じれったい恋で10のお題、始めます。

100のお題が終わってしまったので、次なるお題を探していた今日この頃ですが。
イイ感じにかわいいお題を見付けたのでやってみます(*´∀`*)ノシ



『じれったい恋で10題』


01.指先をすり抜けて

02.沈黙の意味

03.こんなにも好きなのに

04.的外れな助言

05.手を繋いだらその先は

06.停滞した空気

07.背中越し

08.優しくなんてできない

09.触れるだけの唇

10.すぐ隣が一番遠い




以上10題、順不同で書いてゆきます。


お題配布元:“天球映写機”さま

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04 的外れな助言

その質問の意図を香が理解するまでには、暫くの時間を要した。
でもそれは、仕方の無い事なのかもしれない。
香は元々、そういった方面に関して勘の良いタイプでは無いし。
僚は元々、香相手にだけは非常に奥手だ。






なんかさぁ、


なに?


ちょっとしたモノでね、相手が気を使わずに、でも貰うと嬉しくなって、
でも気を使うほどのモノでも無く、けどそこそこセンスが光ってるって感じの、


なに?


プレゼントとかって、何が良いと思う?


はぁ???







ちょっと、真剣にアンタが何言ってっか解んない。香の表情を言葉にするのなら、そんな所だろうか。
もうそろそろ、夕飯の支度を始めようかという午後のリビングでの事だった。
それまで、真剣な表情で海外無修正ポルノの卑猥なグラビアを眺めていた僚が、
突然そんな事を言い出したのだ。
香は内心、イラッとする。
どうせそのプレゼントとやらは、夜のお姉さま方への貢物だろうと香は思う。
今まではさすがに、僚がそんなアドバイスを香に求めた事は無かった。
しかしここに来て、とうとうそんな相談まで受けるようになってしまった自分が可哀相だと香は思う。
だって、香の好きな人は他でも無い。
この目の前のエロ本をしっかりと握った彼なのだから。

香の眉間に、無意識に深い皺が刻まれる。

正直、どうでも良い。
そんな事は、ミックと己の財布にでも相談したらどうかと言いたいのをグッと堪える。
イラッとするけど、ここで会話をぶった切ってしまったら。
肝心の贈り先の女の子の事を訊きそびれてはいけない。
どうでもイイけど、一応、訊き出す事は訊き出しておかないといけない。パートナーとして。
けれど香には、男性からの女性へのプレゼントの事なんて、皆目見当もつかない。
なにせこれまでの人生で、その様な局面は一度も迎えていない。
そもそも、こんな質問を香にするのが間違いなのだと、香は目の前の相棒に軽く憤る。








やばい、何か香の機嫌が急降下したと、僚は内心非常に焦っていた。
僚がこの所悩んでいるのは、この目の前の相棒の事である。
とは言え、それは些細な悩みだと言えば些細な悩みに過ぎない。
先月半ば、歌舞伎町のホステスたちがチョコレイトを餌に常連客どもに熱心な営業活動に励む季節。
勿論、僚もそんな常連客の1人ではあるけれど。
僚には毎年、そんな義理塗れのチョコと違い、ガチガチに大本命のチョコレイトが、
たった1つだけある。

相棒からの手作りチョコである。

今年も香は、一生懸命に作った事をひた隠し、まるで何かのついでのように僚にくれた。
けれどそれは、毎年の事なので。
僚も香に合わせて、ぶっきら棒に受け取る。
内心では、それが一番嬉しいバレンタインチョコだったりするのだけど、表情はいつも裏腹だ。
そしてもうそろそろ、お返しなどという儀礼に則って、僚の頭を悩ませる季節がやって来る。
香が何かを具体的に欲しがっているのを、僚は見た事が無い気がする。
もともと、それほど物欲の無い女だ。
きっと真正面から、お返しは何が欲しいのか訊いたところで芳しい答えが返って来る気もしない。
だからちょっと、動向を探る意味でも。
焦点をぼかして訊いてみたのだ、何か欲しいモノとか、香が潜在的に欲している状況を。
この程度の質問なら、すんなりと何がしかのヒントを与えてくれるだろうと僚は期待したが。
そこは、さすがに槇村香だ。それ程甘くない。
むしろバリバリ警戒心剥き出しで、怪訝な表情をしている。







予算に限度が無いのなら、ブランド物かなんかじゃないの??良く解んないけど。





香のこの答えから察するに、香本人は。
自分の事を訊かれているのだという自覚が皆無だと、僚は思う。
まぁ、そうだろう。
日頃のお互いの関係性を見ても、そこまで想像しろとは僚も言う権利は無い。
なにせ日頃、香の事を妹扱いして止まないのは、他でも無い僚なのだ。





・・・・、いや。その、大層なもんじゃなくてさ、その、チョコのお礼というかなんというか・・・





そこで香はなるほど、と思う。
確かにもうそろそろそんな季節だ。
それにしても、僚がそんな殊勝な事を言って来たのは今年が初めてだ。
毎年、ホワイトデーは香の役目だ。
僚が貰って来たチョコの数だけ、お義理感満載のお返しを用意する。
伊勢丹の地下に特設される売り場で、既に包装紙に包まれて売っている安物だ。
それを僚に持たせるのが、冴羽商事恒例のホワイトデーなのだ。
香は、この季節の風物詩を8割方、仕事の一環だと思ってやって来た。
何故、今年に限ってそんな事に僚が言及したのかは、謎だけど。
そもそもは、僚がやるべき種類の事なので、その自覚が芽生えたのはイイ事だ。
幾ら義理とは言え、感謝の気持ちを忘れてはいけないと、香は思うからだ。






ふ~~~ん、それだったら私はいつも伊勢丹の地下で買ってるよ?
もうそろそろ特設売り場が設置されてる頃じゃない?行ってみたら???






そんな香の答えに、僚は苦笑する。
何処までも、自分の事だと思わないタイプなのだ、相棒は。
香の言っているお返しっていうのは、その他大勢の分の話しだ。
それは正直、僚もどうでも良い。
むしろ、例年通り香に一任する。
そこに関しては、僚にお義理でチョコをくれた夜の蝶たちも皆、暗黙の内の周知の事実だ。
冴羽僚が、3月14日に配るマシュマロやクッキーは、相棒の槇村香が選んだモノであるという事。
そんな事は、誰もが当たり前のように知っている。






いや、それはさ例年通りで、おまぁに任せるし。


じゃあ、何の話よ?


だぁかぁらぁっっ、1個あったじゃん? 真ん中どストライクの大本命チョコが。


あ゛ぁ?なによそれ







香の眉間の縦皺が、一層深まる。
的外れな嫉妬をしているのだろう相棒が、僚はやっぱり好きだと思う。
香はいつも的外れだ。
天然というのとも、また少し違う。
香が人並み以上にその鈍さを発揮するのは、僚と香の色恋沙汰に関する事だけだ。
僚はもう既に、そんな香のリアクションが面白い。







何よって、チョコだよ。洋酒の効いたトリュフが3つ。赤い包装紙に銀色のリボン、


・・・・へ?


確か14日の朝メシの時に、ほいって、味噌汁のお替りと一緒にくれたじゃん。


/////////じゃ、じゃあ、おかえしって・・・


何が欲しい?










それまでの気の強そうな瞳が一転、恥ずかしそうに潤んで真っ白な頬がピンク色に染まる。
この後、香が暫く考えてはにかみながら出した答えは。











































依頼。




という事だった。
いやいやいやいやいや、そういう事じゃないだろと、僚は問いたい。
僚は確かに、何が欲しいのか率直な意見を求めるべく質問した。
確かに、この1か月半依頼は無い。
家計を預かる相方としては、この上膨大な数の義理返しを購入しなければならないのだ。
確かに、香の立場とすれば常に依頼は、喉から手が出る程欲しいモノの上位にランキングされている。


けれど、何かもっとこう。
可愛らしい答えは無いのかよ、と僚は思う。
こんな風だから、なかなか2人は進展ムードに持ち込めないのだ。
進展しないのは己の責任だけなのだろうかと、僚は疑問に思う。

こうなったら、

ホワイトデーは、

あの犯罪的に鈍い相方に、

一発ちゅうでもお見舞いしてやろうかと、僚は考えていた。





何より、その贈り物は愛情が沢山詰まっているし、その上、お金は掛からない。
それは香へのお返しには、うってつけだと僚は思った。










早速、お題で1つ書いてみた。
今年のバレンタインは、連載中でスルーしちゃったので・・・









01 指先をすり抜けて

昼下がりの雑踏で。

その赤茶色の柔らかな髪の毛の揺れるのを、僚は遠目から発見する。
襟足でくるんとカールした毛先は、彼女らしく元気に外に向かってはねている。
白いシャツを羽織った薄い背中が、雑踏の中で見え隠れする。
僚は自分が街中で何をやっていたのかさえ忘れそうになって、夢中で彼女の背中を追いかける。
目印は、風に揺れる柔らかな癖毛。


彼女が意外に早足なのか、それともタイミングが悪いのか。
なかなかその距離は縮まらない。


無意識に僚は焦り始める。
もしかすると、このまま彼女の背中を見失うと。
一生あの笑顔を見る事が叶わなくなりそうで、気付いたら僚は軽く駆け足になる。
それなのに、そよ風のように軽い彼女の足取りに、何故だか決して追い付けない。
邪魔くさい雑踏の通りすがりの人物たちは、皆一様に表情を持たない。





そして、もうこの辺りで僚はそれに気が付くのだ。




香っっ


それは奇妙な具合に捻じれた時空にあって、香はそんな風に焦った僚になど頓着せずに。
振り返ってニッコリ笑う。
そして、次の瞬間にその風景は、暗闇へと暗転する。
あともう少しのところで、香は僚の手をすり抜けて消えてしまった。










・・・・っかおりっっ



僚は、自分の寝言で目が覚めた。
またその夢を見た。
僚が気持ちを言えずにいた相棒が夢に出て来て、僚はいつも彼女を追い掛けている。
利き手は、布団の外へと伸ばされ宙を彷徨っている。
少しづつクリアに目が覚めると、それが他愛のない夢であった事に。
僚は柄にも無く、安堵する。
その時に初めて、僚はTシャツの下の冷たい汗の存在を感じる。



久し振りだった。


最近ではもうそんな夢など、見る事も無かった。
僚は寝返りを打って俯せになる。
自分の枕から外れて、隣の枕に顔を埋める。
深く息を吸い込むと、清潔なシャンプーの薫りがする。
それは、可愛い相棒の薫りだ。
キングサイズの大きなベッドには、それでももう、1人分の温もりしかない。
枕元の時計は、9:00を指していて、ブラインドの隙間から凶暴なまでの光が差し込む。


香の使う羽根の枕を、僚は掻き抱く。


きっと今頃香は、階下で僚の朝食を作っているだろう。
健全で眩しい朝日の似合う彼女の、昨夜の痴態を一から十まで思い出す。
ベッドサイドのシェードランプのオレンジ色の灯りが照らし出す、背骨の陰翳。
滑らかな背中。
小ぶりで形の良い乳房。
艶やかな唇。
僚の躰をなぞるひんやりとした指先。
敏感で繊細な耳殻とふくよかな耳朶。
丸みの中にまだまだ青さの残るツンと上がったヒップ。
まるで何か荘厳なオブジェのような爪先。
眉根を寄せて快楽に抗う表情と、最終的には溺れてしまう甘い嬌声。
自分の名を呼ぶ為に蠢く甘やかで柔らかな舌。






もう今では、その全ては。
僚の腕の中に確かに存在するはずなのに。
夢の中では、以前の不安げな迷子のような僚が必死に彼女の背中を追い掛けていた。
久し振りに見たその夢を、僚は起き抜けの脳内で必死に理由付けする。
そこに隠された密かな暗号の存在を、必死に読み取ろうとする。
けれど、暗号などは何処にも無かったりするものだ。
ずっと以前の、気持ちを殺した僚ならば。
それはもっと、直情的なモノとして認識できた。

夢で見る程アイツに惚れてんのか、俺。と。

だからそれらはきっと、受け取り方の認識次第で幾筋もの解釈が出来る。
香と一緒に寝るようになって以来、
そんな夢を見たのは、初めての事だった。

昨夜の相棒を思い出していたら、僚はそれ以上は目が冴えて眠れなくなってしまった。
恐らく数十分前まではそこにあった筈の温もりをかき集めようと、僚は枕を抱き締めた。














僚がそんな時間に起きて来るのは、本当に稀な出来事だ。
その時、香は火を消した鍋の中で味噌を溶いていた。
まだ早いから、朝食はもう10分後に完成予定だ。





おはよ。


おはよう、りょお。もうちょっと待っててね。すぐ出来るから。











香は確かに、そう言った筈なのに。
僚は椅子に座る事も無く、香の背後にピッタリとくっ付く。
邪魔しないで?と言った香を、背中から抱き締める。
クスクス笑いながら、味噌漉しをシンクに置いた彼女に頬擦りをして。
キスをした。

夢の中の彼女の残像と、僚の記憶の中の彼女の痴態が。
実体の伴った彼女その物として、僚の腕の中に戻って来る。
僚にはまだこの幸福が少しだけ、信じられないから。
だからきっと、こんな風に何度でも確認してしまう。
それが僚にとって、死ぬまでずっと当たり前に存在する幸せなんだと悟るまで。






02 沈黙の意味

やっぱり、2人だけの食卓だと静かだと香は思う。




昨夜の食事まで、冴羽アパートには依頼人の美女が泊まり込んでいた。
僚好みのセクシー系美女は、見かけによらず才女で有能な科学者だった。
ミックとかずえさん経由で持ち込まれた彼女のボディガードを、僚はイキイキと楽し気にやっていた。
何かと僚は彼女に話題を振る、僚もああ見えて色んな事を知ってる博学だから。
彼女と僚の会話について行けないのは、香1人で。
2人とも別に意識はしていないのは、重々承知だけど、彼女もとてもイイ人だったけど。
香は少しだけ、蚊帳の外に追いやられたみたいでその数日間、悲しかった。


僚が女性と見ると張り切るのはいつもの事で、慣れっこだし、そこに意味は無いんだと解っているけれど。
香はこういう時、僚にとっての自分の存在とは何だろうと疑問に感じる。

冴子さん
美樹さん
麗香さん
かずえさん
歌舞伎町のお姉さま方
街行く大勢の女の子たち
数多の依頼人
僚と親密に関わって来た過去全ての女性達

その全てに、僚は惜しみなくサービス精神を発揮して、愛嬌を振舞う。
それなのに、香には。
僚はいつだって手を抜いているとしか思えない、力の抜き方だ。
別に、チヤホヤされたいとか、構って欲しいというワケでも無い。
ただたまには、僚の方から香に話したい事とかって無いのかな?と思うと悲しくなる。


香はいつも、テレビを観て興味を惹かれた事とか、外であった楽しい事とか、色んな事を。
僚に教えてあげなくちゃと思うし、その気持ちを僚と共有したいと思ってしまう。
まず一番に、僚に話して聞かせたいのだ、いつだって。
だけどこんな風にわざと沈黙してみても、僚は気が付かない。
香が喋らなければ、2人だけの食卓は驚くほど静かだ。
















イカと大根の煮付けを頬張って、2杯目の御飯を平らげた時に、僚はふと思った。
いつもなら、煩いほど僚に甘えてくる(自覚は無いようだけど)相棒が。
今日はやけに静かだ。
黙々と僚と同じモノを向かい側で食べている。
それでも、彼女は僚に比べると少食なので1杯目の御飯を七分どこ食べた辺りだ。
何事か考え事をしている彼女は、何処か上の空だ。
それでも、僚が空のお茶碗を差し出すと何も言わずに、お替りをよそっている。




御味噌汁は?




炊飯器に向いて僚に背を向けたまま香が訊ねる。
キャベツと油揚げの味噌汁も、つい先ほど空にした。




ん?・・あぁ、じゃあ頼む。


ん。






2人の生活に、言葉は少ない。
何故だか昔から、香は皆まで言わずとも色んな事を察してくれて、気が回る。
香と出逢うまで、他人とこれ程までに密接した生活を送った事が無かった僚が、
これ程までに、違和感なくむしろ快適に暮らせてきたのは、多分、相手が香だからだ。
香が話す芸能人の話しや、歌舞伎町の住人達の話しは。
実際にテレビを観たり当人たちに見聞きするより、生き生きとしていて。
実際、僚は。
香に関しては、聞き役でいる方が楽しいのだ。
香以外の余所の女達は、誰しも皆、自分が一番でないと気が済まない女王様なので、
男が話題を振るのを、当たり前だと思っている。

だから僚は、同等で居られる相方がこの世で一番、好ましい女だと思っている。

香が楽しそうにお喋りしてないと、僚も楽しくない。
香が些細な嫉妬をしているだなんて、僚は微塵も気が付かない。
香が僚の前に、湯気を上げる味噌汁とご飯を置いた。







ねぇ、りょお?


ん~~~?




漸く香が口を開いたのは、ミルで食後のコーヒーを挽いている時だった。
と言っても、食事が終わったのは香だけで。
僚は5杯目の御飯を頬張っていた。
この時には、香にとっても先程からの思案の種は、純粋な疑問に変わっていた。
純粋に訊いてみたくなった、その明らかなる態度の違いと力の抜き方の理由を。
答え如何では、ハンマーを振りかざす事も忘れない、準備に抜かりはない。




りょおってさ、


なに?


たまには、私に話したい事とかなんか無いワケ?


・・・無い。


・・・・・・・あぁ、そう(怒)






香の手の中に、ハンマーのグリップが握られた時。
僚がポツリと言った。






おまぁの話し聞いてた方が、100倍面白れぇからなぁ。


////え?





そう言ってニッコリ笑った僚が、全く毒気も無くからかっている風でも無かったし。
何よりカッコ良くて、香はドキドキした。
つい今しがた、自分ばっかり僚に話題を振って、
聞いてるんだかどうだかも怪しい相棒との遣り取りが不公平だと思っていた香は。
思わず心が弾んでしまう。

僚が楽しいって思ってくれてたなんて。

それだけで些細な事など、香はもうどうでも良くなってしまう。
確かに2人だけの食卓は、静かだし言葉数も多くは無い。
けれどそれは、誰にも邪魔されない2人の大切な時間を意味していたりもするワケで。
たった一言、僚の答え1つで。
香の心は軽やかになる。
香の一番は、悔しいけれどいつだって僚なのだ。
僚が楽しいなら、香も楽しい。














ねぇねぇ、今日さ美樹さんがね・・・   
うん

・・・・それで、ミックったら・・・
ああ

・・伝言板には依頼は無かったんだけど、
おお、で?









それでね、だからね、こうだったの。と、
香の話題は切れ目なく次の話題へと移行しながら続いてゆく。
香が思っている程、本来の僚は口数の多い男では無いのだ。
香の前でだけは、僚は自分を取り繕う事無く、本来の自分で居られる。
きっと香には、僚のそんな気持ちの色々が解っているワケでは無いだろうけれど。
言葉の足らない僚の、僅かな言葉を正しく読み取る才能がある。
そして僚には、香を納得させる一言を選び取る才能がある。
他人はこれを、相性とかフィーリングと呼ぶのだろうけど。
それに関して2人は、奇跡とも言うべき嵌り方で完全に一致する。

たとえそれが沈黙でも。
きっともうそこには、穏やかな空気が流れている。









03 こんなにも好きなのに

リビングのローテーブルの上に、僚が珍しく忘れ物をしていた。


幾ら超人的能力を持ったモッコリスケベでも、たまには忘れ物ぐらいする。
まぁそれでも、それは。
香に見られても構わない類のモノだから、忘れるんだろうとは香も思う。
小さなモレスキンのメモ帳。
香は何度かその中身を見た事がある。
僚が日頃、ちょっとした事を書き留めているモノだ。
僚が香に見せた事もあるし、仕事中に手の離せない僚に代わってメモを取らされた事もある。
小さな字でびっしりと、香には意味の解らない事もあれば。
どの仕事の時のものか思い出せる事もある。
日本語だけで無く、英語や香には読解不能の言語も混じっている。

そのメモ帳の中程に、その女の子リストはある。
上から、




野上冴子
れいかちゃん
美樹ちゃん
かすみくん
名取かずえちゃん
・・・・


以下、延々と続いている。
僚曰く、“カオリンとコンビを解消した場合の後釜候補”らしい。
なんでも以前に、
香が僚に愛想を尽かしてミックの事務所に転がり込んだ時(そう言えば、そういうこともあったなぁ・・・)に、
僚が考えてリストアップしたらしい。
そしてその事を、僚はヘラヘラしながらサラッと白状した。
実質的に考えて、そのリストはただの僚の願望混じりの戯言に過ぎないけれど。
香はこれを見るとやはり、モヤモヤする。




香にとっては、僚以外、相方など居ないし、
そもそも相棒が僚だからこそ、今現在このような裏稼業に身を置いているのだ。
いつだって香にとっては、僚ありきで僚が1番なのに。
僚にとっての相棒とは、そういうモノでは無いらしい。と、香はそのリストを見た当時思った。
それはまるで永遠とも思える香の片想いを象徴しているようであり、
その想いが晴れて実った今でさえ、妙に癇に障る。
香はこんなにも僚が好きなのに、まるで僚はそうでも無いみたいで。

香はその黒い表紙のメモ帳を手に取ると、
中を見てみたい衝動と見てもムカつくだけだという理性の狭間で、揺れ動いていた。
そんな時に、けたたましくリビングの電話が鳴り響いた。






はい、もしもし。




香は用心の為、電話では名前を名乗らない。
この家に電話を掛けて来る人間は限られているけれど、僚と知人以外は物騒な電話だったりもする。




あぁぁ、俺だけど。



相手は先程まで香が考えていた、張本人だ。






俺って誰ですか?! そんな名前の人存じ上げませんっっ


・・・なに拗ねてんの?カオリン。今日は、女の子の日じゃ無かったよね??


!!!!(怒)ガチャンッッ






思わず衝動的に香が受話器を叩きつけた直後、もう1度ベルが鳴る。
恐らくは、僚以外いない。
香は冷静になる為に、10コール目で受話器を取った。








なによ?


何、怒ってんの?カオリン。・・まぁ、イイけどさ。俺、そこにメモ帳置いてなかった?


・・・・・・・・あるよ。


おおぉぉぉ、良かった良かった。


で?


は?


それだけ?用事。


うん、それだけ。あるなら良いんだ。






そう言った僚に、香は無性に訊いてみたくなった。
だから訊いてみた。
昔ほど意地を張る理由はもう、2人には無い。




そのメモ帳なんだけど、

うん、なに?



香はそのメモ帳に残された、過去の僚の戯言に対するムカつきと疑問を投げかけた。

僚には香以外にも、余所に沢山の選択肢を持っている。
片や自分には僚以外いないし、そんな事を考えた事も無い。
果たして僚にとって、それならば、これだけは香以外無いと言える事は何なのか??

という、香以外誰でも解りきっている事を訊いたのだ。
僚の目に女など、香しか映っていない事は周知の事実なので。
この香の質問は、客観的に見れば、ただのバカップルの愛情確認でしかない。






僚は携帯の向こう側で、真剣な表情をして拗ねている相棒を想像して無意識に微笑んだ。
思わず小さく呼気が零れる。
1番は誰なのかと真面目に訊いてくる、僚のオンリーワンが僚は愛しくて堪らない。





まず初めに。


うん。


この携帯の、短縮00番はカオリンの携帯だ。


うん、他は?


この携帯の、メールフォルダーにはカオリン専用フォルダーが作られている。他はごちゃまぜだ。


うん、次。


カオリンのハンマーを受けて無事でいるのも、身体を張ってトラップを全力で受け止めるのも、
俺だけだ。


なに威張ってんの??それはアンタがろくな事しないからでしょ?  次。


カオリンの初めての男は俺だ。


///////ななな、なによ、急にっっ  そそそそういう事じゃ無くてなんか無いの?


カオリンの最後の男も、俺の予定だ。今のところ。


・・・・・・。


で、納得した?  要はさカオリン。


・・・なに?


死ぬまで離さなきゃ良いわけだろ?おまぁの事。簡単な事さ。お解り?カオリ君。


わ、解った/////


ん、お利口さんお利口さん。じゃ、もうじき帰るわ。







そう言って、通話は途切れた。
香は受話器を持ったまま暫し放心した後、テーブルの上の件のメモ帳を手に取った。






僚が帰宅すると、キッチンからは夕飯の支度をする香の気配といい匂いが漂っていた。
リビングのテーブルの上には、例の愛情確認の発端となった噂のメモ帳が置かれていた。
その中程、香をいつもモヤモヤさせていたページは、破かれて手帳の横に丸めて置かれていた。

その可愛らしい相棒の嫉妬に、僚は懐からライターを取り出すと灰皿の上でそのリストを燃した。
こんなにも真っ直ぐに愛情をぶつけられたら、真心込めてベッドでお応えしなくちゃなぁと、
ふしだらな事を考えながら。





09 触れるだけの唇

僚は夕飯のメニューを見て、これは何か今日という日と関連があったりするのだろうかと考える。
テーブルの真ん中に置かれたガスコンロの上の土鍋では、ぐつぐつと豆乳鍋が煮えている。
白い出汁の中から見え隠れするのは、オレンジ色が鮮やかな鮭の切り身と。
立派な大きさのブナシメジだ。
大きめに切られた豆腐も、イイ感じで湯気を立てている。
豆乳鍋以外の箸休めに、春菊の白和えがある。
これというのは、もしや。




(・・・ホワイトデーに掛けているのか????)



僚は疑問に思いながらも、グラスに注がれたマッコリを飲み干した。
いつもなら熱々の鍋物には、冷えたビールがつきものだけど。
何故だか今日の晩酌は、マッコリらしい。
僚はその甘ったるい酒があまり好きでは無いが、どうやら香の話しによるとそれは貰いモノらしい。
近所の酒屋の親父からの、チョコレイトのお返しだそうだ。

“これなら、香ちゃんでも飲みやすいし、たまには僚ちゃんに付き合って晩酌でも”

という、計らいだそうだ。
せっかくだから、僚も飲んでね、と邪気も無く微笑まれたら。
メシには合わないからヤダ、とは言えずに僚は一杯だけ付き合った。








カオリン。


なぁに?


なんで今日のメニューは真っ白なわけ?ホワイトデーだから?


?????





香には、一瞬なんのことか解らなかったらしい。
キョトンと首を傾げて、暫く考えてからハッと息を呑む。
自分で食卓を整えておきながら、僚に言われて初めて気が付いたらしい。





違う、豆腐と鮭が特売だったの。




たまたまだよ、と言いながら香はケラケラ笑った。
白和えは、何となく春菊が食べたくなっただけだし。
マッコリに至っては、全くの予定外だった。
買い物帰りに酒屋の前を通りがかった所で、店主に声を掛けられ貰ったのだ。
そう言って、脂の乗った鮭を頬張る香の唇に。
僚は知らず視線を移してしまう。
香は全くの無警戒で、僚の熱の籠った視線になど気付きもしないけれど。
これが香以外の女なら、多分食卓の空気は途端に艶めいたモノになるだろう。
この相棒は、年齢に比して無邪気にも程があると、僚は多少イラッとするが。
それもこれも香の思春期からこれまでに於いて、
僚自身が香のこのような人格形成に多大なる影響を及ぼしているので、
ここで僚がイラつくのは、全くのお門違いというものだ。








思えば、半月ほど前。
午後の平和なリビングで僚は、
相棒へのチョコのお返しに、1発キスでもかましてやろうと考えていた。
それならお金も掛からないし。
妙な所で現実的な相棒も、実際は意外に少女のように夢見がちなので喜ぶだろうと。
しかし、改めて当日を迎えると。
僚は夕飯を食べる頃合いになっても、その様な雰囲気に持ち込む事など微塵も出来そうにない。
ましてや相棒は、僚からのお返しなど一切期待などしていないかのような態度である。
ていうか、そもそも喜ぶんだろうか相棒は。と、根本的な疑問まで湧いてくる始末だ。
夕方、香は。
僚に満面の笑みで、伊勢丹の紙袋を寄越した。
中身は、今夜僚が盛り場で配って回るお返しだ。
もうじきこの食事も終わると、香はきっと食後のコーヒーを淹れて、
妙に物分り良く、僚を見送るのだろうと思うと、僚は焦っていた。
一体いつのタイミングで、かましてやろうかと。


ふざけた遊びの延長ならキス位、挨拶代わりみたいなものだけど。
いざ、目の前の大本命にアタックしようと目論むと、無意識に掌が汗ばむ。










香はお腹一杯だなぁと思いながら、ミルを挽いていた。
僚はご飯もモリモリ食べていたけれど、
香は鍋の締めにうどんを入れる予定にしていたので、ご飯は食べなかった。
3日前に行ってみた伊勢丹の特設売り場は盛況だった。
マシュマロとクッキーとキャンディと、3種類を均等になるように買った。
後は、僚が適当に女の子達に配るだろう。
どうせ僚からのお返しは期待していないから、香は自分用にゼリービーンズを買った。
きっとコーヒーを飲み終わったら、僚は出掛けてしまう。
香はわざとゆっくりと、豆を挽いてみる。
本当は、出掛けて欲しくなど無いのだ。





香。




大抵、コーヒーが入るまでリビングで待っている筈なのに、
珍しく僚が、キッチンに戻って来た。








あ、ごめん。もうすぐだから。


え?あ、あぁ、いやそれは良いんだけどさ。


どうしたの?


・・・・お返し、まだだったからさ。







そう言いながら僚が、香のほんの傍までやって来て。
ホンの少しだけ、
触れるだけの、
キスをした。
一瞬、何が起こったのか解らなかったほどの、微かな触れ合いだけで。
香はまるで熱いお湯を呑み込んだように、胸から顔にかけてカッと火照るのが解った。
コーヒーを挽いていた事は、完全に忘れてしまった。
ボンヤリと、僚の顔を見上げるだけで精一杯だった。
僚の目が激しく泳ぐ。
けれど、香の方が輪を掛けて動揺しているから、僚の動揺には気付かない。










それとさぁ、今日帰って来る時に依頼持って帰って来るわ。


ふぇ??


まぁ、チンケな依頼だけどさ。無いよかマシだろ?







本当は、香の欲しいモノは『依頼』だったから。
僚はこの数日、依頼が無いか教授や冴子にそれとなく打診してみたけれど。
普段、香と違って熱心な営業活動などしない男の売り込みに気味悪がられて終了した。
どうでもイイ時には、重なる面倒な厄介事も。
いざ心待ちにしてみると、そんな都合の良い依頼など来ない。

ちょうど昨夜、そんな僚の元へと舞い込んだのは。
リョウちゃんが香ちゃんの為に依頼が欲しいんだって。という噂を聞き付けた、
ゲイバーのママの飼い猫を預かるだけの簡単なお仕事だ。
なんでも彼は明日から3日間、店を休んで温泉に出掛けるらしい。
予定では、馴染みのペットホテルを利用するはずだったけど、
そんなワケで、急遽、冴羽商事へと依頼する事に相成ったのだ。


香は猫が好きだし、預かるだけなら簡単だし、幾らかでも報酬が貰えるし。
夢見がちなほうのお返しはキスで返して、
現実的なほうにも一応、折り合いは付けてみた。
真っ赤になって泣きそうな顔をしている相棒を見ていると、僚の方までこっ恥ずかしいので。
僚はワザとぶっきら棒に、香の癖毛をワシャワシャと掻き混ぜると、
紙袋を片手に夜の街へと繰り出した。











お返し編。
この前の続きのようなもの。

05 手を繋いだらその先は

水切り籠の中に伏せられたピカルディグラスに
勢いよく蛇口から溢れ出る水道水を注ぐ
早い春の夜気は数週間前よりも温み水道の水も凍るほどの冷たさは無い
僚のオーバーサイズのグレイのTシャツを着ると
裸のヒップは隠れてまるでそれはミニワンピのようになる
それを被ったのには特に意味も無い
ベッドのすぐ傍らに落ちていたのがそのTシャツだったからだ
Tシャツからは薄い煙草の匂いと柔軟剤の匂いがする



グラスの中の水を一息に飲む



たとえば僚なら
全くの裸ん坊で部屋を出るんだろうけど
さすがに香には誰が見ているというワケでも無いけれどそれは躊躇われる
とは言えTシャツの下は香も裸ん坊だ
香が喉の渇きを覚えて目覚めると僚は小さな寝息を立てて熟睡していた
見た目よりも意外に肉厚な僚の上唇が薄っすらと捲れて
少しだけあどけない少年のような寝顔だった
香を抱く時に心底楽しげに意地悪く責め立てる彼とはまるで別人だ
香の腰に回された筋肉質な腕は香が柔らかく持ち上げると
あっさりとシーツの中に仕舞い込まれた
香の目覚めが僚の睡眠の妨げにはならなかった様子に香は無意識に微笑んだ





昼間
3週間に亘って関わっていた依頼が終わった
依頼人の男性は命を狙われていたのでその間ずっとこのアパートに滞在した
以前は香の部屋だった6階の客間に寝泊まりするのは今では専ら依頼人だけだ
依頼人を2人で駅まで見送ってその足でスーパーに出掛けた
家に帰ってコーヒーを淹れて一服して
頃合いを見て夕飯の支度をして
夕飯を食べながら少しだけ2人ともビールを飲んで
食後のコーヒーを飲みながらキスをして一緒に風呂に入って
風呂から上がってセックスをした

丁寧に生きていると思う
生きている実感を噛み締めながら生活している

時々2人で仕事して栄養と予算のバランスを計算した食事を作り
家の中を磨き節約をして僚の手綱を締めたり緩めたり加減しながら
毎晩同じベッドで眠り何度もキスをする
香が僚とこんな風に生活するようになってまだそれほど時間は経たない
数ケ月といったところだ
それでも香にはもうそうなる前がどんな風だったのか記憶は随分薄らいでいる
お互いに悶々と片想いを煮詰めながら焦げ付く寸前だった同居生活の方が長いのに
現金なモノで甘やかな現実は辛かった事や悲しかった事など簡単に上書きしてしまった
長くて苦しかった片想いを簡単に凌駕してしまう程度には香は今幸せだ
僚の手はいつだって温かく視線は灼けるほど熱い





グラス1杯の水を飲み干すと途端に体感温度が下がる
靴下もスリッパも履かない素足が冷える
抜け出して来たシーツの中が恋しくなって香は早く戻ろうとグラスを洗おうとして躊躇った
指先の匂いを嗅ぐと僚の匂いがする









その指は僚の柔らかな黒髪を梳いた

その指は僚に甘く噛まれ

その指は僚をなぞり 掴み 摘み 撫ぜた

僚に触れ僚を感じ僚を慰めた




だから指先から僚の匂いがする
多分この匂いを知るのはこの世で香だけだ
香を抱くのと同じように女を抱いた事など僚はこれまで一度も無い
香は僚との情事を終えて目覚めた時その指先の匂いを嗅ぐのが好きだ
僚のあらゆるポイントに触れ僚と指を絡め合ったその指を
そのままにしておきたくて
香はグラスは洗わずにシンクへと置いたままキッチンを出た







僚と初めて手を繋いだのはいつだっただろうと香は思う
それはもう随分昔の事のようにも思うけれどハッキリとした記憶は無い
エロティックな意味合いを含まないスキンシップなら
2人ともこれまで何度となく交わしてきた
僚がどう感じていたのかまでは香には知る由も無いけれど少なくとも以前の香は
手を繋いだただ純粋にそれだけの行為によるドキドキ感しかなかった
そこから先を連想出来る程の経験が無かった
今現在の香が連想するのは
僚に組み敷かれながら口付を交わし指を絡め合うひと時や
穏やかな気持ちで手を繋いで眠る事だったりする
少しは大人になった
僚が香を大人にした



きっとベッドに潜り込んだ香に僚は目を覚まして冷たいって苦情を言うだろう
すっかり冷えた足先に長い脚を絡めて
僚の匂いがする指先は大きな掌の中に包み込んでくれるだろう
もしかするとそのまま済し崩し的に口付が始まりもう一度愛し合うかもしれない
はたまたそのまま香を抱き込んで温めながら眠ってしまうかもしれない
香は冷たい素足で階段を踏みながら無意識に軽やかな足取りで寝室に戻る



いずれにせよ彼の眠るそこは香にとって幸せな場所に違いは無い





07 背中越し

香が薄ぼんやりと目覚めたのは、夜明け前の世界が1番静かな時間帯だった。
冴羽家の主寝室も例に漏れずシンとして、愛しい相棒の規則正しい寝息だけが聞こえる。
目覚めた香のすぐ目の前にあったのは、大きな肌色の壁だった。
香に背中を向ける形で僚は眠っている。
裸の上半身に、ボクサーショーツ。
体温の高い男は、長い脚を掛布団の外に大きくはみ出している。
背骨に沿ったえくぼのような窪みと、隆起した筋肉のうねり。
見た目にも滑らかな小麦色の皮膚の上には、時間の経過した傷痕が幾つも浮いている。
それは小さく盛り上がり、小さく抉れている。
小麦色の肌色の上に、それより少しだけトーンの明るい肌色のクレヨンで描いたような傷痕は、
指先で触れるとツルツルしている。
香は視線を、僚の背中から己の手首へと移す。
青紫色の痣の浮かぶ手首は薄皮が捲れ、昨夜風呂に入ると少しだけ沁みた。







その時不意に、香が思い出した僚との過去のやり取りは、一体いつのモノだっただろう。
あの時はまだ、僚の考えている事が読めなくて。
けれどその大きな背中に追い付きたくて躍起になっていた頃だから、
香もまだ、今より子供だった。
何の話しの続きからそういう話になったのかは、今となってはもう思い出せないけれど。
香は僚に訊ねた事がある。
かなり冗談めかせた口調とは裏腹に、薄茶色の瞳が至って真剣だった事に香自身の自覚は無い。



アタシがもしも死んだら、少しぐらいは悲しんでくれる?



香はあの頃、僚にとっての己の存在価値がどの程度のものなのか。
それが知りたくて堪らなかった。
例えばジャケットに付いた糸屑のように。
例えばテーブルの上のパン屑のように。
もしも、僚にとって自分が取るに足らないモノだとすれば、僚の傍にいる意味は無いに等しい。
だからそれは知りたくて堪らないと同時に、知るのが怖い事でもあった。
あの時、僚は。
香の後頭部をパシンとはたくと、つまらねえ事言うんじゃねえと笑った。
そして。



おまぁが死んだら、兄貴の隣に埋めてやるから安心しな。




そう言って、香を置いてスタスタと歩いて行ってしまった。
取り残されたような気持ちになって香は、慌てて僚の背中を追い掛けた。
追い付いて僚の背中を叩いた。
じゃあ、アタシはアンタの死に様を見届けてやるっっ、そう言った香には答えず僚は低く笑った。
香は僚の顔を見上げたけれど、僚の表情からは何も読み取る事は出来なかった。




香はいつでも、どんな会話からでも僚の言葉の端々を何度も思い返して、
僚の思考を探ろうと必死だった。
少しでも優しい言葉が聴けたら、何度も何度も噛み締めて僚の傍に居る勇気に代えた。
それがたとえ都合の良い解釈でも、香の思い違いだとしても。
香にとって僚の言葉や態度は、香のアイデンティティを決定づける重要なファクターだった。








香は手首を見ながら、午後の車の中での僚の横顔を思い出していた。


僚を狙う殺し屋に捕えられた香の拘束を解いてくれたのは、僚だった。
手荒に戒められた手首と足首は、擦れて傷を作り、着衣は土埃に塗れていた。
香を助け出して家路に着く車内で、僚は少しだけ苦しそうな顔をして言ったのだ。













お前が死んだら、俺も死ぬから。
俺を殺したく無かったら、お前は何がなんでも生き延びろ。





そう言って僚はやっぱり低く笑った。
今の香には、僚の気持ちが痛いほどよく解る。
あの頃、どれだけ思い詰めても解らなかった僚の気持ちが。

香を抱きながら、僚は香の手首に優しく何度もキスを落とした。
大きくて追い付けない、謎だらけだった広い背中にも。
今では何の躊躇いも無く頬を寄せる事が出来る。
僚に残った傷痕の数だけ、香は僚を癒す事が出来ればと考える。

香自身が傷付く事は、間接的に僚を苦しめる。
強くなりたいと、香は思う。
あんな風に自嘲(わら)う僚の顔を見るのは辛い。
僚に守られながらも、僚の事を守ってあげたいと思う。




香は僚の背中に頬をくっ付けて、分厚い腰に腕を回す。
僚の体温は驚く程高い。








なぁに、カオリン。それって、お誘いだと思って良いの?





寝ているとばかり思っていた相棒は、クルリと向きを変えると、
目にも留まらぬ早業で、香を組み敷く。
楽しげな眼をした僚は、まるで子供のように無邪気だ。
確かに香は少しだけ、この展開を期待していた。
優しくなどしてくれなくても構わないから、しっかりと抱きしめて欲しいと思った。




いいよ。




密やかにそう囁いた香の返事を確認して、僚の唇がふわりと落ちて来た。
夜明け前の一番静かな時間に、張り詰めた空気が解ける。
香の指先が僚の背中を、ゆっくりと撫ぜる。
まるでそこにある傷痕のひとつひとつを確かめるように。




06 停滞した空気

僚は目が覚めた寝室の薄暗さに、軽く落胆した。



明らかに、朝とは言えない午前11:00
いつもの手荒な相棒のモーニングコールは、未だ無い。
したがって寝室の窓のブラインドは、昨夜のままぴっちりと閉ざされている。
因みに、相棒は。
モーニングコールもまだだけど、この3日この寝室に寄り付きもしない。
どうやらこの間、数カ月ぶりに6階の客間兼自室で眠っているらしい。
どうせ待っていても起こしに来ないのだから、意を決して起床するしか仕方ない。

6階に降りてリビングに顔を出すと、リビングの片隅は急場しのぎの物干し場になっていた。
柔軟剤の薫りがリビングに充満している。
香はきっとキッチンに居る。
僚はカーテンの開けられたベランダの外を見遣ると、軽く溜息を吐いた。






停滞した雨雲が本州全域に居座って、もう5日。

派手さは無いモノの、地味にシトシトと陰鬱な雨が降り続いてる。
春とはいえ、こうも続くと少しばかり肌寒い。
だからそもそも、香のご機嫌は最悪だったのだ、そうでなくとも。
ご機嫌ナナメの香の逆鱗に触れたのは、
言い訳の夜遊びでも無く、その裏にある仕事(ころし)でも無く。

ゲランのサムサラだ。




確かにあの晩、仕事を終えた後に冴子に接触する必要があった訳で。
あの女狐ときたら、どんなに夜の深い時間でも新鮮な薫りを纏っていて。
そもそも、あの男顔負けの激務の中で、ネイルや薫りに手を抜かない所はある意味、
女性らしさと云うよりも、僚には恐怖を思わせる。
きっと、それらは彼女にとっては武装の一種だろう。
そして僚にとっては、愛しい相棒との間の火種ともなる迷惑な代物だ。
確かに、2人の身近であの薫りを愛用しているのは冴子1人だ。
香の嗅覚はまるで犬並みに鋭い。
濃密な硝煙よりも、香の心を掻き乱すのはどうやら白檀とバニラの薫る移り香らしい。


僚は後になって知った事だけど。
僚と香がコンビを組んでまだ間もない頃、
冴子はどうやら香に何やら余計な昔話をした事があるらしい。
まだ、子供同然だった香にとって、“三角関係”という言葉は。
まるで少女漫画や、メロドラマを彷彿とさせるもの以外の何物でも無く。
だから、兄と僚と冴子の関係に、香は過剰なまでに嫉妬する。
勿論、香が思っていたような事は何も無い。
少なくとも僚と冴子の間には。
冴子と槇村が、果たしてどの程度の仲だったのか、恋仲だったのは言うまでも無いが、
それがどんなものだったのかすら、僚は正直良く知らない。
というか、興味は無かった。
2人とはある時期、一番身近で一番打ち解けた間柄だったけれど、
今にして思うと、2人のプライベートな事はさして良く知らなかった。

槇村には香という家族が居て、彼は彼女に僚を近付ける事を躊躇っていたし。
冴子にしても、父親や身内全てが警察官僚という社会的立場を鑑みると、
僚はむしろ自分の方から、冴子との表立った接触や深入りは禁物だと考えていた。
そもそもが、僚自身、冴子や槇村と棲む世界の違う人間だと思い続けながらも運命は絡まった。
勿論香も、向こう岸の世界の人間だと僚は思っていた、昔は。


香にとって、僚は言うまでも無く兄・秀幸もまた、特別な男だ。
その2人の男に深く関わる(と思われる)女狐は、
まるで喉の奥に突き刺さった小骨のように、いつまで経っても抜けない棘のようなモノだ。
たとえ、僚との関係が進んでも、どんなに愛されているという実感があっても。
否、だからこそ、嫉妬は別腹なのだ。

けれど、冴子にとっても香という女が、ある意味では特別であるという事は僚も知っている。
冴子がこれまで誰よりも惚れた唯一の男にとっての、唯一の存在。
もしかすると、自分以上に彼に愛された彼女。
たとえ槇村に嫉妬を向けても、妹に妬く無様な女だと思われるのが関の山だと、
賢い大人の女は悟ってしまっていて、可愛く拗ねるという手管など使えない。
そのやり場の無い感情の捌け口に、僚が選ばれた事も知っている。
それはある時には、朝まで飲み屋で付き合わされた愚痴の聞き役であったし。
ある時には、切迫した面持ちの大人のお誘いでもあった。
けれど僚は、不思議と冴子の誘いに乗る気にはなれなかった。
今にして思えば、大切だったのだ。
槇村秀幸との関係が。
そこを反故にしてまで、やりたい女など皆無だったし、
そういう意味では冴子は、最悪に後腐れ大アリの相手だった。




こうして振り返ると、結果的にやらなくて正解だったと、僚は結論付ける。


槇村との軋轢というよりむしろ、香に対する潔白という意味で。
一度でもやっていれば、こんな風に胸を張って無実だとは言えなかったかもしれないから。
僚はこの3日、無実を叫び続けている。
香は聞いていないフリを決め込みながら、その実、
態度を軟化させるきっかけを模索しているのが現状ではないかと、僚は踏んでいる。
今回に限り、移り香の理由を説明する為に、
依頼の全容は割愛して、冴子からの依頼を単独で請けた事だけは話した。
だから、その点は一定の評価はして貰えたらしい。(勿論、依頼料を家計に回すのが前提だ。)
日頃の秘密主義が、この時ばかりは功を奏した。
だから、香がこうも拗ねている理由は、感情の問題だ。







おはよ。





シンクに向かってフライパンを洗っている香からの返事は、無い。
キッチンに水音だけが響く。
普段、口やかましい程に挨拶に煩い相棒の態度は、多少矛盾を感じなくも無いけれど、
僚はそこには触れない。
女なんて生き物は、矛盾の塊だし、そこが可愛いと言えなくも無い。
僚は自分の席に着いて、畳んで置かれた朝刊を広げる。
目の前の皿には、焼き立ての目玉焼きと、カリカリに焦げたベーコンと、
オニオンスライスがこれでもかと入ったサラダに、トーストがある。
新玉葱は生で食べるのが美味しいのよねぇ、と言いながら笑った1週間前の香を思い出す。
僚はなるべく軽い感じで、普通に声を掛ける。
ヤキモチ焼きの恋人には、辛抱強く接するのも重要なのだ。




ん?挨拶は1日の始まりの大切なコミュニケーションだぞお、カオリン。



これは日頃の、香の口癖だ。
もっとも、香の場合。
おはようの前に、間髪入れずに目覚まし代わりのハンマーが飛んで来るのだが。
僚はそれも込みで、大切なコミュニケーションだと認識している。
香はフライパンの泡を流し切って、ゆっくりと振り返る。
まるで歌舞伎役者が見栄を切っているかのような力強い目線をくれて、
おはよう。と、挨拶を返した。
僚は新聞で顔を隠しながら咳払いを1つして、その言葉を切り出した。







まだ、怒ってんの?カオリン?何回も言ってるケド、ほんと何も無いか・・


解ぁってるわょっっ、てかなんかあったら今頃アンタ死んでるわよ?



僚の言葉をさえぎって放たれたのは、激しくも恐ろしい愛の言葉だ。
たとえ痴情の縺れでも、その辺の同業者に殺られるぐらいなら、香に殺された方がマシである。
自分の事をこれ程までに深く愛している女に、
むしろ殺られたいと思う程度には、僚も香にイカレテいる。
この3日間、ココから先へ話しが進まなかった。
香がこうして会話を強制終了し、2人黙々と食事に集中した。
けれど今朝は、香も少しこの数日を省みたらしい。
雲の切れ間から一筋の光明が差したかのように、僚には思えた。
それまでの声音と違い、香の声は小さく掠れていた。
香の本音は、むしろこちらの方なのだと僚は愛おしさが募る。





・・・嫌いなの、あの匂い。




勿論、それがただの嫉妬でも構わない。
理不尽で狭量で子供じみた言い草だという事は、誰より香本人が自覚している筈だ。
だから、僚のやるべき事は1つ。
香の言葉を決して否定しない事。




うん、俺も。




3日ぶりに、香の表情が和らいだ。
こんな香は時々、妙に子供っぽくて、僚は初めて逢った日の事を思い出す。
香は日向と石鹸の匂いがする。
香には、大人の女の手管も武装も何も要らない。
だから僚は香を信用出来る。
香は嘘が吐けないし、僚を裏切らない。






だからさぁ、俺の事マーキングしてよ。おまぁの匂いで。




そう言った僚に、香が不敵に笑った。
それまでの子供っぽい嫉妬の表情が一変して、妖艶なモノに変わる。
今では香も僚の言葉が持つ意味くらい、理解している。
香は返事の代わりに、僚の皿の上のベーコンをひと欠片摘んで口に入れた。
ベーコンの脂は、香の唇に艶を与える。



空模様よりも一足早く、停滞した空気が一掃された。










ワタシの脳内イメージでは、冴子の香水はゲランのサムサラで。
美樹さんが、ジルサンダーの4番。

カオリンの匂いは、牛乳石鹸です。


10 すぐ隣が一番遠い

昼下がりの喫茶店には、香の他にはカウンターの内側の美人ママしかいない。
彼女の夫はつい今しがた、買い出しに出て行った。
小さくヴォリュームを絞った有線からは、何処かで聴いた事のあるような気がする洋楽が流れている。
もしかすると、聴いた事があるというのは錯覚で、僚が口遊んでいたのかもしれない。

否、確かに。
思い返すと、僚が口遊んでいたんだった。
古い古い唄で、香は元の唄など全然知らないけれど、
それを聴いて一気に記憶が過去へとフラッシュバックされる。
僚がそんな風に何かを口遊むなんて事自体、非常に稀だし、
きっとたった1度あったようなそんな些細な出来事の記憶が、自分の中に残っていた事に香は驚いた。
あれは確か、依頼を終えた帰り道の車の中だった。
いつものように危機一髪で依頼人の彼女を救い、ついでに彼女のハートまで撃ち抜いた僚は、
やんわりとその好意を拒んで、いつものミニの運転席へと帰って来た。
沈黙の続く車内で不意に、僚はラジオから流れてきたその曲に合わせて小さく口遊んでいた。
香はあの時、そんな僚を見たんだったかどうだったか、よく覚えていない。
もしかすると、僚のボソボソした鼻唄を聴きながら外の景色を眺めていたかもしれない。
隣に座る僚が、とても遠くに感じたのは。
口遊むその唄が香の知らない言語だったからなのか、
それとも依頼人が僚を見詰める絡みつくような視線が脳裏に焼き付いて離れなかったからなのか。
今となってはもう、よく解らない。
けれどいつものように、自分の隣のいつもの席に僚が帰って来た事に安堵していたような気がする。





香さん、お替りいかが?



美樹の言葉に、香の意識は現実へと引き戻される。
香がこうしてボンヤリと物思いに耽っている間、女主人は干渉せずに居てくれる。
そうそういつも、女同士姦しく喋り倒しているという訳でも無いのだ。
香が長い黙考に耽っている間、彼女は新たにコーヒーを淹れていたらしい。
そう言われてみれば、店の中の芳ばしいコーヒーの薫りが一層濃くなった気がする。

僚はいつもこの店では、香の左隣に座る。
香が機嫌を損なって不貞腐れている時も、その逆で、ご機嫌で浮かれている時も、
僚はいつも同じテンションで、香の隣に座る。
香のテンションを上げるのも、下げるのも僚なのに。
肝心の当人は、いつだって飄々としていて香には何ひとつ、掴み所を与えてはくれない。
香の気持ちはガッツリ掴まれているというのに。
僚はその飄々とした仮面の下の本心を、香にはなかなか見せてはくれない。





うん、いただく。



香はこの店へ来て、コーヒーを飲むのが好きだ。
本当は家で自分で淹れて飲めば、安上がりなんだろうけど。
ここで過ごす事は、香の唯一のささやかな贅沢だ。
家の中ではコーヒーを淹れるのは香の役目で、それはいつだって僚の為に淹れられる。
だから香はこうして香の為に淹れられるコーヒーを、ここで飲むのが好きだ。

香は朝の(というか、ほぼ昼前の)食卓での光景を思い返す。
ボサボサの寝グセだらけの髪の毛も、目やにの付いたままのだらしない起き抜けの顔も、
多分、香にしか見せない僚の普段の姿は、いつも。
一番近くて一番遠い。
僚に心を奪われる依頼人の美女たちは、そんな僚を知らない。
依頼人が滞在する短い期間に、僚が少しだけ猫を被って身だしなみに気を使ったりしていると。
香は妙に可笑しな気持ちになる。
確かに常日頃、他人が居る時くらいシャンとして?と口を酸っぱくして言ってるのは、香だけれど。
そもそも、香と僚だって他人同士なのだ。悲しい位。





不器用よね、2人とも。

え?



何も言っていないのに、美樹は突然そんな事を言う。
彼女の洞察力は恐ろしいほど深く、心の動揺を押し隠すのが苦手な香には、
到底敵わない相手なのだ、いつも。
美樹はカウンターに身を乗り出して、頬杖を付く。
ふんわりと微笑む彼女は美しいと、香は思う。






冴羽さんの事、考えてたでしょ?

/////// べべべ別にっっ そそそそんなことっっ。ぁああえぇっと、違うの、今日の献立をね・・・

冴羽さんの事考えてる時の香さんの表情を彼に見せれば、簡単な事なのにねぇ。

・・・・・・。

早いとこ、くっ付いちゃいなさいよ♪

・・・・・・・・・・くっ付くって・・・そんな。・・美樹さん(照)





美樹は動揺する香を見ながら、クスリと笑うと自分もマグにコーヒーを注いだ。
僚も香も、当人同士は気が付かないのだ。
どんなにお互いがすぐ近くに居るのかという事を。
すぐ傍にいる相手が、どれほど大切かという事を。
美樹はその大切さを、身を持って知っているからこそ、この2人の行く末が気になるのだ。
彼も大概、天邪鬼で素直じゃないけれど、彼女の無自覚と不器用さも、大概だ。





すぐ傍にいる相手が、一番遠く感じる事ってあるでしょ?



まるで香の心の深淵を覗いたかのような美樹の言葉の不意打ちに、
香は妙に素直に頷いてしまう。
まるで小さな子供のように美樹の次の言葉を待つ香に、美樹は淡く微笑む。




遠いっていうのは錯覚なのよ、本当は遠いんじゃなくて深いのよ。
そのヒトのずっと深くて広い心の奥をジーッと覗いてるようなものなのよ。
だから心配しなくてもその内、彼の気持ちが手に取るように解るようになるわ、きっと。







美樹さんもそうだったの?と、訊ねる香に、美樹は答えずに小さく笑ってカップに口を付けた。
すぐ隣で一番遠くに感じるこの感覚が、本当に錯覚で。
もしも本当に、僚のすぐ隣で一番に彼の深い心の中を見詰めているのが己なら、
香は死ぬまで僚の隣で、彼の全てを理解出来る人間でありたいと願う。
もう何年も僚の傍にいて、まだまだ僚の事を全て知りたいと願う。


この時の香が知っていた僚は、ホンの一部でしかなかった事を、
この数か月後、香はまさに文字通り、身を持って身体で知る事となるのだけれど。
今はまだ嵐の前の静けさで、少女のような清らかな恋に身を焦がしている。
有線から流れる何処かで聴いた事がある曲に合わせてハミングする香に、美樹が柔らかく微笑んだ。








08 優しくなんてできない

兄貴?どうして私たち兄妹は、あんな奴と巡り合う運命だったんだろうね。



撩は兄貴が死んでからかれこれ6年と少し。
相変わらず、新宿の街中での恥知らずなガールハントを止める気配がありません。
今日は衆人環視の中、眉間をピンヒールで踏ん付けられて軽く気絶していました。
あれが本当に裏世界№1と恐れられる男のやる事でしょうか。
この6年のアイツとの相棒関係が無ければ、俄かには信じ難い事でしょう。
悪い敵サン相手なら、鬼畜のようにドSなアイツなのに。
どうして綺麗なお姉さん相手だと、ああもドM根性丸出しなんでしょう。
兄貴、男ってみんなああいう生き物なの?




兄貴?どうして兄貴はあんな奴の相棒になろうと思ったの?



兎に角ね、一事が万事、だらしが無いのよ。
毎日毎日片付けても片付けても散らかしまくるし、風呂から上がっても全裸で出て来るし。
一応はさ、嫁入り前のうら若き相棒が同居しているって事、考えないのかな。
まぁ、もっともアイツにしてみたら、私の事なんか未だに男扱いなんだろうけど。
これでもさ、兄貴と一緒に暮らしてきた頃は、可愛い妹扱いだったのにね、私だって。
兄貴に女の子らしくしろって言われてた時には、それはそれで辟易してたけど、
こうも完全に“弟”扱いされたらさ。
自分がどうとかじゃ無く、兄貴に申し訳が立たないよね、ぶっちゃけ。
その男女を、ウチの兄は一応溺愛してたんですケドってね・・・。




ねぇ、兄貴。兄貴時々、撩にご飯作ってあげてたんだね。




あの頃は、私知らなかったけど。
初めて撩の部屋のキッチンに入ったらさ、ウチで使ってた食器がわんさか出て来るんだもん。
兄貴は何を作ってあげてたの?
私はすぐに気付いたけど、この6年間、未だにその事には触れないでいるよ。
どうしてだか自分でも解らないけど、何となく言いたくないの。
時々ね、兄貴に教わった料理を作ったら、撩の箸が微かに止まるの。
それでこれを食べるの初めてじゃないんだなって解るんだよ。
未だに美味しいの一言もアイツは言わないけど、そっちも未だに兄貴には勝てないのかな?
それだったらさ、たとえ相手が撩じゃなくても。
たとえ、兄貴が生きてても。
私はきっと未だに、嫁には行けなかったのかもね。








槇村香はハタチにして、唯一の身内で最愛の兄を亡くして以来。
折に触れて、こうして心の中の兄に語りかけて来た。
語りかける内容は、色々で。
都会の中のほんの些細な季節の移ろいや、日常のささやかな喜びや楽しみ。
そして主に、仕事仲間である相棒の愚痴である。
香が先程目撃した、自分達の暮らすアパートの目と鼻の先の往来での、
眉間から流血して白目を剥いていた件の男(軽傷なので心配は無い)の姿を思い出し、
怒りを込めて夕飯の野菜の下拵え(全て乱切りか微塵切りかだ)を進めながら、兄と対話していると。
珍しく冴羽アパート601号室の玄関チャイムが鳴った。
この家のチャイムを鳴らすのは、何某かの集金人か配達人、もしくはセールスの類である。
友人知人、招かれざる客に関しては、律儀にチャイムを鳴らす者はいない。
香は手慣れたもので、瞬時に無意識に余所行きの笑顔を張り付けて応対する。












ねぇ゛、あ゛に゛きっっ 兄貴はアイツに殺意を覚えた事無いの?


そりゃ兄貴が底抜けにお人好しで、寛大な心の持主だって事は、
他でも無い妹の私が一番良く知ってるけどさ。

アイツがさ、仕事の選り好みばっかりして労働意欲に欠けるのは兄貴だって知ってるでしょ?
そうなると必然、冴羽商事の経営も火の車な訳で。
その万年貧乏状態の家計にとってさ、1万円ってのがどれだけの価値なのか兄貴も解るよね?
今ねチャイム鳴らしてやって来たの、宅配便だったの。
撩宛の代引き小包。
嫌な予感はしたけどさ、玄関先で払うの払わないの揉めてもさ、ドライバーさんには関係無いからさ。
仕方ないから払ったわけ、なけなしの食費から。
その荷物の中身が、無修正のエロDVDだった時のこの虚無感と虚脱感、兄貴に解る?
あ、でも兄貴は寛大だし、所詮男同士だしね。
多分、こんなにまでは腹も立たなかったのかもね。
ったく、しょうがないなぁ撩は。
なんて言って、苦笑してる兄貴の顔が目に浮かぶよ。








でもさぁ、兄貴。
私、兄貴みたいに器が大きくないからさ。
アイツがヘラヘラしながら帰って来たら、取敢えず。
ぎったんぎったんにやっつけてやろうと思うんだ、イイよね?兄貴。











たっだいまぁ~~~  超ぉ~~腹減ったぁ


・・・・・・。


ねぇねぇ、今日の晩メシなに?


・・・・・・。


ん?どったの?香タン。 なんかあった????







香は無言で振り返り、撩を睨めつける。
彼女が今まで散々、ムカついてイライラしていた当の張本人は至って脳天気で。
額に薄っすらと赤い打撲の痕を残している。
妙に邪気の無い顔で腹時計を盛大に鳴らしながら、夕飯の献立を訊いて来る。
不思議な事にこの時点で、香の怒りの炎は6割ほど鎮火してしまう。
もう彼女自身にも、それが諦めの境地なのかそれとも惚れた弱味なのか判別がつかない。
そもそも、多少感情的な所のある槇村香は、論理的な思考など不得手なのだ。
深く考える事など、とうの昔に放棄した。







・・・別にっっ、冷蔵庫の残り物の有り合わせ。 喰いたきゃ、手ぇ洗ってきな(殺気)


はははあはあはあはぁ~~~いぃ(汗)





冴羽という男は、仕事が絡まない時には緊張感に欠けるだらけた男だ。
しかし彼は、殊、殺気を纏った相棒の気配を察知する事に関してだけは、
誰よりも気を使って生きている。
それは当の相棒以外、誰もが知っている周知の事実だ。
この様な時の彼女にヘタに触れると、あらゆる方面で地雷のスイッチが作動するので、
触らぬ神に祟りなしとばかりに、彼はいそいそと手を洗う為に洗面所へと向かう。
そんな彼の背中を、彼女は眉間に深い皺を刻んで見送る。







あぁ、兄貴。
私も兄貴の事言えないお人好しだわ。
アイツがどんなにロクデナシのスケベ親父でも、
優しくなんかは出来ないけれど、だからって放って置く事も出来ないよ。
あんな腹ペコの野良犬みたいな男、放置してたら世間様に迷惑が掛かるから。
仕方ないから面倒見てあげなきゃだもんね。





結局のところ、この世で一番彼を甘やかしている彼女にその自覚は無く。
彼女自身、様々な矛盾に未だ気が付かないまま生きている。
片や、腹ペコの幸運な男は。
己の新たな秘蔵コレクションが、ついさっきゴミ箱に叩き込まれた事に未だ気が付いてはいない。
それでも彼らの世界は廻る。
都会の空を茜色に染める宵が、冴羽商事の団欒を今日も温かく包み込む。







はうん。じれったい恋のお題も終わっちゃったぁ。
また新しくなんか良いお題あったら探してこようと思います。