新宿のジャジャ馬

夕暮れ時、オレンジ色の光が辺りを照らす、一日の内のほんの数十分。
新宿の薄暗いガード下の靴磨きと、その客になど 誰一人注意を払う事などない。

それはいっそ、薄汚れたコンクリートの壁に描かれた、落書きにも溶け込みそうな風景。
時間帯のせいか、場所柄か、人の流れは絶え間無く溢れ返ってはいるものの、澱み無い。
都会に生きる者の習性か、エチケットなのか、はたまた防衛本能か。通りを行く人間の目は、何も見てはいない。それぞれが、己に必要な情報だけを、ピックアップして目的地を目指す。

しかし、靴を手際よく手入れしていく年老いた靴磨きと、小さな椅子に窮屈そうに腰掛けた大柄な男にとって、むしろそれは、好都合である。
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[ 2012/04/14 23:05 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

ピース!!!

僚がまだ少年兵だった頃、オヤジは丸い缶に入った煙草を吸っていた。
僚はいつも、バニラの様な芳香のその紫煙の先を、見つめているオヤジが、何処か僚の知らない遠い景色を見ている様な気がしていた。オヤジの吸う、その煙草がほかの誰とも違っていた事は、僚にとって、幼少期の強烈な記憶である。

当時はその煙草が、遠い日本という島国の『平和』を願って名付けられた、煙草だなどという事は知らなかった。
ある時、僚はオヤジに聞いた事があった。その煙草は、何という銘柄なのかと。
オヤジは、小さく一言『peace』と答えた。
僚が、『piece?』と聞き返したら、オヤジは小さくヒッソリと笑いながら、
『違うよ、僚。欠片という意味では無くて、平和という意味さ。』と、教えてくれた。
しかし少年の僚には、その言葉の意味が、良く解らなかった。
『平和』という概念は、僚のそれまでの人生には、ひと欠片も存在しなかったから。
そんな僚にオヤジは、何も言わずただそっと微笑んだだけだった。
しかしその時の彼の目は、兵士としての鋭いモノでは無く、確かに息子を見つめる父親の瞳であった。

[ 2012/04/15 18:49 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

①その情報に意味はあるのか

冴羽僚は不機嫌であった。理由は単純明快。
本日夕方より、依頼人の29才・独身男性が、この冴羽アパートにガードを受ける為、泊まり込む事になっているからである。
僚とは対照的に、麗しのパートナー槇村香嬢は、すこぶる上機嫌である。
こちらの理由も単純明快。この依頼を受けた事で、ライフラインを繋ぎ止める事が出来たからである。
僚にとって重要な事は、依頼人が男か、女か。自分と香の生活に、余計な横槍が入るか入らないか、それのみである。
香にとって重要な事は、依頼人がいかに切迫した状況にあるのかという事と、この依頼を受ける事で冴羽家の家計が、どの位潤うのかという事のみである。
香にしてみれば、依頼人が男だろうが女だろうが、そんな事はどうでも良いのだ。まず第一は、依頼人の身の安全である。…まぁ、それが女性の場合、別の意味の危険がもう1つ増えたりもするワケだけど、この件に関する防衛策は、香の日々の努力の賜物で、今の所依頼人の貞操はしっかりと守られている。
兎にも角にも、今回の依頼人である。昨日、僚と香は、喫茶キャッツ・アイに於いて、彼と面談を済ませており僚の判断によって、改めて本日彼の仕事が終わった後で新宿駅で待ち合わせ、アパートへと呼び寄せる段取りとなったのである。
午後3時。
彼の仕事が終わるまでには、まだ暫く時間がある。僚はソファに寝転び、香の淹れたコーヒーを飲みつつ、これまた香の纏めた依頼人に関するメモに目を通す。

______依頼人、山口昇吾。29才、独身・恋人なし。製薬会社、研究室勤務。薬の精製や取扱いに関しては、エキスパート。依頼内容、ボディガード。この数週間、身の回りに不穏な事が立て続けに起こり、遂に3日前俺達に依頼するべく伝言板へとメッセージを残すに至る。
初めの違和感は、仕事帰りに後を付けられている感覚だった。しかし、気のせいだろうと思い直し、放って置いた。だが程なくして、留守中の自宅に何者かが侵入した形跡に気付いた。
しかし、あからさまに荒らされている訳でも無く、何かを盗まれた訳でも無い。本人にしか解らない、小さな違和感を感じた。そして、目的の解らない見えない悪意に、言いようの無い恐怖を感じた。それでも、実質的な被害は何も無く、警察に届けようにも、己のその恐怖を伝える術も無いまま暫く我慢をしていた。
しかしそのうち、敵さんの行動はエスカレートしてゆく。
毎晩仕事から帰って、自宅のドアを開けた途端に鳴り響く、無言電話。
帰宅時間は、きっちり同じという訳では無いのに、決まってドアを開けた瞬間に電話のベルが鳴る。まるで監視されているかの様なそのタイミングに、彼の精神状態も次第に追い詰められつつあった。そして、東口の伝言板に辿り着く大きなキッカケとなったのが、先日の事。いつもの様に、仕事を終えて家に帰り着く直前、無言電話の事を考えただけで、気持ちは暗く沈み家に向かう足取りも自然と重たいものになっていた。トボトボと俯きがちに歩いていたら、背後からイキナリ腕を掴まれ、見知らぬワンボックスカーに引きずり込まれそうになったのだ。幸い後もう少しで拉致される所で、前方から歩行者が現れ事無きを得た。この時の状況から、犯人は2~3人程のグループである事が予想される______

個人的な怨恨か、仕事絡みか、はたまたそのどれでも無いか…当の依頼人自身には、全く身に覚えが無いと言う。その恐怖の日々は、ある時突然始まったのである。しかし、原因の無い事に結果は無い。必ず、山口自身に何か狙われる原因がある筈だ...香のメモを読みながら、僚は取り留めも無くそんな事を考えていた。するとフト、そのメモの一番最後に書かれた、一文に目がいく。

好きな食べ物…中華料理、カレーライス、ハンバーグ。
嫌いな食べ物…カリフラワー、椎茸。

うぅ~~~ん??これって必要かぁ?
僚は思わず、ソファを背凭れにして床にペタリと座りコーヒーを飲みながら求人情報誌を眺めている相棒を見遣る。
~~~ってぉオイ!!!何バイト探してんだよっっっ。依頼入ってんだから、別に困ってねえだろ?ったく。
「なぁ、香ィ?」
「ん~?何ぃ~~?」
呑気な彼女は、視線は情報誌に落としたままで返事をする。俺は、勿論気に入らねぇから、彼女の手からスッと情報誌を取り上げる。
「何するの?読んでたのに~」
そう言って、プゥッと頬を膨らませる香に思わずドキッとする。
可愛いじゃねぇか、コンチクショウ。
「なぁ~に、バイトなんか探してんだよ?今日から依頼受けてんのにっっ。別に困ってねぇだろ?」
僚は思わず、拗ねた様な物言いになってしまった。
「世の中の動向を窺ってんのよっっ!!!ホラ、今って時給の相場は幾らぐらいなんだろうとか?ちょっと気になるじゃない?それに、求人以外にも結構面白い記事とか載ってるし…。」
勿論、それはフリーペーパーである。スーパーの入り口に、毎週置いてあるのだ。
「…それにぃ、たとえ依頼が入ってたとしても、それが解決しちゃったら、また次はいつ依頼が入るか分からないでしょ?僚ってば、ビラ配りには非協力的だし、美人じゃないとヤル気出してくんないしぃ?そりゃあ、どぉ~しても家計が苦しくなったら、バイトでも何でもやらなきゃしょうがないんじゃない?」
僚にとって、何やら雲行きの怪しい展開になってきた。
「まぁだ依頼に着手してもねえのに、もう解決した時の事まで考えてんのかよ!?考え過ぎだっつ~~の!あんま先の事ばっか考えて心配してっと、小皺とか、シミとか、白髪が出来ちゃうよ~~~?香チャン?」
そう言って、ニャニャ笑う僚の顔面に、容赦なく繰り出した香の拳がヒットする。
「誰のせいよ?誰の。」

俺の相棒は世界で一番可愛いくせに、なかなか凶暴な手癖の持ち主である。そこいらの男にゃ、到底乗りこなせないジャジャ馬だ。そして、そんな彼女の暴力を甘んじて受け止める俺は、もしかしたら、ドМなのかもしれない。決して認めたくは無いケド…。
「…痛って~~なっっ!!! それよりさぁ、このメモのこの部分。この情報って要るのかぁ?」
僚は、件の『好きな食べ物・嫌いな食べ物』の部分を指さす。
香は促されるままに、そこに目を遣ると、クスクス笑った。
「あぁ、それね。確かに僚の担当部門には、必要ない情報かもしれないけど、私の担当部門には必要なのよ?ってゆうか、毎回聞いてるんだょ?僚知らなかったの?ここにいる限り、ご飯も一緒に食べるんだし、アレルギーの事とかもあるじゃない?聞いとかないと。…それに同じ作るんだったら、嫌いなものより好きなもの作ってあげたいでしょ?ただでさえ、怖い思いして気持ちが塞いでんだもん。ウチに居る間だけでもリラックスして、私達と一緒に食べるご飯がおいしいって思って貰った方が良いじゃん。」
と言ってニッコリ笑う香に、僚は思わずキスをしてしまう。条件反射である。
香は真っ赤になって固まっている。そろそろ、慣れろよ。と僚は思うけど、香は全くもって慣れるという事は無い。2人は未だ、キス止まりの微妙な関係ではあるが、初めの頃の様に、恥らいながらグーで殴られるなんて事は無くなってきたので、まぁ少しは前進しているのだろう。
暫く真っ赤になって、ボンヤリしていた香であったが、
「で、でもさぁ、今回の山口さんの好物って、全部僚とかぶってるよ?良かったぁ。いくら依頼人の好物だからって、僚が食べたくないものは作りたくないもんね。」
そう言って、上目遣いで僚を見上げる。

やべぇっっ、何なんだよ。この可愛い生き物はっっ!!!
もう一遍、チュ―してやろうかぁ????
はぁぁ~~、俺としてはココに依頼人が(しかも野郎が)泊まり込むなんて、正直嫌なんだけどさぁ…こうやって相棒とイチャイチャしてる方が、はっきり言って楽しいワケで。別に、生活出来なきゃ、俺が一人で働きゃいいワケで。でもそれを言っちまうと、それこそ鬼の形相の相棒に、筆舌に尽くし難い暴力をお見舞いされるのは必須で。そうなると、イチャイチャなんて雰囲気には、絶対持ち込めないワケで。結局のところ、タイミングを見計らって、こうして適度に依頼を受けざるを得ないワケだ。よし、決めた。もう一回、チュ―します。

そう思ったと同時に、僚はもう一度香の唇にそっと触れた。
香は、虚を突かれた不意打ちのようなキスに、指先まで真っ赤になっている。
「なななな何で、急にそんな事するの!?…まだ、あ、明るいのに…山口さん来たら、お仕事完了するまで、当分キスは無しだからっっ!!!」
そう言って、香は小走りで自分の部屋に籠ってしまった。

あっちゃ~~~。俺ますます不機嫌になりそ。男の依頼なんか、ヤル気なんざ出るワケねぇし。せめて香ちゃんに元気貰わないと、僚ちゃんやってらんなぁぁぁ~~~いっっ!!!

②駅までお迎え

「…ねぇ、ねぇってば僚、起きて?」
そう言って体を揺すられる感覚で、冴羽僚は一気に眠りの底から浮上した。
「んぁぁ~~~、おはよ。」
そう言って、大欠伸する僚に、香は呆れたように、
「…何、呑気な事言ってんの?今、夕方だよ?」と呟く。

いやいや、知ってるから。俺は内心苦笑する。チラッと時計に目を遣ると、もうじき17:00に差し掛かる所だ。あれから2時間近く、転寝してたらしい。昨夜もミックと飲みに出掛けていた。まぁ、あれは殆どミックの絡み酒で、俺としてはとっとと切り上げて家に帰りたかったんだけど、やっぱり家に帰り着いたのは、0:00を少し回った所だった。
それにしてもまぁ、立派な午前様なんだけど、感覚の麻痺した愛しのパートナーは、朝帰りじゃ無けりゃOKみたいな節があり、昨夜も帰るなり、
「あれ?僚早いじゃん?どうしたの?どっか、調子でも悪いの?」なんて、
見当違いの心配までされた。ここ最近の、俺の帰宅時間の早さは、歌舞伎町界隈でもちょっとした噂になる程だ。なんのこたぁ無い。ケバイお姉ちゃん達と、キャッキャと盛り上がるのもまぁ嫌いじゃないんだけど、てゆ~~か大好きなんだけど。そんな、ど~~~でも良い事で、香のご機嫌を損ねるのも少し勿体無いからな。

そんな事を考えながらボケッとしている僚に、香は小さく1つ溜息を吐くと、
「さっきね、山口さんから電話があったの。今から会社を出るから、17:30頃には、新宿に来られそうだからって。」そう、報告する。
台所からは、美味しそうな匂いが漂ってきている。

今日の晩飯は、カレーか。香のメモによれば、ヤツの2番目の好物だったな。まぁ、俺にとっては1番目なんだけど…(ニンマリ)。
「ねぇ、何寝ぼけてんの?そろそろ、駅まで迎えに行く準備しなきゃ!!!シャキッとしてよ、シャキッと!!!」
腰に手を当ててキッと目を吊り上げる、彼女の気の強そうな所も、何を隠そう俺の大好物なのだ。
「だぁいじょおぶだよぉ!!俺を誰だと思ってんの、香チャン?遊び人でモッコリ世界№1の僚ちゃんだぜぇ?」
と言いつつ、香の腕をグッと引き寄せ、その白桃の様な頬に軽くキスをする。マジで柔らけぇ。すると香は、一瞬のうちに真っ赤になって、間髪入れずにビンタなんぞ喰らわしやがった。
「何やってんのよっっ!!!ふざけてんじゃないのよ!!!ホラッ、さっさと顔洗ってきなさいよ!!!」
そう強気に言い放つものの、これ以上無いという程に全身真っ赤である。
この場合、恥らいプラス俺のオフザケに対する怒りの相乗効果だな。
まぁぁ~~~~ったく、可愛い。香チャンってば。俺はぶたれた頬に手をやって、
「香チャンってば、シドイ…」
と涙目で言い残し、顔を洗うべく洗面所へと向かう。
勿論、これ以上彼女のご機嫌を損ねない為である。

新宿の街中を縫うようにスイスイと進む、一台の赤いミニ・クーパー。僚の愛車である。そこらへんのどんくさいドライバーとは、ワケが違うのだ。新宿は彼等にとって、庭みたいなものである。いくら夕方のラッシュアワーだとしても、そんな事は僚にはそれほど問題では無いらしい。器用に渋滞の合間を縫って、駅までの道のりを進んでゆく。普段なら駅までなど、歩いてスグなのだが、今日は依頼人を迎えに来ているのだ。彼は、これから数日の身の回りの物を詰めた、荷物を持っている。それを抱えて駅からの道を歩けというのも、まぁ酷な話なので、仕方が無いので車でお出迎えという訳だ。彼等と違って、アチラさんは堅気の勤め人なので、スーツなどという不便なコスチュームも必要なのだ。そこそこ、荷物もかさばるらしい。
朝のうちに会社の最寄駅のコインロッカーに預けておいて、会社帰りにそれを抱えて新宿までやって来るらしい。余程、自宅には帰りたくないとみえる。
そもそも、昨日のうちにアパートに連れて来なかったのは、僚の作戦なのだ。
彼は拉致されそうになる以前から、数週間に亘り不法侵入や無言電話という嫌がらせを受けている。それも、まるで監視されている様なタイミングである。恐らく、監視されているのだろう。生活環境を変える事を、ホシに悟られるのは、得策では無い。まだ今の段階では、犯人がどの線か掴んではいないのだ。会社絡みのトラブルの可能性も考え、金曜日の今日までは普段通り、彼の自宅から出勤させる。土・日の休みの間に、これからの策を練るという訳だ。

会社の方を探るとなれば、俺も潜入かねぇ…。ああぁぁぁ、まじ憂鬱。
これまでも何度か、普通のリーマンに混じって潜入調査なる仕事をやったが、あれ程嫌な仕事もねぇ。朝っぱらから、ギュウギュウ詰の電車に押し込められて。片っ苦しいスーツなんぞ着込んで。何が嫌って、あのネクタイ。何が楽しくて、日がな一日首輪着けてPCの前で地味~~~な事やってなきゃならんのか。想像しただけで萎える。今回は研究室という事で、普通のオフィスとは勝手が違うだろうが、そもそもそう簡単に潜り込めるか否かも問題だしな。
信号に引っ掛かって、待っている間にチラッと相棒の横顔を盗み見る。
カーラジオから流れる音楽に合わせて、フンフン鼻歌なんぞ歌っている。最近人気の女性シンガーの、最新ヒットナンバーだと。俺にしてみりゃ、全く興味もない。そりゃ、ちったぁ流行りモンくらい分かってねぇと、キャバクラでモテねぇしぃ?そのシンガーが、清純そうなイメージで売ってる割にゃ、その実かなりなジャンキーだっていう、相棒には聞かせられねぇ裏情報なんてのも実はあったりする。しかし、そんな事はハッキリ言ってどぉ~でも良い。
たとえば香と、どうしようもなく年齢差を感じてしまうのは、決まってこういう瞬間だ。普段の俺は、万年ハタチだなどと、嘯いてはいるモンのまぁ、実際にはそこそこオッサンなワケで。
って言っても、どの程度オッサンなのかは、定かでは無いんだけれど。
多分推定10才位は、年齢差があるんではないかと思われる。やはり、こんな無防備な香を見ていると、やっぱ、コイツ若者だったんだなぁなんて、しみじみ思うのだ。普段、主婦並みに所帯染みてっからつい忘れがちだけど。ま、どっちにしろ可愛いヤツ。なんて、思いながら信号が青に変わったので、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。どうやら、さっき起き抜けの俺に強烈なビンタを喰らわしたことなど、すっかり忘れているらしい。良い事だ。17:38現在、我が相棒はご機嫌さんである。

③カレーライスの夜

冴羽僚には、普通の人間のような世俗的な執着心などはあまり無い。
全然無いとは、言わない。対象(主に相棒)によっては、人並み以上である。
例えば服や持ち物など自分を飾りたてるようなモノ。あるいは、金、名声。どれも、手に入れようと思えば、僚にとっては容易いことだ。しかし、全く興味が無い。もしも、この世に相棒がいなければ、その生にすら執着などない、そう言っても過言ではない。僚自身は、そんな風でアッサリとしたもんだが、実際僚のスタイル・ルックスは申し分無く整っており、仕事柄様々なワードローブも必要で取り揃えてはいるモノの、その実僚自身が一番好きなスタイルは、生まれたままの姿、全裸である。しかし、気ままな独り暮らしならいざ知らず。彼のアパートには、最愛にして最強のパートナーがいる。いくら、僚が最も好きなスタイルだったとしても、日がな一日全裸で過ごそうもんなら、即刻鉄拳制裁が待ち受けている。そういう訳で、仕方が無いから適当に身なりも整えるし、彼女に従う。肌着やトランクスに至るまで、彼女が揃えたモノを何の疑問も無く身に着ける。
また、仕事に必要な装備も(主に銃火器類)必要と言えば必要だが、ただの道具なのだ。いざとなれば、僚にはパイソン1丁あれば、不足は無い。現にこれまで、アメリカから渡って来た時も、自分の身一つと相棒はパイソンだけだった。そうして、突き詰めて考えると、冴羽僚という男にとって、本当に必要なものはパートナーの槇村香と、コルトパイソン357だけである。

そんな欲のない男が(否、これにはいささか語弊がある。欲は欲でも、性欲・食欲だけは馬並み以上である。)、珍しく小躍りして飛びつくモノがある。
愛しの相棒特製のカレーライス。地球が滅びる最後の晩餐に何を食べたいかと聞かれたら、僚は迷い無く即答できる。
『香のカレー』
僚は、今現在いつもの食卓で黙々とその大好物を喰らっている。
通算4杯目である。
常ならば、満面の笑みを浮かべ至福のひと時なのだが、如何せん彼の不機嫌は本日の最高潮、ピークに達している。

……面白くねぇ。全くもって気に入らねぇ。
そりゃ、この依頼受けた時から、解りきっていた事だし、依頼人とも昨日のうちに面談して、頭の先から足の先までくまなく観察させて貰った。この男の事情も、重々承知している。その結果、こうしてウチに泊まり込んで貰ってガードするのがベストだと、他でもない俺自身がそう判断を下したのは間違いない。それでも、こうも香と意気投合されちゃ、ムカつかねぇ方が可笑しいだろ?
俺の不機嫌に比例して、カレーのお替りのスピードも速くなるっての。
生憎、香はカレーを作る時、業務用並みの寸胴を使うから、まだまだ無くなるという事は無い。5杯目のお替りを、皿を差し出す事で無言のうちに要求する。
香はそんな俺に、心底嬉しそうに微笑んで、
「どうしたの僚?今日はいつにも増して食欲旺盛じゃない。ンフフ♪そんなに美味しかった?まだまだイッパイあるから、どんどん食べてね♪」
と言って、5杯目のカレーを俺の前に置いた。勿論、特盛りである。
香とカレーライスには何の罪も無い。俺の勝手なひがみ根性だ。
でも、俺に向けた笑顔をそのままに、
「山口さんも、まだまだ沢山食べて下さいね。」
などと言われた日にゃあ、俺の腹というか、胸というか鳩尾の辺りに、こうワケの解らないドロドロとした真っ黒い感情の塊が、渦を巻いて居座っている。
今すぐにでも、香の事を押し倒して、あの真っ白い喉元に齧り付いてやりたいという衝動に駆られそうになる。しかし、そんな事をしようもんなら、今までの香との長い年月を経て培ってきた絆は、それこそ一巻の終わりである。俺としては、そんな意味不明な衝動を抑え込む為にも、カレーを喰らう事に全神経を集中させるしか、手立てが無いのだ。しかし、この今回の依頼人、山口昇吾は中々の男前である。背もまぁ、俺よりは低いが香よりも高い。184~5㎝といった所か。香と並んでも釣り合わなくも無い。
だけど、俺と香が並んだ方が、絶対にバランスは良い筈だっっ!!!(握拳)
だが俺は、背が高い上に、いささか筋肉が付き過ぎてるから、無駄に威圧感があるけど、(まぁ、海ちゃん程じゃ無いけど…)ヤツは、筋肉なんかあるのか?って疑いたくなる程、ヒョロッとしている。背は高いが、線は細いので、ソフトなイメージである。きっと、第一印象なんかで随分得をするタイプの筈だ。俺とは、真逆で。香とも先程から、会話が随分弾んでいる。どうやらこの男、独身の上に恋人も居ないらしく、もっぱら自宅での食事は自炊だそうだ。料理が趣味らしい。そういう訳で、同じく料理好きの香と妙にウマが合うようだ。
フンッッだっっ!!!俺だってなぁ、飯ぐらい作れんだょ。作らないだけだっつ~~~のっっ!!!と、心の中で呟いてみるだけで、香とヤツの会話には、一切参加はしない。表面上は、全く興味無いですよ、というスタンスを守る自分が、正直情けねぇ。しかし唯一の救いは、この男からは今の所、不穏な気配は一切感じ無い事である。それは、昨日キャッツで初めて対面した時にも感じた事だが、この男、妙に中性的なのだ。まぁ、俺には負けるが、まぁまぁイイ男だし、仕事も出来るようだ。それなのに、恋人は無し。大抵どんな男でも、無意識のうちに悩殺している香だが、今回に関しては、それも心配無さそうである。一瞬、ゲイか???などと、最強に萎える疑問も頭を過ったが、恐らくそれは無い。これは、公にはあまり知られていない、俺の高感度ゲイセンサーの、分析によるモノだ。俺には、高性能のモッコリセンサーが搭載されていると同時に、ゲイセンサーもなかなかのモノだ。勿論、モッコリする為なんかじゃねぇ。むしろ、真逆で危険を回避する為のモノだ。いうなれば、最強のホコとタテだ。とすると、これが世に言う『草食系』ってやつか??僚にしてみれば、にわかには信じ難い事ではあるが、確かにそういうヤツも、昨今珍しくは無いらしい。そう考えると、2人で楽しげに盛り上がっている事への、ムカツキは勿論あるが、意外と危険な感じはしない事に納得もいく。
しかしまた、それが俺を更にイライラさせる。これじゃまるで、俺一人で、すっげぇ嫉妬してるみたいじゃんか。ていうか、実際そうなんだけど…。
でもまぁ、油断は禁物だな。一見そうやって草食の振りして、安心させといて、突然豹変して牙を剥くなんて事も無きにしもあらず。

第一、俺は昨今のこのマスコミがでっち上げた様な、『草食系』なんて体のイイ言葉、ハナッから信用してねぇしぃ~~~?
男なんてのぁ、みんな肉食獣なんだよ。


④肉食獣の衝動

なんか、僚の様子がすごく変だ。
山口さんを迎えに行った時は、別に普通だった。いつもなら男性の依頼人ってだけで、機嫌悪くなるのがド定番なので、まぁ今回もある程度は覚悟してたんだけど…。昨日、キャッツで依頼内容を確認した時にも、思いのほかアッサリと依頼を受けた。まぁ、上機嫌というワケでも無かったけど…。にしても、明らかに挙動がおかしかったのは、先程の食事の時か。

ここまで考えた所で、香は僅かに鍋に残ったカレーを冷凍するべく、フリーザーバッグへと移す。これはきっと近い将来、僚が夜遊びで居ない夜の手抜きの夕飯として、香の胃袋に収まるであろう。香は、今日1人分(しかも男性)多い食卓の為に、いつもよりも随分多めにカレーを作った。しかし、その分いつも以上に僚が沢山食べたので、結局の所は±ゼロであまり残らなかった。大盛りのカレーを、8杯も食べたのだあの男は。一体、どういう胃袋してんだ?と思う香ではあるが、それでもやはり自分の作った料理を豪快に平らげる男を見ると、訝しむよりも、嬉しい気持ちが先に立つ。僚は、常日頃香の作るモノを褒めるなんてこと、皆無だ。初めのうちこそ、しっかり平らげといて、マズイだなんて言う僚に真剣に腹を立ててもいたけど、長い付き合いの中で漸く最近解ってきたのだ。僚の本音と判りにくいジョークが。まぁ、ほんの一部ではあるが。
僚が、残さず平らげるという事は、イコール不味くはないのだと解釈する事で、香も以前ほど腹も立たなくなった。基本的に、彼女は超ポジティブシンキングなのだ。まぁ、まさか当の僚自身が邪な衝動を抑え込む為に、なかばやけくそで、がっついていたなどとは、思いもしていないが。
香は、口いっぱいにカレーライスを頬張った僚を思い出して、台所で一人ニコニコしていた。

僚ってば、あんなに沢山食べて。山口さんも、ビックリしたよね、多分。
でも、カレーとかシチューとかは、今度からはなるべくまとめて沢山作っちゃおうかなぁ?残っても、保存してれば、便利だし。その方が、美味しく作れるのかも…。

「香さん?」
僚の事を考えながら、ニコニコと後片付けをしていた香は、突然山口に声を掛けられて、少し驚いた。
「…っっ!!!や山口さん。どうかしました?」
「あ、すいません。ビックリさせて。あの、先程お風呂お先にどうぞって仰ってたので、遠慮なく先に入らせてもらおうかと思って…。」
と、山口が恐縮したように言った。
「どうぞ、どうぞ。ご遠慮なく。私もまだもう少しやる事ありますし、僚はいつも寝る前にならないと入らないから。気に為さらないで?」
と言って、香が微笑むと、山口もつられて笑顔になった。香に礼を言うと、山口はバスルームへと姿を消した。

それにしてもと、香は思う。シンクの真上の作り付けの棚から、使い込んだコーヒーミルと(これは元々兄が使っていたモノで香の大のお気に入りだ)コーヒー豆の入った缶を取り出す。
香は、ゴリゴリと豆を挽きながら、またしても先程からの考え事に没頭してしまう。初めのうちは、香も大して気にも留めていなかった。僚が何も言わずモクモクと(ガツガツかな?)ご飯を食べるのは、いつもの事だし、食事中お喋りに夢中なのは、いつも香の方なのだ。それでも僚は、いつも『あぁ』とか『うん』とか『それで』とか、相槌を打っている。
僚はあぁ見えて、意外と香の言っている事をちゃんと聞いているのだ。
香が忘れてしまった様な些細な事を、きちんと覚えていて、後からその事を話題にされたりして、香自身が驚いてしまう事もたまにある。
でも今日は何だか様子が違った。何度も話し掛けたのに、何処か上の空で、無表情のまま物凄い勢いでカレーを食べていた。そんな僚の様子に、山口さんも唖然としながらも、まるでとりなす様に、
「さ、冴羽さん、カレーライス凄くお好きなんですねっ」
なんて言ってたけど、それすらも僚には聞こえて無いみたいだった。何かあったのだろうかと、香も気に掛かる。今回の依頼に関して、何か重大な問題でもあるのかもしれない。
香の心配は、いつでも少し的外れなのだ。


ちょっと、幾らなんでも食い過ぎたかな…。
寝る前にちょっくら、筋トレでもして腹ごなししとくか…なんて考えながら、ソファに寝そべって煙草を吹かしていると、食後のコーヒーを淹れて香がリビングにやって来た。
俺の分を、ローテーブルの上にコトリと置いて、自分もソファの俺の足元の方に座ると、自分の分のコーヒーに口を付ける。いつもなら、TVのスイッチを入れて、この時間はドラマかなんかやってる頃だろう。しかし、どうやら今日はTVを点ける様子は無い。
「ねぇ、僚どうしたの?さっきから何か変だよ?なんかあった?」
「・・・・・・」
心配げに尋ねる香に、俺は何と答えたもんか、考えあぐねていると、
「ん~~?ご飯は沢山食べてたから、具合が悪いワケではなさそうねぇ…」
と言いながら、俺の顔を覗き込み、俺のデコに小さくて華奢な掌をペッタリとくっ付けて来たりなんかして…。香は俺より体温が低いからか、それとも今まで洗いモンをしてたからか、ヒンヤリしたその掌が妙に心地良い。
「…アイツは?」
と問う俺に、香は俺のデコに掌をくっ付けたまま、首を傾げると、
「山口さん?今、お風呂入ってるよ。」と答える。
チャンス♪
俺は一瞬ニヤリと微笑む。首を傾げてキョトンとしている香の、デコに乗せられた右手の手首をグッと掴む。それは、本当に華奢で気を付けないと軽く折れてしまうんじゃないかと錯覚してしまう。左手で香の手首をしっかりと握り、右手は香の腰をしっかりと捕える。そのまま、寝そべっていた体勢から上体を起こし、香とソファに横向きに座って向かい合う形になった。

一瞬の出来事に全くついて行けない香は、気が付くとしっかり僚の腕の中に捕えられていた。その状況に気付いたのも束の間、次の瞬間にはまるで咬みつく様な勢いで僚の唇が己のそれに重なった。目を瞑るのも、忘れるほどだった。

俺の素早い動きに、香が呆然としている隙に、サッサと腕の中に囲い込む。
今日何度か触れたその唇に、今度は触れるだけじゃない、まるで喰らい付く様なキスをする。なんせ、俺様は肉食獣だからな、ガルガル。
しばらくリビングには静寂が訪れる。
そしてその静寂の合間に、俺の荒い息遣いと香のくぐもった鼻を抜ける甘い吐息が微かに漏れる。あまりにも激しいキスに、呼吸も侭ならない香は、時折、俺のTシャツの胸元をグッと握り締める。
大丈夫だ、死にゃしねぇから。人間は口から息出来なきゃ、鼻から息するもんだ。未だかつて、キスが激しすぎて死んだ奴なんか、いねぇから多分。だから、安心しろ香。

どの位そうしていたのか、長い永いキスを終え、香の唇から離れる。
しかし離れた瞬間また欲しくなって、もう一度軽くその唇に触れる。
もうその時には、香は既にフニャフニャになっていて、力なくクッタリと俺の胸に凭れて、荒い息を吐いている。大きな茶色の瞳は涙で潤み、焦点も合わずボンヤリしている。
唇は離れても、その温かな柔らかな体を放すのは勿体無くて、腰を抱く腕にグッと力を込めて、俺のTシャツの胸に頬をペッタリとくっ付けたまま凭れ掛かる、香の背中を優しく撫でる。
呼吸の整わないままの香は、
「…っな!!…なん‥で、急に…いつ‥も!!!‥意味わかん…ないっっ」と、
切れ切れにそう呟く。俺はニンマリと厭らしい笑いを浮かべ、香の耳元で囁く。
「つっ~~か、大概で解れよ。俺はお前を何時だって欲しいんだよ。急にじゃねぇの。常になの。」
そう言って、香の首筋に唇を落とす。その瞬間、香の体がピクンと跳ねる。
再び真っ赤に染まる首筋に、それ以上紅い鬱血の痕を残す。
これまで何度も、香とキスしたけれど、痕を残したのはこれが、初。
また一つ前進だな。と、妙な満足感が俺の心を満たす。
それと同時に、俺みたいなケダモノに惚れられちまった香に心底同情する。
って言っても、今更離してやるつもりなんか毛頭無いケド。
ウン。俺には草食系の要素は、ひと欠片も無いな。間違いねぇ。
柔らかな香を、腕に抱いたままテーブルの上のコーヒーに手を伸ばして一口啜る。はぁ~~~、いつも通り、旨い。
まぁ、口に出して言った事なんか一度も無いケド。
きっと香は、昼間俺に言った事は忘れているに違いない。

『お仕事完了するまで、当分キスは無しだから!!!』

ヨシ。俺も聞かなかった事にしておこう。
こうして、冴羽家の夜は更けていくのであった。








⑤オアズケ宣言

一夜明けて、翌日の土曜日。
俺はいつもより早い時間に、いつも通りの凶暴な手段で叩き起こされた。
依頼人山口は、もうとっくに起床して朝飯にありついているらしい。
つい最近冴羽商事では、ほぼ物置と化して使われていなかった6畳間を、大掃除した。男の依頼人を泊める時の為だ。
今まで、男の依頼人が来る度に俺の部屋に押し付けようとする相棒に断固抗議したのだ。男二人一つの部屋でむさ苦しいのは我慢ならないと。だから、男の依頼は受けない。美人の依頼しか受けないと言ったら、しこたまハンマーでどつかれ、それならばと、客間PART2として、6畳間を一つ空けたのだ。
なんのこたぁ無い。これで冴羽商事恒例、部屋割り問題もアッサリ解決した。
お蔭で俺も、野郎と寝室を共にするなんて、気色の悪ィ事態は回避できて、ホッとしている。
但し、男に限りだが。相変わらずモッコリちゃんの依頼人の場合は、香と寝起きを共にし、厳しい香の監視により、俺がオフザケする隙は全く許されない。

いつまでも、布団に潜り込みウダウダする俺をヨソに、香はブラインドを勢い良く上げると、窓を開けて空気を入れ換える。
布団越しにも、朝日の眩しさが伝わる。
「まぶしぃ―よっっ」
そう言って、布団からしかめっ面を出した俺に、香がくるりと振り返る。
今日の香は、デニムのミニスカートに、薄いグレイのふわふわしたモヘアのニットを着ている。スラリと長いアンヨちゃんが、実に美味しそうである。勿論、生脚だ。窓から差し込む朝日を背にして、まるで香自身が光を放っている様な錯覚を覚える。俺はもう一度、「…まぶしぃってば。」と言う。
もうこの場合、朝日が眩しいのか、香が眩しいのか自分でも良く解んないけど。
香は、クスリと笑うと、
「当ったり前じゃん?朝だもん!!!」
と言って、俺の掛布団を勢い良く引っ剥がす。
当の俺はトランクス1丁で、しかもご丁寧に朝モッコまで、キッチリ完了している。
しかし、そこは長年の付き合いである。パンツ履いてるだけ、まだマシだという事か?いつもの事過ぎて、今更何のツッコミも無いらしい。
警戒心は皆無である。
「早く着替えて、朝ご飯食べちゃって?洗いモノ片付かないんだから。」
と、ニコニコして部屋を出ようとする香の手首を掴んで、腕の中へと抱き込む。
「か・お・りチャン♪おはよ~のチュ―しよう!!!おはよ~のチュ―」
そう言って、顔を寄せた所までは良かったが、次の瞬間朝っぱらから強烈なビンタを喰らってしまった。
「だぁかぁらぁっ!!!チュ―はお仕事終わるまで、オアズケだって昨日も言ったでしょ!!!バカッ!!!」
香はそう言うと、僚の寝室から出て行ってしまった。
そ、そんなぁぁ~~~。カオリン覚えてたのねぇ、ションボリ(涙)

…でも、香よ。今の大絶叫。多分下にいる、山口某にも聞こえてんじゃね?
それって、意味あんのかよ?


勿論、この2人のやり取りは、階下で食事中の山口にもシッカリ聞こえていた。
しかし、そもそも山口は、キャッツで2人と初めて会った時から、2人が恋人同士である事位、察しがついたし、どうやら冴羽氏は極度のヤキモチ焼きであり、香嬢の方は、極度の照れ屋であるらしい事まで容易に想像がつく。
昨夜も、風呂上りにリビングの前を通過する時に、2人の熱烈なキスシーンをチラリと目撃してしまった。
勿論、僚の方はその気配に気づかないワケも無く、熱いキスを交わしながらも、涼しい目で山口の方へと何やら意味あり気に目配せなどして寄越したのだ。山口とて、そこはいい歳をした大人である。空気を読んで、香が気が付かないうちに、退散した。唯一、香だけがそんな状況を把握していないので、まさか、家の中に自分たち以外の他人が居るのに、キスするなんてと照れまくっているのだ。
山口は、香の作った味噌汁を啜りながら苦笑した。

(そんなに、気にする事無いのになぁ、香さん…)
2人はとても、似合いのカップルである。
なんだかんだ言っても、仲の良い2人が微笑ましいと山口は思う。


俺が新聞片手に、キッチンに下りてみると、山口が1人で旨そうに朝飯を食っていた。
おっ、今日の朝飯は和食か。てっきり、キッチンには香が居るもんだと思っていたのに、どうやらアイツはベランダで洗濯物を干しているらしい。相変わらず、働き者の彼女を思うと自然と口元に笑みが零れる。
仕方が無いから、テーブルの上に伏せられた自分の茶碗に、炊飯器から山盛りにメシをよそう。お椀には豆腐とワカメの味噌汁を注ぐ。そんな俺に、山口がニコニコして声を掛ける。
「おはようございます。冴羽さんと、香さん朝から仲良しですね。とても幸せそうで、羨ましいです。」
とか、言いやがるから、
「さっきの、聞いてたんだろ?オアズケ喰らってんのに、なぁにが幸せだっつ~の。それと、これ見てモノ言った方が良いよ。」
と言って、俺の頬っぺたにクッキリと残る、真っ赤な香の手形を見せてやった。
山口はプッと噴出すと、
「香さん、照れ屋さんなんですね。別に僕が居るからって遠慮なんか要らないのに。いつも通りラブラブなさってて構わないのに。」と言った。
「イヤ、…ラブラブって。ある意味、いつも通りっちゃいつも通りなんだよ。アイツぁ、ジャジャ馬でいけねぇ。」
俺は思わず、依頼人相手にボヤいてしまった。昨夜は昨夜で、コイツにリビングでの香とのディープキスを目撃されているのだ。幸い香は、朦朧としている最中で、全く気付いちゃなかったが、この男もボンヤリしてそうに見えて、意外に勘の良いヤツで気を利かせて、ソッとその場を離れてくれたのだ。まぁ、この分だと今回は仕事に集中出来そうだ。








⑥予想外の2人

僚と山口が朝食を食べ終え、香も一通りの家事を済ませると、リビングでコーヒーを飲みながら改めて、仕事の話に入った。

今回の一件、まず今分かっている山口に対するストーキング行為は、尾行。無言電話。不法侵入。拉致未遂。
無言電話の入るタイミング等から推測できることは、盗聴・盗撮。
危険度の高い接触を試みてまで拉致しようとした所を鑑みると、ホシは山口の命が欲しいワケでは無さそうだと、僚は考える。
殺るのが目的なら、とっとと済ませている筈だ。僚なら、そうする。
ターゲットに無駄な時間を与えるだけ、リスクは増す。

殺られるまでの恐怖の時間込でターゲットを追い込むのが目的ならば、話は別だ。もし、そういう目的があったとすればそれは余程の事だろう。
一般的に人はそれを復讐とか、拷問と呼ぶ。
今の時点で判断するには時期尚早ではあるが、この、普通のサラリーマンがそれほどの怨みを買っている様には見えない。まぁ、この世の中、絶対は無いのでその可能性も否定はしないが、きっと低いだろう。
そして、もし万一この事件の真相が怨恨によるものであった場合。最も危険だと僚は思う。そもそも、理由が何であれ誰かを怨んだり、呪ったりするような輩は、少なからずどこかイカレテいるのだ。
僚にとっては、怨まれる心当たりなど星の数ほどあるが、こと、その矛先が相棒に向かうなんて事になったら、堪ったもんじゃない。イカレタヤツに、真っ当な筋道など通用しない。何かのついでみたいに、お手軽に怨まれるなんて御免被りたい。いずれにしても、怨恨の線は願望も含め無しであって欲しい。

殺るのが目的で無く怨恨でも無かったと仮定して、山口を狙う理由とは何か。

やはり、公私ともに山口の周辺を徹底的に調べるのが第一である。
そうでないと、何も始まらないだろう。まして製薬会社の研究員なんて、いかにもキナ臭い事に巻き込まれそうな匂いがプンプンする。


「…で?おまぁの職場、俺が潜り込む余地はありそうか?」
そう聞いた僚に、山口は暫く考え込む。
「……そうですねぇ、2ヶ月ほど前にアシスタントの女性が、1人退職してから人手は足りないと言えば、足りないんですけど…。人事の事までは正直僕には良く解りません。何せ研究所なんて所は、企業にとってはトップシークレットですから。特に、製薬会社ともなるとガチガチの秘密主義だから…」
「じゃぁ、新卒以外でそこに入って来るヤツってのは、どういう経緯で入って来んだ?」
「例えば…、有名な学者さんの下で助手をやってて、紹介を受けるとか。殆どが、コネじゃないですかね。閉鎖的な上に、権威にはおもいっきり弱いんです。」
まぁ詳しい事なんか、僕は全然解らないんですけど…と言って、山口は恐縮した。

僚は、暫く何事か思案して、口を開いた。
「じゃあさ、まぁ強力なコネがあるとするじゃん?とりあえず、偉い学者センセーと。んで、そこに入り込んだとして、何日かかるか解らんが、まぁ、仕事が完了したとして…一身上の都合で辞めますぅ~~なんてアリだろうか?」
僚の意図が全く掴めない山口は、怪訝な表情で首を傾げると、
「あの~、アリかナシかは解らないですけど、…一身上の都合で辞めるって人を無理に引き留める事は無いんじゃないでしょうか?……そんな事よりもまず、その作戦じゃ一番のネックは、強力なコネですよね?」
至極真っ当な疑問である。
不思議そうにしている山口を見て、僚と香はニンマリと顔を見合わせた。
言葉を交わさずとも、2人の意見は一致した。
(いるじゃん。ちょうど良いのが、2人も…)



新宿から30分程、クーパーを走らせてやって来たのは、とある高級住宅街。
その中でも、ひと際大きな一軒の屋敷。
一見ただの豪邸にしか見えないが、その実、冴羽アパート以上のセキュリティを有した、要塞並みの物件だ。
ガレージ横のインターフォンに、僚が運転席の中から手を伸ばす。
「俺です。」
僚がそれだけ言うと、返事も無いまま頑丈なシャッターがガラガラと上がる。
山口には知る由もないが、勿論シャッターには防弾加工が施してある。
シャッターが上がったところで、僚がガレージの中へと車を進める。
クーパーがガレージに入ったと同時に、後方で自動的にシャッターが下りる。
どうやら、この屋敷の何処かから、遠隔操作しているらしい。
ガレージは広々としていて、数台の高級車が停まっている。恐らく、合計すると数千万に上るだろう。香に促されるまま、山口は車を降りた。
ガレージから、邸内へと続く扉には指紋認証によるロックが掛かっている。
僚がそのタッチパネルに指を置くと、小さくカチッという音がして、ロックが解除された。
慣れた足取りで、先を進む2人に続いて、山口も屋敷の中に入った。
これ程の、最新鋭の設備を備えたガレージの先はさぞかし近代的な屋敷かと思っていた山口は、見事に意表を突かれた。香に続いて扉の向こうに出てみると、何とそこは広大な日本庭園だった。
それは、素人目にも手入れの行き届いた完璧な庭だと判る。
そして、突き当りにはこれまた立派な日本家屋がある。奥の方までは、広過ぎて良く解らないが、どうやら離れなんかもあって、一目見て相当な敷地面積だと判る。2人に、詳しい事は向こうで説明するからと言われ、ここまで連れて来られたが、一体ここは何処なのか。自分は何の為にこんな所へ連れて来られたのか、山口には皆目見当も付かない。ただ解る事は、この屋敷の持ち主は途轍もない金持ちなんだろうという事だけだ。
一体、今回の自分のストーカー被害と、謎の大豪邸に何の関係があると言うのだろう。それにしても、計り知れないのが、この自分の前を歩く2人である。この厳重なセキュリティをまるで、自分の家にでも上がるかのように難なくパスしていく。
山口は、思わず溜息を漏らしてしまった。すると香がまるで、悪戯っ子の様な笑みを浮かべて言った。
「ビックリするでしょ?この広さ。ここが、都内だなんてちょっと信じられないよね?」
山口にしてみれば、驚くのは広さだけでは無いけれど、何をどう答えて良いモノか解らないので、曖昧に頷いて見せた。
「え、えぇ。ホントにビックリしました…。こんな豪邸僕には全く縁が無いもので…」
と小さな声で答えると、香が、
「そんなに、緊張しなくても大丈夫ですよ?2人ともとても良い人たちだから。」
ニッコリと微笑んでそう言った。

(2人とも?…良い人たち?)山口は、ますます良く解らないと思った。
だがしかし、山口が本当に驚くのはこれからである。

























⑦雲の上の2人と蒼い瞳の肉食獣

数分後、僕はもしかすると、これまでの人生で最も驚いたかもしれない。
目の前には、お目に掛かれるとは予想だにしていなかった、高名な科学者が2人も座っているのだ。自分の専門とする分野とは少し違うが、それでも学会や専門誌で度々取沙汰されるお2人の研究論文は、非常に興味深く仲間内でも、度々話題に上る事がある。
とてもじゃないが偉大過ぎて、幾ら僕が研究職に就いているとは言え、本来住む世界が全く違う雲の上のお人なのだ。なんか、冴羽さんも香さんもそこの所、あまり良く解って無いみたいで、お2人と僕を同じ様な括りで捉えているようだけど、絶対に間違っている。
「ホラ、さっき言ってた偉い学者センセーとの、コネってやつ?教授とかずえちゃん、どっちが良い?」
そんな事を、しれっとのたまう冴羽さんに、思わず目が点である。あまりの事にポカンとしていると、
「まぁ、俺としてはぁ、じい様とのコネよりも~、モッコリ美人のかずえちゃんと、いろぉ~~んなコネでお近付きになるってのが希望かな?」
と、冴羽さんが勝手にリクエストしている。勿論、すぐさま香さんからの暴力的なまでの厳しいツッコミが入る。



山口は、応接間に通されて、僚から教授とかずえを紹介された途端、緊張のあまりフリーズしたまま、まともな受け答えが出来ない様子だ。そんな彼に、僚は思わず苦笑して代わりにここに赴いた経緯を教授たちに説明した。もっとも、予め、出掛ける前に教授には電話でザックリと伝えてはいたのだが。
香も、山口の尋常では無い程の動揺ぶりに、リラックスさせようと声を掛けてみたが、そんな香の声も山口の耳には届いていないようだ。
仕方が無いので、山口抜きで話はズンズン進んでゆく。
僚の説明が一通り終わった所で、かずえが口を開いた。
「教授、ひまわり製薬の研究室の室長なら、私の大学の先輩です。以前に、ある仕事でご一緒した事もありますし、今でも年に数度は学会でお目に掛かる事もあります。もし宜しかったら、私の方から冴羽さんを、彼に紹介してみては如何でしょうか?」
「フォフォ、ちょうど良かったの。ワシは構わんよ。まぁ、薬屋のラボにちょこっとお邪魔するぐらい、どうにでもなるじゃろ。しかしなぁ、あの会社で何か変な動きがあるような情報は無かったがのぉ…、ちょっと、覗かせて貰う必要がありそうじゃ。」



「それじゃぁ、冴羽さんに少しお手伝いをお願いしようかしら?一応、私の助手をしてたって経歴で、先輩に紹介するから。ま、数十分でも助手は助手ってことで。」そう言って、ニッコリ笑った名取博士とともに、冴羽さんたちも応接間を出て行き、後には、未だ狐に摘まれたような僕と、途中から専門的な研究の話題になり話に参加する事を放棄した香さんが残された。
それにしても今更ながら冴羽さんと香さんって、一体どういう人達なんだろう?
今までに無い怖い目に遭って、藁をも掴む気持ちで、新宿駅東口伝言板にメッセージを残したのが3日前。
どんな困った事でも、解決してくれる凄腕の『その道のプロ』がいるという、風の噂。僕には、『その道』というのが何の事かは解らないし、多分探偵か何かだろうと思ったのだ。
半ば、都市伝説かもしれないとやけっぱちだったのに、すぐに連絡を貰った。
だけど、冴羽さん達と、あのお二方は一体どういう関係なのだろうか?
こういっては失礼だけど、2人ともとても学究肌には見えないし。
それを言うなら、探偵さんにも見え無いケド‥‥。2人とも、今までに見たこと無いレベルの、美男美女で敢えて言えば、モデルさんか、役者さんみたいなのに。
3人が何処か他の部屋へ行ってしまってから、漸く僕も緊張がほぐれた。
香さんには、何かしら人を落ち着かせてくれる所があるようで、僕も知らず知らずの内にリラックスしていた。こういうの、『癒し系』って言うんだろうか?確かに非常に魅力的な女性だな。他人の恋人を好きになるなんて事、僕には到底有り得ない事だけど、冴羽さんがあれ程までにヤキモチ全開で彼女を自分の腕の中に、囲い込んでいるのも、頷ける。きっと世間には、香さんに近付いてあわよくば手に入れようなんて思う、身の程知らずも存在するんだろう。
「はぁ~~、美味しい。たまには、緑茶も良いわねぇ♪ウチは、コーヒーばっかりだから。」
としみじみ呟く香さんに、僕もすっかり脱力して
「たしかに。このお茶、きっとすっごい高い葉っぱだよ。美味しいモン。」
と思わず、友達気分でタメ口になってしまった。でも、香さんはそんな事全く気にしていない様子で、
「だよねぇ?私、お茶っ葉の事なんか良く分かんないケド、多分私もそう思うわ。」と、ニッコリ笑った。
「ねぇ、香さん?」
「何です?山口さん。」
「冴羽さんと、香さんはあのお2人とどういうお知り合いなんですか?」
「お2人って、教授とかずえさんのこと?」
「ええ。」
そう尋ねた僕の質問に、香さんは少し考えて
「…ぅう~~ん、知り合いっていうより、友達かなぁ?僚がどう思ってるかまでは、ちょっと解んないけど、私にとっては2人とも、とっても大切なお友達です。」
と言って、笑った。そして逆に、
「でも、山口さんすっごい緊張されてましたけど、あの2人ってそんなに凄い人なの?」
と訊き返されてしまった。
「ええ、凄いなんてモンじゃないです。彼らの研究は日本だけで無く、海外でも高く評価されてますし、注目されてます。まさか、今日お2人に会えるなんて思いもしませんでした。」
僕の言葉に香さんは、ポカンとして
「へぇ、私科学とかそういうの、全っ然興味ないし、聞いてても眠くなっちゃうだけだから、よく解んないなぁ。」ハハハと、笑いながら頭を掻いた。
そんな仕草は彼女をひどく幼く見せる。そして、何処か爽やかな少年っぽさも漂わせている。
僕の脳裏には、フト昨夜の濃密なキスシーンが過った。
思わず、顔が熱くなるのを感じたけど、目の前の彼女には気付かれなかったようだ。
それにしても、不思議な女性だ。
色んな、魅力があってそのどれもが違和感なく彼女の中に混在している。
一瞬、冴羽さんが羨ましいなぁなんて思ってしまって、その考えを素早く脳内で撤回した。
何しろ、僕は色恋沙汰に関しては、大の苦手なのだ。
巷で言うところの、『草食系』と言うヤツで。まして、あんな猛獣の様な、冴羽さんが大切にしている女性にどうこうしようなんて、考えただけで恐ろし過ぎるし、面倒臭すぎる。


僚たち3人が教授の家を出たのは、それから2時間近く経ってからだった。
僚と教授とかずえが応接間を出ていたのは、正味30~40分程で、その間香と山口は色んな話をして、すっかり和んでいたので、その後、また応接間に全員が揃った頃には、山口もすっかりリラックスしていた。僚はその様子を見て、香に任せて正解だったと思った。香には、不思議と人を和ませる才能がある。
ちょうど昼時だった事もあって、教授とかずえの勧めもあり、全員で昼食を摂った。
山口は学者2人と何やら楽しげに、マニアックな研究話で盛り上がり、その間、勿論そんな話には一切興味も関心も無い、冴羽商事の2人は、小競り合いと言う名の愛の語らいを交わしていた。
教授とかずえが休憩を終え、研究室に戻るのを潮に3人もおいとましたのだ。



博士の豪邸を後にして、そのままアパートには帰らず、初日に2人と初めて会った喫茶店へ立ち寄った。
どうやら、この店の店主夫妻とのやり取りからして、2人は相当な常連客らしい。
一昨日とは違って、2人は自然な足取りでカウンター席へ腰掛けた。
僕は、一瞬だけ迷って冴羽さんの隣に腰掛けた。何となくその方が良いような気がしたからだ。
いわゆる、野生の勘と言うヤツだ。
『僕は、あなたの大切な香さんに、邪な興味は抱いておりませんよ。』
という、消極的アピールである。僕には、冴羽さんの獰猛な嫉妬の対象になる勇気は無い。



ミック・エンジェルがキャッツにやって来たのは、その時だった。
「ハァ~~イ、ミキ。今日も綺麗だね。」
そう言って、綺麗なウィンクを寄越すのは、彼のいつもの挨拶だ。そんな事を、日本人の男がやったら、滑稽なだけだが、彼は生まれながらのプレイボーイなので、そのいちいちが様になっている。
ミックは勿論、迷う事無く香の隣に腰掛けると
「やぁ、カオリ、君はいつ見てもキュートだ。」
そう言って、蒼い瞳で真っ直ぐに香を見詰めたまま、彼女の手を取りその甲へ口付けた。
次の瞬間、ミックの額にパイソンが突き付けられた。
僚がそれを懐から取り出す所は、素早過ぎて誰の目にも留まる事は無かった。
(……っっっ!!!っえええぇ~~~?じゅっ、銃ぅ~~!!??なな何で、冴羽さん、そんなモノ所持してんすか?…まじ?)山口は我が目を疑った。
しかしこの光景も、いつもの挨拶の一連の流れなので、山口以外の面々は平然としている。
「ミック、てめぇ。死にてぇのか?」
僚が垂れ流す、尋常では無い殺気は普通の人間なら、命乞いをするレベルである。
しかし、ミックはこの程度で怯む男では無い。僚の殺気になどいちいち怯えていては、初恋の君と楽しくコーヒーブレイクなどやっていられないのだ。
額の銃は見えなかった事にして、ニッコリと微笑む。
「ハロー、リョウ。男の嫉妬は見苦しいぞ。ただのアイサツさ。美しいレディに敬意を表したまでだ。」
飄々としたミックに、僚は心底イヤそうに顔を顰めると、フンっと鼻を鳴らし、辛うじてパイソンは懐へ収めた。
ミックは大げさにおどけて肩を竦めて見せ、香はいつもの事なので2人の事は、放置している。香に言わせれば、僚とミックは仲が良過ぎるのだそうだ。
美樹は、しょうがないわね2人とも、なんて言いながら苦笑している。
海坊主に至っては、まだミックからオーダーも受けていないのに、ミックの飲むキリマンジャロを淹れている。僚に関してはいくら常連と言えど、収益の見込めない客なので、金払いの良いミックからは、キッチリ商売させて貰うつもりなのだ。
「はぁ~~、やっぱ海坊主さんの淹れたコーヒーが一番おいしいわぁ。どうしても、自分で淹れるとこうはいかないのよねぇ~。」
香が、ニコニコしてそう言った。
そんな香を見て、山口は無意識に微笑んでしまう。つい先程は、教授の家で緑茶が美味しいと感激していたのだ。
美味しいモノを美味しいと、素直に感激する。香の心からの笑顔に好感が持てると思ったのだ。
フフフ。
山口は、小さく笑った瞬間、しまった!!!油断した。と、気付いた。
気付いた時には、時すでに遅し。じっとりとした、僚の視線を感じた。
「なぁ~に?思い出し笑いなんかしちゃって。なんか、ヤラシイなぁ山口君。」
口調は、あくまで冗談めかしてはいるものの、僚の目は決して笑ってはいない。口の端を僅かに歪め、グビッとコーヒーを啜る、悪魔の様な僚の表情は一介のサラリーマンにはどぎつ過ぎる。
山口が、滝の様な脂汗を流して俯いていると、ミックが呑気に言った。
「でも、僚も大変だね♪お仕事完了するまでは、チューはオアズケだもんね♪で?彼がその、クライアントかい?」
ミックの投下した爆弾に、山口にプレッシャーを懸けながら、キャッツ・オリジナルブレンドを飲んでいた僚は盛大に噴出した。片や、もう一人の当事者である香は、これ以上無い程に真っ赤になって、目を白黒させている。無理も無い。幾ら、香が自ら大声を出したとはいえ、朝の寝室でのプライベートなやり取りを、シレッと暴露されたのだ。
次の瞬間、香のハンマーがミックを仕留めていた。
山口はこの半日程の間、同じ様に香のハンマーによって、何度か潰されている僚を見て、それでもなお無事でいる彼に正直驚きを隠せなかったが、ここにもう一人いたのだ。無事な人が。
「Oh~、no~!!!ヒドイよぉ~、カオリ~。たまたま、今朝ベランダでコーヒーブレイクしてたら、キミんちの方から、聞こえてきただけじゃないかぁ。別に聞き耳を立ててた訳じゃないさぁ。」
必死に言い訳するミックに、香は殆ど涙目でキッと睨むと、
「だからって、ワザワザみんなの前でいう事じゃないでしょ?ミックの意地悪っっ、もうミックとは絶交だから!」
勿論、香が本当に絶交する事など有り得ないのだが、そう言われたミックは半泣きである。
それを見た、僚はケケケと笑っている。
このミックの爆弾投下により、うやむやの内に僚の無言のプレッシャーから逃れる事の出来た山口は、改めて考えていた。一体、彼等は何なんだろうと。その道のプロとは、探偵の事ではなかったのか?確かに、あの尋常では無い気配を身をもって体感した山口は、『凄腕』と言うのは本当の事に違いないと思った。
…ていうか、探偵なの?この人達?by.山口



⑧中華な夜

晩飯は、中華だった。
山口の好きな食べ物ランキング、堂々の1位だったな。
でもまぁ俺は、香の作る飯なら別に何でも好きだしぃ?
俺だって、中華は好きだっっ!!!
と、1人心の中で今回の依頼人、山口昇吾(29)と張り合ってみるが、その行為に果たして意味があるのかと問われれば、特に無い。

「香さんも、冴羽さんも結構辛口がお好みなんですね。」
と、麻婆豆腐を食いながら、山口が言った。
「お口に合いませんでした?」
香が心配そうにそう尋ねると、
「いえ、その逆です。実は、僕も結構辛いのが好きでなんです。昨日のカレーも、すっごく美味しかったです。それに、この麻婆豆腐、山椒がすごく効いてて、僕メチャクチャ好みです。」
山口はニッコリと微笑み、そう言った。
「へへへ、ありがとうございます。そうでしょ?やっぱり、山椒が効いてないと、物足りないですよね?私もそうなんです。…僚は…ぅん、僚は質より量だから。」
香が満面の笑みでそう答えた。
…って、オイ!!!人を味覚音痴の、大飯喰らいみたいに言うんじゃねぇ!
「おでだっで、あじぐだいばばぐぞ。なででんじゃねぇ!!!」
(俺だって、味ぐらい分かるぞ。舐めてんじゃねぇ!!!)
口一杯に、飯を頬張りながら反論するも、
「えっっ???僚、何言ってるか分かんないよ?ちゃんと、飲み込んでから言ってよ。」
と、冷たく香にそう返された。
クッソー!!!香のヤツめっっ!見てろ、今にこの口一杯の、ニラレバと白飯を飲下した暁には、キッチリ反論してやる!!!
俺は、お椀の中の玉子とわかめとセロリのスープを、グイッとあおると、口の中のモノを一気に流し込んだ。
ヨシ!!
「俺だって、味ぐらい分かるんだよっっ!!!舐めてんじゃねぇ!」
俺が捲し立てた瞬間、香も山口もキョトンとしている。
「…てか、僚。何の話ししてんの?」
香は、真剣に意味が解らないという表情で、俺を見ている。
止めてくれ。そんな顔で心配げに俺の事見てんじゃねぇ。心が折れる。
「…何でも無い。」
これ以上、今の俺に何が言えよう。
「だいじょうぶ?僚?」
…ハハハ。香チャン、それは『頭が』って事かな?
いいもん!!!いいもん!!! そうやって、俺の事仲間外れにすんなら、全ぇぇ~~~部!!喰ってやる!!!このテーブルの上の食いモン、俺1人で全部っ喰ってやるからなっっ。
だが、俺のそんな決意を知る由も無い2人は、相変わらずペチャクチャと話に花が咲いている。確か、さっきまで麻婆豆腐の話してたんじゃなかったか?いつの間に、洗濯モンの話になってんだよ!!!
畳み方なんて、どうでも良いっつ~~~の!
柔軟剤なんか、何でも好きなモン使いやがれっての!
ソフランだろうがハミングだろうがダウニーだろうが、知ったこっちゃねぇ!
部屋干しだろうがベランダだろうが屋上だろうが、何処でも勝手に干しやがれ!
2人とも、主婦でもねぇのに、主婦みてぇな話で盛り上がってんじゃねぇ。

「…僚?ねぇ、僚ってば?」
「あ~~ん?」
「どうしたの?何か変だよ?」
「あにが?」
「だって…ご飯沢山食べてくれるのは、嬉しいんだけど…さっきから凄い勢いで、丼に山盛りで3杯も食べてるの、気付いてる?まず、麻婆豆腐ぶっかけて1杯でしょ?チンジャオロースで2杯。ニラレバで3杯。で、それ4杯目よ?」
と香が指さしたその先は、俺の手元であり、今まさに丼山盛りの白飯の上に、トマトと玉子のオイスターソース炒めが、ぶっかけられている最中である。
「ホント、どうしたの僚?満腹中枢イカレちゃったんじゃない?」
なんだよっっっ!!!仲間外れの次は、病人扱いかよっっ!面白くねぇ。
「うるせぇ!俺は至って正常だっつぅの!!!」
そう言いながら、香の前に置かれた取り皿に目を遣れば、とっくの昔に俺が平らげた、エビチリがまだ残ってんじゃねぇか。
俺は迷いなく、プリプリのエビを箸に突き刺す。
「あ―、アタシのエビぃ~~~!!!」
香が、キッと目を吊り上げて俺を睨む。
「あんだよ。ペチャクチャくっちゃべって、サッサと喰わねぇ方が悪ィんだよ。ベェェ~~~っだっっ!!!」
「はぁ!? アンタが見境なくがっついて平らげるから、確保しといたのに!!! アタシがエビチリ大好きなの知ってるクセに!!」
「なんだよっ、俺だってエビチリは好きなんだよっっ。」
そう言って、香の頬っぺたを摘む。
…ぁ、超柔らけぇ♪
「はひよ!はんはは、ほうはふはんはへはへひょっっ」
(何よ!! アンタは、もう沢山食べたでしょっっ)
そう言いながら、香は俺の前髪をグイグイ引っ張る。
「おまぁ、何言ってか解んねぇぞ?髪引っ張んなよっ。ハゲたらど―してくれんだよ?」
「はんははんは、はへへひょ~どひひほよっっ」
(アンタなんか、ハゲて丁度良いのよっっ)
・・・・・・以下、エンドレス。


山口は、2人のイチャイチャの最中に、水を差すのも心苦しいとは思ったが声を掛けた。
「あ、あの~~。」
「あんだよ?」
僚が勢いよく、山口の方へ向き直った瞬間、僚の箸先のエビチリのチリソースが跳ね、山口の右頬にピチャッと飛んだ。
「なに?」
「お楽しみの最中申し訳無いんですけど、僕先に失礼します。今日のご飯もとっても美味しかったです。先に、お風呂入っちゃいます。」
そう言って、ペコリと頭を下げる山口に、僚はさも興味無さげに答える。
「おお、勝手にしろ。」
「はいへはふはは、おはひひほ~ほ」
(沸いてますから、お先にどうぞ)
一時、休戦して香も答える。

こうして、僚と香は他人には解らない2人だけの世界で、今夜も愛を語り合うのであった。



数十分後、山口が風呂から上がりリビングを覗くと、僚と香が並んでソファに座り、コーヒーを飲みながら、バラエティ番組を見てケタケタ笑っていた。
つい先ほど、エビチリを巡って、子供の様なケンカをしていた2人は、今ではすっかり寛いでいる。
「お風呂、お先に頂きました。」
山口がそう言って、声を掛けると、
「あっ、山口さんもコーヒーいかがです?」
と香がニッコリと尋ねる。
山口は、一瞬チラッと僚の方を窺った。
今の所、不機嫌な感じでは無さそうだが、きっと折角の香との団欒に割って入るような真似をしたら、また昼間の様に無言のプレッシャーを浴びせてくるかもしれないと、山口は考えた。
「あ、いえ。今日はもう休ませて頂きます。何だか、今日一日驚く事ばかりでしたけど、久し振りに怖いと思わずに過ごせました。自宅に一人で居る時は、怖くて堪らなかったんですけど、お2人には感謝しています。」
山口にとって、僚のヤキモチによる尋常では無い警戒は、別の意味で恐ろしいが、香に対して変な下心など無い彼には、別段取り立てて危険は無い。
それに今日は、本当に久し振りに、事件の事をそれ程感じる事無く過ごせたのだ。
「でもまぁ、まだ何も解決してねぇし。むしろ、明日からまだ何が起こるかわかんねぇから。一応、考えられる精一杯の事はやるつもりだから、安心しな。感謝すんのは、解決してからだろ?」
意外にも、そう言ってニヤリと笑った僚に、山口も
「そうですね。」
と言って、照れた様に笑った。
「じゃあ、お先に失礼します。」
「おやすみなさぁい」
リビングを後にする山口に、香がヒラヒラと手を振る。


凄く、変わった人達だけど、なんだかすっかり好きになってしまった気がする。
そう思いながら、山口は眠りに就いた。
それは、本当に久し振りの安眠だった。





⑨始動!!!

翌日の日曜日から、早速お仕事開始である。
チューがオアズケの僚にとっては、1日も早く解決して山口にアパートから出て行って貰いたいのが、本音である。
______しかし、本当に香にキスをしたい時には、香の『オアズケ宣言』など、無いに等しいのである。それが、冴羽僚という男であり、その点は、槇村香も身をもって重々心得ているのは、言うまでもない。______
普段殆ど、開店休業状態の冴羽商事なので、日曜日と言えど、休業日では無い。むしろ、1年の内の大半が毎日、日曜日みたいなモノである。

昨日、教授宅へ出向き、教授とかずえに今回の潜入捜査の為の協力は取付けたモノの、昨日の今日で週明けスグに潜入出来るかどうかは、アチラ側の都合もある事なので解らない。
取敢えずは、まず先に山口自身の身辺調査と、彼の自宅マンションの捜索である。主に怨恨の方の可能性を探る事にする。

まずは、山口の自宅マンションへ向かう事にした。しかし、3人揃って出向いては、もしも犯人に自宅周辺で張られていたら都合が悪いので、2人で出掛け、山口には教授の家で待機してもらう事にした。
あそこなら、セキュリティも万全だし、山口自身も一人で居ても気が紛れるだろうと、僚は考えたのだ。

山口を残し、僚と香は早速彼の自宅へと向かった。
すぐに、マンションには入らずに、ひとまず建物周辺を警戒しながら一回りする。今日は、クーパーでは無く、CR-Xの出番だ。裏の世界の潜りで無ければ、僚が赤いミニ・クーパーに乗っている事は、結構知られた事なので、今の時点で相手が見えないうちは、極力目立たないようにする。
今の所、マンションの周辺に怪しい気配は感じられない。
恐らく、室内に盗聴器の類が取り付けられているのは十中八九間違いない。
相手には、ギリギリまでこちら側の動きを悟らせたくは無いので、盗聴器の撤去には無音タイプの発見器を使用する。盗聴電波を捕えると、LEDが点滅して異常を知らせてくれるモノだ。
しかも、その辺に売ってるチャチなヤツじゃない。
教授お手製なので、性能の程は確かである。
幸い当該建物は、共用のエントランスが1か所で、居室前の廊下は全てマンションの内側へ配した作りの様であり、建物の外側からはどの部屋に入るのかまでは窺えないようになっている。
僚と香は、恐らくまだ犯人には面が割れていないので、例え何処からか見張られていたとしても、山口との繋がりまでは、悟られる事は無いだろう。
早速、山口の部屋へ入った2人は、盗聴器を全て撤去するまで、一切の物音を立てない様、慎重に事を運ぶ。しかし、そこは僚と香である。この程度の、作業は朝飯前なので、時折アイコンタクトを取りながら、粛々とこなしてゆく。
発見器のLEDが点滅する度に盗聴器を見つけ、1つずつ水を張ったボウルの中に沈め、そのチャチな機械を殺してゆく。
その作業を黙々と進め、数回繰り返したのち、漸く盗聴電波を捕える事は無くなった。盗聴器は、全部で5つ見つかった。
漸く、2人は詰めていた息を吐いた。しかし、この部屋での無駄口と長居は禁物だ。すぐに次の作業に取り掛かる。僚は、この部屋の全ての窓際へ行き、周辺の状況を窺う。何処からか、この部屋を監視できるようなポイントは無いか?犯人が都合よく潜むとすれば、どの辺りか?
瞬時に、そして的確に判断し、近隣の情報を短時間で記憶する。
香は収穫した、5つの大事な証拠品を、厳重にポリ袋へ入れると、2人は目で合図をして玄関へ向かった。
最後に玄関扉の外側上部に、扉の色に近い目立ちにくい紙テープを小さく貼っておく。盗聴器を撤去した事が、犯人に悟られるのも時間の問題である。次、いつまたこの部屋に侵入して来るか解らないので、念の為こうしておく。誰かが、このドアを開ければテープがちぎれる。
相手がプロならば、すぐに気付くチャチなトラップではあるが、もしも素人に毛が生えた程度の相手ならば、意外と安上がりで有効な目印にはなるのだ。
何より、相手のレベルを探る目安にもなる。もっとも、うまくアチラ側が食いついて来てくれればの話だが。あくまでも、まだこの段階では守りの手段でしかない。
今後、暫くはこの部屋への出入りには、照明の必要ない昼間、新たな盗聴器の有無の確認などのいくつかの段階を踏む事が必須となる。



僚と香が、山口の自宅に居たのは、正味1時間ほどだった。
そのまま教授宅へと戻り、収穫してきたブツを観察する。
山口の部屋にいる間、2人は薄いラテックス製の手袋をしていたので、盗聴器には勿論、山口の部屋の一切のモノに、2人の指紋は残していない。
「盗聴器には間違いねぇんだろうけど、あんま見掛けねぇタイプなんだよなぁ?…アキバなんかで、簡単に手に入る、良く出回ってるヤツと微妙に違う気がするんだけど?」
僚がそう言って、ポリ袋を目の前にかざし、しげしげと眺める。
「そうじゃなぁ、恐らくは最近外国で出回ってるタイプじゃの。調べれば、何か解るやもしれん。一応念の為、冴子君に引き渡す前に、データを残しておく事にしよう。それを取り付けた輩が素人さんでなければ、何かしら警察のデータバンクにヒットするかもの。」
教授が淡々と述べる。そんな、2人の遣り取りに、山口は完全に怯えたように顔面蒼白になっている。予想していた事とはいえ、実際にその物騒な機械を目の当たりにし、この数週間の恐怖がまざまざと蘇ったのである。
そんな山口の背中を、香がそっと撫でる。
「山口さん、少しお庭に出ません?気分転換に。」
そう言って、ニッコリ微笑む香に、山口は心底救われた気がした。

香が山口を連れて、庭に出て行くのを眺めながら、僚は優しげに目を細める。
やはり自分の相棒として、香が必要不可欠だと僚が感じるのは、決まってこういう時なのだ。僚の仕事は、いつだって正確無比で、それが裏の世界№1の異名をとる所以でもあるが、こういう気遣いに関しては、全くの苦手分野である。特に野郎には。そしてそうで無ければ、今までの人生を生き抜いては来られなかったのが、悲しいかな現実である。
香と2人でこうして仕事をして行く上で、自分には持ち得ないこんな香の優しさが、何度依頼人の心を救ってきただろうか。僚には、敵から依頼人の命は守る事が出来ても、香の様に彼らの心を和ませる事は出来ない。きっと、香以外の誰にも同じ事は出来ないだろう。僚と香2人揃って、初めて最強のコンビなのだと、僚は常々思っている。口には出さないだけである。

「フォフォフォ、お前さんの頭の中、そっくりそのまま香クンに伝えてやれればのぉ。それこそ、彼女は泣いて喜ぶじゃろうに…。」
まるで、僚の考えている事を見透かした様に、そう言って教授が呑気にお茶を啜る。
(ゲッ、このジジィ。何でこのタイミングで、そのセリフッッ!!!まるでお見通しってヤツか?怖すぎるッッ)
「はぁ!?なんの事すか?俺としちゃぁ、あ~~んなジャジャ馬じゃなくて、もちっと、セクシーなモッコリちゃんをベッドの上で、啼かせて悦ばせたいんすけどねぇ。」
と、同じく僚もお茶を啜りながら、お茶を濁しておく。




楽しい夕べに

※前半ちょびっとダークな僚ちゃんでっす。お気をつけて。


俺の生まれた国の夏が、こんなに暑いとは知らなかった。
地図上で見る限り、結構北の方に位置していたような記憶があったので、夏でも多少涼しいのかと思っていた。物心ついた時には、南米のジャングルのど真ん中に居たから、暑さには慣れているつもりだった。
でも、東京の暑さは、俺が全く経験した事の無い種類の暑さだった。
この国に着いた時、まるで違う惑星に来たみたいな錯覚を覚えた。
空気の濃度から、重力に至るまで何から何まで、全てが微妙に違って感じた。
俺がこの国で生まれたのが、本当の事なのかどうか良く解らなくなった気がする。勿論何の確証も無いから、もしかすると、日本人では無いのかもしれない。でも、そもそも俺は何人でも無い気がする。
強いて言えば、地球人だ。
新宿の街に落ち着いて、数ケ月が過ぎた。
俺の周りには、ゴキブリみたいなヤツばっかり寄って来て、依頼を受けて殺るターゲットは、ウジみたいなヤツばっかりだ。
ゴミ箱をひっくり返したみたいな街で、毎晩飲んだくれて、女を漁る俺はまぁ、
ドブネズミなんだけど。

依頼も無くてやる事も無い宵に、酒を飲むためにフラついているけれど、さっきから日本語と中国語と韓国語の洪水で、耳に障る。
酒を飲む前から、悪酔いしそうだ。
ここ数週間、誰ともまともに口を利いていない。
まぁ、それでも別に困らない。女を抱くのにゴチャゴチャぬかす必要も無い。
俺は自分の母国語よりも、むしろスペイン語や英語が懐かしい。
あの、スケベで気障のミックですら懐かしい。
俺はどうしてこの国に来てみようと思ったんだっけか?
特に何も考えていなかった気もするけど。
それでも、こうしてボッ~と人の波に紛れて、仕事帰りのサラリーマンを眺めていたりすると、フト思ったりする。
もし俺があの飛行機に乗って無くて、今も両親とこの国で暮らしていたなら、
俺もあんな風に、普通に働いて帰りに酒を飲むんだろうか?
仲間と楽しげに、笑いながら街を歩くんだろうか?
それは俺にとって、全く違う遠い星の出来事に思える。
俺の周りを、川の様に流れるこの人間全てが、近いようで遠い。空の上のあの星と同じぐらい、遠い。
それでも、もう少し涼しくなって秋になったら、ゴキブリ以外の友達ができねぇかなぁと思う。




「・・・・・暑い。」
ウトウトしていた。
リビングとベランダを隔てる、大きな掃出し窓は朝から全開だが、
そよ風すら吹かない。
しっかり者の相棒は、節約と称してエアコンを作動させる事を許可しないので、
夕方なのに、恐らく体感的には40℃を超えている。
何年経っても、この暑さには慣れる事が出来ない。
お陰で、随分昔の記憶が、気持ち悪いぐらいリアルな夢になって現れた。

「僚ぉ~~?支度できたぁ~~~?」
そう言って、香がリビングにやって来た。
「あ、また煙草吸ってるし。」
そう言いながら、俺の傍まで来ると、俺の髪に手を伸ばし梳かしはじめた。
「寝グセついてるよ。」
と小さく呟いて、ニッコリ笑う。
寝てたの?と、小さく首を傾げる香の質問は、あっさりスルーして、
「涼しそうだな。」
と本日の感想を述べる。
目の前の香は、紺地に赤い金魚の柄の浴衣を纏っている。
素直に、綺麗だなとは言えねぇけど、昔みたいに
「馬子にも衣装」
なんて言って、怒らせる事も無くなった。
一応、地味に進歩はしているのだ、この俺も。
「僚の浴衣も一応用意してるよ、着る?」
と言う香に、
「この次ね。」
と適当に答えておく。それでも、今日の香はご機嫌なので、
「次っていつ~~~?」
と言うフレーズに、色んな音程を付けて口ずさんでいる。
この場合、必ずしも俺の返事は必要無いみたいだ。
香のこんな様子は、子供みたいで可愛い。
当人に自覚は皆無だけど。

あれから暫くして、俺は本当にゴキブリ以外の友達を見つけた。
キラキラ光る星みたいな魂の持ち主は、外見的には、猫背で眼鏡をかけた冴えない地味な男だった。



浴衣の香と並んで、キャッツまでの通い慣れた道を歩く。
もうすぐ七夕なので、みんなで集まって星を見ましょうと言う、美樹ちゃんの提案はあくまで口実で。早い話が、酒を飲んで盛り上がれれば何でも良いと言うのが、俺たちの一致した見解。
「なぁ。」
「なぁに?」
「おまぁ、自分を動物に例えたら何だと思う?」
「なぁに、心理テストか何か?」
楽しげにそう言う香に、俺は自分でも何でそんな事を聞いたのか不思議に思う。
香は少し考えて、
「野良猫。」
とポツリと呟いた。
「それでね、僚は野良犬なの。」
と満面の笑みで付け足した。
「俺が?犬?」
そう問う俺に、
「うん。大きくて優しい野良犬。野良犬は優しいから、迷子になった馬鹿な野良猫を拾ってくれたの。それで、しゃあねぁなって言いながら、自分の寝床を半分空けてくれたの。」
そう言って香は、俺の腕に自分の腕を絡めて楽しそうに歩いている。
俺も思わず、笑顔になる。
少し前の俺は、こういう時どんな顔をして良いのか解らずに、仏頂面をした。
でも、最近は自然と笑えている気がする。

なぁ香、何年か前の俺は、ドブネズミだったんだぜ?
お前の兄貴が、初めての人間のトモダチで、俺がお前に初めて会った時、お前の事天使かなんかじゃねぇかって、思ったんだぜ?
俺にはお前が、キラキラ光るお星さまに見えるんだぜ?
でもお前が俺達の事、『野良猫と野良犬』だって言うんなら、そうなのかもしれないな。
俺の真実は、お前の言葉だけだから。
お前が俺を、野良犬だって言うのなら、きっとそうなんだろう。
お前は、とびきり可愛い野良猫で、俺はお前の忠犬だ。

「・・・暑いよ。」
そう言って、香の腕を解いた俺は、その代わりに手を繋いだ。
手を繋いで、野良犬と野良猫は、女狐や狼や狸やタコの待つ、キャッツへゆっくりと向かった。
今まで俺は、すっかり忘れてたけど、あの時の俺は多分淋しかったんだと思う。
あの時は、淋しいって言う言葉の意味すら解らなかったけれど。
「あっっ!!!」
香が突然、素っ頓狂な声を上げた。
「週末に神社の所で、縁日があるから、次は週末だね。」
週末には、2人で浴衣を着る事が決定した。










RCサクセション「忙しすぎたから」という、曲からイメージ致しました。
季節は無視です。
ワタクシの中で、カオリンは猫のイメージです。
一見可愛いケド、簡単にはなつかない。一筋縄ではいかない感じです。
リョウちゃんは、忠犬です。
[ 2012/04/22 22:42 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

⑩怯える山口君

かずえから2人の元に連絡が入り、その週の木曜日から山口の職場へ、潜入する手筈となった。
月・火・水の、3日もあれば、僚にとっては山口の身辺を調査する位、容易い事である。山口に聞く限り、幸い会社内で危険な目に遭う事は、今の所はまだ無い様なのでいつも通り出勤して貰う。
会社の線もグレーなので、欠勤するなどと言った目立った行為は、極力控えた方が良い。しかし念の為、これから3日間は2人が会社のすぐ傍まで送り迎えをする。山口には、ネクタイピンに模した発信機を身に着けさせる。
これならば、日中2人と山口が別行動を取っても多少は安心である。
山口には普段通りに仕事をこなして貰い、その間僚と香は、例の自宅マンションの引き続きの調べや、これまでの山口の経歴、家族関係、交友関係など立ち入った事を洗いざらい調べる。恐らく、僚の手に掛かれば当人の与り知らぬ、微細な情報まで入手出来る筈だ。
その中で、万一会社絡みとは別の突破口が見付かれば、潜入の方を取り止める事も可能かもしれない。いずれにせよ、どちらに転んでも怪しまれない様に、会社の方にはかずえに上手く立ち回って貰う事にした。
そして、同時進行で製薬会社の裏情報を、教授に探って貰う。
と言っても、先日の口ぶりでは、恐らく僚がお願いするまでも無く教授は着手していると思われる。
教授にとっては、一企業の内部機密など、機密に成り得ない。赤子の手を捻るようなモノだ。重要なのは、それらの多角的で膨大な情報の中から、これはというモノを見極める眼なのである。


月曜日の朝、山口が起床してキッチンへ行くと、鼻歌を歌いながら香が朝食を作っていた。
山口は思わず、もしも自分が結婚をしたら、こんな風に毎朝妻が朝食を作ってくれるのだろうかと、想像した。しかしそれ以前に、山口には好きな人すら居ないのだ。そんな想像をした自分自身に、山口はヒッソリと苦笑いを零す。
香が山口の気配に振り返り、ニッコリ笑う。
「あ、山口さん。おはようございます。早いんですね。もう少しゆっくりできますよ?」
「えぇ、僕は朝はどちらかと言うと、バタバタするより、余裕を持って準備したいほうなので。」
そんな山口の大人な発言に、香は眉をハの字にして苦笑する。
「ウチのモッコリバカとは、大違いだわ。朝から、アイツ起こすのが一番の大仕事なの。ホント手が掛かるんです。少しは、山口さんを見習って欲しいわ。」
そう言って、香が盛大に溜息を吐く。
「でもそう言いながら、冴羽さんの身の回りの事やってる香さん、とても楽しそうですよ。きっと、香さんがしっかりしてるから、冴羽さんもああして、甘えてられるんですよ。僕の目から見れば、冴羽さんは香さんに叱られたくて、ワザとやってる様に見えます。」
山口の言葉に、香は指の先まで真っ赤に染め、クルリと背を向けると、意味も無く味噌汁の入った鍋をかき回す。
「そそそそそんな事、も、もしもワザとやってるんなら、尚タチが悪いです。子供じゃあるまいに…。」
真っ赤になって、何事かブツブツと呟く、香の華奢な後姿を見て、山口は思わず笑顔になる。可愛い人だなぁ。と率直にそう思える。
彼女は冴羽僚の恋人で、そして彼の元にこうして居るからこそ、これ程までに輝きを放つのだろう。山口は、思う。いつか自分にも、こういう女性と出会える事があるのだろうかと。
これまで山口にも、幾人かの女性との付き合いはあった。
いずれも始めの内は、相手から積極的にアプローチを掛けて来るのだが、いざ付き合ってみると、思っていたよりつまらないとか、別に相手は誰でも良かったなどと、平然と山口を傷付ける言葉を残して、彼女達は去って行ってしまった。きっかけは、相手からだったにせよ、山口は山口なりに彼女らと誠実に付き合ったつもりだった。好きになった。それでも彼女たちは、次の新しい相手を見付けて去ってしまった。
いつしか山口は、恋愛とは、女性とはそういうモノなのだと思って割り切る事を覚えてしまった。そうするともう、心の底から誰かを好きになるという事が出来なくなっていた。ある時その事に気付いて、山口は1人で泣いた。
それからどの位経っただろう、今目の前のこの美しい人を見ていると、山口は自然と自分の凝り固まった心が解れていくのを感じた。
人を好きになるのも、辛い事ばかりじゃないのかもしれないと。
「山口さん?どうかしました?」
気が付くと、山口の前には朝食が並べられ、香が首を傾げて微笑んでいた。
「…あ、いえ、その…ボンヤリしてて…」
シドロモドロで答える山口に、
「先にご飯食べてて下さい。そろそろ、僚の事起こして来ないと、出社時間に間に合わなくなっちゃうから。」
そう言って、香は僚の寝室へ向かった。
数分後、先程の香とはまるで別人の怒声と、あの華奢な体でどうやって持上げるのか未だ不可解な、ハンマーが振り下ろされる地響きを感じて、山口は苦笑した。
たとえ、香がどんなに綺麗で可愛くても、やはり冴羽僚でなければ、相手は務まらない。そこいらの普通の男には、色々な意味で到底無理だと、山口は確信した。



山口が8割方食事を終えかけた所で、漸く僚が起きてきた。
髪の毛は、寝グセでボサボサ。上半身は何も身に着けておらず、グレーのスェットのボトムを穿いているだけだ。そんな僚を見て、山口はギョッとした。
今までTシャツの下に隠れていた僚の体は、予想通り筋肉の塊で、その肌に残る無数の傷痕が、その男が普通の男では無い事を如実に物語っていた。
銭湯やサウナでよく、『刺青お断り』の注意書きを目にする事があるが、刺青を入れたチンピラなんかが入って来るよりも、よっぽど僚が入って来た方が恐ろしいだろう。
しかし、僚自身にそんな自覚は全く無いので、起き抜けの至って気の抜けた表情である。キッチンに入って来るなり、冷蔵庫を開け牛乳パックを取り出すと、コップにも注がず直接ゴキゴキと喉を鳴らして飲みだした。
少し遅れてキッチンに戻って来た香は、そんな僚を見て
「あぁ~~~!!!まぁた、そのまま飲んでっ!ちゃんとコップに注いでって、いつも言ってるでしょ???」
と、目を吊り上げて怒っている。
そんな香にどこ吹く風、僚は今しがた飲み干した牛乳パックを潰すと、盛大にゲップした。香は心底呆れたように眉を顰めて大きく溜息を吐いた。
「ホンッッット!!!朝からアンタ、最っっ低ぇぇ。もう少し、デリカシーってもんが無いワケ???」
僚はそんな香をニコニコと見詰めて、牛乳パックをゴミ箱へ放ると、目にも留まらぬ早業で香をギュッと抱き締め、香の唇に軽く触れるだけのキスをした。
真っ赤になって固まる香をヨソに、僚は
「香、メシ。」
と一言呟き、何事も無かったかの様にいつもの自分の席に座ると、新聞を広げて読み始めた。香はこれ以上無いという程に真っ赤になって、しっかり数十秒固まっていたが、ハッと我に返って、時間が無い事に気が付いたのか、いつも通り僚の朝食を手際良く並べ始めた。
山口はそんな2人を、しばし唖然と眺めていたが、山口もまたフト我に返り、茶碗の中の残り少ない白米を口に放り込んだ。
しばらく穏やかな空気が流れ、それぞれ黙々と朝食を口に運ぶ。
先に食べ終えた山口が、歯を磨こうと席を立ったところで、香が山口を引き留めた。
「あ、山口さん。これ、今日のお弁当です。」
そう言って香が差し出したのは、可愛らしい黄色いバンダナに包まれた、仄かに温かい弁当箱だった。一瞬、キョトンとした山口が、ハッとして
「そんな、お弁当まで用意して頂いて…申し訳ありません。ホントに良いんですか?」
恐縮しきりの山口に、香はさも当たり前の如く、
「だってコンビニなんかのお弁当は美味しくないし、外食はあまり体に良くないでしょ?」
とまるで家族の様な事を言う。
ついつい山口は、条件反射で僚のリアクションを窺ってしまう。
幾ら、香の親切心だといえ、僚を差し置いて己が香の手作り弁当にありついて良いモノかと。後々、香の見ていない隙に、あの銃で額に風穴を開けられるイメージが頭に浮かんで、山口の背中を冷や汗が伝う。
しかし意外にも、僚は全く興味無さ気にモクモクと口一杯にご飯を頬張っている。
「あ、有難うございます。嬉しいです。」
山口は内心尋常では無い程に、ドキドキしつつ弁当箱を有難く受け取った。










⑪怯える冴羽クン

それからの3日間は、入念な下調べに費やした。相変わらず僚は、度々香の『オアズケ宣言』を無視して不意打のキスをし、朝夕2人で山口の送り迎えをした。
昼間の内に3日間とも山口の自宅に通ってみたが、紙テープはそのまま破られる事は無く、新たな盗聴器が仕掛けられる事も無かった。ホシも多少警戒しているのかもしれない。互いに出方を探っていると言った所か。
いずれにしても、彼の自宅から得られる情報に、大した成果は見られなかった。それと同時に、山口自身の事を詳しく調べた。

山口は、四国の出身で、大学入学を機に上京した。以来10年余り、ずっと都内で独り暮らしをしている。今のマンションは、就職をした後に越した住まいで、学生の頃は古めかしい木造2階建てアパートに住んでいた。
山口が4歳の頃、家族旅行の帰りに交通事故に巻き込まれ、両親は他界している。山口自身は運の良い事に、軽症で済んでいる。その後母方の祖母に引取られ、山口が大学2年、20歳の冬に祖母が亡くなるまで、家族は祖母独りである。父方の祖父母は、その悲惨な交通事故の以前に既に鬼籍に入っており、身内と呼べるような縁者は居ない。
祖母と孫2人だけの生活は、決して楽なモノでは無かったようであるが、幸い山口は幼い頃から頭脳明晰で、大学進学の費用はとある財団の、奨学制度を受けている。学費の面での、苦労は無かったようである。
在学中に祖母を亡くしてからは、故郷に帰るという事も殆ど無く、上京後の10年で4度だけ墓参りの為に帰省している。その内の2度ほど、同窓会にも出席しているが、地元に連絡を取り合っている様な友人は居ないようだ。
東京に出て来てからの彼の友人は、殆どが大学時代の同窓で、会社の同僚とは友人と言うよりも、多少距離を置いた間柄を保っている様である。理系のエリートらしく、あまり派手な交友関係は無く、ほぼ全員男友達である。その中でも、親交が深く度々飲みに行ったり、食事をしたりするような相手は4人程。彼等を重点的に調べてみたが、皆一様に不審な点は無くシッカリと職に就き、家庭を持ったごく普通の人間であった。金銭トラブルを抱えている者も無し。女性問題は、1人だけ会社の部下のOLと不倫関係にある男がいたが、この点は密かな交際も順調な様子だったので、僚と香は相談の結果、見て見ぬ振りをする事にした。特に山口と関わりがあるとは思えなかった為である。
まして、この友人達の間に怨恨を募らせるような確執は皆無であった。
山口自身の女性関係は、少なくともこの2年程、交際をしている相手もいない。飲屋や風俗の女性に嵌っているという事も無い。客観的に見て、容姿には問題なくどちらかと言えばむしろモテそうではあるが、これに関しては当人の性格の問題が大きいように、僚は考えている。
ここまで調べた結果、山口の個人的側面には、本人も言うように原因となる様な事案は出て来なかった。まだ結論付けるには時期尚早だが、どうやら僚の嫌いな潜入調査は免れないようだ…。


はぁぁ~~~。
僚は深い深い溜息を吐く。しかし、香には聞こえなかった様だ。リビングには淹れたてのコーヒーと、僚の煙草の香りが漂っている。僚の溜息の原因はただ1つ。明日からの潜入調査が憂鬱なのである。
この3日間はずっと香と2人きりで行動した。故に、香の隙を見て唇を奪うチャンスも沢山あった。それに、なんだかんだ言っても、香とて僚とのキスが嫌なワケでは無いのだ。ただ、照れているに過ぎない。2人だけの時だと意外に素直にキスに応じるのだ。しかし明日からはそういう訳にもいかない。何しろ、僚と山口のタイムスケジュールが揃ってしまうので、この家の中ですら香と純粋に2人だけという時間は実質ゼロになる。
現在14:00である。山口を迎えに行くには、16:30頃アパートを出発する。
つい先ほど、一通りの調査を終えアパートに戻って漸く一息吐いた所である。
あと2時間30分。香と盛大にイチャイチャ出来る時間も残り僅かだ。
僚は先程から、チャンスを窺うべく、横目でチラチラ香を盗み見ている。
しかし当の香は、手元の雑誌に夢中で、そんな僚の様子に気付く気配は全く無い。僚は香が夢中になっている雑誌の表紙を見て、一気に落胆した。
それは香の愛読書で、何やら節約アイデアレシピや、光熱費の上手な切り詰め方。100円グッズを活かすアイデア収納術など、僚にとっては軽く恐怖を感じる文言が見出しを華々しく飾っている。悪魔の書だ。これ以上、香を節約の世界に誘うのは止めてくれと思うが、毎月律儀に発行されている。そして香も、毎月まるでご神託を賜るが如く買い求め、隅々までチェックし、戒律を守る信者の如く、生活の隅々にその教えを実行していくのである。
節約原理主義である。以前に僚は1度、香があまりにも熱心に読んでいるのが気になって、香の居ない時にどんなモノなのかコッソリ読んでみた事がある。しかし、その内容に思わず眩暈と殺意を覚えた僚は、思わず手にしたそれをゴミ箱に打ち捨ててやった。勿論、直後にそれを見付けた香の手によって、筆舌に尽くし難い折檻を受けたのは言うまでも無い。
それ以来、あの雑誌は僚にとって極力お近付きになりたくないモノ、№1なのだ。
僚はこれまで何度発行元に、世の亭主族を代表して抗議してやろうかと思った事か。しかし、冷静に考えるとそもそも僚は、亭主でも何でも無いし、僚が代表してって言うのも何だか変な話なので、その一線だけは踏み止まっている。
ともかく、香がそれを読んでいる時は節約モードに意識が傾いているので、僚にとっては雲行きが怪しくなる前兆なのだ。


何だよ、何でよりによって今、あんなモン読んでんだよ!!!香のヤツ。
『不意打チュー』への、遠回しの牽制か???


などと1人深読みしてビクビクしている僚だが、何の事は無い、今月の特集記事の1つに『ボリュームたっぷり愛情弁当』なるモノが掲載されている為、香は熟読しているのだ。なんせ、明日からはフリとはいえ、僚もサラリーマンなのだ。香は少しでも美味しいお弁当を作ってあげたいと、張り切っているだけである。
そんな事とは露知らず、僚は1人でビクビクしているのだ。
この世で、ただ1人。この男をこれ程までに、ビビらせる事が出来るのは、槇村香だけである。

⑫山口君の恋愛相談

木曜日。早速、僚の潜入調査が開始した。昨夜、教授から受け取った資料によると、ひまわり製薬が抱えている係争事案で最も多かったモノが、商品パッケージや商品名に関する商標等の問題。主に相手は同業他社である。
次いで、消費者が重篤な副作用を発症したといった、損害賠償請求の事案。これに関しては、この企業は常に真摯な対応を見せており、目立って泥沼化している様なケースもほぼ無い。
むしろ、その対応に好感すらもてる。これらの事と、山口個人が狙われる事には何ら繋がりは見られない。山口は、あくまで一研究員なのだ。
表だって、顧客と関わる様な立場でも、業務内容でも無い。唯一、山口にも関わりがありそうな揉め事と言えば、ヘッドハンティングの問題である。こちらは、表立った揉め事とは違うが、水面下では会社側も苦慮している様である。どんな企業でも、有能な人材は喉から手が出るほど欲しいのが本音だ。
現に、山口の同僚にも数人引抜かれそうになった者がいる。しかしこれらの情報の中にも山口の名は無い。かと言って、山口自身の能力が認められていない訳では無いらしい。むしろ、その逆でひまわり製薬にとって、山口と言う人材はかなり期待された有望株であるらしい。不穏な動きがみられると、会社側が直ちにそれを阻止しているらしい。もっとも、その様な話がたとえ山口に持掛けられたところで、山口自身は会社を裏切る気は無いようである。同僚の中でも、一目置かれた存在であるらしい。

……でもなぁ、と僚は考える。ここまで、何も無い。非の打ち所が無いってのも、変に妬まれる原因にもなるからなぁ、と。『出る杭は打たれる』と言うヤツだ。その論理からいけば、社内の人間か?
僚はそんな事を考えながら、吸っていた煙草を携帯灰皿に押し付けて火を消した。午前中一杯、宛がわれた仕事をそつなくこなしつつ、油断なく山口の周囲の人間関係を探っていた。予想以上の骨の折れる仕事に、僚は正直この時間が待ち遠しかった。待望のお弁当タイムだ。
社内は全面禁煙で、唯一この屋上だけが喫煙を許されたスペースだ。
仕事柄なのか、喫煙を許されたスペースとは言え、ここを訪れる人間自体殆どいない。山口は元々、弁当は屋上に上がって1人で食べるのが日課だ。そんな山口と、煙草を吸う僚と言う組み合わせなら、ここで2人になっても不思議は無い。
一応、研究室の中では、今日が初対面の2人なのだから、表立って口を利くワケにはいかないのだ。しかし、同僚達は知らない。僚と山口が、色違いでお揃いの弁当箱を使っているという事を。



僚が煙草を消した所で、山口が現れた。手にはペットボトルのお茶を2本持っていて、1本を僚にスッと渡した。
「お、サンキュ。気が利くじゃん。」
そう言って、僚はニヤッと笑う。良く陽の当たる一角にベンチが備え付けてあり、そこが山口の定位置である。早速2人はベンチに腰掛け、弁当箱を取り出す。
僚がカパッとフタを開けると、固めに炊かれた粒立った白米の上に、程よく味の染みた鶏のそぼろでデカデカとハートマークが描かれていた。
思わず、僚の頬は緩み、珍しく赤面している。こうなると、気になるのは山口の弁当がどうなっているのかという事である。
「オイ。」
「何です?」
山口は首を傾げる。熱でもあるのか、妙に赤い顔をした僚が、何時に無く真剣な面持ちで山口を見ている。
「おまぁの弁当、ちょっと見せてみろ。」
山口は訝しみながらも、言われるままに弁当箱を僚の方へオズオズと差し出す。
差し出された山口の弁当は、至って普通。白米の上に、同じく鶏そぼろが一面に敷詰められているだけである。
(よぉっ~~~しッッ!!!)
僚は無意識のうちに、小さくガッツポーズを繰り出す。
山口は僚の弁当箱を覗き込み、漸くこの一連の僚の挙動の意味を理解して、思わず苦笑する。
「相変わらず、仲良しですね♪冴羽さんと香さん。」山口がそう言うと、
「あ?まぁ、アイツは俺に惚れってからなぁ。」と僚が嘯く。
真っ赤になってにやけた顔でそんな事を言われても、どっちがだよと思うが、あえてそこには触れず山口が続ける。
「あの…、冴羽さん。怒らないで聞いて下さい。僕、月曜日に初めて香さんからお弁当渡された時、凄く嬉しかったんですけど、それと同時にメチャクチャ怖かったんです。」
山口の意外な告白に、僚はポカンとする。
「はぁ?何で?」
「……冴羽さんに、殺されるんじゃないかと思って。」
「・・・・・」
僚は、思わず目が点である。
「あ、あのこの数日冴羽さんの事見てて、冴羽さんのヤキモチって尋常じゃ無いから、…そっその、ぼっ僕1人の為に、あの日お弁当まで作ってくれた香さんの親切心は凄く嬉しかったんですけど…、そのぉ、冴羽さんの分を作るついでとかなら、それ程怖がる必要も無かったんでしょうけど‥‥、例えば今日みたいに。」
そこまで言って、恐縮する山口に、僚は爆笑する。
ひとしきり、腹を抱えて笑うと、本当に美味しそうに弁当を食べた。
暫し、互いに黙々と弁当を食べていたが、突然僚が口を開いた。
「アイツはさぁ、根っからの世話好きだからさ。アイツが誰かに親切にして遣りたいって気持ちを、俺が台無しにするのだけは、絶対にイヤなの。まぁ、アイツの場合、あくまで唯のお節介でそれ以上の深い意味は無いから。それで、勘違いしてのぼせるバカにゃ、容赦しないケド?」
そう言って、口端だけをクイッと上げる僚の表情は、もはやサラリーマンのモノでは無いけれど、生憎この場には山口しか居ないので、問題ない。
「要するに、香さんにだけはベタ甘って事ですね。」
「さすが、話が早いねぇ。山口君。解ってんじゃん。」
そう言って、僚がニヤッと笑う。
「‥‥僕にもいつか、そんな風に思える相手に出会える事があるんでしょうか?」
「あ?あんじゃねぇ~の?そのうち。」
「例えば、あくまで例えばですけど。僕が何も知らずに、香さんの事を好きになったとします。…それで、良く知り合ううちに、香さんには冴羽さんと言う大切な人がいた事が判明したとして、でもその頃には、僕はどうしようもなく香さんに片思いをしていても…そうなると、諦めるのがやっぱり、僕なんです。人と争う事をしてまで、気持ちを貫く事が出来ない。根性が無いんです。今まで相手に言われるままに付き合って、相手に言われるままに別れて。そればっかりで…。気付いたら、誰かを好きになる事なんて、無くなってました。」
僚は相変わらず、黙々と弁当を食べてはいたが、山口の話はちゃんと聞いていた。
「TVとかでよく、草食系とか言うでしょ?何処かでそんな風にはなりたく無いって思う自分が居るんですけど、自分の事だなって。結構、当てはまってる…」
そう言って、山口は自嘲気味に笑った。
すると、それまで黙って聞いていた僚が答える。
「そう言うのって、言葉の問題じゃないの?おまぁが、そうはなりたくないって思ってんなら、草食系じゃないんじゃね?他人の大事な女を奪ってまで、我ぁ張りたくねぇってのも、言い方換えれば思慮深いって言うんじゃねぇの?気持ち諦めんのも、それはそれで根性要ると思うケド?ま、少なくとも見境なく人のモンに手ぇ出すバカよりは、数百倍マシだわな。……第一、んな事ウダウダ考えてるうちは、まだ余裕があんだよ。ホントの相手ならさ、理屈抜きで欲しくなんだよ。それが、たとえ100%相手の為になんない事だったとしてもさ。」
山口には、僚のその言葉は自分に向けられたと言うよりも、僚自身の事を言っている様に感じた。僚が香の事を想いながら、言葉を選んでいる様に思えた。
「それに、あんなモンただの流行りだろ?流行語ってやつよ。俺はそもそも、あんなモン信用してねぇ。男はみんな肉食獣だっつ~~の!!!」
僚は、槇村秀幸の事を思い出していた。あの、一見冴えない地味な、草食系男子のハシリの様な男が、その実、警視庁の女豹と呼ばれる女傑を、手の平の上で転がし、まるで仔猫のように飼い馴らしていた事を。その最強の男を、更に骨抜きにしていた僚の相棒は、もしかしたら無敵なのかもしれない。

⑬不機嫌な僚と性悪女

山口の職場に潜入して数日、特に目立った動きは無く、僚は簡単なモノなら検査などをさせられるようになってしまった。
(オイオイ、こんなんで良いのか?俺、全くのシロートだぜ?)
僚にしては珍しく、不安を覚える程に素人のする仕事では無い気がしたが、そこは山口が上手くフォローに回って、同僚達には全く怪しまれる事無く、時が過ぎて行った。
潜入4日目の火曜日に、ひとつ動きがあったが事件とは全く関係は無い。
研究室内の雰囲気を大体掴んできた僚は、その頃には何時間か置きに、息抜きを兼ねて屋上へ煙草を吸いに上がったりもした。まぁ、そのうちの何度かは煙草じゃ無くて、『本業』の方だったりもする。
いずれにせよ、僚が数分『息抜き』に席を外した所で、それを見咎めるような者も居ない。

その時は、純粋に息抜きの為に屋上へ上がったのだが、先客がいた。
昨今の禁煙ブームのせいか、職業柄か、ここへ来る喫煙者も限られているので、この数日でここへ来るメンツの顔と名前と所属部署ぐらいは覚えている。
別に言葉を交わすワケでは無い。そういう事に関しては、僚の得意分野なのだ。
しかしその先客は、初めて見る顔だった。が、僚はその女を知っている。
西村美園、24歳。総務課所属。2年前、山口と数か月間交際していた女だ。
もっとも、付き合っていた相手は山口だけではなく、まぁ天秤にかけられた挙句、山口は捨てられたワケだが。
因みに、その時見事彼女のハートを射止めたもう1人の男は、彼女よりも更にウワテで、彼女は瞬く間に捨てられたのだ。自分の失恋の陰で、よもやそんな事が起こっていようとは、山口は知る由も無い。むしろ、知る必要も無い。
所詮、盛りの付いたバカ同士のお遊びなのだ。そんな事に、何も好き好んで山口が参戦する事は無いのだ、時間の無駄だ。
僚は無表情で煙草を吹かす。この潜入ってヤツだけは、ホトホト嫌気がさす。
毎日のお楽しみは、香の弁当だけである。
(あ~~~、香に会いたい。早く終わんねぇかな、この依頼…)
いつも、大体18:00頃には、家に帰り着いてはいるのだが、AM10:00現在、僚はもう既に香が恋しい。重症である。



先に声を掛けたのは、西村美園であった。
「あの、先週新しく入って来られた、冴羽さんですよね?」
僚は一瞬考えたが、暇潰しに話に乗ってみる事にした。この煙草の火が消えるまでの、ホンの暇潰しだ。
「そうだけど、君は?」…まぁ、知ってるんだけど。
「あ、私総務課の西村美園と言います。冴羽さんの事、入社した日から、カッコイイって、女子社員みんな噂してるんですよ~♪」
なるほど?有名な学者のコネで入社して来た、中々切れ者の色男。そういう役柄を演じている俺に、いち早く周りを出し抜いて、ツバ付けとくってか。どうやら、計算だけは早いらしい。でも、申し訳ないが、ハッキリ言って計算間違いだ。
僚は失礼のない程度に、西村を観察してみる。まぁ、よく居るお姉系ってヤツ。ナチュラルに見せかけて、その実抜かりの無い完璧なメイク。会社に来んのにそれはねぇだろって言いたくなるような、巻き髪にネイル。細い指に挟んだ、細いメンソールの煙草。嗅覚麻痺してんじゃね?と聞きたくなる程の、むせ返る様な香水の匂い。
恐らくは、美人の部類に入るのだろうけど、そしてもし彼女が依頼人だったなら間違い無く、モッコリちゃんなんて言ってるんだろうケド。
如何せん、冴羽僚という男は、女を見る眼だけは無駄に肥えているのだ。
ちょっとやそっとの美人位では、動じない。まして、西村程度の女では食指も動かない。
しかし、彼女自身はそれなりに自信があるのだろう。そして、周りもそんな彼女をスポイルしているのは、想像に難くない。
僚も強気な女は嫌いでは無い。美人が自分に自信を持つのは、大いに結構な事だ。しかし、それだけの値打ちがある事が大前提である。
腹の中で思う事とは真逆に、至って男前の表情で、そして口調はあくまで軽く。
「へぇ、そうなの?リョウちゃん、ハツミミ~~~♪」
この手の女には、少し軽めに接した位で丁度良い。
「冴羽さんて、面白いんですね~♪私、かっこ良くて面白い人、タイプなんですぅ。今度、お休みの日どっか連れてって下さいよぉ~~~♪」
西村は、早速そう言って媚びて見せる。
…次のセリフまで予測できるような、安い女、正直興味無いんだけど…
「初めて会った男に、んな事言っちゃって良いの~?会社の中に、彼氏くらい居るんでしょ~?俺、入社早々修羅場とか、やだよ?」
「えぇ~、彼氏なんて居ませんよぉ。私、全然モテないんですぅ。」
…嘘吐け、尻軽…
「またまたぁ、嘘ばっかり。意外と研究室の中に居たりして?」
「ホントにっっ!今は居ないんです~~~」
「今はって事は、前は居たんだ~~~♪」
「もう、ずっと前の事ですよぉ?それに、別に付き合ってたとかじゃ無くて、何度かデートに誘われただけなんですよ?」
「へぇ、美園ちゃん可愛いのにねぇ。みんな、見る目ないんだね?でもさぁ、やっぱ、他の奴らに妬まれちゃったりすると大変だしぃ‥‥」
僚はそう言いながら、煙草を揉み消すと、
「それにさぁ、外であんまりオイタばっかしてると、ウチのヤツが煩いからさぁ♪」
そう言って、これ以上無いという程の極上の笑みを浮かべた。
しかし、瞳の奥は一切笑っていない。
「あ、それとさっき気付いたんだけどぉ、美園ちゃん小鼻のとこ、ファンデーション浮いてるから、化粧直しした方が良いと思うよ♪」
そう言って、ウィンクを1つ残して、僚は屋上を後にした。




僚と山口は、会社帰りの電車の中に居た。
男同士、特に話すことも無いので、2人ともボンヤリして電車の揺れに身を任せている。潜入前の3日間は、僚と香2人で毎日送り迎えしていたが、僚と一緒なら危険も無いだろうと、潜入を開始してからは男2人仲良く電車通勤だ。帰りのラッシュはさほどでも無いが、朝のラッシュは地獄である。
よくもまぁ、こんな事を毎朝やってられるモンだと僚は思う。
僚が辛うじて我慢できるのは、この状況がいわゆる期間限定であるからだ。
それこそ、何十年もこんな事が続くとなったら、間違いなく発狂する。
だが、このサラリーマンごっこの中にも、ささやかながら楽しみはあるのだ。

まず1つ目は、朝のいってらっしゃいだ。
エプロン姿の香が、満面の笑みで手を振る姿はさながら新婚さんプレイである。僚は毎朝、萌え死に寸前である。これで、山口さえいなければ勿論行って来ますのチュ―をかましてやる所だが、そこはグッと堪えている。

2つ目のお楽しみは、弁当である。
何より僚にとっては、これが潜入調査のメインイベントである。普段家で食べる食事も、全力で旨いのだが、青空の下、あの弁当箱のフタを開ける瞬間。僚は、死んでもイイとすら思える。しかし、そこで死んでしまっては、3つ目のお楽しみに辿り着けない。

3つ目、1日頑張ったご褒美がお帰りなさいだ。
玄関のドアを開けると、晩飯の良い匂いが漂っている。
玄関もしくは、キッチンに香が居て、
「ご飯出来るまで、もうちょっと待ってて?それまでこれ飲んでてね♪」
とか言って、缶ビールを渡されたり、上目遣いで、
「お風呂沸いてるから、先に入ってて?」などと言われたら、
本日も無事生きて帰って来られて良かったとしみじみ実感する。

そして、もうじきだ。本日3番目の、お楽しみが。
電車が新宿に近付くごとに、僚の表情が緩んでいく。山口はこの数日で、何となくこういう時の僚の考えている事が、予想できるようになってきた。
いかに恐ろしい肉食獣であっても、その生態さえ把握すればいたずらに怯える必要は無い。山口も少し僚に慣れてきた。
突然、僚が思い出したかのように口を開いた。
「あ、そういえば、おまぁ。」
「どうしました?」山口は、首を傾げる。
「あのなぁ、しょうもねぇアバズレにちょびっと振り回された位で、いちいち凹んでんじゃねぇよ、おまぁ。」
山口は、ますます意味が解らないといった様子で、首を捻る。
「…西村美園。」
僚がその名を呟くと、途端に山口の表情が曇る。
「今朝屋上で煙草吸ってたら、思いっきり誘われた。ありゃ~、相当の尻軽だぞ。」
そう言った僚に、山口は苦笑いを零すと、
「…もう、終わった事ですから、どうでも良いんです。」と、呟く。
「でもそのお陰で、女性不信患ってんじゃん。まっ、おまぁに必要なのは、女見る眼だな!!!たかだか3~4人ぐれぇ、性悪に引っ掛かっただけで、萎えてる場合じゃねぇぞ。次々、行かねぇと勿体無ぇぞ?」
僚はそう言って、おもむろにジャケットの胸ポケットから携帯を取り出すと、
「何なら、女紹介してやろうか?…性悪女に転がされて、傷心の山口君には…えぇと、まぁ気立てが良い娘がイイよなぁ…んで、アッチも上手な娘っと!!!…で?どういうのが好みなんだ?やっぱ派手目か?それとも清純そうな方がイイか?」
ブツブツ言いながら、次々とメモリーを確認している。
そんな僚に、山口は唖然として、
「だ、大丈夫です。あの、お気持ちだけ有難く頂戴しときます。」
と丁重に断った。
すると僚は、さも意外そうにポカンとして
「は?なに?遠慮してんの?…ま、いらねぇなら別に良いケド。兎も角、次々いけ。次々。凹んでるだけ、時間の無駄だぞ?」
とアドバイスする。
そのアドバイスが、的確かどうかはおいといて、そうやって自分を励ましてくれているんだろうと思うと、山口は自然と笑顔になった。
何しろ、これ以上無いという程の素晴らしい恋人を得ている、彼がそう言うのである。
説得力だけはある。
確かに、たった数人との恋愛沙汰で落ち込んで立ち止まっているのが、無性に馬鹿らしく思えてきた山口であった。


⑭おままごと

その日の夕食の席で、山口が言い出した。
「あの、香さん。」
「どうしました?山口さん。」
「明日は、晩御飯の支度は必要ありません。」
思わず、僚と香は顔を見合わせて首を傾げる。2人のリアクションが、いちいちシンクロしていて、思わず山口は微笑む。(やっぱり、この2人本当に仲良しだな…)
「どういう事?」
と尋ねる香に、
「明日は3人で外で食べましょう。是非、お2人と一緒に行きたい所があるんです。…って言っても、大した所じゃ無いんですけど。この数日、お2人にはずっとお世話になってばっかりで、香さんにはいつも美味しいご飯を作って頂いて、その上、お弁当まで…。たまには、お礼させて下さい。…っあ、も、勿論、このゴタゴタが済んだら改めて、きちんとさせて頂きますけど、…たまには良いでしょ?そういうのも。」
と山口が答える。
「…でも、お気持ちはすっっっごく嬉しいんですケド…、山口さんも見てお分かりだと思うんですケド、この通り僚の満腹中枢、普通じゃないから。お外で食事なんてご迷惑掛けるだけですから…」
と、香は苦笑いを漏らす。
「人を特異体質みたいに言うなっっ!!!食べ盛りの成長期なだけだ!!」
そう反論する僚を、2人はあっさりスルーして話は進む。
「ホントに大した所じゃ無いんです。安くて、旨くて、ボリュームがあって。どちらかと言うと、冴羽さん向きなんです、本当に。僕が学生の頃から、よく行くお店で。
……あの、お2人は一応僕の事、色々お調べになったんでご存知かと思いますケド、僕は身内の縁が薄くて、たった一人の家族の祖母も10年前に亡くしました。上京するまで、家に帰ると食事を作って誰かが待っていてくれるという事を、そんなに大切だとは意識した事無かったんですけど、帰る場所を失って初めて、それが本当に大切だったんだと気づいたんです。
それでも今まで、気ままな独り暮らしも、正直淋しいとは思わなかったんです。僕、料理や洗濯も苦にならないタイプだし…。でも、この数日、すごく楽しいんです。10年振りに、家族が出来たみたいで。…まぁこんな事、29才の独身男から言われても、気持ち悪いかもしれませんケド‥‥‥
そういうワケなんで、香さんも気にせず明日の夕方はのんびりして下さい。たまには、ねっっ?」
そんな山口に、香はなんと答えて良いモノか解らなかった。
自分達2人も、山口と同じだ。
僚も香も、血の繋がった身内との縁は薄いどころか、物心つく前からほぼ無い。
そんな2人がどういう巡り合わせか、幸せな事に出会って、今では家族以上の家族である。お互いがお互いを無くしては、多分呼吸の仕方さえ忘れてしまうんじゃないかと錯覚する程。
香は山口に返事をするのも忘れて、ボンヤリしてしまう。
「なぁ、コイツがこう言ってんだしぃ?気にしなくて良いんじゃない?香チャン?」
僚は、何やらまた1人で深刻に考え始めた相棒に、殊更明るくそう言った。
山口も僚の言葉に、ニコニコして頷いている。香は小さく溜息を吐いて僚をキッと睨むと、
「僚は少し気にしてよっ!!ホントにシャレになんない位、食べるクセにっっ!!」
そう言って、隣の椅子に座る僚のデコを、パチンと叩いた。
「でも本当に、そんなに深く考えないで下さい。3人で外食するのも楽しいですよ?きっと。」
そう言って笑う山口に、香も思わず笑顔になる。
「じゃあ、お言葉に甘えて、そうさせて頂きます。どうも、有難うございます。」





水曜日、AM10:00。香はベランダで洗濯物を干していた。
ここ数日、冴羽アパート6Fベランダには、Yシャツが干してある。
日頃はあまり見掛けないモノだ。薄いピンクのYシャツは、昨日僚が着ていた。
規格外のサイズなので、Yシャツはいつも駅の近くのテーラーで誂えている。
行き帰りには、一応ジャケットを着ているけれど、研究室の中では白衣なんか着ているらしい。
(プププ…あの僚が白衣って、…ウケる。)
香はサラリーマンみたいな恰好をした僚が、実は結構好きだったりする。
いわゆる、『萌える』と言うヤツ。
勿論、お遊びなんかじゃなくて、立派にお仕事してるのは、重々解ってるんだけど。それに、朝夕のラッシュなんて、ちょっと気の毒に思えるけど、それでも。
おままごとみたいで、少しウキウキする。
香は小さな頃、おままごとが嫌いだった。
女の子達とおままごとをするより、男の子に混じって缶ケリや鬼ごっこをする方が好きだった。それは香が、お転婆だったという事は勿論だけど、もう1つ他に理由があったと、今になって思う。
ヨソの子たちが、繰り広げる『家族』の世界が、香にはどうしてもよく解らなかった。お母さんの事は全く記憶に無かったし、お父さんが香の起きている時間に帰って来る事は、本当に珍しい事だった。
いつも香の傍に居てくれたのは、大好きな兄だった。
でも、おままごとに出てくるのは、いつも決まって『お父さん』と『お母さん』なのだ。自分の家では主役の、『お兄ちゃん』はおままごとには出て来ない。
だからきっと、幼い日の香はおままごとには熱中できなかった。
そんな自分が、おままごとを想像して、ウキウキしているなんて。
幼い頃の香には、到底予想できなかった未来だ。
いつから、おままごとが好きになったんだろう?
きっと、僚と暮らし始めてからじゃないかと、香は思う。
僚の傍に居て初めて、香は女の子でいられるのだ。

…僚、今頃何やってるんだろう?お仕事うまくいってるのかなぁ。
…やっぱり、会社なんて所には綺麗なOLさんなんか、沢山いるんだろうなぁ。
「ヤダなぁ。」
風に揺られてヒラヒラと、まるでダンスをしているかの様な、僚の大きなピンクのYシャツを見詰めながら、香はほぼ無意識に、ポツリとそう呟く。
つい2~3時間前に、出社したばかりだというのに、香はもう既に僚が恋しいのだ。夕方には、また逢えるのに。




昼過ぎに伝言板のチェックをした香は、スーパーに行こうとして止めた。
そう言えば今日は、晩御飯の支度は要らないんだった。
明日の朝ご飯と、お弁当を作る材料ぐらいならウチにある。
そのまま、キャッツに行こう♪と歩を進める。依頼の無いいつもなら、香のお昼ご飯は僚の朝ご飯も兼ねているから、結構シッカリ目に作るのだけど、こんな風に香1人の時は、ついつい簡単に済ませてしまう。適当に作ったモノを、1人で食べても全然美味しくない。
せめてキャッツで、美味しいコーヒーでも飲もう。そう思うと、少しづつ気分も浮上して、足取りも軽くなる。香は自分で思っていた以上に、僚が居ない事に淋しさを感じていたみたいだ。

(女々しいぞ!!!槇村香!!!アイツだって着慣れないスーツなんか着て、サラリーマンの真似事なんかして、調査してるんだからっっ。傍にいないくらいなんだ!!!依頼があるだけ、恩の字だろ!!!)

香は自分自身に、そう喝をいれながら、キャッツまでの道のりを歩いていた。





”カラァ~~~ン”
耳に馴染んだ、カウベルの音が響き渡る。
「香さん、いらっしゃい。」美樹が笑顔で迎える。

「こんにちは。コーヒー下さいな。」
「はい、かしこまりました。」

まるで小さな子供が、お店屋さんごっこをするみたいな口振りでそう言い合うと、香と美樹は顔を見合わせて、クスクスと笑った。
そんな女達の遣り取りに、海坊主は目を細める。
勿論、真っ黒なサングラスの下の出来事なので、その事に気付く者は誰一人いないが。
美樹も香も、こんな世界に身を置きながら、何処までも無垢である。
その事が、どれだけ自分とあのモッコリバカの、真っ黒い心を照らしているか。当人達は全く解っていないと、海坊主は思う。もっとも、知る必要も無いのだが。
そういう事は、自分達男がしっかりと肝に命じておけばいい事だ。
きっと、僚もそう思っている筈だ。言葉に出来る事だけが、全てでは無い。
特に、彼らの棲む世界に於いては。

「香さん、この前の土曜日に来て以来じゃない?忙しいの?」
毎日やって来る香が、3日も顔を出さなければ、美樹がこう思うのも当然だろう。
「うぅ~ん。そうでも無いの、私はね。僚が会社の方に潜入してからは、私は殆ど留守番だし。1人で行動するのは危ないって僚が言うから、山口さんの自宅の方も全然行って無いし。たまぁに、僚に頼まれて教授のとこに出掛けるぐらいかなぁ。なんか今回、予想外に進展なくて。」
「じゃあ、冴羽さんは相変わらず?」
「えぇ、サラリーマンやってる。僚にしては珍しく、早寝早起きして頑張ってるわ。」
そう言って香が笑った。
「フフフ、そう。でも、たまには良いんじゃない?そういうのも。」
「ウン、私もそう思う。」
2人はクスクスと笑う。

しばらく美樹と香は、他愛のない世間話をして、海坊主は傍らで黙々とグラスを磨いていた。いつしか話題は、昨晩の山口の話になり、香がしんみりと言った。
「山口さんね私達と生活して、10年振りにおばぁちゃんと居た頃の事、思い出したみたい。何だか家族といるみたいで、楽しいって言ってくれたの。すごく嬉しかったけど…何だか少し申し訳ないの。」
「あら?どうして?」
「彼ね、今まで独り暮らしでも、特に淋しいとは思ってなかったんだって。でも、ウチに来てホントは少し淋しかったんだって、気付いちゃったんじゃないかなって思うの。依頼が解決して、また1人に戻っちゃったら、淋しいだろうなぁって、そう思うの。」
「香さんらしいわ。優しいのね。」
美樹はそう言って微笑むが、香は何処かボンヤリした表情のまま話を続けた。
「…私ね、子供の頃はずっと兄貴が、兄貴だけが自分の家族だし、いつか年を取っておばぁちゃんになっても、ずっとそれは変わらない事だと思ってたの。でも、兄貴はいつの間にか私の前からいなくなっちゃって、気が付いたら、兄貴の居た場所には僚が居てくれたの。いつの間にか、僚が私の家族になっちゃったの。それで今では、多分ずっとこれからも僚だけが、私の家族なんだろうなって思うの。山口さんも、いつかそういう人と出会えるのかな?そうじゃなきゃ、淋しすぎるなぁ。」
美樹には、香のその言葉が良く解る。美樹も海坊主という家族に出会わなければ、今頃こうして生きてはいられなかった。
「きっと、会えるわ。」
美樹はそう言ってニッコリ微笑むと、わざと話題を明るく切り替える。
「それはそうと、それじゃ今晩は山口さんがご馳走してくれるの?」
案の定、香は一瞬でパッと明るい笑顔になる。
「ウン!そうなの。すっごく楽しみ…なんだけど、唯一の心配が僚。アイツ、ホントにバカみたいに食べる上に、遠慮って言葉の意味知らないから。」
言っている間に、花のような笑顔が一転、苦笑いに変わる。
「確かに。冴羽さん底無しだもんね。胃袋にブラックホールでもあるんじゃない?」
そう言って、2人はまたクスクス笑った。



結局、香は夕方までキャッツにいた。
それから一度アパートに戻って、ベランダの乾いた洗濯物を、室内に移した。
戸締りと火の元を確認して、駅へと向かった。
会社帰りの2人と、駅で待ち合わせなのだ。
新宿から2駅ほど離れた所に、山口の行きつけの店があるらしい。






⑮中華な夜~再び~

俺と山口が改札の所に出て来た時、丁度良く香もやって来たところだった。
今日の香は、チノのカプリパンツに、紺色のコットンのⅤネックニットだ。
普段から、アクセサリーの類は全く身に着けない相棒。
深いⅤネックの襟元から覗く、形の良い鎖骨が、まるで唯一のアクセサリーの様にも見える。
素足の足元は、生成りのスリッポンスニーカー。香は、背の高さがコンプレックスなので、スーツやドレスなどを着る時以外、ヒールの高い靴は殆ど履かない。
まぁ元々、いざって時に動きやすい恰好をしろって言ったのは、他でもない俺なんだけど。勿論、華やかに着飾った時のアイツが人目を引く(なんて、生易しいモンではないが)のは、当然だけど。こんな、何気ない恰好してても充分注目を浴びている。気付いてないのは、当人だけである。
こうして、あらためて遠目から眺めると、惚れ惚れする程イイ女だ。
アパートで晩飯を作って待っててくれるのも、萌えるが、こんな風に会社帰りに駅で待ち合わせなんてのも、たまには悪くねぇ。もっとも俺の脳内は、どんなシチュエーションであろうが、1人イメクラ状態なんだけど。
俺達を見付けた香が、ニコッと笑って手を振った。
あ~~~、和むな。やっぱり。
さっきまでの、オッサンの坩堝と化した暑苦しい電車内のストレスが、一気に消えて無くなるのを感じる。
全く持って、満員電車で唯一学べる事は、壮年性ハゲにも色んな種類があるという事だけだ。
「お帰んなさい。」
「ただいま。」
たったそれだけの会話で、こんなに幸せな気分になるなんて、俺の脳ミソどっかおかしいんじゃねぇのか?なんて思ってしまう。




駅に着いたら、僚たちが丁度改札の辺りに居た。
山口さんも背は高い方で、多分兄貴と同じぐらいかなぁと思う。
それより頭1つ分、背の高い僚。
これだけ人で溢れ返った新宿駅でも、これだけ大きな人はそうそういない。
いつもは殆ど、身だしなみに無頓着な僚だけど、こんな風にきちんとスーツを着たりしてると、思わず見惚れてしまう。
惚れ惚れする程、カッコイイ。
僚の場合、吊るしのスーツで体に合うモノが無いから、必然的にYシャツ同様、やっぱり誂えて貰うんだけど、そうするとやっぱり、様になっていて。たまにしか着ないのが、勿体無いぐらい。
朝からずっと、僚に逢いたかった。
街角でナンパする僚がいないだけで、リビングでゴロゴロする僚がいないだけで、ずっと淋しかった。心の奥の方がザワザワして、ずっと落ち着かなかった。
でもこうして今、視界の片隅に僚の姿を捕えた瞬間に、すぅっと心が凪いでいくのが解る。あぁ、また僚に逢えたんだって。
「お帰んなさい。」
「ただいま。」
たった一言。ただそれだけで、涙が零れそうになる。
私はきっと、感情をコントロールするスイッチがイカレている。僚にメロメロだ。



山口が2人を連れてやって来たのは、こじんまりとした中華料理店だった。
3人は、カウンターに並んで座った。
「やぁ、昇ちゃん。久し振りじゃないかい?今日は珍しくお友達連れで。」
そう言って、店主のオヤジが声を掛けると、
「うん。ここの所、少し忙しくしててね。」
と山口が答える。
「そうかい。あんまり無理するんじゃないよ?体調崩して寝込んだって、面倒見てくれるイイヒトもいねんだから。」
と、人の良さそうな笑みを浮かべるオヤジは、僚と香にもニカッと笑いかけると、
「小汚ぇ店だけど、ゆっくりしてってよ。昇ちゃんの友達だから、しっかりサービスさせて貰うよ。味だけは自信あるから。」
そう言うオヤジに、香はニッコリ笑って頷く。
「はい。とっても、楽しみにしてたんです。」
山口は特に2人に確認する訳でも無く、適当に色んなモノを注文すると、カウンターの奥の冷蔵ケースから、キンキンに冷えた瓶ビールを2本と、グラスを3つ取り出して席へ戻った。
そして3人それぞれが、手酌でビールを注ぎ、とりあえず乾杯なんて言ってると、まるで本当のサラリーマンの様だ。
それからあっという間に、3人の目の前には次々と料理が並べられていく。
そのどれもが本当に美味しくて、すごいボリュームだった。
香は昨日から心配していたが、これならきっと僚の満腹中枢も満足出来そうだと、漸く安心した。麻婆豆腐を食べた瞬間、香と山口が同時に口を開いた。
「「 山椒が効いてる!! 」」
思わず声が重なり、2人はクスクスと笑う。そんな2人に、僚の口元も綻ぶ。
3人の他には、数人の客が居たが、いかにも会社帰りの独身風のサラリーマンや、地味な男子学生風などばかりで、皆1人で黙々と食事している。小さな店なので、それでも6~7割方は埋まっている。その店を50代半ばほどの、小柄で痩せた店主と、恐らくは中国人と思われる若い男の店員の2人で、切り盛りしている。外から見た店構えからは、想像がつかないが、穴場の店と言っても過言では無い。しかし、独身男にとっては、という条件付きで。
そんな店に香が居て、時折料理の味に感嘆の声をあげつつ、意外と馴染んでいる事に僚は苦笑した。香は相変わらず、自分が他人に(とりわけ男に)どう見られているか、という事に無頓着で。この店内でも、他の客からチラチラと見られている事に、全く気付いていない。
香の両脇には、僚と山口と言う2人のハンサムが座っているので、そんな客達もただ見ているだけで他意は無い。美しい花を見て心が和む、そういう事だ。
しかしその程度の事でも、僚としては胸糞悪いのが本音なのだが、そんな事をイチイチ気にしているのが香にバレて、小っっさい男だと思われるのはもっと嫌なので、そんな事はおくびにも出さない。

調理がひと段落ついたのか、店のオヤジが山口に声を掛ける。
「それで?そちらの別嬪さんは、もしかして昇ちゃんのイイヒトかい?」
とからかい混じりに尋ねる。
それを山口が焦って否定するより先に、当のオヤジは
「まっ、そんなワケねぇか。どう見たって、お連れさんの彼女だって誰が見ても判るさ。」
と言って、豪快に笑う。
どうやら、中々シャレの解るオッサンらしいと、僚は思った。
香は真っ赤になって俯いて、ビールを啜っている。
山口は苦笑いしながら、
「もう、オジさんってば、す~~ぐそうやってからかうんだから。うん、でもその通りで、彼女は彼の恋人で、彼は僕の同僚なんだ。」
と答える。
「そうかい。それじゃアンタも研究所の。やっぱりエリートはどっか違うねぇ。どうりでパリッとしてると思ったよ。」
オヤジは僚にそう言うと、ニカッと笑った。
僚も香も内心、…ただのコスプレなんですケド…と思って、人の良さそうなオヤジを騙している様な気分になって少し申し訳なく思った。
昨夜、山口の言っていた通り、ホントに気を遣わないとても居心地の良い、そして料理が最高に旨い良い店だった。
ただ、ある1点を除いては。

太陽の当たる場所

今日は朝から凄くいい天気だから、家事がはかどった。
2人だけだから、洗濯物も毎日たくさんある訳じゃないんだけど、
やっぱり曇ってるより、晴れてる方が気持ちいい。
洗濯物の他にも、枕やクッションや、僚ちゃん人形も屋上に干してきた。
ここ数日、すっごく寒かったのに、今日はまるで春みたいに温かい。
駅に行った帰りに、公園の方まで足を延してみる。
依頼は無かったけど、
今日はなんかそんな事、別にどうでも良いかなって気分になれる。
いつもなら、キャッツに行くのが恒例なんだけど、
今日は何となく、外で過ごしていたい気分。
太陽が当たってポカポカしている、ナイスなベンチを見付けて、早速座る。
植木も芝生も、茶色く枯れちゃってるけど、
今日は空だけは、真っ青でどこまでも澄み渡っている。
新宿のど真ん中なんだけど、空気までいつもより美味しく感じる。
空を見ていたら、ふと、小さい頃兄貴に教えて貰った
『かげおくり』を、思い出した。
たしか、天気のいい良く晴れた昼間に、自分の影をジッと見る。
瞬きするのを我慢して、ゆっくり10まで数えたら、空を見上げる。
そしたらそこに、自分の影が浮かんで見える。
何だか自分が、本当に空に浮かんでいるみたいで、
小さい頃の私は、このかげおくりが大好きだった。
何より1人でも出来るし、大勢とも出来るのが凄くいいと思う。
私と兄貴は、大きくなってからも時々、2人で手を繋いでやった。
思い出したが、吉日。
私は早速、兄貴を思い出しながら、夢中でかげおくりをやった。




今朝の香は、あまり熱心に俺を起こしてはくれなかった。
いつもなら、俺がベッドから抜け出すまで、しつこく攻撃して来るクセに、
今日は何だか俺よりも、何か他の事で頭がいっぱいの様で、
おざなりに声を掛けて来るだけで、心此処にあらずだ。
多少、不満に感じた俺は、意地で起きなかった。
そして、香の気配が消えた頃に、リビングに下りてみると、
なるほど、納得である。
この数日真冬日が続いて、外に出るのも躊躇うほどの寒さだったのが、
今朝は一転、見事に晴れ渡り、昨日までが嘘みたいな、小春日和だ。
きっと香は朝から、洗濯だの、掃除だの、張り切るイベントが目白押しで、
飲んだくれのデクノボウの世話など、二の次なのだ。
まぁ、それならしょうがねぇ。
お天道様に恥じる生き方しかしていないこの俺が、
お天道様にヤキモチ妬いたところで、どうしようも無い。
飯でも食った方が、より建設的というもの。

飯を食って、シャワーを浴びたら、出掛ける支度をする。
別に今更、この晴天に嫉妬はしないケド、
いつもと違う静かな朝は、物足りない。
香が出掛けた時間から推察すると、今頃は伝言板の確認も済ませて、
キャッツでコーヒーを飲んでいる頃だろう。
まずは1発、香をからかう事から、俺の1日は始まるのだ。

そこにいると思って疑わずに赴いた先に、アイツの姿が無ければ、
がっかりするというモノで。
そんな事おくびにも出さず、美樹ちゃんを口説いてはみるモノの。
「冴羽さん、香さんが居るのと居ないので、全く気合の入れ方違うのね。私たちの前で、そういうポーズは必要ないわよ。」
と、軽く見透かされてしまう。
さすがは、伊集院夫人。並みの女ではないのだ。
極上のモッコリちゃんではあるが、こう見えて冴子と同じぐらい恐ろしいヒト。
本気で口説いたら、最期。
地獄を見る事ぐらい、この万年常春男の俺ですら、重々承知だ。
「香さんなら、まだ今日は来てないわよ?このお天気だから、お散歩でもしてるんじゃない?」
ニッコリ笑う美樹に、
「べっべっつにぃ~~~、アイツがどこに居ようと、俺にゃあ関係無ぇしぃ~?」
と、白々しいセリフを吐いてみるが。
「公園に行ってみたらどうかしら?ねぇ、ファルコン♪」
「そうだな。今日は、いい天気だからな。」
どうやら、俺の演技は完全にスルーらしい。
目当てのアイツが居ないキャッツに長々居ても、
要らぬ詮索を受けるのがオチだ。現段階でこそ、
ほのぼのとした喫茶店店主夫妻の仮面を被ってはいるが、
その実、コイツら2人揃って、香の最大にして最強の味方だからな。
逃げるに限る。
カップの中の、残り少ないコーヒーを一息にあおると、
代金を置いて、店を出た。
「ごっそーさん。」
そう言った俺に、海ちゃんと美樹ちゃんは、
笑いながら、何も言わずに手を振った。

何気なく街をプラプラしている体で、
実際は、油断なく香を探して彷徨う事、十数分。
予想通り、
公園のよく陽の当たるベンチに、お目当てのモッコリちゃんを見付ける。
猫みたいなヤツ。
俺とは真逆で寒がりだから、香は。
太陽の当たる場所を見付けるのが、上手だ。
遠目に観察していると、何やら中空のとある一点を凝視して、ボンヤリしている。
何か怖ぇ。
瞳孔開いてんじゃねえか?って、少し心配になったので、
傍に近寄って、声を掛けた。




私がかげおくりをしていたら、突然僚に声を掛けられた。
私が家を出て来たときは、僚はまだ寝てたから、少しだけビックリした。
「おまぁ、さっきから、一点を凝視してボッーとしてたケド、大丈夫か?なんか、怖ぇえぞ?」
なんて言う、僚を見てたら、少し可笑しくなってしまった。
「フフフ♪かげおくりしてたの。」
と答えるモノの、僚はキョトンとした表情で、
「何だそれ?何かの儀式か?」
と聞いてくるので、私は小さい頃に兄貴が教えてくれたように、僚に説明した。
「今日はすご~~く、いいお天気でしょ?だから、ものすごくハッキリと自分の影が空に浮かぶんだよ。」
そう言ったら、僚が目を細めて薄く笑った。
きっと、私の事、ガキだなって思ってるな。
そう思われる事は、時々すごくムカつくけど、今日みたいな日は全然平気。
だって、僚に比べれば、私はホントにガキだし。
僚の本当の歳なんて、誰にも解らないけれど、
私は勝手に、兄貴と同じぐらいだと思っているので、それならこうして、
たまには子ども扱いされるのも、嫌いじゃない。
それにさっきまで、兄貴の事思い出してたから、
ちょっぴり、兄貴と居るみたいな気分になる。
ベンチの隣に座った僚を、横目で見ると煙草を吸いながら、
足元の自分の影を、目を見開いて凝視している。
…何よ、自分もやってんじゃない、かげおくり。
思わず、笑みが零れてしまう。
いいお天気の日は、やっぱり幸せだ。
まだまだ陽が翳る事は無さそうだし、特にする事も無いし。
お金は相変わらず無いケド、時間だけは沢山あるので、私達は限り無く自由だ。
バッグの中から、読みかけの本を取り出す。
かずえさんに、借りたモノだ。
かずえさんは、頭が良くて物知りだから、面白い本を沢山教えてくれる。
ミックもよく、同じ様に色んな本を薦めてくれるけど、
ミックの読む本は、英語ばかりだから、残念ながら私には読めない。
かずえさんや僚なら、問題無いみたいだけど。
相変わらず、この本もとても面白い。
私はすぐに、本の世界に集中してしまった。
隣では珍しい事に、僚がナンパもしないで、ボンヤリと煙草を吸っている。




俺が声を掛けると、香は一瞬驚いて、すぐにニコニコと笑った。
よし、今日の香のご機嫌は上々だ。
俺が朝起きなかった事は、多分お咎めなしだな。
香の一点を凝視するという、謎の行動はどうやら、
”かげおくり”なるモノらしい。
その説明を聞いて、香に、
「それはな、単なる残像で、目の錯覚ってヤツだぞ。」
と言うのは簡単な事だけど、俺にはそれは言えない。
槇村が幼い香に、それを教えてやって、2人で楽しそうに遊ぶ姿が、
ありありと目に浮かぶ。
香の口から時々聞かされる、槇村と香の思い出は、
何故だか俺に、薄いココアを連想させる。
甘くて温かいんだけど、それは少し物悲しい。
あるいはそれは、ただの俺の、勝手な感傷なのかもしれない。
俺はこいつら兄妹の結末を知っているから。
お互いに、肩を寄せ合って生きてきた、その甘い温かい時間も、
たったの20年で、終わってしまった。
残されたのは、寒がりで淋しがりの猫みたいな、香だけだ。
俺が槇村と同じように、香に温かい場所を与えてやれているのかどうか、
甚だ疑問だ。
むしろ、俺の方が香の与えてくれるモノに、甘えている気がする。
俺の生きてきたこれまでを、誰とも分かち合う事が出来ないのと同じく、
槇村と香の20年もまた、俺には計り知れない。
今の香を創り上げた、その20年。
そこに唯一、絶対的に存在する槇村と言う男に、俺は激しく嫉妬してしまう。
羨望と憧れと嫉妬が綯交ぜになった、嫌らしい感情。
それでも俺は、俺でよかったと思う。
今このとき、生きて香の傍に寄り添って居られるのは、俺だから。
いつまでも香の一番傍に居て、香を守る事。
多分、槇村の望んでいた事はそれだから。
槇村が自分の手でそう出来なくなった、今となっては、
それは俺の役目だから。
そんな事を考えながら、俺は無意識にかげおくりに没頭していた。
恐るべし、かげおくり。
香はとっくに、かげおくりを終了して、何やら本の世界にトリップしている。
たまには、こんな風に過ごすのも悪くない。
もう暫くして、春が来たら、
また何度目かの、槇村の命日がやってくる。







RUFFYTUFFY「太陽の当たる場所」という曲から、イメージ致しました。
またしても、季節度外視。
ケシにとって、忘れられない命日がもうすぐやって来るので、
このお話を書きました。
何度、季節が巡っても忘れる事など無いのでしょう。

Requiescat in Pace
[ 2012/04/29 20:37 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

⑯いってきますのキス

僚はその店に入った時から、嫌な気配をずっと感じていた。
厨房の奥、主に洗いモノや、雑用を黙々とこなす1人の男。
オヤジの話では、留学生の中国人で、文句ひとつ言わず大変な仕事をよくやってくれている、との事だ。
だが僚は、その男が恐らく留学生などでは無い事に気付いていた。
そして香もその事に気付いているのが、僚にはハッキリと解った。
山口とオヤジの態度や口振りからは、彼らがこの男を微塵も疑ってはいない事が窺える。
この場でどうこうするより、まして僚と香が山口のボディガードだと悟られるよりも、ここは同僚のフリをして、静観した方が得策だ。糸口さえ見付かれば、後は大元を絶つのみ。8割方、事件は解決した様なモノである。
そしてこの今回の依頼の中で、漸く僚の勘が大きく警鐘を鳴らしている。この小さな手掛かりを、見逃してはならないと。そしてこんな時の僚の勘は、大概当たるのだ。

3人は、よく食べよく飲み、他愛も無い会話を楽しみ、時折そこに店のオヤジも加わった。気が付くと、3時間ほど経過していた。もうそろそろ、21:00を回ろうとした頃、3人は店を出た。
大した距離ではないから、歩こう。と言い出したのは、香だった。
そこで3人はプラプラと、のんびりアパートまでの道のりを歩いた。
香はホンの少し酔っていて、途中、自動販売機でミネラルウォーターを買った。
薄明るい自販機の灯りに照らされた香の横顔に、僚は思わず見惚れてしまった。
この場にもし山口がいなければ、僚は間違いなく香を抱き締めて、キスしただろう。そんな衝動を、辛うじて押し留める為に、煙草を吸いながら歩いた。
「歩き煙草したら、危ないでしょ。」
香がそんな事を言ったが、僚はあえて、聞こえないフリをした。
口が淋しいのだ、とても。誰のせいだよ、と僚は思う。
ごく小さな声で香が、ったく、しょうがないなぁ。と呟いたけれど、それ以上は何も言わなかった。実の所香は、僚が煙草を吸う姿が、大好きだから。
暫く3人は、何も言わずまったりと歩いていた。

不意に香が、山口に話しかけた。
「あのお店、良いとこですね。お料理、すっごく美味しかったです。」
すると、山口はとても嬉しそうにして言った。
「そうでしょ?毎日、香さんのお料理食べてて、お2人なら、あのお店絶対に気に入ると思ったんです。…まぁ、女性をお連れするには、ちょっと小汚くて申し訳無いんですケド…。」
香はまるで少年の様な笑みを浮かべて答える。
「へへへ、正直、私そんな事全然気にするタイプじゃ無いんです。山口さんは、学生さんの頃からあのお店に?」
香は何気なく、山口との会話の中から、あの店の内情を探るべく尋ねる。
僚も香の意図を汲んで、その会話に聞き入る。
「えぇ、あの通りすごく美味しいし、ボリュームあるし、何より安いし…。学生の頃は、しょっちゅうお世話になってました。今は、月に2~3度。無性に恋しくなるんです、オジさんの料理が。」
「ウン、わかるわかる。すごく美味しいもの。ねぇ、僚?ウチからも意外に近くだし、また行こうね♪」
と言う香に、僚も「あぁ、そうだな。」と答える。
…まぁ、近々また行く事になるだろうな、1人で…僚はそんな言葉を胸の内に呑み込んで、深く吸い込んだ煙草のけむりを吐き出した。

「じゃあもう、10年近くのお付き合いなんだ、オジさんと。オジさんは、あのお店ずっとあの方と2人でやってるの?」
香の言う『あの方』とは、例の中国人店員の事だ。
「いいえ。彼は留学でこっちに来てるから。アルバイトですよ。ここ半年ぐらいかなぁ?…僕が初めてあの店に行った時、オジさんは奥さんと2人でやってたんです。随分、可愛がって貰ったんですけど、その奥さんも3年前に癌で亡くなりました。初めて行った時、ちょうど祖母が亡くなってすぐ位の時で、多分傍から見たらすごく淋しそうに見えたんでしょうね。まるで息子みたいに、お2人で可愛がってくれて。…後から聞いたら、お2人も息子さんを亡くされて、すぐだったらしいんです。独り息子で、まだ高校に入学したばかりで。交通事故だったって。…お互い大事な家族を失った者同士って言ったらヘンですけど、僕オジさんの事、お父さんみたいに思ってるんです。」
山口の話を聞いて、香は何やら考え込んでしまった。
こういう時の香は、大抵槇村の事考えてるんだよな、と僚は思う。
暫くは、また何も言わず3人ともプラプラと歩いた。
3人それぞれが、心の中で色々な事を考えながら。
アパートのすぐそばまで近づいた時、香がポツリと言った。
「山口さん、私と僚も同じだよ。同じなの、山口さんと。私と僚の帰る場所は、あそこだけなの。」
そう言って、いつもの2人のボロアパートを指差した。
僚には、香の言葉が良く解る。骨身に沁みる程。
僚と香以外の人間には、本当の意味で香の言葉を理解するには、説明が足りないだろう。しかし、香はそれ以上何の説明もしなかった。
だけど山口には、何となく解るような気がした。この2人が何故これ程までに、互いを必要としているのかが。




アパートに着いたのは、21:40頃だった。
香は一番に風呂の準備をし、山口に勧めた。山口が風呂に入っている間、僚と香はキッチンでコーヒーを飲んでいた。
「おまぁも解ってたろ?あの店員。」
突然僚が、ポツリと尋ねた。
「うん、何となく。でも山口さんもオジさんも、全く疑って無いみたいだし、それだったら何にも言わない方が良いかなぁって思って。私が解るぐらいだから、僚も解ってる筈だし、僚に任せちゃえって♪」
そう言って、香はペロッと舌を出す。
思わず香を抱き寄せた僚は、香の額にキスをする。
「イイ子だ。正解。」
耳元でそう囁くと、香の髪の毛をクシャクシャとかき回した。

冴羽家の電話が鳴ったのは、その時だった。時計は22:00を少し過ぎたところ、こんな時間に電話が入る場合、大抵ロクな事じゃない。
キッチンに置いてある子機に、僚が手を伸ばす。
「・・・はい。・・・・ぉお、冴子か。」
一瞬張りつめた空気が、冴子からの電話だと判り、香も少しだけホッとする。冴子の話を聞いている僚の表情から、それが恐らく仕事の話だろう事がわかる。
「そうか、わかった。で?指紋は?そうか、あぁ。・・・マフィア?・・・あぁ、まぁ小耳に挟んじゃいるケド・・・わかった。今から出る。そうだな、・・・そこなら22:40頃には行ける。あぁ、じゃ。」
僚が電話を切ると、香が心配げに僚を見詰めている。
「んな顔しなくても、平気だょ。大した事じゃねぇから。今の冴子の話からすると、ど~も山口の方の一件とも繋がってるみてぇだ。まぁ、掛かって後2~3日ってとこかな?」
不安そうな香を安心させようと、僚がニッコリ微笑む。
「出掛けるの?」
「あぁ。」
香はそっと僚に近付くと、珍しく香の方から僚に抱き付く。背中に回した手で、僚のTシャツをギュッと掴む。


今朝玄関で僚を見送った時は、ニコニコして元気に手を振った。
だってあれは、ただのおままごとだから。
夕方になれば、また逢えるから。
笑って『いってらっしゃい』て言うのも、簡単だった。
あれが自分たちの日常なら、どんなにか幸せだろう。
スーツを着て、ネクタイを締めた僚。
会社では白衣に着替える僚。
眼鏡を掛けて、満員電車に乗って、屋上で一服する僚。
綺麗なOLさんに、鼻の下を伸ばす僚。
例えどんな僚でも、それが現実ならば、香はいつだって笑っていられる。
でも2人の日常は、もっと違う世界にあって、僚にしか出来ない仕事がある。
この世の中で、僚にだけ与えられた、悲しい運命。
だけどそんな僚の全てを、香は愛しているのだ。
だから、どうしようもない。
それが僚で、それが香だから。
お互いがお互いでなければ、生きていたって仕方ない。
だから、香は笑って見送る事にする。
泣いたら、負けてしまうような気がする。


香は必死の思いで唇を噛むと、零れそうになる涙を堪えて、僚を見上げた。そしてこれ以上無いという程の、微笑みを浮かべ、僚に言った。
「いってらっしゃい。気を付けて。」
「はい。いってきます。」
僚はそう言うと、香の唇にそっとキスを落とした。
いってきますのキスを。

⑰おままごとは、おしまい

どの位、ボンヤリしていたんだろう。
いつの間にかキッチンの入り口に、風呂上りの山口が立っていた。
「香さん?」
香は声を掛けられて、初めて自分がボーッとしていた事に気付いた。
「香さん、大丈夫ですか?」
そう聞かれて、香はゆっくり頷いた。
「冴羽さんは?」
・・・・・
「…飲みに行ったの。ミックに誘われて…。」
暫く黙って、山口は香を見詰めていたが、突然香を抱き締めた。
「っっ!!!」
「…安心してください。変な意味じゃないです。これは友情の抱擁です。冴羽さんは、きっと無事に帰って来ますよ。」
暫く沈黙が続いたのち、掠れた声で香が尋ねた。
「…どうして?」
香はその先を言葉にしなかったが、山口には通じた。
「僕にはお2人の仕事の事は、よく解らないから、言葉ではうまく言えません。でも、香さんがこんなに悲しそうな顔をしているのを、初めて見ました。何だか、居ても立ってもいられずに、つい抱き締めてしまいました。…ごめんなさい。」
そう言うと、山口は香からそっと離れると、
「僕にコーヒーを淹れさせて貰えませんか?少し、お話ししましょう。」
ニッコリと微笑んだ山口に、香も漸く薄く微笑んだ。
「山口さん、どうもありがとうございます。少し落ち着きました。」

お話ししましょうと言った割には、山口は何て言えば良いのか解らなかった。
つい、無意識に香を抱き締めてしまった事が、妙に照れ臭かった。
お互い何も言わず、ただ黙って山口の淹れたコーヒーをゆっくり飲んだ。
「…美味しい。」
香が小さく溜息を吐いて、ポツリと呟いた。
何故そんな言葉が口をついて出たのかは、山口自身にも解らなかったが、気が付いたらそう言っていた。
「香さん、辛かったら泣いて下さい。我慢なんかしなくて良いです。僕じゃ冴羽さんの代わりにもなりませんケド、ただこうして傍にいる事ぐらいは出来ますから。」
香には、そう言って微笑んだ山口と、今は亡き兄が重なって見えた。
気付いたら涙が溢れて、まるで幼い子供のようにしゃくりあげて泣いていた。
香も山口も、どの位そうしていたのかは解らなかったが、暫くして香は落ち着くと、
「山口さん、どうもありがとう。何だか私山口さんと居ると、兄の事思い出します。…へへへ、何か照れ臭い。」
鼻声でそう言って、香は真っ赤になった。
山口は何となく、そのお兄さんはもうこの世には居ないんだろうなと思った。
「良かった。やっと、いつもの香さんに戻りましたね。…冴羽さんもきっとすぐに戻りますよ。」
「えぇ、ごめんなさい。心配お掛けして。明日もお仕事なのに、何か付き合わせちゃって。…私もお風呂に入って休みます。」
「はい。じゃあ、おやすみなさい。」
「えぇ、山口さんも。おやすみなさい。」
山口はニッコリ笑うと、そっとキッチンを出て部屋へ戻った。




翌朝、いつも通りに山口が目覚めると、これまたいつも通り、キッチンでは香が朝食を作っていた。
「おはようございます。」
山口が声を掛けると、香が振り返りいつものように、ふんわりと笑った。
「おはようございます。昨日はありがとうございました。」
少しだけ、いつもより疲れて見えるのは、きっとあれから起きて僚の帰りを待っていたからだろう。
「冴羽さんは?」
「ちゃんと、帰って来ました。でも、明け方近かったから、まだ眠ってます。」
香はそう言いながら、手際良く山口の前に朝食を並べた。
「そういうワケで、今日は多分僚、会社の方はお休みすると思います。後から、会社には電話入れておきます。…山口さん1人だと、やっぱり何があるか分からないから、一応今日は私が車でお送りします。夕方には僚も一緒にお迎えに行けると思いますから。」
「分かりました。香さんも、後でちゃんと休んで下さいね。」
山口がそう言うと、
「ありがとうございます。…何かホントに兄貴みたい。」
と言って、香はクスクス笑った。

それから、山口の身支度が整うと、香は僚の寝室に行って僚に声を掛けた。
「僚?ちょっと、山口さん送ってくから。1時間ぐらいで戻れると思う。いってきまぁす。」
そう言って階下に下りようとした香に、僚が布団から手だけを出して手招きする。
香は首を傾げながらも、僚のベッドへと近付く。こういう点に於いては、香には学習能力が無いのだ。
「どうしたの?」
と問う香の手首をグッと掴むと、僚はアッと言う間に香を抱き寄せた。
「身柄確保。」
僚はそう呟いて、香にキスする。
「いってらっしゃいのチュ―♪」
そう言って、僚は満面の笑みで香を見詰める。香もクスクス笑った。
「もぉ~~、下で山口さん待ってるょ?」
「あぁ、早く帰って来い。」
僚はそう言って、香のクセ毛をクシャクシャと撫でた。




その日から僚が、山口の会社へ行く事は二度と無かった。
しかし誰一人その事について、不審がる事も無かったようである。
かずえが上手く立ち回ってくれた事も大きかった。
後から、山口に聞いた所によると、研究室の室長だけは、ひどく残念がっていたらしい。
何故だか、全くのシロートの僚を、随分気に入ってくれていたようである。
世の中とは、案外いい加減なモノだ。
ある意味、そんな普通の『世の中』から、切り離された世界に居る僚には、それがよく解る。
どんな服を着てるとか、どんな学校を出たとか、
どんな会社に勤めてるとか、有名な学者のコネだとか。
そんなオプション1つで、人間の価値が決まってしまう。
僚からすれば、1人の人間に1つの命があり、それは。
ホームレスだろうが、総理大臣だろうが、全く同じ重さだ。
今まで散々、
そしてこれからも、命を奪って生きていくだろう自分を改めて意識した。
僚にとって、たった1つ大切な命は、他のどんな人間よりも大きくて重い。
香だけだ。
香の命の前では、僚は己の命すら、まるで紙切れ同然に軽いと思える。
そして当の香は、奪う側の僚と対極にあって、
どんな人間の命であっても、それを尊ぶ事の出来る人間だ。
それがホームレスでも、犯罪者でも、
僚でも。
人間の価値を量る天秤など、香の心には存在しないのだ。
だから僚はいつも救われる。
香のその心に。




僚が朝食を摂った後、資料部屋に籠って2時間程してリビングに戻ると、香はソファの上で転寝をしていた。まるで、上品な猫みたいな香は、寝息すら立てずに眠っていた。
呼吸に合わせて微かに上下する薄い肩で、香が生きている事がわかる。
そのあまりの美しさに、僚は暫く見入ってしまった。昨晩、香が一睡もせず、僚の帰りを待っていた事を知っている。僚はフローリングに直接座って、香のすぐ傍で香を見詰める。

香はあれから、山口を送って50分程でまたアパートに帰って来た。
ちょうどその頃、1人で朝食を食べていた僚を見て、香は少し驚いて、
「もう少し、寝てたら良いのに。」と言った。
そうもいかなかったのだ。少し調べたい事もあったし、上手くいけば一気にカタが付きそうなので、寝ている暇は無い。だから僚は、香にそう言うと、
「あんまり、無理しちゃダメだよ。」と言われた。
無理などしていない。早く日常に戻りたいだけだ。貧乏でも何でも良い。依頼なんか無くて良い。あんな風に香を苦しめたくは無い。
昨晩、香が必死に涙を堪えて「いってらっしゃい」と言った事を、僚は知っている。昨晩だけじゃない。いつもそうなのだ。
だからこそ、あのサラリーマンごっこの最中だけは、お互い脳天気に
「いってらっしゃい」
「いってきます」
と笑顔で言う事が出来た。そんな当たり前の言葉すら、僚と香には、この世で最後の別れの挨拶になるかもしれない。いつか、香と槇村がそうであったように。

僚は香の左手をそっと取ると、その真っ白で華奢な手の甲に尊敬の念を込めてキスをした。
香の強さを、香の優しさを、香の気高さを、この世でただ1人僚だけが理解している。表面的なモノではない、キラキラ光る魂の美しさを。
そしてまたこれから、香を置いて、僚は闇の中へ狩りに出掛ける。
でも、必ず帰るから。お前の元に、俺の帰るべき場所に。
そんな僚の切なる願いの込もった、誓いのキスなのだ。




香がフト目覚めると、昼はとうに過ぎていた。
午前中、僚は調べ物があるとかで、資料部屋に籠ったっきり出て来なかった。
(まだ、籠ってるのかなぁ?)
そう思った香の視界の隅に、白いモノがヒラヒラとはためく。
ふと、ローテーブルに目を遣ると、メモ用紙が置いてあり、それを香が愛用している目覚まし時計で押さえてあった。
アラームは、15:30に合わせてある。
メモには、見慣れた僚の文字。

”ちょっくら、狩りに出掛けて来ます。オオカミが来て、何を言っても扉を開けてはいけませんよ、なんつって。山口の迎えは、悪いが1人で頼む。晩飯までには帰ります。”

思わず、香は苦笑する。

こういうのブラック・ジョークって言うのかな。
でもね、僚。笑えないよ。

香は、大きく1つ伸びをすると、今日はハンバーグにしようと思った。
冷凍庫の中の挽肉を、冷蔵庫に移しておかないといけない。
時刻は14:30、山口を迎えに行くまでには、まだ時間がある。今朝干した洗濯物を取り込んで、昨日僚が着ていた、水色のピンストライプのYシャツに、アイロンを掛けよう。
この様子では、また暫く僚のYシャツともお別れだ。