№1 女豹と雌猫 

おはよう、撩。お目覚めの気分は如何?



そう言って38口径の官用回転式拳銃を、シーツを持ち上げる男の下半身に突き付ける女は、
何処からどう見ても警官には見えない程に妖艶で、早朝から只ならぬ色気を放出している警視庁の女豹だ。
深くスリットの入ったタイトスカートに包まれたヒップは、日頃の鍛錬の賜物でツンと上がり、
白い肌に映える黒い絹の網タイツが、見事な脚線美を包んでいる。
華奢な手首には上品なブレスレットが揺れ、
利き手に握られた武骨な装備品とのアンバランスさがより強調される。
野生の動物が発するフェロモンと同義の、ゲランのサムサラが薫る。
片や、最も無防備で攻撃に弱い筈の急所を危機に晒していながら寝たふりをかますのは、
この家の家主でもある、新宿の種馬こと殺し屋兼遊び人の冴羽撩である。
下半身が起き上がる以前から、とっくに目は醒めている。




・・・たはは、男の寝室に入る時くらいノックしたらどうよ、冴子。

あら?貴男こそ、とっくに目覚めてるくせに、礼儀として下着くらい身に着けたらどぉ?

礼儀もなんも、おまぁの方こそ不法侵入のくせして。



そう言いながら起き上った撩は、ふわぁぁぁあ~~と奥歯まで見えそうな勢いで欠伸する。
寝起きにいきなり野上冴子という女を前にして、これほど緊張感に欠ける男もそういない。
そもそもシーツを持ち上げてみせた例の急所云々も、いつもの撩の挨拶の様なもので特に深い意味も無い。
自由自在に操れるのだ。




まぁ人聞きの悪い。この家のセキュリティの最終砦は香さんでしょう?
彼女の顔パスなら、不法侵入にはならないわ。




冴子はニッコリと微笑む。
笑顔すら見せない隙のない氷の様な女から一転、
こうして微笑むとちゃんと可愛らしい女だという事を、彼女の仕事仲間には意外に知られていない。
どうやら今朝は、相棒公認の朝駆けらしい。
香という名を聞いて、撩は突然階下から良い匂いが漂って来たような気がした。
恐らく、相棒は魚を焼いている。
冴子のセキュリティ云々の見解には肯定も否定もせずに、
撩はサイドボードのマールボロとジッポーに手を伸ばす。
寝床で煙草を吸うと相棒は、
まるで母親のように小言を漏らすけど種馬の耳はいつも華麗に聞き流している。
目の前の冴子を見ながらも、頭の中には香のいつもの小言が響くけど、撩はいつも通り聞き流す。






で?なに?こんな朝っぱらから。

依頼よ、撩。大概でシャンとして頂戴、だらしないわね。もう、朝って時間でもないわよ。




撩はフンと鼻を鳴らしながら咥え煙草で、枕元のティッシュを一枚抜き取ると目脂を拭った。
昨夜遅くにシャワーを浴びて髪の毛も碌に拭かずに眠ったので、盛大に寝グセがついている。
鍛え上げられた裸体を包むモノは下半身に申し訳程度被せられたシーツのみで、
それにしたって冴子の来訪を感知して、ついさっき目を瞑ったまま手繰り寄せて適当に纏っただけだ。
焼き魚の匂いを嗅いだら、撩の腹の虫は現金なもので急に騒ぎ始める。





取敢えず、飯喰いながら聞くわ。下で待ってて。












どうぞ。



そういって香が冴子の前にコトンと、マグカップを置く。
撩と冴子の寝室での遣り取りの間に、撩の朝食の支度を一時中断して豆を挽いた珈琲だ。
ありがとう、と言いながら冴子は、
使い込んで味の出て来た紺色のバーキンから茶封筒を取り出す。




冴子さんが来たら、撩起こすの楽だから助かるわぁ。



ニカッと笑った香を見て、撩は得心する。
今朝の物騒な目覚ましは、女豹と雌猫による共同作戦なのだろう。
冴子も香と目を合わせて示し合わせたように、肩を竦める。
撩はムスッとして、小鉢の中の納豆を混ぜる。
撩の好みの固さに炊かれた雑穀米に、お麩と若布と豆腐の入った味噌汁。
常備菜で香がいつも作り置きしている短冊に切った胡瓜の搾菜和え、野沢菜の漬物。
ふっくらと身の厚い鯵の一夜干し。
鯵を焼いた後の焼き網をコンロに乗せて、ししとうと茄子を焼く香の背中を見ながら、
撩は泡立つまで混ぜた納豆を茶碗の飯の上にかける。

白いスキニーパンツにカーキ色の撩のTシャツを着て、紺色のエプロンをしている後ろ姿。
襟足の髪の毛がまた少し伸びたな、と撩は思う。
決意を表すように、髪の毛を切った香が夜更けに撩の寝室へ来てからもう一年になる。
あの日、夜が明けてすぐ海原の船へ向かった。
あれから何度か危機を乗り越えて、色々有った割にはあっさりと何事も無かったように暮らしている。
海坊主と美樹は結婚して、ミックとかずえは同棲を始めた。
怒涛の様な一年はあっという間に過ぎて、香の襟足もまたシュガーボーイから少しだけ女らしくなった。
撩の傍で、香はどんどん大人になっているのに、2人には未だ何の進展も無い。

納豆の混ざった雑穀米をモシャモシャと食べながら、ぼんやりと香の後ろ姿を見ている撩の目の前で、
冴子は呆れたように白木のダイニングテーブルの天板を、綺麗にネイルを施された指先でコツコツと叩く。
小さな音に我に返る撩に、冴子は意味あり気に口角を持ち上げる。
撩は他人の前で、無意識に他の事を考えてしまっていた事に軽く狼狽した。
最近は、専らこうなのだ。
勿論、身の危険を脅かすほどの症状では無いものの、気が付けば相棒の事ばかり考えている。




貴男がそんな目をするようになったのねぇ、意外だわ。



囁くように呟いた冴子の声には、香は全く頓着せずにコンロの上の焼き網に集中している。
ししとうの焼き加減に気を取られているのだ。
それでも撩は、冴子の発言を遮るようにワザとらしく咳払いをしながら、
冴子の手からA4サイズの茶封筒をひったくる。
冴子の面白がるような視線を遮る為に、撩は数枚のレポート用紙で顔を隠す。

そんな撩の前に置かれた鯵の皿の片隅に、
振り返った香が菜箸で焼き網の上の茄子とししとうを盛り付ける。
撩は何も言わずに、依然顔を隠したままで茄子とししとうに出汁醤油を数滴垂らす。
2人の一連の動作に淀みは無く、彼等の年月を否が応でも目の当たりにしてしまう。
彼等がまるで夫婦のように暮らして来たのと同じ年月だけ、
冴子の最愛の男がこの世を去ってからも月日が流れたという事だ。
未だ冴子は、槇村秀幸以上の男には御目に掛かっていない。




・・・大塚健吾、か。

ボディーガードよ。



数枚の資料の内の一枚に、対象者の経歴が仔細に記されている。
護衛対象者は所謂、芸能人と呼ばれる職業だ。
撩はまるで興味が無いけれど、巷では結構な人気を得ている若手俳優らしい。
多分、その男に関しては香の方が詳しいだろうと撩は思う。




その人、今朝テレビに出てたよ。



香がシンクの方から振り返る。
手に泡の付いたスポンジと、用済みの焼き網を握って。
香が見たのは、朝のニュースだ。
ニュースとは言いながら近ごろの朝の番組は、ほぼバラエティ番組の様相を呈している。
エンタメ情報の中で、彼の出演する最新映画の舞台挨拶の様子が放送されたらしい。




少し前まで、彼はその映画の撮影をしててね、昨日まではその映画のPRの仕事で、
そのPRの仕上げが昨夜の舞台挨拶よ。



冴子が香の情報に補足する形で、話しを続ける。
このあと大きな仕事として彼は、次の大河ドラマでの準主役級の役に抜擢されている。
彼の事務所としてはこのチャンスに賭けている。
しかし、それを脅かす事態が勃発し、今回冴子を通じて撩と香の元へとこの件が舞い込んだ。
勿論、事件は複雑に入り組んでいる。
撩に白羽の矢が立ったという事は、それなりの事情があるのだろう。


撩はパサリと軽い音を立てて資料を放ると、ずずずーと味噌汁を豪快に飲み干した。
飲み干したお椀を、無言で香に突き出す。
香は嬉しそうに顔を綻ばせて、蛇口で泡の付いた手を洗うとお椀を受け取った。
お替りの味噌汁をよそう香の背後で、冴子は撩に意味あり気な笑顔を向ける。
撩は終始、苦虫を嚙潰したような表情(かお)でブスッとしているけれど。
多分、惚気ているのだと冴子は受け止めている。
昔の撩を知っている冴子にしてみれば、彼がどんなにぶすくれていても幸せそうにしか見えない。




お替りのごはん、玉子かけにしてあげよっか?



お椀を持って振り返った香がそんな事を言うもんだから、それは冴子の中で確信に変わる。
撩は今、きっと幸せだ。
冴子が唯一無二の男を喪ったのと引き換えに、撩は唯一無二の女を得た。
昔から撩と冴子は、似た者同士の同じ穴の貉だ。
槇村秀幸という、互いにとって大事過ぎた男を巡って火花を散らしたライバル同士だった。
香は思い違いをしているようだけど、撩と槇村と冴子の三角関係の頂点に居たのは槇村だ。
撩と冴子は決して、男と女にはなりようが無い。
だから撩が迫る厭らしい報酬は、香の前で見せる下らない虚勢に過ぎない。
それでもこの数ケ月、撩にはその虚勢を張る気も理由も無いらしい。
少しだけ、撩の肩から力が抜けたのが視線や些細な仕草から窺い知れる。
そういう時、冴子は思い出すのだ。
いつだったか自分も、槇村秀幸とコンビというしがらみを解き放って、別の形の関係になった時の事を。
肩の力が抜けた瞬間の、あの幸福感を。





あぁ、頼む。



撩が香の手に、大振りのご飯茶碗を乗せる。
冴子はここ最近、心の底から同類のこの男の幸せを喜ばしい事だと思える。
後は多分、撩のこの恋心に兄譲りの鈍感な彼女が気が付くまでの辛抱だ。




もうひと息ってとこかしら?



冴子の言葉に、香は首を傾げたけれど。
撩は意味が解っているくせに、何も言わずに焼き魚の身を箸でつついていた。


(つづく)




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№2 冴羽商事恒例・客間問題

彼等が今回、貴方のガードを担当する2人よ。





冴子が依頼人にそう言うと、香はにこやかに“槇村香です”と名乗ったけれど、
撩は仏頂面の咥え煙草で、小さく会釈しただけだった。
そんな撩に、隣に座った香はガラステーブルの下でこっそり撩の足を踏ん付ける。
勿論、依頼人に気付かれないように笑顔は絶やさない。
仕方無しに撩は聞こえるか聞こえないかの小さな声で、冴羽です、と名乗る。
依頼人、大塚健吾はさして気に留めるでも無く、
これまた香に負けず劣らずの笑顔を浮かべて、名乗りながら頭を下げた。
印象としては、テレビで観るよりも長身で着痩せするもののそこそこ鍛えられた体をしていた。
さり気なくチェックする撩だが、生憎、実戦用の筋肉か観賞用のモノであるのかは一目で判る。
あのような体を作る為には、専門のトレーナーが居て効率的に見た目良く鍛えるメソッドがあるのだ。
使えるか使えないのかは、別問題だ。
朝から冴羽アパートを訪れた冴子は数時間後、依頼人を連れて再訪した。









遡る事、数時間前。
撩は冴子から前もって渡された資料を、
冴子が帰った後に(朝食兼)昼食後の珈琲を飲みながらチェックした。

大塚健吾(24)、職業・俳優。
大学在学中のアルバイト先で、現在の所属事務所の社長にスカウトされる。アルバイトのバーテンダー時代には既に彼目当ての客が殺到し、同年代の間ではちょっとした有名人であった。優しげな顔つきは如何にも純粋そうで、役柄や好感度は生真面目な好青年というイメージだ。その上、女性誌でセミヌードグラビアを披露し、その優しげなマスクからは想像もつかない肉体美を披露してからは、同世代のみならず、主に年上女性からの圧倒的支持を得て、一躍人気俳優の座に踊り出た。それからはトントン拍子に仕事をこなし、この1年、連続ドラマの枠で彼を見ない日が無いと言っても過言では無い。先日クランクアップした初の主演映画に続き、次回の大河ドラマでは準主役級の役が付いた今後もっとも期待される役者の1人だ。

というのが表向きの彼、大塚健吾の経歴だ。
芸能人の経歴ほど、詐称に満ちた誇大広告も無い。
実際に素人時代から女にモテていた事は、間違いないらしい。
けれど、世間で言われているような好青年とは、決して言い難いのが今回の依頼人である。
彼は高校生の頃から、渋谷や六本木の盛り場で夜な夜な遊びまくっていた。
父親は某中央省庁の官僚を務めており、仕事人間。
母親は専業主婦で、世田谷の自宅で趣味のケーキ作りを活かしお菓子教室を週に1度開いている。
本人は、幼稚園から一貫教育の某私大にエスカレーター式にそのまま進み、無難に卒業している。
中学までは如何にもな絵に描いたようなお坊ちゃんという風情だったけれど、
高校に進学して彼は変わった。
夜の盛り場を徘徊し、付き合う連中も素行の悪い者たちに変わった。
父親は息子の成績以外には無関心を決め込み、
息子を溺愛する母親は息子の機嫌を損なう事を何より恐れた。
素行は悪くなったけれど、両親の立場を脅かすような悪さはしなかった。
彼は生い立ちに起因する性格上、極端に大人の空気を読む子供だった。
良い子だと思われる事に、強いこだわりを持つ。
遊び仲間に対してもそれは同じで、表沙汰になっていないだけで悪さもそれなりにやった。
良いヤツだと思われたくて、流されるままに遊んでいたのだ。
一度、大学時代に大麻使用の疑いで捕まっている。
仲間の内の1人が所持で捕まり、証言などから彼の名が浮上したのだ。
それでも当時は、証拠不十分として何事も無く片が着いている。
冴子は当時の事について詳しくは知らないが、任意で連行された直後、
父親の差し向けた弁護士が、警察署にやって来たらしい。
それ以降、その件は実に曖昧模糊としており、
冴子が今回の件に絡めて調書を見返したけれど、他の仲間たちとの処遇の違いには違和感を覚えた。
けれどその違和感の厳然たる根拠は無く、色々と勘繰ってしまうのが現状だ。
父親の力が働いていたのかどうか、警察内部に残された資料からは判断付かない。
大学の2年まではそのような生活を続けており、就職活動をする直前に今の事務所の社長に出逢っている。
彼の生活態度が一変したのは、その後だ。
そのまま就職活動をするよりも、流されて芸能人として生きる方が彼にとっては魅力だった。
そんな彼に命じられたのは、それまでの遊び仲間と一切の縁を切る事。
それ以降、表向きには彼の交友関係はクリーンなものだ。
しかし今現在、彼がオフの度に出入りする六本木のクラブは、
昔馴染みの溜まり場なので綺麗に縁が切れたとは、言い難いかもしれない。
その点については、事務所も正確には把握しておらず本人にしか解らない。



そんな彼が何故、警察に身辺を警護される身と相成ったか。
そこが今回の事件のポイントだった。
恐らくは、例の数年前の大麻事件も含め、仲間内には彼を良く思わない輩がいるらしい。
表向き仲間を装いながら、チャンスを虎視眈々と狙っていたのだろう。
タイミングとしては、申し分ない。
満を持しての主演映画、次なる大きな仕事。
事務所としてはこれからが稼ぎ時となる、まさに金の卵を産む鶏である。
金になるとみれば、そこを逃がさないのが昔の仲間だった。
彼との黒い繋がりと彼の過去にやって来た悪事、これらを売りたいという提案が事務所にあったのだ。
提案といえば聞こえは良いが、早い話しが脅迫だ。
応じなければ看板スターの名誉及び、彼自身に文字通り傷がつく事になるという、脅し文句。
スキャンダルは避けたかったけれど、苦渋の決断で警察に相談したというのが事の顛末だ。
一応、世間的には極秘での捜査が進められている。
大塚のスケジュールを大きく空ける事については、
映画も一区切りついた休養という形で不自然にならないように配慮した。
この案件の担当となった冴子は、大塚と取引をした。
隠密裏に身の安全を確保するのと引き換えに、仲間内での様々な情報を警察に提供する事。

彼が関与している連中は、秩序だった組織とは言えないけれど、
その先に暴力団と繋がっている人間が確実に複数名いる。
若者たちが夜な夜な夜遊びに興じる店や施設に、
暴力団員では無いけれど限り無くそれに近い人間が蔓延っていて、それが彼の知己なのだ。
彼は今回、脅迫事件の被害者であると同時に、
これまで警察がなかなか内情を掴めずにいた彼等の実情を知る、数少ない証言者でもあるのだ。
ガードの期間としては、半月程を想定している。
今現在、連中を束ねていると目される主要メンバーを中心に内偵捜査が進められている。
これまで数々の軽微な犯罪で前科のある者も少なくないので、
何かしら尻尾を出した輩を検挙して、今回の一件に関しても口を割らせる予定だ。








・・・なんか。

あん?なに?

そんな風に見えないけどね、彼。




撩が冴子の資料を基に解っている事実を手短に香に話して聞かせた後の、香の感想だ。
それこそが、テレビなどで彼を観ている一般的な大衆の意見だろう。
けれど、撩は職業柄、様々な情報屋からその手の情報は腐るほど耳にする。
売出し中の歌手やタレントが、素行不良で事務所も手を焼いている話なんてのは掃いて捨てる程ある。
そして、売り出していてチヤホヤされている間は良くても、
その後、誰からも見向きもされなくなって事務所からも見限られた時に、犯罪に手を染めるって事も。




カオリンは、目に見える事だけに囚われ過ぎなの。

どういう意味よ?

まんまの意味。人間には、誰しも闇があるっつー事。

・・・何よそれって、アタシが脳天気だって言いたいの?

誰も別に、そんなこたぁ言ってねぇよ(苦笑)



香が唇を尖らせて傍らのクッションを投げつけるけれど、
撩は苦笑いしながら羽毛の詰まったそれを、マグカップを持っていない方の手で受け止める。
それでも必死に香は香なりにこれまでずっと、
相棒として色んな人間の闇と向かい合おうとして来た事は撩も知っている。
そして、撩にも香にもそれぞれに闇はあり、それを抱えそれと折り合いをつけて生きている事も。
撩の相棒として生きると決めた事で、彼女は見なくても良い深淵まで覗いている筈だ。




そんな風に薄笑いしてさっっ、絶対アタシのこと馬鹿にしてるっっ!



確かに、と撩は思う。
薄笑いしていたと言われればそうかもしれない、と。
けれどそれは別に、相棒を馬鹿にしていたとかそういうものでは無い。
ただ、ちょっとした事で唇を尖らせて抗議したり、
クルクルと表情を変えたり、何気ない仕草なんかが可愛いなと思って見ているだけだ。
やっぱり香は目に見えている事だけを、信じ込むところがある。
撩がどんな風に香を見ているのかなんて、全く解っていない。
撩がどんな思いでこれまで共に暮らしてきたか、今現在どう思っているのか。
言葉にしなければ、彼女には無いのと同じ事で。
撩の方はむしろ、言葉に出来ない思いの方が大きい。
だから撩はいつも、曖昧に笑って誤魔化す。この数年で身に着けた、奇妙な自己防衛策だ。




まぁまぁ、それはひとまず置いといて、それよりさぁカオリン。今夜、どうすんの?

へ?

依頼が来たってだけで喜んでるけどさ、依頼人、男だぜ?

・・・・・・あ。

香チャン、もうこうなったらイケメン君と、仲良く一緒に寝てあげたらいーんでないの?




ズシッッ
間髪入れず、ソファごと撩は叩き潰された。
今度はクッションと違って100tの超巨大木槌なので、
流石の撩でも到底受け止めきれるものでは無い。
香はすっかり機嫌を損ねて、リビングを出て行ってしまった。
心にも無い事を言って、話しを混ぜっ返すのは撩のいつもの手だ。

それでも確かにこういう場合、いつも困るのが冴羽商事恒例の客間問題である。
女性の依頼人の事だけを想定して、客間と香の部屋を兼用しているけれど。
依頼人が男性の場合十中八九、依頼人を滞在させる部屋割りについて揉める事となる。
大抵香は、撩の部屋で一緒に寝る事にしてくれと頼むけれど、撩は簡単にうんとは言わない。
毎度の事なので、大概で男性客用にもう一部屋確保すれば良いのだろうけど、
相棒はそこには思い至らないらしい。
そして最終的に、数度目かの押し問答の末、
撩が妥協してキングサイズのベッドを男と共有するという不可思議な状況に陥る。
けれど撩はもう1つ、解決策がある事を知っている。
恐らくはそれが、一番円満な解決への道筋だろう。
客間をもう1つ用意するなんて非効率的な事じゃ無く、香の部屋と撩の部屋を兼用すれば良い話しだ。
勿論、ベッドを買い足す必要も無いから経費も掛からない。
けれど円満な解決が円滑に運ぶとは限らないのが、世の常だ。
撩と香の6年以上に及ぶ同居生活に於いて、少なくともその道は最も険しい難所と言える。

撩が今夜からの男相部屋状態を覚悟しかけて憂鬱な気分でいた、一時間後。
香がいつもとは異なる作戦に打って出た。
自室のベッドに寝転んで煙草を吸っていた撩の元へ、香がやって来たのである。
手には自分の掛布団と枕を持参している。






りょお、今夜から暫くこの部屋、禁煙だから。

はあ?

しょうがないから・・・アタシが今夜からココに寝る事にする。





撩はこの時きっと非常に間抜けな顔をしていただろうと、後に自身を振り返る。
まさかそう出るとは、想定外だった。
内心、非常に動揺していたけれど、心の片隅で少しだけ何かを期待していたのかもしれない。
その分、余計にこの後の香の言葉に、繊細なハートを抉られる事になる。





だからりょおは、コッチね。




そう言ってニッコリと小悪魔的な笑みを浮かべながら、香が指差したのは。
ベッドと対面するように壁際に配置されたソファだ。
この相方の一方的な通告に、撩も言いたい事は山ほどあったにもかかわらず最終的に頷いてしまった。
これから半月もしくは進捗によってはそれ以上、たとえ2人の間に何も無かったとしても、少しだけ。
この部屋に香が眠るのだと思うと、撩はニヤけてしまう。
それを人は多分、下心と呼ぶのだろうけど、鈍感な相棒はベッドとソファで棲み分ければOKだと思っている。
自分が普段エロオヤジ呼ばわりしている男に、
厭らしく寝顔を見詰められたりする可能性など、全く思いもしていないのだ。
槇村香は可愛いけれど、基本的におめでたい奴なので良かった、と撩は思う。
変に、撩の心の中を覗きこもうとするようなタイプじゃなくて良かったと。











依頼人を前にして、事件の概要をもう一度冴子がザッと説明する間。
撩は数時間前の、そんな遣り取りを思い返していた。
今、7階の撩の部屋には香が持ち込んだ香の私物が置いてある。
あれから香は、色々と撩の部屋に持ち込んで相部屋の準備を始めた。
男同士ベッドを共有するよりは、なんぼかマシはマシだけど。
それでも、香が自分の部屋で暫く暮らすという状況としては、撩が想像していたモノとは少し違った。
香は納戸の奥から、大きな突っ張り棒を探し出して来て、部屋を2分割にしてしまった。
間には使って無い古いカーテンをぶら下げて、間仕切りにした。
撩の枕を本当にソファの方に置き換えて、
自分の布団と枕をベッドの端に置くと腕組みをして小さく、ヨシ、と呟いた。
自力で客間問題を何とか解決した事に、満足している様子だった。

今現在、一度撩から聞いて知っている内容を、真剣な表情で再び冴子から聞いている。
きっともう香は、今夜の事など頭に無いだろう。
こんなに色々と思いを巡らせているのは、きっと撩ひとりだ。




(つづく)


№3 2人を隔てる薄い壁

翌朝6時30分、香はいつもと少しだけ違う寝心地のベッドで静かに目を覚ました。
目覚まし時計は、一応いつも枕元に置いてはいるけど、いつも時計より早く起きてしまう。
自分のベッドと違って、手を伸ばしただけではベッドサイドのテーブルには届かないので、
身体を起こして目覚ましのアラームが鳴る前に止めた。
いつもの自分の部屋なら、6時半に目覚めてもアラームの鳴る7時まで布団の中に居る。
けれど、今朝はカーテンで仕切りをした向こう側に寝息を立てる相棒が居るので、
起こさないようにアラームを止めて、もう一度そっと布団に横たわる。

昨夜香は、なかなか寝付けなかった。
苦肉の策でこの部屋を2分割にして転がり込んだけど、本当は少しだけ緊張していた。
ソファで寝てね、と言ったらもう少し撩はごねるかと思ったけれど、案外アッサリと香の提案を飲んだ。
今までに何度か、このベッドには寝た事がある。
浦上さん親子の依頼の時は、気が付いたらここに寝ていた。
あの時撩は、寝惚けた香が強引にベッドを奪ったと言ったけど、
何となくだけどあれは撩の言い訳だったと、香は思っている。
海原の船に行くと決死の思いでこの部屋に入った夜も、いつの間にか気が付くと翌朝ここで目が覚めた。

色んな事があって、今、香はもうとっくに知っている。
それらは、撩の優しさからくる言い訳だということを。
本当は多分、眠り込んだ香を自分のベッドに寝かせておいてくれたのだろうと、今なら解る。
もしも昨日、いつも通りに撩と依頼人で暫く寝起きして欲しいと頼んでいたならば、
撩は多分、渋々ながらも頷いてくれただろう。
依頼人と一緒に寝てやればイイなんて、香をからかったりするくせに、
香にそんな事など出来る筈などない事も、撩はきっと解っている。

香は薄い羽毛布団の中で寝返りをして、ベッドに俯せる。
自分の部屋から持って来た布団と枕はいつもの匂いだけど、顔を寄せたシーツからは撩の匂いがする。
厳密に言えば、洗濯洗剤と柔軟剤の匂いなんだけど、
その奥に微かに自分のベッドとは明らかに異なる匂いがある。

“放っておいたら、ホントに何もしない奴なんだ”

生前、兄がそう言った言葉を、香は思い出す。
そう言って兄は、甲斐甲斐しく相棒の世話に勤しんでいた。
高校生の頃、初めて撩に逢ったあの日以降、
兄は何かを察したように香に少しづつ撩の存在を明かし始めた。
香はとっくに知っていたから、香の様子を窺うように小出しに撩の事を説明する兄の気遣いを感じた。
それは自分に対する気遣いであったのは勿論だけど、
それと同時に、撩に対する気遣いのようにも香には感じられた。
兄が大切にしている撩という男を香も大切にしたいと、
もしかするとその時からそう思っていたのかもしれない。
一緒に生活してみると、本当に撩は何もしない奴だった。
出来ない訳では無いから、きっと頓着しないのだ。
不自由がなければ何を着てても気にしないし、何を食べようとも気にしない。
だから勿論、布団を干すなんてする訳無いし、シーツだっていつ換えたのかすら怪しかった。
今ではそれらは香の仕事になったし、撩は何も言わずに生活全般に纏わる全てに於いて、
香が介入する事を受け入れてくれている。
本当をいうと、香はそれだけで随分幸せな事だと思っていたりする。
それでも最近、それ以上の感情が香の中で燻ぶっている事も抗いがたい事実だったりする。

撩に愛する者だと言われてからも、少しだけ時間が経過した。
あれから特に何かが変わった訳では無いけれど、香の気持ちは確実に変わった。
撩の言葉の意味する“愛”の形が、どういうものなのかは正直解らないけれど、
香が望む愛の形はあれからどんどん明確なモノに変わっていく。
単刀直入に、香は撩に愛されたいのだ。
香が他の男になど興味なんて無い事くらい、今更撩だって解っているくせに。
依頼人と一緒に寝てやれだなんて、未だにしょうもない冗談を言ったりする。
その点だけは撩は、浦上さんの時から何も変わっていないのかもしれない。

この部屋をカーテンで仕切って2人で使おうと言っても、撩は何も言わなかった。
呆れたように苦笑いするだけで、
多分、撩にとっては未だに自分はお子様みたいなものかもしれないと、香は思う。
きっとあの薄いカーテン1枚隔てた空間に香が寝ていても、彼には何の動揺も与えられないのだ。


(・・・解ってるくせに、りょおのやつ。)


香はゴロゴロしながら、シーツを撫ぜる。
撩が香のこの片思いに気が付いてないなんて、今更思えない。
香はホンの少しだけ期待してみたのだ。
ココにカーテンで仕切りをつけると言ったら、撩はなんて言うだろうと。
そんなの必要無いと、言ってくれるだろうかと。
まさか一緒に寝るなんて事までは、まだまだ想像してはいないけど(ていうか出来ないけど)、
せめてあの薄い仕切りを越える何かを、香は見てみたかったのかもしれない。
少しづつでも何か着実に前に進んでいるのだという実感が欲しい、のだと思う。

それとももう、何の手応えも無い男のリアクションになど期待しないで、
これから先は男性客用に、もう1つ客間を準備しろ、ということか。
それはそれで、撩とあーでもないこーでもないと言い合える機会が減るようで、香は淋しい気がする。
香は枕に鼻先を埋めると、小さく溜息を漏らした。
アラームは鳴らないけれど、もうそろそろ起きて相棒と依頼人の為の朝食作りに掛からなければいけない。
香は後ろ髪を引かれる思いで、もう一度コーマコットンの滑らかなシーツに頬を寄せる。
前の晩まで撩が寝ていたそのベッドを後にするのが名残惜しいと思う気持ちを振り切って、
香は仕切りの向こうの男を起こさないように、そっと部屋を出た。








撩はなかなか寝付けないでいた。
それは彼女も同じようで、向こう側でいつもよりも随分と神経質に寝返りを打っている気配を感じていた。
互いに風呂も済ませ、寝る準備を整え布団に入る頃(撩は窮屈なソファの上だけど)には、無言だった。
意識していないと言えば、嘘になる。
それでも意識している事を覚られる事だけは、
何としても回避せねばならぬという意味の解らない強迫観念に囚われる。

どの位経ったのか解らなくなった頃、カーテンの向こう側から香の小さな寝息が聞こえ始めた。
それまで柄にも無く緊張していた撩は、その寝息を聞いた途端、驚く程心が凪いでゆくのを感じた。
ついそれまでは撩の心を掻き乱していた存在が、一転して撩の癒し、慰めの存在へと変わる。
こんな風に撩が思う相手は、これまでも今現在も香しかいない。本当は抱きたい。
撩はそっと、香の取付けた薄い間仕切りを開ける。
いつもは自分が眠っている筈のベッドに横たわる彼女を見ると、
撩はこれまで色んな事があったのを思い出す。
セスナが突っ込んで脆くなった床に、2人の体重と銃火器の重さが掛かって床が抜けた時、
結局、あの夜は香の膝枕で不覚にも深く眠り込んでしまった事。
元々、撩はショートスリーパーだし、過去の経験からどんな場所でも手短に休息を摂る事を厭わないから、
あの状況であれほど深く眠れても不思議では無いけれど、
それでもあの時の事を思い出すと今でも少し不思議な気持ちになる。
驚くほど心地良く眠っていた記憶として、いつまでも(今も)撩の中に残っている。

カーテンだけ開けて元居たソファに座ると、
香の傍に近付きたいという気持ちとは裏腹に、そこから一歩も動けない感覚に陥る。
ベッドサイドの非常に小さく絞られた照明が、薄暗い寝室の中で香の寝顔をオレンジ色に照らす。
スッと伸びた鼻筋と長い睫毛が、白い頬に影を落とす。
頬は女性らしい丸みで柔らかな曲線を描き、彼女が女である事実を否が応でも撩に突き付ける。
自分達の間に、もはや障壁となる問題もない。
海坊主のように形に残るけじめをつけてやる事など何も出来ないけれど、
あの日、確かに撩は香とこれから先死ぬまで生きていくと、心に決めたのだ。
誓いを立てるべき神様なんかそもそも信じちゃいないから、
この世で唯一信用している相棒に誓う言葉だった筈なのに。
そこから一歩も先に進めずに停滞している自分に、撩はここのとこ激しく落胆していた。

香の規則的で穏やかな寝息を聞きながら、撩は考える。
香に触れるという事に対して、どうしてこれほどまでの躊躇いを感じてしまうのだろうと。
もしかすると、心の何処かで無意識に思い出してしまうのかもしれない。
これまで生きて来て、数え切れないほど手に掛けて来た命の事を。
自分と関わったばっかりに、暗闇の住人にアッサリと消されてしまった善良な人たちの事を。
自分とコンビを組んだばっかりに、安定した人生と大切な妹との時間を永遠に失ったかつての相棒の事を。
兄に近付く殺し屋の男に人生相談をした、いつかの可愛い女の子を。

それが今の撩と今の香に、香の幸せに、何の関係も無い事くらい解っている。
彼女の選ぶだろう幸せが、自惚れでもなんでも無くきっと自分の傍にあるのだろう事も。
それら全てを承知の上で心に決めた筈なのに、撩はまだ怖いのかもしれない。
正直な気持ちの奥底には、撩にだって沢山怖い事がある。
本当の恐れを知っているからこそ、強くもいられるのだ。
彼女の事を大切に思えば思うほど、撩の伸ばした手は彼女には触れられずに宙を彷徨う。
これまで何年も香を悩ませてきた自覚は撩にもあるけれど、撩は撩で悶々と悩んでいる。
昔は簡単だった。
男言葉を使って乱暴に振舞うまだまだ青い相棒を、子ども扱いする事くらい容易かった。
でも、今はいけない。
彼女の何気ない視線の柔らかさや言葉や仕草や、
ハッとさせられるほどの強さを秘めた眼差しを、もうこれ以上見ないフリをするほど撩もタフでは無い。
現に無防備な彼女の寝姿を前にして、
撩はまるでソファに縫い止められた蜘蛛の標本のように身じろぎすら出来ないでいる。
彼女の穏やかな呼吸が、いつもの乾いた寝室を甘やかな空気に変える。
欲で塗れた穢れた男を優しい気持ちに変えてゆく。
そうやってこれまでも、撩は少しづつ香に変化させられてきた。
年月を掛けて頑なな男の心を解して来た香の方が、余程タフではないのかと撩はいつも思う。



何の拷問だよ、蛇の生殺しかっつーの。



そう言ってはみたものの、相棒からは何の返事も無い。
スースーと平らかな寝息が聞こえるだけで、気持ち良さ気に眠っている。
憎まれ口を利くと、自然と緊張していた身体が解れるのを感じる。
撩はいよいよ末期症状なのかもしれない。
己に対しても、香に対しても、心にも無いくだらない誤魔化しの言葉を吐くしか効かなくなってきている。
本当は、自分を曝け出すしか方法は無いのだろう。
撩はもうそれ以上考えるのを止めにして、カーテンを閉めて毛布に包まるとソファに寝転んだ。




翌朝、香がそっとドアを閉める音で撩は目覚めた。
いつの間に眠っていたのか解らない程に、熟睡していた。
結局、こうなのだ。
相棒の傍に居て、無意識に心底安堵しているのはむしろ、撩の方なのかもしれない。
香には何処か、周りを安心させる雰囲気がある。
その効果が撩にだけ作用している場合には、何ら問題は無いのだ。
問題は、この家に昨日からもう1人男が居候しているという事だ。

撩の可愛い相棒は如何せん無防備だから、自然、気疲れするのはいつも撩の役目だ。
撩は1人残された寝室で、大きく溜息を吐いた。
昨日と変わらない今日が始まる。
撩の変わった部分と、いつまでも変われない部分。
その溝は日に日に深まり、撩自身を苦しめる。
いっそ彼女を抱いて懐に仕舞っておければ良いのに、そうもいかない。
朝の光が入り始めた寝室で、撩はもう一度夜を惜しむように毛布に潜り込んだ。



(つづく)


№4 相棒という名の距離感 

おはようございます。




香がシンクに向かって朝食の準備をしている所に、依頼人・大塚がやって来た。
まだ朝の8時前だというのに、えらく爽やかな笑顔は流石である。
イケメン俳優というレッテルも伊達では無い。
事前に頭に入れていた情報とのギャップに、香は昨夜から違和感が拭えない。
彼が早々に客間に戻って床に就いたのが随分早い時間で、意外だった。
意外にも規則正しい彼の生活態度は、7階(うえ)で寝ている相棒とは真逆だと香は思う。
彼は素人時代の放蕩が原因でこの度の騒動に巻き込まれている訳だが、
そんな事を微塵も感じさせない雰囲気は、果たして演技なのだろうかと香はついつい考えてしまう。
もしもこれが演技なら、確かに俳優は彼にとって天職なのかもしれない。
それでも、この依頼の期間中は彼にとってプライベートな時間なので、
香も一旦は、彼が芸能人である事や、
彼の過去の黒歴史の事を先入観込みでみないよう心掛けようと思っている。




あ、おはようございます。



そう言って振り返った彼女は、昨日初めて逢った時から大塚が感じた通り非常にイイ女だ。
仕事柄、色々なタイプの美女と接する機会に恵まれている大塚だが、
その彼をもってしても、槇村香という女はそれらとはまた違った異質の魅力を孕んでいる様に見える。
整った顔立ちや恵まれたスタイルや、持って生まれた肌の質感。柔らかだけど高すぎない声のトーン。
それらはきっと、後天的にどうにか出来るような資質では無い。
彼女はそういった点で生まれながらに、魅力というものを充分に備えているのだろう。
けれど、大塚が感じた彼女の魅力とは、それらとは違ったもののような気がする。
具体的にはそれが何なのか、まだ今の大塚には明確には解らない。
彼女の瞳は素直そうに澄んではいるけれど、何処か少しだけ野性的な光も宿している。
この家の主人だという彼女の相棒には及ばないけれど、彼と彼女は確かに似た者同士の匂いがする。





よく眠れました?

ええ、お陰様で。




香が16オンスのピカルディグラスに、低脂肪乳を注いで彼の前に置く。
撩が起きてくるのは恐らく、まだもう少しだけ遅い筈なので香は先に大塚の分の朝食を作っていた。
今回の依頼は主に彼の身辺警護で、
彼には前もって警察と所属事務所の方から、不要な外出は控えるよう言い渡されている。
その為の休養(言い換えれば、ある意味軟禁である)なので、
依頼人にも冴羽商事の2人にも、本日の外出の予定は特に無い。
強いて言えば、香のいつもの日課である新宿駅詣でくらいか。
(それでも撩には、香とは別で冴子からの協力要請の下、色んなお仕事が待っているようだ。)
そんなわけで暇を持て余したイケメン大塚健吾の朝食は、至ってシンプルなモノだ。

飲み物は低脂肪乳、若しくはミネラルウォーター。
サラダに使用する野菜には根菜類、芋類、トマトなどは使わない事。
カフェインは基本摂らないので、珈琲も飲まない。
炭水化物は抜き。
玉子や肉類、乳製品、大豆製品は好んで口にする。

香には昨日、彼のマネージャーだという人物からの書類が冴子により手渡されていた。
彼が口にする食事全般には、逐一細かな指示があり詳細な注意事項とレシピが書かれていた。
味付けも、極端に濃い物は控えて。
酒はワインと焼酎に限ってOK、日本酒やビール、洋酒の類は一切NGらしい。
極端な節制は、恐らくは体型維持の為。
もっとも事務所にとって彼は、頭の先から足の先まで全身商売道具なのだから、
それも致し方の無い事なのかもしれない。
香はそれらのレシピを見ながら、大変な商売だな、と自分達を棚に上げて感心した。


ささ身は軽くボイルにして中心部分をレアに残し、ワサビ醤油とクレソンで和える。
玉子料理はOKなので、エッグベネディクト風のポーチドエッグにする。
マフィンの代わりに炙ったはんぺんを使う。
塩分が高すぎるのも良くないので、ハムは使わずにはんぺんに大葉を敷いて薫りでインパクトを出す。
味付けは、全体的に和風でアッサリと仕上げた。
レシピはあくまで参考程度に留めて、香なりに工夫してみた。
飲み物は、低脂肪乳。


たったそれだけ。
もしも撩にそれらを出したら、朝からブーイングの嵐だなと考えながら作った。
作るという程の手間でも無かった。
彼の食生活は毎度そのようなもので、香には苦痛にしか思えないけれど彼はそうでもないらしい。





なんか昨夜。すみませんでした。

え?




彼とは別の相棒用の朝食を仕上げている香の背中に、大塚は突然謝罪した。
昨夜が何なのか、香には皆目見当がつかない。





あの部屋、香さんの部屋なんでしょ?

あぁぁ、その事ならお気に為さらず。客間として使ってるとこにアタシが居候してるだけだから。

ふ~~~ん。




食事をしている大塚に背を向けて撩の為のオムレツを焼いている香には、彼の表情は読めない。
冴羽撩と槇村香。苗字は違うので、恐らく夫婦では無い。
昨日の自己紹介では、互いにパートナーだと言っていた。
良い歳した男女が、ひとつ屋根の下同居している。
ここまでだと、恋人同士だと思えなくもないが。
昨夜、客間だと通された部屋で一晩過ごしてみて、そうでは無いだろうと大塚は感じた。
それにこの、香の“居候”という言葉。
昨夜の食事風景からして、2人の醸す雰囲気は夫婦そのものにも関わらず。
香の部屋と香の言葉から感じられる2人の関係性は、至ってプラトニックなもののように思える。
多分、微妙な関係なのだろうと、大塚にはピンときた。
それなのに昨夜、自分の来訪により彼等は同じ部屋で一夜を過ごした。
それどころか、自分がココに居座る限り、微妙な関係の彼等はきっと一部屋を共有するのだろう。
そう考えると大塚は妙に可笑しな気持ちになった。
誰とも知れない初対面の人物の家に、ほぼ軟禁状態。
自分のやって来た事のツケが回ったとはいえ、正直憂鬱だった。
けれどもしかすると、これは中々面白い居候生活になるかもしれない予感がした。
それに彼女は綺麗で可愛いし、料理が上手い。





ちょっと、撩起こしてきますね。アタシ、伝言板見に行かなくちゃだから。



フライパンの上から皿に移された大盛りの半熟オムレツ(玉子3個分チーズ入り)が、湯気を上げる。
大塚のモノとは違う、ヴォリューム重視の朝食メニューが目の前に並べられている。
ささ身とクレソンのサラダだけは、撩の分も用意してある。
手際よく調理しながらドリップした珈琲も、サーバーの中に満たされている。




冴羽さんと香さんって、恋人同士なんですか?



全くのポーカーフェイスで、顔色一つ変えずに大塚は飄々とそんな事を訊いた。
器用にナイフとフォークを使って、はんぺんをひと口大に切っている。
半熟の黄身をそれに絡める。
無意識に赤面して言葉に詰まっている香の手から、後で洗うつもりのフライパンが滑り落ちる。
シンクにぶつかって大きな音を立てる。
香の声は非常に頼りなげで心許なかった。
けれど、キッチリと否定の言葉を発した。




そそそそそんなんじゃないです、ただの仕事仲間なんでっっ



そう言ってダイニングキッチンを出て行った香の足音が階段を上がって行く。
その音を聴きながら、大塚は思わずニヤついていた。
自分より幾つか歳上であろう彼女が、多分あの相棒に惚れているのは間違いなさそうだ。
けれど、恐らく男は彼女の気持ちに応える気は無いのだろう。
否、別に冴羽撩の気持ちはどっちでもイイ。
自分に関心を向けていない女をゼロから落とすこと、それは凄く面白い駆け引きだ。
初めから自分に媚びて来る女とやるのは、簡単だけど面白味に欠ける。
大塚は目の前の、撩の為の朝食を見詰める。
皿から溢れそうなオムレツは芳醇なバターの薫りを撒き散らしている。
それは胸焼けしそうなほどの量だ。
彼が幾つなのかなど解らないけれど、年齢(見た目)に比してこれは朝から食べ過ぎだろうと判断する。










ねえ、りょお。起きて?



撩は香に肩口を揺すられて、二度寝の底から起こされた。
階下からは芳ばしい珈琲の薫りが漂ってくる。
ぼやけた視界に相棒の顔と、その後ろの薄い臨時の間仕切りが揺れる。
窮屈なソファの上でも、さして不便も無く熟睡していた。




ちょっと、伝言板見て来るから、朝ご飯食べてて。

ふああああああ。  まだ早いから後でもいーよ。



欠伸混じりで呑気な相棒に、香は呆れたように溜息を吐く。
香の説明によると、依頼人はもう起きて朝食を開始しているらしい。
一応何も無いとは思うけれど、彼一人にして出掛けるのが躊躇われるので起きていろという事だ。



ったく、めんどくせぇな。

アンタがだらしないだけよっっ

わぁぁ~~ったよ。喰うから、サッサと行って来いよ。

うん、パンは自分で焼いてね。

おう。





撩がヒラヒラと手を振る素振りを見せるので、香は寝室を出て行きかけた。
けれどドアの前で、ふと何かを思い出したように撩を振り返った。




あ、そうだ。忘れるとこだった。

ん?なに?

大塚さんがね、トレーニングしたいんだって。筋トレ。

・・・。

いつもはジムに通ってるけど、行けないからって。階下(した)のマシン使っても良いでしょ?

こんな時ぐれぇ、大人しくしときゃいいもんを・・・ったく。





つい先程、朝食を食べながら依頼人は何の気なしに香に相談したのだ。
勿論、地下にあるウェイトトレーニング用のマシンの存在など、彼は知る由もないが、
香は一応、撩に訊いてみると答えていたのだった。
冴羽アパートの地下には、非合法のシューティングレンジと武器弾薬庫がある。
普段そこには、限られた人間のみが出入りする。
その秘密のスペースと壁を隔てて、トレーニングマシンを一通り置いている。
勿論、主に撩が使っているが、時々は香も使う。
撩としては、一応射撃場とは別室になっているとはいえ、
部外者をむやみに地下室に入れたく無いのが本音だ。
けれども今回は、依頼の性質上止むを得ないかとも思われる。
依頼人は身体が売りの商売だし、不穏な輩に狙われていて、
その上、街中で悪目立ちする彼を連れて護衛しながら歩く方が骨だ。
射撃場と武器庫の存在さえ覚られなければ、アパートの中で用は足りる。





好きにしろ。

うん、じゃ帰ってから案内しとく。




そういって香が半分部屋から出ようとした所で、今度は撩が呼び止めた。
振り返った香が首を傾げる。
最近では、こんな何気ない香の些細な仕草ひとつにも、撩の気持ちは出口を求めて溢れそうになる。



あ、いや、いい。やっぱ、俺が案内しとくわ。

そう?

うん。

じゃ、お願い。行って来まぁ~~す。






香は撩の微妙な表情になど微塵も頓着せずに、いつも通り日課の伝言板確認へと出掛けて行った。
撩はボンヤリとソファの上に胡坐を掻いて、溜息を吐く。
なんだか昨夜から、自分ばかりがやたらと意識している気がしてならないのだ。
香は至って普段通り、昨夜もスヤスヤと健やかな寝息を立てて穏やかに眠っていた。
朝も早くに起きて、朝食を作り、洗濯物を干して、帰ってくれば掃除を始めるのだろう。
何も変わらないように見える彼女が、可愛くて憎らしい。
今の筋トレ云々の件にしたって、自分でやると言ったのは結局。
依頼人と香の2人行動をなるべくさせたくないだけで、他に理由は無い。
依頼人が男性であるというだけで、妙に動揺しているのは香では無くむしろ撩の方かもしれない。
まだまだ、先は長い。


(つづく)


№5 いけ好かない依頼人(やつ)

なぁ、おまー。わざわざあの野郎に別メニューでメシ作ってやってるわけ?




香が伝言板の確認を終えてアパートに戻り、
6階の掃除を終えて7階に取り掛かった所で、撩と大塚は地下のトレーニングルームから戻って来た。
今現在、2人の寝室となっている7階ベッドルームに掃除機を掛ける香の背後から、撩が声を掛けた。
ちょうど香は、ベッドの下に掃除機のヘッドを突っ込んで屈んでいる所だった。
しゃがみ込んだまま振り返り撩を見上げる香が、
一瞬、初めて逢った時の路地裏のシュガーボーイと重なる。





ん?なに~~?



戸口に立った撩の言葉は、掃除機を使う香にはよく聞き取れなかったらしい。
撩は香が出掛けて数分後の、キッチンでの事を思い返す。
依頼人・大塚の前に置かれた皿と、
撩のいつもの指定席に置かれた皿に盛られている朝食は、明らかに別物だった。
朝食のメニューに不満は無い。
むしろ、大塚健吾の前に置かれた皿の中身が己の朝食だと言われた方が厳しいだろう。
だから撩が言っているのは、メニューがどうのという話では無く。
香が朝から負担する、家事の二度手間の話である。
大塚が撩よりも先に席を立って歯を磨いてた間に、
撩は冷蔵庫の扉にマグネットで貼られた数枚の紙の束を発見した。
糖質を制限するタイプの食事メニューのレシピだ。
撩が依頼人に抱いた第一印象の通り、観賞用筋肉を効率的に作り出す為のもっとも簡単なメソッドである。
確かに奴の身の安全が確保されるまで、この家に匿うのが今回の依頼だけれど。
このアパートはあくまで、撩の家であり、香の家なのだ。
自業自得の依頼人が、何の仕事をしていようが、普段どういう生活をしていようが、
ぶっちゃけ自分達にはかんけー無いのだ、と撩は思っていて。
これまでこのアパートに匿い生活した依頼人たちに、わざわざここまでしてやった例もない。
香が考えて立てた献立を、自分達と同じように食べて貰っている。
撩は何故だか妙に、依頼人・大塚についてはそのような些末な事までいちいち癇に障る。




メニュー?

ああ、アイツの喰ってんの、わざわざ別で作ってんのかって訊いてんだよ。





香は掃除機を止めてニッコリと微笑んだ。
掃除機のヘッドが吸引して一緒にくっ付いて来たグラビア雑誌を、
にこやかに微笑みながら(しかし、目の奥は笑っていない)、ベッド脇のゴミ箱に叩き込む。
撩はその一連の流れを目で追いながら、香の掃除が済んだらあの雑誌をゴミ箱から救出しようと考える。





なんかね、マネージャーさんからの書類を渡されたの。大塚さんの食事は、いつもあんな感じだからって。

はんっっ、アホくさ。ったく、いい迷惑だな。

そう?

そう?って、作ってんのおまぁだろうが。面倒臭ぇだろ、わざわざ。






撩が珍しく、香の家事の事を心配しているのが可笑しくて香は思わず笑ってしまった。
普段やれば出来るクセに、全部香に任せっきりで一番手が掛かるのは撩なのに。
自分の事は棚に上げるらしい。





そうでもないよ?結構、勉強になるしダイエットにはイイかもしんない。




そう言って笑う香には、ダイエットなど無縁だ。
さきほど一瞬だけ重ねてしまったシュガーボーイの頃から、華奢な所は変わらない。
唯一、おっぱいが成長したのと、無意識に駄々漏らす媚びない色気を除いては昔のまんまだ。
むしろ、昔よりも性質が悪い。




せっかくだから、依頼の間は撩の分もヘルシーメニューにする?

あ゛? 冗談じゃねぇ。俺を殺す気かっっ

死なないわよ、大げさなんだから。




香はそう言って楽しそうに笑うけど、撩は香ほど脳天気には出来ていないので、
結局のところ、奴だけ特別扱いというのが胸糞悪いのだ。
これだから、冴子の持ち込む依頼なんて、毎回ろくでもないのだとひっそりと溜息を吐いた。
香の知らない、地下室での男同士の遣り取りを思い出す。
妙に張り切って筋トレに励むイケメンを無視して、撩がヤル気無さ気に愛読書を広げていると、
彼はにこやかにその話題を振って来た。

























冴羽さんて、香さんのことどう思ってるんですか?

・・・はあ? どうって?

付き合ってます?

・・・。




なんでお前如きに答えなきゃならんのだ、と言いたくなるような質問を連発しながら、
ヤツは脳天気に腹筋を鍛えていた。
答えても仕方のない事にわざわざ返答してやるほど撩は暇じゃないので、
丸っきり聞こえないフリをして、香の愛用しているヨガマットの上で寝転んでエロ本の続きを読んでいた。
出来る事なら依頼人を放置して、さっさと階上(うえ)にあがってコーヒーでも飲みたかった撩だけど。
すぐ傍に非合法エリアが存在するのでそういう訳にもいかず、不愉快なひと時を過ごしたのだ。




冴羽さんって、すごい身体してますよね。初めてお逢いした時から、すごいなぁって思ってたんですよ。




香の事に関して、一切無視を決め込んだ撩に大塚は、別の切り口でアプローチしてきた。
撩は寝転んだまま、大塚にチラッと一瞥をくれる。
好青年風に猫を被った男は、撩にニコッと微笑みかける。
撩は、意地悪く頬を歪める。



なんだ、オマエ。そっちの組合か?悪ぃけど、俺ぁノンケだから。

あはは、僕もノンケです。強いて言えば、香さんは好みのタイプですけどね。

・・・・・・なんだやっぱ、組合員か。にしても、眼医者行った方が良いんじゃないか?

冴羽さんの方こそ、良い医者紹介しますよ?

いや、生憎間に合ってるから、大丈夫だ。




依頼人は、極上の笑みで。
冴羽撩は鉄壁のポーカーフェイスで、穏やかなやりとりの中に静かな殺気が漂っていた。
依頼自体はしょうもない悪ガキの内輪揉めなのに、肝心の依頼人が面倒臭い男の気がして、
撩は一気に憂鬱になった。




ふ~~~ん、じゃあ良いんですね?

何が?

いや、別に。大した事じゃないですよ。




大塚は、女性ファンを虜にする得意の微笑みを臆面もなく撩に向ける。
胸糞悪い。
その言葉が、香に関係する話の延長線上にあるという事が、撩を苛立たせる。

ガキのくせに。
アイツと俺のあれこれなんて、何も知らないくせに。
アイツの事なんか知らないくせに。
アイツが誰に惚れてるのか・・・もしかすると、それは自分にも解らないかもしれない。

なんて今更な事が、撩の脳裏を過る。
撩はいつも、香に関しては正常な判断能力を無くしてしまう。





オマエがどう思おうが、アイツがどう思おうが、知ったこっちゃないけど。




撩はそう言うと、ダンガリーシャツの胸ポケットから潰れたソフトパッケージの煙草を取り出す。
カチンという高い音が響いて、直後にジッポーのオイルが暖められた匂いが流れる。





付き合ってるっつーか、アイツは家族だからさぁ。半端な真似しやがったら、



”殺すよ?”という言葉は、煙草を咥えながら発せられたので、
大塚が聞き取れたかどうかは不明である。
けれどそれまで行っていたトレーニングの動きを止めて、大塚が撩に真剣な目を向けた。



へー、”家族”って。便利な言葉っすね。












大塚はそう言ったきり、何も言わずにトレーニングを再開したので、
撩もそれっきり、彼の事は無視して読書(エロ本だけどね)を再開した。
寝室の入り口でぼんやりとそんな事を思い出している撩になど、香はお構い無しに掃除機をかけている。
多分、香は自分に惚れているのだろう、と撩は思う。
そして多分、あの状況で家族という言葉を持ち出す自分は確かにズルいんだろう、と思う。
確かに、撩には何も無い。
たった1人の女にくれてやる確かな約束も、言葉も、何も持ち合わせてはいない。
オマケにこの世の中の何処にも属さない人間で、正式に言うと家族にすらなる資格は無い。
それでも、撩には。
この目の前にいる、掃除機をかけるこの女が必要なのだ。
取敢えず今回の依頼料に関しては。
食事の準備の手間賃として幾らか、別途料金をしっかり上乗せさせて貰わなければいけない。




RRRRRR







ちょっと、りょお、電話出て?



ベッドサイドの子機が着信を伝える。
香は寝室の隅を掃除しながら、撩を振り返る。どうやら暇人は、撩一人だけらしい。
撩は苦笑しながら、胸糞悪い依頼人に関する回想を断ち切った。







もしもし。

撩?今夜、逢いたいんだけど 二人っきりで。





電話の相手は、女豹・野上冴子だった。
今回の依頼を持ち込んだ張本人は、撩の嫌がる用件であればあるほど、こうして猫撫で声で媚を売る。
撩は当分、逢いたくはない。
今夜、撩が冴子に呼び出されれば、必然的に香とヤツは二人っきりになる。
撩は無意識に、深く長い溜息を漏らす。



なによ、溜息って。失礼ね。


冴子のツッコミなど、撩は聞いてもいなかった。
問題は、面倒臭い依頼人・大塚健吾対策である。
奴が依頼人でさえなければ、サクッと抹殺するところであるけれど、今回はそうもいかない。
もしかすると唯一の解決策は、本当にシティーハンター同士仲良く付き合っちゃう事ぐらいか。
それでもそれが出来るなら、撩もそもそも悩みはしないのだ。




(つづく)



№6 さざ波

んな、顔すんなよ。 大した用件じゃねえし、大丈夫だから。

・・・うん、解ってるけど。





乱暴に香の癖毛を掻き混ぜる撩の手つきは、見た目以上に優しい。
顔には出していないつもりでも、香の表情の曇りは撩には隠せないらしい。
玄関先でサイドゴアブーツに足を入れる撩を見ながら、
パーカーのポケットに両手を突っ込んだ香を撩はまるで宥めるようにそう言った。
履き口にあるタブを引っ張ってジャストサイズのブーツを履く撩の仕草が香は好きだ。
撩の身に着けるものや、撩が選ぶものは、全部撩の身体に馴染んでいて見ていて気持ちが良い。
ジャケットの下に装着したヌメ革のホルスターですら、何か神々しい物のように見える。
昼間の電話で、冴子から撩にお呼びが掛かった。
こういう時は大抵、香は独りで取り残される。

年代物のミニクーパーも、撩自身の分身とも言えるコルトパイソンも、細かな傷が沢山入ったジッポーも、
飴色になるまで使い込んで撩の肩口と胸板に絶妙にフィットしたホルスターも、
香が丁寧に靴墨で磨いて手入れするブランドストーンの細身のブーツも。
撩が選んで身に着けて愛用しているものは、香にとっても愛着のあるものだ。
それでも、それと同時にそれらに対して嫉妬する気持ちもある。
それらはいつも、撩の身の回りにあって何処に行くにも撩と一緒だ。
撩の身近に居て一番近くて遠いのはきっと自分だと、香は思う。






気を付けてね。

ああ、おまぁも戸締りシッカリしとけよ。

うん、わかってる。




撩はもっと他に言いたい事が無い訳でもなかったけれど、呑み込んで玄関を出た。
口先からはいつもと変わらない言葉しか出て来なかった。
本当は、今夜の撩の懸念は戸締りをした家の中にこそある。
家族ゴッコが嫌いだそうなイケメン君が、ひとつ屋根の下に居候中だ。
不要不急の外出を控えたいのは山々だけど、女豹のご機嫌を損ねるのも後々面倒なので仕方ない。





















もうちょっと真剣にやって頂戴よ、顔に出てるわよ?早く、帰りたいって。




野上冴子がポルシェの運転席の窓から、路上に立つ撩を見上げて苦笑した。
その店は六本木の片隅にあって、小さなクラブながら異様に繁盛している。
撩を呼び付けた女とその手下達(公務員)は、ここ数週間その店を遠目から張り込んでいる。
所謂、内偵捜査という奴だ。
冴子はちょっと人目を引き過ぎるから、店内に潜り込むのは無理らしい。
その為の人員は適材適所というわけで、不自然にならない程度の若手を用意している。
4課の刑事が見た目だけで言えばヤクザにしか見えないのと同じ理屈だ。
生憎、撩も繁華街の暗部では何処で顔見知りと遇うともしれないので、迂闊には近寄れない。
内偵中となれば、尚更だ。
撩が冴子に協力を迫られているのは、ガキ共とは別口だ。
不良集団の上には、洒落にならない黒幕が控えているらしい。
秘密裏にガッチリと証拠固めをして、一気に攻め込むのがいつもの冴子のやり方だ。






リョウちゃんはいつだって真剣だっつ~の、舐めんな。

あら、全然説得力無いわよ?




ふふ、と笑う冴子に撩は肩を竦めると、今夜の本題に入る。
冴子とその薄暗い路地で合流する前に、ネタは仕入れて来た。
警察が掴める情報と、撩にしか掴めない情報がある。
冴子からの協力要請で動いている限り、互いに情報を共有しておく必要がある。

















気になる?冴羽さんのこと。





ベランダに出て表の通りを眺めていた香が振り返ると、リビングに大塚が居た。
香は風呂上りのパジャマの上に、
着古したオーバーサイズのパーカーを羽織ってフードを目深に被っていた。
仕事に出た撩を待つのはいつもの事だ。
連れて行って貰えない“パートナー”は、相方を信じて待つしかやる事は無い。
気になるか、と問われたら、気にならない訳がない。
大した用事じゃないと撩は言うけど、コンビニに行くのとはワケが違う。
香にとって一番大事な事は、撩の身の安全だけだ。
撩が死ねば、それは香が死ぬ時でもある。その程度の覚悟なら、もう何年も前から出来ている。
香にとっては、至極真っ当な何でも無いそんな覚悟でも、
昨日今日逢ったばかりの依頼人に語って聞かせる筋合いでも無いので、彼の言葉は聞こえないフリをした。






大塚さん、眠れないんですか?




時刻はとうに、深夜2時を回っている。
普段なら、依頼人は眠っている時間だ。
何となく、香は居心地の悪さを感じた。
撩を待っているこの時間を、たとえ依頼人であれ邪魔されたくない。




いや、トイレに起きたらリビングに灯りが点いてたから。




大塚はそう言って、ニッコリと笑った。
大塚が室内で、自分がベランダで、香はその距離を自分のテリトリーのように守りたかったけれど、
大塚はアッサリとその境界を超えて、裸足でベランダのコンクリートの上に出てきた。
香は無意識にフードの端を引っ張って、俯いた。
大塚は構わず香の隣に並んで、ベランダの手摺に頬杖を付く。




あ、あの。ひとつ、訊いても良いですか?

ボクの解る事なら。

貴方を狙ってるって人達、貴方のお友達なんでしょ?

・・・どうなのかな?正直、よく解りません。





曖昧な笑みを浮かべた大塚の横顔から、香は何も読み取る事は出来なかった。
香自身は撩の相棒になってから、友人達とは全くの疎遠になってしまった。
1人だけ、北原絵梨子とだけはひょんな事から再会して親交が続いている。
香には良く解らなかった。
仲良くしていた友人に、脅迫されるという事が。
香はそれでも大塚の心情を想像すると、いたたまれない気持ちになる。





あの。

ん?

傷付きますよね、そういうの。 何ていうか、その、元気出してください・・・





俯いてモゴモゴとそんな事を言う香に、大塚は声を立てて笑った。
本当に、良く解らないのだ。
いつも馴れ合っていた頃は、確かに大事に思えた繋がりも、今となっては別にどうだっていい。
香の生真面目さは、大塚には新鮮に思える。
大塚自身にも、彼の周りにも、そんな風に考える人間などいないだろう。
笑っている大塚に、香はキョトンとした表情で首を傾げる。





香さんは、優しいよね。

そそ、そんなことない。

そういう優しさは、不幸になるよ。

どういう意味?

もっと、我儘で良いってこと。




そう言いながら、大塚が一歩間合いを詰める。


「もっと、」


慣れた手つきで香の腰に手を回す。



「楽しめば良いと思う。」



気が付くと香は、すっぽりと大塚の腕の中に囲われていた。
彼はきっとそうやって、刹那的に生きて来て今があるのだろう。
そんな風に言われても、きっと香には出来ない生き方だ。





別に、冴羽さんじゃなくても、

やめてっっ!



香は我に返って、大塚の胸板を押しやった。
柔らかな拘束から逃れて、振り返る事無くそのまま7階の寝室へと逃げた。
テリトリーへの侵入を許したのが間違いだったと、香は思った。
何となく、この事は撩には言わない方が良いだろうと考えながら、
香は7階寝室のソファの上のブランケットに潜り込んだ。












香が7階に駆け上がったのと入れ違いに、この家の主が帰って来た。
ベランダの入り口とリビングの入り口で、撩と大塚が対峙する。
撩の視線の鋭さから鑑みて、つい今しがたの一部始終を見られたのだろうと大塚は覚った。
撩は何も言わずに、ソファにどさりと腰を下ろすとジャケットの内ポケットから煙草を取り出した。
煙草に火を点けてゆっくりと吸い込んで、深く吐き出す。
先に口を開いたのは撩だった。






確かに、家族って言葉は便利かもしれないけどさ。




コルク色のフィルターを撩が噛み締める。
無表情だった大塚の眉が、ピクリと動く。
昼間の続きのその話は、確かに。
撩にとっても大塚にとっても、非常に意味のある話題なのかもしれない。






オマエの言う便利と、俺達にとっての便利とでは全く意味合いが違うな。

・・・何が言いたいんですか。




撩の瞳は、まるで氷のように冷たい。
請けてしまった依頼だから仕方がないけど、撩は本当にこの依頼人が嫌いだ。





もっと、大人になれっつーことだ。その“家族”に、オマエはどれだけ庇われてきた。




どんなに愛情を受けても、響かない奴もいる。
決して恵まれているとは言えない境遇で育っても、溢れるほど愛情深い奴もいる。
愛情がなんなのか解らなくても、少しづつ解ってきた奴もいる。
人は皆それぞれだ。
正解など無いのだろう。





オマエがどう思おうが知ったこっちゃ無いけどさ、俺は大事なモンは自分で守る主義なんだわ。






(つづく)








ケシ子の個人的な萌えとしてアニメのOPのAngelNightの時に、
サイドゴアブーツ履いてホルスター着けるリョウちゃんがカッコイイと思うのです。

№7 何処にでもあるありふれた愛

香は勢いよく寝室のドアに飛び込んで、ドアをしっかりと閉めると思わずその場にへたり込んだ。
こんな風に直球で自分と撩の事について逆撫でするような男は、ミック以外では初めてだ。
ドキドキは全然しなかった。
ただただ動物的なまでの警戒心が騒いだ。
ベランダで隣に立つ事を許したのが敗因だと、香なりに分析する。
今後、彼が己のパーソナルスペースを侵害する事の無いよう自衛しなければ、と自分に言い聞かせる。
撩がいつ帰って来るのか解らないけれど、香はこの事を撩には知られたくないと思った。
強くあらねば、撩の相棒は名乗れないから。
易々と己のパーソナルスペースに他人を招き入れてしまう無防備さを、香はいつも反省するけれど。
その時になると、なかなか気が付かないのだいつも。
香は決意を新たに立ち上がると、撩のブランケットと枕のあるソファの方に潜り込んだ。

撩は今夜、香の知らない世界の闇で1人労働に励んでいる。
部屋を共有しようと言ったあの時は、
強引に自分が撩の大きなベッドを奪い取って、必然的に撩がコチラのソファに寝ることになったけど。
そもそも体の大きさに照らし合わせると、香がコチラに寝るのが妥当なのだ。
疲れて帰って来る相棒にはゆっくりと身体を休めて欲しいので、香は今夜からソファで寝る事にする。
それ程小さくも無いソファの寝心地は、意外にも悪くない。
しっかりとした背凭れに背中をくっ付けて横向きで目を閉じると、香は安心できるのを感じた。
撩の匂いのする枕とブランケットに包まって力を抜くと、
堅めのウレタンのソファは香をしっかりと包み込んでくれた。



















『・・・大事なものって何ですか?』

『オマエには関係無いもんさ。』


大塚が撩の言葉をどう受け止めたのかは解らないけれど、撩の返答を聴くと淡く微笑んだ。
もう寝ます。と言った大塚に、撩は返事もせずにヒラヒラと手を振った。







撩は数十分前の大塚との遣り取りを、リビングのソファに深く座って思い返していた。
手の中のロックグラスの氷が融けて、小さく澄んだ音を立てる。
いつもなら一仕事終えて外で一杯引っ掛けて帰って来るのがデフォルトだけれど、
何となくそんな気になれずに早目に帰った。
帰って来て正解だったのかどうかを考えると苛つくので、撩は煙草のフィルターを噛み締める。
どうやら香は無事、自力で大塚の魔の手から逃れたようだし、
お陰で撩はなんだか見たくもない現場を覗き見状態でヒヤヒヤさせられて、
おまけに胸糞悪い男と、寝る前のこんな時間に対峙せねばならなかった。
煙草の煙とバーボンの匂いの混ざった息を、深く吐き出す。
ソファの隅には、乱暴に脱ぎ捨てられたジャケットと放り出されたホルスターに収められた愛銃。

撩はいつも考えている。
自分と相棒の関係と、これからについて。
6年間、自分の気持ちを誤魔化してシラを切った事もあったし、気持ちが揺れた事もあった。
かと思えば、自分でも驚く程素直になれる事もあった。
多分、この地球上で今の所、撩という男の深い所も脆い所も一番よく知っているのは槇村香だろう。
そして、一番近くにいるのも。
けれどそんな香だけが、唯一気付いて無いのが撩の恋愛感情だ。
香が思っているより自分は単純な男なんだけど、と撩自身は思っている。
普通に思い悩む何処にでもいる冴えない男だ。
名前は冴羽だけど。

確かに、“家族愛”だなんて卑怯な逃げ口上なのかもしれない。
家族が大事なモノだって事ぐらい撩にだってわかるけど、撩自身にこれまで家族なんて居た例は無いのだ。
居たとすれば、闘いに明け暮れていかれて死んだ(ていうか、撩が殺した)熱すぎるオヤジだけだった。
本当はまだ、撩自身にも良く解っていないのかもしれない。
照れとか意地とか見栄とかそういう無駄なモノを削ぎ落して、言葉にすればそれは。
ただ単なるありふれた感情だ。
何処にでもいる普通の男の、たった一人の女に対する愛情だ。
関係性とか定義とかそういう事を考えるのは面倒で、撩はあまり得意ではないけれど。
仕事上のパートナー以外の部分で、それを恋人とか夫婦とか家族と呼ぶのなら何でも良いと思う。
この場合、肝心の既成事実(所謂、もっこりですね)が2人の間に何も無い事が最も大きな課題なのだ。





・・・そろそろ、姫も眠りに就いたかねぇ。




撩は天井の隅を見上げた。
あの天井の上の寝室で、きっと女は小さな寝息を立てているのだろう。
そう思うと撩の口角は自然と持ち上がるのだけど、
それを知っているのは今の所リビングの片隅の観葉植物だけだ。











翌朝、撩を起こしたのはブラインドから漏れる凶暴な朝の光と、旨そうな朝食の匂いと、
良く見知った知人(変態)の暑苦しい気配だった。
そいつは冴羽アパートの道を挟んで向かい側の雑居ビルに住居兼事務所を構えていて、
何かというと口実を見付けては、香に逢いに来る。
目的は初めから香だ。
撩は朝が苦手なので頭痛を覚える。
勿論、香の気配とそれに面倒臭い依頼人大塚の気配、
その上、大塚に輪を掛けて斜め上に面倒臭いミック・エンジェルの気配までキッチンにある。
朝から地獄絵図だ。

いつも使っているモノとは違う、彼女の枕を抱き込んで深呼吸すると、
少しだけ頭痛が和らぐような気がしないでもないけれど多分、気のせいだ。
昨夜、リビングで酒を呑んだ後、グラスを片付けて寝室へ入ると香は既に眠っていた。
何故だか香はソファの方で眠っていて、撩の枕もブランケットも彼女に占領されていたので仕方なく、
撩はベッドの方の彼女の枕と羽根布団で眠った。
それは明らかに撩のモノとは違って、甘い女の匂いがした。
香がいつも使っているボディクリームやシャンプーや石鹸の匂い。
その全てが調和よく混ざり合った香の匂い。

眠りに就くまで、撩は寝転んだままソファの上の香の寝顔を見詰めていた。
あんな事があったのに、香はまるで何事もなかったような安心しきった顔で眠っていた。
幸せそうですらあった。
カーテンの間仕切りは、いつの間にか用を為していない。
香自身、その事はもう忘れているのかもしれない。




撩はただ守りたいだけだ。
その健康的で幸せそうな寝顔や、笑顔を。
撩を信じて疑わない真っ直ぐな瞳を。
撩に寄せられる無垢な信頼にただ応えたいだけだ。
失望されたくない。
裏切りたくない。
そして、愛されたい。
ただそれだけだ。







ったく、なんで朝っぱらからあのヤローがいるんだよ。面倒臭ぇ。







撩と香の平和なアパートには、時としてこのような招かれざる面倒事(きゃく)が訪れたりする。
敬遠しているのは主に家主の撩1人だけで。
香は意外と楽しんでいたりするから、尚更撩は苛つくのだ。
本当ならもう少し、この香の布団に包まって朝寝を貪りたいのは山々だけど。
撩は仕方なく起床する事にした。


(つづく)


№8 撩を悩ます相棒(おんな)

何、探してんの?




吹き抜けの奥の書棚と睨めっこしている香に、撩は背後から近寄って声を掛けた。
水色と白のボーダーのカットソーに、ルーズフィットなジーンズを穿いた香が振り返る。
腰穿きしたジーンズは踵でたるんで、解れた裾が良い味を出している。
それは数年前までは撩が穿いていたモノだけど、香は随分前からそのジーンズを狙っていたらしい。
ここ最近クローゼットで見ないと思ったら、香がなぁなぁの内に愛用していた。
香は撩の気持ちなど微塵も気付かぬくせに、無邪気にそういう事をする。
その度に、撩が激しく心を揺さぶられている事など、きっと自覚に無い。
撩の声に、柔らかな表情で振り返ったり、無防備に笑って見せたりして。
撩を揺さぶる。
撩は多分、神様に試されている。





ん?ほら、前にりょおが教授のとこから借りたままの歴史の本があったなぁ、と思って。古いやつ。

んぁ?ぁあ、あったっけか? んなモン。

あったよ、まだ返してなかったはず。






どうしてそんなモノが、と訊くのも野暮だと、撩は鼻白んだ。
その日の朝、嫌な金髪(おとこ)の気配に起こされて不機嫌なまま赴いたダイニングキッチンで。
撩を除く3人が盛り上がっていたのは、依頼人の男が次に出演するドラマの歴史上の人物の話題だった。
大塚は売り出し中とはいえ、まだまだその枠で主演を張れるほどの器では無いので二番手だ。
それでも異例の大抜擢だと言える。
彼は予定外のこの休暇を利用して、台本を頭に入れているらしい。
だから、その歴史の流れが頭に入っているのは当然と言えば当然なのだが、
意外にもその博識ぶりを発揮したのが、ミック・エンジェルである。
香は学生時代、勉強が出来ない訳でもなかったけれど、取り立てて賢い訳でもなかった。
歴史の授業で習った事よりも、憶えているのは休み時間のガールズトークが楽しかった事ばかりだ。
香にドラマの筋を丁寧に説明する大塚に合わせて、
その都度ミックが、歴史に纏わる雑学ネタを披露する。
そして香が大袈裟に(香にそのつもりは無いが、撩にはそう見えた。)感心して見せる。
感心しながら、その時代の出来事に深く興味を抱いたらしい。
その一連の流れが不愉快過ぎて、今朝の撩は3杯しかご飯が喉を通らなかった。


6階と7階を繋ぐ階段を上がった突き当りの、壁一面に配された書棚には、
仕事用の資料から各種専門書、雑誌のバックナンバー、果ては新聞記事をスクラップにしたものまで。
撩の琴線に触れる物がぎっしりと詰め込まれている。
香の腰の高さほどの所から広い天板の書き物机になっていて、その上にも沢山の本が積まれている。
大抵は撩が読みかけている物だ。
大きな回転式の革張りの椅子がひとつと、欅の踏み台がひとつ。
天井高いっぱいまで造り付けられた書棚の一番上は、さすがの撩も踏み台を使う。
香の頭の少し上、日に灼けて如何にも古めかしいその背表紙が、香の探しているものだ。
香は撩に背を向けて、一生懸命お目当てのそれを探している。





ホラよ。

あ、ああありがとお。





香の目の前にその本を差し出した撩の声が、耳のすぐ後ろで聴こえて香はその距離の近さに狼狽えた。
香の背中にピッタリとくっ付くように、
撩がすぐ後ろから手を伸ばして香の頭より少し上の段の、教授から借りパクしている書物を探し当てたのだ。
香は俯いて小さく息を整える。
顔が赤いのが治まるまでは、撩の方を振り返れない。
すると背後で、ドスッと重たい音がする。
革の座面が軋む音と、キャスターが滑らかに転がる音。
撩が椅子に座った気配に香が振り返ったのと、香が撩に捕捉されたのは同時だった。

香は椅子に座った撩と机の天板に完全に挟まれていた。
撩は逞しい大胸筋の上に両手の指を合わせるようにして静かに手を置いて、
長い両脚は、香の両横を包囲して机の下に投げ出している。
香の腰と撩の座る椅子の前面は、距離にして数㎝しかない。
香は無意識に距離を取ろうとして、後ろの机の天板に尻をついた。
撩が何を思っているのか、瞳の色だけでは判断できずに香は困惑する。



香は分り易いと、撩は思う。
不思議そうな困ったような顔をして、撩の瞳を覗き込んでいる。
それでも、撩の突然の行動に何と言えばよいのか解らないのだろう。
撩が何かを言うのを待っている。
可愛いと、撩は思う。
撩が棚の中から取ってやった古い本を大事そうに胸に抱いて困っている、可愛くて悩ましい相棒。







午前中には、日課だという男の筋トレにまたしても付き合わされた。
というか、撩が自分からその役を買って出た。
ドア1枚挟んで、商売道具の格納庫兼射撃場がある所へ、大塚を1人で近付けたくはないし、
かと言って香に任せて、あの密室に2人きりにする訳にもいかない。
朝食の席で、他愛もない話しで無難に盛り上がりつつも、
香が何処か大塚に対してぎこちなさをみせていた事に、撩は勿論気が付いていた。
香が昨日の今日で、何事もなかったように振舞えるわけなど無いのだ。
一方の大塚は、平然と何事も無かったかのように撩にも香にも振舞った。
今日ばかりは撩が起きて来るまでの間、ミックが居てくれて香は助かったかもしれない。
結局、ミックの用件は、
撩に頼まれていたある官庁と政治家に纏わる色々を取材した際の資料を持って来たというものだった。
依頼人の前では都合の悪いその用件を、互いに咥え煙草で屋上でやりとりしながら、
撩はミックに同情された。
大変だな、オマエも。なんて、詳細は語らずとも、撩と香と大塚の三つ巴の微妙な空気を読むくらいの事は、
ミックにとっては朝飯前だ。
因みに、朝メシはしっかりと香の手料理を食べて帰って行った。






『外、出たらヤバイっすかね?』

大塚はトレーニングしながら、飄々とそんな事を撩に訊いた。
己の状況が解っていないらしい。
ヤバイから、こんな所で休暇とは名ばかりの軟禁状態にあるのだ。
撩は応えるのも面倒臭かったけれど、たっぷりと間を置いて一言だけ答えた。

『・・・当り前だ、ばか。』

大塚はそんな撩に、フフッと笑った。
何処か楽しげに、退屈なんですよね~~と言いながらルーティンをこなしていく。
そんな退屈しのぎに、相棒を誑かされたら堪らない。
撩はもうそれ以上、相手にするのも嫌になって聞こえないフリをした。







撩は香の薄茶色の瞳を見ながら、昨夜の出来事を思い出していた。
細いけどマッチョな大塚の腕が、香の腰を抱き寄せていた光景。
恐らく香は、リビングの扉の向こう側で撩に見られていた事には気が付いてはいない。
あともう少し、香が抵抗するのに手間取ったら妨害に入る所だった。
自力で大塚の手から逃れた香を、撩が心の中で励ましたのは言うまでもない。
今撩が両脚で囲い込んで目の前で困惑する香は、
撩に捕えられても、困ったような顔をするだけで逃げようとはしない。
香は無意識のうちにパーソナルスペースに撩が入る事を、許しているのだ。
勿論、逆も然り。
撩は己のパーソナルスペースに香が侵入しても、不快な気持ちにはならない。





おまぁ、太った?



本当は、自分も抱き寄せてみたかった。
けれど撩の出来る限界は、今日の所はこれまでだった。
細い腰を抱き寄せる代わりに、ガッと両側からジーンズ越しの腰骨を掴んで言ったひとことがそれである。
デリカシーの欠片も無い。
次の瞬間、慣れた衝撃と共に轟音と震動と埃が撩を襲った。



失礼ねっっ  変わんないわよっっ!!



実際の所、香の体重に変化はない。
香よりも調子を狂わせているのは、むしろ撩の方だ。
大塚をアパートに置いて以来、焦燥感とイラツキが半端無い。
煙草の消費量が増している。
もっと他に、言いたい事は山ほどあるのに、撩は肝心な言葉が言えないでいる。
大きなハンマーの下敷きになって、撩は盛大に溜息を漏らした。
この世で唯一、撩を悩ませるのは他の誰でも無い可愛い相棒だ。


(つづく)


№9 想定外 

依頼人・大塚健吾をアパートに匿って、もうじき10日近くになる。
その間、撩はほぼ毎晩、冴子の捜査と足並みを揃えるように独自に仕事を進めている。
今の所、香の出番は殆ど無い。
香にとってはいつも通り家の中の事を整えて、そこに1名居候が増えただけの事である。
依頼の主目的は、大塚の身の安全を確保しつつ、脅迫犯とその背後にある人間関係を炙り出す事である。
この数日の間に、香は断片的な情報だけは撩に聞かされていた。
どうやら例の六本木や渋谷を根城とした不良集団の大元には、やはり反社会的な組織も関わっている事。
今回の大塚と彼の所属事務所に対する脅迫事件は、
しかしそれとはまた違った要因も複雑に絡んでいる事。
大塚は、アパートに居る間、地下のトレーニングルームか客間に居る事が殆どだ。
それでも撩は、事件捜査に関する進捗状況を大塚の耳には入れないよう、慎重を期して避けている。
昔の連れと大塚が何処でどう繋がっているのか、警察が把握しているその交友関係は、
あくまでも大塚の自己申告でしかないのだ。
今回のようなケースは、脅迫を受けている被害者も少なからず、叩けば埃の出る身だ。
撩の見立てでは、彼自身それほどの危機感を感じている様子もない。
もしも大塚自身からあちら側へ、安易にこちらの動きが漏れるような事になれば、
これまで秘密裏に進めている事案が全て無駄になる。
早い話しが、依頼人・被害者とは言え、今回に限って撩は日頃の行い含め、彼を全く信用していないのだ。

そうなると自然、撩と香が事件の事について情報を共有する場は、7階寝室か吹き抜けの書斎になる。
香が掃除の手を動かしながら、撩がその周りに纏わり付くように前日の夜の経過を報告するという形だ。
相変わらず、毎朝毎夕伝言板の確認に行く香に、
撩は別に行かなくても構わないと言ったけれど、香が行きたいと言うと止めはしなかった。
撩は毎晩、労働をして帰って来るのだ。
香としては、自分だけ何もしない訳にはいかない、という気持ちだった。






相変わらず、伝言板にはXYZの3文字は無かった。

香は軽く落胆の溜息を吐いたけれど、すぐに気持ちを切り替えた。
依頼の切れ目が無い事は非常に喜ばしい事なのかもしれないけれど、
この状況で新たな依頼を抱える事は、現実的には撩の負担が増えるだけだ。
だから、香がどうしても伝言板を確認に行きたいと思ってしまうのは、
ある面、生活のリズムという意味合いもあるのかもしれない。
撩から調整し直したコルトローマンを受け取って、射撃の練習もさせて貰えるようになったとはいえ、
香はまだまだ、この世界では素人に毛が生えたレベルだ。
香が胸を張って、撩の相棒だと言える事はまだ何も無い。
撩は香を何がなんでも守り抜くし、互いに何がなんでも生き延びようと誓ってくれたけど、
肝心の香自身が撩の足を引っ張ったら何にもならないのだ。
今の香に出来る事は、いざという時の為の鍛錬を怠らないことと、今出来る事に専念することだ。
伝言板を確認して、新宿の街の空気を自分なりに読み取ること。
今では香が街を歩けば、
撩が日頃懇意にしている情報屋たちが、香にも何らかの情報を世間話に織り交ぜて齎したりする。
そういうことなら、自分にも出来るはずだと香は考えている。









え、どうして???




新宿駅東口を出て駅前の雑踏を抜けた所で、香は目の前で微笑む大塚に驚いた。
この所、深夜遅くに帰宅した撩は午前中、香が伝言板を確認して帰る頃には起床して、
大塚の日課に付き合っているらしい。
だから普段なら今頃、ちょうど撩が起きるか起きないかといった所だろう。
こんな場所で依頼人がひとりで佇んでいる事に、香は意表を突かれた。






りょおは?一緒じゃないの?

ふふふ、寝てる間に抜け出して来ちゃった。

はぁ?

今日はちょっと、香さんの日課のほうにボクがお付き合いしたいなぁ、なんて。

駄目よっっ、勝手なことしちゃ。何かあってからでは遅いわ。







ふふ、大げさだなぁ。と、大塚は呑気に笑った。
そうは言っても、この雑踏の中に彼はもうやって来てしまったのだ。
屈託のない笑顔で楽し気な大塚は、人気俳優の自覚が有るのか無いのか隠す気も無いのだろう。
堂々といつも通りの姿だ。
却ってそれが良いのかもしれない、不思議と道行く人も誰も気にも留めない。
香も仕方なさ気に肩を竦めると、呆れたように微笑んで家路に着く事にした。
本当はこのあと、スーパーでの買い出しも済ませておきたかったけれど、それは後回しにする。






ねえ、香さん。

なぁに?

せっかくだから、デートしようよ。

・・・駄目。

じゃあ、お茶しよう。

無理。

今までではじめてかもしんない、こんなに女の子に拒絶されたの。





凹むなぁ、と言いながら、
全然凹んで無さそうなイケメンに、香は立ち止まって向き直ると盛大な溜息を吐く。
どうして香の周りには、こうも軽薄な男しか寄りつかないのか。
他に誰がいるのかと言われれば、思い当るのは1人だけだが。






あのねぇ、アナタ自分の状況わかってるの? 狙われ・・・




そこまで言った所で、香は口を噤んだ。
気が付くと香と大塚の周りを、4~5人の柄の悪そうな輩が取り囲んでいた。
一見すると街中の破落戸風だが、目の奥の鋭さはただの不良ではなさそうだった。






あ~あ、何か起こっちゃったね。

アナタのせいよ。




2人が軽口を叩くのもそれまでだった。
輩のリーダー格と思しき男が、懐に手を入れて慇懃に挨拶をする。




ちょっと、ご足労願えませんか?












香はよくある展開に、またしても苦々しい気持ちになった。
こうなってしまえば、素直に撩の助言に従って伝言板の確認は控えておけばよかったと後悔する。
駅前の人の波は、誰も周囲の事になど注意を払わない。
都心の平日午前中の人たちは皆、忙しいのだ。
香と大塚は、微妙な間合いで取り囲む男達に誘導されるまま、
全面スモークガラスのワンボックスカーの後部座席に誘われた。
車に乗り込む直前香は、雑踏の切れ間に見えた靴磨きの情報屋と目が合った。


相手の懐の物が拳銃なのかどうかは、香には判断付かない。
けれど、香1人では依頼人まで庇ってハッタリで切り抜ける自信も無い。
相手に従うしか手立ては無かった。
全員が乗り込むと、車は滑らかに滑り出した。
他の男達も、それぞれに武装はしていた。
香と大塚はそれぞれ背中にサバイバルナイフを突き付けられて、手首を後ろ手で拘束された。
猿轡を噛まされ、目隠しもされた。
香はこのような状況には、悲しいかな慣れっこなので。
土地勘のある新宿を中心とした、東京23区の地図を頭の中に思い浮かべる。
車が交差点を曲がる度に、方角を予測する。
車に乗り込む前に、さり気なく腕時計にも目を走らせた。
この後、どの程度の時間この車で運ばれるのか。
自分でもある程度の予測を立てられるように、得られる情報は逐一脳内にインプットする。
運が良ければ、命までは獲られずに何処か人目につかない所に監禁されるのだろう。
そうなれば、香にも勝機はある。
彼等を相手に反撃するわけでは無い。
自分も依頼人も、命が無事ならそれで良いのだ。
せめて隙をついて逃げる事が出来れば、上々だ。










くそっっ、あんの依頼人(ばぁか)




撩がいつものように起床したら、アパートは無人だった。
初めの内こそ、撩を起こして伝言板の確認に行った香だったが、
この所、連日の深夜の労働に重ねて、午前中早起きの撩を案じて無理に起こす事はしなくなっていた。
香が伝言板の確認を欠かさないのも、撩を気遣って起こさないようにしているのも、
香の意図は撩には、解り過ぎるほど解っているので、これは致し方の無い事だ。
これは撩のミスだった。
数日前から、大塚は外出したがっていた。
退屈だとふざける彼の言葉を聞き流したのは、撩だ。
香が恐らく、駅の付近にいる事は間違いないだろう。
撩は瞬時に様々なパターンを、想定する。
大塚健吾なら、どういった行動を起こすだろう。
取敢えずは着替えないと、撩が今身に着けているのはボクサーパンツ1枚だ。




撩がホルスターに愛銃を捻じ込んで、ジャケットを羽織ったタイミングで、寝室の子機が着信を伝えた。
シティーハンター出陣の合図だ。



(つづく)



№10 似た者同士

ふうん、詰めが甘いわね。
携帯もバッグも、銃を持ってるかどうかも調べずに、監禁するなんて。









後ろ手に縛り上げられたまま香と2人で、ヒンヤリとした場所に閉じ込められてから数分後。
大塚はそんな香の言葉に我に返った。
未だ自分の両腕はきつく縛り上げられたまま、目隠しと猿轡も噛まされたままだ。
しかしすぐ傍で、香が動いている気配はする。
同じ様に縛り上げられて連れて来られたはずの彼女が今、どういう状態なのか大塚には解らない。
何しろ、質問しようにも言葉すら発する事は出来ないのだ。





ごめんね、今すぐ解いてあげるから。




しかしすぐ後に香はそう言うと、まずは大塚の目隠しと猿轡が外された。
大塚が声を上げようとする前に、目の前には口に人差し指を立てた香がニッコリと微笑んでいた。
どうやら声を立てるなという合図らしいと察すると、大塚は恐る恐る頷いた。
流石にこの展開はまずい事になったという自覚はあるらしく、彼にしては殊勝な態度だ。
香はこんな状況なのに、何処か楽し気で。
縛り上げられた大塚の両腕を、手際よく解放した。
無言で腕を曲げ伸ばしながら、香の言葉を待つ大塚に香は声を潜めて説明した。






ココは多分、東京湾に面した何処かだと思うわ。恐らく、人目につかない様な倉庫街ね。

どうしてわかるの?





香につられるように声を潜めて訊いた大塚に、香はニッコリと微笑みながら腕時計を指差した。
自分達が拉致された時間帯。
ココに着いて縄を解いてからすぐに確認した、これまでの所要時間。
新宿から幾度か進行方向を変えた車が向かった、大まかな方角。
そして2人の人間を隠せるような、人目を避ける事の出来る場所。
そういう諸々を考察した結果、香はそう推理しただけだ。
多分、それ程的外れな分析でも無いだろうとは思っている。






奴等、殺しのプロって訳でもないと思うわ、詰めが甘いし。けどただの素人でもないと思う。





拳銃やナイフを所持していたし、それなりに手際も悪くなかった。
恐らく、今回の依頼の件で拉致された事は明白なので、狙いは大塚なのだろう。
香には何の根拠も無いけれど、それが撩を狙うプロの殺し屋の仕業では無いだろうという確信があった。
ただの勘だ。せいぜいが、暴力団の構成員だろう。
奴等には自分達を殺す気はないだろうというのが、香が導いた結論だ。
大塚をネタにゆすっている連中なら、みすみす切り札を殺したりはしない筈だから。
何より撩がこの場所を嗅ぎ付けるのも、時間の問題だ。







準備が出来たら、ここから逃げ出してみようと思うの。

は?

撩もその内来てくれるから、その前に自分で出来る事は自分でやんなきゃね。





キョトンとする大塚に、香はまるで今日のランチの献立でも発表するかのような口振りだった。
香は羽織っていたスタジアムジャンパーの内ポケットから、
ローマンを取り出すと弾が込めてあるのを確認した。
大塚が意外なモノでも見るかのように目を見張って、息を呑んだ事には気が付かなかった。
撩のする事に倣って、実はジャンパーの内側には予備の銃弾まで忍ばせている。
愛用のカーキ色のポーターのヒップバッグの中には、
閃光手榴弾から本物の手榴弾(火薬少な目)まで準備万端だ。
内ポケットには極細で軽い、しかし強度は抜群のカーボンファイバーのワイヤー、
スパイダルコ社の小型のフォールディングナイフ。
ホンの少しだけだけどプラスチック爆弾と簡単な仕組みの起爆装置もある。
追手を撒くくらいの簡単な自衛手段程度なら、充分過ぎる装備だ。





さ、冴羽さんがココに来るって・・・何故わかるの?




香は大塚の質問に、これ以上無いと言うほど神々しい笑みを浮かべた。
ジャンパーの下に着込んだ、白いコットンのシャツを捲る。
ピッタリとした細身の革パンツに、シルバーの大きなバックルの付いたヌメ革のベルト。
そのバックルには装飾が施され、ターコイズの小さな欠片が埋め込まれている。
その石の内の1つは、イミテーションだ。






これに、発信機が仕込んであるの。撩にはアタシ達の居場所なんて、すぐに判るってわけ。






ワンボックスカーに押し込まれる直前、香は雑踏の切れ間に撩が懇意にしている情報屋を見付けた。
香が右手で軽く拳を作って振ると、彼は小さく頷いた。
それは、撩にも内緒で彼と香の間でだけ決めている符牒だ。
掌を見せて手を振る時は、撩に連絡を取ってくれの合図。
拳の場合は、撩と冴子に。
極々小さな合図だから、雑然とした人混みの中で香と轍にしか伝わらない、
シンプルだけど非常に効果的な合言葉だ。
今回撩は、香にも依頼の進捗をこまめに情報共有していた。
冴子たちの捜査と足並みを揃える事で今回撩は動いていたので、
敢えて香は冴子にも連絡を取ってくれるように、合図を送った。
そうすれば冴子の事だから、まずは撩と連携して現場に向かうだろう。
撩が出張るついでに奴等も検挙できれば手間が省けるし、
奴等と対峙するのが1度で済めば、それだけリスクを負う確率も少なくなる。
















ミニクーパーの助手席に設えた受信装置の光点を睨みながら、撩がアクセルを踏み込む。
香の発信機と大塚の携帯から発せられる位置情報は、2つ同じ場所に表示されている。
昼間の幹線道路の渋滞に引っ掛かり、一進一退を繰り返す。
撩は気持ちを落ち着ける意味を込め、火を点けたコルク色のフィルターを噛み締める。
撩が出掛ける支度を終えた頃、自宅の電話に轍からの連絡が入った。
香と依頼人が、駅前で白昼堂々拉致られたこと。
相手は、堅気では無さそうな男5人で、車は湾岸方面に向けて発進したことが告げられた。
4台先前方の赤信号は時差式で歩車分離になっているせいか、なかなかゴーサインが出ない。
苛つく撩のジャケットの胸ポケットから、神経に障る振動が伝わる。
携帯の液晶画面には、野上冴子の名前が表示される。










ほわぁい、どーしたぁー?

えらく呑気な声ね、アナタ今何処なの?

なんで?

向かってるんでしょ?香さんの所に。

・・・なんとまぁ、早耳ですこと。

私達も急行するわ、目的地を教えて。

はいはい、なんなりと。警部補様。







冴子が電波の向こう側で、呆れたように溜息を吐く。
彼女は恐らく今、電話をしながら法定速度上限ギリギリでポルシェを飛ばしているのだろう。
撩の方も漸く、青信号に変わる。







早耳云々に関しては、アナタが思ってるよりアナタの相棒が優秀な証よ。

・・・どういう意味だよ。

そんなの、香さんに直接訊きなさいよ。





急がないと私の方が先に着いちゃうわよ?カッコ良くお迎えに行きたいでしょ?頑張って。
と、余計な言葉を言い残して、冴子は電話を切った。
ひとまず撩は、無心でアクセルを踏み込む。
そもそもポルシェと、ミニクーパーでは到底勝負にならないけれども、
早々に現場に到着したところで囚われの姫を救出できるのは撩だけなのだ。
唯一の懸念は、囚われの姫がじゃじゃ馬だという事だ。
彼女が大人しく待っているキャラじゃ無い事は、誰より撩が一番よく解っている。
















何やら小さな仕掛けを弄っている香を見ながら、大塚に素朴な疑問が浮かんだ。





ねぇ、香さん。

ん?なぁに?

そもそも、縛られてた縄をどうやって解いたの?



大塚の質問に、香は作業の手を止めてニンマリと口角を上げる。
スッと上げられた利き手の人差し指と中指の間に挟まれた薄い刃物を、大塚に見せる。
袖口に仕込んでいた剃刀の刃は、香が良く使ういつもの手だ。




車に乗り込んでる時からね、コッソリばれないように少しづつ切ってたの。






ヨシ、出来た。香はそういうとニッコリと大塚に微笑みかけた。
手には小さな起爆装置と、ほんの少しのC4を握っている。
使用量は香のこれまでの経験と勘に基づいている。





今からあのドア吹き飛ばすから、一番奥の突き当りの壁の所にいて、動かないで。





そう言った香の目の色に、大塚は見覚えがあった。
彼女は、冴羽撩と同じ目をしている。
夫婦は長年同じモノを食べ、住まいを同じくしていると似てくると聞いた事がある。
大塚の香に対する第一印象は、『イイ女』だった。
一見純粋そうで素直そうに見える目の奥に、野性的に光る何かを感じていた。
ただの美人ではない、凄みのある魅力を孕んでいた。
大塚は確信した。





かっこいいわー、香さん。惚れてもいい?

駄目。




そう言って悪戯小僧のように笑う女に、完全に落とされた。



(つづく)

№11 じゃじゃ馬

数日前、ミックが朝から撩の元へ訪れて渡していった資料は、
とある政治家の絡む汚職の疑惑と暴力団との癒着を告発する内容の文書だった。
情報元は、その政治家の元側近。
所謂、内部告発という奴だ。
それが今回の一件にもチラチラと絡んで来ていた。
冴子たちとは別で撩が動いていたのも、それらの件がメインだったりする。
撩はちょうど昨晩、これらの件を一通り裏を取って証拠固めをして冴子にGOサインを出した。
その件も今頃、同時進行で警視庁が動き出しただろう。
香と大塚を拉致したのは、政治家と懇ろの暴力団の下部構成員の筈だ。
これにはただの不良グループの内輪揉め以上の黒い事情が絡んでいたりもするのだ。
政治家の汚職の疑惑を察知していたのは、何も側近だけでは無かった。
彼が大臣を務める某省のお偉方で、その事に気が付いて焦っている男がいた。

大臣の犯罪は、芋蔓式に自分達にも火種が飛んで来る。
探られる腹が痛くないとは言い切れない。
一国を動かす組織では、法の枠内では収まりきれない面倒な案件が山ほどあって、
そのいちいちを杓子定規に解決していたのでは、1日24時間、1年365日では時間が足りない。
予算も足りない。
根回しと話し合いと暗黙の了解が渦巻く、予定調和と同調圧力の世界だ。
数ケ月前に大臣に任命されただけのお気楽な政治家の犯罪に巻き込まれて、
これまでの現実的問題解決の糸口が全てご破算になる事ほど、迷惑な事は無い。
所詮、大臣はエンブレムに過ぎない。

・・・実際に国を動かしてるのは、事務方なんだよ。それで?息子は無事かね?」




そう言って若干、やつれたような表情で撩に訊ねたのは、
大塚健吾の父親で某省で事務次官を務めている、大塚正明であった。
深夜、撩が大塚の家の書斎に忍び込んで面会を叶えたのは、依頼を請けた数日後のことだった。
息子が脅迫されていたのと時を同じくして、父親の元にも不穏な影は忍び寄っていた。
発端は、大塚が大臣に対して進言した事による。
勿論、場と言葉は慎重に弁えた上で、おおごとになる前に鎮火できればと踏んでのことだ。
けれど大臣は、大塚が思った以上に分からず屋だった。
談合と接待と魑魅魍魎の世界の人間に言葉は通じなかった。


「いや、私の認識が甘かったんだろうね。
 所詮、彼等の理屈とコチラの理屈は、交わる事など無い。平行線だよ。」

そんな事を聴かされても、撩にはなんの感慨も湧かなかった。
撩に言わせればどっちもどっちで、どうでも良いから息子の躾をちゃんとしろというのが感想だ。
大塚の息子の遊び仲間の中には、件の政治家の息子もいた。
オヤジ同士のケンカの矛先が、間に暴力団を介して息子に向けられた形である。
大塚正明の元には差出人不明の郵便物が届き、これ以上余計な詮索をするのなら、
息子の過去の悪さから何から明るみにするといった内容が綴られていた。
その事が公になれば、大塚自身が過去に息子を庇って揉み消した大麻事件の事も再浮上する。
息子可愛さのあまり、自身の持てるコネと権限を最大限に濫用した大塚の人生最大の汚点だ。




撩は信号が変わるのと同時に、アクセルを踏み込んだ。
取敢えず、無駄に偉そうなオッサンたちの世界には、サラサラ興味は無い。
向こうさんの要求に応える気の無い大塚父子および芸能事務所に苛立って、血の気の多い連中が暴走した。
結果、こうして冴子たちが動き、撩が動いているのだから、政治家の政治生命もカウントダウン直前だろう。




っとに、いい迷惑はこっちだっつーの。


撩は発信機の示す光点に向けてハンドルを切る。
お陰で、冴羽商事の2人には手癖の悪い坊やのお守りという面倒事が舞い込み、
可愛い相方は、血の気の多いむさくるしい輩に連れ去られたりして。


マジで、冴子のやつ。別途料金請求だな。


撩はこんな風に思っているけれど不思議と、
無理難発の要求をする気が無くなっている最近の自分には、まだ気が付いていないのであった。













ひとまずココに隠れましょ。


銃弾が乱れ飛ぶ中、香は背中で庇った大塚を振り返りニッコリ笑うと、
通路の途中に見付けたその扉を開けた。
その建物が何処なのかは解らないけれど、何かの倉庫のような所だろうという予測はついた。
監禁された部屋の鉄の扉をぶち破った香は、ど素人の大塚を連れて逃亡を試みたものの。
派手な爆発音に誘われてやってきた輩と銃撃戦を余儀なくされた。
生憎、それは香の苦手分野だ。



えへへ、やらかしちゃった。アタシ、銃は苦手なの。


そういって全く悪びれた様子も見せずにペロッと舌を出す香に、大塚は思わず吹き出した。
そこで初めて大塚は、それまでガチガチに緊張していた事に気が付いた。
無理もない。
平和な日本で生まれて育って、本物の銃を見たのも初めてならば銃撃戦なんてもっと初めてだ。
勿論、数年前の香だってそれは同じだったけれど、破天荒な同居人と暮らすようになってからは、
そういった感覚は、若干麻痺している。
今現在、チンピラ連中はコッソリと隠れた香と大塚には気付かずに、
互い同士で無駄な銃撃を繰り広げている。無能な奴らが頭数だけ集まった結果である。
香はあまり心配はしていないけど、
あの銃撃戦の渦中に張本人の香と大塚がいないと知れるのも時間の問題なので、次の手を考える。
逃げ切るのは難しいかもしれないから撩が来てくれるまでの辛抱だと、心の中で自分自身を鼓舞した。
この場で依頼人を護れるのは、自分だけなのだと。



ねえ、香さん。



手榴弾を使うタイミングと、
奴等を攪乱する算段を頭の中でシミュレイトしていた香に大塚が切り出した。



前にさ、友達に狙われてて傷付いてるだろって言ったじゃん?香さん。

うん。



ベランダで大塚に抱き寄せられた夜の事を思い出して、香は思わず赤面する。
たしかあの夜に、香は友達だった連中に裏切られた依頼人が気の毒に思えたのだ。
大塚は色々と自業自得な事も多いけど、それに撩はなんだか彼の事あまり好きじゃないみたいだけど。
香はたとえどんな人であれ、怖い思いや悲しい思いをしている人の力になりたいと思っている。
大塚はおちゃらけて香に迫るフリなんかして誤魔化したけれど、
あの時一瞬笑った顔が淋しそうだったと香は思う。




幼馴染みなんだ。

え?

あの連中と付き合うようになったキッカケ。





彼と大塚健吾は、幼稚園から一貫教育のエスカレーター式の学校でずっと同じ学内に居た。
幼稚園と小学校低学年の頃は、普通の仲良し同士だった。
思春期を迎えた頃には互いに仲良くしているグループも別々になり、自然と疎遠になった。
国会議員を父親に持つ彼が停学になったのは、高等部に入った頃だ。
悪い連中と付き合っているという噂は沢山あったので、その頃にはもう学内で彼と付き合う友人はいなかった。
彼が何をやらかしたのかは解らないけど、
退学ではなく停学で留まれたのは父親のお陰だろうと誰もが口々に噂した。
彼は不良グループの中で、一目置かれた存在になっていた。
彼の背後には父親が懇意にしている暴力団の影が常にあったから、不良の中ではそういう事は有利に働く。
気が付くと大塚も、彼と同じように夜遊びをするようになった。
学校では何の接点も無いただの同級生に過ぎなかったけれど、
夜のクラブでは幼馴染みの友情が復活していた。





そんなに悪い奴じゃないんだよ。周りからは、そうは見られないけどね。




香は何と答えて良いものか解らなかった。
高校生の頃の香は、もっと無邪気だった気がする。
確かに不良のグループもいたし、グレている子もいたけど。
香自身はあまり気にした事が無い世界だった。
香はあの頃、外で働く兄の心配をして、せめて自分は家の事をしっかりやろうと奮起していた。
そして兄の仕事仲間だという得体の知れない男(りょう)に、淡い慕情を抱いていた。




多分、オヤジさんの事が関係あるんだと思う、それとウチのオヤジの事も。



確かに、昨日までに香が撩に聞かされていた話では、
政治家とか官僚とかのなんだかややこしい色々が絡んでいるらしい。
それでもその話をどこまで大塚自身が把握しているのか、
そして誰と未だにつるんでいるのか解らないので、これは内密だと撩に言われていた。
香の中で点と線が繋がる。




その幼馴染みの彼とは?今も仲良くしてるの?

いや、1年前に絶交された。

・・・絶交?

うん、自分と関わると俺を巻き込むからって。






ま、結局こうなった訳だけど。と言って、大塚は小さく笑った。
香は何となくそんな大塚を慰めた方が良い気がして、言葉を探す。
そして言葉が見付からずに笑って誤魔化した。
香には難しい事はよく解らないけれど、取敢えず依頼人だけはしっかり守りたい。




だいじょうぶよ、アナタには怪我ひとつさせないで守ってみせる。撩もアタシも。

・・・それは。依頼人、だから?

え?



言葉の裏が読めなくて首を傾げた香に、大塚が真剣な表情をした。



香さん、俺。 貴女の事・・・



何やら重大発表でもしそうな大塚の言葉を遮ったのは、銃声だった。
烏合の衆共が使っている中国製の劣化版トカレフとは明らかに一線を画するその音に、
香の表情が一気に明るくなる。




りょおっっ

え?



事態が呑み込めない大塚に、香がニッコリと笑いかけた。
もう大丈夫だというように頷いた香が、この世で唯一あの男を信じている事が、
ど素人の大塚にも一目瞭然に見て取れた。




なんで判るの?銃声だけで。

わかるわ、相棒だもの。行こう。



香は、何の躊躇いもなく大塚の手を取った。
こういう時、香は多分最大級にその鈍感ぶりを発揮する。
大塚がこれから起こる危険を覚悟して決死の告白をしようとしたことも、
不意に香に手を引かれてドキドキしていることも、多分彼女は自覚していない。
彼女はいつも、冴羽撩しか見ていないのだ。





香とその背中に隠れるように大塚が通路に姿を現した時、
通路のずっと向こうに待ち焦がれた大きな男の姿が見えた。
烏合の衆たちが、その銃声がする方に四方八方から群がっている。
香はヒップバッグの中のひとつを手にした。
手榴弾に模した閃光弾。香の手作りだ。




大塚さん、目を閉じてっっ

えぇ、なんで?

なんでもイイからっっ、目ぇ瞑ってっっ






大塚が目を閉じたかどうか確かめもせずに、香は次の瞬間、閃光手榴弾を放り投げた。
勿論、撩にはわかっている。
この展開で、香のやりそうなことくらい。
撩とやり合っているチンピラ達の輪の中に、香自慢の自家製手榴弾が着地した。
咄嗟に撩も目を閉じた。













ったく、このじゃじゃ馬がぁ。 大人しく待ってろつーの。

あら、しおらしく待ってるだけで、アンタの相棒が務まるとでも思ってんの?

ま、ちげえねぇな。






一瞬、強くて目映い光を瞼の裏に感じた後に、大塚がゆっくりと目を開けると。
そこには、目を押さえてのた打ち回る烏合の衆と、状況を一切顧みず軽口を叩き合うコンビがいた。
依頼人は確かに香の言うように、怪我ひとつ無くこの状況を切り抜けたけれど。
これまでの己のしてきた事の代償に、大事な心を完全に奪われてしまった。
それが報われる事は今後無いだろうと、ハッキリと解ってしまった。
絶対に報われる事の無い恋心を抱えたまま、暫くは苦しむのだろう。



・・・人生経験、ってヤツか。



苦笑している依頼人をよそに、
撩と香は軽口を叩き合いながら、のた打ち回るチンピラを1人1人ご丁寧に縛り上げている。
その倉庫兼アジトの周りにも頃合いよくパトカーが到着し始めてサイレンの音が響き渡っていた。



(つづく)




続きアップするのお待たせしてます(ノД‘)かたじけない。
もうすぐ終わるよ~~~、もうすぐ。
がんがります(*´∀`*)てへ。

最終話 satisfaction

こうして画面で観てるなんて、なんか不思議だね。








あの日、撩と香が軽口を叩きながら埠頭の寂れた倉庫の中で、
チンピラ達を縛り上げていると一足遅れのサイレンが鳴り響いて、
その先頭を切って現れたのは女豹の転がす真っ赤なポルシェだった。
大袈裟にパトカー5台を率いてやって来たにも関わらず、仕事はとうに済んでいた。
冴子は、頭数だけは沢山の獲物をしょっ引く為に、応援の為の車輛を手配しながら、
テキパキと部下に指示を出して5台のパトカーに積めるだけの獲物を積んでいた。

ごめんね、こういう訳だから、取敢えず依頼人は貴方達が連れて帰ってくれないかしら?
今後の事はまた、追って連絡するわ。

追って連絡するというなんともアッサリとした言葉1つで、
冴羽商事の2人と、大塚健吾は完全に蚊帳の外だった。
仕方なしにクーパーに乗り込んで家に帰る頃には、ちょうど昼時で。
何の支度も出来ていないという香の言葉を受けて、撩は喫茶キャッツアイに立ち寄った。
メニューを一瞥して、炭水化物を取らない選択肢が無いものかと、
カウンターに横並びで座った撩と香に視線を送る大塚だったが、2人は華麗にその視線をスルーした。




あたし、エビピラフ大盛り。

んじゃ、俺はナポリタン、大盛り。



冴羽商事の2人は、躊躇なく炭水化物の大盛りを注文した。
言葉は無くとも、伊集院隼人は大塚健吾の視線と態度で真意を汲み取った。



生憎、ウチのメニューはそこに書いてあるだけだ。勿論、普通盛りも出来るぞ。


大塚健吾は怯んだ。
これまで結構いかつい人種には見慣れていたつもりではあったが、彼はちょっと例外だった。
恐らくお愛想で笑ったつもりらしい歯を見せた口元と、メニューを握った大きな手が嫌でも迫り来る。
仰け反った大塚に、撩が横からアドバイスを差し向ける。



ここは、ナポリタンがお勧めだぞ。せっかく来たんだから喰っとかなきゃ損だ。

美味しいわよ



大塚は暫し真顔で、隣の撩とそのまた隣のにこやかに笑う香を交互に見詰める。
居候期間中に解った事は、この2人は非常に良く食べるということだ。
それでも冴羽撩は認めざるを得ないほどに、逞しくバランスの取れた理想的な体をしていて、
槇村香は、驚くほど華奢でしなやかだ。
そんな2人は屈託ない表情で、まるで育ちざかりの高校生の様なメニューを注文をする。
ふと、大塚は色んなことが馬鹿馬鹿しく思えた。
休暇が明けたら、多分またいつもと同じようにストイックな習慣を続けるのだろう、それは彼の性格だ。
でも、2人と一緒にいると、何故だかそういう些細なこだわりが、下らない事のように思えてきた。



じゃ、それで。

大盛り?



短く答えた大塚に、間髪入れずに美樹が確認を入れる。
大塚は眉をハの字に下げて苦笑すると、普通で。と付け加える。
生憎、喫茶キャッツアイのオーナー夫婦は、芸能人になど興味が無いので、彼を知らない。
今回の依頼人は珍しく、やけに線の細い今時の若い男の子なのね、としか思っていなかった。
数日後に、依頼が片付いた香に美樹は大塚の事を知らされるのだが、この時点ではまだ知らない。





その後、撩とミックが冴子経由で警察にリークした、例の大臣とその仲間の暴力団は、一斉に検挙された。
現役大臣の黒い付き合いと政治と金の問題は、まだ暫くは世間を賑わせるネタになりそうだ。
その政治家の息子で、大塚の幼馴染みでもある遊び人は薬物所持及び使用の疑いで逮捕された。
彼だけでなく、その周辺の大塚の仲間だった連中も数人、同様の事案で逮捕されている。
実は、大塚自身の身辺にも捜査は及んでいた。
冴子は一応、世間的な影響などを鑑みて彼の身柄を冴羽商事に委ねたものの、
100%信用に値する人物とは考えていなかったらしい。
しかし、彼が冴羽アパートに滞在している間に、
調べを進めて薬物と曰く付の連中との付き合いについては、完全に疑惑は晴れた。
大塚は今でも度々、若者に人気の盛り場のクラブに顔を出す事もあるらしいが、
それは以前の遊び方とは明らかに違っていた。
今の彼は、自分にとって何が一番大事なのかという事をちゃんと弁えている。
倉庫街での銃撃戦の翌日には、大塚の事務所のマネージャーが菓子折りを持ってアパートに現れた。




それから数日、休暇を終えたイケメン俳優が久し振りにテレビ画面に姿を見せたのは、
某国営放送の長編歴史ドラマの制作発表兼キャスト紹介の記者会見場での様子だった。
ほんの数日前まで、オフの彼が自分達のアパートで生活を共にしていて、
その時の彼とテレビに映る彼は、やっぱり纏うオーラが違うのね、と香は思った。
テレビの向こう側の彼は、輝いて見える。




午後のリビングで香が珈琲を飲みながら流し見していたニュースに、大塚が出てきて撩は訳もなく焦った。
マネージャーが彼を迎えに来る前の晩、
香が風呂に入っている時間帯に、撩は大塚と初めてちゃんと向き合った。
曇った夜空を見ながら屋上で、大塚は香に惚れたと、撩に言った。
冗談ではなく、本気で。
それでも、その気持ちは封印する、とも宣言した。

『だって、香さん。アナタの事しか見てないんだもの。』

そう言った大塚は笑いながら、
今後ラブシーンを撮る事があったらその時は、心の中で香さんを思い浮かべます。と、ぶっちゃけて、
撩に小突かれた。




でも、ほんとに、俺好きですよ、冴羽さんのことも同じくらい。前に言ったかもですけど。

いいよ、別に告白してくれなくても、俺ソッチの趣味ねえから。



撩がフンと鼻を鳴らして煙草に火を点けるのを、大塚は手摺に凭れて眺めた。
大塚は元来、悪い男に惹かれる傾向にあるのだろう。
捕まってしまった悪友のことも、
退屈で品行方正な私立の坊ちゃん高校の高校生活の中では、とても魅力的に映ったのだ。
何にも縛られず、自由に振舞って好きに生きているように見えたから。

今思えば、自由に見えて誰しも何かに縛られて生きているという事は、痛いほど良く解る。
悪友は法を犯して、これまで謳歌してきた奔放な生き方に強制的に終止符が打たれたし。
この目の前の、法の外で生きる彼と彼女もまた、
普通の人間には想像もつかない葛藤に縛られて生きているのだろう。
自由やアウトローに憧れる大塚健吾はしかし、
自分が如何にお坊ちゃんの甘ちゃんで、親不孝な息子だったのか、今回の件で重々自覚した。
大塚が一番驚いた事は、撩が自分の父親とコンタクトを取っていて、手紙を受け取ってきた事だった。
高校生の頃から、まともに口を利く事も無くなっていた父親の書いた文字は、堂々として立派だった。
両親が自分の仕事に関心を持ち、あまつさえ応援をしてくれているという事実は、
とても擽ったくて、本音を言えば飛び上るほど嬉しかった。



『だからお邪魔虫は退散しますから、サッサとやっちゃって下さいよ、香さんと。』

随分年下の生意気なクソガキに、突然そんな事を言われて、
煙草の煙が変な所に入り込んだ撩は、激しく咽込んだ。

香の知らないそんな出来事を思い出したから、焦ったのだ。
勿論、顔には出さない。
ポーカーフェイスが板に付いた撩には、動揺を見せない事ぐらい朝飯前だ。







なんだ、カオリン。イケメン君が帰っちゃって淋しい~~~てか。

ふふふ、別にそんなんじゃないけど。

けど?

ココにいる時は、年相応の男の子って感じだったけどさ、こうして見るとやっぱりカッコいいんだなぁって、ね。

はあ?あ~いう奴がタイプなんだぁ、ふ~~~ん。

だからっっ、違うってばっっ。そういうんじゃなくて。




茶化して混ぜっ返したのは自分のくせに、撩はこの遣り取りにイラツキを覚える。
どういう意味合いだろうが、香の口から他の男の評価を聞かされるのは胸糞悪い。



違うの、撩は全然解ってないもん。

なにが?

やっぱり、彼にとっては俳優って仕事が天職なんだなって思って。



人には与えられた天命があるのかもしれないと、香は常々思っていて。
それは撩を見ていてそう思うのだ。
撩は殺し屋だけど、それは撩の生まれついての宿命のようなもので。
それが良い事か悪い事かは解らないけれど、そんな撩が死ぬほどカッコイイと思うから。
今現在、撩の肩書を言葉にするのなら、殺し屋なんだろうけど。
それだけじゃないのだと、香は思う。
これまで生きて来た撩の人生があって、今の撩が居る。
人の生き様は、そのままその人を形作る。
その撩が魅力的だという事は、撩が殺し屋だからといって否定されるべき事では無いのだ。
そうなる為には、そうなるべくして生きて来なければいけないのだ。
それが大塚健吾にとっては俳優であり、冴羽撩にとっては殺し屋だったというだけだ。




やっぱり、本来その人が居るべき場所っていうのがね、ちゃんと用意してあるんだなっていうこと。

なんだよ急に、真面目かっっ。



香が回りくどく説明した、その人それぞれの天命についての見解に、撩は不覚にも動揺した。
それでも茶化す事しか出来ない意気地なしの男の事を、香はカッコイイと思ってくれるのだろうか。



だから、りょおも。 ちゃんとカッコイイよ。


次に出た香のその言葉は、撩の導火線に火を点けた。
脳内で、大塚に嗾けられたフレイズがこだまする。
冴子が口座に振り込んだ依頼料があるので、家計は潤っている。
香の機嫌も上々だ。
この会話の流れと雰囲気以上のシチュエーションが、この先いつ訪れるのかは解らない。
なんせ、万年金欠の冴羽商事なのだ。
1年365日の内、香がハンマーを振り回している日の方が多い。
珍しく穏やかな午後のリビングで、屈託なく笑う香を見詰めながらホンの数秒の内に撩は腹を決める。




ばぁか、解ってねえのはおまあの方だろが。

え?何を???



隣に並んでソファに座った香との距離を、撩は一気に詰めた。
首を傾げた鈍感な相棒の、柔らかな頬を両手で包む。



俺の気持ち。



そう言うと、次の言葉を継がせない勢いで、撩は香の唇を奪った。
おでこにキスしたり、ガラス越しにキスしたり、乙女チックにも程がある2人のこれまでを経て、
漸く直接の接触を試みた撩の理性は、弾け飛びそうなギリギリの所で一応保たれていた。
けれど余裕はない。
まるで貪るような口づけは、初めての香にとってはまさに大事件でしかない。
どの位そうしていたのか解らないけれど、
息継ぎが上手く出来ない香が撩のシャツを握り締めた感触で、撩は我に返った。

おでこと鼻先をくっ付けたまま、唇だけがほんの数㎝だけ距離を開ける。
火照った唇を香の荒い息が撫ぜて、撩はまた別の欲に絡め取られそうになる。
香は呆然と息を整えながら、それでもその撩の言葉と行為の意味はちゃんと理解していた。
こんな日が来れば良いなあ、なんて漠然と思ってはいたけれど。
こんなに唐突に訪れるなんて、何の準備も出来ていなかった事を香は痛感した。
だって、初めてのキスだというのに、互いにそれまで飲んでいた珈琲の匂いがするのだ。
歯磨きだってしてないのに、と思う香の考えはまだまだ生温いという事に、
この後、時間をかけて香は身を持って撩に教え込まれる事になる訳だけど、
それはまだ知らなくても良い事だったりする。



どうする?


少しだけ掠れた撩の声がセクシーだな、と香は考えていた。
撩の唾液で濡れた唇に当たる撩の息が、まるで熱波のように熱を帯びている。
痺れた唇は熱いのに背筋はゾクゾクしていて、香には撩の言葉の意味を理解する余裕が無かった。



え?

何処でする?俺の部屋?お前の部屋?それとも、このまま?




撩の言っている意味が解らない。
撩の手が熱い。
ていうか、撩の表情が変だ。いつもと違う。
するって、



・・・何を?



虚ろな瞳でそう訊ねる香に、撩はニヤリと意地の悪い表情をして、香の耳元に唇を寄せる。
香にカッコイイだなんて言われて虚を突かれた撩だけど、
濃厚なファーストキスをぶちかまして、完全に事は撩のペースに持ち込んだ。
このまま初めてのきっかけは、強引にでも撩がリードしなければきっと、
2人の事だからいつまで経っても進展は望めない。
腹を決めた男の開き直りは、無敵なのだ。
耳に息を吹きかけるように、撩は優しく囁いた。



決まってるだろ、モッコリだよ。




言葉は全くオブラートに包まれてはいないけど、それが2人らしくて良いと香は思った。
やっぱり、撩がこうしている事も、香が撩の傍に居る事も。
こうして思いを通わせている事も、胸がときめく事もきっと。
なるべくしてなった2人の運命のような気がして、香は漸く緊張した両腕で撩を抱き締めた。




(おしまい)






ようやく20万HITの、ゅまま様のリクエストを完結する事が出来ましたぁぁぁぁああ(汗)
すみません、ゅまま様。時間かけ過ぎちゃいましたm(_ _)m
もう呆れられて、見限られてるかもしれませぬが、宜しかったら読んで下さいませよ~~~
このお話のイメージソングは、ワタシの中ではタイトルの通り、
ローリングストーンズの、『(I can't get no) satisfaction』です。
満足なんて出来ねえよ、我慢ならねえ。っていう、
リョウちゃんのもどかしさや登場人物たちのそれぞれの背景をイメージしながら、この曲を選びました。

あと、最終話に場面としてブッ込んだキャッツのナポリタンは、言わずもがな(笑)
ドラマAHでの、上川さんと三吉彩花ちゃんのナポリタンのシーンに不覚にも萌えたからです(笑)
あれをCH原作の北条先生の絵で、リョウちゃんとカオリンで再現して欲しいという己の願望から、
最終話に盛り込んでみました。完全にお遊びです(*´∀`*)ノシ
ゅまま様、リクエストこんなんですが、お気に召して戴けたでしょうかぁ~~~~。
mosura 様、ご指摘ありがとうございます( ´∀`)早速訂正しましたぁ(汗)
助かりましたっっ