⑱一件落着。

朝、車を降りた所に、仕事を終えた山口がやって来ると、僚の赤いクーパーでは無く、香のグリーンメタリックのフィアット・パンダが停まっていた。
山口が助手席に乗り込むと、お疲れ様です。と言って、香がニッコリ微笑んだ。
「冴羽さんは、ご一緒じゃなかったんですか?」」
「えぇ、何か事件の手掛かり掴んだみたいです。晩ご飯までには、戻るそうですけど。」
山口の質問に、香はそう答えたが、それ以上事件の事には、一切触れなかった。

暫くは、2人は他愛も無い話をしていたが、どうやら夕方のラッシュに嵌ってしまった様で、車も進んでいる時間より、止まっている時間の方が長くなってきた。自然、口数も少なくなってくる。
「なんか、渋滞に嵌っちゃいましたね。」
香はそう言うと、軽く溜息を吐いた。
夕食の下ごしらえは、ある程度して来たけれど、今日はいつもより少しだけ遅くなるかもしれない。そんな事を考えながら、香は僚の運転を思い出していた。
僚の隣で助手席に座るのが殆どの香は、こんな時、僚だったらなぁ。と思う。
僚は、不思議と渋滞を避けるのが上手で、同じ目的地に行くのでも香とは明らかに所要時間が違う。

香がそんな事をボンヤリと考えている傍らで、山口は全く別の事を考えていた。
今朝、初めて香の運転する車に乗った。
アパートのガレージには、クーパー以外にも数台の車が停まっている。
そして、大型のバイクも一台。
どうやらこのフィアットパンダは、香の愛車であるらしい。左ハンドルで5速のマニュアル車を、スムーズに乗りこなす香は、とても凛々しい。
山口の周りには、居ないタイプの女性だ。山口も一応免許を持ってはいるが、全くのペーパーでオートマ車でも、運転は怪しい。東京の街中に住んでいれば、車を使わない方が却って便利だったりする。きょうび、若い男性であっても、車にこだわるなんて事が少ないらしい。オートマのコンパクトカー、それにバックモニターなどというモノまで搭載されている事も、珍しくない。運転技術も低下する一方だ。それに比べて、僚も香もかなりクラシックな好みの持ち主らしい。
山口は、シフトレバーを握る香の手元を見ながら、ハンサムな女性だな、と思っていた。

渋滞を潜り抜けて、2人がやっとアパートに辿り着いたのは、香が最初に家を出発してから2時間以上経った頃だった。すっかり夕暮れて、いつもなら晩ご飯の支度も整っている頃である。
「すっかり遅くなっちゃって、お腹すいたでしょ?すぐ支度しますね。」
「全然平気ですから、気にしないで下さい。」
香と山口がそんな事を言い合いながら、6階までやって来た所で、微かに美味しそうな匂いが漂ってきた。2人は思わず、首を傾げる。

玄関の扉を開くと、僚の大きな靴が転がっていた。
傷だらけの、黒いマーチンのワークブーツ。頑丈で武骨な僚の作業靴。
僚がこれを履いて出たという事は、外で一暴れして来た事の証拠みたいな気がして、香の胸の奥が、小さく小さく痛んだ。
その些細な痛みを呑み込んで、香は自然な動作で転がったブーツのつま先を揃えながら、玄関を上がる。
「僚ぉ~~~???帰ってるのぉ~~?」
香は廊下をキッチンへ進みながら、大きく声を掛ける。
そのまま、キッチンのドアを開けると、香のギンガムチェックのエプロンを着けた僚が、ニヤニヤと笑って待っていた。
エプロンは、僚の体にはとても窮屈そうで、パツンパツンである。何の事は無い、2人の帰って来た気配を感じた僚がたった今身に着けたのである。
「僚、ご飯作ってくれたの?珍し~~~い!!!明日は嵐だね♪」
そんな事を言いながらも、香は満面の笑みである。そして、次の瞬間には頬を膨らませて、
「もぉ~~~エプロン破けるじゃん!!脱いでよぉ~~」
と、僚の期待通りのリアクションをした。僚は香のこの柔らかそうなホッペを見たかっただけである。僚はその真っ白な頬を優しく摘むと
「お帰り。」
と言って笑った。




僚の作った夕食は、トマトソースで煮込んだミートボール。ブロッコリーとじゃがいもとセロリをコンソメで茹でただけの温野菜のサラダ。冷蔵庫に残っていた野菜を細かく刻んだモノと、厚切りのベーコンを塩とハーブだけで味付けしたスープ。
香がハンバーグにしようと思って下ごしらえしていた挽肉は、ミートボールに変更になったらしい。出掛ける前に香が作っておいた、カブとレタスとハムのマリネも、丁度良く味が染みている頃だ。

3人で食卓を囲みながら、山口が呟いた。
「冴羽さん、お料理出来るんですね。…しかもすごく美味しい。」
この数日で僚という人間が、ホンの少し解るような気がしてきていた山口だったが、ここにきてまた、更に意表を突かれた。
てっきり、僚は食べる方専門だとばかり思い込んでいたからだ。僚の作る料理はシンプルだ。料理好きの男性が陥りがちな、隠し味に凝り過ぎてもはや隠れていない、なんて失敗もしない。ハッキリ言って上級者だ。
驚いている山口に、僚は眉を持ち上げて、肩を竦めて見せただけだ。
僚の代わりに、嬉しそうに笑って答えたのは香だった。
「出来るのよ。やらないだけなの。」






「…あ、事件解決したから。」

突然、僚がポツリとそんな事を言ったのは、食後3人揃って、リビングでコーヒーを飲んでいる時だった。食事中色んな話をしたのに、僚はそんな事は一言も言わなかったので、香も山口も思わずポカンとした。
そして、香は苦笑すると、
「何でそれ、早く言わないのよ。ッタク。」
ともっともなツッコミを入れる。
それでも解決と聞いて、香も山口も何はともあれ、明るいムードになる。
しかし、それも長くは続かず、山口は真剣な面持ちで、僚に尋ねる。
「…それで、事件の真相はどういう事だったんでしょうか?」
山口の様子に、僚も仕事モードに切り替わり山口へと向き直る。
香も身を乗り出して、僚の報告を聞く。

「・・・・・・犯人はここ1年程で、香港の方から新しく進出してきていたマフィアだ。俺もまぁ、噂ぐらいはチラホラ耳にしてたケド、直接関わる事も無かったし、情報として押さえてた程度だったんだが。この数ケ月で、奴等が主な収入源として目を付けたのが、ヤクだ。それにしても、シャブやら、大麻じゃこっちの市場も飽和状態だし…。そこで、奴等が考えたのが合成麻薬ってヤツだ。タブレットとか、その類だ。ああいうのは、買い手も殆どがガキとかジャンキーだし、売り捌くにも手っ取り早いしな。で、本国から持ち込む事も考えたようだが、空にしろ海にしろ、近頃は取締りが厳しいからな。コストを考えたら、こっちで手作りしようって事になったらしくてな。どんなエコだよって話だが…。その為の、クスリの専門家を探してたらしいな。」

「でも…、それが何で僕なんでしょうか?…ハッキリ言って、僕が目を付けられる心当たりが無いんですケド…。」

「あのオヤジの中華料理屋。あそこの中国人の店員、アイツはマフィアの末端の構成員だ。あぁやって留学生に成りすまして、普通の世界に潜り込んで、自分たちの組織に利用できそうな人材に目を付けてる。まぁ、仲間に入れるって言やぁ聞こえはイイが、早い話が脅して利用するだけだ。恐らく抵抗すれば命は無い。もし、お前があの時拉致られてたら、今頃は死んでたか、非合法のヤク作りに精を出してたかだな。
あの店で、お前とオヤジさんの話を聞いてたアイツは、お前が薬の専門家だって事を知って目を付けた。そして、お前の自宅やら身辺を探って、お前が居なくなっても、すぐに騒ぎ立てする様な近しい身内がいない事を突き止めた。で、適役と白羽の矢が当たったみたいね。まっ、闇のヘッドハンティングのスカウトマンやね。」

そう淡々と説明する僚の話を聞いて、香は拳を握りしめて般若の様な形相で真っ赤になって怒っている。
「そんなのひどいっっ!!!!絶ぇっっ対っっに許さない!!!!」
そんな香に僚は苦笑して、

「まぁ、まぁ香チャン。最後まで聞けって。んでまぁ、その組織ってのがヤク部門だけじゃなくて、色んな方面で派手に人材発掘やってたらしくて、実際に被害者もかなり出てたらしい。冴子たちも、必死に探ってたらしいんだけど、まぁ相手はマフィアだし。そう簡単にはシッポ出さねぇし、歯噛みしてた所に、例の俺達が渡した、盗聴器。あれはやっぱ奴等が良く使ってるブツだったらしくてな。今までの冴子たちが掴んでた証拠とも一致してな。今回の山口の件も、例のマフィア絡みだと断定したワケ。で、あとはまぁ、冴子からの正式な要請もあって、今回は正々堂々、桜田門のお許しの元、組織ごとぶっ潰してきてやったよ。あの嘘吐き店員も今頃は、地獄で閻魔様に舌引っこ抜かれてんじゃね?…あ、それと今回は冴子の方からも、ちぃっとばかし謝礼が入るから、喜べ香。」

勿論、そんな事を手放しで喜ぶ香では無い。
これまでの僚の話を聞いて、さすがに山口はショックを隠せないでいた。
呆然として青褪めていたが、フト思い出したかのように、
「あ、あの、オジさんは?オジさんに危害が及ぶ事は?大丈夫だったんでしょうか?」
と心配げに尋ねる。

「あぁ、大丈夫だ。実は俺がお前から依頼されたボディガードだって言ったら、お前の事心底心配してたよ。あのオヤジ、見ての通り人が良いから、学生とか独り暮らしの若い奴なんか見ると、放っておけないらしくてな。あの中国人が、バイトが見付かんねぇで困ってるって言ったら、二つ返事で雇ってやったらしい。さすがにショックだったみてぇだが、それよりもお前に悪い事したって。泣いてたぜ。あのオヤジも、ある意味被害者だからな。…まっ、一番の慰めは、お前が今まで通りあの店に通ってやる事だ。”親孝行”してやんな。」

そう言って、僚はニカッと笑った。
それでも香は不安げな表情で僚を見詰めると、
「で?もう大丈夫なのね?山口さんもオジさんも、危険な目に遭う事はないのね?」
しつこい程に、念を押す。僚は、そんな香の鼻先を摘むと、
「だぁれに、聞いてんの?香チャン?当ったり前じゃん♪♪香港へなちょこマフィア・東京支部は、丸ごと壊滅してきたしぃ?冴子たちが今回の件、告発してっから、近々本店の方も、インターポールが捜査に乗り出すだろ?どっちみち、そんな事ぁ、俺達の知ったこっちゃねぇよ。」
そう言って、笑った。



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⑲いつもの2人(肉食獣と仔猫ちゃん)

山口が、僚と香に礼を言って、アパートを出て3日。
いつもの2人の、退屈すぎる日常が戻っていた。
でも、僚も香も、実はそれが一番幸せな事だと知っている。
今回の一件の依頼料も振り込まれ、その上、冴子からの臨時ボーナスも入り、
香の機嫌は上々だ。
自然、僚の足取りも軽くなる。
僚が日課のナンパを終えて、2人のボロアパートの前まで来ると、
冴羽アパートと、隣のビル(RN探偵社の入ったビルだ)の間の狭い隙間の前で、
何やら、愛しのパートナー殿が屈み込んで何かしている。

よく見ると香の周りには、近所中の野良猫が集まっている。
屈んだ香に幸せそうに擦り寄っているのは、この辺では性悪で有名な、
凶悪な面をした、ボス猫(オス、推定3歳。)である。

…何、ブッ細工なツラして、幸せそうに香にスリスリしてやがんだ。殺すぞ…

この期に及んで、野良猫にまで嫉妬する僚は、末期だ。
気配を殺して、香の背後に忍び寄ると、僚はニヤリと笑みを漏らす。
この前初めて、香の首筋に残したキスマークは、殆ど消えかけている。
(また新しいの、付けてやらなくちゃ♪)
などと、不埒な事を考えながら、僚は町内会長の声音を真似る。
「コホン、困るよ、香チャン。野良猫にエサあげちゃ。最近、仔猫増えてるんだから…」
香はビクンと震えると、恐る恐る後ろを振り返る。
香が振り返ると、見慣れた大男がニヤニヤして立っている。
「もぉ~、僚。脅かさないでよ。心臓止まるかと、思ったじゃん!!!」
そう言って、香は頬を膨らます。
そんな事で心停止されたら、困る。と僚は、苦笑する。
「な~にぃ?香チャン。普段は『節約節約』煩いクセに、野良猫に食わすメシはあるんだ?」
そう言って、僚がからかうと、香はあからさまにギクッとして、
眼が泳いでいる。
(…てか、分かり易過ぎだぞ、おまぁ。眼ぇ泳いでるし、今なんか『ギクッ』って音まで聞こえたし。普通、そんなモン聞こえねぇだろ?)
と、僚が思っている事など知る由も無い、香は、
「あああ、あげてないよ。エ、エサなんて。ホラ、野良猫さん達の会合に、町内会代表で出席してたんだよっっ。」
と言い訳になって無い、言い訳をする。
僚は、キャットフードが盛られた皿に、チラッと視線を寄越す。
(っっつ~~~か、その皿、俺がカレー喰う時にいつも使ってるヤツじゃん!!!!)
僚は、思わず脱力してしまう。
香は、その僚の視線の先を見て、タラリと冷や汗を流す。
「へへへ、ばれちった。」
そう言って、香がペロッと舌を出している。
この瞬間僚は、今夜絶対に香を捕獲して、キス以上の事をしてやると決意した。

まぁそれは、この際置いといて、僚はニカッと笑うと、
「なぁ、俺も腹減ってんだけど?ニャンコに餌付けする暇あったら、俺にもエサくれよ?」
と言った。
すると香は、苦笑しながら立ち上がると、
しょ~~がないなぁ、と言いながら、大きく1つ伸びをした。
何故だか今日の香は、ブカブカの僚のジーパンを腰履きし、
少し丈の短めの、真っ白いTシャツを着ている。
足元は、これまた僚の大きめのビルケン・シュトックのサンダルを履いている。
大きく伸びをした瞬間、綺麗な縦長をした、形の良いおへそと、
全く余分な肉の付いていない、ペタンコで滑らかなお腹が覗いた。
天下の往来で、余りにも無防備すぎる相棒に、
(しょ~~がねぇのは、お前だ!!)
と、僚は内心苦笑する。
「今日は何作ろっかなぁ…」
と呟いた香に、僚はスッと腕を差し出す。首を傾げる香に、
「中華、食いに行かねぇ?」
そう言うと、香も僚の言わんとする事を理解して、満面の笑みを浮かべて、
「うん。」
と頷いた。そして、僚の腕に自分の腕を絡めると、
「勿論、僚のおごりだよね?」
と上目遣いで、楽しそうに確認する。僚は一言、
「しゃあねぇな。」
と呟くと、煙草に火を点けた。


しゃあねぇな、ウチの仔猫ちゃんの餌付けは、俺の役目だしぃ?
…しかしまぁ、今夜覚えてろよ?香。


この時の香はまだ、僚の決意など知る由も無いのであった。

(完)






ようやく、「帰るべき場所」完結いたしました。
長々と、ここまでお付き合い戴いた方には、心よりお礼申し上げます。
拍手を戴いて、ここまで書く励みになりました。

笑ったり、怒ったり、泣いたり、チューしたり、
そんな何でもない、普通の2人の生活が書きたくて、
このお話を書きました。
そんな中で最も気を付けたのが、僚の相棒としての香が、
きちんと仕事をしているという点です。

初めには、僚にとってどうでも良い様な情報。
でも、香には重要な依頼人の好きな食べ物。
結局は、それが解決の糸口になる。僚一人では、展開しないケド、
香一人でも解決できない。2人でシティハンターみたいな。

これからも、精進して参ります。
 m(_ _)m

ひとつだけ

※ このお話は、デキ上がった2人のお話です。お好みじゃ無い方は、スルーでお願い致します。



3月も半ばを過ぎた頃、香から何か欲しいモノは無いかと聞かれた。
毎年の事だ。
3月26日は、アイツが俺に作ってくれた誕生日。
その次の週には、アイツの誕生日も控えている。
毎年、互いに
「何が欲しい?」と尋ねて、
「何でも良い。」と答えている。
本当に何でも良いのだ。アイツが選ぶモノなら何でも。


さっき僚に、誕生日プレゼントのリクエストが無いか聞いてみた。
何だか、毎年聞いているような気がする。
次の週には、私も誕生日なので、僚から
「お前の方こそ、何が欲しいんだよ?」と聞かれた。
これも毎年の事。結局、お互いに
「何でも良い。」が合言葉みたいになっている。
リクエストがあれば、確かに選ぶのはラクだけど、
もしかしたら、私達はお互いに、相手が何を選ぶのか、
密かに楽しみにしているのかもしれない。



壊れてしまった腕時計。黒い革のライダースジャケット。
シンプルなシルバーのジッポ。クラークスのワラビーブーツ。
夏の夜の露店で買ってくれた、安物のサングラス。
香が染めた、サイケデリックなタイダイ染めのTシャツ。
手編みのマフラー。僚の好きな、バーボン。
数え上げたら、キリが無い。
香が僚にくれたモノ。
値段もバラバラ、誕生日とは限らない。
何の時に貰ったのかも、よく分からないモノもある。

凄く温かいムートンのコート。シビラの幾何学模様のワンピース。
クリームイエローのネルのパジャマ。
香がずっと前から狙っていた、僚のお下がりの履き古したジーンズ。
ウールのタータンチェックのブランケット。
軽くて大きな、モヘアのストール。丸っこくて小さなハリネズミの置物。
僚が香にくれたモノ。
誕生日だけじゃない。何でも無い普通の日に、
「ホレ。」
って言って、ぶっきらぼうに、突然くれたりする。

2人にとって、これまでのお互いのプレゼントは、
自分では絶対に買わない様なモノ。
有っても、無くても別に困らないモノ。
だけど今では、2人だけのとても大切な宝物だ。
それはきっと、この世の中で最も贅沢で幸せな事だ。

それでも本当は、何にもいらないと思う。
僚のたった1つ願う事は、
自分の目の前で、香がいつまでも笑っていてくれる事。
香のたった1つ願う事は、
この世の中の悪い事の全てが、僚の身に降りかからない事。
ただ、それだけ。
お互いに生きて、一緒に誕生日を過ごす事。




6月初旬、もうそろそろ梅雨に入ろうかと言う頃、
ジメジメとして、スッキリしない日が続いている。
中途半端な雨が、シトシトと降る昼下がり。
リビングには、僚と香のジーンズと、
数枚のTシャツとタオルが部屋干しされている。
1台の扇風機が、それに一生懸命風を送り、乾燥の手助けをしている。
下着や靴下は、脱衣所に干してある。

僚はナンパには行かず、ソファに寝そべって新聞を読んでいる。
香は窓辺に座り込んで、外を眺めながら冷たい麦茶を飲んでいる。
「なぁ~~んか、楽しい事ないかなぁ。
            やだなぁ、雨ばっかし・・・。」
香は、誰に言うでもなく、そんな独り言を呟く。



楽しい事は、沢山ある。
夜の街で酒を飲んで、キレイなお姉ぇさん達とキャッキャと盛り上がる事。
楽しい事は、沢山ある。
キャッツで、美樹さんやかすみちゃんとガールズトークで盛り上がる事。
楽しい事は、
世界中の厳選された、エッチな雑誌をコレクションする事。
TVで見た初めての料理を、レシピを見ながら作ってみる事。
街中で見かけた、可愛くてノリのイイ子とお茶する事。
まるでゲーム感覚で、スーパーで1円でも安い買い物をする事。

それでも本当に、楽しい事は。
2人で一緒じゃないと、意味が無い。
2人でドライブする事。2人でTVを見る事。2人で散歩する事。
一緒にご飯を食べる事。眠る事。

「そんじゃ、楽しい事しよっか?」
そう言って起き上がった僚が、ニヤッと笑う。
「うん。」
香もそう言って、ソファに近付く。

唇が重なる。
軽く触れ合ったあと、見つめ合ってクスクス笑う。
僚が香を抱き締めて、柔らかな猫毛に顔をうずめる。
自分と同じシャンプーを使っている筈なのに、
不思議と甘く感じる、その香りを深く吸い込む。
抱き締められて香は、僚の胸板にペッタリと頬をくっ付ける。
Tシャツから立ち上る、僚の香りを嗅ぐ。
同じ柔軟剤の筈なのに、僚のTシャツからは、僚だけの匂いがする。
とても安心できる、温度と匂い。

しばらく、何度かキスを楽しんで、僚は香を抱き上げる。
階段を上がり、寝室へむかう。

この世の中で、一番楽しくて、幸せな事をする為に。












矢野顕子「ひとつだけ」という曲からイメージ致しました。
このお話は多分、一線超えて数年経ってます。
だって恋人同士になる前に、リョウちゃんがプレゼントなんて。
想像がつきません(笑)


[ 2012/05/04 23:30 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

イヤな男とイイ女

※ 2人は出来上がっております。そんな2人がお嫌いな方は、Uターンでお願い致します。女探偵、セツナス(´Åδ)



同業者夫妻が営む、喫茶店キャッツアイ。私は月に2~3度ほど、顔を出す。
ウチの隣の万年金欠カップルなんて、ほぼ毎日、数時間ソコで過ごしているのだから、それに比べれば私は特に常連というワケでも無い。
それでもここ暫く、足が遠のいていた。理由はカンタン。
件の金欠カップルと顔を合わせたくなかったから・・・・。

あれはいつだったか、今年のお花見(と言う名の酒盛)に誘われて、教授のお宅のお庭に集まってドンチャン騒ぎをした夜、私は知りたくなかった事実を知る事となった。
お互いこの世で1番大切なクセに、なかなか素直になれない僚と香さん。
それがこの数ケ月ほど、少しづつではあるが距離を縮めつつあるらしい、
という噂は姉貴やお節介な周囲の同業者連中から、チラホラ聞かされてはいたケド・・・。やっぱり、実際にそのラブラブ振りを目の当たりにすると、それなりにショックだった。

例年の公園や御苑でのお花見と違って、今年は趣向を変えて教授のお宅でのお花見(結構立派な桜の樹があるのよね)という気安さもあってか、いつもよりも酔っ払ってしまった香さん。その香さんを、何かと気に掛ける僚。
ミックやファルコンと調子よくおどけているケド、その実、香さんの事もさり気なく気遣っていて。これまでなら、それがたとえ香さんの気を引く為の行動だったにせよ、私達同席した女性陣に調子良く声を掛けていたクセに、今年はまるで人が変わったように、香さんを見詰めるのを隠そうともしない、僚がいた。
当の香さんは、そんな僚の熱い視線に気付いているのかどうか、楽しげにみんなと明るく盛り上がっていた。そして、元々あまりお酒に強くない彼女らしく、一番先に酔い潰れて眠ってしまった。
最も驚いたのは、そんな彼女を僚がずっと膝枕していた事。
自分のジャケットを着せ掛け、まわりと談笑しながらも、眠ってしまった香さんの髪の毛を愛おしげにずっと撫でていた。
そんな僚を見たのは初めてだったけど、伊集院夫妻やミック夫妻、教授、彼らに近しい人達は、みんな別段驚いた風でも無く、穏やかに過ごしていた。
その意味するところは、きっと私なんかの知らないとこで、2人はもうとっくにラブラブだったんだって事。改めて、その夜の事を思い返してみても、私と僚が交わした言葉らしい言葉は、最初の挨拶ぐらい。
そんな事がこれ程までに淋しいのかと、打ちのめされてしまった。
まわりに合わせて相槌を打ったり、笑顔を見せたりしてたケド、実際には何の話も耳には届いていなかった。


『香、おまぁ飲み過ぎだってば。明日、絶対二日酔いだな、こりゃ。』
『わっっ!!!ばかっ!!それ水じゃねぇっ、酒だって!ったく、しゃあねぇな~この酔っ払い!!』
『あーあー、寝ちまって。風邪引くだろぉ…』

『りょお!これ超おいしいよ♪かずえさんが作ったんだって。あ~~~んして?ホラ、あ~~~ん。』
『ねぇねぇ、りょお。この前ドライブの帰りに見付けたカフェ、あれ何処だっけ?美樹さんに教えたげよ~って言ってたじゃん?』
『酔っ払いじゃないもぉ~~ん!りょおのばかっっ。』
『フフフ、りょおだぁいすき♪』


どうして私はこんなにも、この2人の会話に耳をそば立てているんだろう。聞きたくなどないのに。

そして決定的だったのは、その夜その酒盛がお開きになった時、僚はまるで壊れ物でも扱うように、香さんを抱き上げて、教授のお宅の奥へと消えたのだ。
別に不思議ではない。2人は教授の身内みたいなモノだし。恐らく、教授のお宅で花見を計画した時から、2人でお泊りする事は、予定のうちだったのかもしれない。だけど、私は本当にショックだった。
そしてその事を、まるで当たり前の事のように振舞う周りの雰囲気に、この仲間内での私の居場所はまるで無くなってしまった様な、疎外感を覚えた。

それはとうの昔に判り切っていた筈なのに、あの2人の間に入り込む隙など無い事。いつ彼らが恋人同士として、私の目の前に居ても不思議では無かった筈なのに、それでもどこかで僚を諦めきれない私がいた。
香さんの手前のポーズだと、白々しいお芝居だと割り切っていたつもりでも、僚の優しいセリフや眼差しをどこかで期待している私がいた。
香さんにだけ、悪態をついたりからかっている僚を見て、優越感を感じていた。
違うのに、”香さんにだけ”ってところが、そもそも特別なのに。その何よりの証拠だったのに。まんまと勘違いしていた、間抜けな私がいた。
1人の淋しい部屋に帰って、私は泣いた。隣のアパートは当然ながら、誰も居ないので真っ暗だった。もし、私がその酒盛に出席しなければ、知る事は無かっただろう。でも私は知ってしまった。その夜、彼らが一緒に眠る事を。


カラァァアン
「あらぁ、随分お久しぶり。いらっしゃい、麗香さん。お仕事忙しかったの?」
と美樹さんに迎えられた。そして、
「こんにちは、麗香さん。ホントすごい久し振りな気がする~、良いなぁお仕事忙しいなんて、羨ましい!!!」
と香さんが、とびっきりの笑顔でそう言った。そんな2人に、私は曖昧に、
「えぇ、まぁ。お陰様で。」
と答えた。そりゃまぁ、冴羽商事に比べれば、ウチの事務所の方が断然忙しいけれど。でもたとえ、伝言板に依頼が無かったとしても、僚に依頼が無いワケでは無い事を、私は知っている。
あの僚が、彼女を路頭に迷わす事など、決してしない事を。
仕事が忙しい事なんて、ちっとも嬉しくない。私からしてみれば、僚に愛されて、大切にされている香さんの方が、よっぽど羨ましい。そして、こんな私の嫉妬心など香さんは、知らない。

それでも私は、純粋に友人の1人として、香さんの事が好きだ。
彼女には裏表が無い。
いつだって自分の事より、他人の事を思う。
物凄く美人でスタイルだって抜群なのに、その事をひけらかしたり、鼻にかけたりしない。というか、そういう自覚が無い。
大人の女性の魅力があって、子供のように純真で天真爛漫。
僚に愛されるだけの、魅力を持ったヒト。そして、誰よりも僚を想い、僚の為に涙を流してきたヒト。悔しいけど彼の隣を歩けるのは、この世で彼女だけなのだ。
私自身彼女に嫉妬してしまうと同時にまた、その嫌らしい感情をも彼女の笑顔が癒してくれる。不思議なヒト。
きっと、私が一生掛かっても敵わない相手。
だから激しく妬ましい反面、こうして美樹さんと彼女と3人で他愛も無い話をしているうちに、自然と心が穏やかになっていく。

そんな時、ふと私の視線は一点に釘付けになってしまった。
香さんが無意識に襟足の髪の毛に触れたその時、垣間見えた首筋に残る鮮やかなキスマーク。
彼女の真っ白な体にそんな印を残せるのは、勿論この世でただ1人、僚だけで。
私は思わず、あ、と声に出してしまった。
香さんはそんな私に、小首を傾げて瞳だけで、
(どうしたの?)
と問い掛ける。思わず私の悪戯心に火が点いてしまう。もしかしたら、
私も香さんに惚れているのかもしれない、そんな錯覚すら覚えてしまう。
気付いたら、私は次の瞬間、スツールから腰を浮かせて、彼女の首筋のキスマークにピタリと人差し指を当てていた。
「香さん、ここ。キスマーク見っけ♪」そう言って、ウィンクする。
人差し指で軽く触れただけなのに、私は胸が張り裂けそうだ。
そこが、僚の唇の触れた場所だからなのか、それとも香さんの綺麗な首筋だからか。きっと、その両方かもしれない。
それは嫉妬心では無く、まるで切ない恋心だ。
香さんは予想通り、今にも倒れそうなほど緊張して、真っ赤になると、
「あぁぁぁあの、ワタシ、夕飯のぉぉお買いものっ行かなきゃだった!!」
と言って、勢い良くキャッツを飛び出して行ってしまった。

そんな私達の遣り取りに、美樹さんは眉をハの字にして、溜息を吐いた。
「…もう、麗香さんたら意地悪なんだから…。お花見以来ね、ここに来るの。」
香さんの前では、決して触れなかった話題。美樹さんには、お見通し。
「なんだかんだ言って、あの2人幸せなのよ。麗香さんには申し訳無いケド、私は香さんが幸せになってくれる事が、一番嬉しいの。」
そう言って美樹さんが笑った。
「えぇ、私もね、すごく不思議なんだけど、香さんに激しく嫉妬しつつも、彼女が幸せじゃないと何だかすごく納得いかない気がするの。イコール私が失恋するんだけどね。」
言いながら私は、自然と笑っている事に気が付いた。
「ままならないわね、人生って。」
「えぇ、全く。」
やっぱり、美樹さんも私の大切な友達の1人だ。


その時、タイミングが良いのか悪いのか、香さんにキスマークを付けた張本人が現れた。
「ちわっ~、美樹ちゃん。いつものねぇ~」
僚はいつもの席に腰掛けると、
「よぉ、麗香。えらい久し振りじゃん?元気か?」
と私に声を掛ける。なによ、えらく爽やかじゃない。前の僚なら、

『麗香に会えなくてリョウちゃん淋しかったぁん♪モッコリしようぜ~♪』

なんて言ってたクセに。どことなく以前とは、雰囲気が違う。
「えぇ、元気よ。最近失恋したんだけど、すっかり立ち直ったわ。」
と、1番の微笑みでそう返す。私の精一杯の強がり。
「へぇ、麗香ほどの上玉を振るなんて、勿体無い事する男だな。」
僚も分かっているクセに、ワザと茶化す。憎たらしいオトコ。
「僚の方は順調みたいね。彼女の首筋に、これ見よがしなキスマークなんか付けちゃって。教えてあげたら、香さん真っ赤になって、慌てて帰っちゃった。悪い事しちゃった。」
そんな意地悪を言ってみても、当の僚は飄々としてて、ワザとらしく肩を竦めるだけ。
「香さんが気の毒だわ。何年も気のない振りで待たせた挙句、ひとたび想いが通じたと思ったら、今度はすっかり束縛しちゃって。」
本心では、私は僚にそんな事が言いたいんじゃないのに。可愛くない言葉が、口を吐いて出る。そんな私に、僚は哀しそうな顔をして、
「アイツがそう言った?俺に抱かれて全然幸せじゃないって?俺みたいな身勝手な男に惚れて後悔してるって?」
そんなはず無い。香さんが、そんな事思うワケが無い。
これは私の勝手な嫉妬。香さんの名前を出して、僚に嫌味を言っただけ。
ちっとも失恋から立ち直ってなんかいないの。
きっと僚は、そんな事お見通し。
私は悔しいケド、唇を噛んで首を横に振るしかない。
するとやっと僚が笑った。いつもの笑顔。そして、
「俺達の事はさぁ、俺達だけが解ってるんだ。俺が香の事を解っている。香が俺の事を解っていてくれている。それだけで充分なんだよ。」
そう言って、僚は静かにコーヒーを飲んだ。
暫く無言で煙草を吹かしていた僚が、ふと
「もうさ、やめたの。意味の無い悪い癖は。俺からしたらさ、イイ女に声を掛けるのは礼儀みたいなモンで、別に深い意味は無いワケ。アイサツだよ、ただの。でもそれで、アイツが泣くんならそんな事やめるのは、簡単な事だ。」
そう言って、深く吸い込んだ煙草のけむりを吐き出した。
正直、僚の言葉がグサグサ突き刺さる。
私が一喜一憂していた僚の言動に、深い意味なんか無い。
判っていたつもりの事実は、本人にこうもアッサリと言われると、涙も出ない。
きっと、僚の優しさだ。想いが残らない様に、自分の事になんか拘らずに、もっとまともな男を見付けろって、そう言ってくれているのよね?
イヤな男。でも、最高にイイ男。
「ホント、あなたってイヤな男。」
私がそう言うと、僚は煙草を咥えた口元をニヤリと歪めて、
「まぁ、今更だろ?否定はしねぇけど?」
と笑った。つい、つられて私も笑ってしまう。
「まぁ、私もイヤな女だけど。今まで散々、香さんにヤキモチ妬かせて、苛めた自覚はあるもの。だから、僚とはお互い様かな。香さんには、悪い事したけど。」
僚は肩を竦めると、
「別に、良いんじゃねぇ~のぉ?アイツあんまし気にしてねぇと思うケド?その程度の事。ほら、アイツ、イイ女だからさ。超心広いから。」
とこっちが照れてしまう様な、ノロケ発言を繰り出した。
結局私は大好きなのだ、僚の事も香さんの事も。
「そうね。私もそう思う。彼女が、イイ女だって事は、否定しないわ。」
今はまだ辛いけど、きっと近いうちに2人とは純粋に良い友達になれると思う。




その数日後、
新宿の雑踏の中で、香さんのハンマーによって盛大に潰される、件の色男を見掛けた。…えーと、悪い癖はもうやめるんじゃなかったの?
まっ、冴羽僚はいつまで経っても、冴羽僚ってことで。
でもそうやって、大事なヒトのご機嫌をとってるあなたも、充分魅力的よ。
悔しいケド。
もうすぐ、ジメジメした梅雨がやって来る。
私のこの、ジメジメとした未練も、雨と一緒にすっきり洗い流してしまおう♪
夏が来る前に。









リョウ サエバ。罪作りな男です。
でも、麗香ちゃんもかすみちゃんも、
その気になれば、彼氏位すぐ出来ちゃいます。
かぁいいから。
[ 2012/05/06 10:55 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

香ちゃんのアルバイト志願

それは何の変哲も無い、よく晴れた5月の AM11:00。
冴羽僚は、少し遅めの朝食をモクモクと食べていた。
傍らでは彼の相棒が、忙しなくあれこれと世話を焼いている。
僚の視線がふと、テーブルの上を彷徨ったかと思えば、
次の瞬間には、醤油さしが、スッと手渡され、
湯呑のお茶が空になったかと思えば、即座に注ぎ足される。
茶碗が空になって、僚がスッと差し出せば、
何も言わずとも、お替りが盛られる。
この一連の流れに、言葉は必要ない。
2人とも、まるでそれが当然の如く、淀み無く進んでゆく。
彼等を良く知る友人たちは、2人のこんな様子を、
『熟年夫婦』
と揶揄するが、当の本人たちにその自覚は皆無である。

こんな時間に、のんびり朝食を摂っているのは、彼だけで。
彼女に関しては、凄く早めの昼食である。
マイペースな彼等は、お互いの生活リズムの、
規則正しさと、不規則さを妥協する気は無いらしい。
槇村香は、毎朝7:30頃には朝食を済ませる。
実際には、そんなに早く起床する必要も無いと言えば、無いのだが、
自由業で且つ、いつも暇を持て余している彼等にしてみれば、
一旦自堕落な生活リズムを身に付けてしまえば、
際限なくダラけてしまいそうで、根が生真面目な彼女は、
そうなってしまう事を、極端に怯えている。
早起きをすれば、そのついでに家の中の用事もサッサと済ませられるし、
午後からは、自分の時間を自由に過ごせる。
怠惰な相棒に合わせていたら、1日何時間あっても足りない。

テーブルの上には、およそ朝食もしくは、昼食とは思えない程の量の
メニューが並んでいる。
しかし冴羽家では、さして珍しくも無い風景である。
至って普通の兄と、2人暮らしだった香は、
最初のうちこそ、僚のその異常なまでの食欲にゲンナリさせられたモノの、
この数年、生活を共にしている間に、すっかり慣れてしまい、
今ではむしろ、食欲の無い僚など考えられない。
なにしろ、たとえ風邪で寝込んでも、食欲だけは旺盛なのだ。
きっと、代謝が良すぎるのだろう。
廃車寸前のアメ車並みに、燃費が悪いのだ。
香は呆れるのを通り越して、少し同情してしまう。
このエコの時代に、因果な性質である。

香が食事を終えても、僚はまだ新聞を読みながら、旨そうに食事中だ。
食後のコーヒーの為に、香が棚からミルを取り出しながら、
言いにくい事なのか、言葉を選びながら何事か切り出そうとしている。
そんな香の様子を、僚は勿論気付いていないワケは無いが、
手助けする気は無い。
香が言いにくい事、イコール僚には都合の悪い事なのだ、きっと。
墓穴を掘るのは、真っ平御免である。
暫し、2人の間に重い沈黙と、ゴリゴリと豆を挽く音だけが流れる。
「・・・あ、あのさぁ、僚。」
「ん~?何だよ?」 (キタッ~~~~~!!!何言われんの?俺。)
・・・・・・・沈黙。   (っんだょっっ!! 早く言えよ!!!)
「ん~、あのね、2週間だけアルバイトしても良い?」
香には言えない後ろ暗い色々を、頭の中でグルグルと予測していた僚にとって、
それは、青天の霹靂とも言える、言葉であった。
思わずポカンとして脱力する僚に、香は首を傾げながらも、
「ねぇ、僚?聞いてる?僚には迷惑掛けないから、家の事もちゃんとやるし。」
ダメ?と、僚の顔色を窺うように尋ねる、甘えた表情の香に、
僚の頬は一瞬緩みそうになるが、すんでの所で、
僚は気を引き締め、平静を装おう。

「あぁ?バイト?何で、また。 キャッツか?」
2人の限られた世界の中で、香がバイトしたいなどと言い出すのなら、
アソコぐらいか?と思う僚だったが、それは全く予想だにしない事だった。
「うぅん。違くて、一応依頼なんだけど・・・」
「は?伝言板にバイトの求人でも書いてあったか?」
香は、首を横に振ると、
「うぅん。チラシの方。」と言った。
あの、
『何でもやります。
 XYZ印の冴羽商事』

のあれである。
(~~~はぁっっ=З、ウチは何でも屋じゃねぇっつうの)
僚は、ヤレヤレと苦笑しながら、
「ふ~ん。あんなモンでも、一応撒いときゃ、読むヤツもいるんだな。」
そう言うと、香は
「失礼だな!!!アタシはいっつも、そのつもりで配ってるわよ!!!」
プゥッと唇を尖らせて、拗ねている。
僚は眉をハの字に下げて、
「まぁまぁ、香チャン。拗ねない、拗ねない。で?どういう事?」
香を宥めつつ、先を促す。
「うん、それがね・・・・・



香の説明によれば、依頼人、井上(36歳、男、既婚)は、
新宿から3駅ほど離れた所で、妻と2人でペットショップを経営している。
その妻は、現在妊娠中で出産間近である。
先のゴールデンウィークに、実家に帰省した流れで、
そのまま里帰り出産の為に、故郷に戻った妻。
残された井上は、今現在1人で店を切盛りしている。
仕事自体は、それ程忙しいワケでも無いのだが、
なんせ、生き物しかも幼体相手なので、店を全くのカラにする訳にはいかない。
これから数ケ月、乳飲み子を抱えて、妻が以前通りに働くのは、
なかなか難しい事は、初めから解っていた事なので、
夫妻は早めにアルバイトを募集していたのだが、応募者が現れる事も無く、
月日だけが刻々と流れ、妻の出産ももう目前なのだ。
そんな折、待望の応募者が現れた。
しかもその青年は、以前から動物に関わる仕事を探していたという、
大の動物好きで、夫妻も大歓迎だったのだが、
どうしても前職の引継ぎの事情により、2週間後からしか出勤できないのだ。
もしかしたら、というギリギリのタイミングで、
出産日の方が早くなるかも知れず、立ち合いを楽しみにしていた井上は、
半ば、諦めていた。
初めての我が子の誕生に、立ち合いたいのは山々だが、
それと同じぐらい愛情を注いでいる、仔犬や仔猫達の事を考えると、
やむを得ないと、思っていた。
そんな井上が、私用で新宿へ立ち寄った時に、
手にしたのが香の配るビラだった。
『何でもやります』
その一文に、光明を見出した井上は、迷う事無く、
『冴羽商事』
なる会社へ連絡をした。一縷の望みを託して。




「…んで、その2週間の間だけでも、手伝って欲しいと。」
「うん。で、もし赤ちゃん生まれそうになったら、井上さんも急いで奥さんの所に行きたいから、その間ペットちゃん達の世話を任せたいんだって。主な仕事は、定期的なエサやミルクのお世話と、ケージの掃除とかだって。」
そう言って、香はニンマリと笑う。
香のその笑顔の意味が読めずに、僚は怪訝な表情で、
「なぁに、ニヤついてんだょ?おまぁ。」
と尋ねる。
僚は正直、面白くない。依頼人が、男だからだ。
最近の僚は、女でさえあれば、依頼人が美女であろうが、
普通の女であろうが、ハッキリ言ってどうでも良い。
一応、社交辞令として、1度は口説いたりもするが落とす気はサラサラ無い。
しかしながら男だけは、男の依頼人だけはやはり気に食わない。
誰しも自分の女(モノ)を、厭らしい目でニタニタと見られたり、
馴れ馴れしく話し掛けられて、気分が良いワケが無いだろ?と、僚は思う。
たとえ香本人が、一切気にしていなくても、僚は気にするのだ。

いくら依頼主が既婚者で、身重の妻がいて、ラブラブだったとしても、
男は男だ。
1日中、香と2人きり狭い店内で、仲良く生き物のお世話などさせられるか。
それが僚の本音である。
香が1人でバイトをしている間1日中、陰からコッソリ、
野獣(井上)とか、
野獣(男性客)とか、
野獣(仔犬オス、仔猫オスなど)から、香を監視しないといけないと思うと、
(否、するもしないも、僚の勝手なのだが)正直、辟易する。
何としても、もっともらしい理由を付けて、
この依頼を断る事が出来ないモノか、僚は思案していた。
そんな僚の思惑など知る由も無い、天真爛漫な相棒は、
思わずニヤついてしまう、その理由を楽しげに話し始めた。
「それがね、井上さんお店抜けられないって言うから、昨日はお話を聞く為に、そのお店に行ってみたんだけど、超かわいいの♪♪♪ すんごい小っちゃいウサギの赤ちゃんがいて、ふわっふわで、超やわらかくて、モフモフなの♪♪♪」
やはり、と僚は思う。そんな事ったろうと。
可愛い生き物をモフモフした上に、バイト代まで貰える。
香にしてみれば、この上なく好条件のバイトである。
超ノリノリのヤル気満々である。
きっと昨日から半日近く、早いとこ僚に報告したかったのであろう。
一旦、話し出したかと思うと、堰を切ったように次々と、
その小動物たちがいかに可愛かったかという事を、楽しげに語っている。
「…でねぇ、仔猫はね、3頭身ぐらいだから、頭が大きくて重たいの…」
一体、コイツは何を言っているのだろうと、不思議に思いながら、
僚は口を開く。
「なぁ、香。」
「ん?なぁに?」
(ヤ、ヤバイッ!!すっげぇ楽しそうじゃねぇか?コイツ。そんな香に、俺止めとけって言えるのか?)
しかし、罪悪感と嫉妬を天秤にかけた末、
軍配が上がったのは、嫉妬と独占欲だった。
僚は心を鬼にして、至極真面目な表情(勿論、演技)で、香を見詰める。
「おまぁな、可愛いからって、遊び半分でやりたいんじゃないのか?いくら可愛くても、相手は生き物だぞ?責任重大だぞ?」
勿論、98%位は、タテマエである。
そんな僚の言葉に、香は一瞬考え込んでしまう。
でも、と香は思う。
勿論、遊び半分なんかじゃ無いケド、今回の依頼は危険な事も無いし、
井上さんだって凄く喜んでくれて、時給だって弾んでくれるって言ってたし。
シティーハンターって事を抜きにして考えれば、
香だって、立派な一人前の大人なのだ。
ただの職業として考えた場合に、自分にだって出来ると思ったのだ。
僚に頼らなくても、自分の力だけで出来る仕事をやってみたかっただけなのに、
僚のバカ、意地悪。
香は、胸の中だけでそう呟いて、
「でも・・・」
と唇を尖らせる。
「でも何だよ?」
と僚も答える。
「でも、井上さん言ったもん!ココで働けば、思う存分モフモフ出来ますよって!!井上さんだって、毎日モフモフしてるって言ってたよ?別に遊び半分じゃ無いもん!!!」
当の店主がそんな事を言ったのであれば、僚が正攻法で攻めてみても、
説得力に欠けるというモノである。
僚は次の一手を、驚異的なスピードで脳内で模索する。
「あぁ~、でも、あれだ。アイツらはなぁ、一見可愛くてもなぁ、自分の気に食わねぇ事があったら、噛み付いたり、引掻いたりするんだぞ?それに意外と臭ぇぞ?シッコとか、ウンコの世話もすんだぞ?ばっちぃぞ?おまぁ、ばっちぃの嫌いだろ?」
そんな事を言う僚に、香はフフンと鼻で笑う。
「知ってるよ、そんな事。小学生じゃないんだから。それに匂いの事言うんなら、大酒呑んだ次の日の朝のアンタの寝室の方が、よっぽど臭いわよ。」
そんな傷付くような事を、シレッと言われて、僚は思わず泣きそうになった。
今回に関しては、香も一歩も譲らない構えだ。
「それに、井上さんもホントに困ってるんだから。初めての赤ちゃんなのに、立ち合い出来ないって、凄く悲しそうだったんだから!!」
僚も香も、お互い一歩も引かず、暫し睨み合う事、数十秒。
香は何か重大な事に気付いたのか、ハッと息を呑むと、
口元を手で押さえた。
「り、僚、・・・アンタ、まさか・・・。自分がモフモフしたいんじゃないの?可愛いウサギさんに!!!ヤダよっっ。絶対、譲んないんだから!!このバイト、絶対絶対絶対私がやりたいのぉ~~~」
涙目でそんな的外れな事を思い付く相棒に、
もはや冴羽僚は、脱力して苦笑するしか無い。

馬鹿か!!お前はっっ。
俺は、犬猫とモフモフする暇があったら、
お前と、モッコリしたいんだよっっ。


冴羽僚の心の叫びではあるが、
しかし勿論、この男がそんな事を堂々と宣言出来る筈も無く、
口を吐いて出た、力の無い言葉は、

「ハハハ、やりたきゃやれば良いんでねぇの?」

という、何とも情けないモノだった。完敗である。
この際、僚が切に願う事は、その店をしっかり監視出来て、尚且つ、
贅沢を言えば、屋根があるイイ感じの場所が、
近くにあると良いなという事だけである。


香がバイトに通い始めて、10日ほど経った頃、
夕飯の食卓で、香は満面の笑みで僚に言った。
バイト代が入ったら、
僚に発泡酒じゃない、本物のビールを買ってあげると。

約束ね♪

そう言って、僚の小指に自分の小指を絡めると、
楽しそうに、指切りげんまんの唄を歌った。
この依頼での、僚の唯一の報酬は、香のこの楽しげな笑顔だけだった。










え~、ワタクシのイメージでは、
香チャンは、犬猫にモテるんじゃないかなぁって気がします。
アニメの、CH1の中に、未亡人の話があって、
彼女のお屋敷の番犬の、獰猛なドーベルマンが、
香チャンに異常に懐いていたのが、印象的です。
獰猛なヤツを手懐けるのは、すごく上手そう。









[ 2012/05/09 18:57 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

※基本スペック※必読※

まず始めに、このお話はパラレル仕様となっております。
下記設定をよく読んで、内容をご理解戴けた方のみ、
「第1話  出会い」 へ、お進み下さいませ。
                          m(_ _)m





◎ 冴羽僚 → 課長、33歳。アメリカ育ち。高校、大学時代から、日本で過ご
          す。2歳の時に、両親と共に飛行機事故に遭い、両親は他界。
          その事故の唯一の生存者。
          その後、母方の伯父である、海原神の手によって育てられる。
          海原が、アメリカで事業を展開している為、僚も2歳から、
          アメリカで育つ。両親の記憶は殆ど無いので、僚にとって、
          親とは、海原の事である。自分が養子である事は、子供の頃か
          ら海原に聞かされている為、承知している。

◎ 槇村香 → OL、25歳。訳あって、前の会社を辞職し転職した先で、僚の
          課に配属される。
          基本的に明るく天真爛漫なのだが、他人には解らない大きな
          心の傷を抱えている。
          父、兄共に刑事だったが、父を10歳の時、兄を20歳の時に
          共に殉職で失っている。母は、香が物心ついた頃には、既に
          亡くなっていたので、天涯孤独の身の上である。
          
◎ ミック・エンジェル
        → 同僚、32歳。スコットランド系アメリカ人。
          僚とは、幼馴染み。独身。

◎ 伊集院隼人 
        → 同僚、36歳。生粋の日本人。
          課内唯一の妻帯者。謎多き人物。
          嫁は、会社の近くでカフェを経営している。
          愛称は、ファルコンもしくは、海ちゃん。


※ 基本的に、男3人は会社から徒歩圏内の、新宿に住んでいる。
  香は、距離にして3駅ぐらい離れた所に住んでいる。詳細は未設定。





オフィスラブです。
興味の無い方は、Uターンでお願い致します。
一応、ハッピーエンドの予定でっす!!!



       

第1話 出会い

『・・・・お兄ちゃんっっ!!
     お兄ちゃん、起きて!! 目を開けてよっっ
     嘘でしょ!?・・・お兄ちゃん・・・


     人気の無い霊安室に、香の泣き声が響く。
     窓の無い地下の薄暗い場所なのに、
     何故だか雨の気配はわかるモノで、
     シトシトと降り続ける雨と、その部屋に染み付いた線香の匂いが、
     たった1人の兄が、
     この世を去ってしまったという現実を、
     20歳の槇村香に、突き付ける。
     それは、彼女にとってこの世で最も恐ろしい悪夢だった・・・』



槇村香は、自分の泣き声で目覚めた。頬には、涙の跡。
まただ、と香は思う。窓の外に目を遣れば、
まだ明けきらない暗い空から、シトシトと中途半端な雨が降っている。
コメカミの辺りに、ズキンと痛みが走る。雨の日には、決まって偏頭痛になる。
あれからもう5年になるというのに、あの日の事だけは妙に鮮明に憶えている。
日常の些細な事などは、ホンの数日前の事ですら、
サッサと上書き更新していくクセに、憶えていたくない事ほど、
簡単には、消えてはくれない。

細く、長く、いつまでも降り続く雨。
警察署の地下の、ヒンヤリとした薄暗い廊下。
物悲しい線香の匂い。
野上さんといったか、兄の同僚のあの美人の刑事さん。
泣きじゃくる香を、ゆっくりと抱き締めて、慰めてくれた。
そして、目を瞑ったままの兄。
眼鏡は、外されていた。
青白い頬を別にすれば、今にも起き出してきそうな死に顔。

香は兄を愛していた。
初恋だったのかもしれない。
たった2人の兄妹で、父亡き後、父親代わりでもあった。
血は繋がっては、いない。香は養女だ。
でも、誰より大事なたった1人の家族だった。
香は兄を、ずっと男として見ていたように思う。
香にとって彼は、兄であって、兄では無かった。
だからその時、香は死ぬつもりだった。兄のいない世界では、
生きていても意味が無いと、本気でそう思っていた。
四十九日の法要が済んだあと、あの野上刑事から、1通の手紙を手渡された。
もし、万一の事が自分の身に起こったら、
これを妹に渡して欲しいと、頼まれていたと。
もしかすると兄には、その予感があったのかもしれない。
それ程までに、危険な事件に関わっていたなんて、香は全く知らなかった。
刑事の顔をした兄を、香は一切知らない。
その手紙には、香をたった1人この世に残してしまう事への謝罪の言葉と、
明るく、強く生きて欲しいという、強い願いが切々と綴られていた。
そして、いつまでも永遠に香を愛していると。
いつも、傍で香を見守っていると、書いてあった。

だから、香はこうして今も生きている。
正直まだ、生きる理由は見当たらない。死にたい理由は、山ほどある。
でも香には、自分自身を殺す事が出来ない。
兄は香を愛していると、手紙に書いていた。いつまでもずっと、死んだ後も。
たとえ今が理由の無い毎日で、一刻も早く兄の元へ飛んで行きたくても、
兄が愛したモノを、それが香自身であろうと、何であろうと、
香には、殺す事も壊す事も出来ない。
いっそ眠りに就いたまま、二度と目覚めなければ良いと、
香は毎朝思っている。

香は小さく溜息を吐いて、パジャマの袖で、ゴシゴシと濡れた頬を拭う。
目覚ましをセットした時間より、随分早く目覚めてしまった。
今日は新しいスタートの日なのに、雨だなんてツイてない。
それでも、二度寝するなんて、今日はもう出来そうも無い。
香はノロノロと起き上がると、風呂場へ向かった。
バスタブの縁に腰掛けて、蛇口から勢い良く湯を出した。
バスタブに、少しずつ湯が溜まってゆく。
気分を変える為に、気に入りのバスソルトを投入する。
クナイプの、オレンジリンデンバウムだ。

香がゆっくりと湯に浸かり、サッパリと憂鬱な気持ちを洗い流して
風呂から上がると、窓の外はすっかり明るくなっていた。
先程の雨も上がっていて、ベランダに出た香が外を観察してみると、
電線に溜まった雨の雫が、朝日を反射してキラキラ輝いていた。
思わず香は微笑むと、
「悪くないじゃん」
と呟いた。
    



その日から、香が新しく通う勤め先は、新宿にあった。
随分古めかしい、4階建てのビル。
少し変わった出版社である。
広く大衆向けの雑誌を発行する訳でも無い。
売れ筋の人気作家の本を手掛ける訳でも無い。
初めから焦点は、ベストセラーというゴールには向けられていない。
様々な分野に於いて、マニアックな専門書というモノがある。
別にバカ売れする必要も無く、しかし必ず一定数の割合で、
世の中に需要のある読み物。
ネット社会がどんなに進行しても、それだけでは得られない情報や知識。
そういったモノが、世の中にはどうしても必要な場合もある。
そして、そういう書物ばかりを扱う出版社もまた、世の中には存在するのだ。
この会社の一般職で、香は本日付で採用された。
初日の今日は、まず始めにAM9:30に、
3階の総務課の、田中係長を訪ねるように指示されている。
本来、始業は9:00かららしいが、香は9:15にそのビルの前に到着した。

「ヨシッ!!」
香は小さく拳を握り締め、自分自身に喝を入れると、
年季の入ったエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まる直前に、
「ちょぉぉっっっとっ、まったぁぁあ!!!」 
と言う声が轟いて、香は慌てて『開く』ボタンを強打した。
声の主は、ヘラヘラと笑いながら、
「いやぁ~~~、ゴメンねぇ。ヤバイヤバイ。遅刻ギリギリでさぁ~~。」
と言って乗り込んできた。
遅刻という事は、この会社の人間なのだろうと香は思った。
しかし、始業は9:00からである。
ギリギリではなく、完全に遅刻である。
「ごめんね?4階押してくれる?」
そう言った男は、かなり長身である。
きちんとすれば、まぁソコソコイケメンであろうが、残念なことに、
髪の毛は寝グセでボサボサ。無精ヒゲに、ジーンズにポロシャツである。
あげく、サンダル履きである。
およそ社会人とは思えない風体の男は、体中からアルコールの臭気を放っている。

昨夜は、少し飲み過ぎたと僚は思う。
まだ水曜日なのに、もう既に僚は週末が待ち遠しい。
しかも、今朝目覚めたら、馴染みのホステスの部屋だった。
別に付き合っている訳では無い。
僚には、恋人などという、煩わしいモノはいない。
しかし、恋人が居ないからといって、セックスをしない訳では無いのだ。
そこは、大人の事情というモノが色々とあって。
男も女もある一定の割合で、
セックス、ノットイコール恋人。という図式が成立つ人種もいるのだ。
というワケで、遅刻ギリギリだ。(否、ハッキリ遅刻なのだが)
今月に入って、僚の遅刻は既に4回目である。

(お、すげぇ、ハクイ♪)
慌てて乗り込んだエレベーターにいた先客は、初めて見る顔だ。
僚は、この会社の女子社員は、ほぼ全員チェックしている。
この彼女は、そんな女子社員達と比べてみても、とりわけ美人である。
もし、社内の人間なら、これ程の上玉を僚が見逃すはずは無い。
(取引先の子か?)
香を斜め後ろから、ジロジロと観察する。
香の視界に入っていないのを良い事に、失礼極まりない。
スラッとした長身。
グレンチェックのツイードのパンツの上からでも、
キュッと上がった可愛いヒップと、スラリと長い脚の美しさはハッキリと判る。
茶色掛かった、ショートカットの癖毛はふわふわで、とても柔らかそうである。
メンズライクな、水色のYシャツを着ている。
マニッシュな雰囲気で、彼女にとても良く似合っている。
清潔感のカタマリみたいで、直視するのが今の僚には眩しすぎる程だ。

かたや僚は、昨夜、近所の飲み屋へフラッと出掛けたままの恰好である。
起床したのが、8:50で、しかもセックスフレンドの部屋で。
彼女は職業柄、爆睡している時間なので、
僚は一言の声も掛けずに、彼女の部屋を飛び出したのである。
顔も洗っていない。歯も磨いていない。ヒゲも剃ってない。
シャワーすら浴びてない。おまけに異常に酒臭い。
ないない尽くしの、最悪最低な状況である。
同じエレベーターに乗り合わせながら、こうも両極端な人間というのも、
非常に珍しい。
ココは、そこいらの雑居ビルではなく、一応れっきとした彼等の職場なのだ。
僚のこの様な出社の風景は、今に始まった事では無いが、
さすがに今のこの状況に、僚自身、己の自堕落さを少しばかり反省してしまう。
よく見ると、彼女は息を止めている。
このまま、3階まで息しないつもりだろうか?と、不思議に思う僚だったが、
他でもない、原因は100%、自分なので、苦笑しつつ謝った。
「ゴメンねぇ。朝まで酒飲んでて・・・臭いよね?ホント、ゴメンね。」
そんな僚に、香は振り返ると、多少引き攣った笑みで、
「いえ、大丈夫です。」
と短く答えた。そして、エレベーターが3階に到着すると、小さく頭を下げて、
「すみません、失礼します。」
と言って、エレベーターを降りた。


(・・・イイ。すんごく、イイ。イイ女だっっっ。
 クッソ~~~~、いつもはもうちっと、マシなのにっっ。
 こんなんじゃ無けりゃ、絶対口説いてるっつうの!!!)
僚は、1人エレベーターの個室の中で、地団駄を踏んでいた。

香は正直あの時、聞こえないフリをして、
『閉まる』ボタンを押すべきだったと後悔した。
尋常では無い酒臭さである。
せめてもの救いは、彼がどうやら別の階の社員であるらしい事だ。
香は一般職の募集で採用されて、総務課へ顔を出すよう指示されたのだから、
きっと、自分の配属先は3階の総務課だろうと思っている。
香は極度に、アルコールが苦手である。
このエレベーターに充満した臭いだけで、酔っ払ってしまいそうだ。
無意識に、息を止めていたみたいだ。
同乗した彼が非常に申し訳なさそうに、
「ゴメンねぇ。朝まで酒飲んでて・・・臭いよね?ホント、ゴメンね。」
と謝っている。
一瞬香は、自分がそんなに露骨にイヤそうにしてしまっただろうかと、
申し訳ない気持ちになって、
「いえ、大丈夫です。」
と答えた。どうせ、もうすぐ3階に着くのだ。
ポォ~~~ン、と到着の合図が鳴ったと同時に、香は僚を振り向き、
会釈をすると、エレベーターを降りた。
勿論扉が閉まるとすぐに、深呼吸をして呼吸を整えた。





香が総務課を訪ねたのは、9:20だった。
遅くもなく、早過ぎもせずグッドタイミング。
「槇村香さんですね?私は総務課係長の、田中聡です。宜しくお願いしますね。」
そう言って、眼鏡を掛けた生真面目そうな男が頭を下げた。
香は恐縮して、
「あ、あのこちらの方こそ、今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。」
と、まるでビジネス文書の様な丁寧語で、頭を下げている。
そのフロアの入り口で、互いに、米つきバッタのように、
ペコペコしている、長身美女と万年係長(愛称である)を、
興味深げに総務課の面々が、見つめている。
女子社員達は、内心穏やかではない。
女性達にとって、仕事の能力より重要なのは、ルックスと性格である。
男性社員たちは、満場一致で(ま、マブイ♪)と思っていた。




それじゃあ、槇村さんに担当して頂く部署まで案内しますね。
と言って、田中に先導されるままに、香は後について行った。
3階の総務課が、自分の配属先だとばかり思っていた香は、
多少意外な感じはしたが、さして疑問を感じる事も無く社内を進んだ。
途中、階段を上がったので、どうやら目的地は4階らしい。
まさかね、と香は思ったが、そのまさかが的中するとは思いもよらなかった。

その部屋のドアは、全開だった。
廊下側から、開け放たれたドアに田中が大きくノックした。
「オハヨウ、サトシ。」
そう言って、挨拶したのは金髪碧眼のイケメンであった。
「おはよう、ミック。僚は?」
そう尋ねた田中に、
ミックは欧米人特有の、大げさなジェスチャーで肩を竦めると、
「さぁ、今日はまだ見掛けないケド。なぁ?ファルコン。」
そう言って、隣の席の大男に同意を求める。
「あぁ、今日はまだ見てないな。」
ファルコンと呼ばれた大男は、一瞬チラッと田中の方を見ただけで、
さして興味無さ気に、フンと鼻を鳴らすと、
「いつもの事だ。ほっとけ。」
と言った。そんな、伊集院隼人に、ミックは苦笑を漏らすと、
「そんな事よりボク達が知りたいのは、君の隣の美人の彼女の事なんだけど?」
と言って、香に極上の笑みを向け、ウィンクして見せた。
田中は、このミックの悪いクセに深い溜息を吐きながら、苦笑する。
ミックは勿論の事、日頃他人の事には我関せずを貫く、伊集院までもが、
興味津々で、謎の長身美人に熱い視線を注いでいる。
それはそうだろう。
誰だって、田中聡、33歳、独身、眼鏡、係長。
の、地味で冴えない顔を見るよりも、
見目麗しいモデルの様な女性を眺めた方が、気分が良いに決まっている。
この場に居合わせた男全員が、この場に僚が居なくて良かったと思っている。
居れば必ず、十中八九口説き始めるに決まっている。
「ま、それもそうだな。一応アイツに先に紹介してと思ったけど、別に良いか。」
田中の言葉に、ミックも伊集院も深く頷く。
「・・・じゃ、改めて紹介します、」
と、田中が言い始めた所で、僚が登場した。
僚は大欠伸をしながら、室内へと入って来た。
一応、欠伸のついでに
「オハヨ~」
と言ったらしいが、他の4人がそれを聞き取れたかどうかは甚だ疑問である。
次の瞬間、普段は温厚な田中がブチ切れた。
「オラ!!僚テメェ、まぁた遅刻かぁ??しかも何なんだよ?その恰好は?なに、サンダル履きで会社に来てんだよ?お家気分にも、程があんだろうがよぉ!!!」
香は、田中のその豹変ぶりに、思わずギョッとしたが、
他3人は、毎度の事なので平然としている。
「はぁ?便所行ってただけだろ?糞してたんだよ。」
まぁ、嘘では無い。
ついでに洗顔と歯磨きとヒゲ剃りも済ませてはきたが。
田中も、一通りキレたらスッキリしたのか、
クルリと香に向き直り、ニッコリ微笑むと、
「槇村さん、にわかには信じ難い事かもしれませんが、このだらしない遅刻魔が、課長の冴羽僚です。」
そして、田中は僚の方を見て、眉間に深い皺を刻むと、
「オラ、僚。こちらが、今日から新しくココに配属された、槇村香さんだ。先週、ウチの部長が話してただろ?」
田中がそう言って、互いを紹介した後、僚と香は暫し見つめ合い、声を揃えると、
「「えぇぇぇ~~~~」」
と叫んだ。

「なに?知り合い?」とミックが面白そうに尋ねる。
香は少し考えてから、
「あ、いえ。さきほど、エレベーターでご一緒して・・・」
と口籠もって、俯いた。
次の瞬間、田中は僚の後頭部をパシッとはたく。
「テメッ!!やっぱ、遅刻してんじゃねぇかっっ。」
それを見た香は思わず、
「あ、ごめんなさい。」
と言って、口元を手で押さえた。それを見たミックは、
「かぁいいなぁ~~~、カオリちゃん♪♪♪イイんだよぉ~~。キミが謝る必要はどぉっこにも無いからっっ。遅刻したのは、バカリョウなんだからっ♪それより、今日からヨロシクね。」
そう言って、すかさず香の横に擦り寄って来て、香の手をヒシと握っている。
そのあまりの素早さに、香はあっけにとられて、ポカンとしている。
伊集院はもう既に、興味を失ったのか、フンと鼻を鳴らすと、
パソコンの画面に向き直り、仕事を再開している。
頭をはたかれた僚は、1人ポヤァンとして、厭らしい笑みを浮かべて、
感激に打ち震えている。
(やべぇ。すっげぇイイ女だ。すっげぇイイ女だ。すっげぇイイ女だ。・・・・・)
そんな面々に軽く頭痛を覚えた田中は、
「それじゃ、冴羽課長。後は任せましたよ。槇村さんっ!!頑張ってくださいっっ。」
そう言って、その部屋を後にした。

香の僚に対する第一印象は、後で振り返ると、最悪だった。
一方、僚の方はその真逆である。
それからの僚は、自分でも気付かないうちに、
香に溺れていく事になるのだけれど、
この時の2人にはまだ、知る由も無かった。

出会いとは、いつも突然である。





 

第2話 新しい職場

良い?分かったわね?
このミスは、あの子のせいにすればいいの。
アナタは、余計な事を言う必要は無いのよ?
後の事は、私達に任せて。

で、でも・・・そんな事私・・・・

あら?アナタも同じ目に遭いたいの?

給湯室から、女性2人の遣り取りが、微かに聞こえてくる。
香はつい先ほど帰った、客の湯呑を引いて給湯室に来たけれど、
すぐ傍まで来て、その場に入って行って良いモノか、一瞬躊躇した。
それでも、こんな片付け位でモタモタしていたら、
自分の向かいの席のお局に、
どんな嫌味を言われるか分かったモンじゃないので、
「・・・失礼します。」と言って、給湯室へ入った。
するとその場にいたのは、つい今まで香の脳内で毒を吐いていた件のお局と、
同じ課の中で、一番気の弱い同期の仲間であった。

お局は、コホンと咳払いをして、チラッと香を一瞥すると、
じゃ、そういう事だから。ヨロシクね。と言って、立ち去った。
同期の女は、少し涙目で香を見詰めると、
「・・・ごめんね、香。ホントに、ごめん。
 ・・・やっぱり、私・・・怖いから、逆らえないっっ!!」
そう言って、走り去った。
香は不思議な気持ちで、首を傾げる。

どうして、謝るの?

その後香は、全く身に覚えの無いミスの責任をとらされた。





香はハッとして、目が覚めた。汗びっしょりだ。
まだ心臓が、煩いほど高鳴っている。
今見た夢は、過去に香の身に起きた、実際の出来事だ。
そんな事が何回もあり過ぎて、
それがその内のいつの事だったのかは、定かでは無い。
前の職場での事だ。
ある時を境に、香の職場での居場所はどんどん苦痛なモノになっていった。

ミスを押し付けられる。
無視される。
ある事無い事言いふらされる。
私物を捨てられる。

女性たちの悪意ほど、陰湿なモノは無い。
香はそれまで、子供の頃から苛められた事など、一切無かった。
女子にも、男子にも友達は沢山いて、いつもニコニコと笑顔に囲まれていた。
初めは、会社の中にも沢山仲良しはいた。
本当の友達だと思っていた子も、何人かはいた。
けれど、彼女たちにとっては、そうでは無かったみたいだ。
短大を出て、その会社に入って3年半働いた。
先々月に、そこを辞める前の最後の半年間は、地獄だった。
元々、華奢な香ではあるが、その半年で7㎏も痩せた。
気持ちが、体に影響を及ぼす事を、香は身をもって知った。
会社を辞めた途端、少しづつ体調も戻り、漸く体重も5㎏増えた。
それでもこうして、あのゾッとするような日々の、夢を見てしまう。

窓の外は、まだ薄暗い。
目覚ましのアラームが鳴るまでに、まだ1時間30分もある。
香はもう一度、ギュッと固く目を瞑った。

それから浅い眠りを繰り返して、アラームが鳴ると同時に体を起こした。
何だかスッキリしない。
あれから1時間半、夢を見る事は無かったけれど、
何故だかドッと疲れている。
軽くシャワーを浴びようと思って、香は風呂場へ向かった。


シャワーを浴びながら、香は昨日の事を思い出していた。
何もかもが今までとは違って、驚く事ばかりだった。

香をあの妙な3人組の元に残し、
一見普通の、しかし切れると異常に恐ろしい係長は、総務課へと帰って行った。
その後、僚が空いているデスクを香にすすめ、
この机、好きなように使って良いから。と言った。
香は僚に、制服はどうしたら良いのかと尋ねた。
すると僚は、眩しいモノでも見るかのように、スッと目を細め、
「あぁ、あれね。あのダサいの。」
と言った。
香はその数分前に、総務課へ立ち寄った際、
そこで働く女性たちの制服姿を目にしていた。
ダサいというか、至って普通の事務服であった。
どこの会社でも、そんなモンだろうという程度の制服だ。
(・・・ダサいかなぁ?普通じゃないの?)
香が不思議に思っていると、
「却下!!!」
と僚が突然言った。
「は?」
香は、意味が良く解らず、キョトンとしている。
「あ~んな、色気もへったくれもねぇ、クサレ制服。ウチの課は却下!」
「きゃっか???」
と、香がポカンとして訊き返すと、
「うん、香ちゃんは基本何しても自由!!どんな格好でもOK。今日みたいな感じも良いケド、スカートなら、尚良し!!」
そう言って、“冴羽課長”はニッコリ笑った。
すると、向かい側の席からミックが、
「異議なし!! スカート丈、膝上15㎝位なら、更に良し!!!」
と、付け加えた。
伊集院は、心底呆れたように、大きな溜息を吐く。
僚とミックは2人で勝手に盛り上がり、キャッキャと
「異議なし!!」「激しく同意!!」などと言って、戯れている。
確かにこの課長から、身だしなみの事などを、とやかく言われる筋合いは無いだろう。他の誰よりも自由なのは、彼自身である。


そんな事を思い出していると、自然と香の口元に笑みが広がる。
初めは、なんでこんな課に配属されたんだろうと呆然となったが、
冷静になって考えてみると、今の香の精神状態で、
総務課の様な女性だらけの中で、新しい仕事を覚えていくなんて正直ゾッとする。香は自分で思っていた以上に、あのイジメの日々がトラウマになっているみたいだ。
その点まだ一日だけだが、今の職場の気楽さには、正直拍子抜けした。
少しだけ社内で垣間見た、他の課の様子は至って普通の会社に見えたけど、
一歩あの扉をくぐれば、まるで、異次元の様な世界が広がっている。

結局その後、僚とミックは香に、
『制服は無しで、毎日ミニスカート』
という、無理難題を持ち掛けたが、
「絶対に嫌です。」
という香の答えに、
あからさまにそれまでのテンションは下がり、シュンとなった。
元々、なぜこの課に配属されたのか解らない程に、仕事は暇だった。
男達それぞれのデスクには、電話が1台づつ置いてあったが、
香のデスクにはそれも無く、電話応対も一切しなくて良いみたいだった。
時折電話が鳴ったが、皆自分のデスクの電話だけを受けているようであった。
そして最も驚いたのは、その電話の殆どを外国語で応対していた事だった。
英語だけじゃない。
香には良く解らない言語で、流暢に喋っている彼らが、つい先程まで、
『膝上15㎝の、ミニスカート希望』
などと言っていた人物とは、とてもじゃ無いが、同一だとは思えなかった。

意表をつかれたのが、伊集院である。
香が僚から頼まれて、資料整理の手伝いをしていた時に、
コーヒーを淹れてくれたのだ。
それも、ちゃんとミルで豆から挽いて、サイフォンで淹れたコーヒーだ。
彼らの話によると、この課内でコーヒーを淹れるのは、
伊集院の役目らしい。だから、遠慮なく頼めば良いと。
伊集院自身は、
「俺の趣味だ。」
と一言呟いただけである。横からミックが、
「明日から、自分のマグカップ用意すると良いよ。」
と、ニッコリ笑って言った。
伊集院の淹れたコーヒーは、とても美味しかった。
お世辞でも何でも無く、香がしみじみと
「美味しい・・・・」
と呟くと、伊集院は少し照れて(表面上は、非常に解り難いが)、
「そ、そうか。いつでも淹れてやるぞ。」
とポソッと呟いた。
僚とミックは、そんな伊集院と香を見て、
『どうやら特技を持ったヤツは、得するらしい』
という議題の元、何が女性受けする趣味かという事を真剣に議論していた。


香は、シャワーの栓を捻り、お湯を止めると、
「さぁ、お弁当作ろっっ!!」
と満面の笑みで、風呂場を後にした。
悪い夢を見ても、もうあの日々に戻らなくて済むんだ。
まだ、たったの1日だけど、
香は何だかあそこで上手くやっていけそうな気がしてきた。

着ていく服を選ぶ時に、スカートへと手を伸ばしかけて香は一瞬迷った。
そして、紺色のストレッチのコットンパンツを選んだ。
スカートを穿いていくと、2人のリクエストに答えたと思われそうで、
少しだけ、抵抗があったからだ。
僚とミックのお願いは、完全に裏目に出た形である。

火の元と、戸締りの確認をして、一旦玄関を出ようとした香は、
あ、と気付いた。

マグカップ、持って行こう♪♪

香はキッチンに戻ってから、少し考えると、戸棚の奥から、
翡翠色の、ぽってりした厚地のミルクガラスのカップを手にした。
そのアメリカ製の頑丈なカップは、昔、兄が愛用していたモノだ。
「これにしよう」
きっとそのカップに注がれた、伊集院のコーヒーは一段と美味しいに違いない。


朝家を出るのが、苦痛じゃないのは、いつ位振りだろう?
だが当の香は、そんな自分の心の小さな変化に、まだ無自覚だった。

第3話 歓迎会

香ちゃん、いるんだろ?
出て来てくれないか?
君とよく話し合いたいんだ。

昼間、君を庇ってやれなかった事は、
悪かったって思ってるんだよ。
お願いだから、顔を見せてくれないかな?

ドアの向こうで主任がずっと何か言っている。
着信も、メールもずっと無視していた。
自宅にまで来るなんて、どうやって調べたんだろう?
会社で調べたのかな。
香には、もう何を、
誰のいう事を信じれば良いのかサッパリ解らない。

お兄ちゃんに会いたい・・・

香は震えながら、蹲って声を殺して泣いていた。




香はまた嫌な夢にうなされて目覚めた。
前の会社の主任は、香にとても優しくしてくれた。
笑った顔が、少し兄に似ていると思った。
初めは、ホンの偶然だった。休みの日にたまたま立ち寄った本屋で、
たまたま同時に同じ本を取ろうとして、同時に

あ、すみません

と声が重なった。お互いに顔を見て、職場の上司と部下だったので、
その偶然に驚いた。
偶然ですね、と香がニッコリと微笑んだ。
どこかでコーヒーでも、と誘ったのは主任だった。
好きな作家が一緒だった事もあって、お互いに好感を持った。
香にしてみれば、彼にどこか兄の面影を重ねていたのかもしれない。
彼にしてみれば、職場の華に、それも最も高嶺の花に、
誰よりも近付ける、願っても無いチャンスだった。
彼は妻帯者だったけれど、香は誘われれば休みの日にデートをした。
他愛も無いモノだった。
食事をしたり、映画を見たり、ドライブに行ったり。
キスどころか、手を握る事すら無かった。
香にしてみれば、恋愛というよりも、兄とやりたかった事を実行している、
そんな気持ちだった。
主任には、兄の事も沢山話せた。
彼は、優しく香の話を聞いてくれた。
気が付くとほぼ毎週、主任は香の事をデートに誘うようになっていた。
今にして思えば、彼はきっとそれ以上の関係を香に期待していたのだろう。
しかし初恋が兄で、その兄を突然亡くしてしまった香にとって、
それまで男性との付き合いは無く、
その時の香には、主任の気持ちは解らなかった。
ただ、彼の優しさに甘えていた。きっと、淋しかったのだろう。
そんな、淡い恋愛ゴッコも長くは続かなかった。
彼の妻が、毎週めかし込んで楽しげに出掛けて行く彼に不審を抱いたのだ。
そして、香との秘密のデートを突き止めた。
彼女にとっては、夫と香が肉体関係だろうが、そうじゃ無かろうが、
そんな事は関係ない。
否、むしろ清い関係でまるで学生の様なデートを、
嬉々として重ねる夫に、より強い裏切りを感じた。しかもその相手が、
まるでモデルの様な女優の様な、現実離れした女性なら尚の事だ。
妻にしてみれば、至って普通の女の自分を、
真っ向から否定されたような気分である。

しかし、この妻の怒りの矛先は不運な事に、夫ではなく香に向かった。
夫の職場に、香を中傷するFAXを送りつけた。
見るに堪えない内容だった。1度や2度では無かった。
送信元はコンビニで、会社の人間にはそれ以上の事を突き止める事は出来なかった。
送られて来たFAXには、香が社内で妻帯者の男ばかりを誑かし、
良いように弄んでいる、泥棒猫であると書かれていた。
香は上司に呼び出され、この様な中傷を受ける心当たりがあるのかと、
しつこく問い質された。
ある意味、その遣り取りですら、セクハラまがいであった。
なまじ、香が容姿に恵まれていた為に、受ける必要の無い悪意に晒されたのだ。
そして反論する術を持たない、無防備な香はただひたすらに心を擦り減らした。
女子社員達が、香を避け始めたのはその事が切っ掛けだった。
それまで、仲良くしていた者たちも、ここぞとばかりに香を苛めた。
彼女たちは心の中では、
美しく異性の注目を一身に受けながら、凛とした香を、妬んでいたのだ。
しかし、非の打ち所のない香を最初から仲間外れにする事は、
自分たちの醜い妬みや、嫉みを周りに晒す事に他ならない。
腹の中では、何処かで香を出し抜いてやろうと、虎視眈々狙っていたのだ。
そこに、件の怪文書事件は、一役買ってしまったのだ。
彼女たちにしてみれば、香を糾弾する、大義名分が出来た。

半年間、苛めに耐えた香を限界に追い込んだのは、女子社員では無かった。
同じ課の先輩の、男性社員だった。
資材倉庫へ、コピー用紙を取りに行った香の後を付けた彼は、
薄暗い倉庫の中で、香を組み敷いた。
「槇村さん、色んな男に色目使ってんだろ?俺まだお呼びが掛からないからさ、自分から来ちゃった。」
そう言って、卑劣な嗤いを浮かべるクズに、香は抵抗できずに涙が零れた。
幸いすんでのところで、他の社員が倉庫に現れ、事無きを得たが、
翌日から、香が出社する事は無かった。

香は、誰の事を責める気も無い。怨むつもりも無い。
ただ1つ、悔いる事があるとすれば、自分の迂闊さだ。
主任に奥さんがいる事は、知っていた。
自分がその立場になって考えれば、簡単に解る事だ。
自分が誰かに甘える事で、誰かを傷付けるという事。
何より、きっと空の上から見守っている兄を傷付けたかもしれない。

他人に兄を重ねて、淋しさを紛らわそうとした罰が当たったのだ、きっと。



香が入社して3日目の金曜日。
午後遅くに、僚が言った。
「ねぇ、カオリン。今日カオリンの歓迎会やるから、4人でメシ行こうな♪♪」
その晩の予定を、そんな時間に発表するなんてどうかと香は思ったが、
特に予定も無いし、こうやって誰かと外食するなんて、
本当に久し振りだったので、とても嬉しかった。
「はい。ありがとうございます。」
香が本当に嬉しそうに笑うので、僚は新鮮に感じた。
大抵女子なんてモンは、その日の予定をイキナリ上司に告げられて、
イイ顔しないもんだ。それでも、一応タテマエで
“ありがとうございますぅ”とか言うんだ。
そういう態度は、本心からのモノか、タテマエか判る人間にはわかる。
僚は一見チャランポランで、彼を良く知らなければ、なぜ彼が課長なのか疑問に思う者も少なくない。しかし、僚ほど管理職に適した人間もいない。
僚は相手を見る時に、相手の言葉には重きを置かない。
言葉以外の所に、実はその人間の本質が隠されていたりする。
言葉通りの事もあるが、
大抵その言葉の裏に隠された細かな感情の機微がある。
それこそが、一番大事な事だと僚は常々思っているし、
そういう事を、読み取る能力には人一倍長けている。
それに関しては、彼を育てた父親に起因するところが大きいだろう。
父親は優秀な経営者である。

香の言葉には、なんの裏も無い。
ストンと、僚の胸に落ちる。
ミニスカートを希望した、スケベ2人に
「絶対に嫌です。」と言った時も。
伊集院のコーヒーを飲んで、
「美味しい」と言った時も。
あの最悪のエレベーターの中ですら、ゴメンね、と謝る僚に、
自分の方こそ、不快にさせたんじゃないだろうか?という様子が見てとれた。
彼女の美しさは、外見だけでは無い。
あのホンの些細な遣り取り1つで、僚には彼女の品性が窺えた。
ガチの、イイ女だ。
けれど、それと同時に何かに酷く傷付いている様に思える。
理由は解らないけれど。



歓迎会は、会社の近所の居酒屋だった。
どうやら、3人の行きつけであるらしい。
僚曰く、初めての所に行くと、大抵酒が足りなくなるから、
3人一緒の時は、知ってる店にしか行かないとの事。
香は、んな大げさなと思ったが、
実際に飲んでいる彼等を見ると、納得だった。
そう言えば、初日のあのエレベーターの時も、異常に酒臭かったものの、
僚が二日酔いで苦しんでいる様子も無かったし、3人とも
アルコールに対する耐性が、余程強いのだろうと香は思った。

香が酒は一滴も飲めないと言うと、3人とも同情してくれた。
彼等曰く、下戸なんて人生の楽しみを、半分ぐらい棒に振っている様なモノらしい。
「飲み過ぎで、人生を棒に振る人もいますけどね。」
香がそう言うと、3人は声を揃えて、
「「「上手い事言うねぇ~~~」」」と言った。
僚は、香が飲めないと聞いて、
あの時エレベーターで息を止めていた事への合点がいった。
今更ながら、あの時の事を思うと申し訳無かった。

途中ミックが香に、しつこく彼氏は居ないのかと尋ねた。
大抵、どんな事でもハキハキと答える香が、一瞬表情を曇らせた。
そりゃあ、僚としても、勿論その質問には興味大アリだったが、
何故だか、そこに例の香の傷を見た様な気がして、
それ以上、バカバカしい質問をするミックに、我慢ならなかった。
僚は、腹の底が沸々と煮えるのを感じて、ジョッキのビールを飲み干した。
空になったジョッキを、
ミックの頬に、半分殴り付けるような勢いで押し付けると、
「オラ、ビール無くなったから、オヤジにオーダーして来い!!」
と言った。伊集院もついでに、
「バーボンも頼む。」と言った。ミックは盛大に顔を顰めると、
「何だよ~~、今重大な事実を確認しているところなのに!!!」
と喚いた。否、その点が問題なんだろうがと、僚は思って、
「るせぇ、グダグダ言わずに、とっとと行け!課長命令だ。」と言った。

「・・・SIT、都合のイイ時だけ、課長面しやがって!!」
ミックは、ブツブツ言いながら、渋々席を立った。
ミックは、悪い奴では無いんだけどと僚は思う。
彼は、根っからのアメリカ人だ。
行間を読むとか、空気を読むとか、たとえ理解していても、
実行に移す気は、サラサラ無い。彼との長い腐れ縁で、その性格もよく理解している。彼は僚とは真逆で、言葉にする事が全てだ。
自分の意思を人に伝えるという事に於いて、曖昧さを嫌う。
言わない事は、無い事と同じなのだ。
僚にも、その理屈は良く解る。僚とて、アメリカ育ちだ。
だけど、それはタフな人間の理屈だ。ミックに傷が無いとは思わないが、
彼はそのタフさを、無意識に他人にも求めようとする。
いつもなら、なんてこと無いそんな遣り取りが、
さっきの僚には無性に許せなかった。
まるで大事な宝物を壊されるような。
キレイな風景を汚されるような、そんな気持ちになった。

戻って来たミックは、もう香の“彼氏問題”には触れなかった。
ミックとて馬鹿じゃないので、僚の意図は読めている。
(僚のヤツ、らしくなく熱くなりやがって。マジかな、ありゃ。)
内心、そんな事を思って、ヒッソリ微笑んだ。


香の電車の時間があるので、
歓迎会は彼等にしては、驚異的な時間にお開きとなった。
いつもの僚なら、夜はこれからだ。
馴染みのキャバ嬢から、営業電話が入ったミックは、
「それじゃあね、香。グンナイ♪また、来週。」
と言って、香にウィンクを残して、夜の帳に消えた。
伊集院の自宅は、反対方向なので、居酒屋の前で別れた。
駅までの道を、僚と香はゆっくり歩いた。
実は、僚の携帯にもミックと同じく、営業電話が掛かってはいたが、
僚は電源を切っていた。金曜の夜に、電話が入る事位想定内だ。
いつもの僚なら、喜びいさんではせ参じる夜遊びが、
僚は今夜初めて、メンドクサイと思った。

暫く、何も言わず2人で歩いた。
それ程飲んでもいないのに、火照った肌に夜風が気持ちイイと、僚は思った。
「課長、ちゃんとスーツの日もあるんですね。意外でした。」
香がフフフと、笑った。
確かに、今日の僚はスーツを着ている。今日は、会議があったのだ。
さすがにネクタイは、会議の時だけ締めて、終わり次第速やかに解いた。
それから終日、ノーネクタイで過ごしている。
「まぁ、一応サラリーマンだし。サンダル履きは、あれはホント珍しいんだから。たまたまなの、あの日。まっ、あんだけ最低なの見られちゃ、後はイメージも上がるしか無いって事で。」
そう言った僚に、香は爆笑して、
「ポジティブなんですね♪」
と言った。その笑顔が異常に可愛くて、僚は柄にもなくドキドキしてしまった。
確実に、今までの僚ならホテルに連れ込むパターンである。
しかし、何故だか今の僚の脳内からは、『セックス』という単語は、
綺麗サッパリ、スコーンと抜け落ちていた。

「さっきは、ありがとうございました。助かりました。」
フト、香がそう言った。
さっきというのは、ミックの不躾なインタビューの時だ。
僚は、歩き煙草をしながら、
「さっきって?」
と、解っていてとぼける。香もクスッと笑って、
「さっきは、さっきです。」
と言った。僚は何も言わず、口元だけでニッと笑った。

僚がどんなにゆっくり歩いても、元々駅はすぐ傍なので、程なく駅に到着した。
別れ際、僚が口を開いた。
「嫌な事なんか、忘れちまえ。人生なんか、アッと言う間なんだから、楽しい事だけ見て笑ってろよ?」
そう言って、香のふわふわの癖毛を、クシャッと撫でた。
思いもよらない僚の言葉に、香は思わず涙が込み上げそうになったが、
唇を噛み締めて我慢した。俯いて、小さな声で囁く。
「出来る事なら、忘れちゃいたい事がいっぱいあるんですけど、中々上手に忘れられません。」
今にも泣きそうな香に、僚が言った。
「嫌な事、思い出しそうになったら、下らねぇ事考えたら良いんだよ。」
「例えば、どんな。」
涙で潤んだ目で香が尋ねる。
「例えば?う~~ん。例えば、朝遅刻全開で、スリッパ履いて会社に来る男とか?」
僚の言葉に、香はプッと噴出すと、次の瞬間ケラケラと笑った。
笑いながら、涙が溢れた。
そんな香に僚は優しい目で、もう一度髪の毛をクシャッと撫でた。
「気を付けてな。また、来週。」
「はい、課長も。今日はご馳走様でした。おやすみなさい。」
「あぁ、おやすみ。」

僚は背を向けて駅ビルの中に消えていった香を、いつまでも見ていた。
無理やりにでも、バイバイしなければ、抱き締めてしまいそうだった。
(やべぇ、マジで惚れる・・・)

香は、僚に背を向けて歩きながら、手の甲でゴシゴシと涙を拭った。
本当に優しい人というのは、課長の様な人を言うのかもしれないと思った。











第4話 ランチタイム

槇村香は、昼食はいつも弁当を持参する。
弁当作りは、高校生の頃から、ほぼ10年近く毎朝変わらない香の日課だ。
毎日、外で買ったり外食をするのは不経済だし、栄養も偏る。
何よりも、飽きるし美味しくない。

香の向かいの席のミックと、少し離れた席の課長は毎日出前だ。
会社の近くの中華屋から、毎日ほぼ同じメニューが運ばれて来る。
驚くべきは、その量である。
初日に、出前のオジさんがオカモチから、ラーメンを4杯取り出した時は、
香は思わず、頼んでません、と言いそうになったが、
どうやらそれは、早合点だったようで、
僚とミックのそれぞれが、2杯ずつ食べるのだ。
それに、餃子とチャーハンまで毎日シッカリ平らげる。
僚に至っては、あんなに酒臭かった日でも普通にしっかり完食したのだ。
さすがに、ココに来て数日、もう驚きはしないが、むしろ少し心配になる。
この人達は、『メタボリック・シンドローム』という言葉を知らないのだろうか、と。

今の所、香のこの心配は無用であった。
香の知る由では無いが、彼等は年に2度の健康診断では、
すこぶる良好な結果を叩き出している。
体脂肪率に至っては、8%以下である。

伊集院は、毎日愛妻弁当である。
「重箱かっっ」とツッコミを入れたくなる程の、特大の弁当箱に毎日彩り豊かなおかずが盛り込まれている。
その弁当を見ただけで、彼の妻の愛情が窺える。
しかも、その上いつも手作りのデザートまで付いているのだ。贅沢この上ない。
普段恐ろしく無口な伊集院が、楽しげに口にする話題の1つが妻の事である。
彼女は、この会社に程近い場所でカフェを経営している。
毎朝、店で出す為のスイーツを作るので、その内の1つが彼の弁当に添えられるのだ。



僚のデスクの電話が鳴ったのは、11:00を少し回った所だった。
僚は短い通話を終えると、チッと、小さく1つ舌打ちをして時計に目を遣ると、
何処かへと電話した。
「うぃ~す、冴羽ちゃんでぇっす!!!ごめんねぇ、オヤジさん。俺今日は昼飯パス。ちょっと、出掛ける事になってさぁ。えっ?そうそう、ミックちゃんはいつも通りで。うん、悪いね。また、明日頼むわ~バイバ~イ。」
僚のその様子を見たミックは、
「ボスか?」
と訊ねる。僚は、無言で片眉だけを吊り上げる。『YES』の意味だ。
僚は、11:45に出掛けた。

香と伊集院は、きっと気が合うとミックは思う。
彼がこれ程までに、たった数日の付き合いの、しかも女子に打ち解けているのをミックは初めて見た。
伊集院は、基本的に妻の美樹にしか興味の無いオトコだ。
見た目の凶悪さに恐れをなして、大抵の女の子には受けが良くないのだが、
不思議と香は、彼の風貌には一切、先入観は無いようである。
ミックには、上手く表現出来ないが、香はまるで物怖じしない子供の様だ。
今日のランチは、せっかく僚が居ないので、
香を1人占めして、イッパイお喋りしようと思ったのに、
当の香は伊集院の愛妻弁当に、興味津々なのだ。
『これはなぁに?』とか、『今度私も作ってみよう♪』とか。
伊集院の弁当を、観察して感想を述べている。
伊集院の方も、妻の手料理を女性の香に褒められて、非常に嬉しそうに答えている。
『それなら、今度レシピを聞いといてやろう』とか、
『いや槇村も、なかなか上手だと思うぞ。その年でそれだけ作れれば上出来だ。』とか。
ミックは、当てが外れてちっともつまらないけれど、
不思議と伊集院に対して、嫉妬心は起こらない。
まるで2人は、父娘の様なのだ。

香はここの所、伊集院のお弁当を見せて貰うのが楽しみだ。
奥さんの美樹さんは、とても料理が上手ですごく勉強になる、と香は思う。
その上、伊集院のデスクの上の、写真立ての中の彼女は、超が付く程の美人だ。ここ最近の、香の憧れの人は美樹さんだ。
「お、そうだ。槇村にも渡しておこう。」
そう言って、伊集院が薄いブリーフケースから取り出したのは、
1枚のチラシだった。
香に手渡されたそれを、ミックもシゲシゲと覗き込む。
『婚活ナイト in キャッツ・アイ』
と銘打たれたそれに、香とミックが揃って首を傾げる。
「ファルコン、なんだい?これ。」

伊集院の説明によれば、この度、彼の妻の美樹が発案した、
オフィス街の健全な出会いの為の、婚活パーティーらしい。
場所柄、彼女の店には、ここいらのOLやサラリーマンの常連が多い。
そんな常連たちの声を聴いた結果、昨今の晩婚傾向には、
なかなか出会いが無いと言う、現実がある事に行き着いたのである。
伊集院夫妻は、結婚至上主義なので、
1組でも多く幸せなカップルを輩出したいという考えなのだ。

それでもなぁ、とミックは苦笑する。
(・・・カオリにこんなモノ渡すなんて、リョウがこの場に居たらブチ切れるな。)
「どうして、カオリにだけ渡すんだよ?ボクの分は?」
訊ねるミックに、伊集院はフンと鼻を鳴らすと、
「男は定員いっぱいだ。でもなぁ、これはあくまで健全な出会いの為のイベントだ。お前と僚には、たとえ空きがあっても、用の無いイベントだ。」
そう言い放った。



一方、その頃僚は、とある一件の蕎麦屋に来ていた。
僚が顔を見せると、僚を呼び出した初老の男は破顔した。
「やぁ、僚。済まないね、呼び出して。」
そう言った男に、僚はニヤッと笑うと、
「いや、そろそろだと思ってましたよ。」と答えた。
「香嬢は、元気でやってるかね?」
そう訊ねる、この僚の目の前の彼は、僚の勤める出版社の社長だ。
そして、僚の父親の海原神とは、強い絆を持った親友である。
「やっぱり、あなたの采配でしたか。ウチに一般職の女の子を寄越すなんて、正気の沙汰じゃ無いと思いましたよ。・・・で?彼女はあなたにとって、何なんです?」
僚がそう言った時に丁度、盛り蕎麦が運ばれて来た。
社長は、店員に
「悪いけど、今から暫く襖閉めといてくれないかな?」
それだけ言うと、店員は心得たもので、深く頷くとその場を後にした。
「私はね、僚。彼女を置いておくのは、お前の所しか無いと思ってるんだよ。」
そう言って、何事か暫く考えてから、話し始めた。

「彼女の父親の槇村はね、私と海原のもう1人の親友であり、私達の命の恩人でもあるんだよ。強い男でね。そして、誰よりも優しかった。彼は、刑事をしていたんだが、2人の子供を残して殉職した。その時香嬢は、まだホンの10歳だった。8歳上の息子もいてね、その息子もまた刑事になって、彼女が20歳の時殉職した。」
僚は思わぬ話の展開に、喉がカラカラになっていた。
「・・・母親は?」そう訊ねた、僚の声は掠れていた。
「彼女は、母親を知らない子だ。お前と同じだよ、僚。元々、彼女は赤ん坊の頃に、両親と事故で死に別れた孤児だ。それを槇村が養女として引き取った。それでも、まるで本当の娘と何ら変わらぬ愛情を彼とその息子で注いでいたよ。・・・槇村があの子を引き取った事は、お前にも多少なりとも関係があるんだよ。その6年前、お前が2歳の時、海原はお前を引き取って男手ひとつで、とても楽しそうに子育てをしていた。そんな海原を見ていたから、槇村もまたその小さな赤ん坊を目の前にして、自分が育てる事を決めたんだ。お前がいたから、あの子は槇村という立派な父親を持つ事が出来た。」
そう言って、社長は微笑んだ。

暫く、男2人でズルズルと、蕎麦を啜り。
それぞれが、色んな事を考えていた。
「それで、彼女は何故ウチの会社に?あなたと父親の事は、知ってるんですか?」
僚がそう問うと、
「ウチの会社に面接に来たのは、全くの偶然だ。たまたま、私が資料に目を通して気付いた事だ、あの子が槇村の娘だと。私の事も海原の事も、きっと覚えてはいないんじゃないかな。彼女と最後に会ったのは、槇村の葬式だったから、まだ10歳になったばかりの、ホンの小さな少女だった。・・・でもね、問題は父と兄の死だけじゃないんだ。ウチに来る前の会社で、相当辛い目に遭っているらしくてね。海原とも相談して、徹底的に調べたよ。これがその報告書だ。」
そう言って社長は、分厚いA4判サイズの茶封筒を僚にスッと差し出した。
僚は、それにゆっくり目を通した。
どうしたら、こんな些細な事まで解るのかという位、見るのも嫌になる程、
緻密な情報だった。僚は腸が煮えくり返って、どうにかなりそうだった。
いつもは馬鹿みたいに食べる僚が、もうそれ以上蕎麦も喉を通らなかった。
「それで、彼女をこんな目に遭わせた、バカ共の始末は?」
おやおや、物騒な。と言いながら、社長はニッコリ微笑むと
「今現在、着々と実行中といった所だよ。お前は心配しなくて良い。それは、私と海原の担当だ。槇村の娘は、私達の娘でもあるからね。お前はあの子を傍で支えてやってくれ。その為に、私は彼女をお前の元に置いたんだから。・・・それにしても、お前は相変わらず優しい子だ。子供の頃からちっとも変らん。私は、今回の事はお前がもう一段階、成長する糧になると思ってるよ。ゆくゆくは、海原の跡を継ぐ男だからな、お前は。」
そんな事を言うオッサンに、僚は盛大に顔を顰めると、
「ったく、俺は跡を継ぐも何も、何一つ明言してませんから!!」
と迷惑そうに答える。社長は、心底楽しそうに、
「生憎、私は人の言葉を、額面通り受け止める程、素直なタイプじゃ無いんでね。まだまだ、お前は若い。人生はこれからだよ。慌てて決断する話でも無かろう?」そう言って笑った。

蕎麦屋を出た僚は、真っ直ぐに会社へは戻らず、オフィス街の公園に立ち寄った。
昼休みの時間帯も、とうに過ぎ、人影もまばらだ。
こんな街中の公園に一日中いるのは、ホームレスぐらいのものだ。
ベンチに座った僚は、無意識に口に咥えた煙草のフィルターをギリギリと噛み締めていた。先ほど社長に渡された、胸糞悪い茶封筒は、僚の手の中でグニャリと変形している。
こんな気持ちのままでは、あの3人の前で平常心ではいられない。
少し、気持ちを落ち着かせて戻らなくては。
僚はジャケットの内ポケットから、ライターを取り出した。
カチン、と蓋を開けると、封筒の中から4~5枚づつ取り出し、火を点けた。
薄いレポート用紙は、アッという間にビル風に吹かれて消えていった。
そんな事を暫く繰り返すうち、僚の手の中の香の悲しみは全て燃え尽きた。
だけど、こんなに簡単にはいかない、と僚は思う。
こんな紙切れみたいに、簡単に消す事の出来る痛みなら、
あんな風に笑いながら泣いたりしない。
彼女の心の中の傷は彼女自身にしか、手が届かない。
自分にそれを消してやる事が出来るのならば、何だってする。
僚は、そう思ってベンチから立ち上がった。

僚はそれから、香が好きだと言っていた洋菓子店に行き、
香が好きだと言っていた、クッキーシューとやらを大量購入して、会社に戻った。
勿論、香を甘やかす為だ。
その香のお気に入り情報は、あの歓迎会の時に何気ない会話の中からリサーチした。その後で、しっかりネットで検索して場所も調べたのだ。抜かりは無い。
僚はこれからの人生、香の下僕となる事を、先程ベンチの上で心に誓った。
たとえ、これから先ずっと課長と部下のままだったとしても。
彼女にどう思われようと。
それは、僚の心持の問題である。
出来れば、願わくば、恋人になりたいけれど。


僚が買って帰った、シュークリームを渡すと、香はパァッと頬をバラ色に染めて、
「わぁ。ありがとうございます♪」
と言った。早速、伊集院がコーヒーを淹れはじめた。
「食べてもイイですか?」
と嬉しそうに訊ねる香に、100%ダメな訳は無いので、
「好きなだけ、どうぞ?」
と僚もニコニコして答える。香は本当に幸せそうに、シュークリームを食べた。
ミックも、確かに美味しい、と頷いた。
そんな彼等を眺めて、ウンウンとご満悦の僚の視界の隅に、
不穏なモノを発見した。
香のデスクの上の、A4サイズの一枚のチラシに、
『婚活』
の二文字。
僚はすかさず、その不穏分子を香の視界から排除する。
あいにく、彼女はシュークリームに夢中で、僚のその行動に気付いていない。
「海ちゃん、何よ?これ。」
僚がそのチラシをヒラヒラさせながら、伊集院に問う。
「あぁ?あ~、婚活パーティーのお誘いだ。言っとくが、男はもう定員イッパイだ。女子限定だ。」
「だぁからっつ、何でこんなモンがココにあんのか聞いてんだよっっ。こんなモンは、下の総務とか、経理でばら撒いとけっっ。」
「フンッ、お前に言われるまでも無く、そのつもりだ。しかし、槇村も女子社員だ。一応全員に配る。もし、定員イッパイでも、槇村なら大歓迎だ。美樹も喜ぶ。」
そんな、僚と伊集院の会話を、ミックと香はモグモグとシュークリームを頬張りながら、他人事の様に眺めている。
伊集院は、ゴホンと、咳払いをすると、少し頬を染めて、
「それにだなぁ、何だその、槇村なら良い相手はすぐに見付かるし、きっと良い嫁さんになると思う。」
それを聞いて、今までのほほんと呑気に傍観していた香は、
驚きのあまり、シュークリームを喉に詰まらせそうになって、焦っている。
あまりの伊集院の発言に、唖然として言葉を失っている僚を見て、
ミックは心底楽しそうに、ニヤついている。

僚は、がっくり肩を落として、深い深い溜息を吐いた。

意外と近くに、伏兵が潜んでいた。
おちおち、外にランチにも行けない。

第5話 出張

香が春の終わりに入社して、1か月半程が経とうとしていた。
今まで、男ばかり3人の殺伐とした事務所に、
小さな観葉植物が置かれるようになった。香が持って来たのだ。
香はそれに、いつも話し掛けながら愛おしそうに水を遣る。
僚は思わず、そんなちっぽけな植物に嫉妬してしまう。

相変わらず、香は美樹に憧れ、今では会社帰りにちょくちょく、
キャッツに通っている。
そこに、当然のように僚とミックまで、くっ付いて来るようになった。
仕事が終わった後まで、みんな一緒なのだ。
僚は勿論、香と2人きりの方が良いに決まっているが、
当の香が、とても楽しそうなので贅沢は言わないのだ。
僚にとって、世界は香を中心に回っている。

そして香もまた、この梅雨の真っただ中、
いつもなら偏頭痛に悩まされる季節だが、今年は全く平気だ。
その事実にすら、未だ気付いていない。
気持ちが、体調を左右する。
以前にも香が体験した事だが、今度はそれがプラスに働いた。

相変わらず僚は、巧妙に香を甘やかした。
あまりスイーツばかりも芸が無いし、
かといって、値の張るモノを貢がれて喜ぶタイプの女では無い。
却って、気を遣わせても意味が無い。
あくまでも、何かのついでにそっと彼女の喜びそうな事をしてみたりする。
彼女の使う事務用品に、こっそり可愛らしい付箋やクリップを買ってきてみたりする。どういうモノが好みなのか、僚はいつも彼女を観察している。
自然と夜遊びをしなくなった。遅刻もしていない。
以前の僚とは、まるで別人だった。
しかし僚もまた、その事実には未だ気付いていない。

香1人加わっただけで、色んな事が明るく色彩を変えていった。

「いつも、良くして下さるから。」
と、1度香が弁当を作ってくれた。伊集院はいつも愛妻弁当があるので、
僚とミックにだ。3人分で沢山になったからと、香は重箱に詰めて持って来た。
それを、取り皿に綺麗に盛り付けて、
「どうぞ。」とニッコリ微笑まれた時は、僚は眩暈を覚える程、幸せだった。



だから僚は、社長にアメリカ行きを命じられた時、正直、気が重かった。
僚は年に数度、仕事でアメリカの父親の元を訪れる。
僚たちの課は、主にこの会社の出版する出版物に於いて、
様々な言語を、翻訳する仕事をしている。
かなり専門的な書物が多いので、外国の文献や、学術書などから、
様々な文章を引用する事も多い。
専門的知識や、かなり深い外国語の語彙力が求められる。
3人それぞれ、得意とする言語は様々だが、
3人いて、翻訳できないという事は、ほぼ無い。
基本的には、編集の方から依頼される原稿それぞれに締切があり、
締切に合わせて、優先順位を付けて片付けて行く。
それ以外に、外から依頼を受ける場合というのも多々ある。
彼等は一見、のほほんとしている様に見えて、なかなか仕事の出来る男達なのだ。実際のところ、社内の大半には、理解はされていないが。
社長と海原は、固い絆で結ばれた親友であると同時に、経営者としても様々な面で協力関係にある。
僚が使いに遣らされる場合、仕事半分、プライベート半分と言った所だ。
今回アチラに行けば、きっと香の事が話題に上るのは必須で。
多分、オヤジに掛かれば僚のポーカーフェイスなど、全てお見通しで、香に惚れている事を追及されるのが、正直憂鬱だ。

それに、単純に香のいない日々は淋しい。
何故だかわからないけれど、
僚はどうしても香に、出張で暫く不在にすると言い出せなかった。
勿論、ミックと伊集院には話している。彼等はいつもの事なので、気楽なもんだ。お土産ヨロシク~と言われた。





その日僚は、始業時間を過ぎても出社しなかった。
香は、とても気になった。
昨日までは、いつも通りだったのに。
もしかしたら、具合が悪いのかもしれない。
何処かで、事故に遭ってるかもしれない。
ミック達は、単に遅刻してるだけだって思ってるだけかもしれない。
でも、もし課長が大変な目に遭ってたら、どうしよう。
香は気が気じゃ無かった。
「あの、ミックさん?」
「何だい?カオリ。」
「課長、遅過ぎません?具合でも悪いんじゃないでしょうか?」

そう言って心配そうにする香に、ミックは内心申し訳ない気持ちでイッパイで、
「あれ?カオリに言って無かったっけ?リョウはね、今日から出張なんだよ?」
そう言いながら、だからちゃんと言っとけって言ったんだ、と思った。
僚があれ程までに、アメリカ行きをイヤそうにしているのを、
ミックは初めて見た。ココの所の僚は、明らかにおかしい。
まぁ、香に惚れているのは解るが。
子供の頃から彼を見てきたミックにしてみれば、まるで人が変わったようだ。
どうやら、最近はキャバクラにも殆ど行って無いらしい。
ミックが行く度に、僚はどうしたのかと質問される。
そんな事、こっちが聞きたいと、ミックは思う。

香はミックに、僚が出張に行ったと聞いて、色々聞いてみたい事があったが、
あまり根堀葉堀聞いたら、変かな?と思って、逡巡していた。
するとミックが、
「リョウはね、アメリカに行ったんだよ。1週間ぐらい掛かるって言ってたよ。」
そう教えてくれた。
ミックは、ニッコリ微笑んで、
「カオリは、アメリカに行った事はあるかい?」と訊いた。
香は、小さく首を横に振る。
「いいえ、私外国には行った事ありません。すごく、行ってみたいけど。」
「アメリカはね、ボクとリョウの故郷なんだよ。ボク等は、幼馴染みなんだ。」
「課長も?」
「ああ。リョウのDadが、アチラで会社を経営しててね。リョウは、赤ちゃんの頃から、アメリカで育ったんだよ。お互いに実家が近所でね、殆ど毎日まるで兄弟みたいに育ったんだ。ボクは、小さい頃引っ込み思案でね、人前に出ると、緊張してたから、なかなかリョウ以外の友達が出来なかった。」
香はフフフと笑って、
「何か、想像がつかないです。引っ込み思案の、ミックさん。」と言った。
ミックは眉を持ち上げて、おどけてみせた。
「そうだろ?そう言うと大概、嘘だって言われるよ。でも、ホントなんだ。リョウはボクとは、真逆で友達を作るのが上手だった。ボクは、リョウに出来て、自分に出来ない事って何だろうって、いつも考えたよ。だから、いつもリョウを観察したし、リョウの真似をしてみた。それで気付いた事があったんだ。優しいんだよ。リョウは、昔っから口は悪いし、体はデカいし、子供の時は乱暴だったから、第一印象はサイアクなんだけど、でもすごく優しいから、気が付いたら自然と友達が出来るんだね。僚の優しさは、真似しようと思って出来る事じゃないんだ。心だからね。それが、あいつの個性だ。」
「それ、すごく良く解ります。でも、私はミックさんも伊集院さんも同じように優しいと思いますケド。」
「ハハハ、ボクの先生はリョウだからね。リョウの真似をするうちに、ボクも自然と友達が増えていった。でも、やっぱり本当の友達はリョウだけだ。」
このミックの発言に、100%嘘は無い。
ミックの親友は間違いなく僚だ。
それでも、わざわざ口に出して言うのは、気恥ずかしい。
それならば、何故こんな事を言ったのか。
香の中の僚の好感度を上げる為だ。僚が香にメロメロなのは承知している。
それなら、サッサと口説けばイイのに、今回の僚は何かが違う。
こんな風にモタモタしている内に、誰かに掻っ攫われたらどうするつもりだ。
リョウのバカ野郎。
現にミックの耳には、色んな情報が入って来る。
他の課の男連中が、香の事をイイ女だって噂してる事とかだ。
一番近い所に居るクセに、香を逃したら僚は大バカだ。
とりあえずミックは、今日家に帰ったら僚に電話して、
香を心配させるような真似をした事について、
キッチリ文句を言ってやる、と思っていた。



一方、アメリカの僚は、数か月ぶりに父親と夕食を摂っていた。
暫く、お互いの仕事の事や、生活の事を報告し合ったが、
何の脈絡も無く、父が不意打を掛けた。
「ところで、僚。私が香を最後に見たのは、彼女が少女の頃だが、彼女は美人か?」
遂に来たかと僚は、一瞬間を置いて慎重に表情を決めた。
「まぁね。超べっぴん、モデル体型。」
なるべく、淡々と言ったつもりの僚だったが、父はニヤリと笑むと、
「素晴らしい。僚、彼女と結婚しなさい。」と言った。
僚はつい今しがた、口に含んだ赤ワインを盛大に噴出した。
「はぁぁ!?とうとう頭イカレタか?オヤジ。」
父は、僚の質問には答えず、眉間に皺を寄せると、
「汚いな、僚。私はお前に、そんなテーブルマナーを躾けたつもりは無いぞ?」
と言う。僚は小さく溜息を吐くと、
「何で、付き合ってもねぇ子と、いきなり結婚なんだよ?そもそも、今まで一遍も結婚した事ねぇオヤジに、とやかく言われたくねぇよ。」と返す。
父は飄々として、微笑みながら、
「ほぉ、付き合ってもいない子とセックスをするのは平気でも、結婚となれば話しは別か?それにねぇ、僚。私の結婚問題は、この際関係ないんだよ?何で、私が1人の女に縛られて生きて行かなきゃならないんだ?私はね、お前によく似た可愛い孫が欲しいんだよ?それに相手が彼女なら、申し分無い。」
僚は父親のあまりの言い草に、唖然として言葉を失った。
何から、反論すれば良いのか解らない。
(ったく、オヤジ連中ときたら、人の人生だと思って好き勝手言いやがって。)


香はフト気が付くと、僚のデスクばかり見詰めてしまう。
香の仕事は、大抵暇なので、仕事中に余計な事を考える時間はタップリある。
僚と初めて会ったエレベーターの事を思い出したり、
歓迎会の帰りに歩き煙草をしていた僚を思い出したり、
Yシャツの袖を捲った僚や、良く解らない言葉で電話している僚。
それに、この前香がお弁当を作って来た時の、美味しそうに食べてくれた僚。
思わず香は、頭を小さくフルフルと揺らす。
ダメだ、これ以上、余計な事ばかり考えたら、

また、罰が当たってしまう。

香は今のこの幸せ以上を望んで、また地獄に落ちるのは怖い。
課長がいて、伊集院さんがいて、ミックさんがいて、美樹さんがいる。
今は、毎日がとっても楽しい。
それで、充分だ。




予想外に早く僚が帰国したのは、出発から5日後の、翌週月曜日だった。
ミックと伊集院は、内心驚嘆した。
これまで、僚のアメリカ滞在が、延長する事はあっても短縮する事は無かった。
どんだけ、早く帰って来たかったんだよ、と思わずミックは苦笑する。
キャッツでの、“婚活ナイト”はすこぶる好評で、
僚の出張中の週末に、第4回目が開催された。
勿論、僚も出張前に美樹から聞いている。
伊集院夫妻は、以前から香を誘っているが、今の所香は参加していない。
しかし、僚は気が気じゃ無かったに違いない。
だったら、逃げてかないように、シッカリと自分のモノにしちまえよ。
一体、僚は何を考えているんだろう?僚の事なら、誰よりも解っていると思っていたのに、ミックにはこの頃の僚が、ちっとも解らない。

「海ちゃん、バーボン重てぇから航空便で送っといた。2~3日内に届くと思うよ。」
「サンキュー、いつも済まんな。」
「どう致しまして。ほれ、ミック、これMumから。無駄遣いするなってよ。」
そう言って、僚がミックに手渡したのは、一冊の小切手帳だ。
「Oh~♪love、Mum♪ 彼女に、愛してるって伝えといてくれたかい?」
ミックは、そのママからのプレゼントにキスしながら、僚に訊ねる。
「あぁ、お前がいう事位、俺ぁ解ってから、お前の代わりに死ぬほどハグして、キスしといてやった。」
僚の言葉に、ミックは眉をひそめて不機嫌そうに、
「余計な事はしなくてイイ」
とムスッと言った。ミックは、自覚は無いがマザコンである。
そもそも、と僚は思う。
三十路もとうに過ぎた男に、小遣い代わりの小切手帳ってどうよ?と。
どうせ、あの紙切れは夜の新宿のネオンに消えてしまうのだ。
ミックも僚も他人が聞いたら、ドン引くほどのボンボンである。

僚は香の傍に近付くと、香の隣の空席に腰掛けて香の目をジッと見詰めた。
そして、香の髪の毛をクシャクシャとかき混ぜると、
「イイ子でお留守番してたか?」と訊ねる。
香はまるで、人懐っこい仔猫のような笑顔で、
「はい。課長が無事に帰って来られて、安心しました。」
と僚が思っていた以上の、答えをくれる。
僚は満面の笑みで、
「手、出して。」と言う。
僚の言葉に香は、手?、と首を傾げる。僚は、こくんと頷く。
僚はスッと差し出された、香の掌の上に、
掌よりも少し大きめの、赤い柔らかいビロードの張られた小箱を載せた。
箱にはシルバーのサテンのリボンが掛けられている。
「これ、私に?」
驚いたように訊ねる、香の上目遣いが死ぬほど可愛くて、
僚は内心気が狂いそうだったが、煩悩を必死に押し殺して微笑むと、
「ああ。」と、答える。
「嬉しい。・・・開けても、良いですか?」
「モチロン♪」
僚がニッコリと頷くと、香はとても楽しげにリボンを解いた。
箱の中から現れたモノは、
キラキラ輝くクリスタルで作られた、掌に載るほどの小さなテディベアだった。
「・・・かわいい。」
香は、掌の上の可愛い贈り物を、本当に嬉しそうに見詰めた。
そんな香の無邪気な顔を、僚も飽きる事無くニコニコと見詰め、
そんな僚の香にメロメロな様子を、ミックがニヤニヤと見詰めている。
ただ一人、伊集院はデスクの上の妻の写真を見詰め、
(今日の晩御飯のメニューはなんだろうか。)
と考えていた。実に、平和である。

第6話 お泊り

「ねぇ、カオリン♪今晩、メシ行こっか?」
僚が香を夕飯に誘ったのは、
僚が出張から戻った週の金曜日の事だった。
「はい♪」
香も勿論、OKした。
どうせ毎晩1人だし、僚と食事をするのは香も大好きだ。

この2ヶ月弱、新しい職場に来て香は本当に幸せだ。
前の会社で、まだ香が苛められる前には、
同僚の女の子達と、よく食事に出掛けた。短大の頃もそうだ。
香は元々、女の子達とああして出掛ける事は大好きだった。
食事に行ったり、カフェに行ったり、ショッピングに行ったり。

いつから、そういうのやってないだろう。
今度、美樹さんを誘ってみよう。
キャッツ・アイは、客商売にも関わらず、土・日・祝は休業だ。
店主の美樹の最優先事項は、夫なので、夫のお休みはお店もお休みだ。

今まで香は、女の子達と出掛ける楽しみしか知らなかったけど、
こうして度々僚やミックが、誘い出してくれて違う楽しみも知った。
女の子達はみんな、綺麗でオシャレで流行のお店が好きだけど、
僚達が連れて行ってくれる所は、全然違う。
まるで、秘密基地や探検に連れて行って貰うみたいで、ワクワクする。
知らない街では無かったのに、初めて行く所ばかりだ。

「ずるいぞ、僚。1人でカオリの事、誘いやがって!!!」
ミックが抗議する。
「何だよ、ミック。おまぁ、今日はかずえちゃんと久々のデートだろ?“二兎追う者は、一兎も得ず”って諺知ってっか?」
僚が、ニヤリと笑う。当然だ。わざわざ、この日を狙って香を誘っているのだ。
かずえとは、妙齢のモッコリ女医さんで、目下ミックの本命である。
かれこれ数年の付き合いである。
僚は今まで、彼女を作らない主義を通して女遊びをしてきたクチで、
誰にも言った事は無いが、今まで誰とも付き合った事は無い。
それでも別に困らなかったし、却って煩わしい事が無くてサッパリしていた。
恋人になりたいだなんて思ったのは、香が生まれて初めてだ。

同じプレイボーイでも、タイプは様々でミックはティーンの頃から、
必ず本命は1人いて、その他大勢を上手に渡り歩いている。
ミックは淋しがりの、甘えただからなと僚は思う。何せ、マザコンだし。
子供の頃のミックを思い出して、僚は思わず微笑む。
いつも、僚の後をついて来て可愛かった。人見知りだったし。
かずえは、いつも忙しく働いていて、それも生き生きと魅力的なので、
どちらかと言うと、ミックの方が放置プレイ気味なのだ。
案外、それで上手く、バランスが取れているのかもしれない。
ミックの父は実業家だが、実は母もなかなかの才覚の持ち主で、
夫とは、全く違った分野で頭角を現す、彼女もまた実業家だ。
ミックの母と、かずえにはどこか似た雰囲気があると僚は思う。

「Oh、sit!!! ボクが、カズエのデートだけは絶対に、すっぽかせない事を知ってるからだなっっ!!!卑怯だぞ。」
僚は、面倒臭そうに眉を顰めると、
「はいはい、せいぜい彼女と、楽しい週末でも過ごして来な。」とあしらう。






「ミックさん、彼女さんいらっしゃるんですね。」
香がそう言って、ニッコリ笑った。
新宿の盛り場の、奥の奥。
ゴチャゴチャと、猥雑な路地のドン突きに、その店はある。
一見客を断っている訳では、サラサラ無いのだが、
絶対に、一見でこの店に入る客はいない。
空調はカウンターの向こうの、真っ黒な換気扇のみで、
僚と香の間に置かれた七輪から、もうもうと上がるケムリで視界が少し白っぽい。まさかこんな店で、最高級A5ランクの松坂牛が、提供される事など誰も知らない。
「うん。メッチャ美人の女医さん。」
僚が白飯を頬張りながら、答える。
「フフフ、じゃあ風邪引いた時とか、心強いですね。」
そう言って、香が微笑む。
あ、今の笑顔超カワイイ、と思いながら僚は、
「だね。」と答える。
香はどんなに小汚い店へ連れて行っても、
目をキラキラさせて、好奇心旺盛な子供のように喜んでくれる。
美味しいモノなら、見た目が変でも物怖じしないで、トライする。
僚がこれまで、ご馳走してきたどんな女の子より、
一緒に食事をしていて、楽しい気分になる。

「伊集院さんも、奥さん美人だし・・・か、」
香は思わず、課長は?、と訊いてしまいそうになって、つい口籠もる。
僚が、独身なのは知っているけれど、独身だから、1人だとは限らない。
どうして、変なところで口籠もっちゃたんだろう、と香は焦った。
胸のずっと奥の方に、小さくツキンと痛みが走った事は知らんぷりした。
僚が不思議そうに、香の目を覗き込む。
「カ、カルビ焼けたみたいですよ?」
香は、何とかそう言って誤魔化した。
少し俯いて、テーブルに手を伸ばすと、グラスを握って一息にウーロン茶を飲む。

「あっ、ちょっっそれ違う。カオリン!!!」
僚がそう言った時には、あと一歩遅かった。
何故か、香は間違って自分のウーロン茶では無く、
僚の焼酎を一気飲みしてしまった。
俯いていて、よく見ていなかったのだ。
僚はギョッとして、青褪めた。
香はみるみる真っ赤になり、フニャンと今にも崩れ落ちそうになって、
「かちょぉ~、なんかこのおちゃ、ヘンれすぅ~」と言いながら、
コテンと、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。

・・・数分後。
香はテーブルに上半身を預けて、幸せそうな寝顔でスースー寝息を立てていた。
この小汚い店に、何かの間違いで迷い込んだ天使のようで、
間違ってゴミ箱の中に、落ちて来たお星さまみたいで、
なんて、シュールな風景だろうと、僚は放心した。

「リョウちゃん、彼女、特上A5ランクだね。旨そうじゃないか。」
いつの間にか、テーブルの傍らで、腕組みしていた店のオヤジが、そう言ってニカッと笑った。僚は乾いた笑いを漏らし、
「バカ、この子はそんなんじゃねぇんだってば。」と呟いた。



香はその日、少し丈の短めのスカートを穿いていたので、
僚はおんぶする訳にもいかず、お姫様抱っこで香を抱きかかえた。
よくよく考えたら、僚は香がどこの町に住んでるかは、知っているものの、
マンションの所番地までは知らない。どうする事も出来ないので、
覚悟を決めて、自分のアパートへと連れ帰った。
父親の所有するその7階建てのビルの、6・7階を僚が1人で使っている。
5階から下は、一応賃貸物件ではあるが、
管理するのも面倒なので、貸さない事に決めている。
因みにミックは、すぐ向かいの高級マンションで気ままに暮らしている。
しかし、今日はアイツはいない筈だ。
今頃はまだ、恋人とお楽しみの真っ最中だろう。

まさか、香を抱きかかえる事になろうとは、予想だにしていなかった僚は、
焼肉のケムリの匂いの奥の、仄かな甘いシャンプーの香りに、
煩悩をグラグラに掻き乱された。
少しぐらいなら・・・イイか?と、香のふわふわの癖毛に顔を埋めたが、
ますます歯止めが効かなくなる気がして、辛うじて、砕け散った理性をかき集めて、正気を保った。
別に、一生香に手を出さないとか思っている訳では無い。
いつかきっと、香の傷を分かち合える恋人になってやるとは思っているが、
今はまだ、その時じゃない。
この女だけは、俺の一生モンだ。
そう思ったら、自然と劣情の波は引いて行った。




香は、いつに無くスッキリと目が覚めた。
いくらもう心配いらないんだ、と思っても、
香は未だに何日かに1度は嫌な夢を見たりするし、
いつまでも寝付けない、不眠気味の時もある。
しかし、目覚めは良かったのに、
目を開けてから、心臓が止まりそうになるほど驚いた。
こんな事は初めての経験だ。
知らないベッドに眠っている。
清潔なベッドカバー。淡いベージュの壁紙のシンプルな部屋。
ベッドの他には、鏡台があるだけで他には何も無い。
多分、雰囲気から言って、誰かの家。
だろうけど、この部屋には生活感が全く無い。
ハッとなって、香は自分の体をチェックする。
ヴァージンで、世間知らずで、人一倍奥手な香だけれど、
そこはやはり、年頃の女子である。
ガバリと起き上がると、自分が昨日会社に行った時のままの、
服装だとホッと胸を撫で下ろす。
ノースリーブの白いコットンのブラウスに、
ベージュの麻のセミタイトスカート。
ストッキングですら、伝線する事無くしっかり履いている。
柔らかなオーガニックコットンの、淡いピンクのカーディガンだけは、
脱がされて、綺麗に畳まれて枕元に置かれていた。

香は、昨日の事をよく思い出してみた。
確か課長に誘われて、秘境の秘密基地みたいな焼肉屋に行った。
そう言えば、微かに服や髪の毛から焼肉屋さんの匂いがする。
課長と一緒にお肉を沢山食べた。
課長は焼酎を飲んで、自分はウーロン茶を飲んだ・・・・
あ、
なんか、飲んだこと無いモノを一気した気がする・・・・
「あああああぁぁぁぁ~~~」
やらかした。
大失敗だ。
・・・という事は、ココは課長のお家だろうか?
香が、ベッドにスラリと長い脚を投げ出して、呆然となっていると、
コンコンと扉がノックされて、次いで課長の声がした。
「おはよう、カオリン♪入っても大丈夫?」
と訊かれた。

僚はリビングで、メールのチェックをしていた。
朝飯は香が起きてから、作ればいい。
どうでも良いメールを、サクサクゴミ箱に叩き込む。
先週の出張で日数が足りなくて、カバー出来なかった仕事のメールが、
2~3件あったので、一応目を通してみた、急ぎでは無かったので、保存だけしてパソコンを閉じた。
慌てて日本へ帰ろうとする僚に、父は、
「そんなに、姫が恋しいか?」と言った。
やはりバレていた。別に良いんだけど。
元々、オヤジには隠し事なんかねぇし、
ガキの頃から何でも腹割って話してきたし、でも、
「その分じゃ、近い将来孫を抱くのも夢じゃなくなってきたかな。早めに頼むぞ。」
なんて、言われたらギョッとする。気が早ぇっつ~の。
そんな父の言葉を思い出して、眉間に皺を寄せていた僚の耳に、
客間の方から、可愛い悲鳴が聞こえて来て、
僚は思わず、クククと笑ってしまう。
僚は上の階の自分の部屋へ行くと、クローゼットからなるべく細身のジーンズと、白いコットンのシャツを手に取って客間へ向かった。


扉の外から僚が声を掛けると、暫く間があって蚊の啼く様な小さな声で、
・・・はい。どうぞ。」と聞こえた。
僚がそっと扉を開けると、真っ赤になって涙目の香と目が合った。
「気分はどう?気持ち悪くないか?」
僚が優しくそう訊ねると、香は小さく1つ頷いて、
「は、はい。大丈夫です。あの、昨日はすみませんでした。課長にご迷惑掛けたみたいで・・・・。」
そう言って、今にも泣きそうにシュンとしている。
僚は香の傍に行って、頭を撫でる。
「まぁ、酒飲んで失敗する事位、誰でもある事だから、んな顔しないの。シャワー浴びておいで?服、皺になってるから、これに着替えたらイイ。」
確かに、薄手で淡色の麻とコットンなんて、最も皺が目立つようなコーディネートだ。香は手渡された、ジーンズとシャツを見て、
これ、課長の?」と小さな声で呟く。
「あぁ、ちょっとデカいけど、女モンの服とかねぇし。だから、パンツは貸せねぇけど。」
僚がそう言うと、香は漸くプッと噴出していつもの笑顔を見せてくれた。


香がシャワーから上がると、僚はキッチンにいるようで、
そこで待っててと言われた、リビングに入った。

すごく、広いお家だ。リビングに階段がある。メゾネットってやつ?
課長はココに1人で住んでるのかな?

香はリビングを少しだけ観察した。
基本的にシンプルで、片付いている。
第一印象の僚のイメージとは、随分違う。

全然だらしなくないじゃん。
お風呂場のタイルも、ピカピカだった。
さっきのベッドのシーツも、きっとおろしたてだ。パリッとして清潔だった。
・・・・彼女さん、いるのかな。
一緒に暮らしてはなくても、身の回りの事やってくれるのかも。

テレビの横のキャビネットの上に、写真立てがいっぱい飾ってある。
香は近付いて覗き込む。

ご両親かな?この赤ちゃんが課長かな?
あ、小っちゃい課長だ。可愛い。
あ、これ小っちゃいミックさんだ。2人で変顔してるし。ウケル。

色んな時代の僚の写真があった。
香は夢中になって見ていた。
そこに、僚がプレートに盛った朝食を運んで来た。
自分のジーンズとシャツを着た香を見て、思わず笑みが零れる。
何か、彼女みたいじゃないかと。
「やっぱ、ちょっとブカブカだったな。」
僚がそう言って、小さく笑う声で香は気付いて、
「あ、ごめんなさい。勝手に見ちゃいました・・・」
と慌てて言った。
「写真?」
「はい。」
「別に全然良いよ。ガキん時のばっかだろ?」
そう言いながら僚は香の横に並んで、一緒に写真を見る。
「これは、ミックさんでしょ?この前、幼馴染みだって言ってました。」
「うん、そう。アイツとは物心ついた頃からの、腐れ縁。」
「これは?この赤ちゃんは、課長ですか?」
香が指さしたのは、
若くて美しい夫婦が、赤ちゃんを抱いて幸せそうに微笑む写真。
僚は少し黙ったままで、穏やかに微笑むと、
「・・・ぁあ。これが俺の両親で、これが俺の親父。」
そう言って、僚はもう1つ奥の方に立ててある、1人だけで写った男性の写真を指差した。

両親と、親父?

僚の不思議な言い回しに、香は首を傾げる。
そんな香に僚は優しく微笑むと、ゆっくり説明した。
「俺の両親は、確かにこの2人だけど、俺が2歳の時に飛行機事故で死んだんだ。それで、こっちは元々母親の弟、だからオジだね。彼がその後、親父としてずっと俺を育ててくれた。」
「じゃあ、アメリカにいらっしゃるお父様は、こっち?」
「そ。海原神っていうんだよ。」




2人はそれから、僚の作った朝食を食べ、
ちゃんと送っていくからと、引き留めた僚の言葉に甘えて、
夕方まで、僚のアパートで過ごした。
テレビを見たり、ゲームをしたりした。ずっと笑っていた。
夕方に、僚が愛車のクーパーで香を自宅まで送った。

家に帰った香は、何だか晩御飯を作る気になれず、
ゴロンとベッドに転がった。
また、あの片付いた僚の家を思い出す。

彼女さんいるんだろうな。
ただの上司と部下で良いから、ずっと仲良しでいれたら良いな。

気が付いたら、香の頬を涙が伝った。
そしてそのまま眠ってしまった。





第7話 初恋①

僚が、蔵前の問屋街まで行って、大量の手持ち花火を購入して来た。
伊集院の第一声は、
「爆弾でも作る気か。」だった。
美樹と2人でキッチンで、バーベキューの食材の準備をしていた香は、
僚の抱えた大きな段ボールを覗き込むと、
「わぁ、すごい!!!」
と感嘆の声を上げた。その瞬間、僚はこれ以上無い程の、至福の表情を浮かべる。そんな僚を見て、ミックは不思議な気持ちになる。

いつからリョウは、1人の女のリアクションにこんなにも、
素直に幸せそうに、微笑むようになったのだろう。

この夏、僚率いる、編集部別室翻訳課は、ほぼ毎週末僚のアパートの屋上で、
バーベキューに、勤しんでいる。
元々の発端は、何気ないランチタイムの会話で、
僚とミックが子供の頃、家族ぐるみで、よく庭でバーベキューをやったと、
香に話したのが最初だ。
香の小さい頃は、父親と兄との3人暮らしで、その上、
集合住宅だったので、バーベキューをやった経験が無いと言う。
その話に、心底羨ましげに耳を傾ける香を見て、僚はその週末には、
自宅の屋上で、バーベキューをする手筈を整え、段取りし、実行した。
仕事以上の、手際の良さだ。
そして香が喜ぶのを良い事に、それから1か月近く毎週こうして集合し、
ワイワイと騒いでいる。
幸いこのビルには、僚以外住人も無く、どんなに騒いでも苦情が出る事は無い。

大体、僚は限度というモノを知らなさ過ぎると、ミックは思う。
香が好きだと言えば、おんなじシュークリームを10個も20個も、
大量に買って来たり、香が喜べば、毎週毎週バーベキューだ。
そして、この花火。

先週バーベキューの最中に、僚が煙草を切らして、下のコンビニまで買いに行ったついでに、香の為に、線香花火を買って来た。
香は勿論大喜びで、僚と一緒に花火をした。
そしたら、これだ。
箍が外れているというのは、こういう事を言うんだろうか。


僚にとっては、キッカケは何でも良かった。
香がココに泊まったあの日以来、ずっと。
僚はもう一度自分の部屋で香と過ごしたかった。同僚達も一緒だが、
それはもうこの際、いつもの事なので構いはしない。
会社で会う時よりも、幾分カジュアルで、フランクな香。
バーベキューは実にイイ口実だった。
僚は、夏が終わったらどうしようと、真剣に考えている。
バーベキューに次ぐ、第二の口実を必死に模索する、毎日だ。
しかも、大前提は香が喜ぶ事でなければならないという事だ。

アイスペールが、空になっているのに気付いた香が、
「氷、取って来ますと。」と言って、キッチンに下りて行ってから、10分少々。
僚は苛立っていた。遅すぎる。
他3人は、何やら会話に夢中で、僚になどお構いなしだ。
僚は堪らず、腰を上げた。

屋上の扉を開けて、住居部分の7階の廊下まで、半階分ほどの階段がある。
その手前の通路の蛍光灯が切れて真っ暗だ。
アレ?と、僚は思う。さっきまでは、点いていたけど、切れちまったか。
そう言えば、最後にココの蛍光灯を取り換えたのがいつなのか、記憶すら無い。
気にも掛けず先に進もうとした僚に、
ポスン、と温かくて柔らかい華奢な物体がぶつかる。
「ひゃあ!!」香だ。
「カオリン?どうした?ずっと、ココにいたのか?」
そう問う僚に、香は蚊の啼く様な声で答える。
か、かちょお?・・・ココを通った瞬間に電気が真っ暗になって、怖くて動けなくなってしまいました・・・
ぶつかったままの細い肩が、小刻みに震えている。
僚は咄嗟に、香を抱きかかえると、足早にキッチンに向かった。


僚が腰を上げて、香の様子を見に行った後姿を見送って、
3人は苦笑する。
「大概、惚れてんな、リョウのヤツ。」ミックがそう言うと、
夫妻も深く頷く。そして美樹は、首を傾げる。
「でも、肝心の香さんは、どう思ってるのかしら?」
「問題は、そこだ。」
伊集院が冷静に呟く。
香が僚の家にお泊りした(勿論、誰も知らないが。)直後、
またしても、“婚活ナイト”のお誘いを受けた香は、珍しくキッパリと断った。
好きな人でもいるの?と、笑顔で訊ねた美樹に、
真っ赤に俯いて、
「そ、そんなんじゃ、無いですケド・・・なんか、苦手で。」
と香は答えた。
ホントにそれだけなのだろうか。みんなの関心事は、香のキモチである。
僚は、見事に開き直っている。
香に惚れている事を隠す気は、サラサラ無いようだ。
しかし僚も、だからと言って香を口説くでも無い。
ただただ忠実に香に仕え、香を喜ばせる事だけに傾注している様に思える。
あの僚が。
一種、奇跡である。
ただ、そんな僚の気持ちに、当の香が気付いているのかどうかは、正直微妙だ。
単に課長として見ている様にも、見えるし。
そうで無いと言えば、その様にも見える。真相は藪の中だ。
「カオリは多分、ヴァージンだな。あまりにも無邪気すぎる。今までに一度でも恋愛経験があれば、あんなあからさまな、僚の好き好きビームが、通用しないワケは無い。」
そう言ったミックの言葉に、夫妻はそれも一理あるかもしれないと思った。



突然背中側から、僚に抱きかかえられ、
キッチンへと運ばれ、テーブルの上に、トスンと降ろされた香は、
目をパチパチして、キョトンとしている。
僚はそんな香の癖毛を、クシャッと撫でると、
グラスに、冷蔵庫から冷たい緑茶を取り出して注ぐ。
「はい。」僚がニッコリ笑って、差し出したグラスを、香は両手で受け取る。
「ありがとうございます。」真っ赤になって呟いて、
香は、コクンと冷たいお茶を一口飲んだ。
香が座った横には、香の手から取り上げた、空のアイスペール。
僚はそれを手に取ると、冷凍庫からロックアイスを取り出して、
ガラガラと移す。
背後で香が、コクン、コクンとお茶を飲む気配がして、
僚の口元に、薄く笑みが浮かぶ。
氷を移し終えて、僚も同じようにグラスにお茶を注ぐと、香に、
「落ち着いた?」と訊ねた。
香は、少し恥ずかしそうに小さく頷く。
暫し、言葉も無く2人で向かい合って冷たいお茶を飲んでいたら、
香が口を開いた。
「課長は、このビルにお1人で住んでるんでしょう?」
「うん。高校生の時から。」
「5階から下には誰もいないんでしょう?」
「そうだよ。」
香は、ここで一旦黙り込み真っ赤になって俯くと、小さな声で、
・・・怖くないですか?」と、僚に訊ねる。
何の事を言っているのか、僚には大体予想がついたけど、
僚は、ワザと解らないフリで香の目を覗き込む。
「何が?」
香は暫し逡巡したモノの、観念したように、
・・・お、お化けとか。」と、ポソッと呟く。
言った瞬間、また更にカァッと赤くなって、俯く。

可愛い~~~!!!  超っっ可愛い !!!

クスッと笑った僚を、香は少し上目遣いで見詰めると、
「課長、今私の事ガキだって思ったでしょ~~~~」と、泣きそうになる。
僚は一歩前に進んで香に近付くと、柔らかな髪の毛を優しく撫でる。
「うぅん、可愛いなって思っただけ。」
そんな、僚の言葉に香の胸の奥がコトリと、音を立てる。
構わず僚は続ける。
「俺が子供の頃ね、親父は毎月、月命日に必ず両親のとこに墓参りに連れて行ったんだ。そして俺に、お前を産んでくれた両親に感謝しなさいって言うんだ。俺がまだ何の意味も解っていない小さい時から。だから、俺も何にも憶えていない両親の事を、大好きだって思えるようになってさ。多分怖いテレビかなんか見たんじゃなかったか、一時期、墓場に行くのが、すげぇ怖い時があってね。俺は親父に、墓参りに行きたくないって言った。そしたら、親父すっごい悲しそうな顔して、言ったの。」
僚は、グラスの中のお茶を飲み干した。
香は、真剣な表情で話を聞いている。
「お化けは、怖くないんだよって。お前の両親がお前に逢いたくてやって来て、それがお前は怖いかい?って。それと、同じ様にここで眠ってる全ての人に、逢いたい人がいて、来てくれるのを待ってるんだよって。」
そう言って僚は、ニッコリ笑うと、
「だから、俺は怖くない。」と言った。

屋上に戻る時の、例の真っ暗な通路の途中で、
僚はソッと、香の手を取った。
香は少しだけ驚いていたようだったが、軽く僚の手をキュッと握り返した。
たったそれだけの事で、僚は柄にも無くドキドキして、
内心、俺まるでガキだなと、苦笑した。

僚と香は、やけに時間を掛けて、氷を持って戻って来ると、
今度は、線香花火対決を始めた。
どちらが長く火の玉を落とさずにいられるか。
屋上のコンクリートの地面に、チョークで正の字を書いて、
勝ち星を競っている。
どうやら、圧倒的に僚が優勢だ。
新宿の夏の夜は、いつまでも明るく、長い。







     初恋②

次の週の火曜日の夜、
ミックは、僚の部屋にいた。最近の僚は、ミックがどんなに誘っても、
「めんどくさい。」の一言で、全然夜遊びしないので、
ミックは時々こうして、自主的に遊びに来るようになった。
ミックが部屋を訪れるのは、めんどくさくは無いらしい。

ミックはリビングのソファに寝そべって、ビールを片手に漫画を読んでいる。
子供の頃から大好きな、“超人ハルク”だ。
勿論、フキダシは全て英語だ。
幾ら、日本のMANGAが、世界に誇る文化だったとしても、
やっぱりミックは、アメコミが好きだ。
クッキリとした線で描かれた、マッチョなヒーローたちは、
何処かノスタルジックだ。

ローテーブルを挟んで向かい側には、床に直接座り込んだ僚が、
これまたビール片手に、アメリカの友人から届いた、Eメールに返信している。
2人の間にあるテーブルの上には、LLサイズのデリバリーのピザの箱が、数箱積んである。

ミックはふと思い出した様に、起き上がり漫画をポイッと傍らに放ると、
「なぁ、リョウ。」と、切り出した。
僚は、視線をPCに向けたまま、
「ん~?何ぃ?」と、答える。
「この前キャバクラ行ったら、ミサトちゃんがリョウはどうしてるんだって言ってたよ?連絡してるのに、ちっとも返してくれないって。」
僚は漸く、PCから視線を外すと虚空を見詰めて、僅かに考えた。
すると一瞬のち、化粧映えするキツイ目をした、気の強そうな美人の顔を思い出した。
「あぁ、ミサトちゃんね。」
僚がベロンベロンに酔っ払って、彼女とセックスをした翌朝、
エレベーターの中で、出逢ってしまったのだ。ファム・ファタールに。
しょうがないのだ、セックス・フレンドとセックスしている暇は無いのだ。
「で~?彼女がどうしたって?」
僚の中ではもう、彼女に対する興味は一切無いらしい。
ミックは軽く溜息を吐いて、
「おまえなぁ、人の話全然聞いてないだろ?」
と苦笑する。
「聞いてるよ~」
と言いつつ、キーボードを叩く僚は、恐らく聞いてない、とミックは思う。

「だからさぁ、早い話がおまえに会いたかったんじゃないの?彼女。」
そう言ったミックに、僚はさも不思議そうに、「なんで?」と返す。
だって、そうだろ?と僚は思う。
お互い後腐れなく、楽しく、陽気にセックスしてただけなのに。
「今度聞かれたら、リョウは死にました。って言っといて。」
そう言って、ニッと笑った僚に、ミックも心得たもんで。
「ん~、おまえがそう言うと思って、同じ事言っといた。」
「やるじゃん、ミック。GJ。」僚は、親指を立てた。
「そしたら彼女さぁ、じゃ、しょうがないかって言って、今晩どう?って、誘われちった。」
そう言ったミックに僚は、
「ふ~ん、彼女イイ奴だろ?サッパリしてて、Hも上手だし。」
とシレッと答える。
「やってないよ。」
そう言ったミックに僚はさも珍しげに、
「なんか、不都合でもあったか?」
と訊ねる。
「イヤ、別に無かったし、やっても良かったけど、“協定”に引っ掛かるかなと思って。まぁ、おまえに聞いてからでも遅くは無いし。」
そう言うミックに、僚はブハッと笑うと、
「おまぁ、まぁだ未だにあんなモン、律儀に守ってんのかよ?」
可愛いヤツ、と言った。
ミックは、不貞腐れたように、
「あんなぁ、それでも約束は約束だろ?」と言った。
思いのほか、拗ねた様子のミックに、僚はしゃあねぇなと苦笑して、きちんと向かい合う。
「まぁ、そうだけど。もう、あれは無しにしよう。俺にゃ、もう必要ねぇから。」



“協定”とは、昔僚とミックの間で取り決めた、男同士の決まり事だ。

同じ女を同時期に、共有しない。

僚とミックは、まだ子供の様な時から、女遊びにだけは驚異的な才能を発揮した。彼等は、ルックスが良いし、ノリも良い。
好奇心旺盛で、少し欲張りな女の子達はみんな2人と遊びたがったし、
2人もまた、来るものは拒まなかった。
若くて、セックスにタブーは無かったし、無軌道だった。
随分、早い段階で彼等はある意味では、『兄弟』だった。
お互いに、修羅場は本意では無いし、女の子との絆より、
自分たちの絆の方が大切だったので、
その約束は言ってみれば、友情を長続きさせる為のちょっとしたコツだ。
それを、30代半ばを目前にして、僚は必要ないと宣言した。
確かにそれはそうかもしれない。お互いにこの歳なら、
真面目にやっていれば、家庭の1つも築いていて、不思議は無い。

それでも、そもそも僚はどんなに派手に遊んでも、修羅場になど遭遇する事は無かった。それに関しては、ミックも思わず舌を巻く程の手腕だ。
僚を間に挟んで、女の子2人がバッティングした時でも、
ついでだから、3人で盛り上がっちゃった。なんて、ケロリと言う僚に、ミックは少し憧れたりもした。若い男子なんて、8割方バカなのだ。
頭の中は、セックスとビールとバカ話で一杯だった。
「他の女の子に聞かれても、同じように言っといて。多分、どうのこうの言う子もいないと思うケド。」
と言う僚に、ミックは少し淋しそうに笑った。

「なぁ、リョウ。ボクはさ、ずっとおまえの真似っこだったじゃん。小さい頃から。」
僚は、目を細めて楽しそうに頷く。
「ああそうだな。」
「女遊びだって、おまえがお手本だったのに、卒業するのか?」
少し拗ねた様なミックに、僚は肩を竦めて、
「あんなぁ、ミック。おまぁ、自分の女好きを俺のせいみたく言うな。」
と言って、笑った。


ところでリョウ、とミックが言った。
「おまえ、アメリカから帰ってすぐ位に、カオリをココに連れ込んだろ?」
僚は、思わずブッーとビールを吹き出すと、真っ赤になって絶句した。
初めは、ミックも別に気にしていなかったし、気付かなかった。
ミックがその事に気付いたのは、2つの出来事があったからだ。


6月の終わり頃、僚が出張から帰ったすぐ後くらい。
香の様子が極端にオカシイ時があった。
何やら、そわそわして、デスクの足元に気を取られている。
ミックの席からは良く見えなかったケド、何かいつもは持って来ない、
大きめの紙袋に入った荷物を持ってきているようだった。
そして、ミックか伊集院が席を立とうとすると、ハッとして、様子を窺っている。
実はその時、香は僚から借りた、ジーンズとシャツを返すチャンスを窺っていたのだが、伊集院とミックが同時に2人、席を外すという事は、滅多に無い。
なかなか、僚に返せずにいたのだ。
よくよく考えれば、何も無理して会社で渡す必要も無いのだけれど、
如何せん、香がそこに思い至る余裕はなく、挙動不審になってしまった。

一方、僚は僚でその日1日、ボンヤリしてずっと上の空だった。
なんの事は無い。土曜日にまるで恋人のように、一緒に過ごした香との事を思い返して、1人妄想の世界に入り込んでいた。
そんな2人を、冷静に客観的に観察していた、その他2名は、
目配せして、ワザとらしく2人同時に席を立った。
僚と香を、泳がせてみる事にしたのだ。
その作戦は見事、功を奏した。
伊集院とミックは、外に出てその場を離れたフリをしながら、
実際はドアの外から、コッソリ息を潜めて僚と香の成り行きを見守った。


2人が事務所を出たのを確認した香は、チャンスとばかりにその紙袋を僚に渡したのだ。
「あ、あの課長。土曜日は、ありがとうございました。これ、借りてたあの・・・・」
と言って、真っ赤になって俯く香。
「あぁ、いつでも良かったのに。こっちこそ、土曜は引き留めてゴメンね。」
僚もいつに無く、ギクシャクしている。


「この短い遣り取りでは、何とも言えんな。」と伊集院が言った。
確かに、土曜日に2人の間に何かがあったのだろうが、
何があったのかを推測する為の、判断材料としては少し弱い。

その時は、少し胸に引っ掛かるモノを抱えたまま、
ミックと伊集院は、何気なくまた事務所に戻り、素知らぬフリで仕事を再開した。


その後、ミックが確信を持ったのは、写真の件だ。

やはり同じ位の時期から、香は僚に子供の頃の話を聞きたがった。
(それが結局、このところの“週末BBQナイト”の幕開けに繋がるのだが、)
ある時、ハロウィンやイースターの話になって、僚が言ったのだ。

「ホラ、あのカオリンが爆笑してた、変顔のヤツ。あれはイースターの時だよ。」
「あれは、課長おいくつの時ですか?」
「ん~と、確か俺が4歳で、ミックが3歳の時。」

『変顔』・『イースター』・『3~4歳』

このキーワードに当て嵌まるモノを、ミックは1つだけ知っている。
写真だ。
僚の父親が写した、スナップ写真。
それは、この世に3枚だけ存在する。僚とミックの実家のリビングに1枚づつ。
そして、もう1枚。僚の自宅のリビングの、テレビの横。

間違いない。香は僚の部屋に行った事がある。
そして、この数日前の例の紙袋の事も、ミックは自然と腑に落ちた。
あれはきっと、僚の服だ。


ミックは、その事は誰にも言って無い。
今ここで初めて、僚に言ったのだ。
僚は、噴出したビールをティッシュで拭きながら、
「気付いてたのか。」と言った。
ミックはニヤリと笑った。
「当たり前だろ?何年、おまえを観察してきたと思ってるんだ。」
そして、同時にミックは確信している事がある。

きっと、香はココに泊まった。
だけど、僚は手を出していない。

証拠は何も無い。
しかし、ミックもだてにこれまで、女性遍歴を重ねたワケでは無いのだ。

あの僚がっっ!
あの最高にキュートな香とっ!!
(↑ココ重要 by.ミック)
1晩中1つ屋根の下で!!!!
何にもしないなんて!!!!!



一体、どんなファンタジーなんだよ。
まるで、おとぎ話みたいだ。

でもミックは思うのだ。そんな僚がとても幸せそうだと。
シュークリームを頬張る香に目を細め。
バーベキューや花火ではしゃぐ香に、とことん尽くし。
夜遊びも、女遊びも止め。
毎日遅刻もせず、楽しそうに会社にやって来る僚が、誰よりも幸せそうだ。

今まで誰よりも、好き勝手に生きてきた僚が、
結局最終的に選ぶのは、身軽な自由さでも無く、自堕落な快楽でも無く、
たった1人の彼女なのだ。
これをファンタジーと言わずして、一体何だって言うのだ。


「なぁ、リョウ。」
「ん~?」
ほら今だって。ついさっき、あんなにビール噴出すぐらい動揺してたクセに、
すっかり、穏やかな顔して、ボンヤリしている。
これを腑抜けと言うのなら、そうなのかもしれない。
でもそれで幸せなら、ノープロブレムだろ?
「真似してみようかな、ボクも。」
そう言ったミックに、僚はニッコリと満面の笑みで言った。
「良いんじゃね。かずえちゃん、イイ女だし。おまぁと、お似合いだよ。」


僚とミックの中で、1つ大きく何かが変わろうとしていた。

     初恋③

7月最後の日曜日、香は伊集院家のリビングで、美樹とお茶を飲んでいた。
その前日は、このひと月定番になりつつある、冴羽宅でのBBQであった。

いつも通り、大騒ぎして、花火をして、僚が香を甘やかした。
そんな中、香が美樹にそっと耳打ちしたのだ。
美樹さんに相談したい事があると。いつもの会社帰りだと、課長やミックさんが居るので、話しづらいのだと。
そしたら、明日ウチにいらっしゃいよ。と、美樹が言った。
お昼ご飯一緒に食べましょう?と。何でも夫は、ちょうど外出する予定があると言う。そこで、香はその言葉に甘える事にした。

「ご馳走様です、すごく美味しかったです。」
香がそう言って微笑む。
昼食のメニューは、和食だった。食後に美樹はほうじ茶を淹れると、漸く、本日の本題へと入った。
「いいえ、どういたしまして。それより、私に相談って?」
そう訊ねる美樹に、香は真っ赤になって俯いた。
その様子に美樹は、昨日から思っていた事を聞いてみる。
「恋愛の事?」
すると、香はまた更に赤くなった。先程から、一言も答えていないのに、
これでは返事しているのと、同義である。
それでも、香に言葉にしてもらわないと、埒が明かないので、
美樹は香の気持ちの準備が出来るまで、根気よく待った。

「あの~、恋愛の事というか、まだ良く自分でも解らないんですけど。・・・例えば、ある人の言葉とか、仕草に妙にドキドキしちゃうっていうか・・・。」
そう言って、真っ赤に俯く香に、美樹は嬉々として、直球を投げ掛けてみる。
「ねぇ、もしかして“ある人”って冴羽さんじゃない?」
香は、思わずキッチリ数十秒固まって、また俯いて黙り込む。
美樹は苦笑して、内心(クスッ、そうなのね♪)と、解釈する。
「ふふふ、まぁ誰でも良いわね♪お相手の事は。それで?ドキドキするだけ?その人には、気持ちは伝えたの?」
香はそんな美樹の言葉に、ハッとなって顔を上げたものの、大きな瞳を見開いて、まるで小さな子供のようにブルンブルンと、大きく被りを振る。
「だからっ、・・・そのぉ、まだ自分でもハッキリ自分の気持ちが、解らないっていうか、・・・優しくされて、嬉しいからってだけかなとか・・・・色々、考えちゃって。」
そう言って、香は一瞬とても悲しそうな表情になると、言葉を続けた。
「・・・・前に、1度だけ、やっぱり私にとても優しくして下さった方がいて、私の話を良い話も嫌な話も、いっぱい聞いてくれて、・・・私、ついその人に甘えちゃって。あっっ、って言っても、別に付き合ったとかそういうんじゃないんですけど、気付いたら、2人で会ってご飯食べたり、お茶を飲んだりしたんです。・・・でも、その方には大事なお相手がいらして。・・・結局は、私も含めて全員、傷付く結果になったっていうか。・・・・だから、今度も怖いんです。もしもまた、私の我儘で誰かが傷付く事になったらとか。私が知らないだけで、その方には、大切な人がいるんじゃないかとか。・・・・私、どこまで踏み込んで良いのか解らないんです。他人の心にも自分の心にも。」

美樹は優しく微笑み、ソファの香の隣に移ると、そっと肩を抱いた。
「香さん、それって恋っていうのよ?」
そう言って、美樹は悪戯っぽく香の目を覗き込み、
「誰だって、怖いわ。好きな人に、もう別の人がいるんじゃないかとか。優しくしてくれるけど、アチラにしてみれば、別に特別な事じゃ無いんじゃないかとか。みんな、恋の始まりはそう思って、不安になるものよ。・・・・でもね、香さん。怖がってばかりじゃ、何にも先には進まないんじゃない?」
美樹は、クスッと笑う。
「もっと楽しんだら良いのよ。」
香は、少し首を傾げて、「楽しむ?」と呟く。
「えぇ、そう。楽しむの。人を好きになるって、不安な事や、大変な事もきっとあるでしょうけど、でもそれ以上に、楽しい事なんじゃないかしら?私は、この世で“結婚”が、一番幸せな事だと思ってるけど、でもそれだって、始まりはいつも小さな恋にすぎないでしょ?結婚は一生続く恋愛だから、恋愛を楽しめない人は、人生も楽しめないわ。」

香にとって、憧れの美樹の言葉は、最も偉大である。
目を真ん丸にして、美樹を見詰める香に、美樹は大きく1つ頷くと、
一言一言、噛んで含める様に、香に言った。
「香さん、それは恋よ。あなた、その人に恋してるの。」
ある意味、暗示や催眠術に近いモノを感じるが、
美樹にとって、一番大切な事は、1組でも多く幸せなカップルを成立させる事である。ましてそれが、目の前にいる、自分を慕ってくれている可愛いヒトなら尚更だ。美樹の活躍の場は、なにも“婚活ナイト”に限った事では無いのだ。




その夜、伊集院家の寝室。
「ねぇ、彼女ハッキリは言わなかったけど、やっぱり香さんの好きな人って、冴羽さんよね?どう思う?ファルコン。」
美樹は、昼間の香の話を夫に一部始終話した。
美樹にとっては、夫の前では何ひとつ隠し事など無いのだ。
そして伊集院は、恐ろしく無口でその上、口の堅い男なので、
この話が、この寝室のドアから外に漏れる事は、決してないのだ。
「まぁ、そうだろうな。」
「そうよねぇ。それだったら、彼に恋人がいるかどうかなんて、見れば判りそうなものなのに。いないんでしょ?」
「あぁ、いる訳がない。アイツが惚れてるのは、槇村だ。」
「そうよねぇ、誰がどう見ても。何処に不安になる要素があるのかしら?香さん。」
「さぁな、心の中の事は、本人にしか解らんからな。」
伊集院は、隣の美樹を抱き寄せて言った。
「でもまぁ、やつらはお互い同じ方向を向いてる訳だ。時間の問題だな。あの発情課長が、そう長々辛抱できるとは思えん。」
美樹は、ふふふと笑って、
「それもそうね。」
と言うと、夫にキスをした。
伊集院家に関しては、いつでも平和である。


一方その頃、香は自室のベッドに横たわって、
鏡台の横の棚の上に置かれた、シンプルな写真立てを見詰めていた。
消灯しているので、香のベッドの上からでは、中の写真は見えない。
カーテンの隙間から、薄っすらと差し込む表の街灯の光を反射して、
写真立てのガラス面が、キラキラと輝いている。
たとえ目には見えなくても、香の頭の中には、ハッキリと見える。
兄と2人で写った写真。肩を組んで、無邪気に笑っている2人。

香は僚の言葉を思い出していた。

香が、兄とは血の繋がらない関係だと知ったのは、中学2年生の時だった。
偶然、自分の戸籍謄本を見てしまった。
その事実を知らなければ、香の初恋は違うモノになっていたのだろうか。
香にとって、最初から最後まで、ただの兄として、彼を見る事が出来ただろうか。
世の中にはきっと、知らなくても良い事も、沢山ある。
香はあれからずっと、兄が死ぬまで、兄に嘘を吐き通した。
自分がこの世に生まれた瞬間から、ずっと兄妹だったと思い込もうとした。
だから自分を産んでくれた人を、無かった事にする決心をした。
もしも、香に罪があるとすれば、きっとその事だ。
それは香自身をも、根底から否定する事に他ならない。
香は今現在、その産みの両親が、何処でどうしているかは知らない。
今となっては、知りようも無い。
だけど、僚が言っていたように、感謝しようと思う。
ただ、この世に産んでくれたという、その事だけに。
僚は、そんな簡単でシンプルな事を、香に教えてくれたのだ。
僚にそんなつもりは無くても。

主任とのデートの後で、香が思い出して会いたくなるのは、決まって兄だった。
自宅に帰った後に、主任を思い出す事は1度も無かった。

でも僚は違う。
仕事帰りに駅までの道を一緒に歩いたり、一緒に食事をした帰りの別れ際、
「また、明日。」
そう言った後、もう1度逢いたくなるのは僚だった。
思い出すのは、
優しく笑っている切れ長の目。
頭を撫でてくれる温かい、大きな手。
優しく自分の名を呼ぶ、その声。

美樹は昼間、「恋を楽しみなさい」と言った。
香の心の中には、明らかに兄に対する感情とは別物の、
何かもっと、生々しい感情が芽生え始めていた。
もっと、近くにいたい。
もっと、沢山知りたい、知って欲しい。
その相手は、冴羽僚だ。やっと、その事を香は自覚した。

香は写真立ての隣に、ちょこんと座っているクリスタルのテディベアを見詰める。
こちらも、微かな光を反射して、キラキラと輝いている。
それは香にとって、
まるで自分を悪い夢から守ってくれる、お星様みたいに思える。
そう思うと、心から安心出来て、香の瞼は重たくなってくる。
眠りに落ちるホンの手前、香は心の中で兄に報告した。

お兄ちゃん、私、好きなヒトが出来たよ。


第8話 週末

『夢に見たような景色が 今僕等を包み始めてるのよ
 街に灯りがついて 週末の都会が少しだけ色めき出すのよ

 これから僕達は土曜日の恋人さ
 見てきた夜を全て教えて
 僕にひもとかせて       
                  サンボマスター「週末ソウル」より』






8月に入ってからも、相変わらずBBQは続けた。
花火は、まだまだ沢山あったし、
夏もまだまだ終わりそうにない。
1度だけ、ミックがかずえを連れて来た。
僚達は、彼女とは面識があったし、初めて会う香もすぐに打ち解けた。

僚は少しづつ、香にお酒の味を覚えさせる事にした。
これから先、僚の居ない場で香の身に、
万一、お酒を飲まないといけない事態が遭遇したと想定して、
この間のように、コテンと眠りこけられたら、と思うと僚は気が狂いそうだ。
あんな無防備な彼女を、他の誰やらには見せられない。
それこそ、特上A5ランクだ。油断したら、喰われてしまう。

それならば、
僚が気狂いになる前に、香を特訓した方が早いような気がしたからだ。
要はアルコールなど、慣れの問題だ。
この前、焼酎をグラスに8分目程、一気で飲んでも急性中毒になった訳でも無い。という事は、飲み方さえ気を付ければ、嗜む程度にはいける筈だ。
それに、少しだけ。
ちょっぴり酔った香を見てみたいという、邪な黒い腹もあったりする。
この場合、僚が愛でる分には問題無いのだ、僚にとって。


少しづつ、変わり始めたのは、もうすぐ9月になる頃だった。
まずは伊集院夫妻が、親戚の集まりがあるからと、来なかった。
次の週には、夫妻は来たけれど、ミックが来なかった。
久し振りにかずえと遠出して、1泊して来るからと。
実の所、彼らがBBQに飽きて来たのも本音だが、もっと言うと、僚と香を自然な形で2人だけにするのが大きな目的だった。
このまま、清く正しいグループ交際を続けていても、何ら進展が見られないからだ。当人同士は、至ってのんびり、仄かな恋心を育んでいるが、それに付き合わされて毎週BBQはさすがにきついのだ。普通の大人は。



9月の第2週の金曜日、僚が4階男子トイレで用を足していると、ミックがやって来た。便器はずらっと空いているのに、わざわざ隣にやって来た。
「何だよ、気色悪ぃな。空いてんだから、間隔あけろよ。」
そう言って、眉間に皺を寄せる僚に、ミックはニヤッと笑って、
「今週は、ボクもファルコン達も行かないから。カオリには、ギリギリまで黙っといて、適当にごまかせ。」
と、囁いた。そして、
「まぁ、頑張れよ。」
と肩をポンポンと叩かれた時に、漸く僚は気付いたのだ。
なるほどそういう事か、と。要らん気使いやがってと思いつつ、僚は思わず頬が緩むのを抑えられなかった。

香と2人きり。初めて香が僚の部屋に来た時以来、2度目だ。



翌日午後、僚は愛車で香のマンションに、迎えに行った。
ここまでは毎度の事だ。
暫く、下で待っていると香が降りてくる。
このマンションの、5階に香が住んでいる。
まだ見ぬそこに、僚は必ずや辿り着いてみせると考えている。

香を乗せて5分ほどしたところで、僚はさも今思い出したかのように、
「あ、そう言えば今日は、ミックも海ちゃん達も来られないんだって。何か、急用ができたらしくて。」
香の顔色を窺いつつ、そう言った。
香は少し考えて、
「2人じゃ、バーベキューって感じじゃないですよね。」
と俯いて呟いた。
僚は内心、帰るって言わないでくれと、神に祈ったが、次の彼女の言葉は僚の予想を大幅に上回るモノだった。
「あの、課長。そしたら、今日の晩御飯は私が作ってもいいですか?いつも、課長にお世話になっているお礼に。」
そう言って微笑んだ香に、
僚は涙目になりそうな所をグッと堪えて、渋く決めてみた。
「あぁ、勿論。喜んで。」


お肉とお魚どっちが良いですか?
う~ん、じゃあ、肉で。
じゃあ、スーパー寄って行こうか。
はい。

なんて、流れで無駄に遠い郊外のショッピングモールまで、
ドライブも兼ねて、ひとっ走り。
思ったよりも、スムーズだった。道の事では無い。
あんなに、BBQの次の口実を探していたのに、意外とアッサリと2人きりになれた。

「あ、そうだ課長。でも、花火はしましょうね♪ いつも通り。」
香が僚に微笑みかける。
やばい。可愛過ぎる。もう、渋く決めるなんて無理だし、無駄だ。
僚は、満面の笑みで、「勿論♪」と言った。

それから香は僚の為に夕飯を作り、僚はお礼に食後のコーヒーを淹れた。
2人は、ビールを片手に屋上へ上がり、この夏の名残の様な花火をした。
まだまだ、花火は沢山ある。
僚はもう少しだけこのまま、初恋のような、甘い夢のような夏が続けばイイと切に願った。


次の週は、2人で一緒に作れるからと、リビングでホットプレートを使ってお好み焼きにした。そして、花火をした。

そのまた次の週は、僚は香を外へ連れ出した。
夏の間だけ、夜もやっている水族館がある事を調べたのだ。
それが、9月いっぱい迄だったので、行く事にした。
暗い中で、蒼く光る水槽を眺める香を、僚は眺めた。
正直魚なんて、どれも同じだ。
香は、そんな僚の視線に気付きもせず、キラキラと鱗を輝かせる魚たちに魅入っていた。


そうやって、2人で週末を過ごしている内に、季節は秋に変わろうとしていた。
香は、350mlのビールを、1本飲めるようになった。
でも、少しだけ呂律が怪しくなってしまう。
そんな香を見るのが、僚は楽しくて仕方なかった。
僚の次なる目標は、あの香の部屋へお呼ばれする事。
もう少し、肌寒くなれば、BBQの代わりに鍋と言う手もある。
そして、最終目標は香の恋人になる事。
今は、まだ課長だ。










第9話 秋雨

その日の天気予報は、晴れのち所により、局地的に激しい雨という事だった。
このところの空模様の不安定さは、季節特有のモノだ。
それに晴れていても、随分肌寒くなってきた。
僚とミックは、ちょっと前のように、
香の、涼しげな服からスラリと伸びる華奢な二の腕や、
丈の短めのスカートを拝む事が出来なくなって、少し淋しい気がした。
それでも、タイツに包まれたスラリと形の良い脚や、
薄手のニットからチラリと覗く、鎖骨の滑らかな流線型は、充分魅力的だ。
結局いつだって、その季節に応じた楽しみはあるのだ。

僚のデスクに1本の電話が入ったのは、9:40頃だった。
電話を終えて僚は、伊集院に言った。
「海ちゃん、俺ちょっと呼ばれたから、11:00に神谷町まで行ってくるわ。
14:00からの編集会議、代理で出といてくんねぇ?」
伊集院は頷くと、
「あぁ、了解。」と答える。
神谷町には、度々依頼を寄越す、変わり者の学者の爺さんの家がある。
今現在も、原稿を1つ預かっている。
締め切りは無いに等しいが、その爺さんが寄越す原稿は難解でいつも苦戦する。
何故だか、僚を非常に気に入っており、
いつもそこに呼ばれれば数時間は拘束される。

僚は、10:30頃会社を出た。
昼休みまでは、いつもと何ら変わらない事務所の光景だった。
ミックが出前の中華を食べ、香は手製の可愛らしい弁当を広げ、
伊集院もいつもの、超豪華愛妻弁当に舌鼓を打った。
香は心の中で、課長は今日のお昼は何食べているんだろう、と考えた。

13:55に、伊集院は同じフロアの、小会議室へと向かった。
午前中、僚に頼まれた、14:00からの会議に出る為だ。

ミックが香に、用を頼んだのは14:05頃だった。
大した事では無い。
先日、必要な資料を購入した際の領収書を、3階の経理課へ提出してきて欲しいというモノだ。恐らく、10分かそこらの用件だ。
香が入って来る前は、3人とも自分たちで赴いていたが、今ではそれは香の大事な仕事である。この課に於いて、香の出来る事はあまり無い。
電話には出られないし、3人がやっている殆どの事は、香には理解不能だ。
それでも3人は、香が気に病む事の無いよう、
香にも手伝って貰える用事を作っては、やって貰うようにしていた。
3人と社長にしてみれば、香はただそこにいてさえくれれば良いのだけど、
そんな本音はきっと、香を傷付ける。

ミックは、香が事務所を出た後14:15頃に、2階の資料室へ行った。
皆それぞれが、仕事をしていたのだ。だけど今まで順調に廻っていた歯車は、気付かぬうちに噛み合わなくなっていた。



香が3階のフロアを訪れると、田中係長に声を掛けられた。
「槇村さん、お疲れ様です。まぁた、僚のヤツに雑用押し付けられたんですね。アイツに自分でやっとけって、僕の方から1度言っておきます。」
そう言って、笑う田中に香も、
「違うんです。今日はミックさん。経理課へ領収書を提出に。」
それに、私の数少ない仕事ですから。と言って、微笑んだ。

3階には、編集部の小さなセクション毎の各小部屋と、総務課と経理課があり、総務・経理は業務内容は違えど、一続きで垣根は無く、女子社員同士も皆一様に表面上は団結している。
香が1人で4階から外に出る事は、偶にの事だ。
4階には、社長室と僚率いる別室と、大・小それぞれ数室の会議室があるだけだ。4階の彼等は、大抵の事は4階と、せいぜい2階の資料室だけで用は足りるし、社内よりむしろ、会社の外との遣り取りの方が多い位だ。
香が偶に他の課を訪れると、色めき立つのは男性陣で、
皆あからさまでは無いが、全神経を集中させて、彼女の一挙手一投足に注目を浴びせている。

香は、入社当初の僚の“制服却下宣言”により、一応自分にも宛がわれているらしい、女子更衣室を利用した事は無いし、この社内での、女性同士の力関係や派閥と言ったモノもよく理解していない。
また過去の事もあり、極力自分からは関わり合いたくないというのが、正直な所だ。
また事情を知っている(その事は香は知らないが)僚としても、なるべくそういう事から香を遠ざけたかったので、香と他の女子社員との接触には、細心の注意を払っていた。
そういった全ての事を、良くは思っていない女子社員がいる事など、香には知る由も無かった。口も利いた事が無い、名前もよく知らない相手から妬まれたり、まさか悪意を抱かれるなど、香の思考回路では思いもしない世界だ。

香がミックから頼まれた用事を済ませて、その部屋を出た時、
ついにその時が来た。
「あの、槇村さん?ちょっといいかしら?」
少し派手目なメイクの美人の女子社員。顔は見た事があった。
確か、総務課の人だ。すれ違うと、いつも香水の香りがふわっと漂う人だ。
香は思わず身構えてしまう。
前の会社での事を思い出す。
廊下の少し先に、2人の遣り取りをじっと見詰める女子社員があと3人いた。
香の背筋に冷や汗が流れ、全身に鳥肌が立った。


香は本当は、付いて行きたくなど無かった。
用がありますので、と言ってあの平和な4階の扉の中に、走って帰りたかった。
香の表情は消え失せ、青白い顔色の内側では、
子供のように怯えて泣き叫んでいた。
僚に逢いたかった。
心の中で、何度も僚の名前を呼んだ。
前に2人、後ろに2人。
香は制服の女性達に挟まれて、屋上までの階段を上がった。
4階の踊り場を通った時、あの香のいつもの居場所の扉が見えて、涙が出そうになった。だけど、どうしても逃げ出す事が出来なかった。
自分の意志とは違う、何か不思議な力が香の足を階段の先へと進めた。
それはまるで、絞首台へと続く、13階段のようだと香は思った。

屋上に着いた途端、新宿のビル風が吹いて、
香は無意識に白いブラウスの袖を擦った。
自分のデスクに置いてきた、キャメルのカーディガンを羽織ってくれば良かったと思った。でもまさか、屋上に来るとは思っていなかったのだ。
香は4人の女達に囲まれ、過去にも散々言われたような、
使い古されたような、馬鹿馬鹿しい罵声を浴びせられた。
曰く、自分達と同じ一般職の癖に、制服も着ずに自由に振舞っている。
曰く、上司である冴羽課長に上手く取り入って、利用している。
曰く、少しばかりルックスが良いからと、調子に乗っている。
お高くとまっている。色目を使っている。自分たちを見下している。

香には、良く解らない。
どうして?お互いに、何にも良く知りはしないのに。
名前すら知らない、顔だって初めて見る人もいるのに。
そんな自分が、何でそんな彼女たちを見下す事が出来るというのだろう。
言い掛かりも、甚だしい。
香は無意識に、屋上の扉の方へ逃げようとした。
その時、1人の女が香の細い肩をグッと押した。
「何、逃げようとしてるの?話はまだ終わって無いのよ?」

その瞬間、香の心は限界を超えた。
彼女たちの言葉など、耳には届かなかった。
視界はブラックアウトし、目を閉じた瞬間香の瞼の裏に映ったのは、
僚の笑顔だった。

いやああああぁああ~~~~
悲鳴を上げながら、その場に倒れて気を失った香を見て、
女性達は、自分達がやった事が、間違っていた事を知った。
しかし今更、事を公にする訳にはいかない。

ねぇ、なに?この子ちょっとヤバいんじゃない?
死んでないよね?
絶対、秘密よ。
ほっといて、行こう。
ココにいたら、ヤバいわよ。

14:20、屋上のコンクリートの上に1人取り残された香の上に、
無情にも、局地的な秋雨が降り始めた。




僚が事務所に着いたのは、15:00頃だった。
今日はランチを香と一緒に出来なかったので、せめておやつでもと、ロールケーキを買って来た。先週末、2人でリビングでテレビを見ていた時に、
香が「うわぁ、美味しそう」と言ったモノだ。
勿論、香が帰ってすぐに、ネットでチェックした。
そんな事は、香は知らないので、きっと少し驚いてでもすぐに、あのパァッと花の咲いたような笑顔を見せてくれるに違いない。
僚はただそれだけが見たくて、雨の中を急いで会社に帰って来た。

「ん?何だ?誰もいないのか?」
僚が不思議に思って、首を傾げていると、
伊集院が会議を終えて、戻って来た。
そのすぐ後に、ミックが大量の資料を抱えて、戻って来た。
3人は、首を傾げてほぼ同時に呟いた。

「「「香は?」」」

最後に香を見たのは、ミックだった。
かれこれ1時間ほど前だ。
簡単な用事を頼んだ。すぐにココに戻っているモノだとばかり、思っていた。
香のデスクの上には、携帯が置かれたままだ。
僚が買ってぶら下げた、スヌーピーとウッドストックの付いた携帯ストラップが目に入る。椅子の背には、キャメルのカーディガンが掛けられたままだ。
何処か、遠くに出掛けたワケでは無さそうだ。
僚はミックの、経理課への用事を頼んだと言う言葉に、嫌な胸騒ぎを覚えた。
それから、3人は慌てて社内中、香を捜し回った。

それから10分後、
屋上でビショ濡れになって、気を失っている香を見付けたのは、伊集院だった。

最終話 ×××○○○

どうして神様は、人生という舞台装置に、
必ず残酷な暗転を用意するんだろう、と僚は思う。

例えば、2歳の子供を残して、両親を飛行機事故で奪ったり、
例えば、0歳の子供を残して、両親を交通事故で奪ったり、
10歳の少女から、尊敬すべき父を奪い、
20歳の乙女から、たった一人の兄を奪った。

暗転は必ず、幸せの一歩手前で訪れる。
まるでその闇がより際立つように、
明るい兆しに幻惑した隙に、足元を掬われる。

そんなんじゃ、お人好しでのんびり屋のヒロインは、暗転に気が付かず、
奈落の底に落ちてしまう。

でも、と僚は思う。
今度だけは、何としてもその姫の手を取って、落下する前に助け出してみせる。
彼女の傷を消す為ならば、何だってすると前に心に誓ったのだ。




伊集院が、ぐったりと気を失った香を抱いて事務所に戻った時、
僚は腸が煮えくり返って、吐きそうだった。
いつもの柔らかいふわふわの癖毛は雨に濡れ、毛先から透明の雫を落とし、
紺色のボックスプリーツのスカートも、
紺色で足首の所に、リボンの飾りの付いたタイツに包まれた細い脚も、
白いボウタイカラーのブラウスも、
全部ビショ濡れだった。
今朝僚は香を見た時、可愛い恰好だなと思って、1人にやけていたのに。

激しい怒りで顔を真っ赤にして、僚が絶句している時に、
ミックが内線を受けた。
総務の田中係長だった。
先程から、僚達が血眼になって、香を探していたのを知っている彼が、
情報を寄越してきたのだ。

彼曰く、女子達は皆一様に貝のように口を閉ざし、知らぬ振りを決めている。
しかし、1人の総務課の男子社員が、
数人の制服を着た女性と香が、連れ立って階段の方へ歩いてゆく後姿を目撃したという。僚の悪い胸騒ぎは、ほぼ的中と見て間違いは無い。

僚は香に近付いて、その青白い頬を撫でた。
怒りで涙が零れたのは、生まれて初めてだった。
馬鹿な女子社員達にも、勿論怒り(と言うよりも、むしろ殺意)を覚えたが、
こんな目に遭わせてしまった、助けてやれなかった自分自身に、一番怒った。
ロールケーキの事は、もうすっかり忘れていた。






それからの彼等の行動は迅速だった。
まずは伊集院が美樹へ連絡し、事情を説明して、着替えやタオルを持ってきてくれるよう頼んだ。
その間にミックは、一番小さな会議室をエアコン全開で温め、その上何処からかオイルヒーターを調達してきた。
僚は事務所にあったタオル数枚で、ビショ濡れの彼女の髪や体を優しく拭いた。
程なくして現れた美樹に香を任せて、男達3人は会議室の扉の前で、苛立った。
濡れた衣服を着替えさせようにも、男達ではどうにも出来ない。
美樹も1人で大変だろうが、手伝う訳にもいかないので仕方ない。

僚は、その場を離れ社長室に向かった。
先程からの一連の事件を、社長も把握している。
途中、僚が連絡したのだ。
早速社内では、事実関係を調べる為の、社長の行動が始まっていた。
「彼女は?」
珍しく部屋に訪れた僚に、社長が訊ねる。
普段、僚がこの部屋を訪れる事は、殆ど無い。
あまり好きでは無いのだ。
僚と彼が用がある時は、大抵いつもの蕎麦屋だ。
「今、伊集院の奥方に来てもらって、着替えをさせてます。俺達でやる訳にもいかないんで。」
そう言った僚に、社長は微笑むと、
「何だ?僚。まぁだ手を出しとらんのか?サッサと結婚したら良いモノを。」
相変わらず、冗談とも本気ともつかない事を言う。

ったく、人の人生だと思って好き勝手言いやがって。

僚はそう思って、苦笑すると、
「まぁ、時間の問題です。言われなくても、そのうち結婚式に招待しますよ。」
そう言って僚は、スッと表情を変えると、言葉を続ける。
「・・・とりあえず、着替えをさせたら、彼女を自宅まで送って行きます。俺は暫く彼女の傍にいてやろうと思います。今回の件、事実確認の方はお任せします。」
社長は深く頷くと、
「あぁ、もう既に始めてるよ。私も大事な娘をこれ以上、傷付けたくは無いからね。」
そう言って微笑んだ。そして、僚に近付いて僚の頬を撫でる。
「やっぱり、私の思った通りだ。あの子と出会ったお陰で、お前は随分成長したよ、僚。イイ男になった。」
「イイ男は、生まれつきです。」
と僚はニヤッと笑って、軽口を叩く。
思えば先程から、漸く僚の肩からも余分な力が抜けていた。

その直後、伊集院が僚を呼びに来た。
香は美樹の持って来た、ネルの温かそうなパジャマに身を包み、
先程よりかは、幾分顔色も良くなっており、
僚は内心、ホッと胸を撫で下ろした。
これまた美樹の持って来た、大きなブランケットで香を包むと、僚は香を抱き上げて、会議室を出た。
香の濡れた服や、ミックが纏めた彼女の私物を持って、美樹が後に続いた。

美樹の運転する、ランドクルーザーで香のマンションへと向かった。
部屋のカギは、香のバッグの中に入っている。
この前の週末、何気なく僚は香の部屋へ行きたいと仄めかした。
香は別段、嫌がる訳でもなく、じゃあ今度、と答えたのだ。
まさかこんな風に、彼女の部屋を初めて訪れようとは、予想していなかった。
香を抱いて手の塞がった僚に代わって、美樹がカギとドアを開けてくれた。
僚は頭の中で色々と考えていた、初めてココを訪れた時のシチュエーションを思い出していた。
妄想の中の香は、笑顔で『ようこそ』と言ってドアを開けたのだ。
でも現実は、グッタリと僚の腕の中で眠っていた。


19:00頃、ミックが連絡していてくれたようで、
かずえが香を診察しに来てくれた。
今の所、熱も無く脈も呼吸も正常だという事だった。
一応、念の為風邪薬を置いて行った。
この季節に、気を失ったまま1時間近くも雨に打たれていたのだ。
目覚めて、熱が上がるようだったら、何か温かいモノを食べさせ、
水分補給を十分にして、薬を飲ませる様指示された。
かずえの帰り際、玄関で
「すまなかったね、忙しいのに。ありがとう。」
と言った僚に、かずえは何も言わず、僚の腕を軽くポンポンと叩いて、頷いた。
僚は余程ひどい顔をしていたのだろうと、自分で思う。
女性に、あんな風に慰められたのは初めての事だ。

20:00頃、僚の携帯に社長から連絡が入った。
結局調査した結果、香を連れ出したのは、総務課の社員3名と、経理課の社員1名だった。初め、4人揃って会議室に呼ばれた時には、皆一様に口を閉ざし、シラを切り続けたが、所詮集団でしかモノを言えない人間は、個別に社長室に呼ばれると、途端態度を変え、一部始終をペラペラと語り始めた。
全員が全員、自分は反対したけど、誰それが無理やりに仲間に引き入れたとか、怖くて断れなかった等と言い訳を並べた。
社長は即刻その場で、4人全員に解雇を言い渡した。
別に、相手が香だったから厳罰を処したつもりはない。
相手が誰だろうと、複数で弱い者いじめをした挙句、己の保身だけしか考えない身勝手な連中など、彼にとって必要な人材では無い。人件費の無駄である。
社長の話を、僚は静かに相槌を打ちながら聞いて、
香はまだ眠っている事。
一応、医者にも見せて、今の所大丈夫だろうという事を報告した。
そして、香の事を守る事が出来なかった事を、改めて詫びた。
彼女を大切に思っているのは、何も僚だけでは無いのだ。
電話の向こうの、父親の様な彼もまた彼女を娘のように思っている。
社長は、ヒッソリと笑うと、
「済まないと思うなら、私と海原に早くいい報告を聞かせてくれ。」
と言って、電話を切った。
また、それかよ。と、僚は思ったが、口元は笑っていた。

暗くなっても、僚は灯りを点けなかった。
表は昼間の雨が嘘のように上がり、雨で洗われた空には綺麗な月と星が出ていた。窓から僚は1人、そんな空を見た。
どうして、せっかくこの部屋にいるのに、自分は1人でこの月を眺めているのだろうと思った。ゆっくり香を寝かせといてやりたい気持ちの反面、この綺麗な月と星を2人で眺めたかった。
と言うよりむしろ、
綺麗なモノを眺めて喜ぶ香を、眺めるのが僚は好きなのだ。
窓際から室内を振り返ると、ベッドの上で、香が寝息も立てずに眠っている。
鏡台の横の棚の上に、写真立てと小さなテディベアが佇んでいる。
あれを、僚がプレゼントした時の香の顔を思い出していた。
まるで無邪気な子供の様に可愛くて。それでいてゾクゾクする程美しくて。



もしも、今度は
小さな赤いビロード張りの箱の中に
リングを入れて渡しても
彼女は同じように
微笑んでくれるだろうか




僚が香に付き添って、10時間ほど経過した真夜中。
小さくうめき声をたてて、香が目覚めた。

香が目を覚ますと、自分の部屋のベッドの上だった。
それなのに、すぐ目の前には何故か僚がいて、
心配そうに自分の事を見詰めている。
今がいつで、眠るまで何をしていたのかがすぐには思い出せない。
僚がこれまでにみた事も無い様な、悲しげな顔をしている。
僚はいつだって香には、笑顔しか見せなかったのに。
酷く何かに傷付いた様なその表情に、香の胸は締め付けられるように痛んだ。
香は思わず体を起こした。
いつものように、僚に笑っていて欲しかった。
僚は香が突然起き上がったので、少し驚いて、でも思ったよりも元気そうだった事に、ホッと安堵した。

「課長?」
そう呟いた香の声は少し掠れていた。
「大丈夫か?どこも痛いとこは無い?」
そう言って、漸くいつもの僚の顔に戻ったのを見ると、
香は嬉しくなって、笑いながら首を振った。
僚は香のおでこに手を当てて、頷くと、
「うん。熱も無いみたいだ。」と言った。
彼等のチームワークによって、迅速な対応をした事が、功を奏した。

僚は自分でも無意識のうちに、香をきつく抱き締めていた。
よく帰って来てくれた。
ずっと眠り続けて、何処か僚の手の届かないところまで、行ってしまうんじゃないかと、そんな馬鹿げた事に僚は香の寝顔を見ながら怯えていた。
僚は優しく香の背中を撫でると、
「怖かったな。よく頑張った、偉いぞ。」と言った。

香は僚の腕の中で、昼間の事を少しづつ思い出した。
順序はグチャグチャだった。
総務課の人に、呼び止められた事。
肩をグッと押された事。
ミックに領収書を持って行くように頼まれた事。
階段の踊り場から、4階のドアを見詰めた事。
見下していると言われた事。
色目を使っていると言われた事。
途中で、屋上の入り口の方へ逃げようとした事。
心の中で、何度も僚を呼んだ事。
僚の笑顔が瞼の裏に出て来た事。
香は声も立てずに、静かに涙を流し続けた。
僚は何も言わず、ただ背中をさすり続けた。
僚のYシャツの胸を、香の涙が濡らし続けた。

どれくらいそうしていたのか、漸く香は泣き止んだ。
僚は香の頬を両手で包んで、真っ赤に潤んだその瞳を見詰めた。
おでことおでこ。鼻先と鼻先が、ギリギリまでくっ付いている。
初めてのその至近距離に、香の心臓が跳ねた。

「香、俺に色目を使え。俺を誑かせ。俺はお前にだったら、喜んで骨の髄まで誑かされてやる。・・・だから、俺を欲しがってくれ。」
これまで香が、色んな人に言われた酷い言葉を、
僚が発すると、それがとても甘美な口説き文句に聞こえた。
僚の優しさと、愛に満ち溢れている。
香は僚の背中に腕を回した。
「課長、私は課長が大好きです。」
真っ赤になってそう言う、愛しい人のその唇に僚は自分のそれを重ねた。
それはこれから何年先までも、何千回、何万回キスするうちの、初めの1回だった。

唇を離して、僚が香を見詰めると、香はこれ以上無い程真っ赤だった。
「か、課長。私、やっぱりなんか熱が出てきたかもしれません。」
そんな事を言う可愛い彼女に、僚はニヤッと笑うと、
「安心しろ?それ風邪じゃ無いから。」
と言って、もう一度その唇に口付た。


図らずも僚の、
香の部屋へ来る事と、香の恋人になる事という2つの目標は、
ひょんな事から、達成してしまった。
次の目標は、
まずは香に、“課長”と呼ぶのを止めさせる事。キスから先に進む事。
そして最終目標は、
親父に孫の顔を見せる事だろうな、やっぱり。

これから先の2人には、まだまだやらなければならない、
楽しい事が沢山あって、香の生きる理由も見付かった。




・・・とりあえず(完)











オフィス・パラレル、完了いたしました。
執筆中、沢山の拍手やコメントを戴いた皆様に、
この場を借りて、お礼申し上げます。ありがとうございました。

パラレルと前置きしたのを良い事に、やりたい放題やっちゃいました。
お話しによっては、不快に感じる方もあるかと思いましたが、
皆様の温かいコメントや、拍手に勇気を持って書き進める事が出来ました。

どうやら、ワタクシは思い付いたら一気に書かないとダメなようで、
(自分でも今回、初めて気付きました。)
コメントのお返事を書きたかったのですが、更新を優先させちゃいました。
ごめんなさい m(_ _)m
個別のお返事は、また改めて、おいおい書かせて戴きます。

最後に、“とりあえず”としたのは、
もしかしたら番外的な短編なんかも書けたらいいなと思ったからです。

この後にもう1話、「余談 その他2名」というお話がありますので、
良かったら、そっちの方も読んで下さいませ。

ホントにホントに、ありがとうございまっす!!!!
愛してまっす!!!          ケシ

余 談 その他2名

局地的な秋雨が降って、女子社員が4名解雇になった翌日。

4階、編集部別室では、2人の社員が呑気にコーヒーを飲んでいた。
コーヒーだけは、この社内でも群を抜いて、贅沢な部署である。
廊下の外にまで、遠慮なくその芳香を撒き散らしている。
そもそも、ミックも伊集院も、昨日僚が香を連れて帰った時から、
今日は、2人の出社は無いなとは思ったが、案の定である。

まぁ、それは良しとして、連絡も無しにとは、これ如何なモノかとミックは思う。一応ああ見えて、アイツはココの課長では無かったか。
彼等があと何日間出社して来ないか、ミックと伊集院は今朝一番で賭けをしている。昨日の嵐が一転、実に平和である。

コーヒーのお供に、2人はモグモグとロールケーキを食べている。
「出来れば、昨日のうちに食べたかったな。」
と伊集院が呟いた。
有名店のクリームたっぷりの、フルーツを贅沢に使ったそれは、確かに美味しいが、一晩冷蔵庫に入れられ、生地のシットリ感が、半減している。
「ボク達が食べちゃって、カオリ拗ねないかな。」
言葉とは裏腹に、楽しそうにミックが言う。拗ねた香も最凶に可愛いのだ。
「フンッ、槇村の機嫌を取るためなら、アイツは10個でも20個でも、また買って来るだろ。」
伊集院の言葉に、ミックは心底イヤそうに顔を顰める。
「Oh~!!冗談キツイよ~、ファルコン。前のシュークリームだって、結局カオリは、3個しか食べれなかったじゃないかっっ。あれを誰が処理したと思ってんだよ。ボクとファルコンだよ?しかも、今度はロールケーキだよ?Oh,ジーザス!!!」
ミックは大げさに、胸の前で十字を切る。

「まぁ、責任は下の階のバカ女共にとって貰えば良いんじゃないか?」
伊集院が、ボソッと呟く。
ミックは、パチンと指を鳴らすと、
「ファルコン、それナイス・アイデア♪」
と言った。

ミックは、想像する。
大量のロールケーキを嫌がらせのように差し入れて、
「いやぁ、ごめんねぇ。ウチの姫の食べ残しで悪いケド。」
と、嫌味を言う自分を。
昨日の胸糞悪い一件の、溜飲が少しは下がるというモノだ。
香をあんな目に遭わされて、ムカついているのは何も僚だけでは無い。
ミックや伊集院や美樹とて、同じ気持ちだ。

ミックは小さい頃、内気で人見知りだったから、意地悪な子供に良くからかいの対象にされた。ミックの父はコンサバで、ミックを事あるごとに、男たるもの強くなければと、ボーイスカウトやサマーキャンプへと送り込んだ。
それはミックにとっては、地獄の様なモノで、必ず僚と一緒じゃ無ければ行かないと駄々をこねた。
そして、出掛けた先でミックはイジメに遭い、僚がキレて相手を殴り倒し、大騒ぎになるのが恒例だった。
僚は乱暴だったけど、とても優しかった。
弱いモノを苛めるバカが、昔から反吐が出る程嫌いだった。
ミックはいつも守られる方だったけど、僚のこんな心意気だけは誰よりも受け継いでいるつもりだ。

香を苛めるやつは、絶対に許さない。
ケンカでも何でも、売られたら買ってやる。

4人は大切な仲間なのだ。
ミックはそんな事を思いながら、コーヒーを飲み干した。

14番目の月

10日程掛かった依頼の帰り道。
僚の運転する、ミニクーパーの助手席。
香はその窓から、丸くて黄色い大きな月を見上げた。
明日の晩が、満月だ。
端っこの方が少しだけ足りない、
限り無く円に近い、お月様。14番目の月。
まるで、私達みたい。と、香は心の中だけで、小さく呟く。

依頼人は、若くて綺麗な女性だった。
いつも通り、僚は彼女に鼻の下を伸ばし、
いつも通り、香は僚に制裁を加えた。
いつも通り、依頼人は僚に惚れ、
僚はまるで何事も無かったように、
いつも通り、彼女を自宅まで送り届けた。

全てがいつも通り。
でもどうして、こんなに切ないんだろう。と、香は思う。
また明日から、全てがいつもと同じ。
2人の退屈で、愛すべき日常がやって来て、何もかもがオールOK。
メデタシ、メデタシ。
なのに、油断をすると涙が零れそう。

このギリギリのいつも通りを、
たとえば、少しだけ壊したら、どうなってしまうだろう?
この今の絶妙な距離を、少しだけ縮めて僚に近づいたら。
そっと、その頬に触れたら。
あの大きくて温かい手に触れたら。
きっと全てが、水の泡のように消えてしまう。
満月だって、たった1晩で、次の夜から少しづつ欠けてゆく。
2人の儚いギリギリの日常なんて、
そんな満月よりも、きっともっと脆い。
2人のいつもの日常は、ギリギリの表面張力で成り立っている。
そこに一滴でも涙を落とせば、
途端に溢れ出てしまう、色んな感情が。




浴びるほど、酒を飲んだ帰り道。
アパートの表の扉を開ける、その瞬間。
僚はふと、夜空を見上げる。
黄色い大きな月が浮かんでいる。
明日は、満月だ。
少しだけ欠けた、14番目の月。
まるで、俺達みたいだ。と、僚は口元だけ歪めて薄く嗤う。
愛しいと思う。
大切だと思う。
失いたくない、心底思う。
だけど、どうする事も出来ない。
こんな自分が手に入れても良い女だとは、到底思えない。

もしも、あの瑞々しい唇に触れる事が出来たなら。
あの華奢でしなやかな身体を、掻き抱く事が出来たなら。
きっと、今までの2人の世界は、崩壊する。
生ぬるい、ほの甘い、居心地の良い真綿のような日常。
その甘露のような幸せを、今更手放す事など不可能だ。
僚はその先の事を、
夢想こそすれど、狡賢い天秤に懸けて、
今はただ甘やかな日常に、溺れている。
まるで、この月のように、大切な最後の1つが欠けている。

愛している。

たった1つ、その真実が。




風呂上がりの香が、ベランダに続く大きな掃き出し窓に凭れて外を眺めている。
リビングの灯りは消したまま。
薄いグレイの、たっぷりとギャザーの入った、
甘やかなワンピースを、身に纏っている。
スリッパを履いていない足元は、素足だ。
首元の大きなリボンで留まった、その軽やかな布地は、
背中が大きく開いている。
滑らかな、真っ白なその背中には、
無粋なストラップなどは、何も無く。
僚はその光景に、思わず頬を緩める。
僚自身、つい今しがた、シャワーを浴びてココに来たばかりで、
手にはビールを持っている。
よく見ると、香の襟足はまだ少し湿っていて、
柔かな癖毛が、くるんと小さくカールしている。

僚はそっと香に近付くと、
その綺麗な背中に、ピタッとビールの缶を押し当てる。
香は小さく、
「ひゃあっっ!」
と悲鳴を上げ僚の方を振り向くと、小さく唇を尖らせる。
「もぉっ!! ビックリしたっ。僚のイジワル。」
しかし、言葉とは裏腹に、その瞳は楽しそうに笑っている。
僚は香の隣に並ぶと、ビールのプルタブを開け、ひと口啜る。
そして片手で、香の細い腰を抱き寄せる。
香はされるがままに、僚に身体を預ける。

「何、見てんの?」
そう問う僚に、香は、
「お月様。」
と、ぽつりと呟く。
僚も空を見上げれば、満月の1つ手前の、14番目の月。
「切ないよね。このお月様が、1番。」
そう言って、ぼんやりと空を見上げる香を、
僚はビールを飲みながら、ぼんやりと見つめる。
多くを語る事はなくても、
僚にもその言葉の意味が、痛いほどよく解かる。
香とのこの数年の暮らしの中で、
何度も見上げたその月に、何度2人の関係を重ねただろう。

ただ怖かった。
満月のように、頂点まで飽和して、
そしていづれまた、欠けていく事が。
だけど、もう知っている。
また、一巡りすれば満ちる事を。
あれはただの影で、本当には月が欠ける事など無い事を。
2人とも、心の中の弱い、暗い影に怯えていた。
闇夜が怖いと怯える、臆病な弱虫だった。
月は、いつでもそこにあったのに。

僚は香に、そっと口付ける。
今はもう、それが2人にも解かっている。
月は欠ける事は無いし、2人が離れてしまう事も無い。
「ふふふ、ビールと歯磨き粉の味がする。」
そう言って笑う香を抱き上げて、僚は寝室へ向かう。

大切な最後のピースが嵌った時から、2人の幸せな時間が流れ始めた。
確かに2人の世界は壊れたけれど、
新しい世界は、もっと甘く、もっと温かいものになって、
今、僚を甘やかしている。

窓の外には、14番目の月が浮かんでいる。








荒井由実「14番目の月」という曲から、イメージ致しました。
この曲は、切なくて可愛くて、原作のカオリンのイメージです。
でも、最終的には幸せな結末の2人であって欲しいです。


[ 2012/05/24 14:00 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

無い物ねだりのミューズ

槇村香は、小さく1つ溜息を吐いた。
物憂げな視線の先には、相棒である“新宿の種馬”こと、冴羽僚が、
今回の依頼人、中村佐和子に鼻の下を伸ばして、擦り寄っている姿がある。
しかしこの際、香の嘆きはこの僚の一連の行動に対するモノでは無い。
それに関しては、いつもの事であり、
殆ど冴羽商事の恒例行事と言っても過言では無い。

僚は馴れ馴れしく佐和子の手を取って、
その容姿や内面の美しさを褒めちぎっている。
しかしその程度の事は全然、香の許容範囲であり、実際、
僚が先程から述べている通り、彼女は美しく聡明で、心優しい女性である。
その点に於いて、香も僚に異論を唱えるつもりは、毛頭無い。

それに、
以前の僚と、今の僚では決定的に違う事が、1つだけある。
以前のように、香を傷付ける言葉は、決して言わなくなった。
たとえ超美人の依頼人であっても、前みたいに香と比べたりして、
からかうなどという事も無くなった。
1つには、2人の関係が大幅に進展した事が、大きな原因であろう。
今では、自他共に認める、恋人関係である。
今にして思えば、あの頃の僚の態度は、
不器用な男の精一杯の強がりであったのだと、さすがの香にももう解る。
「あぁ、なんだ。僚ってば、構って欲しかったのね。」
今ならば、香も素直にそう思う事が出来る。
むしろ、その事に気が付いてからは、
彼の普段とは違って、意外と子供じみたそんな一面ですら、
愛おしく思えるから、不思議である。
長年の苦い思い出も、そうやって1つモノの見方を変えただけで、
今では甘い痛みを伴った、2人の大切な絆だと胸を張って誇れる。

それでは、香のこの晴れない心のモヤモヤは、一体何なのかと言えば、
彼女自身の心の内に巣食う『コンプレックス』によるモノである。
元来、香は明るく前向きな性質である。
彼女の日常生活に於いては、悩みの種など、それこそ星の数ほどある。
けれど、それを笑い飛ばして、蹴散らす程度には、精神的な強さも持ち合わせている。
しかし、ことコンプレックスという事に関しては、
さすがの彼女も、お手上げ状態だ。
一旦、心の奥で目覚めたコンプレックスの小さな芽は、
そう簡単には、眠ってくれなくて。
そんなネガティブな感情に、誰より香自身が、ホトホトうんざりしているのだ。
こんな事はしかし、誰にでもある心の働きで。
気持ちを上手く切り替える事は、頭では解っていても、そう易しい事では無い。

視線の先にいる彼女は、僚の褒め言葉に頬を染めながらも、素直に礼を言い、
僚のくだらないジョーク1つにも、コロコロと笑っている。
彼女は小柄で華奢であり、しかしその割には、豊かな曲線を描くしなやかなスタイル。艶やかなロングヘアーは、サラサラとまるで絹糸の様である。
その女性らしい美しさに、同性の香から見ても、思わず溜息が漏れてしまう。

それに引き換え自分は、と香は思う。
幼い頃から、背の順で整列させられる事が、ひどく恥ずかしかった。
中学・高校時代の初詣では、毎年のように、
「今年こそは、成長が止まりますように。」
と、一心に手を合わせた。
無情にも、その願いが叶えられる事は無かったけれど。
牛乳や小魚は、兄に不審がられない程度に、極力控えた。
今思えば微笑ましいのだが、胸の大きなクラスメートに憧れ、
少し太ったら良いかもと、ご飯を沢山食べてみたりもした。
それでも代謝が良すぎるのか、体質か。
太るどころか、胸だってペタンコのままだった。
しかしどういうワケか、縦方向にばかり、
すくすくヒョロヒョロと大きくなってしまった。
20代も半ばになるというのに、今でも食事を1食でも抜こうもんなら、
すぐに体重が落ちてしまう。
冴羽家に於いて、燃費が悪いのは、何も僚に限った事では無いようだ。

香は、女性らしいふっくらとした美しさには、とても憧れてしまうのだ。
もしも自分が、
もう少し小柄だったら、女の子らしく見えるのではないか。
こんなヒョロヒョロの痩せっぽちじゃ無くて、
もう少し起伏のある体のラインならば、僚の好きなセクシーなオネェさん風にもなれるのではないか。
こんな寝グセみたいな、クリンクリンの癖毛じゃなくて、
つやつやのうっとりするような、手触りの髪の毛だったら。
香が憧れるのはいつも、自分とは正反対のタイプなのだ。
勿論、こんな事を考えても無駄な事は、香とて重々承知である。
すくすくと育ったこの身長が、縮む事など有り得ない。
フニャフニャでこしの無い、猫毛の癖毛も、今更どうなるモノでも無い。
・・・でも、と香は思う。

せめてもう少し、おっぱいが大きくならないかぁ~~~、と。

別に香自身にしてみれば、今更胸のサイズが1~2カップ違った所で、
なんら人生が大きく変わるワケでもないけれど、
でもきっと、僚は喜んでくれるんじゃないかなぁ・・・・
と、ここまで考えた所で、
香は1人、真っ赤になって頭から湯気を噴出した。
(や、やだ。私ったら、真っ昼間から何てこと考えてるのよっっ、バカバカ//)
そんな自分自身の考えに、そろそろ自己嫌悪もピークに達した所で、
香は少し頭を冷やそうと、
そろそろ乾く頃であろう洗濯物を取り込むべく、1人屋上へと向かった。

そんな香の一部始終を、
僚は先程から、佐和子と会話をしながらも、眼の端で観察していた。
1人、ションボリ肩を落としてみたり、
眉間に皺を寄せ、遠い目をしてみたり、
恐らくは悩んでも仕方の無い事を、1人悶々と考え込み、
最終的には、妙に真っ赤な顔をして、焦りながらリビングを後にした。

忙しいヤツ。

僚は内心苦笑しながらも、こんな時己と香が、
別々の脳ミソを持った、別々の人間である事に非常にもどかしさを覚えてしまう。
香の考えている事、丸ごと全部知りたいと思う。
きっと、僚からしてみれば、取るに足らない些細な事を、
1人で一生懸命、真剣に考えているに違いない。
それすら可愛い、と思っている事を、僚は香に伝える術を持たない。
所詮、別の体を持った、別の人間同士。
想いを伝えるには、言葉という不完全なツールしか持っていない。
そして、そのツールは発信しない事には伝わらないし、
発信した所で、その想いの100分の1も伝わらない。
それが僚はいつも、ひどくじれったいと思っている。




そんな事があった数日後、
香と佐和子は、屋上で2人洗濯物を干していた。
その日は日曜日で、佐和子の仕事も休みである。
休みの日くらいゆっくりしてて下さい、と言う香だったが、
「お2人には、お世話になっているので、お手伝いくらいさせて下さい。」
と言った、佐和子の言葉に有難く甘え、2人で朝から家事に勤しんでいる。

一方僚はと言えば、自室のベッドの中で夢心地である。
それもその筈、
昨夜は3人で佐和子の勤め先の企業の、創立記念パーティーに出席し、
そこで、彼女の命を狙っていた黒幕を捕え、事件解決に奮闘したのだ。
肉体労働担当で頑張ってくれた僚に、
今朝くらいはゆっくり朝寝坊させてあげようと、
香は僚を起こすのを、後回しにしたのだ。
黒幕も、無事冴子に引き渡したし、
明日からは佐和子も、漸く普段の日常を取り戻せるだろう。
後は僚が起きて、食事を済ませたら、
彼女を自宅マンションまで送っていくだけである。
そんな平和なひと時に、佐和子もこれまでに無く安堵した表情で、
心底嬉しそうである。
そして香もまた、3人揃って無事で、怪我1つ無く事件が解決した事に、
心から、ホッとしていた。
それに何より、今回の依頼料はもう既に、佐和子が支払ってくれたのだ。
そんなワケで、香の機嫌も上々だ。
つい数日前、自己嫌悪のどん底だった香の心にも、
少しづつ光が差したようで、今は晴れ晴れとしている。

鼻歌を歌いながら、僚のトランクスの皺をパンパンと伸ばす香に、
佐和子が、恐る恐る切り出した。
「あの~、香さん?」
「何です?佐和子さん。」
「ひとつだけ、質問しても良いですか?」
そう言う彼女に、香は一瞬身構えたモノの、
「え、えぇ。私に答えられる事なら・・・」と返す。
「香さんて、エリ・キタハラのショーモデルやってませんか?」
思いも寄らなかった、彼女の問いに、香は一瞬キョトンとして、
みるみるウチに真っ赤になって、照れてしまった。
「・・・ど、どうしてご存知なんですか。あ、あれって私、ただのお手伝いで、本業じゃないので凄く恥ずかしいんですけど・・・」
そう言って、恐縮しきりの香をしり目に、
彼女は、キャアと、黄色い声を上げて香に飛びついた。
「やっぱり、香さんだったんだぁ!!!」
そう言った佐和子の視線は、
明らかに憧れのファッションモデルに対する、ファンのそれである。
香はどうしていいモノか解らず、微妙な表情で訊いた。
「でもどうして?何で佐和子さん分かったんですか?私、モデルのお仕事は、一切名前も出さない。素性も明かさないって条件でやってるのに。」
すると、佐和子はパッと目を輝かせて、語り始めた。
「実は私、エリ・キタハラが大好きで、東京でショーがある時には、必ず見に行ってるんです。いつだったか、クリスマスの水着ショーで、エリ先生ご本人がトリを飾った時があったでしょ?最後に男性モデルの方が、銃を撃ってツリーの飾りがキラキラ飛び散るっていう、あの素敵な演出があった時。あの時のショーで、初めて香さんを拝見して以来、すっかり大ファンになっちゃって。あれから、時々ショーにもお出になるし、ポスターなんかにも起用されてるし、きっとエリ先生のお気に入りのモデルさんだろうなと思って、色々調べたんです。でも、雑誌に写真が出てても、何処にもクレジットが無いし、エリ先生のショーでは殆ど主役級なのに、ファッション誌にも出ない。まして、他のブランドのショーで見かける事は全く無くて。とにかく、すごくミステリアスだなって思って、そう思うとますます、エリ先生のショーだけは、絶対に見逃せなくなっちゃいました。」
そう言って、満面の笑みで、目をキラキラさせる佐和子を見ながら、
香は、ハハハと乾いた笑いを漏らすしかなかった。
(ま、まさか。これ全部、絵梨子の計算ずくだとすれば、恐ろしいわね。)

「初めて香さんにお会いした時から、あのモデルさんに良く似た素敵な人だなぁって思ってて。でも普段の香さんは、お化粧もしてないし、すごくナチュラルで、また全然違う魅力だなって思ってたんですけど、昨日パーティーに出る為に、バッチリお化粧して、何よりあのエリ先生のドレスを着た香さんを見て、確信したんです。あ、あの人だって。」
そう言って、佐和子は昨日の香の姿に思いを馳せる。
それは、長身の香の魅力を最大限に引き出すロングドレスだった。
香の肌の色よりも、ワントーン深い光沢のあるベージュのシンプルなドレス。
袖もロングスリーブで、前から見ると全くシンプルすぎる程だったけど、
圧巻は、そのバックスタイルだ。
首元は、チョーカーのようにシッカリと留まっているにも関わらず、
そのすぐ下から、腰とお尻の境目ギリギリの所まで、大胆に大きく開いている。
香が身に付けていたアクセサリーは、ダイヤのピアスだけだったけど、
一番のアクセサリーは、真っ直ぐに浮き出た芸術的な背骨だった。
あの会場で、色んな人間の目を引いていたけれど、
最も激しく幻惑されていたのは、勿論僚である。
何度、仕事を放り出して、香と2人パーティーを抜け出したいと思った事か。
勿論、そんな事を香は知らない。

「私、憧れの人が作る手料理を食べて、一緒に笑って、沢山お世話になって。最後の最後で、まるでプレゼントみたいに、魔法みたいに、私の目の前に舞い降りて来てくれた。あんなに大好きで憧れだったモデルさんが、傍にいて、ずっと励ましていてくれたんだと思うと、すごく感激したんです。・・・すごく。」
そう言った佐和子は、微笑みながらも涙目であった。
香は、ホンの数日前に自分の方こそ、佐和子を見詰めて溜息を吐いていた事を思い出して、とても不思議な気持ちになった。
「佐和子さん。私ね、自分のこのヒョロヒョロの体型も、この癖っ毛も、子供の頃から、ずっとすごく嫌だったの。もっと、女の子らしく、可愛らしく生まれてきたら良かったのにって。私の方こそ、佐和子さんがウチに来てからずっと、羨ましいって思ってたの。佐和子さんには、私には無い魅力が沢山あるから。でも、今の佐和子さんの話を聞いて、少しだけ心が軽くなった気がします。どんな人にも、自分では気が付かない魅力があるのかもしれないって。私の方こそ、佐和子さんに会えて良かったです。」
2人はお互いに、見つめ合って、クスクスと笑った。
香は、今まで嫌いだった自分のコンプレックスを、
少しだけ好きになれるような気がした。

洗濯物を全部干し終わって、屋上から戻る途中で、香がフト思い出した。
「ねぇ、佐和子さん。あのクリスマスのショーで、拳銃を使ったモデル、誰だと思います?」
そう言って、ニヤリと笑った香に、
佐和子もハッとして目を丸くすると、
「・・・もしかして、・・・冴羽さん?」
半信半疑の佐和子に、
「正解っっ!!! 気付かなかった?」
と、楽しげに香が笑う。
「えぇ、今言われてやっと。言われてみれば、そんな気がするって程度で・・・」
佐和子が、申し訳なさそうにそう答える。
そして、その後の彼女のセリフに、香は堪らず爆笑した。
「だって、ファッションショーってやっぱり、主役は女性モデルでしょ?私の場合、お洋服を見に行くワケだから、どうしても目線は女性モデルにいってしまう気がします。・・・正直、男性モデルって、私あまり見てないかも。」

プププ、僚。残念。やっぱ、パセリだったみたいだよ。

明るく笑っている香の心には、気が付けばいつの間にか、
お日様が顔を出していた。








ワタクシの手元に一冊の、とある写真集がありまして、
その中に、宮沢りえちゃんが、MaxMaraのドレスを着た写真があります。
そのドレスと、背骨の美しさに感動してこんな話を妄想しました。
この写真集では、彼女は9割方ショートヘアで、
ついつい、カオリンに重ねてしまいます。
[ 2012/05/25 19:47 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

世界最強

「ねぇ僚。ミックから、遊園地のプールのチケット貰ったの。一緒に行かない?」
香がお茶を淹れながらそう言ったのは、朝メシを喰っている時だった。
「んぁ~?面倒くしゃあい。」
大欠伸をしながら、取敢えず1度目はこう答えるのが、
俺のいつものパターンである。
そんなのいつもの事なのに、香は唇を尖らせて膨れている。
チクショウ、朝からカワイイじゃねえか。
「えぇ~~~、行こうよぉ~~~。絶~対っっ、楽しいと思うよ?」
ウン、俺もそう思う。
思うケド、
俺の口には恐らく、天邪鬼とかいう妖怪が棲み付いているらしい。
「・・・だって、暑いしぃ~、おまぁとプール行っても、監視されってから、ナンパも出来ゃしないしぃ~。リョウちゃん、つまんないもぉん↓↓↓」
香は、そんな俺をカワイイ顔で睨んでいる。
だぁかぁらぁ、そんな顔で睨むんじゃねえよっっ!!!
カワイイじゃねぇかよ。
何だよ、その冬眠前のリスみたいなホッペは。
「・・・じゃあ、イイ。行かない。」
オイオイオイ、何だよ、アッサリ諦めるなよ。
俺はいつだって、こういう男じゃねぇかよ。
あと1回、おまぁが行こうって言ったら、まぁ、OKする気だったんだぜ?
しかしながら、それっきりご機嫌ナナメの麗しのパートナー嬢は、
すっかり拗ねたまま、伝言板の確認へと出掛けてしまった。
まぁ、しゃーねぇーか。
まだ1日は始まったばかりだ。
アイツの機嫌を窺うチャンスくらい、まだまだタップリある。
取敢えずは、メシだメシ。
チクショウ、旨ぇじゃねぇか、朝から。
取敢えず、おかわりだな、ウン。



私はとても幸せだと思う。
経営する喫茶店は、まぁ繁盛しているとは言い難いケド、
別にそれは、正直あまり気にしていない。
実際に、これ以上忙しくなっても、それはそれで大変そうだし。
夫婦2人、のんびりマイペースでやる方が、私達には性に合っている。
常連さん達も、こののんびりした雰囲気を楽しんで来てくれる人ばかりだし、
何かあまり混雑してたら、そんな彼等に申し訳ない気もする。
別にこの店で利益が出なくても、
私達2人の生活は副業のお陰で困る事は無いし。
もっとも、収入の面からいけば、アチラが本業なのかもしれないケド。
何より、私の1番好きな時間は、こうしてお客さんの全くいない、
ファルコンと2人きりの時間なのだから、これじゃ、繁盛する訳ないわね♪
そんな事を考えていると、表に良く知るヒトの気配がした。
私達2人の次に、恐らくこの店にいる時間が最も長い、1番の常連さん。

カラァァ~~ン

「いらっしゃい、香さん。」
「こんにちは、美樹さん。」
笑顔でそう言ったモノの、彼女のご機嫌があまりよろしくないのは、
長年の付き合いで、なんとなく解る。
「いつもので良い?」
「うん。お願いします。」
ファルコンは何も言わずに、いつものオリジナルのブレンドを淹れ始める。
私もキャビネットから、香さん愛用のカップを準備する。
「それで?今日は何が原因で、冴羽さんとケンカしたの?」
と問えば、彼女は真っ赤になって、
「や、やだなぁ。なんで何も言って無いのに、そんな事訊くの?」
と、慌てふためく。
しかしそこは、彼女の美徳でもある、素直さが勝って、
「・・・ケンカってワケじゃないの・・・」
と、ポツリと小さく呟いた。
「ただ、私が勝手に拗ねてるだけなの。」
と言って、恥ずかしそうに俯いた。まるで小さな子供の様な物言い。

彼女は普段、とてもしっかりした、きちんとした大人の女性である。
だけど時々こんな風に、とてもあどけなく、幼く見える時がある。
時折見せる、この普段とのギャップは、とても可愛いと思う。
多分、こちらがきっと彼女の素なんだな、と思えるから。
時折垣間見える、そんな彼女自身はとても清らかで、魅力的。
これだから、彼女の周りの男性陣は、全員彼女に夢中だ。
「何で拗ねてるの?」
思わず私も自然に、彼女には、まるで小さな妹に問う様な気持ちになってしまう。
惹かれてしまうのは、きっと男性だけじゃないわね。
彼女は、ファルコンの淹れたてのコーヒーを、ひと口飲んで小さく息を吐く。
「昨日ね、ミックからプールのチケット貰ったの。」
「プール?」
「うん。遊園地の中の、プール。だから今朝ね、僚に一緒に行こうって誘ったんだけど、面倒臭いからヤダって。それに、私と一緒だと、ナンパ出来ないからヤダって。」
そう言って彼女は、件の相棒の事でも思い出したのか、
眉を顰めて、小さく唇を尖らせた。
まぁ、いつもの事だけど、冴羽さんも素直じゃないんだから。
「ね?大した事じゃないでしょ?私、自分でも子供みたいだと思うもん。こんな事で拗ねてるの。でも、僚と一緒にプールに行きたかったの。」
と言って、恥ずかしそうに笑う彼女。
「冴羽さんたら、意地悪ね。でも案外行きたがってるんじゃないの?もう1回、香さんが誘ったら、きっとウンって言うわよ。あの人天邪鬼だから、最初の1回は必ず面倒臭いって言うじゃない?いつも。」
「うん、でも良いの。ミックと行くから。」
彼女の答えは、少しばかり予想外だった。
「ミックと?何故?」
「ミックがチケットくれた時にね、多分僚は行かないって言うから、ミックとかずえさんで行っておいでよって、私ミックに言ったの。」
「それで?」
「そしたらミックがね、もし僚が行かないのなら、一緒に行こうって。なんか、かずえさん今お仕事が忙しいんだって。」

ははぁ~~~ん。ミックの狙いはそれね。
ひとまずは、2人にチケットを譲るポーズを見せとく。
冴羽さんが行かないって言うのを見越して、
香さんにはそれと気づかせぬウチに、デートに誘い出す。
香さんの事だから、ミックは単に純粋に、
友達として誘っていると信じて疑っていないのね、きっと。
ファルコンも、ミックの思惑を見抜いた様子で、苦笑いしている。
「そうなの。でもまぁ、この所すごく暑いから、良い気分転換になるんじゃない?」
私もファルコンも、敢えてミックの企みには言及しないでおく。
それは、冴羽さんの役目だわ。
「うん。私プールなんて、すごく久し振りかも。」
そう言って笑った彼女は、いつも冴羽さんとミックが水面下で、
彼女を巡る攻防を繰り広げている事には、きっと気付いてはいない。

そこへ、タイミングが良いのか悪いのか、彼女のパートナーが登場した。
「美っ樹ちゅわ~~ん♪不倫しましょ~、フ・リ・ン♪」
そう言って飛びついて来た所を、
ファルコンの手によって、アッサリと叩き落とされてしまった。
そんな冴羽さんを見て、彼女は大きく1つ溜息を吐くと、また眉を顰めた。
あーあー、折角少しご機嫌直りかけてたのに、これじゃあ火に油だわ。
彼女はギロリと音が出そうな程の、殺気を込めて冴羽さんをひと睨みすると、
「それじゃ、美樹さん、海坊主さんご馳走様。また明日。」
と言って、カウンターにコーヒー代を置いて、帰ってしまった。
残された哀れな彼女の相棒は、所在無さ気にボンヤリと煙草を吹かしている。
全く、ミックといい、冴羽さんといい、しょうがない人達。
それでも私とファルコンは、2人して外野から眺めるこの現状が、
少し面白かったりするのも、事実なのよね。
結局この今回の攻防、どちらに軍配が上がるのか、
香さんの口から聞くのが、また楽しみだわ。
ふふふ、私って少し悪趣味かしら?





予想外の展開を迎えたのは、晩メシ後のリビングでの事だ。
結局香のヤツ、今日は1日ご機嫌ナナメだった。
昼間、キャッツに行った時も、俺の顔見てあからさまに帰って行きやがって。
晩メシの時だって。
まぁ、なんだ。俺が香に合わせてブスッとしてんのも、
大人げ無いかと思って、こっちから色々と話題振ってやってんのに、
いちいち、一言で会話終わらせやがるし。
今だって。
俺の分のコーヒーだけ淹れて、さっさと風呂に入りやがって。
いつもなら2人分淹れて、
グダグダとしょーもねぇ事ばっか、話し掛けて来るクセに。
・・・・まぁ、この場合、アレかね。朝の事、謝った方がイイって事か?
まぁ、そうだな。
香はお子ちゃまだから。ここは1つ、俺が大人の余裕ってヤツで、
心の広い所を、見せてやるべきところかねぇ。
取敢えず、アイツが風呂から上がったら、不本意ながら謝ってやるかね。

そこまで考えた所で、香が風呂上りのイイ匂いをさせて登場した。
チクショウ、機嫌悪いクセに、それでもカワイイじゃねぇか。
つーか、イイ匂いさせてんじゃねぇ。ムラムラする。
「なぁ。」
「なに?」
「おまぁ、朝の事まだ怒ってんのか?いい加減、機嫌直せよ。」
てゆうか俺、全然謝れてねぇし。これって、懇願だし。
「別に、怒ってないよ。もうイイの。私も良く考えたら、子供じみてた。」
「へっ?そうなの?」
おぉ、やばいやばい。気ぃ抜いたら、思いのほか間抜けな声が出た。
「うん。プールには、ミックと行くし。」
何ですと?!
「何で????」
「何でって、チケットくれた時、ミックがね、もし僚が行けなかったら、一緒に行こうって言ってたから。かずえさんは、お仕事忙しくて行けないんだって。・・・どうしたの?なんか顔怖いよ?」

おのれ、ミック。テメェ、そういう腹か。
誰がお前みたいな色魔に、香の水着姿晒すかっての!!!
チクショウ、香も香だよ。少しは、疑えっつ~の。

「あ゛ぁ゛?
 テメッ、最初っから、それを言えよ!!!
 何で、おまぁとミックが2人で行くんだよ?」


って、・・・・ん?何か、様子おかしくねぇか?
また、香チャン怒ってんすケド。逆切れですか?
「僚のバカ。」
「はぁ?」
「どうせ僚は、私と行くより、ミックとプールに行きたいんでしょ?」
あの~~、言ってる意味わかんないすけど・・・。
「私だけミックに誘われたからって、ヤキモチ妬いてんでしょ?そりゃあ、僚の方がミックとのお友達付き合いが長いのは分かってるけど、私だって、ミックの友達なんだよ?自分が誘われなかったからって、そんなに怒鳴るなんて、僚は器が小さいよ!!! 私は、ミックより僚と行きたいんだよ?でも、僚が行かないなら、しょうがないじゃん!!! そんなに、ミックと行きたいなら、2人で行けばいいじゃん!!! 僚のバカッ。」
言うだけ言って、香は自分の部屋へと消えた。

えーと、香サン?
なんか、すっごい勘違いしてません?
イヤイヤイヤ、お友達付き合いって(苦笑)
確かに俺の器が小さいってのは、的を得てるけど、
それ以外、全ぇ~~~部っっ、的外れだから。・・・・はぁ、小学生か?アイツ。
幾ら俺が、アイツに対する邪な気持ちを、ヒタ隠しにしてたとしても、
今の流れで、どこをどう聞いたら、
俺がミックと一緒にプールに行きたい、なんて話しになるんだよ。
俺に、お前とミックを2人で行かせたくないって、気持ちがあるって事に、
思い当んねぇかね、普通。
何も言えねぇ。
今日1日の俺のドキドキを返してくれ、寿命が縮んだわ。
天然にゃ、一生勝てねぇ。
「・・・しゃ~ねぇ。風呂入って寝よ。」




2日後、遊園地のプールサイドには、規格外の大男が、2人並んで座っていた。
僚は、不機嫌極まりない仏頂面。
片やミックは、終始笑顔である。
抜けるような青空や、夏休みの子供たちの楽しげな歓声とは、
全く不釣り合いである。
ココへ向かう車中、ミックは今回の顛末を、僚から聞かされた。
最近の僚は、ミックに対して、己の恋心を隠す事はしなくなった。
良い意味で開き直ったのか、はたまた諦めの悪い悪友への牽制のつもりか。
香当人へは、未だ隠し続けているのを見る限り、恐らくは後者である。

確かに、今回仕掛けたのはミックだ。
ミックにとって香は、相変わらず特別な女性には違いない。
しかし、かずえという愛しい恋人がいる今、
別に本気で香をどうにかしてやろうなどと、虫のイイ事は考えてはいない。
ただ、今回の件はミックにとって、
どちらに転んでもマイナスは無いと、踏んでの事だった。
もしも僚が、すんなり香の提案を飲み、2人で出掛ければ香にとってハッピー。
一方、お決まりの天邪鬼で香を怒らせても、
ミックにとっては、痛くもかゆくもないし、
上手くいって、香と一緒にプールに来れたら、(ミックが)尚ハッピー。
およそ、2:8の割合で、ミックが喜ぶ為の素晴らしいアイデアだった。
・・・筈だけど、どこでどう話がこじれたのか、
いつの間にか、ミックと僚のデートになってしまった。
ミックは前々から、薄々気付いてはいたけれど、今日改めて確信を得た。
香は世界最強だ。
嘗てこれ程までに、僚およびミックという2人の男を、
振り回した女が居たであろうか、否居まい。

「やっぱり、カオリは並みの女じゃないな。面白すぎる。」
「俺は何も面白くねぇ。何で俺がお前と、真っ昼間からデートしなきゃなんねぇんだ?おまけにガキばっかで、モッコリちゃんのモの字もねぇ。」
「たいがいで、観念しろよリョウ。まっ、ボクはカオリのLOVEが詰まった弁当にありつけただけでも、今回の件、無駄では無かったかな。」
心底楽しそうなミックを見るにつけ、
マジで殺ってやろうかと、僚の胸に殺意が過る。
殺らないのは、ただ単に香の悲しむ顔を見たくないからである。

ケッ、言ってろ。エロ外人。テメェなんかに、香の弁当食わしてたまるか。
俺が1人で、2人分食うんだよ。
俺は正直、あの後香の誤解を解いて、香と2人でプールに来るつもりだった。
だがあの翌朝、香は前日の不機嫌などまるで無かった事のように、
満面の笑みを湛えて、
「ミックと、楽しんで来てね♪」
と、止めを刺してきやがった。
勿論、香に他意は無い。心の底からの言葉である。
俺とミックのお友達付き合いへ、
同じお友達としての温かいはなむけの言葉である。
それ以上、この俺に何が言えよう。
ミックの黒い腹や、俺の邪なアレコレを、香にぶちまけた所で、
後に何が残る?
俺とミックに対する、香のケーベツのマナザシが残るだけである。
(この際、ミックの事はどうでも良いんだけど。)
まぁ、それでもハナから、無かった事にして、
プール自体取り止めにすればイイ事で。
俺はこの何処へぶつけて良いモノやら解らない、
もやもやを、自分自身で消化する事を覚悟した。
(ミックへの報復は、キッチリするけどね♪)


しかし、そう思ったのも束の間。
今朝、いつもより随分早目に叩き起こされた俺を待っていたのは、
件の、金髪エロ外人であった。
香は俺の気も知らず、
嬉々として2人分(なんと、ミックの分まで!!)の弁当を作り、
水着や、バスタオルや、着替えの入ったトートバッグを俺に手渡すと、
「いってらっしゃあ~~~い♪」
と嬉しそうに、俺達を玄関先で見送った。
この俺に、拒否する隙を与えなかった。
「で?今日はカオリは留守番なのか?」
「いや、美樹ちゃんと映画観に行くんだと。」

かくして、俺が天邪鬼なばっかりに、香という名の油揚げは、
美樹ちゃんと言う名の、トンビに掻っ攫われてしまった。





「それでね、私にミックを取られたと思って、ヤキモチ妬いてんのよ?僚ってば、小学生みたいでしょ?ホント、あの2人仲良しだから。」
と言うと、香さんはとても楽しそうに笑った。
今回ばかりは、さすがの私も冴羽さんに同情するわ。
普段、私もファルコンも、断然香さんの味方なんだけど、
今回は、あまりにも予想外過ぎるでしょ?
そりゃあ、冴羽さんの愛情表現に問題があるのが、1番の原因なんだけど、
でも、彼が香さんの事、好きでたまらない事くらい、誰の目にも明らかで。
気付いてないのは、彼女だけなんだもの。
そう思ったら、冴羽さんへの同情しか浮かばないもの。
今回の軍配は、言わずもがな、香さんの1人勝ちでしょうね。


ある面に於いては、槇村香は世界最強である。










なんか、サッサとくっ付けばイイと思う反面、
2人には、延々とこんな不毛な攻防を繰り広げて欲しいとも思います。
それを、傍で鑑賞している、伊集院夫妻が1番オイシイと思います。
[ 2012/05/26 20:27 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

#1.事の起こり

「おじちゃん、だぁれ?」
それが、5日振りに意識を戻した香の、僚の顔を見て言った第一声だった。

「え゛ぇ゛~~~?う゛そおぉぉ~~ん」

直後、閑静な住宅街に、情けない僚の叫びが響き渡った。




話しは、10日ほど前に遡る。
新宿駅東口伝言板には、2ヶ月半振りに『XYZ』の3文字があった。
例に漏れず、例の如く、依頼人は冴羽商事恒例、もっこり美女である。
依頼内容も、ド定番のボディガードであった。
だがしかし、話がここで終わらないのが、冴羽商事の冴羽商事たる所以である。
ただの、ボディガードや人捜しなら、
そこら辺の探偵事務所でも事足りるのである。
何故だか、単純なストーカーからのボディガードが、
怒涛の急展開および、二転三転のドンデン返しを経て、
実はコッソリ冴子から、押し付けられていた揉め事にも絡んで来て、
更には、海坊主が抱えていた、案件とも絡んでいて、
果ては、ミックの追っていたスクープにも関わるという、
かつて無い程の、予想外の依頼へと発展した。
しかし、
この事件の詳細は、今回の顛末とはまた別の話なので、
ココでは割愛させて頂く。

未だかつてない波乱の騒動にも関わらず、
依頼から5日目に、僚・香は勿論、海坊主、ミック、
更には冴子(となれば、警視庁)まで、総出で大団円を迎えた。(警視庁は、主に後片付けだ。)
そしてそれは起こった。
奇跡のスピード解決および、円満解決(なんと!死者0、しかし怪我人多数)
かと思われた、最終局面、
大暴れの現場となった、郊外の廃墟で(昔は、薬品工場であったらしい)、
旧日本軍の忘れ形見の、不発弾が爆発した。
今まで静寂を保っていたその地で、トラップを仕掛けるわ、
重機を乗り回すわの大暴れの末、寝た子を起こしたという所である。

不発弾自体は、半世紀以上も昔の代物である。
半分腐りかけており、威力の程はさほどでも無く、
よっぽど、海坊主のトラップの方が危険ではあるが、
まさしく、虚を突かれたとはこの事で、
突然の事に成す術も無く、全員が呆然とした。
そして、ただ1人香が、爆風で数m吹き飛ばされたのである。
幸い落下地点には、柔らかい草が茂っており、目立った外傷も無く、
一見すると、ただ眠っているだけにも見えたが、
それから5日間、香は眠り続けた。



香には、3日間昏睡の上、記憶喪失という前歴がある為、
誰もが固唾を呑んで、見守り続けた。
そして誰より、落ち込み憔悴しきっているのが、僚であった。
それは傍目にも痛々しい程で、一時たりとも、
香の横たわるベッドの脇から、離れようともしないのだった。

幸い、この度の大暴れに関しては、桜田門からのお咎めは一切無しだった。
黒幕に政界に繋がる、太いパイプを持った警察幹部が関わっていた事、
まぁ、偶然の産物ではあったが、不発弾が爆発した『事故』として、
処理するのに都合が良かった事。
多少、素性の知れない如何わしい連中が、大暴れしたとしても、
そこは警察も目をつぶって、ある程度の所で幕引きにしたのだ。
しかし、その全てを踏まえて、後日ミックが匿名のスクープとして、
発表したのは言うまでもない。

しかし、この際そんな事は、僚にとってはどうでも良い事だった。
冴羽商事にも、当初の依頼による依頼料も振り込まれ、
無事何事もなければ、今頃は香の機嫌も上々で、
夕飯のおかずも、少しばかり充実していたはずだった。
それが、今のこの状況である。
予測不能の出来事だったとはいえ、
何故よりによって、香が吹き飛ばされねばならなかったのか。
どうせなら、ミックを故郷のアメリカまで吹き飛ばしてくれればよかったのに、
と嘆く僚であった。



横たわる香を見詰めながら、僚は深い溜息を吐いた。
どうやら香は、腕や足に軽いかすり傷はあったものの、
命に別状のあるような、大怪我も無い。ひとまずは、一安心ではある。
教授の診察によれば、脳波にも異常は無く、脳や神経にも損傷は無いとの事。
しかし、眠り続けてもう5日になる。
僚の脳裏には、嫌な予感が過る。

『記憶喪失』

前にも、これと同じような事があった。
前回は香の証言によると、
「2~3日で、すっかり思い出してた。ちょっと、記憶が混乱していただけ。」
らしい。
しかしあの時は、たまたまそうだっただけかもしれない。
あのまま、記憶を失くしたままだった可能性だってあるのだ。
それ以前に、今回はまだ目を覚ましてもいないのだ。
もしも目を覚ました香が、記憶を失っていたら、あの時とは違うのだ。
きっと、今の僚には耐える事など出来ないだろう。

香とキスをする仲にまで、やっとの事で漕ぎ着けたのは、つい最近の事である。
相手は超が付く程の、奥手の香である。
少しの進展も、日々の努力あってこそであり、
毎日が一進一退の攻防で、ここまで来たのだ。
今ではキスの最中に、
勿論服の上からではあるが、おっぱいを触る所まで攻略していたのにっっ。
ここで記憶を失くされては、僚の努力が水の泡である。
“フリダシに戻る”だ。
僚の最終目標は、遥か彼方遠い遠い頂なのだ。
今更、登山口には戻れない、戻りたくはない。
香の命の無事が確保された今となっては、僚の望みはただ1つ。
香の記憶の無事である。
周りの誰もが、僚の憔悴振りに言葉を失い、
まるで腫れ物に触るように接する中、
当の本人はそんな事を考えていたのである。




昏睡から丸5日目。
「んん~~~。」
今まで、ぐっすり眠っていた香が、小さく呻いた。
僚は目を見開いて、香に声を掛ける。
「香、大丈夫か?聞こえるか?」
僚の呼び掛けに、香の瞼が2、3度フルフルと震え、パチッと目を開いた。
「おぉっ~~、香おはようっっ!!! 大丈夫か?どこも痛くないか?」
僚のテンションとは対照的に、
香はどこかボンヤリとした表情で、辺りを見回した。

(まぁ、そうだな。5日も寝てたんだ。寝惚けるのも無理はねぇ。ここはひとまず、俺が落ち着かねば・・・)
僚は、1つ咳払いをすると、
「香?痛い所は無いか?」
と、落ち着いて問いなおす。
すると、キョトンとした表情の香が、まるで子供のようにかぶりを振った。
その香の表情に、どことなく違和感を覚えた僚であったが、
次の瞬間、夢であって欲しいと切に願った。

「おじちゃん、だぁれ?」
・・・・あ?意味が解んねぇ。
これって、あの香ちゃん?
あの僕ちんの大好きな、もっこり美人の香ちゃん?・・・だよねぇ????
何か違う、何かがおかしいと、僚の野生のカンが警鐘を鳴らし続けている。
すると、香がもう一度言った。

「おじちゃん、だぁれ?」

えーと、おじちゃんって、まさか俺の事かな?
なんか・・・良っく解んねぇけど、香が子供になってる???
「え゛ぇ゛~~~?う゛そおぉぉ~~ん」
一進一退どころじゃねぇ。
3歩進んで、2歩下がるどころじゃねぇ!!
フリダシじゃねぇ!!!!!

3歩進んで、地球半周分下がった感じである。

#2.おじちゃん達の苦悩と困惑

「まぁ、香クン本人の話し振り。冴子クンの話し。それに簡単な知能テストの結果を総合するとじゃな、ほぼ4歳児程度といったところじゃの。フォッフォッフォッ。」
何が可笑しいのか、教授はそう言って笑った。
俺はなんも可笑しくねぇ。
あれから、目覚めた香を、色々調べるうちに明らかになった事は、ただ1つ。
今の香は見た目こそ、いつもの極上のもっこりちゃんではあるモノの、
中身は、4歳児なのだ。

爆発に巻き込まれたショックによるものか、
それとも他に何か原因があるのか、それすらも解らないが、
5日間眠り続けて、目を覚ましたら4歳児になっていた。
そりゃ、4歳児の目に映る俺は、確かにおじちゃんだわな。
たとえ、二十歳のモッコリお兄さんであっても、おじちゃんだ。
香はあれから俺に、
「お兄ちゃんと、お父さんはどこにいるの?」
と訊いてきた。
『お父さん』が、生きていると思っている。
冴子の話によれば、香の養父が死んだのは、香が5歳の時である。
その父親が生きていると思っているのなら、今の香はそれ以前の香である。
槇村は、その頃はまだ高校生であり、
俺達が槇村の友達だと言うには、多少無理があるので、
一応、警察官である親父の友達だという事で、適当に誤魔化している。
香は、腑に落ちない表情ではあるモノの、
今の所は、俺達の苦し紛れの嘘で騙されている。

兄貴と親父は、今とても大切な御用があって、
香の事を、仲良しの僚おじちゃんに預ける事にして、
旅に出た、という筋書きだ。
何ともザックリした嘘ではあるが、
そこは4歳児なので、何とか上手く丸め込んでいる。
だが、フトした時や、新たな人物を見付けた時に、
(例えば、目覚めたと聞きつけて飛んで来た、ミックや伊集院夫妻)
片っ端から、訊ねている。
「お兄ちゃんは何処にいるの?お父さんのお友達なの?」
そして、誰も明快な答えをくれる人間が居ないと悟って、
急に不安になったのか、
「お兄ちゃんとおうちにかえる~~、かおりのおうちにかえるの~~」
と言って、大泣きした。
今香は、俺の腕の中で、時折小さくしゃくりあげながら、
泣き疲れてクッタリしている。
こうしていると、まるで本当に子供のようだ。
身長は、175㎝なんだけど。


香が昏睡から覚めて、もうすぐ丸1日経とうとしている。
泣き疲れて、数時間眠った香が起きた時には、すっかりご機嫌も回復していた。
何故だか香は、すっかり俺に懐いている。
しかし、香におじちゃん呼ばわりされるのは、耐え難いので、
「りょう」と、呼べと教え込み、香も無邪気に俺の事を、「りょお」と呼んでいる。
「なんかホント、香さんていうより、かおりちゃんって感じよね。見た目は、香さんそのままなのに不思議ねぇ。」
と美樹ちゃんがポツリと呟いた。
今回は、記憶喪失というか、幼児がえりというか、
何とも、奇っ怪な症状の為、皆一様に深刻になると言うよりも、
むしろ、興味津々である。

そして、僚にとっては困った事に、中身4歳児の香は、異常なほど可愛いのだ。
手に負えない。
今現在も、恨めし気にジットリ見詰める僚の視線の先には、
何やら、教授と楽しげに会話する香の姿がある。

「かおりのおうちは、お父さんとお兄ちゃんとかおりの3人だけなの。だから、おじいちゃんはいないの。」
「そうかね。淋しいかい?」
「ううん。さびしくないよ。かおりは、お兄ちゃんがいちばん好きなの。うちには、おじいちゃんいないけど、ミナちゃんちは、おじいちゃんとおばあちゃんがいるの。」
「ミナちゃんは、お友達かい?」
「うん。いつもいっしょに公園であそんでるの。おじいちゃんは、誰のおじいちゃんなの?」
ココで香の言うおじいちゃんとは、言うまでも無く、教授の事である。
「誰のおじいちゃんか・・・、そうじゃなぁ、僚のおじいちゃんみたいなもんじゃ。」
“みたいなもの”というのが、どういう意味なのか解らずに、
香は不思議そうに首を傾げている。

俺が、そんな老人と4歳児の遣り取りを、ボンヤリと眺めていると、
海ちゃんが、口を開いた。
「まぁ、何だその。そんなに落ち込むなよ。おじちゃんって言われたのは、お前だけじゃねぇ。俺も言われた。結構傷付くな、実際。」
どうやら、慰めてくれているらしい。
知ってる。
海ちゃんの場合は、おじちゃん呼ばわりに加えて、
「どうして、髪の毛が無いの?」
と、訊かれていた。
4歳児の香に、空気を読む能力はまだ無い。
そしてまた、ミックもおじちゃん呼ばわりされた1人である。
ケッ、ザマーミロ。
ミックの場合、常日頃が脳天気なので、たまに落ち込むぐらいで丁度良い。
アイツ、香におじちゃんって連呼されて、少し涙目だったもんな。
しかし香のヤツ、俺らにはしっかり『おじちゃん』って言いながら、
美樹ちゃんと冴子には、『お姉ちゃん』って言いやがった。
美樹ちゃんはともかく、
俺らがおじちゃんなら、冴子だって、『おばちゃん』だろうがよ。
そんな事を思い出しつつ、海ちゃんに毒づく。半分八つ当たりだ。
「うるせぇ。お前は、見た通りおじちゃんだろうが。俺の場合は、二十歳のモッコリお兄さんにも関わらず、おじちゃんって言われたんだ!!! お前より、3割増しで傷付くわっっ。」


「りょお?もっこりってなぁに?」
さっきまで、教授と話していたはずの香が、
俺のすぐ傍にやって来て、そんな事を訊いてきた。
おぉ、やべぇ。今のコイツの前では、うっかり冗談も言えねぇ。
こんなに無垢な瞳をキッラキラさせて、
『もっこりって、なぁに』って訊かれても、答えられるかっつぅ~の!!
教育上良くねぇ。
でも、果たして今更教育が必要なのか?実際の香は、26歳なワケで・・・
はぁ・・・いつか元に戻るのかねぇ。
まだ1日しか経っていないのに、26歳の香に逢いたい。
4歳児の香は、確かに非常に可愛いが、
俺はやっぱり26歳の大人の香が好きだ。
香は目の前にいるのに。
あぁ、いつもみたいにキスしたい。
いかんいかん、考えれば考える程、不埒な事しか頭に浮かばん。
4歳児の脳なら、上手く丸め込めば、簡単に手出し出来んじゃねぇか?とか。

・・・やばい。俺、野獣になっちゃうかも。

#3.暇を持て余した、科学者たちの遊び

「香、外で遊ぶか?」
「うん!」
僚がそう問うと、香は元気いっぱいに返事をして、
それまで1人大人しく、お絵描きをしていたノートや色鉛筆をお片付けした。
父親と槇村のしつけが良かったのだろう。4歳の香は、お利口さんである。
お片付けを終えた香は、両手を挙げて、
「りょお、抱っこして?」
と、無邪気に僚にお願いしてきた。

香が4歳児になってから5日。
未だ原因不明の為、経過を見る必要があるとして、教授の家で生活している。
1度香は、教授に抱っこしてくれと、せがんだらしい。
しかし、サイズを考えろ香よ、と僚は思う。
如何せん、中身は4歳児でも、彼女は身長175㎝の、長身美女なのだ。
さすがの教授も、抱っこは僚か海おじちゃんにお願いしなさい。と言ったそうだ。
それ以来、僚は度々、
「抱っこして。」
と言われるが、僚の脳は僚の意思とは関係なく、
『抱っこ』
と聞いて、100%イヤラシイ事を連想してしまう。
まさかこんな形で、己の煩悩と戦う日が来ようとは、僚は夢にも思わなかった。
ハッキリ言って、苦行である。
しかし僚にしてみれば、香に自分以外のメンツに
「抱っこして。」
などと言わせるワケにはいかない。
危険すぎる。
中身は4歳でも、香本体は妙齢のもっこり美女である。
迂闊な事は、させられない。
特に、ミックなどもっての外である。
しかしここは、教授宅。あのエロ外人も、頻繁に出入りするのである。



今香のお風呂や、着替えの世話は、かずえちゃんがやってくれている。
4歳の香は、まだ1人でシャンプーが出来ないらしい。
実際の香は26歳なので、恐らく能力的にはシャンプーぐらい出来るだろうが、
思い込みとは恐ろしいもので、香曰く、
「髪の毛は、いつもお兄ちゃんが洗ってくれるので、自分では洗えない。」
らしい。
何故だか俺は、今ここに居ない槇村にイラッとした。
アイツ、高校生の時に、妹と風呂に入ってやがったのかと。
・・・でもまぁ、妹つっても、4歳だしまぁそうなるのか。
そんなワケで、かずえちゃんも必然的に、いつもよりココにいる時間が長くなり、
それに便乗して、あのバカ天使もやって来るのである。4歳児の香目当てに。
アイツぁ、ロリコンだな、間違いねぇ。
だが、やたらと香に媚びて、何のかのとスキンシップを図ろうとするミックに、
当の香は、ホトホト嫌気がさしているようで、
26歳の香なら、絶対に言わないであろう、罵声をミックに浴びせている。
『ミックきらい!!』
『さわっちゃ、ヤダ』
『りょおの方が、すき』
あぁ、空気を読む能力なんて、無駄な能力だな。
子供の香は、正直で素晴らしい。
ミックはドMだから、それでも
「カオリは、かわいいなぁ」
と言って、香の頭を撫でて目を細めている。
オイ、ミック。かずえちゃんが、尋常では無い殺気を放ってるぞ。
その辺で、いい加減止めとけ。

教授、かずえちゃん、ミック、俺、香の5人で晩メシを喰っている時に、
突然、教授が言い出した。
「のぉ、僚よ。そろそろ香クンと2人で、アパートに戻ってみてはどうかね?」
「良いんすか?」
「まぁ、ケガも大した事無いしのぉ。もう、ほぼ治ったようなもんじゃ。あとは、記憶の方じゃが、もしかするとアパートに帰れば、住み慣れた環境じゃ、何か思い出すヒントが隠れておるかもしれん。」
「でも、コイツ1人じゃ風呂も入れないんすよ?」
「ふぉふぉふぉ、お前さんが面倒見てやれば良かろう?お前さんは、料理もひと通りできるしのぉ。今までは、生活の一切合切、全部香クンに任せきりで、お前さんが子供みたいなモンだったからのぉ。たまには、香クンに尽くして、楽させておあげ。」
そんな教授の言葉に、開いた口が塞がらない俺だったが、
更に止めを刺したのは、香である。
「かおり、りょおと一緒におふろに入るっっ!!!」
ブッ―――
味噌汁を噴出したのは、ミックである。
「あら、良いんじゃない?冴羽さん。かおりちゃんが、そう言ってるんだもの。気にする事無いんじゃない?教授もそう思われるでしょ?」
「そうじゃのぉ。香クンがこう言っておるんだから、問題ないじゃろ?」
そう言って、ニッコリと微笑みあう科学者2名。
コイツら絶対、俺と香で遊んでやがる。
「し、しかしっっ、それじゃあ俺の理性が保てませんっっ!!! 俺、この通りのモッコリスケベですよ?!」
・・・おおっと、俺は何で拳を握り締めて、本音を晒しているんだ??
・・・や、やばい。何か嫌な汗が出てきた・・・
しかし、教授はどこ吹く風、ケロッとした表情で答える。
「まぁ、どうにかなったらなった時じゃ。香クンは中身は4歳でも、立派な年頃のモッコリ美女じゃ。そもそも、お前さん達がどう考えておるか知らんが、はたから見れば立派な夫婦みたいなもんじゃ。今更、お前さんが香クンとどう過ごそうが、別にロリコンなどとは、思わんから安心しなさい。のぉ?かずえクン。」
「そうですわね。香さんは、立派な成人女性ですもの。淫行には、該当しないんじゃないかしら?」

・・・はぁ~~~=З この狸どもめっっ。
そんな事言いながら、目は笑ってねぇじゃねぇか。
要するに、今の香に手を出そうなんて、
とんでもねぇ、野獣ロリコン野郎だって言ってるようなモンじゃねぇかよ。
そんな俺の気も知らず、香は旨そうにモグモグとメシを喰っている。
「かずえお姉ちゃん、これすご~くオイシイ♪」
そう言って、カボチャの煮付けを喰う香に、
「あら、かおりちゃん良かったわ。どうも、ありがとう。まだ、沢山あるからいっぱい食べてね♪」
と、微笑むかずえ。
俺は一体、今何処にいて何をやっているんだ?
これ、夢じゃねぇよなぁ?
意識が遥か彼方、宇宙の方まで飛んで行きそうな状態だ。
一方、隣のミックを見遣ると、
コッチも先程味噌汁を噴いて以来、ずっとフリーズしたままらしい。
しかし誰も、そんなミックに構う事も無く、淡々とメシを喰っている。

はぁ、俺、アパートに香連れて帰って、平常心保てるかなぁ。
でも、さっきの、
「おふろ入るっっ!!!」
ってセリフ。
是非とも、おとな香に言って頂きたい(ニンマリ)
いやっっ!!!! いつの日か香が元に戻った暁には、
ずぇったいにっつ!言わせてみせるッッッ!!!!


野望に燃える僚であったが、その日がやって来る保証は、今の所無い。

#4.おうちに帰ろう♪

「ねぇねぇ、りょおのおうちは遠いの?」

翌日の昼メシまで、教授の家で喰ってから、俺達はアパートに戻る事にした。
一応帰った後も、3日に1度は診察を受けに来ることになった。
それ以外は、特に何もなく、とにかく普段通りの生活を送ってみなさいとの事。
まぁ、さすがに“依頼”を受ける訳には、いかんだろうけど(苦笑)

クーパーの助手席から、窓の外を眺めながら、香が楽しそうにそう言った。
んー。『りょおのうち』っつ~か、おまぁの家でもあるんだけど・・・。
「んにゃ、そんなに遠くないぞ。車なら、あっという間だ。」
「そっかぁ~。かおりのおうちには、くるまはないんだよ。だから、りょおのくーぱー、すっごくたのしい♪」
えーと、その席、ほぼお前専用なんすケド。
「そうか?んなら、ちょびっと遠回りして帰るか?」
「わぁ!ホントぉ?」
「あぁ、ドライブして帰ろう。」
「やったぁぁ♪」
俺は思わずにやけてしまう。何だよ、超カワイイじゃねぇか。

「それに、買いモンもして帰んねぇと、晩メシの材料なんもねぇからなぁ。」
「ごはんは、りょおがつくってくれるの?」
「まぁな。おまぁ、作れねぇだろ?」
「うんっ!!!」
香は大きく頷く。兄にいつも褒められる、良いお返事だ。
「かおりのおうちはね、お兄ちゃんがごはんつくってくれるんだよ♪お母さんは、かおりがあかちゃんの時にしんじゃったの。だから、お兄ちゃんがつくるの。」
「香は、兄ちゃんが好きか?」
「だぁいすきっ!!!せかいで1番すきっっ。」
ハイ、即答ですか。
「な、なら何だ。そのまぁ、兄ちゃんと俺とどっちが好きだ?」
ええと。俺は一体、何を訊いてるんだ?
ひょっとして、すげぇバカみたいじゃねぇか?
「お兄ちゃん。」(自信満々で)
ハイ、撃沈。
訊くんじゃ無かった。
「でも、りょおもやさしいから、すき。お兄ちゃんと、お父さんの次に、すき♪」
・・・な、何だよ、チクショウ。カワイイじゃねぇか。
ヤベッ、ますます顔がにやけてしまう。

「お兄ちゃんと、お父さんはいつかえってくるの?」
今までの笑顔と打って変わって、香は心配げに訊いてくる。
ギクッッ、や、やばい。
槇村の事、迂闊に話題にしたら、こう切り返されるワケね。覚えとこう。
「あ、あぁ、おまぁの兄ちゃんと、父ちゃんは今とおぉっても大事なご用があるからな。ちょっと、すぐには帰って来れねんだけど、それが済んだら1番におまぁの事迎えに来るからな。」
チラッと香の顔色を窺いつつ誤魔化すが、
香は眉を顰めたまま、何事か考え込んでいる。
「りょおのおうちに行っちゃったら、お兄ちゃんたちお迎えに来られないかもしれないよ?かおりのこと、わすれちゃったらどうしよぉ?」
香は目に涙を一杯溜めて、今にも泣きそうな顔でそう言った。
俺は思わず、いつもみたいに香の猫毛をクシャクシャと撫でて宥める。
「ばぁか。おまぁの事、忘れるワケがねぇだろ?俺の家も、2人ともちゃあんと知ってから、大丈夫だ。心配するな。」
「ほんとう?」
「ああ。俺は、おまぁにだけは絶対嘘は言わねぇから。約束する。」
「うん。わかった!!!」
香はニッコリ笑って、良いお返事をした。
まるで、そうする事で兄が早く迎えに来てくれるとでも思っているかのように。
・・・ばぁか。槇村がおまぁの事、忘れるワケねえだろ?
多分、アイツの心残りは、100%お前の事だけだよ。




少し遠回りをして、ついでに郊外の大型スーパーに寄った。
いつもの近所のスーパーに行って、顔見知りに会ったらまずいからな。
今の香に、普段の調子で声なんか掛けられた日にゃあ、
確実に、面倒臭ぇ事になるのは、目に見えている。
暫く、買いモンは俺達のテリトリー外で済ました方が良いな。
まぁ、暫く買いに出ずに済むように、今日は買い溜めしとくか。
そんな事を考えながら、カートを押して売り場を回る。
香は俺のジャケットの裾をしっかり握って、後ろから付いて来ている。

普段なら、俺がカートにポンポン放り込むと、
やれ、しっかり値段を確認しろだの、
やれ、賞味期限の長いヤツを選べだの、
これは高いから、こっちにしろだのと、イチイチダメ出しが飛んで来るのだが、
今日の香は、何にも言わない。
それどころか、さっきは野菜売り場で、カリフラワーを見て、
「りょお、これはなぁに?」
と訊いてきた。
いつもは、香の小言のいちいちも、面倒臭えと思っていたけれど、
いざ、何も言わねぇとなると、やっぱ少し淋しいもんだな。
まぁ、カリフラワー知らねぇ香ってのも、楽しいっちゃ楽しいケド。

「おまぁは、何か欲しいモンはねぇか?お菓子はいらねぇのか?好きなモン買ってやるぞ?」
ついつい、甘やかしたくなるな。
「ううん。いらない。」
「イイのか?」
「うん。」
まぁ、今はこう言ってるけど、家帰ってグズッたりしても困るから、
適当に見繕って買っとくか。
まっ、香(この場合は大人の方)が良く食べてるやつとか、好きそうなやつなら、
同じ香なんだから、喜ぶだろう。
ガキと動物は、食いモンで釣るに限るからな。

ひと通り、食材を選んでカートに入れてから、日用品のコーナーを覗く。
何か買っとくモンは無かったか、と暫し考えていたら、
文房具が置かれているコーナーで、香が立ち止まった。
そして、折り紙を手に取ると、俺を上目遣いで見上げて、
「これ。」と言った。
「欲しいのか?」
俺がそう問うと、コクンと頷いた。
「んじゃあ、こん中に入れとけよ。」
と言ってカートを指差すと、香は満面の笑みで、

りょお、ありがとう

と言った。
カワイイじゃねぇかっっ。
俺は断じて、ロリコンではないけれどっっ、
やっぱり、香は香だ。何歳でも、きっとカワイイに決まっている。
子供の時でも、しわしわのばあちゃんになっても。


家に帰り着いて、買って来たものを整理して片付けていると、
袋の中から、折り紙が5パックも出てきた。
アイツ、いつの間にこんなにカートに入れたんだ?
こんなに大量に、一体何に使うつもりか。
いつもの香なら、無駄遣いだと眉を顰めるレベルだ。

4歳児の考える事は、読めねぇ。理解不能だ。

#5.お風呂問題

日も暮れて、晩メシも済ませて、
俺と香、リビングで2人寛いでいる。
香は、俺の作った料理を、
「すごく、おいしい。」と、褒めてくれた。
だが、その後に続いた言葉は、
「お兄ちゃんのごはんの方が、おいしいけど。」だった。
そうだった。コイツには、空気を読む能力が欠けているんだった。
地味に凹むな、やっぱり。

食後にコーヒーを淹れて、香にはココアを淹れてやった。
しかし香は、ココアには目もくれず、
俺に背を向けて床にペッタリと座り込んでいる。
何やら、俺が聞いた事も無いような、不思議な歌をずっと口遊んでいる。
『北風小僧』がどうのとか、『カンタロー』がどうのとか。
今まで香が、そんな歌を歌っている姿を見た事が無いので、
少し、不思議な気持ちになる。
そして恐らくは、さっきの大量の折り紙で、何やら夢中になって遊んでいる。
そうやって大人しく、1人で遊んでいてくれるのは、正直俺も助かる。
どうも随分と、機嫌もイイみたいだし。

それにそんな事よりも、もっと重大な懸案事項が俺にはあるのだ。
例のお風呂問題である。
多分、当の香は昨晩己が、

かおり、りょおと一緒におふろに入るっっ!!!

と言った事など、ケロリと忘れている。
いっその事、このまま無かった事にして、1人で入るよう説得するか?
ん~、でももしそれで、溺れたりしても困るしなぁ。
まぁ、体は大人の香なんだから、溺れる事は無いか?
この際、1人で入れるようになる為の、練習だって言って誤魔化すか?
・・・・それが、ベストだろうなぁ・・・
俺が1人で考え込んでいると、
いつの間にか香が傍に寄って来て、俺の顔を覗き込んできた。

「りょお?」
「おぉ、どうした?」
「かおりね、なんかねむくなってきたから、もうそろそろおふろに入ろう?」
キタッ――――
しかも、忘れてねぇじゃんっっっ!!!!
どうするよ?俺。
まだまだカオリンとは、チューしかしてないのにっっ。
服の上から、コッソリおっぱい触るだけなのにっっ。
イキナリ、いきなり居機茄璃!!!(何か妙な漢字で変換しちゃってるし)
お、お風呂ですか。モチロン、全裸ですよね?神様。
・・・俺、多分無理だと思う。
それで、香に何もしないなんて、絶ぇっ対っっ無理な話だ。
多分、色んなとこ。
触っちゃたり、揉んじゃったり、舐めちゃったり、
してしまいそうだっっ!!!  いや、きっとする。

「どおしたの?りょお?おふろ入らないの?」
ダメだダメだダメだダメだダメだ
こんな丸っきり俺の事信じ切ったコイツに、不埒なマネ出来るワケがねぇ。
俺は、お兄ちゃんだ。この際、お父さんでもイイ。
とにかくっっ、保護者に徹するのだっっ!!!

コイツは女じゃねぇ、ただのガキだ。
コイツは女じゃねぇ、ただのガキだ。
コイツは女じゃねぇ、ただのガキだ。

『香を女として見ませんフィルター』を、久々に装着する時がやって来た。
はぁ~~~=З 苦行だ。拷問だ。再びこの気分を味わう日が訪れるとは・・・
なんか、腹決めるしかなさそうだな、タハハ。



風呂に湯を溜めながら、俺の着替えと香の分の着替えも準備する。
その間も香は、楽しそうに歌を歌っている。
やっぱり、俺の知らない歌だ。
槇村なら、知ってるんだろうな、きっと。
そう思うと、複雑な気持ちになった。その感情に名前など無い。
それは嫉妬とも、違う。
俺にとって、初めて湧き上がる気持ち。
気が付いたら、香の事を背中からきつく抱き締めていた。
この瞬間だけは、香が何歳だろうと関係ない。
香が香である事に変わりは無く、愛しくて堪らなかった。
「りょお?どうしたの?」
香は歌うのを止めて、首を傾げている。
「あぁ、そろそろ風呂の湯、良いかもな。入ろうか?」
「はぁ~~い♪」
緩めた俺の腕から、香はスルリと抜け出すと、風呂場へと走って行った。




今俺は香と2人、脱衣所で服を脱いでいる。
これがいつもの香なら、万々歳で言う事なしなのだが、
如何せん相手は、純真無垢および、天真爛漫の4歳児である。
ココで、欲情するワケにはいくまい。(浴場なんだけど、なんつって)
俺は極力香を視界に入れないようにして、そそくさと服を脱ぐ。
「ねぇ、りょお?ぬいだおようふくは、ココでいいの?」
と、洗濯かごを指差す香。
「あ、あぁ。そこに入れといてくれ。」
「はぁい。」
今、チラッと見たけど、香下着しかつけてねぇ。
う゛ぅ゛っっ、触りてぇ。
俺が己の煩悩と死闘を繰り広げている最中、
香はと言えば、何やらフンフン言って半泣きになっている。
「ん?どうした?」
「これが、ぬげないの。」
ブブブブ、ブラジャァですか。
「あぁ、ちょっと向こうむいてみろ?」
と俺が言うと、香は素直に従って、背中を向ける。
プチンとホックを外して、肩紐を落としてやる。
「ねぇ、りょお。これはいつも着ないとダメなの?かずえお姉ちゃんが、これ着ないとダメだっていったけど、かおり、いつもはこんなの着てないんだよ?1人じゃ着れないの。」
そう言いながら、香が俺の方へとクルリと向き直る。
思わず、目が泳いでしまう。
桃のような、柔らかそうなおっぱいが目の前にある。
当ったりめぇだっっ。1日中ノーブラでウロウロさせられっかっての。
「あぁ、着ないとダメだ。おまぁ、パンツはちゃんと穿くだろ?」
「うん。」
香が満面の笑みで頷く。
「それと同じだ。これもちゃんと着ないとダメだ。」
「そうなの?」
「そうだ。そういうモンなの。ホレ、入るぞ。」
「うわぁ~~い♪おふろ~~☆」
香は、楽しそうに浴室のガラスの扉を開けた。

俺と香は、もう長い事一緒に暮らしている。
今まで一緒に風呂に入る事など無かったが、まぁ突発的な事故みたいなモンで、
お互い、チラッと裸を見てしまう事位は、何度かあったが、
今香の裸を目の当たりにして、改めて綺麗だなと思う。
真っ白で滑らかな肌。
シミ1つ、傷1つ無いその身体。
引き締まって、無駄な肉など付いていない健康的なスタイル。
長い脚。
誰も触れた事の無い、真っ白な身体。
無垢な身体。
俺は自分でも驚くほど、さっきまでの煩悩の波が引いていた。
普段、グラビアを眺めて芸術作品などと、ほざいている俺だけど、
まさにそれは、この事だと思う。芸術的なまでに、綺麗だった。
この綺麗なモノを、一時の劣情で汚してしまうのは勿体無いと思った。
もしも、抱くとすれば、それはお互いの気持ちが重なった時だ。
俺1人のイヤラシイ感情だけで、そうなる事はきっと有り得ない。
一瞬のうちに、自然とそう思えた。

「香、体は自分で洗えるか?」
「うんっ、だいじょおぶっっ。」
「じゃあ、髪の毛だけ洗ってやるな。ホレ、そのイスに座ってアッチ向いてみろ。」
「はぁい。」
香はそう言うと、俺に背中を向けてイスに座る。
「湯かけるから、目ぇつぶってろよ~?」
「はぁい。」
香のクセ毛を、泡を立てて洗ってやる。
それだけで、何故だかとても幸せな気持ちになった。涙が出そうな程。
不思議なことに、そこにイヤラシイ感情など、欠片も湧いてこなかった。
それから、お互いに背中を洗いっこし、湯船に浸かった。
さすがに俺達2人が同時に入ると、
少し広めのウチのバスタブでも少し窮屈だったので、
香が俺に背中を向けて、俺の脚の間に座っている。
香はまたしても、俺の知らない歌を上機嫌で歌っている。
そんな香の体を、後ろからそっと抱き締める。
いつか、香の記憶はちゃんと戻るんだろうか?
また、俺は26歳の香と暮らせる日が来るんだろうか?
すごく会いたかった。あの香に会って抱き締めたい。
そう思いながら、香のつむじにそっとキスを落とすと、
「香、そろそろ上がろうか?」
そう言って、香の身体を抱き上げた。