第5話 人生設計 

「Hi,カオリ! 今帰りかい?」

香がミックに声を掛けられたのは、終業式の2日前。
三者面談の3日後の事だった。
駅前で、絵梨子と別れて手を振っている時に、ミックが現れた。
「あ、ミック。暑いね~~~。」
夏の夕方は、まだまだ日差しも強くセミが暑苦しさを演出している。
そんな中にあって、友人の妹は涼し気で爽やかだ。
彼女があと1歳大人なら、ミックは間違いなく口説いている。
白い学校指定のブラウスとソックスが眩しい。
「どう?何か冷たいモノでも? ご馳走するよ。」
「わぁい。ありがと~、ミック~。」
この場に僚もしくは秀幸がいれば、知らない大人に付いて行っちゃダメだよと、諭される場面である。
たとえ、香が4歳の時から知っている彼であっても。









「ボクが、小さい頃になりたかった職業??」
「うん、そう。何だった?」
白い麻のスーツを身に着け、綺麗な黄金色のブロンドをぴっちりと撫でつけた蒼い眼の男は、
抹茶金時ミルクのかき氷を食べながら、首を傾げる。
コーラフロートをかき混ぜながら、香が頷く。
小さい頃ねぇ。と言いながら、ミックは暫し遠い目をする。


ミックの家は、一族郎党、弁護士一家だ。
父も母も、叔父も祖父も、従兄も、全員が全員弁護士だ。
ミックは自分の意志など関係無く、小さい頃から弁護士になるべく英才教育を施されてきた。
そこにミックの夢とか、希望とか、憧れとかは一切関係無かった。
だから、ミックがなりたいモノは、いっそ絶対になれないモノだった。
スパイダーマンとか。ドラえもんとか。忍者とか。
なりたい職業を考えるという発想は、子供の頃のミックには無かった。
選択の余地は、無かった。
しかし、彼は現在弁護士では無い。フリーランスのジャーナリストだ。
小さい頃の反動か、彼は司法試験すら受験しなかった。
大学では一応、法学部に籍を置いてはいたが。


「ウチはほら、両親あんなだし。ボクに選択肢は無かったケド、まぁ、強いて言えば。やっぱり、弁護士だったのかなぁ?小さい頃は、親の言う事に疑問なんか感じて無かったし。」
ミックは苦笑交じりにそう答える。
「それがどうして、ライターになったの?」
香は興味津々である。
「知りたい?」
「うんうん。」
ミックはニッコリ微笑みながら、自分のこれまでを語って聞かせた。





まぁね、早い話がドロップアウトしたんだよ。
高校まではね、まぁまぁ勉強も出来たし、嫌いじゃ無かったんだけど、
大学では完全に落ちこぼれたね。
バイトの方が楽しくなっちゃって(笑)
単位ギリギリで、卒業するのがやっとだったよ。
司法試験なんか、受験できるような状態じゃなかったなぁ。
で、そのバイト先ってのが、ある出版社でね。
初めはバイトで顔を出すうちに、雑用から小さな記事を任されるようになって、
それが受けがイイと、時々、企画を任されたりするようになって。
同時に、カメラにのめり込んで(笑)
何かね、とても楽しかったんだ。
親に言われ続けて来たような、一生の仕事ってのは何か物凄く責任重大で。
大人になって、立派な法律家になるってのは、さも神様にでもなるようなイメージだったけど。
そうじゃない、もっと自分に合った心から楽しいと思える仕事もあるんだって事に、
そのあたりで漸く気付いてね。
後は、カオリも知っての通り。
自由気ままな、その日暮らしさ。





「ふ~~~ん、ミックのパパとママは?何も言わなかったの?」
香は優しくて、カッコイイ、ミックの両親の顔を思い出す。
ミックと彼らは、とっても仲良しだ。
ミックは大人なのに、今でもまるでミックが小さい子供のようにキスをしたり、ハグをしたりする。
ミックは、さも可笑しそうに笑う。
「あぁ、そりゃあ大変だったよ。彼らには、ホントに申し訳なく思ってるよ。でも、ボクの人生は他の誰のモノでも無い。ボク自身のモノだからね。両親のモノでも無いんだ。」
香は目をパチパチさせて、ほぇ~~と感心している。


香がもう少し大人のオンナなら、こういう時はボクという男に惚れる場面なのにと、
ミック・エンジェルは、相変わらず短絡的思考で苦笑しながら苦甘い氷を飲み下した。














香が高校最後の夏休みを迎えてから、ほぼ毎日、僚は槇村家に入り浸っている。
槇村秀幸に、夏休みは無い。
香と僚は連日、なんの縛りも苦言も、誰からの干渉も受けず、のんべんだらりと過ごしている。
槇村家の小さな仏間に設えられた、庭に面した縁側に。
2人は寝そべって他愛も無い話しをしている。
お互いの頭を突き合わせる形で、2人は仰向けで天井を眺めている。
少し離れた畳の上には、お盆に乗せられたガラスの器が2つ置かれている。
1つには、ピンク色の、もう1つには青色の妙に毒々しい水が、器の底に薄っすら溜まっている。


数十分前。
「リョウたん、何味にする~~~???」
「イチゴ、プラス練乳。」
香はニッと笑って、50円増しになります。と言う。
はい、50円。そう言って僚は、香の額にキスをする。
「カオリンは、どれ?」
「う~~ん、ブルーハワイ。ねぇねぇ、ブルーハワイに練乳って変かな?」
「どうだろうね。やってみたら?試しに。」
「リョウたんが、やってみてよ。」
「やだよ。俺は、いちごミルクなの。」


そう言いながら作って食べた、かき氷の器がそれである。
彼らはその日、もうかき氷ばかり4杯づつ食べている。
完全なる、悪ノリだ。
「・・・何か今日は、晩ご飯食べたくないなぁ。」
香がぼそりと呟く。
「かき氷ばっか、食い過ぎだっつぅの。」
僚が苦笑する。
「リョウたんだって、同じだけ食べたじゃん。」
「俺は、晩メシもしっかり食うけどな。」
そんな事を言い合いながら、2人はクスクス笑う。
それは何の話しから繋がったモノだったのかは、定かでは無かった。
香のここ数日の、マイブーム。進路相談である。


「ねぇ、リョウたん?」
「ん~~~?」
「リョウたんはどうして、探偵サンになったの?」
「・・・・・・。」
その質問に、僚は珍しく暫し沈黙した。
もしかしたら、寝てる???と、香が思いかけた時、漸く僚が口を開いた。
「子供の頃から、なりたかったから。」
香がどうして?と訊くより先に、僚が笑いながら訊いた。
「なに、カオリン。進路相談?」
「うん。高校のあとは、どうしたら良いのかよく解んなくて。・・・お兄ちゃんは、大学に行った方がイイって言うケド。」
「行かないの?大学。」
「うん。行かない。」
「ふ~~ん、いんじゃね。今は、大学行ったって、就職できるとは限らねえし。」
「リョウたんなら、そう言うと思った。」
そう言って、香は笑う。


「ねぇ、もしもね。」
「うん。」
「探偵サンにならなかったら、何してた?」
「ん~、弁護士か検事じゃね?」
「っええぇ!!な、何で。」
「何でって・・・司法試験受かったから?」
「マジ?!」
「まじ。」
「現役で?」
「あぁ。」
「てか、何で探偵サンしてるの???てか、何で法学部???」
「ふふふ、変か? 別に学問として法律に興味があっただけだよ。単なる、知的好奇心。なんで、探偵してるかっていうと、ガキの頃からなりたかったから。なんで、弁護士にも検事にもならなかったかっていうと、別に興味が無かったから。」
僚の答えは、単純明快で、簡潔で、香はすんなり腑に落ちた。
けれど、僚が法学部を志望した最大の動機は、コンパで女の子受けがイイからという事は、
勿論、将来の嫁には内緒だ。





じゃあ、どうして探偵サンになりたかったの?

・・・・・・・・・・・・・。

リョウたん???  訊いちゃいけなかった?

うんにゃ、全然。    俺の、両親がね。

うん。

昔、夫婦でやってたの。探偵事務所、あの新宿のビルで。

ホント!?!? 初耳。

うん、初めて話すもん。誰にも言った事無いし。槇ちゃんにも、ミックにも。

そうなのっっ???

ああ。・・・で、俺の将来の夢は夫婦で探偵事務所やる事なの。

・・・・ふ、ふ~ふ??? 夫婦?

うん。だからカオリン、別にそんなにマジで悩む必要ないぞ、進路。

は?

いずれにせよ、おまぁの職場は最終的には、冴羽商事だから。

・・・・・・・・え?




香にとっては、寝耳に水である。
ある意味それは、プロポーズなのかもしれないが、
反論も質問の余地も無く、僚はアッサリとその話題を打ち切った。
「カオリン、今日は晩メシ 焼肉連れてってやろうか?」
「ホント~? だったら、食べれるかも。」
「ゲンキンなやつ。」
僚はそう言って、爆笑した。
僚は香が生まれた時からずっと見てきたのだ。香の扱いは誰より心得ている。
きっと、この先香は何の疑問も無く、僚の術中に嵌って行く。











その週の週末、僚は秀幸と新宿のとあるバーで飲んでいた。
僚は日頃、香とばかり遊んでいるようだが、本来僚の親友は秀幸なのだ。
如何せん秀幸は忙し過ぎて、こうして2人で酒を飲むのは数ケ月振りだ。

「オマエ、最近しょっちゅうウチに入り浸ってるらしいな。ちゃんと、香から聞いてるんだぞ。」
「だってリョウちゃん、暇なんだもん。それにカオリン、かき氷作ってくれるし。」
秀幸は眉を顰めて、盛大に溜息を吐く。
「なぁ、僚。アイツは受験生なんだぞ?邪魔するなら、ウチには出入り禁止だ。」
「大学には行かないって言ってたけど?カオリン。」
「・・・・・今だけだ。今はまだアイツもどうしていいか解って無いだけだから。」
秀幸はそう言って、バーボンを呷る。



槇ちゃん。

ん?

別に良いんじゃない? まだ、若いんだし。そんなに慌てて先の事を決めさせなくても。

・・・・・・でも、誰でもこのタイミングで向き合うもんじゃないのか?自分の人生に。

そりゃそうだけど。俺もミックも、あんまし大学って影響してないな正直、今の生活に。

お前らは、サンプルとしては極端すぎる。参考にならん。

ま、そらそうか。でもさぁ、女の子ならさ、もう1つあるじゃん?選択肢が。

何だよ?

・・・・結婚。


ブブッッーーーー
秀幸はグラス3分の1ほどのバーボンを、盛大に吹き出した。
「ばっ、馬鹿か?オマエはっっ。香は、まだ17だ。」
「あぁ?女の子は16から結婚できるな、確か。」
「・・・・・・・。」
秀幸の眉間には、クッキリと深い縦皺が刻まれている。
僚はニヤッと笑うと、飄々と呟く。
「だってホラ、カオリンは家事は完璧にこなすし。かあいいし。案外、サッサと嫁に行くんじゃね?」
「・・・・僚、酒が不味くなることは、これ以上言わないでくれ。」
「そうか?槇ちゃん、今はそんな事言ってけど、嫁き遅れたら遅れたで、俺の育て方が間違ってたとかって嘆きそうだからな。」
「・・・・・・(図星)」



結局な、槇ちゃん。女の子はイイ男に見染められて、大切にされるのが一番幸せだって。



僚の洗脳は、何も香に限った事では無い。
現に秀幸は今、それも一理あるかもしれないと、納得しそうになった。
それでも、香の相手に相応しい男など、そう簡単には秀幸は認められそうも無い。
香を愛していて。
香を幸せにしてやれる力があって。
香を誰より理解してやれて。
そんな男などなかなかいない・・・。
秀幸の視線が、一瞬目の前の親友に留まる。

いやいやいや、無い無い無い。
確かに僚は、秀幸の次に香の事を理解している。
まるで兄妹のように仲睦まじい。
何より香が慕っている。
けれどこの男の最大にして、致命的な問題点。
素行が悪すぎる。
何なんだよ、新宿の種馬って。
どんな事したら、そんな通り名が付くんだよ。

まあ、僚の事は問題外だとして、香の嫁入り問題はこれから先、秀幸のもっとも悩ましい事の1つだ。
それはひょっとして、就職よりも頭が痛いかもしれない。
もうそろそろ、そんな事も考え始めなくてはいけないのか。
秀幸は先日の香の言葉を思い出して、ヒッソリと微笑む。


『私ね、お兄ちゃんのお嫁さんになりたかった。』


いつまでも、あの小さかった頃の香のままなら良いのにと秀幸は思う。
そんな兄は、大事な事を失念している。



問題は、
子供の頃、誰のお嫁さんになりたかったかではなく、
実際に現実問題として、誰のお嫁さんになりたいかである。




(つづく)






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第6話 遂に兄バレ

「カオリン、今日も遊びに行ってもイイ?」



香の携帯に掛かって来たのは、僚からの電話だった。
まだ午前中、早い時間だった。
「リョウたん、今日は私、絵梨子と出掛けるんだよ。」
「何処にぃ?」
「プール。絵梨子のパパがね、絵梨子と私にお揃いで色違いの水着をくれたから、泳ぎに行こうって話しになって。」
「・・・・・・何色?」
「???何が???」
「水着。」
「絵梨子はピンクで、私はオレンジ。」
「形は?」
「え?水着の???」
「あぁ。」
「ビキ」「俺も行く。」
香の答えを皆まで聞かずに、僚は被せ気味にそう言った。
「え?リョウたんも?急に言われても、絵梨子に訊いてみないと分かんないよ?訊いてみて、リョウたんに折り返すね。」
「あぁ。」
絵梨子の答えは、勿論OKだった。
前々から絵梨子は、一度香の言う“リョウたん”とやらに会ってみたいと思っていたところだった。



結論から言うと、この日僚は2人の無邪気な女子の引率をして、心底良かったと思った。
夏休みのこの時期、2人が行く予定にしていた遊園地に併設されたプールは、
盛りの付いたガキ共の溜まり場で。
香も絵梨子も、そんな野良犬のような奴らの視線を一身に浴びていた。
恐らく、僚が周りで睨みを利かせて監視していなければ、ナンパされ放題だったであろう。
香がプールに行くと言った瞬間から、悪い胸騒ぎを感じた僚の勘は正しかった。
そういうワケで危険は回避できたものの、
良いカッコし過ぎた僚は、その日の何から何まで2人に奢り、結構な出費であった。







「ねぇ、リョウたん。夏休みの課題で、解んないとこがあるんだけど。」



夏休みも後半に差し掛かった日の昼下がり、僚の携帯にそんな連絡が入った。
「ヨシ、じゃあ俺が手取り足取り、教えてやろう。お代は、チュウで良いから。」
その後槇村家へ馳せ参じた僚は、宣言通りみっちり4時間ノン・ストップで微分積分について教えた。

「・・・カオリン、これ2年で習うんじゃなかったっけ?」
「・・・えへへ。いまいち良く解ってなくて。」
「・・・お仕置きな。」

僚はそう言うと、香にキスをした。
僚の講義は、スパルタ方式だ。
理解するまで、身体に覚えさせる。まぁ、この場合、もはや微分積分は全く関係ないが。





夏休みの間、2人は何かと理由を付けては外出し、時々勉強をして、
でも相変わらず、香は進路について考えを変える気にはならなかった。
そんな風に過ごすうちに、長いようで短い夏休みは終わってしまった。
香は夏の間に少しだけ日焼けをして、僚とのキスが少しづつ当たり前になってきた。
そして、2学期が始まった。






それは、まだまだ残暑とも言える、夏の名残の9月半ばの事だった。
秀幸の帰りは、毎晩相変わらず不規則で。
時には、帰れない日もあった。
僚は邪な気持ちとは別に、純粋に防犯と言う意味で香と共に槇村家で過ごす事も、多々あった。
不思議な事に、春や秋のように気候が良くなってくると、住宅街に変質者が現れる確率も高くなってくる。
香1人で留守番させるには、少しだけ心許ない。
いつだったか、秀幸の帰りを待ってうたた寝した香が、寝惚けたまま玄関を開けるなり、
僚に飛び付いた事があった。
もしもあれが、僚では無かったらと思うと、僚は不安で堪らない。



週の半分近く、僚は槇村家で夕飯を食べた。
ごく稀に、秀幸も一緒の時もある。
2人だけの時は、近所のビデオ屋にしょっちゅうDVDを借りに行った。
その日も、そんないつもの1日だった。



秀幸が仕事を終えて帰途に着いていると、家の近所ですぐ目の前を歩く2人が目に入った。
妹と親友。
妹の手には、ビデオ屋の青い手提げ袋。
何やら楽し気に、話しながら歩いている。
そして、

シッカリと繋がれた、妹と親友の手と手。

誰が見ても見惚れる程の体躯の持ち主の親友と、スラリと華奢なしかしかなり長身の妹。
制服を着ていない香は、まるで、大人の僚と違和感なく並んで歩いている。
“恋人同士”に見えなくも無い。
秀幸はそんな事を考えてしまった頭をブンブンと振る。


いやまさか。
あいつらに限って。
僚と香は、昔っから仲が良かったじゃないか。
僚は、俺と香のもう1人の兄弟みたいなモンで。
まさか、そんな事。


秀幸は心の中で、誰にともなくそんな言い訳を並べながらも、
何故だか、2人に声を掛ける事も出来ず、コッソリ息を潜めて2人のあとに続いた。
どうして声を掛けられないと思ったのか、秀幸自身にも良く解らなかった。
気が付くと、家はもうすぐそこで。
2人は近道の公園の中へと進んだ。
秀幸は、普段はそこは通らない。
それでも、思わずあとに続いて公園の中に入ってしまった。
少し遅れてやって来た秀幸が見たモノは、




キスをする、妹と親友の姿だった。





後から思い返すと、秀幸は自分でも我を忘れていたと思う。
いきなり2人の前に躍り出て、僚の胸ぐらを掴んだかと思うと、殴り飛ばしていた。
僚は殴られても、覚悟はしていたのかジッと秀幸を真剣な表情で見据えていた。
香だけは、状況が良く掴めずにポカンとしていた。

「僚っっ、キサマ。よくも、香にっっ」

まるで吐き捨てるようにそう言った秀幸の方が、殴られた僚よりも辛そうな表情だった。
僚は無表情で、秀幸をジッと見詰めた。


「オマエとは、金輪際、絶交だ。香に近付いたら、殺す。」
帰るぞ。

秀幸は、香の手首を掴むと有無を言わさず香を連れてその場を去った。
その場に残された僚は、唇の端を指で拭った。
切れて血が滲んでいた。
「・・・・・・あらら。槇ちゃん、本気かな。」
言葉とは裏腹に、僚の表情は暗かった。
いつかは2人の付合いは、ばれるだろうと覚悟はしていたけれど。
最悪のパターンってヤツだ。
僚は思わず、月を見上げた。




秀幸に引き摺られるようにして家に帰り着いた香は、
玄関の中に入って漸く、事の次第が呑み込めて来た。
その途端、涙が止まらなかった。
僚も自分も、何も悪いことなどしているつもりは無い。
ただ、好きなのだ。僚の事が。
けれど、兄にとってそれは、許し難い事のようだった。
香は掴まれた兄の手を、自分の手首から振り払った。


「・・・香。」
そう言って名を呼ぶ兄の顔は、先程の激しい表情から一転、困ったような表情だ。


「いつから・・・」
「お兄ちゃんがっっ」


2人の声が同時に重なる。
香は構わずに続けた。
「お兄ちゃんが、リョウたんと絶交するのなら、私はお兄ちゃんと、一生口利かない。」
そう言って香は、自分の部屋に駆け込んだ。
秀幸はこの状況で香と何を話せばいいのか、全く解らなかった。
ただ、悲しかった。
どうしてこんな風になってしまったのか。
玄関から先に進めずに、秀幸は呆然としていた。



香は自分の部屋へ駆け込むと、ベッドに突っ伏して泣き続けた。
ビデオ屋の手提げ袋は、ラグの上に放ったままで。



僚と2人で借りた、
ウォン・カーウァイ監督作品の、“恋する惑星”は、
結局、1度も観ないまま返却期限になって、香が1人で返しに行った。



それまで、上手く回り続けた幼馴染みと兄妹の歯車は、
その夜、突然止まってしまった。



(つづく)




第7話 ラブ・レター

秀幸は、香の携帯電話を勝手に解約した。
元々香は高校生なので、秀幸の承諾無しに勝手に契約は出来ない身分だ。
秀幸は香の“保護者”だから、契約するも、解約するも秀幸次第だ。
家の電話は、常に留守電になっている。
相手を確認してからでないと、電話には出ないのが兄妹の昔からの習慣だ。
秀幸が家に電話を掛けても、香は出てくれなくなった。
だから秀幸も、用がある時は留守電に向かって話しかける。
傍で香が聞いてくれていると信じて。



9月の半ばに、秀幸と僚が絶交して以来、僚と香も逢っていない。
電話すらしていない。
秀幸はあの公園で、怒りにまかせてあんな事を言ったモノの、
内心は、秀幸のいない所で2人が逢瀬を重ねれば、それを止める事など出来ないと思っていた。
けれど2人は意外にも、逢う事を止めた。
香はこの所、殆ど自室に籠って勉強している。
毎日の炊事や家事は、いつも通りやっている。
秀幸が帰宅すると、ラップを掛けたおかずがテーブルの上や冷蔵庫の中に置かれている。
けれど、今までのように楽しそうに温め直してくれる事はしなくなった。
というか。
あの宣言通り、あれ以来香は1度も秀幸と口を利かない。
秀幸は何度か香と話し合おうと、部屋の外から声を掛けたけれど香からの返事は無かった。



電話や、直接逢う事は止めた2人だったが、1つだけ続いている事があった。
3日に1度ほど、香宛に僚から手紙が届く。
香は決して、郵便受けの確認はせず、その手紙を毎回郵便受けから取り出すのは秀幸だ。
秀幸はそれを、キッチンのテーブルに置いておく。
そしたらいつの間にか、香が仕舞っているようだった。
秀幸もさすがにその手紙を、勝手に見るような真似だけはしなかった。
勿論、気にはなる。
妹は可愛いし、絶交したとはいえ、僚はやっぱり自分にとって唯一の存在、だとは思っている。
それでも、幾ら気になったとしても、2人の信書を勝手に見るような真似だけは、
やってしまっては、おしまいだと思っている。
果たして、香がそれをちゃんと読んでいるのか、返事を書いているのか、
秀幸には何1つ、解りようも無かった。


いつの間にか季節は変わり、11月の半ばになっていた。











珍しく、飲みに行かないかと誘って来たのは、ミックの方だった。
秀幸も翌日は非番だったので、OKした。
場所は、歌舞伎町のとあるバー。
そう言えば、秀幸が前回ココに来たのは、夏に僚とだった。
あの頃はまだ、香と僚の付合いの事など、全く知らなかった。
この世には、知っていた方がイイ事と、知らなくてもイイ事がある。
秀幸は正直、知りたくなかったと思う。
これまで秀幸がもっとも信じて来た、妹と親友を同時に失った気分だった。



「ねぇ、ヒデユキ?」
「ん?」
「まだ、リョウと仲直りしてないのかい?」
「・・・・・・・。」
秀幸は無言でバーボンを呷る。
ミックはやれやれと肩を竦めると、小さく1つ溜息を零す。
「あのさぁ、ヒデユキ。余計なお世話だとは思うケド、聞いてくれないかな。」
「何をだ?」
そう言って、ミックに向き直る秀幸の表情は、意外にも穏やかだった。
「リョウってさぁ、ハッキリ言ってダメダメじゃん?主に、女性関係。」
思わず秀幸の眉間に深い皺が刻まれる。
あの夜の公園での、キスシーンが脳裏に甦る。
「・・・あぁ、最悪最低だ。」



ミックはそんな秀幸に、フッと頬を緩めると、楽しげに続けた。
「アイツさぁ、前は“新宿の種馬”なんて呼ばれて、ここらじゃブイブイ言わせてたけど、最近パッタリと浮いた話が無いんだよね~~、病気かな???」
恐らく、最近って言ったって、どうせ数週間程度の話しだろ?と、秀幸は思いつつミックに訊ねる。
「・・・最近って、いつの話しだよ。」
「ん~~~、この1年以上?少なくとも、1年と2~3ヶ月は女遊びはやって無いと思う。」
「・・・・・・・・ウソだろ?」
ミックは、小さく首を振ると、ホント。と呟いた。
秀幸は虚を突かれた気持ちになって、思わず素直な感想が漏れた。
「何でだろう。」
「何でって、ヒデユキ。」
ミックは、フフフと笑う。
「カオリの為だろう?」
「・・・どういう意味だ?」
またしても、秀幸の表情は険しくなる。



「多分、リョウは。ボクらが思っている以上に、マジだよ。カオリの事。」



まさか、と秀幸は思う。
思いたかった。
けれど、そう言えばここ最近の僚の言葉を思い出す。
“でもさぁ、女の子ならさ、もう1つあるじゃん?選択肢が。”
“・・・・結婚。”
“女の子はイイ男に見染められて、大切にされるのが一番幸せだって。”

そして、この2ヶ月の僚からの、香宛の手紙。
これまでの幼馴染み3人の、固い絆。
それを反故にしてまで、果たしてあの頭のイイ僚が、遊びで香に手を出すだろうか。



「マジねぇ・・・なぁ、ミック。マジだろうが遊びだろうが。」
秀幸はそれまでで一番鋭い眼光で呟いた。


許せねぇモンは、許せねぇんだ。


「・・・そんなモンかねぇ。」
「そんなモンだ。一人っ子のオマエには、可愛い妹を持った兄貴の気持ちなんか解るもんか。」
秀幸はそう言うと、グラスの中のバーボンを一息に呷った。











「槇村らしくないんじゃない?始末書なんて。」

そう言いながら、秀幸の書類の山を築いているデスクの上にコーヒーを置いたのは、
同僚(と言っても、階級は向こうが少しだけ上だ。)であり、恋仲の野上冴子だ。
秀幸は昨日、些細なミスを犯した。
幸い捜査には支障は出なかったが、些細なミスが命取りになるのがこの商売だ。
というワケで、秀幸は今、始末書と格闘している。
恐らく秀幸は、刑事になって初めてその書類を見た。



「俺だって、ミス位するさ。油断する事もある。買い被り過ぎだよ。」
秀幸はそう言うと、署内の福利厚生費から購入されている、まずいインスタントコーヒーを啜る。
「・・・ホントに、それだけかしら?」
「どういう意味?」
秀幸は手元の書類に目を落としたまま、冴子に訊ねる。
「この所、何となく上の空だし。“色々と”お悩みがあるそうじゃない?」
「・・・・ミックか?」
冴子は否定も肯定もせず、肩を竦める。
ただ彼女の楽し気な瞳に、秀幸は眉を顰める。



冴子は、僚ともミックとも面識がある。
ただ、ココに頻繁に出入りして普段から何かと話す機会が多いのは、ミックだ。
秀幸は観念したかのように、眉をハの字に垂れて冴子に愚痴る。
「なぁ、野上。」
「なぁに?」
「俺は、兄貴として器が小さすぎるんだろうか。・・・それに、人間として面白味に欠けるんだろうか。」
「まぁ。随分、自信無さ気な言葉だこと。」
そう言って冴子は、フフフと笑う。
「あのね、槇村。」
「ん?」
「貴方は、真面目過ぎるのよ。まぁ、それが貴方のイイ所じゃなくて?」
「・・・真面目過ぎるか。」
「えぇ。」
「俺さぁ、僚に絶交だって言ったんだけど、やっぱり何処かでアイツの事憎めないんだよな。・・・・アイツには、一生勝てない気がする。器の大きさも。ユーモアも。悔しいケド、ルックスも。」
そう言って、秀幸は自嘲気味に笑う。



「そぉ? 大丈夫よ。貴方、充分面白いから。まぁ、多少シスコンに過ぎるケド。ある意味、それも魅力のうちよ。」
「どういう意味だよ。」
「そのままの意味。」
そう言って、冴子は笑いながら自分の持ち場へと戻って行った。
秀幸は少しだけ、気分が晴れているのを感じた。











その夜、秀幸が仕事を終えて家に着いたのは、午前2:00を回った頃だった。
いつもなら、とっくに眠っている筈の香の部屋から、小さく灯りが漏れていた。
ドアが、細く開いていた。
秀幸はそっと、その部屋の中を覗いてみた。


ベッドサイドのシェードランプだけが、煌々と点けられたまま、
香はブランケットに包まって眠っていた。
秀幸はそっと、足音を立てないようにベッドサイドへと近付く。
手には1枚の便箋が握られている。
頬には涙の跡。
久し振りにゆっくりと見詰める妹の寝顔は、
まるで小さな子供の頃と、1つも変わらないと秀幸は思う。
秀幸はそっと、香の頬を撫でた。
香は小さく眉を顰めると、身じろぎをした。
そして、その拍子に手の中から、紙切れがハラリと落ちる。
恐らくは、僚からの手紙だ。



秀幸はその時初めて、その手紙を拾い上げ読んでみた。


『カオリンへ。

 元気かぁ~~~? オレは元気だ。急に寒くなって来たから、風邪引くなよ。
 
 ちゃんと、勉強やってるか?
 
 受験するしないは、カオリンの人生だからよく考えて決めればイイんじゃないかと思うケド。

 でも、自分の為に、勉強する事は大切な事だよ。
 
 受験には関係無く、今、沢山色んな事を学ぶのは、一生の財産になるから。

 まぁ、遊ぶのはいつでも出来るし(笑)
  
 俺ら位の歳になるとさぁ、もうやる事っていったら遊ぶ事ぐらいだぜ?

 早く、カオリンが大人になって、また一緒にガキの頃みたいに遊べるようになるまで、
 
 首を長くして待ってるぜぃ。頑張れよ、カオリン。

 じゃあな~~~。                    リョウちゃんより。   』




それは何だか、秀幸が思っていたような所謂“ラブ・レター”とは、違っていた。
この2ヶ月半、香と口を利かなくなってから、普段の会話すら無い中で、
夏ごろに話したきりの、進路の話など一切話せるような状況では無かった。
妹にとって、これまでの人生で恐らく一番大事なこの時期に、この家の中を。
秀幸は、口すら利けない環境にしてしまった。
そうしたのは、紛れも無くあの9月の日の自分だ。


妹に出来た“彼氏”を許せないという感情に振り回され過ぎている事に、
秀幸は自分自身が、とても情けないと思った。
この親友からの妹に宛てた手紙は、今まさに、秀幸が香に掛けてやりたい言葉と同じだ。
だから。
この手紙を書いた、僚の気持ちが良く解る。
香を愛しているという気持ちが。
こんな環境の中で、少なくとも香にこうやって言葉を掛けてやってくれる相手がいる事に、
それがたとえ、絶賛・絶交中の憎たらしい親友のモノであったとしても、
秀幸は心から感謝していた。



もしかしたら、自分はただ単にヤキモチを妬いていただけかもしれない。
大好きな妹と親友が、仲良くやっている事に。
何だか、仲間外れにされたような気持ちになっていただけなのだ。
大人ぶっている割に、自分の心の中のそんな子供みたいな感情に、秀幸は苦笑すると、
そっとその便箋を折畳むと、香の机の上に置いた。
ランプを消して、香に布団を掛けてやると、秀幸は来た時同様そっと、自分の部屋に帰った。
仕方が無いので、不本意ながら、いつかは僚の事を許して、
また3人でメシを食うんだろうな。と、秀幸はヒッソリ笑った。


(つづく)






感謝感激雨霰(T∀T)

こんばんわ~~~、ケシでっす!!


突然ではありますがっっ
この妄想ダダ漏れブログにお越し戴いた全ての皆様に。
謹んで、御礼申し上げまっす m(_ _)m


ああありがとうございまぁぁぁぁぁああっす



いやはや、中には。
何なの突然??? やだ、脳ミソ沸いてんじゃないの????
なんて、お思いの方もいらっしゃるかも知れませんがっっ


ななななななんとっっ!!!!!実はっっ

この度、当ブログの、

カウンター総数  10000Hits
総拍手数      6000     とうとう突破致しましたっっ(滝涙)


これもひとえに、皆様方のお陰でございまっす!!!
とは言いましても、こういった数や数値が全てではないと考える、ひねくれたワタシでもありまっす。
要は、中身が大切だと。
それでも、やっぱり・・・・・・
        
          マンモスうれP~でぇっす



拍手コメント戴いた方々へのお返事も、必ずや書いてゆきますのでっっ
今しばらく、お待ちくださいませ m(_ _)m

ひとまず、取り急ぎお礼を言いたかったもので、書いた次第でございます。
今後とも、引き続き足をお運び戴けますよう、楽しいお話しが書いて行けるように精進致します。

取敢えずは、只今 槇ちゃんが怒りモード全開の、
『リョウたん&カオリン』 ハッピーな結末へ向けて頑張りまぁ~~~す


                              ケシでした。         
[ 2012/11/03 22:43 ] ごあいさつとお知らせ | TB(0) | CM(8)

第8話 プチ家出

槇村兄妹のクリスマスは、いつも至ってシンプルだ。
香は12月になると、子供の頃から使っているクリスマスツリーを納戸から出して来て、
いつも1人で、リビングに飾り付ける。
オーナメントは、毎年微妙に、変わったりもするので、
それはきっと香が、何処かから買って来たりするんだろう。
いつも仕上げのてっぺんの星だけを、秀幸の為に取っておいてくれた。
『はい、お兄ちゃんのお星様。』
いつもそう言って、手渡されるそれは子供騙しのプラスチックの安物だ。
それでも寒い深夜に家に帰って、香はとっくに眠っていても。
リビングで、ちかちかと瞬く電飾の灯りを見ると、とても温かい気持ちになった。



今年はもう12月も半ばを過ぎようという頃になっても、
槇村家のツリーは、納戸の中で待機したままだ。
あの夏の終わりの夜の、公園での出来事以来、3ヶ月近く。
兄妹は口を利いていない。
一体、進路の件はどう考えているのか。
事の発端とも言える、幼馴染みのヤツの事をどう思っているのか。
兄に対して、未だ怒っているのか。
秀幸には、香の心の中が解らない。
香の兄歴17年9カ月にして、秀幸は初めて妹との接し方について死ぬほど悩んでいる。



子供の頃は、ただただ可愛がるのが秀幸の役目だった。
と言っても香は、子供の頃からお利口さんで。
とっくに他界した母のいない家庭で、
仕事に忙殺され気味の父と、一回りも歳の離れた兄の3人家族の中で、
自分の役回りや、空気を読む子供だった。
自分の淋しさや甘えを、『いけない事』だと思っている節があった。
だから尚更秀幸は、香が可愛くて仕方なかった。
けれど。



もしかすると、あの小さかった香の面影に縛られて、
秀幸は未来を見る事を、忘れているんじゃないのかと自問する。
今現在の、少女から大人への河を必死にもがきながら泳いでいる、
等身大の妹の姿を、一体自分はどれだけ理解してやれているのか。
秀幸は、たとえ香が答えてくれなくても、クリスマスには一緒に過ごそうと提案するつもりだ。
2人だけで食べれるだけの小さなケーキを買って来て、夕食を食べる。
それだけで充分じゃないか、と秀幸は思う。
進学をしないとか、僚の事が好きだとか、いつか自分の元を巣立って羽ばたいてゆく事とか。
今はまだ。






クリスマス・イブの夜、
秀幸は予想以上に早目の帰宅が実現できた。
年末の防犯ムードが高まる署内では、毎年年明けまでの半月は、
日付が変わる前に帰宅できれば恩の字で。
実を言えば、この早目の帰宅も野上冴子のフォローの賜物だ。
いつもの自宅への留守電に、妹宛のメッセージを吹き込む。
もうすぐ、帰るからと。
香が、すぐ傍で聞いている事を信じて。



秀幸が自宅に帰ったのは、21:00を過ぎた頃だった。
家の中は真っ暗で、
香はいなかった。



留守電のランプが点滅して、2件のメッセージがあると表示されていた。
1件は、数十分前に己が吹き込んだ、帰るコール。
そしてもう1件は、
絶交中の幼馴染みからだった。
秀幸が吹き込む、少し前にそのメッセージは残されていた。


『・・・・あ、もしもし。槇ちゃん?久し振り。俺だけど。
 カオリン、ウチに来てるから。
 何時になっても構わないから、迎えに来てやってくれないかなぁ。
 待ってる。じゃ。                         』


僚の声は、至っていつも通りだった。
あんな事があった事も、秀幸と絶交中だという事も、微塵も感じさせない穏やかな声だった。
久し振りに聞く親友の声に、妙に緊張しているのは自分だけかと、少しだけ可笑しくなる。
こういう時、僚には敵わないと秀幸は思う。
いずれにしても、このメッセージだけでは香が何をしに僚の元へ行ったのか、
2人が今どうしているのか、サッパリ解らないので秀幸は小さな紙袋を提げて、僚のアパートへ向かった。









僚の部屋のカギは開いていた。
よくある事だ。
相変わらず不用心な幼馴染みに、秀幸は警察官の顔で苦笑する。
親友は、独身男1人には広過ぎる部屋に、学生の頃から独り暮らしだ。
勝手知ったる親友の家なので、秀幸はサッサとリビングへ赴く。
そこにいたのは。
ソファの上に丸くなって眠る、ブランケットに包まれた妹だった。
部屋の中は暑い位に暖められ、リビングの片隅に置かれた加湿器が小さくコポコポと音を立てている。
妹の頬には涙の跡がある。
そして、肝心の僚の姿は何処にも無かった。


屋上の扉を開けると、僚は手摺に凭れて煙草を吸っていた。
秀幸が扉を開けた音に、咥え煙草で振り返る。
「よぉ、久し振り。」
そう言った僚は、全くいつも通りだ。
「・・・あぁ、久し振り。」
暫し無言で向かい合う。
「カオリン、下で寝てるから。」
「あぁ、見た。」
秀幸はゆっくりと歩を進め、僚の隣に並ぶ。
僚は何も言わず、マールボロのパッケージを差し出す。
秀幸も何も言わずに、1本取り出して咥える。
僚が秀幸の煙草の先に火を点ける。



どの位そうしていたのか、僚は大きく煙草のけむりを吐き出すと、秀幸に向き合った。
「俺、謝んないから。 悪い事してるなんてひと欠片も思ってねえし、香の事、マジだから。」
秀幸も僚から一瞬も視線を逸らす事無く、答える。
「俺も、許す気は無いから。 お前みたいなオンナ癖の悪い男に妹はやれん。」


けれど2人の間には、もう既に穏やかな空気が戻っていた。


2人は知っている。
これからの行動で、誠意を示していくしかない事を。
これからの行動次第で、理解するしかない事を。
何より2人にとって、1番大切な女の気持ち1つでこれからが決まる事を。
「で? なんで香がココにいるんだ?」
秀幸が本題に触れる。






香が僚の部屋に来たのは、夕方の事だった。
昔の僚なら、クリスマス・イブのそんな時間に部屋にいる事など無かった。
いつからか。
僚はどうでもイイ女を引っ掛ける事や、飲み屋の女を口説く事が面倒臭いと思い始めた。
20代の初めの頃は、それこそ僚に落とせない女はいないのでは、という勢いだった。
僚とて、来るものは拒まなかったし、据え膳は片っ端から喰いまくった。
それでも、特定の誰かと付き合う事の意味は解らなかったので、遠慮した。
ひと言で言えば、ロクデナシだ。


そして、そんな僚の頭の片隅に常にあったのは、香の存在だ。
その頃はまだ、小学生や、中学生だった、幼馴染みの妹だ。
勿論、僚はロリコンでは無いし、幼い香を性の対象として見た事など無かった。
でも何故か、将来は香を嫁にすると思っていた。
勿論、香が大人になってから。
そしてこの1~2年。
僚はハッキリと自覚した。
香に恋い焦がれている自分を。
秀幸に激しく嫉妬する自分を。
それはもう、歯止めの効かない感情だった。

香を愛している。




「・・・夕方、泣きながらココに来たんだ。」
僚がポツリと呟く。


あの日から、お兄ちゃんと一言も口を利いていないって。
自分でお兄ちゃんに、一生口利かないって言ったけど、後悔してるって。
自分が俺の事を好きになったばっかりに、俺と兄貴の仲まで裂いてしまったって。
もう、・・・・生きて行けないって。
カオリン、限界だったんだな。
泣き疲れて、眠っちまった。



僚の言葉を聞いて、秀幸は激しく己を責めた。
もう僚に対する怒りというより、むしろ自分自身に対する怒りの方が勝っていた。
「ごめん、槇ちゃん。」
「謝らないんじゃなかったのか。」
「カオリンに惚れてる事は謝んないケド、正式な手順を踏まなかった事は別だし。結果的に、カオリン泣かせたのは、俺のせいだし。・・・まさか、槇ちゃん達がこんな風になってたなんて思っても無かったし。」
秀幸は、フッと微笑む。
確かに僚は、素行は悪いし、手も早いケド。
妙に素直な所があるのだ、いつも。
不真面目なのに、妙に律儀というか。
何より、香が限界を感じて逃げ込んだ場所は、僚の胸だった。



「起こすのも可哀相だし、寝たまま連れて帰るだろ? 車出してくるよ。」
僚がそう言って、ガレージへ降りようとするのを、秀幸が制した。
「いや、今夜はココに泊めてやってくれ。」
僚は目を見開いて、まじまじと秀幸を見詰める。
「・・・・何言ってんの? 正気か?槇ちゃん。」
「まさか、手ぇ出すつもりは無いだろ?てか、出したら逮捕するから。」
そう言って、秀幸はフッと笑った。


それから、これ。
香が目覚めたら、渡しといてくれ。クリスマス・プレゼントだ。



そう言って秀幸が僚に手渡した紙袋は、某携帯ショップのモノで。
中身は、香の新しい携帯電話だった。
秀幸が怒りに任せて、僚と連絡できないように解約した古い携帯には、
メモリーの中に、僚と一緒に撮った沢山の写真が収めてあって、
使い物にならない小さなそれは、それでも香の宝物だった。
そして、きっとこの新しい最新機種の携帯にも、これから先沢山の思い出が刻まれる。


「手ぇ出したら、殴るぐらいじゃ済まんぞ~~~」
そう言いながら、帰って行く秀幸の背中を見送る僚の頭の上に、粉雪が降り始めた。
香だけが、兄達の仲直りなど知らずに、暖かい部屋の中でスヤスヤと眠っている。
朝目覚めたら、香のサンタは新しい携帯電話と、仲直りの報せを届けてくれている。
僚は雪の降る屋上で、幸せそうに笑う香の顔を想像して温かい気持ちになった。


(つづく)





第9話 年越し

秀幸と香と僚は、3人で初詣に行った。
秀幸は大晦日の夜、辛うじて年を越す1時間ほど前に帰宅できた。
香は朝から(モノによっては、2~3日前から。)おせちの準備をして、
僚はその隣で、終始ふざけていた。
帰宅後、風呂から上がった秀幸も揃ったところで、3人は除夜の鐘を聴きながらそばを食べた。
そして、真夜中過ぎから初詣に出掛けた。
晴れ着の人の波の中、3人とも普段着(バッチリ防寒)で。
長い参道の列では、まるで子供のようにしりとりをした。
昔から3人の中ではお決まりの、最後が『ん』でも終わらない、カオリンルールのしりとりだ。
例えば『うどん』と言ったら、普通は終わりだが、このルールに則ると、
次は、『ドングリ』だったり『ドンキホーテ』だったりする。


それは香がまだ小さかった頃の、12歳という兄達との年齢差を補うハンディ・キャップだった。
いつしか香もすっかり大きくなったけど、このルールだけは3人の中で生き続けている。
何処まで行っても終わりが無い。
それは3人にとって、しりとりに限った事では無いのかもしれない。





クリスマスの朝、僚の部屋のリビングで目覚めた香は、
新しい携帯電話のプレゼントと、兄と僚の絶交が解かれた事を聞かされた。
そして、僚と久し振りにキスをした。
秀幸に、手を出したらただじゃおかないと言われた僚だが、
僚の中では、キスは手を出すうちには入らないらしい。
手を出すというのは、まさしく、香を抱くという意味で。
さすがに僚も、まだそれまでの決断は出来ないでいる。
何しろ香は、高校生である。


香はその朝、僚の手製の朝食を食べ、来た時とはまるで別人のように笑いながら、
送って行くという僚に手を振って、槇村家へ帰っていった。
そしてその夜、兄妹は3ヶ月振りに仲直りを果たした。
香の新しい携帯の待ち受け画面は、僚と香の自画撮りの2ショットだ。
仲直りした途端、香に屈託なくその待ち受けを見せられた秀幸は、非常に複雑な気分だった。
妹の心を巧みに掻っ攫った親友は憎たらしいけれど、
妹が楽しそうに笑う顔は、正直、満更悪いモノでも無い。
そして、今現在その妹の笑顔を引き出せるのは、ある意味では“ヤツ”なのだ。


「ねぇ、お兄ちゃんも一緒に撮ろうょ♪ 仲直りの記念写真。」
そう言って、香が無邪気に頬を寄せる。
まだ今の所、僚と自分は50:50かなと、秀幸は思う。
僚と写した“記念写真”と同じように、秀幸にも同じ機会が与えられる。
屈託ない笑みが向けられる。
けれど、いつか確実に。
妹のその心の天秤がどちらかに傾く時が、やって来る。
いや、秀幸には傾かないんだろう。兄妹だから。
そして、秀幸は少しだけ思った事がある。


もしもこの先、いずれにしても香が誰かのモノになるのなら。
まるで知らない赤の他人を、一から理解するよりは。
気心の知れた、香を知り尽くした、まるで兄弟のようなアイツに、託してもイイのかなと。
まぁ大前提として、
僚の身辺が洗いざらい、綺麗サッパリ整理されてからでないと、というのは、絶対的に譲れないが。
オンナ癖という点に於いて、ミックの証言はあるものの、
秀幸はまだいまいち僚を信用出来ないでいる。
逆に言えば、その点をクリアさえすれば、香の相手として僚は申し分ないのではないかと。








漸く辿り着いた賽銭箱前にて3人は、三者三様それぞれ違ったお願い事をする。

『香が卒業後の事、本腰入れて考えてくれますように。  (秀幸)』

『今年中には、カオリンとキス以上の関係に進めますように。(僚)』

『お兄ちゃんとリョウたんが、ケンカしませんように。
 お兄ちゃんが、仕事で怪我する事などありませんように。
 リョウたんといつか、探偵サン出来ますように。
 その前に、やりたい事が見付かりますように。
 それから、それから、ええと・・・・          (香)』





「ほれ、カオリンいつまで拝んでんだ。次、支えてっぞ。」
僚にそう言われて、香は漸く名残惜しそうに参拝の列から外れる。
そしてニッコリと微笑むと、次はおみくじだね。と言って、
おみくじの入った箱の方へと、2人の手を引く。










3人の仲直りのクリスマスのすぐ後には、香の冬休みが待っていた。
クラスメイトの殆どが受験の追い込みで、課外を受けたり、予備校に通う中、
香の冬休みは、のんびりしたモノだった。
夏休み同様、僚は槇村家へ入り浸り、夕飯を香と2人で食べ、秀幸が帰るまで一緒に過ごした。
もうその頃には、秀幸には僚の意図が解っていた。
ただ単に、恋人として傍に居たいのではなく、用心棒を兼ねているのだという事に。


昼間2人はコタツに座って、ミカンを食べたり、テレビを観たり、勉強をしたりした。
1つのみかんを、3口ほどで平らげる僚を香が笑ったり。
再放送の退屈なドラマを観ているうちに、2人してうたた寝したり。
今の所、受験の予定は無いけれど、
香の苦手な世界史の、僚によるスパルタ式講義(チュウのお仕置き付)が始まったり。


あの秋の淋しかった3か月間など、まるで無かった事のように。
3人の温かな日常は、アッサリと続いている。
まるで、終わりの無いしりとりのように。







「うわぁ、また大吉だぁ」
香は驚異の強運の持ち主で、初詣は大概、大吉だ。

「中吉か。」
秀幸は毎年、可も無く不可も無い。

「・・・・・・凶って。」
僚は大抵、極端な結果を引き当てるが。
彼に関しては、運の良し悪しなどそれ程、関係無い。
強引に運を味方に付けるのが、冴羽僚という男である。



年明けも相変わらず、いつもの3人だった。
それでも、この年はきっと前の年以上に、色々ある筈だったが。
始まりは穏やかに幕を開けた。



(つづく)





冴羽課長の焦燥 (9999 キリ番リクエスト)

※ このお話しは、パラレル『よくある恋の見つけ方』(課長と槇村君)の、番外編です。
  時系列は夏ぐらいで、
  必死にBBQアピール中の冴羽課長と、まだ恋なのかどうか自覚の無い槇村君な感じです。
  
  継続中の番外とは別の、単発番外って感じです。
  パラレル平気な方は、どうぞ~~~  (´∀`)ノ   いってらっしゃぁあい♪
















その時、田中聡は声を掛けようかどうしようか、非常に迷っていた。
彼女を会社の外で見掛けたのは、それが初めてだった。
その日田中は、社外で行われている研修に参加する為、1日会社を離れていた。
と言っても、研修の行われている多目的ホールは、自分の会社のすぐ傍で。
昼の休憩の為に外に出たら、彼女と出くわした。
駅ビルの出入り口付近で佇む彼女。



スラリと高い長身。
ブラック・ウォッチの柄のスリムパンツに、パフスリーブと丸襟のフェミニンな白いブラウス。
踵の無いシンプルなパンプス。
明るい栗色の柔らかそうな、ショートヘア。
遠目からでも良く解る、翻訳課の唯一の女性社員、槇村香である。
田中聡と彼女の出会いは、春の終わり。
彼女が中途入社でやって来た、ある朝の事だった。



田中は、総務課係長という非常に中途半端且つ、地味な役を与えられている。
役職手当など、ほんの微々たるものだが、与えられる雑用は鬼のように山積みだ。
そんな田中の仕事の1つに、新しく入って来る社員の配属先への案内というモノがある。
大した仕事でも無いが、人見知りの田中にとっては、ハッキリ言ってイヤな仕事の1つだ。
しかしそんな事は、いちいち言ってられないのが、総務課係長なのだ。
毎度ストレスを抱えながら、無難にこなしている。
しかし、その日ばかりは、自分のその立場に感謝したくなった。
ひと言で言えば、彼女は。


激マブ。


ハッキリ言って田中は、33歳になる今までに、
どんな合コンに参加しても、
上司に連れて行かれた高級クラブにも、
日常のありとあらゆる場面での女性との出会いに於いて、
彼女ほどの別嬪には、お目に掛かれなかった。
何故彼女が、あの変わり者達の巣窟に配属されたのか、正直少しだけ気の毒に思った。
何しろ彼女の直属の上司は、あの冴羽僚なのだ。
それでも彼女が入社して、早数ケ月。
どうやら彼女は、あの課にすっかり馴染んでいる。意外な事に。



この所季節柄か、日中の通り雨が頻繁にある。
彼女も、出入り口に佇み、空を仰いでいた。
どうも傘を持ち合わせていないようで、困っているようだった。
生憎、田中は折り畳み傘を携帯してる。
研修先のホールへは、駅の地下道を使えば濡れずに戻れる。
彼女に声を掛ける、絶好のチャンスではある。
勇気さえあれば。



「槇村さん。」
田中がそう呼びかけると、彼女は振り返りニコッと笑った。
「あ、田中係長。お疲れ様です。」
「おおお疲れ様で、す。」
田中は思わず、しどろもどろになる。
「ま、槇村さん、珍しいですね。外でお会いするなんて。」
「えぇ、係長も。」
そう言って、2人はクスッと笑った。


ココの中にある書店に、伊集院さんが資料を予約してたんですケド、
生憎、受け取りに行く時間が無くて。
私はいつでも手が空いてますので、お使いに。


僕は研修で。
て言っても、すぐそこが研修先なんですケド。
今日は1日、社外なので新鮮です。


お互いの事情を説明し終えたところで、田中は漸く本題を切り出す。
「あ、あの、槇村さん。傘、持ってないんでしょ?」
「えぇ、出て来た時はとても晴れてたから。弱っちゃいました。」
そう言って、眉をハの字に下げる彼女は、殺人的に可愛いと田中は思う。
「これ良かったら、使って?」
そう言って田中は、折り畳み傘を差し出す。
「でもそれじゃあ、係長が濡れちゃいます。」
そう言って彼女は遠慮する。
「あ、いや。僕は地下から移動した先だから、使わないから。会社に戻って、総務の誰かに適当に言付けて渡しといてくれたらいいから。」


あ、あの。じゃあ、遠慮なく お借りします。

そう言ってペコリと頭を下げる彼女を見て、勇気を出して声を掛けて良かったと田中は思った。














その日、冴羽僚が3階の編集部での用を済ませて、廊下へ出ると、
視線の先、廊下の奥まった所に見慣れた2人が何やら親しげに会話している。
1人は僚の同期である。
総務課係長、田中聡。僚の遅刻に、唯一目を光らせる人物である。
そしてもう1人。
ベージュの膝丈のフレアスカートに、白いボウタイカラーの半袖のブラウス。
ストッキングには控え目なラメが光っている。
今日は珍しく、赤いエナメルの8㎝ヒールを履いている。
僚の部下の槇村香だ。
僚は思わず、少し離れたエレベーターホールの脇にある、自動販売機の陰に身を潜める。



「昨日は、どうもありがとうございました。お陰様で、助かりました。あのこれ、大したものじゃありませんケド、良かったら休憩の時にでも。」

「良かったのに、わざわざ。誰かに預けといてくれれば。何か、却って申し訳ない。」


香は田中に、何やら小さな紙袋を手渡している。
中身は昨日借りた折り畳み傘と、ハーブティーのティーパックだ。
3種類9パック入りで、香も時々気分転換に飲んでいる。
仕事場では、専ら伊集院のコーヒーばかりだが。



そんな2人の、昨日からのやり取りなど知る由も無い僚は、
その光景を見て、1人悶々と考え込んでいる。

(一体、昨日何があったんだ・・・・)

しかし冴羽僚は、考え込んで1人悩み続けるようなタイプでは無いので、
2人の間に割り込むべく、行動を起こす。
胸ポケットからメモ帳を取り出すと、何やらサラサラと書き込んで、ピリッと切り離す。
今までコッソリ観察していた事など、まるで無かった事のように、
さも偶然を装って、香に声を掛ける。



「あ、カオリン。ちょうど良い所にいた。悪いんだけど、このメモにある書籍を、資料室から借りて来てくれない?」

「はい、了解しました。課長。それじゃ係長、失礼します。ありがとうございました。」

香はそう言ってニッコリ笑うと、2階の資料室へと向かった。











「・・・何の芝居だ?僚。お前、さっきから自販機のとこでずっと見てじゃないか。」

「その紙袋、何なんだ?昨日、カオリンと何したんだよ?」

田中の質問には答えず、僚は田中に詰め寄る。
田中は一歩後退りする。




傘だよ。

誰の?

俺の。

何で?

貸したんだよ、彼女、雨に降られて困ってたから。

いつ? 何処で? 傘の他のそれは何だよ?

・・・・・僚、オマエ。何か怖い。・・・大丈夫か???

それ何だよ? 何貰ったんだよ。

しつこいなぁ。お茶っ葉だよ。お、俺もうそろそろ戻るから。

ちっっ。

・・・・何だよ、舌打ちって。




冴羽僚の悩みは尽きない。
彼の想い人は、美しい。
しかし当の本人に、注目を浴びている自覚は皆無で。
その上、異常に無防備で、警戒心ゼロである。
僚がどんなにアピールしても、それが果たして彼女の心に届いているのか、
今の所、まだ確証は得られていない。
陰ながら僚が、周りの奴らに睨みを利かせ、奔走している事を彼女は知らない。
きっと今も、資料室で一生懸命、有りもしない書籍を探しているに違いない。
良き所で、迎えに行かなくては。










その数日後、僚が経費の領収書を経理課に提出に行くと、
経理課女性社員から、1枚のA4判のコピー用紙を貰った。
部署を超えた、ビアガーデンでの親睦会のお誘いだ。



今まで、香が仲間入りするまで、この様なお誘いを受けた事は皆無だ。
どうやら僚率いる翻訳課の面々は、積極的に親睦を深めたくなるようなキャラ設定では無いようだ。
どうして今年に限って、この様なお誘いの声が掛かるのか。
そんな事は容易に想像が付く。
女性社員はともかく、男性社員の多くは部署の垣根を超えて、香と親睦を深めたいらしい。
勿論、上司として。
却下である。




忙しいのだ、我々は。
週末は、BBQだし。
て事で、翻訳課全員、不参加っと。



僚は屋上で煙草を吹かしながら、A4サイズの紙飛行機を飛ばした。
大概で、こんな害虫駆除は面倒臭いので、早いとこ彼女をモノにしないとな。と、僚は考えている。
それを密かなヤキモチ、および軽度のストーカーと呼ぶのなら。
いっそ、それでも構わないと、開き直りにも似た気持ちで冴羽僚は、真夏の太陽を見上げた。










え~と、今夜は連載中のお話しは、1回お休みして。
9999で、キリ番を踏み踏みした、愛花様より戴いたリクエスト。

『冴羽課長と槇村君設定で、課長のヤキモチ話』

との事で、ちょっくら考えてみました。
こんなんで、良かったでしょうかぁぁあ? 愛花さま~~~
お粗末様でした m(_ _)m
                 ケシ



第10話 チヨコレイト

「ねぇ、香?」

それは、お昼休みの事だった。
絵梨子は、トトロの形に造られたとろろ昆布に包まれたおにぎりを、
フォークで崩しながら、その話しを切り出した。

「ん~?なあに?」

香はのほほんと答える。
年が明けてから、お弁当は専ら2人で食べている。


以前は丸々1時間、ガールズトークに華を咲かせ合っていたクラスメイト達は、
センター試験を終えるまでは、寸暇を惜しんで昼休みまで自習していたし、
それが済んだ今となっても、合格発表が済むまでは何処かピリピリムードで。
早々と受験を放棄した2人は、何だか少し浮いている。
話題と言えば試験の事ばかりの空気に嫌気がさして、2人で食べようと言い出したのは、絵梨子だった。
それに2月に入ってからは、登校日も減っている。
もっとも、合格発表や入学手続きや、センター以外の何らかの試験を受ける生徒たちは登校しないし、
次にクラス全員が揃うのは、きっと卒業式だ。
そういった予定の全く無い2人は、わりかし出席率だけは高いが、
後は卒業式までの、消化試合のようなモノで。
以前にも増して、学習意欲には欠けている。
2人にとって今や学校は、お弁当とガールズトークがメインの場となっている。



「卒業した後の事、まだ決めてないんでしょ?」

珍しく絵梨子が、進路の件に言及した。
ここ最近の2人の話題は殆どが恋バナで、その約8割は、香と例の“リョウたん”の事である。
夏休みに3人でプールに行った後も、絵梨子は数回僚と会う機会があった。
秋口からクリスマスまでの、兄妹と彼の例の一件も香から詳しく聴いて知っている。
そして、冬休み以降の2人のラブラブ振りも。
もっとも香に言わせれば、今の所、兄からのお許しを得た訳では無いので、
『別に、ラブラブとかそんなんじゃ無い。』との事。
しかし巧みな尋問によって、2人の間の殆どの情報を聞き出した絵梨子の認識は、
『ラブラブバカップル』である。
香の兄とも面識のある絵梨子だが、兄の件に関しても、お許しも何も。
ほぼ公認と見て間違いは無いだろうと、判断している。
香の兄は、常に香中心で世界が回っているから。


「う~~ん、決めてない。えへへ。」

香は苦笑しているモノの、そこはかとなく呑気だ。
香には昔からこういうとこがあると、絵梨子は思う。
香と絵梨子は、中学の時からの親友だ。
高校受験の時も、香はどこか他人事だった。
結局は、一番仲良しの絵梨子と同じ高校(しかも、家から一番近いし。)に行く事にして、今に至る。

「じゃあさ、4月から、パパんとこで働かない?」 「ほぇ?」

突然の絵梨子の申し出に、香はポカンとなる。
それでもそれが、何だかとても、香は良いアイデアに思えた。
どうせ何処かで働こうと、漠然と考えていた香だったし。
それなら絵梨子と一緒に、同じ職場で働けるのは、とても楽しそうだ。

「・・・でも、募集してるの?」

香が訊ねると、絵梨子は苦笑しながら答える。

「てか、パパから訊いてみてくれないかって頼まれたの。だから香さえ良ければ、即決定なんだけど・・・」

「ホントに???」

「うん。」

「もちろん、働くっっ!!!」

というワケで、香の進路はアッサリと突然に決定した。

「・・・でもね、絵梨子。」

「ん?どうしたの?」

「わ、私、将来結婚する時は、お仕事辞めなくちゃいけないの。」

「・・・・・・・。」

突然の話題に、今度は絵梨子がポカンとする番だった。





いつ?

何が?

だから、その結婚て。

・・・さぁ?

何それ。

だって、リョウたん次第だから。

でも、結婚するのは決まってんの?

うん。

で?結婚したら、お仕事辞めてくれって?

うん。

意外と古風なのね、彼。

う~~ん。てか、結婚したら一緒に探偵サンやるの。

・・・・・へぇ。

凄いでしょっっ???

なんか、楽しそうだね。香。

うんっっ!! すっごく楽しみなのっっ!!!

・・・・・・・・・解った。それも含め、パパに伝えとく。

ありがとう(笑)


ニッコリと笑う天真爛漫な親友を見て、
間違いなくバカップルだなと、絵梨子は確信を深めた。







「ねぇねぇ、それよりさ。絵梨子はどうするの? バレンタイン。」

実は絵梨子にも、ちゃんとした彼氏がいる。
僚と香ほどではないけれど、年上で、大学3年生だ。

「う~~ん。私、お菓子なんか作った事無いし・・・、やっぱり、デパートに行って買って来ようかなって思ってるケド・・・」

「そうなんだぁ。簡単だよ、レシピ通りに作れば。」

「香は?作るの?」

「うん。例年通り。」



これまで香は毎年、兄の分だけ手作りをして渡してきた。
今まで、兄と父以外の人にチョコをあげた事は無かった。
でも今年は“彼氏”がいるのだ、香にも。
多分、バレンタイン当日にも、僚はいつも通り槇村家へやって来るだろうから、
その日はご飯のあとに、チョコを使った何らかのデザートが食卓に上る予定である。


僚との付合いに関して、秀幸にお許しを貰っていないと思っている割には、
香はいつも、僚との事は秀幸に対してオープンである。
秀幸とすれば、変に隠し立てされれば、真っ向から反対したくもなるが、
至極当然のように、目の前で仲良くされれば、それを咎める理由も無い。
そんな事でいちいち苦言を呈する方が、まるで仲が良い事を僻んでいるようで。
何だか小姑みたいじゃないかと、複雑な心境にもなる。
それを見越した香の作戦。というワケでは勿論無い。
あくまでも香は、何の狙いも無く、ただ単に仲良しなだけだ。僚とも、秀幸とも。
結局秀幸はあのクリスマスから、なんだか釈然としないまま、早くも2ヶ月近く経とうとしている。
香の無意識のペースに、まんまと嵌められている。


一度、2人とシッカリと向き合って、どう考えているのか問い質したいと思っている秀幸だが、
もしかして、まさか、万が一。
2人の口から“将来”を約束するような、決定的な話しなど出ようもんなら、
暫くは立ち直れそうに無いので、いざとなると自分から避けてしまうという困ったジレンマに陥っている。
兄の心は今現在、千々に乱れている。
そんな秀幸は、まさか2人が将来結婚して、夫婦探偵になろうねなんて言っている事など、
残念ながら、知る由も無い。











バレンタイン当日。
やはり予想通り、僚はいつものようにやって来た。
その日の晩ご飯のメニューは、
クラムチャウダーと、
豚肉の生姜焼きと、
ポテトサラダと、
インゲンとベーコンの炒め物と、
春菊のお浸しだった。


そして香はデザートに、ガトー・ショコラを焼いた。
小さめの型で、秀幸はお星様の形、僚にはハートの形。
粉砂糖を振って仕上げた所に、ピンク色のチョコペンでメッセージを描く。
お星様には “いつもありがとう”
ハートには “だいすき”
年が明けて以来、これといって大きな事件も無く平和な秀幸は、今日は19:00には帰宅して、
3人揃って食卓を囲んだ。






その香からのバレンタインの贈り物を目の前にして、
秀幸は暫し、考え込んでしまった。
僚はハートなのに、どうして俺は星なのかと。
しかし、次の香の言葉で謎は解けた。

「去年のクリスマス、ツリーの飾り付けしなかったでしょ?だからこれは、お兄ちゃんのお星様。」

香はそう言ってニッコリと微笑んだ。
この場にいる3人のうち、そのケーキの形に妙に引っ掛かっているのは、きっと秀幸のみだ。



「ねぇね、美味しい? リョウたん?」
早くもそのハート形にスプーンを突き立てている僚に、香は楽しそうに訊ねる。
「あぁ、旨いよ。食うか?カオリンも。」
香は、コクコク頷く。
僚はスプーンでひと口すくって、香の口元へ差し出す。
香も何の疑問も無く、口へ運ぶ。
「うん、おいしい。」
その光景に、ヤキモキしているのは秀幸だけだ。


僚の食べ差しのスプーンでっっ
あ~~んとか、しやがってっっ
それって、間接キッスじゃないかっっ


否、2人がキス位、しょっちゅうやってるのは、秀幸とて知っている。
それでも、今この目の前で。
ジットリと見詰める兄の視線を物ともせず。
2人は、堂々とイチャついている。
しかし、これは何処までが恋人としての振る舞いなのか、
ただ単に、子供の頃の延長線上の仲の良さなのか。
もしかしたら、こんな風に悶々と苛立っている自分の方が、厭らしく受け止め過ぎなのか。
秀幸は、もはや正常な判断基準を見失いつつある。



その時突然、香が思い出したかのように、2人に報告した。

「あ、そう言えば。私、お仕事決まったよ。」



えっ???



さすがは親友同士である。
秀幸と僚が、見事にハモッた瞬間だ。




ひ:どういう事だ?

か:3日前にね、絵梨子から誘われたの。絵梨子のパパの会社に就職しないかって。

ひ:北原さんって言うと、アパレルメーカーの。

か:うん。パパは、デザイナーなんだって。

ひ:で?何の仕事をするんだ?

か:・・・・・・・さぁ?



秀幸と僚は、思わず顔を見合わせる。
時々、この妹は突飛な事をやらかすが、今回はなかなか意表を突かれた。
まさか、就職をアッサリ決めて来るとは。



ひ:香、何の仕事なのか確かめもせずに決めたのか?

か:えへへ、そう言えば聞いて無かったや。

り:そんなんで、OKなの?カオリン。

か:・・・・ダメかな?

ひ:ダメかどうかは解らんが、普通は気にならないか?どんな仕事か。

か:ん~~~?じゃあさ、普通のOLさんって、会社で何やるの?

り:会社とか、部署によるんじゃねえの?

か:でしょ?だから、私も入社してみなきゃ良く解んない。

ひ:ま、確かに。

か:4月から働く事と、いつか結婚したら辞める事だけ決まってるの。

ひ:・・・・・・・・・・・・・・・・・(怒)。

か:??????

り:カカカカ、カオリン(汗)  お風呂の準備しなくてイイの?

か:あ。そうだった。ありがとう、リョウたん。忘れるとこだった。




ちょおぉぉっと、待っっつたぁぁぁあ!!

香がお風呂場に行く為に、立ち上がろうとしたのを引き留めたのは、秀幸だった。
「結婚、するのか?」
秀幸の声は、微かに震えている。
「うん。するよ。」
香は飄々と答える。
「いつ?」
「さぁ?まだ、解んないケド。2人で探偵サンするの。」
香は“誰と”という具体的な事には言及しなかったが、“探偵”と言えば“ヤツ”しかいない。


秀幸は首がもげそうな勢いで、僚の方へ向き直り無言で圧力を掛ける。
肝心の僚は、額にタラリと冷や汗を垂れながら、ハハハと乾いた笑いを漏らしている。
そんな兄達を後目に、香はニッコリ笑うともう一度言った。


いつなのかは、まだ解らないケド、結婚はするんだよ。お兄ちゃん。



そう言って、香は今度こそ風呂場へと向かった。
残されたのは、苦笑するしかない僚と、
真っ白く燃え尽きた、槇村秀幸(30)・独身・シスコン であった。


(つづく)






第11話 お誕生日

香が18歳になった、3月31日。僚が初めて香を抱いた夜。
僚は腕の中で疲れ果てて眠る香に、この世に生まれて来てくれてありがとうと、心の底から感謝した。
そして香の寝顔を見ながら、己の心に固く誓った。
死ぬまで、一緒に生きようと。









3月に入ってすぐに、香が晴れて高校を卒業した。
卒業式の日、秀幸は勿論、何故か僚まで参加した。
香1人に対し、父兄は2人である。
何でオマエまで来るんだ?と、学校に着くが着くまで釈然としない秀幸だったが、
そんな事よりも、香の一大イベントの方が秀幸にとっては重要なので、
卒業式会場の、学校の体育館に足を踏み入れた途端、
僚の存在などすっかり忘れて、これまでの香との18年間をしみじみと振り返っていた。
秀幸はその日、ジャケットとパンツ合計8か所あるポケット全てにハンカチを仕込んでいた。
こと香に関する事では、秀幸の涙腺はおぼろ豆腐並みに脆い。
それは、僚も合点承知だ。
「槇ちゃん、俺もハンカチ3枚用意してるから、足りない時は言ってくれ。」
「おぉ、サンキュ。すまんな、僚。」


卒業証書を受け取って、壇上から自分の席へ戻る途中で、
香は兄と恋人の方を見詰めて、ニッコリ笑った。
そんな香に僚は、手を振って応えた。
もう、香の制服姿はこれで見納めだ。
秀幸はそう思うと、またもや涙を拭った。
僚は横目でそんな幼馴染みを観察し、思わず苦笑する。

卒業式でこれなら、結婚式はどうなんだよ、と。

式が終わった後も、香は友人たちに囲まれて暫くは2人の元へ戻れそうな状態では無かった。
それを遠目に見ながら、秀幸と僚は言葉少なだ。
香の周りには、下級生の女の子達が殺到し、香の制服のブレザーのボタンは全て無くなった。
「懐かしいな。俺も卒業式の時は、帰りには学ランの前、肌蹴て帰ったな。」
僚が目を細めて呟く。
「・・・俺は、しっかり襟元まで留まったままだったな。」
秀幸は、苦笑しながらポツリと呟く。


香と絵梨子が、そのほか数名の女子達と楽しそうに携帯で写真を撮り合っていると、
1人のいかにも人気のありそうな、背の高い男子が香の前にやって来て、何かを渡した。
秀幸と僚がいる場所では、どんな遣り取りが行われているのかは定かでは無いが、
香の恥ずかしそうに困ったような顔と、周りの女子達の冷やかすような甲高い声で、
おおよその見当は付く。
男子は、手紙のようなモノを香に押し付けるように手渡すと、逃げるように何処かに走り去った。
青い春である。
秀幸も僚も、何故だか意外にも穏やかな気持ちで、そんな光景をボンヤリと眺めていた。


「・・・カオリン、モテモテだな。」
「そうだな。仕方ない、可愛いから。卒業生の中で一番、可愛いからな香が。」
淡々と、そんな筋金入りのシスコン発言を繰り出す秀幸に、僚は軽く引いてしまう。
秀幸との長い付き合いの中で、そのシスコン振りには充分慣らされてはいるつもりの僚も、
度々こうして、度肝を抜かれる。
恐らく彼のシスコンに、底は無い。
こんな時に僚は、やっぱり秀幸には敵わないと思う。
勿論、香を愛しているという点に於いて、誰にも負けないつもりだが。
それでも、この男にだけは一生勝てる気はしない。
また、勝とうとも思わない。





バレンタインの夜。
秀幸は、香の突然の結婚宣言に暫く放心していた。
あの時、風呂を沸かしに行った香に取り残された僚は、秀幸に何を言われるんだろうと、
内心冷や冷やしたが、秀幸は僚に苦情を言う言わない以前に、すっかり魂が抜けたようになっていた。
そんな幼馴染みの姿を見たのは、後にも先にもあの時だけだった。
秀幸は、こと香に関しては、完熟したトマト並みに打たれ弱い。
暫く呆けた秀幸に、僚は小さな声で訊ねられた。


いつ?
何が?
今、香が言ってた事。
・・・結婚?


秀幸は無意識に、耳を塞ぐ。
僚はいたたまれない思いで、苦笑する。


別に、何も具体的には話したワケじゃねぇし。
・・・・そうか。
槇ちゃん? ・・・・怒ってんの?
・・・・・・・・・・・。
大丈夫か?
・・・・・・・・・・あぁ。
・・・そ、そういうワケだから。特に深い意味は無いんじゃね?今のカオリンの言葉。
・・・・・・だとイイけどな。・・・・・僚?
なななななに?(汗)
手ぇ出してねぇだろうな?
出してねぇよっっ
・・・・・信じてるぞ。
お、おぅ(何か、ずっしり重いなぁ。。。)




そんな遣り取りがあった事など、香は知らない。
遠くから、楽しそうに笑っている香を見ながら、僚は思う。
それでも、多分。秀幸には悪いが、僚はきっと香に手を出すだろうと。
またそれが、健全な若い男女というモノだ。
いつまでも親兄弟に遠慮していては、子孫は繁栄しないのだ。
たとえ殴られても、逢う事を禁じられても。
今度こそ、香と2人駆け落ちでも何でもするという意気込みで、僚は近々香を抱こうと思っている。
香は本日をもって、もう高校生じゃない。
子供じゃない。
3人の世界が変わるのも、もうすぐ。 時間の問題になって来た。







香が絵梨子の父の経営する会社に初出社するのは、4月5日の予定だ。
卒業からの約1カ月弱、香は僚と沢山デートした。
絵梨子とも、頻繁に出掛けた。
2月までは、大きな事件も無く、比較的のんびりしていた秀幸だったが、
香の卒業式の数日後、厄介な事件が起こって、また忙しい毎日を過ごしている。
僚と香が、ほぼ連日デートを重ね、僚がしょっちゅう槇村家に入り浸っている事は、
秀幸も解ってはいるが、如何せん2人とゆっくり向き合う時間も無い程、秀幸は仕事に忙殺されていた。
帰宅できない日も、ざらだった。
秀幸の気掛かりはこの所、1つだけだ。
香が僚と、よもや“外泊”などというふしだらな真似などやっていないかどうかという事。
ここ最近秀幸は、夜中や明け方近くに帰宅して、
香が部屋でスヤスヤと眠っている事に、ホッと胸を撫で下ろす毎日だ。


それでも、香はもう高校生では無いし。
表立って2人の恋路に立ちふさがる理由は、1つ無くなった。
今現在、辛うじて秀幸の拠り所とする正当な理由は、ただ1つ。
香はまだ、未成年だから。
しかしそれとて、いつまでそんな言い訳を己の心に言い聞かせ続ければイイのだろうと、秀幸は考える。
たとえ秀幸がどう考えようと、結局は2人の問題で。
秀幸に香と僚の行動を縛り付ける事など、幾ら兄・親友と言えど、出来る事では無い。
恐らく僚は、そのうち香を抱くだろう。
その時自分は、現実とどう折り合いを付けるべきなのか、
僚がどうあれば、香の彼氏として認めてやれるような心境になれるのだろう。
秀幸は今、恐らくこれまでの人生で、もっとも難しい局面を迎えている。






香の誕生日の日、初めは3人でいつもの食卓でお祝いする予定だった。
その5日前の、26日は僚の誕生日だったので、香はケーキを焼いた。
秀幸も21:00頃に帰って来たので、3人で楽しく過ごした。
香の誕生日もまた、同じように過ごす予定だった。
けれど、前日の30日から、秀幸は捜査の為に東北へと行く事になってしまった。
秀幸と冴子が追っている犯人(ホシ)が、そちらの方面にどうやら逃亡しているらしい。
まず間違いなく、香の誕生日に秀幸は一緒に過ごせない。


その話しを聞いた時、香はガッカリして落ち込んでしまった。
秀幸のあまりのシスコン振りに、つい忘れそうになるけれど、香は香で筋金入りのブラコンなのだ。
香はガッカリしているけれど、僚にとっては絶好のチャンスが訪れた。
香の18歳の誕生日、僚は一晩中2人きりで過ごせる。
これは、やるしかないんじゃないのか。
僚は思ったより、早くに訪れたこのチャンスを活かす事にした。



それは、3月31日の朝の事だった。
香の携帯に、僚からの1本の電話が入った。

「おはよう、カオリン。誕生日、おめでとう。」
「おはよう、ありがとう、リョウたん。」
「で、突然だけど。」
「ん?」
「今日は、俺ん家来いよ。」
「リョウたんの?」
「あぁ。折角、誕生日なのにカオリン自分家だったら、自分で料理やっちゃうじゃん?今日は、俺がカオリンに尽くす日なの。」
「・・・・・・・ホント?」
「あぁ。槇ちゃんいなくても、俺が2人分お祝いしてやる。」
「ふふふ。ありがとう、リョウたん。」

と言っても、僚が料理を作るワケでは無い。
少しだけかしこまったレストランに連れ出して、2人で食事した。
前もって僚が頼んでおいた、食後のケーキと店員達からのハッピーバースデイの唄のサプライズに、
香はとても喜んだ。
僚は香の華奢な首筋に、クロスのチャームが付いたシンプルなネックレスを着けてくれた。
誕生日プレゼントだ。



そして、その夜。
2人が帰ったのは、僚のアパートで。
気が付いたら香は、僚の部屋のベッドで生まれて初めての体験をした。
恋人というのは、そういう事をするらしいと、何となく知ってはいたけれど。
まさか自分が、僚とそんな事をするなんて香は全く予期していなかった。
とても大変で、何だか恥ずかしかったけど、同時にとても幸せだった。
幸せな気分のまま、香はいつ眠ってしまったのかさえ解らなかった。







「・・・・もしもし。」
電話の向こうの声は少しだけ、緊張を含んだモノだった。
僚は屋上で、煙草を吹かしながら携帯を耳に当てている。
香は寝室で、グッスリ眠っている。
すっかり疲れ切って寝てしまったので、きっと朝まで起きないだろう。
「寝てた?槇ちゃん。」
僚の声は、いつも通り穏やかだ。
「・・・いや、起きてた。どうした?」
やはり秀幸は、若干緊張している。



あのさ、槇ちゃん。俺さっき、香の事抱いたから。



「・・・・・・わざわざ、報告か?」
「うん。   秘密にしたくないから。」
「それは。」
暫く、沈黙が流れる。
「オマエに抱かれるって事は、香も望んだ事なのか?」
「あぁ、勿論。」
「それなら、イイんじゃないか。」
「へ?」

秀幸の意外な言葉に、僚は思わず間抜けな声になる。

「香にとって大事な事なら、俺の胸糞悪い感情なんて二の次だ。オマエに対するムカツキなんか、更にその次だ。けどな、僚。もしも、これから先香を傷付けるような真似をしたら、冗談抜きでオマエを殺すから。覚悟しとけ。」
「わりぃ、槇ちゃん。それだったら多分、俺、天寿を全うしちゃうわ。槇ちゃんの事、殺人犯にはさせられねぇしな。」

2人は、ヒッソリと笑う。
秀幸は意外にも、すんなりと受け止められた自分に驚いた。
何より、香が幸せそうに笑っている所が、容易に想像できたのだ。
もう秀幸は、感情に任せた己の怒りだけで香を泣かすような事だけはしないと、
半年前と同じ轍は踏まないと、あの雪の降る日に誓ったのだ。



全ては、香の幸せの為に。
妹がそれでイイのなら、この際何でもアリなのだ。
槇村秀幸(30)独身・シスコン。
諦めの境地に達して辿り着いた、1つの結論である。



(つづく)






第12話 お仕事

その日香が初出社を終えて、帰宅すると兄と彼氏が仲良く玄関先で待ち伏せていた。



秀幸は、香が中学生の時に家庭科の裁縫実習で作ってプレゼントした、デニム地のエプロンを着けている。
香が僚の部屋に泊まって、晴れて名実ともに『恋人同士』になった翌々日、
兄は無事、犯人を検挙して帰宅した。
それ以降は、また少しだけ時間に余裕が持てたのか、この数日は早目に帰宅している。
それにしても、時間はまだ17:15である。
こんな時間に秀幸が家に居るのは、今日彼が久し振りの非番だからで、
晩ご飯は、秀幸のお手製だ。
しかも今日は、『カオリン・新社会人祝Ver.』という事で、結構豪勢だ。


おかえり~~~、カオリンっっ


揃いも揃って大男の、敏腕刑事と不良探偵が、仲良く微笑みながらハモる姿は、
心に後ろ暗いモノがある人間にしてみれば、きっと軽く恐怖だろう。
しかし、彼らを忠犬とするならば、彼女は飼い主のようなモノなので、
彼女は全然平気だ。 ただいまぁ、と言ってニッコリ笑う。



そんな彼女は、今朝下ろし立ての真新しい濃紺色のスーツに身を包んでいる。
如何にも新入社員と言ったリクルートスーツに、真っ白なブラウス。
控え目なヒールの地味なパンプスと、アニエスb.の黒いシンプルなバッグ。
SEIKOの腕時計と、スーツは兄から贈られた、入社祝だ。
けれど。
きっと明日からは、もう袖を通す事は無いだろう。



ところで、香(カオリン)。お仕事どうだったぁ?



またしても声を揃えながら、2人が訊ねる。
訊ねながらも、僚は香の手からバッグをもぎ取り、
秀幸は香のお気に入りの、クリーム色のスリッパを揃える。
何処の新婚さんプレイだよと、突っ込む者は残念ながら、この場にはいない。

「ん~~~~とねぇ。・・・何か、思ってたのと全然違った。」

思いがけない香の返事に、2人は顔を見合わせて首を傾げる。
そんな様子の彼らに、香は眉尻を下げて苦笑する。

「ま、まぁ。取敢えず、着替えて。お仕事の話しは、それからゆっくりな。」

その秀幸の言葉に、僚と香も頷く。




その後、秀幸はキッチンに戻り、ご飯の支度の続きに取り掛かる。
もう8割方は出来ている。
あと少しで、準備は整う。
秀幸は、スパイスとハーブをまぶしてオーブンに入れた、
鰆のローストの様子をオーブンの外から眺めつつ、先程の香の言葉を反芻する。
香の思っていた“お仕事”とは、一体どんなモノだったのだろう。
そして、実際の“お仕事”とは。
秀幸は自分の職場にも、毎年配属されて来る新入りの面々の事を思い出す。
彼らは大概、極端に気が利かないか、暑苦しい位気を回し過ぎるかのどちらかだ。
どちらにしても、数ケ月もすれば成長して、ちょうど良い空気感を掴むものだ。
ただ単に、まだまだ世間を良く知らないだけだ。

でも。社会人の先輩ぶってそんな事を、妹に諭したら。
お兄ちゃん、ウザイ。って、思われるかな、なんて。
後輩の刑事が聞いたら、2度見、3度見されるような事を考えている。







一方、何処までもクソ真面目な兄を後目に、恋人たちである。

香がスーツから部屋着に着替える為に、自分の部屋へ向かうと、
僚もさも当たり前かの如く、くっ付いて来た。

「あ、あの・・さ。リョウたん。」

香はクローゼットの前で、真っ赤になってモジモジしている。

「ん~?何ぃ? カオリン。」

僚は香のバッグを、机の上に放るとニッコリ笑いながらそう言って、ベッドに腰を下ろす。





え、えとね。・・・い今から着替えるから。
うん。知ってる。
///////テ、テレビでも観てきたら? リビングで・・・・
大丈夫、今ニュースしかやって無いから、つまんない。
う。 ぇえと、でも。その。・・・だから。     恥ずかしいし




そう言って、真っ赤になって俯く可愛い恋人を、僚はニヤニヤ笑いながら見詰める。
仕方が無いのだ。
彼は昔から、軽い変態で、香のストーカーなのだ。
恋人や幼馴染みと言えば聞こえはイイが、受け取り方1つで立場は変わる。
香の誕生日に初めて夜を共にしてから、その後はまだキスしかしていない。
僚は今週末は、香を自分の部屋に呼ぶ予定にしている。
実質、秀幸公認の仲になったとはいえ、流石にこの槇村家の一室で香を抱くほど、僚の面の皮は厚くない。
ていうか、最中に秀幸に踏み込まれでもしたら、面倒臭い。



「カオリン、おいで。」

そう言って、僚は香の華奢な手頸を掴むと、ベッドの上の自分の膝の上に香を座らせる。
おかえりのチュウ。
そう言って、楽し気に香にキスをする。
香もスーツ姿のまま、僚の胸に凭れてグッタリと力を抜く。
結局、2人は何にも変わらない。
香の制服が、スーツに変わっただけの話しだ。
少しだけ、控え目なメイクをした香。
ベージュのパンティストッキングを穿いた香。
少しづつ香が、僚の腕の中で護られながら、大人になっていく。



「会社の中って、やっぱ男の社員もいるんだろ?」

僚は既に、自分の知らない世界に飛び出した香の周りの、全く知らない架空の人物に嫉妬している。
こういう事だけは、妙に気が早いのだ。彼は。
香は帰宅早々の、僚からの濃厚な“おかえり”のアイサツに、グッタリしながらもコクンと頷く。
頭の中で、お姉ぇ言葉のヘアメイクの男を思い出す。
ごくごく短い短髪は、微妙な緑色に染められ、紺色と白のボーダーのシャツを着て、
妙にぴっちりした赤いスキニーパンツを穿いていた。
鏡越しに見た彼の左耳には、小さなリングのピアスが付いていた。
香の肌が綺麗だと褒めてくれた。
髪の毛を触りながら、柔らかくて羨ましいとも。
果たして彼を、“男性”社員と言ってイイのかは、甚だ疑問を感じるが。


「なんか、妙に妬けちゃうんだけど。職場の男共に。」

僚はそう言って、もう一度咬みつく様なキスをする。
暫く経って、僚の胸に凭れた香が、甘い絡み付くような舌足らずな声で呟いた。


大丈夫だよ。
私は、リョウたんの彼女なんだから。
心配しないで。


そう言って、潤んだ瞳でニッコリ笑う香を、僚は思わず押し倒しそうになる所だった。
寸での所で、必死に理性をかき集め、煩悩を押し殺した。
何しろ秀幸が同じ屋根の下、エプロンを身に着け嬉々として、夕飯を作っているのだ。
いつ、準備が出来たと呼びに来るかしれない状況で、エッチするなんて危険すぎる。









秀幸がもうそろそろ出来るぞ、と香の部屋に声を掛けに行くかと思った矢先に、
2人は揃ってリビングに戻って来た。
香はスーツから、ベビーピンクの柔らかなTシャツとスウェット地のショートパンツに着替え、
メイクも落としたのか、ピンク色のシュシュで結んだ前髪の下の額は、ピカピカと輝いている。
洗顔の水が冷たかったせいか、それとも他に何か理由があるのか。
香の頬は心なしか、少しだけ赤い。
秀幸は一緒に戻って来た悪友を見ると、小さく溜息を吐いた。

(ったく。・・・何をしてたんだか。)

それでも、この数日。
あの妹の18回目の誕生日の、親友からの報告以来。
秀幸は意外と、落ち着いている。
それ以前は、あんなにも不安で不安で堪らなかった香の貞操の危機は、峠を越せば、何という事も無く。
何より香は、僚と一緒にいてとても楽しそうである。
そして秀幸は改めて思うのだ。
もしも香が僚以外の、秀幸の全く知らない男と付き合っていたら。
そして、秀幸も、僚も、誰も知らない所で、密かに“女”になって。
ある時突然、

お兄ちゃん、私結婚します。

なんて言われた可能性だってあったのだ。
その可能性に比べたら。
やはり、香の相手が僚だという事は、もしかすると。
最良の結果だったのかもしれないと。












「やっぱり、お兄ちゃんのご飯が1番オイシイ。」

香がそう言いながら、ニッコリ笑う。
久し振りだから、腕が鈍ってるな。味噌汁が、ちょっと塩辛い。秀幸はそう言って、苦笑する。
僚はガツガツと平らげながら、改めて槇村家の味だな、と思う。
秀幸は香の料理の先生だ。
その槇村家の味は、ゆくゆくは冴羽夫妻の味になり、
僚はこの先、死ぬまで香に胃袋をガッチリと掴まれる事となるのだけれど、
今の時点では、その事は誰も知らない。



「・・・それで? 今日は1日、どんな仕事をやって来たんだ?」


秀幸が訊ねる。
僚も興味深々と言った様子で、香の言葉を待っている。
香は何故だか、少しだけ口籠もっている。


ええと、・・・その事なんだけど・・・・


香は、昼間の事を思い返す。







『株式会社 キタハラ』は、新宿に程近い千駄ヶ谷に、オフィスを構えている。
デザイナーの北原社長以下、13名の小さな会社に、本日付で2名の新人が増えた。
1人は、社長の娘でもあり、デザイナーを目指す絵梨子と。
もう1人は。
スラリとした長身で、驚くほど長く美しい手脚と、美少年を思わせる中性的で神秘的な美貌を持った、
槇村香である。
社長が彼女を、是非にと、招いた真相は。
彼女を、モデルとして起用したかったからである。
北原氏は中学生の頃から、娘の親友として香とは面識がある。
その頃から、密かに狙っていたのだ。
ゆくゆくは彼女に、自分のデザインしたモノを着せて、イメージを形にしたいと。
これまでもコッソリ、香をイメージして作ったモノを、
絵梨子とお揃いという、カモフラージュをしつつプレゼントして来た。(例:水着とか。)



秀幸と僚は知らないが、北原氏の手掛けるブランドは、20代半ばから30代後半の、
主に働く女性達には、なかなか人気のブランドで。
数あるファッション誌には、毎月何らかの形で取り上げられている。
有名な雑誌モデルの中にも、このブランドのファンだと公言している者も少なくない。
そのブランドの、イメージモデル・イメージアイコンとして、これから先香は活躍する事となる。
勿論、香が将来結婚する迄、という意向はシッカリと伝えられている。
たとえ期限付きでも、北原氏にとっては満足な人材補強である。



香は早速、会社に着くやいなや、地味なスーツを着替えさせられ、
件のヘアメイク担当の彼に、色んな化粧を施され、
沢山、写真を撮られた。
しかし、今日のモノはあくまで練習みたいなモノで、少しづつ慣れて貰えば良いからと言われた。
オフィスは、千駄ヶ谷だが。
恐らく、これから先の香の主な勤務先は、渋谷にあるスタジオになるらしい。
勤務の日程も毎日というワケでは、無いらしい。
取敢えず明日から、この秋に発売される香水のイメージポスターの撮影が始まる。







香の話しを聞いて、兄と恋人は、しっかり数十秒固まった。
まさか突然、目の前の可愛い妹(恋人)が、モデルデビューとは。
寝耳に水である。
男性社員に嫉妬などというレベルでは無いと、僚は頭の中が真っ白になる。
漸く親友と妹の恋愛沙汰も落ち着いて来た矢先の出来事に、秀幸は大きく溜息を吐く。
こと妹の事に関して、秀幸の気苦労が絶える気配は無い。
そんな中、いつもと変わらずニコニコと兄の手料理に舌鼓を打つ香をヨソに。



槇村秀幸(30)独身・シスコン、冴羽僚(30)独身・変態、の両者は、
突如、食欲も減退し、ガックリと項垂れている。
その春の槇村家の変化は、あまりにも劇的であった。


(つづく)




第13話 香の夢

「ねぇ、青木さん。」

香が話し掛けたのは、香を担当しているメイクアップアーティストの、彼である。
初めの頃の香には、知る由も無かったが、彼は別にオフィス・キタハラの人間では無い。
あくまでも彼は、香の為に北原氏が契約したヘアメイクだ。
香は全く解っていないが、彼は中々の売れっ子で、
業界内でも数多のモデルやタレントたちから、“ご指名”を受けている。
香(正確には、北原氏)もその中の1人というワケだ。
香がそれを知ったのは、入社後1か月以上経ってからだった。


香は初めに絵梨子から、父の会社で一緒に働かないかと持ち掛けられた時、
これまで同様、就職しても絵梨子と一緒に過ごせるんだと喜んだけれど。
実際の所、絵梨子は千駄ヶ谷のオフィスにいる事の方が殆どだし、スタジオに顔を出すのも偶にの事だ。
むしろ香がいつも顔を合わせるのは、専らこの青木という彼だ。
カメラマンは、その撮影の時々で違う人がやって来る。
スタイリストは、主に北原氏か、そのアシスタントの女性である。
いつだって変わらない仕事場での話し相手は、青木だけだ。
「なぁに? カオリン。」
彼が鏡越しに、ニッコリ笑う。









4月の初め、槇村秀幸は香の雇い主である、デザイナーの北原氏の元を訪れていた。
その事は勿論、香は知らない。
初出社のあの日、香が帰宅した夕飯の席で、秀幸が聞かされた事実はまさに青天の霹靂で。

可愛い妹は、兄の勧めには乗らず結局は受験はせずに、自分一人で就職を決めて来た。
まぁ、それは百歩譲って、良しとしよう。
何事も、自分で出来るように頑張るんだよ、そう言い聞かせて自立心旺盛な子に育てたのは、
自分であるという自覚が、秀幸にも無いワケでは無い。
しかしだ。
まさか。
よもや。
モデルになるなんて。
否、香自信が、確固とした意思の下、モデルになりたかったのなら、多分応援しただろう(?多分。)
けれど、どう考えても。
それまでの香から、そんな希望など一切聞いた事は無かったし、
ただただ、流されるままに始める仕事としては、
いささか問題が多過ぎるのではないかと、秀幸は思ったのだ。

まぁ、ぶっちゃけて言えば。
そんなチャラチャラした商売で、人一倍世間知らずな妹が、右も左も良く解らないままに。
海千山千の狼のような業界人に、良いように言い包められて、弄ばれやしないのか。
という、多少先走り感が否めない、兄心ゆえの心配なのである。



結論から言うと、秀幸は香の勤め先に出向いてみて、多少なりとも安心はした。
秀幸の脳内では、モデル=テレビなんかに出ている芸能人 という図式が成立っていたが、
北原氏によれば、香はあくまで キタハラ・ブランドのイメージ・アイコンで、
所謂、雑誌モデルなどとは別物と考えて戴きたいとの事だった。
だから、幾ら評判が良く人気が出たとしても、一切素性を明かすつもりも無ければ、
テレビに出演させたり、過密なスケジュールを押し付ける事も無いし、
そもそも芸能事務所では無いですから、との事だった。

香さんが表現する着こなしまで含めて、当ブランドの作品だと思って戴きたいんです。
お兄様が、ご心配なさるような事は決してございませんので。

それでも、超が付く程のシスコン兄貴が、アッサリと納得したのは、
彼がとても真摯に、仕事に対する考えを語ってくれたからかもしれないと、秀幸はのちに振り返る。
何より香自身は、今の所とても楽しそうに仕事に臨んでいる。
それが何よりの答えかもしれないと、秀幸は考えている。










青木は、色んなモデルやタレントや女優たちを担当しているが、
ココの所の彼のお気には、専ら香だ。
何しろ素直で、まるで子供のように純粋でカワイイのだ。
売れっ子のモデルたちは、確かにとても美しいし、魅力的だが。
険しい荒波を揉まれて、人気モデルの座を射止めただけあって、
大概、鼻っ柱の強い、プライドの高いタイプが殆どだ。
また彼女たちは同時に、いつその自分の地位を脅かされやしないかと、常にピリピリしている。
そんな彼のクライアント達の中にあって、香だけは異色だ。


そもそも、話しをしていて思うのが、彼女は一切ファッションの事になど無関心だという事。
意外と、そんな無心な所がイイのかもしれないと、青木は思う。
出来上がった写真を見ると、まるで心臓を鷲掴みされるような衝撃を受ける事がある。
自分というモノが有りながらも、自分を消している。
完全に服を纏った作品の一部へと、擬態している。
そのクセ、ひとたび素に戻ると普通の、否、普通以上に天真爛漫な18歳の女の子なのだ。
青木は、初めて香に会った日の事を思い出す。
紺色の地味なスーツを着て、ポカンとしたままされるがままに変身した彼女を。
思い出す度に、少しだけ笑ってしまう。





あのね、昨日夜寝る前にね、気付いたの。

何を?

青木さん、青ちゃんなのに、髪の毛 緑色なの。



そう言って香は、クフフと笑う。
青木は親しみを込めて、青ちゃんと呼ばれている。
“青木さん”と呼ぶのは、香だけだ。
青木も思わず、釣られてフフフと笑う。



ブルーの時もあったわよ。ピンクも、赤も。オレンジも。

へぇ~~、そうなんだぁ。  ピンク可愛いかも。

アタシも意外とお気に入りだったけど、いまいちだったわね。評判は。

そう?可愛いと思うケドなぁ。 青木さんに似合うと思う。




青木は、香のクセ毛を痛めないように優しくこてを当てながら、
クルクルのカーリーヘアに仕立ててゆく。
鏡越しに、香と目が合ったので、小さな声で、ありがと。と呟く。
青木はゲイだから、女の子には特に興味は無いけれど、
香に関しては、不思議と興味が湧いて来る。
まるで、例えるならば。
可愛い妹のような感じだ。










香が就職してから、早2ヶ月。
当初心配していたほど、香の職場に危険分子は無さそうではあるが、
冴羽僚は1点だけ、気になってしょうがない人物がいる。


香は、毎日仕事に行くワケでは無い。
入社前は、OLになるとばかり思っていた僚であったが、予定は大幅に狂い、
何故だか香は、モデルになっていた。
香が写っているファッション雑誌の写真広告を、僚は一応きちんとチェックしている。
しかし、香自身は、OLだろうが、モデルだろうが、何だろうが一切変化は無い。
自分が写っているモノになど、さして興味は無さそうだ。
まぁ、香らしいと言えば、香らしい。


その香の職場にあって、僚がもっとも気になっている存在。
それは香の話しの端々に、しょっちゅう登場する“青木さん”である。
ヤツは、香担当のヘアメイクらしいが、それがどうやら男なのだ。
あまりにも香が、青木さんの事を話題にするので、僚はちょっと面白くない。
何度か香に、自分の知らない男の話しをされるのは気に食わないと、僚は伝えたが、
香はさも意外そうにキョトンとして、何で?青木さんは大丈夫だよ。などと言うのだ。
でも、ソイツ男なんだろうが。と、僚が応戦するも、
う~~~ん、そうなんだけど、そうじゃないの。と、香の説明ではいまいち埒は明かない。


何しろ、香なのだ。
超が付く程の天然鈍感娘である。
これは、手遅れになる前に1度、
その青木とやらに会っておく必要がありそうだと、僚は考えている。











午後すぐからの4時間にも及ぶ撮影も一段落して、
香が再び青木の待つメイクルームへと戻って来る。
その頃には、まだこの世に発表される前の最新流行の洋服は脱いで、
香はバスローブを纏っている。
今日の撮影はこれまでだ。
そして戻るや否や、香はとても大事そうにクロスの付いたシンプルなネックレスを着ける。
撮影以外では、香はいつもそれを身に着けている。


ねぇ、カオリン。

ん?

前から訊こうと思ってたんだけどね。

なぁに?

そのネックレス、彼からのプレゼント?

////////。

図星なのね。カワイイ。

・・・た、誕生日に貰ったの。

どんな彼?優しい?

・・・うん。それに面白い。探偵サンしてるの。

へぇ。・・・珍しい職業ね。



そんな会話を繰り広げながら、青木は淡々とメイクを落としてゆく。
香は構わず、傍らのバッグを引き寄せると、携帯を取り出す。



この人。リョウたん。


そう言って香は、待ち受け画面を見せる。
(うわぁ、超イイ男。)
青木は思わず、ときめいてしまいそうになる。
そんな青木の心など露知らず、香は続ける。



私ね、リョウたんと結婚したら、2人で探偵サンやるの。

このお仕事、続けないの?

うん。もう、リョウたんと探偵サンする事は、決定なの。

へぇ、何か楽しそうね。良いんじゃない?

そんな風に言ってくれたの、青木さんだけだよ。何か、友達とかは不思議そうな顔するの。

あら、夢が無いのね。素敵じゃない、夫婦探偵。



香は楽しそうに、そうでしょ?と言いながら、コクコクと頷く。
青木は香の頭をガシッと掴むと、はい、動かな~~い。と言いながら、
オイルを馴染ませたアイメイクを、優しく拭き取っていく。
そんな時に、絵梨子は現れたのだった。





「香ぃ~、オツカレ~~~~」
鏡越しの親友に、香も嬉しそうに笑う。
「わぁ、絵梨子ぉ~~~。オツカレ~~~~」
「香ぃっっ、イイ人連れて来たわよ。」
そんな絵梨子の言葉に、香はキョトンと首を傾げる。



直後、メイクルームにやって来たのは、香の大好きなリョウたんである。

「うわぁ、リョウたんっっ! どうして???」

(えぇぇぇ~~~、実物はもっと、カッコイイじゃああぁぁん  by.青木)


「お迎えに来た、偶には。 飯食って帰ろうか。」
「わあい、やったぁ。   あ。そうだ。」







か:リョウたん、コチラがいつも話してる、青木さんだよ。

青:はじめましてぇぇ(ブリッ)

り:ど、どうも。カオリンがいつもお世話になってます(汗)

絵:(苦笑)






冴羽僚の心配は、杞憂に終わった。
香の説明では、良く解らなかった事について、今夜はじっくりベッドで事情聴取だな。
と、僚は心に決めた。
槇村香は、そんな恋人の今夜の予定など知る由も無く、
もう既に、女子3人で賑やかにガールズトークを始めている。



(つづく)





第14話 僚の夢

「っっぁん  リョ ウた  ん、だいすきっっ」


腕の中の香が昇り詰めたのを確認するかのように、僚もその後に続いてブレーキを解除した。
今現在、2人が我を忘れてセックスにのめり込んでいるのは、
槇村家の香の部屋である6畳間の、シングルベッドの上だ。
もうこれで、本日2度目だ。



僚と香が初めて結ばれてから、4カ月弱。
最近では香も随分慣れて、今の所2人は寸暇を惜しんでセックスしている。
その日はど平日で、只今の時刻 11:24
僚は朝の9:40頃から遊びに来た。
朝っぱら、おはようのキスからの流れで一気に突入してしまった。
香の部屋の、薄いブルーのカーテン越しに太陽は燦燦と降り注ぎ、部屋の中は、バカ明るい。
7月の真夏日の中で、激しい運動をするにはエアコンは必須で。
2人は体の内側から熱くなって汗だくだが、身体の表面は冷たい空気が冷ましてくれている。



この数日、香は撮影続きでこうして2人きりで逢えるのは、1週間ぶりだ。
その代わり、これから10日ほど香は休みなので、その間はずっと一緒にいられる。
生憎、僚は今現在3つほど依頼を抱えているモノの、そのどれもが依頼人とはさほど接触する必要も無い。
仕事をこなしながら、恋人の相手をする位、僚にとっては朝飯前だ。
体力が違うのだ、並みの男とは。
初めの内こそ、槇村家の中で香を抱く事に、僅かながら遠慮する気もあるにはあった僚だが、
香が仕事にも慣れてきて、僚もそのペースに慣れて来た頃には、
むしろ、香の今の状況は、正直オイシイという事に気が付き始めた。
平日のど真ん中、僚も香も時間はたっぷりある。
絶対に秀幸が帰って来る可能性の無い時間帯に、2人は心置きなくセックスに励む。
勿論、僚の部屋に香を泊める事も時にはあるけれど、やはり秀幸はイイ顔はしない。
万事円満に、平和に過ごせるのが、昼間の香の部屋なのだ。
その事に残念ながら秀幸は、気付いてないけれど。



「リョウたん。」
「ん~~?」
香の甘い声に、僚は香のクセ毛に顔を埋めたまま答える。
未だ2人は、繋がったままだったりする。


あのね、私最近変なの。
何が?
/////リ、リョウたんと一緒にいるとね、
うん。
・・・・・・・・。
一緒にいると何?
リョウたんの、指とか、喉の所の骨とか見ちゃうとね、
・・・うん。
・・・・・・エッチな気分に、   なっちゃうの////
まじ?
まじ//// みたい・・・


僚はこれ以上無い程に、ニヤケてしまう。
この4カ月、手塩にかけて僚好みに仕込んで来た成果が、漸く芽生え始めたのだ。イイ兆候だ。



別に変じゃねぇよ。
・・・ホント?大丈夫かなぁ?
あぁ、それ言うなら、俺なんかとっくにどっかイカレてるよ。
????
ずっと、毎日でも、カオリンとやりたいもん。
/////////(噴火)
だからぁ。 カオリンは、至って正常。健康な証拠です。
ホ、ホントかなぁ(疑・汗)


何ならもう一遍、試してみる?



耳元でそう言って囁く僚の声を聞いただけで、香の瞳はもう既に潤み始め、
まるで熱に浮かされたように、コクンと頷く。
2人は、第3ラウンドに突入した。
繋がったまま、次に移行したのは初めてで。
僚は頭の片隅で、コンドームの事が少し気にはなったけれど、構わず続行した。
そんなものは、途中でどうにでもなるだろうと。
今は取敢えず、“エッチな気分”になってしまった、可愛い恋人を悦ばせるのが先決である。









その後2人は、一緒に風呂に入り(そこでも軽くイチャついた)、少し遅めの昼食を摂った。
そして、今現在。
槇村家の仏間の縁側に2人で寝そべって、ダラダラしている。
傍らには、お盆に乗ったガラスの器。
器の底には、青い水と、濃いピンク色の水が薄っすらと残っている。
2人はまるで1年前と同じように、仲良くかき氷を作って食べた。


この1年、色々とあって。
暫く逢えない日々とか、
柄にも無い僚のラブレターだとか、
香のプチ家出とか、
初めての夜だとか。
香の就職とか。けれど、結局の所2人は去年と何も変わらず、夏を過ごしている。
香は少し大人になったし、2人は正真正銘恋人になった。
もう今では、幼馴染みだった頃の気持ちは、少し忘れかけている。
今では2人とも、片時も離れてはいたくない。


僚はすぐ隣で同じように、ボンヤリと寝そべって鼻歌を歌う香の手をそっと握る。
香は少しだけ僚の方を見詰めたけれど、またすぐに視線を天井に向けて、鼻歌の続きを歌う。
僚はあおむけの姿勢から、横向きに寝返りを打って、香の側頭部にそっと顔を埋める。
香は擽ったそうに、クスクス笑いながら、それでも天井を見詰めている。
それはまるで大きな子供が、甘えているようで。
傍から見ればきっと、妙な光景である。
それ以上、僚も何をするでも無く、香の口遊む良く知らない歌を聞いている。
このままずっと。
このまま、死ぬまで一緒にいたいと、僚は心の底からそう思っている。

(・・・やばい、好き過ぎる。)


ねぇ、リョウたん。


いつの間にか、歌が終了していた香が口を開く。


なに?カオリン。
今日も、泊まってくでしょ?
うん。
晩ご飯、どうする?
・・・・焼肉、食いに行こうか?
わぁっっ、ホント???
ああ。
やったぁ~~~。  お兄ちゃんにも電話しとかなきゃ。行けるかな、お兄ちゃん。





僚は思わず苦笑する。
やっぱり、秀幸には敵わない。
けれど昔のように、そんな事にはもう嫉妬しない。
何故なら、そんな筋金入りのブラコンな香ごと、僚は愛しているのだから。












翌日2人は、僚の祖父の家に行った。
一応今現在、僚は依頼を受けている身なので、時には仕事もしなくてはいけない。
何やら、祖父宅(と言っても、子供の頃はココで育った僚なので、言ってみれば実家だ。)で、
調べ物があるとの事で、香はその大きな屋敷と庭園の中で、のんびりと寛いでいた。
香もココには、物心ついた頃から何度となく遊びに来ている。
勝手知ったる、僚の実家である。



「仕事の方は、どうじゃ? 順調かね。」

そう声を掛けられたのは、香が池のほとりで錦鯉にエサをやっている時だった。
その数十匹の、丸々と肥えた鯉たちは祖父の大事なペットだ。

「あ、おじいちゃん。もう、お仕事イイの?」
「儂は、もう済んだんじゃが。あやつは、もうちょっと掛かりそうじゃな。」
「ふ~~ん。」
つまらなそうに、池の傍にある岩に腰を下ろした香に、祖父は ホレと言って、何やら手渡す。


わぁ、パピコ~~~。


祖父の手と、香の手に、それぞれ半分こづつの、白いパピコが握られている。
祖父も香の隣の岩に、腰を下ろす。


仕事は?楽しいかね?

うん、まぁまぁ。みんな、イイ人ばかりで、良くして貰ってるの。

そうか。僚が心配しとろう。あれはちょっと子供っぽい所があるからのぉ。

最初は、・・・なんか心配してるみたいだったけど、この頃は平気だよ。

どうかの? あれで結構、しつこいからな。フォフォフォ。

でもね、おじいちゃん。

ん?

私ね将来的には、リョウたんと結婚して、2人で探偵サンやるんだよ。

ほぉ。それは、カオリンの考えか?

初めはね、違ったの。前に、リョウたんの夢は夫婦で探偵サンする事なんだって聞いて。
で、一緒にやろうって。リョウたんの夢なんだって。
だから、今は私の夢でもあるの。

そうか。・・・早よう、結婚してウチの嫁に来てくれ、待っとるよ。

うん。私、リョウたんのお嫁さんになる。





そう言って笑う将来の冴羽家の嫁に、老人は目を細める。
池のほとりには立派な楓の樹が植えてあって、2人の上にちょうど良く日陰を作ってくれている。
秋になると、その葉は真っ赤に染まる。


池の傍に来るとね、鯉さんたち寄って来るんだよ。エサ貰えるって解るのかなぁ。

そうじゃな。こやつらも、意外に賢いモンじゃ。

そうだね、あの白と黒と赤の斑点の子が可愛い。他の子よりも、肥ってる。




そう言って、香は池の中を指差す。
昔から、僚にとって香が特別な存在である事を、祖父は知っていた。
僚が小学生の頃、彼の両親の事を話して聞かせた事がある。
夫婦で探偵をしていた、息子夫婦だ。
彼らは、僚の成長した姿を見る事無く、この世を去った。
何1つ不自由なく育った僚が、しかし何処かで強く家族を求めている事は、
誰あろう、祖父が一番良く知っている。



だから、僚が司法試験を終えて、探偵になると言い出した事も。
香を自分の嫁にと選んだらしい事も。
祖父にとっては、とても自然な流れのように感じられる。
何1つ、驚きはしない。
僚は一見、フラフラと生きているように見えて、
あれで結構、しっかりと人生のプランを練っているタイプなのだ。



フォフォフォ。意外に、賢いのぉ。



香はその祖父の言葉は、錦鯉の事だと思っている。
それはまだまだ、無垢な18歳の夏の事だった。




(つづく)




第15話 秋の気配

「ねぇ、お兄ちゃん。今度のお彼岸、24日は非番でしょ?」
「あぁ、特に事件でも起きない限りは、休めそうだよ。」


香が押し麦を混ぜたご飯を頬張りながら、秀幸に訊ねる。
秀幸は、さんまの塩焼きを突きながら答える。
秀幸はさんまの内臓の苦い所も好きなので、秀幸の分は丸のまま焼く。
僚と香は、苦い所はあんまり好きじゃないので、焼く前に取り除いて綺麗に洗う。
僚は揚げ出し豆腐を食べながら、2人の会話を聞いている。


ここ最近、槇村家で僚が夕飯を食べているのは、殆ど習慣になっていて。
秀幸もわざわざ、来てたのかなんて言わない。
秀幸が仕事から帰ると、当たり前のように僚がいる。
偶にいなかったりすると、香とケンカでもしたんじゃないかと、むしろ心配になったりする。
小さなケンカをした位で、2人がどうこうなるとは秀幸も思ってはいないが、
少なくとも、香が悲しい思いをするのには間違いは無いので、その点での心配だ。
僚の事はどうでもイイのだが。


そして、何日かに1度は泊まってゆく。
特に、翌日が香の休みだったりすると、まず間違いなく泊まる。
昔は一応、客間に寝ていた(客なのかどうかは別として)が、今では香の部屋で寝る。
勿論秀幸としては不愉快だけど、香が納得しているのだから口出しはしない。
あの3月の僚からの報告以降この半年間、2人が至極健康的な性生活を送っている事ぐらい、
秀幸も馬鹿では無いので、重々承知だ。
時には、夜遅くに秀幸の携帯に、今日はリョウたんのウチに泊まるから。と、
香からの連絡が入る事もある。
ちょうど1年ほど前には、僚と香のキスを目撃して、あんなに逆上していた秀幸が。
今では仲の良い2人を見て、微笑ましい気持ちになったりもしているのだから不思議である。


「じゃあ、24日にお墓参りに行こう?ウチのお墓と、リョウたん所と。私も、24日はお休みだから。」
「あぁ、そうだな。皆で行ける日に行っとかないとな。」


皆で行ける日とは言いつつも、この場合、槇村兄妹が僚の予定を確認する事は無い。
僚は365日、いつでも大丈夫だから。
槇村家の墓は、奥多摩のとある霊園の中にある。
冴羽家の墓も、そのすぐ近くの寺にある。
昔から、墓参りは3人で行った。
墓参りの後は、少し山の奥の方に行った所の、
湖の周りの遊歩道で散策し、弁当を食べてのんびりするのが毎年の決まりだ。
墓参りとピクニックを兼ねている。


香は早速、テーブルの上にメモ帳を取り出す。
ボールペンの挟まれたページを香が開くと、そこには何やら書き込まれている。

「ねぇねぇ、お兄ちゃんは、お弁当のメニューで何か希望ある?」

どうやら、今年の弁当は兄達のリクエストを元に作られるらしい。
先だって書き込まれているのは、どうやら僚のリクエストらしい。

「僚は?何をリクエストしたんだ?」

「ん~~?唐揚げとか、いろいろ。でも、カオリンの飯だったら何でもイイ。旨いから。」

「ねぇ、お兄ちゃん。おかずはね、もう殆どリョウたんが言ってたヤツで、リクエスト締め切りなの。お兄ちゃん、おにぎりの具で何か考えない?」

秀幸は思わず苦笑する。
ひとに訊いておきながら、おかずのリクエストは“リョウたん”優先らしい。

「ん~、じゃあ。お稲荷さんは?」

「「あ、イイねぇ~~。」」

僚と香の声が重なる。
香を巡って、いつも男2人はバチバチと火花を散らしてはいるモノの、
結局の所、3人揃って仲良しなのだ。
秀幸と僚の幼馴染み歴27年、香を含める3人の場合、18年。
それはもう殆ど、兄妹みたいなものである。
そして、近い将来3人は、本当に兄妹になる。











香がモデルの仕事を始めてから、約半年。
キタハラの広告には、全て香が起用されている。
ファッション誌の広告グラビアの中の香は、普段の香とは全く別人だ。
というか、写真ごとに見事に全て、別人である。
それぞれ全て完璧に、違う作品を演じ分けている。
それでも、同一のモデルだと一目で解るオーラを放っている。


とりわけ、この秋に発表された香水のイメージグラビアは、各方面で絶賛されている。
この半年間、香は名前も、年齢も、一切非公開でやっている。
それは、秀幸の意向は勿論、オフィス・キタハラの方針でもある。
香はあくまで、作品の最後を仕上げる、重要な要なのである。
しかしココに来て、その香の素性を知りたいという問い合わせが、北原氏の元に殺到しているのだ。
香は、何処かのモデル事務所に所属しているというワケでは無い。
高校を卒業して初めての仕事が、今の仕事で。
他でキャリアがあるワケでも無い。
同じ業界の中でも、香の情報に関しては謎のベールに包まれているのだ。


勿論、カメラマンや、青木は外部の人間である。
しかし彼らは皆、これまで十数年に亘り、北原氏と信頼を築いてきた間柄である。
香サイドの意向や、北原氏の方針は重々心得ている。
彼らから、香のプロフィールに関する情報が漏れる事は、まず無い。
これまで香の写真を見て、ファンになったという人間から、同業者のプロに至るまで、
色々な意味で、香に注目が注がれるようになってきたのは、紛れも無い事実だ。
何処に問い合わせれば、香に仕事の依頼が出来るのか。
広告グラビア以外で、目にする機会は無いのか。
この秋少しづつ、ネットを中心に、香の情報に関して色々と話題になり始めていた。











秋のお彼岸を迎えて、季節は少しづつ秋めいている。
新宿の街中は、まだまだ残暑厳しい気温だが、
東京も外れの山の中に来れば、涼しいを通り越して少し肌寒い。
勿論、毎年の事なので、3人は慣れたモノでそれぞれ薄い羽織りモノを用意して来た。
墓参りをつつがなく終え、両家の墓も半年振りに綺麗になった。
お参りもソコソコに、早く湖に行こうと強請る香に、兄達は苦笑する。
墓参りもさることながら、香にとってはむしろ、この後のピクニックが一番の目的なのだ。



そのいつもの散策スポットは、湖を取り囲むように、遊歩道が続いている。
昨今のトレッキングブームのせいか、例年よりも若い年齢層のグループが目立つ。
平日なのに、結構人出がある。
湖を眺めながらゆっくりと歩く秀幸の少し前を、僚と香が手を繋いで歩く。
香がフト立ち止まって、僚のパーカーのフードの中に石ころを入れる。
僚は香の頭をクシャクシャと撫でると、落ち葉を拾って香の髪の毛の上に乗せる。
香はきゃあきゃあ言いながら、はしゃいでいる。

(ったく、何やってんだか。)

秀幸は苦笑しつつも、幸せな気分になる。
去年の今頃は、ちょうど怒りにまかせて香の携帯を解約した頃だ。
僚に絶交を言い渡し、香に口を利いて貰えなくなった。
あれがたった1年前の事かと思うと、秀幸は何だか無性に可笑しくなった。
あの時から、自分達は何1つ変わらないのに、それでも随分変わってしまった。
これはきっと、成長というのだろう。
30にもなって、まだ成長できる余地のあった事が、秀幸は少しばかり驚きだ。



遊歩道をゆっくり時間を掛けて、一周した所で3人は駐車場の、
僚のミニクーパーへと戻って来た。
車に積んでいた、重箱の大きな包みは僚が抱える。
温かいほうじ茶を入れた、アラジンのタータンチェックの魔法瓶は、秀幸の担当だ。
香は、プラスチックの食器類と食後のフルーツの入ったトートバッグを提げる。
レジャーシートを広げる場所は、先程歩いている時に、3人で大体の場所に目処を付けている。
イイ感じに日当たりの良い、開けた場所を遊歩道の脇に見付けたのだ。


3人は湖の畔で、お弁当を食べた。
普段、ごみごみした都会の真ん中で生活する彼らにとって、
澄んだ空気の中、太陽の下で食べる香の手料理は、格別に美味しかった。
秀幸は、抱えている事件の事を忘れてしまうほど寛いだ休日は、本当に久し振りだった。
僚はもしも秀幸抜きで香と2人なら、
間違いなく野外でイチャイチャピクニックなのになと、不埒な事を考えている。
香は兄達が寛ぐシートから少し離れたところで、夢中になってドングリを拾っていた。
1年前とは打って変わって、実に平和な秋の休日だった。












一方その頃、都会の真っ只中の オフィス・キタハラでは、不穏な事が起きていた。
彼らの小さな事務所に於いて、今や欠かせないアイドル的存在となった槇村香宛の1通の手紙。
それは明らかな、脅迫状である。
恐らく差出人は、変質的なストーカーによるモノ。
手紙の内容は、非常に身勝手で独りよがりな戯言で、差出人の言い分によると、

槇村香は、己と愛し合っており、今すぐに一切の仕事を辞めさせて己と一緒になる事。
これ以上、この様な破廉恥な仕事を続けるのならば、続ける事が出来ないようにしてやる。
商売道具のその顔に、ナイフを突き立ててやる。

との事。
そして、一枚のグラビアの切り抜きが入れられており、
その顔の部分にはカッターナイフで、執拗に切り込みが入れられている。
手紙は、手書きでは無い。
そして、もっとも恐ろしいのが、香の本名がフルネームで記載されていた事。
事務所の人間、全員が凍り付いた。



彼女の兄が心配していたのは、こういう事なのかもしれないと北原氏は考えていた。
何しろ彼は、警視庁・新宿署の捜査一課の刑事だ。
だからこそ、香の素性を明かして欲しくは無いと言っていたのかもしれない。
とにかく、香の身の安全だけは、何としても確保しないといけない。
警察にでも何でも、協力を要請して全力で香を守らねば。







幼馴染み3人は、そんな事が起こっている事など、まだ知らずにいた。


(つづく)






第16話 ボディガード就任

その怪文書と、気味の悪い雑誌の切り抜きを見た時、秀幸は血の気が引いた。
今までに、こんな事件を見た事が無いワケでは無かった。
近年、ストーカーの類が関係する事件というモノも、少なくない。
被害届が提出されて、気を付けていたにも拘らず、
残念な事に危害を加えられるケースというモノも、少なからずある。
そしてそれが、実際に身内の身に降りかかる事態となって、
改めて、その恐ろしさを痛感した。
相手は恐らく、普通の精神状態では無い。
相手が誰かも解らない。
コチラは、全く顔の見えない相手に怯えているのに、向こうは陰から香を見ている。
名前を知っている。
何処までの個人情報を握られているのかすら、見当が付かない。
実際それは、計り知れない恐怖だった。



香本人には、手紙や切り抜きなどは、直接は見せなかった。
秀幸と僚は、北原氏からの連絡を受けた時点で、すぐに香には見せるべきでないと判断した。
キタハラの事務所で、そのブツを確認したのは、秀幸と僚だった。
これが香宛に自宅に届いたワケでは無く、会社に届けられたのがまだしも不幸中の幸いである。
ポジティブに考えれば、まだそこまでの個人情報は割れていない可能性もある。
(勿論、楽観は禁物だが。)
その日のうちに被害届は受理された。
暫く、仕事を休ませようかと言い出した秀幸に、異を唱えたのは、意外にも僚だった。



僚曰く。
それでは、アチラの思惑に乗るだけで、調子づかせても何ら解決にはならない。
解決どころか、エスカレートする可能性もある。
この際、相手を苛立たせて、炙り出した方が手っ取り早いと。
要は、香を守り通せばイイだけだと。

ナイフでも何でも持って来い、返り討ちにしてやる。

そう言って不敵な笑みを浮かべる僚は、妙に鬼気迫るオーラを纏っていて。
さすがに秀幸の職場でも、これだけの空気を纏える人物はそうそう居ない。
そして、本気で切れた僚のえげつなさは、誰より秀幸が知っている。
確かに、ちょっとイカレたストーカー程度なら、僚の相手では無い。
今の所、犯人の目処は全く立ってはいないけれど。
僚は笑いながら、冗談とも本気ともつかぬことを呟いた。

香の仕事を辞めさすのは、相手を締めてからでも遅くはねぇ。絶対、仕留める。

そう言った僚の口角は、不敵に吊り上って弧を描いていた。
秀幸は、暫く休ませようかと言ったワケで。
香が仕事を辞める辞めないにまでは、言及してはいないが、
僚はハッキリと、“辞めさす”と言った。
勿論、実際にそう至るまでには、直ぐにというワケにもいかないであろうが、
そんな些細な一言で、秀幸は僚の本音を垣間見たような気がした。
そして、秀幸もまた、本心は僚と同じだ。












「リョウたんが、ボディガード?!」
「あぁ。このゴタゴタが解決するまで、仕事場も家でも常に一緒だ。」
「勿論、警察の方でも、郵便物の手掛かりから何らかの情報は、割り出している所だ。」

改めて秀幸と僚は、香にこれからの事を説明する。
仕事は今まで通り、普通にこなす。
ストーカーの脅迫には乗らずに、むしろ来るなら来いのスタンスで臨む。
(僚としては、ホシが出てくれば恩の字。むしろ、返り討ちにする腹積もり。)
香のガードは、24時間体制で僚があたるよう、北原氏に正式に要請された。
(あくまでも、株式会社キタハラから、冴羽商事への正式な依頼である。)
この場合の懸念材料は、僚の公私混同による“夜の”密着ガードであるが、
そんな事は、2人がわざわざ口外しなければ穏便に済む話しである。
警察の方は、今の所実被害が無いので手の出しようが無いのが現状だが、
唯一の手掛かりの脅迫状の分析と、今後の動きを注視するという方向で固まった。
いずれにしても次の手は、この先の展開次第である。


取敢えず、仕事の行き帰りは全て僚と一緒に。
仕事以外での外出は控え、どうしても出掛ける時は必ず、僚か秀幸と行動を共にする。
個人情報を読み取られるような会話は、極力避ける。
不特定多数の人間が出入りする場所に、近付かない。
香に自衛出来る事は、数少ない。
後は、会社と警察と冴羽商事が一体となって、守るしかない。











真夜中、日付が変わった香の部屋では、今ではもう殆ど使っていない香の勉強机に向かって、
僚がボクサーパンツ一丁で、パソコンのキーを叩いていた。
泊まり込む際に持ち込んだ、僚のノートPCだ。
ベッドでは、香が幸せそうにスヤスヤ眠っている。
つい1時間ほど前、“夜の”密着ガードは3ラウンドを迎えた途中で、僚のTKO勝ちで終了した。
秀幸は今夜、仕事で帰って来られなかった。
あくまで夜の“仲良しこよし”をボクシングに例えるならば、2人の力の差は歴然で。
香がボクササイズ目的でジムに通うOLだとすれば、僚はヘビー級世界王者のようなモノだ。


それにその夜は、半分はこうして香を深い眠りに誘うという目的も、僚にはあった。
現に少しだけいつもと違って、
激しく高められた香はすっかり消耗しているので、恐らく、朝まで目を覚ます事は無い。
僚が覗く液晶の画面には、モデルとしての香に該当するようなキーワードで検索してヒットした、
様々な情報が写し出されている。
世の中に氾濫する、有象無象である。
9割方は、どうでもイイゴミのような情報。
それでも中には、手掛かりになりそうなモノも隠されている。


僚が一字一句逃すまいとチェックしているのは、某巨大掲示板。
タテマエとしては、犯罪的な書き込みは削除される事になってはいるが、
実際には、それを取り締まるしくみも、法律も機能不全だ。
削除されるスピードを、アップロードされるスピードが遥かに凌いでいる。
そして、そこにそれはあった。


“誰か、このモデルの事詳しく知ってるやつ情報くれ。”
“ヤバイ、このこカワイ杉。惚れる。”
“あ~、そのこ。マキムラカオリだよ。てか、中学一緒だった。”
“この子、幾つ?”
“渋谷で、実物みた事ある。まじ、別の生き物。”


僚は、そんな無機質な文字の羅列に、腹の底からムカツキを覚えた。
こうやって、ネットを介した情報交換が行われている以上、
情報が1人歩きしてしまうのは、もはや誰にも止められないし、悪意を突き止めるのは容易ではない。
この文字を、今僚と同じ時に目にしている、頭のイカレタヤツがいても不思議では無いのだ。
だから犯人が、香の名前を知っていたとしてもなんら不思議は無い。
そして遅かれ早かれ、香に対する何者かの興味がある以上は、こうして情報は晒され続ける。


僚は明け方まで、反吐が出そうになるだけのそんな確認作業を黙々と続けた。
きっとヤツも、こんな中から情報を得、あの手紙を書くに至った筈だ。
この事件を解決したら、僚は香に仕事を辞めさせようと考えている。
取敢えずは、近い内に祖父の自宅に赴いて、今現在晒されている香の個人情報について、
全て抹消する手立てがないか、策を講じるつもりである。
僚の脳裏にカッターナイフで切り裂かれた、香の写真がチラつく。


絶対に守ってみせる。


僚は幸せそうにぐっすり眠る恋人を、薄暗い明け方の部屋でいつまでも見詰めていた。



(つづく)








第17話 ゲイが身を助ける 

香の会社に、妙な手紙が届くようになってから、2ヶ月弱。
早いモノで、もう11月も終わろうとしていた。
常に先々のトレンドを創ってゆく業界に於いて、外の季節と真逆の仕事をしている香は、
翌年春に発表される、柔らかな色合いと薄手素材の、
軽やかな衣服をアレコレ着せられ、それに合わせたメイクやヘアスタイルを施される。
このスタジオの中に於いて、僚に出来る事は特に無いので撮影中の香に見惚れている。


ねぇねぇ、冴羽ちゃん。

ん~~?

カオリンとは、幼馴染みでしょ?

あぁ。

どの段階で、恋になったの???

・・・何で?

んふふ。単純なる、野次馬的興味?(半疑問形)




僚は、ジットリとした恨めしそうな目つきで、小さく一言『黙秘。』と呟く。
野次馬的興味を半疑問形にして僚にぶつけて来たのは、オレンジ色の短髪のヒョロヒョロの男である。
ヘアメイク担当の青木繁は、春先から夏にかけては、緑色のカラーリングをしていたけれど、
彼曰く“秋の紅葉に合わせて”オレンジ色に、イメージチェンジを図った。
香曰く“青ちゃんなのに、オレンジ”である。
彼は本当は、香のような天然の栗色の髪の毛に憧れているらしい。


香のガードを北原氏に依頼されてから、2ヶ月弱。
毎日では無いにせよ、スタジオに居る時には必ず顔を合わせる青木と僚は、今では結構、仲良しだ。
それ以上に、香と青木は仲良しだが、その事に関して僚は、特には嫉妬もしない。
彼に関しては、嫉妬対象外である。
むしろ時折、背後に妙な視線を感じる事の方が、僚にとっては問題で。
明らかに青木は、僚の筋肉質な臀部を凝視している節がある。
青木に関しては、香の方の心配よりむしろ、自分自身の貞操を死守する事が僚にとっては先決だ。



繁には、教えてやんねぇ。

えぇぇぇぇ~~~、何よそれえ。冴羽ちゃんてば、いぢわる。

繁は、どMだろ?

いやぁん。解ったぁ?



僚は、ワザと青木の事を『繁』と呼ぶ。その方が、男らしいからだ。
そして青木は僚に呼び捨てにされて、喜んでいる。
そこまでの一連の流れが、最近の2人のじゃれ合いなのだ。
お陰で最近のメイクルームの空気は、まるでゲイバーのノリである。
ただ、アルコールが入っているかいないかだけの違いだ。
香も、リョウたんと青木さんが仲良しになってくれて良かった。と、喜んでいる。
勿論香は、僚が少しだけ、貞操を奪われる恐怖を抱いている事など、知る由も無い。











あれから手紙は、未だ週に2~3通のペースで送られて来る。
僚が香の周りで張っている事を、どうやら相手も察知しているらしく、
実際の行動として、香の前に現れて来る事はまだ無い。
しかし、手紙の内容は確実に酷いモノになりつつある。
ゆっくりとではあるものの、しかし確かに変態(ストーカー)の鬱屈した欲望も、蓄積されつつある。
これで、実際には出て来ないしただの変態か、で済ませてしまって警備を怠れば、
恐らく相手は、その時を狙って香を襲うに違いないと、僚は踏んでいる。
向こうが焦れて行動に移すのを、ただ待っていればいづれ尻尾を出す。
その時が、仕留めるチャンスだ。
今はまだ、お互いに膠着状態だ。


送られて来た手紙は、全て秀幸に託され警察で証拠として保管されている。
使われている紙、文脈の特徴、消印の押されている範囲が、ある特定の区内の数か所の郵便局である事。
切手には唾液は使わず、水を使って貼られている事。
詳しく解る事はその程度だが、警察の見解としてはまず同一犯の犯行と見て間違いは無いだろうという事。
必ず会社宛てに送られて来る事、今のところ自宅周辺では不審な人物は見掛けない事からして、
まだそこまでの情報は掴まれていない可能性が高い事。
しかし秀幸は用心の為に、家の外回りに数か所、監視カメラも設置した。
そして香の寝室には毎晩、用心棒が寝泊まりしている。
その点だけは、秀幸の腑に落ちない部分でもあるが(部屋は別でもイイだろ、と)、
確かに、秀幸の帰れない晩などは、僚がいてくれれば安心出来る。



ネットの方の対策は、迅速だった。
僚は数日に亘り、様々な検索を掛けて香に関する情報がどの程度氾濫しているのかを探った。
それを元に、祖父の元を訪れたのは、香のガードを始めて4日目の事だった。
結論から言えば、あれ以来、ネットには香の情報は一切出て来ないようになっている。
何をどうしてその様な工作が出来るのかは、祖父以外は解らないが、
祖父の事に関する情報は、この世の中に漏れないように厳重なセキュリティが働いている。
もう随分昔から、祖父はそうやって世の中の表舞台で知られる事は、殆ど無い。
祖父という人物を知る人間は、ほぼ100%面識がある者だ。


僚に関しても、それは同様だ。そこに、もう1人槇村香が加わった。
『なに、簡単な事じゃ。』
そう言った祖父の事を思い出す度、僚は初めからそうしなかった事を悔いた。
それに関しては、完全に抜かった。
今僚は、祖父に協力を要請して、これまでの悪質な情報の発信元の特定を急いでいる。
個人情報を勝手に第3者が晒した事については、相手を特定できれば、
法的な手段を取る事も、可能になるかもしれない。









香は今、クリームイエローとイエローグリーンのグラデーションが鮮やかな、
少しだけ光沢感のある、目の詰まったコットンのワンピースを身に着けている。
裾に行くほど、グリーンが濃くなっている。
五分袖の袖口には、サーモンピンクの小さなボタンがポイントにあしらわれ、
少しだけAライン気味の、膝上10㎝のスカートの下には、柔らかいピンク色の薄手のタイツを穿いている。
眩しくて目を開けていられないような強い照明にも、何度も落としては塗り、塗っては落とすメイクも。
特に指示をされる訳ではない、レンズに向かって色んなポーズをとってみる事も。
この数ケ月、もう随分慣れっこで。
ここ最近では、こんなお洋服でリョウたんの前に現れたら、どんな顔するかな。とか。
こういうの、リョウたん好きそうだな。とか。
これは、リョウたん受けより、私の趣味だな。なんて事を考えながら、楽しんで撮影に臨んでいる。


秋の初めに、会社に変な手紙が送られて来た事は、香も兄達に聞かされた。
社長も秀幸も僚も、妙にピリピリしていて、秀幸は家の出入り口周辺に監視カメラを取付けた。
香はその手紙とやらを、ちょっと見てみたい気もしたけれど、秀幸と僚にダメだと言われた。
あれから、相変わらずその手紙は続けて送られて来ているらしいけど、
正直、香にはいまいち、狙われている実感が無い。
何処に行くにも、僚と一緒だし。
家の中でも、ずぅっと一緒だ。
この状況がむしろ楽しいと思っていたりするけど、さすがに秀幸にはそんな事は言えないので、
一度、僚に言ってみた。

なんか、いっつもリョウたんと一緒だから、楽しいの。と。

すると僚は、ニッコリ笑って、それでイイ。と言って頭を撫でてくれた。
必ず捕まえるから、カオリンは楽しめ。と。
僚は昔からこうなのだ。
香がちょっとお兄ちゃんには言えないかなと思うような、ジョークや不謹慎な事を、僚になら言える。
僚のリアクションはいつだって、香の予想した通りで。
リョウたんなら、そう言ってくれると思ってた。という結論に至る。
それに、今までこんなに可愛い女の子みたいな服を着たところを、僚に見せた事など無かったので、
僚がスタジオの片隅で、自分の事を見ていてくれる事が香は素直に嬉しかった。



お疲れ様~、30分休憩して次のに着替えようか?


今日のスタイリストは、北原氏のアシスタントで、そのワンピースのデザインもした女性だ。
彼女がそう声を掛けて、一旦休憩に入る。
強いライトが消されて、香は一瞬、眩暈を覚える。
目の奥で急激な照度の変化に、ピントを合わせようとしているのが解る。
撮影が長時間に及ぶと、意外と疲れるのは目である。
香も、メイクルームの方へと戻りかける。


僚の携帯が着信を知らせたのは、その時だった。
発信は、秀幸だった。
僚はスタジオの外の廊下に出て、電話に応じた。


青木は、メイクルームに戻る香の背中を見ながら、
ポットに用意されたハーブティーを、香のマグカップに注ぐ。
午前中から、合間1時間の食事休憩を挟み、5時間ほど撮影を続けている。
香は目が大きいからか、あまり長時間強い照明に晒されると、目が乾き気味になるらしい。
マグカップと、スチームで温められたおしぼりを持って、メイクルームへ向かう。












「あ、あの?何か?・・・御用ですか?」

香がキョトンとして、その彼に訊ねる。
確かさっき、次のに着替えるって言ってたから、もうこのワンピースは脱がなきゃだし。
早くお化粧落として、少しの間だけでも目の周りの疲れも解しておきたい。
それなのに。
何故だか、そのヒトは香の控室にいた。
今日のカメラマンさんは、もう何度も撮って貰った事のある人だった。
撮影中も何かと気に掛けてくれる、優しい人だ。



彼は、今日初めてお目に掛かった。
カメラマンさんには、大抵2~3人アシスタントの人がいて。
今日も彼を含めて、3人の人がいたような気がする。
何度かやはり一緒に仕事をした事がある人たちだ。
そんな中で、彼は今日が初めてだった。
その人が、一体香の控室で何をしているんだろう?香には、今の状況が咄嗟には把握出来なかった。
疲れていたせいもあるのかもしれない。


「あの。今から、着替えなきゃいけないんで・・・」

香はそう言いながら、何かただ事じゃないオーラを、無言のその男から嗅ぎ取った。
香の背中を、嫌な汗が伝う。
心の中で、僚や青木の名を呼ぼうとするのだけど、喉の奥に何かが痞えたようになって声が出せない。
香は一歩、後ずさる。
その時、香の肩に触れたハンガーラックに掛けられた、木製のハンガーが落ちて派手な音を立てた。


ガラアァァーーン


青木がメイクルームに足を踏み入れたところで、奥の更衣室で派手な音がした。
香1人の気配だけでは無い、何か強烈な違和感を青木は感じた。
躊躇無く、青木は仕切りのカーテンを開いた。
目の前には、手にサバイバルナイフを持った、カメラマンのアシスタントが立っていた。
その奥には、真っ青になって震える香。
















何やってんだぁっっ、テメェ、ゴルア(怒)



僚が秀幸との通話を終えて、スタジオの中に戻ると奥のカーテンで仕切られた部屋の方から、
野太い声が聞こえた。
間違いなくあれは、繁の雄叫びである(苦笑)
僚は一目散に、その小部屋へ向かう。


青木は咄嗟に、手に持っていたアツアツのマグカップの中身を、その男の顔面めがけてぶちまけた。
男は怯んで、ナイフを手から離す。
おどろおどろしいナイフは、鈍く光りながら床を滑り、香の足元で止まった。
それを見逃さなかった青木は、すかさず香に指示する。

「カオリン、それあっちの棚の下に向けて蹴って。」

香は震えながらも頷くと、華奢なヒールに包まれた脚でその一旦は自分へと向けられた凶器を、
こつんと、蹴った。
ナイフはまたしても、クルクルと弧を描きながら作り付けの棚と、床の間の狭い隙間へと入ってしまった。



冴羽ちゃぁぁぁあん、怖いわぁ。助けてぇ。


次の瞬間、僚がカーテンの向こうから現れた。
その時には、腰を抜かして呆然としている香と、男の上に馬乗りになって逆エビを決めている青木がいた。

「やるじゃん、繁。」
「やぁだぁっ、早く交代してよっっ。怖いんだからねっ。」
「はいはい。」

僚は苦笑しながらも、青木と交代して傍にあったベルトで、変質者の手足を拘束した。
青木が震えている香に駆け寄り、抱き締める。
漸く安心した香は、無意識にぽろぽろと涙を溢した。
その時初めて、僚は青木に嫉妬した。
その役は、是非とも自分がやりたかったのに、と。


(つづく)






第18話 クリスマスのご予定

12月に入ってすぐに、香はクリスマスツリーの飾り付けをした。
去年香が生まれて初めて、飾り付けられる事の無かったそれは、2年振りに納戸の外に出た。

箱はもう随分古びているけれど、これまで香が大事にしてきたそのツリーは、
何処も傷む事も無く、青々している。
プラスチックで出来たモミの木の幹に、人工芝みたいな安っぽい葉っぱ。
雪に見立てられた、白い綿。
銀色に塗られたプラスチックのまるでアルミホイルのような、お兄ちゃんのお星様。
これまで何度も秀幸は、新しいのを買ってやろうかと提案してきたが、その都度、香が却下している。
これから香が嫁に行くまでに、あと何度これを飾り付ける日が来るのだろうと、
秀幸が思っている事など、勿論香は知らない。



リョウたん、コレはその下の方。

コレは? このトナカイ。

それは、反対側。



秀幸はソファでコーヒーを飲みながら、そんな香と僚の遣り取りを見ていた。
去年は、3人それぞれがバラバラで。
ちょうど今頃は、秀幸は香の事で色々と悩み多き季節を過ごしていた。
今年は一転、秀幸の非番のこの日に、3人揃ってこうして昼間から平和に過ごしている。
3人はつい1時間ほど前に、秀幸の作った鍋焼きカレーうどんの昼食を終えている。
秀幸は非番の日には、出来るだけ料理をする事にしている。
きっと、もう少ししたら、香があの銀色の星を差し出して、

はい、お兄ちゃんのお星様の出番だよ。

と、言うに違いない。
それは槇村家の、12月のしきたりだ。
いつまでもずっと、この先も続くと信じていたこのしきたりも、
いつかはきっと、僚の役目になるのだろう。
そう思うと、目の前でヒトの気も知らず、
呑気に最愛の妹と、イチャイチャと飾り付けをしている親友に、秀幸はムカついてきた。
こんな事なら、僚の分だけ激辛鍋焼き地獄うどんにしてやれば良かったと、後悔している。





この秋の、一連のストーカー騒ぎは、11月の終わりに片が付いた。
撮影中のスタジオで、犯人は牙を剥いた。
犯人はカメラマン志望の美大生で、つい最近、例の北原氏とも親交のあるカメラマンの元に、
アシスタントのアルバイト兼、半分弟子入りのような形で入り込んでいた。
その実、そのカメラマンが、香の撮影にも関わっているという事を突き止めた犯人が、
上手い事、その懐に潜り込んだという顛末だ。


ヘアメイクの男性(?)の機転により、事件は最も穏便な形で幕を閉じた。
香は数時間は、ショックで呆然としていたモノの、その日は僚が付き添って先にスタジオを後にし、
家に帰ってからも僚が宥め、早めに休ませた。
その甲斐もあってか、翌日にはすっかり元に戻っていた。
それでもその日以来、北原氏は大事をとって春の新作のポスター撮りは、今の所中断している。
秀幸は僚からの連絡を受けて、あの日すぐに現場に急行した。
犯人が顔面に軽い火傷を負った以外は、他に怪我人も出ず、
何より秀幸としては、香が無事だった事が全てである。



あれから数日、秀幸の不満は僚がずっと泊まり込んでいる事だ。
たまに昼のうちに、香と2人で自分の部屋にも帰ってはいるようだが、
何故だか、夜になると当然のように槇村家で過ごして、泊まってゆく。
秀幸は、香と僚があの香の部屋で、秀幸のいない間に何をしているのか、
恐らくは健康的な若い恋人同士がやる事は、一通りやっているだろうとは思っているが、
もうそれ以上は、考える事を放棄している。
真剣に考え始めると、またしても2人の仲を邪魔しかねないからだ。
僚の事は、正直どうでも良いけれど、香を悲しませる事だけは秀幸には絶対に出来ない。
残念ながら、どうやら妹の幸せは、兄の忍耐の上に成り立つものらしい。



お兄さま、準備が出来ましたょ♪



香がおどけながら、いつもの銀色の星を差し出す。
僚もニコニコして、そんな香を見詰めている。
それまで考えていた、妹の幸せと兄の忍耐に関しての考察は、一旦脇に押しやり、
秀幸もニッコリと笑いながら、お星様を手にツリーへと近付く。










香がゆっくりと10日ほど休暇を取って、ポスター撮りは再開された。
休みの間は、いつものように僚とのんびり過ごした。
どちらかの家で、マッタリ過ごしたり。
そろそろ、クリスマス仕様になり始めた街をデートしたり。
いっぱい、キスをしたり、エッチをしたり。
クリスマスツリーの飾り付けをしたり。
そうする内に、あのスタジオでの怖い出来事は、まるで随分前の出来事のように感じられた。
もう一応事件も解決したし、あれ以来怖い事も起こっていないので、
一旦、僚のボディーガードの契約は、11月末で切れた。


それでも、スタジオへの送り迎えだけは、僚がやってくれた。
あの事件が起こる前は、香は平気で1人で電車に乗って何処にでも出掛けたし、
スタジオのある、渋谷や、事務所の近くの原宿でお買い物をするのも平気だった。
けれど、少しだけ怖い事もあるんだという事が解った。
本当は、もうすぐクリスマスなので、僚と秀幸にプレゼントを選びに出掛けたいと思っているけれど、
1人で出歩くのは、僚(秀幸も)的に無理そうなので、
せめて絵梨子と2人で出掛けようと香は考えている。



ねぇ、カオリン。

なぁに?青木さん。

冴羽ちゃんもイイ男だけど、お兄ちゃんも渋くて素敵ね。

うん。そうでしょ? やっぱり、さすが青木さんは見る眼が違うね。

まぁね。カオリンのお兄ちゃんは、もしかしたらこれまでで№1かも。

ホントぉ~~???

えぇ、アタシが言うんだから、間違い無いわ。

お兄ちゃん、料理も完璧なの。私、家の事は全部お兄ちゃんに習ったの。

・・・完璧だわ。










その頃、槇村秀幸は張り込み中の車内で、盛大にくしゃみをしていた。
同乗する相方の野上冴子は、後部座席に置かれた箱ティッシュに手を伸ばしながら、
なぁに?槇村。風邪? 大丈夫?
と真剣な表情で、心配している。
確かに秀幸の背筋に悪寒が走った気がしたが、まさかその頃、
妹たちがそんな事を、噂していた事など知る由も無い。


でも、去年はあんなに悩んでたけど、今年は安泰ね。ストーカーも捕まったし。

・・・それが、そうでも無いんだな。

どういう意味?


秀幸は、苦笑しながら溜息を吐くと、ここ数日の複雑な兄の心情を冴子へ愚痴った。
例の、妹の幸せと兄の忍耐の相関関係と両立に関する考察である。
そんな秀幸の、他人にはどうでもイイ悩みに、今度は冴子が苦笑する番である。


相変わらずねぇ。・・・ねぇ、槇村?

ん?

その分じゃクリスマスは、香さん、僚に独占されるんじゃない?

・・・・・・・・(怒泣)。

そんな顔しないで?   たまには、過保護もほどほどにして、デートでも楽しまない?

・・・誰と?

・・・失礼ね。私以外、誰がいるの?



秀幸は、思わずフフッと頬を緩める。
周りの誰もが一切気付いてはいないが、秀幸と冴子は付き合っている。
なかなかの切れ者だが、一見パッとしない地味な風采の秀幸と、
父親がお偉方で、その上仕事も出来て、見るからに華やかな冴子。
彼らには、何処にも共通点など見受けられないし、仕事上とは言えバディを組んでいる事すら、
周りの連中にとっては、意外な取り合わせに映るらしく、
陰で、コソコソと“警視庁の月とすっぽん”などと揶揄されている。
これで付き合っている事が知れたら、何を言われるか解ったモンじゃない。


ふふ。じゃあ、早く事件解決しないとな。

そういう事。


俄然、秀幸のモチベーションは上がる。
先程までの、妹と親友の何たらは、もうすっかり忘れている。
ある意味野上冴子の手に掛かれば、秀幸を操縦する事に関しては、右に出る者はいない。
ただ1人、香を除いては。














師走とは良く言ったモノでそうこうしている内に、あっという間に24日はもう目前だ。



今年は1週間ほど前から、秀幸は仕事で遅くなると宣言した。
勿論、仕事でもあるが、その後は冴子とデートである。
僚はそんな事は重々承知なので、兄達2人はそれぞれの恋人と過ごす事は暗黙の了解である。
香だけが唯一、え~。今年は3人でケーキ食べれると思ったのになぁ。と、淋し気だ。
秀幸は思わず冴子との約束も忘れて、なるべく早く帰るからと言いそうになったが、
寸での所で、その言葉をグッと呑み込んだ。


このまま、いつまでも妹に執着していても、香も自分もいつまで経っても大人にはなれないと、
秀幸は、己の心に言い聞かせた。
いつかは、香も自分の元から巣立つ日が来るのだ。
それがいつなのかは、まだ誰にも解らないけれど、その相手は兄では無いのだ。
その事実だけは、香がこの世に生まれた時から決定している事だ。

「イイじゃん、カオリン。カオリンには、リョウたんがいるじゃん。」
そう言って、僚が茶化す。
「ん~~~、そうだけどぉ。お兄ちゃんも、リョウたんもみんな一緒のが楽しいでしょ?」
そんな事を言う香に、僚はニィ~~~ッと口角を上げると、何やら耳打ちをした。

(そら、槇ちゃんにだって、クリスマスのご予定があんだろうよ。邪魔しちゃ悪ぃよ。)
(・・・そうなの?)


香のただでさえ大きな瞳が、真ん丸に見開かれる。
香はポカンとしながら、秀幸に訊ねる。

「・・・お兄ちゃん、彼女さんいるの???」

僚がわざわざ小声で耳打ちしたのも意味が無い程の、どストレートな質問である。
秀幸は途端、耳まで真っ赤にする。
そんな秀幸を見て、僚は内心、あぁ、やっぱコイツらは兄妹だな。などと、妙な感心をする。
秀幸はご飯を喉に詰まらせそうになりながらも、小さく頷く。

・・・・あぁ、まぁ。い、い、一応な。・・・この歳だし。

その秀幸の答えを聞いて、香は急にパァッと笑顔になる。
いつも仕事で忙しくして、父が亡くなって以来、
自分の人生を後回しに香の世話をしてくれた兄に、恋人がいるのは香にとっても喜ばしい事だ。
香は僚と付き合うようになってから、好きな人と一緒に過ごせる事の幸せを僚に教えられた。
そんな人が、兄にもいるのだったら、それはとても幸せな事だ。


お兄ちゃん、どんな人?優しい人?綺麗な人?

あぁ、とってもイイ人だよ。俺には勿体無い位。その内、香にも紹介するよ。

ホントぉ?

あぁ。

良かったぁ。クリスマス、デートゆっくりして来てね。私も、リョウたんと過ごすから。



その香の言葉に秀幸は、今度はブフッと味噌汁を吹く。
僚は内心、忙しねぇなぁ、と思いつつ布巾を無言で手渡す。
秀幸も無言で受け取ると、吹き出した味噌汁を拭き取る。
否、覚悟はしていた。
香と僚が、仲良くイチャイチャと聖夜を過ごす事は。
この数週間、考えまいとしていても、嫌でも色々と考えた。
自分自身の恋人との、偶にのデートにも正直心が躍る。
しかし、やっぱり。

忍耐か・・・


槇村秀幸(31)独身・恋人あり。
相変わらず、妹離れは出来ていないようである。


(つづく)





第19話 約束

クリスマス・イブの日、秀幸が出勤するのを僚と香は2人で手を振って見送った。


朝食は、3人で揃って食べた。
今日の晩ご飯は別々だから、せめて朝ご飯をお兄ちゃんと食べようと、香が言ったからだ。
勿論、僚はその前の晩もお泊りしている。
最近では、自分の部屋より槇村家にいる時間の方が長い。
秀幸がスクランブルエッグを作り、香がパンケーキを焼いた。
僚は、コーヒーを淹れた。
秀幸を見送った後、香はキッチンで洗い物をし、僚はリビングのコタツに座ってテレビを観ていた。
洗い物を水切りかごに乗せ、エプロンを外した香は少しだけ僚の方を窺う。
幸い僚は、朝のニュース番組に集中している。
香はそのまま1人で、自分の部屋に戻る。







クローゼットの奥から取り出したのは、綺麗にラッピングが施された箱が入った2つの紙袋。
1つは秀幸へ。
もう一つは僚へ選んだ、クリスマスプレゼントだ。
そのプレゼントの片方を持って、香は兄の部屋へ向かった。
香の部屋と兄の部屋は、間にキッチンや水回りを挟んだ、端と端だ。
最近では、秀幸が眠っている時でも、僚は構わず始めちゃったりするので、
多少なりとも、部屋同士が離れていて良かったと、香は思う。
かちゃり、とドアを開ける。


兄の部屋はいつでも、几帳面に片付いている。
学生の頃から使っている年季の入った机の上には、デスクトップのパソコンと、
何やら良く解らない、難しそうな本。
警察官には、昇任試験というモノがある。
秀幸も忙しい仕事の傍ら、勉強しているらしい。

「お兄ちゃんは、大変だね。」

香は机の上に置かれた本に、そっと触れる。
香は高校を卒業して以来、机に向かう事など殆ど無いので、秀幸の事を改めて尊敬してしまう。
小さい頃、一緒に遊んでくれた兄。
父親が亡くなってからは、家の中の色んな事を教えてくれた兄。
特に料理は、香は全て兄から学んだ。
香はグレーのキルティングのベッドカバーの掛けられたベッドの上に、そっと紙袋を置いた。
明日、秀幸が帰ってから目に留まるように。





香はまた自分の部屋へと戻ると、もう一つの紙袋を取り出した。

僚へのクリスマスプレゼント。

赤い包装紙に包まれて、シルバーのリボンが巻かれている。
これらのプレゼントを選びに出掛ける時にも、過保護な兄達とひと騒動あったのだ。
あのストーカー事件以来、秀幸も僚も、香が1人で出歩く事を禁じている。
撮影の送り迎えは僚がしてくれるし、食材の買い出しに行くのも僚と一緒だ。
香も、別にそれが嫌なワケでは全然ないけれど。
それでも、プレゼントを渡す相手と一緒に、プレゼントを選びに行くなんて、
絶対、ダメだと香は思った。
だから、2人に何処に出掛けるんだ?と詰め寄られても、言わないつもりだったのに。
2人の粘りに負けて、香は言ってしまった。


っだぁからっっ、お兄ちゃんと、リョウたんのプレゼントを選びに行くのっっ。
秘密なのっっ!!


そう言って、半ば涙目で2人をキッと睨む香に、秀幸も僚も思わず、
ご、ごめん、と謝ってしまった。
ちゃんと、1人じゃなく絵梨子と青木と3人で行く事にしてるからと、懇願されると、
目的が目的なだけに、苦笑しながら2人はやむなく許可したのだった。




秀幸にはヤギ革の柔らかな表紙の、新しい来年の手帳と、カシミヤの柔らかいブルーグレイのセーター。
これからまだまだ寒いから、兄にはニットを贈ると決めていた。
手帳は予定外だったけど、秀幸に似合いそうな良いデザインのモノがあったので、大奮発だ。
僚にはラムレザーの、しなやかで柔らかいイタリア製の黒の手袋。
きっと僚の大きくて指の長い、カッコイイ手にとても良く似合う。
その僚の手を想像するだけで、香の胸の奥で小さな焔が点る。
こんな気持ちがあった事を、香に教えてくれるのはいつも僚だ。
僚と一緒にいない時にも、香は僚の手の形や、僚のTシャツに顔を埋めた時の微かな匂いや、
僚の唇の温度を思い出すと、いつも幸せな気持ちになれる。


香は僚のプレゼントが入った小さな紙袋を、ラビットファーのトートバッグに入れる。
この冬、香が愛用している可愛らしいそのバッグは、青木からのお下がりだ。
女子力の極めて高い男子・青木繁の持ち物は、大抵女の子仕様だ。
仕事柄、流行のサイクルが目まぐるしく変わる彼の、とっておきのお気にを、香が譲り受けた。
荷物の多いフリーのヘアメイクらしく、見た目の割に大容量な所も、
香が気に入っている点の1つだ。
香はお返しに、手作りでがま口を作ってプレゼントしたら、彼は大層喜んだ。
因みに、そのがま口は今現在、頭痛持ちの青木の鎮痛剤を入れるピルケースになっている。
バッグにプレゼントを仕舞うと、香はリビングにいる僚の元へと戻った。




僚はコタツに座り、ミカンを剥いていた。
けれど不思議な事に、食べる訳でもなく外側のオレンジ色の皮が綺麗に向かれたミカンが、
まるのまま、2つ置かれている。
白い筋も綺麗に取り除いてある。

食べないの?リョウたん。

香はごく自然にコタツの僚の隣に座りながら、訊ねる。
僚は何も答えず、ニコニコして香を見詰めると、香の肩を抱き寄せてこれ以上無い程密着する。
香は思わず、クスクス笑う。

どうしたの?リョウたん?

相変わらず、僚は答えずにニコニコしたまま、ミカンを一房香の口元に差し出す。
どうやら、香の為に剥いてくれたらしい。
香は、ありがとう。と言うと、パクッと食べる。
香が呑み込む前に、もう1つ差し出される。
香は笑いながらも、まだ食べてるよ、と言ってもう1つ口に入れる。
何度かそんな事を繰り返すうちに、香は思わず僚の人差し指をそっと口に入れた。
僚の口角が、そっと持ち上がる。


まるでそれが合図であったかのように、2人はお互いの唇を貪り合う。
柑橘の味の、甘酸っぱいキスが何度も交わされる。
キスの合間に僚は香を押し倒し、香は僚の胸に顔を埋め。
2人はそのまま、己の欲求に素直に従った。
冬の朝の、コタツとオイルヒーターの暖房の中で、2人はセックスをした。







「・・・リョウたん、もうそ・・・ろそろ、出掛ける・・準備しないと。」

漸く香の息が整い始めた頃、香は僚の膝の上でそう言った。
因みに2人は裸ん坊で、僚はソファを背凭れにして座っていて、
その上に、香が跨る形で僚の胸に凭れている。
つい先程、2人は満足したばかりで、時刻はまだ午前10時を回ったばかりだ。
僚は返事の代わりに、香のつむじにキスを落とす。






本日、クリスマス・イブの恋人たちの予定としては、今夜は僚の部屋で過ごす事にしている。
2人で昼間から、少し高級なスーパーに買い出しに行き、
2人で共同で手の込んだ料理を作り、それを食べて、その後はベッドになだれ込む。
僚は秋口から、前もって人気のレストランの予約を取る事も考えたけれど、
やっぱり止めにして、2人で自分の部屋で過ごす事に決めた。
レストランに連れ出す事は、クリスマスじゃなくても時々やってるし、
わざわざ、混み合った所に出向くのも、僚の好みでは無い。
それに何より、今日は香に少しだけお酒を勧めてみようと思っているのだ。


香は立派に働いているとは言えまだ未成年だし、秀幸に知られたら大目玉だが、
僚の家でならバレる事も無いだろうという、企みがあるワケだ。
先日から、2人で料理をしようと計画を立て、メニューはもう決めてある。
槇村家では僚は食べるの専門だが、意外にも料理は秀幸並みに出来るのだ。
元々、器用で手際の良い男なので、自宅に居る時は専ら、自炊だ。
調理道具も、一通り何でも揃っている。
まぁ、最近は殆ど槇村家に入り浸っているので、道具の出番はめっきり無いのだけれど。


実は、僚が自分の部屋に女の子を招き入れるのは、香が初めてだった。
と言っても、香は小さい頃からよく遊びに来ていたし、秀幸と一緒に泊まって行く事もあった。
だから、この場合は“彼女”としてという意味だ。
香と付き合い始めて、1年8か月。
香が僚の部屋で、初めて手料理を作った時から、7か月。
そして、恋人として、恋人らしいクリスマスを迎えるのは初めてだ。
1年前はまだ、今にして思えば妹以上恋人未満だった。


僚が、こんな風に恋人のいるクリスマスを過ごす事は、生まれて初めてだ。
無駄に経験は豊富だけれど、肝心の経験はすっ飛ばして生きてきたのだ。
香が何もかも初めてのように、僚だって何もかも初めてだ。
恋人を思って、笑顔になる事も。
好きな人と過ごす幸せを噛み締める事も。
全部、全部香が教えてくれた。









コクンと、香が深い緋色をした液体を、ひとくち飲み下す。




美味しい?

ん~~、思ったよりは。でも、シャンパンの方が好きかも。



眉をハの字に下げた香に、僚はニッコリ笑うと、じゃあこっちは俺が飲む。と言って、
香の飲みかけのワインの入ったグラスを取り上げると、別の細長いグラスに、
薄い黄金色の微発泡の液体を、静かに注ぐ。
はい、と手渡されたグラスを、香はニッコリ笑って受け取る。
香の目の前の皿に、僚がナイフで薄く切った肉をサーブしてくれる。
塊の牛肉に香辛料やハーブを塗り込めて、ローストしたモノだ。
食後のケーキは、香が焼いた。
昼間から、午後中かけて2人はキッチンに立った。
料理をしながら、何度もキスをした。


きっと温かいこの部屋の外は、車が渋滞し、流行のイカしたレストランはカップルだらけで。
煌びやかなイルミネーションの下には、またしても人の渦が出来ているのだろう。
そんな浮ついたデートも、楽しみの1つかもしれないけれど。
やっぱり、僚は2人でこの部屋でのんびり寛ぐ事にして正解だったと思っている。
特に、この後の展開を考えたら。











香が切り分けたケーキを食べながら、コーヒーを飲んだ。
2人分サイズの、こじんまりしたイチゴのケーキ。
その時、香がソファの上に置いていたバッグを持って来て、
何やら恥ずかしそうに、モジモジしながら紙袋を取り出した。


あのね、リョウたん。・・・これ。プレゼント////

お。サンキュー、開けていい?


真っ赤な顔で頷く香に、僚も早いとこプレゼントを渡したい気持ちをグッと押さえる。
可愛いラッピングを解くと、出て来たものは、
黒い革の手袋だった。
一目で上質だと解る、柔らかなラム・レザー。
僚はその場で、嵌めてみせると、香はニッコリ笑った。


じゃあ、俺からのも受け取って貰える?


僚の問いに、香は嬉しそうにコクンと頷く。
ちょっと待ってて、と言って僚が席を外す。
香は一体何をくれるんだろうと、ワクワクしながらイチゴを頬張る。
数分後、香の背後からふわっと、僚が腕を回して香の腕に抱かせたのは、
イエローブラウンの、耳に黄色いタグの付いたテディ・ベアーだった。


うわぁ、可愛い。


と、香がクマに夢中になって目を輝かせていると、僚はいきなり香の椅子の横に跪く。
香が何事かと僚を見詰めた時に、僚はピンク色のベロアが張られた四角い箱を差し出した。
そして、それを開いて見せた。















まるで、ドラマや映画みたいだった。
いつもおちゃらけて、笑っている僚が、いつになく真剣な表情をしている。
小さなカワイイ箱の中身は。


華奢なプラチナに小さ目のダイヤが5つ一列に並べられた、キラキラ光るリングだった。


香は、予想外の僚の贈り物に、ポカンとして僚を見詰めた。
初めは、そのリングの意味は解らなかった。




「かおり。」


僚が、“カオリン”じゃなくて、ちゃんと真剣に香の名を呼ぶ。


「はい。」


香も、真正面に僚と向かい合う。





俺と、結婚してください。
俺と、死ぬまで一緒に生きて下さい。
俺の前で、ずっと笑っていて下さい。



気が付くと、香の目には涙が溢れていた。
すぐ目の前の、僚の胸に飛び込む。
まるで、映画みたいで、ドラマみたいで、漫画みたいだけど。
これは全部、本当の事なのだ。



勿論、喜んで。






この後、2人はイチゴ味のキスをした。





(つづく)








第20話 兄の葛藤

槇村秀幸は、己がこんなにも狭量な人間だという事実を、30過ぎのこの歳になるまで知らなかった。


否、勿論知っている。
親友の妹に対する想いが、本気であるという事は。
あの夏の終わり、香がまだ高校生だった時。
僚が自分に内緒で香に手を出していた事を知った時には、当然怒り狂ったし、
あの当時は、僚の手癖の悪さについては、殆ど病気に値すると思っていて。
長い付き合いの親友であっても、その点だけは信用おけなかった。
けれどあれから、1年以上の時を経て、仲良く幸せそうな2人を目の当たりにし、
もう1人の悪友のフリーライターにも、逐一裏を取り(勿論2人は知らない事だが)、
僚の女遊びが、事実上完全に終息しているのも、確認済みだ。
(尤も、殆ど毎日、槇村家に入り浸っている僚に、夜遊び・女遊びする時間など皆無であるのは明白だが。)



何より、秀幸の僚に対する信頼が、確固たるものへと変化したのは、この秋の一連の事件からである。
あの時僚は、秀幸とはまた違った視点で、香の事を深く愛しているという事を、まざまざと見せつけた。
今現在に至っても、香の知らない所で、僚はあの件に関して動いている。
だから秀幸は。
香がいつか、僚の元へと嫁ぐのだろうとは、
心の何処かでは、考えていないワケでは無かった。



けれど、香はまだ18歳で。
社会にも漸く出たばかりの、まだホンの世間知らずの小さな妹だ。(あくまで、秀幸目線でという事だが。)
3週間ほど前に、ツリーの飾り付けをした昼下がりには、
あと何度、あんな妹の姿を見る事が出来るのだろうと、
若干、センチメンタルな気分に浸っていたシスコン兄貴だったが、
まさかあれが最後だったなんて、まだ考えたくは無かった。
クリスマスの朝、恋人との一夜を遠慮なく過ごしてきた秀幸は、自室のベッドの上の贈り物に破顔した。
秀幸にとってサンタクロースは、いつだって妹だった。



去年、秀幸30歳、香17歳のクリスマスプレゼントは、
3ヶ月振りの仲直りだった。
秀幸13歳、香生後9か月の、香の生まれて初めてのクリスマスプレゼントは、
初めて1人で立ち上がれるようになった事。
秀幸18歳、香5歳のクリスマスプレゼントは、
保育園で作って来た色画用紙で出来た、クリスマスカードだった。
もう香本人は忘れてしまった色んな事を、秀幸はきっと一生忘れられない。



25日のクリスマスの日は、
歳末防犯の為の特別勤務シフトで、秀幸は午後から翌明け方までの担当になっていた。
だから、午前中は自宅に居た。
10時頃、香と僚は2人揃って帰って来た。
イブを2人で過ごし帰宅した、香の左手薬指にはリングが光っていた。
そのリングが、手頃なファッションリングなどでは無い事ぐらい、秀幸とて一目で判る。
それに幸せそうな妹の顔を見れば、2人の間でどんな遣り取りが交わされたのかは、一目瞭然で。
帰宅早々2人が改まって、お兄ちゃんに話があるの。なんて、
切り出された秀幸は、耳を塞いでしまいたい気持ちだった。



香の18歳の誕生日の夜の、僚のあの電話報告以来。
香と僚は秀幸に対して、オープンな付き合いをしてきた。
さすがの僚も、秀幸の眼前であからさまにイチャつく事は無かったが、
(秀幸の目にイチャイチャに映る事が、確かに多々あった事は否めない。)
大事な話はいつだって、僚が必ず報告した。
けれどその朝の報告は、香から切り出した。
ダイニングの4人掛けのテーブルに、2人と兄が向かい合う。
気持ちを落ち着かせる為に、秀幸自ら淹れたコーヒーの薫り漂う中、
彼は、妹のその言葉をハッキリと聞いた。



お兄ちゃん、私ゆうべ。リョウたんに、プロポーズされたの。
勿論、喜んで受けるつもりです。



そう言って微笑む妹は、秀幸が初めて見る、大人の女の顔をしていた。
いつの間にか。
“小さな妹”は、大人の階段を駆け登っていたようである。
テーブルの下では、愛する者同士、しっかりと手を繋いでいる。
そして秀幸は、これまでの長い親友との付き合いの中で、一番真剣な表情をした僚を見た。



お兄さん、香さんを。
私の妻とする事を、お許し下さい。



そう言って、深々と頭を下げた僚に、秀幸が言えた言葉はただ一言。
『考えさせてくれ。』だった。
勿論、秀幸とて頭の中では、理解している。
2人の決意の中に、秀幸の“考え”など挟む余地は無い事は。
2人が真剣に、未来を見据えている事は。
2人が一緒になれば、まず間違いなく幸福になって、
2人を引き裂けば、自分自身をも含め不幸になる事は。
けれどそんなに簡単に割り切れる程、秀幸は物分りのイイ兄貴では無い。



いつまで、考えさせてくれ。なのか。
何を、考えさせてくれ。なのか。
秀幸は何1つ詳しい事は言わなかったケド、2人も何も訊かなかった。
そんな事1つとっても、それはまるで、2人の本気の表れのような気がして。
秀幸は、正直打ちのめされた。
2人は決して、早まって結論を出そうと焦っている訳でも無く。
一時の気の迷いでも無い。
それは、言葉など無くとも、秀幸に充分伝わった。





だから、秀幸は今。
妹たち2人にというより、むしろ自分自身の混沌とした心に向き合う必要があるのだろう。
今までの忍耐の中で、今回は最大級だ。
何しろ事は、妹の嫁入りだ。
秀幸の胸中で、妹の幸せを願う気持ちと、相反する己の利己的な感情が激しく葛藤していた。



(つづく)






第21話 心の準備期間

「・・・お兄ちゃん、反対なのかな。     私達の結婚。」


ホットカーペットの敷かれた香の部屋で、僚と香は何をするでも無くゴロゴロしている。
2人とも、仰向けに寝転んで、天井を見上げている。
香は天井から吊るされた蛍光灯の丸い傘に、左手を翳す。
キラキラと輝くのは、僚から貰った宝物。
クリスマスに僚が嵌めてくれてから、一度も外していない。
さすがに、撮影中はまずいかな?と、香は半ば諦めていたけれど。
意外にも社長は、OKだよ。と、ニッコリ微笑んだ。
それどころか左手を、ポケットに突っ込んだポーズや、髪の毛の中に差し込んだポーズを提案してくれて、
旨い事絶妙に隠された指輪は、写真には写ってはいなかった。
僚は、パタリと寝返りを打つと横向きに寝転んで、香のコメカミに鼻先を埋めた。
僚はまるで犬になったみたいに、ワザと鼻をくんくん鳴らす。
香はそんな僚が可笑しくて、クスクス笑う。


クリスマスの日の午前中、2人は秀幸に結婚したい旨、伝えた。
2人なりに、精一杯、誠実に秀幸に向き合ったつもりだ。
それに対する秀幸の答えは、『考えさせてくれ。』というモノだった。
その後、3人の関係は一切変わらぬままだ。
一昨年と同じように、平和に年も暮れ。
去年と同じように、しりとりをしながら、初詣の列に並んだ。
ただ1つ、今までと違うのは、香の左手の薬指のリングだけだ。
去年は元日から、署に詰めていた秀幸は、今年は非番だった。
3人揃って、お節や雑煮を食べ、僚と秀幸は酒を飲み、3人でマッタリとゲーム(桃鉄)をした。
秀幸が意図的に避けていると思われる、“結婚”の話題には3人とも敢えて触れなかった。
あれからもうすぐ、1か月半だ。
数日後には、バレンタインがやって来るというのに。
秀幸は未だ、“考え中”のようだ。



ん~~、どうだろうね。・・・・でも。俺さぁ、カオリン。

なぁに?

俺ね、槇ちゃんの気持ちも解るから。

・・・お兄ちゃんの、・・・気持ち??

ああ。カオリンとキスしてて、殴られた時も。絶交だって言われた時も。
カオリンと初めてエッチした時も。カオリンと、2泊3日で旅行した時も。結婚するって言った時も。
槇ちゃんは、絶対に沢山我慢してるんだよ、きっと。

・・・・・・???



僚は不思議そうに己を見詰める香の頭を、ワシャワシャ撫でる。
今晩、秀幸は帰って来ない。
2人はもう、晩ご飯も食べたし、お風呂にも入って、パジャマにも着替えている。
後は、眠るだけ。




カオリン。

ん?

槇ちゃんにとってはね、カオリンは宝物なの。この世で一番大切なんだよ。
だから、幾ら俺と長い付き合いでも、そう簡単には譲れないんだよ。

そういうモノかな?

ああ、そういうモンなの。・・・もしもね、

・・・うん。

もしもカオリンが、俺じゃない知らないヤツを連れて来て、ソイツと結婚したいって言ってたら、
俺だって、絶対に認めなかったと思うよ。どんなにイイ奴でも。

・・・ふ~~ん。なんか、複雑なんだね。

そういう事。

////で、でもね、リョウたん。

ん?

わ、私。多分、どんな風になってても、リョウたん以外の人なんて選ばなかったと思うよ/////

/////////まじか。

う、うん(頷) 私ね、中学生の時に初めて好きになったヒトは。   リョウたんだったから。

(//////////////////照。)



だからね私、リョウたん以外のヒトなんて、考えられないんだょ?







僚はもうそれ以上、お喋りなどする気は無かった。
突然ガバリと起き上がって、香を抱きかかえると、そのままベッドへ横たえて唇を重ねた。
僚の方こそ、香以外など考えられないと思っているのに。
軽妙に見えて、意外と照れ屋な30男は。
一回り年下の可愛い恋人に、
己が常日頃、照れ臭くてどうしても言えないような甘言を。
サラリと、囁かれてしまった。
心底愛している相手に、同じだけ愛されてしまっている。こんなどうしようもない自分が。
それならば。
その愛に応えるべく、キスをして、悦ばせて、守って、養って、一生、添い遂げるしか。
自分の愛を表現する方法は無いと、僚は思う。
そして。
どちらが先に召されても、幸せな人生だったと言えるように。言って貰えるように。
僚は息をするように自然に、香を愛し続けるつもりだ。末永く。


今現在秀幸が考え中なので、2人の結婚問題は1㎜も進展はしていないけれど。
香は、近々結婚したいという事は、去年のうちには社長に伝えた。
突然言って、急に仕事に穴をあけるワケにはいかないし、
ゆっくりと社長と話し合った結果、
ちょうど入社から丸1年、3月一杯までは頑張ってみよう。という結論を出した。
そして、社長が是非にと提案したのは。
ウェディング・ドレスを、デザインさせて欲しい。という事だった。
香は僚にも逐一、仕事を辞めるタイミングと、ドレスの話しを報告した。
僚はニッコリ笑って、賛成してくれた。
仕事の事は香の納得いくように決めればイイし、ドレスは楽しみにしとく、と。
だから、2人には何の障壁も無い。
唯一、秀幸のシンキング・タイムを除いては。










バレンタインデーの前々日。
祖父に協力して貰っていた、例のネットの件に動きがあった。
香はあの事件は、11月の終わりのあの時に解決したと思っていたけど、
どうやら僚は、密かに動いていたようだ。
狙いは、個人情報を晒した発信者を突き止める事。
そして、その日漸くそれは判明した。
犯人は、香と絵梨子の中学時代の同級生で、意外と近所に住む19歳の女だった。
僚は香にその話をする前に、絵梨子に連絡を取った。
2人がどの程度、その女と付き合いがあるのかを探る為だ。
下調べ無しに、香へその話しをするには、あまりにもショックが大きいかもしれない。


結果は、絵梨子はその相手の名前を聞いて、
あぁ、何となく覚えているような気がする。といった程度だった。
香はどうだろう?と、僚が訊ねた絵梨子の答えは、多分覚えて無いんじゃないかな。というモノだった。
絵梨子曰く。
私達とは、全く違うグループに居た子だから。との事。
それでも、卒業アルバムさえあれば、お互いの住所まで判ってしまう。
とある掲示板では、香の本名を晒した彼女は、
別の所で、槇村家の住所を晒していたのだ。
一歩間違えば、香の被害は何処まで及んでいたか解らない。
たとえ彼女が、まだ19歳の未成年で、香の同級生だったとしても。
僚にとっては、殺してやりたい、クソ女だ。


僚の報告を聞いて、秀幸は警察官として彼女の自宅に赴いて任意同行を求めた。
例のストーカー本人から、あのネットの個人情報を閲覧して、参考にしたという自供も得ている。
香に怪我は無かったとはいえ、脅迫行為、暴行未遂などの罪は意外と重い。
そして、その事件に一部であるといえ、彼女も加担したのである。
事情聴取をされるのは、自然な流れである。
ネットでのそういった行為は、意外と軽視されがちだが、それは相手を特定できないからである。
僚の執念と、祖父の力があれば、アッサリ特定出来てしまうのだ。恐ろしい事に。
僚と秀幸は、散々迷ったけれど、香に報告だけはしておこうという結論を出した。
今回の事件の当事者は、あくまで香なのだ。
香にも、知っておく権利はあるだろうと。


けれど、タイミングは最悪だった。
年が明けて何かと事件続きで、いきなり忙しくしている秀幸が、
たまたま一緒に夕飯を摂れたのが、バレンタイン当日で。
次一緒に飯食う時にでも話すか、という兄達の打ち合わせ通り、
和気藹藹のムードで終えたバレンタインディナーの後に、それは香に報告された。





「・・・それで、その彼女は逮捕されちゃうの?」

案の定香は、自分の身が危険に曝された事や、警戒の為に日常生活に不便を強いられた事は、
すっかり思考から抜け落ち、その元同級生の身を案じた。

「今はね、まだ聴取の段階だよ。これからの、彼女の話し次第だよ。」

秀幸が、淡々と説明する。

「でも。・・・もう事件は解決したんだし。けが人もいないし・・・逮捕されないよね?」

「・・・残念ながら、たとえ軽い罪だったとしても、何らかの違法行為には当たるだろうね。」

「っそ、そんなっっ・・・」

「なぁ、香。今回は、無事に解決出来たけど。必ずしも毎回、そう上手くいくとは限らないんだよ?
 運が悪ければ、お前が殺されていたかもしれないんだ。
 ・・・お兄ちゃんたちは、香ほど優しくないからね。たとえ、軽い罪でも彼女を許せないんだよ。」

「彼女、何してるの?学生さん?働いてるの?」

「大丈夫だ、香が心配する事じゃ無い。彼女もきっと、反省してるから。」




香の表情は、全く腑に落ちたモノでは無かった。
同じ学舎で、時を同じくして学び、平等に未来があった、彼女と自分の道を分けたもの。
一体、それが何なのか。
深い大きな河を挟んで、まるでお互いが対岸に立たされたような気がして。
香はワケも無く、悲しくなった。
夕食までは3人幼馴染み水入らずで、楽しく過ごしていたのに、
香は暗い表情のまま、自室へと引き上げた。
やはり、付き合いの無かった相手とはいえ、香には多少なりともショッキングだったようだ。
間の悪い日は、何処までも悪いモノで。
そんな晩に、秀幸には緊急招集が掛かった。


「・・・香の傍に、ついていてやってくれ。」

秀幸が玄関先で、廊下の先の香の部屋のドアにチラリと視線を寄越しながら、僚に言った。

「あぁ、解ってる。」

「・・・・・なぁ、僚。言うべきじゃ無かったかな?」

「いや、そうは思わんよ。大丈夫だ。カオリンは、自分で考えて受け止める事の出来る子だから。」

「そうだな。・・・ふふっ、もっと信じてやらんとな。アイツの強さを。」

「あぁ、気にせず行って来いよ。冴子が、お待ちかねだぜ?」




頼んだぞ。ああ。









僚が香の部屋に入ると、香は布団を頭から被ってベッドの上で、入り口に背を向けて寝転んでいた。
電気も消したまま、部屋の中は真っ暗だ。
僚はゆっくりとベッドに近付くと、ベッドの傍らのカーペットの上に座る。
そっと手を伸ばして、布団の上から香の頭を撫でる。
今、目の前の恋人が何を思っているのか。僚はひとつ残らず、知りたいと思う。
もしも心に見えない傷を負ったのなら、優しく手当してやりたいし、
僚で出来る事ならば、どんな我儘でも聞いてやりたいし、
不安な気持ちになっているのなら、その華奢な体を抱き締めてやりたいと思う。
そう思いながら、僚は彼女の頭を撫でる。


暫くして、香はもそもそと寝返りを打つと、そっと布団から顔を出した。
暗くて表情は良く解らないけれど、微かに瞳が潤んでいる事は、
微かに入る光の加減で、僚の目にはハッキリと解った。


リョウたん?

ん?


香の声は、少しだけ掠れている。


どうした?

・・・おみくじ。大吉だったのに、今年はイヤな事ばっかり。


そう言って、香はスンと洟を啜る。
今年の初詣も例に漏れず、香のおみくじは大吉だった。
僚は布団の中にそっと手を差し入れる。
香の華奢な手を握る。
僚の手に、薬指のリングが触れる。


でも、イイ事もあるじゃん。

なに?

結婚するし、俺と。

・・・・・・それも。お兄ちゃんは、反対みたいだし・・・


僚は香の瞳を、ジッと見詰める。
暗さにも慣れてきた僚の目は、少し戸惑ったような香の瞳が揺れるのを見逃さない。
ベッドに少しだけ凭れて、香の額にキスをする。


俺はするよ、必ず。いつかは、槇ちゃんも賛成してくれると思ってる。

そうかな。

うん、親友の俺が言うんだから、間違いない。だから、諦めないでよ、カオリン(泣)



眉尻を下げておどける僚に、香は漸くクスッと笑う。
僚はニヤッと、口角を持ち上げると、香のシングルベッドに遠慮無く潜り込む。
香を抱き締めて、慰める。
これから先、どんなイヤな事があっても、僚だけは香の味方だと、自らの行動で何度でも伝える。










それから更に数日後、僚と秀幸は一軒のバーに居た。
2人のマドンナは、今日は女子会だ。
絵梨子の家で、香と絵梨子と青木(一応、ジャンルは女子。)の3人で、パジャマパーティだそうだ。
深く考えないようにしている香だったケド、やはりまだココのとこ何処か晴れない表情だ。
事情を知っている彼女たちが、香を慰める為に企画したのだ。
そんなワケで、愛しの妹と恋人に振られた幼馴染みたちは、飲み会だ。
初めは、他愛の無いバカ話に興じる2人だったが、酒が進むにつれて僚がその話題を持ち出した。



・・・なぁ槇ちゃん、そろそろ考えてくれた?


そう言われれば何の話しか、秀幸にも皆まで言わずとも解る。
香の嫁入り問題だ。
秀幸は、神妙な面持ちで僚に体ごと向き直る。



まだ、早いんじゃないか?香はまだ19になる手前だし、仕事だって始めて1年も経って無いじゃないか。

だからその仕事を、辞めさせたいんだっつーの。



それは、僚のまごうこと無き本音だ。
あの例の事件は、まだ何処か3人の心の奥で確実に尾を引いている。
今回の犯人は、何事も無く捕まったけれど、次何も無いとは限らない。
僚としては出来るだけ早目に、あんな目立つような仕事は辞めさせたい。
香には、直接は何も言わない僚だけど、僚の本音を香に覚らせる事の無いまま、
幸せな寿退社で、幕を引かせたいと思っている。
秀幸は、僚の意図など解り過ぎるほど解るので、途端黙り込む。




ならさ、いつだったらイイの? いつなら、槇ちゃん的には早くないワケ?

・・・・・・・・・・。

(要は、嫁には出したくないって事ね、タハハ。)



黙り込む秀幸に、僚は思わず苦笑する。
秀幸の割り切れない気持ちなど、僚にも痛いほどよく解る。



ま。俺は何年でも待つから、良く考えてよ。俺が言うのも、変な話しだけどさ。
槇ちゃんの気持ち、すっげぇ解るし。
俺がもしカオリンの兄貴だったら、乱暴なのは承知で、一生嫁になんか出さねぇと思うし。



そんな事を言う娶る張本人に、秀幸は思わずフフッと笑う。
勿論、良く解っている。
妹も親友も、自分の答えを気長に待っていてくれている事を。
自分自身が、子供染みた時間稼ぎをしているに過ぎない事を。
それでも秀幸は、まだ腹を決められないでいる。
香が嫁に行く。
自分の妹である前に、僚の妻になる。
自分がいつだって優先だった事が、全て夫優先になる。
別の所帯を持つ。
何よりそんな大仰なこと以前に、香の居ない家に毎日帰る事。
全てが、秀幸にとってはまだまだ受け入れがたい事だらけだ。


今はまだもう少し、自分だけの妹であって欲しいと、秀幸は思う。



(つづく)







第22話 お花見

槇村家の小さな庭には、まだ若い桜の樹がある。
その香と同い年の桜は、香が生まれた数日後に、父親が苗木を植えたモノだ。
だから実年齢としては、香よりも一足早く“成人式”かもしれないけれど、
それでもこれから先、何十年、何百年と続く彼らの命からすれば、まだホンのひよっこだ。
それでも、毎年健気に薄ピンクの花を咲かせる。



言い出しっぺが誰だったのかは、定かでは無いが。
まだまだ五分咲きの槇村家の庭で、花見が催される運びと相成った。
チラホラ蕾が綻び始めた、3月末日。
香は1年間頑張ったモデルの仕事を、辞めた。
ついひと月と十日ほど前僚に、仕事だってまだ本格的にやり始めたばかりだし、と言った秀幸は、
実の所、香が仕事を辞めて一番ホッとしている張本人だ。
だから、あれはただの言い訳で、本心では未だ香の嫁入りへの覚悟が出来ていないだけの事だ。
その事は、誰あろう秀幸本人が最も自覚している。
お花見と、香のお疲れさん会と、親友飲み会と、色々な意味合いのお花見だ。



メンツは、槇村兄妹に、僚にミックだ。
いつもと大して変わり映えのしないメンバーだけど、4人は仲良しなので気にしない。
秀幸以外は、時間に余裕のあるメンバーなので、スケジュールは秀幸次第だった。
桜はまだまだ五分咲きだったけど、次の彼の非番を待つとなれば確実にお花見ではなく、
お葉っぱ見になるので、この際贅沢は言えない。
香と秀幸は、昼間から2人でキッチンに立ち、僚とミックは、買い出しに出掛けた。
沢山の料理やつまみを作りながら、秀幸と香は色んな話をしたけれど、
“結婚”の事だけは、相変わらず話せる雰囲気では無い。
正直、香はその点について、兄には大いに不満があるけれど、
その度に僚の言葉を思い出して、グッと堪える。



『槇ちゃんにとってはね、カオリンは宝物なの。この世で一番大切なんだよ。
 だから、幾ら俺と長い付き合いでも、そう簡単には譲れないんだよ。』



香も兄が大切だ。
僚とどうしても結婚したいけど、兄に喜んで貰えないのは、やっぱり悲しい。
それでも、この僚の理屈からいけば、相手に関する問題では無いようなのでそこが唯一の救いだ。
それにいつかみたいに、怒り狂って絶交と言ってるワケでは無いし。
香と僚の付合い自体には、異を唱えているワケでは無い。
だからきっと、僚の言う通り今は秀幸も、“心の準備”をしているのだろうと、
香は自分自身を、半ば無理やり納得させる。






香は少しだけビールを飲んだ。
秀幸は顔を顰めていたけど、元来口先の達者なミック・エンジェルの屁理屈に丸め込まれて、
渋々、見て見ないフリを決め込んだ。
香は漸く19で、本当ならあと丸1年、お酒とたばこは法律違反だ。
法学部卒2名(うち1名、司法試験合格)、警察官1名というメンツの中で、
何とも緩~~~い感じだが、僚&ミックvs秀幸という構図になれば、秀幸が折れるほか手立ては無い。
けれど。
僚以外は知らないのだ。
とっくの昔、去年のクリスマスに。香が初めてお酒を飲んだ事。
それは、香と僚だけのささやかな秘密だ。
いつまでも、子ども扱いする兄をヨソに、妹は確実に大人になっている。
恋をして、お酒を覚えて、秘密を持つ。
その甘い媚薬のような人生の喜びを、香は最愛の恋人によって教え込まれた。






2月下旬の、僚と秀幸のバーでのやり取りからも、軽く1カ月以上が過ぎている。
けれど結局、何ら進展は無い。
否、それでも秀幸としても、毎日ずっと考えているのだ。
考えない日など無い。
少しづつ、秀幸の心は2人を祝福する方向へと傾いている気がしないでもないが、決定打はまだ無い。
この所、3人でいても不自然に、“とある話題”を意図的に避けている感は、否めない。
3人で一緒にテレビを観ていて、
結婚情報誌のCMや、結婚相談所のCMや、ウェディング・ドレスのCMが流れると、
槇村家のお茶の間は、何とも言えず微妙な空気に包まれる。
それが嫌で、最近では専ら香は洋画のDVDばかり見ている。
しかしそれとて、ラブストーリーは意図的に避けている。
最近の彼らには地雷が多すぎて、言葉を選んで会話をする事に、正直全員疲れ気味だ。



だから、ミックがその発言をした時に、3人は完全に固まった。
思わず僚はミックの脛を、蹴り上げた。
昔から彼は、肝心なところで空気を読み違える才能を持ち合わせている。


で?式はいつなのさ?やっぱり、6月?



香は完全に聞こえないフリをした。
僚はフリーズしながらも、ミックに蹴りを入れた。
なので、秀幸は思わず苦笑する。
改めて、周りの人間にどれほどの気を遣わせているのかを、痛いほど自覚させられる。


・・・ま、まだ。ハッキリと決まった訳じゃないしなぁ。


小さな声で呟かれた秀幸の曖昧な一言が、どうやらその晩の地雷のスイッチだった。
爆発したのは、香。



・・・お兄ちゃん、もうイイよ。もうヤダ。もう疲れた。
私、今までお兄ちゃんに賛成して貰うまでは、結婚できないと思ってたけど。もういい。
もしもこのまま、お兄ちゃんが私達の事お祝いしてくれなくても。私、リョウたんと結婚します。
お兄ちゃんが嫌なら、結婚式にも出て貰わなくても構わないし、
こんな我儘な妹なんか、縁を切って貰っても構わない。
それでも、私はお兄ちゃんを愛しているし、尊敬もしてる。それは、死ぬまでずっと変わらないから。
だから、もう私。
リョウたんと結婚するの。
リョウたんと結婚して、世界一幸せになって、そしていつか笑って死ぬの。
だからもういいよ、お兄ちゃん。
私も勝手にするから、お兄ちゃんも勝手にしてっっ!!!!



途中号泣しながら、香は一息にそう宣言すると、それっきりその夜は部屋から出て来なかった。
鍵の掛けられたドア越しに、僚が何度も声を掛けたけど、香は開けてはくれなかった。



香が自室に引き上げた後の縁側で、悪友3人はしんみりと酒を酌み交わした。
ミックは、何度も秀幸に謝った。
僚は何とも言えない顔で、苦笑した。
そして、当の秀幸は。
まるで魂が抜けた、抜け殻のように呆然としていた。
確か、2年前の雪の夜に自分自身に誓ったんじゃ無かったか。
自分の感情だけで、香を理不尽に泣かせる事だけは、絶対にしないと。
それなのにまんまと、同じ轍を踏んでしまった。香を泣かせた。
僚に何度も、香を泣かせるな、香を傷付けるなと、口を酸っぱくして言い続けてきた己が。
結局、香を一番傷付けている。
偉そうに兄貴面して、一番未熟なのは恐らく自分自身なのだろうと、
秀幸は自己嫌悪の真っ只中に、浸っていた。




ビール1本分のアルコールと泣き疲れた眠気によって、熟睡していた香が目覚めたのは、明け方だった。
もう外の世界は、すっかり春で。
枕元の目覚まし時計は、6:00少し前を指していても、カーテン越しの窓の外はもう明るい。
昨夜、香は鍵を開けなかったので、もしかしたら僚は昨夜は泊まらなかったかもしれない。
それは、完全なる八つ当たりで。
香は少しだけ悲しくなった。
勿論、自分が昨日兄に投げ掛けた言葉は、ハッキリと覚えている。
あれは本心であり、本心では無い。
勿論、兄に縁を切られて構わないなんて、香は微塵も思っていない。
それでも溢れ出る言葉は、自分でも止められなかった。
言いながら、自分の言葉に自分が傷ついた。
そして、何よりきっと。
秀幸を傷付けた。



仕事が忙しくて、すれ違ってばかりの父に代わって、期末ごとの通知表を1番に見せるのは兄だった。
学年で誰よりも上手に一輪車に乗れるようになって、得意げに披露したのも、褒めてくれたのも兄だった。
友達とケンカをして帰って八つ当たりをする香を、優しく受け止めてくれたのは兄だった。
生まれて初めてバレンタインのチョコレートを贈ったのも、兄だった。
料理を教えてくれて、トイレ掃除を出来ない子はお嫁に行けないよ、と言ったのも兄だった。
父を亡くして、兄と2人だけの家庭で。
初めての生理も、初めてのブラジャーも、何もかも兄には相談した。
兄は兄以外に、父親であり、母親であり、役割を超えた大事な家族だ。
その兄と絶縁する事など、香が出来ない。
香はタオルケットに顔を埋めて、少しだけ泣いた。



その時、小さく控え目にドアをノックする音が聞こえた。
先程から香は、キッチンで秀幸が動いている気配には気が付いていた。
多分、もうすぐ仕事へ行く。
その前に、香は謝っておかないとと思った。
秀幸は刑事だ。
父も刑事だった。
父は、仕事中に命を落とした。
もしもこんな風に、兄を傷付けたまま、秀幸が香の前から居なくなってしまったら。
香はきっと、一生後悔する。






カチャリ。


目の前で、妹の部屋のドアが開く。
昨夜、香が泣きながら部屋に籠ってしまったのは、ホンの数時間前の事なのに。
秀幸には、随分その数時間が長く感じられた。
昨夜は殆ど、眠れなかった。
けれど。
もう腹は決まった。
僚以外、香の相手として、相応しい男がいるだろうか。
答えは、NOだ。
どうあがいても、どんなに問題を先送りしても、いづれ先々で香を嫁に出す事になるのなら、
それはきっと、今なのだろう。
秀幸の想像していたより、随分早くその時が訪れてしまったけれど。
香が幸せになるのなら。
早いも遅いも、関係無いだろうと、秀幸は昨夜ハッキリとそう覚った。
どうやら妹が、この小さな巣を巣立つ時がやって来たらしい。
それなら自分は、精一杯その羽ばたきを応援してやるだけだ。






ドアを開けて出て来た香は、昨夜のままの服装で。
泣き腫らした目が、少し赤い。
秀幸の胸が、チクリと痛む。


ごめん・ごめんなさい


謝ったのは、2人ほぼ同時で、声が重なる。2人は、思わずクスクス笑った。
2人ともちゃんと解っているのだ。
お互いの、苦しい、割り切れない、でも成長する為に必要な胸の痛みと、感情を。
そして、心から願う事は、ただただ幸せに生きる事。




香。
なぁに。
幸せにならなかったら、承知しないぞ。
うん。
お前が悲しむような事があれば、俺はいつだってアイツの元から連れ戻すから。
うん。
お兄ちゃん。
ん?
大好きだよ。
あぁ、知ってる。




漸く、妹離れが出来る(?)かもしれない、槇村秀幸(32)。
麗らかな春の朝の事だった。


(つづく)


最終話 Junebride

リョウたん、私これがイイ。
じゃあ、それに決めようか?




2人が選んでいるのは、寝室のカーテンだ。
リビングや、そのほかの部屋もつい数十分前に決まった。
2人はインテリア・ショップで、この数時間、1人の中年の女性店員のアドバイスを受けながら、
カタログや、見本生地を見比べつつカーテンやラグを選んでいる。
女性店員は、やたらめったら、
“新婚さんには、コチラなんか人気ですよ。”とか。
“寝室は新婚さんにとっては、一番大切ですから”とか。
“新婚さん”発言を連発している。
その度に、いちいち真っ赤になった香は。
“あ、あのまだ。け、結婚式は6月だから・・・”とか。
“あの。まだ、奥さんじゃないです。”とか、しどろもどろで言わなくてもイイ返しをしている。




僚はそんな香を、いちいち可愛いなぁと思いながら、それでも突っ込まずにニヤニヤしている。
春先に、漸く秀幸が2人の結婚を前向きに考えてくれるようになった。
キッカケは、ミックの発言に端を発した“お花見事件”である。
ミックに自覚は無いが。
僚と香にとって、ミック・エンジェルは文字通り、愛のキューピッドだった。
当のミックは、僚が結婚できるんなら、ボクだって婚活するなんて言いながら。
相変わらず、派手に夜遊びをやっている。
曰く、出会いを求めてアグレッシブに、婚活中との事。
そんな彼にも、僚は敢えて突っ込まずにいる。



式までは、もう後3週間だ。
先日、香が着るドレスが完成したと、僚は報告されたけど。
残念ながら、まだそれを見る事は出来ない。
絵梨子と青木によれば、新郎はバージンロードに新婦が登場するまで、その姿を見てはいけないらしい。
可愛らしい迷信に過ぎないけれど、女子とはそんなジンクスを大切にしたい生き物らしい。
今の所、香のそんな美しい姿を拝めたのは、オフィス・キタハラの面々と、青木と、秀幸だけだ。
秀幸は、この所何かにつけて、すぐに泣く。
結婚のお許しは貰ったものの、3人で一緒に食事をしている時などに、
突然、涙腺が崩壊して、センチメンタルになる30男に、新郎新婦は正直閉口している。
その妹のドレス姿を、仕事の途中で抜けて見に行った秀幸は、
その晩、案の定おいおい泣いた。
僚はもう最近では、これも一つの結婚前のイベントの一環だと思って、割り切っている。



そして、ドレスに関しては、香もまた一方ならぬ想いがあるらしい。
ドレスの試着の為に、絵梨子の元を訪れた日の晩。
香のシングルベッドで、1ラウンド終了した後で、僚は腕の中で甘える恋人にその話を聞かされた。
初め、ドレスのデザインを任せて欲しいと頼まれた香は、
てっきり社長である北原氏が、手掛けるモノだとばかり思っていたけれど。
実際、それをデザインしたのは、絵梨子だった。
絵梨子の記念すべき、初めての作品は親友のウェディング・ドレスだったのだ。



勿論、香は一目見てそのドレスが気に入った。
真っ白では無く、少しだけ生成りがかったような、真珠色。
香の持って生まれたスタイルの良さを、最大限活かせるように、
体に寄り添ってフィットしつつも、裾にかけて流れるようなフォルム。
至ってシンプルで、刺繍などのごてごてした装飾は一切無し。
ウェディング・ドレスでは珍しく、背中が大きく開いたデザイン。
香の肌の色や、背骨や鎖骨までも計算に入れた上での、引き算の美しさ。
香には、子供っぽいリボンやお花や、刺繍なんかは似合わない。
と、絵梨子に熱っぽく語られて、香は多少引き気味にドレスに袖を通したのだが、
集まってくれた兄を始め、青木や、社長や、元先輩社員や、元上司たちに、
綺麗だ綺麗だと褒められて、漸く結婚するんだという実感を噛み締めた。
そして、
誰よりも、僚に早くそのドレスを着た姿を見て貰いたかった。
2人に関わる全ての人に、幸せになりますと宣言したかった。



リョウたんにも、早く見せてあげたいの。



腕の中で、香が頬を染めてニッコリ笑う。
僚は正直、結婚式なんて柄じゃないけれど、それでも香が楽しんでいるのならそれに越した事は無い。
そして恐ろしい事に、僚自身が身に着けるシルバーグレイ(!)のフロックコートも、
北原氏プロデュースにより、着々と準備が進められているらしい。
僚は式当日まで、極力自分自身の事は棚上げにする事に決めている。
考えれば、考える程、恥ずかしくなってくるからだ。
だから僚は結婚式の話題は、一時中断して、19歳の花嫁の唇をもう一度塞いだ。








結婚式の1週間ほど前に、香に1人だけで遊びにおいでと、僚の祖父からお呼びが掛かった。
僚の実家の応接間で、祖父に手渡されたモノは、
雫の形をしたクリスタルのトップが揺れる、シルクのリボンのチョーカーだった。
美しい装飾品と、おじいちゃんの取り合わせに、香は思わず首を傾げる。


それはな、あれの母親が結婚式で身に着けたモノじゃ。

リョウたんの?

あぁ。

あやつは、写真でしか両親を知らんしの。子供の頃から、ずっと家族に憧れておったんじゃよ。

リョウたんが?

あぁ。のぉ、カオリン。

はい。

あれを、幸せにしてやってくれ。

はい。不束な嫁ですが、努力いたします。



結婚すれば、彼は香の祖父でもある。元より、小さい頃から香はおじいちゃんが大好きだった。
槇村家は祖父も祖母も、もう父方も母方も他界している。
香と秀幸は遠い親せき筋を除けば、ほぼこの世で2人だけの肉親だ。
それは僚とて、同じようなモノで。
この祖父の一人息子の、更にその一人息子。
僚にとっての肉親は、この祖父1人だ。
だから、僚にとって大切な家族は、香にとっても大切だ。


その翌日は、絵梨子と青木と一緒にランチをした。
事務所の近くに最近できた、小さな洋食屋のオムライスに、この所女子2人が嵌っているらしい。
他愛の無い話しをしながら、昼食を食べて、締めにケーキまで食べて。
最終的には、翌週に迫った結婚式の話題になる。


青木は、香に可愛らしい包みを差し出した。
なに?と、香が訊ねたら、いいから開けてみて?と、楽しそうに微笑む。
包みの中から出て来たのは、薄いブルーのガーターベルト。


青ちゃんだから、ブルーだよ。


そう言って、青木は笑った。
絵梨子から渡されたモノは、白い木綿のハンカチだった。
本当なら、借り物は既婚者の友人にというのが、デフォルトだけど。
19歳と20歳の彼女たちの友人の中で、結婚第1号は香なのだ。
中学の時から、ずっと親友だった絵梨子の木綿のハンカチはまるで、
中学の制服のセーラーの、白いリボンを思い出した。
初めて教室で口を利いた頃の2人は、この木綿のように真っ白な乙女だった。
2人はいつの間にか大人になってしまったけれど、中身は多分あの頃のままだ。


私より先に、香が結婚するなんて予想外だった。



そう言って、絵梨子が笑って見せた。
今はデザインやお洋服に夢中の絵梨子が、将来結婚する時には。
既婚者の友人として、香が何かを貸す事が出来る。
それは、ずっとずっと2人の友情が続いてゆく証でもある。





その夜、香は僚の部屋に泊まった。
秀幸は、今晩も帰って来られない。
僚と香は、夕方から新しいカーテンを吊るし、香の選んだクリームイエローの毛足の長いラグを、
リビングのソファの前に敷いた。
香がたらこのパスタと、ゴボウサラダを作って、僚が脂の乗った鱸を酒蒸しにした。
2人で時間をかけて食事をして、食後に香がコーヒーを淹れた。


カオリン。

ん~~?

これから、ずっと死ぬまで。こんな風に、コーヒーを淹れてね。

・・・・(涙)


香は、真っ赤な顔で涙を溢すと、コクンと頷いた。
泣くなよ、と言って僚は指先で、香の涙を拭う。
幸せだったのだ、物凄く。
こうして、色んな人から愛されている事が。
愛しい人に、ずっとコーヒーを淹れてくれとお願いされる事が。



カオリン、これ。



僚が、立ち上がってテレビの置かれたキャビネットの上から、白い包みを持って来る。
香はもう何となく、解ってしまった。
ソファに座る香の傍に、僚がやって来る。
真新しいラグの上に、胡坐をかいた僚が香の形のイイ脚を、スッと撫で上げる。
たったそれだけの事で、香の背筋に微弱電流が走る。
ショートパンツから伸びた香の綺麗な脚に、僚が唇を寄せる。
唇をキュッと引き結び眉根を寄せる香を、僚は上目遣いで見上げながら、呟く。



これね、絹の靴下。新しいモノを何か、新調しないとね。



そう言って、式当日にはその新しい靴下に包まれる予定の形のイイつま先に、僚は恭しくキスをする。
そこから先は、いつもの如く。
まずは軽く、ソファとクリームイエローの新婚さん仕様のラグの上で、2人は愛し合った。





幸せな花嫁に。
何か新しいモノを、これからの新たな未来の為に。
何か古いモノを、先祖や家族の絆をより深める為に。
何か借りたモノを、友人や良き隣人に恵まれるように。
何か青いモノを、聖母マリアにあやかって清い愛を貫くために。



2人の前には、まだまだ新しい真っ新な未来が続いている。















6月のその日。
空は真っ青に晴れ上がり、夏の少し手前の爽やかな風が穏やかに吹いていた。
梅雨の真っ只中の、たったの1日。
奇跡のような晴れ間だった。
それは多分、初詣の香の大吉おみくじの効果だろうと、僚は考えている。
僚の嫁は、何だか得体の知れない強運の持ち主なのだ。
僚は香に関して多少の事では、驚かない。


アッシャーの2人は、僚とミックの大学時代の友人の中から、見栄えのするメンツで選考した(笑)
ベストマンは、勿論ミック。
日頃の素行を鑑みると、結婚式自体が場違いな、罰当たりなプレイボーイだが、
秀幸は今日は、“花嫁の兄”なので、致し方ない。
ブライズメイドは、絵梨子ともう1人、高校時代の共通の友人で、あと1人は。
香のたっての希望で、青木繁が務めた。
青木は、自分の人生の中で、友人のブライズメイドを務める事が出来るなんて、
思ってもみなかったので、思わず大爆笑した。
やはり香は、初めて会った初出社の日から、相変わらず面白い子だと青木は思う。
モデルなんかにしておくには、勿体無いと青木はいつも思っていた。
そしてこの結婚式で、改めてその自分の考えは間違っていなかったと確信した。


厳かに幕を開けた式の皮切りに、アッシャーの2人が真っ赤な絨毯を転がした。
祭壇の脇には、ニヤニヤと笑いを噛み殺したミックが立っている。
僚のフロックコート姿が、どうやらミックの笑いのツボを刺激するらしい。
神父さまは、横目でチラリとミックを見ると、小さく咳払いをした。
ブライズメイドが、1人づつ入場する。
通常、ブライズメイドは揃いの衣装を準備する。
けれど、青木繁がドレスを着るワケにもいかないので、
彼は色だけ揃いの、薄いピンク色の細身のスーツを着ている。
勿論、そんなものは何処にも売って無い。
もう半分やけくそで、北原氏が作ってしまったのだ。
持つべきものは、デザイナー兼親友の父である。


ブライドオブオナーの絵梨子が、3番目に入場する前に、もう一度香を振り返る。
絵梨子自身がデザインした、ウェディングドレス姿の親友は、今まで見たどの時より、美しく輝いている。
絵梨子は、今日何度目かのハグをする。


香。
なあに。
綺麗だよ。
ありがとう(笑)、緊張する~~~。
大丈夫だよ、楽しんで。
うん。


絵梨子は、香のベールを少しだけ整えると、バージンロードに向かった。
そんな妹たちの遣り取りを、斜め後ろから見守っていた秀幸が、そっと香の隣に並ぶ。
いつもは寝グセだらけで猫背の兄は、黒いタキシードを着て髪の毛もきちんと、青木にセットして貰った。
なんと、秀幸は眉毛までカットされて整えられた。
青木曰く、男前度が3割増しだそうだ。
秀幸がそっと腕を差し出す。香も微笑んでそっと手を添える。
それまでずっと、朝から緊張し通しだった香は、秀幸の隣に立って何故だかとても落ち着いた。
教会に鳴り響く厳かなオルガンの音色が、転調したのを合図に、
槇村兄妹は、赤い絨毯の上に一歩踏み出した。


ねぇ、お兄ちゃん。何だかヘンな感じだね。

ヘラヘラ笑っちゃダメ、もっと神妙にして。



結局の所、槇村兄妹は相変わらずで。
バージンロードを歩きながら、誰にも聞こえない程の小さな声でお喋りしている。


お兄ちゃん。

ん?

幾らお仕事で疲れてても、湯船で眠っちゃダメだよ。

ああ。

シーツ洗うだけじゃなくて、たまにはお布団も干してね。

ああ。

寝グセついたまま、出掛けちゃダメだよ。

ああ。




いつの間にかバージンロードも、もうそろそろお終いで。
もうすぐ目の前には、フロックコート姿の新郎が佇んでいる。
今この時、初めて見る新婦の姿は想像以上に美しく、新郎はすっかり見惚れている。



香。

はい。

絶対に、何が何でも、世界一、幸せになってくれよ。

うん、行って来ます。

帰って来るんじゃないぞ。

はい。









そして妹は、19年間傍にいた兄の腕から、するりと抜け出して。
一歩前に進み出る。
新郎が、左手をそっと差し出す。
新婦は、そこにそっと右手を重ねる。
2人が手を取り合って、祭壇の前に進み出る。






これで完全に秀幸の小さな妹は、僚の妻になってこれから先の幸せは僚に託された。
親友で幼馴染みの悪友は、出来の悪い、憎たらしい、でも超絶イイ男の。
秀幸の義弟になった。
これで、幼馴染みの3人は本当の兄妹になった。













1カ月後、冴羽家リビング。





カオリン、拗ねてんの?

だって、キングボンビーの時にワザと上通って行かなくてもイイじゃん。

しょうがないなぁ、じゃあお兄ちゃんの電車の上通って行っても良いぞ。

やだよ、お兄ちゃん稚内じゃん。目的地、飫肥だから。

って事で、目的地一番乗りは俺だな。






幼馴染み3人は、結局何も変わらない。
3人集まって、食事して、遊ぶ場所が、槇村家茶の間から冴羽家リビングに変わっただけだ。
昔は僚が、しょっちゅう槇村家に入り浸っていたが、
今では、仕事が忙しいクセして、秀幸がしょっちゅう冴羽家に入り浸っている。
多分、槇村香は宣言通り、世界一幸せになる。





(おしまい)
















いっやぁあ~~~、終わりましたっっ。
めおとへの道のり。
今までで、もっとも長い全23話。ようやっと、完結致しましたっっ(汗)
実は、メオトシリーズの結婚までの道のりを書いてみようと思ったのは、
ある朝、目覚めたばっかりの、寝惚けた脳内の発想でして(爆)

いやぁ、寝起きって怖いすね(テヘ)
軽々しく、ネタを着想するもんじゃないっすよ、マジで。
でも、何とか結婚出来て、鶴亀です(*´∀`*)

この後は、実はある大尊敬の絵師様による、リクエストもお受けしており。
また、何か楽し気なお話しをアップ出来たらな、なんて考えておりまぁぁっす!!
それでわ。
長々と、最後までお付き合い下さいました皆様方。
並びに、温かい拍手とともに、楽しみにして下さる旨のコメントをして戴いた、皆々様方。
誠に有難うございました m(_ _)m
更新を続ける、モチベーションになりましたっっ(感謝)

ばははぁぁ~~~い (´∀`◎)ノシ


1st. まじすか。

※  このお話しは、7878でキリ番を踏まれた、ワタシの敬愛するnase様より、
   戴きましたリクエストを元に、書いてみました(*´∀`*)一応、全5話の予定です。
   
   設定は原作の2人、ラブ度は原作終了後~合体未満でっす❤ それでわ、参ります。
   (因みに、nase様の素敵なサイトには、リンクでひとっ飛びです。Here,we go!)















それは、突然の出来事だった。
僚はいつだって香には、慎重に物事に当たれと、口を酸っぱくして言い聞かせている。
けれども。
涙脆くて、情に流され易く、お人好しで、他人が困っていたら放っておけない相棒は。
とても、イイ奴なんだけど。
毎日、心配し過ぎてオカシクなりそうなコッチの身にもなれと、常々僚は思っている。


この数年の長い付き合いの中で、何度香の無鉄砲な振舞で、僚は肝を冷やしたか。
当人は、恐らく解ってない。
小さな子供やお年寄りならまだしも、犬や猫が車に轢かれそうになったからといって、
いちいち、その命を差し出して救出に乗り出していたら、それこそ命が幾つ有っても足りない。
けれど、それを何度香に説いた所で、きっと無駄な事なんだろう。
それは、心根の問題である。
僚は時々本気で、相棒は天使なんじゃないかと思う事がある。
その分、ヤツは何だか良く解らない強運に、護られているような気もするのだ。
だから、大丈夫だと。僚は自分に言い聞かせる。


香が病院に運ばれたとの報せは、
アパートでゴロゴロしていた僚の元への、1本の電話によってもたらされた。
連絡してきた先は、その病院。
そして僚は今現在、若干イライラする心を誤魔化しつつ、ミニを運転しながら煙草を吸っている。
小さな車の、小さな灰皿は、もう既にキャパを大幅にオーバーしている。
相棒に見られたら、小言の1つも言われる状態だ。
しかしそんな事などどうでもイイ僚は、なかなか進まない車の列に、
思わず、コルク色したフィルターをギリギリと噛み締める。









「あ。どうも。」
香はペコリと、まるで男子高校生かというような雰囲気の、軽い会釈をする。
診察室から出て来た香を待っていたのは、見た所30代半ばぐらいのサラリーマンである。
酷く恐縮し、深々と頭を下げている。
「あ、あの。もう結構ですから。・・・掠り傷だし、ははは。」
香はそう言って笑う。







それは香が、午前中の伝言板のチェックに行った帰りの事だった。
香のすぐ後ろで、急ブレーキの音がした。
香が振り返った時、5歳ぐらいの小さな男の子がボールを追って車道に飛び出そうとしている所だった。
少し離れたところで、呆然と顔面蒼白で立ち竦んでいるのは、きっと母親で。
香は頭で考えるより早く、勝手に駆け寄っていた。
これでも、学生の頃は陸上部のエースよりも、早い記録を普通の体育の授業で打ち立てていた。
足の長さと、生まれ持った敏捷性が違うのだ。
いつも僚に言われる言葉は、すっかり忘れていた。


香が男の子を腕に抱いて、辛うじて舗道に滑り込んだのと、小さな黄色い塩ビのボールが、
車に踏まれて乾いた破裂音を立てたのは、ほぼ同時で。
香はあれがボールで良かったと、ホッと胸を撫で下ろしていた。
すぐさま周りには人だかりが出来、破裂音に驚いて泣き出した男の子の元に、
これまた涙を流しながら、母親が駆け寄る。
香に何度もお礼を言いながら、腰を抜かしたように、その場にへたり込む。
そして、ボールを踏みつけた、30代半ばサラリーマン風の運転手も真っ青な顔をして、車から降りて来た。


男の子は、何処にも怪我は無かった。
香も立ち上がって家に帰って、僚のブランチを作らないと、と思ったのも束の間。
いつの間にか現場には、あれよあれよと言う間に救急車が到着し、
香は有無を言わさずストレッチャーに寝かされ、気が付いたらこの病院に運ばれていた。
香は自分が膝や肘やオデコに、擦過傷を負って流血している事にその時初めて気が付いたのだった。
それでも、そんな香が考えていた事は。

あ、救急車初めて乗っちゃった(テヘ)ヘ~~、こんなんなってるんだぁ(驚)。

という、まるで子供のような心境だった。
だからこの時、僚が心配するかもとか。僚のブランチとか。
朝には、僚が起きたら僚のシーツを洗おうと思っていた事なんかは、すっかり忘れていた。
勿論、自分自身の怪我の事も。










「そんなに気に為さらないで下さい。」
「いえ、槇村さんのお陰で、僕はあの坊やを轢き殺さずに済んだんです・・・ホントに申し訳ないです。」
診察室の前の通路で、2人はぺこぺことまるで米つきバッタのように、
お辞儀の応酬を繰り返している。
そこに、件のイライラ男が登場した。



「香。」

あ、りょお。


この時、香は初めて(漸く)相方の事を思い出した。
やべ、また叱られる(テヘ)。と、心の中で舌を出す。









僚がその病院に到着して、外科の外来診察室と書かれた部屋の前に赴くと、
意外に元気そうな相棒の姿を、発見する。
それでも膝と肘とオデコに、白いガーゼを宛がわれ、その白い肌に痛々しい青痣を拵えている。
思わず僚の眉間に皺が寄る。


「僚、どうして?」
「・・・どうしてって、おまぁ。救急隊員に問診された時、連絡先書いたんだろ?だから病院から、電話があったんだろ?」
「・・・そうだっけ?えへへ。救急車なんか、初めて乗ったからなんか舞い上がってた(笑)」


そんな間の抜けた事を言って、えへへと笑う相棒に、僚は心底脱力して、苦笑する。
そんな僚に、運転手の例の彼が声を掛ける。


あ、あの。

なんだ?

貴方は?

あぁ、コイツの同居人。・・・病院から、連絡貰って。

ご主人でしたか。この度は、本当に奥様にご迷惑をお掛け致しまして。
お陰様で、助かりました。本当に、申し訳ありません。

///////(お、奥様って。汗)あ?あぁ。こっちこそ。コイツほんと向こう見ずなんで。



僚は内心、その男の言葉に妙に照れてしまう。
世間一般から見れば、自分達は夫婦なのかと。
まぁ普通、イイ歳こいた男女が“同居人”と言えば連れ合いの事か、と。
しかし、照れているのは、掠り傷の向こう見ずな天使も同じようで。
真っ赤になって、頭から湯気を立ち上らせている。
けれど、彼女の一筋縄ではいかない所は。
そんな状態でも、キッチリと訂正という名の、全否定をする所である。


///////(ご、ご主人て。)あ、あの。私達、別にふ、夫婦じゃないです、から。

あっ。それは。重ね重ね、申し訳ありません。彼氏さんにも、ご心配お掛けしたようで。



再び香は、真っ赤になって沸騰する。
僚はもう既に、諦めて否定も肯定もせずに挨拶だけすると、香を連れて帰ろうとする。
イイ歳こいた同居人の男女が夫婦でなければ、恋人だろう。普通。


あ、あの。

なに?

診察費は、保険で出ますので。

あぁ、そうしてくれると助かる。ウチ、貧乏なんで。

もうっっ、ばかっ。




そう言う僚の脇腹に、すかさず香からの肘鉄が決まる。
これが可愛い攻撃に見えて、意外とじわじわ効いてくるのは僚にしか解らない事である。











病院の駐車場で、ミニの助手席のドアを開けた瞬間。
鼻につく煙草の匂いと、灰皿の惨状に、
香はこの時初めて、相方に心配を掛けてしまっていた事に思い当る。
吸殻の吸い口には、苛立たしげな歯形が残っている。


伊集院夫妻の結婚式の時に僚から、実質“愛の告白”ってヤツを受けてから、早半年。
実は2人は、微々たるものながら少しづつ、その関係を進めてきた。
告白後の、初めてのクリスマスには、初めてデートみたいな感じで食事に行って。
2ヶ月前のバレンタインの日に、初めてのキスをして。
この2ヶ月、
僚は時々、香が忘れた頃に突然不意打ちに、キスをしたりする。
だから香は、ちょっと油断してると、心臓が止まるほどビックリする。


あ、あの。ゴメンね、僚。・・・迎えに来てくれてありがとう。


香がシュンと項垂れて、スンと鼻を鳴らす。
一応は、反省しているらしいと、僚は苦笑する。
前方の信号が折しも、黄色から赤へと変わる。
僚はゆっくりと、ミニを停車させると香の後頭部にスッと左手を添えて、掠めるようにキスをする。


じゃあ、お迎えの駄賃。貰っとく。

/////////。


香は思わず胸に右手を当てて、真っ赤な顔に左手でパタパタと風を送る。
僚はいつもいきなりで、心臓に悪い。
そんな香のリアクションに、僚はクスッと笑うと香に訊ねる。


で?怪我は?どんな風だって?

え、あぁ、え~~と。だだだだ大丈夫、みたい?

・・・なんだよ。みたいって。なんで、半疑問形なんだよ。聞いて無かったのか?医者の説明。

う。ぁあ(汗)いや、その。救急車で、掠り傷で、動揺してて。・・・聞いて無かったかも・・・


僚は思わず、呆れて溜息を吐く。
香はえへへ、と笑いながら頭を掻いている。
このやろ、やっちまうぞ(この場合のヤルは、モッコリね)。なんて、僚は腹の中で思う。


あ、でも。なんか、レントゲンとか色々やって貰ったし。異常は無いって(焦)。

・・・そうか、んなら良かった。おまぁ、あんま無茶すんじゃね~~ぞ(怒)

・・・ごめん。


それでも、僚は意外と怒って無くて。
むしろ心配の方が、ひしひしと伝わって来て。
香は、胸が痛む。
解っている。僚は香が怪我をする事をとても嫌がっている事は。
それでも、あんな状況で見て見ぬ振りなんて、香にはとてもじゃ無いケド出来ないのだ。
香は溢れそうになる涙を誤魔化す為に、ずっと窓の外を眺めている。
暫くして、僚が真っ直ぐ前を向いたまま、ぶっきら棒に呟く。



てか、おまぁ。

へ?

全否定すんじゃねぇよ。

は?なにを?

ご主人と、奥様(ニヤリ)

/////////。

なに?照れてんの?かあ~いい~~~、カオリン♪



僚は自分だって、しっかり照れていた事を棚に上げて、香をからかう。
第一、ちょっとだけ面白くなかったのだ。
自分達の、というか自分の気持ちを、香が気付いて無いようで。
僚は香が思っている以上に、香の事を愛しちゃっているという事に。
あんな風に、気持ちが通じる前の昔みたいに、全否定されると正直凹む。
それが、香の人並み以上の照れ屋な性格から起因するモノだったとしても、それでも。
僚は面白くない、早い話が拗ねているという事だ。



そ、そんな事、言われたら・・・勘違いしちゃうょ?



香のそんな小さな呟きに、僚はハザードランプを点けてミニを路肩に寄せる。
さっきのお駄賃とはまるで違う、香がいつも骨ごと融かされるような激しいキスをする。
横を通り過ぎる他の車のドライバーや、舗道を歩く通行人の視線が僚の横顔に刺さるのが解る。
香はまるで気付いてないし、それどころではないけれど。
息も吐けない程の嵐が去っても、香は暫く放心する。
僚は満足げに、ニヤリと笑うと香のガーゼを当てた額に、チュッと音を立ててキスをする。
またしても、香の体温が急上昇する。


大丈夫、それ、勘違いじゃねぇから❤


僚はそう言うと、何事も無かったかのように口笛を吹きながら、ミニをゆっくりと発進させた。
ドキドキし過ぎて死にそうな香は、もう何も考えるのはよそうと、
窓の方を向いて、目を閉じた。







その晩、眠りに就くまでは、香に異変は無かった。
それでもあとから思い返せば、夕飯はどうも食が進まなかったようで、少しだけ残していた。
何だか怠いから、今日はもう寝るねと、風呂上りいつもより随分早い時間にそう言った香に、
僚もその時は、今日は色々あったから疲れてんだろ、位にしか思わずに、
おぅ、ゆっくり寝とけ。と言って、お互い自室に引き上げたのだ。
それが、21:00を少し回った所だった。





それでも、これはゆっくりし過ぎじゃないだろうかと。
僚は寝床の中で、思案する。
枕元のデジタル時計は、AM10:18を知らせている。
いつもなら、とっくに洗濯や掃除に精を出し、もうそろそろ駅に出掛ける時間だ。
香が呼びに来る昼前まで、寝床の中でウダウダしている僚だけど。
毎日、別に眠っているとは限らないのだ。
階下に香の気配を感じながら、ボンヤリするのが好きなのだ。
そんな時、妙に普通の穏やかな幸せを感じたりするから。
それにしても今日は。
気配すら感じない。否、それにはいささか語弊がある。
感じないワケでは無いが、香はきっとまだ眠っている。


いつもなら、朝寝坊くらい僚とて気にも留めないけれど、何しろ昨日の今日だし。
そう言えば昨夜、食欲も無さそうで、怠いと言っていた。
僚の脳裏に香のオデコのガーゼと、膝小僧の青痣が掠める。
僚はガバリと起き上がると、ジーンズと白いコットンのTシャツを身に着ける。




気配を殺してそろりと侵入した、客間兼香の部屋は。
僚の部屋と違って、甘やかな優しい空気と、
香の愛用しているシャンプーと、ボディクリームの匂いがする。
僚の部屋はいつも乾いた空気の中に、煙草の匂いがする。えらい違いだ。
僚はいつも無意識に、この部屋の中では深く息を吸う。
何故だか、とても落ち着くのだ。
多分、マイナスイオンを発生していると思う、香が。


僚は香のベッドの傍らに腰を下ろす。
香はスピスピと寝息を立てて、気持ち良さそうに眠っている。
僚は起こさないように、そっとその柔らかな癖毛を撫でる。
オデコにそっと手をやってみても、どうやら熱も無いらしい。
薔薇色の頬も、健やかな寝息も、呼吸も脈も、何処もおかしな事は無い。
僚は思わず、ホッと胸を撫で下ろす。
意外と、自分でもそうとは思わぬうちに、香の様子を心配していた自分に僚は苦笑する。
槇村の写った、キャビネットの上の写真立てに目を遣る。

(俺も、槇ちゃんの事とやかく言えねぇな。充分、過保護だ。)

心の中で、今は亡き親友に語りかける。
僚はふふふ。と笑うと、元来たようにそっと部屋を出る。
ただ、疲れて眠っているだけなら、偶にはゆっくり朝寝坊させたってバチは当たらない。


たまにゃ、リョウちゃん特製ブランチでも、作ってやりますかねぇ。


僚は独り言を呟くと、口笛を吹きながらキッチンへ向かった。
この時、冴羽僚はまだ知らなかった。
この後に待ち受ける、大事件を。











もうすぐ、僚の“特製ブランチ”も完成しようかという頃に、漸く香が起き出してきた。
ペタペタというスリッパの音。
少しだけ廊下をウロウロした挙句、僚の居るキッチンの前で足音がピタリと止まる。
遠慮がちにあけられた、ドアの前にはパジャマ姿の香が立っている。
寝惚けているのか、少しだけボンヤリしているように見える。
香が、着替えもせずに、パジャマのまま起きて来るのは珍しい。



おぅ、かおり。おはよ、やっと起きたか。今日は、リョウちゃん頑張ったぞぉ、褒めてくれても良いぞ?

・・・・・・?????

香?どした?

・・・あ、あの。

ん?

アタシ。

うん。

誰なんでしょうか?

・・・・・・・・・はぁっっ???

てか、アナタ誰ですか?

ぇぇぇええ゛~~~~

ココ、何処?

マジすか(呆然)





朝起きると、どうやら香は記憶喪失を患っていた。
あまりの展開に、僚はベーコンが焦げる匂いが発生して我に返るまで、暫し呆然としてしまった。
これから数日間、僚の苦悩と煩悩の日々が始まる。


(つづく)





2nd. うそでしょ?

「・・・かおりって、アタシの名前なんですか?」





彼女が目覚めたそこは、見知らぬ部屋だった。
というよりも、全てが何もかも、見知らぬ世界だった。
眠りに就く前の世界がどんなで、自分自身が何を覚えていて、何を記憶していないか。
当の彼女本人にも、良く解らない。


その生活感溢れる、8畳ほどの女性らしい室内にも。
自分自身が身に着けている、コットンの紺色に白の水玉のパジャマにも。
鏡台の上の、使いかけの化粧水にも。
鏡に映った自分の顔にも。
ピカピカに磨き上げられた、フローリングの廊下にも。
モダンなコンクリート仕上げの、ねずみ色の壁にも。
廊下の所々に、額装された映画のポスターが飾られていたり、
廊下のコーナーの所に、観葉植物が置かれていたりしているインテリアにも。
一枚のドアの向こうから、良い匂いが漂ってくる事も。
その奥で、朝食を作っていた男性にも。
彼女には、全く身に覚えの無い風景だった。


彼が彼女の事を“かおり”と呼んだので、どうやらアタシは“かおり”なんだと、認識する。

「・・・ああ。おまぁは槇村香、26歳。身長175㎝、体重54㎏、バストのサイ・・」
ぁぁあ゛っといいです、いいです。そこまでは、訊いてませんから・・・・

そう言って香は、真っ赤になってフルフルとかぶりを振る。
取敢えず、起床して来た香が朝っぱらから素っ頓狂な状態なので。
落ち着く為にも、まずは朝メシでもと提案したのは僚で、香も同意した。
焦げたベーコンは自分の皿に入れて、香には粗挽きウインナーを炒めた。



それで、アナタは?
ん?俺?
えぇ。
俺は、冴羽僚。ハタチ、イケメン。ヨロシク。
・・・・・・。



確かにさっき、ドアを開けて一目見た瞬間、ドキドキしたのは否めない。
イイ感じに年季の入ったジーンズに包まれた長い脚。
ピッタリとフィットした白いTシャツから伸びた、筋肉質な逞しい腕。
真っ黒な無造作な髪の毛に、同じだけ真っ黒な切れ長の瞳。
薄い唇と、すっと通った鼻梁。
フライパン片手に、手際よく料理する様。
信じられない程、美しい男。


だけど、こんな風にいけしゃあしゃあと、臆面も無く、自画自賛されると。
彼女は何故だか無性に、むかつく。
そもそも、どう見てもハタチでは無い。
良く解らないケド、どうやら彼は自分の同居人であるらしい。
不思議な事に、何の記憶も無い。
それでも、“りょう”という3文字に、どうも心が騒ぐ。ドキドキする。
その感覚が何なのか、香はまだ解らない。





食後、香は元居たあの部屋に戻った。
僚の説明によれば、そこは“香の”部屋らしい。
僚はクローゼットを開けながら、色々説明した。
何故、人のクローゼットの中の事まで、彼が把握している(爆)のかは知らないけれど、
香は僚を部屋から追い出して、取敢えず着替える事にした。

『この部屋の中のモノ、使わせて貰っても宜しいんでしょうか?』
『・・・イイんじゃねぇの?おまぁのモンだし。』

そう言われても香は、いまいちピンと来ない。
それでも、姿見の前でパジャマを脱いでみる。
身に着けているのは、白いコットンのショーツに、同じくタンクトップ。
まるで幼児が着るような、色気も何も無い下着。
裏側には、名前でも書いてんじゃないかと言いたくなる程、子供染みている(良く言えば、シンプル)。
どうやら、眠る時はブラジャーは着けない派らしい、槇村香という人は。


槇村香は、とっても他人事のような思考回路で、自分自身を分析する。
きっと、彼女の脳内を他人が覗く事が出来たなら、それはとてもシュールな世界だろう。
取敢えず、ブラジャーを着ける為にタンクトップを脱ぐ。
白い肌に、ツンと上向いたやや小ぶりなバスト。
シミ1つない、身体。
やや、痩せ気味だなと思いながら、脇腹に薄っすら浮かぶ肋骨を撫でる。
正面側は、薄っすらと腹筋の筋が浮かぶ。
ダイエットの必要は、無さそうである。


先程、一緒に食事を摂った冴羽氏は、どうやら別の部屋を使っているらしい。
どう見てもこの部屋には、彼の持ち物らしきモノは見当たらない。
自分と彼は、一体どういう関係なんだろうと、香はパンツ一丁の自分自身をボンヤリ眺めながら思う。

・・・恋人???なのだろうか・・・・

さっき、バストのサイズがどうとか言い掛けたけど。
このおっぱいを、あの男は知っているんだろうか?
香は首を傾げると、クローゼットの中の先程僚が嬉々として説明していた、下着の入った引き出しを開ける。
色々ある中から、香はクリームイエローのブラを選ぶと、身に着けてもう一度タンクトップを着る。



もう一度、鏡の中の自分を観察する。
左肘と左膝、額に擦り剥いた痕がある。傷自体は、乾いていて痛みは無いけれど、
その周辺が紫色に痣になっている。

転んだのかな?

左の腰骨の辺りにも、打ち身の痕が痣になっている。
香はタンクトップを捲って、そっと触れてみる。
案の定、痛い。
恐らく昨日か一昨日か、少なくともこの2~3日内に、転ぶか何かしたようである。
後で僚に訊ねて、湿布を貰おうと香は考えて、下着以外の衣類を選ぶ。



クローゼットの中の衣服は、どれもシンプルで。
香が流行とかそういうモノには、関係の無い生活をしている事が窺える。
その中から、香はローライズのブルージーンズと、白いコットンの長袖のシャツを選ぶ。
肘の青ジミが、目立たないように。
それから、鏡台の前に腰掛ける。
髪の毛は栗色だ。癖毛なのかパーマなのか、判別の難しい所だが。
洋服に無頓着な感じからすると、多分癖毛だろうなと推測する。
何だか、定期的に美容室に通うようなタイプでは無い気がする。



引き出しを開けると、必要最低限ともいえる化粧品が入っている。
リキッドファンデーションと、アイブロウペンシルと、口紅が2本と、グロスが1本。
アイメイクに関するモノは、一切無い。
まぁ、確かに。と、香は鏡に映った自分の顔をしげしげと眺める。
それは恐らく寝起きのすっぴんで。
さっき、ご飯の後に僚に教わって洗面所に赴き、洗顔と歯磨きはした。
すっぴんでこれなら、アイメイクは必要無いだろう。
マスカラも、シャドウも、アイラインも何も必要無い位に、目元はハッキリとしている。
これで塗りたくったら、多分くどい。
香は、鏡台の上の化粧水でサッと肌を整えると、ファンデーションとグロスだけを使った。











身支度を整えた香が、リビングに顔を出した。
がしかし、僚は思わずハッとする。
香が薄化粧をしている。
普段、絵梨子との約束の時ぐらいしか使わないグロスを使っている。

『お化粧くらいしなさい。』

と言われるので、香は渋々絵梨子と会う時には、やっつけでメイクする。
それとか、依頼の時の状況で不自然にならないようにしないといけない時とか。
こんな風に、何でも無い時に香がメイクする事なんて、これまで無かった事を僚は思い返す。
ボケッと、見惚れている僚には気付かずに、香が言い出した。



あの。冴羽さん。
ん?
アタシ、なんか怪我してるみたいで。
・・・あぁ、昨日車に跳ねられる寸前のガキを助けたんだよ、おまぁ。擦り剥いてんだろ?
えぇ、何箇所か。・・・あ、湿布ありませんか?
膝?
あ、いえ。膝もですケド、さっき着替えしてたら、腰骨のとこに大きな痣が出来てて・・・
ちょっと、待ってろ。



僚はソファから立ち上がると、電話の置いてあるキャビネットのとある扉を開くと救急箱を取り出した。
僚は箱の中から湿布と、紙テープと鋏を取り出しながら、不覚だったと思った。
目に見える所の怪我は、ざっと確認していた。
まさか、服を脱がないと解らない所を、ぶつけていたとは。
やはり、記憶喪失の件といい、この後から判明した打ち身といい、
今日は教授の元に行く必要がありそうだと、僚はこのあとの予定を組み立てる。




僚はボヤっと突っ立ったままの香を促して、ソファに座らせる。


どこ?
へ?
痣が出来てんの。
////あ、あの。自分でやれますから・・・
イイから、見してみろ。
でも・・・・


僚は躊躇する香の、白いシャツの左側の裾を捲る。
膝も肘も額も、怪我をしたのはいずれも左側なので、打ち身も左側だろう。
案の定、ローライズのウエストのラインの少し上、タンクトップの裾から見え隠れする場所に、
かなり酷い、内出血の跡が見られる。
香は色白なので、痣や傷は余計に目立つ。
実際はそれほどの怪我というワケでは無いのかもしれないけど、僚はその痛々しい傷に、
胸を締め付けられる。



眉間に皺を寄せながら、少しだけヒンヤリとした指先で香の傷痕を確認している男に、
香は妙にドキドキしてしまう。
場所が場所だけに、気恥ずかしいし、香は真っ赤になって俯いてギュッと目を閉じる。
少しだけ、その痣を僚が指で押す。
香の眉間が薄く寄せられる。

「痛い?」

香はコクンと頷く。
それでもそんな痛みよりも耐えられないのは、胸がドキドキする事だなんて香は恥ずかし過ぎて言えない。
暫くすると、ペタリと冷たいモノを貼られる感覚がして、意外と熱を持っていたらしい、
その腰の打ち身が冷やされて、少しだけ気持ちが良かった。
今から、怪我と記憶喪失の事を診て貰いに行くからと、僚が言ったので。
香はてっきり病院に行くのかと思った。
けれど、香が連れられて向かった先は、一軒の大きなお屋敷だった。
ココは本当に都内かと思う程の、大きな庭と日本家屋。
どうやら僚が言うには、ココには香も何度も訪れているらしいが、残念ながらやはり記憶は無い。








診察の結果は、やはり異常無しだった。
脳にも神経にも骨にも何処にも、異常は認められない。
打ち身には、教授が抗炎症の為の飲み薬3日分と、湿布を処方してくれた。
医療的な処置としては、その位しかする事は無いとの事。
記憶喪失に関しては。

『ん~~~、解らん。』

のひと言で、終了した。
教授曰く、世の中の大半の事は解らん事ばっかりじゃ。との事。
その先は、皆までは言わないジジイだったが。
だから、細かいことはいちいち気にすんな、という事かと僚は解釈した。
世の中の解らん事など、僚はハッキリ言ってどうでもイイけど。
香の記憶喪失は、非常にどうでも良くないのだ。


『まぁ、別に命に別状があるワケでも無し。今まで通り、仲良く暮らしておれ、僚よ。』


そう言って高らかに笑う完全に他人事のジジイに、僚は軽く殺意を覚えた。
そもそも、香がこんな状態になった事が判明した直後から、
僚が最も頭を悩ませている事は、2人の今の微妙な関係を香にどう伝えたら的確なのかという事だ。
香は、今までの2人の紆余曲折は全部、綺麗サッパリ忘れている。
そんな2人の歴史があってこその、告白→ハグ→デート→チュウ の一連の流れなワケで。
ただの仕事仲間かと言われればそうでも無く。
じゃあ恋人かと言われればそれだけでも無く。
んなら夫婦なのかと言われれば違うケド、醸し出す空気はむしろ熟年のそれで。
その上、6年以上も同居しておりながら漸くキスするのが精一杯で。
セックスはおろか、僚はまだあのプリプリしたおっぱいすら触った事は無い。


無い無い尽くしだが、それでも他人には持ち得ない2人だけの絆がある、否あったと言うべきか。
香は僚にとって、頼れる相棒で、僚専属の信頼のおける情報屋で、恋人で、妻で、妹で、母親で、親友で。
愛情の全てで。
その中に於いて、むしろこれまでセックスをしなかったのは、それ程。
香とのセックスというものの、優先順位が高くなかったからだ。
それよりも、大切だったのは。
安らげる2人だけの生活や、精神的な支えや、仕事を任せ合える信頼感だった。
その中には、勿論セックスという側面も含まれるだろうケド、それはその一部分に過ぎず。
煩悩という意味では、やりたいのは山々だけど。
それは、全ての愛情や感情や親愛を内包した、スキンシップに過ぎない。
しかもそれら全ての要素が、僚の心の中に占める割合は、
非常に流動的でその時々によって、目まぐるしく変化する。
とってもやりたいと、気が狂いそうなほど悶々とする日もあれば、
一緒の毛布にくるまって眠っても、自慢のモッコリはピクリともしない日もある。
そういう事だ。
他の女でこういう気持ちになった事など無い。
それは相手が香だからだ。



こんな僚の複雑な想いを、余すことなく伝える術など皆無だ。
何しろ、こと相手が香だと、“好き”の2文字すら言えない男が。
そんな複雑かつ曖昧かつ微妙な心情を、説明できるはずは無い。
なので、原因も“解らん”事だし。説明も出来ないし。
かと言って、いきなり襲いかかるような真似をして信用を失った場合、
記憶が突然戻った時に、どんな制裁を受けるか分かったモンじゃ無い。
僚に残された選択肢は、ただ1つ。
いつ戻るかどうかも解らない記憶が戻る事を信じて、ただ大人しく、極力嫌われないように、
どスケベモッコリ変態キャラを、一時封印するだけだ。


するだけだが、それは言葉にすればたったのひと言で済む話だが。
実際には、拷問である。
これまで香には、他人には見せない自分を晒して生活して来た。
お互いがお互いを、深く理解していたからこそ成り立っていた。
そのこれまでの色々を、いきなりリセットされてしまったら、
僚は一体、どういうスタンスで香と過ごせばいいのか、良く解らなくなる。
教授の邸から戻るミニの中で、僚はつい昨日の出来事を思い出す。

『そ、そんな事、言われたら・・・勘違いしちゃうょ?』

真っ赤になって俯いた香の甘い唇を、思うさま味わった。
この2ヶ月ほど、それは僚の生活の中の重要なポイントだった。
香も恥ずかしがりながらも、喜んでいるのは見て取れた。
もう、それ以前の2人に戻るなんて、僚には考えられない。
でも、香であって香では無い今の香に、同じキスは出来ない気がする。
香に覚られないように、チラリと横目で彼女を窺う。
いつもの香となんら変わり無い、横顔は。


知らないのだ。
2人で銃弾の雨の中を走り抜けた事や、夜這いとトラップの攻防を繰り広げた事や、
着飾ってお互い知らない振りをしてデートした事や、僚の生い立ちや悲しみを。



もしもこれが悪い夢ならば、早く醒めて欲しかった。
もしもこれがタチの悪い悪戯ならば、早く香に『嘘だょ。』と言って欲しかった。
現実よりも、嘘を切望する日が来るなんて、僚は思ってもいなかった。


(つづく)






3rd. 信じらんない。

香が突然の記憶喪失になってしまった事は、仲間内にはその日のうちに僚が伝えた。
もしこの今の状況で、何らかの突発的な事象が発生したら、
確実に面倒臭い事になるのが予測出来るので、最低限の連絡は必要と考えたからだ。

例えば、ミックの口から、キャバクラやラウンジやガールズバーでの話しが漏洩したり。
例えば、海坊主の口から、先日の後ろ暗い相棒に言えない仕事の話しが漏洩したり。
例えば、冴子の口から、秘密裏に入国した疑いのある国際手配犯の狙撃を依頼されている事が漏洩したり。
例えば、麗香の口から、下着をちょろまかした事をネタにただ働きさせられた事が漏洩したり。

例えば、美樹の口から、ココの所の2人の微妙な関係について執拗な誘導尋問が掛けられたりすると、

僚は非常に困るので、ここは先手を打って今の香がいつもの香では無い事を伝えたのだ。
要するに。
余計な、チャチャ入れんじゃねぇぞ。おまいら。
という意味だ。




一癖も二癖もある裏の住人達は、
何処か僚と香の恋路をエンターテイメントか何かと、勘違いしている節がある。
たまに、キツク釘を差しておかないと、奴らは勝手に暴走して余計な事をやらかし始める。
僚はこれまで、何度それで痛い目を見てきたか知れない。
何も解っていない、いわば初期設定のパソコンのような状態の香に、
ウィルスなぞ仕込まれたら、かなわない。



しかし、幸か不幸か。
今現在、それを聞きつけた伊集院美樹が冴羽家に来ている。
僚は障らぬ神に祟り無しよろしく、地下射撃場に避難している。
どうやら、家の中の勝手がいまいち解っていない香の手伝いを買って出てくれたようだ。
美樹は以前にも、香が寝込んだ時なんかにちょくちょく手伝いに来てくれた事もあって、
僚よりも家事に関しては、これまでの香のやり方を心得ている。
それに僚とはまた別に、香がまるで姉のように慕っていた彼女と過ごして思い出す事もあるかもしれない。
というのが、表向きの理由で。


実の所、彼らは彼らで面白くないのだ。
僚は診察に顔を出した教授の家からも、香を連れてそそくさと帰ってしまって。
まるで香を隠して独り占めするかのように、2人だけのアパートにすっかり籠ってしまって。
この2~3日、キャッツにさえ顔を出さない。
この際、僚はどうでもイイのだ。
美樹が知りたいのは、香の現状なのだった。
如何せん僚は、過保護にも程がある。
幾ら自分の腕の中で、香を独り占めして囲っておきたいと思っていたとしても、
香は自分達の仲間なのだ、僚だけの香では無い。







あ、あの。美樹さん。

なぁに?

ありがとうございます、ご親切に。お陰様で随分助かりました。

大した事じゃ無いわよ。いつでも言って?このくらい。

は、はい。あ。今度、お店の方にも冴羽さんと一緒に伺います。

・・・ぁあ、“冴羽さん”ね。えぇ、待ってるわ。




思わず、美樹は苦笑する。
あの香の口から、僚の事を“冴羽さん”という呼び名で聞くなんて、斬新だ。
僚から香が記憶喪失になったと聞いた時、どんなもんかと思ったが、予想以上だった。
このキャッツの店休日の午前中、美樹は冴羽家にやって来た。
香は何処に何を仕舞って、何処まで香の管理下の元家事をやっていたのか、何もかも忘れていた。
僚はそんな香に、あまり深く考えずにやりたいようにやれば良いと言ったそうだが、
今の香には、それすらどうしていいモノか解っていないようだった。
重症である。




美樹さん。アタシ・・・訊きたい事が、  あるんです、けど。

なぁに?私で解る事なら、何でも訊いて?

////////あああの。  アタシと、ささ冴羽さんって、どどどどういう・・・・

どういう関係だったか?

/////////(コクン)

何か、気になる事でもあったの?

気になる事って・・・いうか。あの。・・・男の人と同じ家に暮らしてる事自体、気になるっていうか・・・

まぁ、それもそうねぇ(苦笑)冴羽さん、優しい?

は、はいっっ。・・・とても、良い方で(ポッ)

ふふふ。ま、ハッキリ言うと、仕事仲間以上恋人未満かしら。まぁ、限り無く恋人に近いけど。

そそそそうなんですか(汗)

冴羽さんは?何にも言わないの?

・・・・(コクン)。

ダメねぇ、彼肝心な時に、押しが弱いとこがあるから・・・。でも、イイんじゃない?

え?

この際、また新しく一から始めちゃえば♪  で?どう思ってんの?彼の事。

彼の事・・・・。

そうそう、彼の事。好きとか、ドキドキするとか、そういうのないの?






香は美樹にそう言われて、大いに心当たりがあった。
そもそも、あの朝目覚めて、初めて会ったヒトが僚で。僚は優しくて。
どうして、自分が彼と同居しているのかは解らないけれど。
僚は優しいけれど、恋人のように接するワケでも無いし。
かと言って、家族っていうのともまたなんか違うし。
それは、とても不思議で。
そして、何より僚と一緒にいたり、僚に優しくされる度に、煩いほど騒ぐ心臓は。
一体、どういう意味を表しているのか。
もしも、あくまでも例えば。自分と僚が“恋人”だったんなら。
少しだけ、嬉しいかも。なんて、心の何処かで思っていた。
勿論、僚には言えないケド。



そ、それが・・・ドキドキするんです(照)ま、まだ、よく自分でも整理がつかないんですけど。
もしかしたら、好きなのかも(❤)









美樹は、色々と相談に乗ってくれた。
僚によれば、自分と美樹は姉妹のように、前から何でも相談し合っていた、との事で。
香は何だか、それがよく解る気がした。
特に、僚との事に関して、正直な気持ちを打ち明ける事の出来る相手がいて、香は少しだけ安心した。









美樹が用事を終えて、冴羽アパートの階段を降りていると、
地下から上がって来た僚と、4階部分でカチ合った。
僚はジーンズのポケットに手を突っ込んで、鼻歌交じりに一段飛ばしで軽やかに上がって来た。



おう、美樹ちゃん。もう、帰んの? もう少し、ゆっくりして行きなよ。

えぇ、もうすぐファルコンも帰って来るし、それに・・・(ニマニマ)

・・・・なに?その意味あり気な、笑いは。

お邪魔しちゃ悪いでしょ? お2人さんの、“団欒”を。

なにそれ。・・・なんか、勘違いしてない?

・・・あら。勘違いかしら?

・・・・・・。




隠さなくても、良いわよ。と言いながら、美樹は僚の肩をポンポンと叩くと、階段を降り始めた。
僚はそんな美樹に苦笑しながらも、後ろ姿を見送る。
すると、数段下から美樹が振り返る。




あ、それと。

ん?

地下に居たでしょ?冴羽さん。  
香さんにね、地下に何があるのかって訊かれたから、適当に誤魔化しといたから。

・・・悪ぃね。

いいえ、お仕事の事は、冴羽さんの口から話した方がイイと思うもの。

気ぃ、遣わせたな。申し訳ない。

・・・冴羽さん。

ん?

香さんなら、どんな香さんでも。きっと、受け入れてくれるわよ。あなたの事。

・・・・・・そうかね。




僚はフッと、自嘲気味に嗤う。
美樹はそんな僚に、何も言わず手を振って帰って行った。
一癖も二癖もある裏の住人達は。
基本的に、超が付く程のお節介である。






その日の夕方。
僚がキッチンに入ると、香が夕飯を作っていた。
鶏肉と大根の煮付けに、キャベツと油揚げの味噌汁、そのほかにも和食で数品。
その料理に関しては、以前のままの香だ。
僚はコンロの前の香に、そっと近付く。




料理は、覚えてんだな。

あ、えぇ。自分でも良く解らないんですケド、自然と作れてますね。

この煮付け、俺、好物だ。

////そ、そうですかっっ。良かったっ。あ、あの。冴羽さん?

ん?

美樹さんとお話し出来て、随分気持ちが楽になりました。

そうか。そりゃ、良かった。

えぇ。喫茶店の方にも、今度一緒に行きましょうね。

ああ。





あれ以来香は僚の事を、“冴羽さん”と呼ぶ。
それはそれで、僚は嫌じゃないなと思ったりもするし、
丁寧な言葉遣いに、ちょっと萌えなんて思うケド。
それでも時々無性に、記憶を失くす前の香が頭を過る。



『こぉんの、クソモッコリ馬鹿っっ』
『変態男!!』
『テメェ、ゴルァ リョウ(怒)』
『僚』
『りょお』

りょお(照)、えへへ。




香はいつだって、僚の名前を呼んでくれた。
怒っていても。
呆れていても。
ケンカしていても。
照れていても。
助けを求める時も。
香と出逢う前の僚は、“冴羽僚”というよりむしろ、“CityHunter”で。
自分の名前なんて、ただの便宜的な記号のようなモンで。
でも僚は。
香が呼んでくれる、自分の名前は好きだった。
香に出逢って、長い時間をかけて少しだけ自分を好きになれた。


香が僚を忘れてしまっても、僚は香が忘れられない。












なにこれ、信じらんない。


それは、槇村香の心からの乾いた呟きだった。
記憶喪失になって数日、香も少しづつ慣れて、家の事は一通り今まで通りやれるようになった。
やり始めると、体に染み付いたいつもの習慣は、難なく香を動かした。
炊事や洗濯や掃除をこなしながら、香は深く考えるのはよそうと思っている。
僚は時々外出して、1~2時間家を空けて帰って来たりする。
未だ香は、僚が何をやっている人なのかは知らないけれど、それも深く考えるのは止めた。
僚は香が1人で外出するのを心配するけど、スーパーだけは1人で行かせて貰うようにした。
駅前の混雑した所に、僚にワザワザ車を出して貰うのも申し訳無いし、
出来る事から少しづつでも、以前と同じような生活をしたいと思ったからだ。



そして今現在、
香は僚の部屋に掃除機をかけていて、僚のベッドの下から有り得ないモノを発見した。
有り得ないモノだし、有り得ない量だ。
記憶を失くした香に、僚は常に紳士的に振舞い、香もなんて素敵なんだろうとドキドキしていた。
美樹が言うには、彼は自分の(ほぼ)恋人で。
その、ほぼ恋人という言葉の意味する所は。
多分、プラトニックだという事なんだろうと香は解釈していた。
何しろ、プライベートルームは別々だし。
所謂、恋人がする様なスキンシップは一切無い。
だから、これから恋を発展させる前の2人だったんだろうと。


そして、香は。
僚とだったら、イイなと、思っていたのだ。
何がというと、“なに”だ。
僚となら、ほぼ恋人から、正真正銘恋人になっても構わないと思ったりしていた。
というか、むしろ。
少しだけ、そうなりたいな。なんて、思い始めていたのだ。
その矢先の、これである。
信じられないのも無理は無い。









その日の夕食の席で、僚は何かいつもと違う空気をヒシヒシと感じていた。
何だか、香から怒りのオーラが滲み出ているような気がする。
これは。
あの、ハンマーが出現する前の気配だ。



冴羽さん。

ななな何でしょ~(汗)

今日、冴羽さんの寝室を掃除させて戴きました。

へ?

///////ベ、ベッドの下のモノ。申し訳ないとは思いましたが、処分させて戴きました(怒)

・・・・・・・。




思わず僚は味噌汁の入ったお椀をぶちまける所だった。
見られてしまった。
極力嫌われないように、渋く決めていたのに。
モッコリスケベ変態キャラは、一時、封印していたのに。
アッサリと、メッキは剥がれた。努力は、報われる事は無く水泡に帰した。
まぁ、100%自業自得だが。




ぁぁああ~~~、アレ。アレね。うんうんうん、捨ててイイよ、うん。
てか、捨てる予定だったの、マジで(滝汗)




僚は半ば声を裏返しながら、これ以上無い程動揺している。
そんな僚を、香は初めて見た。
最初一目見た時に、香は僚の事をカッコイイなと思った。
パニックになりそうなこの状況の中、支えてくれたのは僚で。
あのドキドキが、間違いなく恋心だと自覚するのに、長くはかからなかった。
優しくて、紳士的で、カッコイイ。
完璧だと思っていた彼の、少しだけ間抜けな姿。
あの山のようなエロ本は、確かに信じられないし、ちょっと幻滅したのは否めない。


けれど。
今、それ以上に信じられないのは。
こんな彼のどうしようもない姿が、思いの外愛おしく思える、自分の心だった。
まぁ別に、エロ本ぐらい。
そう思えるこの恐ろしいほど深い底の見えない、自分自身の感情が香は最も信じられないのだった。



まるで真っ新なパソコンのような香の心に棲み付いたウィルスは、実は僚なのかもしれない。
恋の病に効く薬は、今の所無い。



(つづく)






4th. いいの。

香はその日スーパーで、玉子と豚肩ロースを買う予定にしていた。
晩ご飯は、豚カツにしようと思っている。
僚は香が作ったご飯を、いつも美味しそうに食べてくれる。
スーパーに行く時に持って出る、がま口の中には僚がいつもチェックしてお金を入れてくれる。
槇村香記憶喪失ver.と、エロ本を在庫一掃処分された冴羽僚の新生活は、
もうそろそろ、1週間目に突入する。


未だ、冴羽家の稼業や2人の同居生活に至る経緯については、謎のベールに包まれてはいるが、
香は今の所、僚とのまるで新婚さんごっこのような生活を楽しんでいる。
あのベッドの下の、如何わしい雑誌の件はあったものの、基本的に僚は優しくて。
あれからもう1度だけ、あの最初の日に行ったお屋敷に行った。
打ち身はもうすっかり治ったけど、今度は脳波の検査や催眠療法のようなモノも試された。
意外な事に、催眠療法とやらは美樹がやってくれた。
けれど、それらの方法でも芳しい結果は得られなかった。


香も僚も、今はもうどちらでもイイかと話し合っている。
自然に任せようと。
突然、記憶喪失になったので、突然元に戻る事もあるのかもしれないしね、と。
やけくそとか、そういうモノじゃない。
今のこの生活も、これはこれで楽しもうと思う事にしたのだ。
いつか、そう言えばこんな事があったねと言えるように。
そう思ったら、意外なほど香も僚も気持ちが楽になった。
もしかすると、最初に教授が言っていた事はこういう事なのかもしれないと、僚は思った。
案外、年の功というモノも馬鹿には出来ない。







「オマエ、冴羽の女だな。」


香がそう言って、妙な3人の男達に腕を掴まれたのは、昼間の閑散とした歌舞伎町の裏通りだった。
スーパーまでの道のりで、僚に教わった道は意外に遠回りだと気が付いた香は、
この近道を、昨日発見したばかりだった。
香はこの時漸く、何故僚がわざわざ迂回するような道を教えたのかが解った。





リビングのソファの上で、寝そべって新聞を読んでいた僚が、
時計を気にしたのと、電話が鳴ったのはほぼ同時だった。
香はさっき、スーパーに行って来ると言って出掛けた。
もうそろそろ、戻って来ても良さそうな頃なのに、一向に帰って来ない。
そんな事を思った矢先の電話は、僚の心を波立たせた。


はい、冴羽。
リョウちゃんかい?
あぁ、徹っつぁんか。
リョウちゃん、香ちゃんがっっ。


これだから僚は、香を1人で出歩かせたくは無かったんだ。
万が一に備えて、香の服とバッグには発信機を仕込んでいるし、GPS機能付きの携帯も持たせている。
僚はガレージに向かうと、一番に受信機を作動させ発信源に向けて車を発進させた。









結論から言えば、槇村香(記憶喪失)は自分の意志とは関係無く。
3人のドチンピラを、伸していた。

あれからその男達に誘導されるまま、街の外れの解体寸前の雑居ビルへ連れて行かれた香は、
そのビルのエントランスを潜るや否や、前方を行く1人の膝の裏にローキックを入れ、
怯んでしゃがみ込んだ頭上に踵を落とす。
左にいた男の鳩尾に肘を入れ、右の男の拳を避けつつ、脇に回り急所に膝を入れた。
脳天に踵を落とされたヤツは気絶していたし、金的をもろに喰らった方は戦闘不能なので。
もう1人の、鳩尾の方に正拳突きで止めを刺す。
この間、モノの数秒の出来事だった。


香は辺りを見回して、手近なワイヤーを見付けて来ると3人纏めて括ってしまった。
それ程長いワイヤーが無かったので、
3人をそれぞれ引き摺って座らせ、背中合わせになるようにお互いを凭せ掛けた。
それぞれの手を隣り合う手と、甲で合わせるようにして手首で縛ってしまった。
針金のように細いワイヤーで、ぎちぎちに縛っている為、
誰か1人が動くだけで痛いので、結果3人とも微動だに出来ない。



ココまでやってから、香はハッと我に返った。
一体、どうやってこの男達を片付けたのか、自分でも良く解らなかった。
僚が助けに来たのは、その時だった。


「香。」

僚の声に、香が振り返る。
若干、涙目だ。実際、泣きたいのはチンピラたちの方だが。

「・・・冴羽さん。」

「何処も、怪我は無いか?」


すぐに駆け寄った僚に、香がコクンと頷く。
それを確認してから、僚は足元に団子状になって転がった、今回の被害者を確認する。
3人とも、素手でやられている。
使っているのは、短い廃材のワイヤーだけ。
間違いなく、香の所業だ。
手際といい、括り方といい、申し分ない。


「やるじゃん、カオリン。お利口お利口。」


僚はそう言って、香の癖毛をクシャクシャとかき混ぜたけど、香は何処か沈んだままだった。
記憶の無いまま、ほぼ自然に反撃していた。
それはこれまで、僚のパートナーとして、最低限身に付けてきた自分を守る為の防衛手段だった。
けれど、今現在自分が何者なのか解らない香にとっては、
この目の前の3人を、自分がやっつけたという事実に衝撃を受けていた。
それにその瞬間は、まるで別の人間が自分を操っているような感覚に囚われていた。
僚は香の様子から言っても、早くその場を後にするに越した事はないと思ったので、
香の手を引いて、表に停めたミニに乗り込んだ。
発進させながら、冴子の携帯に連絡を入れ事情を掻い摘んで報告した。
数十分後には、奴らは不燃ゴミとして、無事警察に回収されるだろう。






アパートへと戻る車中で、香は呆然としていた。
そんな香を横目で窺うと、僚は心底後悔していた。
香を1人で出歩かせた事。
否、それ以前に、記憶を失くした時点で香に何も伝えなかった事も。
自分達の稼業も、関係も何もかも。
それはこの世界で生きる上で、ちゃんと知らせておくべき事象だった。
それを怠ったのは、ただ単なる僚の甘さでしかなかった。
怖かったのかもしれない。
何も知らない真っ新な香に、己の正体を知られるのが。殺し屋だと告白するのが。

香は香で、心の中で色んな疑問を抱えていた。
“アタシは、一体何者?”
“アナタは、一体何してる人?”
“あの人たちの目的は、何だったの?”
僚に訊いてみてもイイものか。訊かない方がイイものか。
何度も質問は、浮かんでは消え消えては浮かび。
小さな車の中を、重たい空気が満たしていた。














「・・・冴羽さん、少しだけ1人で考えさせて貰っても良いですか?」








あれからウチに戻り、取敢えず香を落ち着かせる為に、僚はコーヒーを淹れた。
あれがいつもの香なら、あんな事は日常茶飯事で。
1人でサッサと始末して、今頃スーパーからも戻り、夕飯の支度でもしている頃だろう。
香が僚の手を借りずに、初めて危機を乗り越えたのはいつの事だっただろう。
気が付くと香は、か弱そうに見えて、随分怖い女に成長した。
怖くて、強くて、儚くて、ゾクゾクする程イイ女に育った香を、僚は最低限のフォローで見守って来た。



コーヒーを飲みながら、僚は少しづつ香に説明した。
自分の仕事の事。
香の仕事の事。
槇村の事。
同業者たちの事。

2人の関係の事。

その話しを聞いて、香は1人でよく考えたいと言った。
僚が話して聞かせた事も、何一つ思い出せはしなかったようだった。







それから数時間。
自分の部屋のベッドの上で、僚は半ば諦めかけていた。
これまでこんな世界に、香を縛り付けて来たツケが、一気に回って来たような気分になった。
本当の僚を、本当の自分を、本当のこれまでの色々を何も知らない香を、本当の香と呼べるのだろうか。
そのような状態の彼女が生きて行く場所として、自分の元は相応しいのか。
元居た場所に。
太陽の元に、帰すべき時ではないのか。
この数時間で、またしても僚は過去にも散々彷徨った、逡巡の世界を巡っていた。
その時、遠慮がちにドアをノックする音が聞こえた。




はい。

良いですか?

どうぞ。

・・・・・・。

どうした?



僚の寝室に赴いた香は、俯いて黙り込んでいた。
しかし、僚が訊ねた瞬間、ハッと顔を上げた。
僚の瞳は、いつものように優しかった。
香は、スゥッと息を吸うと、決意の籠った眼差しで僚の瞳を見据えた。



アタシをこれからもずっと、冴羽さんの傍に置いて下さい。




僚は思わず、ポカンとなった。
それは予想外の出来事だった。
記憶を失った香が選んだモノは、いつもの香が選ぶのと同じ道だった。




あれから僚が1人で色々悩んだように、香も沢山考えた。
僚があの場に迎えに来て、香の頭を無造作に撫でた時、微かに香は何かを思い出せそうな気がしていた。
僚に聞いた兄の話し。
それはとても腑に落ちるモノがあった。
何故だか、あの写真立ての中の写真を見ると、懐かしい温かい気持ちになった。
それが兄だと言われると、それはとても納得のいく感覚だった。
僚の話しに、嘘が無いのがはっきりと確信できた。



自分を殺し屋だと言った、僚。
どうしてそんな彼の元に、自分は6年間もいたのか。
美樹の言っていた、仕事仲間以上恋人未満という言葉。
いい歳をした男女が家族のように暮らしながらも貫き続けた、プラトニックな関係。
何も覚えてはいないケド、きっと自分と僚との間には計り知れない葛藤があったはずだ。
そしてそれを香は今、2人で乗り越えてみたいと、ハッキリと思えた。
何よりもう、香はハッキリと自覚してしまった。

自分は、冴羽僚という男を愛している。

そこに疑問を抱く余地も、迷いを生ずる隙も、気持ちを偽る理由も何も無かった。
ただ、今までの事を覚えていないというだけで、これからの事は記憶に留めて行ける。
覚えている事は、彼を愛しているというその1つで充分だった。
それが、香の答えだった。
バカみたいに放心している、愛しい男に香は声を掛ける。





冴羽さん?

ん?あ、あぁ。香は、・・・本当に、それでいいのか?

はいっっ。それがいいんです。




まだ若干、戸惑いの残る僚の目に、香の真っ直ぐな瞳が映る。
それを見た瞬間。
僚は気が付いてしまった。
香は何ひとつ、変わってはいないという事に。
涙脆くて、お人好しで、困っている人を放って置けない。
イイ奴だけど、バカな相棒。
僚の唯一無二の、怖くて優しい運命の人。
ベッドに腰掛けた僚の前に、佇んでいる香の手首を、僚は思わず掴んでいた。







そこから先は、僚のもっとも得意な分野で。
香は気が付いたら、柔らかくベッドの上に押し倒され、僚に組み敷かれていた。
ただ、香を見詰める僚の目からは。
涙が零れていた。
僚はもしかすると、少しだけ悲しかったのかもしれない。
香がこれまでの、大事な思い出を忘れてしまった事が。

沈みゆく船の中で、ガラス越しにキスした事や。
寒い夜に屋上で、誕生日を作ってくれた事や。
一緒に生きて、誕生日を過ごすと誓った事や。
何が何でも2人で生きて行くと約束した事を、香が忘れてしまった事が。


それでも、僚が覚えていれば充分だと思った。
香が忘れてしまっても、僚は忘れない。
香は無意識に、僚の柔らかな拘束から片手だけ逃れると、手を伸ばして僚の頬を拭った。
そこで初めて、僚は我に返った。
押さえつけていた香の手を解くと、ハッとして上体を起こした。



「ご、ごめん。」



謝る僚に、香はフルフルと首を振った。




「いいの。どんな冴羽さんでも、冴羽さんが大好き。」




もう僚に、歯止めなど利かなかった。
覚えていようが、忘れていようが、病める時も、健やかなる時も。
僚は僚で、香は香だ。
その事実ひとつで、2人には充分だった。
愛を伝えるのは、身体1つで充分だ。




1週間ぶりに、僚は香にキスをした。





(つづく)







5th. 怪我の功名 

冴羽僚は、この時の事をのちに振り返る度。
何だそんな簡単な話だったのかと、脱力してしまう。けれど、それすらもイイ思い出だ。






1週間ぶりのキスは、僚の理性を完全に崩壊させた。
香の唇は絶妙な弾力感で、硬過ぎず柔らか過ぎず、僚の唇を押し返す。
僚はそれを舌先でなぞり、感触を確かめ、軽く歯を立てる。
僚の舌先に誘われるように、薄っすら開いたその上下の隙間から、僚は油断なく滑り込む。
歯並びのイイ前歯と、引き締まった歯茎をなぞりながら擽る。
口の中の天井の、自分では触れる事の無い柔らかな粘膜を刺激する。
止め処なく溢れだす、甘い唾液を啜る。
出逢ってしまった舌と舌とを、挨拶するように絡め合う。



それだけで僚は、腰が砕けそうな快感を感じていた。
香に至っては、まるで竜巻の中心に巻き込まれた落ち葉みたいに、成す術も無く溺れている。
互いの唇がまるで、猿轡のようになっていて、淫らな声こそ漏れないモノの、
僚も香も、鼻から漏れる吐息は濡れている。
それは、ヘタな喘ぎ声よりもよほど、淫靡だ。
香は息継ぎも侭ならず、僚のTシャツの胸元を、無意識のうちに握り締める。
その布地越しの、もどかしい香の指先の動きにすら、僚は欲情する。
一旦、角度でも変えようかと、唇を離した僚の耳に届いた香の小さな声に、僚はピタリと動きを止めた。




っんはっっ、  りょお。




・・・香?




僚は、たった一言名前を呼ばれただけで、気が付いた。
理由など無い。ただの直感だ。






覚えてる?
・・・うん。
おかえり。
/////ただいま。
戻って早々、なんだけど。
???
続けてもイイ?
//////ばか(赤面)




茨の森の奥で眠り続けたお姫様の眠りを覚ましたのは、
毒りんごを食べて死んでしまったお姫様を蘇らせたのは、
それは、ある意味、鉄板ネタで。
どうして、泣く子も黙るモッコリリョウちゃんが、そんな簡単な事に気が付かなかったのか。
余程、動揺していたのかもしれない。
香の記憶喪失という、大事件を前にして。



記憶喪失を患った新宿のジャジャ馬は、新宿の種馬による濃厚すぎるディープキスによって覚醒した。



そして、覚醒と一続きで彼らは次のステージへと、進む事にした。
そもそも、ココ1~2ヶ月、僚の辛抱も限界に達しようとしていたのだ。
いつ事に及んでも不思議は無かったし、むしろやって無いのが不思議だった。
僚は自分が、意外に忍耐強い人間だと思っている。
ナンパなフリはしていても、そんじょそこらの安い女になど食指は動かない。
しかし。
彼女に恥ずかしそうに“ばかっ”なんて囁かれて、落ちない男がいたらお目に掛かりたいと僚は思う。
ついさっき、逡巡の世界を巡礼していた事など、もう無かった事にした。



香以外、俺の相手が務まる女が、この世界の何処にいるというのだ。



僚はニンマリと口角を上げる。
香は最愛の男が、まるで闇の中に浮かぶ、チェシャ猫の生首のように。
物騒な微笑みを湛えた事にも気が付かず、もう一度深い口付に溺れた。
その後は、2人とも無我夢中だった。
ある意味、この記憶喪失騒ぎが無ければ、僚の忍耐の日々はもう少し長期戦に突入していたかもしれない。











翌朝、といってもほぼ昼前。
僚は玄関ドアのチャイムの音で目覚めた。
この家のチャイムを鳴らす人間は、殆どいない。
友人知人も、招かれざる客共も、チャイムがある事すらご存じない。
僚が呑気に眠っていたのは、そのドアの向こうの気配が安全なモノだったからだ。
こういう場合、新聞の集金か、書留の類か。
いつもなら、応対するのは相棒の役目だけれど、如何せん彼女は今現在、僚の腕の中で爆睡中である。
それもその筈。
2人は昨夜、新しいステージへとステップアップを果たしたのだ。
彼女は疲れ果てて眠っている。





僚がボサボサの寝グセのまま、上半身裸のスウェット姿で玄関を開けると。
そこに居たのは1週間ほど前のあの、推定30代半ばの生真面目そうなサラリーマン風の男だった。
そう言えば、あれ以降この男から何度か電話を貰っていたのだ。
改めてお見舞いかたがた、ご挨拶に伺いたいと。
その度に、僚は断っていた。
香の(実際の文言は“嫁の”)体調が悪いから、と。
さすがに、記憶喪失の香と全くの見も知らぬ第3者を会わせるのは、まずいだろうと慮っての事だ。
しかし、体調が悪いという香の件に、気が気では無かったのであろう。
彼は今、大きな菓子折りを抱えて、冴羽アパートを訪れた次第である。





「あ、申し訳ありません。突然、連絡も無しに。」

彼はそう言うと、深々と頭を下げた。
僚も思わず、釣られて軽く会釈する。



あ、いや。別に良いケド。

その後、奥様体調の方は如何でしょう?

ん?ぁあ、大丈夫。全然、元気。元気すぎて、まだ寝てるから。







そう言った僚は、明らかに濃厚な情事の後の空気を纏っており。
普通の成人男性なら、
何故、“奥様”が昼日中に爆睡しているのか、
何故、“旦那”が半裸で応対しているのか、大方の予想は出来る。
しかし、普通の成人男性はそこで、『あ、奥様はセックスで疲れてるんですね。』などとは、
思っても口に出さないのが礼儀である。





それはそれは、私も安心致しました。

・・・はぁ。

あのこれ。大したものではありませんが、奥様とご一緒に。





そう言って、彼は僚に菓子折りを押し付けるように渡すと、また深々と頭を下げ帰って行った。
その男の後ろ姿をボンヤリと眺めながら、僚は考えた。
あの日の事故が、今回の記憶喪失に何処まで関与しているのか定かでは無いが。
もしかすると、彼は自分達のキューピッドかもしれないと。
菓子折りの中身は、バームクーヘンだった。
香が喜ぶな、そう思うと僚は自然と頬が緩む。



まずはキッチンで、ゆっくりとコーヒーを2杯淹れて、ベッドに運ぼう。
お行儀悪いよ、なんて小言を言われながら、
ベッドの上でコーヒーを飲んで、バームクーヘンを食べる。
それから後は、どうするか。
まずはひとまず、相棒次第なのでお伺いを立てる。

もう一回、OKかどうかだ。




僚は鼻歌を歌いながら、キッチンへ向かった。




(おわり)












おはこんばんちわ。ケシでございます m(_ _)m

この度は、『REMEMBER YOU』最終話までお付き合い下さりまして誠に有難うございます。
謹んで、御礼申し上げます。
このお話しは、第1話冒頭にもお知らせさせて戴いた通り、nase様よりのキリ番リクエスト企画であります。
nase様は、CHファンサイトを巡っておられる皆様方には、もうワタシなどが説明するまでも無く、
超カリスマ絵師様なのでございます(*´∀`*)
ワタシも、このブログを始める前から、足繁く通いつめ、御絵を拝見して萌え萌えしておりました。
そんな、ワタシの憧れのnase様の今回の、リクエスト詳細は以下の通りです。


※ 記憶喪失もの、記憶を失くすのはカオリンで。
※ 記憶を失いつつも、リョウちゃんへの想いは覚えている。
※ 時期的には、原作終了後から合体未満の、リョウちゃん悶々期。
※ リョウちゃん、歯痒い感じ。これキッカケで大合体なら尚、良し。
※ キスシーン有りで、ハッピーエンド❤


この様な感じです(´∀`;)ゝ
いやはや、何処までリクエストにお応え出来ていたかは、解りませぬが。
これら盛り沢山の要素を入れてたら、あ~ら不思議。全5話のお話しになっちゃいました(テヘ)
nase様、お気に召して戴けましたでしょうか???
皆様方にも楽しんで戴けましたら、幸いでございまっす♪



因みに、余談ではありますが。
このお話しのタイトル、『REMEMBER YOU』とは、ワタシの大好きな忌野清志郎氏が、
甲本ヒロト氏をゲストに迎え、発表した名曲のタイトルから拝借いたしました(汗)
この曲は、とってもキュートで、愛に溢れており、まさしく名曲です。
2人の類稀なるイカしたヴォーカルに、キヨシローのラブリーな歌詞と音。
そしてヒロトの、ブルースハープが超絶COOLなんです!!
ご興味があられる方は、つべなんかにも動画がアップされてたりするんで、是非1度ご覧になってみて下さい。
オススメでっす。
(因みに、関ジャニ∞?か何かの人が主演した、『ちょんまげプリン』とかいう映画にも使われてます。)


猫改め、香と殺し屋。おさんぽ

「みきちゃん。」

伊集院美樹が、買い出しの途中に背後からそう声を掛けられたのは、
ランチタイムも一段落した、15:00を少し回った頃だった。
あまり繁盛しているとは言い難い、夫と2人で営む喫茶店はこの時間最も暇で。
いつも駅の傍のパン屋に焼いて貰っている、
サンドイッチ用の食パンや、玉子を切らしていたので、買いに出た。
ついでに、自宅用の今晩のお使いも済ませたので、荷物は両手一杯になった。



「あら。香さん、1人?」

彼女はコクンと頷く。
美樹が声のする方を振り返ると、冴羽僚のどうやら恋人で、目下同棲中の香が立っていた。
僚はいつも美樹の事を『美樹ちゃん』と呼ぶので、香にとっても美樹は『みきちゃん』なのだ。
彼に言わせれば、彼女は元々は自分の飼い猫で自分は飼い主だという事だ。
あの男は多少変わっていると、美樹は前々から思っていたが、まさかそれ程とは思わなかった。
そして大抵は、彼と彼女は行動を共にしているのが、ここ最近ではデフォルトで。
香が1人でフラフラと歩いているのは、非常に珍しい。



「いっこ、もつ。」

香はそう言うと、美樹の手から袋を1つ奪った。

「大丈夫よ、そんなに重たく無いもの。」

そう言って、美樹は苦笑する。
明らかに、手伝いを買って出てくれた香の方が重たそうにしている。
美樹は表向きは喫茶店のママとして生活しているが、実の所、殺し屋だ。
ある程度、鍛練は積んでいるし、何処からどう見てもヒョロヒョロで真っ白な香の方がか弱そうだ。

「大丈夫?・・・随分、重そうだけど?」

苦笑する美樹に、香はコクンと頷く。

「美人さんには、やさしくしないといけない。」

「なぁに?それ。」

「りょおがいってた。」

美樹は思わず吹き出す。

「じゃあ、香さんは優しくされる方じゃないの。」

香はキョトンとして、首を傾げる。
不思議そうな顔で自分を見詰める香に、美樹はそんなに可笑しな事言ったかしらと、考える。



それで?今日は、冴羽さんは?

りょおは、おしごと。

“お仕事”?

うん。

それじゃあ、香さん1人で出掛けてたの?

おさんぽ。



そう言って香は、ニッコリ微笑む。
同性の美樹でさえ、見惚れてしまいそうな微笑みだ。
僚はこの日、付き合いのある武器商人と会う約束だったのだ。
お利口さんしてるんだぞ、という僚の言葉にこっくり頷いた香は、1人で散歩に出掛けた。
猫だった時の香は、分厚い防弾加工のドアの前で丸くなって僚の帰りを待つ事しか出来なかったけど、
今の香は、1人で散歩にだって行ける。
勿論、僚は知らないけれど。


美樹はこの隣を歩く彼女が、とても不思議な存在に思える。
僚が彼女を喫茶店に連れて顔を出すようになってから、もうひと月ほど経つ。
ミックの話しによれば、香は僚と一緒にあのビルに住んでいるらしい。
これまで、数年に亘る僚との付合いで、僚が特定の女と付き合う、しかも部屋に置くなど、
美樹は初め自分の耳を疑った。
冴羽僚という男が、その持前のルックスを最大限活かし、遊び倒していた事は周知の事実だ。
しかし、誰かと同棲するのはおろか、あの部屋に女を連れ込むなど初耳だったのだ。


しかも、僚曰く“元猫”だという彼女は、何処か不思議な魅力を持っている。
勿論、ルックスは最上級だ。
これまでの僚の相手とは、多少タイプは違うモノの、
さすがに眼の肥えたあの男が愛でるだけあって、まるでモデルのような容姿である。
そんな香は、しかしひとたび口を利くと、まるで幼い子供と一緒だ。
何を訊いても、返って来る答えは非常に不可解で。
何故だか、僚が教えたと思われる事柄以外には、ほぼ無知である。
僚と出逢うこれまで、どんな風に育って来たのか皆目見当がつかない、というのが彼女の印象だ。
まず、彼女の年齢も良く解らない。
僚曰く、もうすぐ1歳ぐらいじゃね?との事だったが、美樹はそれには聞こえなかったフリをした。



そして、美樹が一番不思議に思った事は。
初めは美樹同様、香が一体何者なのか訝しんでいたはずの夫が、
ある日を境に、僚が言っているように香は猫なんだ、と言い始めたのだ。
間違いなく香は、僚の“あの猫”だと。
これまで美樹は夫の事を、超現実主義者だと思っていた。
夢見がちなのはむしろ、自分の方で。
ある日突然、シュールな主張を展開し始めた夫に、美樹は疑問を感じると共に、
香への興味が、ますます深まった。




ねぇねぇ、香さん。

???

香さんて、幾つなの?

いくつ???

年齢の事よ。

ねんれい???

えぇ。何歳かってこと。

・・・・・・・わかんない。

・・・・・・・・・。

ん~~~と、雨がいっぱいふってたときにうまれて、そのあと、りょおに拾われたの。
それで、お花がいっぱいさいてるときに、おっきくなったの。

・・・そう。



相変わらず、美樹の質問に対する答えは、不可解だった。
彼女には、年齢という概念そのものが無いように見受けられた。
これまでどうやって生きてきたら、そんな事になるのか。
美樹には、想像もつかない。
見た目だけで言えば、彼女は多分22~24歳ぐらいか。
若くて見目麗しい、長身美女だ。



おっきくなりたかったの。

え?

いつも、りょおに抱っこしてもらってばっかりだったから、
りょおとならんであるいてみたかったの。

・・・それが、香さんが猫さんから人間に変わった理由?



香は満面の笑みで、コクンと頷く。
美樹は別に、夫や僚の言うように香が猫だと、100%信じたワケではない。
けれど。
今までの会話の行きがかり上、思わずそんな事を訊いてみたのだ。
香自身の口から出た『拾われた』という言葉。
僚の隣を歩きたいと思ったという、『おっきく』なりたかったという彼女は。
一体、どれだけ小さな生き物だったのだろうか。

(・・・猫・・・なのかな?)

美樹は少しだけ、自分の持っている世界観が変わってしまうような、微かな違和感を感じた。
けれど、美樹もだてに殺し屋などしているワケでは無い。
これまで、信じられないような現実を色々と見て来たのだ。
もしかすると。
猫が人間に変わってしまう事も、無いとは言い切れないかもしれない。
何より、この目の前の美しい彼女が、嘘を吐いているようには見えない。
そんな嘘を言うメリットというモノも、皆無なのだ。




かみさまにね、おねがいしたんだよ。

何を?

りょおと同じいきものになって、おはなしがしたいって。

・・・・・・・じゃあ、願いが叶ったのね。




香は満面の笑みで、こっくり頷く。
美樹はそれ以上、深く考えるのはよそうと思う。
香が例えば昔、猫だったとしても。犬だったとしても。小鳥だったとしても。
彼女の過去が何であろうが、彼女が魅力的である事に何ら関係無い。
美樹はこの素っ頓狂で可愛らしい、一流の殺し屋の恋人が、結構好きだったりする。
それに夫と違って、美樹は猫好きだ。
店の名前に、使うくらい。
だから、何一つ問題は無い。













件の殺し屋の男が、血相を変えて香と美樹に近付いて来た時。
2人は、昨夜の冴羽家のお風呂タイムの話しをしている最中だった。
香曰く、みみにみずがはいったまま。だと言う。
僚が香の髪の毛を洗う時に、ワシャワシャと乱暴に流したので水が入ったのだと言う。
香はまるで普通の事のように、サラリと言ったけれど。

(あら。意外と赤裸々に話しちゃうのね♪)

美樹は内心、興味津々だった。
あの男が一体、元猫の美人の彼女とどんな生活を送っているのか。
もっとも香にしてみれば、それは至って普通のいつもの出来事だ。
香は僚に拾われて来た仔猫の頃から、毎日一緒にシャワーを浴びている。



香っっ!!
あ。りょお。




香は突然の僚の出現に、嬉しそうに僚に駆け寄る。
僚は汗だくで、どうやらこの辺りを香を探して彷徨っていたらしい。




おまぁ、何処行ってたんだよ?

おさんぽ♪

お利口さんしてろっつったろ?

おりこうさんに、おさんぽしてた。

・・・この、減らず口め。




香は最近、言葉を随分覚えて、反論するという術を身に付けつつある。
僚はそんな香の事が、可愛いのは大前提ではあるが、少しだけ憎たらしい。
僚は香の頬を軽く抓りながら、香が抱えた美樹の荷物をさり気なく取り上げる。
香はその事にさえ気づかずに、楽しそうに僚の胸に擦り寄る。
傍でそんな2人の遣り取りを眺めている美樹は、一瞬だけ。
香の頭とお尻に、薄茶色のピンと立てた耳とシッポが生えているような気がした。
勿論、錯覚だったけど。



冴羽さん、お仕事だったんですって?

んぁ? ああ、ちょっとモグラんとこ。

そう。香さん、お利口さんだったわよ?ただ、ちょっとお耳に水が入ったんだって。昨日のバスタイムに。



通称:モグラというのは、件の武器商人である。美樹も時々、彼に会う。
美樹の意味あり気な微笑みと、“昨夜のバスタイム”発言に、
僚はもう一度、香の頬を抓る。
余計な話をした罰だ。
そして、1人でフラフラ散歩に出たお仕置きは、今夜ベッドの中でシッカリするつもりだ。
勿論、香の脳内は猫なので、僚がそんな夜の事まで考えているなどとは思いもしていない。
楽しそうに、僚の荷物を持っていない方の手に、自分の手を繋ぐ。
僚もされるがまま、むしろしっかりと指を絡めて、所謂『恋人ツナギ』という状態で、並んで歩く。



美樹はそんな2人に、そっと目を細める。
僚の隣を歩く為に大きくなりたかった仔猫は、今楽しそうに手を繋いで歩いている。
僚とお喋りする為に同じ生き物になりたかった仔猫は、今嬉しそうに僚に語りかける。



りょお、きゃっつにいこう。

あぁ。



3人は、通い慣れた都会の道を、喫茶キャッツ・アイ目指し、ゆっくりと歩いた。










カオリンのボキャブラリーと、知識が順調に増えています。
しかし、手本がリョウちゃんなので微妙です。
[ 2012/11/29 20:53 ] 長いお話“猫と殺し屋” | TB(0) | CM(0)