろう。
撩は香に惚れている。
一度、どさくさ紛れに便乗して、気持ちを告白した。
けれど当の相棒は極端に奥手なので、
撩の言葉をどう受け止めているのかは今のところ謎のベールに包まれている。
雨上がりの夜の空気は、こうして寝転んで目を瞑って感覚を研ぎ澄ますと、意外に清らかだ。





濡れなかった?雨。




撩はいつも、少しぐらいの雨では傘を差さないから。
香は訊いた。
雨に濡れた撩が雨宿りを兼ねて、ネオンの灯りに吸い込まれるところを想像する。
撩はまるで優しい野良犬みたいだと、香は思う。
それでもこうしてココに帰って来てくれて嬉しい。






濡れたけど、乾いた。

ジーンズ、臭そう。

・・・・・・悪かったな。

洗濯機の中に入れといてね。

なぁ。

ん?

寝ないの?

眠くないの。






ゆるい風が屋上を吹き抜けて、寝転がった香の茶色い癖毛を揺らす。
シャンプーの匂いと生温いコンクリートと新宿の灯りが融けた夜空の色に、
撩は訳も無く胸が締め付けられた。
我慢しているのだ。
こういう時、撩は自分でも無意識に強く自分を抑えている。
こういう晩はその無意識を、嫌でも激しく意識させられる。
香に触れたいし、香に触れられたい。
何を我慢する事があるんだろうと思いながらも、ついついブレーキを掛けてしまう。
その撩のギリギリの境を、香は時折こんな風に何食わぬ顔でスルッと越えて来たりする。
短くなった煙草をコンクリートに押し当てる。




じゃあさ。

なに?

眠くなるおまじない、してやろうか?

え?







驚いたように目を見張った茶色い瞳の中に、まるで万華鏡のような小さな星を沢山見たような気がした。
初めて彼女の唇に触れながら、撩は。
確かに彼女の言うように、目を瞑っていてもそれは見えるような気がした。







パンが無ければ、お菓子を召し上がれば良くてよ。

と、のたまったのは かのマリーアントワネットかもしれませんが・・・


おはこんばんちわ、ケシです(*´∀`*)ノシ



ケシ子の場合、巷に欲しいと思う通りのモノが売って無ければ、作れば良くてよ、なのでございます。
このカテゴリは、そんなケシ子のシテハンとは全く関係無い趣味のカテゴリです。
何故だか、ノリで作っちゃった(テヘ)
興味の無い方は、華麗にスルーでお願い致します。


長いので、畳んどきます。
↓↓↓↓↓

90. 極彩色の夢

槇村香の朝は早い。
毎朝、7時前には起床して自分の為の朝食を摂る。
相棒の好みは濃い目に淹れたブラックコーヒーだけど、香は薄く淹れる。
それにたっぷりの沸かしたミルクを入れてカフェ・オ・レにする。
朝食が洋食だろうが和食だろうが、まずはそれを1杯飲んでから新聞を読む。
新聞は中学生の頃から、毎朝かかさず読んでいる。
初めは、刑事の兄に関わってくる事件が起こっていないかどうか、それが心配だったから。
今では殺し屋の相棒に関わってくる事件が起こっていないかどうかを調べるのと、習慣だ。
コーヒーと新聞を終えたら、朝食前に先に洗濯機を回す。
自分が前の日に着ていた物は、前の晩の内に洗濯機の中に放り込んでいる。
後は、相棒の着ていた物を回収する。
それはその時々で、色んな所に点在する。
前の晩、酔って帰ったのだろう玄関先で丸まった靴下を見付ける事もあれば、
リビングにジーンズを脱ぎ散らかしている事もある。
彼は、香がココに棲み付くまで自由気ままに生きて来たので、今更どんなに躾けても手遅れだ。
命の危機にさらされない限り、彼の緊張感の糸は緩みっぱなしだ。
香も、半ば諦めている。
それに小言を言いながらも、そんな彼が少しだけ可愛らしいと思って無い事も無いというのも事実だ。
(そして酔っ払ってさえなければ、意外と素直に洗濯機の中に入れてくれてたりもするから憎めない。)
全てを回収して最後に、脱衣所の洗面台の脇の、
タオルハンガーに掛けられたタオルを新しい物に取り換える。
洗濯機の回っている間に、簡単に朝食を済ます。
大体の下拵えは、前の晩の片付けの時に同時進行で済ませておく。



香はいつものように起床して、まずは郵便受けに朝刊を取りに行く。
新聞はいつも3誌、常に金欠状態の冴羽商事にとって購読料が嵩むのは痛いけど、
ある意味、仕事の一環だから情報料だと思ってケチらない。
この中で香が読むのは、昔から読みつけている1つだけだ。
後の2つは撩が読む。
新聞を取って、まずはコーヒー。
その為にキッチンのドアを開けると、そこには意外な人物が座っていた。




















絵梨子ぉ???

おはよう、香。



そう言ってニッコリ笑った親友は、何故だかセーラー服の制服を身に着けて。
キッチンの扉を開けるとそこは、懐かしい教室だった。
絵梨子は現在(いま)の絵梨子では無く、“あの頃”の絵梨子だ。
それなのに、香自身は何故だか今のままの寝起きの香なのだ。
クシャクシャの癖毛にはブラシを入れる事も無く、グラミチのショートパンツに色の褪せたTシャツ。
ノーブラだ。(寝起きだからね)



ねぇ、香。昨日の生物のノートとってる? とってたら見せてくれない?

もぉ~~~。しょうがないなぁ。


何故だか言葉は香の脳内とは裏腹に勝手に吐いて出る。
そういえば絵梨子は高校生の頃、生物が一番の苦手科目だったのを思い出す。
香は、絵梨子と香2人しかいない教室で自然と絵梨子の席の右斜め後ろの席に座る。
その席がいつもの香の席だった。
この斜めの前と後ろでいつも、2人は授業中にコッソリと手紙の遣り取りをした。
手紙の内容は他愛も無い。
各教科の受け持ちの先生に、2人は色んなあだ名を付けていた。
今となっては、もう思い出す事も無い。



はい、どーぞ。


香が机の引き出しの中から1冊の大学ノートを取り出して渡すと、
親友は受け取って一転、眉間に皺を寄せて心配げに声を低くした。



それより、香。冴羽さん昨夜から帰って無いんでしょ?探しに行かなくて大丈夫?

は?





その時、教室の後ろのドアがスパァーーーンッッと、華麗に開いた。












そうよっっ!! 
香さん、撩のヤツ見付けたらお仕置きよ!!!

今朝見たら、私の勝負下着がごっそり盗まれてたのよっっ、こんな事するのアイツしかいないわっっ




入り口には、やけにボディコンシャスな真っ赤なワンピースを身に纏った麗香が仁王立ちしている。
呆気にとられる香の手を引いて、麗香が教室の外に連れ出すと。
そこは早朝の歌舞伎町だった。
香には何が何だか解らない。
さっきまで寝起きのパジャマ代わりの短パン・Tシャツだったはずなのに。
何故だか気が付けば、
デニムのタイトミニのスカートに撩のクローゼットから拝借した大きめの色の褪せた、
AVIREXのTシャツを着ている。
ぶかぶかの裾を、ひとつにキュッと縛るのが香のお気に入りの着方だ。
不思議な事にちゃんとブラジャーを身に着けている。

(なんだろう・・これって・・・夢???)

首を傾げながら歩く香の手首をきつく掴んだまま、麗香は半歩先を振り返らずにずんずん進む。

















良く解ったね、夢なんだ。これ。



そう言って振り返ったのは、野上麗香では無くミック・エンジェルだった。
何故だか彼はケバケバしいピンク色と紫の縞々の全身タイツに身を包み、
真っ赤な口紅がまるでピエロのように、口角の両端を極端に吊り上げる形で塗られている。



・・・チェシャ猫?

Yes、またの名をミック・エンジェルという。ミックと呼んでくれて構わないよ、カオリ。



そう言って、ミック・エンジェルは惚れ惚れするような模範的なウィンクを投げて寄越した。
聞きたい事が満載で絶句する香をよそに、ミックは相変わらず手首を掴んでずんずん進む。





それよりカオリ、時間が無い。リョウのヤツを探さなきゃだろ?

え、ええ。 ミックさんは、撩のお友達なの?

ふふふ、どうかな。友達というか、腐れ縁だね。きっと、アイツも同じ事を言うと思うよ。

ねぇ、何処に行くの?

アリゾナさ、ヤツは今朝はそこの安モーテルに居るはずさ。





・・・ありぞな???何処、それ?  と、香は怪訝そうに眉を潜める。
勿論、ミックはそんな事には一切構わず先を急ぐ。
何を彼らは急いでいるんだろう。
撩ならきっと、あの7階の寝室で眠っている筈なのに。
香はそんな風に思うのに、言葉は上手く出て来ない。
目の前の映像と脳内と繰り広げられる現象が、上手く焦点を結ばない。
言葉は頭に浮かんだ端から、ぬるま湯の中の角砂糖のように溶けてなくなり。
ミックは何故だか妙な扮装をしている。
ミックが香を連れて辿り着いた、古めかしい真鍮のドアノブの付いた扉を開けると。
そこには、見覚えのあるブロンドの美女がいた。














ハァイ、ミック。お久し振り。

・・・・・・・うげ。ブラッディ・マリィ。 君か、今リョウの事狙ってんのは。

あらやだ、狙ってるだなんて人聞きの悪い。 リョウの命なんて欲しくは無いわ。

じゃあ、何が目的だ?

ワタシのクライアントは、ただリョウの仕事を阻止してくれさえすればそれで良いんだって。

で、どうするつもり?

どうもしないわ、ただその日、その時間にリョウを誘ってベッドに入るだけ

わぁお、ナイスなトラップだ。ボクが代わりたい位だ。スケベなヤツには、賢明な作戦だね。

でしょ? ワタシも好きな男を手に掛けたくは無いもの。





そう言って微笑み合う、アングロサクソンの美男美女を、香はポカンとしたまま見詰める。
何だか香には解らない話しが淡々と繰り広げられている。
気が付くとミックは、いつの間にかチェシャ猫からいつものミックに変わっている。
口角も上がっていない。





それよりもミック?

なんだい?

ワタシの認識では、アナタは根っからの女ったらしだったと思うんだけど。
アナタ、いつからバイになったの? だぁれ?その坊や。





そう言って、2人が急に香の方に注目するから。
香は思わず照れ臭くなって、目を逸らす。
ふと視界に入った自分自身の手と足の先を見詰めて、香は驚いた。
さっきまでデニムのスカートとTシャツだったはずの自身の服装が、また変わっている。
それは高校生の頃、お気に入りでよく着ていたパーカーと、
誕生日に兄貴に買って貰った、アディダスのカントリーだった。
そのモーテルのド派手な壁紙の張られた壁に、くすんだ鏡が掛かっている。
香は恐る恐る、その鏡の中に視線を向ける。


(わ、若い。)


それは、あの。
撩と初めて逢った、SugarBoyの頃の自分と同じくらいだった。
もう香には、これが恐らくは夢なんだろうとは解っている。
解っていても、感情はやけにリアルでこの瞬間をまるで現実のように過ごしている。
ミックは、本当に楽しそうに目尻に皺を寄せて微笑んだ。



あぁ、ボクは変わったんだ。すっかり、好みのタイプが変わっちまった。



意味が解らないとでも言いたげに肩を竦めたマリィに、ウィンクをしてミックが煙草に火を点ける。
香はこの時に何かとても大切な事を思い出しかけたけど、
記憶はまた例の如く、角砂糖のように溶けて消えてなくなった。



















誰だ?オマエ。


その時、香の背後でドアが開いて聞き慣れた声がした。
見上げる程大きい背の、真っ黒な黒髪に真っ黒な瞳。
今よりも若くてやつれたように頬がこけている。
視線はまるで黒い豹の黄色い瞳のように鋭い。
まるで冴えたナイフの切っ先のように、瞳がスッと細められる。
いつの間にか、ミックもマリィも消えてこの場には、撩と香の2人だけだ。



・・・あ、ああの・・・


言葉が上手く出て来ない。
喉の奥がカラカラに乾いて、まるで香は精悍な肉食獣に睨まれた小さな獲物になった気分だった。



オマエ、JAPか?


香は答える代わりに、小さく頷いた。
それを見て、撩が一瞬、顔を顰めたような気がした。



JAPは嫌いだ。


そう言われて、香の胸は張り裂けそうに痛んだ。
今の香には、何故撩がそう言ったのか解るから。
この目の前の撩の傷は、今の撩よりも随分、生々しく日が浅いのだ。












あれでも随分、楽になったようじゃ。小康状態じゃよ。



そう言って、香の隣に小さな老人が立った。
驚く香に、小さく微笑んだ老人は今現在の彼と一切変化は無く。
香はそれにも少しだけ驚いた。
老人から香が視線を正面に戻すと、いつの間にか今度は薄暗い部屋のガラスの前に立っていた。
ガラスの向こう側は、煌々と明るくて真っ白な空間だった。
簡素なベッドが1つ置いてあり。
そこには、全裸の撩が手足を拘束されて横たわっている。
口には口枷まで嵌められ、濁った黒い瞳は虚ろに彷徨っている。
時折、身体中がまるで痙攣するように突っ張っているのが解る。




禁断症状。



香がそう口に出してみると、背後に人の気配がした。
背筋に悪寒が走る。




新型のエンジェルダストは、効果も優れているけれど、その副作用も凄くてね。



振り返るとそこには、かつて撩が父親と慕った男が佇んでいた。
その顔は妙に穏やかで。
こんな風に撩を苦しめたそもそもの張本人だというのに、思わず忘れそうになる。
彼はニッコリと微笑むと、香の癖毛を撫でた。



私はアイツを愛しているんだよ、誰よりもね。














約束してくれ、香。



そう言った撩の声に、香はもう1度ガラスの方を振り返る。
いつの間にか撩は立ち上がって、ガラスの前に居た。
ついさっき香の頭を撫でた撩の父親が、撩の向こう側に倒れている。
ズーン、ズーンと地鳴りのような音がしつこく響いている。
小さな爆発が引っ切り無しに起こり、何かが弾ける。



お前の方こそ、逃げ遅れて俺を悲しませないと。




うん
約束
する


夢の中で、香はもう1度ガラス越しのキスをした。










時間が無い、行くぞっっ




背後からそう声を掛けたのは、海坊主だった。
目の前の撩にも目線で急かされ、香は未練を断ち切って頷くと。
意を決してその場を離れた。



お前は、先を歩け。俺が後ろからついてゆく。



そう言った海坊主に、香が頷いて沈没しかけた船内を歩いてゆく。
その矢先、船底で大きな爆発が起こった。
香は撩を想って、思わず歩を止めた。



大丈夫、これは夢だもの。
あの時、撩はちゃんと還って来てくれたもの。
撩が約束を破った事なんて、一度だって無い。











香の目の前に、外からの光が見え始めた頃。
またしても背後から、香を呼ぶ声がした。




見てご覧、あれがお前の選んだパートナーだよ。

・・・・お兄ちゃん?



そこには、久し振りに見る兄の姿があった。
ヨレヨレのトレンチコートの下の野暮ったいスーツに、古臭い眼鏡。
世界で一番優しい、香だけの兄だった。





アイツの背中だけを追い掛けるんだ、香。

りょおの事?

ああ、アイツの事を信じてさえいればお前は幸せになれる。

ほんとう?

俺が今まで、お前に嘘を言った事があるか?




香は嬉しそうに笑うと、大きく首を横に振った。
あの光の先に、さっきから香が探している撩が居るはずだと何故だか解った。
頷いて駆けだそうとした香の腰に、誰かの腕が巻き付いた。
















行ってはダメッッ、香さん!!

美樹さん?





不思議そうに首を傾げる香に、美樹は悲壮感の籠った目で香を見詰める。
いつの間にか場所は、いつかの墓地に変わっていて。
真っ暗で静かな空気の中で、遠くに銃声が聞こえる。




行ってはダメなのよ、もう私達には止められないの。



そう言って、美樹は激しく嗚咽している。
戦闘に明け暮れて、闘う事でしか熱くなれない男を愛してしまった自分と同じ境遇の彼女の指先に。
グッと力が籠る。
解っている。
香は知っている、自分がマリィやソニアや美樹のように強くも美しくも無い事は。





解ってるの、美樹さん。
でもアタシ、馬鹿だから、馬鹿で足手纏いの押しかけパートナーで。
美樹さんとかソニアさん達みたいに、美人でも強くもないけどっっ
でも闘いたいの!!
りょおと一緒にっっ
りょおを苦しめる全てのものと、闘いたいのっっ!!




そう力説する香は、いつの間にか最初と同じTシャツと短パンに戻っていて。
ノーブラに愛用のエプロンを着けている。
何しろ、朝ご飯を作る前に麗香に連れ出されたから仕方ない。
いつの間にか、香の手にはお玉がしっかりと握り締められている。




でも、香さん。お玉じゃ何の助太刀にもならないわ。



いつの間にか、喫茶・キャッツアイのロゴマークの入った黒いエプロン姿になった美樹が。
冷静にそう突っ込む。



大丈夫っっ!!美樹さんっっ アタシには、100tハンマーという最強の武器があるもの!!


あぁぁ、香さんっっ




引き留める美樹の声を背に、香は光の差す方へと駆けだした。









りょおおおおおぉぉぉ



















ゴツッッ



無意識に起き上がった香の前頭部に、何かがぶつかる。
香は寝惚けたまま辺りを見回す。
床の上に散らばった2人分の部屋着に、寝乱れたシーツ。
傍らで鼻を押さえて悶絶する、パートナーの姿。
2人とも裸ん坊だ。



あづい。



取敢えず香は、ベッドサイドのキャビネットの上に置かれたエアコンのリモコンを手に取って、
スイッチを入れる。
もう既に日は高く昇り、いつもより随分と遅い目覚めだ。
締め切った窓の外では、蝉が煩いほど鳴いている。
香は蹴飛ばしていたタオルケットを胸元までたくし上げながら、もう一度横になる。
そこに真っ赤な鼻をした撩が滑り込む。
香よりも少しだけ早く目覚めた撩は、奇襲をかける為に香の寝顔にキスをする手前だったのだ。
奇襲をかけるつもりが、見事に反撃された。






ねぇ、鼻曲がって無い? 超痛ってぇ。

ううん、だいじょうぶ。てか、なにやってんの?りょお。朝から。



そう言いながら香は、撩の滑らかな胸板に頬を寄せる。
いつもなら、寝過ごしたと大騒ぎしてバタバタと起き出してしまうクセに。
何故だか今日は、もう一度幸せな二度寝を貪る事に決めたらしい。
それは撩にとって、単純に喜ばしい事なので。
撩は擦り寄って来た香の身体を柔らかく抱き締める。
スベスベした絹のような手触りの背中の感触を、熱い掌で愉しむ。




夢を見たの。

どんな?

りょおの夢。

ふ~~ん、夢の中でも俺はイケメンだったでしょ?




ふふふ、ばっかじゃないの?






香がそんな事を言って笑いながら、でも華奢な両腕を撩の腰に回すから。
撩の腕にも力が籠る。
腹筋に当たる香のおっぱいが柔らかくて、撩は少しだけ身震いがした。




ねぇ、りょお。

なに?

しよ?



香からは見えない撩の顔がだらしなく緩む。
返事の代わりに、顔を埋めた癖毛のつむじに軽くキスをすると。
撩は柔らかで美味しそうな匂いのパートナーを、優しく組み敷いた。








3. 雨の予感

ふぅ、危機一髪。



ベランダから曇り空を見ながらそう言った槇村香は、両手に乾いた洗濯物を抱えていた。
正確には曇り空というか、局地的な黒い雲がお日様の沈む方角にモクモクと発生し始めている。

連日真夏日が続く昼下がりに、香は節約と熱中症対策を兼ねて行きつけの喫茶店で時間を潰す。
アイスコーヒー1杯で何時間も粘る申し訳無さに、今日は大きなスイカを差し入れた。
以前に事件で関わった元依頼人の豪農のお爺さんが大量に送って寄越したので、御裾分けだ。
冴羽家の冷蔵庫では、丸のままは冷やせないから半分に切って半分づつ冷やす。
美樹はとても喜んで礼を言うと、香の目の前で丸のまま大きな業務用の冷蔵庫へと仕舞った。
それを香は酷く羨ましがり、美樹はそんな香が妙に子供っぽくて可愛いと思った。

相変わらずの香の相方への惚気ともとれる愚痴の合間に、遠くで雷の音がゴロゴロと聞こえた。
まだ空は晴れているけれど。
こんな風になったら、崩れるのはあっという間だ。
香は慌てて勘定を済ますと、颯爽と新宿の街を駆けてアパートへと戻った。




香が洗濯物を取り込んで、リビングのサッシを閉めてもまだ。
さっきとなんら変わらず、遠くでゴロゴロいうだけだった。
けれど多分、油断していると気付かないうちにすぐそこまで、あの黒い雲はやって来るのだ。
この数日、夕方になると決まって激しい通り雨が降る。
香はエアコンの設定をドライにして、スイッチを入れる。
相棒は今頃、呑気にうろついているのだろう。と、座り込んで香はその当人のボクサーパンツを広げる。
雨が降りそうな午後の遅い時間、灯りを点けるまでにはまだ間のあるリビングは薄暗くて。
締め切った空気は四角く区切られ。
香はまるでそこに閉じ込められたような錯覚を覚える。
香と撩の生活を閉じ込めて透明のゼリーで固めたような、息苦しいほどに幸せな錯覚。
香は時々、どうして男の人と付き合った事も無いのに。
こんなボクサーパンツなんて畳んでいるんだろうと、可笑しな気持ちになる。







撩がまるで野良犬のように街中をうろついていると、懇意の情報屋の1人がにやけた顔で近付いてきた。
なんでもついさっき、撩の見目麗しい相棒が行きつけの喫茶店から走って帰って行ったというのだ。
ただそれだけの事を、わざわざ彼らがそうやって撩に報告するようになったのはいつからだろう。
この街では、撩は彼女と一緒に居なくてもその一挙一動が全て耳に入る。
確かに先程から、空気には嫌な湿気が混ざり遠雷が聞こえる。
夕立の兆しだ。
彼女はきっと今頃、あのリビングにペタリと座り込んで洗濯物を畳んでいるに違いない。
リビングのドアに背を向けて、外を見ながら。
華奢な背中と、形の良い頭蓋骨を隠す赤茶色の癖毛。
そういう光景を撩は、易々と想像出来る。
撩の想像の中の彼女は、実際の彼女よりも幾分心許なくて儚い。
実際の彼女はもっと、強い眼差しやシャンと伸びた背筋が凛とした佇まいを醸し出している。
けれど撩が頭の中で思い出すのはいつも、その薄い背中や手首の細さだ。







冷蔵庫の中には、スイカが2分の1玉冷えている。
昨夜、床に就く前に冷蔵庫に入れたので、充分に冷えて瑞々しいだろう。

兄が亡くなった日、昼下がりには穏やかだった空が、暗くなるにつれて荒れ模様になった。
香はスコールにも似た夕立の中で、こうしてリビングに閉じ込められる度。
あの日の事を思い出す。
雨雲や雷はもっとずっと遠い所の話しだと思っていても、気が付けばすぐ傍にあるのだ。
人の生き死にも。
もうすぐにでも、雨が降り出しそうな気配がする。







撩の鼻の頭に、ポツンと雫が落ちたのと、胸ポケットの携帯が震えたのは同時だった。
液晶画面には、“香”の文字。

自分の分の衣類の山と、撩の分。
後は各々の部屋のクローゼットに仕舞うだけなのに、香はそれがとても大儀に思えた。
それぞれの山をソファの端に乗せて、香はガラステーブルの上に置いた携帯電話に手を伸ばす。





“・・・・・・”

もしも~~し?

“・・・うん。”

おまぁ、自分からかけてきといてなんか言えよ。

“うん。・・・雨、降りそうだよ。”

だな。

“・・・帰って来たら?”

・・・・・・あぁ、だな。

“スイカ、冷えてるよ。”

ああぁ、今イイ感じのモッコリちゃんともう少しでお茶出来そうなんだよ。

“そう、・・・可愛い?”

ああ、激マブ。

“誰に似てる?”

はぁ?

“芸能人に喩えると。”

・・・・・・それは、おまぁ。

“誰?”

秘密だ。

“ふ~~~ん、あっそ。・・・スイカ、食べちゃうよ。”

それはいかん、それはダメだぞ香。独り占めはっっ

“じゃあ、帰って来なよ”

っち、しゃあねぇなっっ、帰るか。

“うん、それが良いよ。”

プツッ




撩が返事を返す前に。
電話は、掛かって来たのと同じく、唐突に切れた。
撩とてこれ以上、雨の降りそうな屋外をうろつく理由も無いのだけれど。
何故だか素直に帰るのが、まるでシッポを振りながら馳せ参じる忠犬みたいでカッコ悪いと思えてしまう。
しかし、つい今しがたの遣り取りの方が、更に輪を掛けて格好悪い事に気が付いて。
馬鹿馬鹿しくなる。
撩はとっとと帰りたいのだ、相棒が洗濯物を畳みながら鼻唄をうたうあのリビングに。









撩が帰って来た時には、雨はもう降り始めていた。
黒い髪から雫を垂らしながら帰って来た。
それでもまだ、服は少し湿っている程度だ。
ソファに背を預けて床に座る香の隣に、撩も座る。



おかえり。
ただいま。



撩はリビングに雨の気配を連れて帰って来た。
香はごく自然な仕草で、撩の湿り気を帯びたジャケットの肩口に頭を預ける。





あのさ、アタシ思い付いたんだけど。

何を?

いっぱいあるでしょ?スイカ。

うん、あるね。

ゼリー作ってみたらどうかな? スイカゼリー。




撩の可愛い相棒は、時折、突拍子も無いアイデアを思い付いたりする。
そこに行くまでの思考の過程に、到底、撩の想像は及ばない。




・・・・・・イイんじゃね? 好きなようにしてみたら。

うん、する。

ふふ、変なヤツ。





撩はそう言って小さく笑った。
それより、冷えたスイカはどうした。と訊いたら、香は何も答えずに撩に頭を預けたまま目を瞑った。

香は撩に、変なヤツと言われたら安心する。
こういう時兄貴なら、良いアイデアだね香、と言ってニッコリ笑って褒めてくれる。
香はこの兄の様な保護者の様な中途半端な関係の相棒の、兄とは全く違う部分を見付ける度。
安心出来る。
ほんとうは、スイカなんかを固めたいんじゃ無くて。

今この時、撩と2人のこの空間そのままを冷やして固めて、永遠に閉じ込めてしまいたい。


窓の外では、雨が激しくガラスを叩き始めて。
雷が轟いた。
リビングはますます薄暗くなって、
香の薄い麻のシャツが撩のジャケットから染みた水分で、肌に張り付く。
撩は何にもしないし言わないけれど、少なくとも香の事を拒絶はしない。
こうして何も言わずに香に肩を貸してくれる。
それが撩の優しさだという事を、香はちゃんと知っている。
知っているから香は、それだけで良いと思う。


もっと他に、沢山。
言いたい事はあったような気がするけれど、忘れてしまった。
真っ黒な雲がやって来る前に、この安全な2人のリビングに撩が帰って来てくれただけで充分だった。








65. 過去の人

香は夜の紺色の寝室で、撩に抱かれながら考え事をしていた。
窓の外は黒で、寝室の中は紺色で、少しづつ夜は濃度を変えて撩の顔を蒼白く見せる。
2人はいつも向かい合っている。
どちらが上でも下でも、寝そべっていても座っていても。
お互いの事を余す事なく、見ていたいから。
ここをこういう風に触るとこんな顔をして、ここを優しく撫でるとこんな風に吐息を漏らすという事を。
1つ1つ丹念に共有してゆく。


いつもならもっと、その行為に没頭している筈なのに。
香は考え事をしていた。
それもこれも、原因は自分だ。
昨夜も同じようにベッドに潜り、囁き合い、果てた後も眠気が来るまで穏やかに会話をした。
それはホンの好奇心と、少しの嫉妬の感情だったのだと、香は冷静に振り返るとそう思う。
香はこんなに愛した人は、撩1人だけど。
撩はどうなんだろうと思った、けれどそう思ってすぐに訊くまでもないだろうと考えた。
考えたけれど一応訊いたてみたのが、昨夜の事だ。



いるよ。



香の質問に、撩はそう答えた。
過去に香以外の人を、撩は愛した事があると言った。
それは当然の答えだと思っていたし、解っていて訊いたつもりだったけど。
香はそれ以来丸1日、その事ばかりを考えていた。
コーヒーを淹れながら、その人とアタシとどっちが美味しいコーヒーを淹れただろうかとか。
灰皿に残った吸殻の少しだけ噛み痕のついたフィルターを、
その人も同じ様に見詰める度、胸がきゅんとしたのだろうかとか。
こんな風に口付られて、やっぱりなんでも許してしまう気持ちになったのだろうかとか。
耳元でそっと、普段は言わないような事を囁かれたりしたんだろうかとか、考えていた。



撩が自分にしてくれてその人にしなかった事と、その人にして自分にしてくれない事の可能性を。
色々と想像した。
想像した所で、香の経験不足の頭では大した事は思い浮かばなかった。
そもそもそれを考える事に、何の意味も無い事は解っている。
解っていても、勝手に溢れ出る思考は止められなかった。







何考えてた?



だから、その行為を終えて撩がそう言った時。
香は何と答えて良いモノか、暫く考えを巡らせて目を閉じた。
気怠い身体を動かすのも億劫で、仰向けたまま額に手を乗せて顔を覆った。
撩は小さく笑って、香の身体にピタリと身を寄せた。
お互いの汗が混ざるのを皮膚が感知する。
不思議と嫌な感覚はしないし、むしろそれがもう一度ザワザワと小さな快楽の芽を呼び起こす。
何て言えば良いのか解らないから、香は答えない事にした。
ただの嫉妬だから。
見も知らない相手に嫉妬して、撩に嫌われたくないから。
撩は構わずに香を腕の中に囲い込んで、鼻面を香のこめかみに埋める。
少し汗ばんだ癖毛のシャンプーの匂いを嗅いで、目を瞑る。
まるで犬みたいだと、香は思う。



昨夜のこと?



ホラ、また。と、香は心の中だけで呟く。
まるで犬みたいに鋭くて、賢くて、優しくて甘い。
答えない香に、撩がクスクスと笑う。
男の人の息の匂いが生温く香の頭にあたる。
撩とこんな風に過ごすようになって、男の人の匂いというものを初めて知った。
男と女は、匂いからして違うものなんだと初めて知った。
香は撩の匂いが好きだ。




妬いてんの?


答えないけど、香は額から手を退けて撩を見た。
いつの間にか撩も、こめかみから顔をあげて香を見ていた。
全部が紺色の絵の具を水で薄めたように、蒼い夜だ。



うん、とっても。



香がそう答えると、撩は声を立てずに破顔した。
嫉妬は醜いから、あんまりしたくないのにと思っている香の意に反して。
撩は別段、気にしている風でも無い。
香が心の中で、もやもやとヤキモチを妬いているというのに。
そんな事は大した事では無いとでもいうように、撩は笑っている。
悔しいので、香が撩の肩口に軽く甘噛みすると、撩は更に喜んだ。





相手、オヤジだから。

え?

海原 神。




あれでも一応、俺を拾ってくれた恩人だしな。
ガキなんか足手纏いになるって言ってたオッサンらから、守ってくれたし。
まぁ、世間一般からするとそうは見えなかっただろうけど、愛してくれたしな俺の事。





香は、滅多に無い撩の過去話に、意表を突かれた。
あまりに驚いて目を丸くする香に、撩は優しく覆い被さってキスをした。
確かにそう言われれば、その通りで。
そもそもこの1日、香は全く違う方向性で妬いていた。
昔から撩の周りには、超が付く程美しいお姉さま方が取り囲んでいて。
つい最近まで香は、まるで撩の弟の様な存在だったから。
今もまだ少し、撩からこんな風に甘やかされる事に慣れていない。
撩の腕が作り出す囲いの中で、至近距離で撩に見詰められて。
香は窒息しそうなほどの幸福感に支配される。
撩が自分に触れてくれる度に、嫉妬していた。
不確かな過去の存在に狂おしいほどに嫉妬していた。
けれど、こうして撩の作り出す囲いの中に閉じ込められる度に、嫉妬の感情など霧散してゆく。
今この時、撩の目に映るのが自分だけならそれでイイと。
こんな風に口付られたら、何もかも忘れてしまう。





でも。違う意味なら、いないな。

ふぇ?



激しいキスの後で、撩は呑気な口ぶりでそう言った。
まるで痺れたように熱を持つ香の唇からは、間抜けなリアクションしか出て来ない。
いまいち力が入らない。
撩はその拍子抜けする相槌さえも愛しくて、額に軽いキスを落とす。




こんな風に抱きたいと思う女なら、いなかったよ。



お解り?と、耳元で囁く男の腰に手を回しながら。
無意識に涙が溢れた。
重力に従って目尻からこめかみを伝う涙を、撩が指で拭う。
良かったと思った。
たとえ甘い嘘でもイイから、そう言ってくれる彼で。
そして、たとえ色恋沙汰じゃ無かったとしても、家族だったとしても。
彼が心から愛したと言える人が、ちゃんと居て。
腰からゆっくりと背骨を伝って撫ぜた香の手が、肩甲骨まで辿り着いた時。
撩がもう一度キスをした。
それが2度目の始まりの合図だ。


香にも撩にも、過去を辿れば1人だけ愛した家族が居た。
残念ながらそれは過去の話しになってしまったけれど。
この今現在進行形の、この愛だけは。
決して過去のものにはしないと、香は撩に抱かれながら胸の中で誓った。





不定期開店・罌粟乃屋

この週末、またしても染めちゃいました。
サイケデリック手拭い第2弾
      &無印良品改め、有印良(?)品ニットです。

興味がある方は、追記から~~~。