① 別離

その部屋の前で、撩は香の掌の上にもう1つの部屋の合鍵を握らせた。
少しだけ困ったように苦笑いして、しっかりしてくれよ相棒。と言うと、香の癖毛をクシャッと撫でた。




その日の夕方に初めて訪れたそのアパートの1室で、今夜から暫く。
香は独り暮らしをする。
仮住まいのそこは、新宿のアパートの自分の部屋とは全く違って。
見慣れない壁のクロスも、真新しい安物のカーテンも、全てが寒々しい。
大きめのボストンバッグの中に入るだけ。
それだけを持って、香はこの見知らぬ街に来た。
それは勿論、撩も同じ事で。
撩の場合、香以上に荷物は身軽だった。
お互いに、これから暫く必要になるスーツなどは前もってこの部屋と撩の部屋へと送っておいたのだ。
それをちょうど、到着と同時に受け取った。
香は床に直接敷いた布団に寝転んで、
さっきの別れ際、撩がくれた銀色に光る合鍵を天井に吊るされた電灯に翳す。
撩の部屋の鍵だ。
撩の相棒になってもうすぐ6年。
あの新宿のアパートに転がり込む前は、兄と2人暮らしで。
その後はずっと撩と一緒だったから、香は生れて初めて全くの独り暮らしになる。
見慣れない壁も天井もカーテンも淋しいけど。
一番淋しいのは、撩がいないという事だ。







奥多摩の教会で伊集院夫妻が結婚式を挙げたのは、つい数日前の事だ。
結婚式の真っ最中に、新郎新婦を銃撃し、白昼堂々香を攫った連中の大半は。
撩と海坊主で始末した。
残された首謀者とその側近達は、日本警察の手から国際法に則り、インターポールへと引き渡された。
彼等は国際指名手配された、世界中でも最も危険な部類に数えられるテロリストだった。
彼等との駆け引きを制し、香を無事自分の元へと奪還した撩は。
その勢いのまま、香に初めて己の気持ちを告白した。
偶然とはいえ、今までにない湖の畔での良いムードに、
撩は流れでキスでもしてしまいそうな所をグッと堪えて、美樹の緊急オペをしていた教会へと戻った。
相変わらずの奥手っぷりを如何なく発揮して、2人はまだハグ止まりの関係だ。

教会で応急的な処置を施して、その日の内に美樹は教授宅へと運ばれた。
結婚式という一生に一度の大事な日に負傷した新婚夫婦を、香はとても心配し、
同時に酷く、責任を感じてもいた。
そもそも夫妻を狙撃した奴らの狙いは、撩であり香であったから。
事態が急展開したのは、奥多摩から戻った翌日。
美樹の容体を気にして居ても立ってもいられない香と、
無意識に罪悪感に苛まれ憔悴している香の事の方が心配な撩は、2人で教授宅へ美樹を見舞った。
数時間をそこで過ごした帰り際、2人は教授に呼び止められた。





日本海側に位置するうら寂しいとある地方都市。
それから数日の間で、撩はこの街に暫し滞在する為の準備を整えた。
部屋を用意し、最低限すぐに生活を始められるように手配した。
自分だけならもっと簡単に済ます事も出来たけれど、今回は香も一緒だから。
撩はいつにも増して慎重に事を進めた。

夕方、どうにか互いの部屋に落ち着く所までを済ませ、依頼本番は翌朝からだ。
翌日の朝には、撩と香はとある企業に潜伏して秘密裏にとある事件の真相を追究する。
淋しくないと言えば嘘になる。
つい数日前、香に気持ちを漏らしてから。
撩はこれまでに無く、高揚していた。
柄にも無く、香と2人のこれからの生活を色々と妄想しては、幸せ気分に浸っていたのに。
幸か不幸か、教授経由で依頼が舞い込んだ。
しかも結構大掛かりな依頼で、依頼の都合上、2人でシティハンターの相棒同士は、
別居生活を余儀なくされた。
しかも、見知らぬ土地で。

撩は窓際に座って、煙草を燻らせた。
つい先程飲み干したビールの空き缶に、灰を落とす。
普段、香に見咎められたら小言の1つも言われそうな仕業だが。
今のところ、香はいないので誰も撩に煩く言わない。
思い出すのは、秋晴れの陽の光を反射する湖の水面。
ほっそりとした華奢な首筋に絡まる、ホトトギスの花。
日頃あまりしない、香の薄化粧。
こんな事になるのなら、いっそ。
あの時に我慢などせずに、キス位しとくんだったと撩は思い返す。
なんでこんなタイミングでこんな依頼を持ち込むのか、あの狸ジジイはっっ。と思わないでもないが。
それもよくよく考えれば、もしかすると教授なりの計らいなのかもしれないと撩は考える。
どう考えてもあのまま、いつものように暇を持て余した撩と香だったら。
きっと香は、何度謝って何度美樹が気にするなと言ったところで、納得はしないだろうし。
毎日あの屋敷に通いつめ、自分自身を追い込む事は目に見えていた。

夫妻の負傷は確かに謝っても謝り切れない、撩にとっては大きな借りとなったけど。
けれど、周りの連中は皆、裏稼業の人間なのだ。
万が一の事態に、結婚式も葬式も関係無い世界で生きて来たのだ。
だから実際には、さほどのショックを受けている訳でも無いし、
張本人の美樹ですら、香ほどには落ち込んでもいないのだ。
周りの全員がむしろ、香の憔悴ぶりの方を気に掛けていたぐらいだ。
暫く、強制的にでもこうやって環境を変えた方が、お互いに無用に神経をすり減らす事も無いだろう。
撩はむしろ、ちょうど良かったのかもしれないとも思っている。
美樹や海坊主に対してこの大きな借りを返して行く事は、これから先幾らでも出来るのだ。
謝罪の言葉では無く、行動で。





“電話、するから。”

“うん。”

“あんま、心配すんな。大丈夫だから。”

“うん。”




香の言葉数が少ないと、撩はつい励ますような口調になってしまう。
でも、このタイミングでこの状況になった事は、きっとこれから先の2人の関係にとって、
きっと何か深い意味を齎すはずだと、撩は信じている。
夕方、合鍵を渡して香の癖毛を撫でた時。
離れ難くて、思わずこのまま一緒に居ようと言い出しそうになったのは、他でも無い撩自身だった。
寸での所で、それだけは踏みとどまった。
意外と近く、2ブロック先に今夜から香の眠る部屋がある。
互いに、自分の部屋と合鍵を持っている。
電話も出来る。
依頼が終わるまでの、短い期間だけの別居に過ぎない。
それでも、心にぽっかり穴が開いたように感じる撩は。
まるでその心の隙間を埋めるかのように、2本目の缶ビールを開けた。









撩がいないという事が一番だけど。
この数日間、香の心に大きく暗い影を落としているのは、美樹の事もある。
香は脳裏に焼き付いた、血の染みたウェディングドレスを何度も思い出した。
どんな想いであのドレスを、美樹が一針一針縫ったのか。
どんな想いで2人が結婚式を挙げようと思ったのか。
怪我は慣れっこだからと言った美樹の言葉は本当だろうし、
これまで生半可な道を通って来てない彼らだから、怪我ならもっと酷いモノを負った事もあっただろう。
けれど、そういう問題では無いのだと香は思う。
だからこそなのだ、そんな風に過酷な人生を歩んできたからこそ。
2人の大事な日を台無しにしてしまった事が、その原因を作ってしまった事が許せないし悲しいのだ。


香は鈍く銀色に光る撩の部屋の合鍵を眺めながら、考えた。
これから先、自分に出来る事は何かと。
そしてこんな時に東京を離れて、こうして依頼を無事に遂行する為には、自分はどうあるべきかと。
頑張ろうと思う。
撩のアシストの為に出来る事は、全力で。
淋しいという言葉は封印しようと、香は心に誓った。




(つづく)


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[ 2014/09/11 22:03 ] Breakthrough | TB(0) | CM(0)

② 不正輸出疑惑

その町は、日本海に面した港町で主な産業は漁業だ。
若者の漁業従事者が減る一方の昨今、
その町を拠点として上場企業にまで成長したその重機製作会社は。
何の変哲も無い地方都市にあって、若者の雇用先として大きな役割を果たしている。
11月の終わり、東京はまだまだ冬というより秋の風情だったけれど。
この町はもう既に、冬景色だった。
積もってこそ無いけれど、朝晩はチラチラと雪が舞っている。
仲根重機製作所は、戦後の経済成長とインフラの整備に連動するように発展を遂げた。
都会のビルを建設する時も、道路や土地を整備する時も、重機は大きな役割を担っている。
戦後、先代が起こした小さな製作所は、敗戦をバネにしてどうにかこの国を立て直そうという理念の下、
業界を牽引してきた。
今では、発展途上国への重機の輸出、地雷撤去の為の国際協力にも力を入れている。
つまるところは、何より平和の為に。
少しでも多くの地域で、インフラの整備や安全な街づくりが進められるように。
この会社自体が成長を遂げた今、それが会社の掲げる企業理念だ。


教授経由で依頼を持ち込んだのは、この会社の二代目で社長の仲根忠弘だった。
先代が戦地から命からがら引き上げて、この会社を立ち上げた時。
何よりも一番に目標に掲げたのが、これからの世界を自分達の手で平和なものにして行くという事だった。
それが今、根底から覆されかねない事態に陥っている。
どうやら、社員の中に重機の不正輸出に関わっている者がいるらしいという疑惑があるというのだ。
日本海に面した地の利を活かして、大型の船でアジアの各方面へと重機の輸出を行っているけれど。
これまでその中に、正式に契約を結んだ事実の無い送り先に、数台の重機が不正に送られているという。
目的は恐らく、軍事目的の転用。
その全ての送り先が共産圏の大国でもある、隣国だ。
彼の国に渡っているとなれば芋づる式に、
半島の独裁国家の核開発などにも利用される可能性もゼロでは無い。
もしもそういう事になれば、会社の信用問題どころか、それ以前に国際問題である。
早急に真相を解明して、出来るだけの手を打つ為にも今回撩と香に白羽の矢が当たったという訳だ。
内部に潜入して疑惑の黒幕社員の焙り出し、というのが今回の任務だ。
社長の仲根が関与を疑っているのは、常務の沢田である。
彼は海外取引に関する部門を統括しており、最終的に契約の締結に判を押すのは彼だ。



撩は、この沢田常務付の秘書として配属された。
ちょうど秋口に、前任の女性秘書が結婚を機に退職して後任を据える予定だったのも幸いした。
そして香の配属先は、海外事業部である。
主にそこで海外との遣り取りのメールや文書を翻訳する係りに宛がわれた。
勿論、香に翻訳など出来る訳も無いが、これに関しては教授とミックも絡んだカラクリがある。
そもそも、社長ぐるみの潜入捜査なので香が周りに疑われない為のフォローは万全だ。
唯一、不安な要素があるとすればパソコンや事務機器の取り扱いという初歩的なものだが。
これに関しては、教授宅で依頼を請けてからこの町にやって来るまでの数日で、
香は教授にみっちりレクチャーを受けた。
この会社は、本社はこの地方都市だが東京に支社を構えている。
事務方は主に東京がメインで、本社は大規模な工場と海外事業部がメインである。
東京から転属されて来る者が居ても、なんら不審な点は無い。
しかも仲根社長は、この依頼に際して不自然にならない程度の人事異動を行った。
撩と香以外にも、他に4~5名ほど東京と本社で入れ替わった者が居るので、まず怪しまれる事は無い。
いずれにせよ、これからどの位の期間、この町に滞在する事になるのかは定かでは無い。
不正輸出に関わる犯人を見つけ出すまでは、2人は暫く別居生活だ。
はじめ撩は、何も別々に暮らす事も無いかとも思ったけれど。
新宿のど真ん中と違って、ココは狭い田舎町なのだ。
他に取り立てて大きな雇用先がある訳でも無い町で、多くの人間がこの会社に関連する者だ。
何処で誰に見られているかもしれない状況下では、潜入の事実が漏れないようにする為にも、
撩と香は極力、接点を薄めた方が得策だと思ったのだ。









香が朝、弁当を作る為に起きた時。
冬の朝はまだ明け切っておらず、窓の外を眺めると暗い空から小さな雪の欠片が舞い降りてきた。
新宿では、まだまだ暖房は必要無い気候だったけど。
撩はこの部屋に、小さな石油ファンヒーターを準備してくれていた。
香は狭い台所に立つ前に、ヒーターのスイッチを入れた。


(りょお、ちゃんと起きれたかな。)


香はいつも撩の心配ばかりしているけれど、こと仕事に関する事では信頼のおける男のなので。
きっと大丈夫だろうと、結論付けた。
香はお弁当とは別に、少し多めに朝ご飯を作る事にした。





撩が出社の為にアパートを出た時。
ドアノブに紙袋が提げられていた。
中身は大きなオニギリが2つと、玉子焼きと焼き鮭だった。
お弁当箱など無いから、ラップで包んだ上からアルミホイルで二重に包まれていた。
中には香の筆跡のメモが入っていて、一言だけ。

“朝ご飯、食べてね。”

と、書かれていた。
どのタイミングで食べろと言うのか、撩は思わず苦笑したけれど。
有難く頂戴する事にして鞄と一緒に、紙袋も持って出掛けた。
吐く息が白い、身の引き締まるような朝だった。

これからいつまでこの生活が続くのかはまだ解らないけれど、とにかく。
早く終わらせよう、と撩はアパートの階段を駆け下りた。



(つづく)


[ 2014/09/13 23:59 ] Breakthrough | TB(0) | CM(0)

③  東京

冴羽くん、君面白いねぇ~~~  どう? 今夜、綺麗処と一杯?

いやぁ、イイですねぇ。本社に異動になって良かったなぁ。魚は旨いし、酒は旨いし。






そうやって調子を合わせる撩は内心、非常に拍子抜けしていた。
自分が監視する筈のターゲットがどういう人物なのか見極める最初の対面は、
多少なりとも無意識に力が入っていたようだ。
しかし、この沢田という男は予想を斜め上に裏切って、なんとも気さくというかフランク過ぎるというか。
誰もが聞けば知っているような大きな会社の幹部でありながら、飄々とした佇まいは。
冴羽撩としては、他人とは思えない親近感を覚えずにはいられない。




君、ゴルフとか好き?


沢田が人懐っこい笑みで無邪気にそう訊ねた。
そう言われてみれば、彼はこの季節だというのに似つかわしくない小麦色の肌をしている。















教授、ワザとでしょ?



研究室のパソコン越しに、かずえが面白そうにそう言った。
皆まで言わずとも、それが何の事か老獪な狸ジジイにはちゃんと伝わっている。
それと全く同じ言葉を、昨夜は美樹にも言われた。
美樹と海坊主の怪我に関して、香は必要以上に責任を感じている。
そして、表面的にはいつも通りに振舞っていた撩もまた同じく。
確かに賊の狙いは撩と香だった。
彼等の生業を考えると、それはもう仕方のない事で。
誰に責任があるとか無いとかそういう問題ではない事は、身近な人間なら誰もが理解している事だ。
それを頭で理解はしていても、どうしても気持ちが追い付かない事はこれも仕方がない。
伊集院夫妻が、どんなに心底気にするなと言っても気にしない訳にはいかないのが香であり、撩なのだ。




ふぉふぉ、人間、気分転換は大事じゃよ。




そう言ってお茶目な老人は、助手にウィンクして見せる。
つい先程、この助手の恋人で元殺し屋の外人が持って来た差し入れのバームクーヘンを食べながら、
助手の淹れた濃い目の玉露を啜っている。
全く縁もゆかりも無い土地で、誰の目も気にせず、仕事に集中しながら、
互いの存在価値の大きさを再確認するのも、たまには良かろうて。と、老人は笑う。




逢えない時間が愛育てるって言いますもんね。

そういう事じゃ。  かずえ君も、たまには彼に試練を与えてみてはどうかね?

あら、ウチは結構、放置プレイですもの。こう見えて上手い事手綱を引いたり緩めたりしてるんです。

大変じゃのぉ、かずえ君も香君も。悪ガキの相手は。

ほーんとっっ、手が掛かるんですよ。

ふぉふぉふぉ。




しかし悪ガキほど可愛いというのが、口にはしなかったけれど正直な所だ。
傍から見れば、撩もミックもどうしようもない根無し草のロクデナシだったけど。
少しづつ変わりつつある。
かずえが献身的な介護で、ミックの心を解かしたように。
香が真っ直ぐな信頼を寄せて、撩と絆を結んだように。
季節は巡る。




もうすっかり、冬じゃのぉ。



教授が、窓の外を眺めて呟く。
奥多摩の結婚式までは、気持ちのいい秋の様子だったのに。
綺麗に整えられた庭に木枯らしが吹いている。



ココア飲みたいの。

じゃあ、買っておきますねココア。



そう言ってかずえはニッコリ笑った。
この年老いた恩人も、撩やミック同様、手が掛かるけど可愛い男だと思っている事は。
本人には内緒だ。












槇村さんって、東京に住んでたんでしょ?

ええ、新宿です。

良いなぁ~~~、ザ・都会って感じよねぇ。

そういうものですか?

そりゃそうよ、ここは何にも無い町だもん。






皆、都会に憧れるもんよ。と言って、その彼女は笑った。
彼女は香の向かいのデスクに座っていて、初めて香と顔を合わせた時から何かと世話を焼いてくれる。
彼女曰く、この町ではこの会社に入るのが1つの目標であるらしい。
漁師か農家かの家業を継ぐか、自衛隊に入るか、役所に勤めるか、この会社に就職するか。
大袈裟に言うと、選択肢はその程度だという。
郊外に馬鹿でかいショッピングモールが造られ、若者がたむろするのはそこ位。
良く言えば長閑、平たい話しが過疎化が進行しつつある日本中どこにでもある平凡な地方都市だ。

彼女は、大阪の大学に進学して外国語を学んだ以外は、ずっとこの町の親元で生活しているらしい。
たとえそれが格好悪い事だと解っていても、田舎者は都会に憧れるものなのだと、
弁当を食べながら力説した。




私は、憧れたなぁ。 お盆やお正月に、家族で里帰りする友達に。



香はそう言うと、玉子焼きを頬張った。
朝、撩の部屋のドアノブにぶら提げた朝ご飯にも、同じモノを入れておいた。
撩はちゃんと食べているだろうかと、頭の片隅でそんな事を考える。
子供の頃から、あの新宿の街とそう遠くない場所で育った。
同じ区内の古ぼけた団地だ。
香の故郷は、何の美しい景色も無い、美味しい食べ物も無い、排気ガスに煤けたあの街だ。
香はむしろ、こんな風に自然に囲まれて美味しい魚や野菜が沢山あって、
家族とずっと暮らせるほうが幸せなのだという事を知っている。





槇村さん、東京に彼氏とかいるんでしょ?

へ?

美人だし、スタイル良いし。すっごい羨ましいわぁ。

・・・・・・・・。




香の脳内で考えていた事と、彼女の進めていた会話に若干のタイムラグが出来ていたらしく。
突然振られた(話しについて行けて無かっただけだけど)そんな言葉に。
香は思わず真っ赤になって、言葉に詰まる。

“彼氏”

という言葉に、香の脳内に浮かぶのはあのモッコリスケベだけである。
と同時に、あの湖のほとりで言われた言葉がよぎる。

“愛する者”

努めて思い出さないようにしていた、つい最近のあの光景を一瞬で思い出す。
今でも背中に回された、撩の両腕の感触が生々しく思い出される。
髪の毛に顔を埋めた撩の気配、撩の吐息が癖毛を擽る感触。





お、その表情。居るんだな。



向かいの席の彼女はそう言って、おにぎりを頬張りながら香を茶化した。
香はしどろもどろになりながら、いや、あの、彼氏っていうかなんて言うか・・・腐れ縁っていうか・・・
などと、答えてしまう。
けれど、よくよく考えたらこの町には。
撩と香の色々を知る人間は居ないのだし、
嘘を吐いているようで申し訳ないけどこの町に滞在するのは期間限定だし、
確かにあの時、撩は愛する者だって言ってくれたし、
撩は抱き締めてくれたから。
香は、思わずコクンと頷いた。
頷いた途端、急に恥ずかしくなったので。
香は誤魔化す為に、口一杯にご飯を詰めて俯いた。




香の故郷は、東京で新宿で。
あの街には美味しい名物も、豊かな自然も無い。
高度成長で街は成熟しきって、煤けて疲れ果てている。
けど。

ビルの谷間に沈む真っ赤な夕陽や、煌めく宝石のような夜景を知っている。
兄や撩との思い出が沢山詰まっている。
香はあの街が恋しいと思った。
撩と暮らすあのアパートが。
今まで気が付かなかったけれど、あそこが香のホームなのだとその時ハッキリと気が付いた。
遠くから眺めて初めて気が付く事もある。
近くにあり過ぎて気が付かない幸せは、誰しも抱えているものだ。
香も、そしてこの目の前の彼女も。

香は、撩にとってもあの街がそうであって欲しいと、弁当を食べながら思っていた。


(つづく)



[ 2014/09/15 11:17 ] Breakthrough | TB(0) | CM(2)

④ 夜更けの電話

(・・・綺麗処ねぇ。)




撩は心の中でそう呟いた。
期間限定の撩の上司は初対面で、綺麗処と一杯どうだと社交辞令を交わし。
その数日後、勤務時間終了と同時に撩を誘った。

今夜、大丈夫?

そう訊かれて、撩は勿論二つ返事で誘いに乗った。
ターゲットを良く知る為にも、酒を酌み交わすのは至極手っ取り早い。
そしてここでもまた、沢田常務は撩の想像の遥か斜め上を超えてくれた。
2人を乗せたタクシーは、市街地からどんどん離れ閑静な住宅街へと進んだ。
気が付くとそこは、小さな高台になっており。
昼間、撩が働いたオフィスのある市街地の灯りも、港の灯りも見下ろす場所に出た。
周りの住宅は高台を上がるにつれてどんどん豪奢になり、タクシーは一軒の住宅の前で停まった。
表札には『沢田』の文字。



(・・・宅飲みかよっっ)

と心の中で撩が突っ込んだ事は言うまでもない。










おかえり~~~~ 信ちゃんっっ

ただいまぁ~~ 美咲ちゃあん



ハイテンションで出迎えた“美咲ちゃん”が、恐らくは沢田常務の嫁なのだろう事は見て取れた。
確かに彼女は美女だった。
高島礼子似の和服が似合いそうな風貌だ。
確かに、彼が言う様に“綺麗処”には間違いは無い。
しかし撩は、正直人妻には興味は無いのだ。ミックと違って。
前もって沢田からは連絡が入れてあったのだろう。
沢田の妻・美咲は、にこやかに撩を招き入れると、男達をリビングに残してキッチンへと姿を消した。






美人でしょ?うちの奥さん。

ええ、とても。




取敢えず一杯どうぞ、と美咲が注いだビールを飲みながら沢田がそう言った。
撩も同じくビールを飲みながら頷く。
とてもそうは見えないが、沢田とは幾つも歳は離れていないらしい。
そう考えると驚異的な外見である。
撩の見た所、沢田はどう見ても40代後半もしくは、50代前半である。



ごめんなさいねぇ、お待たせして。





そう言って、彼女がキッチンから次々と料理を運んで来た。
見た目にも鮮やかで美味しそうな料理を見て、撩は一瞬、香の事を想った。
この家の主婦の頭の上には、
奇妙なヘルメットが乗っていて派手なピンク色のプロペラが回転している。
撩はこの家を訪れた時から、激しく気になっていたのだが敢えて触れずにいる。
けれど、知らず知らずの内にその妙な被り物に、視線が彷徨っていたのだろう。
彼女が苦笑した。



あはは、ごめんなさいね。気になるでしょ?

はい、激しく。




常務夫人は、上品なカシミヤのセーターを着て、ピッタリとしたジーンズを穿いている。
歳の割にシャープなボディラインは、見事という他ない。
明るめに染められた柔らかそうなロングヘアーの頭部には、
そこだけ何かの冗談のような黄色いヘルメットが乗っていて、
上述の通りピンク色のプロペラが付いている。




これね、耐久実験なの。

・・・。




夫妻の説明によれば、夫人の趣味であり生き甲斐は発明なのだそうだ。
こう見えて、もう既に特許を3つ持っているらしい。
このヘルメットは、同じ町内の農家の奥さんが。
畑仕事の最中にカラスが寄って来て困る。と、ぼやいていたところから着想を得て作ったらしい。
そのカラス対策に苦慮していた奥さんのアドバイスを受けながら改良を重ね、それは既に3号機なのだ。
今は、第2段階のバッテリーの耐久テストを重ねている。
この姿でプロペラを回しながら、一日中過ごしているらしい。
朝、沢田を玄関で見送った時にもプロペラは廻っていた。



気にしないでね?


そう言ってニッコリ笑った彼女は、人妻の色気を滲ませながら撩のグラスにビールを注いだ。
撩がこの夜、沢田家で食事と酒をご馳走になって解った事は。
彼が極度の愛妻家であるという事だ。
そして意外な事に沢田常務が元は、技術畑の職人肌だったという事だ。
元々、機械工学などの専門分野を学び、仲根製作所に入社した彼は。
始めは、工場で重機を設計する技術者だった。
こう見えて仕事の出来る彼は次第に、社内で頭角を現し、あれよあれよと言う間に出世し、今に至る。





なんかさぁ、余計な出世とかしちゃったからさ、全然面白くないんだよねぇ。ぶっちゃけ。




そう言って沢田は、妻の作った海老と鱈のすり身を蓮根に挟んで揚げた天麩羅を頬張った。
彼曰く、自分は工場で重機を作っている方が性に合うという。
前任の女性秘書には、そんな事を言う度に窘められたらしい。
元々、機械いじりや工作が好きで、それが高じて庭の隅に作業小屋まで作ったけれど。
出世(彼曰く、余計な出世)してしまい、以前の様な時間的な余裕も無くなり、
いつしか作業小屋に入る事も無くなったのと入れ替わるように、妻がすっかり発明に嵌ったのだった。
そして、その後出逢ったゴルフという趣味に、彼は没頭し。
今では、ゴルフ一辺倒だ。
なんでも夫妻が言うには、夫婦円満の秘訣は互いがそれぞれに全く違う趣味を持つ事らしい。





冴羽クン、奥さんは?

・・・いえ、独身です。

そうか。 彼女は?

       い、ます。(ま、相棒だけど、間違いでは無いな、うん。)

そうかそうか、彼女は大事にしないとなぁ。結婚するんでしょ?

ほぇっっ?




思わぬ話の流れに、撩は自分でも予想だにしない変な声が出た。
撩が押し黙って、言葉を発せずにいるのを良い事に。
沢田夫妻は、結婚の良さを滔々と力説し始めた。
まさか、あの小さな仮住まいのアパートで。
撩の相棒は、こんな所で噂されているなんて思っても無いだろう。











その電話が掛かって来たのは、香がもうすっかり次の日の準備まで整えて、
後はもう寝るだけとなった時だった。
時計は、23:00を回っていた。
枕元に置いた小さな携帯電話が、パートナーからの着信を知らせた。
液晶の画面に表示された名前だけで、香の表情が綻ぶ事を当の彼本人は知らない。






“それで? 週末は、ゴルフ?”

“あぁ、なんかそんな流れになってさ ”

“道具とか、どうすんの?ウェアとか。”

“俺もさ、道具持ってないしって言ったんだけど、貸してくれるって。”

“専務さんが?”

“・・・常務ね、そう、常務が貸してくれるって。”

“えへ、常務だった。でも、道具は借りてもウェアは?撩のサイズには合わないんじゃない?”



そう言った香の言葉に、撩は先程まで食事を振舞ってくれていた男の姿を思い返す。
勿論、彼のウェアが撩に合う筈も無い。
恐らく、彼のボトムを撩が穿いたら、クロップドパンツ状態になるのは明白だ。




“んなもんは、どうにでも調達できるさ。てか、経費で落とせる?ゴルフウェア。”

“・・・・・・う~~~ん、まぁ。仕方ないかな。仕事の一環だもんね、経費として認めましょう。”

“サンキュー”



気が付くと、2人の会話はついつい相棒のそれになっていて。
本当は2人ともまだ数日でも、離れた生活が淋しいのだけど、本音は言えない。
2人の間には、時々奇妙な間が出来るけど、じゃあ電話切ろうかとは、お互いに言い出せない。





・・・りょお。

ん?

ちゃんと、食べてるの?ご飯。

食べてるよ。

コンビニばっかじゃ、駄目だよ。

解ってるよ。

ホントはね、   週末。

なに?





そこまで言って、香は言葉を噤んだ。
撩はその静かな間を、ゆっくりと待った。
香が電話の向こうで、小さく息を整えるのが聞こえる。




週末、そっちにご飯作りに行こうかなって、思ってたの。

・・・・・・。

りょお?  いや、でも やならイイの、別に。アタシが勝手にそう思ってたってだけだか

来いよ。

え?

来てよ。

でも、撩はゴルフなんでしょ?週末。

合鍵、使えよ。

/// い、良いの?

ふふ、何の為の合鍵だよ。好きな時に来れば良いだろ?




思わぬ撩の言葉に、香は言葉に詰まった。
撩からあの鍵を受け取った時、何故か香はそれを実際に使う事を想定していなかった。
何かこれじゃまるで、アタシたち。
付き合ってるみたいじゃない?と、思ってしまったけれど。
勿論、そんな事を香は口が裂けても言えない。




じゃ、じゃあ、行く。撩の居ない間に、日持ちがするもの作り置きしとく。

おう、サンキュ。




2人が時間も忘れて日付を跨いだ長電話をしている頃。
窓の外では、雪が降り始めた。


(つづく)




[ 2014/09/22 22:10 ] Breakthrough | TB(0) | CM(0)

⑤ 週末

香が海外事業部の内勤のオフィスに潜入した目的は、
不正輸出関連で背任行為に加担している者の存在を突き止める為だ。
仲根社長が最も疑っているのは、この部署の統括責任者でもある沢田常務であるが。
彼一人で事が運べるとは思っていない。
必ず、それらの件で動いている部下が居る筈だと見ている。
勿論、香1人でそんな人物の特定など出来るはずも無く。
香はあくまでこのミッションに於いて、非常に重要な連絡係の様なものだ。






じゃあ槇村さんは第3営業部の香田部長からの依頼という事で、
これから毎日午後からは資料室で別件に当たって貰いますね。


配属初日にそう言って、香の直属の上司である課長はニッコリと笑った。
勿論、彼は何も知らされていない。
本当に第3営業部から香が仕事を任されていると思っているし、
香が東京支社にある、第3営業部から転属されて来たと思っている。
しかしこの、別件こそが香の今回の任務なのである。
“第3営業部の香田部長”と言うのは、今回の隠れ蓑であり、ミッション名のようなものだ。
香田部長(実在する)という体で連絡を取って来るのは、実は仲根社長である。
香が資料室へと赴くと、毎日沢山の資料が準備されている。
香は教授が準備したノートパソコンに向かうと、
教授に教わった通りのやり方で毎日その膨大な量の資料を教授宛に送るのだ。
一方、送られて来る資料は、教授とミックが順次内容をチェックし精査する。
それは過去数年間に亘る、仲根製作所の取引に纏わる内部資料で、
精査するのは海外取引に於いて、不審な点が無いかどうかだ。
契約時の法的な書類から、経理全般(請求から金銭の受領まで)の資料まで、
1つの契約に対する全ての資料が送られて来る。
普通、法的な問題をクリアして、取引が発生して、請求を起こして、代金を正確に受領してしまえば、
それ以降は、その後の修理やメンテナンスがなされるだけで、
その取引の全容を見返す事などは、これまであまり無かった。
そこにこそ盲点があるのではないかと、今一度チェックする必要があるという訳だ。
如何せん輸出が絡む取引なので、資料には外国語を使用している物が沢山存在するのと、
教授一人では到底手が足りない程の情報量なので、ミックが応援に呼ばれたという訳だ。
なにせ、社内の人間には決して漏れてはならない極秘任務なので、
ただ資料を送るだけの連絡役とはいえ、香の存在はこのミッションには必要不可欠だったのだ。

それともう一つは、女子社員の中に紛れ込んで社内の人間関係を調べるという意味合いもある。
これに関しては、香の能力が如何なく発揮されるのは間違いない。
香の得意技は、性別問わずに誰とでも仲良くなれるという事だ。
午前中の内には、香にも他の同僚たちと同じ仕事が割り当てられる。
主なものは、外国語の文書の翻訳だ。
勿論、香には出来ないけれどそれもまた、ミックへと転送される仕組みになっている。
転送されてモノの数分で、ミックから懇切丁寧な日本語訳が送り返される。
他の同僚たちよりも、目に見えて仕事は早い上に正確である。
香は適度な時間を見計らってそれらを、また依頼元の営業担当者へと転送し次々とこなしてゆく。
またその逆もあり、外国の顧客へと送る文書のチェックもある。
いずれにせよ、普通の遣り取りと違って、
大きな取引の現場なので細かなニュアンスまで正確に汲み取る事が求められる。
現場では主に英語が使用されるけれど、相手も必ずしも英語が母国語とは限らない取引先だ。
中には現地の言葉での細かな遣り取りが必要になってくる可能性も出て来る。
こう言う場合、撩と同様に何か国語も自在に操れるミックは強い味方である。
同僚たちは誰も、香が真剣にパソコンに向かっていながら実際は、
東京の金髪エロ外人に仕事を丸投げしているなどとは微塵も疑ってはいない。
むしろその仕事の速さと正確さに、すっかり感心している。
配属されて数日、今のところ香は一切誰にも疑われる事無く潜入の任を果たしている。

この依頼に携わる事で、以前は凄く苦手意識のあったOA機器やパソコン等の取り扱いに、
香は少しだけ自信が持てるようになっていた。
思っていたほど、それは難しい事でも無かった。
これから先、撩の相棒として出来る事が増えるのは良い事だと香は考えている。
冴羽商事は裏稼業なので、銃器の取り扱いや戦闘術などの鍛錬も怠る事は出来ないけれど。
何も撩をサポートするという事は、そればかりでは無いのかもしれないと思い始めていた。
これまで撩の傍に居て、撩という男の底の知れなさを感じたのは、
多言語を巧みに操ったり、完全に洗練された立ち居振る舞いをやってのけたり、
驚くほどの知識の深さと、教養が垣間見えたりする瞬間だった。
それらをどのようにして撩が身に付けて来たのかを想像するだけで、香は撩を尊敬する。
撩は生まれてこの方、学校というものに通った事すら無いのだ。
撩の相棒であるという事、撩のサポートをするという事は。
自分にとっても、自分自身を磨く事に他ならないと香は思う。
きっと、学ぶべき事は何に於いても色々とあって、
香は与えらえた機会の全てを勉強だと思う事にしている。
全ては少しでも、撩の背中に近付く為に。
















・・・一体、なに食べてんだろ。りょお。



週末、電話で話した通りに、香は合鍵を使って撩の部屋へと入った。
香が予想していたほど、室内は散らかってはいなかった。
灰皿だけが少し汚れていた。
キッチンには殆ど生活感は無く、置いてある調理器具は薬缶1つで。
ホーローのマグカップが1つだけあった。
それに日本中何処でも買える、インスタントのコーヒー。
ベッドの上もきちんと整えられ、見覚えのあるスーツが数着、鴨居に下げられていた。
小さなユニットバスの入り口の洗濯籠の中には、バスタオルと数枚の下着と靴下とワイシャツが入れられ、
トイレとバスタブと洗面所が一体化した小さな風呂場の鏡の前には、
いつも撩が使っている剃刀と、歯ブラシが置かれていた。
冷蔵庫の中には、ミネラルウォーターと缶ビールがあるだけで食料は一切無し。
香はその小さな冷蔵庫の前で、溜息を吐いた。
撩は端から自炊する気など無かったのだろう。
仮住まいとは言え、香の部屋に比べてもあまりにも簡素だ。
撩は香の部屋を用意する時に、必要最低限、自炊に必要な用具は一通り揃えてくれていた。
撩の部屋にも当然、同じモノがあるのだろうと思っていたけれど、どうやら違ったらしい。
こういう時に、香は撩のさり気ない優しさを知る。
自炊をしないとストレスが溜まるという香の事を、誰よりも解ってくれていると感じる。
撩は不器用な男で、面と向かって香にその優しさをぶつける事はしないけれど。
香が撩の思いやりを実感するのは、決まって撩がその場に居ない時だ。
撩はずるい、と香は思う。お礼すら言わせてくれない。
撩も不器用だけど香も大概天邪鬼なので、後になって改めて“ありがとう”を言うのは照れ臭い。
だからこそ、言葉は照れるからせめて、香は撩の身の回りの世話を焼くのが好きなのかもしれない。
その全てに、香から撩への感謝の気持ちを込める事が出来るから。


香はすぐに料理を始めるつもりだった予定を変更して、洗濯機を回す。
ワイシャツは、クリーニングに出すので別にする。
仮住まいにはアイロンもアイロン台も無いので、
香は自分のブラウスを洗濯するのにもクリーニング屋を利用している。
少しだけ勿体無いとは思うけど、必要経費として計上すると割り切っている。
料理は香の部屋で作って、コチラに持って来ようと計画を変更した。
嵩張らないようにジッパーの付いた保存用の袋に詰めて、数日分の献立を作っておこうと思っている。
生憎、冷蔵庫も冷凍庫もがら空きなので、作り甲斐はある。








撩がその、ザッツジャパニーズビジネスマン的お付き合いの一環として、
初めてお供したゴルフを終えて帰ると、
冷蔵庫の中にはすっかり馴染み深い香の手料理がぎっしり詰まっていた。
撩には、ゴルフのスコアの相場など全く解らないけれど、どうやら常務曰く、素質があるらしい。
いずれにせよ、撩の身体能力は並みのそれでは無いので、当然と言えば当然である。
はじめ、常務に教わって何度かクラブを素振りした段階で、
撩の中では単純に、球を打つイメージを固める事が出来た。
普通はその段階のコツを掴むまでに時間を要する訳だけど、
撩には不思議と、その様にイメージを膨らませる為の能力が生まれつき備わっているらしい。
何に於いても。

小さな申し訳程度のベランダには、今朝、脱衣籠に放置していた洗濯物が干されていた。
冷蔵庫の扉に、ワイシャツを駅前のクリーニング屋に出してある事、
代金は支払い済みである旨のメモがマグネットで留められている。
灰皿は綺麗に洗われ、台所のシンクの隅に伏せて置かれていた。








もしもし

おかえり、遅かったね。

ああ。晩メシは、常務の奢りでたらふく喰って来た。

そう。





撩から電話が掛かって来たのは、23時を過ぎた頃だった。
香はもう既にパジャマに着替えて、寝る準備をしていた。






・・・ありがとな、料理。

うん。

あ、あと洗濯も。帰ってからするつもりだったから、助かった。

うん。




香は胸が一杯になった。
嘗てこれまで、こんな日常の些細な事に関して撩から謝意を表された事があっただろうか。
一緒に暮らしていると、当たり前のように流れてしまう日常が。
実はそうでは無いのだという事を、離れてみると実感できる。
これまで撩がさも当たり前のように、それらを受け止めている事について、
香は虚しさや悲しみを感じる事も、時にはあった。
けれどそうではなく、こうしてちゃんと解ってくれていたんだという事が解った。
それだけで香は充分だった。





外食とかばっかり、駄目だよ。

あぁ、そうだな。そもそも、飽きるしな。




今度から。

ん?

・・・・・・今度から、時々作ってくから。





香の言葉に、知らず撩の顔が綻ぶ。
そんな表情を、電話越しでは香が見る事も無いし、撩自身ですら無自覚だ。
確かに、この街は米も魚も美味しいし、酒も美味しい。
幸いな事に、アパートのすぐ傍には安くて良心的で旨い定食屋がある。
けれど撩が求めているものは、香の作った手料理だった。
それは意外にも撩の生活の中で大きな割合を占めていたという事に、この数日で痛感した。
いつの間にか、この数年で撩は完全に香にガッチリと胃袋を掴まれている。



うん、助かるよ。



撩は離れてみて初めて、香に素直に向き合えるような気がしている。
撩にとって、相棒としても女としても。
もう槇村香以外には、考えられない存在になっている。
この依頼が終わったら、撩はその気持ちを改めて伝えようと考えていた。


(つづく)



[ 2014/09/27 21:30 ] Breakthrough | TB(0) | CM(0)

⑥ 嫉妬

潜入開始から1週間経過しても、これという確たる手掛かりは掴めなかった。
それでも教授を中心とした今回の調査チームは、
この依頼が長期戦になりそうなことは想定の範囲内だった。
11月の後半から準備を始めてから、月が変わって12月に入った。
新宿とは全く違う小さな街の、
市街地の中心に拠点を置く地元の有力企業の傍には、この街の老舗の百貨店がある。
香はいつも出勤時にこの前を通るのだが、
12月に入った途端ショーウィンドウはクリスマス仕様に変わった。
朝晩とチラついていた雪が昼間にも降るようになった。
積もる程ではないけれど、香は生まれて初めてこんなに寒い街で過ごした。
何もかもが、太平洋側の関東の景色とは違った。



(クリスマスか・・・)



朝の通勤時間帯だというのに、人通りは驚く程少ない。
何もかもを新宿と比べてしまう。
果たして今回の依頼は、クリスマスまでに終わるのだろうか。と、香は思う。
クリスマスどころか、まさか年を跨いだりしないだろうかと心配になる。
大きなガラスに映り込んだ香は、着慣れないスーツを着て、パンプスを履いている。
スーツの上から紺色のダッフルコートを羽織って、マフラーも手袋も東京から持って来た。
はじめ、荷造りをする時に。
撩はマフラーも手袋も要らないと言った。
けれど、香が強引に送る荷物の中に入れたのだ。
撩はちゃんと防寒してるだろうかと、香の心配は尽きない。







撩は玄関を出る前に、ウールのピーコートのポケットから革の手袋を取り出した。
香が強引に荷物を増やした時には、抗議したけれど。
結果として、それは正解だった。
香はマフラーや手袋以外にもう1つ、部屋で着るちゃんちゃんこまで入れていた。
最近の撩のお家スタイルは、スウェット上下に赤い絣のちゃんちゃんこという、
とてもじゃないけれど、殺し屋には見えない風情だ。
たまには知らない土地も新鮮でイイとは思うけど、なにせ寒すぎて。
撩はやっぱり、自分達のホームは新宿だなと改めて思う。















槇村さん、金曜日の夜なんだけど空いてる?



給湯室でそう声を掛けて来たのは、香の向かいに座る女子である。
彼女とは今のところ、この部署内で一番打ち解けた間柄だ。
彼女が言うには、その週の金曜日の夜に、
少し遅くなったけど香の歓迎会を兼ねた飲み会をやろうという話になっているらしい。
企画発起人兼幹事は、渡辺主任だという。
渡辺という男は恐らくは30前ぐらいであろう、
比較的、女子社員の多い部署にあって気を使う事も多いだろうけれど、なかなかに気が利く男で。
香が潜入を開始してからこっち、何かと香にもさり気無い気を配ってくれているのが解る。
良い人だなぁ、という印象を香は抱いている。




主任、絶対に槇村さんのこと狙ってると思う。



彼女がそんな事を言うもんだから、香は洗っていた湯呑を危うく取り落す所だった。
彼女曰く、主任はイイ人だけど、ちょっと“ちゃらい”所があるから要注意だという。
あくまで噂だけど、これまで何人もの女子社員に手を出しているのを聞いた事があるという。
香は彼女の言葉を本気にはしなかった。
あはは、と笑って誤魔化しながら適当にその話しは聞き流しておいた。
きっと気のせいだよ、と香が笑うと、彼女は真剣な表情で溜息を吐いた。




槇村さんさぁちょっと思ってたんだけど、結構、鈍いよね。

そそそそうかなぁ?

鈍いね。あれは完全に、ロックオンされてるよ。

まさかぁ。

まぁ、槇村さんが気にしないなら仕方ないけど、主任にはちゃんと言っといたからね。

何を???

槇村さんには、ちゃんと彼氏いますからって。

・・・彼氏っっ////

こういう事はね、毅然と対応しなきゃダメなのよ。





向かいの彼女は、その気の強そうな微笑みでシッカリと頷きながら香を諭した。
どうも香の周りには、絵梨子といい、美樹といい、この彼女といい、
しっかりと芯の通った気丈な女性が多いのだ。
香には、何処か危うげで人を疑う事を知らない雰囲気が漂っていて。
どうやらこの手のタイプに、守ってやらなければという気持ちにさせる何かがあるらしい。
香自身に、自覚は無い。








昼間、撩は重役専用の会議室に潜り込み、出前の蕎麦を食べていた。
常務は午前中に出掛けて、会社に戻るのは夕方の予定だ。
それまで撩は、1人の時間を過ごせる。
つい先程は常務に宛がわれた個室に、複数個の盗聴器を仕掛けた。
こういう時こそ、本来の仕事が捗るというものだ。
天麩羅蕎麦を豪快に啜っていると、撩の携帯に香からのメールが届く。
メールの内容は、週末に飲み会があるという事。
どうやら香ともう1人、同じ時期に配属されて来た社員の歓迎会だというので参加するという事。
場所は、駅前の居酒屋。店の名前が書いてあった。

“情報収集も兼ねて、潜入ばれないように頑張ってくるよ。”

その香のひと言に、撩は思わず苦笑する。
非常に気になる。
きっとその飲み会とやらには、勿論、男性社員も複数参加するのだろう。
これは、週末までに香の方の部署の男達も少しリサーチしておく必要があるなと思う。




ったく、余計な仕事増やしやがって・・・。


撩はぼやきながらも、メールは返す。
ちょっと衣が分厚すぎる海老天を咀嚼しながら、画面を操作する。

“あんまり、飲み過ぎんじゃねぇぞ。”    

この後、香からは “りょーかい”という言葉と、にこにこ笑っている顔文字が返って来たけれど。
悲しいかな、この撩の忠告は何の役にも立たなかった。















その晩、どういう訳か。
気を付けていたつもりだったのに香は予想に反して、随分と酔っ払ってしまった。
途中、トイレに立った所まではまだ大丈夫だと思っていたのに。
トイレから出た所に立っていたのは、渡辺主任だった。
何故だか、香の鞄とコートを持って来てくれて。
危ないから送ってくよ。と、微笑んだ。
香はもう、この辺りから記憶はあやふやだった。
シッカリと歩いているつもりの足元は、床がまるで蒟蒻のようにグラングラン揺れている。




撩はその日、一度アパートに帰ってからその店の前で待機した。
そしてそれが見事に功を奏した。
香の肩を抱くようにして店の外に出て来たのは、撩の調べによれば渡辺という主任の男だった。
心配しているような素振りを見せながら、何処か厭らしい目つきをしている。






あれぇ? りょお?? りょおも飲み会にきれたにょ??



ただ、香は肩を貸す男になど何の興味もない様子で、
その店の前の薄暗い街灯の下に立った見慣れた男を、酔っ払っていてもしっかりと見付けた。
撩が少し怒ったように見せて眉を顰めると、香はまるで小さな子供のように。
酔っ払っちゃた。と言って、テヘと笑った。
撩は内心、テヘじゃねぇよと思いつつも、渡辺へと視線を向ける。




どうも、ウチのヤツが迷惑かけたみたいで。

あ、いえ。あの、表の通りでタクシーを拾うまでと思いまして。

すみません、連れて帰るので大丈夫です。





言葉は丁寧だけれど、撩の視線にはただならぬ殺気が籠っていた。
渡辺はすっかり萎縮して香の肩から手を退けた。
撩は素早く香の鞄を受け取ると、香の手を引いた。




ほら、帰るぞ。じゃじゃ馬。

りょおとぉ~~~??いっしょに?

ああ。

わぁ~~い。ねぇ、りょお、雪だるまつくろ、雪だるま。




夜も更けて、舗道には薄っすらと雪が積もり始めていた。
小1時間、そこで待機していた撩のコートにも薄く雪が積もっている。
香の足元は覚束ない。
香の身体ごと反転させて、ワザと渡辺の方から強引に背を向ける。






るせぇ、酔っ払い。もう、帰るの。

ぅるしぇえ、よっぴゃらい。

酔っ払いはお前だっつーの。




撩は苦笑する。
いつもの自分達なら、酔っ払いは撩で。介抱するのは、いつも彼女だ。
パンツスーツにヒールを履いた香のコートのボタンを留めてやり、マフラーを巻いてやる。
この辺りで、視界の隅にいたスケベ男はすごすごと店の中へと退散した。
撩は香に背中を向けてしゃがみ込む。



ほら。

ん?

おんぶ。



漸く理解して、香が満面の笑みで頷く。
ここ数日、電話の遣り取りだけで、顔を合わせる事は無かった。
久し振りの対面がこれかよ、と撩は思わず笑ってしまう。
背中に香の重みを感じながら、撩は随分昔の初めて逢った時の事を思い出した。
あの頃はまだ、香は本当に子供で。
胸なんか超が付く程の微乳だった。
今では、スーツと分厚いコートに包まれていても、しっかりと感じられるほどに成長した。
背中に当たる柔らかい感触に、撩は必死に邪念を振り払いながら湿った舗道を歩いた。
初めの内は撩の背中で意味の解らない事を呟いていた香が、静かに寝息を立てる頃。
香のアパートの前に着いた。









部屋に着いて、香を布団の上に横たえると、撩はストーブを点けた。
部屋が温まるまではそのままがイイだろうと、
コートもマフラーも身に着けたままの香を寝かす。
その時、携帯の着信音が響いた。
撩のものでは無い。
音の発信源は、香のコートのポケットからだった。
香が薄っすらと眉根を寄せる。
撩はその着信が香を起こす前に、携帯をポケットから探った。
液晶の画面には、“ミック”の文字。
撩は思わず画面に向かってメンチを切ると、通話ボタンを押した。






あんだよ、こんな時間に。

ん?あれ? オレ、リョウにかけたっけ?? カオリの番号じゃなかった?

香んだよ、なんか用かよ。

どういう事?カオリは?

寝てる。





撩の答えに、電話の向こうでミックが絶句する気配が伝わる。

“ What? いや、まさか・・・嘘だろ? ”

明らかに電話の向こうで、ミックが動揺している。
何か凄い誤解をしているらしい。








オー、リョウ。オマエ、いつの間にカオリとそんな事に。

ちっげーよっっ。コイツは今日、飲み会に連れて行かれて酔い潰れたのっっ

リョウ、この期に及んで言い訳なんて見苦しいぞっっ

だあかぁらっっ、違うってば。このボンクラエロ外人がっっ






それから、順を追って撩が説明してミックが納得するまで、5分ほど掛かった。
香はスヤスヤ眠っている。
それはそうと、お前の方こそ何の用だ、と詰問する撩に、今度はミックが説明する番だった。
どうやらここの所、毎晩、ミックと香は連絡を取っていたらしい。
それは何も、厭らしい意味では無く。
香は毎日、美樹の怪我の回復状況をミックから聞いていたらしいのだ。
この街に来てから、いつもと違う状況に置かれながらも、やはり香は気にしているらしい。
仕事の関係で日中は、マメに連絡を取り合うミックにその気掛かりな心情を漏らしていたのだ。





で?どうなの? 美樹ちゃん。

あぁ、もう随分良くなってきたよ。さすが、ミキだ。
カオリには気にするなって言ってるんだけど、やっぱり気にしない訳にはいかないらしいね。






“ま、それがカオリの優しい所なんだけどね、ぐふっっ、かあいい

電話を切った後も、撩の耳にそんなエロ男の厭らしい声がこびり付いている。
撩は、何も知らずスヤスヤ眠る香の寝顔を見詰める。
部屋もだいぶ温まって来たところで、はて、どうしたモノかと考え込む。
まさかスーツのまま寝かせる訳にもいかないだろう。
枕元には、昨夜着ていたであろうパジャマが畳んで置かれている。
まぁ、これは仕方ない。不可抗力だ、不可抗力。
撩は自分自身に言い聞かす。
それでも、寝ている相棒に欲情する訳にもいかないので。
撩は目を瞑って見ないようにしながら、何とか香の仕事着を脱がせ、パジャマを着せた。
そんな格闘を終える頃には、撩はその温かな部屋の中で汗だくになっていた。


だから、
それは、
ホンのご褒美だと思えばイイだろ、と言うのが撩の言い訳だ。





何も知らず呑気に寝息を立てる香の柔らかな頬に、思わず吸い寄せられた。
至近距離で見詰めると、撩の顔に香の生温い寝息が当たる。
微かなアルコールの匂いと、シャンプーの匂い。
もしもあのまま、あの下心満載のエロ主任にお持ち帰りされていたら。
今頃、相棒はどうなっていたのだろう。
そう思うと、撩の心臓は煩いほどに騒いだ。
無防備過ぎる相棒が、少しだけ憎らしくて。
その柔らかな頬を抓る。
どうしても、それだけは堪える事が出来なかった。



寝ている香の唇に、口付た。





香は全く憶えて無いけれど。
撩と香の初めてのキスは、この様にしてつつがなく執り行われた。



(つづく)





[ 2014/09/30 22:15 ] Breakthrough | TB(0) | CM(6)

⑦ 二日酔い

槇村さんごめんね、この間は大丈夫だった?



週明けの朝のロッカールームで、香にそう話し掛けて来たのは。
香の向かいの席の女子だ。
週末の飲み会の席で、気が付くと香は席を立っていて。
周りを確認すると、渡辺主任の姿も消えていた。
それまで無防備な香に代わって、渡辺の動向を監視していたつもりが、
一瞬の内に2人揃って居なくなっていたので、彼女は非常に焦っていたのだ。
しかし10分ほど経ってから、渡辺1人で戻って来た。
渡辺にお持ち帰りされるという懸念は払拭されたものの、
槇村さんはちょっと飲み過ぎたから先に帰るそうです、という渡辺の言葉に心配していたのだった。




あ、うん、大丈夫。あはは。なんか、酔っ払っちゃって。



香は真面目な表情で自分の事のように心配してくれる優しい同僚に、
非常に申し訳ない気持ちで一杯で、思わず笑って誤魔化す。
あの晩、どうやって帰ったのか良くは覚えていないのだ。
彼女がこうして心配しているという事は、まともに挨拶もせずに帰ったのかもしれない。
香は、飲み会翌日の土曜日の朝の事を思い返す。













・・・う゛ぅ・・・きぼちわる゛い・・・



喉が渇いて目を覚ますと、カーテンの外はすっかり明るくて。
アルコールはまだ、完全に残っていた。
暫く布団の中で、前の晩からの記憶を順に辿る。
同じ部署の十数名で連れ立って、駅前の居酒屋へ行った。
それまで良く話した事の無かった人とも改めて挨拶を交わし、その度に酒を勧められ。
この地元で作られるという有名な日本酒は、飲み易くて思いの外アッサリと進んだ。
気が付いた時には、結構酔っ払ってしまっていた。
何度かトイレに立った事までは覚えている、けれどその先はどうしても思い出せなかった。

気が付くと土曜日のお昼前で、布団の中できちんとパジャマを着て眠っていた。
スーツもコートもちゃんとハンガーに掛けられ、部屋の隅に吊るされていた。
携帯電話に至っては、枕元の充電器に大人しく収まっている。
全く記憶には残っていないけど、どうやら帰って来られたらしい。
食欲は全く湧かなかった。完全に二日酔いだ。
取敢えず、水を飲もうとキッチン(というよりも、ほぼ通路の一部の様な狭いシンクとコンロがあるだけだ)の
冷蔵庫まで怠い身体を引き摺った。



ん??? こんなのいつの間に買ったっけ???


冷蔵庫のドアポケットには、キンキンに冷えたポカリスウェットが入っていた。
香が素面で憶えている限りでは、買った記憶は無い。
どうやって帰ったのかも定かでないような状態で、自分で翌日の二日酔いまで見越して買ったのだろうか。
香は暫く冷蔵庫の前で考えたけれど。
寒いのと、酔いの残る頭では何だか面倒に思えて、考えるのは止める事にした。

それからストーブに火を点けて、部屋が暖まったところで漸く大事な事を思い出した。
週の半ばに撩と電話で話しながら、週末にご飯を作って持って行くと約束した件だ。
しかし正直、香のコンディションはそれどころでは無かった。
食材を見たら、恐らく吐く。






“・・・おまぁ、呑み過ぎなんだよ”

えへへ、でもなんかちゃんと帰れたみたいだよ。あはは。

“・・・・・・ほぉ、そら良かったな。”

な、なに、怒ってんの?

“別に、怒ってねぇよ。っつーか、覚えてねぇの?”

うん。・・・って何が?

“どうやって帰ったのかだよっっ”

ぅう~~~ん、それが憶えてない。







大きな撩の溜息の後に、暫くの沈黙が続く。
香はその沈黙で、撩が呆れていると思っているけれど。
撩の考えている事は、また別の事だった。
送って行った事すら憶えてないのなら、どうやらあの件も気付いてはいないだろう。
香はまだ、自身が相棒とファーストキッスをした事を知らない。



ま、いちんち寝てりゃ治るさ。



最終的に撩は、笑いながらそう言った。
そして撩の言う通り、その日の夕方遅くに漸く香の食欲は回復した。
土曜日をそんな風に、香は無駄にして過ごし。
翌日の日曜日に、約束通りまた作り置きの食事を作って撩に届けたのだった。











渡辺君、この書類 常務の承認印貰ってきて?



部長にそう言われて渡辺が向かったのは、重役室がある本社ビルの5階だった。
普段、渡辺がいる部署とは少し離れている。
それでも海外事業部の統括責任者は沢田常務なので、こうして時々足を運ぶ事がある。
はじめ、渡辺は気が付かなかった。
あの居酒屋の前は薄暗かったし、彼は私服を着ていたから。
あの時ですら、薄らデカい男だと思ったのに。
スーツを着込むと更にその体格の良さは際立っていて、渡辺は無意識に委縮した。
普段はチャラチャラしたお調子者の渡辺だが、昔から本能的に強いと感じる相手には弱い男なのだ。
その男は、常務の秘書だと言った。
確かに、秋ごろに前の秘書の女性が退職したらしい事は知っていた。
けれどまさか、その常務秘書があの晩、槇村香を迎えに来た彼女の彼氏だとは思いもよらなかった。



あ、あの。

まだ何か?



何か言いたげな渡辺に、撩は気付かないフリでそう言った。
昨日の今日で、週明けに常務室へと赴いたのはあのスケベ主任だった。
撩は素知らぬ振りで書類だけを受け取って、用を済ませようとしたのだけれど。
渡辺は何か言いたそうにしている。





あ、貴方は、槇村さんの・・・

あぁ、アナタでしたか。この間は、アイツが世話になって、申し訳ない。

いいいえ、世話だなんて。ななななにもしてませんからっっ

じゃ。お疲れです。




何もしていないと強調しながら冷汗をかいている男に一瞥をくれて、撩はサッサと話しを切り上げた。
撩は男としかもスケベなチャラ男と長話する程、暇では無いのだ。
たとえこの男が撩に用があっても、撩には無い。











あのね、あの桜井さんって方。



香は弁当箱の中の玉子焼きを摘みながら、その話しを切り出した。
向かいの席の女子が、頷きながら話の続きを促す。


私、何か怒らせるような事しちゃったかな?


桜井というのは、同僚の女子社員だ。
何処と無く陰気な雰囲気で、朝から顔を合わせて香が挨拶をしても綺麗にスルーされてしまった。
香の席とは随分離れた場所に座っているし、
これまで仕事面で接する事は殆ど無かったし、これからも恐らくは無さそうだけど。
それでも朝、顔を合わせれば当然、香は挨拶をするし、他の社員たちも皆おなじだ。
けれど彼女にだけは、香は悉く無視されている。
そのような態度を取られる心当たりも、今のところ無い。



なんか、気のせいかなぁとか思ってたんだけど。どうも、そうじゃないみたいで。

あぁ、あの人、誰にでもああだから。気にしない方が良いよ。

そうなの?

うん、主任に気に入られてる子には、特に酷いの。槇村さんはホラ、ロックオンされてるじゃん?

・・・ロックオンって(苦笑)

多分、好きみたいなの。桜井さん、主任の事。だから、主任が目をかけてる人が気に入らないらしいわ。




香はそんな話しに、ふ~~んそんなもんか。と思う。
香は撩が好きだ。
撩の相棒に立候補したハタチの時からずっと。
いや、正確にはその前からずっとだ。
それでもそんな気持ちを、仕事の場に持ち込んだらいけないと、いつも思ってきた。
だから、1度も撩には自分の気持ちを伝えた事は無い。
時々、依頼人の美女に鼻の下を伸ばしたりする撩に、ムカついたりもするけれど。
不思議と仕事となると、恋愛感情は忘れてしまう事もある。
仕事の時はどちらかというと、好きという感情より、撩に認められたいという気持ちの方が強い。




好きって言っちゃえば良いのにね。



香は思わずそんな事を口走った。
これが自分の事なら、滅法奥手で。
誰よりも、初恋を拗らせている張本人なのに。
人の恋愛沙汰なら、客観視できるらしい。
仕事上の人間関係に支障をきたす位なら、気持ちを告げればイイのにと、無責任にそう思える。



言わなくてもバレバレじゃん?主任、そういうの嫌いみたい。上手く需要と供給が噛み合わないのよ。


向かいの席の彼女は先輩らしく、香に職場に纏わる色々を楽しそうに教えてくれる。
香はこの桜井さん問題を通して、自分と撩に当て嵌めてみる。
香の気持ちは果たして、撩にバレているだろうか。
確かに、少し前のあの奥多摩の湖の畔での遣り取りはあったけれど。
あの時は何だか特別だったし、はっきりとした言葉で伝えた訳ではない。
それよりも、日頃の生活の中で。
果たしてこの香の恋愛感情はどの位、撩に伝わっていて、
撩はそれに関してどう思っているのだろうか、と。
撩がどれほど香の事を愛しているのか、当の香は全く知らない。








槇村さんの彼って、常務の秘書だったんだね。



給湯室でお弁当箱を洗っていた香にそう声を掛けたのは、外から戻った渡辺だった。
突然そう言われて、香はポカンとした。
渡辺の言葉が、すんなりとは頭に入って来ない。




あ、いや。彼がいるって事は、他の女子に聞いてたからさ。





香は何と答えて良いのか解らなかった。
どうしてこの主任が、香と撩の事を繋げて理解しているのだろう。
周りには、秘密の筈だったのに。
何かを言えば、ボロが出て潜入の事までバレそうで。
香には何も言えなかった。
ここで撩と香の関係(恋人関係などではなく、実はシティハンターだという事。)がバレたら、
潜入調査自体の危機だ。
香は弁当箱を洗いながらも、脳内では静かにパニクっていた。


(つづく)





[ 2014/10/07 00:03 ] Breakthrough | TB(0) | CM(0)

⑧ 密会

香が午後の資料室で例の、コードネーム“香田部長”という名のミッション遂行中に、そのメールは来た。
チャコールグレイのジャケットの内ポケットで、携帯が振動する。
時刻は、14:28
送信元は、撩の携帯だった。




“今晩、アパートに迎えに行くから。メシ、喰いに行くぞ。”


撩からの用件は、たった1行、それだけが書かれていた。
何処に行くとも、どういう意味なのかも何の説明も無しに、いつも撩は何だってそうやって唐突に告げる。
今回の遠方での依頼でも、撩はミニを持って来ている。
何が起こるか解らない依頼中には、ミニの機動力は2人には必要不可欠だ。
準備や諸々も含めて、香より2日ほど早くこの街にミニでやって来て、
後から電車でやって来た香を、駅で待っていてくれた。

香は、このたった1行の文面の意味を推し量る。
1番に想像するのは、仕事で何やら進展があったのかという事だった。
しかし、先程から頻繁に連絡を取り合っている教授もミックも、それらしい事は何も言わない。
という事は、撩の方のターゲットに動きがあったのか。
香は昼休みの給湯室での出来事を思い返す。
主任の渡辺に、突然振られた撩の話題。
何と答えたら良いものか思案した香は、シティハンターである事がバレるよりはマシだろうと。
嘘を吐いた。






・・・あ、あの。私、彼と付き合っているのあまり公にしたくないので。
その事、私と主任だけの秘密にして貰えませんか?



はは、槇村さんと僕だけの秘密って事か。
構わないよ、槇村さんと秘密を共有出来るなんて何か嬉しいな。





香がそう言うと、渡辺はにやけた表情でそう答えた。
その受答えで初めて、香は同僚から指摘された渡辺の香に対する態度について意識した。
“槇村さん、主任にロックオンされてるから。”香はそう言われて、まさか、と一蹴していたけれど。
少しだけ、そうかもしれないと覚ったのだ。
そしてそう思う事は、香に軽く恐怖を齎した。
自分が何の興味も抱いていない相手からの一方的な好意が、
恐怖という感情に結びつくという事に香は我が事ながら驚いた。
そしてそれは渡辺が一歩香に詰め寄って呟いた時に、嫌悪に変わった。




じゃあ勿論、彼にも内緒だよね? 嬉しいなぁ。







撩からのメールを受けて、香は一番にさっきのこの出来事を報告しといた方が良いだろうと思った。
詰め寄った渡辺からの妙な圧迫感を感じて、焦っていた香を救ったのは向かいの席の女子だった。
彼女がその場にやって来て、空気を変えてくれた。
何事も無かったように香にも渡辺にも、当たり障りなく声を掛けたけど。
渡辺が去った後にさり気なく、大丈夫?と訊いてくれた。
香は本当に心底、彼女がいてくれて助かったと思った。
この件を報告するには、今晩撩に会えるのは都合が良い事かもしれない。
香はメールを返した。



“解った、ちょうど報告したい事があるの。何時頃、来るの?”


その香のメッセージに、撩はメールでは無く電話を掛けて寄越した。
パソコン画面を見詰めていた香のジャケットの内ポケットで、またしても携帯が着信を告げる。
それが撩からのものだという事が解るのは、着信音を撩だけ他と設定を変えているからだ。
香は一応、周りを見渡して通話ボタンを押した。





何かあった?



何の前置きも無く、撩が話し始める。
いつもの事だ。



うん、一応、報告しといた方が良いかなって事が1つ。でも、夜会うのならその時の方が良いかも。

そうか。

うん。

大丈夫か?

うん、何時に来る?

まぁ、仕事次第だけど、19時くらいじゃね?

解った。じゃあ、また後で。

おお。





電話を切って撩は溜息を吐く。
午前中の事を思い出す。
香と同じ部署のあの男は、同じフロアで香にどんな風に接しているのだろうと想像する。
恐らくは、撩の想像している通り、胸糞悪い感じなんだろうと考える。
そして鈍感な撩の相棒は、相変わらずそういう事には一切、気が付かないんだろうと思うと。
撩は不安になる。
依頼内容に関して、不安は無いけれど。
それよりも、香に近付く男の存在の方が、撩には余程憂鬱の種だ。
今晩、一緒に食事をしようと思ったのは、ただ単なるデートのお誘いだ。
香が料理を作り置きしてくれるようになって、撩は近所の食堂に行く頻度は減ったけれど。
本当はいつもみたいに、一緒に食卓を囲みたい。












何処まで行くの?



ミニで迎えに来た撩の運転で、見知らぬ街の見知らぬ道路を走り抜ける。
香の感覚では、もう随分遠くまで来ているような気がする。
それでも、知らない道を走っているので、余計にそう感じるのかもしれないとも思う。



カニ、喰いに行こうと思ってさ。


日本海側に面したこの街では、新鮮で美味しいカニが安く食べられる。
東京だったら馬鹿馬鹿しいほどの値段のついたその高級食材を、
せっかく現地に来ているのだから、一度は香と食べに行きたいと思ったのだ。
その店は、常務とのゴルフの帰りに連れて行かれた、カニ料理の専門店だった。
2人が潜入している街からも、随分離れた場所にあるし。
ど平日のこの時間に、まさか誰かと遭遇する事も無いだろう。というのが、撩の読みだ。




もうすぐ着くさ。



ミニの窓の外は、しんしんと雪が降っている。
この街に来て、2週間近く経過して。
季節は完全に、秋から冬になった。
新宿は、教授の家は、どうだろうと思う。
やっぱり、同じように寒いのだろうかと思う。
美樹の容態については、いつもミックが知らせてくれる。
後数日で、傷口の抜糸が出来るだろうという事だった。
この調子なら年内には、美樹も家に戻れるだろうという。
果たして、その頃には自分と撩も家に帰れるのだろうかと、香は少しだけ憂鬱になる。
こんな12月は、今までで初めてだ。











で?報告って?




網の上で焼いたカニの身を解しながら、撩がそう言った。
車の運転があるので日本酒は飲むのは断念したけれど、飲めたらこの味は酒に合うだろうなと思う。




あのね、コッチの部署にさ、渡辺さんっていう主任がいるんだけど。



その名前に、無意識に撩の表情が険しくなる。
あの男、早速何かしやがったか、と。




なんでか知らないけど、撩とアタシの事知ってるみたいなの。

知ってるって?




撩の問い掛けに、香は一瞬、言葉に詰まる。
そう言えば渡辺は、撩と香について、恋人関係だと思い込んでいる。
香自身もそれに便乗して、昼間、嘘を吐いたんだった事を思い出したのだ。
香は、頬が熱くなるのを感じながら、でも一応重要な報告だからちゃんと説明しなければと思う。






あの、なんでそう思い込んでるのかは知らないんだけど、
なんだかアタシと撩が、その・・・


なんだよ?


えぇぇっとね、なんかぁ、付き合って・・・るって思ってるみたい?





撩は内心、可笑しくて堪らない。
なんでそこで、半疑問形なんだよと、突っ込みたくなる。
付き合ってると思い込んでいるに決まっている。
撩がワザとそのように振舞ったのだから。




今日ね、昼休みに給湯室で、槇村さんの彼氏って、



ココまで一息に言って、香はカァっと真っ赤になった。
俯いてカニをほじくる。
さっきから、ほじってばかりで香の皿の上のカニは一向に減らない。
恐らくは、“彼氏”という言葉を極度に意識しているのだろうと、撩は微笑ましい気持ちになる。




彼氏って?


撩は意地悪な表情でカニを頬張りながら、香の言葉を継いで続きを促す。
俯いている香は、撩が楽し気な事には一切気付いていない。



じょじょじょ、常務の秘書だったんだね、って。  言われたの///




香は茹で上げられたカニよりも真っ赤になって、何とか報告を終えた。
どうしてそんな事言うんだろう?やばくない?と、真剣に心配している。
撩は実際、やばいのは香の方だと思う。
完全にあの男に狙われてるし、何よりもあの歓迎会の晩の記憶は完全に消え去っているらしい。




別にほっときゃ良いんじゃね?アイツの事は。



撩のこの言葉は勿論、香向けの見解であり。
渡辺という男を今後、放って置くつもりはサラサラ無い。
槇村香をロックオンした男は、自動的に世界№1スナイパーである冴羽撩にロックオンされるという事だ。
香は不思議そうに、首を傾げる。



“アイツ”って、りょお知ってるの?渡辺主任の事。



香のその質問は、撩にしてみれば今更感満載だ。
あの晩、撩はあの男に、香の事を“ウチのヤツ”と呼んだ。
勿論、香は憶えていない。
撩は堪えようとしても、笑うのを堪えられなかった。
香はそんな撩に、一層不思議そうな顔をする。






ていうか、おまぁさ。

ん?どうしたの???

あの酔っ払った日、どうやって帰ったのかまだ思い出せないわけ?

へ?




撩がククク、と笑いながらカニを食べているのを見て。
香は少しづつ、気が付き始める。
もしかして、いや、まさか、なんで、いやでもそれはそういう事???
香の表情が無言の内に、クルクルと変わる。
撩が楽しそうに、香の目を覗き込む。





もしかして。

はい。

りょおが、

ええ。

迎えに来てくれ・・・た?

っっおっせぇ~~よっっ!! 気付くの。





撩は一頻り笑うと、あの晩、
渡辺に肩を抱きかかえられるようにして居酒屋から出て来た香を、
自分がおんぶして連れて帰った事を教えた。




・・・ゴメン、アタシ、飲み過ぎだよね・・・



香はシュンとして項垂れる。
さっきからせっかくのカニを前にして、香は照れたり俯いたり項垂れたりして、
一切、食事を楽しんでいる気配は無い。



良いよ、もう。過ぎた事だし、良いから喰えよ。東京じゃ、滅多に喰えないぜ?あんま、気にすんな。



その件では、一応、褒美(寝顔にチュウ)は貰っといたしな。とは、心の中だけで撩は呟いた。
この依頼遂行中に、あんな事はもう無いだろうし、
あのスケベ主任とも、依頼が片付けばオサラバなのでもう少しの我慢だ。
香はコクンと頷くと、山のように解された皿の上のカニの身を食べた。
食べながら、今度は撩の番だと香は話題を振る。




それで?りょおの方は?

は?

なんかあったから、今日ここまで来たんじゃないの?

いや、別になんもない。

はぁ?

つーか、ただお前と、カニ喰いに来たかっただけだけど?

へ?

だめ?

・・・・・・いや、だ め じゃないけど。




香は思わず、ニヤケそうになるのを必死に堪えて口の中のカニを烏龍茶で流し込んだ。
これじゃまるで。
デートみたいじゃない、と。
普通のOLとサラリーマンが、会社が終わって食事デート。
本当はただの相棒関係だけど、そんな風に恋人関係を想像すると香は妙に浮かれた気持ちになった。
でも、多分撩にとっては、大して深い意味は無いんだろうけど、と香は思った。
それはいつもの事だし、実際に撩の食欲の旺盛さを見ると、目的はカニだろう。
きっと、撩1人でカニを堪能して、
後で香にバレると恨まれるので(食べ物の恨みは恐ろしいのだ)一応誘ってくれたのだろう。
でも、それでも嬉しかった。
撩と一緒に食事をする事が。



















あぁぁぁ!!

っんだよっっ。うるせぇな。




帰り道、助手席の香が突如、大声を上げる。
何かを思い出したかのように、遠い目で涙ぐんでいる。





どうしたんだよ?急に。

アタシさぁ。

なに?

土曜日に目が覚めたら、ちゃんとパジャマ着て寝てたの。

で?(ギクゥッッ)

もももももしかしてさ、りょ、りょおが着替えさせてくれたの?

・・・。





撩は無言だったけど、撩の額に流れる冷汗で香の疑問が確信に変わる。
今更だし、気が付くのが些か遅すぎるけれど。
香は死ぬほど恥ずかしかった。
あの日、どの下着を着けていたのか、脳内で必死に思い出そうとするけれど思い出せない。





やっぱりそうなんだっっ!!りょおのエッチ!!

ば、ばかっっ。おまぁ、スーツのまま寝るワケにいかんだろうがっっ

そおだけどさ、起こしてくれれば良かったじゃん。見たでしょっっアタシのっっ 下着姿///

ケッッ 誰が見るかっっ 男子の裸なんかっっ

何だとぉ?オラ?(怒)




香がもう少しで、ハンマーを取り出すというタイミングで。
香の携帯が着信を告げた。
ミックのいつもの電話だ。
この時ばかりは、撩は助かったと思った。
電話口では、香が楽しそうに撩とカニを食べに行ったんだと話している。
そう言えば、忘れていたけど。
もう1人居たのだった、香を狙うスケベ野郎が。
香は至って呑気に、撩との食事デートの報告をしているんだけど。
きっと電話の向こうで、ヤツは香の話しを楽しそうに聴いているだろう。
実際には、あの男がいつだってフェミニストを気取って香に媚びている事は撩にはバレバレだ。


撩の可愛い女は、いつでも無防備で無邪気だ。
撩自身も含む、男達の下心になど一切、頓着しない。
撩はこの人懐こくて奥手な仔猫ちゃん相手に、近い将来、肉体関係にコマを進めようと思っているけれど。
それは中々の困難が予想される。
撩は雪道の中を、2人それぞれの仮住まいへと向けて愛車を走らせた。



(つづく)



[ 2014/10/11 06:10 ] Breakthrough | TB(0) | CM(0)

⑨ 混迷

撩はこの潜入調査の間ずっと、自分が調べている対象が黒では無いような気がしている。
依頼人である仲根社長は、沢田常務の関与を疑っているようだけど。
それはあくまで常務が関連部門の統括責任者という立場にあるという事のみが根拠で。
彼の人柄、これまでの会社への貢献度を鑑みると、沢田を疑いたくはないというのが本音らしい。
何よりも彼のこれまでの実績を評価し、
今の地位にまで引き上げたのは他でもない仲根社長自身なのだから。
しかし、それは内輪の話だ。

撩が見るのはあくまで、撩が潜入してからこれまでの事実のみである。
何の先入観も抱かず、撩が接した対象。
その人となりを見て、黒では無いような気がするのだ。
沢田に宛がわれた個室の数ヵ所に、撩は盗聴器を仕掛けている。
今のところ、怪しい動きは何もない。
沢田常務の元に最も頻繁に電話をかけてくるのは、嫁の美咲だ。
それは盗聴するのも馬鹿馬鹿しくなるような内容なので、撩は呆れ果てている。
恐らくは、同年代の中高年と比較しても、沢田夫妻は仲睦まじいと言えるだろう。
本人の飄々とした雰囲気とは逆に、彼はああ見えてかなり忙しい身である。
会社に居る時間には、ひっきりなしに来客があるし、
出ている時は大抵、取引先との打ち合わせや商談だ。
元々、現場叩き上げの人物なので、商品である重機に関しては専門家だ。
顧客相手にすら、適当に雑談していると思ったらいつのまにか、数十億規模の商談を纏めていたりする。
会社に対して、後ろ暗い不正をやっているような人間には、撩にはどうしても思えないのだ。














・・・あ、ミック。ごめんなさい、誰か来たみたい、またね。





香がそう言って携帯の通話を切ったのと、資料室に誰かが入って来たのはほぼ同時だった。
潜入調査の期間中は、なるべくこの資料室には他の社員が入室しないように、
社長の方からの根回しがある筈だったけれど、それでも用があればそれは止められない。
業務の妨げになれば、自然それを訝しむ人間が現れる可能性もある。
香は机の上に広げられた資料を然り気無く整えて、一見して何をしているのかを覚られないようにする。
入って来たのは、同じ部署の桜井だった。




お疲れ様です。



香がそう言っても、彼女は相変わらず聞いてはいなかった。
香の視線を通り越して、香がそれまで作業していた机をざっと一瞥した。
まるで探るような目付きで見回すと、それから初めて香の方へ視線を寄越す。
けれど何も言わずに、書棚の奥へと消えた。
彼女が何の用があってそこに来たのかは解らないけれど、彼女が居る間は香の方の作業は一時中断だ。
香はその旨を、教授へとメールする。
教授からの返信は、ちょうど一息吐くと良い、休憩しよう、というものだった。
それから小一時間ほど、桜井は奥の書棚で何か調べものをしていた。

香はその休憩の間、仕事以外の事を考えていた。
もう、12月も半ば過ぎ。
香はあの奥多摩での出来事から、
美樹の怪我が治るまで傍で身の回りの世話をさせて貰おうと思っていた。
それが想定外の今の状況だ。
ミックやかずえから連絡を貰う度に、美樹の様子を知らせてくれる。
こうして遠く離れてみて、それでも少しづつこれで良かったかもしれないと思っている。
香が良かれと思ってやる事が、相手には余計に気を遣わせる事もある。
一度は美樹と向かい合って結婚式の日にあのような事になってしまった事を詫びて、
美樹も許してくれた。
それ以上、その事を蒸し返すのは、お互いの為にはならないので無いかと冷静になればそう思える。
勿論、それでも香はこれから先もずっと、
伊集院夫妻には今回の件で済まないという気持ちを抱き続けるだろう。
そしてそれを言葉で示すのではなく、行動で、気持ちで、返してゆくのがお互いの為なのだろうと思う。
今はただ、美樹が少しでも早く元の通り、彼女の一番好きなあの店のカウンターに立てるのを祈るだけだ。

桜井がその部屋を後にして、香はまたミッションを再開した。
この作業も、もう後残りわずかだ。
これで何の手掛かりも掴めなかったら、潜入調査は長期化も視野に入れて掛からないといけないだろう。
いつになったら、あの懐かしい新宿に帰れるだろうと香は溜息を吐いた。
普段、依頼が無いなら無いで焦るけど。
こんな風に環境が一変するような依頼は正直、精神的に消耗する。
あの使い慣れたキッチンが恋しい。
無駄に広いメゾネットの居住スペースに掃除機を掛けながら、広過ぎるとぼやいてたけど。
早く帰って思い切り、掃除がしたい。
屋上に撩と自分の分の布団を干して、ガレージで2人で洗車する。
そういういつもの12月が恋しかった。



















あの人、何か探っているような気がするんです。嫌な予感がする。




女はそう言って、情事の後のベッドの上で気怠そうにそう言った。
男はウンザリする。
こうして相手にしてやれば何でも言う事を聞く都合の良い女は、些か、嫉妬深い。
俺が気に入った女なら、結局コイツは気に食わないのだと忌々しい気持ちが沸く。
そろそろ潮時か、とも思うけれど。
彼女には色々と秘密を知られているという、弱みもある。
下手を打つと命取りになる。
男は、これからどうやってこの女と上手い事手を切ろうかと、そろそろ考え始めている。
タバコを吹かしながら、服を着る。
女の恨めしそうな視線を背中に感じるけど、気が付かないフリに限る。
暗に、オマエも早く着替えろという空気を醸し出す。
休憩は2時間だけだ。のんびりしている暇は無い。




気のせいじゃない? 異動して来てまだひと月も経ってない人に何が出来るっていうのさ?



男は背中越しに面倒臭そうにそう答える。
女は、まだ何か言いたげな表情だけれど、もうそれ以上その話は終わりだ。
薄暗いラブホテルの安っぽい部屋で、男だけはすっかり身支度を整えていた。
利用されているのだろう事は、女も解っていた。
それでも良いと思っている。
だけど、女はいつもこの時間が好きになれない。
1人だけサッサとベッドを降りて、ビールを飲みながら煙草を吸う彼。
彼のベルトのバックルのカチャリという金属的な音が悲しい。
どうしたらもっと違った関係になれるのか、彼女にはもう解りようも無かった。











撩は何も無い部屋の天井を見詰めながら、布団に寝転ぶ。
晩ご飯は、香が作って冷凍しておいてくれたカレーを食べた。
寝タバコは絶対にダメだという相棒の小言を思い出しながら、寝転んで煙草を吸う。
教授の方の進展も、これと言って無いらしい。
それでも教授が言うには、初めからそんなに簡単に証拠が掴めるとも思っていないという事だった。
気長にやるだけじゃ、と言って高らかに笑う狸ジジイの声に、撩は軽くイラッとしたけれど。
それが単なる八つ当たりだという事は、否めない。
早く終わらせたいのだ。
これまで、香を置いて数週間、単独で仕事を受けた事くらいは何度かあった。
それでもこれ程までの焦燥感を抱いているのは、初めてだ。
本当は、あの湖の畔で香を抱き締めて、新宿に帰ってから少しづつでも距離を縮めたかった。
それが何の因果か、全くの想定外でオアズケを喰らっている。
しかも、滅多に無いほどの難解で大掛かりなヤマは、まだまだ黒幕のシッポすら掴めない。






それでも事態は、見えない所で少しづつ形を変え始める。
大切な事は、その変わり目を見逃さない事だ。
不正に執り行われた事には、必ず綻びが生じる。
それが世の中の真理だ。



(つづく)


[ 2014/10/15 11:10 ] Breakthrough | TB(0) | CM(0)

⑩ お邪魔虫

わあぁ  ホントに貰って良いの? ミック?



そう言って、薔薇色に頬を染める初恋の君は本当にカワイイと、ミック・エンジェルは思う。
あの奥多摩の一件があってからすぐに、教授から協力の要請を受けたのを快諾したのと同時に、
ミックは雑誌での定期的な連載を2つと、別件の取材を複数抱えていた。
一見、脳天気でスケベなフリーライターという名の暇人に見えて、これでも結構忙しいのだ。
フリーという社会的立場上、仕事に関して来るモノは拒まないし、去るモノも追わない主義だ。
だから、計画的にコンスタントに仕事がやって来るワケでも無い。
その点、冴羽商事と同じだが、如何せん仕事の絶対数が違う。
撩と香が今回の潜入で一時的に滞在しているこの街に、偶然にも取材が舞い込んだのはつい数日前だ。
僅か1泊だけの短い滞在だけれど、新宿以外の街で香に逢えると思うと。
ミックの胸は、俄然、ときめいた。
勿論その街には、香ともう1人彼女の番犬も居るのだが。




そんなに喜んでもらえると、嬉しいよ。カオリ。少し早いケド、クリスマスプレゼントだよ。



そう言ってミックはウィンクすると、お通しに出された小鉢の中の昆布巻きを摘んだ。
そして小さな声で、オォゥ、旨いなこれ。と、感嘆した。
本当に何を食べても美味しいのだと、香もこの街に来て思う。
ミックが香にくれたのは、柔らかな手触りのマイクロフリースのナイトガウンだ。
コッチは寒いだろうと思ってね、すぐ使えた方が良いだろう?
そんな風に言うミックは、マメだなぁと香は思う。
勿論、比較対象の例は、対極にいるずぼらな相棒なのだ。
確かに、この真冬の寒い季節に、寒い街に来て、香も撩も持ち込んだ荷物は必要最低限だ。
日に日に冷え込むこの季節に、その贈り物は非常に嬉しかった。





ありがとう、で、でもアタシ、何も用意してなかったや。クリスマスプレゼント・・・ゴメンね?

オー、ノープロブレムッッ!!久し振りにカオリに逢えたのが何よりのプレゼントさ。




そんな調子の良い事を言うミックに、香は苦笑する。
確かにミックはマメだし、気が利くし、真っ直ぐに臆面も無く歯が浮くようなセリフを吐く。
優しい男は、勿論、香も好きだけど。
それでも。
香はやっぱり、撩が好きだなぁと改めて思う。
考えている事が良く解んなくて、意地悪で気が利かないようで、
本当は誰よりも温かくて、気を使わせずに気を利かせる撩が、香は好きだ。
真正面からの優しげな言葉は、香には正直照れ臭い。
何より、ミックの泊まる駅前のビジネスホテル1Fの居酒屋で、ミックと向かい合って、
香はついつい無意識に撩の事を考えているし、逐一撩とミックを比べてしまう。
そして多少強引にでも、撩のミックよりも良い所を探し出そうとする彼女は。
完全に撩しか眼中には無い。




はぁぁぁ~~クリスマスかぁ。 ミックは優しいのねぇ。かずえさんが羨ましい。



そう言いながら、アツアツの揚げ出し豆腐を食べる香に。
ミックは少しだけ胸の痛みを覚える。
確かにミックの誰より一番大事な女は、かずえだ。
それに間違いは無い。
今更、この目の前の彼女をどうこうしようとは思っていないし、そもそも彼女はあの悪友のものだ。
ミックが取材でこの日、この街を訪れると香との電話の遣り取りで報告すると、
じゃあ、3人でご飯を食べに行こうと言い出したのは香だ。
約束の時間に、仕事帰りの香がやって来て。
撩はもう少し遅くなるみたいだと、そう言った。
先に2人で始めててくれと、撩は香に言付けた。
ミックは内心、このまま香と2人きりでも良かったけれど。
まさかあの男に限って、それは有り得ないだろうと思う。






カオリだって、この間リョウとデートしてたじゃない? カニデート。

あはは、あれってデートなのかな? 撩は主にカニしか見てなかったよ?

・・・食い意地の張った男だ。ボクなら、目の前にカオリが居たら胸が一杯でカニなんか食べれないよ。




そういう金髪男は、先程から食欲旺盛だ。
撩はあの日、有り得ないくらい大量のカニを平らげていたし、
目の前の香よりも、撩のベクトルはカニに向かっている様に香には見えたけど。
何だかんだ言って香自身、沢山食べる育ち盛りの子供の様な撩が好きなのだから仕方ない。






でも、ホントにありがとう。コッチに来たら予想以上に寒かったから、すごく嬉しいの。
アタシも撩も、今回の依頼は寒さとの闘いだわ。

でも、アイツは暑いのも平気だけど、確か寒いのも結構平気だったと思うよ?

撩が?

あぁ、元々は南米育ちだけど、東部に居た時も結構薄着だったしなぁ、アイツ。
アイツはほら、タフな軍用犬みたいな男だから。ま、例えればドーベルマンかな。




香は枝豆を摘みながら、クフフと笑う。
真っ黒で艶やかな毛並みは、確かに撩っぽいと思う。
精悍な顔つきも、敏捷な体も。カッコイイと、思う。
そんな事を考えてしまって、香は少しだけ恥ずかしくなってしまう。




じゃじゃ、じゃあ、ミックは?例えたら、なあに??

ボクはほら、優雅で上品なアフガンハウンドさ。

ふふ、似合ってるかも。




撩を犬に喩えたミックの言葉に、楽しそうに頬を染める彼女が可愛くて。
ミックは少しだけ調子に乗って、ウィンクを寄越す。
楽しそうに、似合ってるよ?という彼女は知らない。
上品で紳士的に見えるアフガンハウンドは、
意外にも気位の高い野生児で、獰猛な狩猟犬であるという事を。
飼い馴らされたペットでも時として、俊敏な仔猫などを獲物と見なして襲う事もあるという。









なぁにが、上品で優雅だよ。おまーなんか元々、飼い主(マフィア)に拾われた野良のくせして。




そう言いながら現れたのは、タフで勇敢な軍用犬だった。
日頃し慣れない、ネクタイを締めている。




おかえりー、りょお。



香がそう言って持ち上げた中ジョッキには、半分ほど生ビールが入っている。
狩猟犬のグラスには、早々、麦焼酎のお湯割りが入っている。
思わず、無意識に撩の眉間に縦皺が刻まれる。
確かに先に始めてろとは言ったけど、
今までの数十分、2人がどんな会話をしていたのかが非常に気になる。




おまぁ、ったく。懲りてねぇなっ?


何の事を言っているのかは、香にだけ解る。
香はクスクス笑うと、まだそんなに飲んで無いから大丈夫だよ?などと言う。
それでも、香の頬と目の縁は薄っすらと赤く、薄茶色の瞳は潤んでいる。
自分が居なかったら、この無防備な仔猫は、
簡単に野良犬に連れて行かれてしまいそうで、撩は気が気では無い。
特にこの目の前の、金色の毛並みの野良犬は性質が悪いので要注意のなのだ。
途中、香がトイレに立ったところで、撩はミックに詰め寄った。




おまー、取材って嘘だろ?

はあ?何でボクがそんな嘘を吐く必要があるのさ?

・・・なんだよ?あれ。




撩が香の席の横に置かれた赤い包装紙に包まれた“クリスマスプレゼント”を指差す。
ミックは不敵にニヤリと微笑む。





あぁ、あれは。ボクのささやかな香への気持ちさ。ボク、カオリの事好きだもん♪

・・・。

文句があるならさ、リョウ。 オマエも堂々と表明しなよ、カオリは俺の恋人だって





撩の眉間に深い深い皺が刻まれる。
勿論、それが出来る撩ならば、2人はとっくに相棒以上の関係になっている事だろう。
コッソリと相棒の寝顔にキスをしたり、コッソリと相棒の部署の男共を調べたりしない。
やりたいのは、撩とてやまやまだ。
実際、もうこんなクソ寒い田舎からとっとと帰って、2人のアパートでぬくぬくゴロゴロしたい。





っつーか、フライングだろあんなの。 自分だけ良いカッコしやがって。

フフフ、それって負け惜しみって言うんだよ、サエバ君。残念だったな、ハッハッハ





そんな男同士のしょうも無い会話も、
彼等のアイドルが席に戻った所で、何事も無かったように中断される。
3人で和気あいあいと酒を飲みながら、撩はお邪魔虫の向う脛を何度か蹴り飛ばした。
勿論、香はテーブルの下の攻防には一切気が付いてはいない。
その晩、新宿からやって来た友人は、何だかんだと2人に近況を語って聞かせ、
2人は久し振りに、いつもの空気に浸った。
怪我をした美樹は、順調に回復し。
予定としては、クリスマスの25日にキャッツで復帰のクリスマスパーティーを企画しているらしい。
本格的な店の再開は、年明けになりそうだとミックは言った。

だから、2人とも早く終わらせて帰っておいでよ、と。
実際、つまらないのだ。
新宿に2人が居ないと。



もうすぐで、色々あった1年が終わる。



(つづく)




[ 2014/10/23 19:33 ] Breakthrough | TB(0) | CM(0)

⑪ 交錯  

それは、ミックが短い滞在を終えて東京に戻ってから3日後の週明けの事だった。
その週の週末にはもう、クリスマス・イブだ。
早くもこの依頼に取り掛かって、3週間が経とうとしていた。
撩は沢田常務の元で、
通常の秘書業務を淡々とこなしながら改めてあらゆる角度から沢田の身辺を調べた。
彼の経歴に特段、目新しい事実はこれと言って無かったけれど。
唯一、撩がこれはと思ったモノに、彼の妻・美咲の事があった。
なんと彼女は、沢田と結婚する前はこの会社で社長秘書を務めていた。
(なんだ、あの人たち社内恋愛か・・・)
撩の脳裏には、彼の妻のあの奇妙なヘルメットが過った。
今でこそ沢田は常務だが、結婚当時は製造工場の最終工程を担当する部門の主任だった。







教授? カオリからの連絡、ちょっと遅くありません?



はじめに異変に気が付いたのは、ミックだった。
やはり東京に戻ってみると、あの街の寒さが別格だった事が身に沁みた。
ミックは香に会うまで、本当は少し心配だったのだ。
あの奥多摩で漸く、これまでに無く急接近した2人なのに、その直後の別居生活である。
何より、香が心細いのではないだろうかと気になった。
取材のついでに2人に会いに行くと、東京を出る数日前にかずえに報告すると。
かずえはクールな表情で、あら、本当に“2人に”かしら?“香さんに”の間違いじゃ無くて?と、
何処までが冗談で、何処からが本気なのか判別の付け難いリアクションをされた。
実際に久し振りに会った2人は、拍子抜けするほどいつも通りでミックは安堵した。




そうじゃのぉ、もう50分位になるか。



教授が研究室の壁に掛かった時計を確認する。
教授が香に持たせているパソコンのデータを、かずえがすぐに解析する。
いつもなら、どれだけ時間が空いても20分に1度程度は香からの何らかの交信があった。
香は潜入先では、午後からの時間は完全にコチラの件に取り掛かっている筈だ。
ある取引の納入先に関する資料を送信してきて以来、香からの交信は途絶えた。
ミックは、何やら暫し考え込んだ。



ちょっと、リョウの方に連絡取ってみましょうか?



撩も香も、大きな社屋の別のフロアに居るとはいえ、同じ屋根の下に居るのだ。
いざとなれば、撩に連絡を取るのが最も手っ取り早い。











香がハンカチで手を拭きながら資料室の傍にある女子トイレから出ると、
ドアの外には見知った顔があった。
勿論、香は挨拶をする。
相手がどんなリアクションを取ろうとも、それは香にとっては当たり前の事だから。
“彼女”は何も言わずに、手の中に持っていた白い布を香の口と鼻を覆うように押し当てた。
深く息を吸い込んでから意識を失うまでのホンの一瞬、香は抜かったと思った。
脳裏には撩の残像が過ったけれど、
その直後にはもう香の意識は綺麗にブラックアウトして、外界からのあらゆる出来事は遮断された。









ジャケットの懐で携帯電話が振動する。
それと同時に、撩のデスクの電話も鳴り響く。
携帯の画面には、腐れ縁の悪友の名前が記されていた。
撩は一瞬見比べて、デスクの方の電話に出た。
相手はつい1時間ほど前に、沢田が会いに行く予定で出掛けた取引先の担当者だった。
新年明けの初荷でショベルカーを2台新しく納入する予定の、地元の大手土木業者だった。
沢田との打ち合わせの予定時間になっても、先方に姿を見せないという事で連絡が来た。
取敢えず撩は、道路の状況で到着が遅れているのかもしれないと誤魔化して電話を切った。
速やかに現在の状況を確認し、折り返すと伝えた。
けれど、撩の中で何かが妙に引っ掛かる。
悪い予感と胸騒ぎがする。
そしてそれは、その直後にミックに折り返しの電話を入れた所で確信に変わる。







何かあったか?




撩の第一声はそれだった。
ミックには、その撩の声音で撩の方側でこそ、何かが起こったのだと察した。
手短に用件だけを伝え合う。








カオリからの連絡が途絶えた、もうじき1時間になる。

何だって? マジか。

ああ、ちょっとカオリの方の様子を見に行ってくれないかなぁ?

解った。 それと。

なんだ?

コッチの方も、沢田常務が消えた。

っっ!!! ほんとか?

ああ、恐らくこの点と線は繋がる。

解った、教授にも伝える。

あぁ。

なぁ、リョウ。

ん?

なんかあったら、すぐ連絡しろよ?

フン、わぁってるよっっ。後でな。

OK















その部屋には、香のジャケットとひざ掛けが残されていた。
放置されたパソコンには、ロックが掛かっていてこの案件に関わる者以外には開けないようになっている。
ひざ掛けの置かれていた椅子にも、ひざ掛けにももう温もりは残っていない。
ジャケットのポケットには香の携帯電話が残されていた。
この寒さの中、きっと香はジャケットを脱いでシャツを着ているだけだ。
生憎、香の所在を知らせる発信機は、香のベルトのバックルに取付けている。
そして沢田の方にも、撩はコッソリと細工を施していた。
沢田がいつも使っている愛用のネクタイピンは、ブルガリの物だ。
ロゴマークの中央に配されたオニキスの黒い石の裏にも、発信機を取り付けている。
これまで数度、沢田と無礼講で夜の繁華街で酒を飲んだ。
その際、酔いに任せてそのネクタイピンを一晩失敬したのだ。そして細工した。
当人には、今のところ気付かれてはいない。
撩は小さく舌打ちをした。
香のジャケットと、念の為ひざ掛けも持って撩は急いで資料室を出た。
撩たちが仮住まいしているアパートも、この会社のすぐ近くだけれど。
駐車場は更に近くに借りている。
何より、万一の時の為にすぐに使えた方が良いだろうと思ったからだ。
まさか、ここでそれが役立つとは思わなかったが、逆にこんな状況になった事自体に撩は無性に苛立った。









目が覚めた時、香は寒さに震えていた。
手足をきつく縛られ、猿轡を噛まされている事だけはぼんやりとした意識の底でも認識できた。
少しづつ覚醒する。
恐らくは人気の無い何処か事務所の様な1室、床には辛うじて絨毯が貼られているし、
一応、暖房は入れてある。
そして、自分のすぐ傍にもう1人、同じように拘束されて転がされている気配。
薄暗い空間に目が慣れて来ると、それが背広を着た男性だという事が解る。
どうやら彼も同じように覚醒し始めている様子だ。
埃臭い。
うすら寒い。
この事態に、誰か気付いている人間は居るだろうか。
そもそも今現在、何時なんだろう。
香の思考は取り留めも無く巡る。











撩はミニのダッシュボードを開けると、受信装置を起動させる。
そこに現れた、2つの異なる光点。
それは見事に同じ場所にあった。
点と線が繋がった。













お目覚めですか?槇村香さん、いや、シティハンターさんって言った方が良かったかな?




その部屋のドアが開いて入り口に立った男がそう言った。
逆光と恐らくは嗅がされた薬のせいで、未だ焦点の定まらない目ではその男の顔までは良く解らない。
けれど香は、確かにその男の声に聞き覚えがあった。



(つづく)



[ 2014/10/31 22:22 ] Breakthrough | TB(0) | CM(0)

⑫ 孤独な闘い

光点の示す先は、港の付近だった。
この街には豊富な水揚げ量を誇る漁港とは別に、国際貿易港としても知られる大きな港がある。
仲根製作所が製造する数多くの重機は、この港の税関を通ってアジア方面の中継貿易港へと輸出される。
まさしく、今回の件の最終の砦ともいえる場所だ。
どういうカラクリがあるのかを、今の所調べているのだけれど。
どうやら先方がその尻尾を見せてくれたという事か。
撩はチラチラと雪の舞い降りる街並みを縫うように、ミニを港に向かって走らせた。








男は調べてみたのだ。
あの女が、槇村香は怪しいなんて言うから。
確か、槇村は東京支社の第3営業部からの配属だと聞いていた。
その部署に、男の元同僚が2年程前に転属になっていたのを思い出した。
その元同僚に白々しく連絡を取り、何気なく槇村香に関する情報を聞き出そうと思ったのだ。
結果、そんな女性は知らないという事だった。
それ以来、男の疑念は深まった。












槇村香さん、それに沢田常務、貴方がたは余計な事を知り過ぎた。
そしてもう1人、槇村さんの“彼氏”、いや冴羽撩でしたっけ?あの、薄気味悪い大男。
3人役者が揃ったところで、仲良くあの世にご招待致しますよ。
貴方がたには、不正輸出の濡れ衣を着て戴かないとね。
もう暫く、この部屋でお待ちください。






逆光を背にした男は、そう言うと笑いながらその部屋を出て行った。
男の言葉から、一緒に捕えられて拘束されている男性が沢田常務だと香は知る。
香はガタガタと震えながらも、頭の芯は冷静だった。
ブラウスの袖に仕込んでおいた剃刀で、男が弁舌を振るっている間に手首の戒めを解いていた。
ドアから差し込む光が細くなって、完全に遮断されて外から鍵を掛けられた音を確認すると、
香は両腕を自由にした。
噛まされた猿轡を解き、すぐに傍らの沢田常務の拘束を解いてやった。
香は撩から聞かされていた事を思い返す。
撩が身辺を洗っている沢田常務には、何ら不審な点が見られないし、
黒幕では無いと思っているという、撩の見解だ。
この場にこうして一緒に閉じ込められて、今の男に濡れ衣を着て貰うと言われていたという事は。
撩の見解は正しかったと言える。





あ、ありがとう。君は・・・?

初めまして、沢田常務。槇村香と申します。パートナーの冴羽がお世話になってます。




こんな状況なのに、そう言ってニッコリ笑った彼女が。
とても美しいと、沢田は思った。
そして、この彼女が例の“冴羽クンの彼女”かと合点がいった。
沢田は自分のスーツのジャケットを脱ぐと香に着せた。
困惑する香に沢田は、自分はこの土地で生まれ育ったんだ、このくらいの寒さは平気だ。と笑った。
香も小さく頷くと、遠慮なくジャケットを借りる事にした。






あの、大丈夫ですから。撩が必ず迎えに来ますから。



香は自分のベルトに発信機が取り付けられている事を知っている。
何か異常があれば、撩が駆け付けて来てくれる事も。
恐らくは初めに異常に気が付くのは、遠く離れた東京のチームだろう。
データを送信している途中で、香との連絡が数時間に亘り途絶えれば、必ずその事は撩にも伝わる筈だ。
香にはここが何処なのかも、今が何時なのかも何も解らないけれど。
パートナーを信じている。
沢田が深く頷く。






何か時間が解るもの、お持ちですか?



香の問い掛けに、沢田がジャケットを指し示す。
香は許可を得て、ポケットの中を探る。
しかしポケットの中身は全て無くなっていた。
財布も携帯電話もそれどころか、香も沢田も腕時計すら外されていた。
香は意識を失う前の、女子トイレ前での出来事を不意に思い出す。
ミック宛に資料を送信して、トイレに立った。
用を済ませて外に出ると、そこにはいつも香に親切にしてくれる向かいのデスクの彼女が居た。
香は何も疑う事無く、お疲れ様、と声を掛けた。
けれど彼女は何も言わずに、薬品を染み込ませたハンカチを香の鼻と口に押し当てたのだ。
まさか彼女が、と思いながら香の意識は急速に沈んでいった。






君らも、この件を探っていたんだね。



香はコクンと頷く。
君らも、という事は常務も何か知っていたのだろう事が窺える。
香が訊ねる前に、沢田は語り始めた。
それは遡る事、この年の夏前の事だった。
沢田常務と仲根社長は家族ぐるみの付合いだった。
何しろ、沢田はおろか、沢田の妻も結婚するまでの数年間、社長の元で秘書をしていたのだ。
2人の仲を取り持ったのが、他でも無い仲根社長その人だった。
沢田には彼に対する、深い尊敬の念と一生返せない程の恩義がある。
感謝こそすれ、彼を裏切るなど絶対に有り得ない事だ。


不正輸出に関わっている社員がいるという噂を耳にしたのは、妻・美咲だった。
その日は幹部社員の妻ばかりが集まって、社長夫人の主催するお茶会に呼ばれていた。
彼女らはやはり皆、家族ぐるみで仲が良く、そういった集まりが催される事は珍しくも無かった。
その日、社長の仲根は昼過ぎまで家に居て、お茶が入ったから呼んで来て下さらない?と、
夫人に頼まれたのが美咲だった。
彼女が秘書だった経緯は、全員の知る所で。
社長が他のメンツとは明らかに違った愛情を、彼女にかけている事は皆知っている。
勿論、厭らしいものでは無い。
まるで娘のように沢田美咲の事を、仲根夫婦も可愛がっていたのだ。
仲根の書斎のドアをノックしようとして、美咲は不穏な空気を感じ取った。
誰かと電話で会話をしているらしい気配。
美咲はいけないと思いつつも、心配でそっと聞き耳を立てた。
そこで聞き取ったのが、不正輸出という言葉と、公安が動いているらしいという断片的な情報だった。
数日間悩んだ末、その事を美咲は夫に話した。
沢田は衝撃を受けた。


基本的に沢田は、自分の身の回りにいるスタッフを信頼する事でこれまで働いてこれた。
自分の元に居る部下の、悪い所を見るのでは無く、
良い所を見、伸ばしていけるような職場づくりを目指していた。
そして部下を信じていた。
けれどその中に、仲根社長を裏切っている人間が居るのだという事実。
そこに直面した時、沢田は1人でこの件を内密に調べようと決意した。
なるだけ穏便に、当事者と社長の間で解決できるように尽力する事が自分の役目だと思った。
沢田が仲根社長の異変を感じたのは、秋の初めだった。
自分が疑われているのではないかと、薄々感じ始めた。
それでも、真相さえ明らかになればその疑いも晴れると信じていた。
何しろ沢田は、会社の掲げる理念に対して、何1つ後ろ暗い覚えは無かった。
だから堂々としていようと己を鼓舞した。
孤独な闘いだった。
その孤独な闘いに、乗り込んで来たのが冴羽撩という男だった。
沢田にはすぐに解った。
彼がこの事件に何らかの一石を投じてくれると。





もう大丈夫です、私達、あ、撩と私って事ですけど。
私達に何かあればすぐに警察が動く事になります、でもそれ以前に撩が解決しますから。




香には沢田の話しに出て来た、“公安”という言葉で全てに合点がいった。
教授からの依頼、冴子と撩の繋がり。
以前からそれは解っていた。
撩という男を、彼等が徴用する理由。
撩の殺し屋としての一流の腕だけでなく、彼の特異な生い立ち。
戸籍の無い彼が、闇の世界で暗躍して巨悪を潰しても。
法で裁く対象がこの世には存在しないのだ。
実像はあれど、存在が認められない特異な男。
撩は彼等にとっては、透明人間で、人の生き死にを法律の枠を超越した場所で操作する、
神様のようなモノなのだ。悲しいけれど。
彼等のご都合主義など、撩はお見通しで。
解っていて加担するのだろう。
それが撩の考える“正義”と利害が一致した時に。
香はそんな裏の事情を憎んでもいるけれど、撩がそれを受け入れて自分に出来る事をやるというのなら、
迷わず撩の選択を支持する。
迷わずに撩をアシストする。
撩と一緒に死ねるのなら、迷わずに死ぬ。
それはあの奥多摩の湖の畔で、叫んだ気持ちそのままだった。


誰もが皆、孤独な闘いを続けている。
香は撩の孤独を少しでも、自分にも背負えたらとずっと思っている。
そうじゃなきゃあのハタチの夜に、彼の相棒に立候補した意味が無い。
撩が好き。
撩を愛している。
それだけでは足りないもっと深い気持ちが、香をいつも突き動かしている。


こうして撩を信じて待つ事も、解決の為の何らかの糸口になる筈だと香は信じている。


(つづく)



[ 2014/11/03 13:19 ] Breakthrough | TB(0) | CM(0)

⑬  黒幕

撩は港へと車を走らせながら、数十分前の事を思い返す。


ミックの話しに寄れば、香はトイレに行って来ると言い残したまま連絡が途絶えたらしい。
資料室から一番近い女子トイレ。
撩はその入り口付近に立ってみた。
その会社の各フロアの要所要所には、防犯カメラが設置されている。
通常ならばそれは、単なる防犯用で。
従業員を監視するような目的の物では無い。
その日のその時間、香もこの場所に立ったはずだと撩は考える。
その場所の思いの外近くに、カメラは設置されている。
撩は迷わず、一階の守衛室へと走った。













ウチの奥さん、発明好きでさぁ。

へぇぇぇすごぉおいっっ どんなもの発明したんですか?

この間は、カラス撃退用ヘルメットをね。

・・・ははは。





薄暗いその部屋は、どうやら使われる事の無くなった何処かのオフィスの会議室の様な所だ。
香と沢田が拘束されていた周りには、古い事務机やスチール棚がまるで押し込まれるように置いてある。
解るのは先程男が出入りしたドアだけで、暗幕でも引いてあるのかその中はやけに暗く。
何処に窓があるのか定かでは無い。
もしかすると、押し込まれたガラクタが完全に採光を遮ってしまっているのかもしれない。
2人は下手に動いて危険を冒すよりも様子を見る事にしようと、呑気に構えていた。
けれど、互いに1人きりでは無かったからこそ、落ち着いていられた。
開口部の少ない密室は、初めの内こそ寒さを感じていたものの慣れればそれほどでも無かった。
2人は先方に怪しまれないよう、拘束されて転がされたままの場所に並んで座り込んだ。









恩田琴美さん?




撩が海外事業部を訪れると、数人の女性社員からの視線を感じた。
初めて見掛ける男性社員、しかも超絶イケメン。
その視線の種類は、およそ仕事とは関係無さそうな好奇心に満ちた物だった。
撩は心の中で、やっぱ俺イケてるわぁ、と思ったけれど、そんな場合じゃ無かった事を思い出す。
彼女の向かいの席は空席で、それもその筈。
今その向かいの女はシャツ一枚の寒々しいスタイルで、何処かに監禁されている筈だ。
この恩田琴美という女が、薬を用いて意識を失わせている間に。




その男の目には、不思議な力があって。
何処か心の奥底を射抜くような、黒い光を宿していた。
彼が何も言わない前から、槇村香の事を訊かれるんじゃないかと予感した。




突然現れたイケメンが、恩田琴美の前で声を掛けたのを。
他の社員たちが遠目に仕事をしているフリで観察する。
撩は気配や空気を読む事に関しては、野生動物並みに鋭いのでそんな周りのリアクションを、
解っていて解らぬフリをする。
香が座っていたと思しきデスクを挟んで、向かい側に座る表情の強張った女。
撩はゆっくりと、手前のデスクを観察する。
ブロック型の黄色いメモ用紙には、香の文字でメモ書きが残されていた。
他の誰か宛の電話の取次メモ。
それは確かに香の字で、メモの端っこにクルクルとペンの試し書きのような線が描いてあるのは、
電話をしながら手持無沙汰な時の、香の癖だ。
撩は新宿の2人のあの部屋のリビングの電話の横のメモ用紙を思い出す。
帰りたい。
今すぐ。
アイツと2人で。











あ!



突然、何かを思い出したように声を上げた沢田に、香が首を傾げる。
沢田はニッコリ笑うと、香に着せたジャケットの胸の内ポケットを探るように言う。
香は不思議そうに首を傾げながらも、そのポケットを探ってみる。



・・・あ。


それは細長い形の紙の箱。
1粒で2度美味しい、キャラメルの箱だった。





良かった、それは取られなかったようだ。



そう言って笑う推定50代男性は、かなりお茶目だと香は思う。
何処か似ていると思う。
自分の最愛の相棒に。
2人はクスクス笑いながら、1つずつキャラメルを頬張った。











沢田常務の秘書の冴羽です。 幾つか、あなたにお伺いしたい事があって来ました。




そう言って彼は笑った。
俺はここでもイイけど、場所変える?と訊かれたから。
恩田は頷いて、撩の先を歩いた。
社内ではまずいような気がして、会社の傍の地味な喫茶店に撩を案内した。










沢田常務が、今現在、失踪されてね。




そう切り出した男の話しが、恩田には意外だった。
てっきり、槇村香の事を訊かれると思っていたからだ。
沢田常務の事などは、何も知らない。




それと時を同じくして、女性社員も1人消えている。



恩田はその時漸く、怯えたように俯いた。
その彼女の反応を見ながら、撩は彼女が何処まで関与しているのだろうかと簡単に探りを入れる。






3階のトイレの前の廊下でね、薬を嗅がされたらしいんだけど。  そうだったよね?

    ・・・え?

君がやったんだもんね?そっちの方は。

・・・・・・。

で、常務の方はどうやったんだ?

わ、わわ私。

ん?

常務の事はっっ  何も、知りません。




撩は険しい顔を作って、彼女を凝視する。




へえ。常務の事“は”? じゃあ、槇村香のほう“は”、やっぱ何か知ってるんだ。



恩田はハッとする。
言葉の端々には、無意識の内にボロが出てしまう事がある。
彼女は確かに、槇村香の事は知っている。
男に頼まれたのだ。
大好きな男だ。
彼が自分を都合よく利用している事などは、重々承知だけど。
それでも、頑張ると少しだけ嬉しそうにしてくれる。
それだけの為に、恩田は彼の為に何かをしたかった。
槇村香に、恨みは無い。
イイ子だったと思う。
でもあの後、彼女が何処に連れて行かれて、何がなされているのかなど。
恩田は知らない。




さっき係長に聞いたら、今日あの部署で欠勤してるのは1人だったね。



その撩の言葉に、恩田はハッと顔を上げる。
渡辺主任は今日は、休んでいる。
風邪で熱があるという事らしい。
けれど、風邪などでは無い事を、恩田は知っている。
香の肩を抱くようにして非常階段に向かうと、外階段へと繋がるドアの向こうに。
目立たないように地味な格好をした彼が立っていた。
グッタリと脱力した長身の身体は、華奢とはいえ恩田には重たかったけれど。
渡辺俊介は、軽々と抱えて階段を降りて行った。




渡辺主任は、今何処にいる?

・・わ、解りません。

君は、何を隠してる?




何を隠しているのか、その撩の言葉に恩田琴美は我に返った。
それはそっくりそのまま、昨夜、渡辺に投げ掛けた恩田の言葉だったからだ。
いつもの安ホテルのけばけばしい寝具の上で、彼女は小さな薬品の入った瓶を渡された。
君は何も知らなくてイイから、ただ槇村香を眠らせて連れて来れば良い。と言われた。
そんな事を言われても、それは明らかに犯罪だ。
だから彼女は珍しく、強い口調で男に詰問した。
何を隠しているのかと。
何を隠して、自分に悪事へと加担させようとしているのかと。
けれど、男は調子よく曖昧に誤魔化しながら、有耶無耶のまま恩田を抱いた。
解っていて自主的に誤魔化されている自分の嫌な匂いを嗅いだような気がして、吐き気がした。

思い出すと自然に涙が出ていた。
彼が良からぬ事をしているのは、知っていた。
聞くのは怖いから、知らぬ振りをした。
多分、とても悪い事。
時々、会社の中の噂や、情報を彼に齎したりもした。
心の何処か片隅では、いつか彼が破綻すればいいのにと思っていた、大好きだけど。
彼が何もかも失って、途方にくれた時に自分だけが味方で居れば。
その時は彼も、自分だけを見てくれるかもしれないから。
でも、そう考える事はきっと。
彼の悪い企みと同じだけ、悪い事なんだろうと恩田は思う。






彼女が泣きながら、フルフルと首を振る。
解りません、と小さな声で呟く。
でも多分、主任は悪い事をしています、と。







撩は恩田琴美を喫茶店に残し、足早に店を出て駐車場へと向かいながら教授へと連絡を取った。
早急に調べて欲しいのは、渡辺俊介と彼に接点のある税関職員について。
それが解れば、事件は自ずと切り崩される。
目指すは、港の広大な面積のコンテナ荷捌き場の何処かだ。


(つづく)




[ 2014/11/07 22:10 ] Breakthrough | TB(0) | CM(0)

⑭ 同じ部屋

あ、あのさぁ。りょお・・・

ん?

こ、ここここの部屋だけなの?

うん。充分だろ、これだけ広けりゃ。





確かにその部屋は、充分すぎる程充分に広くて贅沢だった。
だから香が言っているのは、
スペースの問題ではなく今夜ここに相棒と二人きりだという事への困惑の表れである。
丸1日前の今頃、ちょうど撩が香と沢田を助けに来てくれた。
それから1日しか経っていないのに、この急激な状況の変化に香は上手く付いて行けずにいる。








港の税関の建物が新しく改装工事を終えるのは、来年の春の予定らしい。
今現在は、仮に設けられた事務所と改装が済んだ部分から順次移転している。
とは言え、同じ港の敷地内での話だ。
以前に使われていた建物は、取り壊しにかかる準備の為に足場が掛けられ、
工事用の防音シートで覆われていた。
取り壊し工事も着工前で、税関の職員も用が無いその場所は誰も近付かない死角となっていた。
香と沢田が閉じ込められていたのは、その建物の一室だった。
処分される予定の古いオフィス用品と共に遮光カーテンで閉ざされていた上に、
建物を覆うようにシートが掛けられ、その上外では雪が降っていた。
さすがに、あの段階で凍死されたら段取り的にまずかったのだろう。
辛うじて通じていた電気を使って、空調だけは使ってくれていたので二人は凍死せずに済んだ。


撩は港に到着して、一番にその建物を疑った。
だだっ広い港の敷地だとしても、其処此処に何らかの人々が動き回り、
ひっきりなしに届く海上の輸送船からの荷物を、淡々と捌いていく日常が流れている。
時間が止まっている場所はそこだけだった。
平日の真っ昼間、香と沢田は人目を避けるように拉致されて来たのだ。
その建物ほどお誂え向きの隠し場所は無いだろうと思う。
意外と浅はかな犯人の目論見に、相手は素人だなとピンと来た。
勿論、犯人の内の一人、渡辺が素人なのは間違いないけれど。
渡辺はむしろ一番下の使いっ走りに過ぎないだろう、
それと肝心の仲根製作所側の内通者というだけの役割だ。
彼一人でやれるような犯罪ではない。
そして、この時の撩の予感は、結果としては正しかった。

渡辺を操って不正輸出を企てていたのは、税関の職員の一人だった。
男は金光 哲治という、元在日3世だった。
彼の祖父のルーツは北朝鮮系で、第一次大戦後に日本に渡って来ている。
どういう経緯があったのかは定かではないが金光哲治は小学校に上がる前に、
父親と共に日本に帰化している。
戸籍上は、日本人に間違いは無い。
朝鮮系の日本人ということになる。
ネイティブ並みに話せるハングルと広東語の能力を買われてこの職を得ていたようであった。
なにしろ海を挟んで、取引相手は主に半島と大陸の人達である。
入港する船も圧倒的にその2国のものが占めている。
言葉が解ればそれだけ重宝される。
帰化して尚、彼等の血族の祖国は半島であったのだろう。
祖国の偉大な指導者に報いる為に、軍事転用目的の今回の事件を企てたのだ。
渡辺は、そこまでの事情は何も知らない。
渡辺と金光は、子供の頃からの付き合いだった。
金光が幾つか歳上で、渡辺は子供の頃から大概の悪さは金光から教えられた。


二人とも地元では目立った不良という訳では無かったらしい。
普通に地元で進学し、片や地元の優良企業へ、片や地元の経済を支える重要な要へと職を得た。
けれど、親や近所から見れば普通の良い子でも。
彼等の友人達に言わせれば、彼等は結構な悪だったらしい。
見るからにぐれる訳でなく、
上手く世渡りをしながらも悪どい事がやれるのも他の悪ガキ達とは違っていた。
渡辺が片棒を担いだのは、その様な腐れ縁とのしがらみ及び、金目当てだった。
半島に不正な取引の重機が亘るまでに、大陸を経由する。
その間に複数のブローカーが介在する。
有り得ないほどの金が動いていた。










撩は昨日の相棒救出の時点では、犯人達との接触は避けた。
こっそりとその薄暗い場所に忍び込み、二人を連れてその場を去った。
上記の様な詳しい事情が明らかになったのは、二人を連れ出した後の事だったのだ。
教授の調べで解ったのだ。(撩はいつも思うのだけど、あの狸爺のリサーチ能力は恐ろしい。)
幸い二人には、怪我1つなく。
呑気にキャラメルなど食べていた。
その場所に行き当たって、相棒を見付けると。
彼女は屈託なく、ブカブカのジャケットを羽織っていた。
間違いなく、隣に座っているオッサンの物だと言うことは、
数時間前までそのオッサンと対面して仕事をしていた撩には理解できる。
否、事情が事情なだけに致し方の無い事だという理屈は撩にも解る。
解るけれども、事情と感情とは別問題だ。
撩はムッツリとしながら、相棒のジャケットと。
車に積んでいた己のダウンジャケットを突き出した。
さぞかし撩の可愛い相棒が寒がっているだろうと慮って、持ってきたのに。
キャラメルって。
(因みに彼女は、笑顔で撩の掌の上にもキャラメルを乗せた。撩も撩で遠慮なく食べたけども。)
香はにっこりと微笑んで、自分のジヤケットの上に撩の煙草の匂いのするダウンを着込む。
それまで着ていた沢田のジャケットは、元通り持ち主の手に戻る。
取り敢えずは、ばれないように脱出するぞ、と言う撩に続いて二人は後を追った。



それからは、あっさりとしたものだった。
人質が脱出したことすら気付いてさえいなかった、悪党二人を拘束したのは。
東京の捜査本部から遠路遥々赴いていた、公安だった。
今回の事件の依頼人は仲根社長であると同時に、
教授の働きかけにより公安の関係者も一枚噛んでいた。
今後の成り行きは、冴羽商事の知ったこっちゃ無いのだ。




事件の全容が明らかになったその晩(昨夜だ)、撩は仲根社長と会っていた。
是非にも、何か礼をさせて欲しい、何でも好きなものを、何が良い?と譲らない依頼人に。
それならば、と撩が強請ったのがこのお宿である。
豊富な湧出量を誇る温泉に、窓から臨む荘厳な雪の日本海。
蟹を筆頭に、新鮮な海の幸。
その宿は、数ヵ月先まで予約を取るのが困難な人気の旅館で。
季節はクリスマス直前。
その中でも人気の最上クラスの一室で、簡単には泊まることなど出来ないその部屋を。
地元の有力者でもある彼は、その場で押さえてくれた。
どうやらその旅館にとって、彼は最も大切な顧客らしい。
2日間だけで良いと言った撩に、正月位まで押さえられるけど?と、依頼人は答えたけれど。
それはさすがに撩も丁重に、お断りした。

香にはあくまで、偶然にもそこしか空いてなかったのだという事にしておくつもりだ。
この3週間、一時的とはいえこの街には二人の生活の痕跡がある。
ごく短期で部屋や駐車場を借りて、ひと月にも満たず退去する為には、
それなりの様々な撩のコネクションを活用した。
その後処理をしないといけないから、というのが表向きこの宿に逗留する理由だ。
勿論それは嘘では無いけれど、そんなことに2日間もかからない。
8割方は、撩と香が二人きりになる為の口実に過ぎない。
それに、週末には間に合うように帰らないと、香は怒るだろう。
週末は、キャッツでクリスマスパーティーだから。








香はそんな部屋に泊まるのは、生まれて初めてだ。
そもそも東京を遠く離れて、少しだけこんな風に旅行みたいなのも初めてかもと嬉しくなる。
けれど、そのすぐ後に。
そんな浮かれた気分を戒めるように、
あくまで自分達は、仕事でこの街に訪れているという事を思い出す。
それに、東京にいる美樹の怪我の事もまだ気掛かりだった。
そして気になるのは、この宿の豪華さと料金の事と、撩と今夜ここに二人なのだと言うことだった。
部屋には半分バルコニーにせり出す形で、お風呂がある。
勿論温泉で、大きな窓から雪の降る日本海の荒波を一望できる。
広い居室の襖を開けると、更に奥はベッドルームになっていた。
ベッドは辛うじて2つだけど、それはごくごく近くで隣り合っている。
ここに2泊するらしい。
他には部屋が空いていないらしいから、我儘は言えないし。
撩は特に気にしている風でも無さそうなので、香だけが妙に意識しすぎるのもなんだか恥ずかしい。
そんなことばかり考えていたから、香が気が付かないのも無理はない。
そもそも彼女は、撩の己に対する恋心に関してのみ殺人的に鈍いのだ。


槇村香はまだ知らない。
相棒が意図的にその部屋を用意したことも。
相棒の熱い想いも。
彼が今夜、お互いの関係を前進させようと決意していることも。



(つづく)



[ 2014/11/13 20:27 ] Breakthrough | TB(0) | CM(0)

最終話  Breakthrough

厚く垂れ込める灰色の雪雲の切れ間から
目を見張るほどの真っ赤な夕陽が沈む
雲を浮かべた天空は上の方から紺色に染まる
灰色と紺色と茜色の空の下に
白い波しぶきを上げなら寄せては返す荒れた海


飛んでいる海鳥も凍えそうな外の景色とは対照的に、2人の居る場所は暖かだった。
恥ずかしいからという香の言葉に、照明を消した浴室の湯船の中で。
撩は香の背中を包み込むようにして、首筋に顔を埋めた。
香には何もかもが初めてで、今すぐにでも眠ってしまえそうなほどの倦怠感を感じながら、
窓の外の景色に圧倒された。
本当にこの部屋に、撩と2人きりで夜を迎えるのだろうかと考えていた1日前からは、
想像もつかない1日だった。








滅多に食べられないような食事を目の前にして、香は胸が一杯でいつもより食が進まなかった。
それは撩も同じで。
けれど、互いに自分の考え事で精一杯な2人には、そんな事になど気が付く余裕も無く。
2人は珍しくお行儀よく食事を終えた。
風呂にしようかと言ったのは、撩だった。
せっかくあんなに立派な風呂が部屋にあるんだから、入って来いよ、という彼の言葉に。
香は激しく動揺しつつ、離れの大浴場へ向かった。
風呂場の窓は遠慮なくバルコニーに面して、居室の窓から風呂場が見える。
恐らくは、家族や恋人同士で泊まる人向けの部屋なのだろう。
まさか撩が自分の入浴中に覗くほど、自分に興味を抱いているようには香には思えないけれど。
(あくまで、香の見解である。)
何かのはずみで見られたら、死ぬほど恥ずかしい。
そう思って香は、着替えと化粧品を持って部屋を出た。


撩から離れて、温泉に浸かっている時にだけ。
香は漸く落ち着いた気分で、力を抜く事が出来た。
気詰りという訳では無い。
これまで数年間、何の意識もせずに2人でまるで家族並みに生活して来たのだ。
だからそれは、言葉にするのは難しいけれど。
あえて言うならば、緊張していたのだろう。
湯の中で香は、その日1日の撩を思い返した。
撩に連れられて、その宿に着いたのは昼前の事だった。


撩から救出されたその日の晩、香は退去の為に荷物を纏めた。
元々、いつでもそこを離れられるように準備はしていたから、それ程時間は掛からなかった。
事前に撩が揃えておいてくれたモノは、そのままにしておいて大丈夫だと言われたので。
香は自分が東京から持って出た物だけを、また送り返す為に荷造りをした。
そしてその晩の内に、撩が業者を引き連れてやって来て、配送の手筈を整えた。
勿論、撩の方の荷物も同様だ。
ただ撩は、あと2日間だけココに残るからその分の身支度だけしておいてくれと言った。
そして翌日にミニで迎えに来た撩に連れて来られたのが、この宿だった。
ココに2日泊まるから、とだけ伝えて撩はちょっと出て来ると言って、香を1人にした。
恐らくは、この街を後にする為の色々な手続きを済ませてくるのだろうと香にも解った。
夕方に撩が戻ってから暫くすると、部屋に料理が運び込まれ2人きりで緊張しながら食事をし、
そして今に至る。


泉質は微かに粘りがあって、湯の中から腕を持ち上げるとまるで化粧水の中に浸かっているようで。
気持ち良かった。
大浴場には、同じように湯を使う数名の女性がまばらに居たけれど、それ程多くは無かった。
もしかすると、大半の人は夕飯の前に風呂に入ったのかもしれない。
大浴場の窓からも、日本海が見渡せる。
夕方、夕陽が沈むのを風呂に浸かりながら眺めるのは贅沢だろうなと香は思った。
あともう一泊するのだから、明日の夕陽はココで見ようと香は考えていた。
撩は穏やかな顔をしていたなぁ、と香は思う。
いつもとどう違うのかと考えても、具体的にはどういう事なのか香にも解らないけれど。
最近の撩は、香に優しい気がする。
そしてそれが、いつからだろうと暫く考えてから気が付いた。

あの奥多摩での湖の畔の、あの時からだ。

すぐに用意して現場に行くぞ、と言ったアパートのリビングでも。
不安で泣きそうになった香を宥めるように頭を撫でながら、合鍵を握らせた時も。
ミックと3人で飲んだ居酒屋で、あんまり飲み過ぎんなよと苦笑いした時も。
電話越しの声も、言葉も。
全部、撩は優しかった。
その事に、湯の中で突然気が付いた。
今夜、あの隣り合ったベッドで、2人はどんな風に眠るのかな、と香はずっと考えていた。
考え過ぎてのぼせそうになった所で、香は風呂場を後にした。




部屋に戻ると、撩は部屋の風呂を使った後だった。
いつもならテレビを観ながらビールでも飲んでいるだろう相棒は、
神妙な面持ちで香が戻るのを待っていた。
この直後の撩の言葉に、香はこの宿を撩が用意した意味が漸く解った。
撩に誘われるまま、香はベッドに入った。
怖くは無かった。
撩も緊張していたんだという事が、何故だかよくわかったから。
2人で初めての事に挑戦しようと、そう思えた。
これまで何だって2人で一緒に乗り越えて来た。良い事も悪い事も。
だからそれは、今回2人が乗り越えなければならない大事な局面なんだと自然にそう思えた。



狂おしい程の快感と痛みが綯交ぜに交差する夜の中で、香は何度か意識を手放し、
気が付くとまた、撩の手によって高められた。
撩の手は熱く乾いていて、手で触れた後を追うように唇が香を撫ぜた。
何度も口付け合った。
一度昇り詰めた後、撩が告白した事実に香は驚いたけれど、思わず笑ってしまった。
香が酔い潰れて撩が連れて帰ったあの晩、香の寝顔に撩がキスした事。
ごめんな、初めてのキスが実は寝てる時で。と、済まなそうに笑った撩が香は無性に可愛く思えた。
香の胸に顔を埋めて、照れ隠しする撩の頭を抱き締めた。



忘れたの?りょお。はじめてはあのガラス越しだよ?


香がそう言うと、撩は泣きそうな笑いそうな複雑な表情で、香をきつく抱き締めた。
そしてもう一度、香を抱いた。
痛みが幸せを齎す事もあるのだという事を香は知った。
そして痛みを与える男の手によって、それ以上の快感を齎される事も。
そのままの自分で良いのだと感情を隠さなくても良いのだと、撩が全身を使って香にそう言っているようで。
香は幸せなのに涙が溢れて、撩が香の頬に唇を寄せた。
香は恐らく、この美しくて強いパートナーが居なければ、もうこの先生きては行けないだろうと確信した。
この手も声も瞳も唇も。
全てが愛おしい。撩に抱かれながら、香は撩の手を握った。
決してこの手を離さずにいようと思った。
それに答えるように、撩も大きなその手で香を優しく包んでくれていた。




朝も昼も、食事は隣の部屋に運ばれていたのを香も解っていたけれど。
そのまま置いといてくださいと、撩は仲居さんに言った。
多分、そういう遣り取りの合間に撩が、軽い冗談で仲居さんを笑わせているんだろう。
香は微睡みながら、そんな声をベッドの中で聞いていた。
撩はまるで香を甘やかすように、食事をベッドに運んだ。
2人で他愛も無い話しをしながら時間をかけて食事をした。
浴衣の下の撩は裸で、同じように裸の香が横になるベッドに浴衣を脱ぎ捨てると潜り込んだ。
1日中、撩は香を腕の中に抱き締めて、ただ何をするでも無く口付たり髪を撫でた。
これまでとのあまりの変わり様に、香が一度その事を指摘すると。
撩は意地悪な顔で香の頬を摘んだ。


俺がどんだけ我慢してたと思ってんだ、このやろ。


そんな事を言うもんだから、香は笑いながら涙を零した。
片想いしていたのは自分だけだと思っていた。
だから、撩の優しさに気付けなかった。
これからは、幾らでもそんな撩に気持ちを返してゆけると思った。






香がベッドの中で、昨晩の大浴場での話しをするから。
それなら一緒に見ようと、撩はそう言った。
日本海に沈む夕日を、温泉に浸かりながら眺めてみたい。
恥ずかしがる香を宥めつつ、風呂に湯を張り、抱き上げて連れ込んだ。
刻々と様子を変える外の景色を2人で見ながら、撩は湯船の中でもう1度香を抱いた。
グッタリと力を抜いて己の胸に体を預ける彼女の首筋に、鬱血の華を咲かせる。





・・・綺麗だけど、なんか少し怖いね。


厚く低く垂れ込めた雪雲は、灰色で。
太陽が水平線に沈むにつれて黒くなる。
黒と紺色と朱と灰色の混ざった空は、自然と人の心に畏怖の念を抱かせる。
ポツリとそう言った香に、撩も何故だか武者震いする。

この世は綺麗だけれど恐ろしくて儚くも毒々しい。
たとえ2人が殺し屋とその相棒で無くとも、いつどこで何に飲み込まれてしまうかも知れない。
未来は明るく、そして同時に恐ろしい。
喪いたくない者が出来た時、その本当の怖さを心の底から実感する。
それでも僚は、決してこの柔らかな相棒を離さないでいようと思う。
薄汚い恐ろしい禍々しいものから、彼女を守り通そうと改めて心に誓う。




怖くないよ、香。
2人なら、怖くない。



撩が胸の内でそう言ったのを、まるで聞こえたみたいに香は撩を振り返ると、
ニッコリと微笑んで、撩に口付た。
思いがけず、撩の目からは涙が溢れたけど。
照明の落とされた湯気の中の浴場で香には気付かれずに済んだ。
この腕の中の柔らかで華奢な相棒が、実は世界で一番強いんじゃないだろうかと撩には思えた。






(おわり)


もしかすると、この後の事を少し書くかも・・・
気が向いたら。




[ 2014/11/16 13:58 ] Breakthrough | TB(0) | CM(5)