お題リスト【100のお題、冴羽商事の場合。】

数が多いので、折り込んでおきます。

お題提供: dream of butterfly 様

お題ページへ、『モノかきさんに100のお題』


これから、少しづつまた挑戦しようと思います。


(2016.02.24.追記)
1.Are you ready  63.柑橘系 44.雪月夜 は、連続した1つのお話になってます。(1→63→44)

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4. 万華鏡

ベッドに入る前、網戸を閉めただけのカーテンの向こうで雨の気配がするのは知っていた。
いつもの熱帯夜よりかは幾分マシとは言え、空調を使わない寝室が寝苦しい事に変わりは無い。
香の寝室は客間も兼ねている。
もっとも、この部屋に依頼人がいる事の方が珍しいけれど。
香が、今夜からこの部屋で寝る。と宣言して、
撩が、勝手にしな。と返したのはもう、何年前の事だろうか。
あれからここが、香の居場所だ。
香の人生であの兄と過ごした団地の部屋の次に長い付き合いの天井には、見上げると小さな染みがある。
それはいつでもそこにあって、大きくもならなければ消えもしない。
いつも変わらない。
いつまでも変わらないという事は、香を酷く安心させるので目を覚ましてその小さな染みを見付けると、
香はいつもホッとした。
怖い夢を見た時に目を覚ますと、安心なこの部屋に帰って来れたと安堵するし。
不甲斐無い自分に自己嫌悪に陥って泣きながら寝た夜は、それでもここに居られる事に感謝した。




まるで映画のワンシーンが切り替わるように、香は睡眠の中から一瞬で覚醒した。
眠気は1㎜も無く、目覚めた瞬間に醒めていた。



きっと、撩はまだ帰っていない。
今夜もこの街の何処かで飲んだくれている。いつもの事だ。
あれで意外にも肝機能は正常らしいから、というよりむしろすこぶる健康らしいから、
香はいつも、彼の身体能力というか体質というか生命力のしぶとさというか丈夫さに舌を巻く。
雨の気配はもうしない。
一旦、目が冴えるとどんなに目を瞑っても眠れないから。
香は起き上がる。
ベッドのすぐ脇の窓に掛かったカーテンは夏用の薄い木綿で、夏らしい薄い緑色だ。
風を良く通す生地が、少しだけ揺れている。
それをほんの少しだけ開けると、真夜中の空は明るい。
この街の空は、いつでも少しだけ明るい。
ベッドの上に正座して、窓枠に頬杖を付く。
雨が上がった後の夜の空気は清浄で、心持ち澄んでいるように思える。

万華鏡みたいだと、香は思う。

遠くに見える色彩りどりのネオンとイルミネーションとテールランプの全てが、複雑に融け合って絡まる。
この街の全てが、まるで万華鏡の中のスパンコールやガラスビーズのようで。
その雑多でキラキラした欠片の中には勿論、香の相棒もいる。
香は撩に出逢うまで、この街の事など何も知らなかったし。
撩はいつも万華鏡の中で輝いている美しい欠片で、
香はいつもそんな撩を小さな窓の中から眺めている。
あの天井の小さな染みのすぐ上の7階の寝室に、いつも眠っていても。
香から撩までの距離は、遠い。
まるで何万光年も離れた星に憧れるように、香は恋をしている。











何やってんの、おまー。





撩が帰って来た時、いつもの客間に香の気配が無かった。
一瞬、焦ったけれどそれは杞憂だった。
相棒の微かな気配は屋上にあって、だから撩は寝室にも入らずに真っ直ぐ屋上に向かった。
彼女は何故だか屋上のど真ん中のコンクリートの上に、大の字になって目を瞑っている。
グレイのTシャツに色の褪せた紺色の短パンを穿いている。
足は裸足で、スリッパは何処にも無い。
穏やかな呼吸に合わせて、静かに上下する胸の膨らみを見なければ。
死んでいると見間違いそうなほど、挙動が不審だ。
撩が香の顔を覗き込むと、ゆっくりと目が開いて、茶色の瞳が撩を真っ直ぐ見詰めた。





星、見てたの。

見てたって、目ぇ瞑ってたくせに。




撩はそう言って低く笑いながら、香の頭側のコンクリートの上に胡坐をかいた。
香がもう一度、ゆっくりと目を瞑ると。
カチンと、撩のライターの蓋が開く音がする。
耳を澄ましたら、煙草の先にジジジと火が点く音が聞こえる。
暫くあって嗅ぎなれたマールボロの薫りが、香の鼻腔に届く。
香は他人の煙草の臭いは嫌いだけど、撩の匂いは好きだ。
それは誰にも言わない、香だけの恋の匂いだ。




でも、見てたんだもん。



瞼の裏に、美しい硝子の欠片の様な。
香にしか見えないお星様を見ていた。
何処ほっつき歩いてんのかなぁと、思いながら。
香は目を瞑ったまま、煙草の匂いの混じった夜の空気を深く吸い込む。
死ぬほど撩が好きだと、香は思う。





万華鏡みたいでしょ?

そうかぁ? っつーか、星なんて見えねえし。

・・・見えるよ。




見えるの、と小さく香は呟いた。
それは殆ど、独り言で。
撩は何も答えずに、香の隣に寝転んだ。







目が醒めちゃって。お水を飲もうと思って起きたの。

そうか。

うん。





何故、水を飲もうと思って屋上にいるのかとか、スリッパはどうしたのかとか、
突っ込み所は満載だけど、撩は何も訊かない。
程よく酩酊した身体に、夜更けの雨で微妙に生温くなったコンクリートが妙に心地良かった。
真夜中でもちゃんと、夏の匂いがする。
香とこうして何でも無い1日を過ごしながら、何度目の季節が巡っただろう。
撩は香に惚れている。
一度、どさくさ紛れに便乗して、気持ちを告白した。
けれど当の相棒は極端に奥手なので、
撩の言葉をどう受け止めているのかは今のところ謎のベールに包まれている。
雨上がりの夜の空気は、こうして寝転んで目を瞑って感覚を研ぎ澄ますと、意外に清らかだ。





濡れなかった?雨。




撩はいつも、少しぐらいの雨では傘を差さないから。
香は訊いた。
雨に濡れた撩が雨宿りを兼ねて、ネオンの灯りに吸い込まれるところを想像する。
撩はまるで優しい野良犬みたいだと、香は思う。
それでもこうしてココに帰って来てくれて嬉しい。






濡れたけど、乾いた。

ジーンズ、臭そう。

・・・・・・悪かったな。

洗濯機の中に入れといてね。

なぁ。

ん?

寝ないの?

眠くないの。






ゆるい風が屋上を吹き抜けて、寝転がった香の茶色い癖毛を揺らす。
シャンプーの匂いと生温いコンクリートと新宿の灯りが融けた夜空の色に、
撩は訳も無く胸が締め付けられた。
我慢しているのだ。
こういう時、撩は自分でも無意識に強く自分を抑えている。
こういう晩はその無意識を、嫌でも激しく意識させられる。
香に触れたいし、香に触れられたい。
何を我慢する事があるんだろうと思いながらも、ついついブレーキを掛けてしまう。
その撩のギリギリの境を、香は時折こんな風に何食わぬ顔でスルッと越えて来たりする。
短くなった煙草をコンクリートに押し当てる。




じゃあさ。

なに?

眠くなるおまじない、してやろうか?

え?







驚いたように目を見張った茶色い瞳の中に、まるで万華鏡のような小さな星を沢山見たような気がした。
初めて彼女の唇に触れながら、撩は。
確かに彼女の言うように、目を瞑っていてもそれは見えるような気がした。







90. 極彩色の夢

槇村香の朝は早い。
毎朝、7時前には起床して自分の為の朝食を摂る。
相棒の好みは濃い目に淹れたブラックコーヒーだけど、香は薄く淹れる。
それにたっぷりの沸かしたミルクを入れてカフェ・オ・レにする。
朝食が洋食だろうが和食だろうが、まずはそれを1杯飲んでから新聞を読む。
新聞は中学生の頃から、毎朝かかさず読んでいる。
初めは、刑事の兄に関わってくる事件が起こっていないかどうか、それが心配だったから。
今では殺し屋の相棒に関わってくる事件が起こっていないかどうかを調べるのと、習慣だ。
コーヒーと新聞を終えたら、朝食前に先に洗濯機を回す。
自分が前の日に着ていた物は、前の晩の内に洗濯機の中に放り込んでいる。
後は、相棒の着ていた物を回収する。
それはその時々で、色んな所に点在する。
前の晩、酔って帰ったのだろう玄関先で丸まった靴下を見付ける事もあれば、
リビングにジーンズを脱ぎ散らかしている事もある。
彼は、香がココに棲み付くまで自由気ままに生きて来たので、今更どんなに躾けても手遅れだ。
命の危機にさらされない限り、彼の緊張感の糸は緩みっぱなしだ。
香も、半ば諦めている。
それに小言を言いながらも、そんな彼が少しだけ可愛らしいと思って無い事も無いというのも事実だ。
(そして酔っ払ってさえなければ、意外と素直に洗濯機の中に入れてくれてたりもするから憎めない。)
全てを回収して最後に、脱衣所の洗面台の脇の、
タオルハンガーに掛けられたタオルを新しい物に取り換える。
洗濯機の回っている間に、簡単に朝食を済ます。
大体の下拵えは、前の晩の片付けの時に同時進行で済ませておく。



香はいつものように起床して、まずは郵便受けに朝刊を取りに行く。
新聞はいつも3誌、常に金欠状態の冴羽商事にとって購読料が嵩むのは痛いけど、
ある意味、仕事の一環だから情報料だと思ってケチらない。
この中で香が読むのは、昔から読みつけている1つだけだ。
後の2つは撩が読む。
新聞を取って、まずはコーヒー。
その為にキッチンのドアを開けると、そこには意外な人物が座っていた。




















絵梨子ぉ???

おはよう、香。



そう言ってニッコリ笑った親友は、何故だかセーラー服の制服を身に着けて。
キッチンの扉を開けるとそこは、懐かしい教室だった。
絵梨子は現在(いま)の絵梨子では無く、“あの頃”の絵梨子だ。
それなのに、香自身は何故だか今のままの寝起きの香なのだ。
クシャクシャの癖毛にはブラシを入れる事も無く、グラミチのショートパンツに色の褪せたTシャツ。
ノーブラだ。(寝起きだからね)



ねぇ、香。昨日の生物のノートとってる? とってたら見せてくれない?

もぉ~~~。しょうがないなぁ。


何故だか言葉は香の脳内とは裏腹に勝手に吐いて出る。
そういえば絵梨子は高校生の頃、生物が一番の苦手科目だったのを思い出す。
香は、絵梨子と香2人しかいない教室で自然と絵梨子の席の右斜め後ろの席に座る。
その席がいつもの香の席だった。
この斜めの前と後ろでいつも、2人は授業中にコッソリと手紙の遣り取りをした。
手紙の内容は他愛も無い。
各教科の受け持ちの先生に、2人は色んなあだ名を付けていた。
今となっては、もう思い出す事も無い。



はい、どーぞ。


香が机の引き出しの中から1冊の大学ノートを取り出して渡すと、
親友は受け取って一転、眉間に皺を寄せて心配げに声を低くした。



それより、香。冴羽さん昨夜から帰って無いんでしょ?探しに行かなくて大丈夫?

は?





その時、教室の後ろのドアがスパァーーーンッッと、華麗に開いた。












そうよっっ!! 
香さん、撩のヤツ見付けたらお仕置きよ!!!

今朝見たら、私の勝負下着がごっそり盗まれてたのよっっ、こんな事するのアイツしかいないわっっ




入り口には、やけにボディコンシャスな真っ赤なワンピースを身に纏った麗香が仁王立ちしている。
呆気にとられる香の手を引いて、麗香が教室の外に連れ出すと。
そこは早朝の歌舞伎町だった。
香には何が何だか解らない。
さっきまで寝起きのパジャマ代わりの短パン・Tシャツだったはずなのに。
何故だか気が付けば、
デニムのタイトミニのスカートに撩のクローゼットから拝借した大きめの色の褪せた、
AVIREXのTシャツを着ている。
ぶかぶかの裾を、ひとつにキュッと縛るのが香のお気に入りの着方だ。
不思議な事にちゃんとブラジャーを身に着けている。

(なんだろう・・これって・・・夢???)

首を傾げながら歩く香の手首をきつく掴んだまま、麗香は半歩先を振り返らずにずんずん進む。

















良く解ったね、夢なんだ。これ。



そう言って振り返ったのは、野上麗香では無くミック・エンジェルだった。
何故だか彼はケバケバしいピンク色と紫の縞々の全身タイツに身を包み、
真っ赤な口紅がまるでピエロのように、口角の両端を極端に吊り上げる形で塗られている。



・・・チェシャ猫?

Yes、またの名をミック・エンジェルという。ミックと呼んでくれて構わないよ、カオリ。



そう言って、ミック・エンジェルは惚れ惚れするような模範的なウィンクを投げて寄越した。
聞きたい事が満載で絶句する香をよそに、ミックは相変わらず手首を掴んでずんずん進む。





それよりカオリ、時間が無い。リョウのヤツを探さなきゃだろ?

え、ええ。 ミックさんは、撩のお友達なの?

ふふふ、どうかな。友達というか、腐れ縁だね。きっと、アイツも同じ事を言うと思うよ。

ねぇ、何処に行くの?

アリゾナさ、ヤツは今朝はそこの安モーテルに居るはずさ。





・・・ありぞな???何処、それ?  と、香は怪訝そうに眉を潜める。
勿論、ミックはそんな事には一切構わず先を急ぐ。
何を彼らは急いでいるんだろう。
撩ならきっと、あの7階の寝室で眠っている筈なのに。
香はそんな風に思うのに、言葉は上手く出て来ない。
目の前の映像と脳内と繰り広げられる現象が、上手く焦点を結ばない。
言葉は頭に浮かんだ端から、ぬるま湯の中の角砂糖のように溶けてなくなり。
ミックは何故だか妙な扮装をしている。
ミックが香を連れて辿り着いた、古めかしい真鍮のドアノブの付いた扉を開けると。
そこには、見覚えのあるブロンドの美女がいた。














ハァイ、ミック。お久し振り。

・・・・・・・うげ。ブラッディ・マリィ。 君か、今リョウの事狙ってんのは。

あらやだ、狙ってるだなんて人聞きの悪い。 リョウの命なんて欲しくは無いわ。

じゃあ、何が目的だ?

ワタシのクライアントは、ただリョウの仕事を阻止してくれさえすればそれで良いんだって。

で、どうするつもり?

どうもしないわ、ただその日、その時間にリョウを誘ってベッドに入るだけ

わぁお、ナイスなトラップだ。ボクが代わりたい位だ。スケベなヤツには、賢明な作戦だね。

でしょ? ワタシも好きな男を手に掛けたくは無いもの。





そう言って微笑み合う、アングロサクソンの美男美女を、香はポカンとしたまま見詰める。
何だか香には解らない話しが淡々と繰り広げられている。
気が付くとミックは、いつの間にかチェシャ猫からいつものミックに変わっている。
口角も上がっていない。





それよりもミック?

なんだい?

ワタシの認識では、アナタは根っからの女ったらしだったと思うんだけど。
アナタ、いつからバイになったの? だぁれ?その坊や。





そう言って、2人が急に香の方に注目するから。
香は思わず照れ臭くなって、目を逸らす。
ふと視界に入った自分自身の手と足の先を見詰めて、香は驚いた。
さっきまでデニムのスカートとTシャツだったはずの自身の服装が、また変わっている。
それは高校生の頃、お気に入りでよく着ていたパーカーと、
誕生日に兄貴に買って貰った、アディダスのカントリーだった。
そのモーテルのド派手な壁紙の張られた壁に、くすんだ鏡が掛かっている。
香は恐る恐る、その鏡の中に視線を向ける。


(わ、若い。)


それは、あの。
撩と初めて逢った、SugarBoyの頃の自分と同じくらいだった。
もう香には、これが恐らくは夢なんだろうとは解っている。
解っていても、感情はやけにリアルでこの瞬間をまるで現実のように過ごしている。
ミックは、本当に楽しそうに目尻に皺を寄せて微笑んだ。



あぁ、ボクは変わったんだ。すっかり、好みのタイプが変わっちまった。



意味が解らないとでも言いたげに肩を竦めたマリィに、ウィンクをしてミックが煙草に火を点ける。
香はこの時に何かとても大切な事を思い出しかけたけど、
記憶はまた例の如く、角砂糖のように溶けて消えてなくなった。



















誰だ?オマエ。


その時、香の背後でドアが開いて聞き慣れた声がした。
見上げる程大きい背の、真っ黒な黒髪に真っ黒な瞳。
今よりも若くてやつれたように頬がこけている。
視線はまるで黒い豹の黄色い瞳のように鋭い。
まるで冴えたナイフの切っ先のように、瞳がスッと細められる。
いつの間にか、ミックもマリィも消えてこの場には、撩と香の2人だけだ。



・・・あ、ああの・・・


言葉が上手く出て来ない。
喉の奥がカラカラに乾いて、まるで香は精悍な肉食獣に睨まれた小さな獲物になった気分だった。



オマエ、JAPか?


香は答える代わりに、小さく頷いた。
それを見て、撩が一瞬、顔を顰めたような気がした。



JAPは嫌いだ。


そう言われて、香の胸は張り裂けそうに痛んだ。
今の香には、何故撩がそう言ったのか解るから。
この目の前の撩の傷は、今の撩よりも随分、生々しく日が浅いのだ。












あれでも随分、楽になったようじゃ。小康状態じゃよ。



そう言って、香の隣に小さな老人が立った。
驚く香に、小さく微笑んだ老人は今現在の彼と一切変化は無く。
香はそれにも少しだけ驚いた。
老人から香が視線を正面に戻すと、いつの間にか今度は薄暗い部屋のガラスの前に立っていた。
ガラスの向こう側は、煌々と明るくて真っ白な空間だった。
簡素なベッドが1つ置いてあり。
そこには、全裸の撩が手足を拘束されて横たわっている。
口には口枷まで嵌められ、濁った黒い瞳は虚ろに彷徨っている。
時折、身体中がまるで痙攣するように突っ張っているのが解る。




禁断症状。



香がそう口に出してみると、背後に人の気配がした。
背筋に悪寒が走る。




新型のエンジェルダストは、効果も優れているけれど、その副作用も凄くてね。



振り返るとそこには、かつて撩が父親と慕った男が佇んでいた。
その顔は妙に穏やかで。
こんな風に撩を苦しめたそもそもの張本人だというのに、思わず忘れそうになる。
彼はニッコリと微笑むと、香の癖毛を撫でた。



私はアイツを愛しているんだよ、誰よりもね。














約束してくれ、香。



そう言った撩の声に、香はもう1度ガラスの方を振り返る。
いつの間にか撩は立ち上がって、ガラスの前に居た。
ついさっき香の頭を撫でた撩の父親が、撩の向こう側に倒れている。
ズーン、ズーンと地鳴りのような音がしつこく響いている。
小さな爆発が引っ切り無しに起こり、何かが弾ける。



お前の方こそ、逃げ遅れて俺を悲しませないと。




うん
約束
する


夢の中で、香はもう1度ガラス越しのキスをした。










時間が無い、行くぞっっ




背後からそう声を掛けたのは、海坊主だった。
目の前の撩にも目線で急かされ、香は未練を断ち切って頷くと。
意を決してその場を離れた。



お前は、先を歩け。俺が後ろからついてゆく。



そう言った海坊主に、香が頷いて沈没しかけた船内を歩いてゆく。
その矢先、船底で大きな爆発が起こった。
香は撩を想って、思わず歩を止めた。



大丈夫、これは夢だもの。
あの時、撩はちゃんと還って来てくれたもの。
撩が約束を破った事なんて、一度だって無い。











香の目の前に、外からの光が見え始めた頃。
またしても背後から、香を呼ぶ声がした。




見てご覧、あれがお前の選んだパートナーだよ。

・・・・お兄ちゃん?



そこには、久し振りに見る兄の姿があった。
ヨレヨレのトレンチコートの下の野暮ったいスーツに、古臭い眼鏡。
世界で一番優しい、香だけの兄だった。





アイツの背中だけを追い掛けるんだ、香。

りょおの事?

ああ、アイツの事を信じてさえいればお前は幸せになれる。

ほんとう?

俺が今まで、お前に嘘を言った事があるか?




香は嬉しそうに笑うと、大きく首を横に振った。
あの光の先に、さっきから香が探している撩が居るはずだと何故だか解った。
頷いて駆けだそうとした香の腰に、誰かの腕が巻き付いた。
















行ってはダメッッ、香さん!!

美樹さん?





不思議そうに首を傾げる香に、美樹は悲壮感の籠った目で香を見詰める。
いつの間にか場所は、いつかの墓地に変わっていて。
真っ暗で静かな空気の中で、遠くに銃声が聞こえる。




行ってはダメなのよ、もう私達には止められないの。



そう言って、美樹は激しく嗚咽している。
戦闘に明け暮れて、闘う事でしか熱くなれない男を愛してしまった自分と同じ境遇の彼女の指先に。
グッと力が籠る。
解っている。
香は知っている、自分がマリィやソニアや美樹のように強くも美しくも無い事は。





解ってるの、美樹さん。
でもアタシ、馬鹿だから、馬鹿で足手纏いの押しかけパートナーで。
美樹さんとかソニアさん達みたいに、美人でも強くもないけどっっ
でも闘いたいの!!
りょおと一緒にっっ
りょおを苦しめる全てのものと、闘いたいのっっ!!




そう力説する香は、いつの間にか最初と同じTシャツと短パンに戻っていて。
ノーブラに愛用のエプロンを着けている。
何しろ、朝ご飯を作る前に麗香に連れ出されたから仕方ない。
いつの間にか、香の手にはお玉がしっかりと握り締められている。




でも、香さん。お玉じゃ何の助太刀にもならないわ。



いつの間にか、喫茶・キャッツアイのロゴマークの入った黒いエプロン姿になった美樹が。
冷静にそう突っ込む。



大丈夫っっ!!美樹さんっっ アタシには、100tハンマーという最強の武器があるもの!!


あぁぁ、香さんっっ




引き留める美樹の声を背に、香は光の差す方へと駆けだした。









りょおおおおおぉぉぉ



















ゴツッッ



無意識に起き上がった香の前頭部に、何かがぶつかる。
香は寝惚けたまま辺りを見回す。
床の上に散らばった2人分の部屋着に、寝乱れたシーツ。
傍らで鼻を押さえて悶絶する、パートナーの姿。
2人とも裸ん坊だ。



あづい。



取敢えず香は、ベッドサイドのキャビネットの上に置かれたエアコンのリモコンを手に取って、
スイッチを入れる。
もう既に日は高く昇り、いつもより随分と遅い目覚めだ。
締め切った窓の外では、蝉が煩いほど鳴いている。
香は蹴飛ばしていたタオルケットを胸元までたくし上げながら、もう一度横になる。
そこに真っ赤な鼻をした撩が滑り込む。
香よりも少しだけ早く目覚めた撩は、奇襲をかける為に香の寝顔にキスをする手前だったのだ。
奇襲をかけるつもりが、見事に反撃された。






ねぇ、鼻曲がって無い? 超痛ってぇ。

ううん、だいじょうぶ。てか、なにやってんの?りょお。朝から。



そう言いながら香は、撩の滑らかな胸板に頬を寄せる。
いつもなら、寝過ごしたと大騒ぎしてバタバタと起き出してしまうクセに。
何故だか今日は、もう一度幸せな二度寝を貪る事に決めたらしい。
それは撩にとって、単純に喜ばしい事なので。
撩は擦り寄って来た香の身体を柔らかく抱き締める。
スベスベした絹のような手触りの背中の感触を、熱い掌で愉しむ。




夢を見たの。

どんな?

りょおの夢。

ふ~~ん、夢の中でも俺はイケメンだったでしょ?




ふふふ、ばっかじゃないの?






香がそんな事を言って笑いながら、でも華奢な両腕を撩の腰に回すから。
撩の腕にも力が籠る。
腹筋に当たる香のおっぱいが柔らかくて、撩は少しだけ身震いがした。




ねぇ、りょお。

なに?

しよ?



香からは見えない撩の顔がだらしなく緩む。
返事の代わりに、顔を埋めた癖毛のつむじに軽くキスをすると。
撩は柔らかで美味しそうな匂いのパートナーを、優しく組み敷いた。








3. 雨の予感

ふぅ、危機一髪。



ベランダから曇り空を見ながらそう言った槇村香は、両手に乾いた洗濯物を抱えていた。
正確には曇り空というか、局地的な黒い雲がお日様の沈む方角にモクモクと発生し始めている。

連日真夏日が続く昼下がりに、香は節約と熱中症対策を兼ねて行きつけの喫茶店で時間を潰す。
アイスコーヒー1杯で何時間も粘る申し訳無さに、今日は大きなスイカを差し入れた。
以前に事件で関わった元依頼人の豪農のお爺さんが大量に送って寄越したので、御裾分けだ。
冴羽家の冷蔵庫では、丸のままは冷やせないから半分に切って半分づつ冷やす。
美樹はとても喜んで礼を言うと、香の目の前で丸のまま大きな業務用の冷蔵庫へと仕舞った。
それを香は酷く羨ましがり、美樹はそんな香が妙に子供っぽくて可愛いと思った。

相変わらずの香の相方への惚気ともとれる愚痴の合間に、遠くで雷の音がゴロゴロと聞こえた。
まだ空は晴れているけれど。
こんな風になったら、崩れるのはあっという間だ。
香は慌てて勘定を済ますと、颯爽と新宿の街を駆けてアパートへと戻った。




香が洗濯物を取り込んで、リビングのサッシを閉めてもまだ。
さっきとなんら変わらず、遠くでゴロゴロいうだけだった。
けれど多分、油断していると気付かないうちにすぐそこまで、あの黒い雲はやって来るのだ。
この数日、夕方になると決まって激しい通り雨が降る。
香はエアコンの設定をドライにして、スイッチを入れる。
相棒は今頃、呑気にうろついているのだろう。と、座り込んで香はその当人のボクサーパンツを広げる。
雨が降りそうな午後の遅い時間、灯りを点けるまでにはまだ間のあるリビングは薄暗くて。
締め切った空気は四角く区切られ。
香はまるでそこに閉じ込められたような錯覚を覚える。
香と撩の生活を閉じ込めて透明のゼリーで固めたような、息苦しいほどに幸せな錯覚。
香は時々、どうして男の人と付き合った事も無いのに。
こんなボクサーパンツなんて畳んでいるんだろうと、可笑しな気持ちになる。







撩がまるで野良犬のように街中をうろついていると、懇意の情報屋の1人がにやけた顔で近付いてきた。
なんでもついさっき、撩の見目麗しい相棒が行きつけの喫茶店から走って帰って行ったというのだ。
ただそれだけの事を、わざわざ彼らがそうやって撩に報告するようになったのはいつからだろう。
この街では、撩は彼女と一緒に居なくてもその一挙一動が全て耳に入る。
確かに先程から、空気には嫌な湿気が混ざり遠雷が聞こえる。
夕立の兆しだ。
彼女はきっと今頃、あのリビングにペタリと座り込んで洗濯物を畳んでいるに違いない。
リビングのドアに背を向けて、外を見ながら。
華奢な背中と、形の良い頭蓋骨を隠す赤茶色の癖毛。
そういう光景を撩は、易々と想像出来る。
撩の想像の中の彼女は、実際の彼女よりも幾分心許なくて儚い。
実際の彼女はもっと、強い眼差しやシャンと伸びた背筋が凛とした佇まいを醸し出している。
けれど撩が頭の中で思い出すのはいつも、その薄い背中や手首の細さだ。







冷蔵庫の中には、スイカが2分の1玉冷えている。
昨夜、床に就く前に冷蔵庫に入れたので、充分に冷えて瑞々しいだろう。

兄が亡くなった日、昼下がりには穏やかだった空が、暗くなるにつれて荒れ模様になった。
香はスコールにも似た夕立の中で、こうしてリビングに閉じ込められる度。
あの日の事を思い出す。
雨雲や雷はもっとずっと遠い所の話しだと思っていても、気が付けばすぐ傍にあるのだ。
人の生き死にも。
もうすぐにでも、雨が降り出しそうな気配がする。







撩の鼻の頭に、ポツンと雫が落ちたのと、胸ポケットの携帯が震えたのは同時だった。
液晶画面には、“香”の文字。

自分の分の衣類の山と、撩の分。
後は各々の部屋のクローゼットに仕舞うだけなのに、香はそれがとても大儀に思えた。
それぞれの山をソファの端に乗せて、香はガラステーブルの上に置いた携帯電話に手を伸ばす。





“・・・・・・”

もしも~~し?

“・・・うん。”

おまぁ、自分からかけてきといてなんか言えよ。

“うん。・・・雨、降りそうだよ。”

だな。

“・・・帰って来たら?”

・・・・・・あぁ、だな。

“スイカ、冷えてるよ。”

ああぁ、今イイ感じのモッコリちゃんともう少しでお茶出来そうなんだよ。

“そう、・・・可愛い?”

ああ、激マブ。

“誰に似てる?”

はぁ?

“芸能人に喩えると。”

・・・・・・それは、おまぁ。

“誰?”

秘密だ。

“ふ~~~ん、あっそ。・・・スイカ、食べちゃうよ。”

それはいかん、それはダメだぞ香。独り占めはっっ

“じゃあ、帰って来なよ”

っち、しゃあねぇなっっ、帰るか。

“うん、それが良いよ。”

プツッ




撩が返事を返す前に。
電話は、掛かって来たのと同じく、唐突に切れた。
撩とてこれ以上、雨の降りそうな屋外をうろつく理由も無いのだけれど。
何故だか素直に帰るのが、まるでシッポを振りながら馳せ参じる忠犬みたいでカッコ悪いと思えてしまう。
しかし、つい今しがたの遣り取りの方が、更に輪を掛けて格好悪い事に気が付いて。
馬鹿馬鹿しくなる。
撩はとっとと帰りたいのだ、相棒が洗濯物を畳みながら鼻唄をうたうあのリビングに。









撩が帰って来た時には、雨はもう降り始めていた。
黒い髪から雫を垂らしながら帰って来た。
それでもまだ、服は少し湿っている程度だ。
ソファに背を預けて床に座る香の隣に、撩も座る。



おかえり。
ただいま。



撩はリビングに雨の気配を連れて帰って来た。
香はごく自然な仕草で、撩の湿り気を帯びたジャケットの肩口に頭を預ける。





あのさ、アタシ思い付いたんだけど。

何を?

いっぱいあるでしょ?スイカ。

うん、あるね。

ゼリー作ってみたらどうかな? スイカゼリー。




撩の可愛い相棒は、時折、突拍子も無いアイデアを思い付いたりする。
そこに行くまでの思考の過程に、到底、撩の想像は及ばない。




・・・・・・イイんじゃね? 好きなようにしてみたら。

うん、する。

ふふ、変なヤツ。





撩はそう言って小さく笑った。
それより、冷えたスイカはどうした。と訊いたら、香は何も答えずに撩に頭を預けたまま目を瞑った。

香は撩に、変なヤツと言われたら安心する。
こういう時兄貴なら、良いアイデアだね香、と言ってニッコリ笑って褒めてくれる。
香はこの兄の様な保護者の様な中途半端な関係の相棒の、兄とは全く違う部分を見付ける度。
安心出来る。
ほんとうは、スイカなんかを固めたいんじゃ無くて。

今この時、撩と2人のこの空間そのままを冷やして固めて、永遠に閉じ込めてしまいたい。


窓の外では、雨が激しくガラスを叩き始めて。
雷が轟いた。
リビングはますます薄暗くなって、
香の薄い麻のシャツが撩のジャケットから染みた水分で、肌に張り付く。
撩は何にもしないし言わないけれど、少なくとも香の事を拒絶はしない。
こうして何も言わずに香に肩を貸してくれる。
それが撩の優しさだという事を、香はちゃんと知っている。
知っているから香は、それだけで良いと思う。


もっと他に、沢山。
言いたい事はあったような気がするけれど、忘れてしまった。
真っ黒な雲がやって来る前に、この安全な2人のリビングに撩が帰って来てくれただけで充分だった。








65. 過去の人

香は夜の紺色の寝室で、撩に抱かれながら考え事をしていた。
窓の外は黒で、寝室の中は紺色で、少しづつ夜は濃度を変えて撩の顔を蒼白く見せる。
2人はいつも向かい合っている。
どちらが上でも下でも、寝そべっていても座っていても。
お互いの事を余す事なく、見ていたいから。
ここをこういう風に触るとこんな顔をして、ここを優しく撫でるとこんな風に吐息を漏らすという事を。
1つ1つ丹念に共有してゆく。


いつもならもっと、その行為に没頭している筈なのに。
香は考え事をしていた。
それもこれも、原因は自分だ。
昨夜も同じようにベッドに潜り、囁き合い、果てた後も眠気が来るまで穏やかに会話をした。
それはホンの好奇心と、少しの嫉妬の感情だったのだと、香は冷静に振り返るとそう思う。
香はこんなに愛した人は、撩1人だけど。
撩はどうなんだろうと思った、けれどそう思ってすぐに訊くまでもないだろうと考えた。
考えたけれど一応訊いたてみたのが、昨夜の事だ。



いるよ。



香の質問に、撩はそう答えた。
過去に香以外の人を、撩は愛した事があると言った。
それは当然の答えだと思っていたし、解っていて訊いたつもりだったけど。
香はそれ以来丸1日、その事ばかりを考えていた。
コーヒーを淹れながら、その人とアタシとどっちが美味しいコーヒーを淹れただろうかとか。
灰皿に残った吸殻の少しだけ噛み痕のついたフィルターを、
その人も同じ様に見詰める度、胸がきゅんとしたのだろうかとか。
こんな風に口付られて、やっぱりなんでも許してしまう気持ちになったのだろうかとか。
耳元でそっと、普段は言わないような事を囁かれたりしたんだろうかとか、考えていた。



撩が自分にしてくれてその人にしなかった事と、その人にして自分にしてくれない事の可能性を。
色々と想像した。
想像した所で、香の経験不足の頭では大した事は思い浮かばなかった。
そもそもそれを考える事に、何の意味も無い事は解っている。
解っていても、勝手に溢れ出る思考は止められなかった。







何考えてた?



だから、その行為を終えて撩がそう言った時。
香は何と答えて良いモノか、暫く考えを巡らせて目を閉じた。
気怠い身体を動かすのも億劫で、仰向けたまま額に手を乗せて顔を覆った。
撩は小さく笑って、香の身体にピタリと身を寄せた。
お互いの汗が混ざるのを皮膚が感知する。
不思議と嫌な感覚はしないし、むしろそれがもう一度ザワザワと小さな快楽の芽を呼び起こす。
何て言えば良いのか解らないから、香は答えない事にした。
ただの嫉妬だから。
見も知らない相手に嫉妬して、撩に嫌われたくないから。
撩は構わずに香を腕の中に囲い込んで、鼻面を香のこめかみに埋める。
少し汗ばんだ癖毛のシャンプーの匂いを嗅いで、目を瞑る。
まるで犬みたいだと、香は思う。



昨夜のこと?



ホラ、また。と、香は心の中だけで呟く。
まるで犬みたいに鋭くて、賢くて、優しくて甘い。
答えない香に、撩がクスクスと笑う。
男の人の息の匂いが生温く香の頭にあたる。
撩とこんな風に過ごすようになって、男の人の匂いというものを初めて知った。
男と女は、匂いからして違うものなんだと初めて知った。
香は撩の匂いが好きだ。




妬いてんの?


答えないけど、香は額から手を退けて撩を見た。
いつの間にか撩も、こめかみから顔をあげて香を見ていた。
全部が紺色の絵の具を水で薄めたように、蒼い夜だ。



うん、とっても。



香がそう答えると、撩は声を立てずに破顔した。
嫉妬は醜いから、あんまりしたくないのにと思っている香の意に反して。
撩は別段、気にしている風でも無い。
香が心の中で、もやもやとヤキモチを妬いているというのに。
そんな事は大した事では無いとでもいうように、撩は笑っている。
悔しいので、香が撩の肩口に軽く甘噛みすると、撩は更に喜んだ。





相手、オヤジだから。

え?

海原 神。




あれでも一応、俺を拾ってくれた恩人だしな。
ガキなんか足手纏いになるって言ってたオッサンらから、守ってくれたし。
まぁ、世間一般からするとそうは見えなかっただろうけど、愛してくれたしな俺の事。





香は、滅多に無い撩の過去話に、意表を突かれた。
あまりに驚いて目を丸くする香に、撩は優しく覆い被さってキスをした。
確かにそう言われれば、その通りで。
そもそもこの1日、香は全く違う方向性で妬いていた。
昔から撩の周りには、超が付く程美しいお姉さま方が取り囲んでいて。
つい最近まで香は、まるで撩の弟の様な存在だったから。
今もまだ少し、撩からこんな風に甘やかされる事に慣れていない。
撩の腕が作り出す囲いの中で、至近距離で撩に見詰められて。
香は窒息しそうなほどの幸福感に支配される。
撩が自分に触れてくれる度に、嫉妬していた。
不確かな過去の存在に狂おしいほどに嫉妬していた。
けれど、こうして撩の作り出す囲いの中に閉じ込められる度に、嫉妬の感情など霧散してゆく。
今この時、撩の目に映るのが自分だけならそれでイイと。
こんな風に口付られたら、何もかも忘れてしまう。





でも。違う意味なら、いないな。

ふぇ?



激しいキスの後で、撩は呑気な口ぶりでそう言った。
まるで痺れたように熱を持つ香の唇からは、間抜けなリアクションしか出て来ない。
いまいち力が入らない。
撩はその拍子抜けする相槌さえも愛しくて、額に軽いキスを落とす。




こんな風に抱きたいと思う女なら、いなかったよ。



お解り?と、耳元で囁く男の腰に手を回しながら。
無意識に涙が溢れた。
重力に従って目尻からこめかみを伝う涙を、撩が指で拭う。
良かったと思った。
たとえ甘い嘘でもイイから、そう言ってくれる彼で。
そして、たとえ色恋沙汰じゃ無かったとしても、家族だったとしても。
彼が心から愛したと言える人が、ちゃんと居て。
腰からゆっくりと背骨を伝って撫ぜた香の手が、肩甲骨まで辿り着いた時。
撩がもう一度キスをした。
それが2度目の始まりの合図だ。


香にも撩にも、過去を辿れば1人だけ愛した家族が居た。
残念ながらそれは過去の話しになってしまったけれど。
この今現在進行形の、この愛だけは。
決して過去のものにはしないと、香は撩に抱かれながら胸の中で誓った。





29. 悪い癖

小銭
紙マッチ
11桁の数字の羅列
クシャクシャになったキャバ嬢の名刺
撩のジーンズのポケットから出て来る色々




香が朝一番に寝室から回収して洗濯機に放る前の、もう何年も続けてきた習慣は。
毎朝、香の気分を沈鬱なモノに変える。
10日ほど前に精算した撩の歌舞伎町での負債は、また性懲りも無く増えて行く。
それでもこの数ケ月、香と夜を過ごすようになってからは。
以前に比べれば夜遊びの頻度は落ちた。
ピンク色の見るからに上等な紙で作られた名刺に入った皺を、香は無表情に掌で伸ばす。
流れるような毛筆書体で記された“美月”という名前を、脳内にインプットする。
続けて、11桁の数字の記されたメモ用紙の皺も丁寧に伸ばす。
小銭は香のポケットに、紙マッチはゴミ箱へと放る。

ドラム式の洗濯機の中では、撩のジーンズと香のコットンのシャツの袖が絡まる。
それはまるでベッドの上の2人のようで、香は安堵する。
あのドラムの中には、2人の生活以外何も無い。
ピンク色の不穏分子は、香の手の中にある。
フェロモンをビシバシ垂れ流す年増のママが1人でやっているバーの紙マッチも、ゴミ箱だ。
撩に悪気が無いのは、解っている。
撩と歌舞伎町の関係も、撩の仕事上での人との繋がりも、全部解っている。
それでも、
解っているからといって、腹を立ててはいけないという法は無い。
だから香はいつも、怒っている事は隠さない。










撩が遅い朝食を摂る為に、ダイニングキッチンのいつもの席に着くと。
朝刊の隣には、ご丁寧にも当て付けがましくピンク色の光沢のある厚紙と。
誰のものなのかもはや定かでは無い電話番号の書かれた、白いメモ紙が置かれている。
その紙屑を見て、撩は昨夜自分の隣で接客したホステスの名前を思い出す。
普段通りを装う相棒は、心なしかご機嫌斜めな予感がする。
昨夜(というか、未明)、撩が帰ると香は撩のベッドで寝息を立てて眠っていた。
飲みに行く事は、ちゃんと言ってあったけれど。
この所の撩はそれでも、何となく夜遊びをする事に後ろめたい罪悪感を感じたりしている。
勿論、香以外の女になど、もう興味は起きないけれど。
こうして朝から、可愛いヤキモチを妬かれると。
愛おしさが募る反面、また彼女を悲しませたんだと胸が痛む。
そして同時に、加虐心がそそられる。
泣かせたくない女の、泣き顔が見たい。
自分の事だけを想いヤキモチを妬く女の、剥き出しの感情に触れたい。
捻くれているのは、撩の悪いところだ。
捻くれているけど、嘘は吐かない。
意地悪だけど、溺愛している。
矛盾しているようでそうでも無いのが、冴羽撩なのだ。




撩の目の前には、ブランチを盛ったプレートが置かれている。
ベーコンは撩好みのカリカリ加減で、スクランブルエッグは半熟気味だ。
撩に背を向けてフライパンを洗っている香の視界の隅のゴミ箱に、
撩は改めて皺くちゃに丸めた紙屑を捨てる。
香が素知らぬ振りをしながらも、しっかりと視界の端っこの撩を見ていた事を確認して。
ゴミを捨てるのと一続きで、シンクに向かう香の隣に立つ。
撩の目の高さから15㎝ほど低い位置に、俯き加減の香の横顔。
スッと通った鼻梁、ぽってりと赤い艶やかな唇、真っ白な頬、影を作る睫毛。
撩がその横顔を見詰めている事を、香の細胞の1つ1つまでが鮮明に意識して撩の言葉を待っている。
けれど、撩は何も言わない。
ただその愛おしい横顔を、楽しげに眺めるだけだ。




・・・なに?



焦れた香が不機嫌にそう言って漸く、撩が笑う。
小さく息を吐くように密やかに笑う。
笑う撩に、香が薄く眉を顰める。
香の怒りの原因を、何も言わなくても撩が察しているという事を、香も察する。
あうんの呼吸と運命的な絆で結ばれた息の合ったパートナー同士は、
そんな余計な事すら、言葉も無く通じ合う。




別に何も? なあ。

ん?

妬いて拗ねてるオマエが可愛いんだって言ったら、信じる?




香は大げさに鼻の頭に皺を寄せて、嫌そうな顔をする。
怒りを通り越して、彼に対して呆れている時の彼女の表情だ。




・・・・・・信じない。




撩は香の言葉に、大きく破顔する。
隣に立つ彼女の頬を撫でる。
ますます不機嫌に唇を尖らせる香に、撩は笑みを深くする。
自分の欲求にいまいち素直になれないのは、香の悪い癖だと撩はいつも思う。
けれどその虚勢を張った仔猫の爪を、1つづつ解してゆくのが撩の楽しみだ。




キスしよっか?

やだ。

良いじゃん。

馬鹿じゃないの?

腹減ったよー。

テーブルの上にあるでしょ、サッサと食え!!

お口が淋しいよー。

っば/// っばっかじゃ・・・





香に皆まで言わせず、撩がその唇を塞ぐ。
泡で滑る香の細い指が、撩の手首に抗議の爪痕を残す。
それでも口付が深くなるにしたがって、指は力を無くす。
それはただ撩を撫でるだけになって、撩を悦ばす愛撫へと変わる。





香は撩に翻弄されながらも、官能に火を点す。
いつの間にか両腕は、撩の首筋に回され、
口腔内を蹂躙する持ち主同様、無遠慮な舌を懸命に追う。
つい数分前の素直じゃ無かった自分自身を思い返しながら。
意地を張るのが悪い癖だと、可笑しくなる。


本当は淋しかった。
撩のいない寝室で眠るのが。
何も無いとは信じながら、美人の隣で酒を飲む男が恋しかった。
ただあの腕の中に抱かれたかったし、
キスしようと言われて、嫌では無かった。言葉とは違って。


意地っ張りな香ごと包み込む温かな腕の中で、香はいつも少しづつ素直になってゆく。
撩を悦ばせる言葉を言わされる。
怒っていた筈の感情はあっという間に何処かへ流されてしまい、
代わりに撩の事しか考えられなくなる。




ご飯とアタシと、どっち先に食べる?



可愛い女の挑発に、撩は遠慮なく乗る事にする。
欲求に忠実過ぎるのが、2人の悪い癖だけど。
2人はそれを改めるつもりは、今のところ無い。








連載中だけど、お題が書きたくなって今日はお題。





30. 明日の予定

明らかに失敗したなぁ、と香は思う。

つい数日前に、依頼を完遂し。
午前中の伝言板の確認の時に、銀行へと赴いた。
ご丁寧にも依頼人は昨晩、指定の口座へ送金したと連絡を寄越してくれたので、無駄が省けた。
ATMを操作して、公共料金の引き落とし口座へと過不足無く移すと香は生活費を少しだけ引き出した。
撩は、香が転がり込んだ初めから。
2人で請けた依頼の報酬の管理は香に一任してくれているので、
(主に生活費の面で)何にどれだけ経費が掛かっているのか、きっと詳しくは知らないだろうと香は思う。
香は締まり屋だから、2人の生活に関する諸々の出費は非常にタイトに抑えられている。
撩のツケに関しては、またこれは別問題だし、
生活費とは別に枠を設けているので家計簿とは別の帳簿だ。(因みに、これを撩が見る事も無い。)
日頃、口煩く撩にも節約を求める香だけれど。
これらの金が、非常に大切なものだという事が解っているからこそ、口煩くもなるのだ。
依頼人から頂戴する報酬は、普通の生活では考えられないような大金だ。
それを託してでも、2人に縋らざるを得ない人たちの苦労の結晶で。
撩の身を危険に晒して得た大事なものだ。
一円たりとも無駄には使えないと、香はいつも肝に命じている。


だからスーパーの特売ともなれば、俄然、血が騒ぐのも無理は無い。
そうした情報を上手く活用しなければ、とてもじゃないけれど生活費は幾らあっても足りない。
何せ同居人は、1人で5人前くらいを平然と平らげる大飯喰らいなのだ。
朝、朝刊の折り込みチラシに入っていた、最寄りのスーパーの特売情報は、
きっと神様からの贈り物に違いないと、香は朝食の納豆を混ぜながら天を仰いだ。(室内だけど)
朝食を食べながら、洗濯機も回して、チラシのチェックまで済ませる香の目に飛び込んできたのは。


新米・コシヒカリ(5㎏) 1580円(税別)


安い。
しかも昨夜、依頼人からの入金の連絡も入ったこのタイミング。
これはきっと、香にこの新米を買えという神の啓示である。
本当ならば10㎏くらい買っておきたい所であるが、それを抱えて帰る事を考えたらそれは躊躇われる。
それに、きっとその米を求めてやって来る客は、香1人では無いのだ。欲張ってはいけない。









この季節がいけないんだと、香は思う。
新米は無事、GETした。
5㎏分の重量が、ビニール袋を通して香の腕に食い込む。
しかしそれだけでは無かったのだ。
人並み以上には、腕力に自信のある香だけれど。
さすがに買い過ぎた。
新米に始まり、大きなサツマイモ、カボチャ、大根、玉葱。
どうしたんだこの店、儲ける気あるのかと疑問に思うほどの安売りをしていた。
こんな日に限って、シャンプーの詰め替えまで大特価だし、ポイント5倍デーである。
余程、一度帰って出直そうかとも思ったけれど。
レジに並ぶ長蛇の列を横目に見ると、とてもそんな気にはなれず。
香はええいままよと、めぼしいものを籠に放り込み、今に至る。

嫌な予感はもう既に、袋詰めをしている時から感じていた。






・・・・・・なんで、こんなよりによって重たいモンばっか・・・馬鹿じゃないの?アタシ。



最短距離で家に帰り着く為の、近道の公園内でふと我に返って立ち止まった香の呟きである。











階段の下から、香が大きな声で朝メシが出来たと叫んでいたのは知っていた。
いつもなら、数回叫んでも静まり返った7階寝室に、
業を煮やした香が突入し、一暴れした後に撩の朝が始まる。
本当は大きな声で呼ばれた段階で、とっくに目は覚めているけれど。
撩は香がやって来るまでは、絶対に起床しないと決めている。
特に理由は無い、ただの構ってちゃんである。
冴羽撩は見た目に寄らず、結構甘えん坊なのだ
尤も、彼が全力で甘えるのは、同居人である槇村香に対してだけで。
しかし彼女はそんな彼の些細な甘えになど付き合っている程暇では無いので、結構冷たい。
傍から見れば、俺様な彼に献身的に尽くす健気な彼女、という図式で認識されている2人は。
実のところ、意外と甘えたな彼とアッサリとした彼女だったりする。


その朝(ほぼ昼)は、幾ら待っても香の突入は無かった。
その代わり、玄関ドアが静かに開閉する気配と彼女が不在である証の静けさが満ちていた。
撩は暫く、枕元のフリップクロックの薄いプラスチックの板が時間を刻む音を聴いてたけれど。
香が居ないのでは、寝床でウダウダしていても意味は無いので起床した。
キッチンにはいつもの撩の席に、伏せられた茶碗とお椀。
コンロの上のホーロー鍋には、しじみの味噌汁。
ラップを掛けられた皿には、昨夜、撩が飲みに出て食べなかった夕飯の残りの生姜焼き。
深めの鉢には、冷めて味の染みた筑前煮。
小皿には、少しだけ甘い香が作るいつもの玉子焼き。
朝から些かヘヴィなメニューと量だけど、これらは至って通常の冴羽撩に用意された朝食だ。

そして、テーブルの上の忘れ物で、彼女の今朝の不在の理由が解る。



安っぽい紙質の目がチカチカしそうなカラー写真の折り込み広告には、
重要な、しかし冴羽撩にはほぼ関係の無い情報がこれでもかと盛り込まれている。
油性の赤マジックで、大きく囲まれたコシヒカリの写真の下には、大袈裟な大特価の文字。
彼女がその先着50名様限りという小さな文字を見逃す筈は無い。
これでは確かに、怠惰な相棒の寝覚めの世話など焼いてる暇は無かろうと、
当の怠惰な相棒は大きく頷く。
朝食は毎度の事ながら、非常に旨く、撩の空腹を存分に満たした。
贅沢を言えば、食後の相棒のコーヒーが足りないけれど、特売ならば仕方のない事なのだ。











あ、りょお。 おはよう。



もう少しで、公園の出口に差し掛かるという所で、咥え煙草で現れたのは件の大飯喰らいの同居人だった。
公園内に植えられた樹木は、殆どが紅葉を迎えていて、ハラハラと落ち葉が舞う。
撩のショートブーツが乾いた落ち葉を踏む音が、香に近付く。
撩はおはようも言わずに、香の前に立つとスッと腕を差し出した。




ん。

ん??


同じたった一文字の音を発したコンビの、その音のアクセントが全く違う。
撩は意味の通じない鈍い女の腕からひったくるように、ビニール袋を取り上げる。
その時になって、香は漸く気が付く。
いつも撩より、ワンテンポ遅いのだ。
少しだけにやけた顔を誤魔化すように、香は次の瞬間には軽口を叩く。





なぁに? 珍しいじゃん。さては昨日、またごっそりツケ増やしたな?



そんな事を言いながらも、香の声音は笑みを含んでいる、怒ってはいない。
撩は胸の内で、素直じゃ無い奴、と思う。
オンナ扱いしないならしないで怒るくせに、偶にこうして優しくすると慣れていないから、
リアクションに困っている。
可愛いヤツだと思っているのは、未だ彼女には内緒だ。
別にこれと言って、彼女をオンナ扱いしないのに理由は無い。
すぐにでも最大級のオンナ扱いで、その清らかなヴァージンを美味しく平らげてやっても問題無いけれど。
でもこの絶妙な距離感をもっと楽しんでいたいという気持ちも無くは無い。




まぁ、たまにゃ良いだろ。




煙草を咥えたまま撩がそう言ったので、煙草の先から灰がボタン雪の様にふわりと落ちる。
お米も野菜も、重たいものは全部撩が持ったので。
香の手には、シャンプーとリンスの詰め替えだけが入ったビニールが残された。
軽い袋をぶら下げながら、撩の隣を歩く。
撩の横顔を見上げると、顎の下に少しだけヒゲの剃り残しがあった。
2人で落ち葉を踏み鳴らして歩く傍から、ハラハラと落ち葉は降り積もる。
赤や茶色や黄色い枯葉が、まるで雨のように撩の上に降り注いで。
真っ黒な癖毛の上に、枯葉が1枚落ちた。




ねぇ、りょお。 マフラー編んだげよっか?


そう言った香に撩は何も言わなかったケド、少しだけ小さく微笑んだから。
香は編んであげようと思った。
何色の毛糸にする?と訊きながら、撩の髪の毛に付いた落ち葉を摘む。
一応は訊きながらも、きっと香は自分で好きな色を選ぶんだろうと、撩は可笑しな気持ちになる。
これまでの撩の人生に於いて、こんな風に誰かと生活を共にし、世話を焼かれた事など無かった。
きっと他の誰かが、彼女と同じ事をしたならば。
撩にとってそれは、不快以外の何物でも無いだろう。
でも、彼女なら別に撩に何をしたって構わない。
そんな風に思っている自分自身に、誰でも無い撩自身が最も驚いている。



何色にしよっかなぁ



そう言いながら落ち葉を蹴って歩く香の明日の予定は決まった。
伝言板を見た帰りに撩のマフラーの為の毛糸を選びに行く。
短い秋の間に急いで編まないと、もうすぐ冬が来る。
彼女だけが秋の日差しの中で、
相棒の胸に燻ぶる熱い感情に未だ気が付かないまま楽しそうにはしゃいでいた。








11/22は、良い夫婦の日なので言い換えれば、冴羽商事の日ですね。
一線越えようが越えなかろうが、2人はほぼ夫婦みたいなものだと思うのです。

26. 冷たい手

冷たい手が撩の裸の胸を擽る。
冷たい手には薄ピンクの桜貝の様な爪が生えていて、
少し細すぎる指には以前撩が贈った7号サイズの輪っかが嵌っている。
冷たいのは手だけでは無い。
彼女の太腿は滑らかですべすべしていて冷たい。
その滑らかでしなやかな細い脚が撩の脚に絡み付く。

冷たいというと、多少語弊があるかもしれない。
彼女は撩よりも平熱が低い。
きっと男と女の身体の違いだ。
華奢で無駄な肉など一切無いように見えて、やはり女なのだ。
裸の彼女の身体は女性らしい丸みを帯び、弾力のある皮膚の奥は何とも言えず柔らかい。
柔らかくてひんやりとしてすべすべしていてそれでいてしなやかな力強さも秘めている。
女の身体はこうして、男が胸に掻き抱いて包み込む為に出来ているように撩には思える。
彼女の身体を包む薄い皮下脂肪の層は、彼女の表面を冷やす。
眠りに就く前には、撩の手に散々弄ばれ燃えるように熱くなっていたその手は、今は冷たい。
隣の男で暖を取るように、彼女は無意識にまるで猫のように撩に擦り寄る。


ここ最近の香は必ず、風呂から上がると完全防備で出て来る。
ネルの冬用のパジャマの下には、薄手のレギンスにババシャツ。
足先は薄い靴下の上にもう一枚、厚手のフリースのモコモコ靴下。
パジャマの上には、赤い絣のちゃんちゃんこ(撩とお揃いだ)を着ている。
色気もへったくれも無いのだけれど、その完全無欠の防寒対策は、
残念ながら布団に入るとすぐに、撩の手によって1枚1枚剥がされる。
湯冷めしないように着込んだはずの香は、結局毎晩、撩の隣で生まれたままの姿で眠っている。
初めは寒いと苦情を言いながらも、撩の手で高められながら香の身体が火照る。
そうやって少しづつ、乱れていく香を見るのが撩は好きだ。
小さく喘ぎながら、絶対に言いたくないと唇を噛み締めながらそれでも最終的に。
撩を求める言葉を言わされる、香の淫靡な表情が好きだ。
彼女をそうさせているのが、他でも無い自分自身だという事が撩の胸に妙な満足感を齎す。
この世で自分だけが、この彼女の表情と温度を知っているという事実が撩を熾す。
滾った撩が香の内側から焼き尽くす。
それでも満足感に包まれて深い眠りに落ちて数時間、明け方の一番寒い時間になると、
彼女はこうして撩に擦り寄る。
まるで寒がりの猫のように。


それで眠りの浅い撩はいつも、目を覚ます。
彼女の身体を腕の中に包み込んで、布団を掛け直す。
暫くすると撩の温みが伝わって、彼女が再び深い寝息を立てる。
撩は知っている。
眠っている彼女に少しづつ触れて意識よりも先に神経に快感を与えると、
再び親密なスキンシップが始まる事を。
気怠そうに覚醒しながら、すんなりと撩を受け入れてくれる彼女の優しさを。
彼女とこうして寝るようになった初めの内は、何度もそうして確認した。
彼女が確かに自分の腕の中に居るんだと。


撩は冷たい彼女の指を目の前に翳す。

清潔に整えられた指先は色を失って、嘘みたいに白い。
彼女の人差し指をゆっくりと、口に含む。
優しく甘噛みすると、彼女の眉間が微かに寄せられ寝息が不規則になる。
起こさないギリギリの所で、撩は遊ぶ。
小さく身じろいで彼女の口から洩れる吐息が、数時間前の彼女に重なって。
撩の鼓動が少しだけリズムを速める。
この先を、無意識に求める本能が撩を急かす。
けれど撩はわざと自分自身を焦らす。
人差し指だけでなく、順番にゆっくりと両の手全ての指を口に含み、舐る。
未だ眠っている筈の香の頬に、ゆっくりと赤みが差す。



食べてしまえたら。
この愛し過ぎる存在を食らい尽くして、己の糧として、自分だけのものとしてしまえたら。


そんな狂った妄想が、撩の脳内を駆け巡る。
柔らかく香の喉元に歯を立てて、柔らかな肉を食い千切り、咀嚼して飲み込む。
香の身体は撩の一部となって永遠に2人は1つになる。
それでもそれは、ただの妄想に過ぎないので撩は、華奢な指先に優しく歯を立てながら舐る。








香が少しづつ目を覚ますと、指の先に柔らかくて熱い粘膜の感触が伝わった。
撩の舌はねっとりと香の指を包み、吸い立てる。
そんな撩の舌の蠢きは、香の胸に数時間前の感覚を呼び起こす。
指を舐められているだけなのに、快感を教え込まれた香の身体には少しづつ火が点る。




・・・りょ・・お?



寝起きの彼女の声は小さく掠れていて、まるで喘ぎ声のようだと撩は口角を持ち上げる。
それまで丹念に舐め上げていた彼女の手を布団の中に戻し、
撩の体温を分け与えるように、大きな手の中に包み込む。
彼女の声の中に含まれる微かな艶と媚に、気が付かないフリをして。
彼女の額に口付る。
香は擽ったそうに首を竦めながら、恥ずかしそうに微笑むけれど。
本当はもっと別にして欲しい事がある事を、撩は見抜いている。
見抜いているけれど、今朝の撩は少しだけ意地悪だ。



なに?



わざとらしく爽やかに微笑む。
今の今まで厭らしく彼女の指先を犯していたクセに、まるで他人事のように。
彼女の眉根は切なそうに寄せられ、
撩の胸板に当たる彼女の双丘の先のささやかな突起が固くなっている事に気付く。
撩自身、激しく求めているけれど、根競べで彼女に負けるつもりは無い。



ねぇ。

ん~?どした?

・・・意地悪。



彼女の紅茶色の瞳を薄っすらと、涙の膜が覆う。
目の縁が赤く色づく。
撩が抱き締めた身体は、いつの間にか温かみを取り戻し呼吸は不規則に乱れる。




どうして欲しいの?



吐息と一緒に、撩が香の耳に言葉を吹き込む。
それだけで彼女の頬に飽和した涙が一滴、溢れて落ちる。
意地悪を言う男に、香はまるで子供のようにむずかる。
解っているくせに解らないフリをする男が憎らしくて、欲しくて堪らなくなる。
柔らかく拘束された腕の中から抜け出した香の両腕が、撩の首に回される。
撩の後頭部の癖毛に指を差し込んで、力を込める。




・・・ス、して。

へぇ、キスだけでイイの?



首を振って撩の問いに答える香の口元に、撩は耳を近付ける。
観念した恥ずかしがり屋の彼女は、囁くように強請る。
彼女の願いを聞き届けた意地悪な男は、満面の笑みを湛えて大きく頷く。
まずは手始めに、御望み通り。
濃厚な口付を。










真昼間から、朝チュンです(*´∀`*)えへ
久々にお題。

58. タイミング

どんなに気が合う同士でも、どんなに仲が良くってもタイミングが合わない事ってあるしね。
と、香は自分に言い聞かす。
ましてや2人の間には、未だ明確な意思の確認というのは為されておらず、
多分、何となくお互いに憎からず思っているんだろうけれど、
もしかすると、時には言葉で明確にする事も必要なのかもしれない。

始まりは些細な事だった。
暮れも押し迫ってお金の出て行く事は山ほどあるのに、依頼は11月の終わりに解決した1件きり。
香は勿論、駅前でいつものビラを配った。
成果は一切無かったけれど、連日店に訪れて溜息を吐く香に見かねて声を掛けたのは美樹だった。
なんでも知り合いの居酒屋で、頼りの綱のアルバイト店員が3名もインフルエンザでダウンし、
この師走の掻き入れ時に、二進も三進もいかないという。
臨時で短期のアルバイトを求めても、何処も人手が足りない状態で簡単に替わりは見付からないという。
猫の手も借りたい店主と、何でもイイから働きたい女の、利害が一致した。
それが、12月20日の事だった。
期間は12月30日までの10日間、それまでみっちりと忘年会の予約は埋まっている。
場所は同じ新宿だし、歩いて行ける目と鼻の先。
またとない好条件のアルバイトだと、香は思ったのだ。
どうせクリスマスは毎年、撩は飲みに行くから独りぼっちだし、
そうじゃなくてもお酒の誘惑の絶えない撩は、毎晩、飲み歩く季節だ。
何時に帰って来るのかも解らない男を待って、1人で観る年末特番だらけのテレビはいつも以上に淋しい。
それならいっそ、その時間を有意義に働いてた方が良いじゃないかと思ったのだ。
意外な事に、そんな香の報告に撩は異議を唱えた。
夕飯もちゃんと作って行くし、迷惑はかけないから。という香に、
いつまでもうんと言わない撩が焦れったくて、香はカッとなった。
誰のせいで生活費が余計に掛かってると思ってるんだという、いつものお小言と小さなハンマー。
けれどそれはいつもの事なので、撩もそこまではいつも通りだった。
撩が言葉を噤んで勝手にしろ、とリビングを出たのはその後の香の言葉を聞いてからだ。



どうせ撩は、
毎晩、飲みに行ってるじゃない。
アタシが独りの時間に何したって、撩には関係無い。





クリスマスだっていっつも、アタシ独りじゃん。
撩は沢山、綺麗なお姉さんたちに囲まれて楽しいのかもしれないけれど。
アタシは毎年、この季節が大嫌いなのよ。という愚痴まではさすがに呑み込んで、グッと堪えた。
撩がプイと膨れて出て行ったリビングで、香は泣くまいと唇を噛んだけど。
少しだけ泣いてしまった。

それから10日、漸く約束の期間が今夜終わった。
明日から店の方も正月休みに入るらしい。
あれから撩と香は、何となく気まずいままだ。
珍しく香の方が午前様で、香が帰ると撩はもう寝室に籠っているし。
香が朝起きても、撩はまだ眠っている。
夕方、バイトに出掛ける前に夕飯を作って行くけれど、
それを撩がいつ食べているのかなんて解らなかった。
家に帰るといつも、空の食器だけがシンクに残されていた。
もしかすると、どちらともなく意地を張り合っていたのかもしれない。










撩はその、香の報告を聞いてなんでこういう時に限ってと、上手く噛み合わないタイミングに苛ついた。
去年のクリスマスは例年通り、香を独りにした。
その秋、撩は香に思いを告げた。
それがどの程度彼女に伝わっているのか、未だにそれは定かではない。
彼女はあれから何も変わらないし、撩も何となく気恥ずかしくて、
あの告白の事を蒸し返すのは避けていた。

そして気が付くと、もう1年が過ぎていた。
この1年、撩は何度となく、香と何らかの進展をと目論んできたけど。
いざ行動にしようとすれば、柄にも無く立ち竦んでしまう己が居た。
良く解らない感情だった。
あの時、目の前で数十人の兵士たちに銃口を向けられた相棒を見て、
これから先、何があっても彼女を守り抜いて一緒に生きて行こうと、心に誓った筈なのに。
その決心は揺るぎ無いものなんだけど、それとこれとは別である。
ただ一言、好きだと囁いて、その手を少しだけ伸ばすだけで。
2人の間に温かい風が吹き渡る事ぐらい、容易に想像出来るのに。
撩は1年間、無駄に戸惑い続けた。
勿論、これではいけないといつも考えていた。

だから、今年のクリスマスは一緒に。
そんな撩の勝手な都合など、知る由も無い香はサッサとバイトを見付けて来た。
10日間、香は知らないけれど、撩は飲み会の誘いを全て断った。
独りでシンとしたリビングで過ごしてみた。
今まで香が見て来た世界を、たまには自分が見てみるのも悪くないと思えた。
夕方には出掛けて行く香が作った夕飯を、温め直す。
テレビを点けてもつまらないから、ボンヤリと考えた。
彼女の事を。
この静かなリビングで、いつも自分の帰りを待つ仔犬の様な彼女の事を。












思いの外、バイト代を多く貰えた。
店主は少しだけ、予定の額よりも弾んでくれたらしい。
今年は大掃除として纏まった時間が取れないから、
昼間の内に少しづついつもより念入りに掃除をした。
それにいつも、掃除は手を抜かずにやっていたから気になるほど汚れてもいない。
ピンと張りつめた冬の夜の空気を吸いながら、香は弾んだ足取りでアパートに向かった。
後、1日。今年はある。
明日は買い物に行って、大した事は出来ないけれど、
お正月はいつもよりも美味しいものを作ってあげようと、香は思う。
誰にというのは、言わずもがな意地っ張りの相棒に。
何だかんだ言って、香の頭の中には撩しかいない。
このバイトの期間中、撩には冷たい夕飯を食べて貰っていたのだ。
結局、何も言わずやりたいようにやらせてくれた事に香は感謝している。








撩は香のバイトが終わるであろう頃合いを見計らって、家を出た。
後、1日。今年はまだ終わっていない。
バイト先は、撩も知っている。すぐ傍だ。
吐く息が白い。
香が通っていると思われる路地に入る。















あ、りょお。







撩が彼女を見付けた時、彼女はぼんやりと空を見上げていた。
紺色のダッフルコートが良く似合っている。
鼻の頭を赤くして、彼女は驚いた様子で撩を見た。





何やってんの、おまぁ。アホみたいな顔して。




そう言って苦笑した撩に、香は頬を膨らます。
アホって言うな、バカ。と、小学生の様なリアクションを返す。
寒そうで淋しがりの撩の相棒は、クリスマスケーキもプレゼントも無いまま良く頑張った。





お月様が綺麗だなぁって思って。




そういう香につられるように、撩も空を見上げた。
確かに綺麗だ。
空気が澄んで、ヒッソリとした新宿の裏路地は猫の仔1匹居ない。
撩は懐からそれを取り出すと、香の首にふわりと巻いた。
今年のクリスマスに、彼女の為に用意したささやかな贈り物。
香が気が付いた時には撩はニコリと笑って、似合うな。と言った。
真っ白なカシミヤのマフラー。





それ、クリスマスプレゼントな。お前居ねえからさ、遅くなったけど。








なんで撩は、いつも。


ん?


こんな風に アタシの心奪って行くの。 ばか。






いつも絶妙なタイミングで、心を縛って、そこから一歩も動けなくしてしまう。
気まずかった事とか、淋しかった事とか、たった一瞬で帳消しにしてしまう。
でもそれはきっと、お互い様だ。
今年はまだ、あと1日残されている。
撩は細い手首を引き寄せて、コートで着膨れた彼女を抱き締めた。
たったこれだけの事に、何年も掛かった。
ずっと好きだった。
漸く今夜、彼女を抱こうと決心出来た。
腕の中で苦しいともがく穢れ無き彼女はまだ、何も知らない。











9. 温室育ち

お、あいつの読み通りってか。





撩の頭の上にぽつんと雨だれが落ちて来て、ぽつんがホンの数秒でぽつぽつに変わる。
くすんだカーキ色のコートに雨だれが落ちた所だけ、濃い色に変わる。

昼過ぎに撩が目覚めると、香はもう既に外出していて。
キッチンにはいつも撩が使う茶碗とお椀が臥せられ、
プレートには昨夜の残りの酢豚が盛られ、ラップを掛けられていた。
炊飯器には雑穀米と、コンロの上の鍋の中には豚汁が入っていた。
温め直して食えという事らしい。
冷蔵庫を開ければ、小さな琺瑯容器には細々とした常備菜が入っている。
その中から撩は、砂肝と胡瓜と搾菜の辣油の効いた中華和えを取り出して食べた。
食後にコーヒーを淹れて(自分で淹れる時は、専らインスタントだ。)、
新聞に目を通してから外に出た。
玄関の傘立ての中の、香愛用の赤い傘が無い。
煙草を吸いながら、掃出し窓とベランダの境に座り込んで新聞を読んだのだ。
雨など降る気配も無かった筈だが、と撩は訝しむ。
恐らくは、伝言板を見て買い物をしてキャッツで寄り道をする。
その香の行動パターンを鑑みても、傘が必要な空模様には思えなかったけれど。
もしかすると、時々局地的に雨、という予報でもあったのかもしれない。
撩は雨だろうがあまり気にするタイプでは無いので、構わず表へ出た。







ぽつぽつと降り出した空を見上げる。
どうやら今日は世間一般的には、成人の日とやらで。
先程から頻繁に見かけた晴れ着のモッコリちゃん達は、
降り出すや否や、まるで蜘蛛の子を散らすように何処かに消えた。
恐らくは、雨宿りでも出来る場所へと避難したのだろう。
冬晴れでそれ程気温も低くなかった今日は、絶好の晴れ着日和だったろうに気の毒だ。
撩はコートの襟を立て、無意識に早足になる。
アパートに帰るより、キャッツの方が近いのでそちらへと足が向く。
湿ったコートが乾く間に、コーヒーでも飲もうという算段だ。
けれど撩の歩みを止めたのは、可愛い撩の相棒だった。




おまぁ、傘はどうした?




傘を持って出た筈の彼女の癖毛には雨粒が光り、
ベージュのダウンジャケットの肩口も雨に濡れて色を変えている。
真っ白な頬とは対照的に、鼻の頭は真っ赤になっている。
撩の進行方向とは逆側から彼女が現れた。












どうして自分が傘を持って出ていた事なんか知ってるんだろうと、不思議になって。
それでも、撩になら何だってお見通しなんだろうという気になって、香は小さく微笑む。
年が明けてすぐに、1件の依頼が冴子によって齎された。
撩はそれでここの所、連日明け方に帰って来る。
撩の寝室が2人の寝室に変わって、早数ケ月。
撩が“お仕事”の夜は、香は撩の匂いのする寝具に包まれて1人で眠る。
明け方に帰って来てシャワーを浴びた後の気配の撩が、
香を抱き込んで髪の毛に顔を埋める感覚を、香は寝惚けたままで感じる。
そのまま撩の腕の中で眠って、香が目覚める時には逆に撩は爆睡している。
そんな彼を起こさないように、ベッドから抜け出して朝食を用意する。
この数日、2人の生活は若干擦れ違い気味だ。

それでも夕飯は一緒に食べるし、2日前の昼下がりにはリビングで愛し合ったりもした。
今日は朝、撩の寝顔を見て以来の対面だ。
撩のコートも濡れそぼって色が変わっている。
そう言えば前に絵梨子に聞いたけど、
あのコートの内側には何故かコンドームが仕込んであるらしいけど、本当だろうか。






貸しちゃったの、晴れ着きた女の子に。困ってたから。




急に降り出した霙混じりの雨に、香は迷わずその傘を差し出した。
高価な振袖はきっと、成人する大切な娘に両親や祖父母が買ってあげる物なんだろう。
香には解らないけれど、そんな大切な着物が汚れるのは大変だろうと思ったのだ。
自分がハタチの頃は、まるで男の子の様なカッコをしていた。
振袖なんて準備してやれなくてゴメンな、と言った兄の言葉もさして気にも留めていなかった。
そもそも何処か他人事だと思っていた、成人式なんて。




お人好しめ。



そう言って呆れたように笑う彼が、香の全てだ。
香の世界で、香の支えで、香の。
だから傘くらい、どうでも良いのだ。
参加しなかった成人式の思い出なんてどうでも良い。









キャッツに寄る予定は変更だ。
撩は香の横に並ぶと、ふわりとコートの内側に香を包む。
香がニッコリと微笑む。





家まで、走るぞ。

うん。



取敢えず、家に帰ったら風呂に熱い湯を溜めて2人で浸かろう。と、撩は脳内で予定を立てる。
今夜も遅くから出掛けないといけないから、仕方がないのでイチャイチャタイムはこれからだ。




香には家族は兄しかいなかった、撩にも家族はいなかった。
2人には普通の人が通り過ぎるような普通の思い出は無いのかもしれない。
けれど香は、兄と撩が作ってくれた温かな温室でぬくぬくと育った。
撩が作った温かな庇に守られて、香は生きている。
成人式に晴れ着を着て、同級生たちとはしゃいだ思い出は無いけれど。
ハタチになった夜に、彼の相棒になった。
沢山ヤキモチを妬いたり、恋い焦がれたり、喧嘩をしたり、仲直りしたり。
思いが通じたりして、今がある。
だからきっと、誰よりも幸せだ。



撩はハタチの頃、全米中にその名を轟かす凄腕の殺し屋だった。
勿論、今もそれはそうだけど。
それでも昔に比べると、少しは落ち着いたもんだ。
そもそも巨大な組織の傍迷惑な過干渉と、
縺れに縺れた裏世界のしがらみに嫌気がさして、こんな小さな極東の島国にやって来たのだ。
しつこく追って来た組織も無事ぶっ潰して、呑気で可愛い相棒とマッタリと生きている。
彼女を守るなんて偉そうな事を言っているけれど、実は彼女に守られているような気がしている。
彼女の作った食事を食べて、彼女の整えた空間で快適に生活して、彼女を抱いて眠りに就く。
彼女が今の撩の世界を形作っている。
彼女の作った温室の中で、撩は初めて人間らしい暮らしを知った。




多分、傘は戻って来ないだろう。
撩は今の依頼が済んだら、依頼料で香に新しい傘を買ってやろうと思った。








北条先生が描いた原作のイラストの中で冬の絵は、
2人が並んで走ってる絵が多いなぁと思います。
焼き芋食べながらとか、リョウちゃんがコートを広げてカオリンがその中に居たりとか。
それが好きなんです(*´∀`*)扉絵とかイラストの中でだけLOVEい2人(笑)


10. チェックメイト

りょぉお~~ ご飯作っといたからぁ、後であっためて食べてねぇ~~









そう言って7階へと続く階段の下から声を掛けたのは、槇村香である。
時刻はまだ、午後5時を回ったばかり。
晩ご飯の支度にしては些か気が早いと、撩はその原因に思いを馳せて溜息を吐く。
今夜の撩はいつもとは逆にお留守番する方で、香はデートだ。
完全に油断していた。
数日前まで依頼人だった男は、昨夜。
撩不在のこの冴羽アパートへ、電話を寄越したらしい。
1つ目の用件は、依頼料の振込を済ませたという業務連絡。
2つ目の用件は、デートのお誘い。
今夜香は、熟成肉とやらを食べさせる人気の炭火焼きの店に連れて行って貰うらしい。




相手は、某区役所に勤める公務員。
彼の担当する部署で行われる公共工事の入札を巡るトラブルの矢面に立たされて、
ヤクザに命を狙われている所を、撩が助けた。
依頼自体は大した事でもなく、数日程度で片が着いた。
彼を狙った輩は今頃、拘置所の中だ。
今回の依頼人に関して、撩は全くのノーマークだった。

依頼人の男が香に惚れる事例として、大抵2つのパターンに大別される。
女性経験が極端に多い男か少ない男か、そのどちらかだ。
少ない男の場合、ほぼ全員に共通して言える事は、人生で初めてと言って良い位、
女性に(しかも、メッチャ良い女に)優しくされて絆されるというパターンだ。
多い男の場合もまた、ワンパターンと言える。
見た目に反して、うぶで世間慣れしていない無垢な女(しかも、メッチャ良い女)を、
自分色に染めたい。といったところだろうか。典型的に、自意識過剰なタイプだ。
因みに撩は上記の事柄に関して、常々、理解出来ないと公言して憚らないけれど。
完全に後者のパターンに当て嵌まる(自覚なし)。
いずれにせよ今回香をデートに誘った公務員は、そのどちらでも無いように撩には見えた。
目測を誤ったとしか言いようが無い。




撩はリビングのソファに仰向けになると、顔の上に開いたエロ本を乗せた。
胸糞悪い。
撩がその報告を受けたのは、午前中の事だった。
いつも通りほぼ昼に食べる“朝食”は、
撩の好きな具合に半熟の目玉焼きと、
たっぷりとした量のオニオンサラダ(香曰く、玉葱は血液をサラサラにするらしい)、
カリカリに焼いたベーコンと、バタートースト。
香が撩の食べているすぐ傍で豆を挽き、丁寧にドリップしたコーヒーは芳醇な薫りを漂わせていた。
申し分ないいつもの朝の風景だったのに。
香の報告によって、事態は一変した。








今日はアタシ、ちょっと夜出掛けて来るから。

んぁ?どういう事?

斎藤さんがね、一緒にお食事でも如何ですか?って誘ってくれたから。

・・・で? OKしたの?

うん。

なんで。

なんでって、断る理由無いし。

OKする理由も無くね?

無いかもだけど、りょおがどーのこーの言う理由も無いよね。

・・・・・・。

晩ご飯、ちゃんと作ってくから適当に食べてね。

そういう問題じゃねーし。

じゃあ、どういう問題なの?

あぁぁっと、なんだその。元依頼人と必要以上に、お近づきになるのは如何なものかと・・・

へぇぇ、アタシはダメで、りょおは良いんだぁ。

んだょ、どういう意味だよ。

・・・前々回の依頼人の、藍子さん。えらくアンタにご執心だったじゃない?
さぞかしデートも、盛り上がってたようで。

・・・・・・んだょ、香のヤキモチ妬き(ボソッッ)

はぁあ?妬いてないし  アンタの方こそ、妬いてんの?

妬くかっっ、ヴァァカ・・・フン、勝手にしろ。

だから、さっきから言ってんじゃない。勝手にするわよ。








その遣り取り以降、香は完全無視を決め込んで、普段通り家事に勤しんでいる。
普段通りも普段通り、掃除機を掛けながら口笛まで吹く始末だ(肉が食えるのが嬉しいらしい)。
撩は啖呵を切った手前、その話しを蒸し返すのもカッコ悪いので何も言えないまま、今に至る。






あら、りょお。コッチに居たんだ。



そう言ってリビングに入って来た香は、すっかり身支度を整えていた。
どうやらさっきは、撩が7階(うえ)に居るのかと思って、大声で声を掛けたらしい。
撩は返事もせずにエロ本を閉じて起き上がると、煙草に火を点ける。
香は撩の機嫌の良し悪しなど気にしない事にしたらしい。
撩のブランチの世話を焼きながら口論した事など、忘れているようにニッコリと微笑んだ。




晩ご飯、作ってあるから。自分でチンして食べてね。

・・・さっき、聞こえた。

あ、そぅ。



5時半頃には、元依頼人(さいとう)が迎えに来るらしい。
紺色の薄手のニットに、白いコットンパンツ。
恐らくこの組み合わせなら、香は素足にトッズのモカシンシューズを合わせるだろう。
ニットは浅いVネックで、綺麗な形の鎖骨が覗いている。
ネックレスなど着けない香の喉元は、ハッとする程白い。
手に持っていた柔らかなヤギ革の銀色のクラッチバッグを、ローテーブルの上に置いて。
撩の不機嫌などお構いなしに、撩の座るソファの前のラグの上に香がぺたんと座る。
向き合って顔を見れば、珍しく香は真っ赤なルージュを引いている。
普段、化粧気の無い肌は、たったそれだけで一気に華やぐ。




ねぇ、りょお。心配しなくても、大丈夫だよ。ほら。



そう言って香が自身の耳たぶを触る。
その細い指が触れたのは、撩が贈ったプラチナのピアスだ。
一度だけ、撩は微妙に解り難い愛の告白をした事がある。
あの言葉が、どれだけ香に伝わっているのか、正直、真意は掴めない。
2人の関係は相変わらず停滞したままで、キスの1つも出来ないでいる。
そのピアス1つ贈るにしても、撩は素直じゃなかった。
正装してパーティーに忍び込む依頼を請けた時に、それとなく渡したのだ。
勿論、流線型のピアスの内側には高性能の小型発信器が仕込まれている。




だから何かあったら、すぐに迎えに来て?



そう言って撩を見上げる上目遣いは、今夜余所の男にも向けられるのだろうか。
そう思うと、腹の底から沸々と嫉妬の感情が湧いてくる。
どうして今朝の食卓で、勝手にしろだなんて言ってしまったのか。
ただでさえ、自分の言葉や思考に縛られがちな嫉妬深い男は、
如何に自分の発言を撤回しようかと考えあぐねる。




何かって、なんだよ。



撩がそう言った次の瞬間、ふわりと香の使うボディクリームの匂いが薫った。
柔らかい感触が撩の頬に触れたと思ったら、またすぐに香の身体が離れて行く。
あまりに突然の出来事に放心する男の頬に、真っ赤なキスマークが残る。




たとえば、こういうこと。



香は笑いながらそんな事を言う。
徐々にその意味が解ると、撩の理性は歯止めを無くした。
吸い掛けて灰が落ちそうになる煙草を、灰皿に押し当てて、
目の前でクスクス笑う相棒の、華奢な手首を握り締めると強引に抱き寄せた。
撩は大好きな栗色の癖毛に顔を埋める。




なぁ、デートなんてやめとけよ、ドタキャンしちゃえ。



ここまで来て、撩は漸く本音が言えた。
本当は、一日中そう言いたかったのだ。
いや、もう何年も前から同じ気持ちだった。
いつか香が自分に愛想を尽かして、他の男を好きになってしまったら。
そう考えると、心底怖かった。
それなのに撩のとる行動は、いつも心とは裏腹だった。
キスだって。
本当は、自分から仕掛けたかったというのに、完全に後手に回ってしまった。





嘘なの。

は?

斎藤さんからご一緒にって言われたの、それ、撩と一緒にって意味なの。





どうやら、人気店の予約を斎藤が入れてくれているのは本当らしい。
完全にしてやられた。
元依頼人の実直そうな男は、2人の焦れったい関係に気を利かせてお膳立てしてくれたらしい。




ねぇ、りょお。デートしよう?





今度こそ、正真正銘。
香の上目遣いのお強請りである。
今夜、余所の男に奪われる心配は無い。
他の誰かに奪われる前に、撩は香を貰う事にした。
うぶな子猫ちゃんが随分健闘したけれど、最後の一手は譲れない。
生憎、彼女がキスをしたのは頬っぺただ。
いつだって彼女は、少しだけ詰めが甘い。





チェックメイトだ、香。



撩は香の耳元でそう囁くと、その柔らかな唇に漸く辿り着いた。









久し振りのお題です(*´∀`*)

91. 夜の使い道

撩ちゃん、わたし撩ちゃんとならエッチしてもいーよ。




薄暗い路地裏でそう言った女は、そのクラブではそこそこの人気ホステスだ。
幾つもある撩の行きつけのひとつの人気嬢は、太客の前では絶対に見せない媚を撩に売る。
店の外に客を見送りに出たついでに、路地裏でサボっていたらしい。
煤けたコンクリートの壁に凭れるようにして細い煙草を燻らせている所へ、撩が出くわした。
軽く当たり障りのないやりとりの中で彼女はあっけらかんとそんな事を言う。
確かに撩は、週に1~2度その店に出向いては羽目を外す。
厭らしいフリで綺麗処を片っ端から口説くけど、落とす気が無い事をホステスたちは見抜いている。

女はママから一度だけ聞いた事がある。
冴羽撩という男は、口では何と言おうと本心を見せない男だから本気になったら負けだと。
同じ店の子には、彼が一番に大事にしている“彼女”とやらを知っている子もいるらしい。
早い時間に店に出てくると、彼のツケを支払いに来る彼女に、ごく偶に出逢える事があるらしい。
女はそんなに早い時間に出勤する事など無い。
大抵は、客の誰かと同伴しているから。
こーみえて仕事熱心なのよね、と女は心の中で思う。




別にエッチくらい、御大層なモンでも無いし。
彼女とか居ても気にしないタイプなの、私。



そんな蓮っ葉な台詞を吐きながら笑う女は、それでもせいぜいハタチそこそこだ。
撩は苦笑する。
世の中には、こういう世界を否定したり、嫌悪する人間も居るだろう。
どうしてそんなに若くして捨て鉢なんだと説教する人間も居るだろう。
けれど撩には、その世界は酷く居心地よく慣れ親しんだ日常だ。
ニッコリと笑いながら、撩は女の指から吸い差しの煙草を取り上げる。
口紅の付いたフィルターを咥えると、甘ったるい煙が胸に広がる。
自分の吸っているいつもの煙草とは全く違う細い煙草を咥えたまま、撩が目を細める。




なんで俺なの?

えぇ~、なんでって。やらしいフリして全然やらしくないから。

なんだよ、それ。



撩はフンと鼻を鳴らして、甘ったるい煙草を放ると靴の先で踏み消す。
誰かさんには、四六時中変態扱いされてるんですけど、俺。と、内心微妙な気持ちになる。
目の前の化粧だけはケバイ彼女は、まだまだお子様だ。











眠れないの?カオリ。

うぅ~~ん、そういう訳じゃないんだけど。  ミックは?

〆切は迫ってるんだけどね。なかなかテンションが上がらなくてね。

そっか。お互い、パッとしないね。




静まり返った夜の街で、雑居ビルにはまばらに灯りが点っている。
けれど、香の居る冴羽アパートの灯りはその部屋ひとつで。
向かいのミックの事務所兼自宅のビルにも、灯りが点いているのはミックの部屋だけだ。




かずえさんは?居ないの?

ああ、居たら今頃夜更かしなんてしてないさ。仲良く、寝室さ。

・・・そ、そう////

リョウの奴は?まぁた遊び呆けてるのか?

うん、相変わらずよ。この間、折角ツケを精算したのに。

ったく、しょうがない奴だな。





香はベランダに出て、ミックは窓際で。
互いに子機を握って、パートナーに放置プレイされてる者同士、深夜のお喋りだ。
数分前、香が何気なくベランダに出て、表の通りを眺めていたらミックが手を振って来たのだ。
香がそれに応えて手を振りかえしたすぐ後に、リビングの電話が鳴った。
向かい側で子機を握ったミックが、手を振っていた。
それ以降、2人の愚痴合戦が始まった。









撩は踏み消した煙草の代わりに、ジャケットから慣れ親しんだ赤いパッケージを取り出す。
撩がジッポーを使う前に、女は自然な動作でカルティエで火を点ける。
深く煙を吸い込んで、ゆっくりと吐く。
つい今しがた、高層ビルの屋上で遠くの窓に見える男を1人殺してきた。





そういう台詞は、お客さんに言わせなよ。自分で言っちゃダメよん。

そうなの?

そうそう、女の子はねエッチさせてくれーって男に言わせてナンボだよ。

ふふふ、あんまりそういうの気にした事無いや。




撩はあはは、と文字通りの音で笑う。
女はもう行かなきゃ、と言いながら立ち去り際。
撩を振り返るとニッコリ笑って言った。



撩ちゃんって、変な人だよね。

うん、良く言われる。







路地裏を出ると、通りは通行人もまばらで平日の夜はあまり賑わっていなかった。
どおりで女が適当にサボっているわけだ。
撩は頭の中に、相棒を思い浮かべる。
変なヤツ、っていつも言う彼女の呆れたような笑顔を思い出す。
エッチさせてくれと言いたいけれど、長年言えないでいる彼女は今頃起きているだろうか。










あ、りょお。おかえり。





撩が部屋に帰ると、香はベランダに出ていた。
撩のビルケンシュトックのサンダルを突っ掛けて、子機を握って撩を振り返る。
香が耳から受話器を離すと、小さく悪友の声で“おかえり~種馬ぁ”と聞こえる。
撩が香の肩越しに向かいのビルを覗き込むと、脳天気な元相棒が小さく手を振る。
撩は香の手の中から、子機を奪い取る。




サッサと寝ろ、エロ天使。



それだけ言うと、撩は通話を切った。
リビングに戻る撩の後に続きながら、香は振り返って小さくバイバイとミックに手を振る。
サッシを後ろ手で閉める香に、撩は背中を向けたまま拗ねたように呟く。




おまぁも、サッサと寝ろよ。



心なしか不機嫌そうなのはヤキモチなのだろうかと、香は少しだけ可笑しくなる。
撩の相棒になって数年間、色々な事があったけど。
数ケ月前に湖の畔で、互いにこれから先何があっても相棒でいようと確かめ合った。
それだけだけど、別に何かしらの進展が二人の間にあった訳では無いけれど。
最近撩は少しだけ、香に対するヤキモチの感情を隠さなくなった。
あまり意地悪も言わなくなった。
それ以外の生活態度は、相変わらずだけど。




りょお。

ん?



香が背中越しに話し掛けると、撩も背中を向けたままで応える。
撩が香の次の言葉を待っている事は、気配で伝わる。







寝た方が良いのは解ってるんだけどね。


解んないの、


夜の使い道が。







撩には趣味と巡回を兼ねた深夜の飲み歩きがある。
ミックには仕事や恋人との時間がある。
それでは自分には何があるんだろうと、香は思う。
眠れない深夜に、観るべきテレビ番組も無く、これといって趣味も無い。
そういう時、普通は何をするんだろう、と。




・・・今度、飲みにでも行くか?



撩は香に訊ねながらも、香の答えを聞く前に足早にリビングを出た。
それでも廊下に出た所で、香が嬉しそうに小さくうん、と答えたのが聞こえた。
勿論、女の子が接客するような店には連れて行けないから。
たまには雰囲気の良いバーにでも連れて行ってやるかと、撩は考える。
本当は、それならエッチさせてくれと言いたい所だけど、今はまだ言えないでいる。


本当の夜の使い道は、もっと他にある事を撩だけは解っているけれど。
今の所、毎晩のように無駄遣いをしている。
このままではいけないと思いながら。








34. エントランス

確かに、今度飲みに行こうと言い出したのは撩の方だけど。
それは反則だろうと言いそうになって、撩は口を噤んだ。
玄関で香の支度が整うのを待っていた撩の前に現れた香は、いつもとは全く違う装いだった。


深い海の底を思わせるようなミッドナイトブルーのワンピースは、ホルタ―ネックで。
胸元には贅沢なギャザーが寄せられている反面、真っ白な背中は腰の辺りまで惜しみなく晒されている。
シミひとつ無い背中を飾りたてるのは、真っ直ぐに伸びた背骨の凹凸と天使の名残の肩甲骨。
首筋と肘の裏から仄かに薫るのは、ニナリッチの軽いオードトワレだ。



お待たせ。


そう言ってニッコリ笑った唇には、ヌーディなピンクベージュの口紅の上に重ねたゴールドのグロスが光る。
まるでデートにでも行くみたいな彼女の隣に並ぶ予定の撩は、至っていつも通りじゃないかと思わず焦る。
白いTシャツに、穿き慣れたジーンズ。ショートブーツ。
相棒がこんなにめかしこむのならば、撩だってもう少し時間をかけて服を選んでも良かったのに。
出がけに不意を突かれてしまった。
香が選んだのは、普段なら履かない8㎝の華奢なピンヒールで、
靴を履く為に軽く屈んだ香の耳元で、シルバーのカジュアルなピアスが揺れる。
いつもと違って綺麗で女らしい彼女に、綺麗だと素直に褒める事が出来なくて、
履き慣れない靴の彼女に撩は、思わず素直じゃない本音を漏らす。




チャラチャラしちゃって、まあ。転ぶなよ。

えへへ、何の為に撩が居るの? 頼りにしてますよ、用心棒さん。




そんな風に軽口を叩く時の彼女は、至っていつも通りの少年の様な雰囲気だ。
よくよく考えたら、彼女はもう立派な大人の女なのだ。
それでもいつまでも、何処かに少年ぽさを漂わせている。
それが撩をいつまでも躊躇わせるひとつの要因なのかもしれない。
いつまでもあの時の、身の上相談のシュガーボーイの彼女の残像がチラつく。
キスも出来ない程に大切な、撩の宝物だ。









撩は最初から最後までずっとバーボンをロックで、香は一杯目にバリーを頼んだ。

ゴールデン・クリッパー
ニューバーグ
ハイハット
ダイキリ

撩にどんなカクテルなのか教えて貰いながら、香はグラスを重ねる。
まるでジュースを飲むように軽く空けていくけれど、意外とアルコール度数は高い。
完全に用心棒を信頼しきって身を委ねている。
撩と旧知のバーテンダーは香とも顔見知りではあるけれど、その店で香が酒を飲むのは初めてだった。
ゆっくりと飲む事。
合間に、何かを摘む事。
会話を楽しむ事。
会話が途切れた時の、空気を楽しむ事。
撩が香に教えてやりたいと思った事。
いつまでも無邪気な少女の様な彼女が大人になるのなら、
その世界を教えてやるのは自分でありたいと、撩は思った。
他の誰でも無く、自分の手で女にしたい女。



ムーンレーカー
デービス
ジュピター




撩が思った以上に躊躇なくグラスを干す香に、撩も酒が進む。
それでもいつもよりは、全然飲んで無い。
なにせ今夜の撩は用心棒なので、正体を無くすまで酔う訳にはいかない。
慣れない靴を履いたシンデレラを、無事2人のアパートまでエスコートするのが今宵の任務である。












ホラ、真っ直ぐ歩いて。

あはは~、道路がぐにゃんぐにゃんしてるぅぅ

ぐにゃぐにゃしてんのは、おまぁの頭ん中だよ。




撩は溜息を吐きながら、香の細い二の腕を掴む。
意外にも滑らかな皮膚の下には、綺麗に筋肉が付いていて美しく引き締まっている。
細い身体はまるで敏捷な小鹿のように、バランスの良い筋肉質だ。
足元は心許なくふらついてはいるものの、転倒してしまうほどの危うさは無い。
身体のコアを支えるバランス感覚はそもそも優れているのが、槇村香だ。
エスコートなど、香相手に限定して慣れてない撩は至極ぎこちない。
肩を抱くのはおろか、腕を組む事も手を繋ぐ事も出来ない不器用な男なので、
仕方なくガッチリと二の腕を掴んでいる。
それでも手荒なように見えて、彼女に触れる手は限り無く優しい。
酔っ払っている彼女には恐らく伝わらない、悲しい優しさだ。
それでも撩には、こうして何の遠慮も無しに彼女に触れる事の出来る僅かな時間が至福の時だ。


至福の時間には限りがあって。
歌舞伎町と目と鼻の先にある、2人のアパートまでの道のりはどんなに時間を掛けても終りが訪れる。
表が暗くなると自動的に点灯するようになっている冴羽アパートの表玄関が、
暗がりの中に浮かんで見える。
シンプルなガラスの扉のエントランスの向こう側に、6階に続く階段があって壁を隔ててガレージがある。
扉の前で、
ちょっと待ってねぇ、と言いながらクラッチバッグの中の鍵を探る香を待っていても埒が明かないので。
撩は何も言わずに、片手で香の二の腕を掴んだまま、もう一方で鍵を開ける。









なんか、階段上がりゅのめんどくさい。




2人の住まいには、残念ながらエレベーターが無い。
そして目の前の酔っ払いは、階段を上がる事よりも更に面倒臭い事になっている。
これまで楽しげにフラフラと舗道を歩いて帰って来た、ご機嫌な相棒は。
何故だか後もう少しという所で、意味不明な駄々を捏ね始めた。
撩は自分で思っていた以上に酔っていたのかもしれない、男を酔わせたのは酒か彼女か。
彼女は階段を上がらないという宣言と共に、8㎝のヒールを脱いでしまった。
それでも、階段を上がらないと家には帰れない。




ったく、しょうがねぇな。我儘ばっかり言いやがって。



裸足の彼女が、いつもの目線の高さに戻ってくる。
撩よりも、頭1つ半小さい彼女。
彼女が踵の高い靴を履くのを撩が嫌がるのは、もしかするといつもと少し勝手が違うからかもしれない。
今夜のデートの為に香が付けた気に入りのオードトワレは、
上気した首筋から、ラストノートのチェリーの薫りを漂わせる。
無邪気な相棒は、無邪気に撩を誘惑する。
ヘラヘラと笑いながらふざける彼女を、コンクリートの壁と己の腕の中に囲い込む。
エントランスの外の、ぼんやりとした照明だけが光源で、香の耳たぶに揺れるピアスが鈍く光る。
薄暗い階段下でも、ハッキリと解るくらい桃色の頬を撫ぜる。
グロスの落ちたピンクベージュの唇が薄っすらと開いて、香の瞳は潤んで揺れている。





お仕置きするぞ、酔っ払い。




撩の声は掠れている。
思わず無意識に壁際に彼女を追い詰めてしまったけれど、その頬の柔らかさにふと我に返る。
それでももう、後戻りする事だけは選択肢に無かった。
今夜、彼女を。




・・・いいよ。




無邪気に酔っ払っているくせに、彼女はそう言って大人びた微笑みを見せるから。
撩はそのギャップに、いつもやられてしまう。
本当は解っていた。
彼女がもう、ウブな少女でも、無鉄砲でやんちゃなシュガーボーイでも無い事くらい。
彼女は、女だ。
初めてのキスは、アルコールと口紅の薄甘い香料の匂いがした。
香が指の先に引っ掛けていたピンヒールが落ちて、コンクリートの土間に乾いた音が響く。

それはガラスの靴ではなく、エナメルのハイヒールなので落としても割れない。
魔法は解けないから、焦らなくてもきっと大丈夫だと撩は何度も自分に言い聞かす。
トラップを仕掛けて廃墟を駆け回り、兄の形見の銃をぶっ放すやんちゃなシンデレラは、
無事、白馬の種馬に出逢う事が出来た。







お願いだから、頑張って部屋まで帰ろうぜ。

・・・じゃあ 抱っこして。

りょーかい。









前回のお題の続きみたいな感じで。
デートに誘っといて、終始振り回されるリョウちゃん(笑)

42. 雨の音

薄く開けた窓の外から、夜と雨の気配が忍び寄って来たから、目が覚めた。
ベッドの縁へ手を伸ばすとシーツは新鮮に冷たくて、香は指先までピンと伸ばしてみる。
寝惚けた瞳は焦点を合わすのに少しだけ手間取って視界はぼやける。
夜の底の薄青い寝室で、香の爪がぼんやりと白く浮かぶ。
裸の背中に感じる撩の体温と意外にも穏やかな彼の寝息が、ひどく安心なモノに思えて。
香はもう何も怖いものなど無くなったような錯覚に陥る。
暗がりに目が慣れる。
ベッドのすぐ傍に脱ぎ捨てられたパジャマが、何か意味あり気なオブジェの様な形に丸まっているけれど。
それは特に何の意味も持たない。
隣で熟睡するパートナーの性急な衝動を端的に表した結果に過ぎない。
香は自分が風呂上りに着けた筈の下着を、不思議な気持ちで眺めてみる。
耳を澄ませば、窓の外で静かに降る雨の音が聞こえる。


雨の音は不思議だと、香は思う。
窓を叩くような大雨は勿論、大きな音を立てるけど。
そうじゃない、今夜の霧雨の様な雨でも、雨音はシッカリと耳に届く。
シトシトと何かに落ちる小さな雨粒の音は、
すぐ傍で聞こえる撩の寝息も枕元の時計の針の音も通り越して、香の耳に届く。
柔らかくコンクリートを叩く音。
街路樹を湿らせる音。
道路を車が通り過ぎると、小さなさざ波のような優しい水音が聞こえる。







・・・目ぇ、覚めた?


撩が掠れ気味の寝起きの声でそう訊ねた時、
香はベッドの枕元に正座してベッドの上の窓から表を眺めていた。
なかなかシュールな光景だというのが、撩の感想だ。
撩の視界に見えるのは、香の後ろ姿で、彼女は全裸だ。
窓枠に腕を乗せて、その上に顎を乗せている。
寝グセだらけの柔らかな癖毛と、形の良い後頭部。
猫の様にしなやかな曲線を描いた白い背中と、背骨と肩甲骨の作り出す幻想的な陰翳。
括れたウエストを通過して、なだらかに広がる丸みを帯びた腰とヒップ。
ヒップを乗せた足の裏が、今最も撩の傍にある。
踵の丸みから、完全な形の踝の骨、土踏まずの窪みと細長い5本の足の指。右と左のほぼ完璧な相似形。
彼女の足の裏まで美しいと思っている男は、完全に相方に骨抜きにされている。

彼女は撩に、爪先を甘噛みされるのに弱い。
撩が彼女の足の指を口に含むと、彼女はいつもはにかみながら悶え狂う。
あの背中もだ、と撩は視線をもう少し上げる。
背骨に沿って舐め上げると、彼女の身体は総毛だって身悶える。
彼女自身も知らなかった彼女の性感を目覚めさせたのは、自分なのだと思う度、
撩は身震いするほどの快感を覚える。
それを征服欲と呼んでしまうのは、些か乱暴な気もするけれど、言葉にすればそれしか見当たらない。
自分しか知らない、穢れのない香。
自分の教えた事を何の疑いも無く受け入れる香。
自分を悦ばせようと、一生懸命な香。
その全てが撩を満たす。
相手が満たされる事で自分自身が深く満足するという感覚を、撩は不覚にも初めて知った。
香が教えてくれた。
常に2人の関係は、撩が主導している様に見えて、その実、撩が香に教わる事も数限りなくある。
セックス以外にも。







梅雨入りしたんだってよ。

みたいだな。




撩に背中を見せたまま、香はそう言った。
撩は夕方のリビングを思い出す。
一日中、中途半端な霧雨が降っていた。
洗濯物が干せないとぼやきながら、香が室内干しした洗濯物が揺れるリビングで、
珈琲を飲みながら見ていた夕方のニュースが、そう言っていた。
香はその時、キッチンで夕飯を作っていたから、
その梅雨入りのニュースは別の時間帯の天気予報で見たのだろう。
不思議と梅雨入りした後ほど晴れるのがセオリーなので、明日は晴れそうな気がすると撩は思う。
晴れると香が喜ぶので、それはもしかすると希望的観測なのかもしれない。





ねぇねぇ、りょお。



突然、後ろを向いていた香が撩に向き直る。
肘を枕にして寝転んで香を見ていた撩の肩を掴んで起こそうとするから、撩は逆らわずに起き上がる。



なに?



無意識に撩の声が笑みを含んでいるから、香はニコニコと笑っている。
電気も点けない真夜中の寝室で、2人はすっかり目が慣れてしまった。
セックスの最中に撩が香の身体に見惚れる事を、香は極端に恥ずかしがるくせに。
こういう時には、柔らかな乳房を晒して楽しげに笑っていたりして、撩にはそれがとても不思議に思える。




あのね、こうやってりょおも正座してみて?

はぁ?正座??

うん、裸ん坊で。




香の意図を計りかねて訝しむ撩に、香は新しい事を閃いた時のキラキラした瞳で撩を見詰める。
このままでは埒が明かないので、取敢えず撩は香の指示通り全裸でベッドの上に正座する。
客観視すれば奇妙な光景だ。
真夜中のベッドルームで、裸の男女が正座して向かい合っている。




どぉ?

・・・どおって?

柔らかいでしょ?おしり。

・・・。




時々、撩の想像の斜め上を行く彼女だけど。
如何なる時間とシチュエーションであろうと、その才能は関係無く発揮されるらしい。
香の言っている事を断片的に繋ぎ合わせて、撩が理解した結果。
彼女がどうやらその事に気が付いたのは、目を覚まして窓の外を眺めていた数分前の事だったらしい。
裸で正座をして、裸のおしりが裸足の足の裏に触れた時に、香は新鮮な感触を味わったのだ。
それは自分の手で触れた時よりも、格段に柔らかなおしりの感触だった。
確かに実践してみて、撩自身もそう感じた訳だが。
正直、これといった感想は無い。
強いて言えば、そんな事で楽しげに大発見の成果を報告する彼女が可愛いと思うだけだ。

撩は苦笑しながら足を崩して、撩のリアクションをまるで仔犬のように待っている彼女を押し倒す。
羽根の枕に彼女の形の良い頭が、ポフッと埋まる。
彼女の顔の両横に肘をついて囲い込む。





っつーか、知ってたし。

ほんとう?

ああ、カオリンは何処も彼処も やあらかいし。





そんな事は今更なので、撩は柔らかな香の胸に顔を埋める。
香は擽ったそうに声を立てて笑う。
夜明けまでには、まだ時間はたっぷりある。
柔らかな皮膚をきつく吸い上げると、鮮やかな鬱血の痕が残る。
彼女の無邪気な笑い声はいつの間にか艶めき、
撩の髪の毛に差し入れられた彼女の華奢な指先が、撩の地肌を擽る。
柔らかく降り続く雨音を、いつしか2人の息遣いが掻き消して。
寝室を満たしていた雨の気配は、親密な2人を隙間なく包み込み濡らしてゆく。















裸で正座したら、足に当たるお尻が柔らかいのは本当です(真顔)
是非とも、お試しあれ(*´∀`*)ノシ

55. 損な役割

意外だったわぁ、冴羽ちゃんにそんな一面があったなんて。



そう言った元男の些かふくよか過ぎる胸の谷間に、撩は情報料の紙幣を捻じ込む。
つい数ケ月前まで、
この目の前のゲイバーオーナーに接触して情報を収集するのは主に相方の仕事だった。
でも相方は死んでしまったので、撩は撩のやり方で彼等と渡り合う。
きっと槇村秀幸ならば、もう少し畏まって彼等に相対しただろうけど、撩はそれより幾分フランクだ。
なにしろこの店の常連客でもあるから。

開店前のそれでも念入りにメイクを施したオカマの言葉に、撩は片頬だけを僅かに歪めて嗤う。
カウンターの隅の小皿の上に置かれた紙マッチで、撩は煙草に火を点ける。
小さな店は、カウンターの他には小さなステージとテーブル席が6つあるだけだ。
ホステスは皆ニューハーフで、カウンターにはいつも1人だけバーテンが居て、
彼だけは元女、所謂オナベというやつだ。
もっともその時間まだ店の中には撩と、その店のオーナー・鞠子がいるだけだ。
紙マッチの燐が燃える匂いが消えるのと引き換えに、マールボロの煙が匂う。
鞠子は慣れた手つきで棚の奥からバーボンの瓶を取り出すと、ロックグラスの氷の上に3㎝ほど注ぐ。
店の中は淫靡に薄暗いけれど、ドアーの外はまだ明るい。
ホステスたちが店に出て来るまでには、まだ間がある。
供されたグラスの中の琥珀色の液体を、撩は何も考えずに見詰める。





槇さんの、妹ちゃんなんでしょ?新しい相方さん。




鞠子が意外だと言ったのは、その新たな相棒の事だ。
槇村という男は不思議な魅力を備えた奴だった。
この街で撩が懇意にしている情報屋には2種類いて、ひとつは元々刑事だった頃からの槇村絡みのもの。
もうひとつは、槇村と出逢う前から撩が利用してきたもの。
どちらがどうというものでも無く、必要な時に必要な方がコンタクトを取った。
それでも撩は槇村と組むようになってからは極力、情報収集という役目は槇村に任せるようにしていた。
適材適所だと思ったからだ。
彼には撩のような長距離からの狙撃も、ひっそりと標的を付け狙って闇に紛れて消す事も、
きっと不向きだと思った。
そんな事は、コンビを組んでいる以上、それぞれ得意分野で分業すれば良いと撩は考えていた。
そして槇村は撩の期待以上の仕事をしてくれていたから、いつしか無くてはならない撩の相棒になっていた。

撩に有って槇村に無い物が、スイーパーとしての技術や経験なら。
槇村に有って撩に無い物も、勿論あった。
それがなんなのかと、言葉に置き換える事は撩には難しい。
けれど彼には撩には無い“視点”があった。
それが撩を助け、結果的に撩を見知らぬ世界へと導いていた。
この島国に渡って来た当初、全くのノープランだった撩は、流れに任せてみようと思っていた。
知っている人間は、昔世話になった老人1人で。
取敢えず、何か価値がありそうな出逢いに乗っかって流れてみるのも悪くないと思ったのだ。
そして、流れてみた結果。
何故だか死んだ元相棒の美人の妹(本人には口が裂けても言えないが)が、転がり込んで来た。




そういうの冴羽ちゃん、面倒臭いって感じなのかと思ってた。と笑う鞠子も、
いつの間にか撩のボトルから、バーボンをロックグラスに注いでいた。
一応、撩の名義になっているビルに香が越して来る前には、
数人の入居者も居たけれど、撩は槇村の件があってから彼等には全員退去して貰った。
一見するとボロいビルに、その後、過剰とも言える警備システムを設置した。
数ケ月経った今では、撩が6階~7階に住んでいる以外は香が5階に住んでいるだけだ。
まだ何も知らない彼女は、あの建物がまるで要塞並みに安全だということもきっと知らない。



槇さんの後釜って事は、その内お顔を拝める日が来るのかしら? 楽しみ♪



撩は鞠子の言葉を無視した。
そういうんじゃねぇし、という言葉は呑み込んだ。
違うのだ、彼女にこんな世界を見せるつもりは無い。
彼女の中で兄の弔いが済むまでは、傍に居てやった方が良いのかもしれないと思っただけで。
彼女はいつか、元居た場所に戻る人間なのだ。
それがいつになるのかは、撩は香じゃないので解らない。
いつか、彼女が納得するまで、兄の死を乗り越えるその時まで。
多分、それまで自分は彼女の兄代わりだと、撩は考えている。


すまんな、助かった。


撩はクリスタルガラスの灰皿に煙草を押し付けて、席を立った。
相棒の話しを撩があまりしたくない事は、何となく空気で読めるので彼女もそれ以上は詮索しなかった。

店を出た撩は、夕暮れが迫る雑踏の中から猥雑な歓楽街を振り返る。
そこやその世界は、きっと香には似合わない。
多分、香はまた性懲りも無く撩の部屋(6階)に上り込んで、夕飯を作っているのだろう。
亡き兄の面影を、撩に重ねて。




















どぉ? 似合うかな??鞠子さん。

似合ってるわよ香ちゃん、バッチリ。サイズもピッタリね

えへへ、なんか照れるね






そう言って香は、カウンター背面のガラス張りのキャビネットに映る自分の姿を眺めていた。
白いワイシャツに、黒のベスト、蝶ネクタイをして、
栗色の癖毛は、撩のポマードを拝借してリーゼントに撫で付けている。


高校の時の同級生で、ヤンキーの男子が居てね。それを思い出しながらやってみたの。


そう言いながら従業員の控室で、ウルフカットの癖毛を器用にリーゼントに整えていた香を。
恨めしそうに拗ねた眼で見詰めていたのは、彼女の相棒だった。
香はすっかりノリノリで、バーテンダーに成り切っている。
彼女とは対照的に、ムキムキのマッスルボディに纏わり付くような、
マーメイドラインのスパンコールドレスを身に着けている撩の胸板と二の腕が非常に逞しい。
どうやら、190㎝を超える大男でも着れるようなドレスがこの世に存在したのだ。
詳しく聴けば、この店のムードメーカー的存在で、
元陸上自衛隊三等陸曹の菅子さんが私物を貸してくれたらしい。
彼女ぐらいしか、“撩子”の体格に合ったドレスの持主はいなかった。





っつーか、いつもだったら冴子の依頼なんか、全力で断るくせにどういう風の吹き回しだよ。



そう言いながらグロスの光る唇を尖らせる撩が、意外にカワイイと思うけど。
香は敢えて口には出さないでおく。
2人は何もお遊びでこんな扮装をしている訳ではない。
冴子の協力要請に基づき、撩の馴染みのゲイバーに於いて、
とある人物の内偵捜査を行うというれっきとしたお仕事である。



そんなの、如何わしいモッコリ報酬なんかじゃなくてキャッシュなら、いつだって歓迎よ?

・・・。



今回の件では、撩は勿論のこと。
香の協力も必要不可欠だということで(それに、大した危険も伴わないので)、
冴子は駅の伝言板の方へと、依頼を寄越したのだ。
撩は最後の最後までごねてごね捲って、依頼を反故にしようと足掻いたけれど。
結局、女狐と最強の相棒を前にして、世界屈指の凄腕スイーパーは屈服した。
ママの鞠子と、鏡を見ながらキャッキャと盛り上がる相棒に、
撩は憮然とした表情でカウンターに頬杖を付いて、ウィッグを指先でクルクルと回す。




おまぁ、さすがだな。演技しなくても素で男になれてんぞ。



せめて、そうやって口撃する事くらいしかない撩の言葉など、
香は気にしてない素振りでニッコリ笑う。



ありがとう。りょおは可愛いよ。



撩の指先に引っ掛かったウィッグを、カウンター越しに取り上げると、
ポフッと撩の頭の上に乗せる。
香の華奢な指先が、明るい色の巻き毛のウィッグを梳いて撩の額に掛かる前髪を整える。
多分、バカにされているのであろうその言葉に、撩は不覚にもドキドキしてしまう。
この街に彼女が馴染んでしまう前に、自分の元から離してしまおうと思っていたのはもう数年前の事だ。
気が付くと彼女は、撩の情報屋たちと誰よりも懇意になり、
歓楽街の住人達に可愛がられ、すっかり“撩の相棒”になってしまった。
もうそのキャリアは、前相棒であり兄の槇村秀幸よりも長いものになってしまった。
撩の相棒で、唯一の撩の特別な女だと誰もが認識をひとつにしているにもかかわらず、
彼女だけが、どうやらその事に自覚が無いらしい。

撩は頬杖を付いて、バーテンダーの基礎的なレクチャーを受けている相棒を見ながら、小さく溜息を零す。
未だ彼女とキス1つ出来ない不甲斐無い自分が、時折、嫌になるのだ。
年頃の彼女を弟扱いして、色恋沙汰に極端に疎い思考回路を植え付けたのは、紛れも無く自分だ。
だから気まぐれに“愛する者”だなんて、告ってみても。
一向に彼女には、言葉の真意は伝わっていない模様だ。

死んだ兄貴の代わりにでも、心が紛れるのなら。
女として見ちゃうと何かと厄介だし、理性が保てない。

そんな言い訳を免罪符に、まるで兄弟のように過ごしてきたこの数年間は、
撩にとっても香にとっても掛け替えの無い歴史には違いない。
それでもそろそろ方向転換を図りたいなぁ~~~、とか思っている筈なのに、
何故だかこんな場末のゲイバーで、ノリノリで男装と女装をしてじゃれ合っている。





っち。兄貴なんかじゃねぇっつ~~の。


ん?何か言った?? りょお

別ぇっつに~~~ なぁんも~ 耳くそ掃除した方が良いんじゃね?






口からは天邪鬼な言葉が吐いて出る。
本心ではもう、兄貴代わりだなんて損な役割、とっとと降板したいのにと思っていながら。







6. 決定事項

焼けちまったな。



リビングに現れた相棒の第一声がそう言ったから、香は、ああやっぱり。と思った。
風呂上りに脱衣所の鏡に映った裸の背中を、自分自身で身体を捻りながらチラリと見た時は、
もしかすると照明か何かの光の加減の可能性も無くは無いかもしれないと、往生際悪く考えていたけれど。
やっぱりあれは目の錯覚でも何でも無く、不本意ながら日焼けというのが正解らしい。

昼間、想定外に撩と2人屋外で張り込みをするという展開となった。
もっと言えば、その少し前に家を出た時には曇り空でムシムシとした梅雨独特の天候だったのだ。
少しの布地面積も肌に纏わり付く湿度の高さに朝から嫌気がさして、
香はチノコットンのタイトスカートとシンプルな黒のタンクトップを選んだ。
勿論、日焼け止めはきちんと使っていた。
それでも朝のまま曇り空が続いていてくれれば、まだ少しはマシだったのかもしれない。
正午前から突然、雲は綺麗に流れ去り、一転カンカン照りの梅雨の晴れ間となった。
今が絶賛依頼遂行中の身で無ければ、きっと香は喜んで室内干しの洗濯物をベランダに出しただろう。
けれど、どう足掻いても洗濯物はリビングの扇風機の前で所在無げに揺れていただろうし、
紫外線は容赦なく、香の肌を灼いたのだ。








撩がシャワーを浴びてリビングに入ると、先に風呂を済ませた香が床の上に座っていた。
タオルドライしただけの濡れ髪と、掃出し窓から入る緩やかな風が、
撩の鼻先まで彼女の甘いシャンプーの匂いを運んでくる。
風呂上りの彼女は、ココの所気に入りの部屋着を着ている。
背の高い彼女の踝まであるたっぷりとしたマキシ丈のキャミワンピース。
8.3ozのヘヴィウェイトの杢グレイのTシャツ生地に、赤いコットンのパイピングを兼ねた肩紐。
何の色気も無い、むしろカジュアルな部屋着はしかし。
撩の五感に様々な誘惑を激しく投げ掛ける。
前面に比べて広い背中側の開きから覗く白い背中には肩甲骨と背骨が浮いて、
下着の存在は感じられない。
傍らのローテーブルには汗をかいたグラスが置かれて、
薄いレモンを浮かべた炭酸水がなみなみと注がれている。
数時間前に夕立が降った後は、昼間の暑さが嘘のように冷まされて。
窓からゆるゆると入り込む風は、心地良くリビングの空気を揺らす。

キャミソールのラインとはまた違った形に沿うように、彼女の肌がワントーン暗くなったのは一目で判った。
それでも肌の白い事には変わりは無いけれど、
(勿論、彼女には気付かれないように)撩はいつも彼女を隅々まで舐めるように観察しているのだ。
判らない訳はない。
タンクトップの形に彼女の肌を灼いたのは、間違いなく昼間の強い日差しだ。





うん、日焼け止め塗っといたんだけどね。




香はそういうと、華奢な腕を伸ばしてテーブルの上のグラスを取る。
水滴が滴るのも気に掛けず、炭酸水をコクリと飲む。
香の掌から手首を伝って流れる水滴と喉の動くのを見ながら、撩はどさりとソファに座る。
水を含んだ後の香の濡れた唇を目で追う事を止められない。
さり気なく視線で追いながら、撩は自身の手の中の350ml缶を開ける。
リビングに入る直前に、冷蔵庫から出してきた缶はもう既に汗をかいている。
撩の頭の中を占める思いと、口を吐いて出る言葉はいつも裏腹だ。





カオリンももう若くないんだから、長袖羽織ってお肌を労わらなきゃだね♪




憎たらしい顔をしてそんな事をのたまう男に、香は思わず眉間に皺を浮かべる。
彼の戯言がただの冗談だという事くらいは、香ももうとっくに知ってはいるけれど。
知っていても癇に障るのは仕方ない。
若くないっつーのは、大きなお世話よっっ、と唇を尖らせる香を見て、撩は本当に楽しそうに笑う。
撩の愛情はいつもちょっとだけ歪んでいるので、
香が腹を立てたり少しだけ拗ねた顔を見せると、妙な満足感が湧いてくる。
他人の前では心底お人好しで愛想のいい彼女が、他人には見せない表情を見る事の出来る自分。
その事が彼を満足させるのかもしれない。
それがたとえプラスの感情であれマイナスの感情であれ、撩にとって大切なポイントはそこでは無く。
大事なのは他の誰にも見せない彼女のありのままの表情であり、
それを見せる事を躊躇しない彼女の自分に対する警戒心の無さと、互いの安らいだ関係だ。

安寧を覆す事を良しとはしない。
だから撩は本心を隠して、裏腹な言葉を紡ぐ。
本音を言えば、すぐにでもその唇に齧り付きたい。







撩が他愛も無い憎まれ口を叩くから、香もそれに軽口で応酬する。
呆れたようなムカついたような表情を作る事は、もう殆ど習慣で。
香は本当の事をいうと、それがそれほど嫌な事だという訳でも無い。
風呂上りの撩のビールを飲む喉仏の上下するのが、美しいと思う。
それに、もう20代も半ばを過ぎれば若くないというのも本当の事だ。
例えばお嬢様育ちの上品な女子大生の依頼人とか、
ピチピチのお肌のハタチのキャバクラ嬢とかいう感じの、
撩の大好物と自分とでは、生き物としてのカテゴリーが全く違うのだと香は考察する。

それに少し。
香は想像してみる。
撩はいつも、そのような女性達(モッコリちゃん)を前にして涎を垂らさんばかりの勢いでがっつくけれど。
果たして冷静に考えて、その様な彼女らが撩の隣に並んだとして、果たして似合うのだろうかと。
答えはNOだ。
どんなに若くて美しくて完璧な女性であっても、撩の相手には相応しく無いと香は思う。
撩の隣を歩くのに相応しいのは、勿論、自分でも無い。
それはもっとカッコ良くて強くて、撩と同じだけ温かい人間だ。
今の段階では到底力不足だけれど、そんな人間にいつかは成りたいという事は常に目標としている。
だから、撩に似合う女は香の理想の中だけにある。
若さや勢いだけではその理想には近付けないという事に香が気が付いたのは、
年齢や経験を重ねてきたからだ。
シュガーボーイの頃の自分にも、
不甲斐無い自分に歯噛みして独りでスタンドプレイに走った頃の自分にも、
撩の気持ちを推し量る事が出来なくて傍にいることを辛く感じてしまった頃の自分にも、
決して解らなかったし、多分、今の自分にもまだ解らない事も沢山ある。
だから香は、本当言うと歳を取る事に怖さを感じた事は無い。

力不足には違いは無いけれど、それでもこの数年間、撩の相棒として何とか傍に置いて貰っている。
その事だけが、香の全てだ。
香が歳を重ねれば、その分、撩も同じだけ歳を重ねる。
2人の年齢差は厳然たる決定事項として、2人の間に横たわっている。
それでも経験や能力の差は、その事とは関係無しに少しづつ縮める事は出来るのだ。
これまでも、ずっとそうしてきたように。
負け惜しみでも何でも無く、もう若さだけでない歳になるという事は香にとっては撩との歴史でもあるのだ。





うん、でもホント、実際もう少し自分を労わらなきゃだね。もう、若くないし。





そう言って香が微笑んで、もう一度緩やかな風が癖毛を揺らす。
それを見ながら、撩は手の中で煙草に火を点ける。
少しづつ暑さを増して、季節は梅雨から夏へと変わる。
多分、撩もいつかはこの安寧を覆すのだろう。
そしてそれは、そう長くは続かない。
撩はこれまでもたとえ本音を隠しても、彼女の前ではいつだって最後には腹を暴かれてきた。
真っ直ぐな目をして自分を信じ切る揺ぎの無い相手には、幾ら撩でも向き合わざるを得ない。
ましてや惚れた女になら、尚の事隠し立て出来るような事でも無い。
他でも無い、撩自身が彼女を心底欲しているのだから。

彼女の全てを奪うのは、もう撩の中では決定事項だ。
それを実行に移すまでの僅かな時間の感触を、撩は今、掌の中で楽しんでいる。









ちょっと、続きを書かずにお題。
何となく短いお話が書きたい気分だったので(*´∀`*)


37. ネバーランド

槇村香は働き者だ。
6年前に、アンタには新しい相棒が必要でしょ?と言われた時には、正直特に必要では無かったけれど。
もう今となっては、必要不可欠だし、何なら生きている理由だとも撩は思っていて。
もしもこれから先、愛想を尽かされて出て行かれたら、きっと冴羽撩は立ち直れない。
毎朝、7時前には起床して洗濯をしながら軽い朝食を済ませ、掃除をして、撩のブランチの準備をする。
新宿駅まで伝言板の確認に赴き、戻ったらブランチの続きを作りながらタイミングを見計らい、撩を起こす。
ぐうたらな相棒の食事の世話をしてやりながら自分も一緒に食事をし、珈琲を豆から挽いて淹れる。
食後は撩にブラックコーヒー、香はスーパーで2割引きだった消費期限直前のプリンを食べる。
勿論、撩にはこれが朝食で香には昼食だ。




ほうれんそうのお浸し

ハムエッグ(香は醤油派で、撩は塩胡椒。)

塩鮭

雑穀米

昨夜の残りの肉じゃが

厚揚げと玉葱の味噌汁




撩は満腹の腹を擦りながら、ソファに寝転んで本日のブランチのメニューを思い起こす。
なんて事無いメニューだが、撩は丼の様な大きな茶碗にご飯を大盛りで4杯食べた。

昼過ぎに香は、(これは毎日では無いけど)アパートの下の階を掃除して回り、表の通りも掃いた。
通りすがる顔見知りの新宿の住人と、軽い世間話を交わし忙しなく掃除を済ませると、
冷蔵庫や食料庫の在庫を確認して、必要な物品をメモに書き出してゆく。
頃合いを見計らって2度目の伝言板へと向かう。
そんなに、日に何度も見なくても、どうせ依頼なんかたまにしか来ないのに。
香は毎日、律儀に駅へと確認に行く。
そのついでに、キャッツに寄るかもしくは買い物に行く。
買い物が無い日は、キャッツで美樹とお喋りに花を咲かせる。

これに依頼が重なれば、こんな日常の雑事の合間に、
撩と一緒に現場を跳ね回りロケットランチャーやサブマシンガン片手に撩を援護し、
イキイキと海坊主直伝のトラップの腕を披露する。
依頼人が美女ならば、この上寝る間を惜しんで撩の夜這いから依頼人をガードする。
今は依頼は抱えていないので、その代わりに香はエコバッグを抱えてスーパーから帰還した。
キッチンに入る前にリビングに顔を出し、撩に依頼が無かった事を伝える表情は、相変わらず冴えない。




この間、冴羽撩はずっと自宅のソファに寝転がってグダグダしていた。
(見る人が見れば、エロ本を読んでいたともいう。しかし、それは実のとこポーズで読んではいない。)
若しくは、瞑想していたともいう。
槇村香の挙動や仕草を脳裏に浮かべては、煩悩を追い払う瞑想だ。
大体いつもはナンパをしている事の方が多いけど、やって無い時はこうして瞑想する。
イメージトレーニングと言い換えても、差し支えないかもしれない。
相棒に欲情しない為の禁欲トレーニングとでも言おうか、撩の不毛な習慣だ。
そもそも、禁欲しなければならない理由は、もう今では殆ど無い。

確かに以前の、香が撩の“新しいパートナー”として認められようと意気込んでいた頃の2人なら、
そこに肉体関係を持ち込む事で、関係が拗れる懼れもあったかもしれない。
それでも、いつしか香は撩の必要不可欠な相棒となり、撩が彼女を手放す理由はひとつも無い。
むしろ彼は彼女に見限られる事だけを、極度に恐れている節すらあるというのに、
不毛な習慣と曖昧な関係だけは依然継続中である。
彼女に対する禁欲を解く事は、彼女を己の元に縛り付ける為の絶好の機会であるにも関わらず、
彼は未だ、それを良しとはしない。
彼という男を良く知る周囲は、彼にも彼なりの某かの流儀というものがありきっとその彼なりの考えの下、
新たな関係を構築する事への相反する課題に煩悶としているのだろうと推測している。
それも踏まえた上で、早くやっちまえよ。というのが、周囲の大方の一致した見解だ。






撩は目を瞑って、脳裏に描く。
香の風呂上りの濡れた癖毛と、それを乾かす生温いドライヤーの温風。
フローリングに新聞を敷いて、立膝で足の爪を切る後ろ姿。
無邪気に寝転んで本を読むTシャツの胸元から覗く、豊かな谷間。
撩に小言を言いながら、尖らせた唇の艶めかしさ。
戦闘モードに突入した時の、レオタード姿のヒップの丸みを帯びたライン。
香は何の自覚も無いままに、撩にだけは肝心な部分で無警戒で。
それの意味するところは要するに、撩の事を完全なる安全牌だとみなしているに違いなく。
それはある意味、信頼と実績の積み重ねの賜物と言っても過言では無いけれど。
禁欲を解くという局面に於いては、完全な足枷とも言える。
相棒の愛すべき姿を脳裏に描いたまま、撩は心の中で、

香のバカ~、アホ~~、おかちめんこ~~~

と、3度づつ唱える。
精神年齢は、小学校低学年である。
何とかしてこの心の中に燻ぶる煩悩を萎えさせようと、策を講じる。
実際、新宿の種馬は、何の気持ちも伴わないセックスはお手の物(むしろ得意)だが、
本気の恋に関しては完全なる初心者で、経験値は小学生といい勝負だ。
気の利いたひと言すらも、一番好きな彼女にだけ言えない。




香がリビングに入って来た時に、撩は心の中で熱心に禁欲の呪文を唱えていたところだったので。
意味も無く、焦った。
それでも例によって、得意のポーカーフェイスなので、香は何も気付かずに撩の横を素通りする。
素通りしてベランダに出ると、朝干した2人の洗濯物を取り込み始める。
香が部屋に入って来るだけで、香水も付けないのに周囲に甘い薫りが漂う。
こういう時撩は煙草の匂いの染み付いた己を、酷く恥じる。
彼女の純粋さや、朗らかさや、優しさに、
恥ずかしいのと照れ臭いのが入り混じった、良く解らない気持ちになる。
男という生き物の本能的な滑稽さや愚かさに、女という生き物の懐の大きさに、
どうしようも出来ない気持ちになる。
彼女が女で自分が男で、それはもう変える事の出来ない事実に違いなく。
その甘やかな現実は煩悩とは別に、何も覚えていない筈の母親という存在を撩に感じさせる。
純粋に無償の愛と尊敬を捧げるべき対象としての、撩の女。
それはある意味では覚えてもいない存在などでは無く、目の前の彼女に違いない。

香は働き者だから、朝から晩まで忙しなく動いて回る。
その殆どは、撩の(香自身のとも言えるが)日常が円滑に進む為の雑事に過ぎず。
それは何の確たる関係すらも明示してやれない煮え切らない男には、身に余るほどの厚遇で、
撩はいつも自分の不甲斐無さを突き付けられているようで、歯痒い気持ちになる。
そしてそれと同時に、そんな女に全力で甘えきってしまう自分もいる。



カオリン、お母さんみたいだな。



ソファの上に寝転んで目を瞑っていた撩が寝ていると思っていたらしい香は、
一瞬驚いたような顔をして洗濯物を畳む手を止めた。
それでも相棒が穏やかに放った言葉の意味を理解すると、眉間に皺を寄せて険しい表情になる。
キッと唇を真一文字に引き結ぶと、勢いよく撩の顔面に3枚1000円のボクサーパンツを投げつける。




だったら自分で畳みなさいよっっ、アタシがいつアンタみたいなモッコリスケベ産んだっていうのよ(怒)




当たり前だ。キスもした事無い女がお母さんな訳ないだろう。と、撩は思う。
己の言動と思考が矛盾していることなど、撩はとうに解り切っている。
香は分り易い。
撩はニタニタ笑いながら起き上がると、パンツを人差し指に引っ掛けてクルクルと回す。
こんな風に言いながらも、香が本気で怒って無い事ぐらい撩には判る。
可愛い。
いじらしい。
美味しそう。
香を形容する言葉なら、溢れる程湧いてくる。
本当は禁欲など忘れて、彼女の心を縛り付けたいのが撩の本心だ。
もう禁欲の呪文では、気持ちを抑えるのは無理かもしれない。






じゃあさ、もうエッチしちゃおうか?




香は一瞬固まって真っ赤になると、今度は撩に靴下を投げつけた。
撩に背を向けて全身で撩のセクハラ発言に対する抗議の意思を表しながら、
大判の撩のバスタオルを畳んでいる。
それでも癖毛の間からチラチラ覗く真っ赤な耳朶や、動揺で震える手元は隠せない。




ばばばば、ばっかじゃないのっっ   順番ってもんがあるでしょうよ・・・




香の小さな呟きを、撩が聞き逃す筈は無い。
抗議の意味で背中を向けても、パンツを投げても、靴下を投げても、香は怒っていない。
撩の口角が不敵に持ち上がる。
調子づいた最愛の男の表情に気付かぬまま、香は家事の手を休めない。




あ、そっか。悪ぃ悪ぃ、キスが先だったか。




こうなると、撩は完全に悪ノリだ。
禁欲の呪文はもう、完全に放棄した。
なるようになれと思いながら、香の反応を楽しんでいる。
香はスゥと小さく息を吸い込むと、洗濯物を畳む手を止めた。
華奢な後ろ姿が、いつもより儚く見えた。





・・・それも違う

えええ、キスじゃ無かったぁ?

その前に

その前に?

・・・ちゃんと、好きって言ってよ。




小さな声は少しだけ震えていたけど、小学生男子の様な中年男にハッキリとした意思を伝えた。
可愛いと、撩は思った。
知っているのだ、互いの気持ちを2人とも。
言葉にすればそれは、形を変えてしまいそうな気がして。
何の根拠も無い不安に負けて、簡単な言葉を避けてきた。
でもちゃんと解っているし、伝わっている。
2人の気持ちは、何も大袈裟な事じゃなくて、この平穏な日常の中にこそ散りばめられていて。
多分、不器用な2人は、大人になり切れないネバーランドの住人なのだ。
撩は迷わずに、香の細い背中を抱き締めた。
耳元に口を寄せて、香がもっとも求めているだろう言葉を囁く為に。














今夜はお題を(*´∀`*)ノシ バカな男だよ、リョウちゃん・・・

67. 生返事

ねえ、りょお。

んぁ?





朝食というには些か遅すぎる食卓で、口一杯に白米を詰め込んだ撩が気の抜けた声を出す。
いつもの事だから、香はまるで気にしない。
お彼岸はとっくに過ぎたし、命日でも何でもない。
でも香は何となく、この日久し振りに墓参りに行きたいと思ったのだ。





連れてってくれる?

ぁあ?別にいーけど、すぐ出れんの?





おまぁの支度は無駄に長ぇからなぁ、と言いながら味噌汁を啜る撩に。
香はニッコリと笑って見せた。
撩の言い出しそうな事など、2~3手先は読んでいる。
この後、撩があと何度かご飯をお替りして、空になった器をシンクの中の洗い桶に浸けて、
撩が歯磨きでもしている間に、客間にバッグと上着を取りに行けばすぐにでも出発準備OKだ。
姿見の前に立って身だしなみを整えて、リップを塗り直す余裕くらいはあるだろう。
先の先を読みながら、香は撩の食後の珈琲を淹れる為の豆を挽いている。

昔は難しくて計り知れなかった男の行動パターンも、数年経って香の生活の一部と化してしまった。
彼の言いそうなこと、彼のやりそうなこと、自分がどう言えば彼が動いてくれるのかを。
最近の香は自然と察する事が出来るようになった。
その要因のひとつに、2人の関係がもう昔とは違っているという事もあるのかもしれない。
以前は香の言葉に対する、僚の受け答えひとつひとつが良く解らなくて歯痒かった。
解るようで解らなくて、いつも生返事のようにみえてちゃんと聴いてたりする。
聴いてるのかと思えば、全く聞いてない事だってあって、その境目が香には判別不能だった。
2人の関係性も境目があやふやで、だから以前の香は撩の生返事が大嫌いだった。
きっとあの頃は、明確な現実が欲しかったのだと、今になれば香も解る。
そしてある意味、それは決して白黒つけない撩の優しさだったのだと、解っている。
撩が決意を固めて香を抱いたタイミングについては、今思えばやはり絶妙で。
香はその大切な思い出を何度思い返してみても、
撩への気持ちが色褪せる事など無い事に喜びを感じている。

生返事は、未だに治らない。
でも香は気が付いてしまったから、もうそれが嫌いでは無い。
撩が生返事を返す時、それは撩が秘密にしたい事がある時。
都合が悪い時。
照れ臭くて、きまりが悪い時。
その時々で色々だけど、でもその全てに共通している事は。
撩の感情が揺れたという事実で、
香の言葉や行動が撩の心に小さなさざ波を立てる事が出来るのだというただそれだけで、
香はとても撩の事を愛おしく感じたりする。
今となれば、彼の肌に触れたり彼を独占出来る事など、ホンの些細な変化に過ぎない。
公私共に彼の相棒になっても、何も変わらなかったというのが香の気持ちだ。
逆に言えば、昔から撩は香に対して、ずっと同じだったのだ。
強いて言えば、その撩の愛情に気付けた事が香にとっては、一番の変化だった。













途中で立ち寄った花屋にあった立派な鶏頭と藤袴を、束にして真紅のリボンを掛けて貰った。
蘭や百合も豪華で綺麗だけれど、兄には少しだけ派手すぎる気がした。
連休の高速道路は、秋の行楽日和も手伝って混んでいた。
辿り着いた時にはもう、夕方の少し手前で墓地には2人の他に人影は無かった。





やっぱり、このお花にしてよかったね。すごく綺麗。

うん。





花屋の店先で何の興味も無さ気に佇んでいた撩の返事など、
何の期待もしていなかった香の呟きに、意外にも撩は返事した。
残念ながら生返事だけれど、香はそれでも良いと思う。
一緒に来てくれるだけで嬉しいし、意味がある。
白檀の薫りのお香の白い煙が真っ直ぐに、秋の空に昇ってゆく。

出掛ける前、撩が歯磨きをしている間に。
香は客間の鏡台の前で少しだけ迷って、口紅では無く、色付きの薬用リップを手に取った。
撩がジャケットを羽織って、車の鍵を握って玄関に来る頃には、
香は既に玄関の土間で靴を履いて待っていた。



準備完了だよ。


そういって小さく笑った香を撩は抱き締めると、出がけだというのに歯磨きの匂いのキスをした。
撩にキスをされながら、香は撩の頬や顎を滑らかな指でなぞって。
顎の下の見えにくい場所に、小さな剃り残しを見付けた。
香にだけ解る撩の小さな隙に、香にはなんだか特別な感情が湧いてくる。
その後、ミニクーパーの助手席に座った香が、
くふふと変な風に笑いながら色付きの薬用リップを塗り直すのを、撩は横目で見て、怪訝な顔をした。
撩は多分、キスをすると思ったのだ。
だから香は、少しだけ迷って口紅をやめた。
秋になったら、少し深めの赤い口紅を使いたくなるけど。
香は撩とキスするようになって、あまり濃い色の口紅を使わなくなった。
撩はきっと、香のこんな些細な変化の理由など知らない。




熱心に兄に手を合わせる香の背後で、撩が煙草に火を点けたのが解る。
ライターの蓋が開くカチンという高い音が響いたすぐ後に、オイルの匂いとマールボロの匂いがする。
一瞬だけ匂った煙草の薫りは、すぐに消えた。
線香の煙も風に揺れて融ける。
墓の周りを掃除して、花を活けて、手を合わせていたらいつの間にか夕方が迫って来ていた。
秋の夕暮は随分早いから、香は立ち上がると煙草を咥えた撩の手を取った。








少し、風が出てきたね。

ああ。帰るか?

りょおはいいの?もう。

うん。




撩は頷くと、火を点けたばかりの煙草を香立てに置いた。
香の薄手のカーディガンの上に自分のジャケットを掛けると、何も言わずにスタスタと歩き始めた。
そのとき不意に、香は思ってしまった。
現実的な問題なんてどうでも良いから。
その事に意味なんてなくても良いから。





りょお。

ん?




撩が立ち止まって、顔だけで振り返る。
夕陽が撩の輪郭を少しだけ朱く染めて、嘘みたいにカッコイイと香は少しだけ見惚れてしまう。





アタシを、あんたのお嫁さんにして。

うん。




撩はそういうと、フフッと笑いながらまた何事も無かったように背中を向けて歩き始めた。
また生返事だけど、それ位で丁度イイと香は思った。
不意に思って不意に口走ってしまった事だから、それでいい。
ただあの赤い車に乗って、2人の帰る所が同じであればそれでいい。

香はまだ知らないでいた。
この香の言葉を受けて、数週間後。
撩が突然、気が向いたように香を写真館に連れ出し、
絵梨子の用意した白いドレスとタキシードを着て、2人で写真を写す事など。
生返事のようでそうでも無い、聴いて無いようでいてその実、
香の言葉をひとつも聞き漏らす事など、決してしない男の底力を。











いーふーふの日を記念してお題。遅くなったけど。
AHじゃない2人のウェディングが見たいです(*´∀`*)


1.  Are you ready?

粗く刻んだアーモンドを、クッキングシートを敷いた天板の上に広げる。
芳ばしさを出すためにオーブンで加熱している間に、生地の準備をする。
たっぷりの製菓用チョコレイトを溶かした焦茶色のしっとりしたケーキ生地に混ぜるのは、
小さく刻まれたオレンジピールとコルドン・ルージュ。

香は数日前、これらを調達した趣味で製菓材料も取り扱う乾物屋の店主と雑談していて初めて知った。
(毎年恒例、悩みながらの年に1度のチョコレイト菓子作りに、多大なる知恵と助言を授けてくれる、
 香にとってその店主はバレンタインの師匠でもあり、新宿の片隅の情報屋のオジサンでもある。)
お菓子作りにしか使わないと思っていたそのオレンジキュラソーは、アルコール度数は40度もあるけれど。
意外とそのまま、ストレートで飲んでも旨いらしい。

軽く炙ったアーモンドの粒粒は、
スティック状にして仕上げる予定の、オレンジ風味のチョコケーキをコーティングするビターチョコに混ぜる。
全体としては甘さ控えめで、
数ある製菓用のチョコレイトの中からオレンジの風味を引き立てるビターチョコを香は選んだ。

コルドン・ルージュをそのままお酒として飲むのが強すぎるとすれば、
ホットココアに数滴垂らしてみたらどうだろうと、香は考える。
自分は真っ黒で薬みたいに苦いブラックコーヒーを飲みながら、
薄甘いココアを飲む香をガキっぽいと馬鹿にする撩には内緒で、お酒をひと垂らし。
きっと撩の意地悪な軽口なんて気にならなくなるくらい、美味しいかもしれない、なんて思って。
今度やってみることにする。

だがしかし、そんな事は今はどうでも良いのだ。
バレンタインデーである本日、今現在、冴羽撩は日課である散歩に出掛けている。
オブラートに包んだ言い方で散歩と表したが、ハッキリ言えば女漁りである。
実りの無い下らないナンパをしながらも、毎年撩は外に出て帰って来ると、チョコレイトを沢山貰って来る。
撩はきっと野良猫みたいに賢くてたくましいから、
誰に甘えればご褒美を貰えるのかをちゃんと知っているのだと、香は思う。
ピエール・マルコリーニだの、ゴディバだの、デメルだの、ノイハウスだの、御大層な紙袋と紙箱に収まった、
ちんまりしたチョコレイトを、食べもしないくせに持って帰って来て。
毎年、それらを処分するのは専ら香の役目だ。
お陰でこの時期、香の体重は少しだけ増加する。傍迷惑な話である。
撩にチョコレイトをくれる顔見知りのお姉さんたちは、撩以外にも律儀に配るのだ。仕事の一環だから。
そんな事は百も承知でいるつもりの香ではあるけれど、やはり良い気持ちはしない。
 
 それでも香にも、解っていない事もある。
 少なからず、香とも顔見知りではある歌舞伎町のお姉さま方が、
 撩の手から香に渡るであろうその菓子を選ぶのに、端から香にあげるつもりで選んでいる事を。
 誰しも、冴羽撩が嬉々としてチョコレイトを頬張る姿など、初めから想定していないのだ。

ま、それでも。と香は、考える。腹は立つけれど。
撩がこうして昼間っからフラフラ出歩いてくれているから、自分はこうしてゆっくりとお菓子作りなど出来るのだ。
まさか食べて貰う相手の目の前で、それを作るのは少しだけ気まずい。
撩が多分、今日はこのまま深夜まで帰って来ないだろうことは、毎年の事として予測は出来る。
だから香は、数時間後には出来上がってラッピングまで綺麗に施すであろうそのケーキを、
飲んで帰って来た撩がすぐに見付けられるように、ラップを掛けた晩ご飯と一緒にテーブルの上に置いておく。
そうすれば撩は、ご飯と一緒にそのデザートを綺麗に平らげてくれているのだ。毎年。
何も特別な事では無い、ただの食後のデザートだ。という風に、互いにひとつ逃げ道を確保できる。

撩も香も、賢くてたくましいから。
互い同士、甘える術を充分に心得ている。
それは一見、何も甘くは無いけれど。
心を許して甘えられる関係だから、成立つ方程式なのだ。

作って贈る方も重たいほどのその気持ちを込められる。
贈られて食べる方も深夜に帰ってその気持ちをシッカリと胸に刻みながら平らげる。

けれど、互いに決定的な言葉を交わす事を避けている。
言葉にする事は勇気のいる事なので、互いに臆病な2人は言葉を持たない関係を構築して甘んじている。
撩が毎年必ず食べるバレンタインのチョコレイトは、香の作ったものだけだ。
外で貰って来た女の子の好きそうな高価なチョコレイトは、そのまま香の定位置の椅子の上に置いておく。



2人には、いつの間にか他人には解読できないであろう、2人だけの生活のルールが出来上がってしまった。
今更そのルールを犯すことが怖くて、ある一線を踏み越えることを躊躇ってしまう。
曖昧な関係には、その関係を維持してゆく為の互いの暗黙の共通認識というものが必要で。
それを創り上げる構成要素には、大前提として、甘えの気持ちが不可欠なものとなる。
気持ちを込めてそれを用意する香には、未だ何の心の準備も出来ていない。
答えなど要らないのだ。
その気持ちに対する答えなら、香には何も必要無い。
ただ撩が、傍に居ることを許してくれさえすればそれで良い。
甘えかもしれないけれど、決定的な言葉になると何かが変わってしまいそうで怖い。



焼き上がった四角いチョコレイトケーキを型から外して、冷ます。
良く冷ましている間に、コーティング用のビターチョコレイトをテンパリングする。
溶かしたチョコにアーモンドを混ぜて、細長くカットしたケーキに万遍なくコーティングを施す。
黒に近い暗い焦茶色のビターチョコよりも甘い曖昧な関係も、一緒くたに包み込んでしまえたら。
女好きで意地悪で、でもとっても優しい、

撩が好き、って言えたら。







なかなか勇気を出して言えないから、その代わりに甘酸っぱいケーキをほろ苦いチョコで包む。
今夜は起きて待っていたりなんかしないで、サッサと寝よう。
寝酒は、コルドン・ルージュのストレートで。
そう思いながら、香は楽しそうにダークな衣を纏ったチョコレイトケーキをラッピングした。









チョコ美味しいけど、そういえばケシ子はあんまり食べないなぁ、と思います。
最近、和菓子の方が無性に好きです(*´∀`*)
63.柑橘系に続く

63. 柑橘系

夜更けに撩が帰ると、ダイニングのテーブルの上には夕飯が準備されていた。
メインの酢豚の皿にはラップが掛けられ、
3つに仕切られた長方形の皿には、蓮根のきんぴらとインゲンの胡麻和えと薄甘い玉子焼きが3切れ。
ご飯茶碗と漆のお椀は伏せられて、箸置きには撩がいつも使っている箸も置いてある。
コンロの上のホーローの鍋の中には、キャベツと油揚げの味噌汁が。
炊飯器の中には、雑穀米が待機している。
勿論、それらは言葉にはしないけれど、撩の好物だ。
というか、香が毎日作るなんてことないこんな料理が、撩は一番好きだ。

泥酔して帰って来た。
撩はアルコールに強いから、まだ意識はハッキリしているけれど。
単純に、今夜の摂取量だけで言えば結構な量だろう。
そんな飲み歩きの夜の寝る前に、わざわざしっかりと食事を摂る必要も無いのだろうけど、
それでもこうして並べてあれば腹の虫が騒ぎ出す。
そして今夜は、2月14日の夜だ。
厳密に言えばもう15日だろうけど、




撩は夕飯の皿と一緒に並べられた、赤いリボンの巻かれた白い箱を撫でる。
如何にも手作りの素朴なラッピング。
ヘタクソでは無いけれど、売り物のような一分の隙もないような高級感は無い。
撩の2月14日は毎年、これを食べないと終わらない。
お義理のチョコなら嫌というほど貰うけど、あれは全部、実質的には香宛てだ。
露骨なお姉ちゃんなんかは、香さんにヨロシク、なんて言いながら渡して来るのだから、
撩がチョコを食べていないことも、毎年のお返しを香が選んでいる事も、皆周知の事実なのだ。
撩が溜めたツケを、律儀に支払って回るのは香だし、女の味方は結局女だということか。



こんな風に言葉も無いままに、贈って受け取っての遣り取りが定着したのは何年くらい前だっただろう。
もしかすると、香が押しかけパートナーになった1年目のバレンタインには、もうこんな風だったかもしれない、
と撩は思い返す。 
3月の終わりに撩の元に転がり込んできて、次の年の2月にはもう、撩は香の気持ちには気が付いていた。
それから少しづつ2人の距離は縮まって、互いの過去や本音や想いは何度も交錯し重なり合ったけど、
ストレートな言葉は未だ紡げないでいる。
一度だけ、何がなんでも生き延びて守り続けると約束したけれど、それ以来進展は無い。
確かにその言葉に嘘は無いけれど、日常の事となると話は変わってくる。
いきなり甘い言葉を並べたり、いちゃつくのもなんだかなぁ、と思ってしまう撩は、
意気地なしと言われればきっとその通りなんだろう。
湖の畔での約束から2回目のバレンタインの贈り物は、
オレンジのリキュールの効いたチョコレイトケーキだった。









その部屋は、撩の寝室より少しだけ狭い。
依頼人がいない時には、ソファベッドは使わないから少しだけ広く感じる。
隣のビルに面した窓際に寄せて配置されたシングルベッドは、香の分だけ羽毛布団が盛り上がっている。
香の愛用するボディクリームの匂いのするその部屋に、
撩が堂々と足を踏み入れる事の出来るのは、香がぐっすりと眠っている時だけだ。
過去にも何度もこうして、香の寝顔を眺めた事がある。

眉間に皺を寄せ唇を尖らせて拗ねている顔。
無防備に笑いながら見上げてくる顔。
恥ずかしそうに照れながら俯く顔。
毅然と立ち向かう凛々しい顔。
撩の良い所も悪い所も、そのままで良いんだと包み込んでくれる菩薩様のような顔。

そのどれとも違う香の寝顔は、撩の胸をきつく締め付ける。
まるで汚い世界など何も知らないような安らかな寝息を立てて眠る彼女に、
激しく恋をしている事を撩は自覚する。
撩ほどではないにしろ、香の人生だってそれなりに紆余曲折だ。
それでも何処かそれを感じさせない浮世離れした香の寝顔は、撩の心のずっと奥の方に触れるのだ。
しっかりとチョコレイトケーキまで平らげて、風呂に入って寝ようと思っていたのに。
うっかりこの部屋のドアを開けてしまった。
月明かりに照らされて浮かび上がる白い柔らかい頬を、撩はそっと撫ぜる。
それでも寝息ひとつ乱すことなく熟睡している香の唇は、真冬だというのに艶やかだ。

それは単なるはずみだったのかもしれない。
意味など無くて、ただ触れたかっただけかもしれない。
でももしかすると、すごく意味のある事なのかもしれない。
撩には解らない。
ただ触れたいというその感情が、
意味のある事なのかそれとも、取るに足らない、けれど必要不可欠な自然の理なのか。
ただひとつ、撩に解っている事は、
撩をそんな気持ちにさせるのは、この世でたった1人だけだということだ。

飲んだくれて帰って来て、酢豚とチョコレイトケーキを食べて、風呂にも入ってない撩は、
柔らかな唇に静かにキスを落とす。
一度だけガラス越しに触れただけの唇は、想像以上に柔らかだった。

少しだけ身じろいだ彼女は、薄く眉根を寄せて何事か言葉にならない言葉を呟くと、
撩になど構わずに寝返りを打って、背中を向けて眠ってしまった。









屋上の手摺に凭れて見渡すと、新宿の街灯りは未だ煌めいている。
撩は1時間ほど前にあのネオンの中から一抜けて、帰路に着いた。
独りダイニングで遅すぎる夕飯を食べて、チョコレイトケーキを食べて、相棒の唇を食べた。
煙草を吸おうと懐から取り出しかけて、思い直した。
チョコレイトと、相棒の余韻にもう少し浸っていたい気分だったから。
撩はラッピングに使われていた赤いサテンのリボンを、己の人差し指に結び付けてみる。
リボンを巻き付けた撩の右手を冬の乾いた風が通り過ぎて、軽やかなリボンを揺らした。
普段なら引き金に掛けられる筈のその指に絡み付く、真っ赤なリボンに相棒を重ねる。
ずっとずっとストレートな言葉を言えないでいる彼女と自分の心は、
それでも着実に重なり合っている筈だと、撩は信じたい。
初めて触れた彼女の唇からは、オレンジ風味のアルコールが薫った。
多分それは、撩が食べたケーキにも使われていた薫り付けの為の酒だろう。
いつもなら、起きていてもおかしくない時間にもかかわらず、毎年2月14日には香はサッサと眠っている。
面と向かってチョコレイトも渡せない照れ屋な彼女が、どんな気持ちで寝酒を呷ったのかと考えると、
撩は少しだけ可笑しな気持ちになる。勇気が出せないでいたのは、お互い様だ。

それならば、相棒に比べて場数も経験も積んできた自分の方から、
なにか近付く為のアクションを起こすべきじゃなかろうか、と撩は思った。




「仕方ないなぁ。もうファーストキス、しちゃったしなぁ(グフッッ)」



一旦、自制心という名の枷を外してしまった種馬が、これ以上我慢など到底出来るものではない。
自室で爆睡している槇村香はまだ、何も知らないでいた。







あと1個、書こうと思います。
気長にお待ちくださ~~~い(*´∀`*)ノシ
44.雪月夜に続く

44.雪月夜

え? こ、これ。りょおが作ってくれたの?!








風呂から上がると、夜遊びに出掛けたと思っていた撩がリビングに居たのにも香は驚いたけれど、
それ以上に香を驚かせたのは、数分後に撩が香に差し出したマグカップだった。
目を丸くして撩を見上げる香に、撩は悪戯っ子のような笑みでコクリと頷いた。







バレンタインデーの翌朝、香はまず一番にキッチンに入るとシンクを確認した。
深夜の食事の痕跡の皿や茶碗は、きちんと重ねて置かれていた。
それはこの数年の香の躾の賜物だ。
出逢ったばかりの頃の撩は、自分が食べた食器をシンクに浸けておくことすらしなかった。
今でも家の事は専ら香に任せきりだけど、
それはある意味では、香が撩にやらせないという側面もあったりする。
細かな所で口やかましくしているように見えて、香はそれほど撩に多くを求めてもいない。

ご飯の前にはちゃんと手を洗って。
ゆっくり噛んで落ち着いて食べてね。
食べ終った食器はシンクに浸けておいてね。
脱いだ服は洗濯かごに入れといて。
あいさつはきちんとしようね。
気を付けていってらっしゃい。

ちゃんと生きて帰って来てね、というのはいつも心の中だけで願う言葉だ。
香が撩に絶えず口にする小言の数々は、まるで小さな子供に母親が教える躾の言葉に近い。
香は何も、撩の家事参加を求めている訳では無いのだ。
家の事は、香が撩の為に全力でやれる数少ない事の中のひとつだから。
だから香にとってはむしろ、撩が生活のいちいちに多少無頓着なくらいでちょうど良いと思っている。
いつも無意識に香が口にする言葉に、数年かけて撩も成長したということだろう。
撩はいつの間にか、自分の食べた食器を重ねてシンクに運ぶようになったし、
帰宅して夕飯の良い匂いがすると自然と洗面所に手を洗いに行くし、
香の作る手料理にすっかり胃袋を掴まれている。
ただ、2人とも互いに自身のそんな小さな変化になど、全く気付いてはいない。
そしてプラトニックな恋心が、まるで膨れ上がった風船みたいにじき破裂寸前だということにも。

汚れた食器を確認したあとは、蓋の付いたゴミ箱の中を確認する。
白い包装紙と紙の箱が空になって捨てられているのを確認して、香は知らず頬が緩む。
香が撩の為に作ったチョコレイトケーキは、ひとつ残らず完食してくれている。
それだけで香は、幸せな気持ちになれる。
まるで、そのお礼とでもいうように。
例年通り、ダイニングテーブルの香の指定席には、
撩の戦利品である有名店のバレンタインギフトが沢山置かれていた。



ははは、今年もお礼が大変ね。



つい口を吐いて出るそんな香の独り言も、何処か楽し気で。
その一連の流れこそが、いつもの香と撩のバレンタインデーなのだ。
それ以上に、互いに言葉も無い。
チョコレイトごちそうさまというお礼の言葉も、どうだった?美味しかった?という言葉も、2人には無い。
いつもの事だ。
だから、その晩。夕飯を終えた撩が、
ちょっと出て来る。と言って、ジャケットを羽織ったのも、
今夜は冷えるってよ?と言って、香が見送ったのも。
いつも通りだったから、撩が出掛けてすぐに風呂に入った香が風呂から上がって、
撩の在宅を確認すれば、驚くのも無理はないのだ。


年が明けてから、妙な天気が続いている。
春のような陽気で冬も終りかと思わせる日もあれば、
2月だというのにまるで木枯らしみたいな風が吹いて、小雪がちらつく日もある。
それが1週間のうちに目まぐるしく、入れ替わるのだ。
巷ではインフルエンザが流行っているらしい。




外、お前の言う通り寒かったぞ。



パジャマの上にマイクロフリースのパーカーを羽織って、
バスタオルで髪の毛を拭きながらリビングに戻った香が目を丸くしていると、撩はそう言った。
ちょっと出掛けて来る、というのがどんな用事だったのか、もう済んだのか、
撩は何も言わずに、雪が降り始めた。と言って微笑んだ。
だから香も、何から訊いていいのか解らなくなる。
多分、誰よりも撩の一番近くにいるのは自分なのだろうとは、香も思う。
けれどこういう時、香にはいつも距離感が解らなくなるのだ。
撩が何を考えて、香にこうして笑いかけてくれるのか。
飲みに行ったのだとばかり思っていたのに、
数十分後には帰宅してこうして何事も無かったように、チェシャ猫みたいにソファに寝そべって笑っている。




そう、積もるかな。

いや、そんな降り方ではなかったな。

そっか。



つまんない、というのは心の中だけで香は呟く。
最近では積もるほどの雪は滅多に降る事はないけれど、小学生の頃には結構降っていたように思う。
子供の頃は、雪が積もるのが嬉しかった。ワクワクした。
大人になって、それが多くの人に大きな混乱をもたらす嫌なモノのひとつに挙げられている事は、
香にも解っている。
それでも内心では、積もったら良いのに、という気持ちが少しだけ掠める。
多分、香には朝早くから電車に乗って出掛ける用事も、飛行機に乗って遠くへ行く用事も無いからだろう。
滅多に依頼の来ないスイーパー稼業の2人が、雪の朝に朝寝をしても、世間様にはなんの影響もない。
気楽な商売だ。

撩の言葉に、香は濡れた髪の毛を乾かすのも忘れて、ベランダの掃出し窓越しに外を見た。
エアコンで暖められた室内と、外気温の差はいつもより大きいのだろう。
白く曇った窓ガラスを風呂上りで温まった掌で拭うと、キュゥッと小さな音を立てた。
ぼんやり見える外の色は、紺色で。
少し離れた所でネオンが瞬いているから、空の色はそれほど深くはない。
それでも暗い空を背景に、小さな雪が落ちてくる様は綺麗だった。
何処からともなく落ちてきて、消えてなくなる。
香がそんな白い欠片をぼんやりと目で追っている間に、撩はそれを作ったらしい。




そんなとこで、ボーっとしてたら風邪引くぞ。



そう言いながら、ローテーブルの上にコトン、とマグカップを置いて香に手招きした。
それは、淹れたてのホットココアだった。
甘い薫りを漂わせて湯気を立てている。
撩が作ったのか、と香が訊ねると、撩は楽しそうに頷いた。




バレンタインって、女から男へって決まりはないらしいから。



そう言った撩の言葉でそのココアの意味を漸く理解すると、香はカップを両手で包む。
せっかく風呂で温まっていた手の先が、窓際に数分佇んでいただけで随分冷えていた事に気が付く。
いただきます、と小さく呟いてひと口啜る。
いつも香が使っている、チャックの付いた袋入りの森永のミルクココア徳用サイズとは違う。
こっくりと濃いきちんと温めたミルクで溶かしたリッチなココアが口の中で薫る。
それに少しだけ、アクセントの効いたカカオとは違う薫りも。




これ、いつものと違う?



撩はふふ、と笑うと、買って来た、とだけ告げた。
雪の降る寒い夜の撩の用事とは、いつもよりも少しだけ贅沢なココアの粉を買いに出掛ける事だったのだ。
香は決して買わない金色の缶に入ったヤツだ。
それともう1つ、何となく香には解ってしまったけれど隠し味。
それは恐らくキッチンの作り付けの棚の中にあった筈の、柑橘のお酒だ。





昨日のケーキに使ってたグランマニエを入れてみた。




そう言ってまるで悪戯を仕掛けた子供のように、撩はニヤリと笑う。




誰かさんは、そのまま呷って寝酒にしたみたいだけど?



そんな撩の言葉に、せっかく撩が淹れてくれたココアを香は思わず吹き出しそうになった。
目を白黒させながらも真っ赤に染まる香の頬を見ると、撩は愛しさが込み上げる。
ほぼ一日前の夜更けに、こっそりとキスをして、
屋上で勇気を出して前に進もうと決心した相手が、今こうして目の前にいる。
寒い夜に暖かな部屋の中で2人きり。



なっっなんでそんなこと・・・知ってるの・・



目の縁まで真っ赤にして己を凝視する香に、撩は狩猟本能を軽く擽られる。
昨夜の秘密のキスを思い出す。
柔らかな弾力と甘い寝息、オレンジのアルコールを含んだ薫り。
知っているに決まっている、撩の気持ちを知らないのは香だけだ。





なんで知ってるか、知りたい?



そう言って、撩が香に詰め寄る。
ソファを背凭れにして、ローテブルとの間の床の上に座った香のすぐ傍に、無理やり体を寄せて来る。
濡れたままのブラウンの髪の毛の滴が垂れてきそうな距離にまで、撩の顔が香に迫る。
狭い狭い狭い。てか、近くない???
と、香が心の中で思ったのと、唇が重なったのは同時だった。
香が例年通りだと思っていたバレンタインデーはどうやら、撩にとっては違ったらしい。
(あくまで香的には)いきなり何の前触れもなく、そのキスは始まって、
嵐のように香の口腔内を蹂躙すると、また何の前触れもなく離れていった。

リボンキス


虚ろな目で己の唇を見詰める香の視線が、激しく淫らだと撩は思った。
離れてしまうのが惜しい気持ちになって、パジャマとモコモコのパーカーを着た華奢な躰を抱き締める。
香の視線をまともに受けていたら理性が効かなくなってしまうので、撩が目を閉じた。
目を閉じて半分濡れた冷たい癖毛に顔を埋めると、自分の頬が思っている以上に火照っている事が解る。





ごめん、キスしたんだ。

え?

昨夜、お前が寝てる時に。

えぇっっ、な(に)、ど(ーゆーこと)???




あまりの動揺に、ひらがな一文字ずつしか声にならない相棒に、撩は思わず苦笑する。
いつもこうなのだ。
撩だっていつも冷静な訳では無いし、なかなかどうして照れているのは同じなのだが、
それ以上に香がこんな状態なので、自然と撩が冷静になれるのだ。
癖毛に埋めていた顔を上げると、香と向き合った。
淫らな艶を隠さなかった女の顔は一転、いつもの恥ずかしがり屋で無防備な顔を見せる。
香ほど感情を隠さない人間は撩の周りには居ないから、撩は香を心から信じる事が出来る。




もうこれ以上、気持ちを誤魔化せないってこと。



そう言うと撩は、香に左手の手首を見せた。
そういえばと、香は思い直す。
マグカップをテーブルに置く時も、近寄って体を寄せて来た時も、不自然なほど撩の左手が見えなかった。
その左手首に巻き付けられた、赤いサテンのリボンはビターなチョコレイトケーキをラッピングしていたものだ。
苦すぎるビターな男と甘すぎるホワイトチョコみたいな女を、足して2で割れば。
ちょうど良いミルクチョコになるんじゃないかと、撩は思う。



受け取って?

撩リボン


撩からのバレンタインの贈り物は、自分自身だ。
香は返事の代わりに撩の胸に顔を埋めると、細い両腕でその大きな体を抱き締めた。
窓の外では、静かに雪が降り続いている。









今年のバレンタインは、予想外の連作で(笑)
シルクさま、ありがと~~~(*´∀`*)ノシ
因みに、続けて読む時は、モノかきさんに100のお題の中の、
1.Are you ready
63.柑橘系
44.雪月夜

の順番で、お読みください。

69.徒花

・・・ない。




香は武器庫の銃器を確認して、レミントンM700Pが持ち出されている事を確認した。
撩は香の事を侮っていると、香は思う。
ココにある銃器の一つ一つ、名称や特性やどういう場合に適した使い方をするのか。
毎日無駄に、暇を持て余している訳でも無いのだ。香は独学で勉強した。
歌舞伎町のキャバクラに行くのに、対人狙撃用ライフルなど必要無い。
香は作り付けの収納棚のスチールの扉を閉めて、撩がしていたように鍵も掛けると、
淡い黄色のウィンドブレーカーのファスナーを襟元まで上げた。

いつ位の時だったか、撩は香が武器庫や射撃場に入る事を嫌がる時期があった。
それでも撩の傍に居る年数を重ねれば重ねるほど、
必要に迫られる機会も増えてなあなあの内に銃火器類の事は、概ね把握している。
マリィの掩護の為にバズーカを勝手に持ち出した時もあったし、
海原の船に乗り込んだ時には対戦車ロケット弾まで携行した。
その少し前、ミックに決闘を申し込んだ夜に、撩から調整し直したコルトローマンを改めて受け取った。
兄の形見だ。
それから今まで結構経つけど、撩は香に未だ見せてはくれない一面を持っている。
銃(ローマン)を調整し直して以降、香が射撃練習をする事は撩も黙認している。
実際に現場で活かされるかどうかは別として、銃(それ)はお守りでは無いのだ。
信心とご利益は無くても、弾を込めて発射させれば簡単に人も殺せる。
練習をしていなければ、護身にもならない。

ナイキのパステルカラーのスニーカーが欲しくて、欲しそうにしていたら撩が買ってくれた。
2週間前に解決した依頼のすぐ後だ。
もう既に1足、男の子っぽい色合いのコルテッツなら持っているから、
それを買わない理由にしてそれでも何度も靴屋の前で立ち止まる香に、撩が笑いながらアッサリ買って来た。
淡いグレイとペイルピンクとレモンイエローの組み合わせのそれは、スニーカーなのに香の乙女心を擽る。
ずっと昔より、撩の事を沢山知れば知るほど、香の心配は深く大きくなる。
ミニはガレージに置いてあるから、多分、新宿の何処かだろう。
まだ真新しいスニーカーの爪先を見た後に、香は6階の窓を見上げた。
黄色く見える部屋の灯りは点けたままに出て来た。
すぐに戻るつもりだからというのは、もしかすると験担ぎの一種かもしれない。
香は撩が無事なら他の事など、正直どうでもいい。
多分、目的地は駅の反対側の高層ビル街だ。
香は大きなビル達の中では、損保ジャパンビルが一番好きだ。








流石に大都会のど真ん中とはいえ、深夜のビル街に人影は殆どない。
それでも幹線道路にはそれなりに、ヘッドライトとテールランプが交錯する。
警察署が意外と近くにあったりするのに、黒いライダースジャケットを羽織った撩は、
ライフルの入った革のケースをプラプラぶら提げて呑気に歩いていた。
職質されたら一発アウトだが、自慢では無いがこれまで一度も職質などされた例は無い。
空気が温かい。
季節が巡っているのを、撩は肌で感じる。
つい半月程前までは小雪がちらつく程の寒さだったのに、完全に空気には春の匂いがする。
撩が物心つく頃から育った土地には、春夏秋冬などというメリハリの効いた気候は存在しなかった。
年がら年中蒸し暑く、人々は皆、浅黒かった。
そこから新宿に来るまでの数年間、北米大陸で生活してはいたけれど、
季節がどんな風だったのかという記憶は見事に欠落している。
撩がその殆どを過ごしていた地域は、雨か曇りか殆ど寒いか酷く乾燥しているかのどれかだったと思う。
概ね空の色は灰色だった気がする。
基本的に撩は、あらゆる事件や事故、歴史的事実などを記憶しておく能力には長けているけれど。
どうでも良いと自分で感じる事に関しては、無頓着だ。
当時の撩には、自分を取り巻く季節の移ろいになど、何の意味も見出せなかった。
だから、撩がこうして季節を肌で感じるようになったのは、新宿に来てからだ。
厳密に言えば、槇村秀幸という男に出逢ってからかもしれない。

春の嵐の日に槇村が死んで、香が転がり込んでから、季節には更に色彩が加わった。
音や匂いや情緒や五感全てで世界を眺める相棒の薄茶色の瞳を通じて、撩にも世界の見え方が変わった。
数年間の内に、空気の中に混ざる季節の気配まで察知しては、それをわざわざ感じ入る癖がついてしまった。
それはきっと香のせいだし、春は香の季節だ。

撩がそんな事を考えながら歩いていると、前方に見慣れた黄色いウィンドブレーカーが見えた。
春が来た。
損保ジャパンビルのすぐ傍の歩道で、両手をポケットに突っ込んで、ボンヤリと43階建てを見上げている。
ビル風が香の癖毛を揺らしても、冷たさは殆ど無い。








なにしてんの、おまー。こんなとこで。

・・・ウォーキング。




撩が声を掛けると、香は少しだけ驚いた表情を隠すように笑って言った。
言いながら、足元を指差す。





新しい靴を慣らそうと思って、ちょっとお散歩。

・・・ふぅん、“散歩”ねえ。こんな時間にご苦労なこって。




それまでプラプラと提げて歩いていた、ライフルの収まった革の細長いケースを撩は肩に掛けた。
その些細な動作まで、香が見ているかどうかは定かでは無かったけれど、
撩はそれと一続きの動作でポケットから煙草を取り出した。
昼間なら歩き煙草は禁止だろうけど、こんな時間に通行人もほぼいないので撩は遠慮なく火を点ける。
撩は構わずそのままアパートの方へと、歩みを進めると香も後に続く。




なに?もう終わり? 散歩は。

うん、もうだいぶ歩いたし。

へえ。




撩はわざと散歩の部分を強調してそんな事を言うけれど、元から香のでまかせの言葉などお見通しだ。
2人は言葉も無く、真夜中の西新宿を歩いた。
撩にしてみれば、香に本当の事を言わないことに特に理由は無い。
撩が殺し屋だということを香だって重々承知だし、ボディガードばかりが仕事でも無い。
昔は、どうにかして香を堅気の世界に帰さなければと、脅迫観念のように思い込んでいた。
そうすれば香は撩の事など綺麗さっぱり忘れて幸せになれるのだと、根拠もなくそう考えていたのだ。
けれどもう、今更だから。
撩はもう香を自分の元から放す気はない。
今は、香の記憶の中に一生残リ続ける男になりたいと思っている。




あのさぁ。

なあに?

俺がもしも今夜死んでたら、多分ずっとお前の記憶の中に留まれただろうね。

なにそれ。




馬鹿じゃないの、とは、心の中だけで香は呟いた。
簡単に、自分が死んだ後の話なんかしないで欲しいのに、撩は穏やかな顔で煙草を吹かす。
硝煙の臭いと煙草の匂いが、生温い風に流れて融けてゆくように感じられる。
撩の輪郭まで融けてしまわないように、撩を連れて行かないで欲しいと、
誰にともなく香が心の中で祈っていると、ひと際強くビル風が吹いた。




もうすぐ、桜も咲くかな。



香が話題を変えたくてそう言うと、撩は淡く微笑んだ。
歩みを止めて香に向き直ると、煙草を放り捨てて踏み消した。
グッと香の右手を掴んで一気に抱き寄せる。
顔を埋めた癖毛からは、シャンプーの匂いがする。




そうだな、もうそろそろだろうな。




まるで怯えた子供のように、撩は香を抱き締める。
桜は美しいけれど、撩には少しだけ恐ろしいように感じる事がある。
狂ったように一斉に咲き誇って、ホンの短い間に一斉に散ってゆく。
この世に何も残さない、けれど人々の胸に鮮烈な記憶だけを刻んで、散ってゆく徒花だ。
撩はきっと、香を喪ってしまうことだけが恐ろしいのだ。
香の癖毛に顔を埋めたままの撩の声は、小さかった。




香。

ん?

俺と心中する?

ふふふ、良いよ。撩と一緒なら。





香ならそう言うと、思っていた。
きっと互いに、その存在を喪っても記憶は残るから。
それならいっそ、どちらかが死ぬ時に潔く一緒に散りたい。
撩がそう思っているのと同じように、香も思ってくれている事に数年間かけて気が付く事が出来た。
香のいない所で独りで死んだりしない、と撩は心に誓っている。








随分、春めいてきましたね~~~。
花粉症には、皆様お気を付けて~~~(ノД‘)・゜・。

39.超鋭角的指摘

香は大人になった今、大きな劣等感の塊に苛まれている。
果たしていつからそうだったのか、香自身ももうハッキリとは憶えていない。
それでも兄と2人暮らしだった頃は、そんな風では無かった。

ごく普通の家庭環境かといわれれば、何を普通と呼ぶかにもよるが、多分違ったのだろう。
親との縁は、そもそも薄い。
育ててくれた父も早くに亡くして、愛してくれた兄と2人きりの兄妹だけの家庭には、
今にして思えば他の家庭にあって当然のことが無かったこともあったのだろうけど、
その境遇が齎す劣等感などは微塵も無かった。
むしろ、香は兄と2人きりの穏やかな世界の中に、自分だけの安心で絶対的な居場所を確保できていた。
人は人から必要とされているというシンプルな役回りさえ用意して貰えたなら、
たったそれだけのことで幸せなのだと香は思う。

兄が死んで、香がその手で選び取った男の傍には、誰の居場所も無かった。
撩は本当に独りで、強いけど、でもそれだけではダメなんだという気に香をさせた。
だから香はたったのハタチになったばかりの世間知らずの内から、
そこに自分の居場所を創り上げるという、途方もない挑戦を余儀なくされたのだ。
もしかすると、そんな大それた望みなど、放り出すことは簡単なことだったのかもしれない。
けれどそうしなかったのは、香には撩が必要だったからだ。
撩は、色んな人から必要とされる。
それでも撩は、誰のことも必要とはしていない。
兄に愛されて育って、自分以外の誰かを心の拠り所に出来る幸福を、香は知っているから。
だから香は撩に出逢ったその時から、撩に必要とされたかった。

そして挑戦は現在進行形で、今も継続中だ。
居場所を創ることは香ひとりの心の中で思うほど、簡単なことでは無い。
何しろ相手は世界№1のスイーパーで、一筋縄ではいかない男だ。
失敗は数限りなくやり尽くし、出来ない歯痒さを撩に八つ当たりしたり、
怒ったり、泣いたり、拗ねたり、家出したりして、それでもなんだかんだと香は立ち直ってきた。
因みに、家出はこれまでに二度、教授の所とミックの所に転がり込んだ。
それでも少しづつ、それなりに居場所は出来ているのかもしれない。
けれどそれではまだまだ不充分だと香は思うのだけど、
何が足りないのかがその都度解らなくて、相変わらず失敗してからその事に思い当る。





つい二日前も、撩の命を狙う殺し屋稼業の男に易々と連れ攫われた。
結果的には、いつもの如く撩が現れて、難を逃れて一件落着した訳だけど。
今回は警戒心と備えが足らなくて、香は自分の不甲斐無さにまたしても、
自己嫌悪と劣等感の無限ループの狭間を、行ったり来たりしている。
本当に撩にとってなくてはならないと思わせるような、そんな相棒に香はなりたい。
かつて大好きな兄がそうであったように。






・・・はぁっっ


溜息は思ったよりも大きくて、吐いた香自身が少しだけ驚いた。
飲みに出掛けた撩が不在の深夜に起きていても、マイナス思考が増長するだけなのは百も承知だ。
もう春だというのに真夜中は寒くて、香は開け放ったベランダの入り口に小さく丸まって座り込んだ。
昼間は花粉が飛んでいるらしいけど、生憎、香は今の所平気だ。
アレルギーなどとは無縁の体質で、幸い、身体だけは丈夫だ。
滅多に風邪も引かない。
体力にも自信があるし、この手や足は幾らでも彼の為に使えるはずなのに。
いざという時にいつも、彼の足枷となる自分が香は嫌いだ。





なんだよ、まぁだ気にしてんのかぁ?しょうがねえなぁ。




突然、背後から間延びした相方の声がして、香は驚いて振り返った。
撩はただいまも言わずに帰って来ると、どうやら香の大きな溜息を聞いていたらしい。
困ったように眉尻を下げて笑っている撩は酷く酒臭いのに、一見酔っているようには見えない。
縮こまった香の隣に、ドスッと座り込むと胸ポケットの煙草を探る。




ったく、ウチの相棒は気にしいだからなぁ。



そんな風に笑いながら言われると、大した事じゃないのかもしれないという気持ちにさせられるけど。
香は胸が締め付けられる。
幾ら撩が強かで頭の回転が速い運の良い男でも、撩は生身の人間だ。
香を餌に誘き出されて怪我を負ったり、まして命を奪われないとも限らない。
香は世界中の誰よりも、撩の事を信じてもいるけれど、同時に心配もしている。
撩の無事や幸せが、いつも撩の傍にありますようにと願っている。
それなのにその平穏を乱す理由のひとつが足手纏いの自分にあるのなら、そんな矛盾している事は無い。




そりゃ、気にするわよ。気にしない訳無いじゃない。




そもそも、颯爽と香を救い出しだ次の瞬間、間抜けだのど阿呆だのと罵声を浴びせたのは撩自身だ。
香はそれらのお馴染みの一連の遣り取りでも、毎回、自分の不甲斐無さを噛み締めるのだ。
たとえそれが、過剰な心配が一転、割と元気に監禁されていた事への安堵感からくる、
撩なりの愛情表現というか、親密さゆえの言動だとしても、そういう風には香は思い至らない。
それでもさり気なく、撩が自分のことを”相棒”と呼んでくれた事に、香は内心ホッとする。
俯いたままの香の鼻先を、撩が火を点けた煙草の薫りが掠める。
ジッポーの蓋を開ける時の小さくて鋭い金属的な音や、オイルが暖められて放つ独特な匂い。
撩が隣に居てくれる、安心感。
肌寒い早い春の夜更けの冷たかった筈の空気が、一瞬で変わる。
香の敵だったように思えた世界中の全てが、撩が傍にいてくれるだけで見え方が変わるのだ。
やっぱり自分には、撩が必要だと香は強く思うけど。
果たしてその逆が、撩にとっての自分はどうなのかということが、香にはまだ解らないでいる。
こうして自分を相棒だからと甘やかしてくれるのが、純粋に撩の優しさからくるものなのか、
自分を相棒だと真に認めてくれている証なのか、香には判断がつかない。
立てて座っている己の両膝に、香は顔を埋める。
滲みそうになった涙を見られないように、部屋着代わりのスウェットの分厚い生地に瞼を押し付ける。




お前さ。



返事をしないといけないと、頭では思うけどきっと酷い鼻声だから香は声は出さずに撩の言葉を聴いた。
多分、撩も解っているから、返事が無くても特に気にもせずに続けた。




いつも謝るじゃん?ゴメンって言うけどさ。まず、あれから止めようか。




撩の言葉に意表を突かれて、香は思わず顔を上げた。
鼻の頭と目の縁が赤くて、目も心なし涙目だ。
撩にしてみれば、彼女が涙ぐんでいたことなどバレバレなので今更だけど、
香はそんなことすら一瞬忘れて、撩をまじまじと見詰める。




どういうこと?

いちいち、そんな簡単に謝るなよ。助けに行くのはパートナーとして当然だろ?

でもっっ

カオリンが素人に毛が生えた程度の腕前だって事くらい、今更だしな。

ゎゎわ悪かったわね///

まぁまぁ、そんなに拗ねない、拗ねない。カ~オリン





口調は軽いけど、そう言って煙草を吸いながら香を諭す男の瞳は至って真剣だ。
解っている、撩はいつだってそうだったと、香は思う。
大きな声では言えない裏稼業だけれど、仕事の面では撩はいつだって遥か雲の上の存在なのだ。
香がその広い大きな背中を追い掛けても追い掛けても、全然追い付けない。
香は撩の事を好きだという気持ちも勿論あるけれど、根底には尊敬の念がある。
撩のように強く優しい人間に、自分もなりたいという憧れから全てが始まった。





じゃあ、なんて言えばいいの?

ん?

ごめんなさいって思う時、なんて言ったらいいのかな?






まるで子供のような澄んだ目で訊ねる相棒が、撩には眩し過ぎていつも直視できない。
彼女が自分の傍に居ていつも、思い悩み、成長するのを目の当たりにしてきた。
それでも目の色だけは、あの頃のシュガーボーイの頃のままで、撩は彼女に強く憧れている。
撩には絶対に獲得できない純粋さで、彼女はこの世界の淵を覗いている。
撩には無い沢山のモノを握り締めて、香はきっとこの世に生まれてきた。
それはもしかすると、幸せという形の無いものを撩に分け与えてくれる為の、
香の使命のようなものなのかもしれないと撩は思うのだ。
だから、撩には香が必要だ。
香を喪うことだけが、撩にとっての危機なのだから、勿論何処にだって救い出しに行く。






あぁん?そりゃ、お前。 ありがとー、で良いんじゃね?ありがと、って言って笑ってろよ。





やっぱり、と香は思う。
撩が居るだけで、ガラリと世界が変わる。
撩は優しい。撩は温かい。撩はいつだって、単純な言葉1つで香の世界を塗り替える。
撩と出逢った頃、香はまだまだ世間知らずの生意気な小娘だったから、
香にとって撩は、生きていく為の指針であり大きな目標だ。
そして、愛すべき家族でもある。
また涙が溢れそうになったけど、香はそれを必死に堪えて頷いた。
鼻の奥がツンとした。





うん、そうする。ありがとう、りょお。




笑顔は、自然と形作られた。
それまでの悩みはそれはそれとして、また何かある度にきっと香は悩むだろうけど。
多分、こうしてその度に、撩が笑顔に戻してくれる。
的確なアドバイスを香に齎して、パートナーとしてあるべき姿を示してくれるだろう。
と、真面目に受け止める香は、どこまでも純粋だ。






どう致しまして、それじゃ、お礼をひとつ貰っとくかな。

え?




香の疑問符は、取り残されたまま。
撩は口に咥えた煙草を、利き手の人差し指と中指に挟んだ。
その指先のあまりの美しさに香が目を奪われている隙に、撩の唇が香に触れた。
香がその事に気が付いた頃には、
撩はもう元の姿勢に戻って楽しげに煙草を燻らせながら、クククと笑った。
ホンの一瞬の出来事だった。
香はいつまでも赤くなって、撩の小さく震える喉仏を見詰める事しか出来なかった。







ホワイトデーも何か書きたいなぁ、と思ってるけど、
取敢えず書きたくなったからお題で更新です(*´∀`*)ノシ
創作意欲の糧となる出逢いに感謝を込めて。

16.思考回路

10qb様に捧ぐ、お題小噺・・・







まあ、アイツという人間を世間一般的な常識の範疇で捉えているつもりは、初めから無かったけど。
と、他人のことをとやかく言えた義理ではない冴羽撩は考える。






梅雨の昼下がり。
窓の外は憂鬱な曇り空で、ナンパに行くには不快指数が高過ぎるし、
撩が遅い朝食兼昼食を平らげて自室のベッドで横になり惰眠を貪っている間に、
相棒は何処かへ出掛けてしまった。
大方、行く当ては決まっている。
きっと、同業者夫婦の営む流行らないカフェだ。
梅雨に突入してからというもの、連日の真夏日が続き、
それに上乗せされた湿度が彼女の足を連日、あの閑古鳥の鳴く喫茶店へと誘っている。
何の事は無い、自宅リビングでエアコンを使う経費を抑え、且つ快適に過ごす為の生活の知恵である。
その上、あの店に足繁く通えば、愚痴の聞き役はいつでも迎えてくれる。
精神衛生的側面からも、彼女の生活の安定を図ってくれるのに、あの店は一役買っているのだ。

ナンパに行くのも面倒臭い。
相棒もいない。
手持ちのエロ本には、もう飽きた。
やること無い。
やる気も出ない。出るのは、欠伸だけ。
そんな時に、彼が時々行う趣味のようなもの(ライフワーク)が、
相棒の部屋に忍び込むことだったりしても、
肝心の相棒である香嬢が不在なので、そこに異議を唱える者は居なかったりする。
目的は勿論、クローゼットとその並びに配された衣類用チェスト。
冴羽撩は自慢ではないが、
直近2ヵ月前までの槇村香のワードローブのことなら全て記憶、把握している。
ここのところ、オサボリ気味だったなぁ、と思い返して客間に向かった。

彼は脳内で自分自身に言い聞かす言い訳を、幾つか用意している。
例えば、万一の不測の事態に備えて、相棒として知っておく必要があるとか。
(実際に過去には、衣服のボタンなどに発信機の細工を仕込んだりもした。)
例えば、友の大事な妹を託された身としては、その成長を見守る責務があるとか。
(しかしそれは、完全なセクハラに過ぎない。彼女は既に立派に成長した成人女性だ。)
現に、彼がその部屋に侵入し、一目散に向かった先は、
下着の類が丁寧に畳まれて収まった、チェストの上から2段目の抽斗だったから。
要するに、早い話しが、それはただの如何わしい変態行為に他ならない。




ぁん? なんだよ、これ(呆) ・・・おニューか・・・









という訳で、冒頭の物思いに耽る冴羽へと繋がるのである。
確かアイツは、今年で26になるはず、と撩は彼女とのこれまでの年月の重みを再認識する。
“アンタには新しい相棒が必要でしょ?”と、勝気に言い放ったあの夜から、もう6年が経つ。
更に遡れば、その3年前、高校2年生春休みの彼女から、撩は知っている。
格段に成長したのはトラップの腕前だけじゃない。おっぱいも飛躍的成長を遂げた。
そういう意味では、撩は確かにずっと彼女の成長を見守って来たのかもしれない。
けれど、彼女の兄が撩に託したのは、恐らくそういうことじゃない。
むしろ、そこだけは託したく無かったとも言える。
槇村秀幸最後の願いは、今のところ見事に裏目に出ている。

キングサイズのベッドに寝転んだ男の指先は、小さな布きれを摘んで広げている。
サラリとした手触りの良いコットンは、清潔感溢れる白色だ。
セクシーさの欠片も無いシンプルな形のパンティのバックプリントには、キュートなパンダのイラスト。
彼女の好みは、デザインよりも着心地、肌触り重視なのだということは、
これまでの調べでも解っていたことだけど。
容易に想像が出来るし、出来てしまう己が悲しいと撩は思う。
香が店先でこの下着を見付けて、嬉々として手に取る姿が。

押収品はそれだけでは無かった。もう1つ、見過ごせないものも発見した。
汗を良く吸収しそうなダブルガーゼ素材の生成り色のタンクトップだった。
因みに、そちらはヒヨコ柄だった。
黄色いヒヨコが全面に散りばめられたそれに、撩が激しく脱力したのは言うまでもない。
数週間前に依頼料が入って、香が夏物の衣料を買いに行った事は知っていた。
撩のクローゼットにも、新しい肌着やボクサーパンツが増えていたから。
きっと、その時に購入されたものだろう。







それにしても、だ。
あんまりなセレクトではないのかと、撩は思う。
一応、アイツは妙齢のモッコリ美女である。(撩が公にそれと認めた事は、残念ながらまだ無いが。)
下着を漁ってはちょろまかしている立場で言えた義理でもないのだが、撩は正直呆れている。
コンビを組んで6年、2人の進展を阻む障害は特に無い。
2人共通の仇ともいえる、ユニオン・テオーペは壊滅に追い込んだし、
ノリと勢いで絶対死なないとか死なせやしないよとか愛する者とか言ってしまった今となっては、
別にモッコリしたって何ら問題はないし、むしろやりたい。と、撩は思っていて。
思っているからこそ、脱力するというものだ。
彼女には少々、大人の色気というヤツが不足しているように撩は思う。
撩が独りで鼻息荒く迫ったところで、セックスというものは2人でやる共同作業なのだ。
それならば、相棒の協力体制というものも必要不可欠だと、撩は思うのだ。
如何せん香は、ムードとか空気とか雰囲気とかに無頓着で。
撩は昨年秋の奥多摩での出来事からこの梅雨時までの間に、
幾度かはそれらしい雰囲気を作ってみた事もあったのだ。
その振り絞った勇気をアホ面の天然ボケ炸裂で、木端微塵に打ち砕くのはいつも香だ。
百戦錬磨の種馬に見えて、撩は意外と繊細だったりもする。
これまでの経験や手管が通用しない本気の相手に、撩だって苦悩しているのだ。

取敢えず、今回。
撩はちょっとした悪戯を仕掛けた。
パンダちゃんのパンツとヒヨコちゃんのタンクトップを押収した代わりに、
撩のコレクションの中でもとりわけセクシーなショーツとベビードールを畳んで入れておいた。
相棒のサイズなど、把握済みだ。
彼女だって撩の下着から何から何まで買って来て、クローゼットの中身を管理しているのだから、
それと同じ事だ、と撩は思うのだが、果たして彼女のリアクションがどうなのかも少し楽しみだったりする。












・・・あれ??? ない。



蒸し暑い外から帰宅してシャワーを浴びようと思った香がチェストを開けても、
目当ての物が見当たらなかった。
少し前に購入した肌着は、少し子供っぽいデザインだったけど、肌触りは最高だった。
特に今のこの蒸し暑い季節には最適で、重宝していたのだ。
取敢えず試しに1枚だけ購入したけど、良かったからもう1枚買おうと思っている程度には気に入っていた。
色違いでピンクのうさぎさんと、水色のぞうさんも売ってたのは前回チェック済みだ。
お気に入りのヒヨコさんタンクトップと、パンダさんパンツで気分あげあげ♪と思っていたのに。
何処を探しても見当たらないので、香は最も考えたく無い可能性を思い浮かべた。




あは、は・・まさか、ねぇ(汗)




撩のクローゼットに紛れ込んでいる、という可能性だ。
確か、昨日洗濯物を畳んでそれぞれの部屋へ片付けたのは、香自身である。
撩のパンツやTシャツと一緒に片付けてしまったのかもしれない。
幸い、香がキャッツから帰宅してみると、撩は地下の射撃場に籠っている最中だった。
暫くは戻って来ないだろう相棒の部屋へ侵入するなら、今がチャンスだ。






やっぱりあった、ふぅ、危なかったぁ。


お気に入りのパンツとタンクトップは、撩の部屋にあった。
ただ、何故そんな所にあったんだろう?と不思議に思う、
撩の冬物のセーターとトレーナーの間に挟まっていた。
でも時々、良く解んないこと自分でもやらかすよなぁ、なんて無理やり納得する。
撩に気付かれる前に無事、回収できたと思っている香はやはりド天然なのだろう。
撩の煩悩や苦悩になど考えが及ぶ兆しは、今のところ皆無だし、
なんなら己のチェストに増えているセクシーランジェリーの存在には気が付いてもいない。
撩の期待するリアクションどころか、その思惑さえも完全スルーである。




無くなったらいけないから、名前書いとかなきゃ♪



そもそも、自分と撩だけのこの住まいに於いて、記名することに何の意味も無いのだが、
彼女の思考回路は、何故だかそんな思い付きまで発動する。
撩の悪ふざけの斜め上を華麗にすっ飛ばしながら、彼女は元気に生きている。
冴羽撩の“相棒と愛のモッコリ生活”までは、まだ道半ばである。







パンダとヒヨコを当ブログ風にアレンジするとこうなります(*´∀`*)ノシ

23.透き通る蒼

香の相棒は秘密主義だ。
相棒だと香は思っているけれど、香はまだ彼のことを本当のところ何もわかっていない。
兄が死んだ。
撩は槇村秀幸という男を、相棒だと認めていたらしい。
どうしたらそのような立場として彼の隣に立っていられるのか、香にはまだわからない。
香は確かに二十歳(はたち)を過ぎて、年齢的には大人になったけれど、
自分があの初めて撩の前に飛び出して抗議した“シュガーボーイ”の頃とどう変わったのか、自覚は無い。
年齢なら時を経れば自動的に加算されていく。
けれど、人間が成長する為には時間だけではどうにもならないことがある。




初めは興味が勝っていた。
警察を辞めたことを香に黙っていた兄だったけれど、暫くすると香も薄々は気が付いた。
極力、それまでの生活パターンを変えないようにと振舞っていた兄の、
それでも極々些細な変化に香はすぐに気が付いた。
香は自分では特別勘の鋭い方でも賢いタイプでも無いと思っていたし、実際そうなのだろう。
だけど物心ついてからそれまで、香の世界の中心に君臨していた絶対的な存在は兄なのだ。
家族だから判るし、その少し前に知った自分の出自について、
儚さ、脆さを感じていた時期でもあったので、兄の変化は香の世界を大きく変える二度目の出来事だった。
遠い記憶の彼方の父以上の愛情を、兄から与えられたことは香も勿論感じていたし、
血の繋がりなど関係無いとも自分に言い聞かせたけれど、あの頃は。
香の思っていた絶対的な世界自体(兄と二人の慎ましやかな穏やかなお金は無いけど幸せな槇村家)が、
実に儚いもののように思えていた。
だから、何が兄を変えてしまったのか。
あんなに仕事熱心で誇りを持っていた警察官という仕事を、アッサリと辞めてしまった理由がなんなのか。
兄の心と本当のことが、香は知りたかった。

香が知りたいと思っていた時に、兄が手帳を忘れて、それを辿って“冴羽撩”という答えに行きついたのは。
だから偶然でもあり、必然のような気もした。

一度目の変わり目が自身の出自を知ってしまった時で、二度目が兄の変化なら。
三度目はきっと、撩に出逢ったことだろう。
大きいと思ったのが第一印象だった。
遠目に見ても背の高さはすぐに判ったけれど、路地裏で腰を抜かしながら見上げた彼は。
背の高さ以上に大きかった。
今にして思えば、撩は香の必死の尾行になど初めから気が付いていて、
わざと秀幸と別れた後の路地裏で香に接触したのだろう。
兄を想う妹の人生相談に付き合わされた態で、撩は兄の仕事の一端を垣間見せてくれた。
それはどんな言葉を尽くして兄に説明されるより、雄弁で、一目瞭然だった。
警察官としての仕事場での兄のことは良く知らなかったけれど、
辞めてやってることもそんなに違いがあるとは香には思えなかった。
それでもそれが非合法であることくらいは解った。それ故、兄は職を辞したのだと。
大きな男の背中は、大きくて温かかった。
言っていることの半分も解らなかったけれど、
彼が見てきた世界が生温いものでは無かっただろうことは、その晩の襲撃で想像できた。

兄が死んだ時、またしても香の世界は変わり目を迎えた。
そこに撩が絡んでくることくらいは、もう香にはちゃんとわかっていた。
そしてその時には、自分が兄の意思を継ごうと覚悟していた。
それでもその瞬間は不意に訪れて、今がある。
あの晩、撩は泣かなかった香を手短に褒めてくれた。それが香の背中を推した。
新しい相棒がこの男には必要だろうと、根拠もなくそう思ったのだ。






でも、こうして秘密主義の男の傍に居て、本当に必要だったのだろうかと、香は不安を覚える。
ここ最近の香の専らの悩み事は、己の存在意義についてという情けなくも重たいテーマだ。
果たして、このアパートでぐうたらな彼の世話を焼き、伝言板に足繁く通い、
一癖も二癖もある情報屋たちにからかわれているんだか構われているんだか良く解らない遣り取りをし、
撩の挙動にいちいち振り回されることが、香の思っていた“相棒”の役目なのか。
香には理解が追い付かない。
何より、香がやっていることが撩の役に立っているのか。
そんな単純な答えにさえ、撩は何も明確には答えてくれないので、香には正解がわからない。
だから香は最近、少しばかり寝不足気味だ。
考え出すと眠れなくなってくる。
いつもは五階の自分用に宛がわれた一室で暮らしている。(とは言え、一日の殆どはこの撩の部屋にいる。)
眠れないままにいつもの馴染んだ六階リビングに上がると、案の定撩は留守だった。
自分の城を留守にして、夜の盛り場に繰り出していた。
彼は毎晩、浴びるほどの酒を呑む。
昼に近い午前中に彼を叩き起こすのも、香の仕事のひとつだったりする。
さすがに深夜にその部屋にいることは今まであまり無かったけれど、来てみると昼間となんら変わりは無い。
撩不在のその場所に違和感なく居られる程度には、香もそのポジションには慣れたけど。
撩にとって、自分がどのような存在なのかは全くわからない。

たまたま香がキッチンに居た時に、撩が帰った気配がした。
どうせ朝食兼昼食は己が作るので、眠れない徒然に簡単な下拵えをしていたのだ。
撩は多分、香が居るなんて思いもせずにいつも通りなのだろう。
スチールの重たい玄関扉(香はまだ知らないけれど、それは防弾仕様だ。)を派手に開けて、
廊下の至る所にぶつかりながら歩いてるだろう遠慮のない足音は、彼がしたたかに酔っている証だ。
香がキッチンを出てリビングに入ると、撩は革張りのソファの上で酔い潰れていた。
乱雑に脱ぎ散らかされたジャケットと、ヌメ革のホルスターに収められた黒光りする撩の分身。
初めて見た時にはギョッとした所持すること自体が違法なそれは、今ではすっかり見慣れたアイテムだ。
目を瞑った撩の吐く息が、恐ろしいまでに酒臭い。

ソファに近寄って床の上にペタリと座って、撩を観察してみる。
間近で見る撩の睫毛は、意外にも長くて濃い。
切れ長の目は起きている時には、強い眼力と意思を持って黒く輝いているけれど。
こうして瞑っていると、撩の寝顔は案外あどけない。
撩のことをもっと知りたいと、香は思う。
そんなに難しいことじゃ無くていい。
自分の存在価値など、そのうち自分で答えを探し出すから、教えてくれなくても良い。

何を食べた時に幸せを感じるのか、一番ホッとできる瞬間っていつなのか、
好きなテレビ番組はなんなのか、どんなお店で毎晩呑んだくれてるのか、
撩の目に映る今の生活と、他愛もないことが知りたい。
撩の感情を揺さぶる対象に、自分は含まれているのだろうかと香は思う。
撩の仕草や言葉や些細なことが香の琴線に触れる瞬間があるように、撩にもそんな場面があるのだろうか。
あるとすれば、それはどんなことなのか。
まるで自分を痛めつけるように、こうして酔い潰れる撩に、少しでも穏やかな眠りが訪れれば良いなと思って、
香は無意識に手を伸ばすと、撩の見た目より柔らかな黒髪を梳いた。
撩の使う男性用の整髪料の匂いが薄っすらと漂う。

(グンナイ、りょう。良い夢を。)

心の中だけで呟いた香の言葉に応えるように、撩の目が薄く開く。
寝顔は嘘みたいにあどけなかったのに、目を開けた撩の白目が充血していて酔っ払いそのものだ。
目の前の香を見て、撩は呆れたように酒臭い溜息をひとつ吐いた。





いつまで起きてんの、お子ちゃまは寝る時間だよ、かおりちゃん。



撩はそう言うと、意地悪な薄い唇をニヤリと持ち上げる。
香はたった今まで、撩の寝顔があどけなくて少し可愛いと思っていた自分の考えを心の中で撤回する。



お子ちゃまじゃないモン、もうとっくにちゃんと成人してますぅ。



でも、香は最近思うのだ。
そうやって生意気に撩に反論するけれど、年齢と成長は必ずしも綺麗には比例しないのだ。
大人になれば解ると思っていたことの半分も、香にはまだわからない。
一番近くに居るはずの、この彼のことですら何も。
高校生の春に、撩に出逢って以来抱き続けているこの感情は、憧れだと自覚している。
撩のように、そして兄のように、強くて優しい大人に自分も成れたら良いと思っている。
撩がいつもそうしている様に、困っている誰かをそれがたとえ非合法のやり方だとしても救えるような、
そんな人間になりたい。
ぐうたらで女好きでどうしようもなくても撩は香にとって、唯一無二、完全無欠のヒーローなのだ。
昔から香は、女の子が好むような少女漫画よりヒーロー物の方が好きだった。
撩の相棒だと、胸を張って言えるようになるには、まだまだ自分では修行が足りないと思っている。
時間だけ無駄に過ごしていても追いつけない大きな広い背中を、いつも追い掛けている。



どこら辺がお子ちゃまじゃないって?ああん?



生意気を言う香の柔らかな頬を、撩の長い指先がむにゅっと摘む。
硝煙の臭いの染み付いた指先は嘘みたいに体温が高くて、その熱が香の頬に伝わる。
だから自分のせいじゃないと、香は高鳴る胸の鼓動の言い訳を自分自身にしてしまう。
この先、何があろうとも乗り越えてみたいと香は考えている。
そして乗り越えた先に見える景色を、撩の隣で見ていたい。
そうやって少しづつ、自分にしか出来ないことを撩の傍で見出したい。
そこにしか答えは無いように思える。
取敢えずは、こうして夜中に六階に上がり込んでも、こうして撩の髪に触れても、拒絶はされなかった。
撩のテリトリーに侵入しても受け入れては貰えているようだと、香は内心安堵していた。



撩も香もこの先の未来など、まだ知らない仄蒼い夜のことだった。
この先、互いに互いの存在が掛け替えの無いものに変わってゆくことを知らない二人は、
小さく笑い合って無自覚な寂しさを慰め合っていた。








相棒になってすぐ、まだシュガーボーイの面影の青いカオリンが書きたかったのさぁ(*´∀`*)

19.見解の相違

おまぁ、馬鹿だな。


撩がそう言って、余裕綽々の顔をして胸ポケットから取り出した煙草に火を点けようとしたから、香は正直ムカついた。
いつかの出来事を思い出した。
植え込みの陰に隠れて覗き見した香が見たのは、撩と教授の遣り取りだった。

『あのバカ、俺に惚れてもうメロメロだからですよ』

確かに、香が撩に惚れているのはあの当時から事実なので間違いではない。
でも、惚れられている当人がそれを言うなんて、無神経にもほどがある。





2週間に亘って携わっていた依頼が、無事何事もなく遂行された。
身の危険に迫られた依頼人にも、数ヵ月振りに安穏の日々が訪れて晴れやかな表情で帰って行った。
晴れやかついでに、香への恋心の告白及び交際申し込みというおまけ付きで。
冴羽商事にしては珍しく、依頼人は男性だった。
依頼の合間に何気ない話題を振ることは互いにあったし、香はいつも通りの受け答えをしたまでだ。
依頼人は独身で恋人もいないと言い、香は撩との関係を訊かれたから仕事上の相方だと返した。

『それならば、私生活では僕の相方になってくれませんか?』

いつも通りの受け答え過ぎて、そんな話すら忘れていた香にとってそんな提案は甚だ迷惑なだけだ。





すみません、そのお気持ちにはお応えできません。



真夏の陽射しを遮るものの無い冴羽アパート屋上で、香は暑さからくるのとは別の嫌な汗をかく羽目になった。
悪い人ではない、好い人なんだけど、むしろちゃんとした立派な人なんだけど。
残念ながら、そういう問題じゃ無いのだ。


やっぱり

え?

貴女にとって、冴羽さんが特別な人には違いないんですね。恋人ではなくても。



その人はそんな風に言って、笑った。
何となく薄々は判っていたと。
けれどこの先もう逢うことも無いのなら、一か八か当たって砕けてみようと思ったのだと。





依頼人を送り出し、何事も無かったように家事を片付けて、香はまた屋上にいた。
陽は随分翳り、生温いけど風も出てきた。
あっさりと終わった話だし、別に香にしてみれば痛くも痒くも無いんだけれど、後味は悪い。
他人の好意を無下に断る。しょうが無いこととはいえ、それは香の気持ちを重くする。


依頼人と香との遣り取りを、どの辺りから撩が見ていたのかは知らないけれど。
独りになりたい時に限って、撩は嫌がらせのように香を放っておいてはくれない。
物思いに耽る香の隣に立って、そう言ったのだ。
お前は馬鹿だって。



折角の超優良物件だったぜ?アイツ。もったいないお化けが出ちゃうよ、カオリン。



ニヤニヤ笑いながら関係無いくせに、何でそんな風に言うのだろうと香は思う。
彼が遣り手の所謂エリートで、年収が良いからだろうか?
顔も今風の2枚目で爽やかな好青年だからだろうか?
香のことを好きだと言ってくれたからだろうか?
そんなこと、香にとってはひとつも重要なことじゃ無いというのに。



俺みたいな男に惚れてさ、馬鹿だなお前。



確かに香は撩に、惚れてはいる。
だから、撩以外の相手など眼中には無い。
けれどそれを余裕ブッこいた張本人から言われると、軽く殺意が沸くのは自分が短気だからではないと、香は思う。

奥多摩の湖の畔で、甘いことをほざいた自分を棚に上げて、撩は相変わらずだ。
香には指一本触れようともしないし、あれ以来何の進展もない。
そのくせこんな風に、妙に自惚れ屋で自信家だ。
そんなに自信があるのならいつでもかかってこいよ、と香はいつだって臨戦態勢だというのに。






勘違いしないで?別にアンタの為じゃ無いわ。



そう言った香の瞳は澄んでいて、まるで深い湖の底に吸い込まれそうな錯覚を、撩は覚えた。
目を逸らそうとしても、出来なかった。
彼女が美しいことくらい、撩にももう良くわかっていることだけど。
こうして改めて対峙すると、その凛とした美しさに、撩はいつも飲まれそうになる。
馬鹿馬鹿しい戯れ言で本心を覆い隠す自分を、全て見透かされているような気がして撩は怯える。
こんな風に自信の無い撩の内面など、香は知らない。
撩は虚勢を張って、火を点けた煙草を深く吸い込む。
煙草の匂いに混ざって、空気には夏の宵の匂いがした。
なんて返せば良いのかわからなくなって、撩は煙草に逃げた。
撩も香も、正面切って相手を見据えたのはホンの短い時間だった。
自分から仕掛けたしょうもない遣り取りは、自分の首を絞めている。
本当を言えば、彼女の思考の中に1秒でも他の男の存在があるのが許せないのだ。
たとえあっさりと、彼女に振られた男だとしても。

ほどなくして、香の表情が柔らかく緩む。
小さく息を吐くように笑ったのは、諦めとも自嘲ともとれる。
互いに屋上の柵に凭れて、輝き始めた新宿の街と薄紺色に染まり始めた空のコントラストを眺めていた。




自分の為よ、アンタを好きな自分の為。



だから、香は撩のせいにするつもりはない。
この数年間、撩の傍に居て、他のどんな男の人にも興味が湧かないことも。
きっとこの先、たとえ撩との関係が進展しなくても、時間を無駄にしたなんて言わないから傍に置いて欲しいと思っている。
奥多摩での撩の言葉を信じても良いのなら、何年掛かっても良いから撩の家族になりたい。
ただそれだけだ。






撩は短くなった煙草を、コンクリートで踏み消した。
明るい夏の夜に、彼女は良く似合う。
袖の短い麻のシャツから伸びる彼女の華奢な二の腕を見ると、撩は無性に抱き締めたくなった。




後悔しても知らねぇぞ。

後悔なんかしないわ。



どちらからともなく近付いたふたりの距離はゼロになり、唇が重なる。
気の早い星たちが、明るい夜空で小さく瞬いた。






久々にお題やってみた(*´∀`*)
二次創作するしかねぇな、やっぱり。

74.実験用マウス

「なぁに?それ。」





撩が持ち帰った箱に、香は首を傾げた。
一見すると重たくは無さそうだが、結構な大きさの段ボールの中からプラスチックの透明の箱が現れたので、香は更に怪訝な表情を深める。



「依頼だよ。こいつが今回のガード対象、者?人間じゃねぇけど。」



そう言って撩の指し示した指の先には、透明の箱の中に木屑のような木製のチップのような不思議な物が詰まっていて。
箱の内部には丸い回転する物体が据えてある。
香にもこの物体が何をする物かということ位の知識はある。
この中にネズミが入って回すやつだ。
小学生の頃、同級生の間でハムスターを飼うのが流行った時期があった。
香も飼いたかった記憶があるが、兄と二人きりの団地住まいだし、そんなワガママを言うこと自体が当時の香にとっては出来ないことだった。
誰だったかはもう忘れたけれど、友達の中の一人の家に招かれて遊んだ時に見せて貰った覚えがある。
とても臆病で小さなネズミは、それでも香の掌の上で小さく丸くなってとても柔らかだった気がする。

撩はリビングのローテーブルの上にそっとケージを置くと、人差し指を唇に押し当てて声を潜めた。




「臆病な奴だから。」



香は訊きたいことが山ほどあるけれど、とりあえず頷いた。
残りの色々を撩は段ボールから取り出すと、ローテーブルの上に次々並べ始めた。
ペットフードとおぼしき袋に、ケージに敷き詰められた物と同じ巣材のようなもの。
餌を容れるための小鉢のような皿に、ケージの天井部分にあたるメッシュの所に取り付けられるようになった水飲みボトル。
香は撩の開封作業を横目で見ながら、撩の指示に従って黙って静かにケージの中を観察した。
しばらくして小さな巣材の小山がモゾモゾと動き出したかと思うと、真っ白な美しいネズミが現れた。
毛皮は真っ白な綿毛のようで、つぶらな瞳はルビー色をしていた。
小さな足先や鼻の先は、ほんのりとピンク色をしていた。
毛の生えていないピンク色の長い尻尾が伸びている。
暗い箱の中から突然、明るい場所に出て来て、戸惑っているように見えたけど、本当の所は香にはよく解らなかった。





「ハムスター?」

「いんや、実験用マウス。」

「マウス?」

「うん、マウス。ま、今は依頼人のペットでもあるけど。」




そこだ。
まずはそれから訊かないと始まらないと、香は気が付いた。
そもそも、いつの間に依頼を受けてきたのか。
少なくとも、つい2時間ほど前に午後の伝言板確認に出向いた際には、依頼など無かった。




「まぁ、行き掛かり上、受けざるを得ないというかなんというか····不可抗力というか····」

「なによ、歯切れが悪いわよ。何があったのよ。」





午後の公園のベンチに、何やら深刻そうな表情で深い溜め息をつく女子中学生が居たらしい。
膝には撩が持ち帰ったこの段ボール箱一式を抱え困っていたので、事情を訊いたというのだ。
その撩の言う、行き掛かり上とやらの状況にいつかの既視感を覚える。
公園で泣いていた小さな女の子の依頼を500円で請け負った、あの時の撩に出逢って香は初恋に落ちた。
あの時、お人好しの相棒の奴(兄貴だ)が勝手に引き受けた、と撩は言ったけど。
多分、撩だって充分お人好しだ。


その小さな生き物は、とある製薬会社の研究者の実験の成果で何やら特別なネズミらしい。
遺伝子を操作されたネズミは不老不死、すなわち実験の結果が正しければ、永遠に死なないらしい。
件の女子中学生は、その研究者の一人娘でネズミの飼い主だ。
父親が作り出したそのネズミと、家族の一員として2歳の頃から生活を共にしてきた。
その可愛いペットが今、命を狙われているというのだ。
数日後に、父親が研究の成果を学会で発表することになっている。
恐らくその情報を何処からか嗅ぎ付けた産業スパイに、狙われているという。
奪われたら最後、ネズミ君は解剖に回され体の隅々、細胞に至るまで調べられ無惨な最期を遂げるだろうというのだ。
リミットは父親の学会発表の日まで。
研究が公になれば、簡単に手出しは出来なくなるだろう。





「凄いネズミな訳ね、この子が。」

「ま、ざっくり言えばそういうこと。」



ただ数日、ネズミの世話をする訳ではないだろう。
撩は恐らく、そのスパイとやらの正体を突き止め、問題の根本から解決する気だろう。





「依頼料、500円ってことないでしょうね?」

「大丈夫、父親の製薬会社とは話をつけてあるから、安心しろ。」

「でも、可愛いねこの子。とても毛並みが良いし、10年以上も生きているなんてとてもじゃないけど信じられない。」

「まぁ、普通はぶっ飛んだ話だと思うわな。でも、ほんとの話らしい。」





どうやら撩は、日課のナンパの合間に仕事を取ってきたということだ。
撩は恐ろしいまでの強運の持ち主らしい。
依頼なんて待ってりゃその内、降ってくる。という口癖が、時々こうして現実のものとなる。
しかもネズミ相手に夜這い対策を講じる必要もなく、香としてもそれは申し分ない依頼であった。















カタカタカタカタカタカタカタカタ




今回のガード対象は夜行性だ。
香は二人の寝室に対象を招き入れると言って聞かなかった。
大事な対象者に何かあったらいけないからというのが、香の建前だ。
けれど撩は彼女の本音が別にあると分析している。
寝る時間になるまで、香は楽しそうにリビングで対象を観察していた。
とても人に懐いた対象は、ケージの蓋を開けてナッツを差し出せばその小さな手でそれを受け取り、モグモグと食べたりする。
撩が寝る時間だと水を向けても、一向に意に介さず観察を続けるので、有無を言わさず実力行使に出たところ、
香は対象を寝室に寝かせると言い出したのだ。
撩としては、何でも良いので彼女を寝室へ連れ込むために、ネズミとセットで彼女を抱えて来たというわけだ。

対象はベッドサイドのキャビネットの上に据えられ、薄暗い間接照明の中で元気に活動を始めている。
撩もまた夜行性なので、パートナーとの夜の触れ合い活動に勤しんでいる。




「ね、···りょ··お」

「ん?」



第1ラウンド目を終えたところで香が言った。
行為を終えてすぐの彼女の声は艶かしくて興奮すると撩は思うけど、そんなことを言うと彼女に殴られるのであえて黙っておく。





「あの子は死なないのよね?」

「まぁ、実験が正しければね。まだ実験の途中だから。」

「もしもね、もしも。実験の通りずっと生き続けたら、」

「うん。」

「あの子はどうなるの?」

「どうって?」

「家族も居なくなって、それでも生き続けるの?」





撩の裸の胸板に頬をくっ付けたまま、香がそう言ったので、撩は優しく香の髪を撫でた。
撩は香に訊かれるまで、そんなことを考えもしなかった。
小さな命を弄ぶ人間のエゴと言えばそれまでだ。
そうやって、科学が発展してきた。
真面目な話をすれば、きっと飼い主ならば自分が死ぬときに一緒に連れて行くのではないだろうか。
本音を言えば、実験が失敗に終わってしまえば良いと撩は思う。
少しだけ他のマウスよりも長生きして、家族にかわいがられ最終的に幸せなペットとして生を全うすれば良い。



アタシだったら、やだな。



香の声が掠れている。
先程までの、触れ合い活動の激しさを物語る喉の渇きだ。
香は終始艶かしい声を立てていて、行為の間中ずっと撩を煽っていた。




撩が居なくなった世界で永遠に生き続けるなんて地獄だよ。



香がそう言いながら撩の胸を優しく撫で上げるから、撩の腕の立毛筋が反応する。
さっきからやたらと煽ってくる相棒に、抗議の意味を込めて乳房を揉みしだく。
彼女の眉間がうっすらと寄せられ、半開きの唇は何かを言おうとして形を結ばず、熱い吐息を漏らした。
拒否反応が見られなかったので、撩は体勢を入れ替えると優しく香を組み敷いた。
香の丸い瞳を、うっすらと涙の膜が包み、唇は物欲しそうに戦慄いた。
口付けを落とすと、香はゆっくりと瞳を閉じる。




死ぬときは一緒だ。


撩が香の耳許でそう囁くと、香は恍惚の表情で幸せそうに頷いた。
何が何でも守り抜くと約束はしたけれど、寿命から逃れることだけは生物としての宿命で無理だろう。
誰しもいつかは死ぬ。
どちらが早くても遅くても、残された方が悲しむことに違いはない。
撩はもしもこの先、香に先立たれたら後を追って死のうと思う。
そして、もしも自分が先に死んで、その時残された香が悲しくてこの世の地獄だというのなら。
その時は、後から来るであろう香を待って一緒に地獄に堕ちようと思う。
それまでは、その時が来るまでの束の間の人生は、仲良く元気に生きて行くのだ。
今回のガード対象者の回す、回し車の規則的な音を聴きながら二人は2度目の行為にのめり込んでゆく。











久し振りの更新は、お題です。皆様、お元気ですか?お風邪など召しませぬようご自愛ください。

5.手を伸ばせば

港の見える公園
クルーズ船で夜景を眺めながらのディナー



昼下がりの情報番組で紹介されていたのは、東京およびその近郊の人気のデートスポット特集だった。
香は家計簿をつけながら自分とは無関係のそのような情報を流し聞きしていたし、
撩も特に気にも留めずにソファに寝転んで趣味の読書に勤しんでいた。
幾つか紹介されているデートスポットは、殆ど定番ともいえる場所ばかりで特にこれといって目新しいものはない。
だから2人が思わず手を止めて、それぞれに想いを馳せたのは4番目にその場所が取り上げられた時だった。
昼間は昼間で一帯の観光スポットや中華街と合わせて楽しめるけれど、その本当の魅力は夜だという。
東京湾を取り囲む街の灯りはまるで星々を散りばめた宝石箱のようで、デートの雰囲気を盛り上げるのに一役買っている。

その公園の名前を聴いて、香の手は止まった。
それまで電卓を叩きながら数字と睨めっこしていた香の気配が変わったことと、
テレビからの情報が無関係で無いことは撩にもすぐにわかった。
他でも無い撩自身でさえ手にした愛読書には集中出来ず、思わず過去の出来事に引き戻されそうになったのだ。
多分、互いに思い出している出来事は、同じだ。
あの時までの撩は、自分の気持ちに向き合う事を避け続け、
心の中に無意味な言い訳をやまほど並べて精神のバランスを保っていた。
本当は初めて逢った日からずっと、彼女に恋焦がれていたことを認める訳にはいかなかったからだ。
ただでさえ自分のせいで警察官としての兄を奪い、その数年後にはその兄自身すら彼女から奪った。
転がり込んできた彼女から普通の女としての幸せを奪い、彼女の想いに気が付いていながら知らない振りをした。
その全てが己の背負った業に因るものだと撩は考えていたから、彼女の気持ちに対する返事など持ち合わせていなかった。
答えを出すことは、撩にとっては己の罪に対する責任を放棄するのに等しいと思っていた。
香を特別な感情で見ることを、意識的に避けてきた。
あの夜を仕組んだのは、お節介で悪戯好きな香の親友だった。
短い依頼の間に、彼女は撩と香の微妙な関係に感づきお膳立てを企てたのだ。
互いに普段は縁の無いような高級な衣服に身を包み、香は化粧を施しウィッグまで着けてまるで別人だったけど、
決して別人ではなかった。
それは撩が見ない振りで避けてきた現実を突き付けられただけのことだ。

槇村香は美しい。

知っていた、けれど知らないことにしていた不都合な事実だった。
待ち合わせのバーのカウンターで、種明かしをしていつも通り口の悪い男を演じて茶化すことも出来たのに、
何故だか撩は出来なかった。
抗えなかった。
それは撩が、それまで強固に戒めてきた己の中の決まりごとを破ってしまったはじめだったのかもしれない。
このまま巧く化けた彼女に気付かない振りをして、デートを楽しみたいという気持ちに抗えなかった。
香がどう出るのか、それを愉しむ気持ちも少しだけあった。





香はそれまで気にも留めていなかったテレビの情報が、
あの夜デートしたあの場所だと気が付いて、心がざわめくのを感じた。
あの頃はまだ、自分の気持ちに蓋をしていた。
知られたら、想いを告げたら、それは撩との関係が終わることを意味していると思っていた。
あの夜から数年経った今、撩とは仕事以外のパートナーでもある。
もう気持ちに蓋をする必要も無いし、
あの頃、頑なに考えていた様々な悩みは今では思い出せない位に些細なことに変わった。
結論から言えば、関係が進展しても2人が終わることはなかった。
今がどんなに幸せで撩に愛されている実感を得ていても、あの夜を思い出した瞬間に香の胸は一瞬で張り裂けそうになった。

忘れかけていた筈のあの頃は、まだ香の胸の中でちゃんと息をしていて強く香の心臓を握り潰す。
今にして思えば、あのバーのカウンターでナンパ男を追い払った撩にいつもの調子で軽口を叩いても良かったのだ。
それでも香はそうしなかった。
少し良い服を纏っただけで、普段し慣れない化粧をしただけで、
毎日顔を突き合わせている自分に気が付かない相棒を、どこまで騙せるか好奇心があった。
少しだけ、自分以外の女性と遊ぶ普段の撩が見てみたくなったのと、
そういう女性たちの立場になってみてどういう気分がするものか、味わってみたかった。
結果、香には苦い思い出としてあの晩のことが残っている。
優しい言葉も眼差しも、それは自分以外の誰かに向けられたものだと思うと、嬉しさより虚しさが募った。
心の奥底で求めてやまない口説き文句も愛情も、自分に向けられていないのならばそれは無いのと同じだ。
はじめは楽しかったデートも、途中その事実に気が付いた後は胸が痛むだけだった。
自分がいつもの自分だったなら向けられることも無かった筈の言葉を貰っても持て余す。
あの晩の唯一の救いは、なんとか苦しい言い逃れで独り現実へと帰って来れたことだった。
撩よりも先に家に帰りつき、メイクを落として変装を解いた。
香が憧れているロングヘアーも、まるで自分ではない誰かを見るようで心が痛んだ。
撩が帰るまでにいつもの自分に戻っておきたくて、急いでシャワーも浴びた。
それがあの夜の全てだ。
香はあの夜に一度、撩への恋心を封印する決意を固めた。

それから今に至る間に、紆余曲折を経て香は撩を愛している。
彼が原因のストレスも沢山あるけれど、喧嘩をしたり仲直りしたり笑ったり泣いたりして普通に暮らしている。
沢山泣いた片思いの日々を忘れかけていると思っていたけれど、
記憶は簡単にあの頃の胸の痛みまで生々しく思い起こさせた。

あの夜のことをこれまで、互いに話題にしたことがなかったことに昼下がりのリビングで2人は気が付いた。










あの夜さ、



先に口を開いたのは撩だった。
あの夜がどの夜か、香にだってわかっている。
撩が次の言葉を紡ぐ前に、香が言葉を継いだ。



アタシね、あの夜自分のことがすごく嫌になってね。撩に恋するのもうやめようと思ったんだ。



そう言った香は、懐かしそうに目を細めて微笑んだ。
笑いながら目の縁に、薄く涙が滲んでいるのを撩は見逃さなかった。
無意識にソファから降りて香に近付くと、頬に落ちた雫を指で拭った。



でも気持ちを無かったことにするのって無理でしょ?だから意地でも撩の傍に居座って良かった。



ニカッと大きく口を開けて笑いながらそう言った香は、もう泣いてはいなかった。
照れ臭そうに笑うけど、気持ちを隠すことはしない。
撩の胸に凭れて甘えることも出来るようになったから、2人とも孤独ではない。
香の柔らかな癖毛に顔を埋めて、撩はあれから言えなかった本当の気持ちを言える気がした。




あの夜、ほんとに好きだと思ったんだ。おまえのこと。




今思えば、あの夜が境目だった。
あの時まで撩はまだ心の何処かで、いつか香と離れる未来も思い描いていた。
けれど実際には、もう引き返せない所まで来てしまっていたことに気が付いてしまった夜だった。
今度の3月23日、数年後のあの日にもう一度あのデートのやり直しをしようと、撩は思った。














都会のシンデレラの続きを妄想。

81.日常のすぐ隣

向かいのアパートから騒音が聞こえる深夜2時、ミック・エンジェルは少しだけ複雑な気持ちになる。
きっと腐れ縁のアイツは歌舞伎町で飲み歩いてきた振りをして、相棒に制裁を喰らったのだろう。
ついさっきまで一緒にいたミックと撩は確かに数杯の酒を引っ掛けて家路に着いたけれど、
飲み歩いたというほどのものでも無いし、かわい子ちゃんが接客してくれるような店で飲んだわけでもない。
教授経由で請けた依頼は、情報収集をミックが行い、実働を撩が行った。
今夜、都会の片隅でしょうもない輩が始末されたことを知っているのは、ごく限られた関係者数名だけだ。
道化を装ってパートナーにお仕置きをされるのと、こうして恋人が不在の真っ暗な部屋に帰るのと、
果たしてどちらが幸せなのだろうとミックは思う。
別に汗を流して労働したわけでも無いけれど、後味の悪い「仕事」と煽ったアルコールの臭いを消す為に、
シャワーを浴びたらまだ、締め切りの迫っている仕事を幾つか片付けなければいけない。
生憎、ミックの恋人は仕事熱心なので、ミックが外で何をして何時に帰ろうが、
残念ながらお向かいの彼女のようなかわいいお仕置きなんて用意して待っててくれることは無い。
日常と非日常は、意外にも隣り合わせに存在している。
同じ夜を沢山の人々が安らかに過ごしている時に、闇に乗じて汚れ仕事を黙々とこなす男もいたりする。




やぁ、カオリ。


まだまだ爆睡中だった相方を放置して見に来た伝言板には、待望の3文字は記されていなかった。
軽く落胆の溜息をついたところで、香は声を掛けられた。向かいに住む友人だ。


おはよう、ミック。


朝から彼女は清々しいと、ミックは無意識に目を細める。
結局、あの後3つの記事を書き終えてベッドに入ったのは、明け方近くだった。
窓際のデスクで仕事をしながら観察をした結果、彼女は撩に制裁を加えて15分ほど後に、
自室に引き上げて就寝している。彼女の生活パターンは概ね、把握している。
起床時間は、決まって6時30分だ。
逆算すると彼女の睡眠時間は正味4時間ほどだが、
まるでしっかりと8時間くらい睡眠を摂ったかのような清々しさで、無意識にミックのハートを射抜いてくる。
それでもこの後、ミックの言葉で多少なりともこの笑顔が曇るのは解かってはいるのだけれど、
ミックとしては言わなければならないのだ。
その為に、こんな時間にここに待ち伏せていたのだから。



昨日はごめんね、カオリ。

何が?

カズエが不在だったからさ、リョウを飲みに誘っちゃって。遅かったろ?昨夜。

ミックだったのぉ、もうっっ。

おぉ、ごめんよ。昨夜はボクの奢りだったからツケは増えてないからさ、カンベンしてくれよ。

んもぅ、仕方ないわね。

そのお詫びといってはなんだけどさ、カオリ。

ん?

駅の向こう側に出来た新しいカフェに行かないか?勿論、ごちそうするよ。

でも、撩の朝ごはんのお世話しなくちゃだし・・・

良いじゃん、どうせまだアイツ寝てたんだろ?放っておけよ、たまには。

ん~、でもぉ・・・






昨夜の「仕事」には、まだ続きがあった。
香をミックがこうして暫く足止めしている間に、撩はアパートのすぐそばの歩道橋から、
通り過ぎる黒塗りの車の後部座席を狙って狙撃する。
タイミングはほんの一瞬で、一か八か一発勝負だ。
この瞬間を逃すと、この次チャンスがいつ到来するか読めない相手なのだ。
撩とミックはうまいこと役割分担をして、恙無く依頼を遂行した。








りょお、起きて!!朝ごはん出来たわよ。



そう言って香が撩の寝室に入って来たのは、もう朝とは言い難い時間であった。
朝から一仕事終えた撩は、また何事も無かったようにベッドに潜り込んで今に至る。
このままうだうだと布団に潜っていたら、その内彼女は痺れを切らして布団を捲るからそれを待つ。
毎朝恒例のいちゃいちゃタイムだ。
ブラインドが勢いよく開けられ、突き刺すような午前中の光が部屋中に溢れる。
彼女の足音がベッドのすぐ傍まで近付く。
彼女が布団の端に触れたその瞬間、撩はすかさず彼女の手首を掴む。
不意を突かれた彼女がバランスを崩して盛大に、撩のベッドへとなだれ込む。
腕の中に囲い込んだ香の匂いを、まるで野良犬のように撩がクンクンと嗅ぐ。


なんか、旨そうな匂いがする。


そう言われて、香はギクリとした。心当たりは大いにある。
結局、ミックの魅惑的な誘いに乗ってモーニングプレートをごちそうになった。
ミックは美味しそうなタンドリーチキンとレタスのサンドイッチが乗ったプレートで、
香はメイプルシロップとホイップクリームたっぷりのパンケーキのプレートを食べた。


きききき、気のせいじゃないの?


近付いてくる撩の唇を避けるように、香はひらりと身を翻すと間一髪ベッドから抜け出すことに成功した。
白々しく明後日のほうを向いて乱れた衣類を正す。
最近の撩は油断ならない。少しでも隙を見せるとこうして付け入ってくるから、香もかわすのが上手くなった。
ご飯出来てるよ、そう言って撩に背を向けた香の耳朶が真っ赤になっているのを見て、
撩は思わず笑いを噛み殺した。大丈夫だ、ミックと撩の作戦は、無事彼女に悟られることなく成功した。
別に今更なことは撩にも解かっている。
今更、撩が請け負う仕事の内容に関して、香がどうのこうの口を出すとは思ってもいないけれど、
知らないなら知らないほうが良い世界もある。
それに関しては、ミックとも見解は一致している。
大事な女に、薄汚い醜悪な世界など見ていて欲しくはない。
それは彼らのエゴに過ぎないのかもしれないけれど、
彼女に似合うのは朝の清々しい空気のような、平和な夜の静寂のような何でもない普通の日常なのだ。
たとえ、日常のすぐ隣にぽっかりと開いたブラックホールのような暗闇が広がっていたとしても、
撩は必ず彼女の手を取って、その暗闇に落ちてしまわないようにエスコートする。
恥ずかしそうに階下に降りて行った彼女の背中を見送りながら、
撩はキッチンに用意された朝食を思う。
夜と朝のギャップが大きければ大きいほど、その朝の大切さが身に沁みる。
今日も2人の日常が始まる。





46. 願わくば

「家族の形に決まりってないけど、やっぱり嫌な仕事だったな」


ひとしきり求め合ってようやく熱も収まりかけた寝室で、そう香が呟いたので、
まだそのことを考えていたのかと、撩は苦笑した。
ヘッドボードに凭れて煙草を吸う己の隣で、枕に俯せた彼女の裸の背中と尻は眩いほどに白い。
ベッドサイドのオレンジ色の照明だけが灯った薄暗い部屋で、
彼女の肌はまるで発光しているかのように輝いていて、撩は無意識に彼女の背中を撫ぜた。

依頼人は、親との関係を抹消したいと相談に来た。
子供の頃からあらゆる虐待を受け、まともに育てられた記憶は無いという。
親元を離れられる年齢になって社会に出た時は、清々した気持ちになって自由を味わった。
そして社会に出て、所謂世の中の『普通』というものを知り、
自分の子供時代が如何に失われたものだらけだったのかを知ったという。
そのことが原因で、幾つかの心の病気にも悩まされた依頼人だが、今では仕事での成功を収めた。
親元を出て以降、連絡を取ることは無かったが、何処で嗅ぎ付けたのか、
親は現在の依頼人の居場所と地位と、年収を知っていた。
独りの力で何とかこれまでやってきたと自負する依頼人が、
そろそろ恋人との結婚を考えようかと思い始めた矢先の、最悪のタイミングだった。
依頼人は別に、親に対して暴力的な復讐心がある訳でもない。
ただひたすら、もう関わりたくないのだという。
彼の人生に必要なのは、自分に害しか齎さなかった両親ではなく、
彼を支えてくれた大切な『他人たち』だった。
そういう話なら、うちよりも弁護士事務所のほうが適任では?と提案したのは香だった。
一応、何でもやります、とビラに書いてはいるけれど、
どう考えても冴羽商事に出来ることがあるのかどうか、疑問に思えたからだ。
撩は特に何も言わず、香と依頼人のそんなやり取りを静観していた。

「弁護士を交えて話す、ということは少なからず相手と話し合う余地があるということです」

依頼人は、ジッと香の目を見ると、穏やかにそう言った。
依頼人曰く、彼等(両親)と今更、話し合うことなど何もなく、
ただ生物として親であるという事実だけで、幼い子供を蹂躙し、
その上この先、搾取する気で近付いてくる人間と、まともに話し合う時間や労力を使いたくない。
大切なのは、今自分の傍に居てくれる人間関係だけだという。

「私たちに、何をご依頼ですか?」

そう訊ねた香に彼が言った依頼内容は、彼の両親に彼が死んだと思わせて欲しいというものだった。
自分の存在がこの世から無くなれば、彼等も諦めるだろうと。
実際には、彼は死なないし、これから先もこれまで通り生きていく訳だけども、
彼の両親にだけ、彼が死んだと思わせる。
少しばかりいつもと毛色の違う依頼ではあるものの、
困惑の表情を浮かべる香をよそに、それまで沈黙していた撩があっさりとその依頼を請けたのだ。
彼の両親に突き付ける為だけに、幾つかの公的な書類を偽造し、
SNSなどのネットで拾える彼の情報について、ごく限られた範囲で抹消もしくは捏造する。
それには撩が使える様々なコネクションが活かされた。
彼の毒親の元に、撩と香は弁護士を名乗って訪れた。
彼が死んだという証拠となる偽造された書類を渡し、彼の遺言に則りこちらに赴いたと説明し、
生前の彼の意思に基づき、財産も然るべきところへ寄付し、両親に遺すものは何もないと伝える。
勿論、(書類の偽造以外に)法的に問題が無いかどうかは、
新宿の片隅に怪しげな法律事務所を構えている、強面の不良弁護士の監修済みのシナリオだ。
依頼人の言葉通り、一般的な常識や教養とは無縁の初老の夫婦に、
これ以上ことの真相を追求する能力も熱意もないだろうことは、撩も感じた。
ただ彼等はこれから先、
経済的に世話になろうと目論んでいた当てが外れて苦々しい表情をしただけだ。
依頼人は実際には死んでいないけど、両親の戸籍から分籍し、表面的には姿を消した。
これが今回の依頼の全てだ。


確かに香ははじめから、この依頼に乗り気でなかった。
撩が何も言わずに依頼を請けた後も、何度か件の不良弁護士に振ってはどうかと、
撩に詰め寄ったが撩は頑として首を縦には振らなかった。
香とて、頭では理解している。
生物学的に親子でも、埋まらない溝がある親子など星の数ほどいるし、
本当に子供にとって、悪魔か鬼でしかない親も存在するということは。
それでも親に死んだと嘘を吐かないと生きていけない依頼人も、実の子供に嘘を吐かれる親も、
悲しくて香はやりきれなかった。
関東の北の外れの依頼人の実家から新宿へと戻るミニの車内で、
香は撩に、こんな依頼は二度と請けないから、と言うとすっかり黙り込んだ。
いつもなら仕事で遠出して長丁場のドライブを余儀なくされても、
香が何かと話し掛けてくるから撩が時間を持て余すことは無かったが、
今回の香は色々と思うところがあったらしい。

しかし、思うところがあったのは、撩も同じだ。
望むと望まざるにかかわらず、撩の『親父』はこの世であの男一人だ。
もしも撩が親父に拾われることが無かったら、あの時にとっくに死んでいただけだ。
生きていて何か得があったかと訊かれれば、別に何も無かった気もするけど、
少なくとも生きていなければ、香と出逢うこともなかった。
撩の中には、確かに大きく矛盾する感情が存在する。
ひとつは、海原神に対する愛情と感謝、もうひとつは彼に対する激しい憎悪の感情だ。
海原神は、まるで楽しい玩具を手に入れた撩からそれを取り上げるように、撩の相棒たちを殺した。
海原にとって何の関係もないような人間も、撩が気を許し、好意を向けた瞬間に殺しに来た。
まるで撩が海原以外の誰かを慕い、愛着を抱くことを邪魔するように。
そうする内に、撩は誰かと深く関わることを意識的に避けるようになった。そして、今がある。
海原を己の手で葬って、こうして香を愛するようになった今、
海原によって生かされてきた自分の運命を思うと、
これまでの不幸よりも少しだけ、これからの幸運が上回ってきたように思える。
依頼人が害悪だらけの親を憎む気持ちが、撩にはよく理解できる。
一度リセットして、自分の人生を生きたいと願う依頼人の気持ちを後押ししたかった。
依頼人が両親に対して復讐したいなどとは思わずに、
唯々そっと別の道を歩きたいと願うことが、とても善良に思えた。
撩は海原を殺すことでしか、彼と向き合うことが出来なかったから、尚更そう思うのかもしれない。


撩はサイドボードの上の灰皿で煙草を揉み消すと、彼女の横に寝転んだ。
横向きに肘をついた姿勢で、彼女の背中に見惚れる。


「世の中にはどうしようもない親もいるからな」


撩がそう言うと、香は横目で撩を見詰めた。しばらく二人は言葉もなく見詰めあった。
撩にそれを言われると、香は何も言えなくなる。
きっと二人が思い出すのはあの白い船でのことや、香の兄の死やミックが日本に来た経緯の色々だ。
それにソニアの父であるケニーのことも、海坊主の視力を奪った元々の原因も。
全ての元凶は、あの撩の毒親のせいである。
香が兄と血の繋がりの無いことを知ったのは、高校受験前の中学3年生の時だった。
香は自分の経験上、家族に血の繋がりは必要ないという考えだ。
けれどそれと同時に、槇村家へと養われてくる以前の、本当の自分の親のことは何も知らない。
どんな親であれ、香の親には違いないだろうけど、
その親は香が今こうして生きて、幸せでいることを知らない。
それだけは、とても悲しいことのように思うのだ。
勿論、家族という意味ならば、香の家族は死んだ父と兄と、今は撩だけだ。


「家族ってさ、自分で作れば良いんじゃない?俺たちならば痛いほど良くわかるだろ」


撩は穏やかで、驚くほど心の広い人間だと、香はいつも思う。
香の想像の及ばないほど、過酷な人生を背負ってきた筈なのに、
いやそうだからか、途轍もなく優しい。


「そうだね、彼にも幸せになって貰いたい」
「なるさ」
「うん」


依頼人は毒親ときれいサッパリ縁を切って、恋人にプロポーズをするつもりだと言った。
香は裸のまま俯せているのを肌寒く感じて、
二人して足元に蹴飛ばしたタオルケットを胸元まで引き上げると、包まって仰向けになった。
撩と愛し合った後はいつも、汗をかくほど暑くなるけれど、
だからといって調子に乗って、撩みたいにいつまでも裸でいると風邪を引いてしまう。


「香」
「ん?」


撩はタオルケットの中の香の左手を握ると、そのまま持ち上げた。
隣同士に寝転んだ二人の顔の前に持ち上げた左手を翳す。


「そのまま、腕あげてて」


撩がそう言ってウィンクしてみせるので、香は思わず意味も解らぬままに頷く。
撩は香によく見えるように、自分の右手の親指と人差し指で小さな輪っかを作った。
その撩の作った小さな輪っかが、二人の目の前に翳された香の左手の薬指に嵌められる。
輪っかは、香の薬指を囲むと、少しだけ力を込めて巻き付いた。


「俺の家族になってください」


その言葉の意味を、香は確かに受け止めた。
指輪など要らない。
撩がただ傍に居てくれれば、それでいいと香は思った。
とっくに自分の家族は撩だと思っている。
返事のキスをして、耳元で囁いた。


「勿論、喜んで」






続き物と別の、お題の更新です(о´∀`о)