※基本スペック※必読※

今回のお話しは、パラレルです。

下記の設定をご確認して、大丈夫全然OK!という方のみ、
第1話へとお進み下さいませ(*´∀`*)ノシ









冴羽僚     

老舗和菓子屋の9代目。
現在は8代目(僚の父)が店主を努める。
僚は、デパ地下の店の方を任されている。
家では、7代目(祖父・隠居している)と8代目と共に男3人暮らし。
家系的に嫁に先立たれるパターンが続いているので、
早く丈夫な嫁を娶れというプレッシャーが半端無い。
僚自身は、本気で惚れた相手がこれまで無く、適当な恋愛遍歴を重ねている。
      


槇村香     

デパ地下のケーキ屋でアルバイトをしている。
何故だか、周りの店のおばちゃんたちにモテモテ。
息子の嫁に来て欲しいキャラ№1
刑事の兄と2人暮らし。
母親は香が物心つく前に他界、警官だった父も香が5歳の時に殉職。



北原絵梨子    

香と同じデパートの紳士服売り場の店員。
香とは、中学生の頃からの親友。



野上麗香  

デパートの受付嬢。
老舗の跡取りである僚に惚れている。(玉の輿狙いという噂もある)



麻生かすみ 

デパートの某海外ブランド化粧品の美容部員。
コチラも僚に惚れている。麗香とは犬猿の仲。
自分は麗香と違って、純粋な恋だというのが強み。



今回のパラレルは、お題『恋の始まり』で10題。に沿って、お話しを進めていく予定です。
久々のパラレル設定で緊張しております(汗)
色々と突っ込み所満載ですが、生温い目でスルーしてやって下さい。 

(お題配布元:天球映写機さま)

スポンサーサイト



第1話 気になる人

ねぇねぇ、あの老舗の跡取りの冴羽さんってどんな人なの?知ってる?香。



絵梨子がお弁当箱の中のおかずを箸で摘まみながらそう言った。
アスパラのベーコン巻だ。
絵梨子はこのデパートの紳士服売り場で働いている。正社員だ。
服飾の専門学校を出て、アパレル企業に就職を希望していた絵梨子は、
なかなか思い通りの採用に至らず、妥協して今の職場にいる。





へ?誰それ?誰の事言ってんの???



香はそぼろの乗ったご飯を大きめの一口分頬張ると、そう絵梨子に訊ねながら薄いほうじ茶を啜る。
デパートの客にはそのスペースの存在など知る由も無いが、
デパートのバックヤードには社員専用の休憩室がある。
社員と言っても、正社員でもアルバイトでもパートでも関係ない。
安い定食もあるけれど、香も絵梨子も基本、毎日弁当持参だ。
絵梨子には、専業主婦の母親が毎日お弁当を作ってくれている。
片や香は忙しい兄との2人暮らしなので、毎朝香が兄の分と一緒に自分で作る。
香はこのデパートの地下食品売り場のケーキ屋でアルバイトをしている。
その店の本店は麻布にある有名店なので、そこまでは足を延ばせないという近くのОLや主婦に人気だ。
休憩室にあるティーサーバーのほうじ茶は、いつも少しだけ薄いと香は思う。





誰って・・・、あんたホントに興味無いのね。同じフロアじゃん、老舗の和菓子屋さん、海原堂って。     


・・・あああ、なんかあるね。それがどうしたの???





絵梨子は少しだけ、呆れたように笑った。
確かに香は昔から、噂話とかに極端に疎いタイプだったのだ、そう言えば。
絵梨子とて、別にその和菓子屋に取り立てて興味は無い。
彼女たちの年代で言えば、むしろ人気は香の勤めているような店のスイーツだし、
実際にその老舗の常連客の客層は、もっとずっと年配の奥様方なのだ。
たまにこうして休憩時間が重なった時に、一緒にランチをとる親友は相変わらずだ。
今現在、このデパートの女性店員を賑わせている最大の噂話もどうやら知らないらしい。
















ねぇ、麗香ぁ 今夜の合コンってどういうメンバーなの?




そう言って新色の口紅を塗り直す同僚に、野上麗香は軽く微笑む。
この職場で唯一落ち着けるのは、他の社員、
とりわけ噂好きなおばさんたちの来ないこの高層階の従業員専用のトイレだ。
短大を卒業して、このデパートの受付嬢として採用されてからもう3年になる。
これまでに同期が3名、寿退社している。
全員が全員相手は、同じ職場の数年先輩だ。
麗香は表面的には祝福したけど、正直、そんな妥協の相手で良いの?と、内心思っている。
それを野心だとか、打算だとか、玉の輿だとか言われようが。
麗香の目標は、あらゆる意味で“良い男”を結婚相手として手に入れる事だ。
それはイコール自分の価値の裏返しだし、
そういう意味で少しでも価値ある相手を追い求める事は、そんなに悪い事だとは思っていない。
結局は恋人など、自分自身に釣り合った相手と縁があると言われるように、
連れている相手によって、自分自身も値踏みされるのだ。
それならば、少しでも自分を高めてくれそうな相手を求めるのは自然な欲求だ。
勿論、逆もまた然りなので、自分を磨く事にも抜かりはない。
だから、麗香は男を選り好みする事に、罪悪感など微塵も感じない。
少しばかり、正直過ぎるだけだ。
それを悪く言う人たちは、こんな私が妬ましいのだと思っている。








外科医の方が2人と、麻酔医の方が1人。


どうするの?もしも、口説かれたら。冴羽さんの事は諦めるの?


まさかっっ。ぺンディングよ。焦ったって何も得は無いわ。





麗香の今の大本命は、老舗の跡取りで尋常じゃ無い程の男前だ。
その店は創業400年を超える、名店で。
その9代目がこのデパートの売り場を切り盛りしている。
ゆくゆくは、銀座の本店を継ぐ若き御曹司なのだ。
育ちは良い。
事業も順風満帆。
オマケに、非の打ち所の無い端正なルックス。
彼が売り場に顔を出す時には、その殆どが和服だ。
スッと伸びた背筋が凛々しい。
背の高い彼が、老舗のボンボンとは思えぬほどの体の鍛え方だという事にも、麗香は着目している。
全てが好みのツボにドストライクで、完璧だ。
ただ1つ言える事は。
これは麗香が勝手に考えているだけの話しで、麗香と彼の間には何の関係も無い。
これまでの麗香のアピールが功を奏して、顔を合わせれば軽い世間話をする程度には打ち解けた。
少なくとも今の所、麗香に対して僚は悪い印象は持っていないだろう事だけは確かだ。
僚という男を本命という照準に捉えて以来、麗香は着付け教室に通っている。
こんな風に、相手に合わせて自分を高める努力が大切なのだと、麗香は考えている。












お客様、この春は少しだけ明るめのお色が流行ですよ。




そう言ってかすみは、今季の新色のルージュを客に勧めながらこの色も買おうと考えている。
寒い時期には、もう少し深い赤が流行っていたけれど。
目まぐるしく流行は移り変わる。
多分、かすみがどんなに化粧にこだわったり、
流行の服や靴に身を包んだり、髪の毛の手入れをしたりしても。
彼女の想い人との接点は殆ど無い。
かすみが初めて彼を意識したのは、半年ほど前の事だった。
かすみの売り場で化粧品を試した年配の客が、彼の店の和菓子の包みを忘れて行ったのだ。
それを売り場に届けた時の対応は、さすが老舗だと思わせる素晴らしいものだった。
かすみの売り場にとっては、初めての客だったけれど、僚の店にとっては上得意の顧客だったらしい。
その包みからどの客の物かすぐに察した僚はその後無事に、忘れ物を顧客の手元に届けたらしい。
そして後日、かすみの売り場にも御礼だと言って差し入れの菓子折りを持って来てくれた。
その時にはもう、かすみは彼に恋をしていた。
それから伝え聞いた彼の経歴を耳にするにつけ、かすみは自分の棲む世界との違いを感じた。
ごくまれに顔を合わせる事があると、彼はかすみに優しげに会釈をしてくれる。
それだけだけど、かすみは柄にも無く、まるで中学生の様な片想いをしている。
殆ど無い小さな接点の為に、一分の隙も無いようにかすみは身だしなみに手を抜かない。



そんな麻生かすみには、強力なライバルがいる。
受付嬢の野上麗香だ。
彼女はそもそも、男ウケは良いけれど、女性従業員からの評判は散々だ。
彼女にとっては職場すらも、その婚活の場でしかないらしい。
彼女が冴羽僚を狙っているのは、その条件ありきの打算でしかないと専らの噂だ。
でも、私は違う。と、かすみは思う。
純粋に好きなのだ。
たとえ彼が手の届かない高望みの相手だったとしても、だからと言って感情をどうこう出来るほど、
かすみは器用じゃない。










絵梨子の売り場でも、
ここ最近の噂好きのベテランさん達(平たく言えば、おばちゃんだ。)の専らの話題は。
老舗の御曹司を巡る女たちのバトルである。
彼女たちは以前から、その美しさでは目立つ存在だった。
その2人が2人とも、同じ男を狙ってるらしい。
他人事でしかないギャラリーたちは、どちらが彼を落とすのかと、ちょっとした娯楽と化している。
噂では、色々と耳にしている冴羽僚だが。
絵梨子は実際に会ったことは無い。
だから、彼と同じフロアで働く親友に訊ねてみたのだ、ホンの興味本位で。






ねぇ、絵梨子。


なぁに?


私、前から思ってたんだけどさ。


何を?


ココのほうじ茶、薄いよね?


・・・・・・・・。







絵梨子の親友は、どうやら噂話にも、冴羽僚にも興味は無いらしい。
槇村香は、美味しそうにピーマンの肉詰めを頬張っている。


第2話 鼓動が一つ高鳴って

あら、いけない。箱切らしちゃってる・・・




そう呟いたのは、香よりも先に出勤していた早番のパートさんだった。
彼女には、20代後半の息子がいる。
女っ気もなく、仕事から帰ると自室に籠もりネットゲームばかりしている息子について。
母親である彼女の口癖は。

『うちの子にもねぇ、香ちゃんみたいな彼女がいたら良いんだけどねぇ』

というものだ。
香は実際にこれまで何度か、うちの子どぉ?と彼女に訊ねられている。




それじゃあ、ちょっと裏に取りに行って来ますよ。



制服に着替え売場に顔を出してすぐの香がそう答えた。
香自身には自覚は無いが、こうしたフットワークの軽さや勤勉さは同じ店の仲間のみならず、
周辺の店舗の店員までもが好意的に受け止めている。
とりわけ香の母親世代に、香は受けがいい。
香も物心つく前に母親を亡くしている事もあって、
無意識の内に彼女らに、時にまるで娘の様に接するので、
必然的に各方面から、息子の嫁にと持ち掛けられる事が絶えない。
その度に何と答えて良いものか解らない香は。
これは一種の社交辞令及びジョークなのだと考えることにしている。
だからいつも笑って誤魔化す。





香の勤めるケーキ屋の店舗で一番使われる頻度が高いのが、
ショートケーキが5個まで入れられる大きさの箱だ。
それにその箱が入る程度の紙袋。
どちらにも店のロゴが入っていて、
そういった資材は在庫の兼ね合いを見ながら本店の方から送られてくる。
デパートのバックヤード、とりわけ食品売場のそれは全店舗が狭いスペースを共有している。
マメな在庫のチェックと効率の良い整頓が重要だ。
紙箱が50枚の束になった物を2〆抱えて、
紙袋100枚入りのビニール袋を棚から引っ張り出そうとした時にそれは起きた。








冴羽僚は本来、周囲のイメージとは随分かけ離れたキャラクターの人物だ。


着物を粋に着こなすのは、ただの習い性だし。
跡取りとしての穏やかな物腰は、あくまで仕事の一環に過ぎない。
子供の頃から、父親&祖父という狸親父2名の巧みな誘導によって、
何の疑問も抱くことなく、9代目を継ぐことが有耶無耶の内に決まった。
そもそも、老舗なんて言っても。
数人の腕利きの職人と昔からの秘伝のレシピを抱えただけの、家内制手工業なのだ。
祖父は、職人として優れた技術を持った人だった。
しかし今は、気楽なご隠居だ。
父親は、職人気質というよりむしろ、経営に秀でている。
実質的に今現在、海原堂を取り仕切るのは父である8代目だ。
僚はその両方のスキルを、子供の頃から徹底的に仕込まれている。
父の代で海原堂は、飛躍的に業績を伸ばした。
これまでの伝統はそのままに、新しい商品を生み出すことにも力を注いだ。
和と洋の絶妙な融合、新しい分野への販路拡大、単に菓子製造という枠に捉われない自由な発想。
その全てが、次の世代へと老舗の暖簾を繋いでゆく為の成長戦略である。


そして、狸親父2名のここ数年の口癖が。
さっさと結婚しろ、というものだ。

曰く、お前の年の頃には父さんはもう結婚してただの。
曰く、お前の年の頃には爺ちゃんは子供がいただの。
無意味(としか僚には思えない)な、小言が始まる。
これまで僚は結婚したいと思うような相手に出逢った事がない。
そもそも真剣に誰かと付き合った記憶もない。
しかし、だからといって女性経験が無いわけでもなく、むしろ手練れだ。
今現在、僚が週の半分ほど顔を出す百貨店の方には、
周囲のテナントなどを含め多くの若い女性が働いている。
恐らく秋波を送られていると考えて間違いのないだろう相手が、少なくとも2名浮上している。
2人ともに、極上の別嬪ではあるが。
その視線が本気過ぎて、僚は若干引いている。



その子は、フロアの中でも目立った存在だ。


本人がどこまで自覚しているのかは疑問だが、
フロアの店員、百貨店のスタッフなど様々な人間に可愛がられているのは、一目瞭然だ。
華奢な長身。
柔らかそうな栗色の癖毛は恐らく、天然物だ。
真っ白な肌に髪の毛と同じ大きな栗色の瞳。
それを縁取る長い睫毛。
そして何より、そつの無い接客と溌剌とした爽やかさは人目を惹く。
店の制服である紺色の清楚でシンプルなワンピースと白いエプロンを身に着けた彼女を。
僚はちょっとだけ、良いなと思っていた。
化粧気はあまり無い。
けれどそれが逆に、好感を抱かせる。



(あ、あの子だ。)


と僚が思った次の瞬間、イヤな予感がした。
彼女が何やら棚の中段ほどの所で、引っ張っているのが見えた。
それに合わせて、棚の上に堆く積まれた資材が揺れた。
狭い通路に沿って天井ギリギリまで設えられた棚には、
どの店舗のスペースにも、資材がぎっしり積まれている。
危ないと思ったと同時に、体は動いていた。






やばい、と思った時には遅かった。
香はせめてダメージが軽く済むようにと、無意識に両腕で頭を庇って蹲った。
来たるべき衝撃に備えて、唇を噛み締めて覚悟を決めた。
けれど、次の瞬間。
覚悟した衝撃はなく、その代わりにふわりとお香のような薫りが鼻腔を擽った。






だいじょうぶ?




その声は、香の頭上から聞こえた。
見上げる香を心配そうに覗き込む和服の男。
捲れ上がった袖から伸びる、逞しい筋肉質の腕には。
紙袋の束が数袋抱えられていた。
良い匂いの主は、どうやら前に絵梨子が言っていた和菓子屋の若旦那らしい。
あれから香も誰の事だろうと思って、売場を観察した事があったのだ。
彼は驚くほど背が高い。




あ、ありがとうご、ざいます。




香は頬と耳の先が熱を帯びたのに気が付いた。
何故だかこの話を、絵梨子には言わないでおこうと思ってしまった。
もっとも、言わなくてもいつかは白状させられそうな予感がしていた。


まだ誰も、2人が出逢ってしまった事を知らない。




第3話 視線の向こう

バックヤードでの出逢いから数日、僚は珍しく連日売り場の方へと顔を出している。
いつもなら、週の半分ほど出てくれば良い方だ。
基本的に接客は、手慣れた年配の女性スタッフに一任している。
彼女はもう長年海原堂で働いていて、商品に関しても熟知しているこの店の店長だ。
8代目からの信頼も厚い。
僚に百貨店の売り場を任せる時に、8代目が僚の補佐役として彼女を本店から異動させた。
そして交代でアルバイトの人妻が数人居るので、大抵、売り場には僚以外に2~3人は居る。


僚には店に顔を出して顧客と接する以外にも、色々とやる事はあるのだ。
職人としては、もう10年以上のキャリアはあるけれどまだまだ半人前だし。
メディア等の取材を受ける際、8代目はここ数年。
僚を老舗の顔として、対応させている。
まだまだ引退を考える歳でも無いが、
ゆくゆく跡を継がせる息子にその役を少しづつ経験させている。
伝統を守りながら、新しい分野へも挑戦を続けるという企業理念に、
次世代を投ずるという姿勢も程よくマッチするのではないかと考えているらしい。
常に目先に捉われず、数十年先、そして数代先の老舗の行く末を案じている僚の父は、
少しづつ、自然に世代交代がなされていくのが理想形だと思っている。
その為の今現在直近の課題は、9代目の嫁取り問題だ。






若旦那、今週は暇なんですか。




平日、午前中。
まだそれ程、客足も多くない。
店長は売り場のショーケースを磨きながら、そんな事を問う。
開店してまだ数十分。
いつもの僚なら、もっと遅めの出勤だ。
それがこの3日、毎日、開店と同時に顔を出す。
僚の居ない時に仲の良いスタッフたちは、ここ数日の僚の異変をコソコソと囁き合っている。





別に、そういう訳じゃないけど・・・なに?ダメ?


いえ、ダメな訳は無いじゃないですか。若旦那、結構マダムキラーなんですから。


・・・なに、それ。


若旦那がいらっしゃる日は、売り上げが違いますからね。


偶然じゃないのぉ?






僚がそう言って苦笑すると、
店長は真剣な眼差しで首を振ると、小さく溜息を吐いた。







たまには、ちゃんと帳簿見て下さいよ。


いやぁなかなかね、そういうのはホラ、渡辺さんにお任せだから。


ったく、8代目が聞いたら大目玉ですよっっ。


いやいやいや、渡辺さんがしっかりとやってくれているからこそ、俺も安心なのよ。


また、調子の良い事ばっかり仰って、そう言う所は7代目にそっくりですわ。


ははは。






渡辺というのは、店長の事だ。
僚はそんなお小言にも、飄々と肩を竦めて笑って誤魔化す。
実際、この数日。
僚が足繁く売り場に顔を出す本当の理由は、不純な動機があるからだ。






あの子の名前は、槇村香というらしい。


あの子の勤めるケーキ屋の本店は麻布にある人気店だ。
実は、その店を人気店にした立役者の有名イケメンパティシエを、僚は良く知っている。
良くも悪くもあの店かぁ、と僚は微妙な気持ちになる。
彼女はどうやらアルバイトという事らしいけれど。
果たして、オーナーであるヤツは彼女と面識があるのかどうなのか、僚は激しく気に掛かる。
オンナ癖という意味では、端から信用おけないのだ。
ミック・エンジェルという男は。


僚はここ数日、ただ接客しているだけでは無いのだ。
槇村香に関して、密かに多方面からのリサーチを重ねているのである。










更にその2日後、北原絵梨子はココで働き始めて3本の指に入る程度には驚いた。


そもそもデパートの紳士服売り場など、目が回るほど忙しいなんて事も殆ど無い。
これがそれこそ、香の勤めているような地下の食品売り場とかなら別だろうけれど。
絵梨子の売り場は、毎日のんびりしたモノだ。
その客は見るからに、上質なスーツを身に着けていた。
恐らくは高価なオーダーメイドのスーツだろう、
イタリア製のモヘアとウールの混紡といったところか、春夏の素材としては最上級だ。
絵梨子を呼び止めた物腰は柔らかい。
若いけれども洗練された雰囲気は、普通の客とは格が違うのが一目瞭然で判った。
それでも、このレベルの顧客の相手が務まるのは、自分では無いので、
絵梨子は丁重に接して、担当の者を呼んで参ります、と答えた。





あ、いや。貴女に用があるんです、北原絵梨子さん。


え?




そう言って彼が差し出したのは、1枚の名刺だった。
そこに記された名前は。
『海原堂 9代目 冴羽僚』
というものだった。





ええええええええええええ。




そう言って、怪訝な表情の絵梨子に僚は苦笑しながら、事情を説明する。
いつもの和服ではなくてスーツで現れたのは、僚だったのだ。





このカッコならお仕事してる様に見えるから、私的な会話してても怪しまれないでしょ?




そう言ってニッコリと微笑んだ僚を見ながら、絵梨子は心底驚いたけれど。
それと同時に、この人が例の噂の若旦那かと、妙に感心してしまった。
元々、絵梨子はデザイナー志望だった。
だから人を見る時に、そのスタイルを中心に観察してしまう所がある。

見上げる程高い長身、均整のとれた筋肉の付き方。
手足の長さ、顔の大きさ、頭身バランス。勿論、その甘いマスクも。
どこをとっても彼は、非常に優れている。
この上、柔らかな物腰に育ちの良さが加点されると、そりゃあ。
あのような噂の渦中に巻き込まれても仕方ないだろうと、絵梨子は思う。





あの、どんな御用なんですか?




僚は陳列されたネクタイを1つ1つ手に取りながら、その質感と縫製をチェックしている。
一見すると、品定めをしている様にしか見えない。
僚は手元のネクタイから、視線を絵梨子に移すとニッコリと微笑んだ。
それは恐らく魔物に等しい。
絵梨子には生憎、学生の頃から付き合っている年上の彼がいる。
だから、ドキドキするだけで済むけれど。
これは、やばい。
この笑顔は、反則だ。
この男は只者では無いと、絵梨子の第6感がそう告げる。







君さぁ、槇村香さんの親友なんだって?















その日、香は休憩室で1人でお弁当を食べていた。
絵梨子は今日はお休みだ。
香は2段式の弁当箱の下段、オムライスにスプーンを刺す。
今日の出来栄えは、上出来だ。
きっと今夜、兄は褒めてくれるだろう。
香の作るオムライスは、兄の好物だ。




ココ、空いてる?



そう声を掛けられて視線を上げたら、和服の彼がいた。
手にオレンジ色のトレーが乗っている。
香の見間違いじゃ無ければ、丼が2つ乗せられている様に見える。
僚は香の返事を聞く前に、早々と香の向かい側に座った。





いやぁ、この食堂初めて来たけどさ、メッチャ安いね。




僚のトレーの上には、きつねうどんと親子丼が乗っていて、野菜サラダの小鉢もあった。
この休憩室の存在を、僚は絵梨子に教えて貰った。
食券はプリペイドカード方式になっていて、セルフサービスで定食や麺類や丼物が選べる。
そもそも、従業員の為の福利厚生なので、価格はすこぶるリーズナブルだ。
ついでに絵梨子は、香が毎日ここで弁当を食べる事も教えてくれた。

結局あの後、僚はシルクニットのカジュアルな太めのタイと、
対照的に細身でシンプルなシルバーグレイのシルクのタイを購入した。
別に絵梨子は、売り上げに貢献してくれたから情報を提供したワケでは無い。
ただ、彼がどんな意図で香の事を知りたがっているのか、
今後の展開を少しだけ、面白がってしまったというのが正直な所だ。
絵梨子は親友の香がモデル級のスタイルと美貌の持主だという事を、
前々から本人にもっと自覚するように言い続けてきた。
香ほどの女なら、良い彼氏は幾らだって見付かるのに。
彼女は中学生の頃から、誰とも付き合った事は無い。
鈍いのだ、極端に。
香の口から出る異性の話題は、歳の離れた警察官の兄上の事だけだ。





それ、全部お1人で召し上がるんですか?




香が目を丸くして、向かいの僚のトレイを凝視した。
僚はニッコリと笑いながらも、頬袋一杯に親子丼を頬張っている。
うどんのスープを啜って、ゴクンと口の中のモノを呑み込むと頷いた。





うん俺、食べ盛りなの。オムライス、旨そうだね。


今日は上手く出来たんです。   あ、そう言えば





嬉しそうにそう答えた香だが。
この時初めて思い出したかのように、慌てて頭をペコリと下げた。






この間は、本当にありがとうございました。


どう致しまして。





そう言って僚は小さくウィンクしながら、湯呑の中のほうじ茶を啜った。
この間とは、言うまでも無く。
バックヤードでの秘め事だ。






ってか、このほうじ茶、薄っっ


そうでしょ!! 私もいつもそう思ってるんですっっ




思わぬところで食いついて来た香に、僚は満足そうに笑いながら会話を続ける。
どうやら香は人見知りしないタイプらしい。
こんな風に、多少強引とも言える僚の接触にも、なんら疑問は抱いて無いらしい。
素直な瞳をしている。





いつも、ここで食べてるの?


はい。


何定食がオススメ?


・・・そう言えば、食べた事無いです。ここのメニュー。


へぇ、そうなの。


はい、いつもお弁当だから。






そう言った香に、僚は目を細める。
なるべくココに出勤した時には、昼はココで喰おうと心の中で決めた。
これまで僚は、自分から誰かを好きになった覚えがない。
適当に遊んで来たけれど、付き合ってくれと言われると自然に距離を置いた。
仕事柄、外面が良いのでよく勘違いされる事もある。
けれど、ここ数日。
僚は初めて、自分の方から追いかけたいと思う相手を見付けた。
その子は今、僚の目の前で美味しそうにプチトマトを頬張っている。




こんどさぁ、美味しい御抹茶持ってきてあげるね、食後の口直しに。



そう言った僚に、香は嬉しそうに笑った。










※ 西さま、ご指摘ありがとうございます(о´∀`о)ノ早速、訂正したですよ♪感謝しまっぁぁあっす

第4話 追い掛けっこ

一体、このカオスの様な状況は何なんだろうと絵梨子は考える。
同じテーブルで繰り広げられる光景が、不可思議すぎて弁当の味も良く解らなくなってきた。











麗香は最近、妙な噂を小耳に挟んだ。
あの冴羽僚が、3階にある社食を利用していると云うものだ。
それを聞いて麗香は耳を疑った。
生憎、麗香は殆どその場所を利用したことがない。
ランチはいつも誰かしらと外に出る。
盲点だった。
まさか彼が、あそこを利用していたなんて。
その噂が確かなものならば、彼に近づくチャンスではないかと、麗香は思う。










やぁ、リョウ。久し振り♪最近、忙しそうじゃないか。



そう言ってカウンターの奥から声を掛けたのは、ミック・エンジェルだ。
彼と僚は学生の頃からの腐れ縁で、今現在彼は槇村香の雇い主でもある。
2人の行きつけの小じんまりとしたバーは、まだ宵の口で、客も2人以外いない。
僚は昼飯時に、香から聞き出した時の事を思い出す。



この数日に亘って、僚は香と一緒にランチをとっている。
そこに数度、例の北原絵梨子も同席した。
何でも彼女らは、シフトや休憩時間が噛み合えばいつも一緒に過ごすらしい。
絵梨子はニヤニヤと何やら言いたげな表情で、僚の相席を半ば素知らぬフリで受け入れてはいるが、
僚の気持ちなどとっくに見透かしているだろう。
どうも親友の身に起きた出来事を、楽しんでいる節が見受けられる。
この数日で解ったことは、どうやら香は極度に鈍いらしいという事と。
非常に素直で、疑うことをしない性質だという事。
僚が訊ねれば、大抵の事には淀みなくハキハキと返答をする。
僚は先日、気に掛かっていた事の1つを訊いてみた。


香は、果たして己のバイト先のオーナーパティシエに面識があるのかという事だ。


香の勤める売り場は、朝と昼の2回本店の方から商品であるスイーツが運ばれて来る。
基本的に、当日中が消費期限の生菓子がメインなので当日に売り切れる分だけが持って来られるのだ。
ミックに会ったことがあるのか、僚が訊いてみると。
香はにっこり微笑んで、何回かありますと答えた。
1度ミックに、本店の方で働かないかと言われたけれど。
そもそも香がこのデパートでバイトを探したのは、
絵梨子と一緒にこうして過ごせるからで。
それが本店に異動となっては、意味がないので断ったという。
その話を聞いただけで、僚には解った。
香は何とも思わなかったらしいが。
あのミック・エンジェルの事だ。
香に目を付けたのは、間違いないだろう。





僚はグラスに落とした視線を、目の前のチャラ男に戻す。
ミックは半年ほど前に、女医の彼女と結婚したばかりの新婚さんだ。
けれど、僚は。
この金髪エロ男の、不埒三昧を色々と知っている。
こいつには、彼女がいようが嫁がいようがあまり関係ないらしい。
僚は、ボソリと呟く。




・・・槇村香。知ってるよな。


あぁ、モチロンさ。あ、そっか、オマエの売り場と同じフロアだったねそう言えば。
かぁいいだろ?彼女、今一番のお気に入りだよ♪よく働くしね~、いい子だよ。


ミック、お前。


ん?何?


手ぇ出してみろ?地獄見ることになるぞ。


なに?リョウ、狙ってんの?彼女の事。


ああ。


マジでっっ?? まぁ、確かにあの子は魅力的だ。オトコなら誰でも、惹かれるさぁ。




そう言ったミックの表情が、だらしなく緩む。
自分の事は棚に上げて、僚の胸は嫌悪感でいっぱいになる。
まぁ、僚とてこれまでの色々を思い返せば、ミックの事は言えた義理でもないが。
少なくとも僚はこれまで、不貞を働いたことはない。
勿論、操立てする相手もいなかったからというだけの話だが。





既婚者は、男の頭数に入れちゃ駄目だろう(怒)


オオゥ、リョウってば案外古風な考えなんだね♪


あ゛ぁ、馬鹿か?テメェはっっ。そういう事に古いも新しいもあるかっつぅのっっ


あのね、リョウ。



この後の堕天使の発言を踏まえて、数秒後。
僚はその金色の後頭部を、力一杯殴り付ける事となる。





恋ってのはさぁ、等しく皆、平等に死ぬまで、神様から与えられた使命だよ。


・・・かずえちゃんとだけ、やってろっっ(殴)









麗香は仕事を終えると、私服に着替えてキッチン用品売り場にいた。


色々と見比べて、麗香が選んだのは小さめの2段式のシンプルな弁当箱だった。
色は可愛いらしく且つ甘すぎない、玉子色を選んだ。
社会人になってからこれまで、麗香が弁当を手作りしてみようと思ったのは、これが初だ。
弁当箱に合わせて、細々とした小物も選ぶ。
弁当箱を包む布には和柄の物を選んだ。
これから帰宅して、弁当を彩るおかずとしては何が最適か。
(この場合、僚に与える印象としてという意味だ。)
作戦を練らねばならない。











それは、何が重ねてあるの?


海苔の下がおかかで、ご飯がきて、その下が紫蘇昆布です。


あ、良いねぇ。紫蘇昆布。


紫蘇の実が入ったのが好きなんです、私。噛んだ時、良い匂いがするから。


あ~~解るわぁ。それ、すっごい解る、薫りは大事だよ。






親友と謎の若旦那とのやりとりを聞きながら昼食を食べるのが、最近の絵梨子の昼休みだ。
これに食後はご丁寧にも、彼が抹茶を淹れてくれる。
そして毎回、某かのお茶受けまで用意されているのだ。
因みに今日は、栗饅頭らしい。
彼が袂から、その小さなお菓子の包みを出す度に。
香は毎回、うわぁと感嘆の声を上げる。
香は無自覚だけど最近は、この9代目の若旦那に餌付けされつつある。


そして、
今日はそんな意味不明の状況が、ますます混迷の度を深めている。



香の向かい側には、僚が座っている。
これはいつものことだ。
その僚の隣には、何故だか受付嬢の野上麗香がいる。
その向かい側に、絵梨子が座り、反対側の香の隣にはミック・エンジェルとかいう人がいる。
なんでも、香のバイト先のオーナーらしい。
何故か今日は、栗饅頭のほかにミックが今朝作ってきたというマドレーヌもある。
麗香とミックの乱入は、想定外だったので。
栗饅頭は3つ、香と僚と絵梨子の分しかない。
僚は自分の分を、麗香にあげた。
しかしそれ以外僚が麗香に話題を振る事も、目を合わすことも無かった。
ミックはミックで、終始笑顔で香に絡んでいる。
この状況がもしも自分ならと、絵梨子は思う。
ぶっちゃけ、うざい。
けれど、香はミックの薄ら寒いジョークのいちいちにまで、律儀にリアクションしている。
否、恐らくは。
心底楽しんでいるのかもしれない。
親友は人見知りしない良い子なのだ。
けれど、空気も読めない。


香の斜め前、絵梨子の向かいからは。
尋常じゃないほどの殺気が漂って来ている。
明らかに、野上麗香は拗ねている。
彼女がその場の中心にいない状況は稀有な出来事である。
ミック・エンジェルだけは、初対面にも関わらず、
絵梨子と麗香にも調子の良い事を言ったりする。
どうやら、僚はミックのことを完全に無視してはいるけれど2人は知り合いらしい。



(何なんだろう、この状況。)



絵梨子は確かに、半月ほど前。
この冴羽僚という男に、親友に関する情報を流した。
これまで、何の色恋沙汰もない親友の初めての恋が始まるかもしれないのだ。
面白そうだと思わない方がおかしいだろう。

けれど、なんだか。
事態は予想外である。
肝心の親友は、この薄らでかい若旦那の事をどう思っているのか。
正直、謎だ。
お菓子をくれるので、懐いている。
それだけに、見えなくもない。
そして、それ以上に。
絵梨子は、野上麗香の殺気が怖い。
弁当の味すら良く解らなくなってくる。
今日のおかずはせっかく、絵梨子の好きなママ特製チーズチキンカツだというのに。


出来れば、お昼ご飯はのんびり食べたいなぁ、と思う絵梨子である。









第5話 口実

避難訓練???

はい、今度の休館日にあるの、ご存知ですか?





香がそう訊ねながら、焼き鮭を一口食べた。
そう言えば、毎年この時期だったっけ、と僚は思い出す。
新人が各売り場に配置される事の多いこの時期、
一層の防災意識を高める為に4月後半の休館日には毎年、避難訓練が行われている。
僚の店がこの百貨店に出店して、もうじき4年目になる。
これまで僚は、その行事は毎回不参加だった。
毎度、海原堂スタッフを実質的に取り纏めているのは、店長・渡辺(53)ベテラン主婦だ。
彼女は子育ても一段落し、無趣味で定年したばかりの夫を半ば放置プレイにしてイキイキと働いている。
彼女にこれまでも、ちゃんと若旦那も参加して下さいよ、と言われ続けたあの避難訓練である。




冴羽さんも参加されるんでしょう?

ん?うんうん、するする。    カオリンは?

私も、本当はお休みだったんだけど、出る事になっちゃって。





2人が社食で一緒にランチを摂るようになって、早いモノで約1ヶ月が経過した。
絵梨子も同席する割合は、3回に1回ほどだ。
僚はいつの間にか、香の事を“槇村さん”から“カオリン”と呼ぶようになった。
これまで1度も参加などした事も無く、つい先程まで露ほども参加の意思など無かった避難訓練に。
僚はたった今、参加する事が決定した。
香の売り場では毎年、主任とアルバイトの中から1人か2人参加をしている。
そもそも、そんなに大きなブースでは無いのでスタッフの人数も元々少ない。
生憎、香以外のアルバイトが皆、その日は用事が入っているとかで香が出なくてはならなくなった。




その日って、元々、休館日じゃないですか?

うん。

お昼は、ここやってるんですかね?

さぁ、どうかな?




香の気になる事は、いつも大概大した事では無い。
初めて参加する事になった香は、勝手が良く解らないのだ。
本当は僚は、避難訓練が午前中の数時間で終る事を知っている。
参加はしなくても、一応一通りの報告は毎年、店長から齎される。
僚は瞬間的に、計算した。
香がもしも、よく解らないままにいつも通り弁当を持参して来れば。
きっと昼前に訓練を終えた後、弁当とその後の時間を持て余すだろう。

それはひょっとしたら、香を外へと誘い出すチャンスかもしれないと。








・・・ばさん、冴羽さん?

あ、ああ、ゴメン。ちょっと、かつ丼に集中し過ぎた。




良からぬ計算に没頭して、思わず上の空になっていた間。
どうやら、香はもう既に避難訓練の話題から別の話題に移っていたらしい。
香は僚の言い訳を疑う事など無いまま、無邪気に笑った。




まだもう少し、先の話しなんですけど、父の命日にお供えしたいなと思って。



香は僚と一緒にご飯を食べるようになって、
毎食後に必ずと言って良いほどお菓子をご馳走になる。
これまで香は、改めて和菓子をちゃんと食べた事が無かった事に気が付いた。
というよりか、洋菓子だろうが和菓子だろうがスナック菓子だろうが、香はあまり食べないタイプだ。
一番好きなのは、ごはんだ。
それでも、この1ヶ月でその美味しさを知った。
美味しさだけでは無い、見た目の美しさや繊細さ。
元々、香は料理を作るのが好きだから、それらの作り方さえ想像できない程の小さな芸術が、
この所の、香の昼休みの小さな楽しみの1つだったりする。

香の父親は、香が小さな頃に殉職した。
その時は正直、意味は解らなかった。
解らない香に一回り以上歳の離れた兄は、ちゃんと説明してくれた。
兄が父と同じ刑事になって、香にも殉職の意味が解るようになって。
香はいつも父の遺影に手を合わせながら、兄の無事を祈っている。
お供えはいつも父の吸っていたセブンスターと、好きだったヱビスビールだ。
いつも兄が用意している。



どんなお父さんだったの?

私が、すごく小さかった頃に亡くなったので・・・


僚が懐から懐紙と万年筆を取り出しながら、訊ねる。
香には、具体的な父との思い出はもう、随分と薄ぼんやりとしたものに変わりつつある。
優しかった事と、いつも頬擦りをされるとチクチクしたヒゲの感触と煙草の匂いがした事。
いつも仕事が忙しそうだった事。
何処までが兄との思い出なのか、何処からが父との思い出なのか、もう境界線はあやふやだ。
けれども初めて、お父さんにお供えしたいな、と思ったのだ。
たまには、何か違うものを。
そして僚がいつも食べさせてくれる小さな美味しい食べる宝石のようなお菓子は、
そのアイテムとして、ピッタリだと思うのだ。
香がポツリポツリと、そんな風な事を伝えると。
僚は懐紙にキッチリとそれを書き留めた。



解った、お父上の御弔いに相応しいモノを見繕うよ。












どういう風の吹き回しです?若旦那?




渡辺は、胡散臭そうな視線を僚に向ける。
僚が昼の食事休憩から戻ると、突然、
今年の避難訓練は例年以上に力を入れましょうっっ、とほざいたのだ。
これまで、何度となく参加しろと言って来たのに、参加しなかったのは誰でも無い、僚自身なのだ。
このところの僚の異変は、ますます加速している。
そして、その根本的な原因が薄々、渡辺にもバレている。



どうって・・・頑張ろうって事ですよ(汗)

それって、ケーキ屋さんの可愛い女の子と何か関連があったりします?



先程、配送依頼を受けた顧客の送り状に、宛名を書き込みながら。
渡辺は視線も寄越さずにそう言った。
完全にバレている。
無理も無い。
社食で若旦那が毎日、女の子とランチしているらしい、というのは。
女性従業員の間では今一番、ホットな話題だ。
香は気付いていないが、(勿論、僚は気付いている。)
そんな2人見たさに、社食を利用する人間が増えたのは言うまでもない。



ま、動機はどうあれ、参加して下さるんなら万々歳です。


そう言ってニッコリと、しかし目は笑っていない店長に、僚も引き攣りながら微笑み返す。

















今日はお着物じゃないんですね。



そう言って笑った香は、いつもの制服の清楚なワンピースに身を包んでいる。
僚は動きやすいように、着物は避け、チノパンに白い木綿のシャツを着ている。
足元はスニーカーだ。
これまでの避難訓練を踏襲すると、地下の売り場のスタッフは。
1階の入り口まで、非常階段を駆け上がらなくてはならない。
これを営業時に擬えるならば、客を誘導しながら出来るだけ速やかに建物の外へと出るのが課題だ。
本当ならば、いつも通りの恰好でなければ意味は無いのかもしれないが、
あくまでこの日は訓練なので、軽装なのだ。



たまにはね。



バックヤードで擦れ違った僚はそう言って、ニッコリ笑った。
それでも、擦違うといつものお香のような薫りがふわっと薫って。
香は、あ、冴羽さんの匂い。と思う。
気を付けてな、と言って香の髪の毛をクシャッと撫でると、僚は売り場に向かった。
香は少しだけ照れながら僚の背中を目で追って、お昼にまた逢えるかな、と思う。












これまでの訓練の記録上、その様な事故が起きたのは初めての事だった。
恐らく原因は、1人1人が注意を怠った事による軽いミスだった筈だ。
混み合った非常階段で、その細い悲鳴が上がったのと同時に僚が見上げると。
ふわりと、紺色のスカートが揺れながら宙を舞うのが視界に入った。
その瞬間、僚の身体は勝手に動いた。
ざわつく周りを押し退けて、その柔らかな体を抱き留める為に階段の下へと回り込んだ。










気が付いた???




パチッと音がしそうな勢いで、瞼が開いた。
綺麗に栗色の睫毛が縁取る、薄い瞼の血色は悪くない。
紅茶色の瞳が、一瞬ぼんやりと辺りを窺って、焦点を僚へと結ぶ。




さえ、ばさん。

気分はどう?

どうって?・・・・あ。避難訓練は?





間一髪だった。
もうあと少しで、香はリノリウムの床の上に叩きつけられる所だった。
ちょうど香が立っていた段差の所で、誰かがバランスを崩し、押し合いになり、
その余波で香が階段の段差から、弾き出された。
僚はそのゾッとする光景に、まるで香の身体が宙に舞うのがスローモーションのように見えた。
考えるより先に、足が動いていた。
香は気を失っていた。
そのまま僚が抱きかかえて、この医務室へと連れて来たのだ。
一旦、中断された訓練は、香が医務室へと連れて行かれたと確認が済むと再開されて、
もうとっくに終わっている。
百貨店の責任者が青い顔をして顔を出したけれど。
とにかく大事には至らなかったので、報告、事情聴取、諸々を含め、
翌日にしたらどうかという僚の提案に、一同納得してその場は落ち着いた。
一度、ミックから僚の携帯へと連絡があり、一通り事の顛末を説明すると。
ひとまず、香が気が付いたら家まで送って行ってくれないかと頼まれた。




うん、カオリンが寝てる間に終わったよ。

なんだか、よく解らなかったですね。




どうやら、ケガ1つ無く無事だったらしい。
次の香の言葉に、僚は思わず安堵の溜息を吐いた。




あっっ!! お弁当。休憩室、今日やってるのかな???




彼女はやはり、今日も弁当を持って来たらしい。
僚の邪な計算からすれば、この日。
日の当たる公園か何処かで、一緒にお弁当を食べようかと思っていたけれど。
期せずして、彼女を家まで送り届ける大役を仰せつかってしまった。
勿論、きっちりと任務は遂行するつもりだ。




第6話 すれ違う瞬間

あ、お疲れ様です。




香が従業員用トイレの個室から出ると、鏡の前に彼女がいた。
これまで何度か、見かけた事はあった。
けれど香とは、遠目から綺麗だなぁと思って眺めるだけの棲む世界の違うひとだった。
香はただの食品コーナーの、一アルバイト店員で。
彼女は百貨店の花形、この店の顔とも言える受付嬢である。
学歴から、育ちから、容姿まで、何から何まで全て香とは異次元の世界だ。
(もっとも、容姿については香の極個人的見解で、絵梨子に言わせれば香の方が上玉だ。)
今までなら、トイレで擦れ違っても軽い会釈を交わす程度だったかもしれない。
けれどちょっと前に、香たちがランチを食べるテーブルに同席した事があった。
それから、2度ほど同じように同席を求められた。
香は彼女と何を話していいのか解らなかったし、それまで僚と絵梨子と会話が弾んでいたので、
そのまま同じような雰囲気で彼女が傍に座るのを受け入れていた。
けれど今この瞬間、香は。
あの時にこの野上麗香と何の話をしたのかなんて、全く思い出せなかった。


香はとりあえず、そう挨拶したけれど。
麗香はそれには答えなかった。
でも、麗香は鏡に向かっている訳では無くて、香の立っている個室のドアの方を向いているのだ。
もっと言えば、香に真っ直ぐ視線を注いでいる。
化粧直しをしている訳では無さそうだった。













いつものように、いつもの香の指定席に目をやっても、その席は空席だった。
絵梨子もいない。
確か今日は絵梨子のシフトは休みの筈だ。
香とランチを摂るのが日課になって、香のシフトどころか絵梨子のシフトまで把握している己に、
僚は思わず苦笑が零れる。
いつもなら今頃、香はあの席でお弁当を広げている頃なのに。
今日のお菓子は、香のリクエストで大福を持って来たのに。
肝心の彼女はいない。








そこでお弁当を広げるのは初めてだった。
昔は小さな遊具が置かれ、子供たちのちょっとした楽しみの場になっていただろう屋上は。
今は本格的な屋上庭園だ。
今の時代、子供騙しの遊具やゲームセンターは流行らないらしい。
屋上というよりもまるで公園の様なそこには、
カフェと適度なスペースを保って配されたテーブルが設置され、意外にも人々の憩いの場になっていた。
その合間を縫って、様々なグリーンが植えられていて
都会の真ん中のビルの屋上だという事を忘れそうになる。
香は小さくひとつ溜息を吐いた。
今日のお弁当は、ドライカレーで香の好物なのに。
気分は最低だ。
午前中にトイレで起こった出来事は、忘れようとしても忘れられない。
どうして今まで気が付かなかったんだろうと、自己嫌悪に陥る。



“あなたこの所、彼と一緒にお昼食べてるみたいだけど、どういったご関係?”

“冴羽さんは、私の恋人なのよ。”

“もし宜しかったら、なるべくご遠慮して下さらない?”



そんな事を言ってた美しい彼女と、あの優雅な若旦那は確かにお似合いのカップルだと香は思う。
香には、色恋沙汰に少々疎い面がある。
知らなかった事とは言え、お邪魔虫だった自分に香は嫌気が差す。











取り敢えず、先に食べながら待ってみようと僚は日替わり和定食とわかめうどんを選んだ。
もうすぐ食べ終わるというのに、香はやって来ない。
袂から出した大福が2つ、僚の前でポツンと淋しげに佇む。

いや、淋しいのは僚自身だ。

避難訓練の日、香は目覚めると至って元気そのものだった。
電車で帰れるからという言葉を制して、僚は愛車で香を自宅まで送った。
警察官の兄と2人暮らしだというその公団は、子供の頃から住んでいたけれど。
3年ほど前にリノベーションされたとかで、小綺麗な集合住宅だった。
槇村兄妹の住む棟の前で、車を停めた。
あの時、漸く電話番号とメールアドレスを交換したのだ。
まだ使った事は無い。
何度かメールをしてみようかと考えながら、いざとなると躊躇した。


ちゃらいと思われたら嫌だとか、タイミングが重要だとか、
これまで僚は一度も気にした事など無かったのに。
香が相手だと、妙に慎重になってしまう自分に僚は自分でも驚いている。
嫌われたく無いのだ、何があっても香には。
たった1ヶ月、一緒にランチを共にしただけで。
僚は自分でも思いも寄らないほど、どうやら彼女に真剣になっているらしい。
懐から携帯を取り出すと、僚は画面を睨む。
電話帳のカ行に、『かおりん❤』と入力されている。
勿論、その事は誰も知らない。
僚は通話のマークを押そうかと、何度も躊躇っては溜息を吐いた。
もう、休憩時間も残り僅かだから、多分香は来ないだろう。
理由も無く僚の胸に、嫌な予感が降り積もる。










僚も絵梨子もいないランチは、退屈だった。
つい1か月前には、そんな事を思ってもいなかった。
香は自分で思っていた以上に、あの僚との休憩時間を楽しんでいたのかもしれない。
制服のポケットから、携帯を取り出す。
あの小さな赤い可愛い車で送って貰った時に、番号を交換した。
一度も掛けた事は無いけれど、電話帳にしっかりと保存した。
その『冴羽さん』という文字を、見詰める。
バックヤードで危機一髪助けてくれたのが、初めての出逢いだった。
階段で落ちそうになった所を助けてくれたのも彼だった。
番号を交換したその日の夜、寝る前のベッドの中で、
もしかすると、もう少し仲良くなれるかなと思ったりした。



通話ボタンを押してみたい衝動に駆られて、我に返る。



何を考えているんだと、ぷるるんと首を横に振る。
彼は彼女の大切な人なんだ。
これ以上、邪魔したら申し訳ない。
香はメニューボタンで、削除を選択する。
携帯電話は、香の心にもう一度呼び掛ける。


『削除してもよろしいですか』


香は、OKのボタンを押した。
これで、今まで通りだ。
今まで通り、絵梨子と2人のランチ。
絵梨子と時間が合わない時は、1人でランチ。
今まで、屋上には来た事無かったけど、
外でご飯を食べるのも気持ちイイじゃんと、自分自身に言い聞かす。
でも、もしも。
雨が降った時はどうしようと思ったら、香はなんだか無性に悲しくなった。





第7話 戸惑う指先

・・・けっっ、こん????





香は久し振りに非番の兄が腕を振るった夕食に舌鼓を打ちながら、
その兄の言葉の意味がすぐには理解出来ないでいた。
兄は警察官になって5年で、希望していた刑事課へと配属された。
かつて2人の父親もそうだったように、忙しい兄とはたまにしかのんびり過ごせない。
香にとって歳の離れた兄は、幼い頃に別れた両親以上に親のような存在だ。
香に家事を教えたのも兄だし、学校の用事に顔を出してくれたのも兄だ。
兄は母であり、父でもあった。
だからこの先もずっと、家族は兄だけだと思っていた。
今この時まで。




あぁ、まぁなんだその、今すぐにって話でも無いんだけど。一応、報告な。




そう言いながら苦笑する兄は、テーブルの向かい側から手を伸ばして香の頭をクシャクシャ撫でた。
香はその兄の仕草で、自分が子供のように拗ねた表情をしていた事に、初めて気が付く。
兄の話しによれば、お相手は同僚の刑事課の女性らしい。
所謂、職場恋愛というやつだ。
きっかけは、父親の法事の件だった。
否、そのまた元々のきっかけは例の、香が僚に愛車で送って貰った時の事だったりする。
あれ以来、兄妹がゆっくりと話しをするのは初めてだったから。
香は秀幸に訊かれたのだ。

この間の、ミニクーパーの男は誰なんだ? と。


香はあの時、まさか兄が遠目から見てた事など知らなかった。
確かにあの日、兄は夕方に一度家に戻って来て着替えを済ますとまたすぐに職場に戻っていた。
香は訊かれたので、僚の事を説明した。
あの日の避難訓練で、もう少しで香は将棋倒しになって階段の下に落下するところだった事。
僚が助けてくれた事。
僚は同じフロアの、和菓子屋さんの人だという事。
心配して、家まで送ると言ってくれた事。
ここ最近、一緒にランチを食べていた事とか、携帯番号を交換した事とか。
綺麗な恋人がいるらしい事とか、すごく面白い人だとか。
そういう事は、敢えて言わなかった。
この数日は一緒だったランチも、彼を避けるように屋上で食べている事も。




あ、そう言えば。

ん?

今度ね、その和菓子屋さんのお菓子を、お父さんにお供えしようと思ってるの。

へぇ、イイねぇ。父さんは、甘いもの好きだったから喜ぶよ。

えっっ、そうなんだ?

あぁ、香はまだ5歳だったからな、父さん亡くなった時。知らないか。

うん、知らない。

喜ぶよ、きっと。




そういう流れで、父親の命日をどう過ごそうかという話の中で、兄は切り出したのだ。
これまでは、兄妹2人だけのひっそりとした、けれども親密な法要を続けてきた。
2人には、これと言って近しい親類も居ない。
その日に、兄は大切なひとを呼びたいと言ったのだ。
“ゆくゆく”は結婚も考えているひとだという。
ゆくゆくっていつだろう?と考えながら、香は兄の作ったカボチャのコロッケを頬張った。




大丈夫だよ、香。俺は、お前がお嫁に行くまでは結婚しないから。



そう言って笑う兄は、いつもの兄だ。
もうそろそろ、お前も彼氏ぐらい見付けないとなぁ。と、言いながら缶ビールを飲む兄が。
実際には妹の彼氏なぞ、どんな野郎を紹介されても歓迎はしないと思っている事など。
当の溺愛されている妹は知る由も無い。
彼氏など、今のところ出来る見込みは無い。












ねぇ、なんで私達が遠慮する必要があるわけ???



絵梨子は眉を潜めながらそう言った。
母親が作ったお弁当の隙間を埋めるように入っていたシュウマイは、近所の人気の惣菜屋のもので。
母親は、いつも買い置いて冷凍庫にストックしている。
これが入っているという事は即ち、母親は今朝寝坊したのだろうと絵梨子は思う。
もうすぐ、一年の内でももっとも紫外線の強くなる季節がやって来る。
梅雨前は盛夏よりもむしろ、紫外線は強力だ。
そんな季節にどうして、屋外でランチを摂らなければならないのか、絵梨子には合点がいかない。
香曰く、あの若旦那と受付嬢がデキているらしい。
従業員用女子トイレで、香は直接、野上麗香にそう言われてそれ以来、彼を避けているらしい。
もう、かれこれ4日が経つ。
絵梨子には、どう考えても香の話しは嘘くさく思える。
香が嘘を言っているという意味では無い。
嘘を言っているのは、恐らく野上麗香だ。
けれど絵梨子がそう言うと、香は笑いながら、まさかあんな美人な人が嘘を吐くワケはないと断言した。



それならと、百歩譲って。
受付嬢と若旦那が、良く解らない不可思議なカップルだったとしよう。
でも良く解らないけれど、何故だかケーキ屋のボンヤリしたアルバイト店員に近付いて媚びてみせ、
しつこく言い寄って来たのは、アッチじゃないのか。
それを今更、カップルの片割れがしゃしゃり出て来て、香と絵梨子の憩いの場を奪う権利など。
あの人達には、無いのだけれどと絵梨子は思う。
絵梨子の親友は、底抜けにお人好しだ。
私達お邪魔虫だったんだよ、と言うと済まなそうな顔をしている。
それでも絵梨子は、何となく。
また近い内に、若旦那はスーツを着込んで売り場に顔を出すんじゃないかと踏んでいる。
香の勘違いの原因を探る為に。









ランチを終えて、絵梨子は5階の紳士服売り場でエレベーターを降りた。
地下まで降りる香とは、そこでお別れだ。
絵梨子が降りて香1人きりになったエレベーターに、4階で北尾が乗り込んできた。


彼は百貨店の広報を担当する社員だ。
主に、地下食料品売り場の催事担当だ。
香は彼とは何度も面識がある。
彼は顔を合わせると、何かと声を掛けて来て、香も人見知りしないタイプなので、
彼には親近感を覚えていた。
もっとも、香が彼に親近感を覚えているのはそれだけでは無い。
彼は似ているのだ、香の兄に。
世界中に自分とそっくりな人が7人いるとすれば、彼と兄はその内の1人だろう。
ただ強いて言えば、刑事の秀幸の方が少しだけ猫背だ。





何階ですか?



ニッコリ笑ってそう訊ねた香に北尾は、君と一緒。と言った。
今週の半ばから1週間、四国の名産品を扱う催事が始まるのでその準備だ。
北尾は全国各地、物産展の企画に合わせて現地の出展者との懇親も兼ねて地方へ足を運んでいる。
香は前にその話を聞いて、大げさに良いなぁと羨ましがった事がある。
香は今はまだ、アルバイトをしているけれど。
これから先、ちゃんと就職しないといけない事は自分でも解っている。
でも、何をしたいのか自分でもまだ良く解らない。
それにしたい事を出来るとは限らない。
色んな仕事をしている人が一堂に会したこの百貨店で、香はあの仕事もイイな、面白そうだなと、
周りを見ながら至って無邪気に働いている。




今度、食事にでも付き合ってくれないかな?




唐突にそう言った北尾に、香は少々面食らった。
何を言われているのか意味を図りかねている香に、北尾はフッと笑った。
香は2人きりのエレベーターが少しだけ、息苦しいと思った。
そう思った時に、箱は一番下の地下2階に停まったけれど。
扉が開く前に北尾が、『閉』ボタンを押したから扉は開かなかった。



好きなんだ、君の事。











香には手に負えない事ばかりだ。
兄の結婚話も、受付嬢からの苦情も、催事担当者からのデートの誘いも。
何もかも、香には太刀打ち出来そうも無い難敵が、次から次へと現れる。
兄に似た大人の男の人のYシャツからは、知らない家の洗濯洗剤の匂いが漂って来た。

香はいつかのバックヤードで嗅いだ、お香のような優しい薫りが恋しかった。




第8話 桜色の香り

屋上の片隅にその華奢な背中を見付けた。
梅雨になる前の短い気持ちの良い季節の風が、柔らかな癖毛を揺らす。
僚は前日の絵梨子との遣り取りを思い出す。
香が休憩室に顔を見せなくなっても、僚は何となく昼になると休憩室に向かった。
香が休みの昨日、久し振りに絵梨子がいた。
そしてこの数日、香が屋上に居た事を訊き出した。


『なんで、彼女は屋上に?』
『冴羽さん、心当たり無いんですか?』
『は???』


理由は、香から直接訊いてみたらどうですか?と、絵梨子は言った。
そして立ち去り際に、香の事狙ってるの冴羽さんだけじゃありませんから、と言った。
少しだけ無愛想な絵梨子の態度から察するに、その理由とやらは決して良い事では無い気がした。






ココ、空いてる?



そう声を掛けられて、香は驚いた。
緩やかに風に乗って薫ったのは、お香のような香水の薫りだった。
涼しげな紺色の紬にカジュアルな淡いピンク色の帯を合わせた背の高い彼の、
その表情は逆光で、良く解らなかった。
お弁当はもうとうに食べ終え、ぼんやりとしていただけだ。




あ、もう食べ終わったところだから・・・



そう言って立ち上がりかけた香を、彼は柔らかな微笑みでやんわりと制した。
手には、カフェコーナーの紙コップに入ったブラックコーヒーとカフェラテを持っている。
それをごく自然に香に手渡すから、香も自然と受け取ってしまう。
いつの間にか良く解らないうちに、自分のペースに人を巻き込んでしまう、
この目の前の彼は、やはり素敵な人だなと香は思う。




どうして、最近ここで食べてるの?



訊ねた僚に、香は少しだけ困ったような顔をして、例の野上麗香との一件を正直に話した。
そして、僚と麗香の仲を邪魔しようなんてサラサラ思ってないから、気を悪くしないで欲しいと。
それは僚にとって、まさに青天の霹靂とも言える想定外の事態であった。
誤解である。
僚の人生史上、もっとも傍迷惑で下らない誤解だ。





それ、誤解だから。

え?

野上さんと俺、別に付き合っても無いし何も無いから。

????



香はキョトンとして、よく事情が呑み込めていないようだったけれど。
僚は原因が解って、むしろホッとした。
別に僚が香に嫌われた訳でも、香自身に何か問題が勃発した訳でも無い。
問題はむしろ、2人には何ら関係無い、外野の話しで。
この件に関して、僚が苦情を申し立てる相手は、ただ1人だ。
だからこれ以上、この件を香と話しても不毛である。




今度の休みさぁ、俺んち来ない?

え?

まぁ、俺んちって言っても、変なオッサンも2名居るけど気にしなくてイイから。

???

うちの調理場で見せたいものがあるんだ。

















香は、次の休みの日。
自宅のある棟のエントランスの前で、僚を待っていた。
その前の日、バックヤードで香を呼び止めた僚は。
香にメモを書いた懐紙を手渡した。

『明日朝、9:00に迎えに行きます。』 僚の書いた文字は、バランスが良く美しかった。



香のいる屋上に、僚が顔を出してから数日。
僚はもう香のランチタイムを邪魔する事は無くなった。
あの休憩室で、確かに自分と香が目立っていた事を僚は自覚している。
僚が以前と同じように、香との時間を持ちたい気持ちは山々だけれど。
それ以上に僚は、香の事を考えた。
香の立場を考えずに、僚の欲だけで行動する事は決して香にとっては良い事では無いかもしれない。
そう思った。
また陰で香が、麗香に何を言われるか解ったもんじゃない。
勿論、僚は麗香にはきちんと話しを着けるつもりでいる。
けれどそれにしたって、タイミングとある程度の下準備を整えるのが先で、
その事よりも優先されるべきは、僚にとっては香との関係性の再構築なのだ。
もう、表立って香にアプローチする事は止めた。
本気で香をものにする為には、水面下で事を進めた方が賢明だ。
僚は香以上に、“たちの悪い女”というものの本質を見抜いている。










うわぁ、綺麗。




漆塗りの皿に乗った涼しげな菓子を見て、香は溜息混じりにそう言った。
その半透明の薄い葛の衣に包まれた、薄黄緑色の餡は。
どのような味のするものなのか香には想像もつかなかったけれど、仄かに柑橘の薫りがした。
海原堂には、僚と父親を含め職人は7人いる。
その中で、僚はもっとも若い。
昔からある伝統的なレシピを、同じ品質を保ちながら忠実に再現し続ける事に於いて、
僚は先輩の職人たちには、まだまだ遠く足元にも及ばない。
長年の経験から培われた技術と勘は、会得する為にはどうしても時間というものが必要不可欠だ。
定番のメニューとは別に、2ヶ月毎に限定商品というものがある。
主に、季節感を重視する。
年に6品、毎年、1つとして同じモノは作らない。
今までに、限定商品から反響が大きくて定番化した商品は、僅かに3つ。
2つは祖父の作ったもの、そして1つは父の作ったもの。
毎回、職人全員が各々限定商品のアイデアを持ち寄って、社内でプレゼンにかける。
その中から、8代目が選んだ1つを商品として採用する。
僚が作ったものが選ばれた事は、これまで数える程しかない。





食べてみて?

良いんですか?

勿論。



僚がニッコリと微笑む。
僚はいつもと違う、白い調理服に身を包んでいる。
香を迎えに来た僚は、和服では無く、ジーンズに白いTシャツというシンプルな恰好だった。
そして、香を誰も居ない調理場で待たせて現れた僚は。
如何にも職人といった風情の調理服を着ていた。
香は少しだけドキドキしたけれど、それがどういった類の感情なのかはまだ自分でも良くは解らない。
黒文字で香が葛饅頭を二つに割るのを、僚は楽しげに眺めている。
どうやら彼が、香をココに招いたのはこれを食べた感想を求める為らしい。
香はひと口、それを味わった。




っっ?!?!?!



口に入れた瞬間の葛の触感、口一杯に広がる柚子の薫りと風味。
白餡の豆の程よい甘さ。
そして後味に残る、刺激的な辛み。

香のリアクションに、僚が一層楽しげに笑う。






・・・なんか、不思議な味・・・

辛いでしょ?少しだけ、ピリッと。



香が不思議そうに、コクンと頷く。
想像していたモノの、斜め上を行く味だった。
甘いものだと信じて疑わなかった味覚を、良い意味で裏切る味。




柚子胡椒を使ってるんだ。だから、食べた後に青唐辛子の辛みが残る。

凄く、さわやかです。後味が、すごくスッキリしてる。





確かに、これは夏の菓子として、斬新だけど面白いと香は思った。
柑橘の爽やかさと甘い中にある印象的な辛さが、不思議と違和感なく調和している。





これ、冴羽さんが作ったの?

うん。

じゃあ、これが夏になったら売られるんですね。

ううん、まだ決まって無い。オヤジが、7つの中から選んだものだけが商品になるから。

ふぇ~~そうなんだぁ。大変そう、こんなに美味しいのに。

うん。でも、色々考えるのは楽しいけどね。

見た目も綺麗。






そう言って、艶やかな葛の衣と鮮やかな色の餡を見詰める香は。
僚の視線の中にある感情には、まだ気が付いてはいない。









のぉ、神さんよ。あれが、女の子を連れて来たのは初めてじゃの。

そうですねぇ父さん、漸くアイツも、本気で嫁取り問題、考えるようになったんですかね。




その店は、昔からその場所にあったけれど。
時代の流れと共に、その店構えは様変わりした。
立派な自社ビルの1階が店舗で、昔から変わらないのはその暖簾と看板だけである。
店舗のすぐ上の階に、近代的で清潔な調理場を構え、更にその上の階にオフィスを構えている。
今ではこの本店での商売だけでなく、
百貨店へのテナントに催事、通信販売と業態は多岐に亘っている。
また、多方面の企業とのコラボレーション商品の開発などにも力を入れている。
そんな自社ビルの最上階とその下の2フロアが、冴羽家の住まいになっている。
屋上は7代目の趣味の庭いじりの為に、
街中のビルの屋上とは思えない程の純日本風庭園が広がっている。
驚くべき事に、鯉の泳ぐ小さな池まである。
オッサン2人は、庭に出て夜景を見ながらお茶を啜る。


つい先程まで、跡取りが連れて来たカワイコちゃんと夕飯を食べていた。
いつもの男3人のむさ苦しい食卓は久し振りに、まるで花が咲いたように明るくなった。
これまでフラフラと女遊びに興じて来た跡取り息子が初めて連れて来たのは、
驚異的なまでに、うぶな清純派タイプであった。
2人は午前中から調理場に籠り、長い事何やら遊んでいた。
その後、皆で夕飯を食べて、今現在僚が家まで彼女を送っている。










今の内から考えてるのは、次の春の限定商品の事なんだ。

そんな先の?

あぁ、俺はさ他の職人さんに比べたらまだまだひよっこだし、出来る事は努力する事しかないからさ。

でも、さっきの葛饅頭はホントに商品化されたらいいなぁ。絶対に売れると思います。

ありがとう、またこの先も味見してくれる?

はい、私で良ければ。・・・春は、どういうのを考えてるの?






これまで僚は、春の商品にもっとも力を入れて来た。
けれど、まだ一度も採用された事は無い。
春は僚にとって特別な季節だ。
僚が生まれた三月の終わりの頃は、母親が亡くなった季節でもある。
僚の母親は、僚を産んですぐに亡くなった。
僚は祖父にも父親にも愛されて育ったけれど、
自分の命と引き換えに父親の最愛の人を奪ったような気がして、いつも複雑な気持ちになる。
僚にとって春は、家族の事を考える特別な季節だ。
いつも選ぶのは、桜のモチーフだ。
薫りであったり、色であったり、形であったり。
けれど未だに、自分自身納得のいく物は作れないでいる。



桜の季節をそのまま形にしたようなお菓子が作りたいなぁ。

私、いつか完成したその冴羽さんのお菓子食べてみたいです。




赤い小さな車の中で、そんな事を話す2人は。
まだこの先の未来で、その特別な季節がいつしか別の意味を持つ事になる事など知らないでいる。
顔も知らない母親の面影を辿るように、これまで生きて来た僚にとって。
いつしか同じ春生まれの彼女が、その創作意欲の源になる日が来る事をまだ誰も知らない。




















ね、この餡いいねぇ。


そう言って、7代目が思わず唸る。
夜景の見える日本庭園で、7代目と8代目は跡取りの作ったこの夏の試作品を食べていた。
夏場に葛饅頭を持って来る事までは、よくあるパターンで。
これと言って目新しさは無いモノの、その餡は意表を突いてきた。
2人は目を細める。
まだまだ、色々と任せるには粗だらけで頼りない未熟な跡取りながら、着実に成長はしているらしい。
僚が選んだ彼女も、2人は一目で気に入った。





夏はこれで決まりかねぇ。



そう言った7代目の言葉に、8代目も概ね異存は無い。
余程のインパクトのある物を、他の職人が出して来ない限りこれで決まりだろう。




嫁の方も、早いとこ決めて欲しいねぇ。




それに関しても、異存は無い。
若干、気が早過ぎるのは、彼らに残された人生の時間が若い2人よりも確実に短いからだ。
オッサン2名は、煌めく夜景の中にこれから先の希望を見出していた。
勿論、老舗の未来の為と、男3人の同居生活の潤いの為に。


第9話 火照った頬

で、冴羽さんちに行ってきたんだ?

うん、まだ試作段階のお菓子を味見しちゃった。





そう言って楽しそうに笑う親友は、最近。
屋上で食べよう?と、相変わらず絵梨子を誘う。
どうやら、キッカケはどうであれ香は屋外で食べる弁当タイムを気に入っている模様だ。
少し前に、香のいない場面で絵梨子は、冴羽僚に対してあからさまに遺憾の意を示した。
香にアプローチしてくる男など、冴羽だけでは無いのだ。
現に、北尾という広報担当の社員に香は今現在、愛の告白を受けてしまっている。
(返事はしていないようだけど。恐らくは、永久に保留だ。)
それに、と絵梨子は遠目からカフェコーナーのスタンドの中の店員を見遣る。
彼は大学生のアルバイトらしい。
先日、ジャンケンで負けて香の分と自分の分の食後のアイスコーヒーを買いに行った時、
絵梨子は彼に、香の事をシレッと訊ねられた。
どうやら狙っているらしい、時折チラチラと香を盗み見ているけれど、香は全く気付いてもいない。

それにしてもと、ささみとチーズを大葉で包んだフライを食べながら絵梨子は思う。
いつの間に、そういう事になったんだろうと。
確か、この目の前の親友は、若旦那と受付嬢の恋路を邪魔しない為に、
関わり合いになる事を避けようと思ったんじゃ無かったのか。





冴羽さん、野上さんの事どう言ったの?

・・・付き合ってはいないんだって。

『は』って何よ?『は』って。 付き合って“は”いなくても、何か関係でもあるって言うの?

なんでそんなに怒ってるの?絵梨子。どうしたの?





槇村香は、相変わらず呑気だ。
絵梨子は確かにイラついている。
香は確かに、その僚の一言で納得する位、単純明快な思考回路の持主だ。
けれど、普通はもっと深読みするもんじゃないの?と思う訳だ。
そしてそうは思っても、何気ない香の言葉1つで尖った気持ちが和らいだりもする。



どうして、野上さんは私にあんな風に言ったのかなぁ・・・



香はぼんやりと、そう呟いた。
勿論、そんな事は麗香の嫉妬による妄言だという事位、誰しも考えれば解る事だけど。
香は心底、解らないらしい。
それが香らしいと言えば、香らしい。
だから絵梨子は香の事が好きなのだ、素直で嘘を吐かないし、その分他人も疑わない。




嘘を言ったんだよ。

誰が?

だから、野上さんが。

・・・・・・何の為に?

じゃあ、冴羽さんかもね嘘吐いたの。どちらにしても、真逆の事を言った2人のどちらかは嘘吐きでしょ?

・・・・・・。

香がどちらの言葉を信じるかじゃないの?嘘を言った人の気持ちなんか想像するだけ時間の無駄よ。










香は午後の間ずっと、絵梨子のその言葉を考えていた。
どちらの言葉を信じるのかと言われれば、香は僚を信じるだろう。
僚は2度も、危ない所を助けてくれたし、
少なからずこれまでの遣り取りで、どういう人なのか判断する材料はある。
片や、野上麗香は。
2~3度、ランチを共にしただけだ。
それにしたって、何の話しをしたのかすら良くは覚えていない。
絵梨子の言葉はいつも、香のこんがらがった思考を綺麗に整理するヒントをくれる。
冴羽と野上の真相についての、2人の考察はそれで終了した。
その後絵梨子は、香の抱えたもう1つの懸案事項について言及した。
北尾問題だ。





それよりさ、北尾さんの事はどうするの?

どうって?

お返事しないの?告られたんだし、一応。



その件に関しては、香は何度絵梨子と話題にしても、思わず少しだけ笑ってしまう。
だって、あんな兄と同じ顔をした人と、どうやって恋愛すれば良いというのか。
北尾には申し訳ないが、想像しただけで香は笑ってしまう。
確かに食事に行ったりするだけなら、別に何も問題は無いけれど、
それ以上を求められても、香には応えようがない。
だからあの日、エレベーターの中で香は北尾に言ったのだ。

『北尾さんの事はいつも、うちの兄に似てるなぁって思ってるんです』 と。

そして、携帯に収められた秀幸と一緒に自撮りした画像を見せたのだ。
兄に似ていると思っていたという、如何にもお断りの常套句のような文言以上に。
その画像は、北尾に衝撃を与えた。
北尾の不運は、好きになった子の兄と己の外見が酷似している事だった。





何それ、初耳なんだけど。

あれ?言わなかったっけ??北尾さん、ビックリしてたよ。



香はそう言って笑った。
そんな香にはきっと、北尾が喰らったダメージの大きさなど知る由も無い。
絵梨子は少しだけ、北尾が気の毒に思えた。
香の兄も、北尾も、両方知っている絵梨子にしてみれば、
それはまさに不運としか言いようのない巡り合わせだ。



香って時々、えげつないほど残酷よねぇ。

へ?なにが???



そう言いながら、絵梨子も少しだけ笑っていた。
北尾には申し訳ないけれど。










その日のランチは、野上麗香にとって天国から一気に地獄へと落ちたようなものだった。



外で一緒に食事しませんか?と誘われて、麗香は有頂天だった。
これまでさり気なくアプローチし続けた結果に、満足を覚えていた。
麗香は今まで、これと思った相手を落とせなかった事は無いのだ。
今まで通り、老舗の若旦那も麗香の数多連なる婚活のお相手リストに追加される。
つもりだった。
メイク直しも完璧に行い、いそいそと僚に指定された流行のカフェに赴いた麗香は、1時間後。
独り残されたオープンテラスの明るい席で、屈辱を味わっていた。







野上さん、先日、槇村さんに何か言いませんでした?

・・・え。





洗練された笑顔と綺麗な所作で、目の前のランチプレートを味わう男の目はしかし笑ってはいなかった。
確かに、麗香は香に嘘を吐いた。
けれどそれは些細な事で、これまで麗香は多少卑怯とは思えどそれは良く使う手段だった。
あんな風に言われて身を引く程度の甘ちゃんなら、
早いとこ婚活のフィールドから、シッポを巻いて立ち去って欲しいというのが麗香の考えだ。
如何にいい条件の男を確保するのかという事は、時間との闘いだ。
女が己を少しでも高く売り込む事が出来る時期というのは、ごく限られている。
けれど、その計算自体を見破られたらご破算だ。
本当は、麗香にも解っている。
そんな小賢しい計算など見抜けない間抜けな男よりも、
こうして容易く見抜く目を持っている男こそ本物だと。
けれど麗香には、そういう男を手に入れる術が解らない。




まぁ、細かい事は皆まで言わなくても、ご自分の胸に手を当てて戴けば自ずとお解りですね?
今後一切、私と彼女の件を干渉しないで戴きたいと思ってね、今日はお誘いしたんです。
貴女になら、もっと貴女に相応しい御方がいるでしょう?




言葉は至極丁寧だったけれど、僚の口調に麗香が口を挟む余地は1㎜も無かった。
麗香は槇村香の事も冴羽僚の事も舐めてかかっていたのだと、この時初めて自覚した。
まさか香の口から、自分の浅はかな行いが漏れるとは思っていなかったし。
まさか僚がそれ程真剣に、香を口説いているとも思っていなかった。
屈辱を感じて悔しかったけれど、野上麗香は反省はしない。
男はこの世に何も、彼1人ではないのだから。








外から戻ると、フロアに出る少し手前の通路で僚は香を見付けた。
名前を呼ぶと彼女は、嬉しそうに振り返った。
その桃色の頬の持ち主が、己にとって思いもよらぬ程大きな存在になっている事を。
僚は痛いほど自覚した。

この世に女は沢山いても、
僚にとって彼女は唯一の存在だと、確信した。





最終話 これが、恋?

・・・野上さん、結婚するらしいわよ?今月一杯で、寿退社ですって。




仕事を終えて着替えていたかすみの耳に入って来たのは、
同じフロアで働く、ジュエリー担当の同い年の子の声だった。
『適齢期』なんて言葉は、今日び死語だけれど。
かすみ達の年頃になると、いよいよそんな話題は現実味を帯びてくる。
昔は合コンに誘われても軽い気持ちで参加していたけれど、
最近は、男性参加者を見る視点も、自然と変わって来た。
お金持ちじゃなくても、ルックスは冴えなくても、きっと優しい人が一番なんだろう。
現実的には。
けれど、かすみは未だに棲む世界の違うひとを想っている。



ねぇっっ、それってお相手は?!


突然、離れたロッカーで着替えていたかすみが、その話しの輪に乱入したので。
同年代の彼女らは、苦笑する。
女子更衣室内に於ける寿退社の話題は、いつの時代も盛り上がるものだ。









・・・若旦那では、無いらしいわよ?・・・え~~、本当?・・・とうとう諦めたんだぁ・・・
ほら・・・若旦那はねぇ、例の・・・避難訓練の・・に夢中だから・・・・っぇえ、ほんと?・・・








絵梨子は、午後にスーツを2着誂えたお客さんのオーダー表をチェックしながら、
後方のデスクに群がって噂話に花を咲かせている、お局様たちの話しを聞くともなしに聞いていた。
この日の昼下がり、そのニュースは噂好きな女達の間を一気に駆け抜けた。
野上麗香が、結婚を決めたらしい。
相手は親の開業した審美歯科を継いだ、歯科医師だ。
その広尾にあるクリニックは、数多くの芸能人が通っている事でも有名だ。
全国的に有名な美容整形外科とも提携している。
恐らく、麗香の婚活リストの中で僚の次の2番目の候補だったのだろう。
逞しいなぁと、絵梨子は思う。
絵梨子の彼は、学生の頃から付き合っているごく普通の大学生だ。
講義よりもバイト優先で、就活の為に似合わないスーツを着込み、単位がヤバイとうろたえる。
何処にでもいる平凡な男の子で、けれど死ぬほど優しい。
だから絵梨子は、彼が好きだ。
きっと、麗香のような女性達には理解されないであろう彼の良さを、
好きだと思える自分で良かったと、絵梨子はいつでもそう思う。
そして、こんな女達の骨肉の世界になど、まるで興味の無い親友を親友と言える自分で良かったと。
けれども、一方では。
自分達も20代になり、婚活問題が差し迫って来る年頃になると考えも変わるんだろうかとも思う。
もしかすると絵梨子にも、今の彼の子供っぽさや優しいが故の不甲斐無さに落胆する日も来るんだろうか。
だとすれば、歳を取るという事は男も女も。
少しだけ悲しい事だなぁ、と思う。















僚。

ん?

夏の限定商品、お前の葛饅頭を採用する事にしたよ。

はい。ありがとうございます。






父親は、口数の少ない人だ。
対照的に、祖父は良く喋る。
僚は普段、滅多にその気持ちを表す事はしないけれど、
この2人に育てられた事を、心底、幸福な事だと思っている。
父親は仕事場では、一貫して1人の先輩職人、経営者として振舞う。
だから僚も仕事の上では、彼を父親だとは意識しない。
1人の男として尊敬し、憧れている。






親父。

ん?



食後の皿洗いは、僚の担当する家事の1つだ。
食事は祖父が作る。
父親は、お茶を淹れる。
食後のシステムキッチンに、父親と息子が並ぶ。
屋上のテラスで植木に世話をしながら、祖父は食後のお茶を待っている。
それは長い事続けられてきた、冴羽家の習慣だ。






俺、真剣に惚れた女が出来た。

あの子か?

あぁ。・・・・・・って言っても、まだ付き合っても無いけど。

そうか。

うん。





暫し、沈黙が続く。
こういう時、親父は無口だからなぁ、と僚は考える。
これが祖父なら、余計な事を根掘り葉掘り尋問し、年甲斐も無くはしゃぐ。
芳ばしい茶葉の薫りが急須の口から漂う。
九谷の大鉢を洗う泡だらけのスポンジが、キュキュッと音を立てる。
茶葉を蒸らす間に、父親が口を開く。






冴羽家の男はな、僚。

・・・な、なに?

こう言ってはなんだが、これまでこれと決めた女は皆、モノにしてる。

・・・何の根拠があんの?嘘くせぇ。

いや、根拠はある。レシピと一緒に、代々、最愛の嫁に関する惚気ともとれる文献が残されている。

・・・・・・。

お前の爺さんも激しい熱愛の末に婆さんと結ばれたし、俺もお前の母さんとは・・・


あああああ゛あ゛あ゛あ゛
もういいからっっ
お茶、冷めるしっっ
早くじいちゃんとこ行けっっ




何が悲しくて、三十路も過ぎた息子が両親のなれそめを延々聞かされなければならないのか。
しかもそれは、子供の頃から暗誦できるレベルで聞かされ続けている。
そして、その結びの言葉は必ず、

お前も妥協せず、心底惚れた女を娶れ。

で、締め括られる。
それが、冴羽家の家訓なのだ。
それ故、そもそも僚が興味を抱かない相手にどれだけアピールされても、
これまで心が動く事など無かったのだ。
ただ1人、槇村香を除いては。
















香は兄と並んで、小さな槇村家の仏壇に手を合わせる。


父と母が眠る墓地には、昼間2人でお参りに行った。
いつもお決まりのパターンで、お参りの後はお寺の近くの蕎麦屋で昼ご飯にする。
兄は鴨南蛮で、妹はざる蕎麦が定番だ。
家に帰って、仏壇に新しいビールと煙草を供えて。
今年はそれに和菓子を供えた。
小さいけれど上品な折箱に、芸術的な美しさの生菓子が入っていた。
香はそれを、槇村家の食器棚のラインナップで最もシックな白磁の小皿に盛った。
前の日に、僚に聞かされたその菓子の名と謂れを披露すると、兄は大げさに感心して見せた。
兄は歳の離れた19歳の妹を、いつまでも子供扱いする。

兄はまだ知らないのだ、いつまでも無邪気で子供のような所のある妹が。
近い将来、老舗の女将さんとなる事など。
当の香本人ですら、まだ知らない。
けれどその日は、それ程遠い未来の話でも無いのだ。
今はまだ、兄妹2人はそのささやかながら慎ましく温かい世界で、幸せに暮らしている。












僚はある決意を胸に、3日振りに百貨店へと顔を出した。


僚の考案した限定商品が発売されて以降、丸3日。
僚は本店の方での上得意客の接客に追われていた。
同時に百貨店の方でも販売開始した葛饅頭の売れ行きは、上々だという報告も受けている。
売り場へと続く、バックヤードの薄暗い通路に彼女はいた。
手には紙袋の束を抱えている。






久し振り。




僚が声を掛けると、彼女は嬉しそうに振り返る。
たった3日、彼女の顔を見なかっただけで、こんな気持ちになるんだと僚は初めて知った。
3日間、忙し過ぎて考える余裕も無かったのに。
彼女の笑顔を見た途端、胸が締め付けられる。
これは多分、初恋なのだろうと思う。
きっと、初恋で最後の恋に違いない、と。




冴羽さん、私も昨日葛饅頭買って帰りましたよ。




これまで自分の勤めるケーキ屋の商品ですら、香はほぼ買った事は無かったけれど。
何故だか、あの爽やかで刺激的な葛饅頭を買って帰ろうと、香は思い立ったのだ。
兄の分と、自分の分と。
限定商品目当ての客が、珍しく列を作っていたので香も仕事を終えた後に並んで購入した。





ありがとう。

コチラこそです。この間のお供えのお菓子、兄も喜んでました。

そう、それは良かった。




そんな会話を繰り広げながら、僚は決意を固めた。
この目の前の大切な女に、今日こそは気持ちを伝えようと。
電話番号もメールアドレスも交換したのに、結局はお互いに使う事は無い。
不思議とこの職場で顔を合わせた時にだけ、健全かつ爽やかな遣り取りで満足しちゃっていた。
けれど、ここ最近の僚はそれだけではどうしようも無いほどの想いを募らせている。
もしも、自分の知らない所で、彼女を狙う男に掻っ攫われたら。
今日明日にも、彼女が何処かで他の誰かと出逢う可能性は無限大にある。
早いとこ、キッチリと彼女を繋ぎ止めておかないと、何か起こった後では僚はきっと死ぬまで後悔する筈だ。


僚は香が抱えた紙袋の束を取り上げる。
彼女の店に宛がわれたスペースの棚に、それを戻す。
不思議そうに僚を見上げる香の手首を、僚は掴んだ。
それは思っていた以上に華奢で、包み込む僚の手はとても熱かった。
何も言わず、少しだけ奥まった人目の少ない棚の裏へと香を連れ込む。




冴羽・・さん?



首を傾げる香を見下ろす僚の瞳は、綺麗な墨の色をしている。
今までのどんな時とも違う彼の様子に、香はドキドキした。
いつものお香の薫りに、少しだけ男の人の匂いが混ざる。
香はこれまでよく解らなかったけれど、もしかするとそれを言葉にすると、
セクシーという感じなのかもしれないと思ってしまった。
薄暗い通路の更に物陰に隠れて、2人は見詰め合った。




ねぇ、俺達、付き合わない?

え?

駄目?




僚がそう囁いたのは、香の耳のすぐ傍だった。
僚の息が香の耳たぶを擽る。
香は漸く気が付いた。
この目の前の大人の男の人に、香はもしかするとあの時から恋をしていたかもしれない。
今と同じこのバックヤードで、危ない所を助けてくれた。
避難訓練の時には、気を失った香の傍にずっと付いていてくれた。
一緒にお昼ご飯を食べて、お家にも呼んでくれた。
初めて見る調理場に入れてくれて、目の前で色んなモノを作って見せてくれた。
一度は、野上麗香との仲を誤解して、関わらないようにしようと思ったけれど。
そう思って電話番号を削除した時に、微かに胸が痛んだ。
狭いエレベーターの中で、他の人から気持ちを打ち明けられた時に真っ先に思い浮かんだのは、
この目の前の彼だった。
その意味するところは、きっと恋だったんだ。






・・・ダメじゃ無い、です。




そう言って香が微笑んだから、僚も自然と頬が緩む。
気が付いたらキツク握り締めていた香の手首を離し、代わりに抱き締めた。
多分、売り場では香と一緒に組んでいるバイトの店員が、
帰りの遅い香の事を待っているだろうけど、すまん。もう少し待て、と僚は心の中で詫びた。





ねぇ、冴羽さんじゃなくてさ、僚って呼んで?

どうして?

良いから、呼んで。





・・・りょう・・・?







香の耳元で、フッと小さく僚が息を吐いた。
自分の名前を呼ぶ最愛の女のその声が、僚の胸を甘く締め付けた。
これまで遊んだ女の数など、正確な所は覚えてすらいないケド。
こんな気持ちになった相手は、1人もいない。
僚はそっと、口付た。
これから先、もう何も要らない。このヒトさえ居てくれれば。




バックヤードでの秘め事は、この後。
遠い未来で自分の子や孫に、懐かしそうに聞かせ続ける事になるのだが、
今はまだ、誰も知らない。
伝統は、粛々と受け継がれてゆく。




(終り)