切ない恋にまつわる5つのお題

書きたいテーマにしっくりくるお題を見付けたのでお題に沿って書き進めたいと思います。
お兄ちゃんのことを軸に書いていけたらと思っています。
なんとなく続いてるような、けれども単体でも読めるようなシリーズとして書く予定です。


1.憂慮
2.追想
3.心音
4.未練
5.誤算



お題配布元:天球映写機さま
        (いつもお世話になっておりますm(_ _)m)
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1.憂慮

「要するに槇ちゃんは惚れてんだよ、妹に」





尊敬する警察官の父親がその子を抱いて家に帰って来たのは、槇村秀幸が9歳の時だった。
その頃の秀幸にはまだ全ての事情を明かすことの無かった父親は、ひとこと

この子は今日からお前の妹だよ

そう言って、おくるみに包まれたその温かな小さな子を秀幸の腕に抱かせた。
母親はその数ヶ月前に大病を患って他界していたし、父親は刑事という職業柄まいにち多忙を極めていた。
この子の面倒をいったい誰が見るのだろうと不思議に思いながらも、
秀幸の胸には初めての感情が芽生えていた。
その子は茶色がかった丸い瞳で秀幸を見上げると声を立てて笑った。
まだミルクしか飲まない小さな子が他所の家庭に貰われてくる事情がなんなのか、
秀幸には難しいことは分からなかったけれど。それがとても不憫であることは理解していた。
父親は乳児でも預かって貰える託児所を探してきて、香は昼間そこで面倒を見て貰うことになった。
香が来る前から、秀幸と父親は毎朝通学路の途中まで一緒に歩くのが日課だった。
どんなに遅く帰っても父親は朝のその時間、秀幸と会話をすることを欠かさなかった。
そこに小さな香が加わった。
朝は父親が香を託児所に送り、帰りの遅い父親に代わって夕方は秀幸が香を迎えに行った。
おむつも換えたし、風呂にも入れて、ミルクも飲ませた。泣き出せば抱き上げてあやした。
本棚には母親が残した育児書があったのでそれを読んで、
かつて母親が自分の為に作ったのであろう離乳食を秀幸は作った。
香はいつも秀幸を見付けると、嬉しそうに笑った。


香の本当の両親の話を、唐突に父親が語ったのは秀幸が10歳の時だった。
香は1歳になっていた。
香の本当の父親は事故で死んだけど、生き別れた母親と姉がまだ何処かに居るらしいこと。
その人たちが香を返して欲しいと言ってきたらどうするの?
確か秀幸はその時、父親にそう訊いた。
父親はただ何も言わずに、小さく微笑みながら秀幸の頭を大きな手で撫でたのを覚えている。
頑張ったんだ。
1年間、楽しいことのほうがいっぱいあったけど、
小学生の兄にとって言葉も通じない小さな妹の面倒を見るのは楽しいことばかりでもなかった。
けれどいつか誰かがこの子を自分の元から連れて行こうとするのなら、その時は多分絶対に渡さない。
秀幸はまだ子どもだったけれど、そう思っていた。
香は槇村家の娘だ。自分の妹だ。香も秀幸のことを「にーたん」と呼んでいる。
それが秀幸にとっての現実の全てで、香にとっての全てだった。


父親が捜査中に死んだのは、秀幸が14歳で香が5歳の時だった。
その頃が秀幸にとっては一番辛い時期だった。
秀幸はまだ義務教育が終わってなかったし、香はまだ未就学児だった。
頼れる身内も近くにはいなかったので父親の同僚であった人達が骨を折ってくれて、
槇村兄妹の行く末を案じてくれた。
絶対に香とは離れ離れになりたくないと意固地になる秀幸に示されたのは、
1年間の期限付きで離れ離れになることだった。
あと1年だけ頑張れば、秀幸は高校生になるし香も小学校に入学する。
父親が遺してくれたもので慎ましく生活できるようになるまでの間、
香は児童養護施設へ預けられることになった。
秀幸はこの時期に、父親と同じ警察官になることを目標にした。
志望校に合格して香を迎えに行けるように、毎日必死に勉強をした。
香は槇村家に来て2年後に、正式に父親と養子縁組をして槇村家の娘になっていた。
父親の亡くなったあと、同僚であった警察の人に聞かされた。
結局、別れ別れになった母親と姉が香を迎えに来ることはなく、
色々と煩雑な手続きを経て正式に香の家族が決まるまでに2年の月日が必要だったということだ。
本当ならば、産まれながらにそこにあるべき家族という存在を持たずに、
宙ぶらりんになってしまった可哀そうな妹。
かわいくていとおしくて不憫な香を守るのは自分なのだと、
秀幸が赤ん坊の香をはじめて抱いた時に芽生えた感情は、愛だった。



秀幸が18歳で高校を卒業し晴れて警察官になった時、香は9歳だった。
高卒で警察官になった秀幸には、10ヶ月間の警察学校での訓練という課題が待ち受けていた。
9歳の香はまたしてもその間、児童養護施設へと預けられた。
同じ頃の秀幸は手探りで妹の世話をしたけれど、自分には頼れる父親がいた。
けれど香にはいなかった。
香には、秀幸しかいなかった。
兄妹2人には互いしか頼れる者もなく、2人を繋ぐのは愛情だった。

秀幸が刑事課に配属を希望し、父親の後を追うように刑事になった時、香は中学2年生になっていた。
初潮を迎え、ブラジャーをするようになり、身長はどんどん伸びた。
寝ぐせが付くということを聞かない癖毛を気にするようになって、
朝は身だしなみに時間が掛かるようになった。
思春期がやってきた妹はそれでも素直で、2人は仲の良い兄妹だった。
いつしか仕事に忙殺される秀幸に代わって、家のことは香がやるようになった。
料理を作り、掃除をし、洗濯をして秀幸の帰りを待っていた。
ようやく平和な槇村家を2人で築いて歩き始めていた。
香は頑張って学費が掛からないようにと、都立の高校を受験し合格した。
秀幸は順調に階級を上げて、警察内でも若手有望株と呼ばれた。
キャリアの道を約束された有能な女刑事の野上冴子とコンビを組むことが増え、
夜の街に顔が利くようになった。


秀幸が新宿の片隅で撩に出会ったのは、その頃のことだった。
自分には無いものを持っているように見えた撩に、秀幸は魅せられた。
ひどく自由な男だと、その身軽さに憧れたのかもしれない。
秀幸には大切なものが沢山あって、けれども9歳のあの頃から身軽に生きることなど許されなかった。
その代わりに得た掛け替えのない愛すべき存在を手の中に収めたまま、
秀幸は同時にその自由さに憧れてしまった。
秀幸が警察を辞めたのは、香が高校1年生の時だった。







香は己が槇村家の養女であることを既に知っているようだ。
秀幸がそのことに気付いたのは、香が高校に入学して少し経った頃だった。
それでもその話題を口にすることは、これまで無かった。
2人とも意図的に避けてきたと、今にしてみれば秀幸はそう思う。
2人とも頑張ってきた。頑張って幼い力で、形の無い家族をいちから作り上げたのだ。
血の繋がりなど関係なかった。
それでももうすぐ20歳になる妹に、兄として本当のことを告げなければいけないと秀幸は考えている。
香には自分の人生と向き合う権利があるのだ。
香は賢い子だから、きっと本当のことを聞かされても笑い飛ばして現実を生きるだろう。
それでもこの役目だけは、いつかの父親にやって欲しかった。
優しく微笑んで秀幸の頭を撫でた父親に。

秀幸はただただ、愛する妹に幸せになって欲しいだけだ。
殺伐とした恐ろしい世の中の醜悪なものに触れることなく、明るい世界だけに触れて生きていて欲しい。
自分と相方の暗躍する世界など知らぬまま、妹に悪いことが忍び寄ることのないように。
秀幸が憂慮するのは妹に害が及ぶこと。
けれど秀幸はこの目の前の相棒に、全幅の信頼を寄せている。
この男の凄さはこれまで充分に目の当たりにしてきた。
きっと大丈夫だ、自分と相棒ならば。



「馬鹿いうな、お前には解らないよ。撩。」


そんな訳はない。
これはあくまでも、家族としての愛情なのだ。
あの子を父親が連れて帰って来た時から、あの子を守ると心に決めたのだ。
惚れてるなんて、そんな次元の話ではないんだ。
あの子が、香が20歳になったら笑ってこの指輪を渡しながら、一緒に酒を飲むんだ。
平和で温かな槇村家で。


それは秀幸が依頼人の待つシルキィクラブという店に出向く前の、相棒との短いやりとりだった。
秀幸が29歳で、香はもうすぐはたちになる。
雨が静かに降り始めていた。








2.追想

3月31日、夕方。昼間には晴天だった空模様は、
次第に真っ黒で不気味な雲が垂れ込め今にも降ってきそうな気配がした。
相棒にその話を聞かされた時、撩は素知らぬふりで初めて聞く話のように振舞ったけれど知っていた。
今日が相棒の妹の20歳の誕生日で、6日前に3年振りに再会した彼女は確かにあの頃よりも大人びていた。








おにいさん、何してる人?


撩はあの時そう言って、槇村秀幸に初めて声を掛けた。
その少し前から、撩の行動範囲内をちらつくその男に少しだけ興味が沸いたのがきっかけだった。
幾つかある内の撩の行きつけの店のカウンターに彼の顔を見付けて、撩は声を掛けたのだ。
独特の雰囲気を纏っていた。
普通の勤め人には見えなかったし、
どこか自分と同じ匂いを漂わせているようでけれど暗い所は微塵も無かった。単純に不思議に思えた。
この多少平和ボケしている感の否めない大都会の真ん中で、
自分は特殊で異様な存在である自覚くらいは撩にもあったけど、彼もそれと同じくらい異質に思えた。
彼の場合、一見するとその人波に紛れて凡庸に映るからこそ、撩には尚一層異質に見えた。
いつの間にか居ついた新宿の街で、自分が懇意にしている情報屋と彼が親しげに話しているのを見て、
撩は確信を持った。彼は恐らく同じ種類の人間だと。



何に見える?



槇村秀幸は簡単には素性を明かさなかった。
それから何度も同じ店で顔を合わせるようになり、
会えば数杯のバーボンを一緒に飲んで、彼は顔色一つ変えずに日付が変わる前には帰って行った。
帰る場所があるのだろうと、撩は皆まで訊かずとも理解した。







3月26日、彼女と2度目に会ったあの日。
撩の通報で冴子たち警視庁の連中がブティックの店内を調べているのをよそに、
槇村は撩と香を目の前にして驚きながらも呆れていた。
確かに数日間家を空けて兄に心配を掛けていた彼女を、
依頼の合間に探してくれと撩に頼んだのは槇村本人だけれども。
まさか下着姿の妹が相棒のジャケットを羽織って、
この数週間に亘って目星を付けていた例のブティックにいるなんて槇村の想像の域を遥かに超えていた。
香を囮に使った撩は相棒に大目玉を喰らったし、家出娘は兄にこっぴどく叱られた。
互いに何となくはその存在に気が付いていても、
あえて触れずにやってきたこの数年間が何だったのかというくらい、あっさりと3人はその場にいた。
まるでずっと前から良く知っている間柄のような雰囲気で。








今日はまたずいぶん酔ってるな。


撩が声を掛けると、槇村は今にも眠りこけそうな眼をしてグラスに残ったバーボンを飲み干した。
初めて撩が槇村に声を掛け、一緒に酒を飲むようになってから3~4ヶ月が経った頃、
珍しく正体を無くすほどに酔った槇村がその店にいた。
日付はとうに変わり、いつもの彼ならばとっくに店を出ている時間だった。
撩は面倒事が嫌いだが、カウンターに突っ伏して潰れたそこそこ上背のある男に、
閉店の片付けが出来ない店主はほとほと困っていた。
情報屋でもあり顔馴染みでもある店主の為に、撩はその酔っ払いを持ち帰ることにしたのだ。



ほら、水だよ。飲みな。


遠くて近いような男の声と、固い床に横たわった感触。
頭のすぐそばに水道水で満たされたロックグラスが置かれる音。
槇村が意識を取り戻したのは、馴染みのバーでもなく公団の自室の畳の上でもなく、
コンクリート打ちっぱなしの酷く味気ない部屋だった。
顔見知りだがいまいち素性の怪しい男が、
簡素な椅子の背凭れに頬杖をついてニヤニヤしながら槇村を観察していた。そこで漸く正気に戻った。
槇村は慌てて上体を起こし、己のトレンチコートのポケットを弄った。



探し物はこれかなぁ?



撩は楽しそうに笑いながら、少しだけ草臥れた警察手帳とずっしりと持ち重りのする手錠を揺らして見せた。
槇村は苦笑すると、床の上に置かれたグラスに手を伸ばし遠慮なく水を飲んだ。



槇ちゃんって、刑事さんだったんだ。



そう言って撩は笑った。
本当ならば、酔い潰れて手帳と手錠をかくもあっさりと市民の手に委ねるなどということは、
あってはならないことだけど、その日の槇村にとってはそれは至極どうでもいいことのように思えた。
後輩の婦人警官が殉職した。
彼女は自ら志願して人身売買組織への潜入捜査の囮となることを願い出た。
あの時に先輩として止めておくべきだったと、今更悔やんでもどうしようもない。
彼女が囮だと感付いた組織は彼女を見せしめに殺し、それ以降の足取りはぷっつりと途切れてしまった。



酔い潰れてこんな所に連れ込まれてしまう、ポンコツ刑事さ。


モチベーションはダダ下がりだった。
大事な仕事仲間を喪い、捜査は暗礁に乗り上げた。
素性の知れない男にお持ち帰りされて、自分の帰りを待って茶の間で眠りこけているだろう妹を想う。
とっくに日付は変わっている、酒の臭いをさせて午前様で帰るなど最悪だ、と槇村は思わず笑ってしまった。








俺と妹には、香には血の繋がりがないんだ。



表情の読めない顔で槇村がそう言った。
遠くで小さく雷の音がゴロゴロいっている。まだ雫は落ちて無いものの、春の空気は湿り気を孕んでいる。
生温い風が頬を撫ぜる。
撩はとうの昔に、その話を知っていた。
3年前に、当事者である槇村香の口から聞かされた。
けれどそれが何だというのだろうと、正直撩はそう思う。
槇村秀幸という男に出会い、コンビで働き、数年間そばで彼を見てきた。
彼がどれだけ妹を大切に思っているかなんて、撩は誰よりもわかっている。
戸籍のない透明人間みたいな殺し屋だってすぐ目の前にいるのだ、
少なくとも彼らには法的に正式な家族関係があり、20年間の彼らの歴史の積み重ねと絆がある。
槇村秀幸は妹の香を愛しているし、香も兄を愛している。
それ以外、必要なものなど無いだろう、と撩は思う。
それが家族としての愛だろうがそれ以外だろうが、撩にとってはその違いは些細なことのように思える。










酔い潰れて朝帰りをした槇村が、それでもなんとか次の事件に向き合えたのは諦めなかったからだ。
その時点では一旦、事件は暗礁に乗り上げたけれど地道に捜査を続けて、
いつか大事な後輩を無残に殺した奴らを、 同じ目に遭わせて 殺してやる。
そう考える自分はきっと、警察官という枠から少しづつ逸脱し始めていたのだろうと、槇村は後に思い返した。
きっとターニングポイントはあの時だった。
殺風景な撩の部屋で酔いから醒めて正気に戻ったと思っていたけれど、
実は狂気が芽生えていたのかもしれない。

次に追いかけていた犯人は薬の売人だった。
よくわからない怪しい薬が出回り始めていた。
まだまだ詳しい実態は警察にも把握できていないが、
強力な副作用と禁断症状は命も脅かすほどのものらしい。




奇遇だね、槇ちゃん。



歌舞伎町の奥の奥、野良ネコとドブネズミくらいしかいないような薄暗い路地裏に撩がいた。
咥え煙草で飄々とした言葉とは裏腹に、足元には骸が転がっていた。
それまで槇村が追っていた薬の売人だった。


そっちのホシとこっちの獲物、同一人物だったらしいよ。


これ適当に始末しといて?と言って、撩は懐から茶封筒を取り出すと槇村に渡してその場を去った。
擦れ違った撩のジャケットからは、硝煙の匂いがした。
意識したとたん、辺り一面に濃密な血の臭いが立ち込めているのに気が付いたけど、
その時にはもう撩はいなかった。
その後のことはまるで夢でもみているかのようだった。
撩に渡された封筒の中身は、警察もまだ把握していなかった売人に関する背後関係をまとめた資料だった。
何故だか冴羽撩に関することは、伏せておいたほうが良いような気がして槇村は口を噤んだ。
あくまでも己が発見した時には、すでにあの状態で売人が死んでいたことにした。
封筒は証拠資料として提出した。
出所は歌舞伎町の信用のおける情報筋からのものとしても、それ以上追及されることなどない。
刑事それぞれに信用のおける情報屋と呼ばれる人間が存在し、
聞き込みの際の重要な戦力になっていることなど、暗黙のルールだ。

そんなことがあった数日後、槇村は公安部に呼び出された。
何も理由は聞かされず、ただ例の薬物事犯に関しては今後、公安部が取り仕切ると告げられた。
そして一枚のメモを手渡された。とある住所の書かれたそのメモの場所に独りで訪ねるよう勧められた。
勧められるというよりも、半ば命令のようなものだった。







香の母親が香の為に買ったというその指輪を眺めながら、槇村は苦しげに眉根を寄せた。
この世の何処かに、香と血の繋がった本当の母親と姉が存在するらしい。
子どもの頃に父親にそう聞かされて以来、槇村が心配してきたのはそのことだった。
いつか本当の家族が香を取り戻しに来たら。
可愛い妹を奪うのが誰であれ、それが本当の血の繋がった母と姉であれ、槇村は渡したくはない。


これはおかしいことかな?撩。香がもしも望めば、香を帰すしかないんだろうか?


だとすれば、黙っておく訳にはいかないだろうか、離れたくない、あの子と離れるなんて俺は・・・
そう言って暗い顔をして俯く相棒の表情は、今まで撩が見たことのないものだった。
家族愛なのか男女の愛なのかなんて撩には解からない。
そもそも家族なんて、撩にはいたことがない。




要するに槇ちゃんは惚れてんだよ、妹に


馬鹿いうな、お前には解らないよ。撩。




確かに撩には解からない。
何が正解かなんて解かっていたならば今頃、
こんな世界の片隅で小汚い奴らを始末してまわる掃除屋なんかやってない。
でも良いじゃないかと思ったのだ。
別に兄妹でも愛おしくて互いが大切で、掛け替えのないものを沢山抱えて生きていけるのなら。
撩からすればそれは、眩しくてとても幸せそうなことに思えた。
そして槇村の大切なものを、撩も相棒として遠くからでも護ってやれればそれで良い。










槇村がメモを頼りに訪ねた先は、立派な日本家屋のお屋敷だった。
そこには優しそうな老人が住んでいて、けれどどうやら彼は只者ではない人物らしい、
ということだけはわかった。
槇村を応接間に通すと、老人はニッコリと微笑んで思いもかけない言葉を発した。



新宿におる大きなねずみみたいな男と仲良くしてくれてるらしいの。



それが誰のことを示すのか槇村にとって心当たりは、冴羽撩だけだ。
彼から渡された謎の資料が絡んでいることくらい、もうこの辺りで槇村も気が付いていた。
きっとこの老人は警察の人間では無いだろうけど、公安部とはなんらか関わりのある人物なのだろう。



それは冴羽撩のことですか?

ふぉふぉふぉ、ああ見えて友達がおらんからのぉベビーフェイスは。仲良くしてやってくれ。



老人はまるで孫の心配でもするかのように、優しげに笑った。
槇村には、その老人の素性も撩という男の素性も、何もかも解からないことだらけだったけれど、
この出来事のすぐ後に警察を辞めた。











槇ちゃん

ん?

やっぱ俺が行こうか?シルキィクラブ

いや、依頼人との折衝は俺の担当だ

まぁそうだけど

それより撩、おまえは遅れずに家に来い 香が待ってる

やっと酒が飲めるな、妹と

ああ

雨降りそうだから気を付けて





撩がそう言うと、槇村は背中越しに手を振った。
あんなに妹と相棒を引き合わせることを躊躇っていた槇村は、
意外にもあっさりと撩を槇村家の団欒に招いてくれた。
家族のいる温かさに撩が触れようとした時に、それはいつも訪れる。
そのことにもっと早くに気付けていたらと、
後に撩は何年も後悔することになるのだけれど、この時はまだ幸せだった。


3.心音

ほら、羽織っとけ。

へへ、ありがと。





撩はぶっきら棒にそう言うと、己のジャケットを香へ放った。
撩の分身でもあるコルトパイソンは身に着けたホルスターに収まっているので、
ジャケット自体の重みは然程なかった。
香の装いはヒラヒラと心許ない深紅のドレスで防火扉から非常用の外階段に出ると、
香の二の腕は肌寒さに薄らと粟立った。
不特定多数が出入りするパーティーに潜り込み、
とある依頼に応えた2人は招待客に紛れるために扮装している。
香の着ているドレスと撩の着ているタキシードは、某デザイナー先生からの借り物だ。
ターゲットを炙り出し不意打ちを喰らわせると、程よく現場を撹乱させた2人は気配を殺してその場を去った。
後は冴羽商事の2人と同時進行で同じく現場に潜入していた警察の連中に任せて、外に出たのだ。
大騒ぎの捕物帖が展開されている大広間のパーティー会場が落ち着いたら、
今回の仕事を持ち込んだ野上冴子とこの外階段で落ち合うことになっているので、
2人は寒空のもと彼女の登場を待っている。
現場のリゾートホテルは海沿いの立地で、外階段に容赦なく吹き付ける風には潮の匂いが混ざっている。



駐車場で待つことにすりゃ良かったな、しくった。



胸元にピンタックの入ったクラッシックなウィングカラーのシャツに、
愛用のヌメ革のホルスターを着けた撩がそう言うので、香は心配そうに撩を見上げた。
ジャケットは自分が借りてしまっている。



大丈夫?寒いの?



暦の上ではもう春というカテゴリーになるらしいその晩は、
ヒラヒラのドレスとタキシード姿で待ちぼうけをくらうには少々肌寒い。
それでも撩がそう思ったのは無防備に肌を晒した相棒を慮ってのことだけど、
当の相棒は申し訳なさそうに撩を気遣う。
撩はありがたく香の勘違いに乗じて頷くと階段の途中に腰を下ろした香の隣に、わざとくっついて座った。
数ヵ月前に湖の畔で本音を漏らして、
もうすぐ何度目かの3月26日が来るけれど2人はまだ適切な互いの距離感を掴めずに揺れている。
仕事上の距離感ならばこの上なく息の合った相棒同士だが、私生活の2人はどこかまだぎこちない。
2人には少しの勇気とスキンシップが足りないのだけど、
互いにその点には触れないように目を瞑って毎日をやり過ごしている。

大柄な2人が並んで座るには少し窮屈な階段に座り込み、
少しだけ触れ合う肩の温もりの分だけの親密さは今の2人の穏やかな距離感だ。
香はいつかの日のことを思い出して、思わず微笑んだ。



ねぇ、覚えてる?

あ?何を?

あたしが家出してた時にたまたま撩に会って、ブティックで囮に使われた時のこと。




勿論、撩も覚えている。2回目の3月26日だ。
あの時香は下着姿で、撩のいつものジャケットを羽織っていた。
長居は無用だずらかるぞ、と言いながら背中を押す撩と一緒に、
ブティックの裏口からビルとビルの隙間に出ると、呆れたように怒る秀幸が立っていた。
数日ぶりにそんな場所で兄と鉢合わせて怒られているのに香は妙に可笑しくて吹き出したりして、
撩と一緒に更にお説教を受ける羽目になった。
その時の香には裏口の向こう側の店内で冴子たちが後始末をしていたことなどもわからなかった。
まだ子どもだった。



おまぁあん時、槇ちゃん激オコなのに吹き出したりして逆撫でするから、俺まで巻き添えで説教喰らったしな。

撩だって笑ってたじゃん。




撩も香も、あの時嬉しかったのかもしれない。
久し振りに会えた時にはもう、2人は秘密を共有した共犯者だった。
槇村秀幸の抱えた最大の優しい嘘を、優しく守る共犯者だ。
最終的にはどこか浮かれた相棒と妹を前にして、槇村秀幸は呆れたように肩を竦めた。
結局、あの後、撩に託された優しい嘘と指輪の真実を、撩が改まって香に告げることは未だにない。
本当の肉親は1度、香を訪ねてきた。
幸か不幸か香の母親と秀幸はもう既に他界していて、香を巡る骨肉の争いとはならなかったものの、
まるで運命の悪戯のように判断を委ねられた撩の脳裏に浮かんだのは、あの日の槇村の横顔だった。
妹を離したくないと呟いた見たこともない表情をした相棒の気持ちが、当時の撩には解らなかったけれど、
香の姉だというその女性に香の将来の為の最良の選択をと迫られて、撩は柄にもなく狼狽した。
ヤツはこういう気持ちだったのかと、その時はじめて腑に落ちた。
確かに家族の愛というだけでは言い表せない、
男女の愛という陳腐なものでは片付けられない、
同情なのかといえば決してそうではない。
名前の無い感情。
それまではいつでも香を追い出せると思っていた撩は、
本当は追い出したいわけなど無いのだという真実に気が付いてしまった。
香の姉は、“香の知っている真実のほうが私の知っている真実より、より真実だ”と、
本当のことを告げずに帰って行った。
それでは、撩にとっての真実はなんなのか。
撩はずっと何年も考えている、考えすぎて煮詰まって、
耳の穴から煙が出てくるんじゃないかというくらい考えても。正解なんか解らない。
これは多分、人生の行き着く先を神様に問われているのだ。




そうだな、でもあん時の槇ちゃんの顔、面白かったじゃん?

うん、面白かった。




そう言って笑う香の肩を抱き寄せても良いものかどうか、撩は激しく迷って掌に汗を握る。
潮風が無防備で無邪気な相方の癖毛の先を揺らして、甘い薫りを撩の鼻先に運ぶ。
カップルを装った大広間で彼女をエスコートしながら抱き寄せた細いウエストを思い返す。
その全てであり言葉では言い足りない、撩の愛情の在処である彼女自身そのものを、
撩は果たしてどのように取り扱えば良いのか。
正解はどこにあるのか考えて、手を伸ばすことを躊躇ってしまう。
槇村秀幸が撩に託したのは、本当にこのような結末だったのだろうか。
遺された者にはもう、知る由もない。



それでもそんな些細な撩の葛藤に、無邪気に小さく踏み込んでくるのは、いつだって香だ。
冴子さん遅いね、と言いながら触れ合った撩の肩口に頭を凭れさせてくる。
きっと香は無意識だ、大好きな兄貴にしていたように甘えているだけだと、
撩は己に言い訳をしながらぎこちなく肩を抱く。
呆れて心配しながらも寒そうな妹を気遣う、あの時の相棒のつもりで。

香の心臓が小さく跳ねる音が聴こえた気がしたけれど、
それが香ではなく自分のものであることを、撩は仕方が無いので認めることにする。
このままもう少し、野上冴子が来なければ良いのにと願いながら。



4.未練

あら、この間はどうも。助かったわ。




撩が行きつけのバーの扉を開けると、カウンターに見知った顔があった。
もう少しで日付が変わるかどうかといった頃合いに彼女を見掛けるのは、久し振りだ。
夜の深い時間でさえ彼女のメイクは一切崩れることもなく、濃密で新鮮なゲランの薫りを纏っている。
まるで武装だ、隙がない。
撩の行きつけに槇村が現れるようになって、いつの間にかコンビを組んだ。
この店に初めて野上冴子を連れて来たのは、槇村秀幸だった。

元相棒だ。

槇村がそう言って撩に冴子を紹介すると、
冴子は“現相棒”を値踏みするかのように挑戦的な視線を撩に寄越した。
撩は撩で、槇村がわざわざ2人を引き合わせる意図が読めないので警戒した。
そんな尖った場の空気も物ともせず、槇村は飄々と酒を頼んでいつもの席に腰を降ろした。
槇村にはそういうところがあった。空気を読めないのではない、あえて読まないのだ。
仕方が無いので撩もいつもの左隣に座ったら、冴子は槇村を挟んで右隣に座った。
仏頂面の新旧相棒に挟まれて、槇村は何故だか少しだけ楽しそうだった。





久し振りじゃん?ここで会うの。



撩は当たり前の如く、冴子の隣に座る。
こうして偶然会うことも無くはないけれど、随分久し振りのような気がした。
冴子はワンレングスの髪を耳に掛けながらメンソールの細い煙草の先に火を点けた。
たっぷりと肺に煙を送る間を取って、溜め息を吐くように煙を吐いた。
撩の酒をバーテンがテーブルに置いたのをちらりと見ながら、答える。


忙しいのよ、貴方達と違って。

へーへー、さいですか。野上警部。

やっと大きなヤマがひとつ片付いたの、息抜きよ。

ふーん。


相手も優雅に紫煙を燻らすので撩も遠慮すること無く、ジャケットの懐からソフトパッケージと火を取り出した。
バーテンは見逃すこと無く絶妙なタイミングで、灰皿を撩の前にも置いた。
槇村に連れられてここへ来た後、冴子も時々顔を出すようになった。
撩と槇村と冴子の3人で飲むこともあったし、撩1人のところに冴子が来ることもあった。
槇村と冴子の2人の時もあったのかもしれないが、
撩は別にそんなことはどうでも良かったのであえて聞いたことはない。
聞かなくても2人がただの元同僚同士では無いことくらい、察しがついた。
地味で冴えない風貌のくせに、槇村が意外と良い女にモテることはコンビを組んでみて撩が分かったことのひとつだ。

槇村が警察を辞めると言い出した時、冴子は激怒した。
槇村に対してというよりも、槇村がその頃夢中になっていた撩の存在にだ。
面識は無かったけれど、槇村の言葉の端々から何となく撩の存在は感じられた。
冴子の知っている槇村は、警察官という仕事に誇りと使命を感じて情熱を持って取り組んでいた筈なのに。
いつの間にか彼は、非合法で危ない橋を渡る素性の知れない男に心酔していた。
ほとんどの現場を一緒にコンビを組んでやってきた槇村に、冴子は否定された気持ちになった。
相棒としての感情とは別に、
男としても彼に惚れていたので冴子は公私の別無く彼に思い留まるよう説得を重ねた。
見知らぬ男に嫉妬して(そうあれは今思えば、嫉妬だった)批難する冴子に、槇村は困ったように苦笑した。


君を俺の人生に巻き込みたくないんだ。


けれどその言葉は優しさに見えて、酷く傲慢だと冴子は憤った。
そう思うのならば、警察を辞めるなどと言わずに何故今まで通りでは駄目なのか。
彼は自分の人生だと言うけれど、そこに他者の介在は端から想定していないように、冴子には聞こえた。
それに槇村には最も大切な存在があるじゃないかと思った。
嫉妬すら覚えるほどに恋人よりも何よりも最優先の、最愛の妹が。



じゃあ、どうして私と付き合ってるの?

好きだから。

香さんはいいの?彼女を巻き込むことにはならないの?



冴子がその質問をした時にだけ、槇村の表情にごく僅かな揺らぎが見えた。
いつもこうだ。彼の心を本当の意味で揺さぶることが出来るのは最愛の妹だけだ。
ほんの少し間が空いて、槇村は穏やかに微笑んだ。



香は良いんだ、アイツのことは。



冴子には槇村のその言葉の意味が解らなかった。幾通りにも解釈できる。
妹は兄のことを最も理解してくれているから良いということ?
妹はもう既に兄の人生の一部なので巻き込んでも構わないということ?
恋人よりも妹のほうが大切だということ?
冴子が感情と論理と嫉妬をごちゃ混ぜにして考えた解釈はそのどれもが的外れな気がしたけれど、
その全てが正解のような気もした。
槇村秀幸はわからず屋だった。
冴子が形振り構わず彼の人生の濁流に巻き込まれたいのだ、ということを全くわかっていないように見えた。
冴子はあの頃、撩にも香にも嫉妬していた。
槇村が大切に思っている全てに対して、嫉妬した。
警察を辞めると言われた時に、冴子の知っている世界の外に、
槇村にとって冴子よりも大切なものが出来たのだろうと不安になったのだ。






この間は私、お邪魔虫じゃなかったかしら?



そう言って冴子はからかうように、撩のリアクションを待った。
先日、協力を依頼した現場で冴羽商事の2人はいつもの様に完璧な役割を果たすと、
吹き晒しの外階段で肩を寄せ合って仲良く冴子の来るのを待っていた。
普段ならダルそうに表情の読めない顔で居るくせに、
何となくあの時の撩は冴子の登場に名残惜しそうな顔をしたのだ。
何事も無かったように振る舞っていながら、
直前まで撩が香の肩を抱き寄せていたことくらい容易に想像できた。
香が気付いているのかどうかは知らないけれど、最近の撩の変わり様は驚愕に値する。
そんな表情が出来たのね、というくらい香に対する感情を隠すことをしなくなった。
というよりも、出来なくなったというほうが正解に近いのかもしれない。



はぁ?何言ってんの?馬鹿じゃねーの?



言葉とは裏腹に、撩の耳朶の先がほんのりと朱く染まっているので説得力は無い。
手練れのスイーパーが色恋絡みでわかり易く動揺している様は、見ていて結構微笑ましい。



いつまでストイックに我慢してるのよ、さっさと手ぇ出しなさいよ。

別にそんなんじゃねぇし、なんか勘違いしてんじゃないの?

あら、勘違いかしら?そんな欲求不満みたいな顔してるから、てっきり悶々としてるのかと思ったわ。



冴子がこれ以上無いという華やかな笑顔を浮かべてそんなことを言うから、
撩は思わず無意識に己の頬を撫でて考え込んでしまった。
顔に出るくらい溜まってるか?と。
もしもそれが本当なら、結構事態は深刻だ。
確かにあの時、奥多摩の湖の畔で緊張と緩和の後のひとときを経て、
撩の気持ちはグラグラに揺らぎまくっている。
これまでと何ら代わり映えのしない香の一挙手一投足に、いちいち振り回されている自覚は大いにある。


槇村が警察を辞めて撩とコンビを組んで暫くしてから、冴子は撩を紹介しろと槇村に詰め寄った。
面白がるように槇村は、撩と自分の行きつけの店を冴子にも教え、2人を引き合わせた。
その3人の新しい出会いの後、槇村は冴子の部屋のベッドの中で煙草を吸いながら愉しそうに冴子に訊いた。




どうだった?アイツの印象は?

···んー、まぁ思ってたよりは、良い奴かな。



確かにそれは冴子の本当の感想だった。
冴羽撩は警戒心を隠そうとはしていなかったけれど、それほど感じが悪いわけでもなかった。
冴子が力んで奴を値踏みしてやろうという気持ち満々でその場に臨んだ勢いを、
なんだかよく解らない雰囲気で萎えさせた。
自分から大事な相棒を奪った男は、裏の世界の男だと聞いていたのとは裏腹に、
どこか憎めない少年ぽさを持った男だった。
不思議な透明感を持っていた。この世の何処とも何も繋がっていないような、浮世離れしたような。
槇村が彼を放っておけないと感じたのだろうことが何となくわかった。
きっと乳飲み子の妹が本当の家族から切り離されて、
宙ぶらりんになったのを放っておけなかった頃のことのように。
冴子の現相棒への評価を聞くと、槇村は嬉しそうに笑ってもう一度彼女をベッドに組敷いた。
口付けは煙草の味がした。



君なら、わかってくれると思ってた。



槇村が法の枠から外れて裏の世界に足を踏み入れることを、冴子には止めることが出来なかった。
それならば、彼と離れない為には冴子自身がそれ相応の覚悟を決めるしかなかった。
冴子は彼が大切だと思っている自分以外のもの全てに嫉妬をしていたのに、
当の槇村は無邪気に冴子を大切にしてくれた。
まんまと冴子は彼の濁流に巻き込まれてしまったし、覚悟していた未来が現実になった。





新宿の種馬が形無しね。



冴子が完全に面白がって笑っている。
冴子だけじゃない。
ここ最近、撩と香を取り巻くお節介な連中全員が同じように思っていることなど、撩も重々知っている。



手ぇ出したら、槇ちゃん化けて出てくるだろ?祟られるなんて勘弁だしな。



冴子は会話の中で一言も香の名前を出さずにいたのに、撩が香のことを話すのは即ち。
全て認めているということだ。
撩ほど頭の良い男がこんな誘導尋問に引っ掛かる訳は無いので、
暗黙の了解として色恋沙汰を否定する気は無いのだろう。



良いんじゃないの?槇村の口癖忘れたの?

口癖って?

俺の幸せは妹が幸せになることだ、って。

ぁああ、言ってたね、そう言えば。



撩と香にはこれまでの誰にも分かち合えない2人だけの絆と歴史がある。
それと同様に、撩と槇村にも、槇村と香にも、槇村と冴子にも、そして撩と冴子にも。
過ごした時間の分だけそれぞれが分かち合う記憶がある。



香さんの幸せは貴方のそばにしか無いわ。



冴子には解る。
自分が槇村秀幸のそばに居ることに幸せを見出だしていたように、香はきっと撩のそばに居たい筈だと。


そうかな。

そうよ。



男はわからず屋だ。他人の幸せを勝手に自分の尺度で測ろうとする。
冴子は結局、秀幸の人生に好き好んで巻き込まれたし、彼を喪った。
冴子には未練と想い出以外に彼に纏わるものは何も持たないけれど、それで充分幸せだ。
伴侶を得て家庭を持って責任を伴う幸せも勿論あるけれど、
何も持たない自由さが生み出す幸せだって幸せには変わらない。



ていうか相棒の座は貴方に譲ったんだから、もうそろそろ槇村のこと独占させてくれないかしら?



この先永遠に彼の想い出という呪縛に捕らわれているのは、自分だけでいい。
彼の妹にも彼の相棒にも嫉妬せずに、冴子はただ穏やかに今を楽しんでいる。



5.誤算

撩がアパートに戻ったのは、午前2時を過ぎた頃だった。
自宅前の歩道から6階のベランダを見上げると、黄色みがかった電灯の明かりが点っていた。
香はまだ起きている。
撩は冴子に言われた言葉を思い出していた。
香の幸せが自分の傍にあるということ。
それは確かに可能性としてあり得ない話ではないと、撩も思う。

銀狐に狙われて、お前には俺の相棒は務まらないと撩が告げた時も、
マリーの来訪で、撩以外の人間から撩の過去の話を聞かされた時も、
美樹の制止を振り切って墓地に入り込み、邪魔をするなと撩に突き放された時も、
そして負傷した撩をみて、自分には相棒は務まらないかもしれないと自信を失いかけた時も、
沈みゆく船の中で、必ず生き抜くとガラス越しに誓った時も、香は。
結局、最後には撩の手を取って、笑ってくれたから。
だからもしかすると冴子の言うように、香は香の意思で撩の傍に居てくれていると考えても、
それは撩の勘違いではないのかもしれない。
ただそれが、香にとっての幸せなのかどうなのか、撩にはそれは良く分からない。
もしも香の前に撩ではない別の男が現れたとして、そいつが撩以上に香のことを幸せに出来るとしたら。
撩には自分の元に彼女を縛りつけておくだけの、資格も権利も持ち合わせていないのだ。
ある日、彼女が心変わりをして、ふらっと何処かへ出て行ってしまっても、引き留める術もない。

けれど撩はもう、とうに自覚している。
あの温かな明かりと仄かな生活の匂いを、渇望しているのはきっと他でもない、撩自身であることを。




お風呂、今ならまだ温かいよ。


リビングで髪を乾かしながら、香はそう言った。
それの意味するところは、光熱費を無駄にするなということなので、撩は大人しく従って風呂に浸かっている。
肌寒い3月の夜に外をうろついて帰った撩の体は自分で思っていたよりも冷えていて、
酔いはいつの間にか醒めていた。
このところ、色々と考え過ぎだ。
数年前からの記憶が撩を雁字搦めにする。
これまで撩は、何にも執着せず囚われず、思うままに生きてきた。
槇村秀幸に香を託されたことは、ある意味で重い大きな枷を填められることに似ていた。
槇村もまた、少年の頃、父親から妹を託されて同じ思いに押し潰されそうになりながら生きてきたのだと、
今の撩になら理解ができる。
そして、香の境遇にも撩はシンパシーを感じることができる。
誰にでも普通に平等に与えられる産みの親との縁は、撩も香も薄かった。
撩は秀幸でもあり、香でもあったのだ。
そして、大きな枷でもある彼女の存在が、今では撩が生きる意味でもある。
彼女は撩の中でどんどん大きな存在になり、撩の思考は全て彼女中心に回っている。
春はどうしても考え過ぎてしまう。彼女と出会った3月、彼を喪った3月。
彼女が撩の元に転がり込んできた、4月。



はい、どうぞ。


風呂上がりの撩がリビングへ行くと、香は珈琲の入ったカップを目の前に置いた。
半乾きの髪をタオルドライしながら、撩はカップに口を付ける。
撩が風呂に入っている間に豆を挽いてくれたらしい。
酔いは醒めていたけれど、アルコールを摂取してぼんやりしていた頭がスッキリした。
香も向かいに座り、自分用に牛乳を足したものを飲んでいる。



冴子さんに会ったの?

ぇあ?なんで?

匂いでわかる。



野上冴子と2時間ほどバーで同席した間に染み込んだ移り香を、香は鋭く嗅ぎ分ける。
帰ってきてすぐに、風呂場へ直行させられたのは、もしかすると光熱費の問題ではなく、
移り香のせいだったのかもしれない。



たまたまな、同じ店で偶然あった。

ふーん。会うのわかってたら、言っとけばよかった。昼間、こないだの依頼料、振り込まれてたから。

そんなのいつでも良いんでない?別に。

だめ。明日、電話しとく。確かに受け取りましたって。



香は妙に律義なところがあるので、冴子からの依頼を受けて報酬を受領すると、
そうしてマメに連絡を取り合っているらしい。
香が冴子に初めて会ったのは、槇村が死んで撩の相棒になって暫く経った頃だった。
槇村の死は、撩と香の絆を結んだけれど、香と冴子もまた槇村を介して繋がった人間関係だ。



兄貴と冴子さん、付き合ってたんだよね、昔。

ああ。


これまでの思考の渦を香に読み取られてしまったような気がして、撩は焦ったけれど、
別に他意は無く、香は何となく兄を思い出したらしい。



全然、気付かなかった。兄貴が香水の匂いを付けて帰って来たことなんか無かったもん。一度も。



香の前では槇村は、煙草も吸わなかった。
それでも煙草の匂いはしていたし、上着のポケットに煙草やライターが入っているのを見たことがあるので、
吸っていることは香も知っていた。
けれど、香水の薫りを付けて帰ることも、朝帰りも滅多に無かった。
遅くとも日付が変わる頃くらいには帰って来ていた。



兄貴ね、モテないんだろうと思ってたの。でも、冴子さんみたいな彼女がちゃんといたんだと思うと嬉しかった。

槇ちゃん、ああ見えて意外とモテるんだぞ。

そうなの?

うん、まあその他大勢は眼中に無いみたいだったけどな。きちんと丁寧にお断りしてた。

そりゃあ、兄貴は撩みたいにもっこりスケベじゃ無いからね。

槇ちゃんはもっこりスケベじゃなくて、ムッツリスケベだからな。



にんまり笑いながら撩に憎まれ口を叩く香に、撩がしょうもない反論をすると、
香は撩の顔めがけてテーブル用の布巾を投げ付けた。
昔の撩ならばこんなことは決して、望んでいなかった。平和ボケに浸るのは、命取りだ。
こんなことになるなんて、想定外の大きな誤算だ。
真夜中にこうして冗談を言い合える、家族のような存在が傍にいることに幸せを感じているのは、
自分だけだと撩は思っているけれど、もしも香もこの他愛もないひと時を大事に思ってくれているのならば。
撩は自分が香を幸せに出来るかどうかについては、
全くもって自信が無いけれど、ひとつだけ確かなことがある。

香が撩の傍にずっと居てくれるのならば、撩はきっと永遠に幸せだ。




なぁ、香。

ん?



いつになく真剣な目をした撩に、香は訝しげに首を傾げる。
香はこの目の前の男のことがずっとずっと好きだった。
はじめは兄を悪の道へと引きずり込んだ悪い男なのかと思っていた。
後を付けて、撩の本当の姿を暴いてやれば、
兄は目を覚まして、また立派な警察官へと戻ってくれるんじゃないかと考えていた。
あの頃の香は、まだまだ子どもだった。
それでもそんな子どもの香に、恋という感情を植え付けたのは冴羽撩だった。
大人になって、撩のことをもっと深く知っても、香の恋心は大きくなる一方で。
撩が香を失望させるようなことは、ただの一度もなかった。
むしろ撩を知れば知るほど、ただの恋は深い愛へと形を変えた。
圧倒的な力の差や器の大きさを見るたびに、憧れは強くなり。
彼の幼い頃の境遇を知ることで、守ってあげたいと願うようになった。
撩の強さと逞しさと包容力と狭量さと脆さと危うさを全て包み込んで、
彼の眠る夜が平らかなものであるように、彼の目覚める朝が健やかであるように香はいつも祈っている。




ずっと傍にいてくれるか?



何を言うのかと思ったら、撩が真剣な顔でそんなことを言うから。
香は思わず可笑しくて、吹き出してしまった。
そんなことは、今更だ。
これまで何度でも言ってきたはずだ、アンタの死に様を見届けるまで死ねないとか。
毎年、生きて互いの誕生日を一緒に過ごそうとか。
愛する者を守るために何が何でも生き延びるし、守り抜くとか。
2人でシティーハンターだとか。
だからそんなこと。



当り前じゃない。アタシの居場所はここだもん。



香の居場所は、撩の隣だ。
撩の帰ってくる場所は、香の隣だ。
撩も香もずいぶん人生を迂回して、ようやくここまで辿り着いた。
香は兄を喪い、撩はかつて父親と呼んだ相手を葬った。
生まれながらにして手の中にある筈だった形の無いものを、見失いかけて2人は生きてきた。
けれどそれは、撩にも香にも確かにまだあったのだ。
目には見えない形の無い、愛情という名の一番大切なものだ。




テーブル越しに身を乗り出した撩が香の唇に触れた時、珈琲の匂いがした。
妹の幸せが最終的には、槇村秀幸の幸せなのだとすれば、
彼がたとえ死んでしまっていても、香が元気で幸せに生きている限り、
彼の幸せも同時に叶え続けることが出来るということだ。