№1 デートの予定?

「これ、良かったらふたりでどうぞ。」




美樹はそう言って、にっこりと微笑みながら香にその封筒を手渡した。
香の左隣には相棒であるもっこり男が不貞腐れたように珈琲を啜っている。
つい先程、街中での破廉恥なナンパ行為を相方に見咎められて、
手酷い折檻を受けた後、ここに半ば強制的に同伴を求められたのだ。
喫茶キャッツ·アイはいつも通り、閑古鳥が啼いておりママの美樹だけがカウンターの中に静かに佇んでいた。
海坊主は不在で、その理由を美樹が適当に濁したので恐らくは本業の方なのだろうと、撩と香もそれ以上はあえて触れることもない。


???


言葉にはせずとも香は、なぁに?これ、といった感じで首を傾げながらその封筒を開けた。
そこには2枚のチケットが入っていた。
どうやら、有名ホテルの三ツ星フレンチのフルコースディナーを食べさせる、というお食事券らしい。
恐らくは値段にすれば、結構高価な代物だ。



「どうして?」

「頂き物なんだけどね、私たちはちょっと行けそうになくって。無駄にするのも何だしね。」

「で、でも。こんな高価なもの頂けないわ。」

「いーの、いーの。結局、行けなくて無駄になるんだったらもっと勿体無いでしょ?」

「ぅう、それはそうだけど···。」




遠慮が先立ってなかなか美樹の好意に甘えることが出来ないでいる香が、躊躇っていると、
それまで興味無さげにふたりの様子を見ていた撩が、茶化した口調で割って入った。



「美樹ちゃんとふたりでデートすんなら、嬉しいのになぁりょうちゃん。むふ。」

「はぁ?アンタそればっか、大概にしなさいよっっ。美樹さんは人妻なんですからね。それも、新婚さんっっ」


般若のような形相で、ふざける撩の顔面めがけて小さな(それでも重量は1tだ)ハンマーを投げ付ける香と、
それを解っていながらしょうもない戯れ言を繰り返す撩を見ながら、美樹は重たい溜め息を溢す。
どうしても彼らは、素直にはなれないらしい。
美樹が結婚式の時の怪我から喫茶店に復帰してからももう半年以上が過ぎ、もう夏も終わろうかというのに。
撩と香の間には何の進展も見られないし、ふたりを纏う雰囲気にも一切男女の機微を匂わすようなものは感じられない。
奥多摩での、派手な攻防のあとに結構良い感じになりかけたらしいという情報は得ているというのに。
美樹は何も変わらない彼らに、やきもきしている。
夫に言わせれば、それは大きなお世話ということらしいけれど、良い歳をした好き合った男女が何年も一緒にいて、
正直、焦れったいというのが美樹の想いだ。
だからこれは、お膳立ての意味も多分に含んだプレゼント、という訳だったのにふたりは終始この調子なので、
盛大な溜め息も吐きたくなるというものだ。



「でもま、しゃーねーか。旨いもん喰えるんなら、たまには相棒同士で出掛けるのも悪くねぇな。」


香の手から、食事券をスッと奪い取った撩がぬけぬけとそんなことを抜かすので。
撩の髪の毛を掴みながら、香の説教タイムが始まった。
勿論、撩も香のほっぺを摘まみながら応戦している。


「ハンタねぇ、はんでしょんなに、偉しょうにゃのよっっ、しょこははりがとうごじゃいましゅでしょうがぁ。」

「おまえの方こそ、俺がデートしてやるつってんだから、可愛くありがとうって言いやがれっっ」


以下エンドレスでふたりのじゃれ愛が続いたので、美樹は苦笑しながらも放っておいた。
問題は遠慮がちな彼女の方ではなくて、天の邪鬼な彼の方なのだ。
表面上の言葉のチョイスがどうあれ、彼が行く気になりさえすれば後はどうにでもなる。




∗∗∗∗∗∗∗∗∗∗




香は姿見の前で、考え込んでいた。
朝からもう何度目かの黙考は、それでも幸せな悩みと言えよう。
数着の服をベッドの上に広げている。
依頼などで必要に迫られるので、仕事柄、ドレスの類いも無いではない。
有難いことに友人に、香を飾り立てるのが趣味のようなデザイナー女性もいたりするので、その辺は困らない。
それでも、今夜は仕事では無いのだ。
キャッツでのやり取りから数日、約束の撩とのデート(?)の日を迎えて香は悩んでいた。
あんまり本気でドレスアップしても、何だか気合い入ってるって思われても癪だし。
でも、立派なホテルの三ツ星レストランなので、常識程度には身嗜みを整える必要もある。
その辺りの微妙なバランスを考えるコーディネイトなど、素人にはハードルが高過ぎるので、悩んでいるのだ。
ただ単に、あの大食い男と夕飯を食べるだけだ、いつもとおんなじだ、と思っても、香はやっぱりどうしてもあの言葉を思い返してしまう。

キャッツで散々ふざけあっている間に、撩の口から漏れた『デート』という言葉。

そのワードが無ければ、あるいはもっと気軽に考えることが出来たかもしれない。
撩は、『そういう』認識で今夜一緒に出掛けるつもりなのだろうか。
香はそう考えると、妙にドキドキしてしまう。
湖の畔で、撩に『愛する者』と言われた時も同じように、ドキドキした。
香は何かが変わることも正直少しだけ期待していたけれど、結局は何も変わらないままふたりは暮らしている。
こうしてたまに、ドキドキしたり、恋い焦がれたり、悲しくなったり、愛しい気持ちが溢れたりもするけれど。
基本的には、いつも通りだ。
きっと撩が何気無く発した言葉のいちいちに、香はいつだって一喜一憂してしまう。




∗∗∗∗∗∗∗∗∗∗



香が自室で、悶々とその晩の外出についてのあれこれを考えているまさにその時。
当の相方·冴羽撩は、地下の射撃場にいた。
その数分前に、撩の寝室に繋がった電話機にその呼び出しの報せが届いて降りてきたというわけだ。
撩が射撃場に着いたのとほぼ同時に、電話をかけてきた彼女も地下トンネルを潜ってやって来た。



「ごめんね、撩。急に呼び出したりして。」


野上麗香は急に撩を呼び出したわけだが、バッチリと決まったメイクとファッションは何時なんどきでも隙はない。
撩に対して抱いている好意が、依然として衰えてはいないであろうことは撩にも判る。
端から撩にはその気持ちに応える気は無いのだけれど、彼女が諦めるかどうかなどは彼女の問題なので撩にはどうすることも出来ない。
あくまで撩としては、知人としてフラットにニュートラルに接しているつもりだ。


「どうした?何かあったか?」


撩は麗香を観察し、恐らくは何か深刻な案件を抱えているのだろうことを直感的にさとる。
いつもはにこやかな彼女が、電話でも若干緊張気味に言葉を選んでいた。
それが判ったからこそ、撩は電話を受けてすぐに応じたのだ。
今晩の予定が、一瞬だけ撩の脳裏を掠める。
奥手な彼女と天の邪鬼な自分を、なんとかして盛り上げようとしてくれる友人たちはお節介とも言えるお膳立てを仕掛けてくれるけど。
この際だから、乗せられてみても良いか。という心境になりつつあったことは否めない。
このところ緊迫した仕事も特になく、平和に過ごしていた矢先だ。


(平和ボケってか···)


麗香の用件を聴きながら、頭の片隅ではついそんなことを考えてしまう。
何もない平和なひとときと、相棒との何も変わらない毎日。
それは結局、撩にとっては余りある贅沢なことなのかもしれない。
何も変わらないことを、廻りの連中はまるでいけないことの様にふたりをくっ付けたがるけれど。
殺し屋稼業なんていう物騒なふたりには、平和なこと、何も変わらないこと、生きていること、そんなことだけでも幸せなはずだ。
それなのに、贅沢な望みを抱いたりするから。
少しだけ油断し始めると、こうして緊迫した空気が何処からともなく迫ったりしてくるのだ。
それを撩は、己の業だと思っている。
これまで奪ってきた魂の報いは、目には見えなくともこうして等分に我が身にも還ってくるのだと。
香に対して抱いているのは、確実に愛情だ。
とっくにそんなことは自覚している。
それでも、先に進むことを簡単に捉えることは、撩にはどうしても難しい。
望むと望まざるに関わらず、撩には仕事は選べない。
そういう性質の仕事を躊躇わずに受けることは、自分に課せられた宿命だと撩は思っている。
これは責任だ、今まで生かされてきたことへの。



「依頼、受けてくれるかしら?」

「あぁ。」

「ありがとう、助かるわ。」

「だから、麗香。独りで突っ走るんじゃねぇぞ。」

「うん。わかってる。」



正直、撩には麗香の慕情など鬱陶しいの一言に過ぎない。
気のない相手から、一途に想われることほど気の重いことはない。
けれど、撩にしか出来ない仕事なら、撩は私情は挟まないことにしている。




∗∗∗∗∗∗∗∗∗∗




麗香との打ち合わせを終えて、撩がリビングに戻ると、香は洗濯物を畳んでいた。
量販店で3枚1000円で購入した撩のボクサーパンツを畳む香は、心此処にあらずといった感じでボンヤリしている。
今夜の予定が、香をそうさせているのが撩にはよく解っているので、
この上、また更に香を困惑させるのは忍びないと思うのだけど、それは仕方の無いことだ。




なぁ。

ん?

今からちょっと、出てくるわ。

え?

今日の予定な、悪ぃけど····キャンセルな。




香の表情が一気に曇った。
撩の胸も激しく痛む。
それでも撩の表情から、何かを覚ったらしい彼女は気丈に気持ちを切り替える。



何かあった?

···。

アタシに出来ることは?

すまん、大丈夫だ。

···そう、わかった。




香は、それ以上は詮索しなかった。
次にはもう、微笑んでみせる。




あ~あ、ご馳走食べ損なっちゃった。

すまん。

いーよ、今度撩の奢りでどっか連れてってくれたら、チャラにしてあげる。

しゃーねーなぁ、じゃ牛丼な。

しょっぱいなっっ(笑)




笑ってくれる相棒は、聞き分けが良いと撩は思う。
そして撩は、彼女に甘えている。
彼女の寛容さと優しさと強さに。



(つづく)

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[ 2017/09/21 02:01 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(0)

№2 朱き唇

麗香はその番号をプッシュするまでに、何度か峻巡した。
これまでにも数度、このような状況におかれたことはある。

はじめて彼に頼ったのは、友村刑事の件で警察官の職を辞した時だった。
はじめはただの軽薄で厭らしいナンパ男だと思っていた。
彼は不思議で、いつの間にか人の心を奪ってゆく才能を持っていると、麗香は思う。
どんな時でも冷静で、深刻な場面で冗談を言いながらもしっかりと状況判断をしている。
その鍛え上げられた逞しい体も、無意識に放つ男性的な色気も、何もかも。
一度、魅力的に思えたら、もう気持ちを止めることなど出来なくなっていった。
たとえ彼が誰かのことを想っていて、それがどんなに真剣なものでも。
その誰かが自分じゃなくても、彼の口から決定的なその事実を聴きでもしない限りは、可能性はゼロではない。
自分でも往生際が悪いとは、麗香も思っている。

今回の仕事(やま)は、非常に深刻な事態に陥っていて、それこそ彼に頼らざるを得ない危険な状況には違いない。
それでも彼へのSOSを少しだけ躊躇わせる麗香の心の揺れはきっと、あの時以来だからかもしれない。
伊集院夫妻の結婚式の日、撩と香の間に何かがあったのだろうことは、今では仲間内でも周知の事実だ。
撩と香の関係が進展することを応援する空気が、仲間内にも蔓延している。
撩に対して報われない恋心を抱いている存在など、空気も同然だと麗香は感じている。
あるいは、自分の考えすぎか、被害妄想か。
あれ以来、片想いはますます苦しさを増し、仲間内での疎外感さえ感じている。

ただひとつ、麗香にとって希望的観測ともいえる要素としては、彼らが未だ決定的な一線を越えてはいないだろうということだ。
たとえどんなに想い合っているとしても、まだあのふたりの間には隙が無いわけではないのだ。
お互いがお互いを想うが故の擦れ違いということもある。
そんなことすら願ってしまう自分に、麗香は正直嫌気が差している。
それでも好きなのだ、冴羽撩のことが。







『どうした?何かあったか?』



そう言って、真剣な眼差しを己に向けてくれる彼が。
自分の置かれた状況に耳を傾けてくれる彼が。
やっぱり、麗香は好きだと思った。

詳しい話を聴かせてくれ、と撩が言うので、地下で逢うことになった。
こんな場合でも、鏡に向かって口紅を塗り直す自分を何処か冷静な頭の片隅で、哀しく思った。
彼の心に、この気持ちの内どれくらいが伝わるというのだろう。
それをリアルに想像することは苦しいので、麗香はそれ以上考えることはやめる。
化粧気の無いあの女(ひと)に対抗する麗香は、逆に化粧で武装する。
彼女にあって自分に無いもの。
自分にあって彼女に無いもの。
何でも良いから、彼の心の琴線に触れてみたい。震わせたい。



『独りで突っ走るんじゃねぇぞ。』


麗香は嬉しかった。
疎外感さえ感じていた片想いの、当の想い人から。
自分は独りでは無いのだと、勇気づけて貰えたような気がした。
彼が単に、依頼の一環でそう言っただけだとしても。
この件に関しては彼に守られ、また、パートナーとして仕事に当たれる。
彼の相棒になるということは、こんな気分になるものだろうかと、
麗香は自分の立場を忘れて浮かれそうになる心を、必死に押さえる。





あ、撩···

ん?

ぁ、いいの。何でもない。





一通り話を終えて、早速これから情報収集にあたるという撩が背を向けて射撃場を後にしようとした瞬間、
麗香はつい、引き留めてしまった。
きっと、彼が戻る上の階には彼女がいて、いつもの日常があるのだろう。
そこに彼を返したく無かった。
彼を引き留めて、自分は何を言いたかったのだろうと、閉まったドアを見詰めながら麗香は考えた。



香さんのところへは帰らないで?それとも、香さんには、依頼のこと秘密にして?


言うまでもなく、撩は彼女にこの事は言わないだろうと麗香は思う。
彼の相棒で、彼の信頼を得て、彼に守られる彼女を。
彼は、本当に危険な状況には近付けない。
彼女の知らないことを、撩とだけ共有したいと思う反面、彼女にそれを知られたいとも思う。
撩と自分が彼女を差し置いて仕事をして、それを知った彼女が落ち込む姿を想像する。
泣けば良いのに。
私がこの恋で泣いたのと同じだけ、彼女も泣けば良い。



「サイテー」


広々とした空間に、麗香の声は反響した。
その言葉が誰に対するものなのか、麗香にもよくわからない。
誰かを好きになるということは、とても傲慢でとてもエゴイスティックだ。
恋は苦しい。
麗香は綺麗に紅を引いた唇を、噛み締めた。



(つづく)

[ 2017/09/24 03:14 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(1)

№3 味方

「えぇぇ~じゃあ結局、行かなかったの⁉」





目を丸くして問い掛ける美樹に、香はこくんと頷いた。
腰に手を当てて大袈裟に溜め息をつく美樹を横目に、
その夫は、恐らく一連の話の流れを知ってはいるのだろうが我関せずで、黙々とグラスを磨いている。



「ごめんなさい。」



しゅんと項垂れる香を見て、美樹の表情が幾分和らぐ。
美樹が声を荒げて呆れ果てたのは、彼女に対してではなく、彼女の相棒に対してだ。
これまで何度、このような事があっただろうと美樹は思い返す。
一度は思わせ振りに振る舞っておきながら、香の期待はいつだって拍子抜けに終わるのだ。
原因はいつも彼の問題で、美樹には香の気持ちが痛いほど解るので、思わず感情的になりすぎたことを少しだけ後悔する。
カウンター越しの美樹の代わりに、すぐ隣の席から香を慰める白い手袋の手が伸びる。




「残念だったね、カオリ。ったく、リョウは相変わらずバカなヤロウだ。
ボクで良ければ、ディナーくらいいつだってご一緒するよ?」



そう言って、香の癖毛を撫でながら小さくウィンクを寄越すミックに、香は笑いながら首を横に降った。
せっかくのデートのセッティングをふいにしたことについては、済まなそうにしている香だけど、意外にも笑顔は明るかった。
ふふふ、と笑いながら、美樹とミックを見た。



「美味しいお料理を無駄にしちゃったことは、申し訳なかったんだけどね。」



香はいつもと変わりない表情で、そこまで言うとコーヒーをひとくち含んだ。
落ち着いたその物腰で、香が撩に対して怒るどころか失望しているわけでも無いことが判る。
そもそも、その話題にしても。
美樹にどうだったのかと訊ねられ、香も仕方無いので淡々と事実を述べただけで。
いつものような、撩に対する愚痴といった要素は微塵も感じられなかった。
コーヒーを飲みながら、何処か余裕さえ漂わせた表情で、香がにっこりと笑う。
思わず、美樹とミックは互いに顔を見合わせて、首を傾げる。




「仕方無いの、お仕事だから。撩が悪いわけじゃないの。」




けれど美樹の記憶が正しければ、ここ数日、伝言板に依頼は来なかったはずだ。
他の誰でもなく、この目の前の彼女がそう言って溜め息をついていたはずだけど、と考える。
まるで美樹がそう考えたことを察するように、香が補足する。




「まぁ、伝言板にきた正式なって意味では無いんだけどね。あはははぁ。」




最後は、乾いた笑いとひと続きで溜め息に変えるという、香の得意技を駆使している。
香は基本的には正直で、嘘がつけない性格だけれど。
その笑顔の裏側にどんな思いを抱えているのか、他人には見せないところがある、と美樹は思う。
いい意味で我慢強い、言い換えれば他人行儀なのだ。
美樹は本当に、香のことを親身に心配している。
香がたとえ笑っていても、それが心からの笑顔なのか疑ってしまう癖がついてしまった。
それもこれも偏に、あの男の非常に難解な精神世界のお陰だと、美樹は考える。
確かに冴羽撩は、魅力的な男には違いない。
それは美樹も認めるところだ。
けれど彼の抱えた全ての世界、背景が複雑過ぎて、恋愛沙汰に向かないとは思う。
それでも、そんな彼にこそ最も相応しい相手なら、香しかいないだろうと思うのだ。
それは同時に、彼女にとっての茨の道を意味するのだけど。

伝言板を通さずに、撩が携わる仕事。
それがどういうことか、この場にいる香以外3名には解っている。
だから、この話はそれ以上追求も言及も出来ないのだ。
香は残りのコーヒーを飲み干すと、もう一度美樹にディナーをふいにしたことを詫びる言葉を残して、帰っていった。
曰く、スーパーのタイムセールの時間らしい。




残された3人は、それぞれに撩と香の行く末に思いを馳せる。
そして、いつも美樹は反省するのだ。
自分が如何にお節介なのかを。
こういう時、いつでもニュートラルな立場で寡黙な、夫の優しさを実感する。
今のやり取りでも、美樹が根掘り葉掘り訊ねなければ、香が撩の依頼の件を洩らさなくて済んだはずだ。
自分を通り越して、知らない依頼人と撩だけで片付けられる仕事に、香が傷付いていないわけがない。
それを誤魔化すように、笑いながら溜め息をつかせるようなことをさせたのは、
他でもない、美樹自身のお節介の結果だ。



「ファルコン。」

「なんだ?」

「貴方の優しさは特別だわ、いつもそう思うわ、私。」

「···そう思うなら、あいつらのことは少し放っておいてやれ。遠くから見守るのも優しさだ。」

「そうね。」




そんな夫婦のやり取りに、今では唯一の客となったミック·エンジェルが異を唱える。
しかし、彼の言い分は、いつだって正論のように聞こえて自分都合だったりする。





「No、No、No  それは違うね。イジュウイン夫妻。」

「どうして?」

「人にはそれぞれ役割てものがあるのさ、ミキ。」

「···役割。」

「そう。」




つまりこういうことだね、と言いながらミックは持論を展開した。
ミックが言うには、
ウミボーズは遠くで勝手に見守ってれば良いさ。
ミキはあれこれとお節介を焼きながらも、友人として香を支えていてあげなければいけない。
そして、ボクは。リョウの代わりに紳士的にカオリを慰める係なのさ、むふふ。
ということらしい。

尤もらしい持論だが、最後に厭らしい含み笑いを隠せなかったので、下心は見え見えだ。
最後まで真面目に聴いて損した、と思った美樹の代わりに、夫はフンと鼻で笑って一蹴した。
ミックはどこまでいっても、ミックに違いない。
自分都合の男、それがミック·エンジェルなのだ。





それでも、香の味方には違いない、と美樹は思う。
ここにいる3人が3人とも、香のことを友人として大事に思っている。
そして、撩のことも。




「何か飲む?」



仕方無いので、美樹は喫茶店の女主人という本来の立ち位置に戻って、ミックに訊ねる。



「じゃ、もう一杯おかわりを。」




ミックがにっこりと微笑む。
依頼を抱えているという香の言葉を裏付けるように、確かに撩の姿をこの数日見掛けない。
色々と悩ましいことはあるにせよ、新宿界隈は今日も平和だ。



(つづく)
[ 2017/10/18 17:00 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(1)

№4 熱き血潮

「手当てするから、上がってって。」


麗香が心配そうに眉根を寄せてそう言ったのを、撩は何も言わずに小さく首を振るだけで応えた。
撩は薄く微笑んだけれど、麗香には撩の内心を推し量ることは出来なかった。
撩の仕草から近寄りがたい雰囲気が感じられて、麗香はもうそれ以上何も言えなかった。


「まだ、終わった訳じゃねぇから油断するなよ。近日中には片付くとは思うけど。」

「わかったわ。…撩、ありがとう。」

「あぁ、お疲れさん。」


寂れた埠頭の倉庫街で、思いがけず銃撃戦が始まった。
撩は手慣れたもので飄々と応戦し、あっさりとその場は片が付いたのだけど、麗香は戸惑っていた。
いざその時になれば、卒なくアシスト出来ると思っていたけれど、現実は甘くなかった。
足手纏いにならないように振舞うので精一杯で、自分がどれだけ彼の役に立てたかは判らなかった。
多分、撩の二の腕を掠めた傷は、自分のせいだと麗香は思った。
きっと撩独りなら、あの程度の事は日常茶飯事で、怪我など負うことなく済むのだろう。
撩は大したことない掠り傷だと言って、笑ったけれど。
修羅場での己の存在が、少なからず撩のパフォーマンスに影響したのは間違いないだろうと、麗香は思う。
だからこそ、彼の腕に滲んだ赤い色を見て、せめて手当だけでもさせて欲しかった。
けれど、ある一定の距離から先に彼に踏み込むことを、まるで拒むように薄い拒絶の空気が彼を包んでいる。
なにも今にはじまったことではない。
それはいつものことだけど、麗香にはそのあと一歩を進める為の手立てが解からない。
どうすれば撩の心を感じることが出来るのか、いくら香を出し抜いて一時的に組んで仕事をしても、
それがただの己の自己満足に過ぎないという事実を、何も言わない撩から突き付けられている気がする。
はじめはただただ嬉しかった。
仕事とはいえ、それが如何に危うい案件だったとしても、撩と組んでやれるだけで単純に嬉しかった。
撩と数時間、共に過ごす為の理由があって、撩と言葉を交わせることが嬉しかった。
でも、こうして隣のビルに消える後ろ姿を見送る度に、苦しくなっていく。











午前零時を少し回った頃だった。
香はリビングにいた。
撩が夜遊びで家を空けていようが、仕事だろうが、この時間なら香はまだ眠らない。
洗い髪をバスタオルで乾かしながら、深夜のテレビ番組をぼんやりと観ている時間だ。
玄関の扉が静かに開く気配がしたので、撩が帰ったとわかる。
もうすぐで足音がリビングの前まで聞こえて、そのドアを開けて入ってくるだろうと、香はタオルを被って目を瞑った。
撩が廊下を歩く姿を想像する。
今夜の撩が何処でどんなことをしてきたのだろうと、想像する。




ただいま



床の上にぺたんと座ってパジャマ姿でバスタオルを肩にかけた香が、撩を見上げる。
心配している素振りを隠して、明るく笑う。
今回の件は、互いに最初からわかっている仕事なので、無駄な掛け合いは要らない。



おかえり



香は知らないけど、撩がこうして家に帰るといつもと変わらない日常があることが、撩を慰めている。
知らず知らず無意識のうちに、撩に怪我が無いかチェックする癖が付いてしまった香は、そうとは悟らせぬ視線で撩を見詰める。
それはすぐに見てとれた。綻んだ長袖のシャツの袖に薄く滲んでいる赤は、血の色に違いない。
さほど出血量は無いらしい。恐らくもう、血は止まっている。
袖に目を遣って、撩の顔を改めて見ると、2人の視線が絡む。
香の考えていることくらい、撩にも判るだろう。暫く沈黙が2人を包む。








「脱いで」


沈黙を破ったのは香だった。
撩はまるで抗えない催眠術にでもかけられたように、香の言葉に従って長袖のシャツを脱いだ。
香が何をするつもりなのか、言葉にせずとも解っている。
シャツの下に、ヌメ革のホルスターが現れる、撩はそれも脱ぎ去ると、収まった愛銃ごとソファに放り投げた。
香も肩にかけていたバスタオルを床の上に放ると、キャビネットに仕舞われている救急箱を準備した。


手慣れた香の手際は良かった。
丹念にアルコールを含ませた脱脂綿で傷口を拭い、綺麗に血の跡を消した。
アルコールでひやりと感じる皮膚に、香の指先が触れるたびに撩の内側に妙な感覚が沸き起こる。それをポーカーフェイスで隠しながら、押し殺す。
香もまた無表情だった。
大袈裟に騒ぐほどの傷でも無いけれど、内心では胸が張り裂けそうだった。
それでも、こうして努めて冷静に撩の手当てをすることが、自分の役割だと思っているから、香は心を押し殺す。
他の誰でもない、自分以外の誰かに撩の傷を触れさせるのだけは嫌なのだ、と香は思う。
こうして素直に撩が己に身を委ねてくれるから、香はたとえ現場に赴くことを許されなくても、撩の相棒でいられる気がする。
それでも以前、海坊主との決闘で撩が酷く傷付いた夜は、手当てをするのが辛すぎて、
いつも撩の怪我の原因となる自分が悔しくて、いっそ自分にはパートナーの資格が無いのではないかと思い悩んだ。
けれど、あれからも何度かこうして撩と向き合う内に、香の心境にも変化が現れた。
パートナーだからこそ、撩がどんな状況であれ冷静に対処する。
たとえ心が痛んでも、泣くまいと香は心に誓ったのだ。少しづつではあるが、撩の傍に居て香も強くなった。




大丈夫、もう血は止まってるから。

あぁ、サンキュ。



言葉は少ないけれど、2人には確実に目に見えない絆がある。
その傷に誰も触れさせたくないのは香だけはない。
撩もまた、香以外の人間に己を委ねるのを良しとしない。
互いに未だ唇にさえ触れた事のない仲なのに、心の中も含めて、互いの傷を知り尽くしている。
どんなに身近であっても周囲の人間には、恐らく解らないであろう2人の世界は、こうして少しづつ積み重ねてきた結果だ。

押し殺した感情の内側には、熱い血潮が流れている。
それを知りながら2人は、今はまだこうして心の中で互いを思い遣ることしか出来ずにいる。


(つづく)



※ お手当て出来るの、お互い以外で教授だけは例外です(笑)
嬉しいニュースを糧に、途絶えていた更新を頑張ろうと思ってます。
生温く見守って頂けたら、幸いでございます。
[ 2018/03/24 23:55 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(2)

№5 八つ当たり

幾ら親子だとはいえ、急に今晩顔出せなんて横暴だわ。

仕方ないじゃない、お父様が言い出したら絶対なのはあなたもわかってることでしょう?

そういう姉さんはどうするの?

私は無理よ、お仕事だもの。捜査が行き詰まってるの、家族で楽しくディナーなんてやってる場合じゃないのよ。

私だって同じよ!忙しいのよ。





突然掛かってきた電話の相手は、姉だった。
冴子からこうして連絡が来るのに、朗報だったためしは殆ど無い。
麗香は警察官という仕事を辞めて以降、両親に今の己の立場を軽んじられているように感じている。
以前は姉と同じように、家族との団欒を仕事を理由に断っても、ある程度は理解を得られたのに、最近ではやけに煩い。
両親は警察官という仕事以外はいつでも暇で、いつ何時でも職務に全うしているのは警察官だけだと思っている。
自分がその世界の中の住人だった頃には判らなかったそんなことに、いい歳になってから気が付いた。
どうせ今晩も顔を出したところで、麗香を待っているのは大量のお見合い写真と母の小言だ。
このところ、姉へのお見合いの薦めは峠を越えたのか、専らその対象は麗香になりつつある。
それも、麗香の足が実家から遠退く理由のひとつだったりする。





だったら、そう言えばいいじゃない。お父様に。

言ったところで通じないじゃない、あの石頭に。

ま、そりゃそうだけど、たまにはあなたの顔が見たいのよ。親孝行しなさいよ。

姉さんがそれを言う⁉そもそも姉さんがお見合い断りまくるから、私に火の粉が飛んで来てるのよ?

そうかしら?年齢的な問題だと思うわよ?





麗香としては至って大真面目に抗議しているのにも関わらず、受話器の向こうの冴子が飄々としていることにも苛立ちは増してくる。
冴子はきっと、未だに麗香が撩に対して報われない想いを抱えているとは思っていないのだ。
以前に一度、『あら、この人なんか良いんじゃない?』などとお見合い写真の1枚を手に取って、
両親からのお見合い攻撃で辟易する麗香に更に追い討ちをかけて、激怒させるということをやらかしている。
冴子こそ同じこの見合い攻撃の被害者でもあるくせに、自分さえ良ければ何でも良いのかと、麗香はうんざりする。
家族のことは嫌いでは無いけれど、こんな時には一番鬱陶しい存在でもある。






いずれにせよ、今晩は無理なの。仕事なのよ。

撩に任せときなさいよ、もう殆ど目処は付いてるんでしょ?





さらりと言ってのけた冴子の言葉に、麗香は電話口で眉根を寄せる。
今回の件で、撩に協力を要請したことは、冴子には言っていない筈だ。






どうして姉さんが知ってるの?

撩から聞いてるもの。情報提供の一端は私でもあるのよ、残念ながら。まぁ、それだけでも無いけれど。

どういう意味?

心配してるのよ撩も、ああ見えて。あなたが危ない橋を渡ってるの、気が気じゃ無いのよ。

それで姉さんが保護者面して、影で情報提供ってわけ⁉冗談じゃ無いわ‼

落ち着きなさいよ、別に撩が絡んで無くても、情報くらい幾らでも流すわよ。私だってあなたの転職に関しては、責任が無いわけでもないし。

......。

まだ諦めて無いの?撩のこと。

...悪い?どうせ無駄だって思ってるんでしょ、みんな。

思ってるわよ、撩の気持ちくらい端で見てて判るでしょうよ。

可能性はゼロでは無いわ。

ゼロよ。

冷たいのね、きょうだいなのに。

だからでしょう?はっきりと言ってあげる優しさもあるわ。悪いけど、撩との付き合いは私の方が古いの。深入りしても絶対に踏み込めない領域があるの、彼には。





香さんならその場所に、踏み込めるの?とは、麗香は言えなかった。
そんなことは初めからわかっている。
例えばそれが撩にとって、只の慰めでも現実逃避でも何でも良い。誰かの身代わりでも。
彼がここまでは踏み込んでも構わない、と思っている限界ギリギリまで彼に近付くことが出来るなら、何でも良いのだ。




別に無理に諦めろなんて言うつもりは、サラサラ無いけど。

けど?

虚しいわよ、踏み込めないとわかってる相手に感情をぶつけるのって。ま、撩のことはどうでも良いんだけど、とりあえず今晩はあなたが帰っとかないと煩いのよ。それで暫くは二人とも落ち着くんだから、ね?お願い。

ほんとに、厄介払いしてない?自分だけ仕事で逃げるなんて狡いわ。

だってあなたの案件は撩にも手伝って貰えるから良いじゃない?捜査を撩にやらせる訳にはいかないもの、さすがに。

姉さん、やらせたら大問題よ。






冴子ならやりかねない、と思ったことは心に秘めて麗香は盛大な溜め息を漏らした。
どうして自分ではダメなのだろうと思うと、自分の境遇が嫌になる。
元々、誰かを羨んだり、自分の境遇を恨むような心持ちではなかった筈だ。
少なくとも、撩に出逢うまでの麗香は、もっと自分に自信を持って堂々と生きていた筈だった。
何処でどう変わってしまったのか、自分でも気付かないほどに自信の無い恋に身を投じている。
それでもそうと解っていながら引き返せない恋がある、ということに気が付いてしまっただけだ。
引き返せるものなら、撩に出逢う前の自分に戻りたい気持ちは麗香とて山々だ。
苦しいだけの恋なのは、冴子に言われずとも自分自身が一番解っている。





私の方から撩に言っといても良いわよ?今晩は独りで片付けて頂戴って。

何処まで保護者面すんのよ。良いわよ、自分で言うから。

そう?じゃあ、お父様、お母様に宜しくね。

ハイハイ、承知致しました。お·ね·え·さ·ま·っ·っ·💢






苛立ち紛れに切った電話に、麗香は思いの外打ちのめされた。
何が悔しいって、自分と撩との束の間のバディ関係は、あっさりと冴子に筒抜けだったことだ。
撩は心配してくれているのだと冴子は言ったけれど、そんな優しさが麗香を傷付けるなんて撩本人は微塵も思っていないのだろう。
もっとも、冴子がいともあっさりと麗香にその話を漏らすなんて思っていないのだろうけど。
そう考えれば、冴子自身が言ったように、はっきりと言ってあげる冴子流の優しさなのだろうけど。
そんな全てが麗香にとっては、苛立ちにしかならない。
まるで子供扱いだ。


けれどこの苛立ちを、麗香はきっと冴子にも撩にもぶつけることは出来ないのだ。
全ての苛立ちと嫉妬が綯交ぜになった黒い感情が行き当たる心の奥底には、槇村香の幸せそうな笑顔が浮かぶ。
香ならどうして撩の踏み込めない領域に踏み込めるのか。
香ならどうして周囲の誰からも撩のパートナーとして認められるのか。
香の恋はどうして周囲の誰からも応援されるのか。

自分と槇村香の違いは何なのか。
彼女にあって、自分に足りないものとは何なのか。
ずっと考えていて答えの見付からない問いは、麗香をとても醜い感情に駆り立てる。
彼女を悲しませてやりたいし、自分がこうして思い悩むのと同じように苦しめてやりたい。
そうでなければ、彼の隣にいる彼女という存在を視界に入れるのすら苦しくなってしまう。
醜い感情ほど表に出ようとして、まるでエイリアンの様に麗香の美しい表面を喰い破って暴れ始める。
何かが麗香の中で弾け飛んだ瞬間、麗香の指はそのまま電話のプッシュボタンを押した。
先日電話を入れた撩の寝室直通の番号ではなく、隣のビルの6階リビングに繋がる香が応対する筈の番号だ。




もしもし。



電話越しの明るい声は、麗香の神経に障る。
声を聴くだけで、麗香の心臓は一気に膨張したかのように息苦しさを感じる。






麗香ですけど。

あ、麗香さん?どうしたの?

撩いる?

ごめんなさい、今ちょっと休んでるの。夕べ遅かったみたいで。





勿論、知っている。
夕べ遅くまで一緒に仕事をしていたのは、麗香自身だ。
撩の二の腕に薄らと滲んだ血の色を思い返す。




撩の怪我はどう?大丈夫?




受話器越しに香が息を飲む音が小さく聴こえた。
撩が怪我をして帰って来たことは解っているだろう。
恐らくは、香の知らないところでまた仕事をして来たことに落ち込んでいる。
そして、そのことと麗香がどう結び付くのかまではわかっていない様子だと麗香は推測する。
しかし、一瞬後に香から意外な返答が反ってきた。




今回の件は、麗香さん絡みなのね。

あ、えぇ、そうなの。ちょっと面倒事抱えちゃって。

大丈夫よ、怪我は大したこと無いわ。ここのとこ昼夜逆転だから寝てるだけよ、心配しないで?

そう、安心したわ。





麗香には香の言葉が意外だった。
今回撩は、香を通していない自分からの依頼を、冴子だけでなく香にも明かしていたということか。
結果として、撩の寝室に電話を入れて彼を起こすことにはならずに済んだけれど、醜い八つ当たりをするために意気揚々と電話を入れた気持ちは急速に萎えてしまった。
香へ与えるダメージとしては、完全に拍子抜けだ。




それで?撩に何か御用かしら?急ぎなら起こすけど。

あ、大丈夫。伝えてくれれば良いわ。

わかった。

今夜は私、ちょっと所用で仕事にかかれないから、申し訳ないけど今日は独りでお願いしますって。

りょーかい。確かにお伝えしときまぁす。





香は、今晩興味もない大量のお見合い写真を見せられる気が重い人の気も知らずに、能天気な明るさで電話を切った。
それにあの口振りなら、撩の怪我の手当てもしたのであろう。
香本人と話している最中には、すっかり毒気を抜かれてしまう奇妙なオーラがあるのだけれど、
電話を切った瞬間にまたしても激しく嫉妬の感情に飲み込まれそうになる。
八つ当たりをしようと思った醜い感情は、綺麗に弧を描いてブーメランのように己に還って来た。
香には、あの傷に触れさせるのだ。
冴子が言っていた、撩だけの領域とは何なのか。
それすらも麗香には未だ、わからないというのに。

(つづく)
[ 2018/06/10 06:51 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(0)

№6 恋

不本意ながら麗香が実家で両親のご機嫌伺いをした翌日、
撩からRN探偵社の事務所へと電話が入った。
撩の寝室へ繋がる直通電話や、射撃場に掘って繋げた地下トンネルを、
半ば強引に図々しい振りで利用する麗香とは対照的に、
撩は決して麗香に対する一線を踏み越えてくることはしない。
撩は麗香の自宅のほうの番号はたぶん知らないし、別に知りたくもないらしい。
麗香としては、撩に訊かれれば何だって包み隠さず答えるつもりでいるけれど、
きっと撩は、彼の中で決めたある一定の距離を越えて自分に近付く気は無いのだろうと、
麗香はほんの些細な彼の気配や振舞いを通して悟っている。
撩が決めた撩と麗香の距離は、あくまでも仕事を介した知人。
それ以上でも以下でもないのだろう。
だから撩は用があれば事務所へとアクセスしてくるのだろう。
別に何の矛盾点もないその事柄ひとつに、麗香は毎度思い知らされるのだ。
わかっている、本当は。
彼にとって自分が、取るに足らないその辺の知り合いの一人でしかないことを。
それは麗香が最も受け入れ難い現実だったりする。


「…恐らく、今晩あたりケリがつく」
「そう、じゃあ覚悟してあたるわ」
「それなんだけど、お前は来なくてもいい、俺一人で大丈夫だ」


一瞬、麗香は撩の言葉を上手く飲み込むことが出来なかった。
否、頭ではわかっている。これは彼の優しさだ。
恐らくは修羅場になるであろう今夜の仕事を、彼は独りで被る気でいる。
彼とはそういう男だ。
元はと言えば麗香が持ち込んだ面倒事を、誰に不平を漏らすでもなく、
自身の危険をも顧みることもなく、ただ粛々と片付けていく。
彼のそういうところが好きなのだ。
表面的にはどうしようもないチャラ男にみえる撩の、
この本質こそが他人を惹き付けるのだろうと麗香は思う。

『彼女にあって自分に無いものと、彼女に無くて自分にあるもの』

ここ数日、彼と一緒に仕事をしながら、麗香はそのことをずっと考えていた。
今ここで、お前が来なくても大丈夫だと言われたからといって引き下がってしまえば、
何故だかこのまま一生、彼の核心には迫れないような気がした。
彼の優しさという庇の下で囲われた彼女と、自分は違うのだということを伝えたかった。



「これはうちの案件だから、当然私も同行するわ」
「…危険が伴う現場だ」
「ええ、承知の上よ」


少しの間、撩が何事か思案しているのが、電話越しに伝わる。
麗香は撩の答えを待つ間、受話器を握る手が震えるのを感じた。
本当は怖い。
警察に属していた時も、友村刑事の件でひとり暴走した時も、
本当の意味では、法律や組織や身内に守られていた。
最終的には何処かに、心の拠り所となる何かがあったから、大胆に行動できたのだ。
けれど彼の(彼等の)棲む世界を、本当の意味で麗香はまだよく知らない。
撩が危険だという事柄を、軽視しないほうが良いのではないかという考えも麗香の脳裏に過る。
彼女への対抗心が、己を衝き動かしてはいないか。
それは逆に、この間の晩の出来事のように、撩を危険に晒すことに繋がるのではないか。
撩の腕に弾が掠めた記憶が、一瞬で蘇る。


「俺は俺の仕事をするまでだ、ついてくるのなら自分の身は自分で守れ」
「わかってる」


麗香は撩の言葉を聴いた瞬間に、本能で怖いと感じた己の直感を封印した。
覚悟を固めた。
中途半端な優しさなら、要らない。
自分が巻き込んだ事件で、撩に迷惑を掛けるくらいなら、撩が負傷をするくらいなら、
自分の身を自分で守れないのなら、その時は死ぬまでだ。

撩は彼女に対して、何が何でも守り抜くし、生き延びると誓ったらしい。
奥多摩で派手にやらかして、無事に彼女を奪い返したあの修羅場の後で、
そう言って彼女を抱き寄せたらしい。
別にそんなことは聞きたくもなかったし、興味も無かったけれど、
仲間内では一時期、その話題で盛り上がったので麗香も知っている。
心はもう既に同じ方向を向いたコンビなのだろう、でも恋人としての確固たる進展はまだ無いのだ。
可能性はゼロではない。
きっと撩がその命を懸けて守り抜くのは、彼女だけなんだろう。
それならば自分は、意地でも足手纏いにはならない。
完璧にアシストしてみせる、麗香はそう思った。
何故なら麗香には、その選択肢しか残されていないのだから。







それでも現場は撩が想定した通り、非常にタフなものだった。
自分の身は自分で守れと、麗香に言ったものの、実際には撩は独りで動く時以上に気を遣っていた。
ただ麗香もそれ相応の覚悟をもってこの場に臨んでいるらしいことは、撩にも理解できた。
時折、撩は「大丈夫だから、力を抜け」と、緊張した麗香に助言しなければいけなかった。
今回の仕事の最終局面において、死を予感するほどの身に迫る危険は無かったが、
思いの外、相手方の警戒心は強く想定外の長期戦を強いられていた。
当初の撩の予定としては、
夜の闇に乗じて駆け回り、夜が明ける頃には新宿に帰り着いている筈だった。
けれど気が付くと、もう丸一日が経過しようとしていた。
目に見えて、麗香には疲労の色がみられた。
三日三晩獲物を追ってジャングルの中を彷徨っても堪えない撩とは、そもそも違うのだ。
敵が潜伏している山奥のアジトから、撩はわざと離れた場所へ移動すると、
静まり返った安全な林道の脇道へ、愛車を停めた。
誰も通らない真夜中の林道の奥で、ミニは一時的な避難小屋のような役割を果たしてくれるだろう。


「ここなら安全だから、お前は束の間でも仮眠をとれ」


何かと思えば、撩は林道の片隅の目立たない場所に、隠すようにミニを停車して麗香にそう言った。
麗香の重苦しい雰囲気をまるで和ませるかのように、笑顔を作って見せて冗談交じりに言った。


「もっこり虫はその辺うろついとくから安心して休め、しっかり鍵掛けてブランケットに潜ってな」


ほれ、と言って後部座席に置かれたブランケットを撩が放ると、
ふわりと優しく柔軟剤の薫りが漂った。


「で、でも…撩は?」


すまなそうに眉根を寄せる麗香に、撩は小さく肩を竦めてみせただけで車から出た。
四つのドアの全てがきっちりと施錠されているのを確認して、林の中の暗闇へと消えた。
確かに麗香は、正直クタクタだった。
撩の足手纏いにならない為に、縋り付くだけで精一杯だった。
悔しいけれど、麗香の力ではこれ以上、意地を通して我儘できるのも限界だった。
そんなことは全て、撩には見透かされていたのかもしれない。
窓の外から自分の姿が見えないように、麗香はブランケットを頭から被った。
何処かで嗅いだことのある匂いだと思ったら、それは彼女の匂いだ。
撩と香の生活の匂い。
彼女が洗濯で使う柔軟剤や、二人で使うシャンプーや彼女の使うボディクリームや色々が混ざった。
複雑な気持ちに飲み込まれる暇も与えずに、疲労は麗香を急速に眠りの底へと引き摺り込んだ。


麗香を休ませている間にケリをつけようと、撩は林の中の道を進んだ。
途中、山越えの峠になっている国道へ出た。
これまでの山道とは違い、数は非常に少ないけれど等間隔に道を照らす灯りがある。
そのずっと奥に、薄ぼんやりと電話ボックスの明かりが見えた。
半日ほど経った頃から、度々撩の脳裏を掠めていたのは、撩の身を案じる相棒の顔だった。
撩は無意識に、ポケットの小銭を探る。


(つづく)



[ 2021/06/02 16:38 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(1)

№7 隙間

その電話があったのは、もう深夜といっても差し支えない時間だった。
前の晩に、いつものように出掛けて行く撩を玄関で見送った。
明け方か、遅くとも昼前までには戻るだろうという、
香の予想に反して撩は暗くなっても戻らなかった。
撩の分もいつも通りに作った夕食は、ラップをかけて冷蔵庫に仕舞った。
何度見たところで変わらないのに、ベランダに出て表の通りを探してしまう。
夜でも煌々と明るい街灯の下を、赤い小さな車が走っていないか目を凝らす。
何度も確認している時計の針は香を焦らすように、遅々として一向に進まない。
そんな時に、リビングの電話が鳴ったのだ。


「…もしもし」
「俺」
「うん」


繋がった瞬間に、小さくプーッという音が聞こえて、
撩が何処かの公衆電話から掛けてきたことがわかった。
それ以前に、そんな時間に電話を鳴らすのは撩だろうと、香には出る前からそれがわかった。


「無事だから、心配すんな」
「うん」
「朝までには、帰る」
「うん」


言いたいことはもっと沢山あるような気がするけれど、
いつも通り言葉に変換できない二人の間には、沈黙が味方する。


「麗香さんは?大丈夫?」
「ああ、二人とも何ともない。ちゃんと戸締りし…」

プツッ、プープープー


撩の声は、中途半端なところで途切れてしまった。
それでも香は、昼間からの心配が少しは軽くなるのを感じた。
電話の向こうの撩は、至っていつも通りで緊迫感の欠片も感じさせてはいなかった。
けれどすぐに帰って来られない程度には、差し迫った状況なのだろう。



NTTの回線によって、二人の会話を強制終了させられた撩は、
暫く緑色の受話器を憮然と睨んでいた。
ポケットの中の小銭ではそれまでが限界だったので、
もっと彼女を安心させることのできる言葉を探っていたかったけど諦めた。
小さな虫が誘われるように群がった強化アクリル製の箱を出ると、撩は気持ちを切り替える。
この数日、撩を煩わせた連中を一人残らずブッ潰す。
撩にしてみれば間の悪いことに、折角の相棒とのデートをふいにさせられたのだから、
三割増しで仕返ししてやる目論見だ。


香は撩のサンダルを突っ掛けて、もう一度ベランダへ出た。
ブカブカの撩のビルケンシュトックは、撩が履くよりむしろ、香が履く頻度のほうが高い。
夜の空気には、夏の終わりの匂いが混ざっている。
朝までには帰ると言った彼の姿が、表の通りにあるわけもない。
さっきまでの胸を引絞られる様な激しい焦燥感は消えた代わりに、
今度はまた、別の感情が香を苦しめ始める。
今回、撩は麗香と行動を伴にしている。
最初、あのデートがドタキャンとなったあの時に、香は自分に出来ることがないか撩に訊いた。
撩の言葉と表情はこういう時、とてもキッパリと香を拒絶する。
その度に香は、相棒という言葉の意味について深く思い悩んでしまうのだ。
香はこの数年間で、その拒絶の瞬間を上手く躱す術だけが上達してしまった。
撩が望まないことには、どんなに心が折れそうになっても決して踏み込まない。
撩が香に詮索されたくないことを、詮索しない。その代わり、撩を信じて撩を待つ。
ただ待つだけじゃ能が無いから、
撩が帰って来た時に心底安心できるように、空かせたお腹を満たせる食事を用意して撩を迎える。
撩の居場所の番人のように留守を守る。
それでも本音を言えば、香は撩の隣に立って撩と一緒に闘いたい。
撩がどんな相手に向かって、孤独な闘いを続けているのか、
相棒としてそれを分かち合いたいと思っている。
先日の麗香からの電話で、今回の件が彼女絡みの依頼であることを知り、
彼女と行動を共にしていることを知らされて、正直、ショックじゃなかったといえば嘘になる。
色々なことを撩と二人で乗り越えて、撩から色んな言葉を貰った筈なのに。
実際には、肝心な時に自分は彼の役に立てないのだ。

いつまでこんな自分なんだろう、麗香や冴子や美樹たちみたいに、
この世界を渡っていける本当の強さを、一体自分はいつになったら持ち得るのだろう。
香がそう思い、涙が零れそうになった時に、またしても電話が鳴った。
一瞬、撩の顔が脳裏に浮かんだけれど、それをあっさりと打ち消した。
すぐ向かいの大きな窓の向こうで、見慣れた友人が電話を片手に手を振っているのが見えたからだ。


「こんばんは、カオリ」
「こんばんは」


明るい友人の声は、沈みがちだった香を少しだけ明るくさせた。
自然と声に笑いが含まれるのを感じる。


「リョウのやつ、まだ帰らないの?」
「…うん、昨夜から帰ってないの」
「Oh そりゃ心配だね、大丈夫?カオリ?」
「さっき  電話があったの、無事だから心配要らないって」
「あぁ、そうか、なら良かった」
「うん」


優しい友人は、優しいうえにとても勘が鋭いので、
少ない言葉の中に隠れた香の感情は、すぐに読み取られてしまう。いつものことだ。


「でもなんだかとても悲しそうだ、カオリ?なにがあったの?」


こういう時に、こんな風に、優しく気遣われると、
堪えようと思っていた涙が思いがけず溢れてしまう。
涙は一度溢れてしまうと止め処なく、感情も一緒に流れ出てしまう。
電話越しに泣きじゃくってしまった香を、ミックは優しく沈黙で包む。
心配でたまらなかった撩の安否は、本人の至っていつも通りの元気な声を聴いて安心できた。
今夜も世界の何処かで彼は、生きて自分に課せられた宿命と向き合っている。
彼はちゃんと生きているから。
だからそれはもっと、別の涙だ。
悔しい気持ちや、嫉妬の気持ちや、不甲斐なさや、自己嫌悪の気持ち。
そういう全部がぐちゃぐちゃに入り混じって、
何処かで今も一生懸命に闘っている撩にだけは、絶対に見せたくない汚い自分。

なんで麗香は連れて行くのに、自分はダメなのか。
彼女にあって自分にないものと、自分にあって彼女にないものの違いについて。




「違うの、アタシはアタシが嫌いなの」
「カオリ?ボクはキミが好きだよ?」



「撩、いま麗香さんと一緒に仕事してるの」



暫く泣いた香が、鼻声でそう言ったので、ミックにもその涙の意味が理解できた。
香を危ないことに近付けたくないのは、単なる撩のエゴだ。
汚い世界を見せたくないのも、罪を犯した自分を見せたくないのも。男のエゴでしかない。
けれども、例えばそれがミックだったとしても、きっと同じようにする。
香には綺麗なものや楽しいものを、沢山みて笑っていて欲しいから。
それというのも、香のことが好きだからそう思うのだ。
でも、撩の全てを知ったうえで、それを分かち合いたいと思う香の気持ちも理解できる。
ましてや周囲の女達と自分自身を比べてしまうだろうことも。


「そっか、ツライね。…でもさ、カオリ」
「ん?」
「リョウが望んでるのは、家に帰った時にキミが居るいつもの日常なんだよ?」
「…でも、アタシは…、撩と一緒に闘いたいの、撩を苦しめる全部と」
「うん、知ってる、でもボクは撩の気持ちがよくわかるんだ、キミのことが好きだから」


そう言ったミックの言葉を、香は泣きすぎて頭痛のする頭で考える。
黙り込んだ香とミックの間に、静かな沈黙が流れる。
そんな時間でさえ、ミックは好きだ。
ミックは彼女が好きだから、どんな彼女であっても常に彼女の味方でいるつもりだ。
どんなに嫉妬に狂っていても、自己嫌悪で泣きじゃくっていても、
撩にはこんな姿を見せられないと言って、苦しむ彼女ですら可愛いと思う程度には頭がおかしい。
それがミック・エンジェルという男だ。


「カオリ、それをリョウは望んでいるんだ。
 キミが無事で、キミに危害が及ばない場所で、キミの元に帰りたい一心で、
 きっと大急ぎで仕事を片付けてるはずさ。」


リョウのやつってば、健気だなー、とミックが笑いながらそう言うので、香もつられて笑った。
ミックの言葉にはきっと、香の気持ちを紛らわせる為のジョークも含まれているので、
香はいつも話半分で聴いてはいるものの、
確かに少し、胸に仕えたモヤモヤは晴れたような気がする。
誰にでも心の中には、他人に見せられない領域というものがあって、
どんなに強く思い合っていたとしても、
互いに埋められない心の隙間というものはどうしようもなくて。
それはきっと、自分以外の誰かに埋めて貰うような性質のものではないのだろう。
それを埋める為の課題には、皆それぞれが向き合わざるを得ないのだ。



「どんなにキミがキミ自身に失望しても、ボクはキミの味方だから、忘れないで」

「ありがとう、ミック」



友人はいつもこうやって、朝を迎える為の勇気を香にくれるから、香もついつい甘えてしまう。
もしも、このミックと香の遣り取りを撩が知ったら、嫉妬しまくって不機嫌になるだろうことなど、
当の香だけが、いつまでも知らないでいる。


(つづく)





[ 2021/06/07 20:20 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(0)

№8 ここには誰れも来ぬものを

小さくて愛らしい外見には似つかわしくない渋めのエンジン音と小さな振動を感じて、
麗香がブランケットから顔を出すと、赤いミニクーパーは静かに動き始めるところだった。
砂利敷きの林道なのに、驚くほど滑らかに進み出したのは多分、撩の気遣いだ。
助手席へ一瞬チラリと目線を寄越した撩は、信じられないくらい埃まみれだった。


「起こしちまったな、すまん」


仮眠しろ、と言って麗香を置いて暗がりへ消えた撩は、どうやらあの後独りで片付けてきたらしい。
どの位の時間が経ったのか麗香には判らなかったけど、
真夜中だった空の色に少しだけ明るさが混ざり始めていた。
夜明けはまだだけど、少しだけ朝の気配がする。


「ごめんなさい、最後まであなたに頼りっきりで」
「別にぃ、どってことないさ 俺にとっちゃ何てことない相手だ」


麗香が一人で探偵事務所を開いてもう数年になるが、
今回ばかりは己の力量を超えた依頼に関わってしまったと反省している。
基本的に非合法の世界に足を踏み入れるつもりは無い麗香だが、
自分のやっていることが、限りなく黒に近いダークグレイであることを今回、痛感した。
その割には、麗香自身の実力は素人に毛が生えた程度である。
麗香はこれまで、心の何処かで香のことを、
撩に守られているだけの素人だと見下していたことに気が付いた。
それでも麗華自身がこうして、撩の仕事を目の当たりにしてみて少しだけ思い直したことは、
槇村香という人間は、麗香が考えているほど素人という訳でもないのかもしれないということだ。
麗香とて数年間は、警察官として様々な世の中の修羅場を見聞きしてきた自負はあるが、
香が撩の傍で実際に経験してきた全ては、法律の外側の最も暴力的な世界の修羅場なのだ。
同じ場面に遭遇したとして、麗香が香よりも上手く立ち回れるのか、正直麗香にはわからない。
どちらがより彼の役に立てるのかなんて、比べること自体そもそも無意味なことなのかもしれない。
ひとつ確かに言えることは、彼女は彼の隣でずっと彼をサポートしている。
何より、彼がそれを望んでいる、その事実。それが全てだ。



新宿に帰り着いたのは、早朝だった。
冴羽アパートのガレージにミニクーパーがするりと滑り込み、いつもの定位置に収まった。
撩と麗香は示し合わせた訳でも無いけれど、自然と地下の射撃場へと向かった。
撩は今回の仕事で使った銃火器の類を手入れして仕舞う為に、
麗香は地下で繋がった自宅へと帰る為に。


「ありがとう、撩 助けてくれて」
「いや、礼はいい これは俺のやるべきことなんだ」
「…どういう意味?」


麗香には本当に、意味が解らないのだ。
撩が自分自身の危険も顧みず、こうして何も言わずに体を張って協力してくれる意味が。
麗香が初めて撩とあった時の、友村刑事の時のことも、
本当ならば撩には何の得もない、関わりもない事柄をまるでスーパーヒーローのように解決して、
だからといって何の見返りも求めないことが。
確かに表向きには、一発やらせろだの何だのとふざけるけれど、こちらが応じようとすれば、
それはただの冗談に過ぎないことを思い知らせるように、サッと引いていく。
そんなことをされたら、好きになってしまっても仕方ないじゃない?と麗香は思う。

あまりにも真剣な表情で麗香が訊ねるので、撩は思わず苦笑してしまう。
昔の撩ならば多分、不必要な面倒事に首を突っ込むことなど無かっただろう。
海坊主とも、ミックとも、昔のしがらみには、
複雑な事情が絡んでいて、敵対していた時期もあった。
どんなに軽口を叩き合っても、懐の銃の引き金はいつでも引ける心構えでいた。
『仲間』だなんて何の他意もなく言えるようになったのは、本当にこの数年の話だ。
何よりも、海坊主やミックとまた昔のようにやり合えば、香が悲しむ。
撩はまず一番に、そう考えてしまうようになった。


「仲間だから」


きっと香なら、麗香が困っていれば助けてやれと言うだろうから。
今回、撩と麗香が組んで仕事をしていることについて、
恐らく香が多少なりとも傷付いていることは、撩もわかっている。
それでも尚、香なら麗香の窮状に際して、
力になってやれと言うだろうと思ったから、撩は麗香を助けた。
誰かの為に自分の持っている力が役立つのであれば、
それを使うことは当然だと考える相棒に影響されて、撩はこの数年で考え方が変わった。
頑なな撩を変えることの出来る能力を持った強い女は、それでも毎度、己の非力を嘆いている。


「仲間以上には、なれないの?」
「…。」


麗香の視線に含まれる熱の意味を知っている撩には、答えてやれる言葉は持ち合わせていない。



   香さんにあって私に無いものってなに?



麗香の問いは真っすぐに撩を射る。正直、撩にはわからない。
どうして自分がこんなにも香に惹かれるのか。
麗香だって、充分に良い女だということはわかっている。
麗香でもなく、冴子でもなく、他の誰でもなく香でないと駄目な理由。
そんなことは、撩にだってわからない、理由などない。
でも、この期に及んで麗香をこれほどまでに追い詰めてしまっているのは、きっと。
撩の煮え切らなさが招いてしまっている事態には違いない。
言葉や約束で縛れない分、曖昧さと狡さで香に甘えてしまっている撩は、
それと同じだけの残酷さで、『仲間』なんて口当たりのいい言葉を使って麗香を傷付けている。
それは、香に対して『相棒』という言葉を使うのと根本は同じだ。
時にはハッキリと拒絶する優しさも、必要なのかもしれない。


「なれないよ、俺が惚れてるのは香だ」
「はっきり言ってくれたの、はじめてね」
「今更だろ?俺みてたらバレバレじゃん?」
「そうだけど、言って貰わなきゃ諦めがつかないこともあるのよ」
「…そうだな」


好きの気持ちを言ってやらないと伝わらないのと同じように。


「もう此処も塞がなくちゃね」


そう言った麗香は笑っていた。
この恋で人知れず何度も涙を流したけれど、最後に胸に残ったのは不思議な清々しさだった。
もしかすると麗香は、ほかの誰にでもなく、撩自身に引導を渡して貰いたかったのかもしれない。
本当のところでは、撩の気持ちなど、彼自身の言葉通りにバレバレだった。
空気を読んで察して自分から身を引くのと、言葉にして貰ってあっさり振られるのと、
どちらが良いかは人それぞれだろうけど。
麗香が心の奥底で求めていたのは、後者だったのだと麗香自身もやっと気が付いた。
撩が自分のことを仲間だと思ってくれているのなら、それだけで充分だと麗香は思えた。


「ああ、そうして貰えると助かる うちの相棒、やきもち妬きだから」


やっぱりそう言って笑った撩がイケメン過ぎるから、未練がましい気持ちになる前に、
麗香は射撃場に背を向けて何も言わずに手を振った。





(つづく)

[ 2021/06/14 09:36 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(1)

№9 いのち短し恋せよ少女(おとめ)

「香、仕切り直しさせてくれ」
「は?」


食後のコーヒーを淹れてリビングに持っていくと、
いつになく改まった面持ちの撩が香にそう言った。
麗香からの依頼で撩が奔走した数日後、麗香は改めて依頼料を冴羽商事宛に振り込んできた。
本来の麗香の依頼主も、まさかあれほどの騒動に発展するのは想定外だったらしく、
ずいぶん上乗せされた報酬を支払ってくれたらしい。
報酬は折半で冴羽商事にも齎されたわけだが、それでもまあまあの額だった。
麗香は香にだけ電話を寄越し、しばらく留守にすると告げた。
今回の報酬で、パァーッと気晴らしに一人旅に出るらしい。
傷心旅行よ、と言った麗香に、香は何と答えるのが正解なのかわからなかった。
普通に考えて点と線を繋ぎ、麗香の発言と冴羽撩のこの表情を見れば、
彼が何を言いたいのか、ある程度の察しはつきそうなものだが、
察することが出来ないのが、まあ槇村香らしいといえばらしい。


「何を?」


本当になんの心当たりもないといった様子でキョトンとした香をみて、
撩はここから先の道のりの長さを覚悟した。


「何って、デートに決まってんじゃん」

ブフッ

香は思わず、口に含んだコーヒーを吹き出してしまった。
そういえば今回の件で、せっかくの美樹からのお膳立てがドタキャンになったことすら、
香は忘れかけていた。
あの時、香は撩がなにか奢ってくれたらチャラにしてやると言って、
軽く受け流していたのだ。


「牛丼、奢ってくれるの?」
「京王プラザホテルのラウンジに、今夜19時 粧し込んで来い」

「え? ちょっ なに?急に」


香は香で激しく動揺していたけれど、撩も撩で意を決してデートに誘ったのだ。
用件だけ言うと、まだ冷め切らない熱いコーヒーを一気に飲み干して、リビングから逃げ出した。
撩の耳たぶの先がほんの少し赤かったことに、香は気が付かなかった。
しかし、残された香はぼんやりと撩の言葉を復唱した。


京王プラザホテルの・ラウンジに・今晩・19時


「っって、なんでアイツはいつもいつもいつもこう急なのよ‼ 時間ないじゃん‼」


香はテレビの横に置かれたシンプルな置時計を見遣る。
もう既に昼の13時を回っている。昼ごはんの後のコーヒーを飲んでいるところだったのだ。
仕方ない。
粧し込んで来いと言われても、香は完全にパニックになっていた。
頼れるのは親友の彼女しかいない。
香は早速、多忙を極めているだろうデザイナーの友人へ、連絡を取った。
今夜のデートを成功させる為のコーディネイトを相談するのだ。








端的に言って、約束のラウンジに現れた撩の相棒は、美しかった。
フォーマルに着飾ってもしっくり馴染むその場所で、彼女は一際人目を引いていた。
粧し込んで来いと言ったのは確かに撩だけど、
想定以上に美しく仕上がった香の裏で、北原絵梨子が暗躍したことは想像に難くない。
限りなく黒に近い紺色のオーダーメイドのタキシードを身に纏った撩と、
ローズグレイの光沢のあるタフタ素材のイブニングドレスを着た香は、
まるで誂えたかのように調和がとれていた。
なんの打ち合わせも無いままのデートの約束にしては、上出来だ。


「お待たせ」


ヒールを履いた香が頭ひとつ分背の高い撩を、無意識に誘惑するように見上げる。
ショートヘアの耳元で、いつかの横浜のデートの夜に着けていたゴールドのイヤリングが揺れる。
あの晩、片ほうだけを撩の元へ置き去りにして、帰って行ったシンデレラは、
翌日のジーンズのポケットから出てきたそれのカラクリには言及せずに、
今も撩の傍に居てくれている。


「いや、俺もいま来たとこ」


嘘だ、実をいうと撩はドキドキしながら15分前には到着していた。
そんな素振りも見せずに、撩が右腕を差し出すと香は慣れた手付きでそっと手を添えた。
これまでに何度もこうして腕を組んで歩いたけれど、それは全て仕事の為で。
デートとして撩が香をエスコートするのは、これが初めてだ。
今夜、撩は彼女と公私共にパートナーとなることを誓うつもりでいる。
本当に想っている相手には、きちんと言葉で伝えないと伝わらない。
それを教えてくれたのは、撩に報われない恋をして振られた女探偵だ。
まるで撩の曖昧さを許さぬように、彼女は香にあって自分にないものは何かと、撩に訊いた。
あれからずっとそのことを、撩も考えていた。
撩にもその問いの答えはまだわからないけれど、あえて言うならば、撩にとって香は光だ。
光は希望だ。
真っ暗な夜を照らしてくれるちっぽけな星のひとつだけれど、
沢山ある星々の中で撩は見付けてしまったのだ。
撩の為だけに、撩の行く道だけを、明るく照らしてくれる小さな星を。

撩は彼女がまだ、少年のようなあどけなさを残したあの頃から、彼女のことをずっと見てきた。
撩の傍でどんどん綺麗になっていく彼女は、これまでで今夜が一番綺麗だ。
今日という日は、再び訪れることはない。
きっとこれからも毎晩、今夜の彼女が一番綺麗だと思いながら、歳を重ねていくだろう。
その気持ちが揺るぎの無いものだと確信できたから、撩は香をデートに誘った。

相棒(パートナー)に「愛している」を伝えるために。


(おわり)



え~と、完結までに長々とお待たせしてしまい申し訳ありません(汗)
なんとか当初書きたかったお話には纏まった気がしています。
麗香ちゃんの恋と向き合うのは難しいです。
最終的には、りょうちゃんとカオリンの二人が進んだ関係になるっていうのがもっともしっくりきますね。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます( *´艸`)
[ 2021/06/17 21:26 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(1)