お題から生まれた長編『始まる為の終わり』 ①

お題23.たとえどんなに


ここ最近、香には悩みがある。




いや、これまでにも悩みの1つや2つ、常に抱えて来た。
でも今回に限って言えば。
それは香の人生史上、1、2を争う深刻な悩みである。
お金が無いとか、依頼が無いとかなら、まだ答えは明快だ。
依頼が入りさえすれば、解消される。
けれど、香が一番どうして良いのか解らなくなるのは、


僚との事。
僚との関係性について。
僚の自分に対する、気持ちについて。
自分の僚に対する、気持ちについて。
そして、これから先の人生について。


何故急に、これまでも何度となく考えてきた事を突き詰めているのかというと、理由がある。
昨年の秋に、友人の同業者夫婦が正式に結婚式を挙げた。
その場で事件は勃発した。
僚へと逆恨みを募らせた狂人は、花婿の背中に銃弾を撃ち込み、花嫁の純白のドレスを真紅に染めた。
そして香は、連れ去られた。

そこからの怒涛の展開は、香にとっては哀しいけれどよくあるいつものパターンってヤツで。
焦る気持ちもあるにはあったけれど、何処かで必ず僚が来てくれる事は信じられた。
僚のいない所で連れ去られる事は、1番の恐怖だけれど。
僚がいて連れ去られたのなら、香には“信じる”という強い武器になる。
僚はいつも、本当に危ない時には現れて、一瞬にして香を救い出して魅せる。
嘘みたいな話だけど、これが実の所、本当に良く効く作用で。
香は心の中に僚を思い描くだけで、本当に強く居られた。
縛られて四方を銃口に囲まれても、頬を張られても、香には僚が居る。
だから、もしも万が一の事があっても。
相棒として信念を貫いて死ねたら本望だ、とそう思える。
これが、図らずも命を奪われる前の兄と、同じ覚悟と気持ちであったという事を香は知る由も無い。
香は信じている。
“相棒”の僚を、世界中の誰よりも。



そして、その時も。
僚が香の信頼を裏切る事は無かった。


海坊主と2人で相当数の訓練された兵士を相手にしながら、
まるで準備運動でもするように易々とそこに現れた。
踏んできた場数が違うんだよ、とでも言いたげに。
そして鮮やかに、香を助け出した。
僚はいつだって。

香にとっては、白馬に乗った王子様なのだ。














「・・・王子様ねぇ・・・」


香は冷たい窓に、額をくっ付けて深い溜息を吐いた。
あの時、僚は確かにカッコ良かった。
まるで本当に、スーパーヒーローみたいに香を抱き寄せた。
死なせやしないと、囁いてくれた。
でも、今となっては。
もしかしたら、あれは香の願望が見せた、都合の良い白昼夢だったのかもしれない。と思う。
僚は白馬に乗った王子様というよりは、時々王子様のフリをする青毛の種馬だ。



あれからの2人に、何も変化は無い。
怪我を負った美樹と海坊主は、順調に回復し、店を再開した。
年も明けて、いつも通りの日常を取り戻した新宿の面々は、何事も無く平和に過ごしている。
ミックの部屋にかずえが暮らし始めて、かすみはこの春で大学を卒業するし、就職も決まった。
新婚家庭の邪魔は出来ないと、キャッツの近くで1人暮らしを始めた。
みんな、変わる。
少しづつでも、季節の移ろいと共に進歩しながら歳を取るのに。
香と僚だけは、この数年何も変わらないような気がする。
そう思うと、香は一気に気が滅入る。
僚にとって、果たして自分とはどういう存在なのか。



香にとって僚は、相棒であり、王子様(一応は)であり、家族だと思ってきた。

マリーやソニアが訪ねて来た時の事を、香は今でも時々思い返す。
海原がこの6階まで足を引き摺りながら、訪ねて来た日の事。
僚のこれまでを築いてきた人達と出会って、彼らなりのやり方で僚を託された。
僚の過去を、1つずつ共有して分かち合ってここまで辿り着いた。
だから、香は僚の家族になろうと思っている。
香と兄の秀幸には、血の繋がりは無い。
けれど、兄妹だし家族だ。
だから僚との間にある繋がりが、たとえ相棒の絆だとしても。
香は家族になれると思っている。

でも、僚が同じように思っていてくれるのかは、また別の話しで。
香はそれを思うと、いつも解らなくなる。
そして、それでもいいと、結論付ける。
それしか方法が無いから。
たとえそれが。
自分1人の想いでも、報われる事など無くても、
香は心の中に居る僚を思い描くだけで、夢を見る事が出来る。




この世で僚と2人だけなら、僚は自分の事を真っ直ぐに見てくれるだろうか。

















ただいまぁ~






僚がそう言って、木枯らし吹きすさぶ表から暖かいリビングに帰って来ると。
窓際に立った相棒が振り返って、淋しそうに笑いながら、おかえりと言った。


石油ストーブの上には薬缶が置かれて、蒸気を上げながら部屋を加湿して。
僚が戻ると香は、熱いコーヒーを淹れてくれた。
薬缶のお湯が減って、また水が足される。
温くなった薬缶がもう一度、ストーブに戻される。
その繰り返しが、優しくこの部屋を潤し続ける。


熱くなったら覚まされてぬるま湯に戻る。
ぬるい穏やかさは2人を雁字搦めにして、そこから一歩も動けなくする。
これでも充分幸せだと、言い聞かせて白昼夢の続きを生きている。
たとえ本当に求めるモノが違っても。



(つづく)


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お題から生まれた長編『始まる為の終わり』 ②

お題91.冷たい視線


詳細はこれを読んで頂戴。




そう言って冴子は、A4版の茶封筒を僚に手渡した。
警察署近くの公園の樹々は、茶色く枯れ、ベンチの周りに吹き溜まった落ち葉が、
木枯らしに吹かれて、カサカサと乾いた音を立てる。
僚は歯形が付くほど強くコルク色のフィルターを噛み締めて、煙草を口に咥え。
空いた左手に、冴子が寄越した熱い缶コーヒーを転がし、右手に件の封筒を持つ。
缶コーヒーを、不味いと思い始めたのはいつだっただろう。
その頃には、殺し屋の自分の懐に仔猫ちゃんが転がり込んでいたような気がする。
そう思うと、自然と僚の口角が僅かばかり持ち上がる。


冴子が依頼を持ち込むようになったのは、いつの頃だったか。

槇村という男を介して知り合った冴子に、僚はその昔惚れられたし、憎まれた。
きっと、近親憎悪だろう。
僚も冴子も、槇村兄妹の様な無垢で真っ直ぐな魂に憧れを持つ、同じ穴の貉だ。
槇村を亡くして、僚には香が残ったけれど。冴子からは、槇村を奪った。
だから僚は、冴子に何も言えないのかもしれない。
香とはまた違う意味で、冴子から最愛の男を奪った。
けれど、その代りに僚はなれない。なれなかった。
僚が答えを出せるとすれば、それは香に対してだけで。
それすらもまだ、これからなのだ。
全てはまだ、今は明かせない。
たとえ相棒でも、香に近付けたくないこの世の澱が僚にはこびりついている。


僚の生い立ちを知った時、香は僚の元を離れる事はしなかった。
僚の父親とも言える、海原の最後を相棒としてあの地獄のような船の中で見届けてくれた。
そして、ガラス越しのキスをした。


キスなど、星の数ほどやって来た僚の。
人生の中で一番甘いキスは、冷たいガラスの感触だ。
あの日、勢いのままに湖の畔で一番甘いキスの記憶を上書きしようかとも思ったけれど。
相変わらず、躊躇ってしまった自分に僚は、あれから何度も自嘲した。
これまでにチャンスは幾らでもあっただろう、けれど僚には未だ踏み込めない何かが心に枷を嵌める。
香はまるで、新しく降り積もった真っ新な雪のように白く。
僚は自分が、それを穢す黒い雨のようだと思ってしまう。






その資料には、いましがた冴子に説明された
人身売買組織の更に詳しい背後関係が緻密に記されている。
僚は取り留めも無い、個人的思考を頭の隅に追いやって冴子からの依頼に集中する。
冴子の依頼は、その組織の黒幕のヒット。
黒幕は、名前を聞けば誰もが知っているレベルの実業家だ。
表向きの彼は、健全な商売を営んでいるが。
一枚その洗練された面の皮を捲れば、醜悪なモンスターだ。




ヒットで良いの?



僚が地面に落とした煙草を、ブーツの先で踏み消す。
手の中の缶が温くなって、鋭い金属の感触を感じさせ始める。
僚が欲しい温もりは、これじゃない。




ええ、それがベストなの。




そう言って、冴子が艶やかな黒髪を耳に掛けた。
形の良い耳朶には、上品なプラチナのピアスが揺れる。
ターゲットはこれまでにも、何度も捜査対象として浮上しながらその全てを掻い潜ってきた。
これの意味するところは、警察との癒着と圧力。
冴子曰く、ヤツの取り巻きたちは皆、金で繋がっただけの捨て駒なので、頭が死ねば結束は脆い。
癒着や圧力もヤツ本人あってこその脅威なので、頭を切り崩せばこの案件に風穴が明くのだという。
良くある話の、良くある依頼だ。
そして、これまで冴子が持ち込んだこの手の話しを。
香は知らない。







はいよ、報酬はいつも通りで頼むわ。


わかったわ、週末までには振り込めると思うわ。





香の前では、まるで白々しい茶番のように繰り広げられる“報酬”の話しは。
本当を言うと、いつもニコニコ明朗会計の現金払いだ。
僚程度のヒットマンにしては、格安である。
一応、それは警視庁からの正式な経費という名の綺麗な金である。
僚はあくまで、善良なる一般市民の協力者、技術者という事になっている。
ごくごく重要な内部機密だが。






ねぇ、僚。


ん?


いつまで、・・・まだ香さんに全てを話す気はないの?


・・・。






途端に黙り込む僚に、冴子の視線は冷たい。
冴子は腹立たしいのだ。
僚に依頼を持ち込まなければならない、この醜悪な世の中が。
槇村を死の淵に追いやった、人間の暗部が。
僚が香にその深淵を覗かせたくない気持ちは冴子には、解り過ぎるほど良く解る。
いつかその闇が槇村を冴子の前から奪ったように、僚はきっと怖いのだ。
その闇を香に近付けるのが。
けれど、どうだろうと冴子は思う。
何も知らないままに、香がその闇に飲まれないとも限らない。
それならいっそ、知らせておいて損は無い。
香ならきっと、僚を信じて僚の手を取るだろう。
2人が闇に飲まれてしまわないように、僚を照らすだろう。
けれど、僚にはまだ踏ん切りがつかないらしい。




意外と、臆病なのね。あなた。




冴子がそう言うと、僚はフンと鼻で笑った。
ジャケットの胸ポケットに折り畳んだ封筒を捻じ込む僚に、冴子が付け足すように言った。







それから、今後この件は麗香を窓口に通すから。


ああ?麗香ぁ?


ええ、あの子が担当してた案件なの。昔。


そか、わかった。













冴子と別れた僚は、その足で高架下の靴磨きと会った。
彼もまた、僚の棲む暗闇の住人だ。
すっかり冷たくなったブラックの缶コーヒーを渡すと、彼は小さく笑った。
仕事の話を手短に話した後は、彼の話題は専ら僚の仔猫ちゃんの話しだったりする。
やれ、この間は彼女に差し入れを貰ったから礼を言っといてくれだの。
やれ、今日は駅前でがっくりと肩を落としてたから、多分依頼は無かったよ、だの。
この街の住人は、みんな彼女に首ったけだ。
勿論それは、僚も例外では無い。








おかえり





そう言って淡く微笑んだ香が、コーヒーを淹れてくれた。
熱くて苦いそれが、僚の欲していた物だと。
僚は暖かい自宅のリビングで、再認識する。
何も言ってやれない僚を、香はこうやって甘やかす。
僚が欲しいモノを、何も言わずに溢れるほど与えてくれる。

僚が物心ついてから香に出逢うまで知らなかった、それは愛情という目には見えない奇跡だ。



(つづく)

お題から生まれた長編『始まる為の終わり』 ③

お題62. 諦めたくない





この数日、僚が何らかの依頼を請けているらしい事が解るのは。
香のこれまでの、相棒としての長い付き合いの賜物だ。


実際、香は知る由も無いけれど。
これまで僚の相棒として組んだ人間の中で、香との付き合いが一番長い。
僚の人生の中で、海原と教授の次に、
色濃く僚の私生活を目の当たりにして来た人間は、香に間違いない。
ある意味では、僚がこれほどまでに自分を晒している相手は、他に一人もいない。


伝言板には、依頼は無かった。
年が明けて入った依頼は、1件だけで。
それも比較的簡単な家出人探しだったので、1週間ほどで片付いた。
危険な事もそれほど無かったし、だから報酬もたかが知れていた。
けれど、そういう依頼でも件数こなせば、さほど悪い商売でも無いのだと、香は思う。
何より、誰かの為になる。
けれど僚は。




香の知らない所で、僚自身に与えられた宿命とも言うべき業に手を染めている。



それは僚が望むと望まざるとに関わらず、僚にしか出来ない事なので僚がやる。
香もそれは解っている。
あの高校生の頃から、解っていた。
僚がそういう使命を与えられた男だという事を。
だからこそ、パートナーになりたいと思ったのだ。
警察の職を辞してまで僚に命を預けた、兄の気持ちが理解出来たのだ。
僚1人を、死なせるつもりは無い。
僚にだけ、その罪を負わせるつもりも無い。
相棒とはその罪を、等しく贖うべき存在である筈だ。
香は僚の相棒になってからの6年間で、その想いが確固たるものになって行くのを感じていた。

多分、今日いまここで。
僚がこれまでやって来たことの全てを知らされても。
香の気持ちはきっと、揺るがない。
香が僚という人間を知っている。
それ以上でも、それ以下でもない。
冴羽僚は、情に厚く、繊細で、純粋すぎるただの男だ。
そして香の相棒だ。









香は僚の使う、大ぶりのご飯茶碗に押し麦の入ったご飯をよそう。
僚は香の背中の向こうで、新聞を読みながらがつがつと夕食にありついている。

僚は何も言わず空の茶碗を香の方へと差し出すから、香も何も言わずに炊飯器からお替わりをよそう。
ついでに汁椀の中身も覗いて、味噌汁も注ぎ足す。
僚は何も言わないから、香も何も訊かない。
今夜も僚はきっと、夜の街で彼にしか出来ない仕事に奔走するのだろう。
何も解らない香は、だから。
せめて僚の為に、夕飯を作っていつも通りを装って送り出す。




今日も、飲みに行くの?




香が茶碗をテーブルに置いたのと、そう訊ねたのはほぼ同時だった。
僚は湯呑のぬるい茶を啜って、唇を湿らす。
表情と口調は自然なようでいて、寸分違う事無く完全に計算されている。
その方程式だけは、香に紐解かれてはならないから。




ん~、ねこまんま。




僚の息の掛かったキャバレーは、時折こうして僚のアリバイ工作に使われる。
夜の街は、僚の存在無くしては、円滑に平和を維持出来ない事は解っているので、
僚の可愛い仔猫ちゃんに、時折優しい嘘を吐く。





あんまり、ツケ溜めないでよ?依頼だって、次いつ来るか解んないんだから。




そう言って眉根を寄せながら、香は俯いて味噌汁を啜る。
玉葱と油揚げの味噌汁は、少しだけ甘い。
僚がご飯を咀嚼しながら、薄く頷く。
何もない普段の夜遊びなら、返事はっっ?!と、凄む香だけど。
こういう時、香は何を言えばいいのか解らなくなる。

気を付けてね。
無理しないでね。
ちゃんと、

帰って来てね。

それでも、そのどれでも無い言葉を選ぶ。







りょおの、モッコリすけべ。




僚が新聞の向こう側で、ぷはっと息を吐いて笑った。
僚が笑うから、思わず香も笑ってしまう。
どうか、この夜が最後になりませんように。
どうかまた、朝になるとこの目の前の彼が寝室で大鼾を掻いて眠っていてくれますように。
香には、祈る事しか出来ないけど。
本当なら僚の隣で、僚を護る盾になりたいけれど。
こんな事しか出来ない自分は、相棒失格だけど。

それでも、香にはこの僚との生活を手放す事などもう出来ない。
僚の家族になるという目標を、諦める事は出来ないでいる。


(つづく)





お題から生まれた長編『始まる為の終わり』 ④

お題38.落とし穴



正直、僚は今でも信じられない。


昔はこんな風に、何処かを自分のねぐらだと思った事など無かった。
都合が悪くなれば、すぐにでも体一つにパイソンを携えて姿を消した。
都合を悪くするのは大抵、自分自身で。
命を狙われる類の事も、修羅場に出くわす類の事も、腐るほど経験して来た。
まるで転がる石の様な殺し屋には、
未練を感じる程の感情など欠片も無かったし。
想いを掛ける相手も無かった。
金には困らなかった。
生きてゆく事に困るほど、無能でもお人よしでも無かった。

転がり続けていつの間にか、僚の名前は大きくなっていった。
もう自分でどうにか出来るような状況では無く、
僚の元には夜な夜な如何わしい誘いが舞い込んだ。
もはやその広大な大陸に、僚にとって居心地の良い場所など微塵も存在しなかった。
誰も知らない場所へ行きたかった。
それが、天国か地獄なら僚はいつ召されても後悔など無かった。
僚はもしかすると、オヤジと慕った彼の人に騙されたあの時から。
生きる延びる事など、望んではいなかったのかもしれない。








昔世話になった軍医の元を頼って、初めての国へ降り立ったとき。
僚は柄にも無く、胸が弾むのを感じていた。
だからきっとそのノリで、
新宿の街のやけに清らかな目をした鼠色のコートを着た男に、
うっかり気を許してしまったのかもしれない。
ネオンが煌めくその街は。
地獄でも、天国でも無く、能天気な落とし穴だった。
そして鼠色の彼は、僚にその街を案内する妙に人懐こい水先案内人となった。
彼がその検挙率では世界有数の日本警察の、敏腕刑事だったという事を後から知って。
僚は薄暗い半地下のバーのカウンターで、大笑いした。
それほど流行っているようには見えないそのバーは、それ以降。
僚と槇村の行きつけになった。






槇村に冴子を紹介され、槇村が警察を辞めた。
槇村には溺愛している妹がいるらしいという事が解るだけで、その妹の事となると。
槇村の口はまるで堅く閉ざされた。
気にならなかったと言えば、嘘になる。
けれど無理に訊き出そうとも思わなかった。
槇村の人懐こさは、僚には一生持ち得ない類のものだ。
槇村には、大切なものを持っている人間特有の魅力が溢れていた。
だから僚は、槇村の傍に居たかったのかもしれない。
槇村という男の世界の、僚からはずっと遠くにある大切なものを、

僚も大切だと感じたかった。


















僚はアパートの前の歩道から、6階のベランダに零れる黄色い灯りを見上げた。



大切なものがそこにある。
それはあの晩、槇村から僚へと託された。
薄汚れた殺し屋に、槇村の一番大切な宝物が託された。
彼女は、槇村がいなくなった後、僚の事をとても大切にしてくれた。
槇村がそうされていたように、彼女自身が槇村にそうされていたように。
まるで、家族のように。

あの灯りの元が、僚のねぐらで、僚の帰る場所だ。
今ではもうハッキリとそう言える。
昔はねぐらを追われる事に、何の未練も何の後悔も無かった。
都合が悪くなれば、その場所を去った。
けれど僚にも、大切なものが出来てしまったから。
僚は必ず、あの灯りの元へ帰らねばならない。
相棒を失うような事はもう決してあってはならない、槇村の時と同じ轍は踏まない。
僚は未だに時々、夢ではないかと錯覚してしまう。
あの灯りが、僚の為に点された灯りだという事を。



あの暖かな部屋を残して、闇に紛れる僚は。
夜の街の中や、路地裏や、ごみ箱の陰に、人間の醜さや恐ろしさを採集しにゆく。
僚はそんな薄汚いもの達を、片っ端から片付ける掃除屋だけど。
あの暖かな灯りだけは、そんな僚を禍々しいものでは無く、
1人のただの男として迎えてくれる。
香に出逢うまで、僚にとって居心地の良い場所など存在しなかった。
それは僚が、この世界から拒絶されている証でもあった。
けれど、
今の僚には、帰る場所がある。
居心地の良いねぐらがある。
守るべきものがいる。
家族がいる。




けれど、決して忘れてはいけない。
この街は、能天気だけど油断ならない落とし穴だという事を。





(つづく)



お題から生まれた長編『始まる為の終わり』 ⑤

お題47.コーヒーと紅茶


僚の元に、麗香からの連絡が入ったのは2日後の事だった。
なんでも麗香は、僚が冴子から依頼されたのとは別件でひとつ大きな案件を抱えているらしく。
僚との待ち合わせには、普段彼らが使うのとは真反対の改札側にあるカフェを指定した。
どうやらそこは、紅茶専門店らしく。
店内に一歩足を踏み入れると、普段の僚の行きつけとは、全く趣の異なる薫りが漂っていた。






ごめんなさいね、わざわざ呼びつけたりして。





そう言って、ロイヤルコペンハーゲンのティーカップで優雅に茶を啜る女探偵は、
一見、極上の良い女に見えてその実、中身はなかなかどうして女狐だ。
どうやらお隣の探偵事務所は、そこそこ繁盛している。このところ忙しいらしい。
僚の手には、薫り高いアールグレイの入ったウェッジウッドが握られている。
この店は、一つ一つ異なった贅沢なティーカップでお茶を出すのが、売りらしい。
僚がオーダーを取りに来たウェイトレスに訊くと、ここではコーヒーを扱ってはいないらしかった。





いや、別に構わないけど。




僚はカップの中の明るい茶色に、相棒の瞳の色を重ねる。
僚の可愛い相棒は、紅茶色の目をしている。
こんな風に、麗香とお茶している事がバレた暁には、彼女の機嫌を損なうだろう事必至である。
けれど生憎、同じ街の中とはいえ、こちら側には普段。
香は滅多に足を延ばさない。
多分、今頃は伝言板を確認してキャッツで油を売っているか、
家に帰って、家事をしながらワイドショーでも観ているか。
僚は自分でも無意識に、取り留めも無く相棒の事を頭の隅で考える。






これ、例の件に関する情報。ターゲットは、意外と狡猾なヤツよ。
それなりに、ダークな交友関係も華やかみたい。





そう言って、麗香がテーブルの上に置いたUSBメモリを、
僚は小さく、サンキュと呟いてジャケットの内ポケットへと忍ばせた。
用件はこれで終わりだ。
それでもカップの中には、まだ半分ほどの紅茶が残っている。
麗香が意味ありげに、ニンマリと笑う。







それで?その後、どうなってるの?


ぁあ?何が?


何がって、決まってるじゃない、香さんとの事以外何があるっていうの?





僚はこの手の質問には、辟易している。
2人の周りの同業者たちは、自分自身の事以上に僚と香の進捗に興味・関心があるらしい。
けれど僚には、彼らに報告するほどの進展も無ければ、報告する義務も無い。
一応、煙草を吸っても良いのかどうか、近くに居たウェイトレスに確認を取ると、
少しだけ撚れた紙巻に、火を点けた。
カチンという音と、オイルの匂いが紅茶の薫りに混ざる。
ゆっくりと深く吸い込んで、細く吐く。
その充分過ぎる間を挟んで、僚は苦笑する。
正直、目の前の女探偵がその一挙一動に魅了されている事など、僚の知った事ではない。
頃合いよく、愛想のいいウェイトレスが上品なガラスの灰皿を持って来た。
僚はそれを無言で受け取りながら、愛想で少し笑って見せる。
目の前の女探偵は、こう見えて姉に負けず劣らず恐ろしい。
深入りは禁物なのだ。






言ってる意味が、解んねえ。





言葉はいつも粗野だけど、表情は洗練されていて。
一部の隙も無いくせに、やけにセクシーに見えるのは。
麗香の惚れた欲目か。
もう麗香は、彼に対して淡い期待など微塵も抱いてはいないが、
それでも純粋に、美しい男だと見惚れてしまう。
けれど多分それは、他人のモノだから余計に良く見えるのだ。
実際この男と対峙するには、相当の覚悟と忍耐と愛情を持ち合わさなければ続きはしない。
例えば、彼のパートナーのように。





あら、それなら私と夫婦探偵になってくれる?最近、忙しいから相棒が欲しくて。



そんなもん言ってくれればいつだって、初夜のお相手なら任せてよ。





だからこそ、麗香も冗談が言える。
冗談の中に、一滴の本音を混ぜて。
その本音を見ない振りをして、冗談だけで頬を緩めるのが彼の返答だ。
上滑りする会話に、意味は無い。
バカバカしいと、麗香は内心毒吐いてみるけれど。
それが自分に対してなのか、彼に対してなのか、それとも彼女に対してか。
きっとその全てにだろうと思うと、自分でも意識しないほど綺麗な笑顔になった。














美樹は、静かにコーヒーを飲む目の前の常連の女を、さり気なく観察する。


彼女は、未だに折に触れて美樹の怪我の経過を心配するけれど。
生憎、彼女が考えるほど美樹はヤワでは無い。
それ以上に、彼女とその相棒との私生活の方に興味がある事はしかし、あからさまには出来ない。
夫はそんな下世話な好奇心を嫌うタイプだし、彼女もまた極度に恥じらうタイプだ。
だから彼女の、延々と無限に続くループの様な相方の愚痴が途切れてしまえば。
3人だけの店の中は、意外に静かだ。
クラッシックの有線の流れる店内は、コーヒーの薫りで満ちている。

今日の香は、何処となく上の空だ。
依頼が無かった事は、先ほど何度か聞かされた。
最近の冴羽僚の夜遊びの頻度も。
散々、愚痴をぶちまけたかと思うと、香は数分前からぼんやりと黙り込んだ。
何やらお悩みのようだけど、それは何となく察しがつくような気もする。
彼のモッコリ男と、このうぶな彼女を見ていれば、あれから大した進展がない事は明確だ。
この2~3日、彼は現れない。




あ、そうだった。美樹さん、また豆を分けて欲しいんだけど。




ふと、思い出したかのようにそう言って笑った香は。
眩しい程に美しいから、冴羽僚が彼女に心酔している気持ちが良く解る。
彼女の笑顔には、他人の心臓を鷲掴みにして掻っ攫ってしまう何かがある。
彼女が業務用の本格的な珈琲豆を頻繁に購入してゆくのは、他でもない彼の為である。
彼の為に毎日、ブラックコーヒーを淹れるのが彼女の日課だ。



(つづく)

お題から生まれた長編『始まる為の終わり』 ⑥

お題73.抱えきれない




ほら、ちょっと貸してみ。





アパートに着く少し手前で、背後から声を掛けてきたのは僚だった。
そう言うのと、香の右手に握られたエコバッグを取り上げるのとが、ほぼ同時だった。
今日の買い物の中身には大根とジャガイモと、味噌とマヨネーズがあるので。
エコバッグのナイロンの持ち手は、早々に香の右手の指に食い込んで感覚は麻痺していた。
キャッツを出てから、いつものスーパーへと向かい買い物をして帰る途中だった香を。
麗香との接触を終えた僚が見付けたのは、あと数分でアパートに着く地点だった。





あ、ごめん。    ありがと////





僚は特に何も言わなかったけれど、エコバッグを提げて香の少し前を歩いた。
僚から見えないのを良い事に、香は僚の背中を見詰めた。
いつもの草臥れたジャケットからは、薄い煙草の匂いがする。
冬の空気は少しだけ乾いた焚火の様な匂いがして、冬という季節は僚に似合っていると思う。
周りがどんなに冷たくても、飄々として温かい人。
その背中は大きくて逞しいけれど、同時にどうしようもない程に深い寂しさを内包している。
色んな人の悩みや恐怖を取り除く度に、まるで蒼いインクを零した染みのように。
僚の中にひっそりと蓄積されゆく悲しみに変わる。
香はいつも、僚が見ていない時だけ僚を見詰める。
香が見詰めるのはいつも、僚の背中だ。





今日の晩めしなに?


へ??・・・あぁぁ、献立?




香が独りしんみりと背中を見詰めているというのに、
当の張本人は妙に間延びした声でそう訊ねる。
香は思わず、間抜けなリアクションをしてしまう。





うん、献立。


シチューとブリ大根、どっちが良い?


なに?その2択。





そう言って笑う僚の肩が小さく揺れる。
別に大したことじゃ無い、どっちも買って来たものとあるもので作れるから、訊いてみただけだ。
どうせなら希望に沿ったものを作った方が良いだろうと思って。
だから香は、そのままそのように説明する。





それで?どっちが良い?





香は僚の左隣に追い付いて、端正な横顔を見上げて訊いた。
一瞬だけ、僚が軽く息を吐いたように見えた。そして薄く微笑んだ。
こういう時の僚は何を考えてるんだろうと思いながら、香は僚の喉仏の動くのを眺めた。





別にどっちでも良い。




そう言うと思った、と香は思う。
それなら、今日はブリ大根にしようと思う。
何故なら今日買って来た鶏胸肉より、冷蔵庫の中のブリの切り身の方が前に買ったものだから。

















麗香が暫く留守にしていた事務所に久し振りに戻ったのは、
僚と駅前でお茶を飲んだ十数分後の事だった。


相変わらずそこそこ危ない橋を渡っている女探偵には、色々と探りを入れたい輩がいるらしい。
事務所は面白い程に荒らされていた。
そして恐らく、この惨状に心当たりがあるとすれば。
ついさっき、紅茶を飲みながら話題にした例の人身売買組織の件しかない。
あの事件は警察にいた当時から、捜査が核心に触れようとすれば直ぐに妨害を受けた。
それでも生憎、あの件に関する麗香の持ち得る情報は今となっては、世界一の殺し屋の手に託された。








僚の携帯がジャケットの胸ポケットで振動したのと、
エコバッグをダイニングテーブルの上に置いたのが、ほぼ同時だった。
液晶の画面を睨んで薄く眉間に皺を寄せた僚を、香は冷蔵庫の扉を開けながら見るともなく見詰めた。
それもほんの一瞬の出来事で。
僚はそのまま、キッチンを出て行った。
香は僚の背中を目で追う。

香は確かに、頼りにならない“相棒”なのかもしれない。
足手纏いの素人なのかもしれない。
直ぐに感情に流されるし、銃の腕も相変わらず素人に毛が生えた程度だ。
たかだか少し重いぐらいのエコバッグですら、持って貰う相棒が。
一体、彼の何を支えられるというのだろう。と、
香は悔しいと悲しいのちょうど中間くらいの気持ちになる。
冷蔵庫に食材を仕舞いながら、香は無意識に床の上にへたり込む。
涙は出ない、ただ肺がまるで呼吸をするのを拒むように、香の胸を締め付けた。


















あ~あ~、こりゃまた派手にやられたね。






その惨状を見て、僚は苦笑した。
麗香がざっと確認した限り、荒らされてはいるモノの、これと言って何か盗られた形跡は無い。
という事は、恐らく犯人の捜し物がここには無かったという事だろう。
やはり、狙いは僚に託した資料。
タッチの差でそれは、相手方に渡るのを回避した。







嗅ぎ付けられたって事かしら?


黒幕はプロを雇ってる。


確かなの?


まぁ、こっちも伊達にこれで飯喰ってる訳じゃないんでね。







ちょうど、午前中に轍から電話を貰っていた。
黒幕が懇意にしている、裏の人間の目星が付いたと。
しかし、これほどまでに早く手を打ってくるとは、僚も想定していなかった。






何処まで奴が感付いているかよね・・・





麗香がぽつりと呟いたのを聞いて、僚の背筋を何か嫌な予感が走る。
ついさっき、僚の隣に並んだ相棒が紅茶色の瞳で、
2択問題を投げ掛けて来た穏やかな空気を思い出す。
6階までの階段を軽やかに上がる、ショートブーツのつま先。
冬の乾燥した空気の中で柔らかに揺れる、栗毛の癖毛。
かじかんだ華奢な指先。
相棒の残像。




悪ぃ、麗香。この件、後はこっちでやるから。




そう言った僚の表情は、ついさっき喫茶店で向かい合った時とも、
電話を入れて駆け付けて来た時とも違う、完全なる本気モードだった。
それだけで、僚の懸念が何処に向いているのか、麗香には一瞬にして解ってしまった。
結局、彼が想うのは彼女ただ1人で。
そんな彼に、自分はまだまだ未練を残している。
期待していないと言い聞かすのには、慣れたけど。
まだ胸は痛む。
麗香に向けられたあの広い背中は、結局、彼女の物なのだ。
















香ぃっっ!!






大急ぎで戻ったアパートのキッチンには、転がったジャガイモと。
ドアが開いたままの冷蔵庫の小さく唸るモーター音だけがあった。

香の姿は、何処にも無かった。






(つづく)

お題から生まれた長編『始まる為の終わり』 ⑦

お題79.そうだね




その部屋に連れて来られてどの位経過したのか、香には良く解らなくなって来た。


そこは、2人の根城にしている新宿とは目と鼻の先にある高級ホテルのスイートだった。
高い場所からヘッドライトとネオンの輝きが、ガラス窓に滲む。
香の足元は、連れ去られた時のままスリッパだけど。
深い絨毯に、柔らかく適度に沈み込む。
買い物から帰ってすぐの出来事だったので、
香はレンガ色のスキニーパンツに柔らかな山羊革の黒いライダースジャケットを身に着けている。
何気ないけれど非常に座り心地の良い革張りの椅子に座らせられた状態。
背もたれに腕を回した姿勢で、後ろ手に手錠を掛けられてしまった。
目の前で薄気味悪くにやつく男は、恐らく堅気では無い。
その程度を見分ける目位は、香とて養っている。











香の身に着けるモノには、僚が予め発信器を仕込んでいる。
昔はそれこそ、香自身にすら秘密にしていた事だけど。
ある依頼を機に、それは香の了承も得た上での防御策となった。
以前は、香のシャツやジャケットのボタンがその発信器だった。
けれど、香のアイデアも受けながらこの数年で随分、改良されてきた。

仕事の性質上、ドレスアップした時などは比較的簡単だ。
アクセサリーの類は、発信器を忍ばせるには、うってつけだ。
その点、普段着はダメだ。
頻繁な洗濯や手入れに耐え得るほどの頑丈さは、小さく精密な機器には不向きだった。
そこで香が思い付いたのが、ベルトだった。
普段からパンツスタイルの方が多い香なので、ベルトの鋲の部分に発信器を仕込んだ。
それなら、洗濯する訳でも無く不自然にならないように普段から身に着ける事は容易だ。

愛車に装備した受信装置は、案外近い場所に僚を導いた。

















12階のスーパーラグジュアリーよ。






地味な客室係の制服を着たその女は、決して地味では無かった。
控えめな制服ほど、スタイルの良さは際立つ。
派手な顔立ちの真っ赤なルージュが、酷く扇情的である。
こう見えて彼女は、高級ホテルの客室係兼、僚の情報屋でもある。
そのホテルは、黒幕の常宿でもある。
そしてその部屋は、この数日、黒幕名義で押さえられている。






サンキュ、助かったよ。




そう言って、僚は女の襟元からたわわなバストへと手を伸ばす。
しかしその手は柔肌へは触れず、下着のストラップに数枚の紙幣を挟んだ。
女の整えられた指先が僚の頬を軽く撫でた後、何事も無かったように離れて行った。
僚はその足で、エレベーターホールへと向かった。












まるで彼女は、凛とした野生の雌鹿のようで。
囚われの身にも拘らず、その真っ直ぐな瞳は強い輝きを宿している。
彼女が裏の世界にその名を轟かすスナイパーの相棒だとは、誰も予想だにしないだろう。
まるで透き通るような美しさと、気丈な強さを秘めている。






君の様な女性が、あの冴羽僚のパートナーだとはね、驚きだよ。





冷酷な目をしたその男の、値踏みするような視線に香の背筋に悪寒が走る。
それでも目を背けないのは、香の僅かばかりの抵抗だ。
怯んだら負けだ。
腐るほど聞かされてきたこの手の自分に対する評価にはもう、慣れっこだ。
どうせ、素人だとでも言いたいのだろう。







そうね、私も自分で信じられないわ。でも私は、  冴羽僚の相棒なの。


随分と余裕の表情だね、それほどまでにパートナーを信用してるという事かな?


ええ、信じてるわ。僚は私を裏切らない。





男はにやりと片頬を上げると、香を拘束した椅子の方へと近づいた。
毅然と背筋を伸ばした香の顎に、柔らかく指を掛けて上向かせる。
香の挑むような瞳が、照明の光を捉えて深く金色に輝く。







君は美しいよ、薄汚れた殺し屋の相棒にしておくには勿体無い。
君なら高値で売れるよ、勿論、その曰くも込みでね。
あの冴羽僚の掌中の玉、跳ねっ返りの小鹿。どんな金持ちが欲しがるだろうね。






気味の悪い男のセリフに、香は眉を歪めた。
それすらも、気が違った男には魅力的に見えるとは思いもよらない。
香は真っ直ぐに男を見据えた。
そしてもう一度、ゆっくりと噛んで含めるように発音した。





そうよ、私は冴羽僚の相棒。私になんかしたら、あんた殺されるわよ?








本当は、怖くて仕方ない。
僚が本当に来てくれるとは、言い切れない。
香が攫われる前、僚は険しい表情でアパートを飛び出した。
今頃、大変な事に巻き込まれているかもしれない。
あっさりと連れ去られたドジな相棒の世話など、してる場合じゃないかもしれない。
でも、香に出来るのは、僚を信じる事と毅然と振舞う事だ。
何があっても、香はシティハンターだから。







その通り、良くできました相棒殿。





そう言って、音も無くスイートルームに侵入してきたのは。
噂の冴羽僚だ。
僚の声に振り返った男の肩を、僚は躊躇する事無く撃ち抜いた。
男がその場に頽れると同時に、香の前へと回り込んで香を椅子ごと押しやる。
そのまま柔らかな絨毯の上に転がった香と男との間に、僚が立ちはだかる。
肩を撃たれて蹲った男の頭を蹴り上げて、仰向けにすると眉間に銃弾を撃ち込んだ。
不自由な体勢で床に転がった香の目に映るのは、豪奢な絨毯の模様だけで。
何があったのか解るのは、銃声と充満する血の匂いから予測出来る事だけだ。



それからの僚の行動は迅速だった。
香をそのまま抱き上げると、骸が視界に入らないように器用に避けて、
広々としたバスルームに連れ込んだ。
バスタブの縁に座らせた香の手錠を、器用に外してやり、携帯から冴子に連絡した。
僚は洗面所に用意された分厚いタオルを湿らせ、香の頬を拭った。
男の肩から飛んだ返り血が、香の頬を汚していた。
今頃、高価な絨毯は男の眉間から溢れた血と脳漿で夥しく汚れている筈だ。
2人は、冴子の到着を待たずしてそのホテルを後にした。








いつものクーパーの助手席で。
香は流れるヘッドライトの河を眺めながら、今なら訊いてみたかった事が訊けそうな気がした。
きっと、この数日の僚はあの男を仕留める為に動いていたんだろう。
行きがかり上、その現場に香も居合わせてしまったけれど。
そうでなければきっと、香の知らない所で僚は。



(つづく)



お題から生まれた長編『始まる為の終わり』 ⑧

お題99.無題


窓ガラスに滲む新宿の夜を構成する灯りに、香は目を凝らした。


滲んでいるのはどうやら、香の眼球表面らしい。
涙は音も無く溢れ、静かに頬を濡らした。
僚はいつも通り、何事も無かったかのようにハンドルを握っている。
訊きたい事は山ほどある。



あの人は誰だったの?
どんな悪い事をしていたの?
あなたはどんな思いで引き金を引いたの?
私が居なければ、あなたはあの部屋へは訪れずに遠くからあの人を殺したの?
あの人に言った、私の言葉をあなたは聞いてたの?


けれど、それを訊く事に何の意味があるんだろう。
香にとって大事な事は、僚が今ここに居る事で。
僚の心の中に、どんな思いが渦巻いているのかだ。






りょお。


ん?なに?


わ、たしは、どんなりょおでもりょおの相棒だよ。






だから、隠さなくても良いんだと、香は言いたかった。
足手纏いなら、連れてかなくても構わない。
話せない事情なら、話さなくても良い。
ただ、その胸の中に降り積もる悲しみの地層を、心の痛みを、無理に隠さないでも良い。
その痛みの欠片だけでも、自分に分けて欲しいと、香は心から願う。
泣けない男の涙は、代わりに香の瞳を濡らす。






当ったり前だろうがっっ、おまぁ以外他に誰が俺の相棒だっつ~~の。





僚はそう言って、笑った。
相棒を助ける為ならば、僚はいつだってどんな事をしてでも駆け付ける。
香はあの秋の日以来、またしてもその事を僚の行動を持って思い知らされた。
パートナーとして、僚が香にしてくれる事は沢山で。
香が僚に出来る事は、ほんの少しだ。
香はそれがいつだって、悔しいのだ。
それに香は、相棒だけど僚に恋もしている。
好きな人の力になりたいと思っているのに、むしろいつも助けられてばかりだ。
どうしようもない考え事をしながら、窓の外を眺める香に僚が1つ小さく咳払いをした。







・・・あああと、でもそれだけじゃねぇけどな、おまぁの居場所にすっ飛んでくる理由は。


へ???





それまで窓の外を眺めていた香が目を真ん丸にして、僚の横顔に痛いほどの視線を送る。
僚の次の言葉を待っているらしいけど。
2人の周りの香以外の女たちなら、この言葉の意味くらいすぐにピンと来て察しただろう。
解らないのは、超絶鈍感及びうぶっ子の槇村香だけである。
2人がこれ程までにもたついて、その距離を縮められない原因はなにも、
僚1人の責任でも無いだろう。
恋愛はいつだって、恋する男女の共同作業なのだ。
実を結ぶのも、停滞するのも、連帯責任だ。

僚はバックミラーで後続車を確認すると、ハンドルを切って愛車を路肩に寄せた。







泣くなよ。


//////だだだ、だって。






突然、距離の縮まった僚が香の頬を拭うから。
その真っ黒な瞳を優しく細めるから。
香はどうしていいのか解らずに、真っ赤な顔をして僚を見詰める。
ごくまれに、こうして真正面から僚の瞳を覗き込む事もあったけど、
それでもこんな風な雰囲気は、未だ嘗て無かった気がすると、香は激しく動揺する。







おまぁの事


助けに来んのは、    


惚れてるからに決まってんじゃん。






香が更に赤面して、涙はとうにその熱で蒸発する。
あ。とか、う。とか、ぇえ。とか言葉にならない母音を発する香の口が、言葉を結ぶ前に。
僚の唇が柔らかく重なった。
不思議だな、と香は意外にも冷静に考えた。
顔の中でも一際薄い皮膚で包まれた、柔らかな唇という器官は。
ただ触れているだけなのに香の胸を甘やかに締め付け、その直後にさざ波のように初めての感情を生む。
唇から生まれた感情が、水面に落ちた小石のように波紋を広げ、香の全身を支配した。
香も確かに、
僚に惚れている。




気が付くとしっかりと目を閉じて、僚のジャケットの胸元を強く握りしめていた。
きつく握った掌とは裏腹に、唇は緩く開かれ、その隙を見逃さない僚のビロードの舌が楽しそうに潜り込む。
初めての事に委縮した香の甘い舌を、優しく誘惑する。
唇を合わせただけの時よりも、僚の匂いや温度を直に感じる。
それは次第に、香の意識を朦朧としたものに変えてゆく。
ミニクーパーの横を通り過ぎてゆく数多のヘッドライトが、薄い瞼越しに光を当てる。
その光は眩しくは無いけれど、香の瞼の裏に虹を見せる。
目を開けたらどんな僚が見れるんだろうと香は思うけれど、何故だか目を開ける事は出来ないでいる。

こうしたかった、ずっと。
こうされたかった、僚に。
僚の心の中を知りたかった。

僚はいつも、余計な事は言わないくせに。
僚の唇と舌は僚以上にお喋りで、香は何となく、僚も同じ気持ちでいてくれたら良いなぁと思った。
そう思ったら、自然と力は抜けて。
僚のジャケットを握り締めていた手を解いて、僚の背中に腕を回した。
さっきの涙とは違う種類の涙が一粒、香の頬を伝った。

















それで?結局、どっちにすんの?


ふぇ???




どの位の間キスをしていたのか、香には良く解らない。
長いようで短くて長かった。
気の短い大型トラックの警笛が、赤い小さな車を威嚇しながら通り過ぎる。
ハザードランプのカチカチという、規則的な音が。
香のファーストキスのBGMだった。
キスが終わった事に気が付いたのは、僚がいつもの調子でそんな事を訊いたからだ。
唇を離した僚は、それでも。
名残惜しげに、おでこと鼻先を香に擦り付けながら、意味の解らない質問をした。
唇がまるで熱を持ったみたいに、腫れぼったい。





な、なにが?


シチューとブリ大根、今日の晩メシはどっちにする事にしたの?





今が何時だか、香には解らないけれど。
そう言えば、晩御飯がまだだった。
心なしか、呂律が上手く回らない。
すぐ傍に感じる僚のお腹から、キュルル~~という切実な音が聞こえた。
思わず香は笑ってしまう。
僚は何があっても、どんな日でもいつもの僚だ。
香の知っている、情に厚く、繊細で、純粋すぎるただの男。
それ以上でも、それ以下でもない。





ブリ大根。





そう言って香が綺麗に微笑むから、僚はまるで赦しを得た気分になる。
この世の全員が僚を憎んでも、
この世の全員が僚を蔑んでも、
この世の全員が僚を悪だと罵っても、
神様が僚を断罪しても。

僚は香が赦してくれるのなら、それだけで良いと思えた。




(つづく)




お題から生まれた長編『始まる為の終わり』 ⑨(最終話)

お題100.ここから踏み出す一歩




ねぇりょお、たまには何処かに美味しいモノ食べに行く?










それは普段の香からは、到底聞けないような珍しい言葉だった。

話しは、数日前に遡る。
新宿にほど近いホテルで、僚がある男を始末した晩。
2人は渋滞した夜の幹線道路に車を停めて、初めてのキスをした。
行き交うヘッドライトの斑な灯りを思い出すと、数日経った今でも香は妙にドキドキする。
けれど、その反面。
2人はキスをしておきながら、至っていつも通りだ。


あの後、家に帰って急いで夕飯の支度をして食後のコーヒーを飲む頃には、日付が変わっていた。
2人でコーヒーを飲みながら、僚は大まかに依頼の全容を説明した。
始末したあの男は、とてもお金持ちで。
確かに大きなグループ会社を束ねる、実業家だったらしいけど。
その事業の一端に、反社会的な組織があったという事。
そこで彼が売り捌く商品は、人間、もしくは人間だったものの一部。
決して商品にしてはならないものを、売り物にして金を生み出していた。
翌日の朝刊で、彼の死が報じられた。
けれど、死因は全く違うモノに捏造されていた。
表向き、彼は心臓発作による病死とされた。


そして、更にその翌日。
僚はリビングで洗濯物を畳んでいた香の前に、その数束の札束を置いた。
香が普段、目にする事の無いような額の紙幣。
それが、その件に対する僚への報酬らしい。
香は以前から、気付いてはいた。
表向きの伝言板への依頼だけでは、
僚の扱う銃火器、弾薬等の維持費、情報屋への謝礼、その他諸経費を賄う事は、絶対に無理だ。
何より、僚が夜遊びをしているだけの時とそうでない時の僅かな違いを、香は鋭く見抜いていた。
目の前の“それ”に驚く香に、僚は。
これはお前が管理してくれ、と静かに言った。
僚の考えでは、香にも詳らかになった依頼に関しては、
あくまで家計費としてその報酬を使うという事に、変わりは無いのだ。
今回の一連の流れを説明してから、僚は約束をした。

これからは、秘密を持つことは止めると。

けれど、それが僚のこれまでの全てという訳では無いだろうと、香は思っている。
そして、それでも良いと。
僚が判断して、必要だと思える事を話してくれればそれで良い。
香は僚を誰よりも、世界で1番に信じている。
だから、僚の言わない事は香にとっては、無い事と同じだ。
香は清廉潔白でも公明正大でも無い、むしろそんなモノはクソ喰らえと思っている。
でなければ、こんな商売の片棒は担いでいない。
だから、全てがクリアになる事だけが答えではない事を知っている。











なに?カオリン、珍しいじゃん。


ん~~~、だってほら。たまにはりょお、美味しいモノ食べたいかなぁ、と思って。お肉とか。
大丈夫だよ、お金がある時ぐらい。





そんな事を、真剣に考える香は知らない。
冴羽僚はむしろ、毎日美味しい食事にありついているという事を。
僚にとってのご馳走が、香の作る家庭の味だという事を。






良いよ、別にいつも通りで。


ええええ、ホントに?? りょおどっか具合でも悪いの???


・・・・・・・。





とは言え、これほどまでに素で気が付かないとなると、さすがの僚も多少歯痒い気もする。
香が思うほど、自分は香に対して気持ちを見せていないだろうかと。
確か秋頃に、婉曲的に愛していると伝えたはずだし、先日は念願のキスもしたじゃないかと。
少なくとも、僚がこれまで生きて来た中で。
香は僚の心の中に立ち入れる、唯一の女だ。
如何せんそんな相棒は、成人するまでの保護者(あに)の過剰な庇護と、
それ以降の僚の過剰な囲い込みによって、恋愛面に於いて常軌を逸して幼い。
何事も直接的表現で伝えないと、時として斜め上行く発想で思いもしない結末を招く。
僚は思わず苦笑してしまう。





別に、何処も悪くねぇよ。




リビングで愛銃の手入れをしながら、香のその提案を聞いていたけれど。
どうやら相棒は、明確なリクエストでもしない限りは解らないらしい。





俺は何処も悪くねぇし、晩飯はお前の作った酢豚が喰いたい。


・・・・え?あ、そ、そう? /////わわわ、わかった、じゃあ酢豚にする(照)





そう言って、香は真っ赤になるとギクシャクとリビングを後にした。
その後ろ姿を見ながら。
僚は本当は、もっと別に欲しているものがある事に気が付いた。
僚が一番欲しているモノ、飢えていて喉から手が出るほど恋しいモノ。
その対象である張本人は今頃、キッチンで頭から盛大に湯気を上げているだろう。
僚が食べたいのは、柔らかでしなやかな瑞々しい果実のような彼女だったりする。

















はぁっっ~~~~~。なんだよ、心臓に悪いよぉ~~~~。




香はダイニングキッチンのベンチに座り、テーブルに突っ伏して大きな溜息を吐いた。
なんだか最近、正確に言えばあの車の中でのキスをして以来、僚の唇をどうにも意識してしまう。
これまで僚が、何を食べたいと自分の口でハッキリと宣言した事があっただろうか。
確かに僚は、香が出したものを綺麗に残さず平らげるけど。
こうしてハッキリと、リクエストを言って貰えることがこれほど嬉しくて面映ゆい事だとは、
香は正直、思いもしなかった。
これまで、日常に埋もれ過ぎて気付かなかった僚の言葉の端々、行動の一挙一動。
それら全てにきちんと意味があって、
それらは暗に香に向けられた僚の愛情の切れ端だったりするらしい。
香がいつも僚の前では笑顔を心掛けていようと思ったり、
いつも心の中に僚を思い描いているのと、同じように。
その事に遅ればせながら、漸く香も気が付いた。


酢豚の中に混ざったパインを嫌う人がいるけれど。
塩気の中に存在する数少ない甘みと酸味が、香は意外と嫌いじゃない。


この恋が、たとえ世間的に見て常識外れでも。
好きな男が、たとえ殺し屋だったとしても。
香にとってはこの恋が、人生で唯一の命を懸けたロマンスなのだ。
香は冷たいテーブルに頬をぺたりとくっ付けて、熱を冷ます。
潤んだ瞳で、数日前の夜を思い出す。
あれから2人とも、何事も無かったように生活してるけど。
香はもう一度、僚に触れたいと思った。

けれど、香は知らない。
リビングで銃の手入れをしているその当のロマンスのお相手が、
キスどころかそれ以上の諸々を近々、香と満喫しようと目論んでいる事など。






(↓ここから先は追記で)