最終話 これが、恋?

・・・野上さん、結婚するらしいわよ?今月一杯で、寿退社ですって。




仕事を終えて着替えていたかすみの耳に入って来たのは、
同じフロアで働く、ジュエリー担当の同い年の子の声だった。
『適齢期』なんて言葉は、今日び死語だけれど。
かすみ達の年頃になると、いよいよそんな話題は現実味を帯びてくる。
昔は合コンに誘われても軽い気持ちで参加していたけれど、
最近は、男性参加者を見る視点も、自然と変わって来た。
お金持ちじゃなくても、ルックスは冴えなくても、きっと優しい人が一番なんだろう。
現実的には。
けれど、かすみは未だに棲む世界の違うひとを想っている。



ねぇっっ、それってお相手は?!


突然、離れたロッカーで着替えていたかすみが、その話しの輪に乱入したので。
同年代の彼女らは、苦笑する。
女子更衣室内に於ける寿退社の話題は、いつの時代も盛り上がるものだ。









・・・若旦那では、無いらしいわよ?・・・え~~、本当?・・・とうとう諦めたんだぁ・・・
ほら・・・若旦那はねぇ、例の・・・避難訓練の・・に夢中だから・・・・っぇえ、ほんと?・・・








絵梨子は、午後にスーツを2着誂えたお客さんのオーダー表をチェックしながら、
後方のデスクに群がって噂話に花を咲かせている、お局様たちの話しを聞くともなしに聞いていた。
この日の昼下がり、そのニュースは噂好きな女達の間を一気に駆け抜けた。
野上麗香が、結婚を決めたらしい。
相手は親の開業した審美歯科を継いだ、歯科医師だ。
その広尾にあるクリニックは、数多くの芸能人が通っている事でも有名だ。
全国的に有名な美容整形外科とも提携している。
恐らく、麗香の婚活リストの中で僚の次の2番目の候補だったのだろう。
逞しいなぁと、絵梨子は思う。
絵梨子の彼は、学生の頃から付き合っているごく普通の大学生だ。
講義よりもバイト優先で、就活の為に似合わないスーツを着込み、単位がヤバイとうろたえる。
何処にでもいる平凡な男の子で、けれど死ぬほど優しい。
だから絵梨子は、彼が好きだ。
きっと、麗香のような女性達には理解されないであろう彼の良さを、
好きだと思える自分で良かったと、絵梨子はいつでもそう思う。
そして、こんな女達の骨肉の世界になど、まるで興味の無い親友を親友と言える自分で良かったと。
けれども、一方では。
自分達も20代になり、婚活問題が差し迫って来る年頃になると考えも変わるんだろうかとも思う。
もしかすると絵梨子にも、今の彼の子供っぽさや優しいが故の不甲斐無さに落胆する日も来るんだろうか。
だとすれば、歳を取るという事は男も女も。
少しだけ悲しい事だなぁ、と思う。















僚。

ん?

夏の限定商品、お前の葛饅頭を採用する事にしたよ。

はい。ありがとうございます。






父親は、口数の少ない人だ。
対照的に、祖父は良く喋る。
僚は普段、滅多にその気持ちを表す事はしないけれど、
この2人に育てられた事を、心底、幸福な事だと思っている。
父親は仕事場では、一貫して1人の先輩職人、経営者として振舞う。
だから僚も仕事の上では、彼を父親だとは意識しない。
1人の男として尊敬し、憧れている。






親父。

ん?



食後の皿洗いは、僚の担当する家事の1つだ。
食事は祖父が作る。
父親は、お茶を淹れる。
食後のシステムキッチンに、父親と息子が並ぶ。
屋上のテラスで植木に世話をしながら、祖父は食後のお茶を待っている。
それは長い事続けられてきた、冴羽家の習慣だ。






俺、真剣に惚れた女が出来た。

あの子か?

あぁ。・・・・・・って言っても、まだ付き合っても無いけど。

そうか。

うん。





暫し、沈黙が続く。
こういう時、親父は無口だからなぁ、と僚は考える。
これが祖父なら、余計な事を根掘り葉掘り尋問し、年甲斐も無くはしゃぐ。
芳ばしい茶葉の薫りが急須の口から漂う。
九谷の大鉢を洗う泡だらけのスポンジが、キュキュッと音を立てる。
茶葉を蒸らす間に、父親が口を開く。






冴羽家の男はな、僚。

・・・な、なに?

こう言ってはなんだが、これまでこれと決めた女は皆、モノにしてる。

・・・何の根拠があんの?嘘くせぇ。

いや、根拠はある。レシピと一緒に、代々、最愛の嫁に関する惚気ともとれる文献が残されている。

・・・・・・。

お前の爺さんも激しい熱愛の末に婆さんと結ばれたし、俺もお前の母さんとは・・・


あああああ゛あ゛あ゛あ゛
もういいからっっ
お茶、冷めるしっっ
早くじいちゃんとこ行けっっ




何が悲しくて、三十路も過ぎた息子が両親のなれそめを延々聞かされなければならないのか。
しかもそれは、子供の頃から暗誦できるレベルで聞かされ続けている。
そして、その結びの言葉は必ず、

お前も妥協せず、心底惚れた女を娶れ。

で、締め括られる。
それが、冴羽家の家訓なのだ。
それ故、そもそも僚が興味を抱かない相手にどれだけアピールされても、
これまで心が動く事など無かったのだ。
ただ1人、槇村香を除いては。
















香は兄と並んで、小さな槇村家の仏壇に手を合わせる。


父と母が眠る墓地には、昼間2人でお参りに行った。
いつもお決まりのパターンで、お参りの後はお寺の近くの蕎麦屋で昼ご飯にする。
兄は鴨南蛮で、妹はざる蕎麦が定番だ。
家に帰って、仏壇に新しいビールと煙草を供えて。
今年はそれに和菓子を供えた。
小さいけれど上品な折箱に、芸術的な美しさの生菓子が入っていた。
香はそれを、槇村家の食器棚のラインナップで最もシックな白磁の小皿に盛った。
前の日に、僚に聞かされたその菓子の名と謂れを披露すると、兄は大げさに感心して見せた。
兄は歳の離れた19歳の妹を、いつまでも子供扱いする。

兄はまだ知らないのだ、いつまでも無邪気で子供のような所のある妹が。
近い将来、老舗の女将さんとなる事など。
当の香本人ですら、まだ知らない。
けれどその日は、それ程遠い未来の話でも無いのだ。
今はまだ、兄妹2人はそのささやかながら慎ましく温かい世界で、幸せに暮らしている。












僚はある決意を胸に、3日振りに百貨店へと顔を出した。


僚の考案した限定商品が発売されて以降、丸3日。
僚は本店の方での上得意客の接客に追われていた。
同時に百貨店の方でも販売開始した葛饅頭の売れ行きは、上々だという報告も受けている。
売り場へと続く、バックヤードの薄暗い通路に彼女はいた。
手には紙袋の束を抱えている。






久し振り。




僚が声を掛けると、彼女は嬉しそうに振り返る。
たった3日、彼女の顔を見なかっただけで、こんな気持ちになるんだと僚は初めて知った。
3日間、忙し過ぎて考える余裕も無かったのに。
彼女の笑顔を見た途端、胸が締め付けられる。
これは多分、初恋なのだろうと思う。
きっと、初恋で最後の恋に違いない、と。




冴羽さん、私も昨日葛饅頭買って帰りましたよ。




これまで自分の勤めるケーキ屋の商品ですら、香はほぼ買った事は無かったけれど。
何故だか、あの爽やかで刺激的な葛饅頭を買って帰ろうと、香は思い立ったのだ。
兄の分と、自分の分と。
限定商品目当ての客が、珍しく列を作っていたので香も仕事を終えた後に並んで購入した。





ありがとう。

コチラこそです。この間のお供えのお菓子、兄も喜んでました。

そう、それは良かった。




そんな会話を繰り広げながら、僚は決意を固めた。
この目の前の大切な女に、今日こそは気持ちを伝えようと。
電話番号もメールアドレスも交換したのに、結局はお互いに使う事は無い。
不思議とこの職場で顔を合わせた時にだけ、健全かつ爽やかな遣り取りで満足しちゃっていた。
けれど、ここ最近の僚はそれだけではどうしようも無いほどの想いを募らせている。
もしも、自分の知らない所で、彼女を狙う男に掻っ攫われたら。
今日明日にも、彼女が何処かで他の誰かと出逢う可能性は無限大にある。
早いとこ、キッチリと彼女を繋ぎ止めておかないと、何か起こった後では僚はきっと死ぬまで後悔する筈だ。


僚は香が抱えた紙袋の束を取り上げる。
彼女の店に宛がわれたスペースの棚に、それを戻す。
不思議そうに僚を見上げる香の手首を、僚は掴んだ。
それは思っていた以上に華奢で、包み込む僚の手はとても熱かった。
何も言わず、少しだけ奥まった人目の少ない棚の裏へと香を連れ込む。




冴羽・・さん?



首を傾げる香を見下ろす僚の瞳は、綺麗な墨の色をしている。
今までのどんな時とも違う彼の様子に、香はドキドキした。
いつものお香の薫りに、少しだけ男の人の匂いが混ざる。
香はこれまでよく解らなかったけれど、もしかするとそれを言葉にすると、
セクシーという感じなのかもしれないと思ってしまった。
薄暗い通路の更に物陰に隠れて、2人は見詰め合った。




ねぇ、俺達、付き合わない?

え?

駄目?




僚がそう囁いたのは、香の耳のすぐ傍だった。
僚の息が香の耳たぶを擽る。
香は漸く気が付いた。
この目の前の大人の男の人に、香はもしかするとあの時から恋をしていたかもしれない。
今と同じこのバックヤードで、危ない所を助けてくれた。
避難訓練の時には、気を失った香の傍にずっと付いていてくれた。
一緒にお昼ご飯を食べて、お家にも呼んでくれた。
初めて見る調理場に入れてくれて、目の前で色んなモノを作って見せてくれた。
一度は、野上麗香との仲を誤解して、関わらないようにしようと思ったけれど。
そう思って電話番号を削除した時に、微かに胸が痛んだ。
狭いエレベーターの中で、他の人から気持ちを打ち明けられた時に真っ先に思い浮かんだのは、
この目の前の彼だった。
その意味するところは、きっと恋だったんだ。






・・・ダメじゃ無い、です。




そう言って香が微笑んだから、僚も自然と頬が緩む。
気が付いたらキツク握り締めていた香の手首を離し、代わりに抱き締めた。
多分、売り場では香と一緒に組んでいるバイトの店員が、
帰りの遅い香の事を待っているだろうけど、すまん。もう少し待て、と僚は心の中で詫びた。





ねぇ、冴羽さんじゃなくてさ、僚って呼んで?

どうして?

良いから、呼んで。





・・・りょう・・・?







香の耳元で、フッと小さく僚が息を吐いた。
自分の名前を呼ぶ最愛の女のその声が、僚の胸を甘く締め付けた。
これまで遊んだ女の数など、正確な所は覚えてすらいないケド。
こんな気持ちになった相手は、1人もいない。
僚はそっと、口付た。
これから先、もう何も要らない。このヒトさえ居てくれれば。




バックヤードでの秘め事は、この後。
遠い未来で自分の子や孫に、懐かしそうに聞かせ続ける事になるのだが、
今はまだ、誰も知らない。
伝統は、粛々と受け継がれてゆく。




(終り)







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10 すぐ隣が一番遠い

昼下がりの喫茶店には、香の他にはカウンターの内側の美人ママしかいない。
彼女の夫はつい今しがた、買い出しに出て行った。
小さくヴォリュームを絞った有線からは、何処かで聴いた事のあるような気がする洋楽が流れている。
もしかすると、聴いた事があるというのは錯覚で、僚が口遊んでいたのかもしれない。

否、確かに。
思い返すと、僚が口遊んでいたんだった。
古い古い唄で、香は元の唄など全然知らないけれど、
それを聴いて一気に記憶が過去へとフラッシュバックされる。
僚がそんな風に何かを口遊むなんて事自体、非常に稀だし、
きっとたった1度あったようなそんな些細な出来事の記憶が、自分の中に残っていた事に香は驚いた。
あれは確か、依頼を終えた帰り道の車の中だった。
いつものように危機一髪で依頼人の彼女を救い、ついでに彼女のハートまで撃ち抜いた僚は、
やんわりとその好意を拒んで、いつものミニの運転席へと帰って来た。
沈黙の続く車内で不意に、僚はラジオから流れてきたその曲に合わせて小さく口遊んでいた。
香はあの時、そんな僚を見たんだったかどうだったか、よく覚えていない。
もしかすると、僚のボソボソした鼻唄を聴きながら外の景色を眺めていたかもしれない。
隣に座る僚が、とても遠くに感じたのは。
口遊むその唄が香の知らない言語だったからなのか、
それとも依頼人が僚を見詰める絡みつくような視線が脳裏に焼き付いて離れなかったからなのか。
今となってはもう、よく解らない。
けれどいつものように、自分の隣のいつもの席に僚が帰って来た事に安堵していたような気がする。





香さん、お替りいかが?



美樹の言葉に、香の意識は現実へと引き戻される。
香がこうしてボンヤリと物思いに耽っている間、女主人は干渉せずに居てくれる。
そうそういつも、女同士姦しく喋り倒しているという訳でも無いのだ。
香が長い黙考に耽っている間、彼女は新たにコーヒーを淹れていたらしい。
そう言われてみれば、店の中の芳ばしいコーヒーの薫りが一層濃くなった気がする。

僚はいつもこの店では、香の左隣に座る。
香が機嫌を損なって不貞腐れている時も、その逆で、ご機嫌で浮かれている時も、
僚はいつも同じテンションで、香の隣に座る。
香のテンションを上げるのも、下げるのも僚なのに。
肝心の当人は、いつだって飄々としていて香には何ひとつ、掴み所を与えてはくれない。
香の気持ちはガッツリ掴まれているというのに。
僚はその飄々とした仮面の下の本心を、香にはなかなか見せてはくれない。





うん、いただく。



香はこの店へ来て、コーヒーを飲むのが好きだ。
本当は家で自分で淹れて飲めば、安上がりなんだろうけど。
ここで過ごす事は、香の唯一のささやかな贅沢だ。
家の中ではコーヒーを淹れるのは香の役目で、それはいつだって僚の為に淹れられる。
だから香はこうして香の為に淹れられるコーヒーを、ここで飲むのが好きだ。

香は朝の(というか、ほぼ昼前の)食卓での光景を思い返す。
ボサボサの寝グセだらけの髪の毛も、目やにの付いたままのだらしない起き抜けの顔も、
多分、香にしか見せない僚の普段の姿は、いつも。
一番近くて一番遠い。
僚に心を奪われる依頼人の美女たちは、そんな僚を知らない。
依頼人が滞在する短い期間に、僚が少しだけ猫を被って身だしなみに気を使ったりしていると。
香は妙に可笑しな気持ちになる。
確かに常日頃、他人が居る時くらいシャンとして?と口を酸っぱくして言ってるのは、香だけれど。
そもそも、香と僚だって他人同士なのだ。悲しい位。





不器用よね、2人とも。

え?



何も言っていないのに、美樹は突然そんな事を言う。
彼女の洞察力は恐ろしいほど深く、心の動揺を押し隠すのが苦手な香には、
到底敵わない相手なのだ、いつも。
美樹はカウンターに身を乗り出して、頬杖を付く。
ふんわりと微笑む彼女は美しいと、香は思う。






冴羽さんの事、考えてたでしょ?

/////// べべべ別にっっ そそそそんなことっっ。ぁああえぇっと、違うの、今日の献立をね・・・

冴羽さんの事考えてる時の香さんの表情を彼に見せれば、簡単な事なのにねぇ。

・・・・・・。

早いとこ、くっ付いちゃいなさいよ♪

・・・・・・・・・・くっ付くって・・・そんな。・・美樹さん(照)





美樹は動揺する香を見ながら、クスリと笑うと自分もマグにコーヒーを注いだ。
僚も香も、当人同士は気が付かないのだ。
どんなにお互いがすぐ近くに居るのかという事を。
すぐ傍にいる相手が、どれほど大切かという事を。
美樹はその大切さを、身を持って知っているからこそ、この2人の行く末が気になるのだ。
彼も大概、天邪鬼で素直じゃないけれど、彼女の無自覚と不器用さも、大概だ。





すぐ傍にいる相手が、一番遠く感じる事ってあるでしょ?



まるで香の心の深淵を覗いたかのような美樹の言葉の不意打ちに、
香は妙に素直に頷いてしまう。
まるで小さな子供のように美樹の次の言葉を待つ香に、美樹は淡く微笑む。




遠いっていうのは錯覚なのよ、本当は遠いんじゃなくて深いのよ。
そのヒトのずっと深くて広い心の奥をジーッと覗いてるようなものなのよ。
だから心配しなくてもその内、彼の気持ちが手に取るように解るようになるわ、きっと。







美樹さんもそうだったの?と、訊ねる香に、美樹は答えずに小さく笑ってカップに口を付けた。
すぐ隣で一番遠くに感じるこの感覚が、本当に錯覚で。
もしも本当に、僚のすぐ隣で一番に彼の深い心の中を見詰めているのが己なら、
香は死ぬまで僚の隣で、彼の全てを理解出来る人間でありたいと願う。
もう何年も僚の傍にいて、まだまだ僚の事を全て知りたいと願う。


この時の香が知っていた僚は、ホンの一部でしかなかった事を、
この数か月後、香はまさに文字通り、身を持って身体で知る事となるのだけれど。
今はまだ嵐の前の静けさで、少女のような清らかな恋に身を焦がしている。
有線から流れる何処かで聴いた事がある曲に合わせてハミングする香に、美樹が柔らかく微笑んだ。








練習①

このところ、模写ばかりだったので、たまには自分絵で練習。
[ 2014/06/08 19:47 ] お絵描き練習 | TB(0) | CM(0)

練習②

ケシ子の願望が思わず、ダダ漏れちゃいました(汗)
[ 2014/06/08 22:17 ] お絵描き練習 | TB(0) | CM(0)

① 月夜

冴羽僚は基本的に、仕事を選ばない。
相棒からは仕事の選り好みの激しい男だと思われている節があるが、
本来のスイーパー(始末屋)としての仕事に、良いも悪いも無い。
金の折り合いが付けば、殺るまでだ。
僚は、思想も宗教も持たない。
他人の悪意や憎悪など、そしてそれを対象の始末によって解消する他人の心理などに興味は無い。
殺る方にも、殺られる方にも正義はあって。
それが必ずしも一致しないという事に、人間の悲しみや愚かさがある。
そういう意味では僚は、もしかすると人間を超越した存在といえるのかもしれない。

少し前の僚は、憎悪の心を持たない一方で、何かを慈しみ、愛でる心も持ち合わせていなかった。
執着や愛情と裏表に存在するのは、憎しみや怨みだったりする。
そのような愛憎や人間の欲望とは無関係な世界の片隅でまるで透明人間のように、
僚は引き金を引き続けてきた。








僚は、6階のベランダを見上げる。
アルコールは都合良く、僚の思考回路を鈍く濁らせる。
蛍光灯よりも幾分、暖色系の混ざった暖かな灯りは相棒の色だ。
透明人間は、彼女の前でだけ普通の男に戻る。
自分には不釣り合いなほどに暖かな世界に、僚は時折訳も無く叫び出しそうになる。
暖かくて心地よくて生温いそこに、
僚はいつまでも浸かって居たいのに、そう出来ない性がある。
透明人間がカラフルな彼女を愛する資格は無い。
だから僚はその場所に帰る時には、他人を殺めた自分自身を殺す。


彼女は鬼の様な形相で、僚の帰りを待っている。
それはいつもの事で、何も無い時にも何かがあった時にもそれは変わらない。
ただ何も変わらず、そこに居るというだけの事が。
僚の心をこれ程までに掻き乱すのはどういう事なのか、僚自身は多分解っているけれど。
恐らく互いに知らない振りを続けてここまでやって来た。
僚も香も、本音を誤魔化す事だけ無駄に上手になってしまっている。
それでもこうして待たれる事が、堪らなく苦しくなる夜がある事をきっと香は知らない。





ったくっっ、こんな時間まで何処ほっつき歩いてんのよっ




キャビネットの上に置かれた置時計は、午前2時45分を指している。
日付が変わる前にヒトを殺して、僚はいつもの行きつけでいつものように派手に遊んだ。
アルコールと香水と安っぽい夜の匂いのする店では、硝煙の匂いなど簡単に紛れてしまう。
仁王立ちで腕組みをして自分を見上げる気の強い相棒からは、シャンプーと石鹸の匂いがする。





おめぇには、関係ねぇとこだよ。

はあ゛? なに言ってんの?ウチの家計の状況、アンタ解ってんの???




彼女は時折、チンピラ顔負けの巻き舌を上手に使う。
黙っていれば別嬪の彼女を、こんな気が強くて恐ろしい女にさせているのは自分なので、
僚はいつも本当は申し訳ないと思っている。
けれど、僚はこういう風にしか生きられないから、
それに自らの意思で付き合っている馬鹿な女の自業自得だとも思っている。
人間の心持というものは、移ろいやすく。
それは僚とて例外では無い。
こんな相棒が可愛いと思う日もあれば、心底疎ましい日もあるし、
例えば今夜のように訳も無く劣情を煽る事もある。
ついさっき新宿の裏路地で夜空を見上げれば、やけに黄色くて大きな月が出ていた。






っるせぇよっ グダグダ抜かしてっと 犯っちまうぞ



はあ?何、ブツブツ言ってんの?? 人の話し聞いてないでしょ?全然





思わず香が手を出しそうになる直前に、僚の方が香の腕を捕る。
そもそも本気を出せば、香の抵抗など僚にとっては毛ほども効かないのだ。
ソファの手前のラグの上に乱暴に香を押し倒すと、香に跨って動きを封じる。





グダグダ抜かすと、犯すぞって言ったんだよ。




そう言って僚は、力任せに香のパジャマの胸元を寛げた。
初めて彼女の乳房を拝むシチュエーションとしては、最悪だった。
何か僚自身にも得体の知れない衝動が、僚を動かしていた。



けれど組み敷かれた床の上で、いつもとは違う僚を香はちゃんと観察していた。
弾けたパジャマのボタンが、ソファの下へと転がって行くのを確認できる程度には冷静だった。
きっと、方向性が違っても、
2人の間に存在するモノは、絆と愛情なのだと香は信じている。
たとえそれが、他人には理解し難い事だとしても。
だから香は、目の前のこのパートナーを怖いと思った事など1度たりとも無い。
勿論、これから先もきっと、ずっと。




これまで変化する事をどんなに恐れ続けて、誤魔化し続けてきていても。
現実問題として変わり目は、意外と急に訪れたりする。


(つづく)



[ 2014/06/16 21:10 ] 水鏡 | TB(0) | CM(0)

② 酷暑

槇村秀幸は、首筋を流れる汗をハンカチで拭った。
今年の夏は、例年に無く暑い。
薄グレイのコットンは、素早く水分を吸収するのと引き替えに、
綺麗にアイロン掛けされた折り目を曖昧にしてゆく。
秀幸のハンカチにアイロンを掛けるのは、高校3年生の妹だ。
彼女はいつも自分の制服のブラウスと秀幸のワイシャツと、2人分のハンカチに丁寧にアイロンを掛ける。
幼い内に養父母を亡くした妹に、家事全般を教えたのは秀幸だった。
香が小さい頃は、秀幸が留守にしている間は、熱源のある家電は使わないように厳しく言い付けていた。
それがいつの間にか、香はガスの火を使い、アイロンも掛けるし、もう高3になった。
そりゃ、自分もいい歳にもなる筈だと秀幸は思う。


それにしても、依頼人はやって来ない。
真夏の炎天下にもうかれこれ、20分は待たされている。
伝言板のメッセージに不審な気配は無かった。
書かれていた文字は恐らくは女性の筆跡で、連絡先の電話には同じく女性が出た。
元交際相手からの執拗な嫌がらせを受けているので、
なんとか相手を刺激しない形で幕引きにしたいという。
電話でざっくりとした事情を聴く限りは、まともといえばまとも過ぎるような依頼だった。



秀幸が腕時計に視線を走らせること幾度目かに、そいつは現れた。
秀幸の刑事時代からの根城は新宿だし、仕事柄ホームレスと接する事には慣れている。
今更、何も思わないけれど。
このくそ暑い季節に、彼らが近付くと臭いでそれと解る。
彼らは皆一様に浅黒く日焼けをし、垢に塗れて本来の肌の色が解らなくなっている。
年齢を推し量るのが非常に難しいけれど、そいつは恐らくどう若く見積もっても50代後半だろう。
彼らの年齢を判断するときに、見た目よりも7~8歳若く見積もるのは、
刑事の頃に培った勘と経験によるものだ。
それにしても、ここいらのホームレスの顔ぶれは大体頭に入っているつもりだったが、
そいつはニューフェイスだった。


そいつは何も言わず秀幸に近付くと、1つの茶封筒を渡して雑踏の中へと消えた。











で?そん中に入ってたのが、これ?


ああ。





秀幸の相棒で労働担当の冴羽僚は、相変わらずである。
秀幸が一連の奇妙な出来事を体験して、
昼過ぎにアパートに顔を出した頃に、ようやく起き出してきた。
鼻が曲がるほど酒臭い。
起き抜けに何をするよりもまず1番に、クソ重い煙草を吸い始めた。
炊事場に立つ秀幸の背後のベンチに座って、その報告を聴いている。


封筒に入っていたのは、小さな鍵だった。
白いプラスチックの板にはナンバーが刻まれていて、
秀幸にはそれに見覚えがあった。
鍵は新宿駅南口のコインロッカーのものだった。
その鍵の指し示すロッカーの中に、今僚が手にしているものが入っていた。






これがホントに槇ちゃんの妹だって根拠は?






僚は一枚の写真をピラピラと揺らしてみせる。
コインロッカーの中から出てきた写真だ。
そこに写っているのは、一人の少女。
夏服の制服に身を包んで恐らくは、彼女の学校の付近であると思われる歩道を歩いている。
すらりと伸びた手足。
しゃんと伸びた背筋。
首から上だけ、カッターナイフでズタズタに切り裂かれている。
しかし、首もとにうっすら写り込む襟足の癖毛は柔らかな栗色だ。




間違いないよ、香だ。
その鞄にぶら下がったマスコットは、アイツの手作りだ。





確かに、彼女の華奢な腕に提げられた通学鞄には、
フェルトで作られたハンマーの形のマスコットが付いている。






ふふふ、どういう趣味してんの?お宅の妹。





僚は鼻の穴から煙草の煙を盛大に吐きながら、そういって笑ったけれど。
確かに、それがあの“SugarBoy”だということはすぐに解った。
手足の長さから察するに、4ヶ月前のあの時よりも背は数cm伸びていそうだ。
夏季の制服の薄いブラウスの下の胸も、確実に少し膨らみを増している。
僚の特技の1つに、一見でボディサイズを言い当てるという、何の役にも立たないものがある。
しかし膨らんだとは言え、恐らくは僚の好みからは些かほど遠い微乳には違いない。




夏休みに入ったにも拘らず、某都立高校の3年生クラスは夏期補習があるので、
学校には通常通り通っている。
香は毎朝、通学で新宿駅南口を利用する。
これの意味するところは、いつでも彼女に接触する事が可能だということで。
これをわざわざこんなに回りくどいやり方で警告してきた相手に、
悪意や敵意が無いとは考えにくいだろう。







調べてみる必要がありそうだな。



僚はそれだけ呟くと、秀幸の作ったブランチを黙々と食べ始めた。














たった数年前の事なのに、
あの頃の秀幸も僚も確かに若かったんだなと、今の僚なら解る。
殺る方にも殺られる方にも、それぞれの正義がある。
殺る方にも殺られる方にも、守りたいものや大事なものがある。
だから、その時こそが僚の出番だと僚は信じて疑わなかったし、たとえ今の僚でもそうしただろう。
僚には相方と違って、己の命以上に大切な家族など居なかったし、
これから先にもそんな存在はないだろうとあの頃はそう確信していた。


こんな日が訪れるとも知らずに。



(つづく)





[ 2014/06/17 19:10 ] 水鏡 | TB(0) | CM(0)

③ 彷徨

金の折り合いが付けば仕事は選り好みしない僚だけど、殺しが必ずしも金の為とは言い難い。
むしろ、僚がこれまでやってきた大半はそうではない。
プロのスイーパーとしてやり始めたのは、北米に渡ってからだし、
それ以降も何かと絡まれる事の方が多いのはもう仕方の無い事だと割り切っている。
殺し屋なんて割に合わない商売だ。




それは数日前の事だった。

僚がナンパという名の縄張り巡回(まるで野良犬だ)に繰り出していた時に、
1人のホームレスが僚に近付いた。
見慣れぬ男だった。
この辺りの奴らなら、大抵は知っているけれど初めて見る顔だった。
男は僚に茶封筒を寄越すと、あっと言う間に雑踏の中へと紛れて消えた。
この辺りで、僚は嫌な既視感を覚えていた。
思わず掌に汗が滲む。




封筒の中には、僚の想像通り新宿駅東口のコインロッカーのキーが入っていた。
ロッカーの中身は、僅かに写真が3枚。
東口の伝言板の前に佇む女の後ろ姿が1枚。
キャッツの近くだと思われる歩道を歩く女の姿が1枚。
僚と彼女が暮らすアパートの6階ベランダで、洗濯物を干す女の姿が1枚。

言わずもがな、女は香だ。

3枚全て、香の顔の部分は煙草を押し付けて焼き潰したようになっていて、
他人が見れば判別は付かないだろうが、僚に判らない訳は無い。
その3枚の写真を手にとった瞬間、僚は全身が総毛立つのを感じた。
これはあの時の事件を踏襲しているに間違いはない。










・・・か、おり



組み敷いた僚の腕から、若干力が弱まるのを香は感じた。
凶暴な獣のような光を湛えていた漆黒の瞳も、その力を弱めて代わりに小さく揺らめく。
じっと見つめ続けている香にしか気付かないであろう、微かな変化だった。
爛々と光っていた瞳は一転、苦しげに細められる。
掠れた声で小さく、僚は香の名を呼んだ。
それでも瞳は香を捕らえてはいない。
一体、何がこんな風に僚を苦しめるのだろうと、香は悲しくなる。










僚はまず1番に、昔の件をもう1度調べる必要があると考えた。
あの件を、香は知らない。
僚以外に知っているのは、槇村だけで。
槇村はもうこの世にはいない。
そして知っている人間がいるとすれば、それはもう片方の当事者だ。




結局、秀幸を呼び出して姑息な脅しを掛けてきたのは。
手広くヘロインの密売を行っていた男だった。
都内だけでなく、関東一円にそのマーケットを拡大して、
そう大きくは無いヘロイン市場を席巻していた。
あの頃の、僚と槇村のコンビは薬物に関連する事件に関わることが多かった。
無作為に依頼を受けていたつもりだったが、
僚は僚でユニオンテオーペの動向を探る為に常にアンテナは張っていたし、
槇村は妹と同年代の年端もいかない若者たちが、
薬物に溺れて犯罪に手を染める事を、最も危惧していた。
恐らくあのままいけば遅かれ早かれ、奴も関わる事になるだろう相手だった。
噂ぐらいは聞いていたのかもしれない。
徹底的に薬の売人を始末しているらしい始末屋がいると。


覚醒剤や大麻に比べて、一般にヘロインは流通量が少ない。
そもそも、古代から利用されてきた麻薬である反面、
その依存性の高さから世界的に見ても規制の厳しい薬物の1つなので、
チンピラが小遣い稼ぎのシノギとして扱うにはリスクが大きすぎる。
けれど、その流通のパイプさえ充分に確保出来ていれば、同時に美味しい商売ともいえる。
現に、その男はかなりの利益を上げていた。


どんな薬物より依存性が高いので、薬欲しさの阿片中毒者を意のままに扱うことは難しい事ではない。
伝言板に書き込んだ女や、電話の取り次ぎ役をした女は、奴の奴隷だった。
趣味の悪いスナップ写真を撮って寄越したその男の、
さながら阿片窟のようなねぐらに踏み込んで始末したのは、槇村から報告を受けて3日後の事だった。


その男は、確か中国系だったと僚は思い出す。
ウジ虫みたいな奴だった。
ヘロインを密売するだけでは飽き足らず、
薬漬けにした女を複数囲い、客を取らせたり、犯罪の片棒を担がせていた。
使いものにならなくなった女は切り刻み、その薬に侵された臓器すら売り物にした。
そいつ1匹消しただけで、何も大した事ではないとその時の僚はそう思ったのだ。
むしろ、1つ掃除が片づく位の感覚だった。
そういう男にも、守りたいものがあった事など僚の知る由でも無いし、興味も無かった。











・・・かおり


なぁに?



人の名前を呼ぶくせに、僚は訊ねても何も答えない。
きっちりジャケットまで着込んだ僚の下の自分は、露わに乳房を晒している。
けれど香は、不思議と恥ずかしいとは感じない。
きっと、僚の雰囲気がいやらしいと感じないからかもしれないと、香は思う。
僚は恐ろしいほど酒臭いのに、香は何故だか今目の前にいる僚が、
まるで行き場を無くした迷子のように見えた。












1杯、ご馳走させて貰えませんか?




その酒場でその女に声を掛けられる事まで、全てが僚の計算に基づいた夜だった。
唯一、計算違いがあるとするならば。
起きて自分の帰りを待っていた相棒に、欲情したこと位か。

女は美しかった、悲しいほどに。





佐々木真由子さんですね?



そう僚が答えると、彼女は妖艶に微笑んだ。
死の匂いや闇の匂いはきっと、普通の人間には嗅ぎ取る事など出来ないのだろう。
けれど僚は、もう長いことそれを生業にして生きてきた。
血生臭い死の上に僚の生が成り立っている。






あら、ご存じなら話が早いわ。ロッカーの中の贈り物はお気に召して戴けたかしら?





(つづく)



[ 2014/06/18 19:52 ] 水鏡 | TB(0) | CM(0)

④ 回帰

※ ちょっとグロテスクな表現が、中程にございます。すみません





彼女の使う名前は通り名で、実の名を張真由子という。

彼女は中国人の母親の私生児で、父親の国籍は元より父親が誰であるのかすら不明である。
生まれは池袋だ。
彼女の母親は、若い頃に金を稼ぐ為に単身で来日した。
しかし、若くて何の取り柄もない中国人の女に出来る仕事は限られていて。
彼女の母親は程なくして、売春婦へと転落してゆく。
彼女には、兄がいた。
兄の父親もまた不明だが、真由子の父親とは別人物だ。

歳の離れた兄妹は、最底辺の暮らしの中で肩を寄せ合って育った。
兄は母親を憎み、世の中を怨み、他人を蔑んだ。
一方で、妹の事は溺愛した。
若い頃からの自堕落な生活が祟って、2人の母親は娘が小学生になる前に死んだ。
それから男は、妹の為に金を稼いだ。
最底辺の人間が這い上がる為には、何でもした。
それがたとえ、ヘロインの売人だとしても。






バーを出て、女の先導するままに僚は付いて行った。

彼女の最愛の兄を殺したのは、僚だ。
たとえその男がウジ虫の様な薄汚い人間でも、彼女にとっては唯一の愛すべき肉親だった。
兄を殺された時、彼女はまだ高校生だった。
全てを失った。
本当に全てだ。
それまで、他人の生血を啜るようにして己が育てられて来た事など、彼女は知らない。
幸福なかごの中の鳥だった。
何も解らぬままかごから出された彼女は、皮肉にも母親と同じ道を選んだ。
売るのは自分自身以外、何も持たなかった。
闇の世界に身を投じた彼女に、兄の昔馴染みが彼女に囁いたのが。
兄の仇である、冴羽僚という名前だった。




僚は女を斜め後ろから眺めながら、考えていた。

もう一つの、寂しい兄妹の事を。
片や薬の売人と売春婦なら、もう一方は兄妹揃って殺し屋の相棒だ。
何が良くて何が悪いのか、僚には解らない。
世の中の一般的な常識の枠内で捉えると、僚の人生は真っ黒だ。
片棒を担いでいる相棒も、元相棒も同じだろう。
でも、相棒を悪だとは僚はどうしても思えないのだ。
あの底抜けにポジティブで生命力に溢れ慈愛に満ちた女が悪なら、世の中の大半は汚物だ。


それではこの目の前の、自分に復讐をしようとしている女はどうだろう。


これが何かのボタンの掛け違いで、その女が香でなかったとは言い切れない。
ほんの小さなはずみで、悪も正義も敵も味方も殺すも殺されるも変わってしまう。
そして僚は、あの頃と違って。

喪いたくないものが出来てしまった。
どうしても守りたいもの。
愛おしくて堪らないもの。
僚は自分の人生に唯一の、煌めく宝石を見付てしまった。










僚は組敷いた香の裸の胸に顔を埋める。


自分のものとは恐らく、細胞から成り立ちまで全てが異なるのではないかと思うほどに滑らかな肌からは、
柔らかで清潔な匂いがする。
何て言えば良いのかなんて解らないから、僚はもう何度目だかのその名前を呼ぶ。
掠れた音を出す喉は窮屈で、胸の奥からズキンと痛む。
僚は長いこと忘れかけていたけれど、これは確か涙が溢れる前兆だ。




掠れた僚の声が、香の名前を何度か呼んだ頃。
香は僚の肩を押して、顔を上げさせた。
掴まれていた香の両手は、いつの間にか自由になっていた。
僚の腕に囲まれた小さな世界で、香は僚の頬を掌で包む。





ひどい顔。

っっるせぇ。




虚勢を張っても、僚が何かに酷く傷付いている事は明白だ。
いつもなら、鉄壁なポーカーフェイスの仮面を決して外さないくせに。
今夜はやけにあっさりと降参したらしい。







でも、そんな顔してる時に呼んでくれたのがあたしの名前で嬉しかった。
なんか必要とされてるみたいで。

・・・・・・・ばぁか。



僚は改めて生意気な相棒の両手を押さえ込むと、もう一度その胸に顔を埋めた。












僚は女に致命傷を与えることが出来なかった。
とどめを刺すことが、どうしても躊躇われたのだ。
けれど、結果的に彼女を殺したのは自分だったと僚は思っている。



女に導かれて、タクシーに乗って向かったのは。
湾岸沿いの埋め立て地の一画だった。
少し前は開発で賑わっていた界隈も、不況の影響で元々ハリボテのようだった景色が余計に寒々しい。
そこに何の違和感もなく馴染んでいるのは、コンクリートの廃墟だった。
そこは海沿いのバカみたいに派手なラブホテルになる予定だった場所だ。
建設中に施主である大手ゼネコンの汚職にまつわる倒産騒ぎに巻き込まれる形で、
計画は立ち消えになった。



コンクリートが剥き出しの、その空間に。
女のヒールの足音が響いた。
コンクリートの壁を背にして、僚を振り返った女は。
ディオールのクラッチバッグから、S&W M36を取り出して構えた。
引き金を引いたのは、僚が先だった。
彼女は何が起こったのか解らぬまま、壁に背中を預けて頽れた。

息の根を止めずに相手の動きを封じるとき、脚や腕を撃つのは素人で。
僚はいつも相手の骨盤を狙う。
人間の体を支えているのは腰だから、そこを砕かれて立ち上がれる人間はまずいない。
そのまま立ち去ろうと思った。
後は、頭に一発撃ち込んでやれば楽になったかもしれないけれど。
背を向けた僚を、撃つなら撃てば良いと思った。
その為に、両腕を自由にしといてやったのに。


数歩進んだ僚の背後で、こもったような銃声がした。


青黒い闇の中に、首から上が吹き飛んだ女が壁に背を凭せて座っていた。
女は残った気力を振り絞って、38口径の銃口を咥える事にしたらしい。
その光景は、僚に熟した柘榴を連想させた。


一瞬だけ目を閉じて、僚はその場を去った。
僚だけは知っている。
不幸な兄妹が、不幸な生き方しか出来ずにこの世を去ったことを。
それで充分だと思った。
きっと、この世の幸せを謳歌している連中の誰もが、そんな事には見向きもしない。
この夜の出来事は全てが透明で、死んだのは路傍の石ころだ。
たとえば僚が死んだとしても、それは同じ事だ。












・・・ごめん・・・




胸に顔を埋めた僚がそんな言葉を小さく発したのが、香には驚きだった。
今夜の僚に何があったのかは解らないけれど、香は僚を慰めたいと心底思った。





なぁ

ん?

しよっか?




この状況で、何を?と言うまでも無いことは、さすがの香にだって解る。
もうそれほど世間知らずな子娘では無いのだ。
それにしたって、初めてがこれってどうよ?とも思う。
思うけど、妙に可笑しい気持ちになったのも事実だ。
勿論香は、僚が望むなら何だってする。
それが揺るぎ無い香の気持ちだ。





てか、もうちょっとなんか言い方無いの?


今更、おまぁの前でカッコ付けてどうすんだよ?


そりゃそうだけど。





香は思わず吹き出した。
カッコ付けても仕方無いと言った男を、かっこいいと思っている事は本人には内緒だ。






別に、しても良いけど


けど?


キスくらいちゃんとして?






そう言って精一杯、大人びたフリをする香の薄茶色の瞳に薄く涙の膜が浮かぶ。
細い指が僚の耳たぶを触れる。
香の瞳に映り込んだ男の顔は、間抜けなほど腑抜けている。
僚はこの時に気が付いたのだ。
もしも自分がナルキッソスならば、水面に映る己の半身はこの愛しい相棒だと。
善と悪は、表裏の合わせ鏡で。
どんな人間の内側にも、その両面がある。
血生臭い死の上に、僚の生も香の生も成り立っている。
そして、いつの日か誰かの生の礎となる死を迎える日も来るのだろう。


僚は初めて、その柔らかな唇に触れた。
触れた瞬間に、生きている事に感謝した。生まれて初めて。






なぁ、香ぃ?おまえ、男の趣味悪いぜ?


アンタこそ、女の趣味最悪よ?






そんな事を言いながらも、2人は互いに溺れている。
これからもきっと、2人はいつまでも口付けながら笑う。
生きていられる時間は、永遠では無いのだから。




(おわり)




[ 2014/06/19 18:53 ] 水鏡 | TB(0) | CM(2)

なんという統一感の無さよ・・・

おはこんばんちわ、ケシです。


いまちょっと、ブログ内検索をして確かめたんですが。
ワタシがこれまで書いたお話し、カオリンの一人称が

わたしだったりだったりあたしだったりアタシだったり

なんの規則性も、自分の中でのこだわりも、無かった事が判明いたしました(テヘ)
どうやらその場の気分で書いてる事が判明。
まぁ、ただそれだけの話しなんですケド。

それと、リョウちゃんの漢字は初めから一貫してって字を使ってるんですが、
最近、けものへんに近付けるならてへんの方が近くね?(今更かよ)と思いまして、
気が向いたら今度、てへんで書いてみようと思う次第です。

ワタシの唯一のこだわりは、カオリンがりょおって呼ぶ事です。
何故なら、可愛いから。
原作で、お弁当にりょおって書いてたから。
海原に連れて行かれる時に、撩ぉ~~~って叫んでたから。
まぁ、ぶっちゃけ呼び方なんかどうでも良いと言っちゃえば、暴言ですが(汗)

いや、例えばね、男がとか女がとか書いてもさ、
それが ああ、僚と香の事ねって伝わるような文章を書けたらいいなと思う訳です。
例えば、ねぇりょうたん♪とか、なんだいカオリン❤とか言ってても、面白いものが書きたい訳ですよ。
もう既にこのブログ、パラレルのオンパレードだし(テヘペロ)

統一感が無い当ブログを、今後ともよろしくお願い申し上げます(*´∀`*)ノシ



[ 2014/06/22 12:28 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

AUTOTALLI

どう?済んだ?



そう言って、撩がガレージの奥の倉庫に顔を出した時。
香は汗だくで、トラップの材料の在庫チェックをしていた。
梅雨に入る直前に、大きな依頼が1つ舞い込んだ。
中々骨の折れる依頼であったのと引き換えに、報酬の方も破格だった。
報酬を細かく支出毎に振り分けた経理部長の号令の下、
大掛かりな物品補充に際しての、在庫チェック、棚卸と相成った訳である。
銃火器類、砲弾類は撩の責任範囲なので、香はノータッチだ。
トラップに関する資材、装備品は香の責任範囲なので、撩はノータッチだ。



ん~~、まだぁ。



香は戸口に立った撩に振り向きもせず、面倒臭そうに答える。
つい3時間前、一緒に昼食を食べてからそれぞれの持ち場に別れた。
とは言え、撩は日頃、銃弾類の残量や所有する銃火器類の状態など概ね把握している。
大体は頭に入っているので、在庫チェックと言ってもザックリとやればそれで終了だ。
チェックもそこそこに、撩は射撃の練習と軽い筋トレをやっていた。
頃合いを見計らって香の方の様子を見に来れば、真面目な彼女は馬鹿正直に。
軍手の1枚までもしっかりと数えている。
昼食の頃に羽織っていた白い麻のシャツを脱ぎ捨てて、タンクトップ1枚で黙々と集中している。
ひと言にトラップの材料と言っても、それは細々と多岐に亘る。
ホームセンターで手に入る物もあれば、非合法の商人相手に取引しないといけない物もある。
海坊主は香にトラップの技術を伝授する際、その闇のコネクションも一緒に教えてくれた。
勿論、撩も彼らとは顔見知りだが、その件に関しては一切を香に一任しており口出しはしない。

香の汗で湿った襟足の癖毛がしっとりとうなじに張り付いているのを見ながら。
撩はダンガリーシャツの胸ポケットから、煙草とライターを取り出す。
煙草に火を点ける前の、ライターのカチンという金属音に。
香は鬼のような形相で振り返る。



ゴルァ、りょお゛ 火気厳禁!!



確かにこの倉庫の中は、各種火薬類、手榴弾、埋設式超小型地雷など、爆発物の宝庫だ。
トラップ担当の経理部長が巻き舌で凄むのも、無理からぬことだ。
けれど彼は、地下の射撃場の中ですら咥え煙草でうろつく男なのだ。
相棒が恫喝したぐらいで効く男では無い。
ペロッと舌を出して肩を竦めると、
寸での所で火を点けなかった煙草をパッケージに戻して、ポケットに仕舞った。




ねぇ、カオリン。ちょっと休憩したら?

そっちは?終わったの?

まぁね、俺はほらいつもきちんとしてるからさ、すぐ済むの。




そんな撩の言葉に、ほんとかなぁ、などと言いながら香は壁に掛けられた時計を見遣る。
気がつけば、あっという間に3時間も経過している。
香は夢中になると、時間を忘れて没頭するタイプなのだ。





じゃあ、ココまで数えたら、少し休憩しようかな。

はいよ。








5分後、ガレージに出て来た香に、撩がタオルを放って寄越した。
香は柔軟剤の薫る柔らかなタオルで、汗を拭う。
どうやら香が倉庫から出て来る前に、撩が部屋に戻って取って来てくれたらしい。
手には水滴の滴る冷たいミネラルウォーターのボトルまで持っていて、
キャップまで開けてくれるという気の利き様だ。





お疲れ

ああありがとぉ///

汗だくだな



そんな事を言って、長い指先で香の前髪に触れる撩の何気ない仕草に香は、いちいちドキドキしてしまう。
撩の居た空調の効いた射撃場と違って、資材倉庫はまるで蒸し風呂だ。
物が物だけに、簡単には侵入出来ないように四方は分厚いコンクリートだ。
そこで時間も忘れて3時間、籠っていたのだ。




うん、暑かったぁ。



500mlのミネラルウォーターを、一気に半分ほど飲み干して香が無邪気に笑う。
まるで子供のように、冷たいモノを飲んだ後の声は湿っていて、撩は少しだけキュンとする。
そんな撩の煩悩を知ってか知らずか、香はコンクリートの壁に設えられたフックに麻のシャツを掛ける。
デニムのショートパンツから伸びたスラリと長い脚にも、
黒のシンプルなタンクトップから伸びる華奢な二の腕にも、
柔らかな前髪が落ちるツルンとしたおでこにも、
薄っすらと汗の膜が覆い、光を乱反射して、まるで朝露を浴びた新鮮な果実のように僚を誘惑する。
腹ペコ狼の冴羽撩は、もう既にこの後、在庫チェックなどと言う退屈な事はやらないつもりだ。




ねぇ、続きは明日にしたら?



撩は香の背中側から、抱き締める。
薄っすらと汗ばんだ癖毛に顔を埋めて、深く息を吸い込む。
汗の匂いよりも濃い瑞々しいシャンプーの薫りを嗅ぐ。
香はいやいやと、むずかるように身を捩るけど。
一見柔らかそうに見えるその両腕の拘束は、意外にも堅固だ。
腕の中の空間はまるで出口の無い迷路で、香は迷い込んだ無邪気な兎だ。




う~~ん、あともうちょっとで終わるしなぁ・・・



撩がもうとっくに今日の作業は終える気でいる事など知らない香は、そんな事を言う。
意外に言い出したら聞かない可愛い相棒を説き伏せる為に、撩は次の作戦に打って出る。


ほっそりと嫋やかなうなじに、鼻面を摺り寄せる。
やだぁ。とか、
ちょっっ、やめてっ。とか、言う小さな香の声を完全に無視して。
首筋にキツク吸い付く。
鮮やかに鬱血痕が残ったのを確認して、長い首をぺろりと舐め上げる。
腕の中で香がピクンと、小さく跳ねる。
少し遅れて、香の腕に鳥肌がさざ波のように広がる。





感じちゃった?




撩は心底楽しげに、香の耳元で囁く。
温い息を耳に吹きかける。
耳たぶを食む。





はぁ・・っん  ・・・じて無いっっ




感じてないと言いながら、潤んだ目の縁に涙を浮かべて唇を噛み締める香の言葉に説得力は無い。
少しづつ湿ってゆく空気に、撩の腰の奥には快感の引き金となる火種が燻ぶり始める。
掌に汗が滲む。
撩はコンクリートの床に脚を投げ出して座り込むと、膝の上に香を乗せた。
横抱きに香を抱え、その艶やかな唇を貪った。
冷たい水を含んで表面だけ冷やされた唇の内側は、熱く潤んでいた。
撩の分厚くて柔らかくて器用な舌先が香をゆっくりとなぞる。
それに合わせて、おずおずと香の不器用な舌が絡み付いて来る。
甘い唾液を啜り、口蓋を舐め上げる。
濃厚な口付を続けながら、僚の指は柔らかな癖毛を梳く。耳たぶを弄ぶ。
徐々に熱を帯びる香の身体は、それに比例して脱力し、体重を撩に預ける。
初めの内こそ必死に快感に抗って、撩の腕の拘束を解こうともがいていた細い指先は。
いつの間にか、撩のダンガリーシャツの下のTシャツの撩の胸の突起を優しく撫ぜる。
火種が導火線に着火する。


ゆっくりと、撩の利き手がタンクトップの裾に侵入してゆく。
引き締まっていながら柔らかい香の腹を撫でながら、焦らすように香に訊ねる。







在庫チェックの続き、明日にする?それとも、今からやる?




導火線に火が点いたのは、撩だけでは無い。
香とてなかなかどうして、燃えやすい体質だ。
香は夢中になると、我を忘れて没頭するタイプだ。





ん~、りょおの意地悪・・・

どうする?

あっ・・したに・・・・す・・る

ふ~~ん、じゃあ今から何しよっかぁ?

はぁっっ・・・・んっっ・・りょおのば・・・かっっ・・・・意地悪




薄く腹筋の浮かぶ贅肉の無い香の腹を、撩はそろりと撫で上げながら香のリアクションを楽しむ。
言葉で問い詰めながら、撩の望んでいる事を香の言葉で確認させる。
散々焦らせた末に、柔らかな乳房の感触を堪能する。
冴羽撩はドSなので、快感を与えながら同時に試練も与える。
香にとっての試練は、自らの口でおねだりするという事だ。






何したいの?カオリン。












りょ・・おが、  したい  と思  って  る事。









少しの間考えて、香は切れ切れに漸くその答えを導いた。
まだまだ直接的な言葉を使う事に慣れないウブな彼女の、それが現時点での精一杯だ。
撩の劣情を滾らせるのには、それだけで充分だった。
口角がまるで悪魔のように、ニンマリと持ち上がる。
それでは遠慮なく、香のしたい事=己のしたい事をさせて貰う為に。
撩はゆっくりともう1度、唇を重ねた。













いや、ただガレージでイチャコラさせたかっただけです、はい。

[ 2014/06/25 01:55 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

08 優しくなんてできない

兄貴?どうして私たち兄妹は、あんな奴と巡り合う運命だったんだろうね。



撩は兄貴が死んでからかれこれ6年と少し。
相変わらず、新宿の街中での恥知らずなガールハントを止める気配がありません。
今日は衆人環視の中、眉間をピンヒールで踏ん付けられて軽く気絶していました。
あれが本当に裏世界№1と恐れられる男のやる事でしょうか。
この6年のアイツとの相棒関係が無ければ、俄かには信じ難い事でしょう。
悪い敵サン相手なら、鬼畜のようにドSなアイツなのに。
どうして綺麗なお姉さん相手だと、ああもドM根性丸出しなんでしょう。
兄貴、男ってみんなああいう生き物なの?




兄貴?どうして兄貴はあんな奴の相棒になろうと思ったの?



兎に角ね、一事が万事、だらしが無いのよ。
毎日毎日片付けても片付けても散らかしまくるし、風呂から上がっても全裸で出て来るし。
一応はさ、嫁入り前のうら若き相棒が同居しているって事、考えないのかな。
まぁ、もっともアイツにしてみたら、私の事なんか未だに男扱いなんだろうけど。
これでもさ、兄貴と一緒に暮らしてきた頃は、可愛い妹扱いだったのにね、私だって。
兄貴に女の子らしくしろって言われてた時には、それはそれで辟易してたけど、
こうも完全に“弟”扱いされたらさ。
自分がどうとかじゃ無く、兄貴に申し訳が立たないよね、ぶっちゃけ。
その男女を、ウチの兄は一応溺愛してたんですケドってね・・・。




ねぇ、兄貴。兄貴時々、撩にご飯作ってあげてたんだね。




あの頃は、私知らなかったけど。
初めて撩の部屋のキッチンに入ったらさ、ウチで使ってた食器がわんさか出て来るんだもん。
兄貴は何を作ってあげてたの?
私はすぐに気付いたけど、この6年間、未だにその事には触れないでいるよ。
どうしてだか自分でも解らないけど、何となく言いたくないの。
時々ね、兄貴に教わった料理を作ったら、撩の箸が微かに止まるの。
それでこれを食べるの初めてじゃないんだなって解るんだよ。
未だに美味しいの一言もアイツは言わないけど、そっちも未だに兄貴には勝てないのかな?
それだったらさ、たとえ相手が撩じゃなくても。
たとえ、兄貴が生きてても。
私はきっと未だに、嫁には行けなかったのかもね。








槇村香はハタチにして、唯一の身内で最愛の兄を亡くして以来。
折に触れて、こうして心の中の兄に語りかけて来た。
語りかける内容は、色々で。
都会の中のほんの些細な季節の移ろいや、日常のささやかな喜びや楽しみ。
そして主に、仕事仲間である相棒の愚痴である。
香が先程目撃した、自分達の暮らすアパートの目と鼻の先の往来での、
眉間から流血して白目を剥いていた件の男(軽傷なので心配は無い)の姿を思い出し、
怒りを込めて夕飯の野菜の下拵え(全て乱切りか微塵切りかだ)を進めながら、兄と対話していると。
珍しく冴羽アパート601号室の玄関チャイムが鳴った。
この家のチャイムを鳴らすのは、何某かの集金人か配達人、もしくはセールスの類である。
友人知人、招かれざる客に関しては、律儀にチャイムを鳴らす者はいない。
香は手慣れたもので、瞬時に無意識に余所行きの笑顔を張り付けて応対する。












ねぇ゛、あ゛に゛きっっ 兄貴はアイツに殺意を覚えた事無いの?


そりゃ兄貴が底抜けにお人好しで、寛大な心の持主だって事は、
他でも無い妹の私が一番良く知ってるけどさ。

アイツがさ、仕事の選り好みばっかりして労働意欲に欠けるのは兄貴だって知ってるでしょ?
そうなると必然、冴羽商事の経営も火の車な訳で。
その万年貧乏状態の家計にとってさ、1万円ってのがどれだけの価値なのか兄貴も解るよね?
今ねチャイム鳴らしてやって来たの、宅配便だったの。
撩宛の代引き小包。
嫌な予感はしたけどさ、玄関先で払うの払わないの揉めてもさ、ドライバーさんには関係無いからさ。
仕方ないから払ったわけ、なけなしの食費から。
その荷物の中身が、無修正のエロDVDだった時のこの虚無感と虚脱感、兄貴に解る?
あ、でも兄貴は寛大だし、所詮男同士だしね。
多分、こんなにまでは腹も立たなかったのかもね。
ったく、しょうがないなぁ撩は。
なんて言って、苦笑してる兄貴の顔が目に浮かぶよ。








でもさぁ、兄貴。
私、兄貴みたいに器が大きくないからさ。
アイツがヘラヘラしながら帰って来たら、取敢えず。
ぎったんぎったんにやっつけてやろうと思うんだ、イイよね?兄貴。











たっだいまぁ~~~  超ぉ~~腹減ったぁ


・・・・・・。


ねぇねぇ、今日の晩メシなに?


・・・・・・。


ん?どったの?香タン。 なんかあった????







香は無言で振り返り、撩を睨めつける。
彼女が今まで散々、ムカついてイライラしていた当の張本人は至って脳天気で。
額に薄っすらと赤い打撲の痕を残している。
妙に邪気の無い顔で腹時計を盛大に鳴らしながら、夕飯の献立を訊いて来る。
不思議な事にこの時点で、香の怒りの炎は6割ほど鎮火してしまう。
もう彼女自身にも、それが諦めの境地なのかそれとも惚れた弱味なのか判別がつかない。
そもそも、多少感情的な所のある槇村香は、論理的な思考など不得手なのだ。
深く考える事など、とうの昔に放棄した。







・・・別にっっ、冷蔵庫の残り物の有り合わせ。 喰いたきゃ、手ぇ洗ってきな(殺気)


はははあはあはあはぁ~~~いぃ(汗)





冴羽という男は、仕事が絡まない時には緊張感に欠けるだらけた男だ。
しかし彼は、殊、殺気を纏った相棒の気配を察知する事に関してだけは、
誰よりも気を使って生きている。
それは当の相棒以外、誰もが知っている周知の事実だ。
この様な時の彼女にヘタに触れると、あらゆる方面で地雷のスイッチが作動するので、
触らぬ神に祟りなしとばかりに、彼はいそいそと手を洗う為に洗面所へと向かう。
そんな彼の背中を、彼女は眉間に深い皺を刻んで見送る。







あぁ、兄貴。
私も兄貴の事言えないお人好しだわ。
アイツがどんなにロクデナシのスケベ親父でも、
優しくなんかは出来ないけれど、だからって放って置く事も出来ないよ。
あんな腹ペコの野良犬みたいな男、放置してたら世間様に迷惑が掛かるから。
仕方ないから面倒見てあげなきゃだもんね。





結局のところ、この世で一番彼を甘やかしている彼女にその自覚は無く。
彼女自身、様々な矛盾に未だ気が付かないまま生きている。
片や、腹ペコの幸運な男は。
己の新たな秘蔵コレクションが、ついさっきゴミ箱に叩き込まれた事に未だ気が付いてはいない。
それでも彼らの世界は廻る。
都会の空を茜色に染める宵が、冴羽商事の団欒を今日も温かく包み込む。







はうん。じれったい恋のお題も終わっちゃったぁ。
また新しくなんか良いお題あったら探してこようと思います。