① 新人さん

香+伊集院




そこは都内某所、とあるスポーツジムである。
何の変哲も無い、至って普通の、高級でも無い、主に近所の住人が通うジムだ。


1階は、カフェになっている。
経営は、そのジムと同一で。
店内は、運動帰りの主婦やOLたちで連日賑わっている。

受け付けは2階にあり、2階のフロアは更衣室や、
シャワールームや、サウナスペースになっている。

2階の3分の2のスペースはプールになっていて、更衣室を経て、
シャワールームの奥へ進むと、そのままプールへと出られるようになっている。
都会の街中に有りながら、上手い事配置された窓によってプールの中はいつも明るい。

プールのレーンから見上げると、3階のガラス張りのマシンジムが良く見える。
プールの天井は高く造られており、3階部分と同じ高さの天井には、採光の為の天窓がある。
3階のジムには、奥からウェイトトレーニングのコーナー、
その手前に、ランニングマシーンとエアロバイク、
幾つかの個室に仕切られた教室では、それぞれ時間ごとに講師が変わってレッスンが行われる。
定番のエアロビクスに、ヨガ、中高年の奥様方に意外に人気なのはフラダンスである。






伊集院隼人はその日、大荷物を抱えていた。
伊集院はココで主にウェイトトレーニングのアドバイスをしながら、
希望者には、個人トレーナーとしてアドバイスなどもする。
その迫力の体躯は、ゆうに2mを超えており。
一分の緩みも無い筋肉は、アドバイスの説得力を増している。
他人の数倍は筋肉量のある彼の体脂肪率は、8%である。




たまたま備品の入った段ボールを3つ重ねて運んでいる時だった。
伊集院の乗り込まんとするエレベータホールに、スラリとした長身美女が佇んでいた。
伊集院は、その並外れた腕力を当てにされ、時折こうして荷物持ちを仰せつかる。
どうやら、彼女も上階(うえ)へ行くらしく、両手の塞がった伊集院は非常に助かった。
するすると降りて来たエレベーターに、伊集院と、長身美女が乗り込んだ。
荷物の多い伊集院は、奥へと進む。





何階ですか?




彼女がニッコリと首を傾げて言った言葉を理解するまでに、伊集院は0.7秒ほど掛かった。








・・・あ、2階の受付に。申し訳ありません。


いえ。





そう言って、ニッコリ笑う彼女は非常に引き締まった体つきで、
筋肉の付き方も均整がとれている。
咄嗟にそんな事を目測する伊集院のこの癖は、一種の職業病のようなモノである。
伊集院が考えている事など、知る由も無い彼女はクルリと伊集院を振り返り、
段ボール3つの内の一番上の1つを、さっと抱えた。
伊集院隼人のサングラスの奥では、つぶらな瞳がまん丸に見開かれる。
その華奢でしなやかな長身美女は、クスッと微笑む。






あぁぁ、あの。会員さんに、荷物など・・持たせたら問題になりますので・・・




伊集院隼人は、いい歳をして、見た目に似合わず純情である。
しどろもどろになりながら、恐縮する。
そんな彼に一向に構わず、彼女はにっこりと人懐こい笑みを浮かべる。
年の頃、22~23といったところか。




それなら、大丈夫なんですっっ!!



そう言った彼女に、
『いや、あなたが良くても、自分がまずいんです。』
と、伊集院が返事をしようとした矢先、エレベーターは2階・フロントへと到着した。
彼女は、段ボールを抱えたままスタスタと、伊集院の前を歩いた。





これ、どこまで運ぶんですか?


あ、あぁ。じゃあその扉の前まで。




伊集院が指し示した扉には、『staff only』の文字。
箱の中身は、フラダンス教室のおばさま方が、
来月の発表会で身に着ける為に揃いで誂えた、南国ムード満点のムームーだ。




申し訳ありません、手伝って戴いて。



そう言った伊集院に、彼女は。
ぺこりとお辞儀をして、意外な言葉を繰り出した。







こちらこそ、今日からココのスイミングコーチとしてお世話になります、槇村香と申します。





















僚+会員№3042 名取さん




「さぁえばっせんせっっ




午後の中級者クラスのレッスンを終えて、プールサイドでシャワーを浴びていると。
背後から、声を掛けられた。
つい先ほど、クロールのフォームの指導をしていた、会員の名取さんである。




そもそも、僚の受け持ちは。
夕方から夜にかけての、主に中高生男子の育成クラスである。
しかしここ数週間、何故だか昼間の数時間も臨時で駆り出されている。
ド平日の真昼間にやって来るのは、暇を持て余した高齢者もしくは。
豊満な肢体に何故だか揃いも揃ってド派手な水着の、中高年の主婦層ばかりである。


そもそも、先月。
幼児クラスを担当していた20代後半の女性コーチが、デキ婚した事に遡る。
彼女が電撃退社しやがった皺寄せで。
少しづつ、各々が今までの自分の担当以外を受け持つ事になったのだ。
という訳で、僚は今。
豊満マダム達に、モテモテだ。


シャワーの温水を滴らせながら僚が振り向くと、満面の笑みを湛えたマダムが立っていた。
彼女たちの化粧は、塩素混じりのぬるま湯にも動じることなく威力を発揮するらしい。




あ、お疲れ様です。名取さん。




僚は、これから夕方6:00までレッスンは無いので、
そのままシャンプーを掌にとって、お喋りしながら泡立ててゆく。







ねぇねぇ、冴羽先生って確か独身よね???


・・・ええ、まぁ。一応。


だれか、決まった相手はいるの?






何故だか名取さんは、興味津津といった体で目をキラッキラ輝かせながら詰め寄る。
噂に聞いたところによれば彼女は、お見合いをセッティングするのが趣味らしい。







はぁ、別に今のところ予定は無いですけど・・・お見合いはしませんよ?(汗)


やぁねぇ、そんなんじゃないのよぉ~~~。今日は、別件


何すか?


実は、うちの下の娘なんだけどね、冴羽先生にどうかなぁ~?なんてっっ






僚は丁寧に頭皮を濯ぎながら、じとっと名取さんを見つめる。
どうやらお見合いでは無いかもしれないけれど、縁談には変わりないらしい。





幾つ?


え?


娘ちゃん。


あぁ、今年28歳。私の若い頃にそっくりで美人よ?


・・・・。





目の前の中級者クラスの名取さんは。
有名人に例えると誰に似ているかといわれても、思い当たる節は無い。
強いて例えれば・・・・



(・・・ワイン樽???)



私もこう見えて若い頃は、松坂慶子に似てるって評判だったのよ♪


・・・どこら辺で?


やぁだぁっっ冴羽先生ってばっっ





そんな名取さんに、バシバシしばかれる僚なのだが。
そのパンチの重みと言ったらない。
へヴィ級である。
僚は、バスタオルでごしごしと頭を拭きながら答える。






ねぇ、名取さん。


ん?なになに??


それならさぁ、俺よりイイやつがいますよ。


誰?


ミック・エンジェル。


・・・カタカナ????


そ、アメリカ人。ちなみに、3階利用した事ありますか?


それがねぇ、ああいう激しい運動はね。ほら、私、膝弱いから。


ミック先生は、イイ男ですよ。ブロンドにブルーアイズ、
娘婿になったらお孫ちゃん可愛いですよ、多分。


あら、素敵ね♪ミック先生は、何を担当してらっしゃるの?


エアロビクスと、ダイエット指導です。






冴羽僚はこれ以上ないほど極上の笑みを湛えて、幼馴染でもある悪友を売った。






(つづく)










パラレルです。
何から、ネタを思い付いたかは、
ここ数日のワタシの妄想をご覧になった方なら
お解りになるはず・・・・
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② 初対面

僚+香



プールサイドでの名取さんとの会話を適当に切り上げ、
コーチ控え室横の更衣室で、白いポロシャツとジャージに着替える。
濡れた競泳用ビキニは脱ぎ捨てる。
僚はいつも、レッスンとレッスンの合間は面倒なので、ジャージの下はノーパンだ。
行きと帰りだけは一応、パンツは穿く。
もしも、通勤途中で交通事故に遭って死んだら、ノーパンだとシャレにならないからだ。







香は数時間前に初めてココの控室に通され、制服の白いポロシャツと紺色のジャージに着替えた。
勿論、その下は競技用のシンプルな水着だ。
先程、建物1階の、カフェの横を通り過ぎた奥にあるエレベーターホールで、
異様に大きなインストラクターと遭遇した。
制服を着ていたので、すぐにそうと判ったけれど。
きっとあの人なら、ポロシャツとジャージだとしても、特注だなと思った。





僚が人差し指に引っ掛けたspeedoの競泳用ビキニを、クルクルと回しながら控室に入ると。
ドアに背を向けて座る、見慣れない女性がいた。
同じ制服を着た華奢な背中、栗色の柔らかそうなショートヘア、座っていても判るスタイルの良さ。
白いポロシャツに薄っすらと透けて見える、競泳用水着のライン。
その後ろ姿を、僚は無遠慮にガン見しながら、
自分のデスクの後ろにブラ提げた、丸い洗濯物干し用ピンチに水着を干す。
先程、更衣室で脱いで軽く水洗いしたモノだ。
18:00からの育成コースのレッスンまでには、余裕で乾く。



「あ、冴羽先生、お疲れ様です。・・・紹介しますね。」

そう言ったのは、僚よりも2歳ほど年下の美樹である。
香と向かい合って、前任者からの仕事内容を引き継いでいる所だったが、
途中、遠慮の無い好奇心の視線をビシバシと感じて、確認すると。
それはやはり、冴羽僚だった。
僚は香が来てからの数時間は、レッスンが立て込んでおり、今漸く控室に戻って来たのだ。
美樹がそう言った直後、彼女は慌てて椅子から立ち上がると、僚の方へ振り返った。
真っ白な肌、
綺麗に通った鼻筋、
大きくて透き通った薄茶色の瞳、
立ち上がると、彼女は想像以上に長身で。
まるでモデルのような印象だ。


それでいて、まるで人懐こい犬のような笑顔。




ヨロシクお願い致します、槇村香でっす!!



美樹が紹介するより早く、香はそう言ってペコリと頭を下げた。
その瞬間、僚の表情がだらしなく緩む。
美樹だけが、その一部始終を無言で観察し、
いつもの展開に、小さく溜息を吐く。
美樹は、今日から新人が来ると聞いて、しかもそれが23歳のピチピチのギャルだと聞いて、
その上、やって来たこの目の前の香を見た時から、この冴羽僚のリアクションは想定していた。















ミック・エンジェル



ミック・エンジェルは、スポーツジムでインストラクターをやっている。
そもそも、運動神経はずば抜けて良いタイプだ。
その上、誰もが認める色男である。
そして何より、そんな自分の事を誰より客観的に、ミックは心得ている。
そして。
その実態は、色男の仮面を被ったモッコリスケベである。
幼馴染みで悪友の冴羽僚は、同じジムでスイミングの方のコーチをしている。
彼もまた、ミックに負けず劣らずの色男だが、ミックに勝るとも劣らないモッコリスケベだ。
早い話しが、類友である。


しかし。
ミックが1つだけ、僚にも負けないと思っている事がある。
それは、女性に対するストライクゾーンの広さである。
ミックは、可愛ければ相手が人妻だろうが、彼氏持ちだろうが頓着しない。
寝盗るのもお手の物だ。
もっとも、寝盗ったからと言って責任は持たない。
恋愛は、個々人の自由意思に基づくものだというのが、ミックの基本理念だ。
どちらか一方が責任を取るとか取らないとかいう問題では無いのだ。
他人はそれを、人でなしとか、ご都合主義とか言うけれど、ミックの知った事では無い。
その点僚は、他人の女には興味は無いらしい。
面倒臭いのは苦手らしい。
もっとも、1人の相手に固執しないという点に於いては、ミックの見解と相違は無い。



けれど、仕方が無いのだとミックは思う。


女達の方が、自分を放って置かないのだからと。
ミックの担当は、エアロビクスとダイエット指導だ。
エアロビのクラスの無い時間は、主にマシンの使い方指導や、個人トレーニングをしている。
一番多いのが、ダイエットの悩みを抱えた女性達の相談である。
物腰の柔らかいミックは、自然とそんな女性会員の担当を任されるのだ。
世の中の8割方の女性達は、
する必要の無いダイエットという幻想に憑りつかれている。と、ミックは思う。
その中でも、失恋の痛手を背負ってやって来る迷える子羊たちは、
簡単にミックの手中に陥落する。


綺麗になってアイツを見返したいのっっ、と数ケ月前に息巻いていた彼女たちは。
一回りスッキリした自分の姿を、まず1番にミック先生に見て貰いたいの、と言ってミックに迫る。
勿論、ミック・エンジェルは、据え膳は片っ端から平らげて、お替りまでする男なので。
基本、お断りはしない。



そして、今日。
ミックはある1つの情報を入手した。
どうやら、スイミングの方に超絶別嬪コーチが新加入したらしい。
情報元の筋肉の塊によれば、なかなか気立ての良さそうな子らしい。
何でも、彼女とエレベーターの中でなにやらあったらしいが。
伊集院はそれ以上の情報を、決して洩らさなかった。
ヤツ曰く。

暫くは、僚のヤツが浮かれまくるに違いない。

との事だ。
色恋沙汰に於ける、ミックと僚の様々なスタンスは微妙にズレている所もあるけれど。
こと、イイ女を見極める審美眼に関しては、ほぼ一致する。



(・・・ヤバイ、超楽しみなんだけどぉ~~~















僚+ミック




18:00


僚は後ろ髪を惹かれる思いで、控室を後にした。
18:00丁度にプールサイドに出てみると、もう既に育成クラスの連中は揃っていて、
準備運動がてらに、思い思い泳ぎ始めていた。
そもそも、このクラスにやって来る彼らは、みなそれぞれ学校も住まいもバラバラで。
半数以上は、幼児クラスの頃からこのジムで水泳を習ってきた者ばかりだ。
部活でも無ければ、強制でも無いので集合時間はあれど、キッチリやって来る者ばかりでは無い。
あくまでも優先順位は学業なので、学校が終わり次第ココに来るのだ。
中には、学校で水泳部にも属していて、部活後に更にやって来る強者もいる。



槇村香は、非常に素直で無邪気な子だった。


美樹の呆れている表情に気が付かないワケでも無かったけれど、まずは掴みが大切なのだ。
僚はまず、自分という人間を彼女の意識の端にでも、鮮明に留めていて貰えるように、
僚の持ち得る全ての力を注いで、ジョークを連発した。
美樹はいつもの事なので、まるっきりスルーだったが。
香は、全力で笑い転げてくれた。
僚の手応えとしては、まずまずだ。



僚がプールサイドに立つと、まるで調教師に呼ばれたイルカのように少年たちが集まって来る。
一通り、最初に全体としての練習メニューを言い渡す。
取敢えず、100mを20本、流すんじゃ無くてタイムをキッチリ計って全力で。
その後は、個人個人のレベルに合わせて2カ月後の大会に向けたトレーニングメニューをこなす事。
それだけ言うと、彼らは各レーンに散って泳ぎ始める。
僚はそれを見ながら、フォームの乱れを水の上から声を掛けて指摘する。



そんな感じで10分程経った頃、美樹に連れられて香が控室から出て来た。
早速、明日から幼児クラスを任されるらしい香に、美樹がプールサイドの奥。
主に、ちびっ子たちの使う用具(色とりどりのビート板やヘルパーなど)の置き場を確認したり、
幼児用のシャワールーム(大人用と違って、プールからすぐの場所に有って丸見えだ。)の説明をしたり、
2人は時折笑いながら、打ち解けた様子で何やら打ち合わせている。


少年たちは、多少放って置いても勝手に泳いでいる。
僚の視線は自然と無意識に、新しく入って来た可愛らしい後輩へと向かう。
それと同時に、激しく鋭い視線を斜め上から強烈に感じる。



僚がハッとして、その視線の先を捉える。
3階、ガラス張りになった向こう側のエアロバイクの陰から、怪しげなブロンドの男が覗いている。
ミック・エンジェルである。
勿論、視線の先は槇村香。
僚は思わず、小さく舌打ちを漏らす。
そういえば、あの男があんな美女を見て。
そっとして置くはずなど無いのだ。





怨念の籠った僚の視線に、ミックも気付かないワケは無い。



プールとマシンジム、ガラスを挟んで上と下で激しく睨み合う。
ミックの蒼い瞳には蒼白い焔がメラメラと燃えており、
僚は禍々しいオーラを放って射るような視線を、ミックに向かって真っすぐに向けている。
他人には解らないであろうが、
この時の2人の間には、確実に激しい火花が散っていた。


モッコリスケベの世界には、言葉など要らぬのだ。



(リョウ、この勝負容赦はしないぞ。)

(ケッッ、変態金髪野郎がっっ。テメェなんかに、掻っ攫われて堪るかっつーのっっ)





彼ら2人以外、至極どうでもイイ勝負の火蓋が、今切って落とされた。




(つづく)







カオリンが、モッコリスケベ2名に
ロック・オンされちゃいました(合掌)

③ 片思い

冴羽 僚




僚は今、人生初の片思いに身を焦がしている。


1か月半程前、僚の職場に超絶カワイイ後輩がやって来た。
年齢差は、ちょうど10歳。
少しボーイッシュで元気いっぱいの彼女は、それでも無自覚で極上の良い女で。
僚は面白くて、気のおけない先輩のフリをして、日々その距離を詰めている。
これまで僚は、思春期の時ですら色恋沙汰で悩んだ事など無かった。
良いなと思った相手とは、自然と付き合って来たし、それ程執着した相手も居なかった。
これまでの女達は僚が思わせぶりな言葉を掛ければ、物欲しげな視線で応えてくれた。
色恋とは関係の無い他愛ない会話の流れで、落とし処を読み取る事など容易く出来た。
だから、自然には距離の縮まらない相手を、どうやれば色恋へと誘導できるのか。
僚はこの歳になって、初めて解らなくなった。



土曜日には、僚の受け持ちの育成クラスは、午後の早い時間から始まる。
中高生男子が主なので平日は夕方から始まるけれど、休みの土日だけは開始時間が早いのだ。
半月程先に少し大きめの大会が控えているので、少年たちは熱心に黙々と泳いでいる。
競泳は孤独な戦いだ。
あぶくの中の世界で、自分自身と闘う。
昨日の自分より、今日の自分より明日、もっと速く泳げるように。
僚にもかつてそういう世界に居た覚えはあるけれど、今はもう遠い過去の話しだ。




選手たちが黙々と泳ぐレーンから、随分離れた端っこの2レーンに僚が目を遣る。



キラキラと午後の光りを反射する水面の先、水底に赤い色の上げ底が置かれた幼児クラスだ。
黙々と水飛沫だけを上げる少年たちと相対して、黄色い声が天井の高い空間に響き渡る。
二の腕に赤い浮き輪を着けて、自分の番を体育座りで待つ幼児たち。
25mプールの中程で、腰の辺りまで水に浸かった彼女は。
ホイッスルを吹きながら、スタートの合図をしている。
その笛の合図で、楽しそうに子供たちが彼女めがけて一生懸命泳ぐ。
自分の所まで泳いで来た子らを、彼女は1人1人受け止めて褒める。
僚にも確かに、あの頃があった。
泳ぐのが楽しくて仕方なかった頃が。



数十分後。

お子様コースのちびっ子たちは、レッスンとはまた別の大騒ぎを繰り広げている。
幸いこのジムは、地域密着型の庶民的憩いの場と化しているので、
子供たちのこの大騒ぎを咎める者もいない。
プールサイドの奥、子供用のシャワールームは軽く戦場の様相を呈している。
現に、レッスンの時には、香1人で統率が執れていた幼児クラスの連中は、
一転、香1人では手に負えず、美樹が手伝ってシャワーをさせて着替えさせている。
水着を脱いで、フルチンでプールサイドに出て来るガキを追いかける香。
1人がオシッコしたいと言い出せば、ボクも、ボクもと後に続く悪魔の連鎖。
突然泣き出して、香にしがみ付いて胸に顔を埋めるガキ。
それを見て、独り奥歯を噛み締め、青筋を立てる僚。
更にその僚をコッソリ見ては、ニヤニヤと笑う中高生男子たち。

僚の片思いは。
残念ながら、僚本人と香以外の人間にはバレバレである。
















美樹+香






ねぇ、香さん?

はい、何です?美樹先輩。

今週の休館日の前の晩、飲みに行かない?





基本的にスポーツジムは、休みの日にも営業している。
普段、働いていると休日にしか通えない会員さんもいるからだ。
各インストラクターは、基本的にシフト制で勤務しており、
全員が一緒に休めるのは、月に2度ほどあるメンテナンスを兼ねた休館日の日だけだ。
その日であっても、中には研修であったり、何らかのイベントに関わったりしていて、
休みで無い者もいる。





行くっっ!!




香はニンマリ笑うと、躊躇なくコクコクと頷く。
このジムで働き始めて、香は美樹と一番仲良くなった。
元々、女性のスイミングコーチは不足しており、
シフトの関係上殆ど勤務日が被る2人は、必然的にそうなった。
そんな香に、美樹が少しだけモジモジして口籠もる。




・・・・それでね。あのぉ、ちょっと・・もう1人一緒でも・・いいかしら?

???別に、構いませんケド???どうしたんですか?

そのぉ、実は。私の彼も一緒に・・・


かれっっ!!





香は思わぬ美樹の言葉に、過剰な大声を出した後で咄嗟に自分の口を塞ぐ。
どっちにしろ、土曜日の午後の控室には香と美樹の2人しかいないので、美樹は苦笑する。
それに、美樹は同じジムのインストラクターと付き合っている事を、
秘密にしている訳でも無いので、別段、この話題で後ろめたい事も無い。
香は少しだけ、声を潜めるようにして興味津津で美樹に詰め寄る。




彼氏さんて、何してある方なんですか???

ここの、インストラクターよ。

!!!!・・・ス、スイミングの???

いいえ、彼は主にウェイトトレーニングが専門なの。

あ、じゃあ3階の・・・

えぇ、そうよ。

あ、あの。

なぁに?

彼氏さんって、カッコイイですか???


えぇ、とっても。





そう言って、ニッコリと笑う美樹に、香は大げさに溜息を吐いて『良いなぁ~~~』と呟く。
香さんだって、彼ぐらいいるでしょ?と言う美樹に、香はフルフルと首を横に振る。
香曰く。
これまで、学生の頃は水泳一筋で、恋愛などに一切興味が無かったけど。
この歳になって周りの友人を見渡してみると、皆一様に彼氏が出来ていて。
今となっては、どうやったら彼氏が出来るのか、そもそも好きな人もいない自分には。
彼氏を作るなど、それはそれは難解な課題だそうだ。







ふ~~~ん、そうなんだぁ。でも、そんなに大した事でも無いわよ?

えぇぇ~~、無理ですよぉ。難しい・・・

ふふふ、意外と身近に居るもんよ?アナタの事想ってる人って♪

そうは思えないな。




美樹の思わせぶりな発言の真意など、知る由も無い香は。
先程、幼児クラスのママたちから差し入れされたドーナツを頬張った。
今はまだ香には、色気よりも食い気の方が重要だ。












僚+香





つい先程まで、キャッキャと恋バナに花を咲かせていた美樹は、
中級者クラスのレッスンに行ってしまった。



香は控室に1人で、色画用紙と格闘していた。


幼児クラスでは、まだまだ進級テストなどは無いけれど。
頑張ったねという意味でのメッセージカードを、1人1人に渡したりする。
香はこのひと月半で、今のこの職場が大好きになっている。
コーチの先輩たちは、皆優しい。
これまで小さな子供と接する機会など香には無かったけれど、
やってみるとそれはとても楽しくて、香には性に合っていると思う。
物怖じせずに、水の中に飛び込む子。
乱暴で、すぐに癇癪を起す子。
いつもふざけてばかりで、お調子者の子。
水を怖がって、なかなか泳ぐ事が出来ない子。
それでも。
幼稚園や保育園とは違う、ココの友達と楽し気に遊んでいる。
香にも、同じ記憶がある。
だから、どんな子であっても彼らの気持ちが少し解る気がする。





迷子を回収して来たぞぉ~~~



そう言って、面白い先輩が香のクセ毛の上に、黄色いソフビのアヒルのおもちゃを乗せる。
ついでに柔らかなその黄色い胴体を押すと、ピーピーと音がする。
どうやら、育成コースの練習が終わったらしい。
彼は、黄色いあひるを持った反対の手に、競泳用のビキニを握っている。



あ、1個残ってました?



香が屈託なく笑うので、僚は柄にも無くドキドキする。
しかし、そんな事はおくびにも出さず、香の頬を柔らかく摘む。
まるで。
フランクで、兄貴のような先輩を装って。







なかなか、泳げない子もいるから。
プールは怖くないんだよって思って貰う為に、どうかなって。





そう言って香が、頭の上のアヒルを手に取って呟く。





私あの位の頃、水の中に入るのが楽しくて仕方なかったから。




そう言って笑う香が。
もしかすると、人生で最初で最後の本気の恋の相手かもしれないと。
僚はマジで思っていた。



(つづく)

④ 飲み会

どうしてこんな事になったのだろうと言うのが、その晩の全員一致の見解だった。
・・・唯一人、槇村香を除いては。


伊集院は、黙々とグラスを空にし。
美樹は香と伊集院に、楽し気に話しを振る。
香の隣で、ミック・エンジェルが何かと香のご機嫌をうかがい、
僚は香の向かいでそれを見ながら、鬱々と焼酎を呷り、
その隣で、麗香が甲斐甲斐しく気を回す。
伊集院と美樹は、2人の世界に入りつつもそんな複雑な恋愛模様に苦笑し、

槇村香だけが、美味しそうに居酒屋メニューをモリモリと食べ、しこたまビールを飲んだ。















僚+美樹



『香さん、今日のお店、すぐそこの居酒屋さんでもイイかしら?
              フリーペーパーのクーポンがあるのよ。』

『あ、全然構いません。私、居酒屋メニュー大好き!!』



休館日を翌日に控えた、火曜日の昼休み。
いつもデスクに並んで弁当を食べている、香と美樹がそう言った。
僚はもう一歩早ければ控室のドアの外に出る所だったが、
辛うじてそんな2人の会話を、キャッチした。



3時間後。


香は幼児クラスのレッスンの為、プールの中だ。
僚は18:00開始の育成クラスまで、これといってする事は無い。
1時間に一度ほど、プールの隅で検査キットの細長い筒の中に水を取り、水質をチェックして。
時折、異変が無いよう、控室の嵌め殺しの窓からプールの方へと視線を移す。
そして概ね、時間を持て余していた。
少し離れたデスクでは、中級者クラスのレッスンを終えた美樹が、
香と入れ替わるように控室に戻って来て、何やら書類と格闘している。







ねぇねぇ、美樹ちゃぁん♪


どうされましたか?冴羽先生。






馴れ馴れしい僚の口調とは相反して、美樹は実に淡々と答える。
この目の前の男は、いつだってこの調子なのだ。






あのさぁ、今日美樹ちゃんとカオリン、2人でお出掛けすんの???


・・・えぇ、まあ。・・・・・ファルコンも一緒ですケド?


えぇ~~~、じゃあカオリンのお相手がいないじゃん!!


お、お相手って。ただ、3人で飲むだけですから。


あのさぁ、僕ってば。お休みの前夜にも関わらず、今週はたまたま空いてるんだけどなぁ。


一緒に行きたいという事ですか?


流石、美樹ちゃん。物分りがいい!


・・・私は、構いませんケド・・・香さんとファルコンが良いと言うなら。







僚は、うわぁ、まじっっ?サンキュ。と言いながら、至極喜んでいる。
そんな先輩インストラクターを、美樹は含み笑いでチラリと見遣る。





冴羽先生?


ん?何ぃ?


冴羽先生って、香さんの事好きなんでしょ?





そう言われた瞬間、僚は口に含んでいた生温いヴォルビックを、ブフッと吹き出す。
慌てて、傍らに置かれたタオルで、胸元と口元を拭う。





ななななあに、いいい言ってんの???美樹ちゅわんっっ


もう、誤魔化さなくてイイじゃないですか?バレバレですよ?




そう言ってクスリと笑うと、美樹は控室を出て行った。















伊集院+ミック



・・・そういうワケなの、イイ?ファルコン。


あぁ、俺は別に構わんが、彼女はイイのか?


えぇ、香さんの方は全然構わないって。大勢の方が楽しいしって。


そうか。


えぇ。




3階のウェイトトレーニングコーナーにやって来た美樹は恋人に、
先程のスイミングコーチ控室での、僚との遣り取りを説明する。
香には、ちょうどプールサイドを横切るときに、すぐ横を通り過ぎたので、確認したらOKだった。
数分後。






なぁ、ファルコン?



そう言って声を掛けて来たのは、この職場の中でも群を抜いた遊び人、ミック・エンジェルだった。
午後から夕方にかけて、最も退屈な時間帯だった。
夕方も、日も暮れて暗くなった頃には、会社帰りのサラリーマンやOLでごった返す。
先程の伊集院と美樹との遣り取りにミックは、まるで肉食獣のように耳を欹てていた。






ん?なんだ?


今夜、何処か行くの?


???あ?それが何か?


カオリも、リョウも一緒にかっっ


・・・あ、ああ。








そんな滅多に無い機会に、うかうかしてはいられない。
今回、僚にだけは負けるわけにはいかないのだ。






ぼ、ボクも、参加したいんだけど・・・


はぁ???


そそその、飲み会。





伊集院の顔を見ただけで、皆、いつの間にか無意識に委縮してしまう。
ミックはダメ元で、賭けに出る。







あ?良いんじゃねぇか?1人増えるのも、2人増えるのも一緒だ。






この時ミックは、満面の笑みを浮かべて今夜の飲み会を妄想した。















ミック+麗香






ミック先生っっ!





ミックが男性トイレで用を済ませ、扉を開けたところで待っていたのは。
ヨガのインストラクターである野上麗香だった。
彼女は、何故だか僚にゾッコンで、
事あるごとに僚に近付いて誘惑するモノの、僚は中々落ちないのだった。




どうしたの?レイカ?


あ、あのぉ。


さっき、ちょっと立ち聞きしちゃったんですケド・・・今夜、私も参加させて戴けませんか?


え?何?急に・・・







しかし、直後。
ミックの頭脳が緻密な計算をはじき出す。
メンバーは伊集院と美樹、ココに香と僚と自分。
真っ向から、僚と対峙して獲物(かおり)を仕留めるよりも、ここはひとつ。
麗香に役立つ事をして貰おう。



飲み会の間中、麗香がいて邪魔に入れば僚は香1人には集中出来ない。
その隙に、ミックは香と親睦を深める。


(我ながら、ナイスアイデアぐふふ)



ミックは、涼しげな表情の下のスケベ面を見事にカムフラージュして、ニッコリと微笑む。




「あぁ、解ったよ。ボクの方から、ファルコンには言っとくから。」














こうして、当初は伊集院と美樹と香のささやかな夕食の筈が、
何故だか、飲み会へと変化した。
まるで、伝言ゲームのように。





伊集院は、黙々とグラスを空にし。
美樹は香と伊集院に、楽し気に話しを振る。
香の隣で、ミック・エンジェルが何かと香のご機嫌をうかがい、
僚は香の向かいでそれを見ながら、鬱々と焼酎を呷り、
その隣で、麗香が甲斐甲斐しく気を回す。
伊集院と美樹は、2人の世界に入りつつもそんな複雑な恋愛模様に苦笑し、


香は無邪気に天真爛漫に、よく食べてよく飲んだ。
香曰く、泳いだ後はお腹が減るからとの事。


そんな香には、まだまだ色気より食い気の方が最優先事項だった。



(つづく)







⑤ ラーメン

(僚+ミック+香)×大盛り3杯








その店は、香の勤め先の目と鼻の先だった。



香は大抵いつも、お弁当を持参して控室で昼食を済ませている。
けれど、ココに勤めるようになって、香は密かに狙っていたのだ。
いつかはあの暖簾をくぐる事を。









昼時、僚とミックは小汚い行きつけのラーメン屋のカウンターに並び、丼に向かっていた。



狭くて小汚い店内。
カウンターには、せいぜい10人も座れれば恩の字で。
昼飯時だと言うのに、カウンターには僚とミックの2人だけだ。
2人はココの常連で、週に3~4日はココに来る。
それぞれ1人で訪れる事もあれば、2人一緒に来る事もある、また店内で鉢合わせる事もある。
残念ながら、同じ職場の連中で他にこの店にやって来る者はいない。
彼らの殆どは、職業柄、非常に健康志向だ。
弁当持参、もしくは食事に何らかの制限を設けている。
だからここのこってりとした味噌ベースの濃厚なスープに、
麺が隠れる程のもやし炒めの乗った、ヘヴィなラーメンを何の躊躇いも無く食べるのは、
僚とミックぐらいのモンである。
店の親父は、先程2人に大盛りを2杯作った後は暇を持て余しており、
両耳にイヤホンをねじ込んで目を閉じて腕を組んで、
カウンターの内側に置かれた椅子に座っている。ラジオを聴いているらしい。








「でも、確かにレイカもキュートだけど、一番はカオリだな。」



ミックが屈託の無い無邪気な笑顔で言って、スープを啜る。
僚はそんなミックに、心底イヤなモノでも見るような視線を寄越す。
そんな2人は、制服の白いポロシャツに、紺色のジャージ姿だ。
ミックは午後から、エアロビのクラスと、
個人トレーナーを務めている会員のレッスンが3つ入っている。
その内の2人とは、何を隠そう(隠すつもりも無いが)裸同士の“レッスン”もした事がある。
僚は午後に、上級者クラスのレッスン一コマと、夕方からはいつも通り少年たちのクラスがある。
勿論、ジャージの下はいつもの如く、ノーパンである。
ジムまでの行き帰り、事故にでも遭ってノーパン姿で死にたくないと、
仕事終わりにはパンツを穿く僚は、
ラーメン屋とジムの間、数百mで事故に遭う事は想定していないらしい。





「けっっ、テメェにゃ“sweet honey”達がわんさかいるじゃねぇか。そいつらとやってろ。」




正直僚は、ミックが香を狙っているらしい事が気に食わない。
胸糞悪い。
ミックは超が付く程の、スケコマシだ。
もっとも、2~3ヶ月ほど前までの僚なら、それをとやかく言う筋合いは無かったかもしれない。
僚は客観的に見て、非常に魅力的な男である。
バランスの取れたボディは、服を着たら着痩せするらしく、
一転、僚がその肌を見せると、女達は皆一様に恍惚とする。
鍛え上げられた体に乗った、端正なマスクは人当りのイイ好青年から、
意地悪でエロティックな笑みを浮かべる色男まで、ありとあらゆる仮面を持っている。
ただ1つミックと違っていた事は、面倒な修羅場が最も嫌いだという事。
だから僚は、面倒な女は嫌いだ。
今までの僚は、誰かに執着すると言う感情は殆ど無かった。
同じスケコマシでも、ミックはフェミニストだから、
もしかするとより酷いのは僚の方だったかもしれない。

でも。
僚はココ数週間で、劇的に変わった。
そんな風に、恋をした少年みたいな顔もするんだなと、ミックは内心思うけれど口にはしない。







フッッ、リョウは何も解ってないな。


・・・どういう意味だよ?


男という生き物はさぁ、リョウ。追われるよりも、追う方が好きな生き物なんだよ。
てか、オマエにはレイカがいるじゃないか、可愛いだろ?彼女。


・・・・・・・。






ミックはそう言って、嫌味なほど美しいウィンクを僚へ寄越す。
僚は如何にも、馬鹿馬鹿しいとでも言いたげにフンッッと鼻を鳴らすも、
その表情は無意識の内に、不機嫌な仏頂面である。
ミックはそれを見て、更に笑みを深くする。





なんだ、リョウもカオリ狙いか???へぇ~~~ほぉ~~~(にまにま)




何故だか今日はやたらと絡んでくる目の前の金髪馬鹿に、僚のコメカミで何かがプチンと切れる。






ちっっ、俺ぁな飲み会の席でいきなり、
唐揚げにレモン汁ぶっかけるような女は嫌いなんだよっっ
ありゃあ、気が利くとは言わねんだよっっ、無神経っつ~のっっ
大体、ああいう場で妙に甲斐甲斐しい女アピールする奴に限って、
汚部屋に住んでたりするってのが、デフォルトなんだよっっ



僚は一気に捲し立てると、肩で息をしながら味噌味の濃厚スープを一口啜る。





ま、それは一理あるわな。この世の真理だ。その点、カオリは申し分無かったな・・・・




そう言ってミックは、2日前の飲み会での事をぼんやりと思い返す。
その晩、このラーメン屋から、更に数百m先にある居酒屋で。
飲み会という名の戦場の火蓋が、切って落とされた。



それを注文したのは、香だった。
大皿に盛られた、若鶏の唐揚げ。
無愛想なアルバイトの店員が、彼らの席へとそれを運んで来た時。
香は小さく感嘆の溜息を漏らした。
その密やかな息遣いで、それが香の大好物である事をミックは覚った。
コッソリと心の奥に留めて置く事を、勿論忘れない。
事件はその時、勃発した。
香の感嘆の溜息のあと、香の箸先がそのアツアツの若鶏の唐揚げに伸びる一瞬前に。
麗香の手が、大皿の隅に盛られた櫛形に切られたレモンへと伸びたのだ。
間一髪とは、まさにあの事である。






あっっ!!


えぇっっ、ダメ???




香が咄嗟に上げた素っ頓狂な声に、麗香がびくっとなってその柑橘を絞る前に手を止めた。
香は至極真剣な表情で、無言の内にコクコクと頷く。






あの、あたしっっ唐揚げには、何もかけない方が好きなんですっっ!!





そう言いながら、香は別の取皿に5~6個の唐揚げを隔離する。
麗香は少しだけ不服そうな視線を香に向ける。
麗香の気性の荒さを、香はまだ知らない。
あんな風に僚にしおらしく媚を売っている姿はまやかしで、
同僚の女性達の前ではまた違ったキャラだという事を、美樹は知っている。
美樹が冷汗をかきながら、その場を取り繕うべく苦笑交じりにとりなす。




じゃ、じゃあもう、各自取り皿に取ってから、好きなモノかけるってのでどう?



伊集院が大きく頷く。
ミックは一瞬、麗香の知られざる側面を見た気がして、
見なかった事にしようと自分に言い聞かす。
香はもう既に、レモン汁騒動などどこ吹く風で、唐揚げを頬張ってビールを飲んでいる。
僚は美樹の提案に、俯きがちな伏せ目で小さく『・・・賛成。』と、呟く。
僚の隣の席に陣取っている麗香は、ハッキリとその僚の言葉を聞いて、シュンと項垂れる。
他のメンツには聞こえるか聞こえないか程度の呟きは、麗香にはハッキリと聞こえた。
否、むしろ。
僚は麗香に聞かせる為に、呟いたのだ。


しかし、それもホンの一瞬の事で。
その後も、麗香の猛アピールの手は緩まなかった。
僚は内心辟易とし、しかし一応は嫌でも職場で顔を合わせるので無下にも出来ず。
その間、香の隣を陣取ったミックは、そんな僚の目の前で絶妙に香のご機嫌を窺っている。
イイ感じに聞き上手に徹し、絶妙な相槌を返し。
しかし、いざ自分が話しをする番になると、軽妙なトークで香を笑わせた。






2日前のあの“飲み会”を思い出しただけで、僚はムカついた。
大体、あれは伊集院と美樹と、香と僚のダブルデートの筈だったのに。
そこに、ミックと麗香というお邪魔虫が乱入して来た事によって、予定が大幅に狂ったのだ。
僚は太めの縮れ麺を、思いっきり啜る。
スープと麺が絶妙に絡んでいる。
この店は、この辺りでは一番旨いと思うのだけど、一向に繁盛している気配は無い。
もっとも、そこも含めなかなか居心地の良い店ではあるのだけれど。












香は、その色の褪せた暖簾を前にして、心臓が煩いほどに高鳴っている事に気が付いた。

ラーメンは、香の好物だ。
美味しい店は、その店構えで判る。
ココは、絶対美味しい。
香の本能がそう言っている。
いつもなら、一緒に控室で弁当を食べる美樹は、今日は休みだ。
そして。
数日前から、香は決めていたのだ。
今日こそ、この店に入ってみると。











へいらっしゃいっっ



それまで、ラジオに集中していた親父の声で、
僚とミックはついつられて店の入り口に視線を寄越す。
威勢のイイ、オジサンの声に迎えられ暖簾をくぐった香の目の前には。




3人揃いの、白いポロシャツと紺色のジャージ。




「「「あっっ」」」


3人同時に、綺麗にハモッた。
僚とミックは、心底驚いた。
自分たち以外にココに来る職場の仲間、第1号が。
まさか香とは。想定外も甚だしい。
そんな2人の心情など、香は知る由も無い。
ニッコリと、無邪気に微笑む。






あれぇ、冴羽センセーも、ミックセンセーも来てたんだぁ(笑)


あ?俺らココの常連だから。


ハァーイ、カオリっっココにおいで、ボクの隣♪





ミックが、僚とは反対側の自分の隣のスツールを指し示す。
僚はそんなミックを見て、小さく咳払いをすると。
今までミックと隣り合って座っていた席を、1つ離れて。
ミックと己の間に、1つ席を空ける。
香が不思議そうに、そんな僚に首を傾げると。
僚は無言で、丸い赤いスツールの座面をポンポンと叩く。
香は次の瞬間、ニッコリと笑って2人の間に腰掛ける。


座面には、ほんのりと僚の体温が残っている。

そして、またしても。
香の台詞に、2人は驚愕した。







オジサン、大盛り1杯。


っっ!!!(僚&ミック)


いやいやいや、多いよカオリン(汗)







男達は、思い留まるよう声を掛けたが、
店主の親父はまるで無関心に、ラーメンを作り始める。
香はニコッと、反則レベルの笑みを2人に見せる。






う~~~ん、泳ぐとお腹減りません???・・あ、オジサン餃子も1皿。


へい、毎度っっ。






それから、15分後。
香は2人の心配をよそに、大盛りの味噌ラーメン(何と汁まで)と、
餃子(1皿8個入り)を綺麗に平らげた。
そして、3人は。
午後のクラスへと戻るべく、香を真ん中に挟んで仲良くジムへと帰った。


この後、香もこの店に時々通うようになった。



(つづく)




⑥ 冴羽先生

香+山際さん+是枝さん








香は、“LongSlowDistance”を心掛ける。


長い距離をごくゆっくりと時間をかけて泳ぐ。
息が上がらない程度に、けれど適度に心拍が上がる程度の負荷を掛けて。
それは一定のリズムに見えて、少しづつ計算された泳ぎ。
ずっと同じリズムだと、身体は慣れて来て負荷を感じなくなる。
だから心拍に合わせて、泳ぐスピードを微妙に変える。
それはメンタル、フィジカル両面で自分を知り尽くし、
コントロール出来なければ、なかなか出来ない泳ぎだ。


















「あれ?カオリン。今日はもう、終わったんじゃないの?」



育成クラスのレッスン中、
選手たちにアドバイスをしながらプールサイドに立っている僚が、香に訊ねた。
香のシフトでは確か、今日の幼児クラスの授業が終われば終了の筈だった。
けれど、夕方のプールサイドに現れた香は。
プールキャップに、ゴーグルと、黒い無地の水着を身に着けている。
泳ぐ気満々だ。



「えへへ、たまにはガッツリ泳ぎたくて。」



そう言うと香は、一番端のレーンで泳ぎ始めた。
ココで働き始めて、4カ月。
だいぶん慣れて来た香は、幼児クラスに加えてたまに初心者クラスも担当する事になった。
人懐こい親しみやすい性格は、中高年の会員さん達に絶大な人気を誇り、
幼児達に続いて、“かおり先生”ファンを増殖させつつある。


僚は香の泳ぎを、目で追う。
必然的に、少年たちへの指導は急速におざなりになる。
それまで、ほぼ言葉責めに近い檄を飛ばしていたコーチが、急に無言になれば。
彼らは、嫌でも気が付く。
僚のやつ、またカオリンに見惚れてやがると。









見惚れているのは、何も僚だけでは無かった。
男性会員の山際は、その時初めて香を見た。
元々彼は仕事柄、不規則な生活なので、ジムに通うのも週に1回来るか来ないかで。
その上、プールを利用するとなると、余程時間に余裕がある時だった。
だから。
先程から、優雅に水の中で躍動する彼女が、まさかインストラクターだとは思いも寄らなかった。
彼女がしなやかに水を蹴った後には、小さなあぶくが出来て。
彼女が水面を切るように掻いた後には、緩やかに波が立つ。
穏やかに揺れる水が、彼女の周りを取り囲み、
それでいて一切の水の抵抗を感じさせない程の、優雅な泳ぎ。
まるで。
美しい魚のような。








香はゆっくりと流して、2㎞ほど泳いだところで、足を着いてゴーグルを外す。
イイ感じに、身体の内側から燃焼しているのが判る。
言ってみれば、これはウォーキングやジョギングと同じ事だ。
2歳の頃に初めてプールに入った香は、まるで息をするのと同じように泳ぐ。
ゴーグルを外した辺りで、隣のレーンからの痛いほどの視線を感じる。
視線の先を見ると、見覚えの無い男性会員(山際だ)が香をじっと見詰めていた。
香はニッコリと微笑んで、会釈をする。
彼もつられるように、焦って頭を下げる。







「こんばんわ。」


「ここここここんばんわっっ」





山際は内心、非常に焦っていた。
美しい魚のように泳ぐ彼女は、とても美しかった。





ああああああのっっ


はい、何でしょう?


フォ、フォーム、すっげぇ綺麗ですねっっ・・・あ、すごく


ありがとうございます。






思わず口走った言葉を、小さく訂正する彼に、香はクスッと笑った。
たまにしか来ないジムのプールで。
山際にとっては、千載一遇の美女との出会いだった。
これっきりで終らせない為にも、何か言わないといけないと。
山際の脳内では、次の言葉を目まぐるしく探している。
そんな2人の遣り取りを、僚がプールサイドで鋭い目線を放ちながら見ている。
(ついでに言えば、3階のガラスの向こう側からは金髪碧眼の男も見ている。)
勿論、香と山際は一切、気付いて無いけれど。



そんな、解る人にしか解らない妙に緊張感の漂った空気を、
一新したのは、またしても会員さんだった。


会員№2897.是枝さんだ。
是枝さんは、夫婦でココに通う50代主婦である。
1人息子が独立し夫婦2人だけの家庭では、時間が腐るほどあるらしい。
ほぼ毎日、彼女は夫を連れ立ってやって来る。





「ちょっと、ああた。」


「へ?」・「あ、是枝さん。こんばんわ。」





突然の乱入者に、山際はたじろぐも香はニッコリと微笑んで挨拶を交わす。









こんばんわ、かおり先生。


今日は、ご主人は?


今日はね、珍しく残業なのよ。


そうなんだぁ、淋しいですね。


あはは、居ない方が気楽よ~~~。





彼女とオバハン(是枝さんというらしい。)の遣り取りを見て、山際は呆けている。
どうやら彼女は、ココのインストラクターなのかもしれないと徐々に理解する。
剣呑な視線を寄越していた僚は、ココで漸くホッとする。
是枝さんが乱入した事によって、場の雰囲気は一変したのだ。
僚がフト我に返ると。
数人の少年が、ニヤニヤと僚を見ている。
僚は心の中の焦りを誤魔化すように、咳払いをすると彼らに、

全力で1㎞

と、次の課題を課した。





少年たちは、ブーイングを唱えながらもまた、イルカのように水の中に戻る。
僚はこの時、是枝さんの登場で気を抜いていた。
大丈夫だろうと。
だからこの後、是枝さんが絶妙なアシストをしてくれた事など、知る由も無かった。









ところで、あんた。




是枝さんが、山際さんに向き直る。
山際さんは、一瞬ギョッとして水中で一歩後ずさる。






ななななんでしょう?


もしかして、かおり先生の事狙ってんじゃないでしょうね?


・・・・(ギクッッ)


無駄よ、やめときなさい。


へ???


かおり先生に手ぇ出したら。


・・・・だだだだ出したら?





そこで、是枝さんは一呼吸置くと、チラリと視線をプールサイドへと向ける。
山際さんもつられて視線を向ける。
視線の先には、冴羽僚。
そんな3人の事など、知ってか知らずか、恐ろしい剣幕で少年たちに檄を飛ばしている。
香だけが、是枝さんの言いたい事が解らずに首を傾げる。






出したら、冴羽先生に殺されるわよ。





どうやらあのプールサイドの恐ろしいまでに超絶男前のインストラクターが、
冴羽先生であるらしいと、理解する。
何だか良く解らないけれど、目の前の中年女性の勢いとプールサイドの色男の迫力に、
山際さんは気が付くと、コクコクと頷いていた。





香だけが、是枝さんの言葉の意味を1人、首を傾げたまま考え込んでいた。



生憎、槇村香(23)は、こと色恋沙汰に関して。
周りの人間が想像を絶するレベルで疎い事を、今はまだ誰も知らない。



(つづく)


⑦ 興味

香+美樹





香はこの数日、ある事をずっと考えていた。






『かおり先生に手を出したら、冴羽先生に殺されるわよ。』


某会員さんの言葉である。
この言葉を聞くに至った流れを時系列で思い返す。
香は確かあの日、仕事を終えて特に予定も無かったので、プールで泳いでいた。
するとある男性会員さんに声を掛けられたのである。
だから香も、挨拶を返した。
ただそれだけである。
その後、件の某会員さんが話しの輪に加わり、その言葉を彼に投げ掛けたのである。


そもそも。
その言葉には、突っ込み所が満載だと香は思う。


“かおり先生に手を出したら・・・”

という部分。
かおり先生というのは、勿論、香の事である。
まずは手を出すという事の意味を、香は色々と考えてみた。
この場合の“手を出す”と言うのは、香の解釈が間違いでなければ。
相手を異性として意識し、関係を構築するという事だと思う。
そこがまず第一の、ツッコミポイントである。
香は彼(山際さんというらしい)と、ただ単に挨拶を交わしていただけである。
普通、インストラクターが会員さんに声を掛けられれば、受答えするのは当然だろう。
例えあの時間、香の勤務が終了していても、会員さんには何ら関係の無い事なのだ。
だからその遣り取りに、異性がどうのとか、手を出す云々とかは、全くの見当違いで、
ただ、クロールのフォームの話しをしていたのだ。(あくまで、香の見解ではあるが。)



前半部分だけでも、もう既にへんてこだけど。
更に、難解なのが後半部分。


“・・・冴羽先生に殺されるわよ。”


香は、取敢えずこの言葉をいくつかのパートに分けて理解する事にしてみた。
冴羽先生とは、“あの”冴羽先生である。
殺されるというのは、きっとオーバーな表現で。
まぁ、別の言葉に言い換えると。
酷い目に遭うわよ。ぐらいの意味かなぁと、香は思っている。
ココで、冴羽氏が意図的に誰かを、酷い目に遭わす可能性というモノを香なりに考えてみた。
そして、考えてみた結果、香が導き出した答えは。


冴羽先生に限って、意地悪なんかする訳ないっっ


というものだ。
香の考察の論拠は、これまでの冴羽僚の行動が基準である。
僚はいつも、コンビニに寄ったついでに、香に色んなモノを買って来てくれる。
チロルチョコとか、うまい棒とか、ガリガリ君とかだ。
それにシフトが遅番で、閉館まで一緒の時は、プールの後片付けをするのだけれど。
そういう時、決まって僚は。
自分の方が大変な事をやってくれたりするのだ。
プールの底に敷く為の赤い上げ底を、片付けるのとか。
それに、育成コースの練習の時は怖そうに見えるケド。
少年たちは勿論、意外にも幼児クラスの子たちですら僚に懐いている。
だから、冴羽先生に限って、(会員さんは勿論)誰かに対して酷い事をする訳は無い。
というのが、香の考えだ。



そして。
香が最も理解が出来ないのが、前半部分と後半部分の言葉の関連性である。


100歩譲って、山際さんが香に対して異性を意識してモーションを掛けたとして(違うケド)
どうしてそこで急に、冴羽先生が登場するのかという事だ。


ココで、香はある可能性を考えた。
是枝さんはきっと、冴羽先生という人を誤解しているという可能性だ。
確かにあの時の冴羽先生は、育成クラスの練習中で。
大声ですごい剣幕だった。
でもあれは、いつもの事で。
少年たちも、解っている事なのだ。
冴羽先生は別に、怒っている訳では無い。
香も学生の頃、まだ競技をやっていた頃の先生たちは皆、あんな風だった。
是枝さんはきっとそういう細かい事は知らないから、誤解しているんだ、と。


香なりに、解っている事実を総動員して、答えを導き出す。
けれど香は、やっぱり何だか少しだけ腑に落ちないのだ。
(関連性に関する答えは出ていないから、当然である。)
そんなワケでこの数日気が付くと、あの言葉の意味を何度も考え込んでいる。





だから香は、この香の考察の裏付けと賛同を得たくて、
夜の控室で、美樹に訊ねたのだ。
僚は今、上級者クラスのレッスン中だ。







ねぇねぇ、みき先生。

ん?なぁに??

・・・あのね、














香のその相談というか、考え事というか、屁理屈というか、突拍子も無いアイデアを聞いて。
美樹は、軽く眩暈を覚えた。



目の前の後輩は。
何かが少し、同じ年頃の女子と違っているとは感じていたけれど。
これ程までに鈍感だとは、正直、美樹はドン引きした。
流石は、会員№2897の是枝さん(54)だ。
伊達に年齢は重ねていない。
見事に冴羽僚の片思い及び、独占慾の強さを見抜いている。
片や、香である。
香の口から聞く数日前の出来事は、どう考えても香の脳内フィルターを通したモノで、
しつこいようだが、あくまでも香の個人的見解である。
美樹は思わず、苦笑してしまう。



ああ見えて、冴羽僚という男はモテるのだ。
職場内なら、野上麗香がいい例だ。
他を牽制しながら独りで猛アピール攻勢を仕掛けているけれど、
彼女以外にもヒッソリと僚に想いを寄せているらしい女性職員を、美樹は数人知っている。
そして肝心の僚本人はこれまで、職場の女に手を出した事は無い様子だ。
これについては、美樹は伊集院から聞いた事がある。
僚曰く、毎日顔を合わす相手は面倒臭い、との事らしい。


そんな僚が一転、香が入社して以来。
香に恋をしている事は、周りの誰もが周知の事実である。
気が付いていないのは、ただ1人。
槇村香だけである。








ねぇ、香さん。

はい。

香さんってさぁ、冴羽先生のことどう思ってるの?

・・・・どうって???







香の考察を聞いた美樹がクスリと笑って問い掛けた言葉は、香の想定外のモノだった。
暫く香は、その言葉の意味を考える。








興味、無いの?冴羽先生の事。

・・・興味。

えぇ、興味。








冴羽先生は、テトリスが上手らしい。
冴羽先生は、うまい棒はサラミ味が好きらしい(香はサラダ味が好きだ)
冴羽先生は、レッスンの合間面倒なのでパンツを穿かないらしい(この間、コッソリ教えてくれた)
冴羽先生は、このジムから歩いてすぐ近くに住んでいるらしい。
冴羽先生は、マールボロを吸っている。


香が知っている冴羽先生は、こんな感じの人で。
それ以上に何かが知りたいかと問われれば、特に無い。
2人で話している内に、少しづつお互いのデータが増えてゆく。
それで充分じゃないの?と香は思う。






うぅん、特には。あ、でも冴羽先生、この前揚げ出し豆腐が食べたいって言ってました。




香の答えに、美樹は激しく脱力する。
彼の片思いは、果たして成就する見込みがあるのかどうか。
今の所それは、なかなか難しいかもしれないと感じる。














お疲れ~~~~。







美樹が香との会話に、軽い疲労感を感じていると。
渦中の張本人が、レッスンを終えて戻って来た。
片手にはいつもの如く、競泳用ビキニを握っている。
彼は予想通り、香を見付けて近付いて来る。
香の傍まで来て、彼女の癖毛をクシャクシャと撫でる。









なぁ、カオリン。今日帰りにラーメン喰いに行かねぇ?





彼らの行きつけは、すぐ傍の味噌ラーメンのお店だ。
ラーメンと聞いて、香はニンマリと微笑む。







冴羽先生の奢りですか???(わくわく)

あぁ?しゃあねぇなぁ、奢ってやるか。

わぁぁ~~い、行きます~~~。餃子もイイですかぁ?

・・・・。








ラーメンおごりと聞いて、香はもう既に先程までの考え事は、一時的に忘れている。
香の考えた理屈では、最も重要な事が1つ欠けている。



それは、冴羽僚が柄にも無く、まるで中学生のような恋をしているという事だ。




(つづく)



⑧ 休館日

僚+香



その月の掃除当番は香だったので、僚は少しだけシフトを弄った。
勿論、誰にもバレないようにコッソリだ。









彼らの勤めるジムには、月に2度ほど休館日がある。


何も無ければ概ね休日に充てられるが、スイミングコーチの中では持ち回りで、
月に一度はプール清掃をやる事になっている。
僚がこの日、シフトを改ざんしなければ。
香は別の男性コーチ(既婚・39歳)と組んで、清掃を行う事になっていた。
元々の担当の彼は、僚が代わって欲しいと申し出たら大層喜んだ。
家庭持ちなので、家族サービスをしないといけないらしい。

利害は一致した。





『え?あれ???・・・今日って、坂本先生じゃなかったですっけ?』



香は最初、不思議そうにそう僚に訊ねたけれど。
僚が素知らぬフリで、勘違いじゃね?と惚けたら、アッサリと僚の言う事を信じた。
この所香は、イイ感じに僚に手なづけられつつある。
が、しかし。
それはまだまだ、仲良しの先輩後輩の空気に過ぎず。
こんなモンでは、生温い。と、冴羽僚はますます躍起になっている。
だから、若干。
僚も気付いていなかったりする。例えば香が、
他の誰よりも僚と一緒の時の方が楽しそうに笑っている事とか、
控室にもプールにも僚の姿が見えないと、無意識に僚を探している事とかを。
確かに槇村香は、他人と比べて若干、色恋沙汰に疎い面があるのは否めない。


けれど僚もある意味では、なかなかどうして鈍いのかもしれない。
もしくは、初めての本気の恋ゆえに。
冷静な判断と客観的な視点を、欠いている状態なのかもしれない。






25m、8レーンのメインのプールと、
ウォーキング用のジャグジープール(コチラも25m)の水は抜かない、
月に1度そんな事をやっていたら多分、採算が合わない。
2人はプールサイドの端から、デッキブラシで掃除した。
そもそも。
毎月やらなくても、と僚は思う。
半年に一度(盆暮れだ)は水を入れ換えて、
専門業者に委託して徹底的に、掃除も込みのメンテナンスをしているらしい。
各種機器(ろ過装置・排水口など)の点検もまた、業者が別の休館日に行う。
僚は適当な所で、手を抜きながら香を盗み見る。



僚とは対照的に、香は懸命に床を磨いている。
紺色のジャージの裾を膝まで捲って、白いポロシャツの下には水着を着ている。
2時間ほど前。
僚が惚けて、シフトに関する香の違和感を一蹴した直後。
香はニッコリと微笑んで言った。


今日は掃除が終わったら、
静かなプールで、
貸し切りで泳ぎましょうね♪
 と。




反則だと、僚は思う。
そんな笑顔で、そんな言葉を、無防備に放つなんて。
もしも、この日。
僚がシフトを改ざんしなければ、その言葉を坂本(♂・39歳・既婚)が聞いていたかと思うと、
僚の背筋は、ゾワゾワした。
もっとも、相手が僚だから香もこんな事を言うのだという事に、僚も全く気付いていないのだが。


ジャージの裾から覗く真っ白で華奢な、けれども柔らかな筋肉の付いたふくらはぎ。
薄っすらと水着のラインの浮かぶ、ポロシャツの下の薄い背中。
汗ばんで猫毛の張り付いた嫋やかなウナジ。
波1つ立ってない鏡面のように輝く水面とは裏腹に、僚の心には下心という名の大波が打ち寄せる。
一体、休日出勤のこの真昼間に何の拷問なの?と、僚は自問自答するけれど。
この状況を作り出したのは、他でも無い自分自身であった事に思い当り苦笑する。














カオリンって、何歳の頃からやってたの?水泳。






僚がそう訊ねた時、2人は穏やかに波立つ水面にまったりと浮かんでいた。
天井の不透明なポリカーボネイト製の天窓の外はきっと、
痛いほど眩しい夏空が広がっている筈だ。
掃除を早々に終えた2人はつい先程まで、黙々と隣同士のレーンで泳いだ。
2人にとって、長距離を泳ぐことはジョギングやウォーキングと同じ事だ。
香が3㎞ほど泳ぐ間に、僚は4㎞と少し泳いだ。






初めてプールに入ったのは、2歳の時です。


幼児クラスだ。


ふふふ、そうです。あんな感じ。


・・・で?いつまで競技やってたの?


・・・・・・、大学の2年まで。







香はそう言うと、クルリと反転してまた泳ぎ始めた。
少しだけ。
僚は香のこれまでの話しを聞いてみたいと思ったのだ。
香のキックから繰り出される小さなあぶくに続いて、
僚ももうひと泳ぎしようかとコースに戻った。
僚はこれまで結構、強気で恋愛を進めていくタイプだった。
気になる事は、相手にガンガン聞いてきたし。
けれど、自分の事は訊かれても、あまり深くは話さなかった。


それが、何故だか今回は。


自分の事をもっと、知って欲しいと思っている。
香の事をもっと、色々知りたいと思っている。
けれど、強引にガンガン突撃するのには、少しだけ躊躇いがちな臆病な自分がいる。
僚はこの日、初めてその事に気が付いて少しだけ可笑しくなった。
思わず笑いが零れるレベルで、僚は香に嵌っている。
















すみません、お待たせして。






そう言って、控室に入って来た香は。
いつものポロシャツとジャージに着替えている。
勿論、僚も同じく。
この後はもう帰るだけなので、ジャージの下にはきちんとパンツを穿いている。
香のポロシャツの胸元にも、競泳水着とは明らかに違うラインが薄っすら透けている。
けれど、僚が香の胸元をガン見したのは、そのせいでは無かった。



香の首から掛けられた、ネックホルダーの入館証。
インストラクターが皆、首から提げる名札のようなモノである。
その入館証が裏向きになっていて。
そこに存在する“不穏なブツ”に、僚の目は釘付けになったのだ。
僚は脊髄反射で、そのカードサイズの入館証を摘む。






あ、それ。この前、ミック先生と写したんです♪





険しい表情(無意識の産物だ)で、脳天気なプリクラを睨む僚に。
香は満面の笑みで、説明した。
数日前、帰りの道すがらミックに声を掛けられ、晩ご飯をご馳走になり、
一緒に撮ろうと誘われて、久し振りにプリクラなんか撮りましたぁ~~~♪と。
因みにその日は確か、僚は閉館までジムにいた筈で。
香のシフトは確か、夕方までで終わった日だった。


妙に激しい照明で、白い顔が尚白く映って、バカみたいな面で笑っている金髪男に。
僚の心には沸々と、殺意が沸いて来る。
しかし、そんな僚の殺伐とした心境を一変させたのは、目の前の可愛い後輩である。







ねぇねぇ、今度、冴羽先生も一緒に撮りましょう♪ プリクラ。






勿論、僚は言われなくてもそのつもりである。
というか、この足で速攻食事に誘い、駅前のゲーセンで撮るつもりである。
そして。
香の入館証の、ミックとの2ショットプリクラの上に綺麗に重ね貼りするのが今夜の予定だ。


目には目を、歯には歯を。


これがモッコリ男達の暗黙のルールである。



(つづく)




⑨ 金魚

僚+香






あ゛ぁっっ!!



愛用のLLbeanのトートバッグを探った末に、突然、素っ頓狂な声を上げた香に。
隣を歩いている僚は、飲んでいたボトルのミネラルウォーターを思わず吹き出した。
僚は手の甲で口の端を拭いながら、香に理由を訊ねる。





な、なに?カオリン。急にどうしたの?




隣同士で歩く香と僚は、お互いに仕事帰りのジャージとポロシャツ姿である。
僚はともかく。
香も毎日、通勤は制服のこの姿である。
香は一見、極上の別嬪さんではあるけれど、中身は概ね高校生(男子)に近い。
あまり、服装に気を遣うタイプでは無いらしい。
この日2人は、とある“約束”をしていた為に、駅の傍に有る神社に向かっていた。




冴羽せんせぇ~~~、更衣室にお財布忘れて来ちゃいましたぁ(涙)





香は至極解り易く、落胆している。
小さな声でブツブツと、焼きそばがぁとか、イカ焼きがぁとか、半泣きで呟いてる。
実は、2人は数日前から、神社の縁日に行く事を約束していたのだ。
例の如く、
香が美樹に楽し気に、行きたいんです~~と話していた会話を聞き取った僚が、
何食わぬ顔で、縁日の話しを振ったのだ。
僚の思惑など知る由も無い香は、案の定その話題に食い付き、
何故だか会話をしている内に、じゃあ2人で行こうか?という話しで纏まったのだ。


そして、今のこの状況である。
香は普段、ペットボトルの飲み物を買うぐらいしかお金を使わないので、
いつもは小銭入れしか持ち歩いていないけれど、
この日は僚と帰りに縁日に行く事にしていたので、珍しく財布を持って家を出たのだ。
香は、仕事を終えて更衣室で身支度を整えていた時の事を、時系列で振り返る。


濡れた水着を軽く洗って、丸めてビニールに詰めた。
湿ったバスタオルと濡れた水着を、トートバッグの底に仕舞う為に、
一旦、家の鍵と携帯と財布と空のお弁当箱を、バッグから出したのを覚えている。
鍵と携帯はあるけれど、どうしても財布が見当たらない。
現在地は、ジムと神社の間。
どちらかというと、神社寄りで。
もう周りには、沢山の人で賑わっている。
浴衣姿の人も、かなりいる。





取りに戻ってもイイですかぁ?





香が眉をハの字に下げて、僚に問う。
僚は僅か数秒で、素早く計算を巡らせる。
間違っても、ジムを後にする時に。
ミック・エンジェルや、野上麗香の目に付かないように、慎重に出て来たのだ。
(もっとも、香は全く気付いて無いけれど。)
もしも、不用意に舞い戻って、奴らに掴まったら最後。
せっかくの香との縁日デートは、いつかの飲み会の二の舞になり兼ねない。
脳内の計算は覚らせずに、僚はニンマリと笑うと。
香の柔らかなクセ毛を、クシャリと撫でた。





しゃあねぇな。今日は、冴羽先生が奢ってやろう!!


えっっ!!


だから、気にすんな。な?


・・・いやでも、流石に申し訳ないですし・・・


良いってば。


でもぉ・・・。







いつものラーメンとか、餃子とかチャーハンなら、
僚が奢ってやると言ったら全力で喜ぶ香だが、
流石に縁日で遊ぶお金を奢って貰う事には遠慮がある。





じゃあ、明日返してくれれば良いから。


・・・・。


ホラ、腹減ってんじゃん? もうすぐそこまで来てるし、焼きそばが俺達を呼んでるよ、カオリン。







確かに、夏の夜の湿った空気の中に香ばしいソースが焦げた甘い匂いが混じっている。
途端に、食欲旺盛な2人の腹の虫が盛大に騒ぎ出した。







じゃ、じゃあ。明日、ちゃんとお返ししますから。


んぁ?覚えてたらな♪ ほら行くぞ~~~~


えへへ、冴羽先生、イカ焼きもね。


おお。ラジャー。





やはり、香は僚の胸の内の計算など、一切勘繰る事無く。
楽し気に僚の後に付いて、神社の中へと進む。
鳥居の手前の参道から、境内まで続く夜店に香は小さく感嘆の声を漏らす。
そんな香の横顔をコッソリ見詰めて、僚は思わず頬を緩める。









30分後、僚の手には焼きそばのトレイが乗せられ、香の手にはタコ焼きのトレイが乗っている。


『両方食べたいから、半分コしましょうね♪』


そう言って笑った香に、
僚は思わずキスしそうになるのをグッと堪えて、ああ。というだけで精一杯だった。
氷水の中に浮かんだ350mlの缶ビールを2本買って、お疲れ様の乾杯をして。
境内の隅の石段に腰掛けて交代で、焼きそばとタコ焼きを食べる。
それだけで2人の食欲が満足する訳は無いので、
この後はまだ一通り夜店を巡って買い食いをする予定だ。












あ、チョコバナナだっっ




そう言って、ふと僚の隣からはぐれそうになった香の腕を掴んだのは、
僚の無意識の行動だった。
初めてまともに触れた香の腕は、酷く華奢で。
僚は否が応でも、彼女と自分の身体の違いを意識してしまう。
彼女は女で、自分は男で。
自分は彼女に、もどかしいほどの片思いをしている。
妙に意識してしまったら最後。
掴んだ指先から、まるで全身が心臓になったみたいに、柄にも無くドキドキしてしまう。





????


・・・・/////。




振り返った香が、不思議そうにキョトンとして僚を見詰める。
腕を掴む僚の掌は、妙に熱くて乾いている。







冴羽先生?どうしたの???


あぁぁ、とあれだ。その、はぐれたらいけないから・・・・






僚の頬は薄っすらと赤いけれど、夜の中の提灯の灯りの境内ではそれはさほど目立たない。
香はクスリと笑って、完全に僚を参らせる天然発言を繰り出した。





じゃあ、こうしてましょう?




熱い僚の掌から、まるで金魚のようにするりと抜け出た香は。
次の瞬間。
僚の掌に自分の掌を重ねた。
それはまるで水の中のように、僚の体温よりも少しだけヒヤリとした。
夏の夜の、神社の境内で、提灯の灯りの下で。
2人は初めて、手を繋いだ。
僚は確信した。
これは多分、初恋だ。
今までの遍歴は、多分数だけで言えば人並み以上だろう。
けれど、手を繋いだだけでこんな気持ちになった相手は、これまでいなかった。














地面から数㎝だけ浮かんだような、妙な高揚感を感じながら歩いている僚に。
またしても香が、新たな興味の対象を指し示す。




長方形の白いプールの中で泳ぐ、金魚たち。
沢山の緋色の中に、数匹混ざった黒い出目金。
それはいつ見ても、子供の頃に習った小さなスイミーの話しを香に思い起こさせる。









可愛い。


やる?


うん。


オジサン、2枚ね。










そう言って、僚が一回500円の2人分で、千円札を夜店の親父に渡す。
針金に薄い紙の貼られた、チャチな仕掛けを2枚とプラスチックのお椀を僚が受け取る。
香の結果は、秒殺だった。
一匹目の金魚が跳ねた瞬間に、薄い紙は真ん中から破けてしまった。
















冴羽先生、すごいですね~~~♪




そう言って香が釘付けになっている、僚のお椀の中には。
3匹の赤い金魚と、1匹の黒い金魚が居た。
何日か前に。
フトした会話の中で、香は美樹に聞いた事がある。



『冴羽先生って、結構凄い選手だったらしいわ。
  それがある時突然、競技からアッサリ引退したらしいのよ。』


香はその時は、ふ~~~んそうなんだぁ、と返しただけだったけど。
そんな言葉を急に思い出した。
香には、どんな大会でどんな結果を出せば凄いのかなんて、もう今では良く解らないけど。
人の言葉を鵜呑みにするのは、正直好きでは無い。
相手がどんな人なのかは、結局、自分が判断すべき事で。
香の見た事や、知っている事、感じた事だけで判断したい。



冴羽先生は、ラーメンが好きで。
テトリスが上手で。
ガリガリ君は、ソーダ味が好き。
育成クラスの少年たちには、怖いぐらい厳しいケド。
会員のおばさまたちには、超優しい。
そして。

金魚すくいが上手。












お兄さん、上手いねぇ。別嬪の彼女さんに免じて、おまけ。





そう言って、もう一匹お椀に入れてくれそうだったけれど。
それを香が断った。
すくいながら、カオリンにあげるね、と僚が言ったので。
香は決めていた。






この子だけで、イイの。





それは、黒くて大きな出目金だった。
まるでスイミーみたいで。
優雅に泳ぐ姿は、まるで僚みたいだと思ったのだ。














水槽、持ってる?






空気と水の入った、水草のプリントされたビニール袋を目の前にかざして、
嬉しそうに目を細める香の横顔に、僚が訊ねる。
香は、小さな魚から視線を僚に移すと、コクリと頷く。










小学生の時にも、金魚すくいの金魚をお家に連れて帰ってね、


うん。


1年ぐらい飼ってた事があるから。多分、物置の中にあの時の水槽があると思います。








あまり、プライベートな事を根堀葉堀訊くのに、躊躇いがちな僚だが。
前々から、薄々は感じていた事だが。
恐らく香は、99・9%、
実家住まいであろうという事が、この夜判明した。



(つづく)


⑩ あぶくの世界で(最終話)

縁日の夜から、数日後。



香はあれから、家に帰って物置から取り出した水槽に金魚を放した。
空気を入れかえるポンプは、壊れて動かなくなっていたので、
仕事のお休みの日に、ホームセンターに買いに行った。
あの黒い出目金には、スイミーという名前が付いた。

『これ、スイミーに。』

と言って、僚は水草をくれた。
スイミーはその水草の周りを、自分の家と決めたようで。
眠るときはいつも、水草の中に身を潜めている。
縁日の次の日、僚は香からお金を受け取らなかった。
僚曰く、“忘れた”そうだけど。
それなのに、何故だかスイミーの事は覚えているから、香は可笑しくて笑ってしまった。




冴羽先生は、優しい。




それは別に、香にだけ特別では無い。(と、香は思っている。)
教え子の少年たちにも。
美樹さんにも。
会員のおばさま方にも。
みんなに優しい。
それが香は。
ちょっとだけ・・・




僚がお金を受け取らなかったから、代わりに香は僚にお弁当を作って来た。
いつも香が作っている量では、到底、僚の腹を満たす事など出来ないので。
(僚はバカみたいに、よく食べる。)
いつもより大量に作った。
香が朝から台所で奮闘していたら、早起きして来た兄に訝しがられたけれど、
香は、何とか上手く誤魔化した。
カモフラージュで兄にも同じモノを作ったら、珍しいなと更に訝しがられた。
なので、香的には上手く誤魔化したつもりではいるけれど、
兄的には、上手く誤魔化されたのかは定かでは無い。
何はともあれ、僚は香の手作り弁当を大層喜んで食べてくれた。











夜店で遊んだ位の金額で、あのお弁当が食べらるならお得だったでしょ?冴羽先生。







美樹が楽しそうに笑みの混じった声音で、
嵌め殺し窓からプールを見詰める僚の背中に声を掛けた。
香はプールの中で、子供たちと一緒になって笑っている。
数時間前の昼休み。
僚は香が作って来た弁当を、控室の自分のデスクで堪能した。
途中、香が温かいお茶を淹れてくれた。


ハンバーグ
玉子焼き(ほんのり塩味)
ゆかりご飯
インゲンの胡麻和え
きんぴらごぼう
その他、色とりどりの惣菜・・・


僚は独り暮らしだから、久し振りにシンプルで贅沢な家庭料理の味を噛み締めた。
確かに、それは。
僚にとっては、想定外のご褒美だった。










んぁ??あぁね。あんなモン喰っちまったら、これから一生俺が昼飯の面倒みてやんねぇとなぁ♪


ヘ~~~、前と違って、否定はしないんだぁ(笑)


前っていつの事ぉ???美樹ちゃん??生憎、リョウちゃんってば忘れっぽいのぉ。







そう言って茶化した男はしかし、
憧れのマドンナとの距離を少しは縮めつつある余裕からか。
憎たらしいほど艶っぽい表情で、微笑んだ。
この男のこういう顔を、果たして槇村香がどの程度知っているのだろうと、
美樹は考えて、思わず苦笑する。
それでも確かにこの目の前の色男と彼女は、充分お似合いで。
それは俗に言う所の、美男美女であろう。
そして恐らく。
近い将来、彼は彼女をモノにするだろう。

(そしたら、私達と一緒に4人でダブルデート出来るわね♪)

なんだかんだで美樹は密かに、可愛い後輩とノリのイイ先輩が結ばれる事を応援している。


























おつかれ~~~





香はその声の主に振り返ると、ニッコリ笑った。
ジャグジーの方の手入れをしていた僚が、点検を終えて後ろに立っていた。
照明は幾つか落とされ、会員の帰った後の営業時間後のプールの水面は滑らかに揺れている。
香は1人で、コースロープを片側に寄せている所だった。
2人とも、水着は来ているけれどキャップは脱いでいる。
美樹は、この日は日報を付ける担当で控室にいる。
営業時間中は、ジムの館内に流れていたノリのイイ音楽は落とされ。
どの部門でもそれぞれ、帰り支度が行われている。






カオリンはさ、元々なんで水泳始めたの?





僚は昼間の、幼児クラスの香を思い出しながら訊ねた。
自分の持ち場を終わらせて、さり気なく香を手伝ってくれる僚に香は笑いながら答える。






小さい頃、お兄ちゃんがスイミングスクールに通ってるのに付いて行ってて。









『お兄ちゃん』

冴羽僚はこの時、最も重要な事柄を思い出した。
槇村秀幸は僚にとっては最大のライバルであり、どうやっても追い越せない大きな壁だった。
同い年で競泳をやっていて、彼と同じ時代に生まれた事をいつも悔しく思っていた。
同じ歳で、同じ種目。
あれは、もう何年前だったか。
数大会前のオリンピック選考前の、代表候補選手合同の強化合宿。
そこに、僚と秀幸は一緒に参加していた。
言葉通り、寝食を共にし同じ釜の飯を喰った仲間だった。
ライバルであり、悔しい思いも沢山あったけれど。
秀幸は、人間的にも僚より1枚も2枚も上手で、早い話しが僚は。

憧れていたのだ、彼に。

同じ仲間内でも、秀幸はもしもオリンピックに進めばメダルは確実だろうと言われていた。
水泳連盟のお偉方も、きっと多大な期待を彼に寄せていた。
けれど。
その翌年の大会に、その種目の代表に選ばれたのは。
秀幸でも僚でもない、まだまだこれからの活躍が期待される10代の選手だった。



突然だった。
自主トレのロードワーク中に、秀幸を交通事故が襲った。
幸い命に別状は無く、それでも2ヶ月の入院生活を余儀なくされ。
そして、彼の競技人生はそこで終了した。
秀幸は周りの困惑にも動じる事無くアッサリと水泳選手としての道を離れ、
今は都立の高校の、体育教師をしている。
水泳部の顧問も任されているらしい。


そして、僚は。
秀幸が引退を決めた直後に、自分も競技を退いた。
大きな目標を失って尚、競技を続けるにはもう、僚の情熱は冷めていた。
それからは気楽に、泳ぐことを楽しんでいる。
僚は競技の世界を離れて、改めて無心に泳ぐ喜びを知った。
初めは誰でもみんな、幼児クラスのあの子たちのように泳ぐことがただ楽しいだけだった。
それを、思い出した時に。
僚は秀幸の選択を、改めて理解し共感できた。
そして最後まで、彼には敵わないと思っていた。
秀幸とは、それっきり会う機会も無く、お互いに違う人生を歩んでここまで来た。








・・・それが、すっかりはまっちゃって。いつの間にか、学生時代は水泳一色。





もう色気も何も無い、超体育会系なんです。と言って、香は笑った。
どうして気が付かなかったんだろう、と僚は思う。
槇村と聞いて。
彼女がヤツの妹だという事に。

そして同時に、いや、気付かんだろうと、自分自身に言い訳をしてみる。
槇村秀幸は、人間の出来た男で、才能に恵まれた天才だったけど。
如何せん、そのルックスは。
お世辞にもイケメンとは言い難い。
普段は分厚いレンズのダサ眼鏡で、ボンヤリしたタイプだった。
だから。
まさかこの目の前の、超絶別嬪娘と兄妹だなんて。
そんな遺伝子の悪戯とも言うべき似て無さ加減に、驚愕した。





ねぇ、カオリン。


ん?


1つ、訊いて良い?


何ですか?


カオリンの“お兄ちゃん”て、もしかして。


はい。


槇村秀幸じゃないよね???


えぇぇぇ~~~!!冴羽先生、ご存知なんですか??お兄ちゃんの事!!


・・・・ん?あぁ、ちょっとね(苦笑)








ちょっとどころでは無かったけれど、僚はそう答えておいた。
何から何までかなわないライバルは、惚れた女の兄だった。
これから先。
もしも。
もしも万が一、香と色々とあって、お互いの家族を含めた付合いへとコマを進めたら。
最強のライバルはきっと、最強の小姑になって立ちはだかるに違いなく。



そんな僚の心の中の大嵐に気が付くはずも無く、香は楽し気に兄の話しをしている。
無意識に、僚の口角は不敵に持ち上がる。
腹の底からむくむくと、闘争心が沸き起こる。
久し振りの感覚。
僚を本気にさせる、唯一の相手。
そして、何が何でも手に入れたい、本気の恋の相手。






カオリン。




ん?と言って、僚の顔を見上げた香の腕を。
グッと引き寄せる。
この天然全開の可愛いヤツを、僚は絶対にモノにしてみせる。
多分、僚の人生に於いて。
何より大切で、誰にも譲れない。

槇村香。




あぶく1






香にとっては、ファーストキスだった。
好きな人など、今まで居た事が無かった。
一番好きなのは、水泳で。
大切なのは、家族だった。
けれど、生れて初めて。



いつも優しくしてくれるお礼に、自分から何かをしたいと思った相手。
みんなに優しい彼に、自分だけに優しいんだったら良いのにと、無意識に嫉妬する相手。
それは。
テトリスが上手で。
ガリガリ君が好きで、うまい棒が好きで。
金魚すくいが上手な、





息継ぎの仕方が解らない。
水の中じゃないのに、溺れそう。






僚が、あ。と思った瞬間。
真っ赤になってのぼせた香が、プールサイドでグラリとよろめいた。
僚の手が香を掴んだまま、2人して派手な水音を立ててプールに落下した。
彼女はまるで。
美しい魚のように。
僚の手をするりとすり抜けて。
銀色のあぶくを立てながら、僚の前を泳ぐ。
僚は彼女の作ったあぶくの世界で、彼女を捕える為に追いかける。




漸く捕まえたプールの真ん中で。
2人は、2度目のキスをした。
恋愛レベルは、超初心者クラスの彼女には。
まずは、息継ぎの仕方を教えなければと。
僚はこれからのレッスンプログラムを、脳内で組み立てる。






























あぶく2










あぁ~~~、冴羽先生、槇村先生。
もうそろそろ、お時間宜しいでしょうかぁ?
施錠できなくて、皆さんお待ちです♪




長いキスを何度も繰り返した頃。
静まり返ったプールの中に、館内放送が響き渡る。
声の主は、美樹である。
2人は真っ赤な顔で、クスクス笑う。

また明日から、新しい1日が始まる楽しい予感に胸を躍らせて。




(おわり)







気が向いたら、番外を書こうと目論んでおりまする(にひひ)

番外編 ミック・エンジェルの敗北と復活

大体、冴羽僚という男は抜け目が無いと言おうか。忌々しいと言おうか。
どうしていつもアイツは。

一番イイ女を、モノにするんだ???いつも。

ミック・エンジェルは、独り3階のランニングマシーンの傍に佇み、
ガラス越しに眼下に広がる、25mプールを見下ろした。







数日前、営業終了後のあのプールで。
僚は香を捕まえて、長々と口付を交わしていた。
そもそもいつの間に、彼女を口説き落としたのか。
あれから2人は付き合っているらしく、
終業後の2人は、特に交際を隠し立てするつもりも無いらしく。
毎日、仲睦まじく手を繋いで帰っている。



一度は、ミックが出し抜いた場面もあったのだ。
僚にバレないように、香を食事に誘い、プリクラを撮ったり。映画に誘ったり。
ミックが予想するに。
半月ほど前の、休館日辺りからが何やら怪しいと思う。
あの時、僚はシフトを弄って無理やり香と休日出勤している筈だ。
あの直後、昼休みのラーメン屋で、ミックはその事に関して僚を問い質したけれど。
僚は何やら曖昧に誤魔化して、結局ミックの問いには答えなかった。
けれど確実に、あれ以降。
2人は何だか、他を寄せ付けないオーラを放っていた。



確かにミックは、オンナ癖が良いとは言えないけれど。
それでもこれまでに、真剣な恋愛をしてこなかったワケでは無い。
数多の恋愛遍歴の中には、それなりに心血を注いだ経験もちゃんとあったりする。
けれど、少しばかり派手目なオイタが好きなので、
誰にも理解を得られないだけで、ミックとしてはいつだって真剣勝負のつもりだ。
そして。
この今回の、槇村香に限って言えば。
この数年、類を見ない程の真剣勝負だった。



多分、彼女を落とせていたら。
これから先、一途に彼女だけを慕っていたんじゃないかと思うほどに。
それは、ミックの最後の恋の予感だったのに。
いつの間にか女神は、憎たらしい悪友を選んだ。
夕方の少し手前のプールの中で、彼女が小さな子供たち相手に楽し気に戯れている。
今現在、レッスンはその幼児クラスだけで。
そんな彼女の姿を見詰める影が、インストラクター控室の嵌め殺しの窓の奥に見え隠れする。
ミック・エンジェルは知らず、小さく溜息を零す。










「ミックせんせぇっっ」




背後から声を掛けられ、振り向いた先には。
会員№3042の、名取さんが立っていた。


彼女は50代の主婦で、以前は主にプールに通っていたらしいけれど。
ここ最近、マシントレーニングを始めた。
彼女は初対面でミックに、
エンジェル先生って呼べばいいのかしら?それとも、ミック先生?と訊いて来た。
それから何度か、他愛ない世間話をした後に。
名取さんは、自分の娘を紹介したいのよ。と、ミックに言った。
何でも、彼女の娘さんは27歳で。
名取さん曰く、男っ気も無く仕事一筋なのよ(苦笑)という事らしい。
この2ヶ月程、娘さんを連れて来ると言いながら、なかなか実現の運びとは至っていない。


もっとも。
そう思っているのは、母親だけでは無いのかとミックは思う。
仕事一筋というか、その仕事場に“イイ人”が居るという可能性は大きい。
だからミックは名取さんの話しを、適当に聞いて受け流していたのだ。
今、この時までは。







ハイ、こんにちわ。名取さん♪ 今日は、膝の方は如何です?




それまで、プールの方を見詰めていた野性味溢れた表情を綺麗に隠し、
如何にも、爽やかイケメンインストラクター風の涼やかな笑みを浮かべて、
中高年に良くある諸症状への気配りを見せる。
マシントレーニングを始めた当初、
膝の弱さを気にしていた名取さんに、ミックはなるべく膝への負担の少ないメニューを提案した。






それがねここ最近、随分イイのよぉ♪ミック先生のお陰だわぁ~~~


人間の身体って不思議なモノで、使わないと衰えていくんですよ。
怖がらずに鍛えてあげれば、まだまだ元気になるんですよ。






そう言って、ニッコリと微笑むミック先生は確かに。
冴羽先生の言っていた通り、なかなかいい男だと名取さんは思っている。
是非とも、娘に紹介したいと言い続けて約2ヶ月。
今日漸く、仕事が休みの娘のかずえを連れて来たのだった。






ホントねぇ、これで体重が落ちれば文句無しなんだけどねぇ~~~


アハハ、そればっかりは気長に頑張るしかありません。


そうよねぇ。




ママは、食べ過ぎなのよ。






そう言って、2人の前に現れたのは。
名取かずえ(27)だった。
艶やかな黒髪を1つに束ね、真っ白な肌に大きな黒目がちな瞳が印象的な、
クールビューティー。
ミックは思わず、ガン見した。


(・・・超マブイ。)







もうっっ、かずえちゃんってば意地悪ねぇ。あ、ミック先生?この子が娘のかずえです。









ミックの耳に、会員№3042名取さんの声が、遠く聞こえる。
ミックの意識は全力で、名取(娘)へと注がれている。
ミックの今現在の、最重要課題は。


名取かずえ(27)に、本当の所、彼氏がいるのかいないのかという事実の確認である。
ミック・エンジェルは、予感する。
これはもしや。
最後の恋の訪れかもしれないと。





ミック・エンジェルは、そのアグレッシブさが災いして、玉砕する事も多々あれど。
彼の良さは、
何事にも前向きで、過去を引きずらない所である。
しかし、今のところ。
名取(母)という刺客を送り込んだのが、件の悪友だったという事にはまだ気が付いていない。
こうして、モッコリ男達の今回の攻防は一応の決着をみたのである。




番外編 槇村秀幸の嗅覚

その日冴羽僚は、有り得ない光景を目の当たりにした。













何の変哲も無い午後。
恋人の槇村香は、幼児クラスのレッスンの為に30分程前からプールに居た。
僚はその間、自分の受け持ちの育成クラスの選手たちの、
次の大会への申し込み書類を作成していた。
どの選手が何の種目にエントリーするのか、というようなモノだ。


8割方、事務仕事にも目処が付いた所で時計を確認すると、
あと10分後には、自分の受け持ちの上級者クラスのレッスンの時間になっていた。
一旦、書類の挟まったファイルを閉じ、僚は大きく1つ伸びをして、
デスクの背面、スチールの棚にブラ提げた丸い物干しピンチから、
競泳用水着と、キャップをむしり取って更衣室へと向かった。





夜の閉館後のプールの中で、キスをしてから2ヶ月。


2人は順調に愛を育んでいる。
香と初めてエッチをしたのは、つい10日ほど前の休館日の昼間。
僚の部屋だった。
香と初めて出逢った時から、僚は香にゾッコンだった事には今更、疑念の余地も無いが。
関係を深める度に、僚はますます香に嵌っている。



付き合い始めてから、僚は改めて香の私生活の事を何気なく訊き出した。
もっとも香の方としては、僚が気にするほど何も気にしておらず、
訊かれるまま、素直に家族や友人の話しを楽しそうに話した。
僚の思っていた通り、香は実家住まいで、家族は両親と兄の4人家族だ。
そしてペットは、僚が夜店の金魚すくいでゲットした黒い出目金のスイミーだ。



香は自分自身でも言っていた通り、初めて付き合ったのが僚だった。
勿論、初めてのエッチの相手も僚である。
実家住まいの年頃の一人娘を、流石に外泊させる訳にもいかないので。
2人一緒の休みの僚の部屋で、それとなくそういう雰囲気に持ち込んで美味しく平らげた。
香曰く、2人の付合いはまだ、家族には話してはいないらしい。









だから、僚が水着に着替えてプールサイドに出て来た時に。
僚は我が目を疑ったのだ。









香が赤い上げ底の敷かれた端っこの2レーンで、
幼児クラスの子供たちに教えているその反対側。
まだ上級者クラスの会員さんも来ていない閑散とした、平日午後のコースで。
超本格的なバタフライで華麗に泳ぐのは。
見まごうこと無き、かつてのライバルであった。




確か。
ヤツは。
都立高校の、体育教師では無かったか。





(・・・平日の真昼間に、なんでココに???)




更衣室から出て来た僚に、香が小さく手を振る。
その香を見て、数人の幼児たちも香の真似で小さく僚に手を振る。
思わず頬が緩むのを誤魔化しつつ、僚は香にだけ解るように小さくウィンクする。
もっとも、この1~2ヶ月。
2人が付き合っている事は、もはやバレバレで。
周知の事実である。





しかし、今の僚にとって、そんな事はどうでもイイのだ。
肝心なのは。
奥のレーンの、元日本代表候補である。














槇村秀幸が、ゆっくりと水面から顔を上げると。
頭上に懐かしい知り合いが、険しい表情で仁王立ちしていた。


僚とは昔から、性格も育ちも考え方もまるで違ったけれど、妙に気の合う所があった。
そして何より。
唯一、本気で競い合ったライバル。











よぉ、僚。久し振り。





秀幸が悠然とゴーグルを外しながら、のんびりと言った。
僚は知らず、苦虫を嚙潰したような表情になる。
秀幸はいつだって飄々としていて、その実、腹の底には計り知れない力を秘めている。








・・・てか、槇ちゃん。平日は仕事じゃないの?何やってんの???こんなトコで。


あぁ、今日は学校の方は、創立記念日でな。


・・・・いつの間に、ココの会員に?


ん?今日は、ビジターだ。
何だか、ウチの妹が世話になってるらしいからな。








その時、少し離れた所で、どうやら幼児クラスの授業が終わったらしい。
ザワザワと騒ぎ始めたチビッコの気配に混ざって、良く通る声が2人の耳に届く。



お兄ちゃんっっ



そう言ってにこやかに微笑む香は、親指でちびっ子たちの群れを指し示すと苦笑した。
今から、レッスンよりも大変なシャワーやお着替えの世話が待っているのだ。
秀幸はそんな妹に、手を振って答えた。
正直、そんな槇村秀幸の顔を見たのは、初めての事だった。
僚は内心、見てはいけない場面を垣間見てしまった気がした。
目の前の僚を一切気にも掛けず、子供たちの世話をする妹を相好を崩しながら見詰めている。








それで、随分世話になってるらしいなぁ?・・・さ・え・ば・先生?




視線は香を追ったままの秀幸の言葉に、
妙に棘があると感じるのは僚の気のせいではない筈だ。
僚は盛大に、深い溜息を吐いた。
この男は昔から温厚そうに見えて、瞳の奥に野生の魂を滾らせた猛獣だ。
もっとも、それを見抜いているのはごく限られた僅かな人間だけだ。
勿論。
僚には解る。
きっと、同族嫌悪というヤツだ。











・・・何しにきたのよ、槇ちゃん?


ん?まぁね、今日は軽い挨拶だよ、僚。
妹の彼氏とやらの顔を拝みにね。
















バレている。
シッカリ、ハッキリ、バレている。
香曰く、家族には多分まだ気付かれていないと思う、との事だけど。
この猛獣兄貴の嗅覚を、侮ってはいけない。



冴羽僚の恋の障害物走は、まだスタートを切ったばかりである。







番外編 手料理×邪心=妨害

ただいま~~~~


おかえりなさい、冴羽先生♪









そう言って自分の部屋のキッチンで出迎えてくれたのは、
後輩でもあり、恋人でもある槇村香だ。

この日、シフトの関係で僚よりも数時間早く仕事を終えた香は、
僚の家から最も近いスーパーで、何やら沢山食材を買い込み、
僚から預かった家の鍵を持って、先に一人で帰宅した。

昼休みに、僚にメニューのリクエストが無いか訊いて見たけれど。
“カオリンにお任せ”と言われたので、香は午後の間中ずっと何が良いのか献立を考えていた。
そんな考え事の時間が、とっても幸せだなんて。
香はまだまだ照れ臭くて、僚にはとてもじゃ無いけれど言えない。




























手料理

ねぇ、なんかさ・・・


ん??なぁに???


こういうのってさ・・・・新婚さんみたいじゃね?


///////。






香は普段は、明るくてハキハキしていて元気溌剌だけれど。
こうして付き合うようになってから、僚には解った事がある。
これまで、僚以外の男性との付き合いも無く、
男女交際に関する免疫が一切無い彼女は、僚の他愛の無い一言にさえ真っ赤になって恥らう。
それが可愛過ぎて、僚は時折、萌え死にかけている。










アスパラと牛肉のオイスターソース炒め。
揚げ出し豆腐。
ポテトサラダ。
切り干し大根と油揚げの煮付け。
ほうれんそうのお浸し。
茄子と茗荷の味噌汁。
玄米ご飯。






お米は、キッチンに有るからと僚が言っていた。
冴羽家のキッチンに有ったお米は玄米だった。
この玄米が無農薬有機栽培のこだわりのお米だとは、香は知らない。
僚はああ見えて、意外に健康志向だという事は、誰も知らない。



それにしても、この手料理の数々。
非の打ち所がない。
それに、さっきまでの香のエプロン姿に、
僚が心の中で悶え狂っていた事になど、香はきっと一生気付かないだろう。
僚の脳内では無意識に、如何わしい妄想が暴走する。

















リョウちゃん妄想②
さえばせんせいっっ❤                す❤き❤
リョウちゃん妄想①



(むふふ、今日はこの後・・・いちゃいちゃしちゃうもんね~~~)


僚の邪な妄想など知る由も無い目の前の香は、
ご飯を食べながら楽し気にその日の幼児クラスでの、
可愛らしいエピソードを語っている。





RRRRR  RRRRR  RRRRR



それは、食事もそろそろ終盤を迎えようとしている所だった。
ダイニングテーブルの傍らに置かれた、香のトートバッグの中の携帯電話が着信を知らせる。









あ、電話だ!?   ちょっと、ごめんなさい。






香がそう言って、携帯の液晶画面を確認する。
画面に記された発信者は、『お兄ちゃん』






ん???・・・お兄ちゃん???・・・何だろう?





通話ボタンを押す直前の、香の小さな呟きを、僚は確かに聞いた。
この甘いイチャコラタイムに、まるで嫌がらせのように電話を掛けて来たのは。
どうやら、槇村秀幸。
香の兄である。
僚は思わず、薄っすらと眉根を寄せる。
やはりあの男の嗅覚は、並みじゃないと。







・・・・うん、大丈夫だよ。え?
・・ぅ、うん。お、お友達の所。
いや、大丈夫だから。お迎えは。
うん、ちゃんと1人で帰れるから。
ご飯?ご飯は、食べて帰るから要らないよ。
・・・・さっ冴羽先生ぇっっ?!?!?!
いや、いいいいいいないよっっ!!!なんで?
うん・・・・うん。もう解ったから、うん。
うん、そんなに遅くならないから・・・









僚はもそもそと咀嚼しながら、香の電話の声に耳を欹てる。
どうやら秀幸は、かなりの確率で香の手料理デートの相手を予測しているらしい。
香の受答えだけで、何となく秀幸の発言が読み取れる。
何処まで、妹LOVEな男なんだと、僚は内心呆れ果てている。






・・・・あ、あのぉ。冴羽先生?





気が付くと、香が早々に秀幸の通話を終えていたらしい。
少しだけ伏し目がちに、僚に報告する。







な、なんだって?槇ちゃん(苦笑)


あの、それが・・・初めは迎えに来るって言ってて・・・


・・・まじっ!?


あ、いや。だから、それは何とか阻止したんだけど・・・







何か、良く解らないんですけど。
ちょっと普通じゃない感じなんで
・・・ご飯食べたら、今日は帰りますね。















済まなそうにそう言った香に、僚はガックリと項垂れる。
色々と過剰な妄想と期待を膨らませた直後故、そのダメージは計り知れないモノだった。
冴羽僚の恋の行く手は、まだまだ険しい。









(文:ケシ  絵:nase様)

※ 尚、文中の御絵につきましては、nase様のとある作品をリメイクしたモノです(爆)

年越し番外 除夜の鐘と露天風呂

このお話しは、パラレル長編・あぶくの番外短編です。
設定はそちらの世界観に準拠しております故、
まだお読みで無い方はそちらを一読される事をお勧めします(*´∀`*)ノ
てか、是非読んでね♪
















槇村秀幸は、俄然納得がいかなかった。



去年までなら、妹の香はこんな年の瀬には家に居て。
母親の隣で甲斐甲斐しく、お節料理の準備を手伝ったりしていた筈なのに。
今年の夏の終わりに、妹には初めての彼氏が出来た。
その相手は、香の新しい勤め先の先輩であり、秀幸のよく知る男・冴羽僚である。
自分以外の槇村家の面々(この場合、妹は当事者なので両親だ)は、何処か呑気で。
秀幸はもう少し妹離れした方が良い、なんて言うのだ。


秋の終わり頃、香は僚を槇村家に招いた。


両親は、香に紹介されるまでもなく、僚の事は良く知っていた。
将来を嘱望された優秀なスイマーの1人として。
そもそも、幼い秀幸をスイミングスクールに通わせ、
水泳選手として歩む事をサポートして来たのは両親だ。
恥ずかしい話しだが、きっと息子がオリンピック選手になる事を夢見ていたのだろう。
自分達の夢を子供に過剰に託すことを、両親は少しも悪びれてはいない。
それでも、短い選手としての寿命はとうに過ぎ、
息子も娘の彼氏も、もう現役世代では無い事ぐらいは彼らも知っている。
香がお付き合いしている人がいるの、と言って僚を紹介した時。
両親は早くも、孫の誕生に期待を寄せる事にしたらしい。
夢は諦めていないという事だ。



僚の身内は、父親1人だけで。
実を言えば、香の勤め先であるあのジムは僚の父親が経営している。
もっとも、経営しているのはそれだけでも無いのだけれど。
槇村家同様、息子に過剰な期待を寄せているのは同じ事だ。
いつまでも身を固めない息子に、早いとこ嫁が来るのを心待ちにしているらしい。
そんな状況下で。
僚と香の交際に異を唱えているのは、秀幸ただ1人というワケだ。
実際に、僚の父親とも2人は度々会食をしており、
香はもう既に僚の父親からは、非常に気に入られている。
本当に、2人が結婚するのも時間の問題かもしれないと、秀幸は1人で焦っている。



妹とその彼氏は、年越しを温泉地で過ごすらしい。
なんでも僚が、随分前から予約していた人気の宿は。
各室全離れの宿で、カップルや夫婦に人気の宿らしい。
露天風呂はそれぞれの部屋に完備で、一旦部屋に入ると一日中そこで寛げるというのが売りらしい。
そんな所で、
一体何をっっ、と想像するだけで秀幸は怒りに悶絶しかけている。
あんなに可愛かった妹は。
自分の後を付いてくる幼くて、小さかった妹は。
今や兄貴よりも、あのスケベな冴羽僚が大事らしい。

それに、何より。
純粋な兄妹愛を訴えている秀幸に、両親始め、周りの連中は。
妹離れ出来ていない秀幸がおかしいとでも言いたげだ。
兎にも角にも、槇村秀幸は何もかも納得いかない。
いかないけれど留守の間、香から世話を託された黒い出目金だけが秀幸の心の拠り所だ。










一方、そんな秀幸の心情など露ほども気に掛けちゃいないバカップルは。
温泉と海の幸山の幸満載の料理と、のんびりとした休日を満喫していた。






・・っはぁ、・・ぁん・・・さ、えばせんせぇ・・




満点の星空の下、熱い源泉かけ流しの贅沢な露天風呂では。
この日、何度目か解らない情事が繰り広げられていた。
恋人同士になっても、香は僚の事を未だ“冴羽先生”と呼ぶ。
確かに、職場では。
香は“かおり先生”で、僚は“冴羽先生”だけれど。
もしかしたら、エッチの経験値から言っても、僚は香にとって先生なのかもしれない。
初めて僚によって教えられた香の性感は、この所、日を増す毎に成長を遂げている。
香は中々筋の良い教え子だと、僚は思っている。


ごつごつした岩に背を預けて座った僚を跨ぐようにして、香が向かい合う。
その姿勢で2人は深く繋がっている。
香が好きな体位の1つだ。
2人は離れているのももどかしいと言わんばかりに、口付け合う。
その合間に漏れる香の嬌声が、僚の快感を増幅させる。


僚は昼間、香にプロポーズをして。
香はそれを承諾した。


思えば、2人が初めて出逢ってからまだ半年ほどしか経っていない。
けれど、何度振り返っても。
これはもうそうなる運命だったとしか、僚には思えない。
新年を迎えるその前に、新たなる2人の関係性を構築する為の約束がどうしても欲しかった。
僚がそんな風に思えたのは、これまで生きて来て香が初めてだった。

この人と一緒に生きて行きたい。
それが全てだ。















あ、除夜の鐘。





ついさっき、2人は果てて。
繋がった体勢のまま、お湯に浸かっている。
僚は香の肩が冷えないように、お湯を手で掬っては掛けてやる。
どうやらこの近くに、お寺があるらしい。
意外と近くに、その鐘の音を感じる。
泉質は弱アルカリで、無色透明でサラッとしていながら若干の粘りがある。
ただでさえ、スベスベで柔らかな香の肌は。
今では有り得ない程に柔らかさを増し、僚との境界線は曖昧だ。
それでも繋がった部分の明らかなる異質な存在感が、2人が別の生命体である事を突き付ける。
僚はこのまま、融けてひとつに成れたらという、夢のような妄想を脳内で膨らます。





早起きして、初詣に行ってみようか?






僚がそう言って、香の額にキスをすると。
繋がったままの香が、繋がったままの僚をキュッと締め付けた。
2人はそのまま、またしても口付を再開する。
果たして、寝心地の良い宿の布団で。
翌朝、早起きできるかどうかは疑問である。
それでもきっと、午後遅くになっても2人は宿の周りを散策し、初詣にも行くのだろう。

僚は早々と家内安全と子孫繁栄を祈願し、香は兄の為に交通安全のお守りを今年も買う。

それ以前に、激しく寝坊した朝に。
元旦のお宿特製お節料理を給仕に来た仲居さんに、
仲がお宜しいですねと微笑まれるのもお約束である。
滞在の予定は、あとまだ数日残っている。
僚は腕の中の大切な人を抱き直し、いま一度彼女を悦ばせる事に集中する事にした。
煩悩を追い出す除夜の鐘など、僚には関係無い。
これはきっと煩悩などでは無く、純粋なる愛情確認の行為に他ならないのだ。
香のか細い喘ぎ声が離れに響き渡り、除夜の鐘の音を掻き消した。