冴羽先生と香ちゃん①(家庭教師)

槇村秀幸は、頭を抱えていた。
大ピンチなのである。
彼は優秀な検挙率を誇る日本警察の、その中でも超多忙を極める捜査一課の刑事である。
衝動的な傷害致死事件から猟奇的な快楽殺人、あらゆる慾に塗れた強盗殺人事件など、
手掛ける事件は、実にバラエティに富んでいる。
秀幸に宛がわれる捜査の殆どが殺しのヤマで、大都会東京・新宿という街を管轄に持つ彼等に、
安寧の日々が訪れる事は無い。

しかし、そんな事はどうでも良い。
秀幸は所詮、世の中の歯車であり、
公僕である限りそんな多忙な身の上も当たり前の事として粛々と受け止めている。
たとえ取調室でトチ狂った殺人犯が、難解な持論を展開して己の殺人を正当化しようがどうしようが。
最終的に、裁きを下すのは自分達の仕事では無いので、必要な言質と証拠を集める事に集中する。

だから彼の頭を悩ませている事は、主に私生活の事である。
秀幸は翡翠色のミルクガラスのマグカップに注いだ煮詰まったコーヒーを飲みながら、
もう一度、手の中の紙切れに視線を落とす。
それは高校3年生で受験を控えている妹・香の、全国模試の試験結果である。
志望校は何処も3流大学にも関わらず、全てD判定という驚愕の成績を叩き出した。
もう季節は秋に差し掛かろうという今。
高校の3年間、普通に勉強をしていれば、普通は安全牌であろうそれらの学校に受からなければ、
それ以外何処に行くというのだろう。
秀幸は途方に暮れていた。
本当ならば、受験生である香本人がもう少し、途方に暮れてもおかしくはないだろう状況だが。
彼女は至って呑気だ。
一応は兄にその成績表を見せる事に、躊躇いはあったらしいが(あくまで本人談)


あははー、D判定だった(テヘペロ)


と笑いながら、その紙切れを秀幸に手渡した彼女の躊躇いとやらが、
如何ばかりのものなのかは秀幸には推し量る事は出来ない。
香は頭は悪いが、秀幸にとっては目に入れても痛く無いほど可愛いたった1人の妹だ。
いっそ、受験自体を諦めても良いのかもしれないのだろうが、
やはりそれは秀幸には簡単に割り切れる問題では無いのだ。
香の物心がつく前に、母親は癌で死んだ。
秀幸と同じ刑事だった父親が殉職したのは、香がまだ小学校に上がる前だった。
母親は昔、中学校の教師だったらしいから。
家族の中で1人だけ、極端に勉強の出来ない妹が誰に似たのか、秀幸は時々不思議になる。
若くしてこの世を去った両親の心残りは恐らく、香の事だっただろう。
彼等は普通に、進学した香や就職した香や嫁ぐ香を見届ける事が何よりの希望だったろう。
今となってはもう叶わぬ彼等の為にも、
秀幸は兄として、香の受験を後押ししてやらなければと考えている。
しかしそれと同時に今、大きなジレンマを抱えている。
果たしてこのまま、自分(と、その肩に乗った両親の亡霊)の多大なる期待だけを妹に押し付けて、
彼女のもっとも苦手とする受験勉強を強いている事が、本当に正しい事なのかどうかという事だ。

決して兄の欲目では無いけれど、香は美人である。スタイルも抜群だ。
炊事洗濯掃除は、子供の頃からみっちりと仕込まれているので完璧だ。
愛嬌もある。
ハッキリ言って、男子にモテる。女子にもモテる。
頭は宜しくないが、運動神経は並外れて優れている。体力もある。
心根も優しい。
それで充分じゃないかと、秀幸はそう思うけれど。
それでもやはり、諦めきれないのだ。
じゃあ、妹の長所をこうして並べて。
どんな未来がすぐに思い描けるか、そう考えた時。








良いお嫁さんになる。




という言葉が、秀幸の脳裏に真っ先に浮かんだ。
そしてそう思えば思うほど、秀幸は何としても進学させて就職させなければと拳を握りしめてしまう。
(相手は居ないが)年端もいかない妹を嫁に出すなど、まだまだ気が早過ぎるのだ。
多少、秀幸の先走り感の否めない、妹の人生のシミュレーションではあるものの(相手居ないし)
彼が妹を溺愛しているからこその、深い悩みである事は間違いない。
一応、受験して(するのは香だが)全部不合格なら、その時考えよう。
そういう割り切りも、時には必要なのかもしれない。
しかし、秀幸は不撓不屈の熱血刑事なのだ。
出来得る最大限の努力はするつもりだ(するのは香だが)

秀幸はジャケットの胸ポケットの中の携帯電話を取り出す。
この草臥れたアンティークばりのガラパゴス携帯(香と一緒に撮ったプリクラが貼ってある)の電話帳には、
最後の望みの綱であるある人物の連絡先が入っている。
学生時代からの腐れ縁、IQ180以上の男・冴羽撩その人である。
秀幸が撩に関して1つだけ懸念する事があるとすれば、その異常なまでのオンナ癖の悪さだが。
如何せん、香はまだ子供である。
撩がとっかえひっかえ遊んでいる女達は、主に成人済みの妙齢の美女ばかりである。
こう言ってはなんだが、撩にロリコンの趣味があるなどとは聞いた事は無い。
些か不本意ではあるものの、こうなれば香の家庭教師役として彼を頼る他に手立てはもう無い。
冴羽撩という男は、新宿の外れで如何わしい何でも屋をやっておりいつも暇を持て余している。
出自は非常に裕福な家庭で、金にも困っていないのだろう。
年中プラプラしているのが仕事の様な男であり、その異常に高い知能指数は完全に宝の持ち腐れである。
受験という〆切が迫る中で、崖っぷちに立たされている自分達兄妹を救えるのは、
悲しいかな彼が適任なのだ。
それに少しだけ家庭教師としての報酬を、友人価格で値切ろうと秀幸は考えている。
受験は何かと金が掛かるのだ。
抑えられる出費は、抑えるに越した事はない。




しかしまだ、槇村秀幸は知らない。
ここで幾許かの必要経費を値切ったとしても、
彼にとって本当に大切なモノは金には換えられないという事を。
何も知らない秀幸は、液晶画面に表示された悪友の名を選んで通話ボタンを押した。



(つづく)




本当にコンパクトに収まるのか?俺。
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[ 2014/12/04 23:53 ] 冴羽先生シリーズ | TB(0) | CM(0)

冴羽先生と香ちゃん②(家庭教師)

想定外だった、良い意味で(むふ)




撩の電話にその連絡が来たのは、先週の事だった。
学生時代からの悪友で、自分とは真逆の性格の正義の味方のお巡りさんである彼は。
昔から、妹一筋の超シスコンボーイであった。
三十路も過ぎ、そろそろカッコイイお兄さんと自称するには気が引ける今日この頃。
(それでも自称するけど。何しろ撩は、自称・万年ハタチのモッコリお兄さんである。)
撩の認識が間違っていなければ、あのダサ眼鏡も三十路は超えている。
撩と秀幸が初めて出逢った頃、彼の妹はまだ幼児であった。
それから十数年、彼に聞く妹話と共に、
逢った事も無い彼女の事を撩は良く知っているような気分になっていた。
それでも、彼女のビジュアルに関しては、撩は何の期待もしていなかった。
何しろ、ダサ眼鏡・槇村秀幸の妹である。


秀幸曰く、長身でスラリとした中性的美人で愛嬌もある、 ので手を出すと殺すとの事だった。
それを聞いて、相変わらずの妹贔屓に撩は電話を挟んで苦笑した。
まさかそんなJK相手に盛れるかよ、と思った。
その時は。








いや、その時はね。

しかしである。
本日、初めての授業をつつがなく先程終了した。
本題の学習面は、もう何て言うか、何とも言いようが無かった。
取敢えず、撩の意見として近い内に秀幸に進言してみるつもりだ。
高い学費を使ってまで、進学する意味があるのかどうかについて。
受験の年のこの時期にこの理解度では、正直、受験料を支払うのも無駄であろう。

それはさておき、問題は彼女のビジュアルだ。
本当に槇村秀幸と共通する遺伝子が含まれているのだろうかと、撩は我が目を疑った。
秀幸の言葉通り、スラリと均整のとれた健康的なスタイルは。
撩の好みからすれば、些か華奢過ぎるけれども。
そこはまだピチピチのセブンチーンなので、これから幾らでも発達が見込まれる。
(主に、おっぱい方面で。)
ハッキリ言って学習面ではあまり賢くは無いのだろうが、それ以外の面での受け答えには、
打てば響くような返しがあり、コミュニケーション能力の高さは高校生のレベルでは無いと撩は感じた。
真っ直ぐに人の目を見て話す、薄茶色の瞳には他人を自然と惹き付ける魅力を備えていた。



かあいい。


ひと言で言えば、そういう事だった。
侮っていた、槇村秀幸のシスコン発言を。
今まで飲んだくれてはクダを巻き、
涙を流しながら芦屋雁之介の『娘よ』と、さだまさしの『妹よ』を熱唱する秀幸を。
撩は冷ややかな目で見詰めていたけれど。
いや。
もしもこれが、自分の妹だったなら。
俺なら家から出さないね、一歩も。と、撩は思う。

危険すぎる、外の世界は。
例えば、新宿の種馬とか呼ばれて毎日ヘラヘラナンパしているような野良犬の様な男が歩いてたりするし。







晩ご飯食べてくでしょ? さえばせんせぇ?


そう言ってニッコリ笑った友達の妹は、やばいほどに可愛かった。
茶碗に炊き立ての白飯をよそいながら、
お兄ちゃんは、今夜は遅くなるって言うから先に食べてよう?とか。
前から、お兄ちゃんに冴羽先生の話しは聞いてたの、馬鹿みたいに沢山食べるって。
だから今日はいつもより、沢山作っちゃった(テヘ)とか言うから。
それに。
鶏肉と大根の味の良く染みた煮付けと、玉葱と厚揚げの味噌汁が異常に旨かったから。
撩は、秀幸には何も言わないでおこうと決めた。




さっきまで、2人で日本史と英語の勉強をしていた時までは。
慎ましやかな兄妹家庭の財政状況を慮って、受験料とそれまでにかかる経費の削減の為にも。
受験自体の見直しを検討をしてはどうかと、ダサ眼鏡に進言するつもりでいた。
けれど数時間、槇村香と過ごすうち。
撩の考えは変わった。
妹想いの教育熱心な兄心に報いなければ(というのは、タテマエである。)
そして、心の中で早逝した彼等の両親に手を合わせた。
彼等の願いが、香の立派な成長と進学と就職とその先の未来ならば、
その助けになるよう頑張りますという意味だ。決して、いただきますの意味では無い。
もしも撩が秀幸に、受験を止めたらどうかとアドバイスして、
秀幸が、やっぱりそうかそうするか、なんてなった暁には。
もうこの夕飯にありつく大義名分が・・・、いや、冴羽撩は至って真剣である。
撩はこれまで何でも屋をやって来て、ありとあらゆる依頼を請けたけど。
家庭教師は初めてだった。


なんつーの?心が震えたっつーの?こんな俺が人の役に立てる事に。
もうこうなったら3流私立大学とか言わず、目指すよね東京大学。
どうせ、結果は同じだし。



そう思いながら、撩は香の夕飯を堪能した。
あのダサ眼鏡の野郎、毎日こんなもん食ってやがるのかと思うと。
腹の底から、沸々とジェラシーが煮え滾った。
香はそんな冴羽先生の邪心になど、微塵も気が付く様子も無い。


まだまだあるからどんどん食べてね?


なんて言いながら、撩の手元にある湯呑にほうじ茶を注ぐ。
今は発展途上のJKだって、時間が経てばいずれ妙齢のモッコリちゃんに成長を遂げるのだ。
出逢ってしまった奇跡はもう誰にも止められない、と。
撩は脳天気なJ-POPの歌詞のように、己の邪心を正当化していた。










この頃、槇村秀幸は鬼のような形相で、一刻も早く帰宅するべく仕事を片付けていた。
間の悪い事に、妹と悪友との初顔合わせに同席する事が適わなかった秀幸は、非常に機嫌が悪い。
同僚や後輩たちが、遠巻きにそんな秀幸を恐々観察している事すら目もくれずに、
一心不乱に書類の山を片付けていた。

しかしもう手遅れである。

秀幸が香の将来の為を想い、手塩にかけて仕込んだ自慢の料理の腕前は。
ガッチリと新宿の種馬の胃袋を掴んでいた。
これまで平穏だった槇村家に、秀幸は自らの手で新たなる風を引き入れてしまった。
世界は常に動いているし、妹も日々成長しているのだ。
まだまだ手の掛かる可愛い小さな妹だと思い込んでいるのは、秀幸1人である。


(つづく)



次くらいに何とか完結させます(汗)
[ 2014/12/06 19:54 ] 冴羽先生シリーズ | TB(0) | CM(0)

冴羽先生と香ちゃん③(家庭教師)

で? なんでお前がいるんだ?




秀幸がそう切り出したのは、随分、時間が経過した後だった。
巷を震撼させていた連続強姦殺人事件の犯人を検挙したのが数日前で、
数カ月ぶりに早目に帰宅できる日々が続いている。
仕事中の秀幸の携帯に送られて来たメールには、絵文字付きで。
今日はお兄ちゃんの好きなカレーにします、早く帰って来てね。のメッセージが入った。
勿論、差出人は香だ。
そして勿論、秀幸は妹の作るカレーは大好物なので、
否が応でも上昇するテンションを抑えながら若干前のめり気味で自宅に戻った。
カレーライスは秀幸の好物なのだが、
この槇村家の2LDKの手狭なダイニングキッチンに当たり前のように居座る、
目の前の大男の好物でもあるらしい。
当たり障りのない世間話の延長線上の、少しだけ棘を含んだ世帯主の疑問に。
隣同士並んで座る妹と、その元家庭教師は不思議そうに顔を見合わせる。





なんでって、ねぇ。 

うん。



2人の間には、秀幸にはよく解らない理屈が存在するらしい。
“ねぇ”と“うん”だけで、会話は成立するらしい。
しかし、それでは秀幸にはどうやら通じないらしいと、香が改まる。





あのね、お兄ちゃん。

なんだ。

なんで冴羽先生がここに居るのかって言うのはね。

うん。

冴羽先生も、カレーが大好きだからだよ。

・・・。






妹を見詰めて絶句する秀幸の視界の端で、撩が楽しげにコクコクと頷く。
そもそも、この2人を引き合わせたのは他でも無い、槇村秀幸本人である。
あまりにも惨憺たる香の成績に、頭脳だけは明晰な悪友に頼ったのは藁にも縋る思いだったのだ。
結果、意外にも香は無事女子大生になった。
撩に依頼した家庭教師の契約は、半年前の1月のセンター試験の前に終了したはずだけど。
何故だか撩は、ここのところ週の半分は槇村家で夕飯を食べている。
しかしそれは、秀幸が一緒に夕飯の席に着ける時のカウントなので、
実際にはもっと入り浸っている可能性もある。


香は私大の経済学部にギリギリの成績でパスすると、サークルにもコンパにも参加せず、
講義以外の時間は、アルバイトをすると秀幸に宣言した。
これまで散々、秀幸に経済的負担をかけて来た事が香の気掛かりの種だったのだ。
少しでも(せめて食費の足しぐらいには)と、香はバイト代を生活費に充てている。
学費に関しては、両親が2人の子供の為にと積み立てていた学資保険や死亡保険金などがあるので、
槇村家の蓄えはゼロでは無い。
そもそも非常に慎ましく質素な暮らしぶりの兄妹は、それほどお金を使わないし。
秀幸は非常に真面目で几帳面な男なので、しっかりと将来を見据えて計算している。
別にバイト代くらい、香の好きに使っても構わないというスタンスだが。
そう言うと香は今この状態が、好きにしている結果だと言って笑ったので、秀幸も好きにさせている。
兄妹は仲が良いので、槇村家はいつも平和だ。



だから問題なのは、そのバイト先なのだ。



バイトを探していた香に、ウチでバイトしなよと誘ったのは撩だった。
ウチというのは、撩が代表取締役兼唯一の社員でもある冴羽商事という会社の事だ。
歌舞伎町の外れにある撩の所有するビルの一室に看板を掲げた、如何わしい何でも屋だ。
一応は探偵事務所らしいが、そうそうドラマチックな依頼が舞い込むとは限らず。
依頼内容に関してはほぼ、来るものは拒まずという感じらしい。

秀幸はもっと、
女子大生らしい感じの(コンビニ店員とか、カフェのウェイトレスとか)仕事があるだろうにと思っている。
それに出来れば、妹と冴羽撩との関係も家庭教師の契約が切れた時点で、
終了させたかったというのが本音である。
秀幸にしてみれば、純粋で無邪気な妹にとって冴羽撩という男は害悪でしかないという認識だ。
家庭教師の数ヶ月間は、言うなれば非常事態だったわけで。
香が無事、合格出来たことには率直に感謝はしているが、
その後の事はハッキリ言って、撩の下心しか感じない。


香が冴羽商事で手伝っている仕事は、些か奇妙なモノが多い。
ついこの間は、ペットのアリゲーター(まだ子供のワニで小さい個体だ)を誤って排水口に流したので、
探して欲しいというものだったらしい。
香は撩と2人で、冴羽商事の会社名の入ったツナギに魚釣りなどで使うサロペット型のゴム長を履いて、
マンホールの下の下水の中を探し回ったらしい。
3日後、無事にワニをサルベージして、飼い主の元へと還した。

またある時は、別の依頼で(この依頼に関しては後日、行きつけの飲み屋で秀幸は撩に大激怒した。)
まるで内職の様な仕事を、香は少しづつ家にも持ち帰り2日ほど根を詰めていた。
どんな内職かといえば、
男性器を象ったシリコン製(ピンク色だ)の本体に小さなモーターを仕込むというものだ。
所謂、大人の玩具というやつだ。
そんな仕事をどんな依頼人がどういう経緯で持ち込むのか、秀幸には想像もつかないけれど。
どうやら急ぎの依頼だったらしく、香は夜更けの槇村家のリビングで黙々とモーターを仕込んだ。
仕事から疲れて帰り、そんな状況を目にした秀幸は思わず。
香に、それが一体何に使われるモノなのか知っているのか、と訊ねた。
ニッコリと微笑みながら、知らなかったケド先生が教えてくれた。と言った香に、秀幸は頭痛を覚えた。
香はそんな時ばかり、経済学部の学生らしく。
これも日本経済の一端を担っているんだよと、秀幸を励ました。


そんなこんなで秀幸は正直、
香と撩が仲良くする事も、香が冴羽商事でバイトをする事も良くは思っていない。
香はどんな如何わしい仕事でも、分け隔てなく頑張っているらしい。
確かにそれは、立派な社会勉強といえばそれはそうかもしれないけれど。
せめてもう、大人の玩具の内職だけはやらせないように、半ば脅迫まがいに撩に確約させた。
そして最近では、香の未知なる能力が開花しているらしい。
何故か香には、猫探しの才能があるらしく。
迷い猫探しの依頼が、ここの所立て続けに持ち込まれている。
妹が他のバイトを探す気も無いらしい事と、次第に冴羽商事での仕事を気に入り始めているらしい事に。
秀幸は少なからず危機感を感じている。



大学での講義の時間以外、香が撩の元でバイトをしているか、
もしくは撩が槇村家に入り浸っているかのどちらかだ。
今日のカレーにしたって、と秀幸は捻くれる。
もしかすると自分の好物だからというより、撩の為なんじゃないかなどと邪推する。
何しろこの所、忙しい身の自分よりも、悪友の種馬の方が妹と一緒に居る時間が長いのだ。
秀幸は全然面白くない、というよりも胸糞悪い。






ふ~~~~ん、カレーが大好きねぇ。ホントに大好きなものが他にあるんじゃないのか?撩。




そう言って撩に視線を移す秀幸の眼鏡の奥の瞳は、冷酷だ。
確か、撩と香を引き合わせた時の、一番最初の電話の向こうで秀幸は。
妹に手を出したら殺す、と淡々と呟いた。
心当たりがあり過ぎる程ある撩は、微妙な笑いで誤魔化しながらカレーを頬張った。
香だけは秀幸の言葉の意味を理解出来ないままに、
付け合せで作ったコールスローサラダの話しをしていると思っている。









槇村秀幸はまだこの時は、何も知らなかった。

妹がもう既に、冴羽商事の散らかった事務所の中で雇い主とファーストキスをした事も。
少しづつ撩の事を、初恋として意識し始めている事も。
兄として両親の分まで、妹の進学や就職や結婚に夢を見ている近い将来。
バイト先がそのまま、就職先になる事も。元先生で現ボスの冴羽撩の元に嫁ぐ事も。
今はまだ、誰も知らない。
嵐の前の静けさのひと時を。
秀幸は憮然としながらも、妹と悪友の他愛も無い話しに笑かされたりして何だかんだで楽しんでいた。



(おわり)



[ 2014/12/10 23:28 ] 冴羽先生シリーズ | TB(0) | CM(0)

冴羽先生と槇村さん・春(小児科医院)

槇村香はこの春、専門学校を卒業して初めて受けた面接で、
その小さな小児科医院の受付事務として採用された。
それまで女性の受付事務員が1人居たのだが、
彼女は結婚と同時に旦那の転勤で遠方へと引っ越しを余儀なくされ退職した。
そこで新たに募集をしていたところに、香が面接を受けに来たのである。


香の兄・秀幸は警察官だ。
槇村兄妹は早くに両親を亡くし、歳の離れた兄はまるで父親代わりのように妹を育てた。
高校を卒業してすぐに働きたいと言った香に、専門学校への進学を勧めたのは兄である。
香は普通に、近くの小さな会社の事務員にでもと考えていたのだが、
兄曰く、同じ事務職でも、多少の付加価値を高めた方が先々良いだろうと、
医療事務の資格を取得する為の専門学校のパンフレットを幾つか準備して香を説き伏せた。
そういう訳で今現在、香は家からバスで20分程の場所にある冴羽小児科医院で働いている。
働き始めて漸く、1ヶ月が過ぎた。
仕事はすぐに覚えた。
職場にもすぐに馴染んだ、みんな良い人ばかりだ。

若干1名を除いて。









その小さな病院には医者が2人いる。
1人はおじいちゃん先生で、もう80歳近いベテランだ。
その人の息子という人も、その昔お医者さんだったらしいが、
小児科医にはならずに、世界の恵まれない地域の医療に貢献するという信念を持って海を渡り、
残念ながら遠くの地で志半ばにして、何だったか恐ろしげな感染病に罹り死んでしまった。
そしてその息子、おじいちゃん先生にしてみれば現在唯一の肉親であり、
孫息子の若先生が、この医院の跡取りでもある冴羽撩である。
香が面接を受けに来た時、おじいちゃん先生は診察中であり対応したのが彼である。
彼は碌に香の履歴書も見ずに、明日から来られる?と訊いた。
即決であった。
看護師は3名、全員が全員、目を疑うほどの美女である。
伊集院美樹という一番年嵩の看護師が、ここでは最も長く勤めており彼女は人妻だ。
なんでも旦那は大学病院の麻酔医を務めており、撩とは古い知り合いらしい。
そういう縁もあって、この医院に勤めている。
その次に長く勤めているのが、野上麗香という看護師だ。
誰もが振り返りそうなハッキリとした目鼻立ちに、美しいプロポーションの彼女だが、
何故だか男運に恵まれないらしく、その事をいつも嘆いている。
絶賛、婚活中らしい。
一番キャリアの短い看護師が麻生かすみで、まだ看護師としては2年目で香と一番歳が近い。
大学生の彼氏が居るらしく、何かと事あるごとに香にその彼とのプリクラや2ショットの写真を見せて来る。
逐一、カッコイイでしょ?と同意を求められるが、正直、香には至って普通の青年に見える。
もしかすると、香の世の中の男性を見る基準は兄なので。
少しだけ他人とは感覚がおかしいのかもしれないけれど、と香は思う。
因みに、麗香に言わせればかすみの彼は、“ふーん、優男ね”らしい。
ひと言でバッサリと切り捨てた彼女に、かすみはそれ以来彼氏の話しはしない。
いつだったか、たまたま香とかすみ2人だけだった更衣室で。
かすみはコッソリと耳打ちするように、


麗香先輩、僻んでるのよ。あの人、メチャクチャ気が強いからさ。


だから、あの人の前で彼の話しは禁句なの。と言って、香に目配せをした。
香にしてみれば、そういうもんかと思っただけだ。
香は19歳になるが、これまで彼氏が出来た事は無い。
というか、初恋すらまだなのである。
これまでその事を、意識した事も不思議に思った事も無かった。
高校生の頃、背が高くて運動神経抜群で明るい香には、女子からの告白が何度かあったが。
残念ながら香は、同性愛的指向も両性愛的指向も持ち合わせていないので、丁重に断った。
そもそも男女交際についてですら、全く興味を持っていなかった。
周りの友人たちは勿論、かすみのように恋バナ大好きなお年頃なので。
少なからず、その様な話しはこれまで散々聞かされてはきたし、知識くらいはあるけれど。
実際にこれが恋なんだという気持ちは、残念ながら未だ未経験である。


医院長のおじいちゃんは、とても穏やかな人柄で、
患者さん(というか、患者さんのママたち)からの信頼も厚い。
そして、若先生である。
患者さん達(というか、そのママたち)は彼の事を、少なからず意識して診察に来る。
どうやら巷ではああいうタイプは、イケメンと呼ばれるらしい。
確かに、顔の事は香には良く解らないけれど、身長は驚く程高い。
香も大概長身で、それが今までコンプレックスだったし、
自分より背が高い身近な男性は兄くらいだったけど。
彼はきっと、その兄よりも頭一つ分くらいは大きいだろう。
190㎝くらいはあるだろうなと思う。
顔はまぁ整っているし、ノリが良くて話しやすいんだと思う。
良く言えば、親しみやすいと。
その上、香にはますます良く解らないけれど、医者の腕としてはピカイチらしい。
この辺りで、小児科と言えばここが断然信頼されており、繁盛している。
患者さん達(のママたち)は、明らかに楽しげな声音で若先生と話しをする。
子供の具合が悪くて来てるのに。
しかしである、皆さんは知らないのだ。
彼のもう一つの顔を。











いや~~~、さすが美樹ちゃん。
あの子ピタリと泣き止んだしさ、やっぱ子供好きとそうでないのと解るんだよね、子供って。
俺、あそこまでギャン泣きされると、お手上げだわ。


先生はお嫌いなんですか?子供。


んにゃ、好き。大好き。


何か矛盾してません?今の話し。


そぉ?いやだからさ、要するに何が言いたいかって言うとね。


はい。


ココに子供の好きな男と女がいる訳じゃん?


ええ。そうですね。


そしたらさ、もう作ったら良くね? 子供。


はぁ? ・・・あのぉ、先生の好きなのって、子供より子作りですよね?


う~~~ん、そうね。子供よりも、子作りが好きかもなんちゃって、テヘ。







終始、こんな具合である。
彼は本心なのか冗談なのか、終始この調子で美人揃いの看護師さん達を口説きまくる。
人妻だとか彼氏がいるとかそういう事は、一切関係無いらしい。








あれが無ければ、ホントに非の打ち所が無いんだけどねぇ。若先生。

まぁ、慣れちゃってますけどね、私達。

確かに、最近切り返しのバリエーション増えたわ、私。




昼間は、2時間ほど食事も兼ねた休憩時間が入る。
おじいちゃんと若先生は、奥の自宅へと帰って食事を摂って、
看護師3人組+香は、診察室の奥の休憩室で食事を摂る。
香はいつも弁当持参だ。
兄の分と自分の分と、それは高校生の頃からの香の日課で。
毎朝、5時に起床して作っている。
彼女たちは時にこうして、撩のセクハラ発言に関して愚痴を溢す。
もっとも、彼の言葉を真に受けて憤慨するという局面はとうに超え、もはや呆れているらしい。
けれどこの話題に、香だけはいつも参加できない。
何故だか冴羽撩は、香にだけは決して女扱いをしないのだ。
香を採用して以来、彼は香の事を、槇村もしくは、坊主と呼ぶ。
まるで後輩の男子に接するような態度である。




てか先生、アタシの事だけは絶ぇっ対っっに女扱いなんかしませんよ(怒)




ブロッコリーを頬張りながらそう言った香に、けれど彼女らは楽しそうに笑いながら口を揃える。
あらぁ、その方がいいわよぉ、あんなのただのセクハラなんだからー、と言う。
確かに香だって、セクハラを受けたい訳では無い。
むしろ勘弁願いたい。
これまでずっと学生の頃から、同級生の男子からも香は何故だか男扱いというか、
完全に気の置けない同性の友人扱いを受け続けてきた。
なので、今更そんな事はどうでも良いと思っていた筈なんだけど。
何故だか無性に腹が立つのだ、彼に関しては。


どうせ、アタシはお姉さま方のように美しくも賢くもありませんよっっ、という気持ちになる。
こんな感情は槇村香史上、初めての事である。











カオリンカオリン、柏餅食べるかい?




そう言って医院横の自宅の方の通用口の所で手招きしたのは、おじいちゃん先生である。
香は長い昼休みの半分ほどで、医院の周りの掃除をする事を日課としている。
勿論、休憩時間なので別にする必要も無いのだが、
食後の運動も兼ねて、身体を動かす事にしているのだ。
掃き掃除の手を止めて、香は医院長先生からの魅惑のお誘いに頬を緩めてコクリと頷く。




どうじゃ?美味しいかい?



香は口一杯に柏餅を頬張っていたので、大きく頷いて質問に答える。
老人はコポコポといい音を立てながら、マットな錆色の常滑の急須でお茶を淹れる。
茶葉は宇治の玉露だ。




貰いモンでの、アイツは甘いモン好かんからのぉ。2人では食べきれんから。




勿論、アイツというのは冴羽撩の事である。
老人に招かれるまま腰掛けた縁側で、プラプラと足を放り出しながら。
そうか、アイツは甘いもの苦手なんだな、と香は思う。
美味しいのに、損してる。




どうじゃ?仕事は。慣れたかの?

はい、皆さんとてもよくして戴いて。

そうか、良くして貰えると思うのはお前さんの心がそう思わせておるんじゃ。心掛け1つじゃよ。




香には彼の言葉の意味が良く解らなかったけれど、なんだか嬉しくなった。
まだあるから、おあがり。という彼の言葉に遠慮なく戴く事にする。
そんな平和な光景に水を差すように、ヤツは現れた。
廊下の奥から、咥え煙草でやって来た。







お、坊主。あんま食い意地張ってると、デブるぞ。



そう言って、カカカと笑って去って行った。
廊下の突き当たりにある便所に行ったのである。
撩の背中に向かって舌を出して、子供のようにアッカンべーをする香に。
老人は目を細める。
彼女はまだ、何も知らない。
あの自由奔放で好き勝手にやっている様に見えて、
結構賢い孫息子が、これまでに無く彼女の事を気に入っているという事も、
それはまるで春の日差しのように微笑ましい光景だという事も何も。
彼等を引いた目線で眺める老人には、それら全てが平和で温かいと思えた。



(つづく)






拍手コメントで、カオリンは制服ですか(わくわく)?
という質問を受けましたので、お応えします。
はい、制服です。
ワタシの行きつけの内科の看護師さんは、ピンク色のナース服なんですが、
受付のお姉さま方は、同じピンクなんですケド胸元に赤いリボンを付けてるんですね、細い。
だから、ワタシの脳内ではあの制服を着て貰って妄想してます。
そして紺色のカーディガンです(萌)
皆さん、お好きなように制服を着せて妄想して下さい(*´∀`*)ノシ


[ 2015/01/03 23:20 ] 冴羽先生シリーズ | TB(0) | CM(2)

冴羽先生と槇村さん・夏(小児科医院)

なんか最近、咽頭結膜炎の患者さん多いですねぇ。




香が受付の事務イスを回転させながら、手持無沙汰にそう言った。
珍しく、暇な1日だ。
いつもなら待合室には常に数組が待機しているが、今日はまばらで。
時折、こんな風に職員以外誰も居ない時間が訪れる。
咽頭結膜炎、巷では俗にプール熱と呼ばれる感染症がこの近所の子供たちの間で、
爆発的に流行している。




プールの授業が始まったからね、小学校も幼稚園も。 中耳炎も増えるわよ、その内。

そうなんだぁ。




香の背後にある棚の中のカルテを整理していたかすみが教えてくれる。
香は子供の頃は、保育園から高校時代に至るまでずっと皆勤賞だった。
虫歯もゼロで、病院に掛かる事は殆ど無かったので、
その様な季節の流行病というものがあった事など忘れていた。
そう言えば、友達がお多福風邪になっても水疱瘡になっても香にはうつらなかった。
なので未だ未経験である。






ハァイ、カオリ♪ カスミ、ごきげんよう。


入り口のドアが開いたので、患者さんが来たのかと思って2人が視線を向けた先には。
白衣の下にピンク色のワイシャツを着た、金髪碧眼の男が立っていた。
彼はすぐ隣にあるエンジェル調剤薬局の薬剤師、ミック・エンジェルである。
妻のかずえも薬剤師で、2人でやっている。
すぐ隣という事もあって、この小児科の患者はほぼ、その薬局の客でもある。



こんにちわぁ。と、2人が声を揃えると、ミックは綺麗なウィンクをしてみせる。
午前中の間に薬局を訪れた患者の資料が挟まれたクリアファイルを香に渡すついでに、
白々しく香の手を握る。
香は至って無自覚だが、どうやら香はミックに尋常では無く気に入られているらしい。
カウンターに肘をついて世間話モードに突入したミックが、かすみに向き直る。




そういえば今年は? 夕涼み会はいつやるの?

あ、来週の週末、七夕さまの時に。

そうか、じゃあカズエにもそう言っとかなきゃ。

ええ、待ってます。





そんな2人の遣り取りを、香は首を傾げながら聞いている。
そういう香の仕草イチイチに敏感に察知して、先回りするのがミック・エンジェルである。






あぁ、そういえばカオリは初めてだったよね。

そう言えばそうですね。

???







だいたいいつも七夕前後に、冴羽小児科の面々は夕涼み会と称した飲み会を敢行する。
メンツは勿論、院長と撩、看護師&事務員、
そして薬剤師夫妻、それに美樹の夫である伊集院氏だ。
病院の裏手には、冴羽家の自宅があり庭は結構な広さがある。
毎年その庭で、バーベキューをするのが恒例だ。
院長主催のいわば社内行事であるが、ご近所さんの好でミック夫妻も飲み会に参加する。











なんか最近、若先生のセクハラ、小康状態ですよね。




そう言った麗香に美樹は暫し考え込む。
そう言われてみればそうかもしれないと、思った。
最近の冴羽撩は、妙に落ち着いている。
美樹は、午前中に院長が総合病院への紹介状を書いた男児(4歳)のカルテへと目を落とす。
鼻の穴にボタン電池を詰めて、取れなくなって数日。
変な色の鼻水を垂らし始めたところで、母親に事態が発覚して連れて来られた。
患者曰く、バレたら叱られると思って言わなかったらしい。
どうしてそんなものを鼻に詰めたのかは、謎である。
鼻腔の奥が爛れていたので摘出と処置だけして、念の為大きな病院への紹介状を書いたのだ。
もう少し発見が遅れていれば、粘膜に著しいダメージを負っていただろう。
子供は鼻の穴に何かを詰めるのが好きだ。(特に男児)
豆まきシーズンには、必ずといっていいほど数人は大豆を鼻に詰めて連れて来られる。



そう言えば数日前、
撩が鼻血を垂らして鼻の穴にティッシュを詰めて診療に当たっていたのを、美樹は思い出す。
確かに彼はこの所、何か少しおかしい。

(下ネタ言ってないと、欲求不満になるのかしらね?)

しかし、美樹はそんな事はどうでも良いので、頭を仕事モードに切り替える。
背後で麗香が、先生どうかしたのかなぁ。と呟いていたけれど美樹は生返事を返した。













ねぇねぇ、院長。

ん?なんじゃ? カオリン。

なんか今度、夕涼み会っていうのやるんですよね?

おお、そうそう。来週な。カオリンは初めてじゃったな。

はい、すっごい楽しみです。





昼休みの縁側で、院長の茶飲み話の相手を務めるのが、この所の槇村香の日課だ。
表の掃き掃除をやっていたら、何処からともなく院長が忍び寄り手招きする。
白いパピコを半分ずつ握った2人は、並んで縁側に座って庭木を眺めている。







ああああああ~~~~

穏やかな2人の会話に割って入ったのは、撩だった。
廊下の奥から咥え煙草でやって来て、煙草を落として大声を上げた。



なんじゃ騒々しいぞ、撩。

っつーか、それ。俺のパピコ。





そう言われて、2人は手の中の冷たい氷菓を見詰めてから、互いに見詰め合う。
香は知らない。
院長に手招きされてここに誘われ、お食べ?といって貰ったから食べたのだ。
別に盗んだわけじゃない。




っんだよっっ、人が風呂上りに食おうと思って買って来てたの、勝手に食いやがって(怒)

ふぉふぉふぉ、器が小さいのぉ。良かろう、このくらい食べたって。のぉ?カオリン。





小さい男じゃ、と言いながら老人は気にする事無く、手の中の容器をチューチュー吸った。
香は少しだけ気の毒に思ったけど、半分以上食べた今、
返す訳にもいかないので、聞こえないふりをしてやはりチューチュー吸った。
この後、数日に亘って、
撩は香の顔を見る度に、パピコ泥棒呼ばわりするので。
仕方なく仕事帰りに連れ立ってコンビニに行き、何故だか随分年上の男にパピコを奢った。
















は、は、はじめまして(汗)






伊集院美樹の夫だというその彼は、見上げる程大きかった。(恐らく身長は、ゆうに2m以上だろう)
香は初めて会う彼に多少ビビったけれど、他のメンツは慣れたもので気にならないらしい。
彼は至極無口な男で、撩とミックがバカ騒ぎする中、彼は粛々とバーボンを飲んでいた。
香1人だけ未成年なので、コカコーラの瓶を握っている。
他のメンバーは、キンキンに冷えた生ビールだ。
夕方、バーベキューの準備をしている所へ近所の酒屋がやって来て、
木製のケースに収められたバーボンを1ケースと、
業務用サイズの生ビールの樽サーバーを置いて行った。
どんだけ飲むのだろうと、香は驚愕したけれど。
これまた彼等の通常運転らしく、平然と伝票にサインするかすみを香は眺めていた。


撩は上半身裸に、短パン一丁で首から聴診器を下げている。
ミックもまた上半身裸に、スラックス姿できっちりネクタイだけ締めている。
香は1人素面の筈なのに、テンションは撩とミックに負けず劣らず高い。
3人は庭の片隅で、手持ち花火で盛り上がっている。
それを他のメンツは冷静に見ながら、話しに花が咲いている。
女ばかりの看護師3人と、薬剤師1名。そこに、老人1名。
何故だかこちらは、独身組の恋バナで盛り上がっているらしい。
その話の輪から少し外れて、大男が1人粛々と手酌で酒を呷る。




撩の奴、アイツのこと随分、気に入ってるな。



超絶無口の男がポツリと呟いて、女達も彼の見遣る視線の先を辿る。
もしかすると、伊集院隼人がまともに口を利いたのはこれが初めてかもしれない。
この会が始まって、もう2時間は経過している。
美樹は夫の言葉に、数日前の麗香の言葉を思い返す。



“ なんか最近、若先生すこしおかしくないですか?”


どんな風に?と訊いた美樹に、麗香はセクハラが小康状態だと言ったのだ。
そもそも、セクハラが常態と化している日常が異常なので、
気にも留めなかった(むしろ、良かった良かったと思っていた)美樹だけど。
もしかしてと、この夜初めて思った。




そんな全員の視線が自分達を取り囲んでいるとも知らず、酔っ払い達と未成年は、
まるで中学生男子のように、じゃれ合っている。
2~3本纏めて手持ち花火を握り、互いに火花を向けて、追い掛け合って遊んでいる。
もしかすると彼は。




子供みたい。



そう言ったのは、麗香だった。
少しだけ面白く無さそうな響きに聞こえたのは、美樹の気のせいだろうかと思ったけれど。
次の瞬間には、話題はかずえの夫の愚痴(という名の惚気)に変わっていたので、
美樹は何を考えていたのだか、良く解らなくなってしまった。
夏の夜は平和に流れている様に見えて、
少しづつ何かがそれぞれの心の中に芽生えていた。


(つづく)






※ カオリンがりょうちゃんにパピコを奢った時の詳細妄想 ※

カオリンはあくまで、りょうちゃんが風呂上がりに食べるためにパピコが必要なのだと思っている。
なので、1つだけ買って渡して帰ろうとするんだけど、
何故かりょうちゃんは、コンビニの外でおもむろに袋を開封。
半分こにして片方をカオリンに渡す。
不思議そうに首を傾げるカオリンに、良いから食えといって強引に手渡す。
夕焼けのコンビニの前で、無言でパピコをチユーチューする二人。
食べ終わったら、じゃまた明日。と言い残して、りょうちゃんさっさと帰る。
なんだあれ、変なの。と、狐に摘ままれたようにぼんやりとりょうちゃんの背中を見送るカオリン。
ケシ子の脳内では、コンビニでパピコを奢った時にこういうやり取りが為された事になっております。
[ 2015/01/05 22:54 ] 冴羽先生シリーズ | TB(0) | CM(0)

冴羽先生と槇村さん・秋(小児科医院)

先生。

なぁにぃ~~?美樹ちゃん 不倫のお誘いなら大歓迎だよ♪




冴羽撩は、つい今しがた診察を終えた患者のカルテに所見を書き込みながら、
脳天気な声で答えた。
午前の受付が終了した今も、待合室には数組の親子が待っているらしい。
このまま行けば午前の診察は、昼休みに少しだけ食い込むだろう。
美樹はいつものセクハラ医者の戯言を華麗にスルーして、話しを続ける。
次の診察の為に、数分前に撮影されたレントゲン写真を、
冴羽のデスクの前に設置されたシャウカステンに並べて差してゆく。
小学2年生男児は、1週間ほど前の昼休みに校庭にある滑り台を逆走し、
上から滑って来た同級生と衝突、そのまま地面へと落下して手首を骨折した。
ギプスで固定した患部の経過を見る為に、来院している。
暑い盛りを過ぎ、寒くなる前の短い季節は。
外で元気に暴れ回る子供たちにとっては、怪我の危険がつきものだ。



先生って、もしかして。



美樹が意味深に、言葉を区切る。
撩はその美樹の様子に、カルテから顔を上げて首を傾げる。




香さんの事、好きだったりします?



撩の指先から、愛用のボールペンが落ちる。
一瞬、気を抜いた撩はしかし、ハッと気を取り直しボールペンを拾い上げる。





な、な、何の冗談なのよ、美樹ちゃん(汗) 誰があんな色気もへったくれもねぇお子ちゃまを・・・

へえ~~~、お子ちゃまねぇ、先生のストライクゾーンって何処から何処まででしたっけ?




そう言われて、撩はグッと言葉に詰まる。
それは常々、撩がお題目のように唱える口癖だ。
何処か有無を言わせぬ美樹の詰問に、撩が渋々答える。



・・・18歳以上、35歳未満。美魔女は、その限りに非ず。

ふふふ、香さんは生憎、ピチピチの19歳みたいですよ?先生?

ふ~~~ん、でも、そもそも男の子はストライクゾーンには含まれてないからなぁ。



逆に切り返して、撩が持ち直した所で、
またしても美樹が不敵な笑みを浮かべて攻勢をかける。




まぁ、先生の目にはそう映ってても、他の人にとってはそうでもないみたいですよ?薬屋さんとか。

何それ、どーゆー意味?

結構、口説かれてるみたいですよ?香さん、気が付いてないですけど。




美樹がニッコリ微笑む。
撩は内心、出入り業者かっっと、数人の見知った製薬会社営業マンの顔を思い浮かべる。
何故だかこの病院に配置される営業マンは、若い独身の男が多い。


あ゛ぁ、あんだとぉ? 佐々木の野郎かっっ?


撩は営業マンの中でも、一番女子にウケの良さそうなソフトな物腰の線の細い男を思い出す。
美樹が答える前に、それは起こった。
待合室の方からの、数人が言い争う声。
香の心許ない声が小さく、すみません、すみませんと謝っている。









騒ぎを聞いて撩が待合室に出てみると、それは奇妙な光景だった。
待合室の一角はプレイマットを敷いた、玩具コーナーになっている。
そのマットの上には、5歳男児と3歳女児が対峙している。
唇を尖らせて立ち上がる女児(栞ちゃん)の手には、積み木が握られている。
そのすぐ傍らに座り込んだ男児(大ちゃん)は、目に涙を溜めて唇を噛んでいる。
男児のおでこは、赤く腫れ明らかにタンコブが出来ている。
恐らく、その状況を鑑みると、凶器は積み木だろう。

その傍で2人の母親たちが何やら言い争っている。
その横で香が、すみません、すみませんと、オロオロしているのだ。
かすみが、事情を知らない撩と美樹に小声で説明する。







女児の母親は、1人で遊んでいた我が子に安心して雑誌に集中していた。
片や、男児の母親も他の子供の母親と世間話に興じていた。
2人ともに、子供から目を離していた時に、それは勃発したのだ。
何やら2人の間で小さな衝突が起き(恐らくは、玩具の取り合い)、
小さな方が凶器を手に暴力に打って出たのだ。
その一部始終を目撃したのが、すぐ目の前のカウンターに座っていた香だった。
すぐさま現場(プレイマット)に駆け寄り、オイタをした3歳児にダメでしょ?と言ったのだ。
その辺りで、母親たちも異変に気付く。
まず声を荒げたのが、女児の母親であった。
事情が呑み込めないままに、小さな我が子の方を諭す年若い事務員にクレームをつけた。
一方、黙っていられないのは男児の母親である。


子供も持ってないような貴女(香である)に、何が解るの?口出ししないでっっ

と喚く女児の母親に、香を庇いつつ我が子の被害を訴える。
もう、待合室はちょっとした修羅場を迎えていた。
かすみも後から母親たちの言い争いを聴いて、事情を解読した次第だ。
撩はそんな母親たちは放置して、
じっと対面して睨み合っている2人の幼児に、目線の高さを合わせる。





なぁ、しーちゃん。りょお先生は、らんぼうな女の子は嫌いだなぁ。結婚してあげないよ?



彼女は生まれてすぐから、この病院のかかりつけだ。
最近少し、おませさんになって。
いんちょーせんせーよりも、りょおせんせーがしゅき。と、いっちょまえに選り好みをする事を覚えた。
撩は、パパの次にりょおせんせーと結婚しゅる、と言われたらしい。



こういう時は、なんていうの?



そう問いかけた撩の目を、幼い瞳でじっと見詰める。
暫し大きな医者と小さな子供が見詰め合い、彼女は小さいなりにも一生懸命考える。
撩の方から視線を、先程まで対峙して睨み合っていた相手へと戻す。




ごめんなさい。

・・・いいよ。



さすがに、5歳児である。
凶器で殴りつけられたにも関わらず、広い心で許しを与えた。
しかし、目の縁には涙が滲んでいる。
互いに、ちっともごめんなさいでもいいよでも無い、不穏な表情ではあるものの。
一応は、和解は成立したらしい。
それを見た母親たちも、それ以上は何も言えない。
子供たちが和解した以上、それ以上の言い争いは不毛である。
撩は泣かずに我慢した偉いお兄ちゃんの頭を撫でる。
ツルツルして滑らかな猫毛は、子供特有の柔らかな温かさで撩は知らず笑顔になる。


よぉ~~っし、先にそのタンコブ、診てやるぞほら。偉かったな。


そう言って、男の子を抱き上げると診察室へと消えた。
後に残された者たちは、少しづつ元通りの空気に戻る。










はぁっっ



香は表を掃く手を休めて、医院の入り口にある3段ほどの低い階段に腰を下ろす。
つい数十分前の出来事は、思い出す度、憂鬱になる。
悪気など無かった。
母親たちは、自分達の事に夢中で事件が勃発した事に気が付いて無かったし。
良かれと思って声を掛けたのに、正直、あの母親の言葉に少しだけ凹んでいた。
思い直して済まないと思ったのだろう。
2人の母親は帰り際に、香に謝って帰って行ったけれど。
香の心は晴れない。
何度目かの溜息を吐いた時に、隣に誰かが座る気配に香が顔を上げる。



あ、先生。



隣に座ったのは、撩だった。
煙草を咥えて、片手には携帯灰皿を持っている。
何も言わないけれど、黙って煙草を吸っている。
香は聞いてなくても構わないけど、と思いつつ何故だか愚痴を溢していた。
母親の2人ともが、取り乱していたとはいえ。
正直、あの言葉に傷ついた事。
子供もいないクセに、何が解るのかという言葉。
そう言った張本人は、後で詫びてくれたので、だからそれはきっと香の心の問題なのだ。
確かに香は社会に出て数ケ月しか経たない、半人前だ。
それでも少しづつでも、仕事にも慣れてきたつもりだった。
でも、やっぱり傍から見ればただのひよっこでしかないのだろう。
男の人が仕事を頑張って、一人前になってゆくのだとしたら。
女の人は結婚し母親になって初めて、一人前と見なされるんだろうか。
そういう何もかもを、突然数十分前に突き付けられて、香は思い悩む事となった。
撩は何も言わなかったけれど、煙草を吹かしながら聞いていた。


いつもの撩ならここで、それなら子作りしようか?なんて、軽口を叩く男だけれど。
何となく彼女相手に、それをいうのは憚られた。
セクハラをしないかわりに、撩は香の癖毛をクシャクシャと撫でた。
彼女はまだまだ、世間を知ら無さ過ぎだ。
子供可愛さに周りが見えていない母親にも、悪気は無い。
その事を真に受けても仕方がないのだ、世の中には受け流す事と受け止める事がある。
彼女はまだその違いが、良く解っていないのだ。
知らないが故の強さもあると同時に、脆さも併せ持っている。
それが妙に撩を惹き付ける。
彼女が大人になってゆくのを、傍で見て居たい。



ほら、食えよ。


そういって撩が白衣のポケットから取り出したのは、栗饅頭だった。
香は思わず吹き出した。
いつもなら、院長先生がお茶のお供に誘いに来るのに、今日はどうやら撩らしい。
香は、戴きます。と言って、撩の手から栗饅頭を受け取った。







何かこれ、お線香の味がします。

うん、仏壇の前に置いてあった奴だから。





撩は笑いながら、煙草の灰を灰皿に落とす。
香も笑いながら、いつの間にか憂鬱な気持ちが晴れるのを感じていた。
やっぱり、甘いものの力は凄いなぁ、ストレスをやっつけてくれる、と思っているけれど。
本当にそれが、スイーツの効果なのか、それとももっと別の何かなのかはまだ良く解らない。









昼休みの待合室から、麗香は大きな窓の外を眺める。
病院の入り口の小さな段差に座り込んで、何やら笑い合っている2人組を見るとも無しに眺める。
彼は彼女の柔らかそうな栗色の癖毛を、優しく撫でる。
何を言ったのか知らないけれど、落ち込んでいた彼女が小さく笑う。
目の前で誰かと誰かが恋に落ちて行くのを眺めるのは、正直好きじゃない。
見ている方でなく、渦中の人間になりたいのに、いつも。



どんまい。


気が付くと、背後に先輩看護師が立っていて、
麗香の心を見透かしたような言葉を掛ける。



私、やっぱり男運ないみたい。

実はその事なんだけど、


美樹が徐にその話しを切り出す。
夫の職場の大学病院の心臓外科医との縁談。
少し歳はいってるけれど、条件は悪くない。
一度、逢ってみてはどうかという先輩に、麗香は苦笑しながらも頷いた。

因みに、その日の冴羽家の縁側で院長先生のお供に呼ばれたのは、かすみだった。



(つづく)



[ 2015/01/07 22:54 ] 冴羽先生シリーズ | TB(0) | CM(0)

冴羽先生と槇村さん・冬(小児科医院)

この季節はどうしても、病院は忙しくなる。
連日、風邪っ引きの子供たちが引っ切り無しに訪れ、休む間も無いほどに診療に追われた。



臨時休校になったらしいわよ、小学校。



朝、そう言いながら出勤してきた美樹に、香と麗香はやっぱりと頷いた。
ここ最近のインフルエンザの発生率は、日に日に増え、
とうとう、かすみまでインフルエンザに罹って2日前から休んでいる。
一応、医療従事者は流行前に毎年、予防接種を受けるのが常だが。
それで必ずしも感染しないとはいえない。
むしろ、毎日のように感染者と接触するのだ。リスクは常にある。
罹ってしまえば、たとえ症状が治まっても5日間は休まなくてはいけない。
忙しい上に人手が足りないのが、この所の冴羽小児科医院の現状だ。
実は、かすみが休む前には麗香が休んでいた。
漸く麗香が出て来たと思ったら、まるで入れ違う様にかすみが倒れたのである。

そして忙しいのは、医者、看護師だけでは無い。
香の業務もそれなりに忙しい。
まず、受付の業務とは別に、電話の応対が急増する。
患者の母親たちも、このインフルの猛威は重々理解しているのである。
それ以外の症状で、日頃なら病院に赴く事も。
場合によっては、病院自体に行く事を躊躇う向きもある。
待合室で風邪を貰って帰るという事に皆、敏感になっているのだ。
そうなると必然的に、どうするのがベストだろうかという問い合わせの電話が増えるのだ。




子供さんが、2人、3人と居る家庭は順番に罹るからね。仕方ないわ、どうしても今は。




そう言って苦笑した麗香は最近、年上の心臓外科医と付き合っている。
秋頃、美樹のセッティングにより出逢ったという彼は、
どうやら男を見る目がシビアな麗香のお眼鏡に適ったらしい。
恋愛関係が充実している彼女は、気の強さが少しだけ緩和して雰囲気が柔らかくなった。

連日の忙しさに疲労が溜まっているのか、美樹もまた本調子では無いらしい。
風邪では無いが、いつも悩まされている肩凝りと眼精疲労がピークなので、
今夜は行きつけの整体に行かなきゃと、愚痴を溢す。
女性陣の中で元気でピンピンしているのは、香1人だ。
香は子供の頃からずっと、皆勤賞だった。
皆が色んな感染症で学校を休んでも、香はいつも健康だった。
インフルエンザにもお多福風邪にも水疱瘡にも麻疹にも罹らなかった。
それが良い事なのかどうか(大人になって罹った方が重篤化しやすいし)は別として、
この季節に学校が臨時休校になるという現象が、香には非常に懐かしく思い出された。

香が物心ついた頃には、歳の離れた兄はもう既に社会人として働いていた。
全く記憶にないような小さな頃に、母親は他界しているし、父親の記憶もまた朧気だ。
家に帰っても、いつも遅くまで香1人の槇村家の茶の間は静かだった。
だから香は、学校に居る時間が本当に楽しかったし、臨時休校になる事がとても嫌だった。
友達たちは、単純に学校が休みになると喜んでいたけれど。
どうせ休みになっても、家の外には出歩いてはいけないから(当然である)遊びにも行けないし、
全然つまらなかった。
休みが明けて、学校に行くと。
友達たちは皆、外に出られないなりに母親や兄弟たちと過ごしておりその話しを聞かされる度、
香は、どうしてうちはお兄ちゃんと2人だけなんだろうと、淋しく思った。
勿論、警察官で立派な兄の事は誇らしかったけれど、小さい頃の香はいつも淋しかった。













なんかアタシ、今朝起きた時から喉がおかしいんですよねぇ。風邪かも。



香がそう言ったのは、忙しさのピークもそろそろ峠を越した頃だった。
臨時休校は結局3日間続き、かすみが復帰して来るまで大変な忙しさだった。
そう言いながら、カーディガンに袖を通した香に、
美樹があ~~んして?と言って、喉の奥を覗く。
腫れては無さそうだけど、と言いながらナースキャップをピンで留める。
一応、後で先生に診て貰ったら?というかすみに香は頷く。
香さんが居なかったら困るものね、という美樹に麗香も大きく頷く。
もうすっかり、香は頼れるスタッフの一員として皆から可愛がられている。
もう心許ないひよっこでは無いのだ。








ありゃぁ、こりゃお多福じゃな。




院長は丸い眼鏡の奥の目を細めながら、そう言った。
その日1日、香はマスクを着けて受付をやったけど、時間を経る毎に調子の悪さに拍車が掛かった。
耳の下辺りが痛み始め、悪寒がするので恐らく熱も上がっているだろう。
数時間毎に、かすみは香の顔を覗き込み、顔真っ赤よ?と心配していた。
診療時間が終わって、全員が見守る診察室で院長はそう診断を下した。




撩、車で送って行っておあげなさい。


この時既に、熱は38℃を超え始めていた。
今晩は熱が上がる予感がヒシヒシと香を襲う。
バスで20分、徒歩7~8分の帰宅時間を考えると、院長の提案は非常にありがたかった。
香はこの時、自覚が無かったけれど。
傍から見ると、かなり朦朧とした状態であった。




撩が香から詳しい住所まで訊き出して、あぁあそこら辺かと理解して送って行く間に。
香は完全に寝落ちした。
途中、早退したらどうかと言った撩に、香は大丈夫ですと言って1日頑張り通した。
香が完全に眠りに落ちる前に、撩は少しづつ香から情報を引き出した。
どうやら彼女が兄と2人暮らしであるらしい事と、その兄は忙しい身の上である事は前から知っている。
お兄さんは今日は?遅いの?という撩に、香は呂律の怪しい言葉で。
わかりましぇんたぶん、と答えた。
彼は刑事だそうだ。

いま、れんじょくしゃつじんじけんのそうしゃでかえりはおしょいんれす。

どうやら頬っぺたが腫れ始めて、滑舌に影響が出始めたらしい。
喋るのが辛そうな香にそれ以上質問するのは止めて、
後部座席に置いてあったブランケットを掛けてやった。
もうすぐで、冬が過ぎれば香が働き始めて1年になる。
撩は香が面接に来た日の事を、しっかりと憶えている。
ヤバイ位に可愛い子だと、激しくときめいた。
この数ケ月、彼女という人間を見詰め続け、撩はもう重々自覚している。
これは恋だ。



生真面目に仕事を覚えようと頑張る姿。
就業時間外に職場の周りを掃除する姿。
小さな子供から年寄り(院長)まで、誰とでも打ち解けて周りを和ます才能。
まるで子供のような心からの笑顔。
その全てに、撩は恋している。
こんな気持ちになったのは初めてかもしれない。
これまで、恋人が居なかった訳でも無かったし、適当に遊んでもきた。
でも、人生を共にしたいと思った相手は居なかった。




その比較的新しい公団住宅の7階に、槇村兄妹の住まいがあるらしい。
入り口の傍まで車を付けて、香を起こしたけれど。
車を降りながら礼を言う香の足取りが覚束ない状態で、今にも倒れそうなので撩は思わず抱き上げた。
香は恥ずかしそうにしたけれど、大人しくされるがままになっていた。
部屋まで運んで2LDKの一室、
淡いオレンジ色のベッドカバーの掛かった香のシングルベッドに降ろすまで、
香は真っ赤になって俯いているだけで、一言も喋らなかった。


あ、あのパジャマに着替えりゅのれ・・・


と言われて、撩はハッとしてゴメンと言いながら香の部屋から出た。
香が着替えている間に、キッチンに立って洗面器の所在は解らないので、
適当な大きさのステンレスのボウルに氷と水を満たした。











はぁ、ちゅめたい。




そう言って気持ち良さそうに、香は目を閉じた。
パジャマに着替えてベッドに潜り込んだ香に、タオルは何処?と訊ねた。
氷水に浸したタオルを、オデコに乗せてやると香は漸く落ち着いた。
滑舌の悪い言葉で、
ありがとうございました先生にうつしたらいけないからもう大丈夫です、というような意味の事を言ったけど。
撩は解読できなかったフリをした。
生憎、撩はもう既にムンプスウィルスの抗体は出来ているので、問題無い。
なので、彼女をこの状態で1人にして帰るつもりは、サラサラ無い。
これを見越して、あの狸ジジイ(院長)が送って行ってやれと言った事は、撩にも解っている。
帰りが遅いという彼女の兄が戻るまでは、傍に居てやろうと思っている。




あのさぁ、きつかったら返事は良いんだけど。



撩がそう言うと、香は目を開けてコクンと頷いた。
そこまで酷くは無いけれど、確かにいつもの香よりも幾分ホッペが腫れている。




・・・こんな時に言うのもなんだけどさ。

???

好き。

ふぇ???




驚きとおたふく風邪と発熱とその他色々で、間抜けな声を上げる香に。
撩は思わず、ププッと吹き出す。




いや、だから返事はイイから(笑)

しょんなこといわれても、むり。



香の顔が赤いのは、39.4℃の発熱とはまた違う要因によるものだ。
香は気が付いた。
この目の前の彼は初め、自分の事を全くと言って良いほど女扱いしなかった。
まるで男の子に接する様な彼の態度に、香は珍しく腹を立てていた。
でも気が付いたのだ。
香は彼にちゃんと女の子として見て欲しいと、思っていた事に。
この数ケ月2人は、殆どはふざけ合っていたけれど。
それでも、香が真剣に聴いて欲しい話しを撩は何も言わずに、ちゃんと聴いていてくれた。
気が付いた、彼がいつもすぐ近くで見ていてくれた事に。




付き合おうか?俺たち。



数秒間、香は無表情で固まった後、コクンと頷いた。
頷いた後で、布団を頭まで被って隠れてしまった。
タイミングは最悪だと、撩は自分でも思う。
それでもきっと、彼女が自分の運命の人なのだと確信している。
暫くして寝息を立て始めた彼女の寝顔を見ながら、取敢えず。
将来の義理の兄となる筈だと勝手に決めた彼女の兄が帰るまで、ここで待つ事にする。
暖房を効かせた小さな6畳間の彼女の部屋で、小さな寝息を聞きながら、
撩は小さく頷いた彼女の返事を思い出して、何度もその幸せを噛み締めていた。



(おしまい)



[ 2015/01/10 06:18 ] 冴羽先生シリーズ | TB(0) | CM(0)