第1話  邂逅

槇村香の日課のひとつは、午前と午後の2回、JR新宿駅東口伝言板に赴いて依頼の確認をすることである。
槇村香と相棒の冴羽撩に用のある人間は、そこへXYZの3文字と連絡先を書き込むのが依頼の合図だ。
但し、書き込んだからといって、まだ正式な依頼人とはならない。
書き込まれた連絡先に、香からの連絡が入り大まかな依頼内容と素性を訊かれる。
それから撩と香による面談を行い、依頼人に不審な点が無いか依頼内容の緊急性や危険度などを鑑みて、
主に撩が判断をする。香は窓口担当で、実働は撩の担当だ。
撩が動く必要があると思えばその時点で、正式な依頼人となるわけだ。


「・・・今日も依頼は、無し、かぁ。」


香は無意識に小さく溜息をついた。
先に述べた冴羽商事の依頼に対するスタンスは、あくまで基本であり、例外も存在する。
家計の状況によっては香の強硬によって、撩の気乗りのしない依頼でも請け負う場合もあるし、
依頼人が妙齢の女性であれば、香の気乗りしない依頼でも撩が勝手に引き受けることもある。
要はケースバイケースだ。
このひと月、依頼を意味するXYZの書き込みは無い。
依頼が無ければ収入も無いので、香にとっては死活問題なのだけれど、
当の相棒は一応、香の雇用主でもあるくせに、その辺りについては非常に呑気に構えている。


「もしかして槇村?」


解かり易く落胆している香の背後から、そんな声が聞こえたので香は振り返った。
学生の頃は、よく同級生にそう呼ばれた。今、この街で香のことを名字で呼ぶ人間はあまりいない。
みんな親しみを込めて『香ちゃん』と呼ぶ。
それもこれも、香が撩の相棒だという前提でこの街の住人に認識されているからにほかならない。


「うん、やっぱりそうだ。槇村だろ?」


そう言って、香の背後2mほどの場所に穏やかそうな笑みを湛えた男性が立っていた。
チノパンに薄い水色のボタンダウンのシャツを着て、紺色のシンプルなジャケットを羽織っている。
ノーネクタイだけどPCを持ち歩けるタイプのブリーフケースを持って、
革靴を履いているので勤め人であることは推測できる。
短く刈り込まれた短髪と、日に焼けた肌、がっちりしているけれどそれほど高くはない身長。
人懐こそうな笑顔に見覚えがあった。けれど、数年前に卒業した高校の同級生は、すっかり大人だった。


「もしかして・・・健太?」

「そうそう、岡崎健太。」

「うわぁ、元気してた?すっかり大人になっちゃって別人みたい。」



香はそう言ったけれど、それはそっくりそのまま岡崎の気持ちだった。
気の重い用があって普段は利用しない新宿駅に立ち寄ったら、
久し振りに再会した同級生は驚くほど大人の女に変貌していた。
昔から美少女であったことは勿論知っていたけれど、それ以上に男勝りで元気の良い彼女は。
そのイメージが若干先行気味で、多くの男子生徒にとっては憧れの女子というよりは、
『気の置けない親友』みたいな存在だった。
けれど、岡崎健太は実のところ、彼女が綺麗だと当時から気付いていたし、
そういう男子は自分だけでは無かったんじゃないかと思っている。
彼女は活発で快活で親しみやすい雰囲気はそのままに、めちゃくちゃ良い女に成長していた。








「大丈夫?お仕事中じゃなかったの?」

香はそう言いながら向かい合った席で、コーヒーのカップに口を付けた。
岡崎が偶然に再会した記念にお茶でもどう?と誘うと、香も警戒することなく軽やかに応じた。
彼は普段、そんな風に気軽に女性をお茶に誘うようなタイプではないけれど、
高校時代の同級生という気安さと懐かしさと、ほんの少しの名残惜しさに思わず、誘う言葉が口を吐いて出た。


「あいにく、自由が利く身でね。全然大丈夫。」

「そう、何やってるのか訊いてもいい?」

「フリーのライター。主に環境問題に関するルポを書いてる。」

「ふーん、高校の時そういうことに関心があるって知らなかった。」

「あぁこれは、最近始めたテーマだからね。昔はスポーツライターになりたかった。」


野球部だった彼を、香は思い出した。
副キャプテンだった高校最後の年は、怪我でレギュラーは外れていたけれど野球部のムードメーカーだった。
部活以外の教室の中でも、彼はムードメーカーだった。
誰かがいやな思いをして落ち込んでいると、そうとは悟らせずに明るく励ましてやれるようなタイプだった。
高校を卒業して以来、同級生と会うことは無かったし、
撩の相棒になってからは職業柄、自分から過去の人間関係を意識的に遠ざけてきた自覚はある。
久し振りに偶然会った同級生とこうして向き合うと、当時の懐かしい思い出が蘇って香は自然と笑っていた。
伝言板に依頼が無かったことも、束の間だが忘れていた。










そのお節介な報告をしてきたのは、撩が懇意にしている情報屋のひとりだ。
いつもなら惰眠を貪っているはずの時間帯に、撩の寝室に直接繋がる電話を鳴らして起こした。
用件は実にくだらない。
相棒のデート現場を目撃したとの報告だった。
なんなら今現在、その駅前のカフェに見知らぬ男と向かい合って、楽しそうにお茶しているらしい。
その店のすぐそばにある公衆電話から掛けてきているのだという。
撩は至極めんどくさそうに返事をすると荒々しく受話器を置いた。
向こう側では、『良いのかい撩ちゃん、香ちゃんが・・』という声がまだ何か言ってたけれど、無視して切った。

確かに枕元の時計を確認すると、香は伝言板の確認に行っている時間帯だ。
あと1時間後にはこの寝室に転がり込んで、ブラインドと窓を開け放ち騒々しく起床を促すのだろう。
彼女のルーティンは、撩を酷く安心させる。
表面的には口煩い相棒にうんざりしている顔をしながら、
もしも香が小言を言わなければそれはそれで多分さびしい。
撩はもうそれ以上眠気は訪れない気がして、大きくひとつ溜息を吐くと勢い良く布団を蹴った。






「依頼、あったのか?」


新聞を読みながら朝食のトーストを頬張って、撩が自分のほうからそんなことを訊くから、香は驚いた。
普段から労働意欲に欠ける相棒は、依頼のあるなしにそれほど興味が無いのだと香は認識していたけど。


「無いよ、けど珍しいね。撩からそんなこと訊いてくるなんて。さっきも部屋に行くともう起きてたし。」


雨でも降るのかな?さっき布団干したのに勘弁して欲しいわ、と言いながら香は洗い物をしている。
そんな彼女の背中を見詰めても、答えなんて出ないのは解かっているけれど、
撩は先ほどの光景を、もう一度思い返す。
普段、撩も香も利用しない喫茶店に香とその男は居た。
窓際の良く日の当たる席で、楽しそうに喋りながらコーヒーを飲んでいた。
天気の良い午前中の光が反射したガラス越しでは、
香の唇を読むのは難しく、会話の内容まではよく判らなかった。
結構ながいこと彼女と暮らしてきたし、彼女のことなら良く解かっているつもりでいたけど。
それは撩の見たことの無い類の笑顔だった。
香が誰か見知らぬ人間を前にして、屈託無く笑っている。
その事実が朝っぱらから、香に関しては意外と打たれ弱い撩を更に気弱にしている。

ド直球で、あの男が何者なのかを訊けたらいいけどそれは、
撩にはそんな権限など無いことのような気がして、思わず尻ごみしてしまう。
依頼人ではないことくらい判るはずなのに、
そんな風に遠回しに探りを入れてしまう自分は自意識過剰だと、撩は思う。


「なに?なんかあった?変な顔して。」


そう言って撩を覗き込んだ香は、とっくに洗い物を終えてコーヒーの豆を挽いていた。
何かあったのはそっちのほうだろ、とは言えずに撩は里芋と油揚げの味噌汁をグッと飲み込んだ。
本心を巧く誤魔化す術ばかり身に着いている。
いつも通りを演じている限り、日常は維持される。
彼女の酷く安心なルーティンは、撩に心の安定を齎してくれる。
この相棒同士の距離感は、少なくとも撩にとっては意識的な心の持ちようによって維持されている現実だ。


「別にぃ、変な顔はお前のほうだろが。りょうちゃんは朝から絶好調にイケメンだし。」


新聞を突き破った香の拳が、軽口を叩く撩の顔面にクリーンヒットして、撩はようやく安堵する。
歪んでいるのかもしれない。
けれどもそれは、撩の自信の無さの表れなのだ。



(つづく)

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[ 2020/03/02 23:21 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第2話  噂

香がまたしても岡崎健太に会ったのは、新宿駅東口伝言板前だった。
数日前に会った時は、午前の日課の時だったけれど2度目は午後だった。
あの時は香に気が付いた彼が背中から声を掛けたけど、今度は逆だった。
彼はまるで何か思い詰めたかのように何度か躊躇い、チョークを握ってはまた戻した。
何か悩み事でも抱えているように、香には見えた。
あの時、久し振りに色んな話をしたのに、彼はそんな素振りなどまるで見せなかった。


「健太?」


香の呼び掛けに応じたのは、やはり同級生の彼であった。
彼は一瞬、驚いた表情を見せたけれど、それが香だとわかるとすぐに嬉しそうに微笑んだ。


「やぁ、また会ったね。」

「どうかしたの?」

「え?」

「あ、ぅん、なんか思い詰めてた感じがしたから。」


岡崎は俯き加減で小さく笑った。
前回、ここで香と会った時に気の重い用事を済ます予定だったけど、止めにして真っ直ぐに帰ったのだった。
ここ最近の悩み事は、あの香とのひとときの一瞬だけは忘れていられた。
それが単なる現実逃避だということは重々承知で、日延べをしてしまった。
槇村香と再会した日を、台無しにする勇気が無かった。
けれど現実は切迫していて、藁にもすがる思いでまたここへ来てしまった。
もう一度、香に会えたのは全くの想定外であった。
それでも彼女に、こんな悩み事を打ち明けて良いものかどうかはわからない。
何より彼女に迷惑を掛けてしまうことになっては、取り返しがつかない。


「大丈夫?健太。」


心配そうに覗き込む香の薄茶色の瞳と目が合うと、岡崎は高校時代の香を思い出した。
ちっとも変わらない澄んだ眼差しに、油断すると泣きそうになった。


「なぁ、槇村。新宿駅東口の噂って知ってる?」

「···噂?」


香はこの位から何となく、気が付き始めた。
彼がチョークを手に取って目の前の黒板に、何を書き込もうとしていたのかを。



“ここに、XYZって書いたらどんな悩みでも解決してくれる、腕利きの仕事人とコンタクトが取れるって噂。”



香が思った通り、彼の目的は自分達へのSOSだった。
あの躊躇い方を見る限り、この間の偶然の出会いの時も、
もしかすると依頼をしようかどうしようか考えあぐねていたのかもしれない。


「何か困ったことがあるのね。」

「え?」

「大丈夫、それ噂じゃないから。」


槇村香はにっこりと微笑み、大きく頷いた。
何故だか頼もしげに見える彼女は、あの少女の頃の正義感に溢れた、
いじめっ子や不良の粗暴な振る舞いを許さなかった槇村香そのままな気がした。
そういえば数日前に一緒にお茶をした時に、
今現在の香が何をしているのか訊きそびれていたことを岡崎は思い出した。
香も香で、特に訊かれなかったので答えなかった。


「アタシ、その“仕事人”のパートナーやってるの。」



とりあえず連絡先を、と香に言われ岡崎は名刺を渡した。
依頼の内容をざっくりと説明すると、香は変に意識もせずに岡崎にハグをした。
大丈夫よ、安心して。そう言って背中を擦ってくれた。
多分ただ純粋に、慰めてくれているのだということは岡崎も充分に理解している。
それ以上の他意はないし、彼女は昔からそういうタイプだった。
でももう、彼も香も高校生の頃のように子供じゃないのだ。
新宿駅の雑踏の中で、こんな風に気安くスキンシップをしても良いような女じゃ無いのだ、今の彼女は。
近付いた彼女からは仄かに柔軟剤の清潔な薫りが漂って、
こんな状況下なのに岡崎だけが妙に狼狽えてしまった。

相棒を連れてくるから、とりあえず待っているようにと、とある喫茶店を指定された。
岡崎にしてみれば、まさかの展開だった。
自分が連絡を取らなければと思っていた、まるで都市伝説のような噂の主が彼女だったなんて。
正確には、彼女とその“相棒”らしいけれど、とにもかくにも岡崎は今、命の危険を感じている。
救って貰えるのならば、藁にもすがる思いだ。









またしても撩にその不穏な報告が入ったのは、情報屋からの連絡だった。
日課のナンパを終えてアパートに戻ると、香は不在だった。
別に不思議でもなんでもない、この時間なら香は恐らく伝言板の確認に行っている。
リビングの電話に出ると情報屋は、新宿駅東口で香と例のあの男がハグをしているのを見たという。
まさか香に限って、そんな街中の雑踏で、自分達のホームと言っても過言ではない身近な場所でそんなこと。

「有り得ない。」

撩の独り言は妙に情けなく、リビングに響いた。
何が起こっているのか、撩には理解できなかった。
確かにこの数年、ひょんなことから香と組むことになって、仕事はおろか生活までも共にしてきて、
何度、危険な自分の元から彼女を遠ざけなければいけないと思ったか知れない。
本来ならば自分と一緒にいて良いような女じゃないのだ、彼女は。
きっと死んだ彼女の兄も、こんな未来を望んではいなかった筈だ。
それでも何故だか離れられずにこれまでやってきた。
チャンスは何度かあった。今後のことについて彼女と向き合うチャンスは。
けれどその度に、妙に名残惜しくて時間稼ぎをしてしまった自覚はある。
気の無い素振りをして、互いに核心には触れずにきた。

タイムアウトってことなのか



撩は頭の中が真っ白になって、ぼんやりしてしまった。
力なくソファに身を委ねる。
いつかは彼女を自分の元から立派に自立させねばなんて、偉そうにする必要もなく、
彼女はもしかすると自由意思を持って、ここを旅立って行くのかもしれない。



そんな撩の気も知らないで、元気の良い足音が階段を駆け上がってくる気配で撩は我に返った。
玄関のスチール製の扉が勢いよく開けられ、
その扉が閉まるか閉まらないか微妙な間合いでもう既に、スリッパを履いた足音が廊下を駆けて来る。
その気配だけで、相棒がいつになく慌てていることが判る。
撩が胸の内で香のリビングに入ってくる間合いを読んだのと、ほぼ同時にリビングのドアも勢いよく開いた。



りょおっっ!!


香は肩で息をしている。多分、駅からここまでかなり急いで帰って来たらしい。
妙に真剣な目をしてジッと撩を見詰める。


「あん?どったの?カオリン。」

「会って貰いたい人がいるの。」

「・・・。」



はぁ?!
ド直球で来やがった。
この場合、もしかしたらこれから自分は香の兄貴でもないのに、
香さんを僕に下さいとか言われるんだろうか、などと撩は瞬時にリアルに想像してしまった。
ダラダラと自分の気持ちに言い訳を重ね、見て見ぬ振りをしてきたツケがとうとう回って来たのかもしれない。
撩はこれまでの人生において、最も大きな修羅場を前にして己の頭に血が昇るのを感じた。


(つづく)

[ 2020/03/03 13:27 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第3話  真相

冴羽撩は、苛立っていた。
この数日間、撩を地味に悩ませていた相棒に関する一連の懸案事項は、想像していたものとは少し、
否、だいぶ趣が違っていた。
結果的に良かったのかどうかを判断するには、まだ時期尚早ではあるものの、
とりあえず今のところ、槇村秀幸に代わって『香さんを僕に下さいの儀式』には参加せずに済んだ。
情報屋のオッサンが妙に煽って報告してくるもんだから、撩も少し冷静さを欠いて焦ってしまった。
結果として、数日前から香に接触していた件の男は、依頼人だったらしい。


だがしかし撩は、このやり場の無い苛立ちを誰にぶつけて良いものやら分からない。
撩の眉間には無意識に、深い縦皺が刻まれている。
いつもの喫茶キャッツ・アイのボックス席で隣に座る相棒を睨んでも、
撩の不機嫌の意味が解っていない彼女はすっとぼけた表情で首を傾げる。


「何?」

「うんにゃ、別になんも。」


それでも男性の依頼になると、俄然撩のテンションが下がることなど今に始まったことでもないので、
特に気にも留めない香のリアクションとしては、呆れて肩を竦めて見せるに留まった。
そんなことよりも、目の前の元同級生・岡崎健太の窮状を報告するのが先である。


「健太、コレは冴羽撩。実働担当よ。」

「カオリン、コレって酷くない?言い方よ。」


香は撩の抗議は聞こえない振りをした。
いちいち構っていたら、肝心の本題までなかなか辿り着かないのだ。


「なんか槇村がすみません、失礼で。あ、はじめまして岡崎健太と申します。」

「どーもー。冴羽でーす。」


2人は高校の時の同級生らしいが、撩は気に入らない。
何がって、まずは香が奴のことを『けんた』なんて親しげに呼ぶところ。
そして、香の口の悪さなんていつものことだし、それもひっくるめて相棒だと撩は思っているのに、
岡崎とかいうこの男は、まるで親しい友達みたいな面をして『槇村がすみません』なんて言いやがる。
撩には良く分からない距離感だ。
そもそも高校時代なんて撩には無かったし、親しい友達なんていない。
どうせ今回は撩が渋ったとしても、友達思いの香的には、依頼を請けることは決定済みなのだろう。
撩に選択肢など、初めから無いのだ。


「で?依頼の内容は?」

「珍し、アンタのほうから仕事の話を進めるなんて。」


茶化した香の頬を抓りながら、撩は岡崎に話の続きを促した。
モッコリちゃんでも無いのに茶飲み話なんてするだけ無駄だから、撩はサクサクと事を進めたいだけである。





岡崎健太は、フリーでライターをやっている。
主に原稿を依頼されるのは、政治経済、社会問題などを主として取り上げる雑誌週刊誌だ。
本来、やりたかった仕事とは毛色が違うが、フリーで食っていく為には仕事の選り好みは出来ない。
最近ライフワークとして取り組んでいるテーマは、日本国内の環境問題について。
シティーハンターに助けを求めることになった事の発端は、この仕事の内容にある。
岡崎にはこの数カ月、追っているネタがある。
関東某県の山間部で、かなり広範囲に亘って産業廃棄物の不法投棄が行われているのだ。
現場付近には、数軒の産廃業者が作業場を構えてはいるが、
行政の書類上では違法な投棄は、どの業者も行ってはいない。しかし実態は杜撰なものだ。
この件については、深堀りすればするほど様々な疑惑が浮上してくる。
産廃業者と暴力団と地方議員の、あまり宜しくない癒着やその他諸々である。
かなり慎重に調べを進めてはいたものの、何処かで岡崎は虎の尾を踏んでしまったらしい。

1週間の内に、駅のホームで背中を押され線路に落ちそうになったことが3度あった。
自覚はあるので常に身構えている成果か、今のところ全て未遂で終わっている。
夜道で不審車両に尾けられていることもあった。
見通しの悪い緩やかにカーブした通りで、危うく轢き殺されそうになったこともあった。
犯人の心当たりなら、数パターン思い当たる節がある。但し、確証は無い。


「ま、おたくがある程度は調べてるし、黒幕はきっちり〆てやっから、おたくは悪事を全部暴いてやんなよ。」

「ありがとうございます。」


それまで緊張した面持ちでこれまでの恐怖体験を語っていた彼が、撩の言葉に漸く安堵の表情を見せた。
撩としては別に、岡崎の為に依頼を請ける訳ではない。
相棒の旧友のこの状況を見て見ぬ振りしてしまうと、
後々、絶対に面倒くさい事態に陥るのが目に見えているからだ。
ハンマーで伸されたり、飯抜きの刑に処されたり、口を利いて貰えないという状況は、
撩の生活の質を著しく低下させる。
だから、この依頼を請け負うことは即ち、香の為でもあり、撩自身の為でもある。
この際、依頼人は二の次なのだけど、それを口にすると香に殺されるので撩は口が裂けても言わない。


「よし、そうと決まれば善は急げね。健太、うちのアパートに暫く身を隠すから。」

「はぁ?!なんでだよ?おま、何処に泊めんだよ?」

「客間よ、当然でしょ?命狙われてんのよ?」

「・・・。」


客間、それは冴羽アパート6階において、香の寝室も兼ねた一室である。
依頼人が女性の場合、何の問題も無くその部屋へ泊まってもらう。いつものことだ。
だがしかし依頼人が男性である場合、いつもこの問題が付いて回る。
その間、香は一体何処で就寝するのが正解なのかということだ。


「別にアンタの部屋に、健太を泊めてくれたって構わないのよ?」

「ぜっったい、い・や・だ。何でりょうちゃんが男と同衾せにゃならんのだっっ。断るっっ」

「じゃあ、客間しか無いじゃん。ハイハイ、この話は終わり。しゅーりょー。」



いつもの2人の遣り取りを唖然として見詰める岡崎のカップに、
いつの間にか忍び寄った美樹がお代わりの珈琲を注ぎ足す。


「気にしないで、いつものことだから。」


そう言ってニッコリ笑った喫茶店の女主人は、このいつも通りのコントのような展開が結構好きなので、
冴羽商事の依頼人が男性だと、いつもこうして楽しみながら傍目から観察している。勿論、今回も。

(つづく)


[ 2020/03/08 09:25 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第4話  別居   

「なんか、良かったのか?槇村。」

「何が?」

「いや、この部屋のことで揉めてたろ?冴羽さんと。」

「あぁ~、そのことなら良いのよ。気にしないで。」



槇村香はそう言いながら、必要最低限の身の回りの物を整理していた。
下着を含む衣類は、岡崎を部屋に案内する前に大きめのボストンバッグに詰めた。
それでもタンスの中に残した物に関して、絶対に中を見ないで、と香は岡崎に念を押した。
あいにく、彼は撩と違って下着を物色するような趣味は持ち合わせていないので、
若干心配し過ぎな香に苦笑しながら頷いた。
普段、あまり物を持たないように暮らしている香だが、
それでもこうして急に部屋を移動するために片付けてみると、細々としたものは沢山ある。
結局、依頼人・岡崎健太を今夜から冴羽アパート6階客間に、匿うことになった。
キャッツアイを出た3人は、一旦岡崎の住まいに出向き、
彼が一通りの荷造りを終えるの待って、アパートに戻った。
それからの撩と香は、客間に彼を泊めることについて数十分の検討会議という名の言い争いを再開した。
喫茶キャッツアイでの、言い争いの続きである。
一応は依頼人に聞かせないよう配慮して、撩の寝室で話していたが岡崎にはほぼほぼバレていたらしい。


7階寝室を半分に仕切って撩と香で一緒に使うか、撩の部屋に健太を泊めるか、香の提案はその2択だった。
しかし、撩はそのどちらにも納得する気はない上に、
『アイツをここに泊めるって言い出したのはお前なんだから、お前が一緒に仲良く寝ればぁ?』
などと憎たらしいことを、ニヤニヤしながら言い放ったので、香の堪忍袋の緒は切れた。
確か前にも同じようなことがあって、同じくからかうような撩の言動に怒り心頭になったことを香は思い出した。
あれから随分経ったのに、自分と相棒の距離感は一向に縮まらなくて、
何の成長も進歩もない自分達に、香は無性に悲しくなって言い争いを終えた。


「あっそう、撩の気持ちはよ~くわかりました。もういい、撩にはお願いしない。自分で何とかするから。」

「何とかって、どうするんだよ。」

「撩には、関係無い。」


香とて、無策ではない。
たまに浮上するこの手の問題は、今に始まったことではなくて、香にとって頭の痛い悩みの一つだ。
撩は依頼人が女性なら喜んでアパートに匿うくせに、相手が男性だといつもこの調子だ。
本当に命を狙われていて、危ないからここに居て貰いたいのに、そこに性別は関係無い筈なのに、
撩のわがままに、いつもこうして振り回される。
今回だって、別に香としては何も、依頼人が同級生だから特別に感情移入しているつもりもない。
これが普通に伝言板を介して齎された見ず知らずの依頼人であろうと、香は同じ主張をした筈だ。
香はこのような際にどうすれば良いか、少し前から考えるようになっていた。
冴羽撩という男がどういう思考回路の持ち主なのか、これまでの経験に基づくデータを脳内で分析し、
対策を講じることが、彼との長年に亘る共同生活を維持していくコツである。
香は撩の協力を得られない場合の、自分の居場所についてちゃんと考えていた。
むしろ何故、今までそのことに気が付かなかったのか不思議なくらいだ。5階を使えばいいのだ。

香が撩の相棒に志願してこのアパートに転がり込んだ当初、香は5階の空室を使っていた。
公団住まいだった槇村家の荷物を、選別する間もなく運び込んだ5階の部屋には、
兄が居なくなって以来使われることの無かった、兄のベッドもある。
いつか処分しなくては、と思いながら手を付けられずにいた物だ。
撩も特に何も言わないし、どうせ空いた部屋だから好きに使えばいいというスタンスらしい。
だから、香は好きにさせてもらうことにする。こうなることを予測していた訳でもないが、
各階の空室も月に2~3度は空気の入れ替えと埃落としくらいはやっていたのだ。
備えあれば憂いなし、である。




「でも、正直少し驚いたよ。」

「どうして?こんな仕事してるから?」

「ん~、それもあるけど。」

「けど?」

「まさかあの槇村が、男の人と同棲してるとは思わなかったから。」


香は私物を仕舞っているキャビネットの前に座り込んで、
簡易ベッドを兼ねたソファに座る岡崎には背を向けていた。
それまで荷造りをしながらの会話だったが、思わぬ岡崎の言葉に振り返って固まってしまった。


「え?なんか俺おかしなこと言った?」

「同棲じゃないから。同居よ、ど・う・き・ょっっ!!」

「どう違うんだろう?」

「そんなの、全っ然っっ違うわよ。アタシと撩はただの仕事仲間だから。」

「あ、そう、そうなんだー。付き合ってるのかと思ったー。」


岡崎は香の剣幕に、それ以上はこの話題に触れるのは得策ではないと感じた。
実は内心、香と撩は恋人関係なのかと勘繰っていたのだけど、
今の香の受け答えから察するに、どうもそうではないらしい。
確かに、恋人同士なら部屋の使い方に関して、あれほど揉める必要も無いかと、ようやく合点がいった。
岡崎がその話題に口を噤んだ後も、香は盛大な独り言を呟いている。
曰く、誰があんなクソもっこり馬鹿だとか、あの変態男だとか、もっこり意地悪男、という様なことだ。
どうやら、複雑な事情があるらしい。というのが、岡崎健太の感想だ。


「あ、でも・・・」


と、香は色々を詰め込んだボストンバッグのファスナーを締めながら、
少し言い過ぎたことを反省するようにフォローを開始した。


「ああ見えて、仕事は完璧だから安心して。アタシに対しては意地悪だけど、あれで意外と優しい奴だから。」

「いや、普通に冴羽さんは優しそうにみえるよ。」

「そう?それなら良かった。アイツが健太に何か意地悪したら、ちゃんとアタシに報告してね。」

「子どもじゃないんだから、槇村は変わってないな。」

「健太は知らないからよ、アイツ男には冷たいの。」



そんなことを言いながら、冴羽撩のことを話す時の彼女は、
妙に生き生きしている気がするのは考え過ぎだろうかと、岡崎は思った。
先ほどの件があるので、心の内に留めるけれど彼等には彼等にしか無い繋がりのようなものを感じる。
喧嘩するほど仲が良い、って言葉もあるから。
岡崎は思わず微笑んでいた。
数日前に、偶然再会した槇村香は驚くほど美しく成長していた。並んで歩くのに気後れするほどに。
冴羽撩ならきっと、何の劣等感も抱かずに彼女の隣を歩くのだろう。
少しだけ、彼のことが羨ましいと思ったのが本音だ。
誰にも言ったことは無いけれど、岡崎健太の初恋の人は槇村香だ。
実は高校生の頃には、岡崎自身も自覚はしていなかった。
ずいぶん後になって同窓会が開かれる度に、彼は槇村香の姿を探したけれど再会することは1度も無かった。
皮肉にもこんな形でまた彼女に出会えるとは、岡崎は予想もしていなかった。









「・・・何とかって、どうするつもりだよ。香のやつ。」


寝室を出て行った香が怒るのも、撩だって理解できない訳ではない。
だがしかし、香の提示した2択はどう考えたってどっちも受け入れ難い。
男と同室っていうのが嫌なのは勿論だが、何があっても絶対に手を出せない女と同じ部屋で眠るのは、
前者に輪を掛けて拷問に等しいと撩は思う。
不毛な攻防だとは、常々思っている。けれど、仕方が無いのだ。


槇村香が束の間の別居生活を画策していることなど、冴羽撩はまだ知る由もない。


(つづく)

[ 2020/03/12 02:22 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第5話  慕情 

「ちょっとこの後、出てくるから。留守頼むな。」



撩が不意にそう告げたのは、夕飯も終えようかという頃合いだった。
香はとうに食べ終え、岡崎ももうそろそろ食べ終わる頃だった、
空いた皿から順に下げながら、香はこの後のことを脳内でシミュレートしていた。
撩だけはいつも通り、何度目かのおかわりをしながら結構な量をマイペースに食べている途中だ。
食後のコーヒーを淹れたら、男たち2人のために風呂の準備をするつもりだった。
この日の午後に岡崎の依頼を受けて、そこからトントン拍子に話は進み、
香は急遽ではあるが、これからしばらく5階で眠ることになる。
勿論、それ以外は普段通りだ。
依頼人と撩の為に、食事や生活の世話をしながら、その時が来れば撩と共に現場へ赴くだろう。
どうせ5階で寝るのだから、風呂は5階で済ませるつもりだ。
いざという時の為に、香が以前使っていた1室はすぐに使えるように備えている。


「出てくるってどこに?」

「ん~、ちょっと気になる点があってな。調べ物。」

「そう、コーヒーくらいは飲んで行くでしょ?」

「・・・いや、やめとく。コイツにだけ淹れてやればいい。」

「そう。気を付けてね。」

「ああ。」


一連の2人のやりとりを何気なく目にしながら、岡崎は先ほどの香との会話を思い出していた。
香曰く、2人はただの仕事仲間であり、それ以上でもそれ以下でもない、ということらしい。
けれどこうして2人の生活の様子を垣間見ていると、仕事仲間というよりは殆ど家族に近いものを感じる。
付き合っているのだとばかり思っていたが、確かにその雰囲気は恋人のそれというよりも、まるで夫婦だ。
けれどそうではないらしいので、やっぱり色恋の介在しない家族関係といったほうが、適当なのかもしれない。
香には確か、兄が1人居たと岡崎は記憶している。昔の香との会話の中には、頻繁に兄の話が出てきたし、
1度だけ高校の卒業式の日に、岡崎もその姿を見たことはあった。
今の香からは、そういえば彼の話は一言も出てこないな、と岡崎はフト気が付いた。
ただ、間借りすることになった客間のキャビネットの上には、
今より少し前、岡崎が良く知る香に近い香と一度だけ会ったことのある彼女の兄が写る写真が飾ってあった。







「じゃ、行ってくるから。戸締りしっかりな。」


撩が愛用のサイドゴアブーツを履くのをぼんやり眺めながら、香は見送っていたけれど、
撩がそう言ったタイミングで、香は少しだけバツの悪そうな表情で頭を掻いた。
『戸締り』という言葉を言われると、さすがに香の計画を告げない訳にはいかない。


「あ、あのさぁ、りょお。そのことなんだけど・・」

「?」

「戸締りはしっかりするよ?勿論。そこは任せといて欲しいんだけど、アタシ、今夜から5階で寝るから。」


・・・はぁ?!


「・・・だって、しょうがないじゃん?客間には健太が寝るんだし、アンタの部屋には寝れないから、そうなるでしょ?必然的に。」




香の何とかするという言葉は、要するにそういうことだったらしいと撩はこの時初めて理解した。
確かに現実的に考えると、結局はその方法しかない。
香にそれを聞かされるまで、じゃあどういう解決策があるのかといわれれば、撩は何も考えていなかった。
というよりも、どうせ香はきっとあの時みたいにリビングのソファを使って眠るつもりだろうから、
自分もなんだかんだ言って、香が寝入った頃を見計らって香を自分の寝室へ寝かせ、
入れ替わりで自分がソファで眠ればいいと思っていた。
とんだ計算違いだった。


「おまっ、マジで言ってんの?」

「大丈夫よ、仕事はいつも通りちゃんとやるから。それよりホラホラ、遅くなるわよ、行ってらっしゃい。」


言い出しにくいことは、相手がちゃんと向き合いにくいタイミングで切り出すに限るので、
香は撩の背中を急かすように押しながら玄関の外へと押し出した。
まだ何か言いたげな撩に手を振って、反論を許す前に玄関の扉を閉めた。


「よし、なんとか有耶無耶の内に誤魔化せたわ。」


香は満足げに頷いたけれど、扉を隔てて反対側の撩は、ちっとも誤魔化されてはいなかった。
確かにわがままを言っているのは自分の方だという自覚はあるけれど、
まさか香がそんな作戦を打って出るとは思ってもみなかったので、撩は何となく釈然としなかった。
予定調和でことが進むものだと、勝手に考えていたシナリオ通りに動かない相棒の掌の上で、
撩は結局上手に転がされているのかもしれない。

撩はいつまで睨んでいても仕方の無いドアに背を向けて、仕事に行くことにした。
香には、今回の件で調べ物があると誤魔化したけれど、本当は今夜、殺しの依頼が入っていた。
冴子経由で持ち込まれた案件だ。
岡崎の依頼の件が無ければ、今夜撩は飲みに行く振りをして仕事をするつもりだった。




「健太、お風呂沸いたからいつでもどうぞ。タオルは籠の中に出しといたから使って?」


岡崎が香の淹れてくれた食後のコーヒーを飲んでいると、香がリビングに顔を出してそう言った。
香は5階の風呂を使うから、終わったら湯は落としていて構わないとのこと。
撩の帰りは何時になるか分からないし、シャワーで済ますことのほうが多いからそれで良いらしい。
この後、香は5階へ降りるがそのタイミングで玄関を施錠するので、
セキュリティ上、それ以降は申し訳ないが外へは出ないで欲しいと告げられた。
後は、眠るまで好きに過ごしてくれて構わないとのことだった。
岡崎に異論は無いので、しっかりと頷いた。


「槇村。」

「なぁに?」

「今日はなんか、色々あり過ぎて上手くまだ気持ちの整理が出来てないんだけど。」

「当然よ。」

「ありがとうな。」

「お礼なんて要らないわ、友達でしょ?当り前のことをしてるだけよ。」

「変わんないな、槇村は。」

「健太もね。それに、依頼料頂けるんだもの。アタシ達も助かるのよ。」


そう言ってにんまりと笑う香が一瞬、高校生の男勝りで駆け回っていた頃の彼女に見えて、
岡崎は不意に切なくなった。
どうしてあの時、いつでも学校に行けば顔を合わせることが出来たあの時に、
自分の気持ちに気付けなかったのだろうと思った。
もしも、あの時に自分の気持ちに気付いて、彼女に想いを伝えることが出来ていたら。
今の彼女と生活を共にしていたのは、冴羽撩ではなく自分であった可能性もゼロでは無かったかもしれない。
けれどそんな風に考えることは、きっと無意味だし、
たとえ好きだと伝えていたとしてもその先があったかどうかなんて、誰にもわからない。
あの時はあの時だし、今は今だし、きっと彼女の運命の人は自分では無いのだろうと岡崎は思う。




岡崎が風呂から上がると、香はもう5階へ降りていた。
岡崎もそれからすぐに客間で眠り、深夜に一度トイレに起きたらリビングに灯りが点いていることに気付いた。


「冴羽さん。」

「まだ起きてたのか。」

「トイレに起きたら、灯りが点いてたので。」


冴羽撩は、暖房の入っていない冷えたリビングのソファにジャケットを羽織ったままの恰好で座っていた。
気の抜けたような表情でぼんやりと佇む彼に、岡崎は思わず声を掛けたのだ。


「アイツが高校生の頃って、どんなだった?」


岡崎は撩の突然の質問に驚いたけれど、思わず笑みが零れてしまった。
今の彼女のことは、確かに彼の方が詳しいに違いないけれど。
昔の彼女のことならば、幾らでも覚えている。


「槇村は、曲がったことが嫌いで、正義感が強くて、怖い物無しで、相手が男子だろうが不良だろうが臆することなく意見したんです。仲間が困っていると放っておけなくて。」

「ふふ・・・変わってねぇな。」


そう言うと撩は何処か呆れたように、けれど愛おしげに目を細めた。
ジャケットのポケットから出した煙草を咥えた。
吸う?と、岡崎に問うと、岡崎は首を振った。あいにく、岡崎は喫煙者ではない。
撩は構わず、煙草の先に火を点ける。
ローテーブルの上には、香が綺麗に洗った灰皿が置いてある。
撩は昔の彼女を知らない。勿論、香も出会う前の撩のことを殆ど知らないのと同じことだと撩は思うけれど。
いつもより煙草がやけに苦い。

撩は仕事を終えてここに帰り着く前に、5階に立ち寄った。
香が眠る部屋の玄関の扉に耳を当てて、香の気配をしばらく感じていた。
人を殺して帰って来た。
もしも自分が、こんな男じゃなくて、子どもの頃に両親と乗った飛行機がジャングルに墜落することなく、
何も思い煩うこともなく普通に育って、学校に通い、就職し、何でも無い普通の毎日の中で、
彼女に出会えていたら。

考えても仕方の無いことを考えてしまうのは、撩の悪い癖だ。
人生にもしもなんて無い。
きっと彼女の隣に居ても良いのは、自分なんかじゃない。
撩はいつだってそう思っている。


(つづく)

[ 2020/03/13 04:44 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第6話  過去  

岡崎が週の内、3度も背中を押された駅のホームには、防犯カメラが数台設置されている。
勿論、岡崎は仕事柄、あのような目に遭った場合の対処法については心得ている。
すぐに一番近くにいた駅員にことの次第を報告し、警察への被害届を提出している。
怖かったけれど、内心の動揺を押し殺し冷静に対処した。
さすがに同じ人物がごく短期間に、このような被害届を立て続けに出す状況に、警察の動きも迅速だった。
その際、防犯カメラでの検証は警察によって既に行われている。


「ごめんなさいね、確かに不審な人物がカメラには映っていたけど、特定が出来てないの。」


野上冴子はそう言いながら、愛車のルームライトを点けて撩に渡された写真を確認する。
岡崎が例の疑惑絡みで命を狙われていることは明白だ。
彼が疑惑に気付き、追っていた人物は後ろ暗い覚えがあるから動機は充分である。
そもそもその身辺を岡崎は探っていたのだから、彼の取材ノートに基づき、
撩が探るターゲットもある程度、初めから絞られている。
今回の依頼は、その点では非常にスムーズに事が運んでいる。
地元産廃業者と癒着が疑われるのは、関東某県の地方議員で原田という男だ。
元々、土建業から成り上がり、その街ではそこそこの地盤を固めている有力議員である。
そしてその地で最大手の産廃業者は、原田の同級生でもある山岡という男が経営する企業だ。
ただし、その顔は表向きのものだ。
山岡は広域指定暴力団の傘下に下っている小さな組の実質的なトップであり、所謂、組長という立場だ。
ただ、普通の一般市民には、そのような事実は判らない。
反社会勢力が、みかじめ料や用心棒といった昔ながらのしのぎだけで稼いでいける時代ではない。
今の輩は、きちんとした会社組織の体を保った資金源を、ちゃっかり確保していたりする。
山岡の組の構成員について、撩はこの数日間丹念に調べていた。
その中で、撩の琴線に触れた数名をピックアップした写真が、今現在冴子の見ているそれである。


「映像で判るのは、被害者が確かに何者かに背中を強く押された事実と、不審な人物が居たってこと。」

「顔は?」

「判別不能、黒っぽいジャンパーに明るめのボトム、革靴を履いてカーキ色の帽子を目深に被っている位の風体しか特定できないわ。体格からいって恐らくは、男性。」

「3件とも同一人物?」

「えぇ、多分。」


そう言いながら冴子も、数名の中から防犯カメラの犯人に繋がるような手掛かりが無いか、
時間を掛けて観察する。


「これ、一旦持ち帰ってもいいかしら?」

「うん、全然いーよ。俺はもう奴等の情報は、だいたい頭ん中入ってるし。」

「ありがと。」


そんなことより、撩。と、冴子の雰囲気がガラリと変わる。
これは冴子が明らかに面白がっている時の表情だ。
撩の何について冴子が面白がるのかといえば、それは香絡みの事柄しかない。


「今回の依頼人、香さんの同級生ですってね。」

「てか、どこ情報よ?それ。うちの依頼人の素性がそんな易々と漏洩してるなんて由々しき問題だな。」

「新宿の某喫茶店情報。」

「・・・ったく、どいつもこいつも。裏稼業の自覚あんのかね。口軽すぎだろ。」


冴子同様、面白がっているのだろう喫茶店の女主人とゴリラ顔のマスターを思い浮かべて、
撩は溜息をついた。
今に始まったことでもないけれど、彼らは少し誤解していると、撩は考える。
撩と香は確かに相棒ではあるが、あくまでそれだけだ。
それ以上でも以下でも無く、彼らが面白がるようなノリで、どーのこーの出来るような女ではないのだ。
撩にとっての、槇村香という女は。


「だから何?」

「気にならないの?」

「何が?」

「だって、数年振りの運命の再会ってやつでしょ?同窓会で恋が芽生えるなんてよくある話だし。」

「くだらね、たとえそうだとしても俺にゃ関係無ぇし。」



同級生だとか、同窓会だとか。
何がそんなに大切なことなのか、撩にはさっぱり理解不能だ。
そういえば今回のターゲットの原田と山岡も、
『同級生』という名の昔馴染みという繋がりが、重要な意味を持っているのだろう。
もう還暦もとうに超えたようなジジイ同士が、同級の好もなにも関係無いだろうに。
撩はこういう時に、やっぱり自分の生きてきた世界と、今現実を取り巻くこの世界が、
混じり合わない全く別の世界線のように感じてしまう。
撩が幼い頃に一緒に育ったあの貧しい村の少年たちが、今も生きているのかどうかなんてわからない。
多分、大半が生きてはいないだろう。
今日の食事にありつける、明日を生き延びる、ただそれだけのことがラッキーだったような世界だ。
撩にとって過去とは、その時間のその場所にそっくりそのまま置いてくるべき存在だ。
捨ててくるといってもいいだろう。未練などない。
撩には、大半の人間が思い描くであろう些細な未来でさえ、想像するのが難しい。
他人が難しいと感じることを難なくやってのけることが出来るのに、
とても簡単で単純なことが撩には出来ない。
約束を交わすことはきっと、他人の未来を縛り付けてしまうことになってしまう。
3月31日に、3人で誕生日の食事をしようという約束をしたあの時のように。







「はい、どうぞ。」


香が、リビングで寛ぐ岡崎に食後のコーヒーを出すと、岡崎は嬉しそうに微笑んだ。
いつもありがとう、と小さく呟く。
香は思わず、そんな些細なことでさえ、相棒と比べてしまう。
撩はお礼なんて言わない。
当たり前みたいな顔をして、くだらない冗談を言いながら悪態をついたりする。
こうして冷静に思い返してみると、碌な奴じゃないけれど、香はやっぱり撩のいないリビングは淋しいと思う。
憎まれ口を叩く撩が、その同じ唇で香の名を呼ぶその声が好きだ。
この数日、撩は依頼の件で連日労働に勤しんでいる。
近県とはいえ、結構な距離を何度も行き来して、情報収集をしているらしい。
翌朝のブランチを食べながら、進捗を報告してくれる。


「槇村、お兄さんはお元気?」


岡崎は、数日前から気になっていることを訊ねた。
香が毎晩、5階に降りた後、岡崎も客間に戻り寝るまでの時間を過ごす。
その写真立てを毎晩見ていると、香が彼のことを一言も語らないことが不思議に思えた。
当時の香の口振りでは、とても兄妹仲の良い印象だった。
でもその質問をしたことを、岡崎は口にしてすぐに後悔した。
香のそのような顔を見たのは、初めてかもしれない。
一瞬、泣いているのかと思うほどに悲しげな表情は、
その質問に、どのように答えればいいのか考えあぐねているようにも見えた。



(つづく)

[ 2020/03/15 02:02 ] pretend | TB(0) | CM(1)

第7話  縁

「ごめん、変なこと訊いて。」


岡崎は自分の言葉が、香の表情を曇らせたことを後悔した。
確かに自分も彼女も、あの頃に比べて大人になったのだ。
他人に立ち入られたくない領域のひとつやふたつ、誰にだってある。
香はそれでも首を横に振った。


「いいの。」


死んだのよ、アタシがはたちの時。仕事中に。
元々、撩は兄貴の仕事仲間で。
だから行く宛ての無くなったアタシが転がり込んでも、何も言わずに受け入れてくれたの。
アイツのこと意地悪だって言ったけど、本当は優しい奴だってことアタシが一番良くわかってるの。



香はそう言って笑った。もう、悲しそうな顔はしていなかった。
ということは、この数年はこうして冴羽撩と生活を共にしてきたということかと、岡崎は考える。
確か、香にとって兄はたった独りの家族だったはずだ。
その彼を喪ったあとの香を慰めたものは、もしかすると撩との生活の中にこそあったのかもしれない。
だから、2人のやり取りの中には、時に独特な絆のようなものを感じることがあるのかもしれない。
もしもその岡崎の考えが間違いでなかったら、到底、そんな2人の間に割って入ることなど出来ようもない。
香と撩の両方が口を揃えて、ただの仕事仲間だというのならそうなのかもしれないけれど。
それ以前に、2人はもう既に家族だ。



「好きなのか?冴羽さんのこと。」

「そういう風にみえる?」

「うん。」

「じゃあ、そうなのかもしれないわね。」

「なんだよ、それ。」

「だって、そんな小さな言葉ひとつじゃ表せないもの。撩のことは。」



その香の言葉で、岡崎の初恋は完膚なきまでに終了した。
そもそも、これまで付き合った女性の数人ぐらいは居たし、
別に槇村香のことだけを高校生の頃から思い続けていた訳でも無いから、そんなに凹んでいる訳でもない。
どちらかというと、やり残した小さな謎解きの答え合わせが出来た感じだ。
きっとあの日、新宿駅で彼女と出逢えなければ、彼女がこの仕事をやっていなければ、
もしも自分が命を狙われていなければ、もう二度と彼女には逢えなかったのかもしれないから。
この数年の間に悲しい思いもしてきただろう彼女が、今こうしているとわかったことがただ単純に嬉しかった。









「どうやら、あのライター、ボディガードを雇ったらしい。」


山岡がそう言うと、原田は苛立たしげに煙草を灰皿で揉み消した。
チョロチョロと自分たちの周りを嗅ぎ回って、目障りな存在だった。
山岡とは政治の道に進む以前から、持ちつ持たれつの間柄なのだ。
今までの色々を公表されると、社会的立場が脅かされるような事柄も少なくない。
こういう時に、邪魔な存在を排除してきてくれたのが正に山岡であって、
互いにズブズブの間柄はもう今更、どうすることも出来ないので後戻りはないのだ。


「どの程度の輩なんだ?そのボディガードとやらは。」

「噂では、かなり腕の立つ相手らしいが、なにこっちもうちの若い衆とは別に、裏の人間に手を回しといたさ。」

「大丈夫なんだろうな、もしもあの小バエみたいな男にあんな記事を書かれちまったら、次の選挙は厳しいぞ。」

「わかってるよ、不法投棄の件が明るみになれば、一番の痛手はうちだからな。」


山岡が雇ったのはやくざとはまた種類の違う裏の人間だ、所謂ヒットマンと呼ばれる殺しをも厭わない男だ。
そのボディガード諸共、あの目障りな記者を闇に葬ってしまえば一件落着だ。








撩がアパートに帰った頃、6階も5階もとうに灯りは消え、寝静まっていた。
撩は階段を昇りながら、この先の展開を思案していた。
要するに岡崎がこの先、邪魔の入った取材を継続して進め、
確証さえ掴めれば早急に記事にして公表してしまうのが、相手にとっては最も不都合なはずだ。
社会的制裁は免れない。
この数日、撩が情報収集を行う間、岡崎健太はアパートに籠り原稿を書き進めている。
撩の調べで、まだ岡崎が掴めていなかった情報もチラホラ出てきている。
撩が秘密裏に情報収集を行い、裏を取って、岡崎が記事に起こす。
流れとしてはそれが一番、効率的だろうと撩は考える。
依頼人の目的は、命の危機を回避しながら不正を世の中に公表することなので、
彼の書いた記事が雑誌に無事掲載されれば、それで良いのだ。









「それで、その冴羽とかいう男はどうなんだ?殺れそうなのか?」


山岡はその薄らでかい体躯のヒットマンに、多少怯みながらも威張って訊ねた。
若い衆が色々とリサーチを重ね、信頼できる筋に紹介を受けたというその男は、
異常に無口でこれまでの経緯を語る山岡の話を、黙って聴いていた。


「・・・フンッ、探偵に毛が生えた程度の男だ。任せとけ。俺を誰だと思ってるんだ?」

「おぉ、さすがに心強いな。頼んだぞ。」


ニヤリと笑った髭の口元が不気味さを演出し、
長年極道の世界で鎬を削ってきた山岡をもってしても、計り知れない恐怖を感じた。









撩はこのところ、階段の途中で足を止めるのが癖になっている。
あと1フロア昇れば自宅玄関なのだが、その手前の5階で寄り道する。
香がその扉の向こうで眠っている。
確かに、初めの1~2年はこんな風に同じアパートとはいえ、部屋は別だったのだ。
あの頃は別段、それが淋しいとも感じていなかったけれど、
一旦近付いた距離が遠のくことは、意外と淋しいものだと、撩は妙に可笑しな気持ちになる。
離れなければいけない、自分が傍にいて良い相手ではない、ただの仕事相手だと嘯きながら、
就寝時以外は、いつもと何ら生活に変化はないというのに、それでも離れがたい気持ちが滾々と沸いて出る。
冴子の言うように、もしも今後、久し振りに再会した元同級生と香の間に恋が芽生えたら、
その時、自分は彼女のことを祝福し送り出してやれるのだろうかと、
撩はこのところ無意味な自問自答を繰り返している。
自分とは違い堅気の世界で、社会のために意義のある仕事をしている男ならば、
香の隣にいて相応しいのか。
離してやれないその手の先に繋がるのは、香の幸せに繋がる未来でないといけないのだ。
それだけは確かだ。
撩はそっと、その冷たいスチールの扉に触れる。
一番近くにいるのに触れられない、一番遠い彼女を想いながら。


(つづく)



[ 2020/03/16 21:42 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第8話  誘拐

事態は、思いもかけず突然に急転する。



撩との打ち合わせに基づき、冴羽アパートに身を隠した岡崎は不法投棄問題とそれに付随する一連の問題、
また取材の過程で受けた様々な妨害工作と、殺人未遂に関する事実を詳細に記事に起こしている。
撩は依頼を受けて数日後に、岡崎にある提案をした。
撩が調べてきて新たにわかったことや、掴んだネタは逐一岡崎に伝える。
その情報を元に岡崎はどの点について裏取りをしなければならないか、更に必要な情報は無いかを精査し、
それを撩に伝え、更に撩が外に出て必要な情報収集を行う、というものだ。
撩が必要なパズルのピースを探しに行き、岡崎が謎を解くのだ。
撩はまるで鼻の利く優秀な狩猟犬のように、岡崎の求める情報を速やかに拾ってくる。
撩と岡崎は自然と、午前中の数時間をそのような打ち合わせに充てるようになっていた。
午後から岡崎は原稿に取り掛かり、撩は夜行性なので夜に備えて睡眠時間に充てる。
香はそれぞれのサポート役に徹した。
こうすれば狙われている岡崎が表に出る必要はないので、アパートの守りさえ固めていれば安全だ。
向こうが岡崎の居場所を突き止めて襲いに来るのが早いか、こちらが悪事を公表するのが早いか、
それは時間との勝負だ。



「冴羽さん、どんな手法を使ったらこんなにきめ細かな情報を、この短時間で持って帰って来れるんですか?」


実際、岡崎は驚いている。
かつてこれほどまでに仕事の早い人間を、見たことが無い。


「・・・まぁ、別に普通に色々調べてるだけ。」

「冴羽さん、ライター向きですよ。今すぐにでも、転職できる。」

「いや、文章書けるかどうかの問題もあるじゃん?普通に無理だろ。」

「あ、そっか。や、でも冴羽さんなら出来るんじゃないかな。」

「俺、漢字とか苦手だからな~。」

「そうなんですか?」

「うん。フツーに難しいじゃん?漢字。」



妙に香と馴れ馴れしい依頼人の彼と、はじめこそ撩は複雑な心境で向き合っていたけれど、
いつの間にか気が付くとそんなわだかまりは、消えてなくなっていた。
自分の命が懸かっているというのに、岡崎は目の前の巨悪を暴きたいという一心で原稿に取り組んでいた。
確かに調べを進めていくと、ターゲットは思いのほか危険な人物で、
逆に言えばよくもここまでたった独りで調べてきたものだと、撩は言葉にはしないものの密かに感心していた。







「冴羽さん!! 槇村がっっ」


慌てた様子で岡崎が撩の寝室に飛び込んできたのは、まだ早朝7時半頃のことだった。
撩は夜通し動き回って明け方前にアパートに戻り、
香の作るブランチにありつく頃に起き出してくるのがこのところの、タイムスケジュールだった。
香はどうやら毎朝6時頃には、6階に『出勤』し、
朝食の準備を始め、その気配で岡崎は毎朝7時頃に目を覚ましていた。
それがどうにも、今朝は様子が違った。
7時を回っても香は6階に姿を見せなかった。不審に思った岡崎は、5階の部屋を訪ねたらしい。
ドアに鍵は掛かっていなかった。物色された形跡は無かったものの、香だけが忽然と姿を消していた。


「来たか。」

「え?」

「おい、原稿のほうの進捗はどうなってる?公表できる形にはなりそうか?」

「まだ、完全にとはいきませんけど、ある程度インパクトのある告発ができる位のボリュームはあります。」

「編集部のほうは?速やかに掲載できる状況なのか?」

「一応、この記事に関しては自分が持ち込んだ時点の最新号で特集を組むことで話はついてます。」

「よし、行くぞ。」

「え?何処に?」





アイツを取り返しに行くに決まってんだろ。



岡崎がそれほど真剣な表情の冴羽撩を見たのは、後にも先にもその時だけだった。
いつも飄々としていて、ふざけているのかと思えば意外と真剣だったり、かと思えば真顔で冗談を言ったり、
ようやくそんな撩のあしらいに慣れてきた頃の岡崎にしてみれば、
それは唯一、撩の剥き出しの感情の表れのように見えた。
平和な冴羽アパートの中に、ほぼ軟禁状態だった半月ほどで忘れかけていたけれど、
香が何者かの手によって誘拐された事実を目の当たりにし、
如何に今のこの状況が非日常であるのかを岡崎は改めて突き付けられた思いだった。
命を狙われた自分の身代わりに、初恋の人が連れ去られてしまった。

それからの撩の行動は迅速だった。
2人でミニクーパーに乗り込み、撩は勢いよくアクセルを踏み込んだけれど、
何処に行くのか、香が何処にいるのか、まるで初めから解っているかのような素早さだった。


「あの、冴羽さん、訊いてもいいですか?」

「何を?」

「槇村の居場所がわかるんですか?」


撩の横顔がニヤリと笑ったのと、前方の信号が赤に変わったのはほぼ同時だった。
それまでの荒々しい運転とは対照的に、滑らかに信号待ちの列に加わった撩は、
助手席側へ手を伸ばし、ダッシュボードを開いた。
岡崎には見方がよく解らないけれど、どうやらその液晶パネルに表示されたのは東京23区の地図のようだ。
そこに赤く点滅する光点がひとつ。


「そこにアイツがいる。」

それ以上、撩は余計なことは語らなかった。
流れで一緒に着いては来たけれど、今から何が起こるのか岡崎には全く予想もつかなかった。
そもそも何故香が連れ去られたのかすら、上手く理解が出来ないでいる。
それは即ち、岡崎が彼らにガードを依頼したことを、先方にも知られているということか。
その上で香を連れ去ったのならば、香の命が危ないのではないかと随分遅れてハッと気が付いた。
何しろ、駅のホームでしつこく突飛ばそうとしてきたり、
夜道で車を使い尾行した挙句に轢き殺そうとしてくるような輩なのだ。
まるで岡崎の心の内を見透かすように、撩が口を開いた。


「心配すんな、アイツはそうそう簡単に殺られるようなタマじゃねぇ。」

「冴羽さん、槇村のことどう思ってます?」

「どうって?」

「少しは意識してたりします?仕事仲間以上の相手として。」

「俺にその資格は無いから。」

「どういう意味ですか?」


それ以上、撩の返事は無かった。
多分、彼はこの生業でいる限り、彼女を危険に晒すリスクが常にあるからこそ、
言葉の枠の中に彼女という存在を当て嵌めてしまうことを、極端に恐れているんじゃないかと岡崎は想像した。
でも、彼には気が付いていないことがひとつある。
それはただの形式的な彼の中での線引きに過ぎず、
気持ちや感情を無いものとして扱うことはナンセンスだ。
だってそこに確実に、それはあるから。
香は同じ意味合いの質問を岡崎にされて、そう見えるのならばきっとそうなのだろうと言った。
けれど、それでは足りないとも言った。
『好き』だという言葉では小さいと。
きっとそれは撩にとっても同様ではないのだろうか。
たとえ見えない振りをしたとしても、気持ちの在り処までは消せない。


今はただ、一刻も早く彼女を連れ戻しに向かうだけだ。


(つづく)

[ 2020/03/18 04:45 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第9話  奪還

「確かに奴らはここに現れるんだろうな。」

「・・・フンッ しつこい。何度も言わせるな。奴はこの女を連れ戻しに来る。その時に全員まとめて片付ける。」


山岡と原田はその男の放つ独特な空気に気圧されて、それ以上は口を出せなかった。
山岡が雇ったヒットマンは、人質に女をひとり連れて来ていた。
女は身動きが取れないように両手を後ろ手に組む形で、上半身を縛り上げられていた。
彼女は例の、岡崎というライターが雇ったボディーガードの仲間らしい。
ヒットマンの言うには、男にとって重要な相方だという彼女を必ず連れ戻しに来るのは間違いないという。
女は妙に落ち着き払っていて、涙ひとつ見せるわけでもなく、
気の強そうな目付きで、ただ黙って山岡と原田を見据えている。
山岡は、万が一に備えて倉庫の周辺に、組の男たちも配備させている。






到着するとそこは、埠頭の端にある裏寂れた倉庫だった。
どうやらあの赤い光点は、その場所を表していたらしい。
岡崎は如何にもな場所に誘われたことに少しの恐怖を感じたのと同時に、高揚感を覚えていた。
勿論、実際に標的に対峙するのは撩ではあるが、せめて足手纏いにならないように、
もしも可能であれば、なにか少しでも彼らの為に協力出来たらと考えて、
考えた途端にガタガタと奥歯が鳴った。武者震いというやつだ。
早朝、岡崎が5階の部屋へ香の様子を見に行って、撩と現場へ駆け付けるまでに1時間と経っていない。
遠目に、都会に架かった高速道路の橋脚が見える。
街にはいつも通りの一日が動き始め、静かに渋滞が始まっている。
近いような遠いようなよくわからない場所から、今朝はやけにサイレンが聴こえる。
けれど東京の街中にあって、昼夜を問わず警察車両のサイレンの音が聴こえることは、別に珍しくもない。


「行くか。」

「はい。」

「しっかり俺の後ろに付いてこい。離れるなよ。」


岡崎は神妙な面持ちで頷く。
撩が錆びの浮いた重たい鉄のシャッターを持ち上げると、埃っぽくて薄暗い空間に大きな音が響いた。
恐らく、長いこと使われていないような古い倉庫だ。
周囲の現役感が漂うメンテナンスの生き届いた倉庫とは、明らかに違っていて異様な雰囲気が漂っている。
所狭しと古い木箱が重ね置かれ、一見して奥まで見通すことの出来ない中を、撩の後に続いて奥へと進んだ。

突然、照明が点いたのと、視界が開けたのはほぼ同時だった。
目の前には、自動小銃を構えた大きな男と、縛り上げられた香の姿があった。
男の後ろに隠れるように、原田と山岡の姿がある。



「遅いぞ、撩。」

「悪ぃ悪ぃ、海ちゃん。こんな朝っぱらから呼び出すんだもん、道混み始めてたからさ。」


撩もそう言いながら、コルトパイソンを構えている。互いに向き合って獲物を構えながら、軽口を叩いている。
岡崎は面食らった。
向かい側で自動小銃を構えている彼は確か、撩と香の行きつけの喫茶店のマスターだった気がするが。
どういうことなのか、理解が追い付かない。
岡崎同様、殺し屋同士の会話に山岡と原田は合点がいかない表情を浮かべ始めている。










遡ること数時間前。
冴羽アパート5階の1室の呼び鈴を押したのは、海坊主だった。
香はもう既に身支度を整えていて、すぐに応じた。


「すまんな、ちょっとそこまでドライブに付き合ってくれ。」

「喜んで。」


全てシナリオ通りだ。
この日のこの時間、海坊主が冴羽アパートを訪れることも。香が人質役として連れ去られることも。
何なら、岡崎が冴羽撩というボディーガードを雇ったらしいという情報も、撩があえて相手方に流した。
相手の出方くらい読めている。
山岡の組の若い衆が、撩と渡り合える裏の人間を探している所に、
撩は懇意にしている情報屋を使って、海坊主を紹介したという訳だ。
だからこれは全て、シティーハンターとファルコンの張った、巧妙なトラップなのだ。






「で?野上冴子のほうには?」

「連絡した、今こっちに向かってる。」


撩はアパートを出発する前に、岡崎に原稿をメールで雑誌編集部に送るよう指示し、
自分はすぐに警視庁の牝豹へゴーサインを出した。
今遠くで聴こえているサイレンはきっと、その内この埠頭の周辺へ収斂されて来るだろう。
役者が揃った所で、あとは全員まとめて片付けるだけだ。



「お、おい、ききき貴様らっっ どういうことだっっ。」


薄々、気が付き始めた山岡が、怒声を上げた。原田はいまだ状況が飲み込めずにいる。


「悪ぃね、おっさん。もうすぐしたら、あんた等の悪事、全部残らず世の中に知れ渡ることになってっから。」


撩の言葉を聴いて、山岡は合図した。
木箱の陰に隠れていた組の男たちが、一斉に姿を現す。
さすがにやくざの世界で長年生きてきただけあって、
昨日今日会った殺し屋を、丸ごと信用していた訳では無いらしい。
まあほぼほぼ素人同然の田舎ヤクザ達の殺気はダダ漏れで、
撩も海坊主も、倉庫に入る前からこうなることは予測していた。


「おーおー、流石やることが汚いねぇ、まぁ化かし合いはお互い様ってか。」


撩は軽口を叩きながら、海坊主の背後に配置した組員をひとりづつ仕留めていく。
海坊主は黙々と、撩の周囲に潜んでいる組員を仕留めた。
後々、警察が出張ってくる案件なので、あくまで生け捕りにこだわって、軽く動きを封じる程度でおさめておく。
ものの数分で、片は付いた。
呻き声を上げながら蹲るやくざ達と、青い顔をして震え上がっている黒幕のおっさん2名。
岡崎は一連の流れるような展開に、狐に摘ままれたように呆けていた。
海坊主は既に、おっさん2名が逃走を図るのを予防するために縛り上げている。
銃撃戦の真ん中で拘束されていたはずの香は、自力で縄を解き椅子に座って呑気に背伸びをしていた。
演技とはいえ数時間、拘束されていて両肩が強張っていた。

撩は何も言わず、まっすぐに香の元へと向かった。
手を差し出すと、香も何も言わず撩の手を取った。



「お疲れ。」

「どういたしまして。」

「腹減ったぁ~~。」

「帰って朝ごはんにしよっか。」

「ああ。」



そのやり取りを、岡崎健太はただ見ているだけだった。
気が付くとすぐ傍で、大きなサイレンの音が鳴り続けている。
ようやく終わった。
この数カ月、追い続けてきた事件が解決した。


「健太も、お疲れ。」


冴羽撩を見ていたはずの彼女の視線が岡崎に向けられ、彼女はニッコリと笑った。
本当に、彼女は驚くほど綺麗だ。
岡崎健太の胸の中には、一連の事件のことなど綺麗さっぱり消え失せ、そのことだけが強く印象に残った。
朝の光の輪の中に舞う埃すらも、彼女を包んでキラキラと美しく見えた。



(つづく)

[ 2020/03/19 04:12 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第10話  ロマンス  

無事に解決したのを祝って、今夜はみんなで飲もうと言い出したのは香だった。

午前中には事件も解決して、岡崎をアパートに匿う理由ももう無くなったはずなのに、
香は何故だか、解決祝いと称したその日の夜の予定を着々と決めてしまった。
いつも以上に夕食のメニューに力を入れ、その料理の腕を如何なく振るうことにしたらしい。
フリーという立場柄、時間の融通の利く岡崎に、この夜までアパートに滞在して明日帰ればいいと、
遅めのブランチを食べながら無邪気に言った香を、撩が全く止めもしなかったことが、岡崎には意外だった。
この依頼の間、きっと撩にとって岡崎は招かれざる客なのだろうと、岡崎自身が感じていたからだ。
当然のように岡崎が今夜泊まることを前提に話を進める香に、撩は何も言わず目を細めているだけだった。






「なんか、すみません。」


食後のコーヒーを飲んで、岡崎は屋上にむかった。
案の定、撩はそこにいて感情の読めない顔で手摺に凭れて煙草を吸っていた。
岡崎の声に振り返ると、撩は半分ほどに短くなった煙草を灰皿に押し付けて火を消した。
屋上のコンクリートの上に吸殻を散らかすと香が怒るので、
撩は自然と、屋上に上がる際に灰皿を持参するのが習慣になっている。
気が付くとこうして香によって馴らされた撩の習慣は、日常の至る所にありすぎて、
今ではもう、撩自身にもあまり自覚はない。


「なにが?」

「いや、事件は解決したのに、なんだか図々しく居座ってしまって。」


撩はまるで、岡崎が面白いことでも言ったかのように破顔した。
初めて会った日の冴羽撩とは、まるで別人のような表情をする人だと、岡崎は思った。
そんな風に笑うことも出来るんだと、意外に思った。


「アイツぁ、言い出したらきかないからな。」


彼にそういう顔をさせているのは、紛れもなく槇村香という存在なのだということに、
岡崎はその撩のひとことで全て理解した。
彼は決して、自分の言葉で香に対する気持ちを表すことは無いのだろうけれど、
全身全霊を込めて彼女を愛しているのだろう。
それを彼女を守るという行動で、体現しているのだ。


「ま、良いんでない?アイツが楽しんでたら、とりあえず平和だから。」

「怒らせたら結構めんどくさいですからね、槇村。」

「そーゆーこと。」


たった数時間前に、埠頭の倉庫であったことがまるで嘘のように穏やかな時間が流れている。
正直、岡崎には彼や香の生きている世界が、現実のことのようには思えなかった。
だからこそきっと撩と香には、通常では考えられないような葛藤があるのだろう。
今回は、彼らの周到な作戦によって、原田と山岡とその手下達を罠に嵌めたけど、
毎回このような展開に持ち込めるとは限らないのだろう。
本当に香が捕らえられ、ギリギリのやり取りの中で撩の判断一つで、生死を分かつ場面だってあるだろう。
岡崎にはそれは、想像を絶するような世界だ。


「冴羽さん。」

「ん?」

「俺、高校の頃、槇村のことが好きでした。」

「そっか、物好きなんだな。」

「この間、久し振りに会って、めちゃくちゃ大人になった彼女を見て、正直少し気後れしたんです。」


撩は彼の言葉に、何を言ったらいいのかわからなかった。
撩が知っている制服姿の香は、まるで男の子のような生意気な女の子だった。
兄貴のことが心配で、心配するあまりに関わってはいけない危ない男の傍に近付くような、
世間知らずで無鉄砲で、でもそれと同時に放っておけない庇護欲を掻き立てる儚さを併せ持っていた。
澄んだ目で撩の深淵を無遠慮に覗き込んでくるから、撩はあの頃から香といると調子が狂う。
それまで何をやろうが誰を殺ろうが咎めたことなど無いような良心の欠片を、香は撩の喉元に突き立てる。
いつの間にか撩の心の中には、香がいつも居座っていて、
何をするにも彼女ならこういう時、何を思うだろう、何て言うだろう、と撩に問い掛ける。
撩がこれまで独りで作り上げてきた世界に、香が棲みつくことで、色と匂いと温度が加わった。
欠けていたピースや、独りでは見付けられなかったピースが、撩の心に音を立ててはまる。
たったひとりのちっぽけなあのシュガーボーイに出会ったばっかりに、撩はずっと調子を狂わせっぱなしだ。



「思わず咄嗟にお茶に誘ったけど、自分が同級生じゃなかったら並んで歩くことすら無いんじゃないかって。こんな槇村の隣にいても引け目を感じない、堂々と胸を張って歩ける人ってどんな人だろうって。」

「アイツは、そんなこと全く気にしないさ。」

「勿論です。これは勝手な俺のコンプレックスというか、だから余計に質が悪いというか・・・」


岡崎の言葉は、撩にも痛いほど突き刺さる。
自分という人間がもっと違う人間で、もっと違う出逢い方をしていれば。
何度そう願ったか、天地がひっくり返っても有り得ない望みはただ虚しさを増すだけだ。


「初めて会った時、冴羽さんなら槇村と一緒に居てもきっと、堂々と居られるんだろうなと思ったんです。」


岡崎は最初、本当にそう思った。
背の高い美しい彼女に似合う、格好いい彼だったら、
彼女の隣でなにも気負うことなくさり気無く、手を取って歩けるのだろうと。
けれど。
第一印象というものは、大概、覆されるものだと相場は決まっている。




「俺は、 」


撩は何かを言い掛けて、言おうとした途中で胸ポケットから煙草を取り出した。
何を言うのか岡崎はなんとなく分かるような気もしたけれど、撩の次の言葉をゆっくり待つことにする。
少し喋り過ぎたから、今度は撩のターンだ。

手の中で少しだけ弄んだ煙草を軽く唇に挟む。
火を点けて深く肺に吸い込む。吸い込んで、吐き出す。


「同級生っていう関係が特別に見えて、羨ましいと思ったよ。」


もしもあの春の嵐の日に、彼女の大事な家族を奪った原因を作るような男じゃなくて、
自分の素性も分からない、本当の名前も生まれた日も国籍も分からないような男じゃなくて、
彼女を泣かせてばかりのこんな自分じゃなかったら。
撩にはもう今更、やり直しなど出来ない人生について、何度もしもを考えたかしれない。


「ですよね、そうだと思った。ずっと考えてたんです。」

「なにを?」

「俺には資格が無いって言った、冴羽さんの言葉を。」




同じなんです、俺も、冴羽さんも、そこら辺にいる誰か知らない人だとしても。
みんな誰でも平等に人は死ぬし、死ぬまで生きるから。
だから資格が無いなんて言ったら、

槇村が悲しみます。




「冴羽さん、俺、単純なことに気付いたんです。要するに、槇村が誰と一緒に居たいかってことじゃないですか?」



知らず、撩は小さく微笑んでいた。はじめはこの依頼人に苛立っていた。
依頼人にというよりも、依頼人と相棒との関係に。
自分の知らない彼女を知っている男に対する嫉妬、撩の苛立ちの原因は、ただそれだけだった。


「ま、たしかに。」

「だから、色々考え込んでも無駄ですよ。」

「アイツが俺のとこに居たいと思ってるって言いたいの?」

「それ以外、何があります?」

「・・・。」

「俺のダチ、泣かせたら承知しませんよ?」



撩の可愛い相棒は世間知らずだから、きっともっと世の中には良い男がいるだろうに。
なんの因果かわざわざ面倒くさい男を選んで、いつも危ない目に遭っている。
やっぱり、もっとシンプルな世界で、彼女に出会いたかった。




「そんなに単純な話でもないんだよ。」

「単純でいいんですよ、槇村なんか超単純ですよ。」

「知ってる。」




類は友を呼ぶのだろう。
香の友人は、お節介でお人好しだ。
無遠慮に踏み込んで、撩の逡巡などくだらないことだと一蹴する。
撩もいつかそのうち、こんな風に軽やかに単純に未来を思い描けるようになるのだろうか。
それは撩にとって、ずっと遠くに輝く星を掴むような憧れのようなものだ。




(つづく)

[ 2020/03/21 08:27 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第11話  エンドライン

岡崎健太がどういう人間で槇村香とどういう関係なのかを充分に理解し、今回の依頼は嫉妬に値するような事案ではないと判断をした筈の撩は、それでも軽く嫉妬を覚えていた。


岡崎の命を狙っていた暴力団関係者と地方議員は、冴羽商事の描いた計画通りに身柄を警察に引き渡すことで、今回の事件は幕を閉じた。午前中のまだ早い時間帯に事件は落着し、すでに昼のニュースでは速報として大きく取り沙汰された。
その短時間に詳しい事件のあらましが発表できたのは、ほかでもない岡崎のこれまでの命懸けの取材の賜物だ。依頼人の無事を護れたのは勿論だが、香は同級生の仕事が良い形で成果を上げたことに対しても喜んだ。今夜はお祝いしようと、この数時間、何やら張り切って香がキッチンに籠っていたのは撩も岡崎も知っている。


それにしても張り切ったな、というのが撩の感想だ。
通常の食卓の風景も多分、標準的な2人暮らしの食卓よりもボリュームがあるほうだとは思うけれど、やや大きめのファミリーサイズのダイニングテーブルには、所狭しと香の手料理が並んでいる。この宴の主役が自分ではなく、依頼人だという事実に撩は嫉妬を覚えたのだ。
それにいつだったか、2人で飲んでねと言って歌舞伎町の顔見知りのオカマから貰ったワインのボトルも並んでいる。多分この先、撩と香の2人きりで、そのワインを開けるようなシチュエーションは当分訪れないと思われるので、今このお祝いと称した宅呑みで開けなければいつ開けるのか、撩にもそれは判らないのだけども、兎にも角にも撩が思わず、それ開けちゃうんだ…という微妙な心境になったのは事実である。香が鈍いのはきっと、こういうとこだ。




「いや、凄いな。これ全部槇村が作ったの?」

「お祝いだからね」




撩の複雑な心境など知る由もない同級生コンビは、他意は無いのだろうけどニコニコしている。
香には撩の心の内など知りようもない。



「食べてみないことには凄いかどうかわかんねぇぞ、胃薬準備しとくか」

「アンタはいつも一言多いのよ」


撩は確かに一言多いが香はいつも言葉より先に手が出るので、隣に並んでいた撩の鳩尾には綺麗に香の拳がめり込んでいた。そのようなやり取りはこの依頼の間に幾度となく目にしてきたので、はじめは驚いていた岡崎も完全に見慣れていた。多少荒っぽい2人のコミュニケーションも、このコンビを理解してしまえばそれは傍目には愛情表現にしか見えない。






結果から言えば、料理の出来は満点だった。食べてみなくてもわかりきっている。
そんなことは誰より撩が知っている。3人ともよく食べて、よく飲んだ。
ワインのボトルは早々に空になったし、撩はストックしてあるバーボンを持ってきて岡崎と一緒に飲んだ。香もワインだけでなく、更にビールまで飲んだのだ。料理がなくなって酒だけになってもダイニングから場所を移して、盛り上がった。
岡崎は撩の知らない頃の香の話を沢山話したし、香はそれを聴いて本当に楽しそうに昔を思い出した。撩はそれでも不思議と嫌な気持ちにはならなかった。槇村秀幸の目線で語られる香、一度だけシュガーボーイの頃に出会った香、自分の目で見て今目の前にいる香。そして撩の知らなかった友達の目線で見てきた高校生の頃の香。きっと可愛くて、しっかり者で、でもどこか抜けてて、屈託なく笑う香を、多分岡崎は、撩に教える為に話してくれているだろうことが、撩にも解った。
きっといつか時間が経った頃、その少女の香も撩の心の中に棲み着くのだろう。

夜も更けて日付が変わる少し前には、
香はリビングのソファでしっかりと酔い潰れて眠りこけていた。



「槇村が寝てる内に帰ります」

「泊ってけよ」


柄にもなく、撩は自分の口から出た言葉に自分で驚いた。
岡崎はまるで、ずっと昔からの友達だったような笑顔を撩に向けて首を振った。


「そんな野暮じゃないです」

「なんだよ、それ」


まだこの時間なら表でタクシー拾えるから、と岡崎は言った。
彼は気を利かせているつもりかもしれないけれど、残念ながら前にも後ろにも進めない雁字搦めの自分を、撩は情けないと思った。玄関先で見送りながら、ありがとうと言った撩に、岡崎は意外そうな顔をして笑いながら帰って行った。本当に撩はありがたかったのだ。
自分と暮らしていることで過去の人との繋がりを、香は意識して断ってきたのではないかと撩は前から思っていた。別に撩がそうしろと言った訳でもないし、そうすべきだと思っていた訳でもない。でもきっと物分かり良くお利口さんであろうとしがちな相棒は、誰に言われるわけでもなく自分で考えてそうしている。だから岡崎が少しの間だけでも現れて、香が楽しい気持ちになってくれてたのなら、撩はありがたかった。撩には同じことはできない。
撩はとりあえずソファで眠りこけている相棒をそのままにして、客間のシーツを取り換えた。
昨夜まで別の男が寝ていたその布団に彼女をそのまま寝かせるのは、絶対に嫌だから。









月明かりが忍び込む薄暗い部屋の中に、彼女が眠っているだけで撩の胸は締め付けられた。
酒の飲み過ぎとかでは断じてない。
香にとって今夜の酒は、己のキャパを超えた飲酒量だったかもしれないが、
撩にしてみれば、むしろいつもより全然少ない。ほろ酔いといったところだ。
理由などひとつしかない。
彼女の髪や肌に触れたら甘いのは判り切っている。でも、同時に胸が痛むことも撩は知っている。
触れられないとわかっている彼女に焦がれているからこんなにも胸が苦しいのだ。

そっと髪を撫でる。
でもただそれだけだ。
それ以上、彼女に踏み込む資格は自分には無い。
もっと違う自分であったら、殺し屋なんかじゃない普通の男として、
ただの何処にでもいる平凡な人間だったなら、
彼女の気持ちに甘えることだってきっと出来たはずだ。でも現実は違う。
現実は時に、撩に様々な試練を突き付けてきたけど、
一番きついのは彼女と出会ってしまったことかもしれない。
いつもいつもいつも、考えても仕方の無いことを撩は考えてしまう。



「…りょおのバカ」


寝言すら可愛いと思ってしまって、撩はさすがに悪酔いしたかもしれないと思い込むことにした。
そろそろリビングに戻って呑み直さないとやばいかもしれない。
もう一度だけその癖毛に触れた。



うん、俺はバカだよ。間違いない。
そしてお前は綺麗だ。


決して穢せない類の綺麗さだと撩は頑なに信じているから、
岡崎には申し訳ないが、彼が思っているような関係には多分この先なれないと思っている。

(つづく)
[ 2021/04/14 02:11 ] pretend | TB(0) | CM(0)

最終話  不確定な未来

カーテンの隙間から差し込む光が鋭くて、香は目を覚ました。薄いグレイの遮光カーテン越しの室内の明るさで、もうそれが早朝と呼べる時間ではないことが窺い知れる。
覚醒と同時に感じたのは酷い喉の渇きと、二日酔い特有の吐き気を伴う頭痛だった。
そこで香は昨夜の酒盛りを思い出した。確かに昨夜はいつになく酒を飲んだ。
アルコールに関しては、別に強くもないけれど特段弱いわけでも無いはずだ。
それでもさすがに昨夜の酒量は限度を超えていた自覚はある。
完全に寝坊だし、それに気付いた今この瞬間ですら布団から起き上がるのが億劫だ。
いつもは腹が立って仕方ないぐうたらな相棒の朝の様子も、今朝ばかりは共感できる。
自分がこの状態なら、今頃きっと相棒も7階の自室で鼾をかいて寝ているだろうと思ったところで、
ふと香は我に返った。

そういえば昨夜は、いつ眠りについたのかさえ皆目覚えていない。そもそもこの数日間、香は5階の空室に仮住まいしていた筈で、この客間兼香の部屋には依頼人がいた筈だ。でも、今ここには昨夜の部屋着のままの二日酔いの自分がいるだけだ。

(…あれ?健太は?)

そこまで考え始めて漸く、香の頭が働き始めた。
とりあえず寝床でウダウダしていても仕方がないし、たかだか二日酔いくらいでダウンしていたら相棒の奴に何を言われるかわかったもんじゃない。普段から夜中の酒の名残を色濃く残したままのだらしの無い彼に、朝から口煩く小言を言うのは香自身なのだ。そっくりそのままブーメランを投げ返されるのも癪なので、意を決して起き上がると勢いよくカーテンと窓を開けた。

「やべ、吐きそぉ」

目の裏を直撃する午前中の日光が恨めしいし、眩暈も酷いけど、それでもとりあえずは朝ごはんを作らねば。あと、昨日無事に事件が解決した依頼人の所在確認と、撩も起こして、多分散らかり放題であろうリビングの片付けもしなくてはならない。やること目白押しだ。





吐き気を気合で無理矢理封じ込めた香がキッチンで見た光景は、いつもとは真逆の現象だった。
部屋着を洗濯済みの別の部屋着に着替えただけの、冷たい水で顔を洗っても浮腫みが否めないぼんやりした顔の、所々直らない寝癖を半ば諦めて開き直った香とは対照的に、嬉々として朝食を作る冴羽撩の姿がそこにあった。昨夜の酒程度では何の不調もきたさない鋼の肝臓の持ち主は、香の様子に笑みを浮かべた。

「よお」
「おはよ」

席に着いた香の前に焼いた塩鮭と卵焼きを並べながら、何か言いたげにニタニタしている撩。味噌汁の具がシジミなのは自分が二日酔いだからだろうかと香は深読みする。それでも香の薄い白磁にピンクの小花柄の茶碗に、見るだけで食欲が減退しそうなほどに大盛りの白米をよそう撩。そして撩は、深鉢で2人分の納豆と浅葱を混ぜている。にやにやと笑いながら。

「何よ?」
「何が?」
「変な顔でずっと見てるじゃない」
「誰が変な顔だよ、失礼な」

アンタがよ、と香が言うと撩は声を出して笑った。

「だっていつもと逆だからさ」
「…」
「たまにはこういうのも悪くねえな」

こういう時の撩は香をからかうのを楽しんでいるので、
香はもうそれ以上何も言わず食事を始めることにした。味噌汁に口をつけたところで思い出した。
あまりにも意表を突かれて、一瞬忘れていたことがあった。

「そういえば、健太は?」
「…ぁ?帰ったよ、今更かよ」
「いつ?」
「昨夜」
「…全然おぼえてない」
「そうだろうな」

なにせ酔っ払って眠りこけていたのだ。撩が抱きかかえて客間に運んだことすら知らないだろう。どうやって部屋に辿り着いたのかを訊かれたら、撩は曖昧にすっとぼける気満々だったけれど、香がそれ以上質問しなかったので少しだけ肩透かしを喰らった気持ちになった。
もしも相棒がこのラインを越えた時にはこう言おう、こう訊かれたらこう答えよう、撩はいつも先回りをしてリアクションを一度脳内でシミュレートする癖がついている。







香は少しだけ遅い日課をこなしながら考えた。
朝食を終えてリビングに向かうと、予想に反してそこは綺麗に片付いていた。しかも撩はなんと洗濯機も回していおいてくれたらしいし、一昨日の夜まで健太の使っていたリネン類まで洗って乾燥機に放り込んだらしい。極めつけがあの完璧な和定食の朝食だ。なんだか拍子抜けした気分で、香は撩が洗った洗濯物をベランダに干していた。

「やれば出来るんだから、たまには自分でやってくれればいいのになぁ」

そう呟いても、やれば出来る男・冴羽撩は香の食べた後の食器を洗い、楽しそうにコーヒーを淹れると香を独り残して出掛けて行ったので撩には届かない。ただの独り言だ。香も香で、それでもなんだか満更でもない気がしていた。相変わらず二日酔いは残っているし、出来るなら日頃からやれと思うのも事実だけれど、朝から楽し気に香を構う撩のことが嬉しくなかったと言えば嘘になる。





撩がコーヒーを淹れていたので一緒に飲むものだとばかり思っていたさっきの香は、諦めていた寝癖が気になったので自室に戻り、ドレッサーの前に座った時に初めてそれに気が付いた。小さく折られたメモ用紙が化粧水の瓶と乳液の瓶の間にひっそりと挟まれていた。その文字は決して上手ではないけれど誠実に丁寧に書かれていて、書いた本人の善良な人柄と丸刈りだった少年の頃の面影を香に思い起こさせた。昨日までここにいた健太からのメッセージだった。



『槇村へ
 君はもっと自信を持ったほうがいい。君自身が思うよりずっと、君は綺麗だ 』


そんなものを見付けてしまって数分間惚けていたら、キッチンに戻った頃には撩はもう出掛けた後だった。テーブルの上には淹れたての湯気を上げるコーヒーのマグカップと、これまた撩の殴り書きが残されていた。


『二日酔いには昼寝が一番、とりあえず寝ろ』


元同級生の彼とは真逆で、いかにも撩らしいその短い置手紙がまるでラブレターみたいに嬉しいなんて。多分、撩が知ったら笑い飛ばすか、変な顔をして暫く口を利いてくれなくなるだろうと、香は思う。だから香は撩には本当の気持ちは言わないでおくのだ。






撩のパンツを干しながら、ついさっき小さな紙切れを弄びつつキッチンでコーヒーを飲んだことを思い出す。友達は、もっと自信を持てとアドバイスをくれたけど、香にはまだ自信も勇気も足りない。撩の傍で頼れる相棒でいられる自信も、撩の心の奥にアクセスする勇気もまだない。香の言葉が届かない時にだけ、こっそり本音を漏らせるのだ、本人のパンツに向けて。


ねえ、りょお。
こう見えてアタシにも綺麗だって褒めてくれる男の人のひとりくらいはいるらしいよ。










その頃、冴羽撩は駅前の雑踏をぼんやりと眺めながら考え事をしていた。日課のナンパをする名目で家を出たけれど、気分は乗らない。昨夜、香の寝顔を見ながら自分のような男が縛り付けていていい女ではないな、と毎度お馴染みの自虐プレイに浸っていたけれど、そんな自分自身と矛盾するように、今朝は彼女を甘やかしてリアクションを楽しんでいた。一体、この先彼女に何を望んでいるのか、彼女とどうなりたいのか。どんな未来を思い描いているのか。
そんなことは誰より撩自身がわからないし、何より向き合うことから逃げている。撩にはずっと傍に居て欲しいと懇願する勇気もないし、約束の言葉で縛り付ける覚悟もない。彼女から沢山の幸せを貰っている自覚はあるけれど、彼女を幸せに出来るかどうかなんて自信がない。
全部が曖昧で、でもちょうどいいぬるま湯のような陽だまりのような、温かいあの2人の暮らしがあるアパートで白黒つけずに生きていたいだけだ。それが卑怯であることは、撩も重々解ってはいるけれど、どうにかこのまま可愛い彼女と手を取り合って、行けるところまで行くわけにはいかないだろうかと考えている。




まーいっか、今日も生きてるし。お前は笑ってくれるだろ?香。
俺が生きて帰ってくるだけで。







まだこの先の未来など誰にもわからないし、未来は不確定だから生きていかれる。
互いを想い合いながら、まだ今は初めの一歩を踏み出せないでいる2人の物語も、
きっと沢山の不確定な未来という名の障害物を乗り越えながら紡がれていく。
今この一瞬も、次の瞬間には過去になり、未来も今になる。
きっとそうやって気付いた頃には、
あんな時もあったねと笑いながら話せる時が来ることを、2人はまだ知らないでいる。


(おわり)

[ 2021/04/22 01:32 ] pretend | TB(0) | CM(1)