① 月夜

冴羽僚は基本的に、仕事を選ばない。
相棒からは仕事の選り好みの激しい男だと思われている節があるが、
本来のスイーパー(始末屋)としての仕事に、良いも悪いも無い。
金の折り合いが付けば、殺るまでだ。
僚は、思想も宗教も持たない。
他人の悪意や憎悪など、そしてそれを対象の始末によって解消する他人の心理などに興味は無い。
殺る方にも、殺られる方にも正義はあって。
それが必ずしも一致しないという事に、人間の悲しみや愚かさがある。
そういう意味では僚は、もしかすると人間を超越した存在といえるのかもしれない。

少し前の僚は、憎悪の心を持たない一方で、何かを慈しみ、愛でる心も持ち合わせていなかった。
執着や愛情と裏表に存在するのは、憎しみや怨みだったりする。
そのような愛憎や人間の欲望とは無関係な世界の片隅でまるで透明人間のように、
僚は引き金を引き続けてきた。








僚は、6階のベランダを見上げる。
アルコールは都合良く、僚の思考回路を鈍く濁らせる。
蛍光灯よりも幾分、暖色系の混ざった暖かな灯りは相棒の色だ。
透明人間は、彼女の前でだけ普通の男に戻る。
自分には不釣り合いなほどに暖かな世界に、僚は時折訳も無く叫び出しそうになる。
暖かくて心地よくて生温いそこに、
僚はいつまでも浸かって居たいのに、そう出来ない性がある。
透明人間がカラフルな彼女を愛する資格は無い。
だから僚はその場所に帰る時には、他人を殺めた自分自身を殺す。


彼女は鬼の様な形相で、僚の帰りを待っている。
それはいつもの事で、何も無い時にも何かがあった時にもそれは変わらない。
ただ何も変わらず、そこに居るというだけの事が。
僚の心をこれ程までに掻き乱すのはどういう事なのか、僚自身は多分解っているけれど。
恐らく互いに知らない振りを続けてここまでやって来た。
僚も香も、本音を誤魔化す事だけ無駄に上手になってしまっている。
それでもこうして待たれる事が、堪らなく苦しくなる夜がある事をきっと香は知らない。





ったくっっ、こんな時間まで何処ほっつき歩いてんのよっ




キャビネットの上に置かれた置時計は、午前2時45分を指している。
日付が変わる前にヒトを殺して、僚はいつもの行きつけでいつものように派手に遊んだ。
アルコールと香水と安っぽい夜の匂いのする店では、硝煙の匂いなど簡単に紛れてしまう。
仁王立ちで腕組みをして自分を見上げる気の強い相棒からは、シャンプーと石鹸の匂いがする。





おめぇには、関係ねぇとこだよ。

はあ゛? なに言ってんの?ウチの家計の状況、アンタ解ってんの???




彼女は時折、チンピラ顔負けの巻き舌を上手に使う。
黙っていれば別嬪の彼女を、こんな気が強くて恐ろしい女にさせているのは自分なので、
僚はいつも本当は申し訳ないと思っている。
けれど、僚はこういう風にしか生きられないから、
それに自らの意思で付き合っている馬鹿な女の自業自得だとも思っている。
人間の心持というものは、移ろいやすく。
それは僚とて例外では無い。
こんな相棒が可愛いと思う日もあれば、心底疎ましい日もあるし、
例えば今夜のように訳も無く劣情を煽る事もある。
ついさっき新宿の裏路地で夜空を見上げれば、やけに黄色くて大きな月が出ていた。






っるせぇよっ グダグダ抜かしてっと 犯っちまうぞ



はあ?何、ブツブツ言ってんの?? 人の話し聞いてないでしょ?全然





思わず香が手を出しそうになる直前に、僚の方が香の腕を捕る。
そもそも本気を出せば、香の抵抗など僚にとっては毛ほども効かないのだ。
ソファの手前のラグの上に乱暴に香を押し倒すと、香に跨って動きを封じる。





グダグダ抜かすと、犯すぞって言ったんだよ。




そう言って僚は、力任せに香のパジャマの胸元を寛げた。
初めて彼女の乳房を拝むシチュエーションとしては、最悪だった。
何か僚自身にも得体の知れない衝動が、僚を動かしていた。



けれど組み敷かれた床の上で、いつもとは違う僚を香はちゃんと観察していた。
弾けたパジャマのボタンが、ソファの下へと転がって行くのを確認できる程度には冷静だった。
きっと、方向性が違っても、
2人の間に存在するモノは、絆と愛情なのだと香は信じている。
たとえそれが、他人には理解し難い事だとしても。
だから香は、目の前のこのパートナーを怖いと思った事など1度たりとも無い。
勿論、これから先もきっと、ずっと。




これまで変化する事をどんなに恐れ続けて、誤魔化し続けてきていても。
現実問題として変わり目は、意外と急に訪れたりする。


(つづく)



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[ 2014/06/16 21:10 ] 水鏡 | TB(0) | CM(0)

② 酷暑

槇村秀幸は、首筋を流れる汗をハンカチで拭った。
今年の夏は、例年に無く暑い。
薄グレイのコットンは、素早く水分を吸収するのと引き替えに、
綺麗にアイロン掛けされた折り目を曖昧にしてゆく。
秀幸のハンカチにアイロンを掛けるのは、高校3年生の妹だ。
彼女はいつも自分の制服のブラウスと秀幸のワイシャツと、2人分のハンカチに丁寧にアイロンを掛ける。
幼い内に養父母を亡くした妹に、家事全般を教えたのは秀幸だった。
香が小さい頃は、秀幸が留守にしている間は、熱源のある家電は使わないように厳しく言い付けていた。
それがいつの間にか、香はガスの火を使い、アイロンも掛けるし、もう高3になった。
そりゃ、自分もいい歳にもなる筈だと秀幸は思う。


それにしても、依頼人はやって来ない。
真夏の炎天下にもうかれこれ、20分は待たされている。
伝言板のメッセージに不審な気配は無かった。
書かれていた文字は恐らくは女性の筆跡で、連絡先の電話には同じく女性が出た。
元交際相手からの執拗な嫌がらせを受けているので、
なんとか相手を刺激しない形で幕引きにしたいという。
電話でざっくりとした事情を聴く限りは、まともといえばまとも過ぎるような依頼だった。



秀幸が腕時計に視線を走らせること幾度目かに、そいつは現れた。
秀幸の刑事時代からの根城は新宿だし、仕事柄ホームレスと接する事には慣れている。
今更、何も思わないけれど。
このくそ暑い季節に、彼らが近付くと臭いでそれと解る。
彼らは皆一様に浅黒く日焼けをし、垢に塗れて本来の肌の色が解らなくなっている。
年齢を推し量るのが非常に難しいけれど、そいつは恐らくどう若く見積もっても50代後半だろう。
彼らの年齢を判断するときに、見た目よりも7~8歳若く見積もるのは、
刑事の頃に培った勘と経験によるものだ。
それにしても、ここいらのホームレスの顔ぶれは大体頭に入っているつもりだったが、
そいつはニューフェイスだった。


そいつは何も言わず秀幸に近付くと、1つの茶封筒を渡して雑踏の中へと消えた。











で?そん中に入ってたのが、これ?


ああ。





秀幸の相棒で労働担当の冴羽僚は、相変わらずである。
秀幸が一連の奇妙な出来事を体験して、
昼過ぎにアパートに顔を出した頃に、ようやく起き出してきた。
鼻が曲がるほど酒臭い。
起き抜けに何をするよりもまず1番に、クソ重い煙草を吸い始めた。
炊事場に立つ秀幸の背後のベンチに座って、その報告を聴いている。


封筒に入っていたのは、小さな鍵だった。
白いプラスチックの板にはナンバーが刻まれていて、
秀幸にはそれに見覚えがあった。
鍵は新宿駅南口のコインロッカーのものだった。
その鍵の指し示すロッカーの中に、今僚が手にしているものが入っていた。






これがホントに槇ちゃんの妹だって根拠は?






僚は一枚の写真をピラピラと揺らしてみせる。
コインロッカーの中から出てきた写真だ。
そこに写っているのは、一人の少女。
夏服の制服に身を包んで恐らくは、彼女の学校の付近であると思われる歩道を歩いている。
すらりと伸びた手足。
しゃんと伸びた背筋。
首から上だけ、カッターナイフでズタズタに切り裂かれている。
しかし、首もとにうっすら写り込む襟足の癖毛は柔らかな栗色だ。




間違いないよ、香だ。
その鞄にぶら下がったマスコットは、アイツの手作りだ。





確かに、彼女の華奢な腕に提げられた通学鞄には、
フェルトで作られたハンマーの形のマスコットが付いている。






ふふふ、どういう趣味してんの?お宅の妹。





僚は鼻の穴から煙草の煙を盛大に吐きながら、そういって笑ったけれど。
確かに、それがあの“SugarBoy”だということはすぐに解った。
手足の長さから察するに、4ヶ月前のあの時よりも背は数cm伸びていそうだ。
夏季の制服の薄いブラウスの下の胸も、確実に少し膨らみを増している。
僚の特技の1つに、一見でボディサイズを言い当てるという、何の役にも立たないものがある。
しかし膨らんだとは言え、恐らくは僚の好みからは些かほど遠い微乳には違いない。




夏休みに入ったにも拘らず、某都立高校の3年生クラスは夏期補習があるので、
学校には通常通り通っている。
香は毎朝、通学で新宿駅南口を利用する。
これの意味するところは、いつでも彼女に接触する事が可能だということで。
これをわざわざこんなに回りくどいやり方で警告してきた相手に、
悪意や敵意が無いとは考えにくいだろう。







調べてみる必要がありそうだな。



僚はそれだけ呟くと、秀幸の作ったブランチを黙々と食べ始めた。














たった数年前の事なのに、
あの頃の秀幸も僚も確かに若かったんだなと、今の僚なら解る。
殺る方にも殺られる方にも、それぞれの正義がある。
殺る方にも殺られる方にも、守りたいものや大事なものがある。
だから、その時こそが僚の出番だと僚は信じて疑わなかったし、たとえ今の僚でもそうしただろう。
僚には相方と違って、己の命以上に大切な家族など居なかったし、
これから先にもそんな存在はないだろうとあの頃はそう確信していた。


こんな日が訪れるとも知らずに。



(つづく)





[ 2014/06/17 19:10 ] 水鏡 | TB(0) | CM(0)

③ 彷徨

金の折り合いが付けば仕事は選り好みしない僚だけど、殺しが必ずしも金の為とは言い難い。
むしろ、僚がこれまでやってきた大半はそうではない。
プロのスイーパーとしてやり始めたのは、北米に渡ってからだし、
それ以降も何かと絡まれる事の方が多いのはもう仕方の無い事だと割り切っている。
殺し屋なんて割に合わない商売だ。




それは数日前の事だった。

僚がナンパという名の縄張り巡回(まるで野良犬だ)に繰り出していた時に、
1人のホームレスが僚に近付いた。
見慣れぬ男だった。
この辺りの奴らなら、大抵は知っているけれど初めて見る顔だった。
男は僚に茶封筒を寄越すと、あっと言う間に雑踏の中へと紛れて消えた。
この辺りで、僚は嫌な既視感を覚えていた。
思わず掌に汗が滲む。




封筒の中には、僚の想像通り新宿駅東口のコインロッカーのキーが入っていた。
ロッカーの中身は、僅かに写真が3枚。
東口の伝言板の前に佇む女の後ろ姿が1枚。
キャッツの近くだと思われる歩道を歩く女の姿が1枚。
僚と彼女が暮らすアパートの6階ベランダで、洗濯物を干す女の姿が1枚。

言わずもがな、女は香だ。

3枚全て、香の顔の部分は煙草を押し付けて焼き潰したようになっていて、
他人が見れば判別は付かないだろうが、僚に判らない訳は無い。
その3枚の写真を手にとった瞬間、僚は全身が総毛立つのを感じた。
これはあの時の事件を踏襲しているに間違いはない。










・・・か、おり



組み敷いた僚の腕から、若干力が弱まるのを香は感じた。
凶暴な獣のような光を湛えていた漆黒の瞳も、その力を弱めて代わりに小さく揺らめく。
じっと見つめ続けている香にしか気付かないであろう、微かな変化だった。
爛々と光っていた瞳は一転、苦しげに細められる。
掠れた声で小さく、僚は香の名を呼んだ。
それでも瞳は香を捕らえてはいない。
一体、何がこんな風に僚を苦しめるのだろうと、香は悲しくなる。










僚はまず1番に、昔の件をもう1度調べる必要があると考えた。
あの件を、香は知らない。
僚以外に知っているのは、槇村だけで。
槇村はもうこの世にはいない。
そして知っている人間がいるとすれば、それはもう片方の当事者だ。




結局、秀幸を呼び出して姑息な脅しを掛けてきたのは。
手広くヘロインの密売を行っていた男だった。
都内だけでなく、関東一円にそのマーケットを拡大して、
そう大きくは無いヘロイン市場を席巻していた。
あの頃の、僚と槇村のコンビは薬物に関連する事件に関わることが多かった。
無作為に依頼を受けていたつもりだったが、
僚は僚でユニオンテオーペの動向を探る為に常にアンテナは張っていたし、
槇村は妹と同年代の年端もいかない若者たちが、
薬物に溺れて犯罪に手を染める事を、最も危惧していた。
恐らくあのままいけば遅かれ早かれ、奴も関わる事になるだろう相手だった。
噂ぐらいは聞いていたのかもしれない。
徹底的に薬の売人を始末しているらしい始末屋がいると。


覚醒剤や大麻に比べて、一般にヘロインは流通量が少ない。
そもそも、古代から利用されてきた麻薬である反面、
その依存性の高さから世界的に見ても規制の厳しい薬物の1つなので、
チンピラが小遣い稼ぎのシノギとして扱うにはリスクが大きすぎる。
けれど、その流通のパイプさえ充分に確保出来ていれば、同時に美味しい商売ともいえる。
現に、その男はかなりの利益を上げていた。


どんな薬物より依存性が高いので、薬欲しさの阿片中毒者を意のままに扱うことは難しい事ではない。
伝言板に書き込んだ女や、電話の取り次ぎ役をした女は、奴の奴隷だった。
趣味の悪いスナップ写真を撮って寄越したその男の、
さながら阿片窟のようなねぐらに踏み込んで始末したのは、槇村から報告を受けて3日後の事だった。


その男は、確か中国系だったと僚は思い出す。
ウジ虫みたいな奴だった。
ヘロインを密売するだけでは飽き足らず、
薬漬けにした女を複数囲い、客を取らせたり、犯罪の片棒を担がせていた。
使いものにならなくなった女は切り刻み、その薬に侵された臓器すら売り物にした。
そいつ1匹消しただけで、何も大した事ではないとその時の僚はそう思ったのだ。
むしろ、1つ掃除が片づく位の感覚だった。
そういう男にも、守りたいものがあった事など僚の知る由でも無いし、興味も無かった。











・・・かおり


なぁに?



人の名前を呼ぶくせに、僚は訊ねても何も答えない。
きっちりジャケットまで着込んだ僚の下の自分は、露わに乳房を晒している。
けれど香は、不思議と恥ずかしいとは感じない。
きっと、僚の雰囲気がいやらしいと感じないからかもしれないと、香は思う。
僚は恐ろしいほど酒臭いのに、香は何故だか今目の前にいる僚が、
まるで行き場を無くした迷子のように見えた。












1杯、ご馳走させて貰えませんか?




その酒場でその女に声を掛けられる事まで、全てが僚の計算に基づいた夜だった。
唯一、計算違いがあるとするならば。
起きて自分の帰りを待っていた相棒に、欲情したこと位か。

女は美しかった、悲しいほどに。





佐々木真由子さんですね?



そう僚が答えると、彼女は妖艶に微笑んだ。
死の匂いや闇の匂いはきっと、普通の人間には嗅ぎ取る事など出来ないのだろう。
けれど僚は、もう長いことそれを生業にして生きてきた。
血生臭い死の上に僚の生が成り立っている。






あら、ご存じなら話が早いわ。ロッカーの中の贈り物はお気に召して戴けたかしら?





(つづく)



[ 2014/06/18 19:52 ] 水鏡 | TB(0) | CM(0)

④ 回帰

※ ちょっとグロテスクな表現が、中程にございます。すみません





彼女の使う名前は通り名で、実の名を張真由子という。

彼女は中国人の母親の私生児で、父親の国籍は元より父親が誰であるのかすら不明である。
生まれは池袋だ。
彼女の母親は、若い頃に金を稼ぐ為に単身で来日した。
しかし、若くて何の取り柄もない中国人の女に出来る仕事は限られていて。
彼女の母親は程なくして、売春婦へと転落してゆく。
彼女には、兄がいた。
兄の父親もまた不明だが、真由子の父親とは別人物だ。

歳の離れた兄妹は、最底辺の暮らしの中で肩を寄せ合って育った。
兄は母親を憎み、世の中を怨み、他人を蔑んだ。
一方で、妹の事は溺愛した。
若い頃からの自堕落な生活が祟って、2人の母親は娘が小学生になる前に死んだ。
それから男は、妹の為に金を稼いだ。
最底辺の人間が這い上がる為には、何でもした。
それがたとえ、ヘロインの売人だとしても。






バーを出て、女の先導するままに僚は付いて行った。

彼女の最愛の兄を殺したのは、僚だ。
たとえその男がウジ虫の様な薄汚い人間でも、彼女にとっては唯一の愛すべき肉親だった。
兄を殺された時、彼女はまだ高校生だった。
全てを失った。
本当に全てだ。
それまで、他人の生血を啜るようにして己が育てられて来た事など、彼女は知らない。
幸福なかごの中の鳥だった。
何も解らぬままかごから出された彼女は、皮肉にも母親と同じ道を選んだ。
売るのは自分自身以外、何も持たなかった。
闇の世界に身を投じた彼女に、兄の昔馴染みが彼女に囁いたのが。
兄の仇である、冴羽僚という名前だった。




僚は女を斜め後ろから眺めながら、考えていた。

もう一つの、寂しい兄妹の事を。
片や薬の売人と売春婦なら、もう一方は兄妹揃って殺し屋の相棒だ。
何が良くて何が悪いのか、僚には解らない。
世の中の一般的な常識の枠内で捉えると、僚の人生は真っ黒だ。
片棒を担いでいる相棒も、元相棒も同じだろう。
でも、相棒を悪だとは僚はどうしても思えないのだ。
あの底抜けにポジティブで生命力に溢れ慈愛に満ちた女が悪なら、世の中の大半は汚物だ。


それではこの目の前の、自分に復讐をしようとしている女はどうだろう。


これが何かのボタンの掛け違いで、その女が香でなかったとは言い切れない。
ほんの小さなはずみで、悪も正義も敵も味方も殺すも殺されるも変わってしまう。
そして僚は、あの頃と違って。

喪いたくないものが出来てしまった。
どうしても守りたいもの。
愛おしくて堪らないもの。
僚は自分の人生に唯一の、煌めく宝石を見付てしまった。










僚は組敷いた香の裸の胸に顔を埋める。


自分のものとは恐らく、細胞から成り立ちまで全てが異なるのではないかと思うほどに滑らかな肌からは、
柔らかで清潔な匂いがする。
何て言えば良いのかなんて解らないから、僚はもう何度目だかのその名前を呼ぶ。
掠れた音を出す喉は窮屈で、胸の奥からズキンと痛む。
僚は長いこと忘れかけていたけれど、これは確か涙が溢れる前兆だ。




掠れた僚の声が、香の名前を何度か呼んだ頃。
香は僚の肩を押して、顔を上げさせた。
掴まれていた香の両手は、いつの間にか自由になっていた。
僚の腕に囲まれた小さな世界で、香は僚の頬を掌で包む。





ひどい顔。

っっるせぇ。




虚勢を張っても、僚が何かに酷く傷付いている事は明白だ。
いつもなら、鉄壁なポーカーフェイスの仮面を決して外さないくせに。
今夜はやけにあっさりと降参したらしい。







でも、そんな顔してる時に呼んでくれたのがあたしの名前で嬉しかった。
なんか必要とされてるみたいで。

・・・・・・・ばぁか。



僚は改めて生意気な相棒の両手を押さえ込むと、もう一度その胸に顔を埋めた。












僚は女に致命傷を与えることが出来なかった。
とどめを刺すことが、どうしても躊躇われたのだ。
けれど、結果的に彼女を殺したのは自分だったと僚は思っている。



女に導かれて、タクシーに乗って向かったのは。
湾岸沿いの埋め立て地の一画だった。
少し前は開発で賑わっていた界隈も、不況の影響で元々ハリボテのようだった景色が余計に寒々しい。
そこに何の違和感もなく馴染んでいるのは、コンクリートの廃墟だった。
そこは海沿いのバカみたいに派手なラブホテルになる予定だった場所だ。
建設中に施主である大手ゼネコンの汚職にまつわる倒産騒ぎに巻き込まれる形で、
計画は立ち消えになった。



コンクリートが剥き出しの、その空間に。
女のヒールの足音が響いた。
コンクリートの壁を背にして、僚を振り返った女は。
ディオールのクラッチバッグから、S&W M36を取り出して構えた。
引き金を引いたのは、僚が先だった。
彼女は何が起こったのか解らぬまま、壁に背中を預けて頽れた。

息の根を止めずに相手の動きを封じるとき、脚や腕を撃つのは素人で。
僚はいつも相手の骨盤を狙う。
人間の体を支えているのは腰だから、そこを砕かれて立ち上がれる人間はまずいない。
そのまま立ち去ろうと思った。
後は、頭に一発撃ち込んでやれば楽になったかもしれないけれど。
背を向けた僚を、撃つなら撃てば良いと思った。
その為に、両腕を自由にしといてやったのに。


数歩進んだ僚の背後で、こもったような銃声がした。


青黒い闇の中に、首から上が吹き飛んだ女が壁に背を凭せて座っていた。
女は残った気力を振り絞って、38口径の銃口を咥える事にしたらしい。
その光景は、僚に熟した柘榴を連想させた。


一瞬だけ目を閉じて、僚はその場を去った。
僚だけは知っている。
不幸な兄妹が、不幸な生き方しか出来ずにこの世を去ったことを。
それで充分だと思った。
きっと、この世の幸せを謳歌している連中の誰もが、そんな事には見向きもしない。
この夜の出来事は全てが透明で、死んだのは路傍の石ころだ。
たとえば僚が死んだとしても、それは同じ事だ。












・・・ごめん・・・




胸に顔を埋めた僚がそんな言葉を小さく発したのが、香には驚きだった。
今夜の僚に何があったのかは解らないけれど、香は僚を慰めたいと心底思った。





なぁ

ん?

しよっか?




この状況で、何を?と言うまでも無いことは、さすがの香にだって解る。
もうそれほど世間知らずな子娘では無いのだ。
それにしたって、初めてがこれってどうよ?とも思う。
思うけど、妙に可笑しい気持ちになったのも事実だ。
勿論香は、僚が望むなら何だってする。
それが揺るぎ無い香の気持ちだ。





てか、もうちょっとなんか言い方無いの?


今更、おまぁの前でカッコ付けてどうすんだよ?


そりゃそうだけど。





香は思わず吹き出した。
カッコ付けても仕方無いと言った男を、かっこいいと思っている事は本人には内緒だ。






別に、しても良いけど


けど?


キスくらいちゃんとして?






そう言って精一杯、大人びたフリをする香の薄茶色の瞳に薄く涙の膜が浮かぶ。
細い指が僚の耳たぶを触れる。
香の瞳に映り込んだ男の顔は、間抜けなほど腑抜けている。
僚はこの時に気が付いたのだ。
もしも自分がナルキッソスならば、水面に映る己の半身はこの愛しい相棒だと。
善と悪は、表裏の合わせ鏡で。
どんな人間の内側にも、その両面がある。
血生臭い死の上に、僚の生も香の生も成り立っている。
そして、いつの日か誰かの生の礎となる死を迎える日も来るのだろう。


僚は初めて、その柔らかな唇に触れた。
触れた瞬間に、生きている事に感謝した。生まれて初めて。






なぁ、香ぃ?おまえ、男の趣味悪いぜ?


アンタこそ、女の趣味最悪よ?






そんな事を言いながらも、2人は互いに溺れている。
これからもきっと、2人はいつまでも口付けながら笑う。
生きていられる時間は、永遠では無いのだから。




(おわり)




[ 2014/06/19 18:53 ] 水鏡 | TB(0) | CM(2)