※基本スペック※必読※

このお話しは、パラレルです。
設定は以下の通りです(*´∀`*)ノシ
注意書きを読まれて、OK読むぜぃっっ!!と、思われた方のみ次へお進みくださいませ。





冴羽撩・・・    何でも屋。(実際は、始末屋。出来ない事無し。)
           訳有って、現在進行形で幽体。どうやら“神様”曰く、今の状態を表せば“天使”らしい。
           無類の女好き、節操は無い。

槇村香・・・    悩み多き普通のOL。仕事は出来ない。いつもミスって落ち込んでいる。
           数年前に兄を亡くして以来、天涯孤独。
           親友は、同僚の北原絵梨子。恋人無し。

ミック・エンジェル・・・    撩の共同経営者。何でも屋。(実際には、始末屋。基本、出来ない事無し。)
                 座右の銘『金の切れ目が縁の切れ目』、無類の女好き。
                 金の折り合いがつけば、どんな依頼でもウェルカム。

自称:神様・・・  ひょんな事から死んでしまった撩の前に出現した、不思議な老人。
           職業は、神様。
           ビジュアル面は、CH原作の“教授”に酷似している。
           尚、本パラレル世界に於いては、“教授”は居ません。



また、パラレル書こうと思いまーす。
よろしく(*´∀`*)ノシ

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第1話 冴羽撩、死す。

オーマイガッッ
大丈夫かっっ、リョウ、おいっっ  リョオ~~~~










冴羽撩が最後に聴いた声は、相方のモノだった。
奴とは長い付き合いだった。
初めて逢った時、互いに互いの命を狙い合う殺し屋同士だった。
それが紆余曲折を経て(因みに、この紆余曲折とやらは長くなるのでこの際、割愛する。)、
今は共同経営で万屋などというものをやっている。






否、やっていた。
2人でやっていた事務所の名は、『冴羽商事』という。
どちらかといえば、撩の名前の方が暗黒社会では売れているので宣伝効果があるからだ。
主に、クライアントとの折衝担当を、ミック・エンジェルが。
実働を撩が担っていた。
なんでもやる。
殺しから、迷い猫探しまで。
金の折り合いがつけば、OKだ。と言うのが、ミックの口癖だ。
発端は、しょうも無い仕事だった。

撩は昔からついてない男だった。
両親の顔は憶えていない、撩は自分の名前を辛うじて覚えたばかり位の頃に、飛行機事故に遭遇した。
両親はその時、死んだ。その位、ついてない。
だから撩は、もしも自分が死ぬのなら、もう少しなにかドラマチックな展開があるのだろうと思っていたのに。
(殺し屋に命を狙われてとか・・etc)
しかしそれはまさに、青天の霹靂だった。

行きつけの飲み屋のママに頼まれた時は、二つ返事で引き受けた。
場末のスナックの照明全般を、LED電球に付け換える。
りょうちゃんの所、そういう仕事も出来るの?と、フェロモンを垂れ流しながら訊ねるママに、
撩は胸の谷間に誘われるように吸い寄せられながら、深く頷いた。
不況の煽りを受けて、それまで改装などの内装工事を頼んでいた工務店が倒産したらしい。
半日ほどで終了する予定だった。
開店前の派手な内装の店内で、撩とミックはツナギを着て脚立に乗って電球を換えていた。
意外と、照明の数が多かった。多用する間接照明などのせいだ。
死ぬ予定では無かった。
それはそうだ、人間誰しも自分が死ぬ事など意識して生きてない。
ぐらついた脚立から、リノリウムの床に頭をぶつけて死ぬまでは、あっという間の出来事だった。
冴羽撩は、死んだ。
























ホレ、お前さん。
いつまで寝ておる。
大概で起きんか。




その声で目覚めた撩が居た場所は、新宿の夜景を一望できる超高層ビルの屋上の、手摺の上だった。
幅にしてせいぜい30㎝程のコンクリートの上で、爆睡していた。
撩は驚き過ぎて、もう少しで落下するところだった。





おおうわぁっっ、死ぬっっ(汗)

安心せい、お前さんはもう死んどる。




確かに何だか体が軽い気がしないでもないと、
撩は取敢えず、もう少し安全な場所(屋上の上だ)に降り立った。
何故だか目の前には、ちっさい爺さんがニコニコして立っている。
爺さん曰く、もう死んでいるから万が一落ちても大丈夫らしい。
非常に毛量の多い白髪に、丸眼鏡、白衣を身に纏った彼が何者なのか。
一応、撩は(元?)殺し屋だ。
不穏な気配には過敏なタイプだけど、彼からは何の怪しい気配も感じない。




てか、アンタ誰?

ん?儂? 儂は、神様じゃよ。無礼な振る舞いは、赦さんぞ?ふぉふぉふぉ。

はぁ?



そこで撩は、確か自分が脚立から転落した事を思い出した。
ミックが焦って呼び掛けている声が遠くに聞こえた気がしたけれど、
そういえばその後どうなったのか、何一つ記憶にない。





じゃなに、俺、あん時死んだの?

うん、そう。

・・・・・・俺。

ん?

幽霊なの?





そう言った撩に、自称:神様を名乗る爺様は破顔した。
そして、何が面白いのか笑みを含んだ声で、
幽霊というよりもむしろ状態としては“天使”に近い者だと説明した。
事情があって、撩が地獄の門を潜る寸での所で、自称:神様が呼び戻したというのだ。
あと少し爺さんの登場が遅れていれば、撩はまず手始めに釜茹でゾーンに落とされるとこだった。




良かったのぉ、大火傷する前で。



爺さんはそう言ってニッコリ笑うけど、撩は何かの間違いだろうと思っていた。
この俺が、天使だなんて。
死神とは呼ばれた事があっても、天使だなんて。
どうやら死後の世界にも、手違いという事があるらしい。
撩はもう一度、手摺の外を眺めてみた。
新宿の街のネオンと、ヘッドライトの河の流れはいつもと同じだ。
この高層ビルの屋上に、撩は生きていた頃よく訪れた。
この場所で、穢れた自分を慰めていたのだ。
人間など、ここから見下ろせば小さな塵のようで、
街は魔物のように蠢いては欲望を呑み込んで無限に膨らみ続ける。
この街が好きだった。
この街こそが、自分の街だと思っていた。






俺、死んだんだ。


ポツリと呟いてみても、言葉はプカリと宙に浮いたまま返事は無い。
冴羽撩は、死んだ。





(つづく)

第2話 守護天使

大丈夫? 香、気にしちゃダメよ?


そう言って社員食堂の生温いほうじ茶を湯呑に注いで持って来てくれたのは、絵梨子だ。
香は眉をハの字に下げた情けない表情で、ありがとう、と言いながら受け取る。
絵梨子は、必要書類をシュレッダーに掛けたくらいでクヨクヨする必要は無いと、
些か香に対する肩入れの強すぎる慰めの弁を述べるけど、どう考えてもクヨクヨする場面だと香は思うのだ。
もう新入社員でも何でも無い冴えないOLが、新入社員でもやらかさない様な致命的なミスを犯しがちだ。
落ち込みもする。
が、しかしクヨクヨしていても、甘辛く煮付けた鶏そぼろの乗った弁当は旨い。






絵梨子、今夜ひま? ごはん行かない?

・・・申し訳ない、今日はアイツとデートなの。

そっか、ううん、全然。こっちこそゴメン、急に。




香と絵梨子は高校生の頃からの親友でもあり、同じ会社の同じ部署に勤める同僚でもある。
会社の業績は、至って順風満帆である。
大手とまではいかなくても、中小企業としては堅実な成長を遂げているそこそこ名のある会社だ。
良く言えば古風、平たく言えば昭和臭半端無い事務服が制服だ。
絵梨子には、3年前から付き合っている4歳年上の彼氏がいる。
出逢ったきっかけは合コンで、
その時の合コンには香も参加していたらしいのだが、香にその時の記憶はない。
合コン後暫くして、あの時のあの彼と付き合うことにした、との絵梨子の報告にも。
どの時のどの人の事を言っているのか解らないと答えて、呆れられたという経緯がある。

そもそも香には、色恋沙汰に非常に疎い節がある。
勿論、25歳現在、彼氏いない歴25年目に突入している。
そんな親友の事を、北原絵梨子は実の家族以上に心配している。
絵梨子の家族は今の所両親だけで、両親ともに未だ現役世代でバリバリ働いている。
だから絵梨子の心配事といえば主に、この目の前の何処か頼りない親友の事なのだ。
仕事の事はこの際、もういい。
彼女はやれば出来ない子では無いのだ。
ただ、大事な局面で極度に緊張をすると致命的なミスを犯すという傾向がある。
だから、掛ける言葉を慎重に選ぶ事が必要とされる。
叱責は上司から充分受けているので、絵梨子に必要とされるのは、ただただフォローをする事だけである。
現に、自分達の部署を統括管理する直属の上司(課長だ)から、
北原君、槇村君の事フォローしといてくれよな?と、懇願された事は今まで度々ある。
あくまで上司の叱責は、部下に対する信頼の裏返しだと取れなくもないと、絵梨子は理解している。

だから心配の種は、仕事の事では無い。
それは主に、恋愛面の事である。
絵梨子と付き合って3年目になる合コンで知り合った件の男、実は彼が当初狙っていたのは香なのだ。
傍から見てもあからさまな程、彼は宴席で香に猛アプローチを試みていた。
それに対して、あくまで常識の範囲内で感じよく応対していたこの目の前の親友は、
それが彼の好意をアピールする為の戦略だということ自体、気が付いていなかったのだ。
それ以降、獲物の親友という立場の絵梨子へ、彼からのSOSが発せられ、
絵梨子をも巻き込んであらゆる角度からの攻勢が試されたものの、何の成果も得られず、
精も根も尽き果てた2人が、
半分、諦め混じりにまるで心を通い合わせた戦友の如く絆を深めるのに、時間は掛からなかった。
それから3年、槇村香の彼氏ない歴は今年もまた1年更新された。
絵梨子の知っている限り、香は未だに初恋も未経験な筈だ。





ねぇ、香。 一緒に行く?ごはん。 多分、アイツもOKだと思うけど。

あはは、良いよ~~。邪魔しちゃ悪いし。幾ら鈍いっていっても、そこまで空気読めなくないから。



苦笑する香に、絵梨子は驚いた。
一応、自覚はあったらしい。
自分が極度に鈍いということに。





そんなOL二人のなんの変哲も無い日常が繰り広げられる、前の晩。
とある古びた賃貸マンションの前の街路樹の枝の上に、
2人の人外が腰掛けてそのマンションの一室を覗いていた。




彼女が、槇村香ちゃん(25)、都内の某食品メーカー勤務のOLさんじゃ。可愛いじゃろ?

うん、想像以上に。




そのビルは、若い女子にはあまりウケの良く無さそうな古びたアパートだった。
一階には弁当と総菜を量り売りする店がテナントで入り、2階には税理士事務所が入居している。
3階から上は住居アパートとして賃貸されているようだ。
彼女の部屋は、401号室。南向きの角部屋だ。
地下鉄の駅からは、徒歩10分以内といった所か。
因みに、2人の腰掛けた街路樹の後方には、緑の生い茂る公園が広がっている。
この部屋は元々、彼女が兄と一緒に暮らしていた部屋なので、女子の独り暮らしにしては結構広い。
怪しい男(死に損ないの天使)と、自称・神様を名乗るじじいに覗かれているとも知らず、
彼女は日常生活を送っていた。

栗色の癖毛のショートヘアーをパイル地のヘアバンドで押さえて、パジャマ姿で酎ハイを飲んでいる。
テレビを観ているらしいけれど、撩の居る場所からは何を観ているのかまでは判然としない。
酎ハイの銘柄は、オッサンに人気のアルコール度数と炭酸強めのヤツである。
間違っても、ほぼジュースじゃないかと言いたくなるような女子女子したモノ(ほろよいなんたらとか・・etc)では無い。酒の肴は炙った竹輪を斜め薄切りにして、一味マヨネーズをかけたものである。
中々、好感が持てる。と思ったのが、撩の第一印象だ。

時を遡る事、またその少し前。
神様と名乗るその老人は、超高層ビルの屋上で撩にとんでもない事を発表した。





んで?地獄の入り口からギリギリのとこで俺を呼び戻した、深い事情ってなんなの?



そう訊ねる撩に神様とやらが説明した事を要約すれば、撩にはまだ死なれては困るという事だった。
撩だって死ぬつもりなど無かった。
不慮の事故に過ぎない。
一応、人間界には個人個人それぞれに定められた寿命というものがあるらしい。
冴羽撩という男は、神の手元にある資料によれば、
まだまだ寿命を全うする前に脚立から転落したらしい。
完全なる、うっかりミスである。




でもなぁ~~、俺ぶっちゃけ別に俗世に未練なんてこれっぽっちも無いから、別に良いよ。手違いでも。




そもそも、撩は殺し屋だ。
これまで、何人もの人間を殺めてきた。
自分だけがのうのうと長生きしようとも思っちゃいなかったし、地獄に堕ちるのが妥当だと思っていた。
自分が死んで悲しむ人間が居るとも思えなかった。
けれど、神様のいう事には。
撩は実は選ばれた人間だったらしいのだ。
撩が生まれる何百年も前に、これも何処かの(撩には解らない)世界の手違いで、
この先の未来、本来なら寿命を全うする者と途中で死ぬ者の情報が錯綜した時代があったというのだ。
これで色んな事が混乱した。
戦争もあった。戦争はその混乱の最たるものだった。
本来なら死ぬ運命にあった煽動者はのうのうと肥太り、
罪の無い人々が寿命を全うする事無く死んでいった。
そういった時代の歪の中に生まれる不具合を調整する役目として、
数百年に一度、撩の様な使命を負った者が誕生するらしい。
だから、撩の罪は罪ではない、というのが神様の理屈らしい。




・・・てか、不具合ひどくね?これが自動車業界なら、世の中全部、リコールよ?

まぁ、確かに。 改めて、お詫び申し上げる。それもこれも儂の不徳の致す所じゃ。





言葉とは裏腹に、全然悪びれた様子の無い老人は、
どうやら撩を死ななかった事にして復活させたいらしい。
それでも、神を名乗る彼にすら、不可能な事は沢山あるらしい。




お前さんには、とある人物の守護天使になって貰いたんじゃ。

は?どういうこと??




撩は生前、暗黒社会の同業者たちに畏怖の念を込めて、黒い眼の死神と呼ばれて来た。
神様の理屈に準えると、撩の所業が不具合の調整作業だったとして、
愚にもつかない愚かな輩を排除するのが、撩の使命だったとすると、
死んでしまった今となっては、アチラ側で今まで通り死神業務を全うするのは困難な状況なので。
代替案として、
死ぬ予定には無いのに近い将来、危機に面している善良な市民を警護する役割を付与された。
どうやら警護対象者を死の危機から回避して上手く助ける事が出来れば、復活も夢では無いらしい。






撩がほんの少し前に、老人から聞かされたこの世の重大な真理に思いを馳せていると、
木の枝の上に並んで座った、自称・神が楽しそうに囁いた。




お前さんの事は、何でもお見通しじゃ。

ななな何だよ、急に。

お前さん、あの子、好みのタイプじゃろ?




神様という割には、厭らしい笑い方が気になるけれど。
まぁ、それは100%図星には違いなかった。
出来れば、死ぬ前に出逢いたかったというのが本音だ。
老人曰く、モッコリちゃんを護るなら勇気ヤル気元気100倍だろうということだ。
どうやら気を利かせてくれたらしい。
変なじじいの割にはイイ奴じゃないか、と撩は状況を顧みる事無く、少しばかり神様を見直した。

木の枝から、もう一度401号室を覗き見る。
彼女は2本目の酎ハイを開ける所だ。
守護天使って何すんの?と、問うた撩への答えは、ただ1つ。
こうして彼女を四六時中監視する事だという。
そうすると近々、彼女に危機が訪れるらしい。
それから彼女を救う事が、撩に課せられた使命だというのだ。









でもま、悪い仕事じゃねぇな。ムフ。



撩が厭らしい事象を念頭に置いて、脳内でそう呟いた時。
神様は本当に全てお見通しだったらしい。
撩の淡い期待は、脆くも崩れ去った。







でも一応、言っとくけど。
彼女の意に沿わないパーソナルスペースには、結界が張られておるから。
覗きは無理じゃよ(笑)




なんだよ、そのご都合主義は。と、撩が木の上で神様に苦情を言った時には、
もう彼は居なくなっていた。
どうやら、守護天使とかいう新しい役目は、多少煩悩の方も制御しないといけないらしい。
撩は明るい窓の中で、テレビを観ながら爆笑している彼女を見詰めた。
彼女がこの数時間後の翌日午前中に、
仕事上の大事な書類をシュレッダーで裁断してしまう事は、まだ誰も知らない。
その危機を回避する事は、守護天使の撩にも出来なかったようである。
兎にも角にも、こうして冴羽撩(天使ver.)と槇村香(自覚なし)に関する、神様の契約が結ばれた。





ヨロシクな、香ちゃん。



撩が木の上からそう言ってみても、まだ香には届かない満月の夜だった。



(つづく)



第3話 彼女の日常 

わんわんわんわんわん

(・・・やたら、吠えられてるんだけど。見えてんのか、コイツ。)









早朝の住宅街に、犬の吠える声が響き渡る。
時刻は、7時43分。
もうすぐ、槇村香はこのアパートの下へと降りて来るはずだ。
前の晩にベランダ側の舗道の街路樹の上から覗いた時に閉まっていた惣菜屋は、
朝から仕込みをやっている。
その店には1匹の看板犬が居る。デカいダルメシアンだ。
さっきから、撩が佇む方向に向かって懸命に吠えている。
どうやら獣には何か感じるものがあるらしい。




こらっっ、フレール!! お黙り!!



その店の初老のおかみさんが、店の中から犬を叱りつける声がする。
どうやら、あのおばさんには撩の姿は見えていない。
昨夜の爺様の説明によれば、撩の姿を認識できるのは香だけらしい。
先程から撩の目の前を、スーツ姿のサラリーマンやOLが通り過ぎていくけれど。
誰一人、撩に注意を払う者はいない。
香は毎朝、大体7時45分頃にココを通る。
身支度中の彼女を覗くのは気が引けるので、撩は一応、階下で待つ事にしたのだ。




おはよう、フレール。どうしたの?今日は騒がしいのね。



そう言って現れたのは、槇村香だった。
カジュアルな紺色のニットにチノのカプリパンツを穿いて、白いフラットシューズを履いている。
柔らかそうな革のバッグを肩に掛けて、
薄っすらと施した化粧は、昨夜の彼女よりも彼女を数倍魅力的に見せている。
香を見付けるなり、それまで撩に牙を剥いていた看板犬は、
ぶんぶんと太い尻尾を千切れんばかりに振って目の前のモッコリちゃんに媚びている。
アイツは雄だな、と撩は確信した。
撩というこの世のモノで無い、かといって完全にはあの世のモノでも無い存在は、
今の所、誰に気付かれる事も無く対象者の監視についている。

そうなのよー、なんか今日はやけに煩いのよ。と眉を潜める惣菜屋の女主人と、
香は犬の頭を撫でながら、軽く世間話をを交わす。
一頻り女同士の会話が終結するまで、撩は距離を取って様子を窺う。








香は8時2分の地下鉄に乗り込み、8時19分に会社に到着し制服に着替え、8時30分から業務に就いた。
そして10時27分に、それは起こった。
香が補佐を担当している営業社員が2日前に取り纏めた取引の契約書の一部を、
香は誤ってシュレッダーにかけてしまった。
幸い、同僚がそれに気が付き、事無きを得たようだったけれど、香は酷く落ち込んでしまった。
上司からコンコンと説教され、
昼休みに親友の北原絵梨子に慰められ、
終業間際に件の営業担当者からも励まされ、17時に定時を迎えて制服を着替えた。

一緒に更衣室を出た北原絵梨子は、会社の入り口で香とは反対方向へと消えた。
どうやら彼女は今夜、デートらしい。
香はそんな絵梨子の背中を数秒見送ると、反対側へと歩を進めた。
地下鉄を降りた駅は、朝乗り込んだ駅のひとつ手前の駅だった。
その駅のすぐ傍の居酒屋で、香は夕飯を食べた。おひとり様というやつだ。
時刻はまだ宵の口、18時台である。

お通しは、茄子の煮びたし。
数品の料理と生ビールを中ジョッキで3杯、
時間をかけて平らげながら、隣に座ったサラリーマンに声を掛けられて楽しげに会話する。
きっと、彼女には何の意味も無い他愛のないやりとりも、男の方にしてみれば下心満載である。
それでも彼女は天然なのか、正真正銘小悪魔なのか、男の物欲しげな視線など物ともせず。
一杯だけご馳走になったビールの礼を言い、会計を済ませて店を出た。
時刻は、20時38分。

表の通りはもう暗い。
香はアパートまでの道のりを歩く事にしたらしい。
撩はゆっくりと、その後ろを歩く。
朝から香を観察してみて、今最も足取りは心許ない。
それでも、撩の住み慣れた新宿の街に比べれば格段に治安の良いエリアに於いて、
若い女が千鳥足で歩いても、なんら危険は孕んでいない様子だ。

香は途中、コンビニに立ち寄った。
その様子も、撩は静観の構えで観察する。
今日は、守護天使ミッション第1日目なのだ。
日頃の彼女のそのままを見せて貰う事にする。
籠の中には、アサヒスーパードライ(生)350ml×6本パックと、燻製玉子1個に、柿の種ハンディパック1袋。
ほぼ、オッサンのセレクトである。
この後に及んで、まだ飲むつもりだろうか。と、撩は訝しむ。

コンビニを出るとアパートはもう目と鼻の先の距離にも関わらず、槇村香はまたしても予想外の行動に出る。
アパートの裏手に位置する公園へと入って行ったのである。
公園の中央には、野鳥も飛んで来る大きめの池がある。
その池を囲むように配置されたベンチのひとつに腰掛けると、香はおもむろにビールを飲み始めた。
ボンヤリと池を見詰めながら、ビールを飲む。
撩はこの時には、かなりの近距離で彼女を観察した。
まだ今は、どの程度彼女の日常生活に干渉して良いものか考えあぐねているというのが正直な所だ。

ちょっとしたハプニングが起きたのは、香が1本目のビールを8割方飲んだ辺りだ。
アテに買った燻製玉子の真空パックを開けた時、手元の覚束ない酔っ払いの彼女の掌の中から、
玉子はつるりと飛び出した。

玉子を追う形で彼女の身体が傾いたのは、池の方角だ。
残念な事に、池の周りにこれといって柵は無い。
彼女はそこそこ酩酊している。
撩は、彼女の自宅周辺にも関わらず、この池に関してまだリサーチ不足だった。
真っ黒く不気味に波立つ水面からは、その深さは判然としない。
このまま行けば、彼女は確実に池に嵌り、深さによっては溺れる可能性もある。





あぶないっっ


撩が声を発した瞬間、その輪郭は薄ぼやけたものからクッキリしたものに変わる。
撩は久し振りに、自分に身体感覚の戻ってくるのを感じる。
その腕はシッカリと彼女の手首を掴む。
けれど、どうやら一足遅かったらしい。
完全に体勢を持ちこたえるのが不可能な状態と化した彼女と共に、池に嵌りながら。
撩は脳裏で、あ~こういう感覚なんだなぁ、と天使になった自分の身体の使い方を覚える。











・・・ごめんなさい。



撩の目の前で、香がシュンと項垂れている。
撩はこの日一日香の生活を垣間見てきたけれど、実質これが2人の初対面である。
結果から述べると、玉子は池の中に落ちて完全に見失った。
池の方は案外、浅かった。
ずぶ濡れになった香は、革の鞄の中からハンカチを取り出して無駄に髪の毛を拭き、
撩はずぶ濡れのジャケットを脱いで、絞っていた。
香があんまり申し訳なさそうにしているから、撩は思わず吹き出してしまった。




あ、あのもし良かったら、飲みません? お詫びに。



そう言って差し出された缶ビールを、撩は受け取ってベンチの香の隣に腰掛けた。
何となく、この女に警護が必要な理由が一日様子を見ただけで解るような気がした。
危なっかし過ぎる。
いつもこんななのだろうかと、撩が考えていると。
まるでその撩の思考を見透かすように、彼女が呟いた。




いつもはこんなに飲まないんですよ? 今日はその、たまたまで。




会社で嫌な事があって、と眉をハの字に下げた彼女に、
撩は心の中だけで、知ってる。と、返事する。
知っている。
彼女が失敗をやらかして大目玉くらった事も。
こんな日に限って親友はデートなので、愚痴を聞いて貰う相手が居なかった事も。
香は気付いて無いけれど、撩はずっと見ていた。




ま、そういう日もあるさ。



撩がそう言うと、彼女はニッコリと笑った。
本当に花の綻ぶような眩しい笑顔で笑うから、撩は少しだけドキドキした。
無自覚ならこの女、危険すぎる。




あ! おつまみ食べましょ。おつまみ。



香はそう言うと、コンビニのビニール袋を物色した。
玉子は池の中に落ちたけど、もうひとつ、柿の種がある。
彼女が楽しげに袋を開封し始めて、撩はもう既に嫌な予感に駆られていた。
多分、彼女は極度に不器用なんだと思う。
何がどうしてそうなるのか甚だ疑問だが、彼女は柿の種をそこら中にぶちまけてしまった。

何が可笑しいのか、2人ともビショ濡れだったし、香に至っては泥酔しているし、
変なテンションだった。
2人はケタケタ笑いながら、池の畔でビールを飲んだ。
残念ながら、おつまみは全滅なのでひたすらビールだけを飲んだ。
撩が4本飲んで、香が2本目の半分を飲んだ所で限界を迎えた。
呂律の回らない小さな声で、
空回りしちゃうんです、とか
自分でも嫌になっちゃう、とか言いながら。
撩の肩に小さな頭を預けて、静かに寝息を立て始めた。




ったく、しゃあねぇな。



初日からこんなで先が思いやられると、撩は思う。
正直、まだ何処まで介入する事が正しいのか、撩には解らない。
けれど多分、何か間違っているとすれば、きっとあの爺さんがまた現れて何らかの指示があるだろう。
取敢えず、うら若き婦女子をこのまま公園のベンチに放置するわけにはいかない。
撩の姿は、香以外の誰にも見えないのだ。
一見すると、その状況は。
香1人がベンチで泥酔して寝込んでしまっている様にしか見えない筈だ。
危険すぎる。

公園から徒歩1分の彼女のアパートの401号室まで、撩は彼女をおんぶした。
ニット越しの背中に当たる柔らかさには、気が付かないフリをした。
彼女と自分の棲む世界は、違い過ぎるのだ。
彼女に触れている自分は実体を持たない幻で、彼女を護る存在なのだ。
煩悩を抱いている場合では無い。





彼女の寝室は、至ってシンプルだった。
室内は清潔なリネンの薫りがし、シーツの乱れひとつ無く整えられていた。
柔らかなベッドの上に彼女を降ろすと、
彼女は羽根の詰まった枕を抱き込んで、更に深い寝息を吐いた。
撩は彼女のベッドサイドに置かれた写真立てを摘んだ。

今の彼女より幾らか幼い彼女(恐らくは高校生くらいだろう)と、肩を組んで笑う眼鏡の男性。
楽し気で親密な空気を纏った写真。
それは一見して、家族だと解る。
撩には、死ぬ前も今も、決して持ち得ない温かな世界。
愛されて生きている人間というのは、時として彼女のように他人を無条件に信用してしまえるんだろうか。
それは果たして、幸せな事なのか不幸な事なのか。
撩にはよく解らない。








それは、彼女の死んだ兄さんじゃ。



聞き覚えのある皺枯れた声だと思った瞬間に、撩の身体はアパートの外に居た。
例の街路樹の枝の上。
撩の隣には、自称・神様の老人が昨夜のように並んで座っている。
つい先程まで生きている時となんら遜色無く感じられていた身体感覚は、
またしても不確かなフワフワしたものに変わっていた。
撩はマジマジと老人の顔を覗き込む。



・・・死んだ、兄。

うん、香ちゃんの両親は彼女が幼い頃に死んでの。歳の離れた兄さんが親代わりじゃ。

でも、死んだ。

そう。



急にヘヴィな情報を一気に聞かされて、撩は少しだけ戸惑った。
そういう事は昨夜の内に、予備知識として教えといてくれよと思う。
香が撩の好みかどうかとか、覗きは出来ない仕様になっているとか、しょうもない話しじゃ無くて。




でもな、その兄さんなんじゃが・・・

ふむ。

今は生まれ変わって、意外と近くで元気にしておる。

は?どういうこと???





神様は、アパート1階のシャッターの閉まった惣菜屋を指差した。





あの店の看板犬、あの犬は生まれ変わった香ちゃんの兄さんじゃ(笑)

ええええええええええええええええぇぇぇ




撩の予想通り、アイツは雄犬だった。



(つづく)

※ Frères(フレール) ・・・ ダルメシアン(♂・6歳) 生まれ変わった香の兄、秀幸。
                  フランス語で“お兄ちゃん”という意味の名前を持つ。



第4話 素性

槇村香が非常に慌てている。
会社が休みのその日、彼女は親友と待ち合わせの約束があるにも関わらず、
結構ギリギリの時間まで家事に勤しんでいる。
独り暮らしとはいえ、平日に溜め込んだ掃除や洗濯で週末は意外とやる事が多いらしい。
その様子を、撩は木の上からいつもの如く観察する。



ここの所、撩は今の自分の境遇に随分慣れてきた。
改めて考えてみると、死後の世界というものを生前に想像した事が無かった。
撩は死ぬ間際、作業用のツナギを着ていた筈だ。
何しろ、開店前のスナックの電球を換えている最中に死んだから。
それなのに、今の撩は一番よく着ていたヒッコリーデニムのジャケットに、
黒いスリムパンツ、赤いTシャツを着ている。
別に頭の上に輪っかがある訳でも、羽根が生えている訳でも無い。
煙草は吸いたいと思ってジャケットのポケットを探れば出て来るけれど、常に入っている訳では無い。
そもそもあまり、吸いたいとも思わなくなっている。
この辺のシステムがどうなっているのかは、いまいち不明だが撩はあまり考えない事にしている。
多分、意識の問題の様な気がしている。
生きている時には、大食漢だったのに不思議とお腹も空かない。
食事も摂る必要が無いのだろう。
それでも、意識的に摂取する事が可能だという事に気が付いたのは、
数日前、酔っ払った香に勧められてビールを飲んだ時だ。
こうしてフワフワと木の上から香の様子を眺めている時と、“意識的”に“能動的”に活動している時との、
自身の心身の使い分けの様なものも、数日もすればコツが掴めた。
この理屈と照らし合わせれば、
必要に応じて愛用していたコルトパイソンもジャケットの内側から出せるだろう。
まさしく、ご都合主義の権化の様な世界だ。
今のところ、槇村香のガードにコルトパイソンが必要になるような事柄が発生するとは思えないけれど、
神様が直々に彼女のガードを押し付けてきたからには、何があってもおかしくは無いだろうと撩は考える。




初めの内こそ、外出の身支度を整える香を眺める事は、何となく遠慮していた撩だけど。
ここ数日はそれでも木の上から、香の身支度が整うのを待っている。
この距離なら、奴も警戒範囲では無いのだろうと、撩はアパート一階を見遣る。
店先に繋がれて退屈そうに寝そべる彼女の番犬が居る。
あの店の営業時間中にはずっとああしている奴に、気付かれると100%吠えられるからだ。

待ち合わせ時間の30分程前に、漸く香が玄関を出た。
所要時間を考えると、結構ギリギリである。
彼女はあまり高いヒールが好きじゃないのだろう。
大抵は、カジュアルなフラットシューズを履いている。
確かに彼女はスラリとした長身で、撩はそれが悪く無いなと思うけど、
恐らく彼女自身はそれをコンプレックスに感じているようだ。
身支度をしている彼女を見るのは、楽しい。
慌てていながらも、着ていく服を迷いながら選ぶ彼女は可愛いから。


待ち合わせの場所まで足早に進む彼女の傍に、撩も常にいる。
彼女は気付いて無いけれど、この数日で撩は彼女の事を随分知った。
一階の惣菜屋を営む夫婦とは顔見知りで、例の看板犬を香は誰よりも可愛がっている。
撩は守護天使という職業(?)柄、香以外のアパートの住人もよく見掛けるけれど。
朝の出勤時間帯の忙しい時に、アイツを構ってから出掛けるのは香だけだ。
仕事で自信喪失した時に、家に帰る前に公園の池の畔で一息吐くのも、香の習慣のようだ。
彼女が立ち寄るコンビニも、彼女の生活パターンも、彼女の好きな池の反対側のパン屋も、
撩はもう覚えた。
彼女は基本的に真面目で、勤勉で、几帳面で、優しくて、時々斜め上行く大失敗をやらかしたりもする。
そそっかしいし、プレッシャーには非常に弱いというのが弱点だ。




チッッ、暴走車(ばか)がっっ



撩は思わず舌打ちした。
香が慌てていて、若干注意散漫だった事を差し引いても、
その突っ込んで来た車に、100%落ち度があった。
明らかな信号無視である。
一瞬、驚いて足の止まった香の腕を掴んで、撩はそのまま横断歩道を渡り切った。
背後ではけたたましい急ブレーキの音と、ブレーキパッドの焼けるゴムの匂いがした。
一瞬だけざわついた雑踏も、次の瞬間には他人事のように元のテンションに戻ってゆく。




だいじょうぶ?


撩の声に、呆然としていた香はハッと我に返る。
撩を見上げると、まん丸く目を見開いた。
何かを思い出したらしい。



あの、アナタは確か。この間・・・池で・・・


そこまで言い掛けて、香は真っ赤になった。
酔っ払って池に嵌った事を思い出したのだろう。
それでも、酔い潰れて部屋まで連れて帰って貰った事までは、憶えて無いだろう。



ん、あぁ。まぁ、そんな事もあったね(苦笑)

すすすすみませんっっ、重ね重ね助けて戴いて。



そう言って、香は深々と頭を下げる。
まさかあの日以来、ずっと傍で観察されているなんて思いもしていないだろう。



いや、別に大した事じゃないし・・・

あのっっ、宜しければお名前教えて頂けませんかっっ

へ?

お名前・・・

ああ~~、え~~と・・・サエバと言います。はい。

サエバさん、ありがとうございます。

あ、いや、どう致しまして。




妙にこそばゆい。
果たしてこの場合、自分の名を名乗っても良いものか撩には判断しかねたけれど、
かと言って適当な仮名が、サッと思い付く訳も無く名乗ってしまった。



ご近所の方ですか?

は?

あ、いえ、家の近くで2度も助けて戴いたから。ご近所の方かなぁ、と思いまして。



撩は脳内で目まぐるしく考えた。
この場合、近所だと答えると先々面倒臭いことにならないだろうかと。
何処だと訊ねられ、答えに窮する事は目に見えている。
かと言って、街路樹の枝の上ですという訳にもいかない。
どうしたものか。
えぇい、ままよ。と、口を吐いて出た地名は、撩の慣れ親しんだ街の名前だった。





・・・新宿。

新宿ですか。

え、ええ。・・・そ、それより急いでるんじゃないの?

っっ!!あ、そうだった!! 友達を待たせてるんですっっ

じゃあ、急がなきゃ。

はいっっ!!・・・・ん???でも、なんでご存知なんですか?

あ、ああ~~、なんか慌ててたみたいだから、ハハハ。




撩が曖昧に笑って誤魔化すと、香は疑いもしないでニッコリと笑った。
もう一度お辞儀をして、ありがとうございますというと、若干駆け足で去って行った。
いずれにせよこの後も、撩の護衛は続くのだけど。
撩は取敢えず、次に爺さんに会った時に素性バレがNGなのかどうか訊いておく必要があると感じた。












その晩、撩が香のアパートの屋上に寝そべって煙草を吸いながら寛いでいる頃。
401号室では、風呂上りの香がパソコンの前で思案していた。
目の前の画面には、白く光るグーグル検索エンジン。
香は思い切って、あるキーワードを入力した。
この数日の内に、2度も危ない所を助けてくれたサエバさんという男性の事を香は思い出していた。
昼間、急いでいたからちゃんと訊かなかったけれど、少しだけ後悔していた。
香はあの後、絵梨子と食事や買い物をしながらも、頭の片隅には彼の事が引っ掛かっていた。
改めて御礼をしようにも、彼に関して判る事は、新宿に住んでいるサエバさんという情報のみ。
運が良ければ、そのキーワードで何か彼に関する情報が引き出せるかもしれない。




2件、該当。

香は該当する内の、1番目の情報をクリックした。
それは、新宿・歌舞伎町のキャバクラのホームページだった。
在籍ホステスの紹介コーナーや、料金システム、営業時間の案内。
別窓で開く形のブログコーナーに、どうやら該当情報があった。
営業日誌という体のブログには、日替わりで女の子達が日記を書いているらしい。
数ケ月前の日付の記事に、“サエバちゃん”に関する記述が読み取れる。



こんばんゎ まいまいです 今夜もチョー忙しかったよぉ
今日ゎ常連のお客さまでサエバちゃんが来てくれたんだぁ
サエバちゃん ぁいかわらず チョー面白いの 楽しかったぁまた来てね
ちなみに楽しいサエバちゃん達は 何でも解決してくれる便利屋さんやってまぁす
要チェックです



その至極読み辛い記述の後に、貼り付けてあったリンクを香はクリックしてみた。
飛ばされた先にあったサイト情報は、どうやら企業ホームページのようなものだった。
シンプルなレイアウトの白い背景に、黒い文字で『冴羽商事』とだけ書いてある。
そう言えば、2件該当して表示された2件目はこの冴羽商事のホームページだった気がする。
若干、迂回してこのサイトに辿り着いた香は、そのシンプルなロゴマークをクリックしてみた。


項目は、1つだけ。
“contact”と書かれたメールフォームのみ。
それは撩の反対を押し切って、相棒のミックが作成した冴羽商事の窓口の1つだ。
香はその、冴羽商事という会社名をしっかりと脳裏に焼き付けた。




サエバさんって、この人の事かなぁ?



歌舞伎町のキャバクラの常連だというその彼が、昼間の彼なのか確証は無いものの、
香は取敢えず、明日の日曜日にでも新宿に行ってみようと思っていた。
屋上で呑気に煙草を吹かす撩はまだ、香がそんな事を考えているとは思いもしていなかった。




(つづく)

(番外) mon frère

“名残惜しいとは思うが、そろそろ時間じゃ”

いえ、僕はいきません。

“そういう訳にはいかんのじゃ”

僕はいきたくありません。

“・・・強情な男じゃのお”


僕は決めたんです。
あの子が生まれて、僕の妹になった日(桜が満開だった)に、
彼女がいつか恋をして大人になって誰かと結婚して母親になって歳を取って死んでしまうまで、
それまでずっと彼女の近くで、彼女を見守ろうと。
だから、僕はいきません。








神様は、強情な彼に根負けしてひとつの提案をした。
本当ならば善良だった彼は生まれ変わって、次に新しい幸せな人生を送る事が内定していた。
何不自由ない、幸せで裕福な暮らしを手に入れるまたとない恵まれた機会。
それと引き換えに彼女を見守リ続ける、
けれど2度と人間には生まれ変わる事は出来ないという提案だった。
彼には、迷う余地など無かった。
二つ返事でその提案を喜んで受け入れた。
彼は神様と契約を交わした。

それから6年、槇村秀幸はフレールという名を貰って幸せに生きている。
何ひとつ不自由は無い。
温かな家と愛情に囲まれている。
毎日、あの愛着のあるアパートの一階の店にご主人と通い、毎朝彼女の様子を知る事が出来る。
彼女は子供の頃から動物が大好きだったから、いつも優しく声を掛けて撫でてくれる。

まだ彼女には恋人がいない。
朝出掛ける時も、夕方帰って来る時も彼女は1人だ。
犬になった兄はそれを心配する反面、心の何処かで少しだけ嬉しく思ったりもしている。
今ではすっかり立場は違えど、やはり、何処の馬の骨とも知らぬ男に彼女は渡せんというのが本音だ。
それでもたった独り、この世に残された可愛い妹が幸せになる事も、同時に強く願っている。
それは彼女の兄だった頃から、何一つ変わらない。
今の彼の寿命は、きっと彼女よりも短いものだ。
彼は自分でも良く解っている。


この先、彼は何度でも生まれ変わって彼女を見守り続ける。
例えば行き場の無い野良猫になっても。外敵が多く非力な小鳥になっても。
彼女を傍で見守る事が出来るなら、彼は何だって構わない。
何にだって姿を変えて、彼女の傍に居る。
その想いが彼女に伝わる事が無くても。






はぁ~~い、唐揚げ弁当お待ちのお客様~~~



頭の上で、現在の彼の家族が叫んでいる。
彼等はとても親切だ。
香にも良くしてくれて、“独り暮らしの若い女の子”の事を親身に感じてくれている。
彼には今、何の不満も不安も無い。
世界は平和で妹は元気だ。
時々彼女は、彼にだけこっそり耳打ちしてくれる。
会社で失敗してしまった事や、友人たちとの楽しかった話や、ホンの些細な微笑ましい悩みを。
それはあの頃と同じで、彼は神様と約束した事を本当に良かったと思っている。

“frère”は、寝そべって空を見上げると、大きく欠伸をした。





第5話 新宿

翌日、香は午前中の内に家を出た。
撩は香の後をつけて歩きながら、途中で何となく気付き始めていた。
彼女は新宿に向かっている。



ひとくちに新宿といえど、結構広い。
雑居ビルも事業所の看板も、数限りなくある。
そもそもあれだけ簡素な作りのホームページである。
看板を掲げていなければ、“冴羽商事”を見つけ出す事は不可能に思えた。
彼女はそれでも、新宿の街の中を歩き回り“冴羽商事”を探し回った。
この時の撩には、彼女が何を探しているのかは解らなかったけれど、
その街に帰って来て非常に懐かしく感じた。
天使になってからはまだ数日しか経っていないけれど、一体自分は“死んで”からどの位経過しているのか。
撩は初めてそんな事を考えるに至った。


今頃、相棒はどうしているんだろう。
懐かしい行きつけの店の数々は、顔見知りの情報屋たちは。
撩は自分が死んだところで、誰にも何も影響を及ぼす事など無いだろうと考えて生きて来た。
それは思ってもみなかった感情だけど、自分がまさかそんな風に思うなんて意外だったけど、
もしも親しかった彼等に忘れられていたとしたら、それは少しだけ淋しいと思った。





香はどうにかなると思って安易な感じで出掛けて来た事を、少しだけ後悔し始めていた。
当ても無く新宿を歩き回っても、冴羽商事は見付からない。
香は、普通のオフィス街の様なものを想像していた。
雑居ビルには入り口に、階数表示と入居者名が書いてあるだろうと。
午前中の内にこの街に到着してから、既に2時間は経過した。
ちょうど頃合いよく昼時なので、何処かランチでも食べられる店を求めて行きついたのは、
“喫茶 キャッツ・アイ”という店だった。



撩は香の足取りが、徐々に見慣れた街角に進んでいく度にドキドキした。
少し前までその街は、撩の生活の大部分を占めていて、撩の唯一のホームタウンだったのに。
もう既に非常に懐かしい風景に変わっていた。
その懐かしさは、香がとある一軒の喫茶店の前で立ち止まった時に頂点に達した。

“喫茶 キャッツ・アイ”

そこは撩とミックの行きつけであり、店主夫妻は同業者でもある。
撩は生前、ここに毎日のように顔を出していた。











いらっしゃいませ。


そう言ってニッコリ微笑んだ女性は、とても綺麗な人だった。
その隣には、大きなマスターが立っている。
女性の声に合わせて、小さく微笑んだようにも見えたけど、
もしかするとそれは目の錯覚だったのかもしれないと思わせる程に、淡いものだった。
店内は、驚くほど閑散としていた。
休日の昼時だというのに、客の姿は無い。
珈琲の薫りだけが色濃く店内に充満している。
表の通りは決して人通りも少なくないのに、
こんなに暇そうな飲食店も珍しいというのが香の第一印象だった。
ボックス席もあったけれど、何となく独りで使うのが申し訳なく感じて香はカウンターの一番端に座った。



何にします?


美人のママさんが優しそうな笑みを浮かべてそう訊ねる。
その時に香は初めて、思った以上に喉が渇いていた事に気が付いた。



アイスコーヒーをお願いします。


香の返事に、彼女は小さく頷いて、
隣のいかついマスターは何も言わずに背面の棚からグラスを選んだ。
何か軽く食べる物も注文しようかと、目の前にあったメニュー表に香が手を伸ばした時に、
その客がやって来た。



撩は香のすぐ後ろに位置するボックス席に寝転んでいた。
拍子抜けするほど、彼等は撩の気配には気が付かない。
まるで透明人間にでもなった気分だな、と撩は思ったけれど、よくよく考えればもう人間でも無いのだ。
そう考えると、普段何気なしに飲んでいたあの薫り高い珈琲をもう一度、
無性に飲みたくなってしまった。
仕方が無いから、店の中に立ち込める薫りを肺一杯に吸い込んで目を瞑った。
徐々に気持ちが凪いでゆく。
彼女が何でここに来たのかは解らない。
何かを探しながら、まるで導かれるように彼女の足は撩の街を歩いた。
それでも多分、撩は彼女が来る事でも無ければこの街を訪れる事は無かっただろう。
まるで彼女が連れて来てくれたみたいで、嬉しくなった。
しかし、穏やかな時間は一瞬で激変した。奴の出現で。






淡いグレイのスーツに、オールバックに撫で付けた金色の髪の毛。
真っ青で澄んだ瞳。
何ひとつ変わらない相棒は、いつも通りにそこに現れていつものキリマンジャロをオーダーした。
撩の心臓は煩いほどに跳ねた。
きっと撩が死んでから、実質、様々な事後処理に奔走したのは間違い無く、目の前のこの男だ。
まさかその悪友が今ココに居るなんて思ってもみないだろう。
撩は訳も無く、動揺した。












ミックの前にカップを置いた後、美樹はその隣にもカップを置いた。
撩がいつも飲んでいた、オリジナルブレンドだ。




今日で、ちょうどひと月ね。

・・・もうひと月になるのか、なんか長いんだか短いんだか解らないな。



美樹の言葉に、ミックは煙草の煙を吐きながらそう答えた。
実際、大変な事はホンの少しだった。
撩の素性の殆どは非合法な情報だらけで、まともな人間のように役所に届を出す訳でも無く、
ひっそりとした弔いを、仲間内だけで済ませただけだった。
事務所もビルもそのままだ。
冴羽商事もそのまま、ミックは何ひとつ変える気は無い。
冴羽撩の居ない冴羽商事を、ミックは1人ででも出来るまでは続けていくつもりだ。
美樹に無言で目くばせすると、ミックは灰皿をもう1つ借りた。
撩の分のカップの置かれた隣に灰皿を置くと、
ミックは咥えた煙草の先に、新しいもう一本を押し当てて火を移す。



マールボロじゃないけど。






香はそんなカウンターの遣り取りを、見るともなしに見ていた。
良く解らないけれど、きっと誰かにその珈琲と煙草を捧げているのだろう事は解った。
話を聞くまいと思っても、店内は静かすぎて聞こえてしまう。
兄は家の中では煙草を吸っている素振りなど微塵も感じさせなかったけれど、
仕事場で煙草を吸っていた事は、香も知っていた。
洗濯をしていたのは香なのだ。
ワイシャツや肌着にほんのりと残る煙草の匂いには気が付いていた。
それでも家に灰皿を置いていた事も無かったし、衣服のポケットにライターが入っている事も無かった。
煙草を吸う兄を、香は見た事が無かった。

兄の葬儀の日に、同僚の男性刑事が兄の棺に兄の好きだったという煙草を入れた。
それまで気丈に振舞っていた香はそれを見て泣き崩れてしまった。
知らなくてごめんね、という気持ちだった。
香と兄の家族の世界があって、香と外の世界があったように。
兄には兄の世界があったのだ。
その事を、カウンターの人たちの遣り取りを見て思い出していた。

亡くした人の事を、遺された人たちは一体どれだけ解っていたのだろう。
香はあの頃若すぎて、何も知らなかった。
兄には好きな人が居たのだろうか。
兄の夢は何だったんだろう。
兄は果たして幸せだったんだろうか。
残された人間に答えが齎される事は、もう二度とない。
人間は、たとえ目の前にあっても自分の思うようにしかその世界の在り様を見ようとはしない。
多分、香が知っている兄は香の目に映る兄でしか無く、きっとその反対も同じ事だろう。
たった19年の兄との付き合いでは、香にはやり残した事が沢山ある。
6年経った今でも、そう思っている。









今頃、何処で何してるのかしらね、冴羽さん。

天国でナンパでもしてんじゃない? ん?地獄か??

どっちかって言うと、そっちね。





故人を偲んでしんみりと語り合う2人の会話の中に、香はハッキリとその名前を聞いた。
確かに美人のママが言ったのだ。“サエバさん”と。
香は腰を抜かすかと思うほど驚いたけれど、
感覚とは裏腹に、勢いよくガタンとスツールから立ち上がった。
突然の事に、カウンターの内と外、3人の男女及びボックス席の男(幽体)も香に注目した。



あ、あのっっ 今、サエバさんって仰いました?



ミックも美樹も伊集院隼人も、そして撩も香の言葉に仰天した。
彼女が朝から探し回っていたのは、冴羽撩その人だったのだ。



そのサエバさんってもしかして、キャバクラ・ジュエルの常連の冴羽商事のサエバさんですか???



もしかしなくても、その人だ。
ただし彼は、その場に居る。
ひじょーに複雑な面持ちで。



(つづく)



第6話 冴羽商事 

ミック・エンジェルは、頭を抱えていた。

行きつけの喫茶キャッツ・アイには、珍しく一見の客(しかも、超カワイイ女の子)が居て、
それだけでも珍しいのに。
なんでもその子は、ひと月前に不慮の事故であっけなくこの世を去った、
あの冴羽撩を探しているというのだ。
応接用のソファに彼女を待たせてお茶を淹れながら、ミックはキャッツでの一部始終を思い返す。













多分、キミの言ってる冴羽は、ボクの知ってる冴羽のことだと思うけど・・・キミは?



一瞬、前述のキャバクラの子かとも思ったけれど。
ミックの憶えている限り、見た事は無いし。
(在籍してれば確実にどストライクで嵌るだろうタイプである、気が付かない訳は無い。)
それに彼女はどう見ても、夜の雰囲気は感じさせなかった。
何処からどう見ても清純派タイプである。
美樹も伊集院も興味津々で事の成り行きを見守っている。
彼女の一挙一動が、ミックにとっては“カワイイ”としかいえないものだったが、
状況としてはそのような雰囲気では無かったので、その辺の所は発言を控えた。
ミックに問われて、香はハッとして頬を染めた。
自分の名を名乗る事も忘れて、彼等の会話に割って入ってしまった事を恥じた。



あ、す、すみません。急に。 私は、槇村香と申します。



香は深々と頭を下げた。



先日来、2度ほど冴羽さんには、危ない所を助けて戴いて。
新宿にお住いの冴羽さんとしか伺っていなかったもので、
改めて御礼に伺おうと思いまして、冴羽さんを探しております。
大変失礼かとは存じましたが、お2人のお話しが聞こえてしまったので、
冴羽さんをご存知ならば是非ともお口添えして戴いて、お会いしたいと思いまして。




ミックと美樹は顔を見合わせた。
確かに撩は、スケベでどうしようもない習性の持主で、
辺り構わず手当たり次第にナンパを繰り返していたし。
香のような女性がその辺を歩いていたら、間違い無く声を掛けただろうし。
危ない目に遭っていれば、助けもするだろう。(下心が無いとは言えない。)
ミックはもう1つ重要な質問をした。





カオリさん、それっていつの事ですか?

昨日と、4日前の事です。




ミックと美樹と伊集院はもう一度顔を見合わせると、盛大に首を傾げる。
確かに、冴羽撩はキャバクラ・ジュエルの常連客だ。
冴羽商事の代表取締役でもある。
女性が街で困っていると、下心の有無は別として、助けるような男だ。
でも、彼はもうこの世には居ない。
彼が脚立から落下してあっけなくこの世を去ったのは、もうひと月前の話しなのだ。




・・・ボクはミック・エンジェル、冴羽商事の者です。はじめまして、マキムラカオリさん。

え、冴羽商事の方・・・

ええ。詳しい話しを事務所の方で聴かせて戴けませんか?













はぁ~~~、美味しい。ありがとうございます。



そう言って香は、ミックの淹れた玉露を美味しそうに飲んだ。
そして、あ。と思い出したかのように、傍らの紙袋をミックに差し出した。
それは新宿に来る前に、立ち寄った洋菓子店で購入した手土産だ。
勿論、その間中ずっと撩はそんな香の様子を見ていた。
まさかその菓子折りが、自分宛の手土産だなんて思いもせずに。



あの、これつまらない物ですが、宜しかったら皆さんで。

What?


思わず意味が解らなかったミックだが、次の瞬間意味を理解すると苦笑した。
冴羽商事だなんて大袈裟な名前だが、撩とミックの2人だけの事務所なのだ。
それに今となっては、ミックだけになってしまった。



この事務所には、残念ながら今はボク一人だけなんだ。

???

サエバリョウは、



ミックは少しだけ悲しそうに目を細めた。
一瞬だけ言葉に詰まったけれど、真っ直ぐに香の目を見ると優しく語りかけるように言った。




ひと月前に死んだんだ。

え。





ミックはキャッツで香に事情を聴いて追い返しても良いとも思ったけれど、改めて事務所に呼んだ。
撩が死んだことを教える為だけなら、別に場所はキャッツでも良かった。
どうして香をこの場に連れて来たのかといえば、
香を助けたとかいうヤツが、撩の名を騙ったという事が引っ掛かったのだ。
もっとも、今現在ソファの香の隣の席に、その当の冴羽撩が座っている事などミックは知る由も無い。




ボク達は探偵の様な仕事をしていてね、職業柄、面倒事も沢山あるからね。
変な奴がリョウの名を騙って、キミに近付いた可能性もあると思ってね。




ミックは少しだけ言いにくそうにしながらも、香にそう説明した。
ソイツの風体を訊かせてくれると有難いんだが。と言うミックに、撩は溜息を吐くけれど。
勿論、誰にも聞こえない。
撩にしてみれば、非常に馬鹿馬鹿しい話に発展してしまった。
こんな事なら、あの時香に訊ねられて、本当の事を言うんじゃ無かったと後悔していた。
香はミックの言葉に、眉を潜めた。





助けて下さった冴羽さんは、とても良い人です。そんな、悪い人みたいな言い方・・・
私が無理に訊き出したんです、お名前とお住まいだけを。
だから、何も悪意は無かったように思うんですけど・・・


でも、リョウは君の言った日には、もう死んでいる人間なんだ。助けた人物は、別人だ。
それにキミは、リョウの行きつけの店とこの事務所の名前まで知っていた。




ミックの指摘に、香は思わず俯いて黙り込む。
確かに、と撩も思う。
実際に香を助けたのは撩だし、名前を名乗ったのも撩に間違いは無いけれど。
どうして彼女が、キャバクラの事と冴羽商事の存在にまで気が付いたのか。それは非常に気になる所だ。
香は恥ずかしそうに言葉を選びながら、昨日の晩の事を告白した。

どうしても御礼が言いたいと思った事。
けれど、解っている情報は名前と、新宿というキーワードだけだから。
この2つをネットで検索した事。
そして、2件の情報が該当した事。
その拙い情報だけを頼りに、冴羽撩を探し回った事。

そう言われれば、それ以上ミックにも何も言えない。
何しろ、冴羽商事の門戸を開く為に、メールフォームを設置したのは己だ。
そして夜毎、夜遊びに興じてキャバクラのブログにまで登場する程の常連になったのは自分達だ。
自業自得といえよう。





どんな男だった?

え?

キミを助けた、その男。




香は明瞭にすらすらと答えた。
ハッキリと覚えている。
彼の印象は、未だ鮮やかに香の脳裏を過る。





身長は、私が見上げる程の高さなので、恐らくは190㎝位かそれ以上。
ヒッコリーデニムのジャケットと、赤いTシャツに黒のストレートパンツを着てました。
目の色は真っ黒、髪の毛も真っ黒で少し癖毛だったと思います。




淀み無く語る彼女の“冴羽撩”は、紛れも無く冴羽撩の特徴そのもので。
ミックも腕を組んで考え込んだ。
服装を真似る事なら容易に出来ても、体格まで真似るとなるとそれは案外難しい。
そこまでして、誰かが撩に成り済ます事のメリットとは。
撩が死んだことは、もう既に裏の世界には知れ渡っている事だろう。
それならば、そんな嘘を吐いてまで何の関わりも無い普通の女性に近付いても何も得は無い。

ミックは少し考え込んで、思い立ったかのように傍らのデスクを漁り始めた。
今は亡き相棒の使っていたどっしりとしたオーク材の机だ。
確か、あの抽斗に。





あった。




乱雑に散らかった抽斗の中には、際どいブロンドの巨乳美女が表紙を飾るエロ本に紛れて。
1枚だけ、撩の写真があった。
彼は写真に写る事を極端に嫌っていたから、恐らく、写真はそれ1枚きりだ。
何の時の写真だったかは、今はもう思い出せないけれど。
その写真の中の撩は、香が証言したのと同じ服装で不機嫌そうにカメラを睨んでいる。



これに見覚えある?



ミックは、それが撩だとは言わずに香に見せた。
すると、香は何の疑いも無くニッコリと微笑んで頷いた。



冴羽さんです。






どういう事が起こったのか、それについては今の所、何も解らない不可解な出来事だけど。
何かあったら、気軽に連絡して?と言って、ミック・エンジェルは香に携帯番号を教えた。
香は天然だから、何の疑いも無くそれを自分の携帯に登録してしまった。

正直、撩はムカついていた。
香は知らないけれど、あのブロンド野郎は煩悩を凝縮して固めた歩く性器だ。
(撩が言えた義理では無い)
簡単に信用してはならない。
撩は守護天使の使命として、このエロ天使からも彼女を護らなければいけないと決心した。












香と(目に見えない)撩が帰って行った事務所の中で、ミックは1人溜息を洩らした。
先程、エロ本が乱雑に押し込まれていた抽斗とは別の抽斗を開ける。
中に収まっているのは、リボルバー界のロールスロイスとも謳われるコルトパイソンだった。
撩の愛銃だ。
かなり使い込んだ物だけど、丁寧に扱っている事はそれを見れば一目瞭然だった。
撩の一部ともいえるそれを、ミックはマジマジと眺める。
まだそれを、手に取る事は躊躇われた。

だらしが無くて、軽薄で、飄々とした男だったけど。
凄い奴だった。
ミックは本心では、撩に少しだけ憧れていた。
撩はミックの事を、自分と互角の腕を持っていると認めてくれていたけれど、
本当は全然、撩の方が優れたスイーパーだった、ミックはそう思っている。
彼がこの世に居ないという事が、まだ信じられなかった。
自分を置いて、勝手に逝った撩に腹が立っている。
撩の机に頬杖をついて抽斗の中を見詰める。





ったく、何処で何してんだ?オマエ。




香を助けたという撩が、本当に撩ならば。
ミックも彼にもう一度会いたい。
会って礼が言いたい。
本当にお前と組めて楽しかったと。


(つづく)


第7話 出逢い

内角高め

カーブ

ストレート




香の振った金属バットから快音が響く。
ここのマシンの癖は、大体知っている。
冴羽商事を出た香は、新宿からそのまま自宅の最寄りの駅まで帰って来たけれど、
自宅アパートを通り越して、公園の先のバッティングセンターへと向かった。
兄と子供の頃から足繁く通った、馴染みの店だ。


不思議な話しだった。
確かに2度、香を危ない所で助けてくれた人は、もうこの世には存在しないという。
彼等が嘘を言っているようには、到底思えないし。
かと言って、それでは自分が体験した事が幻の仕業だったとも思えない。
香はいつも、自分の中で消化しきれない問題を抱えた時にココに来る。
いつの頃からの習慣なのか、もう覚えてもいない。
機械にコインを投入して25球。
黙々とバットを振る。
今の所、バットの芯に当たる感触よりも、先を掠める感触の方が多い。
身体を動かす事は、混乱した神経を多少なりとも落ち着かせる効果があるのかもしれない。
ノスタルジックなバッティングセンターには、
香の他には中年の男性が独りと地味なカップルが一組居るだけだ。


25球目のストレート、110㎞をバットの先に当てて、香は一番端のブースを出た。
この店の一番奥、香と兄が最も好んで使っていたマシンだ。
そのすぐ傍のコカ・コーラの自販機で、香は350ml缶のコーラを買った。
1000円札を崩して小銭を作って、コーラを飲んで休憩したら後もう1ゲーム。
香はつい今までバットを振っていたブースの真後ろのベンチに腰を下ろす。
プルタブを開け、一息で3分の1ほどコーラを流し込む。
彼が現れたのは、その時だった。







何気なく隣に座った彼は、何も言わず香を見詰めるとニッコリ笑った。
先程まで居なかった彼が突然見えるという事は、即ち、怪奇な現象という事だろう。
それでも香は不思議と怖いとは感じなかった。
撩と香は並んでベンチに座る。
傍から見れば、香がただ一人で座っている様にしか見えない。






私、子供の頃からすごく怖がりで。オバケって大の苦手なんです。

・・・うん。

でも一度だけ見た事があって・・・・




19の時に兄が亡くなって、そのすぐ後に兄を見たんです。
今にして思えば、あれがオバケだったのか夢だったのかは良く解らないんですけど。
兄が亡くなって1ヶ月位した頃、夜眠れなくて布団の中でずっと寝返りばっかり打ってて。
そしたら、枕元に兄が来たんです。
その瞬間、急に体が動かなくなって、声も出なくて、ああこれが金縛りなんだなって初めて知って。
その状態のまま、兄が私の傍で囁いたんです。
ずっと傍に居るからって、いつも見てるからって、だから何も怖くないよってそう言ったんです。
それだけなんだけど、あれが兄だと思うと不思議と怖く無くて。




その時と、同じです。

え?

冴羽さんは怖くないんです。

そうか、それは良かった。






撩は、穏やかに微笑んだ。
香も不思議と気持ちは穏やかになっていた。
残ったコーラをもう一口含むと、香は小さく息を吐いた。






あなたは、オバケなの?




至極ストレートな質問だ。
確か同じような事を、撩も自称・神様のジジイに訊いたような気がする。
撩自身、同じ事を一度は思ったのだから、この香の疑問は当然の事だろう。
撩は首を振る。




いや、オバケじゃ無くて天使なんだ。君の事を護るのが役目だ。
君の危機を救ったら、それと引き換えに元の世界に戻る事が出来るらしい。




香は目を丸くする。
予想外の答えだったらしい。
香の驚いたような視線は、撩の頭の上に移動してそのままベンチに凭れた撩の背中へと移動する。






輪っかも、羽根もついてないケド?

みたいだな。




そう言って、撩はひっそりと笑った。
でも一応、天使らしいよ。と、言いながらジャケットのポケットから煙草を取り出す。
それを珍しいモノでもみるように、香は好奇心旺盛な瞳で楽しげに観察する。
この数日、観察するのは撩の役割だったのに、いつのまにか彼女が撩を観察している。





今日、あなたの事務所に行ったのよ?

ああ、俺も居た。

そうだったの?! じゃあ、私。あなたと一緒にあなたを探してたの?

ふふふ、そうなるな。

どんな感じ?

何が?

ミックさんや、喫茶店のママさん達に再会して。





撩が細く煙を吐いた。
ベンチのすぐ横には、年季の入った日本たばこ産業の細長い筒の様な灰皿が置いてあって、
撩は手を伸ばして灰を落とす。
正直、撩自身にも色々有り過ぎる1日で、良く解らないというのが本音だ。
質問には答えなくても、香は特段、気にもしていないようだった。





みんな、あなたの事が忘れられないんだなっていうのは解ったわ。

うん。

良いのかな?

何が?

あなたの姿は、私にしか見えないんでしょう?

ああ。

あなたが見守る対象が、私なんかで。
もっと、あなたに傍に居て欲しかった人が居るんじゃないかなって。







そんなこと、撩は思いもしなかった。
自分が死んでも、悲しむような人間が居るとは思わなかった。
彼等が、珈琲や煙草を自分の為に捧げてくれているのを見て。
少しだけ、あの世界に帰りたいと思ったのも事実だ。
香の危機をあとどのくらい救えば、あの世界に戻れるのか。
それは撩には解らないけれど、
言葉に出来ない懐かしさがあの珈琲の薫りを嗅ぎながら、込み上げてきた事は紛れも無い事実だ。
人間は愚かな生き物だから、喪って初めて気が付く事もある。
独りで生きて来たつもりだった。
しがない殺し屋で身寄りも無く、大した生き方はして来なかった。
死んで土に還る事だけが、唯一の功徳になるような気がしていた。
でも、そういう考え方は愚かだったのかもしれないと、そう思った。
少なくとも、自分の死を悼んでくれる残された者に対して、
それはあまりにも不誠実で不甲斐無い考え方だと。





お兄ちゃんは、ずっと傍にいるって言ってくれたけど。
もしかすると、今頃何処かで誰かの天使になってるかもしれないな。

どうだろうな。

でも、それでもイイって思えるよ。優しいお巡りさんだったから。それがお兄ちゃんらしい。





撩には、香の兄のほんとうの事を教えてやる事は出来ないけれど。
それでも何かの意味がある筈だ。
神様は、撩に香を託した。
神様が撩と香を出逢わせた意味が、何処かにあるに違いない。








俺は君の危機を救わないといけないし、そしていつかもう一度元居た世界に戻る。

うん。

君のお兄さんが今どうしているのかは解らないけれど、君も俺も生きなきゃいけないんだ全力で。







香はまるで花が綻ぶように微笑んで、コクンと頷く。
撩は初めて逢った池の畔のベンチでの事を思い出す。
彼女は恐ろしいまでに素直に他人を信用し過ぎる傾向にある。
これは全力で護らないと危険だと撩は考える。




冴羽さん。

ん?

ありがとう。そういえば、言うの忘れてた。御礼が言いたくて今日1日歩き回ったのに。

ああ。知ってるから、大丈夫だ。

今度から、名前を呼んだら出て来てくれる?





撩は思わず吹き出した。
そういえば、自称・神様に素性バレの件を確認するのを完全に忘れていた。
素性どころか、天使という己の境遇までバラしてしまった。
それでももしも、じい様に何か言われても。
撩は撩のやり方でやってやろうと思い始めていた。
要は、彼女の身に迫る危険を回避出来ればいいのだろう。
そんな事はお安い御用だ。
ボディーガードは専門分野だから。




ああ、いつでも良いよ。



(つづく)




第8話 記憶

吠えられてるの、冴羽さんだったのね。




そう言って、香は撩を見上げると楽しげに笑った。
2人の足元で白地に黒ブチの看板犬が吠えている。
いつものように街路樹の上に居た撩を呼んだのは、香だった。
撩の存在を知ってから香は、事あるごとに撩を呼びだす。
他愛も無い外出に撩を連れ出す。
もっとも撩の方は、呼ばれなくても傍で見守る。
呼ばれれば、香だけに見えるように姿を現すだけだ。

犬になった彼女の兄は、相変わらず撩には手厳しい。
姿を見ようもんなら、しつこく吠えかかる。
この界隈の住人の間では、温厚だった大人しい看板犬の最近の様子に首を傾げる者も少なくない。



最近、やけに吠えるから心配してたの。そう言って香は、フレールの前にしゃがみ込む。
それを隣で撩は苦笑いしながら、見詰めるしか出来ない。
彼女は無邪気だ。
撩の言葉に疑問を持つ事もしない。
オバケでは無く、天使だという不可思議な男の事を何の疑いも持たず、信じている。
撩が香に自分の素性を明かしてから一度、撩の元に神様がやって来た。
ジジイは呆れたように溜息を吐いたものの、最終的には好きにせい、と言って笑った。
だから、撩は好きにしている。
彼女を見ていると飽きない。

現金なもので犬は、目の高さを合わせた彼女を見詰めて太いシッポを振る。
不可解な存在よりも、犬にとっては彼女の方が大事なのだ。
香が彼の垂れた耳に口を寄せる。
撩には聞き取れない声で、何事か彼に囁きかける。



(フレール、冴羽さんは怖い人じゃないんだよ。私を守ってくれる天使なんだよ。)


香がそう言うと、犬は撩を見上げる。
黒目がちな濡れた瞳で、撩の目を真っ直ぐに覗き込む。
まるで瞳の中のずっと奥まで覗き込むような視線は、撩に妙な居心地の悪さを齎す。
香の知らない犬の秘密を撩は知っている。
犬はきっと、妹に近付く男を値踏みしている。
天使と犬にだけ解る視線の遣り取りになど気付きもせずに、
彼女はもう既に、惣菜屋の女主人に声を掛けられて世間話に花を咲かせている。

























あのこがあの店に来た時ね、私すごく落ち込んでて。



香のいうあのことは、6歳の雄のダルメシアンの事だ。
池のある広々とした公園を散歩しながら、香は撩に語りかける。
休日の公園には親子連れやカップルがそれぞれに、穏やかな時間を過ごしている。
傍から見れば香は独りで池の周りを散歩している様に見えるだろう。
撩はゆっくりとした香の歩みに合わせて、風の匂いを嗅ぐ。
新宿に居る頃とは、時間の流れ方がまるっきり違う。
こんな撩を、知り合いたちがみたら多分、驚くだろうと思うと撩は可笑しくなった。




兄が亡くなったすぐ後で、何をしても何も感じ無くて、何を食べても美味しく無くて。



池には色々な種類の水鳥が泳いでいる。
都会の真ん中とは思えない程に、空気は清浄で。
子供が笑いながら走り回る声が、風に乗って耳に届く。
2人の横を自転車に乗った親子連れが通り過ぎる。
27インチのシティサイクルを漕ぐ父親の後ろに、
小さなマウンテンバイクに乗った男の子と、
やっと補助輪が取れたばかりの自転車に乗った小さな女の子。
擦れ違った親子連れを、彼女が目で追う。
目を細めて微笑む彼女の横顔を見詰めながら、撩は彼女の話しに耳を傾けている。




死にたいと、ずっと思ってて。



柔らかな微笑みとは、アンバランスなその会話は、
休日の長閑な公園の中で淡々と続く。





でも、毎日あのこと顔を合わせるようになって、
それが日課になって、楽しみになって、
気が付いたらいつの間にか、元気になってたの。



不思議でしょ?と、言って笑う香に撩の胸の奥で、何かがトクンと跳ねたけど。
いい歳をした元・殺し屋は、それには気が付かないフリをした。





なぁ。

ん?

そうやって喋ってたら、随分大きな独り言いってる様に見えちゃうよ?




現に、彼女は気にしていないけど。
時折、擦違う人の中には、明らかにそんな彼女を振り返ってゆく人もいる。
彼女は気にしなくても、撩には少しそれが気に掛かる。
撩の言葉に彼女は少しだけ考えて、それから徐に小さな手提げの中を探って、携帯電話を取り出した。
癖毛の先から時折見え隠れする、形の良い耳に携帯電話を押し当てる。
隣に並ぶ撩に、まるで悪戯っ子のように笑い掛ける。




これならどうかな?こうしてると、電話してる様に見えるでしょ?



撩は自分で思っている以上に、穏やかな顔で笑っている。
生きている時は、こんな時間には薄暗い寝室で眠っていた。
太陽が沈む頃に起き出して、夜の街に繰り出した。
怠惰に生きて、成り行きに身を任せていた。
死んでからの方が、撩はイキイキと過ごしている。
午前中の公園の中で、彼女の隣を歩き。
昔の事を思い出しながら、彼女の話しを聴いている。


酔っ払って酒場で出逢った行きずりの女と寝たり。
明らかに格下の同業者に、決闘を申し込まれたり。
ボディガードで助けた女に迫られたり。
手数も人数も格段に多い敵に囲まれて殺されかけたり。
それでも相棒と一緒に、ハッタリで危機を乗り越えたり。
危ない橋ばかり渡って生きてきた。
ろくでも無い生き方をしてきた。
穏やかに笑う事など、自覚しないで生きていた。
耳に携帯電話を当てた彼女が撩の左手を取る。
体温の無い撩の手に、温かさが伝わる。





ねぇ、向こう岸のパン屋さんに寄って帰っても良い?




彼女はあのパン屋の、ミルク風味のクリームの挟まったフランスパンが好物だ。
普通の生活が。
何処にでもある、普通の人の普通のささやかな生活が、
撩にとって生れて初めて、とても重大な意味を持つ事のように思えた。



(つづく)


第9話 限りある不完全な世界

最悪っっ 天気予報、降るなんて言ってなかったじゃん!!





槇村香は、自宅の最寄りの地下鉄の駅から地上に出て空を見上げた。
会社を定時に出た時には、カラッと晴れ渡り気持ちの良い夕方の空の色だった。
鞄の中に、折り畳み傘も入れて無い。
予報で不安がある時は持って出るけれど、
今朝の天気予報では終日晴天に恵まれるという事だったので、完全に油断していた。

駅から自宅アパートまで、駆け足で7分弱。
最悪、濡れて帰る事に関しては、仕方ない。
けれど、香の落胆の原因はその事では無い。
香はいつも、早起きだ。
今朝も例外では無かった。
気持ちの良い初夏の朝日を浴びながら、洗濯物を干した。
日中の天気を思えば、きっと綺麗に乾いていたであろう香の衣類たちは。
多分、今頃ビショ濡れだろう。
こんな事なら部屋の中に干したのに、と溜息を吐くと、香は意を決したように雨の中を走り出した。







へ???

おかえり。





肩で息をしながら、全身ビショ濡れで帰って来た香を待っていたのは、
リビングで洗濯物を畳む、彼女の守護天使・冴羽撩だった。




た  ただいま、帰りました。



香は思わず、赤面する。
何しろ彼は、ちょうど香の下着を手にした所だった。
確か会社を出る頃に彼の気配は感じていたので、今まで一緒に居たのだとばかり思っていた。
どうやら、雨の気配に彼は一足早く帰還して、香の洗濯物を無事サルベージしたらしい。




っだぁぁあ、っちょっとっっ それ、アタシの・・・下着・・・



香が焦って撩に駆け寄ると、撩はニンマリと笑いながらアッサリとそれを香に返した。
その代わりに、ふわりと香の頭に洗い立てのタオルを乗せる。
柔軟剤の薫りが思いがけず、香を包む。



まぁまぁ取敢えず、拭いた方がいいよ?風邪引いたら大変だから。



そう言ってニッコリ笑う天使の男に、香は不覚にもドキドキしてしまう。
下着まで畳んでくれようとするのは、正直有難迷惑だけれど。
気を利かせて洗濯物を取り込んでくれるなんて、少しだけ感激してしまった。
自由自在に瞬時に移動できるなんて、羨ましい能力だと香は思う。




あ、あの。   ありがとう。



香はそれだけ言うと、恥ずかしそうに照れながら、
それでも下着だけはシッカリと握り締めリビングを出て行った。
そんな彼女の後姿を眺めながら、撩は楽しげに口笛を吹いて、残りの洗濯物を畳み始めた。
撩はいつしかこの不思議な関係を、愉しみ始めていた。










冴羽さん。



休日の午後、撩が街路樹の枝の上で昼寝をしていると。
彼女が窓の中から、撩の名を呼んで手を振っていた。
最近の彼女は撩に用がある時、こうして部屋の中から声を掛ける。
すると撩がいつものように一瞬で移動して、次の瞬間には部屋の中に居るのだ。
部屋の中には、淹れ立てのコーヒーの薫りが充満している。




どうした?

コーヒー、一緒にどうですか?



そう言って、香はニッコリと微笑んだ。
撩も遠慮なく呼ばれる事にする。
コーヒーを口にするのは、どれぐらい振りだろうか。
芳ばしい液体をひと口含むと、撩は訳も無く感傷的な気持ちに襲われた。

香が撩に礼を言う為に、あの新宿の街を彷徨い歩いた日に。
昔馴染みのカフェで感じたあの感覚だ。
香の傍で過ごす内に、少しづつ薄れかけている新宿の日々を思い出させる、匂いの記憶。
木製の枠に分厚いソーダガラスの嵌ったドアを、カウベルを鳴らして入ると。
カウンターには、同業者のいかつい男が、
似合わない蝶ネクタイにベストなんか着込んで、グラスを磨いている。
その隣には、これまた同業者でヤツには不釣り合いな別嬪のママが居て。
撩はいつものスツールに腰掛ける。
何も言わなくても、マスターはサイフォンに挽いた豆を入れ火を点ける。
ママは背後のキャビネットからカップを選び、電気ケトルで沸かした湯でカップを温める。
そうこうしていると、背後のドアが開いて相棒がやって来る。
撩の席から椅子ひとつ分空けて、ミックが座る。
いつだって閑散とした店内に、贅沢なコーヒーの薫りが広がる。
あの頃は当たり前の光景だったそれらの事を、撩は鮮明に思い返す。



・・・旨い。




思わず零れた撩の言葉に、香は小さく微笑む。
香の淹れたコーヒーを飲むのは、兄の役目だった。
大抵の事には無頓着で執着しない兄だったけれど、コーヒーだけは豆から挽いたものを好んだ。
香の淹れたコーヒーを、兄はいつも褒めてくれた。




良かった。





匂いは様々な記憶に直結している。
撩も香もそれぞれに思う所はあるけれど、
静かに午後の穏やかな時間が流れてゆくのを感じる。




あのお店。

ん?

あの、新宿の。

あぁ。

行きつけだったんでしょ?冴羽さんの。

ああ、毎日行ってた。

美味しかったなぁ、あそこのコーヒー。




それはたった今、撩が考えていた事と同じで。
彼女も喫茶・キャッツアイの事を考えていた事に、撩は妙に擽ったいような気持ちになる。
2人であのカウンターに並んで座った事など一度も無いのに、
撩は思わず、何故だか2人であの店に通っていたかのような錯覚を覚える。









撩の目の前で寝息を立てる香を、撩はベッドの傍らでジッと見詰める。
彼女に呼ばれなくても、撩は時々、こうして彼女の傍にいる。
穏やかな寝息を立てている彼女の頬には涙の跡が残っていて、
鼻の頭と目の縁は少しだけ赤い。

何が彼女をそういう気持ちにさせるのか、撩にはそのきっかけは良く解らない。
彼女は時々、眠りに就く前のベッドの上で静かに泣く。
寝息を立てて眠る彼女は、写真立てをしっかりと胸に抱いている。
家族を喪った痛みはまだ、彼女の心の中に残っているのだろう。
撩は彼女の柔らかな癖毛をそっと撫でる。


撩には彼女の痛みは解らないし、
彼女にも撩の境遇など理解出来ないであろう。
それでも撩はこの所、解りたいと思い始めている自分が居る事に気が付いている。
この先どんな危険が彼女を待ち受けているのか、
自分の出番が一体いつやって来るのか、何も解らない状況の中で、彼女の事をもっと解りたいと。
彼女を助けて、撩が元居た世界に帰ったら。
誰に守られる事も無く、
彼女はこうしてたった一人で泣くのだろうかと思うと、撩の胸に得体の知れない感情が渦巻く。
その感情に、どんな名前を付けて良いのか撩には解らない。
胸が痛い。


















なぁ、じいさん。

・・・神様な。

俺は、いつあの子を助けんの?

それは儂にもわからん。

・・・ホントに神様なのかよ?

・・・。





街路樹の枝の上に、撩と老人が腰掛ける。
香の寝室の窓には、薄ぼんやりとベッドサイドのランプの灯りだけが浮かぶ。





とにかくじゃ、とにかくその時が来れば、そうと判る。

なんかアバウト過ぎねぇ?

まぁ、世界の成り立ちなどそのようなもんじゃ。

で、どうなんの?

なにが?

彼女を助けた、その後。俺の行く末は。

元の世界に帰るんじゃよ。

殺し屋に?

ああ。

彼女はその後どうなんの?

どうもなりはせん、彼女はそのままじゃ。





俺たちの記憶は、どうなるの?








この数週間の彼女とのあれこれは、撩が人間として戻った後、一体何処へ行ってしまうのか。




残念ながら、消える。

え。

というかな、そもそも。時間が戻る事になるじゃろう。

どういうこと?


お前さんは死ぬ前、彼女は危険に遭遇する前の世界に戻る。
今この世界で彼女を助けた事で、過去にも修正が加わる。
お前さんが死ぬ事も無いし、彼女が死ぬ事も無い。
万事、解決じゃ・・・・・・・・






撩は隣に座る老人の言葉が耳の奥で反響するのを、何処か他人事のように聞いていた。
痛い。
胸が痛い。
痛みの理由は、撩には解らない。
解りたくない。
これまで散々やって来た罪への、これが罰だろうか。
カーテンの向こう側では、何も知らない彼女が穏やかに眠っている。
老人の皺枯れた声が、いつまでも撩の脳内で木霊していた。



(つづく)

第10話 その時

香がその場に居合わせたのは、偶然だった。
その日、同じ部署の先輩女性社員(所謂、お局様である。)の欠勤に伴い、
香に命じられたのは銀行への用事で、
いつもなら先輩社員が行く所を手が空いていた香に、課長が頼んだのである。
これといって難しい用件でも無い。
香は午前中の厳しい日差しの中を、出来るだけ日陰を選んで銀行までの道のりを歩いた。



取引先の銀行は、香のオフィスから歩いて10分程である。
月初の週末、お昼休み前の銀行は混雑していた。
それ程小さな支店でも無い、まあまあの規模の行内には窓口が8つほど用意されている。
その内の2つは融資専用の窓口で、通常業務を行う窓口は5つがフル稼働で対応している。
待合のロビーには順番待ちが出来ている。
香は、整理券を発券機から取り出すと、出口に近いソファに腰掛けた。
香の前には十数人の待ちがあるようなので、香は暇潰しにマガジンラックに置いてある雑誌を手に取る。
何気なく眺めた視線の先のATMにも、行列が出来ている。
個人の客も、如何にも仕事で訪れたような客も、全員が全員憂鬱そうに順番を待っている。
香はこのような用事を言付かるのは偶にの事なので、どちらかといえば良い気分転換だ。

座り心地の良いソファに、程良く効いたエアコン。
雑多な人が行き交う雑音は適度にざわついていながら、どこか整然としていて、誰も声高に話す者はない。
それ程大きくは無いヴォリュームで、ヴィヴァルディのバイオリン・ソナタが流れている。
極々平穏な、よくある光景である。
手に取った雑誌の料理コーナーのレシピを見て、香が覚えておこうと思った時、
視線を落とした香の前に、見慣れたショートブーツの足先が見えた。



黒いサイドゴアの牛革のブーツに、黒いスリムパンツ。
視線を上げるとその先には、赤いインナーとカジュアルなジャケットを着た見慣れた人物。
その彼はきっと、香にしか見えない。
香はニッコリと微笑むと、口の形だけで“冴羽さん”と呼び掛ける。
いつもなら笑顔で応えてくれる筈の彼は、何故だか真剣な表情で香を見詰めた。



逃げろ。



彼はそう言った。
香にしか聞こえない言葉で、彼はそう言った。
状況が呑み込めずに首を傾げた香の腕を掴むと、ソファから腰を上げさせ乱暴に背中を押した。



そのまま、出口に向かって逃げるんだっっ



冴羽さん?と、声に出して呼び掛けようとしたその時、
数m先の窓口のひとつから、男の叫び声が聞こえた。
それと同時に、整然とした行内の空気がピンと張り詰めたものに変わる。
撩の険しい表情に押されるように、香は大きく頷いて出口に向かって走った。









香の姿が見えなくなったのを確認して、撩はジャケットの懐から愛銃を取り出した。
4番窓口の女性行員にライフルの銃口を突き付けて、現金を要求している男に照準を合わせる。
数十人居る客達は、突然の事態に皆凍り付いて彼等の遣り取りを固唾を飲んで見守っている。
撩の姿は、誰の目にも映らない。
撩が迷わずに引き金を引く。









香が弾かれるように銀行の出入り口を飛び出すと、遠くにパトカーのサイレンの音が聞こえた。
香の前にも後にも、同じように逃げて来る人たちがいる。
きっと、あのカウンターの内側の銀行員の誰かが警察に通報できる直通ボタンを押したのだろう。
銀行の外で、携帯電話で誰かに連絡している人たちもいる。
警察が駆け付けるのと、強盗が暴挙に出るのとどちらが早いのか。
騒然とした現場周辺で、香は呆然としていた。
ただ、撩の事だけが気掛かりだった。











(ライフルの銃身に向けて一発。)

行員に向けられたライフルが暴発した。
強盗犯も想定外だったようで、突然の衝撃にライフルを取り落す。



(強盗犯の肩先に掠めるように一発。)

ぶれた筒先から飛び出た弾丸が、コンクリートの壁にぶつかって跳ね返る。
跳弾が犯人の肩先を掠める。





撩の放った弾は、衆人の目には見えない。
間接的に犯人を仕留め、結果的にはライフルなど扱い慣れない素人の独り相撲で幕を閉じた。
肩に弾が掠めて蹲った犯人を、数人の男性行員と警備員で取り押さえた。









銀行内から銃声が聞こえたのと、銀行の周りを数台のパトカーが包囲したのはほぼ同時だった。
平穏な街はたちまち騒然とし、わらわらと野次馬が現場を取り囲んだ。
呆然と立ち尽くした香になど誰ひとり目もくれず、二重三重と野次馬たちが群がり始める。




さ、冴羽・・さん。



香は思わずその場にしゃがみ込んだ。
一体、撩はあの後どうなったのか。
こうなる事が解っていて、彼が香に逃げろと言ったのだという事に、遅れて気が付く。
その後香は、どうやって会社へと戻ったのかよく覚えていない。
会社へ戻ると、社内の人間に酷く心配されたので、改めて事の重大さを認識した。
その辺り一帯では、大変な騒ぎになっていたらしい。
救急車で誰かが運ばれたらしいという情報も駆け巡っていて、社内も騒然としていた。
(怪我人に関しては、後にそれが犯人であった事が判明した)


大袈裟に安堵する同僚や上司たちの中に居て、香はずっと心ここにあらずといった状態だった。







香がいつかのバッティングセンターで、名前を呼んだら出て来て欲しいと言ったら、
撩はいつだって出て来ると言ったのに。
その日、撩の名を何度呼んでも、彼が香の前に姿を現す事は無かった。
それまでの数週間、いつも香の傍で見守ってくれていた気配は、
その事件以降、感じられなくなってしまった。



(つづく)

第11話 約束

ほんとに大丈夫? 一緒に部屋まで帰ろうか?



絵梨子はそう言って、駅で別れるまで香の事を心配していた。
偶然とはいえ怖い出来事を体験した親友が、午後中ずっとボンヤリしているのだから、無理も無い。
犯人は駆け付けた警察官にアッサリと捕まって、そのまま怪我の治療の為救急搬送された。
銀行員にも客にも、怪我人は出なかった。
どうしてあの時、犯人の構えたライフルが暴発したのか、
警察による調べが進んでいるけれど、原因の特定には至っていない。
もっとも原因は冴羽撩にあるのだけど、警察ではそれを突き止める事は永遠に無理である。




ううん、大丈夫。そんなに心配しなくても、平気だよ。



香はそう言って苦笑したけれど、絵梨子は香が地下鉄の駅の階段に消えるまで心配げに見送った。
実際、香は銀行での出来事にはそれほど衝撃を受けた訳でも無い。
午後の間に次々と齎されるニュースは、社内でも皆気に掛けていたから、
それほどの被害も無く、無事解決した事は数時間後には知っていた。
だから、香の気分が何処か晴れないのは、その事とはむしろ関係無い。
香が小さく彼の名を呼んでも、彼の気配が感じられない。
彼は香に、自分は香を助ける為に遣わされた天使だと言っていた。
これから先、香に起こる悪い出来事から香を護る為に現れたのだと。
という事は恐らく、この日起こった事件がその“悪い出来事”なのだろうと思う。

苦しい。
胸が苦しい。

この数週間、当たり前に傍にあった気配が消えた。
それがこんなにも香の感情を揺さぶる事になるなんて、香はこの時まで気が付かないでいた。
少しだけ混み始めた電車内を見渡してみても、香の探す彼はいない。
まるで肺が酸素を取り込む事を拒むように、香の胸は締め付けられた。







撩には、そんな香の事が見えていた。
まだその時はいつも通り、撩はずっと香の傍に居たのだ。
強盗犯が負傷してその場で取り押さえられた時、銀行の外には既に数台のパトカーが駆け付けていた。
そのすぐ後に、撩も銀行を後にした。
建物の外で呆然と立ち尽くしている香を見付けて声を掛けたけど、彼女の耳には届かなかった。
その時初めて、それがいつもと違うのだという事に気が付いた。
“その時”が来たのだと。

その後、彼女を心配する周りの人間の言葉にも、彼女は何処か上の空で。
1人になると、彼女は時折小さな声で撩の名を呼んだ。
すぐにでも彼女の前に姿を現したかったけれど、何故だか思うように自分自身を操る事が出来なかった。
もう撩に残された時間が僅かだという事は、明白だった。
撩は自分自身の両手が少しづつ、透けて見える事に気が付いた。
撩の身体の周りに金色の小さな光の粒が覆い、少しづつ影が薄くなっている。








冴羽さん。




香はアパートの自室の玄関を入るとすぐに、そう呼び掛けた。
けれど返事は無い。
窓際に駆け寄って、部屋から見えるいつもの街路樹を見詰める。
そこにも彼の姿は無かった。



・・・冴羽さん、還っちゃったのかな。



香は自分でそう呟いた言葉で悲しくなった。
お別れも言えなかった。
ありがとうのひと言も。
気が付いたら、涙が溢れていた。




撩は酷くもどかしかった。
すぐ傍に居るのに声の届かない相手は、自分を探して名前を呼んでいる。
届かないと解っていても、撩はちゃんと応えていた。
窓際にしゃがみ込んで嗚咽する彼女の頬に流れる涙を、触れられない手で拭うけれど彼女には届かない。
撩がこの世に生まれて、死んで、天使になって、その使命すらも全うして消えかけようとするこの時。
撩は初めて、失いたくない存在を得た。
神様は初めて撩と対面した時に、撩のこれまでの罪は赦されると言ってたけれど。
多分あれは、嘘だと撩は思う。
今この自分に課された試練こそが、罰だと。
本当に失いたくない相手は、絶対に交差する筈の無い世界に生きる彼女で。

きっと、撩が完全に消えたら、
撩は死ぬ前の自分に戻って、彼女も撩の事など綺麗サッパリ忘れて明るく生きているのだろう。
決して交わる事のない世界の何処かで。



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気が付いたら香は、高層ビルの屋上に立っていた。
屋上の手摺の僅か幅30㎝ほどのコンクリートの上から、新宿の街を見下ろしていた。
ヘッドライトの河は淀み無く流れ、星のひとつも見えない薄明るい夜空にネオンの灯りが反射する。
怖いとは思わなかった。
まるで背中に羽根が生えて、ふわりと宙(そら)も飛べるような気がした。




かおり



名前を呼ばれて振り返ると、そこには撩が立っていた。
生温い風がビルの合間を縫うように吹いて、撩の見た目よりも柔らかな黒髪を揺らす。
香の傍に歩み寄って、手摺の下から手を伸べる。
香はニッコリと微笑むと、迷わずにその手を取った。





トンと、小さな音を立てて、香が屋上に降り立った瞬間、撩は香を抱き寄せる。
香は少しだけ驚いたように目を丸くしたけれど、撩が笑うとまるで安心したように、
撩の背中へ手を回して、抱き締め返す。
何度呼んでも会えなかった彼と、どんなに傍に居ても届かなかった彼女は、
夢の中でなら、まだ互いを確かめ合う事が出来た。




もう、時間が無い。

うん、今までありがとう。




もう2人には解っていた。
残された時間が、僅かだという事を。
何から伝えれば良いのか解らないけど、伝えたかった。
余すことなく全て。




俺がいなくなっても、君は護られてるから。

私は、絶対にまた逢えるって信じてる。




撩の身体を、明るい光が少しづつ包み始める。
抱き締めあう腕に力が籠る。
少しでも長くこうしていられるようにと、離さないでいようと2人は願う。




次に逢った時にも憶えてるって約束して、撩。

ああ、約束する。





指切りの代わりに、どちらからとも無く2人は自然に唇を重ねた。
潤んだ瞳に、街の灯りと互いが映り込む。
約束が交わされるのを見届けるかのように、撩の身体が徐々に闇に融けて滲んでゆく。
香は愛おしい彼の姿をしっかりと目に焼き付けるように、最後まで泣かなかった。
 

危険を察知した真剣な表情。
コーヒーを飲みながら、懐かしそうに何かを想う淋しげな表情。
洗濯物を畳みながら笑う、悪戯っぽい横顔。
隣に並んで公園を歩く、穏やかな笑顔。
犬に吠えられて困ったように苦笑する顔。
互いに全力で何がなんでも生きなきゃいけないんだと言った、彼の言葉。
腕を掴んで事故から救ってくれた、熱い掌の温度。
穏やかな声。
広い背中。


これまでの撩の全てが、香の脳裏を駆け巡る。
きっとまた逢える。
根拠は無いけれど、香は何故だか強くそう思っていた。





ありがとう、りょお。



そう言って香が笑った時に、撩は消えてしまった。
そして香の視界も、まるで映画のシーンが切り替わるように一瞬にしてブラックアウトした。















目を覚ましたらそこは、リビングのソファの上だった。
開けた覚えのない掃出し窓は全開で、湿った風がカーテンを大きく揺らしていた。
仕事から帰ったそのままの格好で、ソファで眠り込んでいた。
変な時間に眠ったからか、頭は妙にクリアに冴えていて。
少しだけ、喉が渇いた。


香は、電気も点けずに窓際に立つ。
キッチンから持って来た冷えた缶ビールのプルタブを開けながら、窓の外を覗く。
街路樹の枝の上には、数日前からカラスが巣を作り始めた。
真夜中の中でも、カラスはもっと黒くて、その瞳はもっともっと黒い。
カラスが真っ黒な瞳で、香を見ているような気がして。
香は小さく、かぁ、と話し掛けてみた。
カラスは何も言わずに、枝の上から飛び去った。

香は何か大切な事を忘れているような気がしたけれど、それは結構いつもの事なので気にしない事にした。
本当に大事な事はきっと、その時になったらちゃんと思い出すから。
それよりも明日も仕事だし、ビールを飲んでシャワーを浴びたら、
もう一度、今度はちゃんとベッドで寝ようと、香は掃出し窓を閉めた。

(つづく)



最終話 現(リアル) 

“・・・・でね、今からちょっと病院の方に行かなくちゃいけなくて・・・”

うん、全然だいじょうぶだよ。

“ごめんね、久し振りなのに・・”

うん、解ったから気にしないで良いから、急いで行ったげて?

“うん。”

じゃあね、気を付けてね。











香は待ち合わせの新宿駅東口で、腕時計を見遣った。
約束していた観たかった映画は、お昼少し前からの上映回で。
それよりも少し早目に約束していたのは、
絵梨子と一緒に映画の前にカフェにでも入ってお茶するつもりだったからだ。
地下鉄に乗っている間に携帯に着信があった事に気が付かず、改札を出て絵梨子に掛け直したのだ。

絵梨子も約束の新宿へ、山手線で向かっていた途中に連絡が来たらしい。
絵梨子の彼が、軽い交通事故で病院に運ばれた事。
どうやら命に別状は無く軽傷のようだけど、病院で治療中だという事。
地方出身で独り暮らしの彼が今夜、一泊だけだけど医者の勧めで入院するらしいので、
急遽、彼から絵梨子にSOSの要請がきた事。

事情が事情なだけに、勿論、呑気に女友達同士で映画など観ている場合では無い。
絵梨子の彼を、香も知らぬ仲では無い。
絵梨子と彼が初めて出逢った飲み会に、香も居た。
2人が付き合うようになる前もなった後も、3人で食事に行った事は何度もある。
くれぐれもお大事にと、香は電話で絵梨子に言付けた。




どうしよう。



時間は余るほどある。
そのまま予定にしていた映画を観ても構わないけれど、それは次の機会でも良いような気もした。
今日じゃなくても。
絵梨子と一緒にもう一度来て、観たいような気もした。
午前中の新宿に、たった一人で来る事なんてこれまで無かった。
何となくその辺をブラブラしてみようかと思ったのは、
湿度の無い爽やかな初夏の晴天だったからかもしれない。

東口から時間的に閑散とした盛り場を通り抜け、
靖国通りから小さな路地に入り込み、気が付くと神社の境内に出ていた。
香が入り込んだのはどうやら正式な正面からの入り口では無かったけれど、
桜の樹の大きな枝が涼やかな木陰を作って薄っすらと汗ばんだ肌を冷やした。
手水場で手と口を清めて、ハンカチで拭うついでに額の汗も押さえた。
いつ位振りか忘れたけれど、香は神様に手を合わせた。

お願いする事は、何も無い。
香は幸せだ。
だから、怪我をしたという人の良さそうな親友の彼の無事をお願いした。











大丈夫か?リョウ。



ミックはそう言って、心配そうに撩の額の傷を覗き込んだ。
昨夜は大きなタンコブになっていたけれど、朝になるとすっかり腫れは引いた。
撩が自分で作った朝食を食べながら朝刊を読んでいたら、いつもの如くミックがやって来た。
伝言板を確認して来たらしい。
向かいのビルに住んでいるミックは、勝手知ったる相方のキッチンとばかりに冷蔵庫を開けると、
そこから勝手に牛乳のパックを取り出して、グラスに注いだ。
撩は逐一、そんな彼の様子を横目でチェックするが、リアクションはしない。
ミックという男はこういう奴なのだ。

前の日、撩はちょっとした怪我をした。
何の事は無い。
行きつけの飲み屋の照明の取り換え、というしょうもない依頼の最中、
バランスを崩して脚立諸共倒れると、リノリウムの床にデコと右肩を強かに打ち付けた。
すぐにその店のフェロモン駄々漏らしの美人ママが、
ポリ袋に入れた氷とおしぼりで冷やしてくれたのが功を奏したらしい。

目が覚めると腫れも引いていたし、そもそも怪我をしながらも撩とミックは昨夜も飲んだくれていた。
アルコールを摂る時、いつも彼等の摂取量は適量を超える。
帰宅する頃には、浮腫みも手伝ってタンコブは結構な大きさに腫れていたので、
ミックは大げさに心配しているのだ。
撩はそんなミックの視線には気が付かないフリをして訊ねる。




で?依頼は。

無し。




ちょうど良かった、と言って撩はニマァと笑う。
腫れは引いていたけれど、眉毛の上を掠めるように薄く皮膚が切れていた。
心なしか青く痣にもなっている。




美女の依頼は、ベストコンディションで請けたい。顔に傷があったら色男が台無しだからな。



トーストを頬張りながら、そんな事を臆面も無くほざく相棒にミックは呆れながらも共感する。
これがミックなら、もっと大騒ぎして恐らくは傷が治るまで部屋に引き籠るだろう。
どちらかといえば、ミックの方がナルシストだから。
ミックは撩の飲み干したグラスに、牛乳を注ぎ足した。















夏の初めの、羽化したての蝉はどこか鳴き声もぎこちない。
境内を入って来たのと反対の正面の鳥居の方から出ると、香は明治通り沿いを6丁目の方へと進む。
何処かでコーヒーでも飲みながら涼みたいな、と思いながら歩いているとその店を見付けた。
カフェというより、喫茶店というほうがしっくりとくる佇まいのその店内は休日だというのに閑散としていた。
率直に言えば、客は香以外1人も居なかった。
カウンターの中には途轍もない大きさのいかついマスターと、超絶美人のママが居て。
客はいないけれど、店内には芳醇なコーヒーの薫りが満ちていた。
香がカウンターの端の席に座ると、美人ママが人懐こそうな笑顔を向けた。



何にします?

あ、じゃあアイスコーヒーで。



美樹が小さく頷くと、海坊主は背面のキャビネットからグラスを取り出した。
店内に流れる有線からは、小さくボリュームを絞ったジャズが流れている。
ナット・キング・コールのスターダストだ。
この曲がコーヒーを待っている香に、不思議な感覚を思い起こさせた。
香は今まで夜の新宿に来た事など無かったけれど、脳裏には鮮やかな夜景のイメージが広がる。
何処だか解らないけれど、すごく高いビルの屋上から眺めるヘッドライトの河。ネオンの星屑。
生温い風が頬を撫でる感覚。
頬を包む温かい掌。
(てのひら・・?)



お待ちどおさま。


俯いて思考の渦の中で、何かのイメージの欠片を必死で掻き集めていた香の眼前に、
猫のマーク(この店のマークらしい)の付いたコースターが置かれる。
コースターの上に、涼しげなアイスコーヒーの注がれた汗をかいたグラスを置いて、
美樹は、ごゆっくり、と微笑んだ。
何かを思い出せそうになっていたけれど、それは小さなシャンパンの泡のように弾けて消える。
アイスコーヒーは夢のように美味しかった。
香の喉が渇いていた事を差し引いても、なかなかこんなコーヒーを飲ませる店は無い。
香が美味しいです、と感嘆して、美樹がありがとう、と答えた所で、漸く別の客が来た。




背の高い金髪の男と黒髪の男、体格はすこぶる良い。
この暑いのに、2人はジャケットを着用している。
入って来た瞬間から、彼等がこの店の常連だろうという事は解る。
美樹が親しげに挨拶をしながら、驚いたように撩に声を掛ける。



どうしたの?青痣(かお)? 


その問いに撩は応えずに、煙草に火を点けた。
その代わりの様に、口数が多くて愛想の良い相方が昨夜の顛末を大袈裟に説明する。
彼等に怪我は日常茶飯事だけれど、大した事の無い怪我でも派手に見えるのが顔の怪我だ。
食後にココのコーヒーを飲むのが日課の彼等のオーダーは、いつも決まっている。
何も言わずに、海坊主がコーヒーを淹れはじめる。

何気なく、そんな常連たちの遣り取りをぼんやりと見詰めていた香の方へと、撩が向き直る。
煙草を咥えた薄い唇。
真っ黒な瞳。
香はその瞳の中に映った、ネオンの星屑を思い出した。
撩の唇が動いて、“かあ”と言った気がした。背中に黒い大きな翼が広がった様に見えた。
思い出した、夢の中での約束。


撩と香の視線の外側で、美樹とミックがまだ昨夜の顛末の話しに興じている。
冴羽撩は、どうやら死ななかったようだ。
交差する事のない世界から、彼は無事生還を果たしてこのリアルの世界に帰って来てくれたのだ。
高層ビルの屋上での約束を果たす為に。




香が口の形だけで、撩の名を呼んだ。



『さ、え、ば、さん。』



撩が頷いて、微笑んだ。
これが2度目の、2人の出逢いだった。




(おわり)