※基本スペック※必読※

まず始めに、このお話はパラレル仕様となっております。
下記設定をよく読んで、内容をご理解戴けた方のみ、
「第1話  出会い」 へ、お進み下さいませ。
                          m(_ _)m





◎ 冴羽僚 → 課長、33歳。アメリカ育ち。高校、大学時代から、日本で過ご
          す。2歳の時に、両親と共に飛行機事故に遭い、両親は他界。
          その事故の唯一の生存者。
          その後、母方の伯父である、海原神の手によって育てられる。
          海原が、アメリカで事業を展開している為、僚も2歳から、
          アメリカで育つ。両親の記憶は殆ど無いので、僚にとって、
          親とは、海原の事である。自分が養子である事は、子供の頃か
          ら海原に聞かされている為、承知している。

◎ 槇村香 → OL、25歳。訳あって、前の会社を辞職し転職した先で、僚の
          課に配属される。
          基本的に明るく天真爛漫なのだが、他人には解らない大きな
          心の傷を抱えている。
          父、兄共に刑事だったが、父を10歳の時、兄を20歳の時に
          共に殉職で失っている。母は、香が物心ついた頃には、既に
          亡くなっていたので、天涯孤独の身の上である。
          
◎ ミック・エンジェル
        → 同僚、32歳。スコットランド系アメリカ人。
          僚とは、幼馴染み。独身。

◎ 伊集院隼人 
        → 同僚、36歳。生粋の日本人。
          課内唯一の妻帯者。謎多き人物。
          嫁は、会社の近くでカフェを経営している。
          愛称は、ファルコンもしくは、海ちゃん。


※ 基本的に、男3人は会社から徒歩圏内の、新宿に住んでいる。
  香は、距離にして3駅ぐらい離れた所に住んでいる。詳細は未設定。





オフィスラブです。
興味の無い方は、Uターンでお願い致します。
一応、ハッピーエンドの予定でっす!!!



       
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第1話 出会い

『・・・・お兄ちゃんっっ!!
     お兄ちゃん、起きて!! 目を開けてよっっ
     嘘でしょ!?・・・お兄ちゃん・・・


     人気の無い霊安室に、香の泣き声が響く。
     窓の無い地下の薄暗い場所なのに、
     何故だか雨の気配はわかるモノで、
     シトシトと降り続ける雨と、その部屋に染み付いた線香の匂いが、
     たった1人の兄が、
     この世を去ってしまったという現実を、
     20歳の槇村香に、突き付ける。
     それは、彼女にとってこの世で最も恐ろしい悪夢だった・・・』



槇村香は、自分の泣き声で目覚めた。頬には、涙の跡。
まただ、と香は思う。窓の外に目を遣れば、
まだ明けきらない暗い空から、シトシトと中途半端な雨が降っている。
コメカミの辺りに、ズキンと痛みが走る。雨の日には、決まって偏頭痛になる。
あれからもう5年になるというのに、あの日の事だけは妙に鮮明に憶えている。
日常の些細な事などは、ホンの数日前の事ですら、
サッサと上書き更新していくクセに、憶えていたくない事ほど、
簡単には、消えてはくれない。

細く、長く、いつまでも降り続く雨。
警察署の地下の、ヒンヤリとした薄暗い廊下。
物悲しい線香の匂い。
野上さんといったか、兄の同僚のあの美人の刑事さん。
泣きじゃくる香を、ゆっくりと抱き締めて、慰めてくれた。
そして、目を瞑ったままの兄。
眼鏡は、外されていた。
青白い頬を別にすれば、今にも起き出してきそうな死に顔。

香は兄を愛していた。
初恋だったのかもしれない。
たった2人の兄妹で、父亡き後、父親代わりでもあった。
血は繋がっては、いない。香は養女だ。
でも、誰より大事なたった1人の家族だった。
香は兄を、ずっと男として見ていたように思う。
香にとって彼は、兄であって、兄では無かった。
だからその時、香は死ぬつもりだった。兄のいない世界では、
生きていても意味が無いと、本気でそう思っていた。
四十九日の法要が済んだあと、あの野上刑事から、1通の手紙を手渡された。
もし、万一の事が自分の身に起こったら、
これを妹に渡して欲しいと、頼まれていたと。
もしかすると兄には、その予感があったのかもしれない。
それ程までに、危険な事件に関わっていたなんて、香は全く知らなかった。
刑事の顔をした兄を、香は一切知らない。
その手紙には、香をたった1人この世に残してしまう事への謝罪の言葉と、
明るく、強く生きて欲しいという、強い願いが切々と綴られていた。
そして、いつまでも永遠に香を愛していると。
いつも、傍で香を見守っていると、書いてあった。

だから、香はこうして今も生きている。
正直まだ、生きる理由は見当たらない。死にたい理由は、山ほどある。
でも香には、自分自身を殺す事が出来ない。
兄は香を愛していると、手紙に書いていた。いつまでもずっと、死んだ後も。
たとえ今が理由の無い毎日で、一刻も早く兄の元へ飛んで行きたくても、
兄が愛したモノを、それが香自身であろうと、何であろうと、
香には、殺す事も壊す事も出来ない。
いっそ眠りに就いたまま、二度と目覚めなければ良いと、
香は毎朝思っている。

香は小さく溜息を吐いて、パジャマの袖で、ゴシゴシと濡れた頬を拭う。
目覚ましをセットした時間より、随分早く目覚めてしまった。
今日は新しいスタートの日なのに、雨だなんてツイてない。
それでも、二度寝するなんて、今日はもう出来そうも無い。
香はノロノロと起き上がると、風呂場へ向かった。
バスタブの縁に腰掛けて、蛇口から勢い良く湯を出した。
バスタブに、少しずつ湯が溜まってゆく。
気分を変える為に、気に入りのバスソルトを投入する。
クナイプの、オレンジリンデンバウムだ。

香がゆっくりと湯に浸かり、サッパリと憂鬱な気持ちを洗い流して
風呂から上がると、窓の外はすっかり明るくなっていた。
先程の雨も上がっていて、ベランダに出た香が外を観察してみると、
電線に溜まった雨の雫が、朝日を反射してキラキラ輝いていた。
思わず香は微笑むと、
「悪くないじゃん」
と呟いた。
    



その日から、香が新しく通う勤め先は、新宿にあった。
随分古めかしい、4階建てのビル。
少し変わった出版社である。
広く大衆向けの雑誌を発行する訳でも無い。
売れ筋の人気作家の本を手掛ける訳でも無い。
初めから焦点は、ベストセラーというゴールには向けられていない。
様々な分野に於いて、マニアックな専門書というモノがある。
別にバカ売れする必要も無く、しかし必ず一定数の割合で、
世の中に需要のある読み物。
ネット社会がどんなに進行しても、それだけでは得られない情報や知識。
そういったモノが、世の中にはどうしても必要な場合もある。
そして、そういう書物ばかりを扱う出版社もまた、世の中には存在するのだ。
この会社の一般職で、香は本日付で採用された。
初日の今日は、まず始めにAM9:30に、
3階の総務課の、田中係長を訪ねるように指示されている。
本来、始業は9:00かららしいが、香は9:15にそのビルの前に到着した。

「ヨシッ!!」
香は小さく拳を握り締め、自分自身に喝を入れると、
年季の入ったエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まる直前に、
「ちょぉぉっっっとっ、まったぁぁあ!!!」 
と言う声が轟いて、香は慌てて『開く』ボタンを強打した。
声の主は、ヘラヘラと笑いながら、
「いやぁ~~~、ゴメンねぇ。ヤバイヤバイ。遅刻ギリギリでさぁ~~。」
と言って乗り込んできた。
遅刻という事は、この会社の人間なのだろうと香は思った。
しかし、始業は9:00からである。
ギリギリではなく、完全に遅刻である。
「ごめんね?4階押してくれる?」
そう言った男は、かなり長身である。
きちんとすれば、まぁソコソコイケメンであろうが、残念なことに、
髪の毛は寝グセでボサボサ。無精ヒゲに、ジーンズにポロシャツである。
あげく、サンダル履きである。
およそ社会人とは思えない風体の男は、体中からアルコールの臭気を放っている。

昨夜は、少し飲み過ぎたと僚は思う。
まだ水曜日なのに、もう既に僚は週末が待ち遠しい。
しかも、今朝目覚めたら、馴染みのホステスの部屋だった。
別に付き合っている訳では無い。
僚には、恋人などという、煩わしいモノはいない。
しかし、恋人が居ないからといって、セックスをしない訳では無いのだ。
そこは、大人の事情というモノが色々とあって。
男も女もある一定の割合で、
セックス、ノットイコール恋人。という図式が成立つ人種もいるのだ。
というワケで、遅刻ギリギリだ。(否、ハッキリ遅刻なのだが)
今月に入って、僚の遅刻は既に4回目である。

(お、すげぇ、ハクイ♪)
慌てて乗り込んだエレベーターにいた先客は、初めて見る顔だ。
僚は、この会社の女子社員は、ほぼ全員チェックしている。
この彼女は、そんな女子社員達と比べてみても、とりわけ美人である。
もし、社内の人間なら、これ程の上玉を僚が見逃すはずは無い。
(取引先の子か?)
香を斜め後ろから、ジロジロと観察する。
香の視界に入っていないのを良い事に、失礼極まりない。
スラッとした長身。
グレンチェックのツイードのパンツの上からでも、
キュッと上がった可愛いヒップと、スラリと長い脚の美しさはハッキリと判る。
茶色掛かった、ショートカットの癖毛はふわふわで、とても柔らかそうである。
メンズライクな、水色のYシャツを着ている。
マニッシュな雰囲気で、彼女にとても良く似合っている。
清潔感のカタマリみたいで、直視するのが今の僚には眩しすぎる程だ。

かたや僚は、昨夜、近所の飲み屋へフラッと出掛けたままの恰好である。
起床したのが、8:50で、しかもセックスフレンドの部屋で。
彼女は職業柄、爆睡している時間なので、
僚は一言の声も掛けずに、彼女の部屋を飛び出したのである。
顔も洗っていない。歯も磨いていない。ヒゲも剃ってない。
シャワーすら浴びてない。おまけに異常に酒臭い。
ないない尽くしの、最悪最低な状況である。
同じエレベーターに乗り合わせながら、こうも両極端な人間というのも、
非常に珍しい。
ココは、そこいらの雑居ビルではなく、一応れっきとした彼等の職場なのだ。
僚のこの様な出社の風景は、今に始まった事では無いが、
さすがに今のこの状況に、僚自身、己の自堕落さを少しばかり反省してしまう。
よく見ると、彼女は息を止めている。
このまま、3階まで息しないつもりだろうか?と、不思議に思う僚だったが、
他でもない、原因は100%、自分なので、苦笑しつつ謝った。
「ゴメンねぇ。朝まで酒飲んでて・・・臭いよね?ホント、ゴメンね。」
そんな僚に、香は振り返ると、多少引き攣った笑みで、
「いえ、大丈夫です。」
と短く答えた。そして、エレベーターが3階に到着すると、小さく頭を下げて、
「すみません、失礼します。」
と言って、エレベーターを降りた。


(・・・イイ。すんごく、イイ。イイ女だっっっ。
 クッソ~~~~、いつもはもうちっと、マシなのにっっ。
 こんなんじゃ無けりゃ、絶対口説いてるっつうの!!!)
僚は、1人エレベーターの個室の中で、地団駄を踏んでいた。

香は正直あの時、聞こえないフリをして、
『閉まる』ボタンを押すべきだったと後悔した。
尋常では無い酒臭さである。
せめてもの救いは、彼がどうやら別の階の社員であるらしい事だ。
香は一般職の募集で採用されて、総務課へ顔を出すよう指示されたのだから、
きっと、自分の配属先は3階の総務課だろうと思っている。
香は極度に、アルコールが苦手である。
このエレベーターに充満した臭いだけで、酔っ払ってしまいそうだ。
無意識に、息を止めていたみたいだ。
同乗した彼が非常に申し訳なさそうに、
「ゴメンねぇ。朝まで酒飲んでて・・・臭いよね?ホント、ゴメンね。」
と謝っている。
一瞬香は、自分がそんなに露骨にイヤそうにしてしまっただろうかと、
申し訳ない気持ちになって、
「いえ、大丈夫です。」
と答えた。どうせ、もうすぐ3階に着くのだ。
ポォ~~~ン、と到着の合図が鳴ったと同時に、香は僚を振り向き、
会釈をすると、エレベーターを降りた。
勿論扉が閉まるとすぐに、深呼吸をして呼吸を整えた。





香が総務課を訪ねたのは、9:20だった。
遅くもなく、早過ぎもせずグッドタイミング。
「槇村香さんですね?私は総務課係長の、田中聡です。宜しくお願いしますね。」
そう言って、眼鏡を掛けた生真面目そうな男が頭を下げた。
香は恐縮して、
「あ、あのこちらの方こそ、今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。」
と、まるでビジネス文書の様な丁寧語で、頭を下げている。
そのフロアの入り口で、互いに、米つきバッタのように、
ペコペコしている、長身美女と万年係長(愛称である)を、
興味深げに総務課の面々が、見つめている。
女子社員達は、内心穏やかではない。
女性達にとって、仕事の能力より重要なのは、ルックスと性格である。
男性社員たちは、満場一致で(ま、マブイ♪)と思っていた。




それじゃあ、槇村さんに担当して頂く部署まで案内しますね。
と言って、田中に先導されるままに、香は後について行った。
3階の総務課が、自分の配属先だとばかり思っていた香は、
多少意外な感じはしたが、さして疑問を感じる事も無く社内を進んだ。
途中、階段を上がったので、どうやら目的地は4階らしい。
まさかね、と香は思ったが、そのまさかが的中するとは思いもよらなかった。

その部屋のドアは、全開だった。
廊下側から、開け放たれたドアに田中が大きくノックした。
「オハヨウ、サトシ。」
そう言って、挨拶したのは金髪碧眼のイケメンであった。
「おはよう、ミック。僚は?」
そう尋ねた田中に、
ミックは欧米人特有の、大げさなジェスチャーで肩を竦めると、
「さぁ、今日はまだ見掛けないケド。なぁ?ファルコン。」
そう言って、隣の席の大男に同意を求める。
「あぁ、今日はまだ見てないな。」
ファルコンと呼ばれた大男は、一瞬チラッと田中の方を見ただけで、
さして興味無さ気に、フンと鼻を鳴らすと、
「いつもの事だ。ほっとけ。」
と言った。そんな、伊集院隼人に、ミックは苦笑を漏らすと、
「そんな事よりボク達が知りたいのは、君の隣の美人の彼女の事なんだけど?」
と言って、香に極上の笑みを向け、ウィンクして見せた。
田中は、このミックの悪いクセに深い溜息を吐きながら、苦笑する。
ミックは勿論の事、日頃他人の事には我関せずを貫く、伊集院までもが、
興味津々で、謎の長身美人に熱い視線を注いでいる。
それはそうだろう。
誰だって、田中聡、33歳、独身、眼鏡、係長。
の、地味で冴えない顔を見るよりも、
見目麗しいモデルの様な女性を眺めた方が、気分が良いに決まっている。
この場に居合わせた男全員が、この場に僚が居なくて良かったと思っている。
居れば必ず、十中八九口説き始めるに決まっている。
「ま、それもそうだな。一応アイツに先に紹介してと思ったけど、別に良いか。」
田中の言葉に、ミックも伊集院も深く頷く。
「・・・じゃ、改めて紹介します、」
と、田中が言い始めた所で、僚が登場した。
僚は大欠伸をしながら、室内へと入って来た。
一応、欠伸のついでに
「オハヨ~」
と言ったらしいが、他の4人がそれを聞き取れたかどうかは甚だ疑問である。
次の瞬間、普段は温厚な田中がブチ切れた。
「オラ!!僚テメェ、まぁた遅刻かぁ??しかも何なんだよ?その恰好は?なに、サンダル履きで会社に来てんだよ?お家気分にも、程があんだろうがよぉ!!!」
香は、田中のその豹変ぶりに、思わずギョッとしたが、
他3人は、毎度の事なので平然としている。
「はぁ?便所行ってただけだろ?糞してたんだよ。」
まぁ、嘘では無い。
ついでに洗顔と歯磨きとヒゲ剃りも済ませてはきたが。
田中も、一通りキレたらスッキリしたのか、
クルリと香に向き直り、ニッコリ微笑むと、
「槇村さん、にわかには信じ難い事かもしれませんが、このだらしない遅刻魔が、課長の冴羽僚です。」
そして、田中は僚の方を見て、眉間に深い皺を刻むと、
「オラ、僚。こちらが、今日から新しくココに配属された、槇村香さんだ。先週、ウチの部長が話してただろ?」
田中がそう言って、互いを紹介した後、僚と香は暫し見つめ合い、声を揃えると、
「「えぇぇぇ~~~~」」
と叫んだ。

「なに?知り合い?」とミックが面白そうに尋ねる。
香は少し考えてから、
「あ、いえ。さきほど、エレベーターでご一緒して・・・」
と口籠もって、俯いた。
次の瞬間、田中は僚の後頭部をパシッとはたく。
「テメッ!!やっぱ、遅刻してんじゃねぇかっっ。」
それを見た香は思わず、
「あ、ごめんなさい。」
と言って、口元を手で押さえた。それを見たミックは、
「かぁいいなぁ~~~、カオリちゃん♪♪♪イイんだよぉ~~。キミが謝る必要はどぉっこにも無いからっっ。遅刻したのは、バカリョウなんだからっ♪それより、今日からヨロシクね。」
そう言って、すかさず香の横に擦り寄って来て、香の手をヒシと握っている。
そのあまりの素早さに、香はあっけにとられて、ポカンとしている。
伊集院はもう既に、興味を失ったのか、フンと鼻を鳴らすと、
パソコンの画面に向き直り、仕事を再開している。
頭をはたかれた僚は、1人ポヤァンとして、厭らしい笑みを浮かべて、
感激に打ち震えている。
(やべぇ。すっげぇイイ女だ。すっげぇイイ女だ。すっげぇイイ女だ。・・・・・)
そんな面々に軽く頭痛を覚えた田中は、
「それじゃ、冴羽課長。後は任せましたよ。槇村さんっ!!頑張ってくださいっっ。」
そう言って、その部屋を後にした。

香の僚に対する第一印象は、後で振り返ると、最悪だった。
一方、僚の方はその真逆である。
それからの僚は、自分でも気付かないうちに、
香に溺れていく事になるのだけれど、
この時の2人にはまだ、知る由も無かった。

出会いとは、いつも突然である。





 

第2話 新しい職場

良い?分かったわね?
このミスは、あの子のせいにすればいいの。
アナタは、余計な事を言う必要は無いのよ?
後の事は、私達に任せて。

で、でも・・・そんな事私・・・・

あら?アナタも同じ目に遭いたいの?

給湯室から、女性2人の遣り取りが、微かに聞こえてくる。
香はつい先ほど帰った、客の湯呑を引いて給湯室に来たけれど、
すぐ傍まで来て、その場に入って行って良いモノか、一瞬躊躇した。
それでも、こんな片付け位でモタモタしていたら、
自分の向かいの席のお局に、
どんな嫌味を言われるか分かったモンじゃないので、
「・・・失礼します。」と言って、給湯室へ入った。
するとその場にいたのは、つい今まで香の脳内で毒を吐いていた件のお局と、
同じ課の中で、一番気の弱い同期の仲間であった。

お局は、コホンと咳払いをして、チラッと香を一瞥すると、
じゃ、そういう事だから。ヨロシクね。と言って、立ち去った。
同期の女は、少し涙目で香を見詰めると、
「・・・ごめんね、香。ホントに、ごめん。
 ・・・やっぱり、私・・・怖いから、逆らえないっっ!!」
そう言って、走り去った。
香は不思議な気持ちで、首を傾げる。

どうして、謝るの?

その後香は、全く身に覚えの無いミスの責任をとらされた。





香はハッとして、目が覚めた。汗びっしょりだ。
まだ心臓が、煩いほど高鳴っている。
今見た夢は、過去に香の身に起きた、実際の出来事だ。
そんな事が何回もあり過ぎて、
それがその内のいつの事だったのかは、定かでは無い。
前の職場での事だ。
ある時を境に、香の職場での居場所はどんどん苦痛なモノになっていった。

ミスを押し付けられる。
無視される。
ある事無い事言いふらされる。
私物を捨てられる。

女性たちの悪意ほど、陰湿なモノは無い。
香はそれまで、子供の頃から苛められた事など、一切無かった。
女子にも、男子にも友達は沢山いて、いつもニコニコと笑顔に囲まれていた。
初めは、会社の中にも沢山仲良しはいた。
本当の友達だと思っていた子も、何人かはいた。
けれど、彼女たちにとっては、そうでは無かったみたいだ。
短大を出て、その会社に入って3年半働いた。
先々月に、そこを辞める前の最後の半年間は、地獄だった。
元々、華奢な香ではあるが、その半年で7㎏も痩せた。
気持ちが、体に影響を及ぼす事を、香は身をもって知った。
会社を辞めた途端、少しづつ体調も戻り、漸く体重も5㎏増えた。
それでもこうして、あのゾッとするような日々の、夢を見てしまう。

窓の外は、まだ薄暗い。
目覚ましのアラームが鳴るまでに、まだ1時間30分もある。
香はもう一度、ギュッと固く目を瞑った。

それから浅い眠りを繰り返して、アラームが鳴ると同時に体を起こした。
何だかスッキリしない。
あれから1時間半、夢を見る事は無かったけれど、
何故だかドッと疲れている。
軽くシャワーを浴びようと思って、香は風呂場へ向かった。


シャワーを浴びながら、香は昨日の事を思い出していた。
何もかもが今までとは違って、驚く事ばかりだった。

香をあの妙な3人組の元に残し、
一見普通の、しかし切れると異常に恐ろしい係長は、総務課へと帰って行った。
その後、僚が空いているデスクを香にすすめ、
この机、好きなように使って良いから。と言った。
香は僚に、制服はどうしたら良いのかと尋ねた。
すると僚は、眩しいモノでも見るかのように、スッと目を細め、
「あぁ、あれね。あのダサいの。」
と言った。
香はその数分前に、総務課へ立ち寄った際、
そこで働く女性たちの制服姿を目にしていた。
ダサいというか、至って普通の事務服であった。
どこの会社でも、そんなモンだろうという程度の制服だ。
(・・・ダサいかなぁ?普通じゃないの?)
香が不思議に思っていると、
「却下!!!」
と僚が突然言った。
「は?」
香は、意味が良く解らず、キョトンとしている。
「あ~んな、色気もへったくれもねぇ、クサレ制服。ウチの課は却下!」
「きゃっか???」
と、香がポカンとして訊き返すと、
「うん、香ちゃんは基本何しても自由!!どんな格好でもOK。今日みたいな感じも良いケド、スカートなら、尚良し!!」
そう言って、“冴羽課長”はニッコリ笑った。
すると、向かい側の席からミックが、
「異議なし!! スカート丈、膝上15㎝位なら、更に良し!!!」
と、付け加えた。
伊集院は、心底呆れたように、大きな溜息を吐く。
僚とミックは2人で勝手に盛り上がり、キャッキャと
「異議なし!!」「激しく同意!!」などと言って、戯れている。
確かにこの課長から、身だしなみの事などを、とやかく言われる筋合いは無いだろう。他の誰よりも自由なのは、彼自身である。


そんな事を思い出していると、自然と香の口元に笑みが広がる。
初めは、なんでこんな課に配属されたんだろうと呆然となったが、
冷静になって考えてみると、今の香の精神状態で、
総務課の様な女性だらけの中で、新しい仕事を覚えていくなんて正直ゾッとする。香は自分で思っていた以上に、あのイジメの日々がトラウマになっているみたいだ。
その点まだ一日だけだが、今の職場の気楽さには、正直拍子抜けした。
少しだけ社内で垣間見た、他の課の様子は至って普通の会社に見えたけど、
一歩あの扉をくぐれば、まるで、異次元の様な世界が広がっている。

結局その後、僚とミックは香に、
『制服は無しで、毎日ミニスカート』
という、無理難題を持ち掛けたが、
「絶対に嫌です。」
という香の答えに、
あからさまにそれまでのテンションは下がり、シュンとなった。
元々、なぜこの課に配属されたのか解らない程に、仕事は暇だった。
男達それぞれのデスクには、電話が1台づつ置いてあったが、
香のデスクにはそれも無く、電話応対も一切しなくて良いみたいだった。
時折電話が鳴ったが、皆自分のデスクの電話だけを受けているようであった。
そして最も驚いたのは、その電話の殆どを外国語で応対していた事だった。
英語だけじゃない。
香には良く解らない言語で、流暢に喋っている彼らが、つい先程まで、
『膝上15㎝の、ミニスカート希望』
などと言っていた人物とは、とてもじゃ無いが、同一だとは思えなかった。

意表をつかれたのが、伊集院である。
香が僚から頼まれて、資料整理の手伝いをしていた時に、
コーヒーを淹れてくれたのだ。
それも、ちゃんとミルで豆から挽いて、サイフォンで淹れたコーヒーだ。
彼らの話によると、この課内でコーヒーを淹れるのは、
伊集院の役目らしい。だから、遠慮なく頼めば良いと。
伊集院自身は、
「俺の趣味だ。」
と一言呟いただけである。横からミックが、
「明日から、自分のマグカップ用意すると良いよ。」
と、ニッコリ笑って言った。
伊集院の淹れたコーヒーは、とても美味しかった。
お世辞でも何でも無く、香がしみじみと
「美味しい・・・・」
と呟くと、伊集院は少し照れて(表面上は、非常に解り難いが)、
「そ、そうか。いつでも淹れてやるぞ。」
とポソッと呟いた。
僚とミックは、そんな伊集院と香を見て、
『どうやら特技を持ったヤツは、得するらしい』
という議題の元、何が女性受けする趣味かという事を真剣に議論していた。


香は、シャワーの栓を捻り、お湯を止めると、
「さぁ、お弁当作ろっっ!!」
と満面の笑みで、風呂場を後にした。
悪い夢を見ても、もうあの日々に戻らなくて済むんだ。
まだ、たったの1日だけど、
香は何だかあそこで上手くやっていけそうな気がしてきた。

着ていく服を選ぶ時に、スカートへと手を伸ばしかけて香は一瞬迷った。
そして、紺色のストレッチのコットンパンツを選んだ。
スカートを穿いていくと、2人のリクエストに答えたと思われそうで、
少しだけ、抵抗があったからだ。
僚とミックのお願いは、完全に裏目に出た形である。

火の元と、戸締りの確認をして、一旦玄関を出ようとした香は、
あ、と気付いた。

マグカップ、持って行こう♪♪

香はキッチンに戻ってから、少し考えると、戸棚の奥から、
翡翠色の、ぽってりした厚地のミルクガラスのカップを手にした。
そのアメリカ製の頑丈なカップは、昔、兄が愛用していたモノだ。
「これにしよう」
きっとそのカップに注がれた、伊集院のコーヒーは一段と美味しいに違いない。


朝家を出るのが、苦痛じゃないのは、いつ位振りだろう?
だが当の香は、そんな自分の心の小さな変化に、まだ無自覚だった。

第3話 歓迎会

香ちゃん、いるんだろ?
出て来てくれないか?
君とよく話し合いたいんだ。

昼間、君を庇ってやれなかった事は、
悪かったって思ってるんだよ。
お願いだから、顔を見せてくれないかな?

ドアの向こうで主任がずっと何か言っている。
着信も、メールもずっと無視していた。
自宅にまで来るなんて、どうやって調べたんだろう?
会社で調べたのかな。
香には、もう何を、
誰のいう事を信じれば良いのかサッパリ解らない。

お兄ちゃんに会いたい・・・

香は震えながら、蹲って声を殺して泣いていた。




香はまた嫌な夢にうなされて目覚めた。
前の会社の主任は、香にとても優しくしてくれた。
笑った顔が、少し兄に似ていると思った。
初めは、ホンの偶然だった。休みの日にたまたま立ち寄った本屋で、
たまたま同時に同じ本を取ろうとして、同時に

あ、すみません

と声が重なった。お互いに顔を見て、職場の上司と部下だったので、
その偶然に驚いた。
偶然ですね、と香がニッコリと微笑んだ。
どこかでコーヒーでも、と誘ったのは主任だった。
好きな作家が一緒だった事もあって、お互いに好感を持った。
香にしてみれば、彼にどこか兄の面影を重ねていたのかもしれない。
彼にしてみれば、職場の華に、それも最も高嶺の花に、
誰よりも近付ける、願っても無いチャンスだった。
彼は妻帯者だったけれど、香は誘われれば休みの日にデートをした。
他愛も無いモノだった。
食事をしたり、映画を見たり、ドライブに行ったり。
キスどころか、手を握る事すら無かった。
香にしてみれば、恋愛というよりも、兄とやりたかった事を実行している、
そんな気持ちだった。
主任には、兄の事も沢山話せた。
彼は、優しく香の話を聞いてくれた。
気が付くとほぼ毎週、主任は香の事をデートに誘うようになっていた。
今にして思えば、彼はきっとそれ以上の関係を香に期待していたのだろう。
しかし初恋が兄で、その兄を突然亡くしてしまった香にとって、
それまで男性との付き合いは無く、
その時の香には、主任の気持ちは解らなかった。
ただ、彼の優しさに甘えていた。きっと、淋しかったのだろう。
そんな、淡い恋愛ゴッコも長くは続かなかった。
彼の妻が、毎週めかし込んで楽しげに出掛けて行く彼に不審を抱いたのだ。
そして、香との秘密のデートを突き止めた。
彼女にとっては、夫と香が肉体関係だろうが、そうじゃ無かろうが、
そんな事は関係ない。
否、むしろ清い関係でまるで学生の様なデートを、
嬉々として重ねる夫に、より強い裏切りを感じた。しかもその相手が、
まるでモデルの様な女優の様な、現実離れした女性なら尚の事だ。
妻にしてみれば、至って普通の女の自分を、
真っ向から否定されたような気分である。

しかし、この妻の怒りの矛先は不運な事に、夫ではなく香に向かった。
夫の職場に、香を中傷するFAXを送りつけた。
見るに堪えない内容だった。1度や2度では無かった。
送信元はコンビニで、会社の人間にはそれ以上の事を突き止める事は出来なかった。
送られて来たFAXには、香が社内で妻帯者の男ばかりを誑かし、
良いように弄んでいる、泥棒猫であると書かれていた。
香は上司に呼び出され、この様な中傷を受ける心当たりがあるのかと、
しつこく問い質された。
ある意味、その遣り取りですら、セクハラまがいであった。
なまじ、香が容姿に恵まれていた為に、受ける必要の無い悪意に晒されたのだ。
そして反論する術を持たない、無防備な香はただひたすらに心を擦り減らした。
女子社員達が、香を避け始めたのはその事が切っ掛けだった。
それまで、仲良くしていた者たちも、ここぞとばかりに香を苛めた。
彼女たちは心の中では、
美しく異性の注目を一身に受けながら、凛とした香を、妬んでいたのだ。
しかし、非の打ち所のない香を最初から仲間外れにする事は、
自分たちの醜い妬みや、嫉みを周りに晒す事に他ならない。
腹の中では、何処かで香を出し抜いてやろうと、虎視眈々狙っていたのだ。
そこに、件の怪文書事件は、一役買ってしまったのだ。
彼女たちにしてみれば、香を糾弾する、大義名分が出来た。

半年間、苛めに耐えた香を限界に追い込んだのは、女子社員では無かった。
同じ課の先輩の、男性社員だった。
資材倉庫へ、コピー用紙を取りに行った香の後を付けた彼は、
薄暗い倉庫の中で、香を組み敷いた。
「槇村さん、色んな男に色目使ってんだろ?俺まだお呼びが掛からないからさ、自分から来ちゃった。」
そう言って、卑劣な嗤いを浮かべるクズに、香は抵抗できずに涙が零れた。
幸いすんでのところで、他の社員が倉庫に現れ、事無きを得たが、
翌日から、香が出社する事は無かった。

香は、誰の事を責める気も無い。怨むつもりも無い。
ただ1つ、悔いる事があるとすれば、自分の迂闊さだ。
主任に奥さんがいる事は、知っていた。
自分がその立場になって考えれば、簡単に解る事だ。
自分が誰かに甘える事で、誰かを傷付けるという事。
何より、きっと空の上から見守っている兄を傷付けたかもしれない。

他人に兄を重ねて、淋しさを紛らわそうとした罰が当たったのだ、きっと。



香が入社して3日目の金曜日。
午後遅くに、僚が言った。
「ねぇ、カオリン。今日カオリンの歓迎会やるから、4人でメシ行こうな♪♪」
その晩の予定を、そんな時間に発表するなんてどうかと香は思ったが、
特に予定も無いし、こうやって誰かと外食するなんて、
本当に久し振りだったので、とても嬉しかった。
「はい。ありがとうございます。」
香が本当に嬉しそうに笑うので、僚は新鮮に感じた。
大抵女子なんてモンは、その日の予定をイキナリ上司に告げられて、
イイ顔しないもんだ。それでも、一応タテマエで
“ありがとうございますぅ”とか言うんだ。
そういう態度は、本心からのモノか、タテマエか判る人間にはわかる。
僚は一見チャランポランで、彼を良く知らなければ、なぜ彼が課長なのか疑問に思う者も少なくない。しかし、僚ほど管理職に適した人間もいない。
僚は相手を見る時に、相手の言葉には重きを置かない。
言葉以外の所に、実はその人間の本質が隠されていたりする。
言葉通りの事もあるが、
大抵その言葉の裏に隠された細かな感情の機微がある。
それこそが、一番大事な事だと僚は常々思っているし、
そういう事を、読み取る能力には人一倍長けている。
それに関しては、彼を育てた父親に起因するところが大きいだろう。
父親は優秀な経営者である。

香の言葉には、なんの裏も無い。
ストンと、僚の胸に落ちる。
ミニスカートを希望した、スケベ2人に
「絶対に嫌です。」と言った時も。
伊集院のコーヒーを飲んで、
「美味しい」と言った時も。
あの最悪のエレベーターの中ですら、ゴメンね、と謝る僚に、
自分の方こそ、不快にさせたんじゃないだろうか?という様子が見てとれた。
彼女の美しさは、外見だけでは無い。
あのホンの些細な遣り取り1つで、僚には彼女の品性が窺えた。
ガチの、イイ女だ。
けれど、それと同時に何かに酷く傷付いている様に思える。
理由は解らないけれど。



歓迎会は、会社の近所の居酒屋だった。
どうやら、3人の行きつけであるらしい。
僚曰く、初めての所に行くと、大抵酒が足りなくなるから、
3人一緒の時は、知ってる店にしか行かないとの事。
香は、んな大げさなと思ったが、
実際に飲んでいる彼等を見ると、納得だった。
そう言えば、初日のあのエレベーターの時も、異常に酒臭かったものの、
僚が二日酔いで苦しんでいる様子も無かったし、3人とも
アルコールに対する耐性が、余程強いのだろうと香は思った。

香が酒は一滴も飲めないと言うと、3人とも同情してくれた。
彼等曰く、下戸なんて人生の楽しみを、半分ぐらい棒に振っている様なモノらしい。
「飲み過ぎで、人生を棒に振る人もいますけどね。」
香がそう言うと、3人は声を揃えて、
「「「上手い事言うねぇ~~~」」」と言った。
僚は、香が飲めないと聞いて、
あの時エレベーターで息を止めていた事への合点がいった。
今更ながら、あの時の事を思うと申し訳無かった。

途中ミックが香に、しつこく彼氏は居ないのかと尋ねた。
大抵、どんな事でもハキハキと答える香が、一瞬表情を曇らせた。
そりゃあ、僚としても、勿論その質問には興味大アリだったが、
何故だか、そこに例の香の傷を見た様な気がして、
それ以上、バカバカしい質問をするミックに、我慢ならなかった。
僚は、腹の底が沸々と煮えるのを感じて、ジョッキのビールを飲み干した。
空になったジョッキを、
ミックの頬に、半分殴り付けるような勢いで押し付けると、
「オラ、ビール無くなったから、オヤジにオーダーして来い!!」
と言った。伊集院もついでに、
「バーボンも頼む。」と言った。ミックは盛大に顔を顰めると、
「何だよ~~、今重大な事実を確認しているところなのに!!!」
と喚いた。否、その点が問題なんだろうがと、僚は思って、
「るせぇ、グダグダ言わずに、とっとと行け!課長命令だ。」と言った。

「・・・SIT、都合のイイ時だけ、課長面しやがって!!」
ミックは、ブツブツ言いながら、渋々席を立った。
ミックは、悪い奴では無いんだけどと僚は思う。
彼は、根っからのアメリカ人だ。
行間を読むとか、空気を読むとか、たとえ理解していても、
実行に移す気は、サラサラ無い。彼との長い腐れ縁で、その性格もよく理解している。彼は僚とは真逆で、言葉にする事が全てだ。
自分の意思を人に伝えるという事に於いて、曖昧さを嫌う。
言わない事は、無い事と同じなのだ。
僚にも、その理屈は良く解る。僚とて、アメリカ育ちだ。
だけど、それはタフな人間の理屈だ。ミックに傷が無いとは思わないが、
彼はそのタフさを、無意識に他人にも求めようとする。
いつもなら、なんてこと無いそんな遣り取りが、
さっきの僚には無性に許せなかった。
まるで大事な宝物を壊されるような。
キレイな風景を汚されるような、そんな気持ちになった。

戻って来たミックは、もう香の“彼氏問題”には触れなかった。
ミックとて馬鹿じゃないので、僚の意図は読めている。
(僚のヤツ、らしくなく熱くなりやがって。マジかな、ありゃ。)
内心、そんな事を思って、ヒッソリ微笑んだ。


香の電車の時間があるので、
歓迎会は彼等にしては、驚異的な時間にお開きとなった。
いつもの僚なら、夜はこれからだ。
馴染みのキャバ嬢から、営業電話が入ったミックは、
「それじゃあね、香。グンナイ♪また、来週。」
と言って、香にウィンクを残して、夜の帳に消えた。
伊集院の自宅は、反対方向なので、居酒屋の前で別れた。
駅までの道を、僚と香はゆっくり歩いた。
実は、僚の携帯にもミックと同じく、営業電話が掛かってはいたが、
僚は電源を切っていた。金曜の夜に、電話が入る事位想定内だ。
いつもの僚なら、喜びいさんではせ参じる夜遊びが、
僚は今夜初めて、メンドクサイと思った。

暫く、何も言わず2人で歩いた。
それ程飲んでもいないのに、火照った肌に夜風が気持ちイイと、僚は思った。
「課長、ちゃんとスーツの日もあるんですね。意外でした。」
香がフフフと、笑った。
確かに、今日の僚はスーツを着ている。今日は、会議があったのだ。
さすがにネクタイは、会議の時だけ締めて、終わり次第速やかに解いた。
それから終日、ノーネクタイで過ごしている。
「まぁ、一応サラリーマンだし。サンダル履きは、あれはホント珍しいんだから。たまたまなの、あの日。まっ、あんだけ最低なの見られちゃ、後はイメージも上がるしか無いって事で。」
そう言った僚に、香は爆笑して、
「ポジティブなんですね♪」
と言った。その笑顔が異常に可愛くて、僚は柄にもなくドキドキしてしまった。
確実に、今までの僚ならホテルに連れ込むパターンである。
しかし、何故だか今の僚の脳内からは、『セックス』という単語は、
綺麗サッパリ、スコーンと抜け落ちていた。

「さっきは、ありがとうございました。助かりました。」
フト、香がそう言った。
さっきというのは、ミックの不躾なインタビューの時だ。
僚は、歩き煙草をしながら、
「さっきって?」
と、解っていてとぼける。香もクスッと笑って、
「さっきは、さっきです。」
と言った。僚は何も言わず、口元だけでニッと笑った。

僚がどんなにゆっくり歩いても、元々駅はすぐ傍なので、程なく駅に到着した。
別れ際、僚が口を開いた。
「嫌な事なんか、忘れちまえ。人生なんか、アッと言う間なんだから、楽しい事だけ見て笑ってろよ?」
そう言って、香のふわふわの癖毛を、クシャッと撫でた。
思いもよらない僚の言葉に、香は思わず涙が込み上げそうになったが、
唇を噛み締めて我慢した。俯いて、小さな声で囁く。
「出来る事なら、忘れちゃいたい事がいっぱいあるんですけど、中々上手に忘れられません。」
今にも泣きそうな香に、僚が言った。
「嫌な事、思い出しそうになったら、下らねぇ事考えたら良いんだよ。」
「例えば、どんな。」
涙で潤んだ目で香が尋ねる。
「例えば?う~~ん。例えば、朝遅刻全開で、スリッパ履いて会社に来る男とか?」
僚の言葉に、香はプッと噴出すと、次の瞬間ケラケラと笑った。
笑いながら、涙が溢れた。
そんな香に僚は優しい目で、もう一度髪の毛をクシャッと撫でた。
「気を付けてな。また、来週。」
「はい、課長も。今日はご馳走様でした。おやすみなさい。」
「あぁ、おやすみ。」

僚は背を向けて駅ビルの中に消えていった香を、いつまでも見ていた。
無理やりにでも、バイバイしなければ、抱き締めてしまいそうだった。
(やべぇ、マジで惚れる・・・)

香は、僚に背を向けて歩きながら、手の甲でゴシゴシと涙を拭った。
本当に優しい人というのは、課長の様な人を言うのかもしれないと思った。











第4話 ランチタイム

槇村香は、昼食はいつも弁当を持参する。
弁当作りは、高校生の頃から、ほぼ10年近く毎朝変わらない香の日課だ。
毎日、外で買ったり外食をするのは不経済だし、栄養も偏る。
何よりも、飽きるし美味しくない。

香の向かいの席のミックと、少し離れた席の課長は毎日出前だ。
会社の近くの中華屋から、毎日ほぼ同じメニューが運ばれて来る。
驚くべきは、その量である。
初日に、出前のオジさんがオカモチから、ラーメンを4杯取り出した時は、
香は思わず、頼んでません、と言いそうになったが、
どうやらそれは、早合点だったようで、
僚とミックのそれぞれが、2杯ずつ食べるのだ。
それに、餃子とチャーハンまで毎日シッカリ平らげる。
僚に至っては、あんなに酒臭かった日でも普通にしっかり完食したのだ。
さすがに、ココに来て数日、もう驚きはしないが、むしろ少し心配になる。
この人達は、『メタボリック・シンドローム』という言葉を知らないのだろうか、と。

今の所、香のこの心配は無用であった。
香の知る由では無いが、彼等は年に2度の健康診断では、
すこぶる良好な結果を叩き出している。
体脂肪率に至っては、8%以下である。

伊集院は、毎日愛妻弁当である。
「重箱かっっ」とツッコミを入れたくなる程の、特大の弁当箱に毎日彩り豊かなおかずが盛り込まれている。
その弁当を見ただけで、彼の妻の愛情が窺える。
しかも、その上いつも手作りのデザートまで付いているのだ。贅沢この上ない。
普段恐ろしく無口な伊集院が、楽しげに口にする話題の1つが妻の事である。
彼女は、この会社に程近い場所でカフェを経営している。
毎朝、店で出す為のスイーツを作るので、その内の1つが彼の弁当に添えられるのだ。



僚のデスクの電話が鳴ったのは、11:00を少し回った所だった。
僚は短い通話を終えると、チッと、小さく1つ舌打ちをして時計に目を遣ると、
何処かへと電話した。
「うぃ~す、冴羽ちゃんでぇっす!!!ごめんねぇ、オヤジさん。俺今日は昼飯パス。ちょっと、出掛ける事になってさぁ。えっ?そうそう、ミックちゃんはいつも通りで。うん、悪いね。また、明日頼むわ~バイバ~イ。」
僚のその様子を見たミックは、
「ボスか?」
と訊ねる。僚は、無言で片眉だけを吊り上げる。『YES』の意味だ。
僚は、11:45に出掛けた。

香と伊集院は、きっと気が合うとミックは思う。
彼がこれ程までに、たった数日の付き合いの、しかも女子に打ち解けているのをミックは初めて見た。
伊集院は、基本的に妻の美樹にしか興味の無いオトコだ。
見た目の凶悪さに恐れをなして、大抵の女の子には受けが良くないのだが、
不思議と香は、彼の風貌には一切、先入観は無いようである。
ミックには、上手く表現出来ないが、香はまるで物怖じしない子供の様だ。
今日のランチは、せっかく僚が居ないので、
香を1人占めして、イッパイお喋りしようと思ったのに、
当の香は伊集院の愛妻弁当に、興味津々なのだ。
『これはなぁに?』とか、『今度私も作ってみよう♪』とか。
伊集院の弁当を、観察して感想を述べている。
伊集院の方も、妻の手料理を女性の香に褒められて、非常に嬉しそうに答えている。
『それなら、今度レシピを聞いといてやろう』とか、
『いや槇村も、なかなか上手だと思うぞ。その年でそれだけ作れれば上出来だ。』とか。
ミックは、当てが外れてちっともつまらないけれど、
不思議と伊集院に対して、嫉妬心は起こらない。
まるで2人は、父娘の様なのだ。

香はここの所、伊集院のお弁当を見せて貰うのが楽しみだ。
奥さんの美樹さんは、とても料理が上手ですごく勉強になる、と香は思う。
その上、伊集院のデスクの上の、写真立ての中の彼女は、超が付く程の美人だ。ここ最近の、香の憧れの人は美樹さんだ。
「お、そうだ。槇村にも渡しておこう。」
そう言って、伊集院が薄いブリーフケースから取り出したのは、
1枚のチラシだった。
香に手渡されたそれを、ミックもシゲシゲと覗き込む。
『婚活ナイト in キャッツ・アイ』
と銘打たれたそれに、香とミックが揃って首を傾げる。
「ファルコン、なんだい?これ。」

伊集院の説明によれば、この度、彼の妻の美樹が発案した、
オフィス街の健全な出会いの為の、婚活パーティーらしい。
場所柄、彼女の店には、ここいらのOLやサラリーマンの常連が多い。
そんな常連たちの声を聴いた結果、昨今の晩婚傾向には、
なかなか出会いが無いと言う、現実がある事に行き着いたのである。
伊集院夫妻は、結婚至上主義なので、
1組でも多く幸せなカップルを輩出したいという考えなのだ。

それでもなぁ、とミックは苦笑する。
(・・・カオリにこんなモノ渡すなんて、リョウがこの場に居たらブチ切れるな。)
「どうして、カオリにだけ渡すんだよ?ボクの分は?」
訊ねるミックに、伊集院はフンと鼻を鳴らすと、
「男は定員いっぱいだ。でもなぁ、これはあくまで健全な出会いの為のイベントだ。お前と僚には、たとえ空きがあっても、用の無いイベントだ。」
そう言い放った。



一方、その頃僚は、とある一件の蕎麦屋に来ていた。
僚が顔を見せると、僚を呼び出した初老の男は破顔した。
「やぁ、僚。済まないね、呼び出して。」
そう言った男に、僚はニヤッと笑うと、
「いや、そろそろだと思ってましたよ。」と答えた。
「香嬢は、元気でやってるかね?」
そう訊ねる、この僚の目の前の彼は、僚の勤める出版社の社長だ。
そして、僚の父親の海原神とは、強い絆を持った親友である。
「やっぱり、あなたの采配でしたか。ウチに一般職の女の子を寄越すなんて、正気の沙汰じゃ無いと思いましたよ。・・・で?彼女はあなたにとって、何なんです?」
僚がそう言った時に丁度、盛り蕎麦が運ばれて来た。
社長は、店員に
「悪いけど、今から暫く襖閉めといてくれないかな?」
それだけ言うと、店員は心得たもので、深く頷くとその場を後にした。
「私はね、僚。彼女を置いておくのは、お前の所しか無いと思ってるんだよ。」
そう言って、何事か暫く考えてから、話し始めた。

「彼女の父親の槇村はね、私と海原のもう1人の親友であり、私達の命の恩人でもあるんだよ。強い男でね。そして、誰よりも優しかった。彼は、刑事をしていたんだが、2人の子供を残して殉職した。その時香嬢は、まだホンの10歳だった。8歳上の息子もいてね、その息子もまた刑事になって、彼女が20歳の時殉職した。」
僚は思わぬ話の展開に、喉がカラカラになっていた。
「・・・母親は?」そう訊ねた、僚の声は掠れていた。
「彼女は、母親を知らない子だ。お前と同じだよ、僚。元々、彼女は赤ん坊の頃に、両親と事故で死に別れた孤児だ。それを槇村が養女として引き取った。それでも、まるで本当の娘と何ら変わらぬ愛情を彼とその息子で注いでいたよ。・・・槇村があの子を引き取った事は、お前にも多少なりとも関係があるんだよ。その6年前、お前が2歳の時、海原はお前を引き取って男手ひとつで、とても楽しそうに子育てをしていた。そんな海原を見ていたから、槇村もまたその小さな赤ん坊を目の前にして、自分が育てる事を決めたんだ。お前がいたから、あの子は槇村という立派な父親を持つ事が出来た。」
そう言って、社長は微笑んだ。

暫く、男2人でズルズルと、蕎麦を啜り。
それぞれが、色んな事を考えていた。
「それで、彼女は何故ウチの会社に?あなたと父親の事は、知ってるんですか?」
僚がそう問うと、
「ウチの会社に面接に来たのは、全くの偶然だ。たまたま、私が資料に目を通して気付いた事だ、あの子が槇村の娘だと。私の事も海原の事も、きっと覚えてはいないんじゃないかな。彼女と最後に会ったのは、槇村の葬式だったから、まだ10歳になったばかりの、ホンの小さな少女だった。・・・でもね、問題は父と兄の死だけじゃないんだ。ウチに来る前の会社で、相当辛い目に遭っているらしくてね。海原とも相談して、徹底的に調べたよ。これがその報告書だ。」
そう言って社長は、分厚いA4判サイズの茶封筒を僚にスッと差し出した。
僚は、それにゆっくり目を通した。
どうしたら、こんな些細な事まで解るのかという位、見るのも嫌になる程、
緻密な情報だった。僚は腸が煮えくり返って、どうにかなりそうだった。
いつもは馬鹿みたいに食べる僚が、もうそれ以上蕎麦も喉を通らなかった。
「それで、彼女をこんな目に遭わせた、バカ共の始末は?」
おやおや、物騒な。と言いながら、社長はニッコリ微笑むと
「今現在、着々と実行中といった所だよ。お前は心配しなくて良い。それは、私と海原の担当だ。槇村の娘は、私達の娘でもあるからね。お前はあの子を傍で支えてやってくれ。その為に、私は彼女をお前の元に置いたんだから。・・・それにしても、お前は相変わらず優しい子だ。子供の頃からちっとも変らん。私は、今回の事はお前がもう一段階、成長する糧になると思ってるよ。ゆくゆくは、海原の跡を継ぐ男だからな、お前は。」
そんな事を言うオッサンに、僚は盛大に顔を顰めると、
「ったく、俺は跡を継ぐも何も、何一つ明言してませんから!!」
と迷惑そうに答える。社長は、心底楽しそうに、
「生憎、私は人の言葉を、額面通り受け止める程、素直なタイプじゃ無いんでね。まだまだ、お前は若い。人生はこれからだよ。慌てて決断する話でも無かろう?」そう言って笑った。

蕎麦屋を出た僚は、真っ直ぐに会社へは戻らず、オフィス街の公園に立ち寄った。
昼休みの時間帯も、とうに過ぎ、人影もまばらだ。
こんな街中の公園に一日中いるのは、ホームレスぐらいのものだ。
ベンチに座った僚は、無意識に口に咥えた煙草のフィルターをギリギリと噛み締めていた。先ほど社長に渡された、胸糞悪い茶封筒は、僚の手の中でグニャリと変形している。
こんな気持ちのままでは、あの3人の前で平常心ではいられない。
少し、気持ちを落ち着かせて戻らなくては。
僚はジャケットの内ポケットから、ライターを取り出した。
カチン、と蓋を開けると、封筒の中から4~5枚づつ取り出し、火を点けた。
薄いレポート用紙は、アッという間にビル風に吹かれて消えていった。
そんな事を暫く繰り返すうち、僚の手の中の香の悲しみは全て燃え尽きた。
だけど、こんなに簡単にはいかない、と僚は思う。
こんな紙切れみたいに、簡単に消す事の出来る痛みなら、
あんな風に笑いながら泣いたりしない。
彼女の心の中の傷は彼女自身にしか、手が届かない。
自分にそれを消してやる事が出来るのならば、何だってする。
僚は、そう思ってベンチから立ち上がった。

僚はそれから、香が好きだと言っていた洋菓子店に行き、
香が好きだと言っていた、クッキーシューとやらを大量購入して、会社に戻った。
勿論、香を甘やかす為だ。
その香のお気に入り情報は、あの歓迎会の時に何気ない会話の中からリサーチした。その後で、しっかりネットで検索して場所も調べたのだ。抜かりは無い。
僚はこれからの人生、香の下僕となる事を、先程ベンチの上で心に誓った。
たとえ、これから先ずっと課長と部下のままだったとしても。
彼女にどう思われようと。
それは、僚の心持の問題である。
出来れば、願わくば、恋人になりたいけれど。


僚が買って帰った、シュークリームを渡すと、香はパァッと頬をバラ色に染めて、
「わぁ。ありがとうございます♪」
と言った。早速、伊集院がコーヒーを淹れはじめた。
「食べてもイイですか?」
と嬉しそうに訊ねる香に、100%ダメな訳は無いので、
「好きなだけ、どうぞ?」
と僚もニコニコして答える。香は本当に幸せそうに、シュークリームを食べた。
ミックも、確かに美味しい、と頷いた。
そんな彼等を眺めて、ウンウンとご満悦の僚の視界の隅に、
不穏なモノを発見した。
香のデスクの上の、A4サイズの一枚のチラシに、
『婚活』
の二文字。
僚はすかさず、その不穏分子を香の視界から排除する。
あいにく、彼女はシュークリームに夢中で、僚のその行動に気付いていない。
「海ちゃん、何よ?これ。」
僚がそのチラシをヒラヒラさせながら、伊集院に問う。
「あぁ?あ~、婚活パーティーのお誘いだ。言っとくが、男はもう定員イッパイだ。女子限定だ。」
「だぁからっつ、何でこんなモンがココにあんのか聞いてんだよっっ。こんなモンは、下の総務とか、経理でばら撒いとけっっ。」
「フンッ、お前に言われるまでも無く、そのつもりだ。しかし、槇村も女子社員だ。一応全員に配る。もし、定員イッパイでも、槇村なら大歓迎だ。美樹も喜ぶ。」
そんな、僚と伊集院の会話を、ミックと香はモグモグとシュークリームを頬張りながら、他人事の様に眺めている。
伊集院は、ゴホンと、咳払いをすると、少し頬を染めて、
「それにだなぁ、何だその、槇村なら良い相手はすぐに見付かるし、きっと良い嫁さんになると思う。」
それを聞いて、今までのほほんと呑気に傍観していた香は、
驚きのあまり、シュークリームを喉に詰まらせそうになって、焦っている。
あまりの伊集院の発言に、唖然として言葉を失っている僚を見て、
ミックは心底楽しそうに、ニヤついている。

僚は、がっくり肩を落として、深い深い溜息を吐いた。

意外と近くに、伏兵が潜んでいた。
おちおち、外にランチにも行けない。

第5話 出張

香が春の終わりに入社して、1か月半程が経とうとしていた。
今まで、男ばかり3人の殺伐とした事務所に、
小さな観葉植物が置かれるようになった。香が持って来たのだ。
香はそれに、いつも話し掛けながら愛おしそうに水を遣る。
僚は思わず、そんなちっぽけな植物に嫉妬してしまう。

相変わらず、香は美樹に憧れ、今では会社帰りにちょくちょく、
キャッツに通っている。
そこに、当然のように僚とミックまで、くっ付いて来るようになった。
仕事が終わった後まで、みんな一緒なのだ。
僚は勿論、香と2人きりの方が良いに決まっているが、
当の香が、とても楽しそうなので贅沢は言わないのだ。
僚にとって、世界は香を中心に回っている。

そして香もまた、この梅雨の真っただ中、
いつもなら偏頭痛に悩まされる季節だが、今年は全く平気だ。
その事実にすら、未だ気付いていない。
気持ちが、体調を左右する。
以前にも香が体験した事だが、今度はそれがプラスに働いた。

相変わらず僚は、巧妙に香を甘やかした。
あまりスイーツばかりも芸が無いし、
かといって、値の張るモノを貢がれて喜ぶタイプの女では無い。
却って、気を遣わせても意味が無い。
あくまでも、何かのついでにそっと彼女の喜びそうな事をしてみたりする。
彼女の使う事務用品に、こっそり可愛らしい付箋やクリップを買ってきてみたりする。どういうモノが好みなのか、僚はいつも彼女を観察している。
自然と夜遊びをしなくなった。遅刻もしていない。
以前の僚とは、まるで別人だった。
しかし僚もまた、その事実には未だ気付いていない。

香1人加わっただけで、色んな事が明るく色彩を変えていった。

「いつも、良くして下さるから。」
と、1度香が弁当を作ってくれた。伊集院はいつも愛妻弁当があるので、
僚とミックにだ。3人分で沢山になったからと、香は重箱に詰めて持って来た。
それを、取り皿に綺麗に盛り付けて、
「どうぞ。」とニッコリ微笑まれた時は、僚は眩暈を覚える程、幸せだった。



だから僚は、社長にアメリカ行きを命じられた時、正直、気が重かった。
僚は年に数度、仕事でアメリカの父親の元を訪れる。
僚たちの課は、主にこの会社の出版する出版物に於いて、
様々な言語を、翻訳する仕事をしている。
かなり専門的な書物が多いので、外国の文献や、学術書などから、
様々な文章を引用する事も多い。
専門的知識や、かなり深い外国語の語彙力が求められる。
3人それぞれ、得意とする言語は様々だが、
3人いて、翻訳できないという事は、ほぼ無い。
基本的には、編集の方から依頼される原稿それぞれに締切があり、
締切に合わせて、優先順位を付けて片付けて行く。
それ以外に、外から依頼を受ける場合というのも多々ある。
彼等は一見、のほほんとしている様に見えて、なかなか仕事の出来る男達なのだ。実際のところ、社内の大半には、理解はされていないが。
社長と海原は、固い絆で結ばれた親友であると同時に、経営者としても様々な面で協力関係にある。
僚が使いに遣らされる場合、仕事半分、プライベート半分と言った所だ。
今回アチラに行けば、きっと香の事が話題に上るのは必須で。
多分、オヤジに掛かれば僚のポーカーフェイスなど、全てお見通しで、香に惚れている事を追及されるのが、正直憂鬱だ。

それに、単純に香のいない日々は淋しい。
何故だかわからないけれど、
僚はどうしても香に、出張で暫く不在にすると言い出せなかった。
勿論、ミックと伊集院には話している。彼等はいつもの事なので、気楽なもんだ。お土産ヨロシク~と言われた。





その日僚は、始業時間を過ぎても出社しなかった。
香は、とても気になった。
昨日までは、いつも通りだったのに。
もしかしたら、具合が悪いのかもしれない。
何処かで、事故に遭ってるかもしれない。
ミック達は、単に遅刻してるだけだって思ってるだけかもしれない。
でも、もし課長が大変な目に遭ってたら、どうしよう。
香は気が気じゃ無かった。
「あの、ミックさん?」
「何だい?カオリ。」
「課長、遅過ぎません?具合でも悪いんじゃないでしょうか?」

そう言って心配そうにする香に、ミックは内心申し訳ない気持ちでイッパイで、
「あれ?カオリに言って無かったっけ?リョウはね、今日から出張なんだよ?」
そう言いながら、だからちゃんと言っとけって言ったんだ、と思った。
僚があれ程までに、アメリカ行きをイヤそうにしているのを、
ミックは初めて見た。ココの所の僚は、明らかにおかしい。
まぁ、香に惚れているのは解るが。
子供の頃から彼を見てきたミックにしてみれば、まるで人が変わったようだ。
どうやら、最近はキャバクラにも殆ど行って無いらしい。
ミックが行く度に、僚はどうしたのかと質問される。
そんな事、こっちが聞きたいと、ミックは思う。

香はミックに、僚が出張に行ったと聞いて、色々聞いてみたい事があったが、
あまり根堀葉堀聞いたら、変かな?と思って、逡巡していた。
するとミックが、
「リョウはね、アメリカに行ったんだよ。1週間ぐらい掛かるって言ってたよ。」
そう教えてくれた。
ミックは、ニッコリ微笑んで、
「カオリは、アメリカに行った事はあるかい?」と訊いた。
香は、小さく首を横に振る。
「いいえ、私外国には行った事ありません。すごく、行ってみたいけど。」
「アメリカはね、ボクとリョウの故郷なんだよ。ボク等は、幼馴染みなんだ。」
「課長も?」
「ああ。リョウのDadが、アチラで会社を経営しててね。リョウは、赤ちゃんの頃から、アメリカで育ったんだよ。お互いに実家が近所でね、殆ど毎日まるで兄弟みたいに育ったんだ。ボクは、小さい頃引っ込み思案でね、人前に出ると、緊張してたから、なかなかリョウ以外の友達が出来なかった。」
香はフフフと笑って、
「何か、想像がつかないです。引っ込み思案の、ミックさん。」と言った。
ミックは眉を持ち上げて、おどけてみせた。
「そうだろ?そう言うと大概、嘘だって言われるよ。でも、ホントなんだ。リョウはボクとは、真逆で友達を作るのが上手だった。ボクは、リョウに出来て、自分に出来ない事って何だろうって、いつも考えたよ。だから、いつもリョウを観察したし、リョウの真似をしてみた。それで気付いた事があったんだ。優しいんだよ。リョウは、昔っから口は悪いし、体はデカいし、子供の時は乱暴だったから、第一印象はサイアクなんだけど、でもすごく優しいから、気が付いたら自然と友達が出来るんだね。僚の優しさは、真似しようと思って出来る事じゃないんだ。心だからね。それが、あいつの個性だ。」
「それ、すごく良く解ります。でも、私はミックさんも伊集院さんも同じように優しいと思いますケド。」
「ハハハ、ボクの先生はリョウだからね。リョウの真似をするうちに、ボクも自然と友達が増えていった。でも、やっぱり本当の友達はリョウだけだ。」
このミックの発言に、100%嘘は無い。
ミックの親友は間違いなく僚だ。
それでも、わざわざ口に出して言うのは、気恥ずかしい。
それならば、何故こんな事を言ったのか。
香の中の僚の好感度を上げる為だ。僚が香にメロメロなのは承知している。
それなら、サッサと口説けばイイのに、今回の僚は何かが違う。
こんな風にモタモタしている内に、誰かに掻っ攫われたらどうするつもりだ。
リョウのバカ野郎。
現にミックの耳には、色んな情報が入って来る。
他の課の男連中が、香の事をイイ女だって噂してる事とかだ。
一番近い所に居るクセに、香を逃したら僚は大バカだ。
とりあえずミックは、今日家に帰ったら僚に電話して、
香を心配させるような真似をした事について、
キッチリ文句を言ってやる、と思っていた。



一方、アメリカの僚は、数か月ぶりに父親と夕食を摂っていた。
暫く、お互いの仕事の事や、生活の事を報告し合ったが、
何の脈絡も無く、父が不意打を掛けた。
「ところで、僚。私が香を最後に見たのは、彼女が少女の頃だが、彼女は美人か?」
遂に来たかと僚は、一瞬間を置いて慎重に表情を決めた。
「まぁね。超べっぴん、モデル体型。」
なるべく、淡々と言ったつもりの僚だったが、父はニヤリと笑むと、
「素晴らしい。僚、彼女と結婚しなさい。」と言った。
僚はつい今しがた、口に含んだ赤ワインを盛大に噴出した。
「はぁぁ!?とうとう頭イカレタか?オヤジ。」
父は、僚の質問には答えず、眉間に皺を寄せると、
「汚いな、僚。私はお前に、そんなテーブルマナーを躾けたつもりは無いぞ?」
と言う。僚は小さく溜息を吐くと、
「何で、付き合ってもねぇ子と、いきなり結婚なんだよ?そもそも、今まで一遍も結婚した事ねぇオヤジに、とやかく言われたくねぇよ。」と返す。
父は飄々として、微笑みながら、
「ほぉ、付き合ってもいない子とセックスをするのは平気でも、結婚となれば話しは別か?それにねぇ、僚。私の結婚問題は、この際関係ないんだよ?何で、私が1人の女に縛られて生きて行かなきゃならないんだ?私はね、お前によく似た可愛い孫が欲しいんだよ?それに相手が彼女なら、申し分無い。」
僚は父親のあまりの言い草に、唖然として言葉を失った。
何から、反論すれば良いのか解らない。
(ったく、オヤジ連中ときたら、人の人生だと思って好き勝手言いやがって。)


香はフト気が付くと、僚のデスクばかり見詰めてしまう。
香の仕事は、大抵暇なので、仕事中に余計な事を考える時間はタップリある。
僚と初めて会ったエレベーターの事を思い出したり、
歓迎会の帰りに歩き煙草をしていた僚を思い出したり、
Yシャツの袖を捲った僚や、良く解らない言葉で電話している僚。
それに、この前香がお弁当を作って来た時の、美味しそうに食べてくれた僚。
思わず香は、頭を小さくフルフルと揺らす。
ダメだ、これ以上、余計な事ばかり考えたら、

また、罰が当たってしまう。

香は今のこの幸せ以上を望んで、また地獄に落ちるのは怖い。
課長がいて、伊集院さんがいて、ミックさんがいて、美樹さんがいる。
今は、毎日がとっても楽しい。
それで、充分だ。




予想外に早く僚が帰国したのは、出発から5日後の、翌週月曜日だった。
ミックと伊集院は、内心驚嘆した。
これまで、僚のアメリカ滞在が、延長する事はあっても短縮する事は無かった。
どんだけ、早く帰って来たかったんだよ、と思わずミックは苦笑する。
キャッツでの、“婚活ナイト”はすこぶる好評で、
僚の出張中の週末に、第4回目が開催された。
勿論、僚も出張前に美樹から聞いている。
伊集院夫妻は、以前から香を誘っているが、今の所香は参加していない。
しかし、僚は気が気じゃ無かったに違いない。
だったら、逃げてかないように、シッカリと自分のモノにしちまえよ。
一体、僚は何を考えているんだろう?僚の事なら、誰よりも解っていると思っていたのに、ミックにはこの頃の僚が、ちっとも解らない。

「海ちゃん、バーボン重てぇから航空便で送っといた。2~3日内に届くと思うよ。」
「サンキュー、いつも済まんな。」
「どう致しまして。ほれ、ミック、これMumから。無駄遣いするなってよ。」
そう言って、僚がミックに手渡したのは、一冊の小切手帳だ。
「Oh~♪love、Mum♪ 彼女に、愛してるって伝えといてくれたかい?」
ミックは、そのママからのプレゼントにキスしながら、僚に訊ねる。
「あぁ、お前がいう事位、俺ぁ解ってから、お前の代わりに死ぬほどハグして、キスしといてやった。」
僚の言葉に、ミックは眉をひそめて不機嫌そうに、
「余計な事はしなくてイイ」
とムスッと言った。ミックは、自覚は無いがマザコンである。
そもそも、と僚は思う。
三十路もとうに過ぎた男に、小遣い代わりの小切手帳ってどうよ?と。
どうせ、あの紙切れは夜の新宿のネオンに消えてしまうのだ。
ミックも僚も他人が聞いたら、ドン引くほどのボンボンである。

僚は香の傍に近付くと、香の隣の空席に腰掛けて香の目をジッと見詰めた。
そして、香の髪の毛をクシャクシャとかき混ぜると、
「イイ子でお留守番してたか?」と訊ねる。
香はまるで、人懐っこい仔猫のような笑顔で、
「はい。課長が無事に帰って来られて、安心しました。」
と僚が思っていた以上の、答えをくれる。
僚は満面の笑みで、
「手、出して。」と言う。
僚の言葉に香は、手?、と首を傾げる。僚は、こくんと頷く。
僚はスッと差し出された、香の掌の上に、
掌よりも少し大きめの、赤い柔らかいビロードの張られた小箱を載せた。
箱にはシルバーのサテンのリボンが掛けられている。
「これ、私に?」
驚いたように訊ねる、香の上目遣いが死ぬほど可愛くて、
僚は内心気が狂いそうだったが、煩悩を必死に押し殺して微笑むと、
「ああ。」と、答える。
「嬉しい。・・・開けても、良いですか?」
「モチロン♪」
僚がニッコリと頷くと、香はとても楽しげにリボンを解いた。
箱の中から現れたモノは、
キラキラ輝くクリスタルで作られた、掌に載るほどの小さなテディベアだった。
「・・・かわいい。」
香は、掌の上の可愛い贈り物を、本当に嬉しそうに見詰めた。
そんな香の無邪気な顔を、僚も飽きる事無くニコニコと見詰め、
そんな僚の香にメロメロな様子を、ミックがニヤニヤと見詰めている。
ただ一人、伊集院はデスクの上の妻の写真を見詰め、
(今日の晩御飯のメニューはなんだろうか。)
と考えていた。実に、平和である。

第6話 お泊り

「ねぇ、カオリン♪今晩、メシ行こっか?」
僚が香を夕飯に誘ったのは、
僚が出張から戻った週の金曜日の事だった。
「はい♪」
香も勿論、OKした。
どうせ毎晩1人だし、僚と食事をするのは香も大好きだ。

この2ヶ月弱、新しい職場に来て香は本当に幸せだ。
前の会社で、まだ香が苛められる前には、
同僚の女の子達と、よく食事に出掛けた。短大の頃もそうだ。
香は元々、女の子達とああして出掛ける事は大好きだった。
食事に行ったり、カフェに行ったり、ショッピングに行ったり。

いつから、そういうのやってないだろう。
今度、美樹さんを誘ってみよう。
キャッツ・アイは、客商売にも関わらず、土・日・祝は休業だ。
店主の美樹の最優先事項は、夫なので、夫のお休みはお店もお休みだ。

今まで香は、女の子達と出掛ける楽しみしか知らなかったけど、
こうして度々僚やミックが、誘い出してくれて違う楽しみも知った。
女の子達はみんな、綺麗でオシャレで流行のお店が好きだけど、
僚達が連れて行ってくれる所は、全然違う。
まるで、秘密基地や探検に連れて行って貰うみたいで、ワクワクする。
知らない街では無かったのに、初めて行く所ばかりだ。

「ずるいぞ、僚。1人でカオリの事、誘いやがって!!!」
ミックが抗議する。
「何だよ、ミック。おまぁ、今日はかずえちゃんと久々のデートだろ?“二兎追う者は、一兎も得ず”って諺知ってっか?」
僚が、ニヤリと笑う。当然だ。わざわざ、この日を狙って香を誘っているのだ。
かずえとは、妙齢のモッコリ女医さんで、目下ミックの本命である。
かれこれ数年の付き合いである。
僚は今まで、彼女を作らない主義を通して女遊びをしてきたクチで、
誰にも言った事は無いが、今まで誰とも付き合った事は無い。
それでも別に困らなかったし、却って煩わしい事が無くてサッパリしていた。
恋人になりたいだなんて思ったのは、香が生まれて初めてだ。

同じプレイボーイでも、タイプは様々でミックはティーンの頃から、
必ず本命は1人いて、その他大勢を上手に渡り歩いている。
ミックは淋しがりの、甘えただからなと僚は思う。何せ、マザコンだし。
子供の頃のミックを思い出して、僚は思わず微笑む。
いつも、僚の後をついて来て可愛かった。人見知りだったし。
かずえは、いつも忙しく働いていて、それも生き生きと魅力的なので、
どちらかと言うと、ミックの方が放置プレイ気味なのだ。
案外、それで上手く、バランスが取れているのかもしれない。
ミックの父は実業家だが、実は母もなかなかの才覚の持ち主で、
夫とは、全く違った分野で頭角を現す、彼女もまた実業家だ。
ミックの母と、かずえにはどこか似た雰囲気があると僚は思う。

「Oh、sit!!! ボクが、カズエのデートだけは絶対に、すっぽかせない事を知ってるからだなっっ!!!卑怯だぞ。」
僚は、面倒臭そうに眉を顰めると、
「はいはい、せいぜい彼女と、楽しい週末でも過ごして来な。」とあしらう。






「ミックさん、彼女さんいらっしゃるんですね。」
香がそう言って、ニッコリ笑った。
新宿の盛り場の、奥の奥。
ゴチャゴチャと、猥雑な路地のドン突きに、その店はある。
一見客を断っている訳では、サラサラ無いのだが、
絶対に、一見でこの店に入る客はいない。
空調はカウンターの向こうの、真っ黒な換気扇のみで、
僚と香の間に置かれた七輪から、もうもうと上がるケムリで視界が少し白っぽい。まさかこんな店で、最高級A5ランクの松坂牛が、提供される事など誰も知らない。
「うん。メッチャ美人の女医さん。」
僚が白飯を頬張りながら、答える。
「フフフ、じゃあ風邪引いた時とか、心強いですね。」
そう言って、香が微笑む。
あ、今の笑顔超カワイイ、と思いながら僚は、
「だね。」と答える。
香はどんなに小汚い店へ連れて行っても、
目をキラキラさせて、好奇心旺盛な子供のように喜んでくれる。
美味しいモノなら、見た目が変でも物怖じしないで、トライする。
僚がこれまで、ご馳走してきたどんな女の子より、
一緒に食事をしていて、楽しい気分になる。

「伊集院さんも、奥さん美人だし・・・か、」
香は思わず、課長は?、と訊いてしまいそうになって、つい口籠もる。
僚が、独身なのは知っているけれど、独身だから、1人だとは限らない。
どうして、変なところで口籠もっちゃたんだろう、と香は焦った。
胸のずっと奥の方に、小さくツキンと痛みが走った事は知らんぷりした。
僚が不思議そうに、香の目を覗き込む。
「カ、カルビ焼けたみたいですよ?」
香は、何とかそう言って誤魔化した。
少し俯いて、テーブルに手を伸ばすと、グラスを握って一息にウーロン茶を飲む。

「あっ、ちょっっそれ違う。カオリン!!!」
僚がそう言った時には、あと一歩遅かった。
何故か、香は間違って自分のウーロン茶では無く、
僚の焼酎を一気飲みしてしまった。
俯いていて、よく見ていなかったのだ。
僚はギョッとして、青褪めた。
香はみるみる真っ赤になり、フニャンと今にも崩れ落ちそうになって、
「かちょぉ~、なんかこのおちゃ、ヘンれすぅ~」と言いながら、
コテンと、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。

・・・数分後。
香はテーブルに上半身を預けて、幸せそうな寝顔でスースー寝息を立てていた。
この小汚い店に、何かの間違いで迷い込んだ天使のようで、
間違ってゴミ箱の中に、落ちて来たお星さまみたいで、
なんて、シュールな風景だろうと、僚は放心した。

「リョウちゃん、彼女、特上A5ランクだね。旨そうじゃないか。」
いつの間にか、テーブルの傍らで、腕組みしていた店のオヤジが、そう言ってニカッと笑った。僚は乾いた笑いを漏らし、
「バカ、この子はそんなんじゃねぇんだってば。」と呟いた。



香はその日、少し丈の短めのスカートを穿いていたので、
僚はおんぶする訳にもいかず、お姫様抱っこで香を抱きかかえた。
よくよく考えたら、僚は香がどこの町に住んでるかは、知っているものの、
マンションの所番地までは知らない。どうする事も出来ないので、
覚悟を決めて、自分のアパートへと連れ帰った。
父親の所有するその7階建てのビルの、6・7階を僚が1人で使っている。
5階から下は、一応賃貸物件ではあるが、
管理するのも面倒なので、貸さない事に決めている。
因みにミックは、すぐ向かいの高級マンションで気ままに暮らしている。
しかし、今日はアイツはいない筈だ。
今頃はまだ、恋人とお楽しみの真っ最中だろう。

まさか、香を抱きかかえる事になろうとは、予想だにしていなかった僚は、
焼肉のケムリの匂いの奥の、仄かな甘いシャンプーの香りに、
煩悩をグラグラに掻き乱された。
少しぐらいなら・・・イイか?と、香のふわふわの癖毛に顔を埋めたが、
ますます歯止めが効かなくなる気がして、辛うじて、砕け散った理性をかき集めて、正気を保った。
別に、一生香に手を出さないとか思っている訳では無い。
いつかきっと、香の傷を分かち合える恋人になってやるとは思っているが、
今はまだ、その時じゃない。
この女だけは、俺の一生モンだ。
そう思ったら、自然と劣情の波は引いて行った。




香は、いつに無くスッキリと目が覚めた。
いくらもう心配いらないんだ、と思っても、
香は未だに何日かに1度は嫌な夢を見たりするし、
いつまでも寝付けない、不眠気味の時もある。
しかし、目覚めは良かったのに、
目を開けてから、心臓が止まりそうになるほど驚いた。
こんな事は初めての経験だ。
知らないベッドに眠っている。
清潔なベッドカバー。淡いベージュの壁紙のシンプルな部屋。
ベッドの他には、鏡台があるだけで他には何も無い。
多分、雰囲気から言って、誰かの家。
だろうけど、この部屋には生活感が全く無い。
ハッとなって、香は自分の体をチェックする。
ヴァージンで、世間知らずで、人一倍奥手な香だけれど、
そこはやはり、年頃の女子である。
ガバリと起き上がると、自分が昨日会社に行った時のままの、
服装だとホッと胸を撫で下ろす。
ノースリーブの白いコットンのブラウスに、
ベージュの麻のセミタイトスカート。
ストッキングですら、伝線する事無くしっかり履いている。
柔らかなオーガニックコットンの、淡いピンクのカーディガンだけは、
脱がされて、綺麗に畳まれて枕元に置かれていた。

香は、昨日の事をよく思い出してみた。
確か課長に誘われて、秘境の秘密基地みたいな焼肉屋に行った。
そう言えば、微かに服や髪の毛から焼肉屋さんの匂いがする。
課長と一緒にお肉を沢山食べた。
課長は焼酎を飲んで、自分はウーロン茶を飲んだ・・・・
あ、
なんか、飲んだこと無いモノを一気した気がする・・・・
「あああああぁぁぁぁ~~~」
やらかした。
大失敗だ。
・・・という事は、ココは課長のお家だろうか?
香が、ベッドにスラリと長い脚を投げ出して、呆然となっていると、
コンコンと扉がノックされて、次いで課長の声がした。
「おはよう、カオリン♪入っても大丈夫?」
と訊かれた。

僚はリビングで、メールのチェックをしていた。
朝飯は香が起きてから、作ればいい。
どうでも良いメールを、サクサクゴミ箱に叩き込む。
先週の出張で日数が足りなくて、カバー出来なかった仕事のメールが、
2~3件あったので、一応目を通してみた、急ぎでは無かったので、保存だけしてパソコンを閉じた。
慌てて日本へ帰ろうとする僚に、父は、
「そんなに、姫が恋しいか?」と言った。
やはりバレていた。別に良いんだけど。
元々、オヤジには隠し事なんかねぇし、
ガキの頃から何でも腹割って話してきたし、でも、
「その分じゃ、近い将来孫を抱くのも夢じゃなくなってきたかな。早めに頼むぞ。」
なんて、言われたらギョッとする。気が早ぇっつ~の。
そんな父の言葉を思い出して、眉間に皺を寄せていた僚の耳に、
客間の方から、可愛い悲鳴が聞こえて来て、
僚は思わず、クククと笑ってしまう。
僚は上の階の自分の部屋へ行くと、クローゼットからなるべく細身のジーンズと、白いコットンのシャツを手に取って客間へ向かった。


扉の外から僚が声を掛けると、暫く間があって蚊の啼く様な小さな声で、
・・・はい。どうぞ。」と聞こえた。
僚がそっと扉を開けると、真っ赤になって涙目の香と目が合った。
「気分はどう?気持ち悪くないか?」
僚が優しくそう訊ねると、香は小さく1つ頷いて、
「は、はい。大丈夫です。あの、昨日はすみませんでした。課長にご迷惑掛けたみたいで・・・・。」
そう言って、今にも泣きそうにシュンとしている。
僚は香の傍に行って、頭を撫でる。
「まぁ、酒飲んで失敗する事位、誰でもある事だから、んな顔しないの。シャワー浴びておいで?服、皺になってるから、これに着替えたらイイ。」
確かに、薄手で淡色の麻とコットンなんて、最も皺が目立つようなコーディネートだ。香は手渡された、ジーンズとシャツを見て、
これ、課長の?」と小さな声で呟く。
「あぁ、ちょっとデカいけど、女モンの服とかねぇし。だから、パンツは貸せねぇけど。」
僚がそう言うと、香は漸くプッと噴出していつもの笑顔を見せてくれた。


香がシャワーから上がると、僚はキッチンにいるようで、
そこで待っててと言われた、リビングに入った。

すごく、広いお家だ。リビングに階段がある。メゾネットってやつ?
課長はココに1人で住んでるのかな?

香はリビングを少しだけ観察した。
基本的にシンプルで、片付いている。
第一印象の僚のイメージとは、随分違う。

全然だらしなくないじゃん。
お風呂場のタイルも、ピカピカだった。
さっきのベッドのシーツも、きっとおろしたてだ。パリッとして清潔だった。
・・・・彼女さん、いるのかな。
一緒に暮らしてはなくても、身の回りの事やってくれるのかも。

テレビの横のキャビネットの上に、写真立てがいっぱい飾ってある。
香は近付いて覗き込む。

ご両親かな?この赤ちゃんが課長かな?
あ、小っちゃい課長だ。可愛い。
あ、これ小っちゃいミックさんだ。2人で変顔してるし。ウケル。

色んな時代の僚の写真があった。
香は夢中になって見ていた。
そこに、僚がプレートに盛った朝食を運んで来た。
自分のジーンズとシャツを着た香を見て、思わず笑みが零れる。
何か、彼女みたいじゃないかと。
「やっぱ、ちょっとブカブカだったな。」
僚がそう言って、小さく笑う声で香は気付いて、
「あ、ごめんなさい。勝手に見ちゃいました・・・」
と慌てて言った。
「写真?」
「はい。」
「別に全然良いよ。ガキん時のばっかだろ?」
そう言いながら僚は香の横に並んで、一緒に写真を見る。
「これは、ミックさんでしょ?この前、幼馴染みだって言ってました。」
「うん、そう。アイツとは物心ついた頃からの、腐れ縁。」
「これは?この赤ちゃんは、課長ですか?」
香が指さしたのは、
若くて美しい夫婦が、赤ちゃんを抱いて幸せそうに微笑む写真。
僚は少し黙ったままで、穏やかに微笑むと、
「・・・ぁあ。これが俺の両親で、これが俺の親父。」
そう言って、僚はもう1つ奥の方に立ててある、1人だけで写った男性の写真を指差した。

両親と、親父?

僚の不思議な言い回しに、香は首を傾げる。
そんな香に僚は優しく微笑むと、ゆっくり説明した。
「俺の両親は、確かにこの2人だけど、俺が2歳の時に飛行機事故で死んだんだ。それで、こっちは元々母親の弟、だからオジだね。彼がその後、親父としてずっと俺を育ててくれた。」
「じゃあ、アメリカにいらっしゃるお父様は、こっち?」
「そ。海原神っていうんだよ。」




2人はそれから、僚の作った朝食を食べ、
ちゃんと送っていくからと、引き留めた僚の言葉に甘えて、
夕方まで、僚のアパートで過ごした。
テレビを見たり、ゲームをしたりした。ずっと笑っていた。
夕方に、僚が愛車のクーパーで香を自宅まで送った。

家に帰った香は、何だか晩御飯を作る気になれず、
ゴロンとベッドに転がった。
また、あの片付いた僚の家を思い出す。

彼女さんいるんだろうな。
ただの上司と部下で良いから、ずっと仲良しでいれたら良いな。

気が付いたら、香の頬を涙が伝った。
そしてそのまま眠ってしまった。





第7話 初恋①

僚が、蔵前の問屋街まで行って、大量の手持ち花火を購入して来た。
伊集院の第一声は、
「爆弾でも作る気か。」だった。
美樹と2人でキッチンで、バーベキューの食材の準備をしていた香は、
僚の抱えた大きな段ボールを覗き込むと、
「わぁ、すごい!!!」
と感嘆の声を上げた。その瞬間、僚はこれ以上無い程の、至福の表情を浮かべる。そんな僚を見て、ミックは不思議な気持ちになる。

いつからリョウは、1人の女のリアクションにこんなにも、
素直に幸せそうに、微笑むようになったのだろう。

この夏、僚率いる、編集部別室翻訳課は、ほぼ毎週末僚のアパートの屋上で、
バーベキューに、勤しんでいる。
元々の発端は、何気ないランチタイムの会話で、
僚とミックが子供の頃、家族ぐるみで、よく庭でバーベキューをやったと、
香に話したのが最初だ。
香の小さい頃は、父親と兄との3人暮らしで、その上、
集合住宅だったので、バーベキューをやった経験が無いと言う。
その話に、心底羨ましげに耳を傾ける香を見て、僚はその週末には、
自宅の屋上で、バーベキューをする手筈を整え、段取りし、実行した。
仕事以上の、手際の良さだ。
そして香が喜ぶのを良い事に、それから1か月近く毎週こうして集合し、
ワイワイと騒いでいる。
幸いこのビルには、僚以外住人も無く、どんなに騒いでも苦情が出る事は無い。

大体、僚は限度というモノを知らなさ過ぎると、ミックは思う。
香が好きだと言えば、おんなじシュークリームを10個も20個も、
大量に買って来たり、香が喜べば、毎週毎週バーベキューだ。
そして、この花火。

先週バーベキューの最中に、僚が煙草を切らして、下のコンビニまで買いに行ったついでに、香の為に、線香花火を買って来た。
香は勿論大喜びで、僚と一緒に花火をした。
そしたら、これだ。
箍が外れているというのは、こういう事を言うんだろうか。


僚にとっては、キッカケは何でも良かった。
香がココに泊まったあの日以来、ずっと。
僚はもう一度自分の部屋で香と過ごしたかった。同僚達も一緒だが、
それはもうこの際、いつもの事なので構いはしない。
会社で会う時よりも、幾分カジュアルで、フランクな香。
バーベキューは実にイイ口実だった。
僚は、夏が終わったらどうしようと、真剣に考えている。
バーベキューに次ぐ、第二の口実を必死に模索する、毎日だ。
しかも、大前提は香が喜ぶ事でなければならないという事だ。

アイスペールが、空になっているのに気付いた香が、
「氷、取って来ますと。」と言って、キッチンに下りて行ってから、10分少々。
僚は苛立っていた。遅すぎる。
他3人は、何やら会話に夢中で、僚になどお構いなしだ。
僚は堪らず、腰を上げた。

屋上の扉を開けて、住居部分の7階の廊下まで、半階分ほどの階段がある。
その手前の通路の蛍光灯が切れて真っ暗だ。
アレ?と、僚は思う。さっきまでは、点いていたけど、切れちまったか。
そう言えば、最後にココの蛍光灯を取り換えたのがいつなのか、記憶すら無い。
気にも掛けず先に進もうとした僚に、
ポスン、と温かくて柔らかい華奢な物体がぶつかる。
「ひゃあ!!」香だ。
「カオリン?どうした?ずっと、ココにいたのか?」
そう問う僚に、香は蚊の啼く様な声で答える。
か、かちょお?・・・ココを通った瞬間に電気が真っ暗になって、怖くて動けなくなってしまいました・・・
ぶつかったままの細い肩が、小刻みに震えている。
僚は咄嗟に、香を抱きかかえると、足早にキッチンに向かった。


僚が腰を上げて、香の様子を見に行った後姿を見送って、
3人は苦笑する。
「大概、惚れてんな、リョウのヤツ。」ミックがそう言うと、
夫妻も深く頷く。そして美樹は、首を傾げる。
「でも、肝心の香さんは、どう思ってるのかしら?」
「問題は、そこだ。」
伊集院が冷静に呟く。
香が僚の家にお泊りした(勿論、誰も知らないが。)直後、
またしても、“婚活ナイト”のお誘いを受けた香は、珍しくキッパリと断った。
好きな人でもいるの?と、笑顔で訊ねた美樹に、
真っ赤に俯いて、
「そ、そんなんじゃ、無いですケド・・・なんか、苦手で。」
と香は答えた。
ホントにそれだけなのだろうか。みんなの関心事は、香のキモチである。
僚は、見事に開き直っている。
香に惚れている事を隠す気は、サラサラ無いようだ。
しかし僚も、だからと言って香を口説くでも無い。
ただただ忠実に香に仕え、香を喜ばせる事だけに傾注している様に思える。
あの僚が。
一種、奇跡である。
ただ、そんな僚の気持ちに、当の香が気付いているのかどうかは、正直微妙だ。
単に課長として見ている様にも、見えるし。
そうで無いと言えば、その様にも見える。真相は藪の中だ。
「カオリは多分、ヴァージンだな。あまりにも無邪気すぎる。今までに一度でも恋愛経験があれば、あんなあからさまな、僚の好き好きビームが、通用しないワケは無い。」
そう言ったミックの言葉に、夫妻はそれも一理あるかもしれないと思った。



突然背中側から、僚に抱きかかえられ、
キッチンへと運ばれ、テーブルの上に、トスンと降ろされた香は、
目をパチパチして、キョトンとしている。
僚はそんな香の癖毛を、クシャッと撫でると、
グラスに、冷蔵庫から冷たい緑茶を取り出して注ぐ。
「はい。」僚がニッコリ笑って、差し出したグラスを、香は両手で受け取る。
「ありがとうございます。」真っ赤になって呟いて、
香は、コクンと冷たいお茶を一口飲んだ。
香が座った横には、香の手から取り上げた、空のアイスペール。
僚はそれを手に取ると、冷凍庫からロックアイスを取り出して、
ガラガラと移す。
背後で香が、コクン、コクンとお茶を飲む気配がして、
僚の口元に、薄く笑みが浮かぶ。
氷を移し終えて、僚も同じようにグラスにお茶を注ぐと、香に、
「落ち着いた?」と訊ねた。
香は、少し恥ずかしそうに小さく頷く。
暫し、言葉も無く2人で向かい合って冷たいお茶を飲んでいたら、
香が口を開いた。
「課長は、このビルにお1人で住んでるんでしょう?」
「うん。高校生の時から。」
「5階から下には誰もいないんでしょう?」
「そうだよ。」
香は、ここで一旦黙り込み真っ赤になって俯くと、小さな声で、
・・・怖くないですか?」と、僚に訊ねる。
何の事を言っているのか、僚には大体予想がついたけど、
僚は、ワザと解らないフリで香の目を覗き込む。
「何が?」
香は暫し逡巡したモノの、観念したように、
・・・お、お化けとか。」と、ポソッと呟く。
言った瞬間、また更にカァッと赤くなって、俯く。

可愛い~~~!!!  超っっ可愛い !!!

クスッと笑った僚を、香は少し上目遣いで見詰めると、
「課長、今私の事ガキだって思ったでしょ~~~~」と、泣きそうになる。
僚は一歩前に進んで香に近付くと、柔らかな髪の毛を優しく撫でる。
「うぅん、可愛いなって思っただけ。」
そんな、僚の言葉に香の胸の奥がコトリと、音を立てる。
構わず僚は続ける。
「俺が子供の頃ね、親父は毎月、月命日に必ず両親のとこに墓参りに連れて行ったんだ。そして俺に、お前を産んでくれた両親に感謝しなさいって言うんだ。俺がまだ何の意味も解っていない小さい時から。だから、俺も何にも憶えていない両親の事を、大好きだって思えるようになってさ。多分怖いテレビかなんか見たんじゃなかったか、一時期、墓場に行くのが、すげぇ怖い時があってね。俺は親父に、墓参りに行きたくないって言った。そしたら、親父すっごい悲しそうな顔して、言ったの。」
僚は、グラスの中のお茶を飲み干した。
香は、真剣な表情で話を聞いている。
「お化けは、怖くないんだよって。お前の両親がお前に逢いたくてやって来て、それがお前は怖いかい?って。それと、同じ様にここで眠ってる全ての人に、逢いたい人がいて、来てくれるのを待ってるんだよって。」
そう言って僚は、ニッコリ笑うと、
「だから、俺は怖くない。」と言った。

屋上に戻る時の、例の真っ暗な通路の途中で、
僚はソッと、香の手を取った。
香は少しだけ驚いていたようだったが、軽く僚の手をキュッと握り返した。
たったそれだけの事で、僚は柄にも無くドキドキして、
内心、俺まるでガキだなと、苦笑した。

僚と香は、やけに時間を掛けて、氷を持って戻って来ると、
今度は、線香花火対決を始めた。
どちらが長く火の玉を落とさずにいられるか。
屋上のコンクリートの地面に、チョークで正の字を書いて、
勝ち星を競っている。
どうやら、圧倒的に僚が優勢だ。
新宿の夏の夜は、いつまでも明るく、長い。







     初恋②

次の週の火曜日の夜、
ミックは、僚の部屋にいた。最近の僚は、ミックがどんなに誘っても、
「めんどくさい。」の一言で、全然夜遊びしないので、
ミックは時々こうして、自主的に遊びに来るようになった。
ミックが部屋を訪れるのは、めんどくさくは無いらしい。

ミックはリビングのソファに寝そべって、ビールを片手に漫画を読んでいる。
子供の頃から大好きな、“超人ハルク”だ。
勿論、フキダシは全て英語だ。
幾ら、日本のMANGAが、世界に誇る文化だったとしても、
やっぱりミックは、アメコミが好きだ。
クッキリとした線で描かれた、マッチョなヒーローたちは、
何処かノスタルジックだ。

ローテーブルを挟んで向かい側には、床に直接座り込んだ僚が、
これまたビール片手に、アメリカの友人から届いた、Eメールに返信している。
2人の間にあるテーブルの上には、LLサイズのデリバリーのピザの箱が、数箱積んである。

ミックはふと思い出した様に、起き上がり漫画をポイッと傍らに放ると、
「なぁ、リョウ。」と、切り出した。
僚は、視線をPCに向けたまま、
「ん~?何ぃ?」と、答える。
「この前キャバクラ行ったら、ミサトちゃんがリョウはどうしてるんだって言ってたよ?連絡してるのに、ちっとも返してくれないって。」
僚は漸く、PCから視線を外すと虚空を見詰めて、僅かに考えた。
すると一瞬のち、化粧映えするキツイ目をした、気の強そうな美人の顔を思い出した。
「あぁ、ミサトちゃんね。」
僚がベロンベロンに酔っ払って、彼女とセックスをした翌朝、
エレベーターの中で、出逢ってしまったのだ。ファム・ファタールに。
しょうがないのだ、セックス・フレンドとセックスしている暇は無いのだ。
「で~?彼女がどうしたって?」
僚の中ではもう、彼女に対する興味は一切無いらしい。
ミックは軽く溜息を吐いて、
「おまえなぁ、人の話全然聞いてないだろ?」
と苦笑する。
「聞いてるよ~」
と言いつつ、キーボードを叩く僚は、恐らく聞いてない、とミックは思う。

「だからさぁ、早い話がおまえに会いたかったんじゃないの?彼女。」
そう言ったミックに、僚はさも不思議そうに、「なんで?」と返す。
だって、そうだろ?と僚は思う。
お互い後腐れなく、楽しく、陽気にセックスしてただけなのに。
「今度聞かれたら、リョウは死にました。って言っといて。」
そう言って、ニッと笑った僚に、ミックも心得たもんで。
「ん~、おまえがそう言うと思って、同じ事言っといた。」
「やるじゃん、ミック。GJ。」僚は、親指を立てた。
「そしたら彼女さぁ、じゃ、しょうがないかって言って、今晩どう?って、誘われちった。」
そう言ったミックに僚は、
「ふ~ん、彼女イイ奴だろ?サッパリしてて、Hも上手だし。」
とシレッと答える。
「やってないよ。」
そう言ったミックに僚はさも珍しげに、
「なんか、不都合でもあったか?」
と訊ねる。
「イヤ、別に無かったし、やっても良かったけど、“協定”に引っ掛かるかなと思って。まぁ、おまえに聞いてからでも遅くは無いし。」
そう言うミックに、僚はブハッと笑うと、
「おまぁ、まぁだ未だにあんなモン、律儀に守ってんのかよ?」
可愛いヤツ、と言った。
ミックは、不貞腐れたように、
「あんなぁ、それでも約束は約束だろ?」と言った。
思いのほか、拗ねた様子のミックに、僚はしゃあねぇなと苦笑して、きちんと向かい合う。
「まぁ、そうだけど。もう、あれは無しにしよう。俺にゃ、もう必要ねぇから。」



“協定”とは、昔僚とミックの間で取り決めた、男同士の決まり事だ。

同じ女を同時期に、共有しない。

僚とミックは、まだ子供の様な時から、女遊びにだけは驚異的な才能を発揮した。彼等は、ルックスが良いし、ノリも良い。
好奇心旺盛で、少し欲張りな女の子達はみんな2人と遊びたがったし、
2人もまた、来るものは拒まなかった。
若くて、セックスにタブーは無かったし、無軌道だった。
随分、早い段階で彼等はある意味では、『兄弟』だった。
お互いに、修羅場は本意では無いし、女の子との絆より、
自分たちの絆の方が大切だったので、
その約束は言ってみれば、友情を長続きさせる為のちょっとしたコツだ。
それを、30代半ばを目前にして、僚は必要ないと宣言した。
確かにそれはそうかもしれない。お互いにこの歳なら、
真面目にやっていれば、家庭の1つも築いていて、不思議は無い。

それでも、そもそも僚はどんなに派手に遊んでも、修羅場になど遭遇する事は無かった。それに関しては、ミックも思わず舌を巻く程の手腕だ。
僚を間に挟んで、女の子2人がバッティングした時でも、
ついでだから、3人で盛り上がっちゃった。なんて、ケロリと言う僚に、ミックは少し憧れたりもした。若い男子なんて、8割方バカなのだ。
頭の中は、セックスとビールとバカ話で一杯だった。
「他の女の子に聞かれても、同じように言っといて。多分、どうのこうの言う子もいないと思うケド。」
と言う僚に、ミックは少し淋しそうに笑った。

「なぁ、リョウ。ボクはさ、ずっとおまえの真似っこだったじゃん。小さい頃から。」
僚は、目を細めて楽しそうに頷く。
「ああそうだな。」
「女遊びだって、おまえがお手本だったのに、卒業するのか?」
少し拗ねた様なミックに、僚は肩を竦めて、
「あんなぁ、ミック。おまぁ、自分の女好きを俺のせいみたく言うな。」
と言って、笑った。


ところでリョウ、とミックが言った。
「おまえ、アメリカから帰ってすぐ位に、カオリをココに連れ込んだろ?」
僚は、思わずブッーとビールを吹き出すと、真っ赤になって絶句した。
初めは、ミックも別に気にしていなかったし、気付かなかった。
ミックがその事に気付いたのは、2つの出来事があったからだ。


6月の終わり頃、僚が出張から帰ったすぐ後くらい。
香の様子が極端にオカシイ時があった。
何やら、そわそわして、デスクの足元に気を取られている。
ミックの席からは良く見えなかったケド、何かいつもは持って来ない、
大きめの紙袋に入った荷物を持ってきているようだった。
そして、ミックか伊集院が席を立とうとすると、ハッとして、様子を窺っている。
実はその時、香は僚から借りた、ジーンズとシャツを返すチャンスを窺っていたのだが、伊集院とミックが同時に2人、席を外すという事は、滅多に無い。
なかなか、僚に返せずにいたのだ。
よくよく考えれば、何も無理して会社で渡す必要も無いのだけれど、
如何せん、香がそこに思い至る余裕はなく、挙動不審になってしまった。

一方、僚は僚でその日1日、ボンヤリしてずっと上の空だった。
なんの事は無い。土曜日にまるで恋人のように、一緒に過ごした香との事を思い返して、1人妄想の世界に入り込んでいた。
そんな2人を、冷静に客観的に観察していた、その他2名は、
目配せして、ワザとらしく2人同時に席を立った。
僚と香を、泳がせてみる事にしたのだ。
その作戦は見事、功を奏した。
伊集院とミックは、外に出てその場を離れたフリをしながら、
実際はドアの外から、コッソリ息を潜めて僚と香の成り行きを見守った。


2人が事務所を出たのを確認した香は、チャンスとばかりにその紙袋を僚に渡したのだ。
「あ、あの課長。土曜日は、ありがとうございました。これ、借りてたあの・・・・」
と言って、真っ赤になって俯く香。
「あぁ、いつでも良かったのに。こっちこそ、土曜は引き留めてゴメンね。」
僚もいつに無く、ギクシャクしている。


「この短い遣り取りでは、何とも言えんな。」と伊集院が言った。
確かに、土曜日に2人の間に何かがあったのだろうが、
何があったのかを推測する為の、判断材料としては少し弱い。

その時は、少し胸に引っ掛かるモノを抱えたまま、
ミックと伊集院は、何気なくまた事務所に戻り、素知らぬフリで仕事を再開した。


その後、ミックが確信を持ったのは、写真の件だ。

やはり同じ位の時期から、香は僚に子供の頃の話を聞きたがった。
(それが結局、このところの“週末BBQナイト”の幕開けに繋がるのだが、)
ある時、ハロウィンやイースターの話になって、僚が言ったのだ。

「ホラ、あのカオリンが爆笑してた、変顔のヤツ。あれはイースターの時だよ。」
「あれは、課長おいくつの時ですか?」
「ん~と、確か俺が4歳で、ミックが3歳の時。」

『変顔』・『イースター』・『3~4歳』

このキーワードに当て嵌まるモノを、ミックは1つだけ知っている。
写真だ。
僚の父親が写した、スナップ写真。
それは、この世に3枚だけ存在する。僚とミックの実家のリビングに1枚づつ。
そして、もう1枚。僚の自宅のリビングの、テレビの横。

間違いない。香は僚の部屋に行った事がある。
そして、この数日前の例の紙袋の事も、ミックは自然と腑に落ちた。
あれはきっと、僚の服だ。


ミックは、その事は誰にも言って無い。
今ここで初めて、僚に言ったのだ。
僚は、噴出したビールをティッシュで拭きながら、
「気付いてたのか。」と言った。
ミックはニヤリと笑った。
「当たり前だろ?何年、おまえを観察してきたと思ってるんだ。」
そして、同時にミックは確信している事がある。

きっと、香はココに泊まった。
だけど、僚は手を出していない。

証拠は何も無い。
しかし、ミックもだてにこれまで、女性遍歴を重ねたワケでは無いのだ。

あの僚がっっ!
あの最高にキュートな香とっ!!
(↑ココ重要 by.ミック)
1晩中1つ屋根の下で!!!!
何にもしないなんて!!!!!



一体、どんなファンタジーなんだよ。
まるで、おとぎ話みたいだ。

でもミックは思うのだ。そんな僚がとても幸せそうだと。
シュークリームを頬張る香に目を細め。
バーベキューや花火ではしゃぐ香に、とことん尽くし。
夜遊びも、女遊びも止め。
毎日遅刻もせず、楽しそうに会社にやって来る僚が、誰よりも幸せそうだ。

今まで誰よりも、好き勝手に生きてきた僚が、
結局最終的に選ぶのは、身軽な自由さでも無く、自堕落な快楽でも無く、
たった1人の彼女なのだ。
これをファンタジーと言わずして、一体何だって言うのだ。


「なぁ、リョウ。」
「ん~?」
ほら今だって。ついさっき、あんなにビール噴出すぐらい動揺してたクセに、
すっかり、穏やかな顔して、ボンヤリしている。
これを腑抜けと言うのなら、そうなのかもしれない。
でもそれで幸せなら、ノープロブレムだろ?
「真似してみようかな、ボクも。」
そう言ったミックに、僚はニッコリと満面の笑みで言った。
「良いんじゃね。かずえちゃん、イイ女だし。おまぁと、お似合いだよ。」


僚とミックの中で、1つ大きく何かが変わろうとしていた。

     初恋③

7月最後の日曜日、香は伊集院家のリビングで、美樹とお茶を飲んでいた。
その前日は、このひと月定番になりつつある、冴羽宅でのBBQであった。

いつも通り、大騒ぎして、花火をして、僚が香を甘やかした。
そんな中、香が美樹にそっと耳打ちしたのだ。
美樹さんに相談したい事があると。いつもの会社帰りだと、課長やミックさんが居るので、話しづらいのだと。
そしたら、明日ウチにいらっしゃいよ。と、美樹が言った。
お昼ご飯一緒に食べましょう?と。何でも夫は、ちょうど外出する予定があると言う。そこで、香はその言葉に甘える事にした。

「ご馳走様です、すごく美味しかったです。」
香がそう言って微笑む。
昼食のメニューは、和食だった。食後に美樹はほうじ茶を淹れると、漸く、本日の本題へと入った。
「いいえ、どういたしまして。それより、私に相談って?」
そう訊ねる美樹に、香は真っ赤になって俯いた。
その様子に美樹は、昨日から思っていた事を聞いてみる。
「恋愛の事?」
すると、香はまた更に赤くなった。先程から、一言も答えていないのに、
これでは返事しているのと、同義である。
それでも、香に言葉にしてもらわないと、埒が明かないので、
美樹は香の気持ちの準備が出来るまで、根気よく待った。

「あの~、恋愛の事というか、まだ良く自分でも解らないんですけど。・・・例えば、ある人の言葉とか、仕草に妙にドキドキしちゃうっていうか・・・。」
そう言って、真っ赤に俯く香に、美樹は嬉々として、直球を投げ掛けてみる。
「ねぇ、もしかして“ある人”って冴羽さんじゃない?」
香は、思わずキッチリ数十秒固まって、また俯いて黙り込む。
美樹は苦笑して、内心(クスッ、そうなのね♪)と、解釈する。
「ふふふ、まぁ誰でも良いわね♪お相手の事は。それで?ドキドキするだけ?その人には、気持ちは伝えたの?」
香はそんな美樹の言葉に、ハッとなって顔を上げたものの、大きな瞳を見開いて、まるで小さな子供のようにブルンブルンと、大きく被りを振る。
「だからっ、・・・そのぉ、まだ自分でもハッキリ自分の気持ちが、解らないっていうか、・・・優しくされて、嬉しいからってだけかなとか・・・・色々、考えちゃって。」
そう言って、香は一瞬とても悲しそうな表情になると、言葉を続けた。
「・・・・前に、1度だけ、やっぱり私にとても優しくして下さった方がいて、私の話を良い話も嫌な話も、いっぱい聞いてくれて、・・・私、ついその人に甘えちゃって。あっっ、って言っても、別に付き合ったとかそういうんじゃないんですけど、気付いたら、2人で会ってご飯食べたり、お茶を飲んだりしたんです。・・・でも、その方には大事なお相手がいらして。・・・結局は、私も含めて全員、傷付く結果になったっていうか。・・・・だから、今度も怖いんです。もしもまた、私の我儘で誰かが傷付く事になったらとか。私が知らないだけで、その方には、大切な人がいるんじゃないかとか。・・・・私、どこまで踏み込んで良いのか解らないんです。他人の心にも自分の心にも。」

美樹は優しく微笑み、ソファの香の隣に移ると、そっと肩を抱いた。
「香さん、それって恋っていうのよ?」
そう言って、美樹は悪戯っぽく香の目を覗き込み、
「誰だって、怖いわ。好きな人に、もう別の人がいるんじゃないかとか。優しくしてくれるけど、アチラにしてみれば、別に特別な事じゃ無いんじゃないかとか。みんな、恋の始まりはそう思って、不安になるものよ。・・・・でもね、香さん。怖がってばかりじゃ、何にも先には進まないんじゃない?」
美樹は、クスッと笑う。
「もっと楽しんだら良いのよ。」
香は、少し首を傾げて、「楽しむ?」と呟く。
「えぇ、そう。楽しむの。人を好きになるって、不安な事や、大変な事もきっとあるでしょうけど、でもそれ以上に、楽しい事なんじゃないかしら?私は、この世で“結婚”が、一番幸せな事だと思ってるけど、でもそれだって、始まりはいつも小さな恋にすぎないでしょ?結婚は一生続く恋愛だから、恋愛を楽しめない人は、人生も楽しめないわ。」

香にとって、憧れの美樹の言葉は、最も偉大である。
目を真ん丸にして、美樹を見詰める香に、美樹は大きく1つ頷くと、
一言一言、噛んで含める様に、香に言った。
「香さん、それは恋よ。あなた、その人に恋してるの。」
ある意味、暗示や催眠術に近いモノを感じるが、
美樹にとって、一番大切な事は、1組でも多く幸せなカップルを成立させる事である。ましてそれが、目の前にいる、自分を慕ってくれている可愛いヒトなら尚更だ。美樹の活躍の場は、なにも“婚活ナイト”に限った事では無いのだ。




その夜、伊集院家の寝室。
「ねぇ、彼女ハッキリは言わなかったけど、やっぱり香さんの好きな人って、冴羽さんよね?どう思う?ファルコン。」
美樹は、昼間の香の話を夫に一部始終話した。
美樹にとっては、夫の前では何ひとつ隠し事など無いのだ。
そして伊集院は、恐ろしく無口でその上、口の堅い男なので、
この話が、この寝室のドアから外に漏れる事は、決してないのだ。
「まぁ、そうだろうな。」
「そうよねぇ。それだったら、彼に恋人がいるかどうかなんて、見れば判りそうなものなのに。いないんでしょ?」
「あぁ、いる訳がない。アイツが惚れてるのは、槇村だ。」
「そうよねぇ、誰がどう見ても。何処に不安になる要素があるのかしら?香さん。」
「さぁな、心の中の事は、本人にしか解らんからな。」
伊集院は、隣の美樹を抱き寄せて言った。
「でもまぁ、やつらはお互い同じ方向を向いてる訳だ。時間の問題だな。あの発情課長が、そう長々辛抱できるとは思えん。」
美樹は、ふふふと笑って、
「それもそうね。」
と言うと、夫にキスをした。
伊集院家に関しては、いつでも平和である。


一方その頃、香は自室のベッドに横たわって、
鏡台の横の棚の上に置かれた、シンプルな写真立てを見詰めていた。
消灯しているので、香のベッドの上からでは、中の写真は見えない。
カーテンの隙間から、薄っすらと差し込む表の街灯の光を反射して、
写真立てのガラス面が、キラキラと輝いている。
たとえ目には見えなくても、香の頭の中には、ハッキリと見える。
兄と2人で写った写真。肩を組んで、無邪気に笑っている2人。

香は僚の言葉を思い出していた。

香が、兄とは血の繋がらない関係だと知ったのは、中学2年生の時だった。
偶然、自分の戸籍謄本を見てしまった。
その事実を知らなければ、香の初恋は違うモノになっていたのだろうか。
香にとって、最初から最後まで、ただの兄として、彼を見る事が出来ただろうか。
世の中にはきっと、知らなくても良い事も、沢山ある。
香はあれからずっと、兄が死ぬまで、兄に嘘を吐き通した。
自分がこの世に生まれた瞬間から、ずっと兄妹だったと思い込もうとした。
だから自分を産んでくれた人を、無かった事にする決心をした。
もしも、香に罪があるとすれば、きっとその事だ。
それは香自身をも、根底から否定する事に他ならない。
香は今現在、その産みの両親が、何処でどうしているかは知らない。
今となっては、知りようも無い。
だけど、僚が言っていたように、感謝しようと思う。
ただ、この世に産んでくれたという、その事だけに。
僚は、そんな簡単でシンプルな事を、香に教えてくれたのだ。
僚にそんなつもりは無くても。

主任とのデートの後で、香が思い出して会いたくなるのは、決まって兄だった。
自宅に帰った後に、主任を思い出す事は1度も無かった。

でも僚は違う。
仕事帰りに駅までの道を一緒に歩いたり、一緒に食事をした帰りの別れ際、
「また、明日。」
そう言った後、もう1度逢いたくなるのは僚だった。
思い出すのは、
優しく笑っている切れ長の目。
頭を撫でてくれる温かい、大きな手。
優しく自分の名を呼ぶ、その声。

美樹は昼間、「恋を楽しみなさい」と言った。
香の心の中には、明らかに兄に対する感情とは別物の、
何かもっと、生々しい感情が芽生え始めていた。
もっと、近くにいたい。
もっと、沢山知りたい、知って欲しい。
その相手は、冴羽僚だ。やっと、その事を香は自覚した。

香は写真立ての隣に、ちょこんと座っているクリスタルのテディベアを見詰める。
こちらも、微かな光を反射して、キラキラと輝いている。
それは香にとって、
まるで自分を悪い夢から守ってくれる、お星様みたいに思える。
そう思うと、心から安心出来て、香の瞼は重たくなってくる。
眠りに落ちるホンの手前、香は心の中で兄に報告した。

お兄ちゃん、私、好きなヒトが出来たよ。


第8話 週末

『夢に見たような景色が 今僕等を包み始めてるのよ
 街に灯りがついて 週末の都会が少しだけ色めき出すのよ

 これから僕達は土曜日の恋人さ
 見てきた夜を全て教えて
 僕にひもとかせて       
                  サンボマスター「週末ソウル」より』






8月に入ってからも、相変わらずBBQは続けた。
花火は、まだまだ沢山あったし、
夏もまだまだ終わりそうにない。
1度だけ、ミックがかずえを連れて来た。
僚達は、彼女とは面識があったし、初めて会う香もすぐに打ち解けた。

僚は少しづつ、香にお酒の味を覚えさせる事にした。
これから先、僚の居ない場で香の身に、
万一、お酒を飲まないといけない事態が遭遇したと想定して、
この間のように、コテンと眠りこけられたら、と思うと僚は気が狂いそうだ。
あんな無防備な彼女を、他の誰やらには見せられない。
それこそ、特上A5ランクだ。油断したら、喰われてしまう。

それならば、
僚が気狂いになる前に、香を特訓した方が早いような気がしたからだ。
要はアルコールなど、慣れの問題だ。
この前、焼酎をグラスに8分目程、一気で飲んでも急性中毒になった訳でも無い。という事は、飲み方さえ気を付ければ、嗜む程度にはいける筈だ。
それに、少しだけ。
ちょっぴり酔った香を見てみたいという、邪な黒い腹もあったりする。
この場合、僚が愛でる分には問題無いのだ、僚にとって。


少しづつ、変わり始めたのは、もうすぐ9月になる頃だった。
まずは伊集院夫妻が、親戚の集まりがあるからと、来なかった。
次の週には、夫妻は来たけれど、ミックが来なかった。
久し振りにかずえと遠出して、1泊して来るからと。
実の所、彼らがBBQに飽きて来たのも本音だが、もっと言うと、僚と香を自然な形で2人だけにするのが大きな目的だった。
このまま、清く正しいグループ交際を続けていても、何ら進展が見られないからだ。当人同士は、至ってのんびり、仄かな恋心を育んでいるが、それに付き合わされて毎週BBQはさすがにきついのだ。普通の大人は。



9月の第2週の金曜日、僚が4階男子トイレで用を足していると、ミックがやって来た。便器はずらっと空いているのに、わざわざ隣にやって来た。
「何だよ、気色悪ぃな。空いてんだから、間隔あけろよ。」
そう言って、眉間に皺を寄せる僚に、ミックはニヤッと笑って、
「今週は、ボクもファルコン達も行かないから。カオリには、ギリギリまで黙っといて、適当にごまかせ。」
と、囁いた。そして、
「まぁ、頑張れよ。」
と肩をポンポンと叩かれた時に、漸く僚は気付いたのだ。
なるほどそういう事か、と。要らん気使いやがってと思いつつ、僚は思わず頬が緩むのを抑えられなかった。

香と2人きり。初めて香が僚の部屋に来た時以来、2度目だ。



翌日午後、僚は愛車で香のマンションに、迎えに行った。
ここまでは毎度の事だ。
暫く、下で待っていると香が降りてくる。
このマンションの、5階に香が住んでいる。
まだ見ぬそこに、僚は必ずや辿り着いてみせると考えている。

香を乗せて5分ほどしたところで、僚はさも今思い出したかのように、
「あ、そう言えば今日は、ミックも海ちゃん達も来られないんだって。何か、急用ができたらしくて。」
香の顔色を窺いつつ、そう言った。
香は少し考えて、
「2人じゃ、バーベキューって感じじゃないですよね。」
と俯いて呟いた。
僚は内心、帰るって言わないでくれと、神に祈ったが、次の彼女の言葉は僚の予想を大幅に上回るモノだった。
「あの、課長。そしたら、今日の晩御飯は私が作ってもいいですか?いつも、課長にお世話になっているお礼に。」
そう言って微笑んだ香に、
僚は涙目になりそうな所をグッと堪えて、渋く決めてみた。
「あぁ、勿論。喜んで。」


お肉とお魚どっちが良いですか?
う~ん、じゃあ、肉で。
じゃあ、スーパー寄って行こうか。
はい。

なんて、流れで無駄に遠い郊外のショッピングモールまで、
ドライブも兼ねて、ひとっ走り。
思ったよりも、スムーズだった。道の事では無い。
あんなに、BBQの次の口実を探していたのに、意外とアッサリと2人きりになれた。

「あ、そうだ課長。でも、花火はしましょうね♪ いつも通り。」
香が僚に微笑みかける。
やばい。可愛過ぎる。もう、渋く決めるなんて無理だし、無駄だ。
僚は、満面の笑みで、「勿論♪」と言った。

それから香は僚の為に夕飯を作り、僚はお礼に食後のコーヒーを淹れた。
2人は、ビールを片手に屋上へ上がり、この夏の名残の様な花火をした。
まだまだ、花火は沢山ある。
僚はもう少しだけこのまま、初恋のような、甘い夢のような夏が続けばイイと切に願った。


次の週は、2人で一緒に作れるからと、リビングでホットプレートを使ってお好み焼きにした。そして、花火をした。

そのまた次の週は、僚は香を外へ連れ出した。
夏の間だけ、夜もやっている水族館がある事を調べたのだ。
それが、9月いっぱい迄だったので、行く事にした。
暗い中で、蒼く光る水槽を眺める香を、僚は眺めた。
正直魚なんて、どれも同じだ。
香は、そんな僚の視線に気付きもせず、キラキラと鱗を輝かせる魚たちに魅入っていた。


そうやって、2人で週末を過ごしている内に、季節は秋に変わろうとしていた。
香は、350mlのビールを、1本飲めるようになった。
でも、少しだけ呂律が怪しくなってしまう。
そんな香を見るのが、僚は楽しくて仕方なかった。
僚の次なる目標は、あの香の部屋へお呼ばれする事。
もう少し、肌寒くなれば、BBQの代わりに鍋と言う手もある。
そして、最終目標は香の恋人になる事。
今は、まだ課長だ。










第9話 秋雨

その日の天気予報は、晴れのち所により、局地的に激しい雨という事だった。
このところの空模様の不安定さは、季節特有のモノだ。
それに晴れていても、随分肌寒くなってきた。
僚とミックは、ちょっと前のように、
香の、涼しげな服からスラリと伸びる華奢な二の腕や、
丈の短めのスカートを拝む事が出来なくなって、少し淋しい気がした。
それでも、タイツに包まれたスラリと形の良い脚や、
薄手のニットからチラリと覗く、鎖骨の滑らかな流線型は、充分魅力的だ。
結局いつだって、その季節に応じた楽しみはあるのだ。

僚のデスクに1本の電話が入ったのは、9:40頃だった。
電話を終えて僚は、伊集院に言った。
「海ちゃん、俺ちょっと呼ばれたから、11:00に神谷町まで行ってくるわ。
14:00からの編集会議、代理で出といてくんねぇ?」
伊集院は頷くと、
「あぁ、了解。」と答える。
神谷町には、度々依頼を寄越す、変わり者の学者の爺さんの家がある。
今現在も、原稿を1つ預かっている。
締め切りは無いに等しいが、その爺さんが寄越す原稿は難解でいつも苦戦する。
何故だか、僚を非常に気に入っており、
いつもそこに呼ばれれば数時間は拘束される。

僚は、10:30頃会社を出た。
昼休みまでは、いつもと何ら変わらない事務所の光景だった。
ミックが出前の中華を食べ、香は手製の可愛らしい弁当を広げ、
伊集院もいつもの、超豪華愛妻弁当に舌鼓を打った。
香は心の中で、課長は今日のお昼は何食べているんだろう、と考えた。

13:55に、伊集院は同じフロアの、小会議室へと向かった。
午前中、僚に頼まれた、14:00からの会議に出る為だ。

ミックが香に、用を頼んだのは14:05頃だった。
大した事では無い。
先日、必要な資料を購入した際の領収書を、3階の経理課へ提出してきて欲しいというモノだ。恐らく、10分かそこらの用件だ。
香が入って来る前は、3人とも自分たちで赴いていたが、今ではそれは香の大事な仕事である。この課に於いて、香の出来る事はあまり無い。
電話には出られないし、3人がやっている殆どの事は、香には理解不能だ。
それでも3人は、香が気に病む事の無いよう、
香にも手伝って貰える用事を作っては、やって貰うようにしていた。
3人と社長にしてみれば、香はただそこにいてさえくれれば良いのだけど、
そんな本音はきっと、香を傷付ける。

ミックは、香が事務所を出た後14:15頃に、2階の資料室へ行った。
皆それぞれが、仕事をしていたのだ。だけど今まで順調に廻っていた歯車は、気付かぬうちに噛み合わなくなっていた。



香が3階のフロアを訪れると、田中係長に声を掛けられた。
「槇村さん、お疲れ様です。まぁた、僚のヤツに雑用押し付けられたんですね。アイツに自分でやっとけって、僕の方から1度言っておきます。」
そう言って、笑う田中に香も、
「違うんです。今日はミックさん。経理課へ領収書を提出に。」
それに、私の数少ない仕事ですから。と言って、微笑んだ。

3階には、編集部の小さなセクション毎の各小部屋と、総務課と経理課があり、総務・経理は業務内容は違えど、一続きで垣根は無く、女子社員同士も皆一様に表面上は団結している。
香が1人で4階から外に出る事は、偶にの事だ。
4階には、社長室と僚率いる別室と、大・小それぞれ数室の会議室があるだけだ。4階の彼等は、大抵の事は4階と、せいぜい2階の資料室だけで用は足りるし、社内よりむしろ、会社の外との遣り取りの方が多い位だ。
香が偶に他の課を訪れると、色めき立つのは男性陣で、
皆あからさまでは無いが、全神経を集中させて、彼女の一挙手一投足に注目を浴びせている。

香は、入社当初の僚の“制服却下宣言”により、一応自分にも宛がわれているらしい、女子更衣室を利用した事は無いし、この社内での、女性同士の力関係や派閥と言ったモノもよく理解していない。
また過去の事もあり、極力自分からは関わり合いたくないというのが、正直な所だ。
また事情を知っている(その事は香は知らないが)僚としても、なるべくそういう事から香を遠ざけたかったので、香と他の女子社員との接触には、細心の注意を払っていた。
そういった全ての事を、良くは思っていない女子社員がいる事など、香には知る由も無かった。口も利いた事が無い、名前もよく知らない相手から妬まれたり、まさか悪意を抱かれるなど、香の思考回路では思いもしない世界だ。

香がミックから頼まれた用事を済ませて、その部屋を出た時、
ついにその時が来た。
「あの、槇村さん?ちょっといいかしら?」
少し派手目なメイクの美人の女子社員。顔は見た事があった。
確か、総務課の人だ。すれ違うと、いつも香水の香りがふわっと漂う人だ。
香は思わず身構えてしまう。
前の会社での事を思い出す。
廊下の少し先に、2人の遣り取りをじっと見詰める女子社員があと3人いた。
香の背筋に冷や汗が流れ、全身に鳥肌が立った。


香は本当は、付いて行きたくなど無かった。
用がありますので、と言ってあの平和な4階の扉の中に、走って帰りたかった。
香の表情は消え失せ、青白い顔色の内側では、
子供のように怯えて泣き叫んでいた。
僚に逢いたかった。
心の中で、何度も僚の名前を呼んだ。
前に2人、後ろに2人。
香は制服の女性達に挟まれて、屋上までの階段を上がった。
4階の踊り場を通った時、あの香のいつもの居場所の扉が見えて、涙が出そうになった。だけど、どうしても逃げ出す事が出来なかった。
自分の意志とは違う、何か不思議な力が香の足を階段の先へと進めた。
それはまるで、絞首台へと続く、13階段のようだと香は思った。

屋上に着いた途端、新宿のビル風が吹いて、
香は無意識に白いブラウスの袖を擦った。
自分のデスクに置いてきた、キャメルのカーディガンを羽織ってくれば良かったと思った。でもまさか、屋上に来るとは思っていなかったのだ。
香は4人の女達に囲まれ、過去にも散々言われたような、
使い古されたような、馬鹿馬鹿しい罵声を浴びせられた。
曰く、自分達と同じ一般職の癖に、制服も着ずに自由に振舞っている。
曰く、上司である冴羽課長に上手く取り入って、利用している。
曰く、少しばかりルックスが良いからと、調子に乗っている。
お高くとまっている。色目を使っている。自分たちを見下している。

香には、良く解らない。
どうして?お互いに、何にも良く知りはしないのに。
名前すら知らない、顔だって初めて見る人もいるのに。
そんな自分が、何でそんな彼女たちを見下す事が出来るというのだろう。
言い掛かりも、甚だしい。
香は無意識に、屋上の扉の方へ逃げようとした。
その時、1人の女が香の細い肩をグッと押した。
「何、逃げようとしてるの?話はまだ終わって無いのよ?」

その瞬間、香の心は限界を超えた。
彼女たちの言葉など、耳には届かなかった。
視界はブラックアウトし、目を閉じた瞬間香の瞼の裏に映ったのは、
僚の笑顔だった。

いやああああぁああ~~~~
悲鳴を上げながら、その場に倒れて気を失った香を見て、
女性達は、自分達がやった事が、間違っていた事を知った。
しかし今更、事を公にする訳にはいかない。

ねぇ、なに?この子ちょっとヤバいんじゃない?
死んでないよね?
絶対、秘密よ。
ほっといて、行こう。
ココにいたら、ヤバいわよ。

14:20、屋上のコンクリートの上に1人取り残された香の上に、
無情にも、局地的な秋雨が降り始めた。




僚が事務所に着いたのは、15:00頃だった。
今日はランチを香と一緒に出来なかったので、せめておやつでもと、ロールケーキを買って来た。先週末、2人でリビングでテレビを見ていた時に、
香が「うわぁ、美味しそう」と言ったモノだ。
勿論、香が帰ってすぐに、ネットでチェックした。
そんな事は、香は知らないので、きっと少し驚いてでもすぐに、あのパァッと花の咲いたような笑顔を見せてくれるに違いない。
僚はただそれだけが見たくて、雨の中を急いで会社に帰って来た。

「ん?何だ?誰もいないのか?」
僚が不思議に思って、首を傾げていると、
伊集院が会議を終えて、戻って来た。
そのすぐ後に、ミックが大量の資料を抱えて、戻って来た。
3人は、首を傾げてほぼ同時に呟いた。

「「「香は?」」」

最後に香を見たのは、ミックだった。
かれこれ1時間ほど前だ。
簡単な用事を頼んだ。すぐにココに戻っているモノだとばかり、思っていた。
香のデスクの上には、携帯が置かれたままだ。
僚が買ってぶら下げた、スヌーピーとウッドストックの付いた携帯ストラップが目に入る。椅子の背には、キャメルのカーディガンが掛けられたままだ。
何処か、遠くに出掛けたワケでは無さそうだ。
僚はミックの、経理課への用事を頼んだと言う言葉に、嫌な胸騒ぎを覚えた。
それから、3人は慌てて社内中、香を捜し回った。

それから10分後、
屋上でビショ濡れになって、気を失っている香を見付けたのは、伊集院だった。

最終話 ×××○○○

どうして神様は、人生という舞台装置に、
必ず残酷な暗転を用意するんだろう、と僚は思う。

例えば、2歳の子供を残して、両親を飛行機事故で奪ったり、
例えば、0歳の子供を残して、両親を交通事故で奪ったり、
10歳の少女から、尊敬すべき父を奪い、
20歳の乙女から、たった一人の兄を奪った。

暗転は必ず、幸せの一歩手前で訪れる。
まるでその闇がより際立つように、
明るい兆しに幻惑した隙に、足元を掬われる。

そんなんじゃ、お人好しでのんびり屋のヒロインは、暗転に気が付かず、
奈落の底に落ちてしまう。

でも、と僚は思う。
今度だけは、何としてもその姫の手を取って、落下する前に助け出してみせる。
彼女の傷を消す為ならば、何だってすると前に心に誓ったのだ。




伊集院が、ぐったりと気を失った香を抱いて事務所に戻った時、
僚は腸が煮えくり返って、吐きそうだった。
いつもの柔らかいふわふわの癖毛は雨に濡れ、毛先から透明の雫を落とし、
紺色のボックスプリーツのスカートも、
紺色で足首の所に、リボンの飾りの付いたタイツに包まれた細い脚も、
白いボウタイカラーのブラウスも、
全部ビショ濡れだった。
今朝僚は香を見た時、可愛い恰好だなと思って、1人にやけていたのに。

激しい怒りで顔を真っ赤にして、僚が絶句している時に、
ミックが内線を受けた。
総務の田中係長だった。
先程から、僚達が血眼になって、香を探していたのを知っている彼が、
情報を寄越してきたのだ。

彼曰く、女子達は皆一様に貝のように口を閉ざし、知らぬ振りを決めている。
しかし、1人の総務課の男子社員が、
数人の制服を着た女性と香が、連れ立って階段の方へ歩いてゆく後姿を目撃したという。僚の悪い胸騒ぎは、ほぼ的中と見て間違いは無い。

僚は香に近付いて、その青白い頬を撫でた。
怒りで涙が零れたのは、生まれて初めてだった。
馬鹿な女子社員達にも、勿論怒り(と言うよりも、むしろ殺意)を覚えたが、
こんな目に遭わせてしまった、助けてやれなかった自分自身に、一番怒った。
ロールケーキの事は、もうすっかり忘れていた。






それからの彼等の行動は迅速だった。
まずは伊集院が美樹へ連絡し、事情を説明して、着替えやタオルを持ってきてくれるよう頼んだ。
その間にミックは、一番小さな会議室をエアコン全開で温め、その上何処からかオイルヒーターを調達してきた。
僚は事務所にあったタオル数枚で、ビショ濡れの彼女の髪や体を優しく拭いた。
程なくして現れた美樹に香を任せて、男達3人は会議室の扉の前で、苛立った。
濡れた衣服を着替えさせようにも、男達ではどうにも出来ない。
美樹も1人で大変だろうが、手伝う訳にもいかないので仕方ない。

僚は、その場を離れ社長室に向かった。
先程からの一連の事件を、社長も把握している。
途中、僚が連絡したのだ。
早速社内では、事実関係を調べる為の、社長の行動が始まっていた。
「彼女は?」
珍しく部屋に訪れた僚に、社長が訊ねる。
普段、僚がこの部屋を訪れる事は、殆ど無い。
あまり好きでは無いのだ。
僚と彼が用がある時は、大抵いつもの蕎麦屋だ。
「今、伊集院の奥方に来てもらって、着替えをさせてます。俺達でやる訳にもいかないんで。」
そう言った僚に、社長は微笑むと、
「何だ?僚。まぁだ手を出しとらんのか?サッサと結婚したら良いモノを。」
相変わらず、冗談とも本気ともつかない事を言う。

ったく、人の人生だと思って好き勝手言いやがって。

僚はそう思って、苦笑すると、
「まぁ、時間の問題です。言われなくても、そのうち結婚式に招待しますよ。」
そう言って僚は、スッと表情を変えると、言葉を続ける。
「・・・とりあえず、着替えをさせたら、彼女を自宅まで送って行きます。俺は暫く彼女の傍にいてやろうと思います。今回の件、事実確認の方はお任せします。」
社長は深く頷くと、
「あぁ、もう既に始めてるよ。私も大事な娘をこれ以上、傷付けたくは無いからね。」
そう言って微笑んだ。そして、僚に近付いて僚の頬を撫でる。
「やっぱり、私の思った通りだ。あの子と出会ったお陰で、お前は随分成長したよ、僚。イイ男になった。」
「イイ男は、生まれつきです。」
と僚はニヤッと笑って、軽口を叩く。
思えば先程から、漸く僚の肩からも余分な力が抜けていた。

その直後、伊集院が僚を呼びに来た。
香は美樹の持って来た、ネルの温かそうなパジャマに身を包み、
先程よりかは、幾分顔色も良くなっており、
僚は内心、ホッと胸を撫で下ろした。
これまた美樹の持って来た、大きなブランケットで香を包むと、僚は香を抱き上げて、会議室を出た。
香の濡れた服や、ミックが纏めた彼女の私物を持って、美樹が後に続いた。

美樹の運転する、ランドクルーザーで香のマンションへと向かった。
部屋のカギは、香のバッグの中に入っている。
この前の週末、何気なく僚は香の部屋へ行きたいと仄めかした。
香は別段、嫌がる訳でもなく、じゃあ今度、と答えたのだ。
まさかこんな風に、彼女の部屋を初めて訪れようとは、予想していなかった。
香を抱いて手の塞がった僚に代わって、美樹がカギとドアを開けてくれた。
僚は頭の中で色々と考えていた、初めてココを訪れた時のシチュエーションを思い出していた。
妄想の中の香は、笑顔で『ようこそ』と言ってドアを開けたのだ。
でも現実は、グッタリと僚の腕の中で眠っていた。


19:00頃、ミックが連絡していてくれたようで、
かずえが香を診察しに来てくれた。
今の所、熱も無く脈も呼吸も正常だという事だった。
一応、念の為風邪薬を置いて行った。
この季節に、気を失ったまま1時間近くも雨に打たれていたのだ。
目覚めて、熱が上がるようだったら、何か温かいモノを食べさせ、
水分補給を十分にして、薬を飲ませる様指示された。
かずえの帰り際、玄関で
「すまなかったね、忙しいのに。ありがとう。」
と言った僚に、かずえは何も言わず、僚の腕を軽くポンポンと叩いて、頷いた。
僚は余程ひどい顔をしていたのだろうと、自分で思う。
女性に、あんな風に慰められたのは初めての事だ。

20:00頃、僚の携帯に社長から連絡が入った。
結局調査した結果、香を連れ出したのは、総務課の社員3名と、経理課の社員1名だった。初め、4人揃って会議室に呼ばれた時には、皆一様に口を閉ざし、シラを切り続けたが、所詮集団でしかモノを言えない人間は、個別に社長室に呼ばれると、途端態度を変え、一部始終をペラペラと語り始めた。
全員が全員、自分は反対したけど、誰それが無理やりに仲間に引き入れたとか、怖くて断れなかった等と言い訳を並べた。
社長は即刻その場で、4人全員に解雇を言い渡した。
別に、相手が香だったから厳罰を処したつもりはない。
相手が誰だろうと、複数で弱い者いじめをした挙句、己の保身だけしか考えない身勝手な連中など、彼にとって必要な人材では無い。人件費の無駄である。
社長の話を、僚は静かに相槌を打ちながら聞いて、
香はまだ眠っている事。
一応、医者にも見せて、今の所大丈夫だろうという事を報告した。
そして、香の事を守る事が出来なかった事を、改めて詫びた。
彼女を大切に思っているのは、何も僚だけでは無いのだ。
電話の向こうの、父親の様な彼もまた彼女を娘のように思っている。
社長は、ヒッソリと笑うと、
「済まないと思うなら、私と海原に早くいい報告を聞かせてくれ。」
と言って、電話を切った。
また、それかよ。と、僚は思ったが、口元は笑っていた。

暗くなっても、僚は灯りを点けなかった。
表は昼間の雨が嘘のように上がり、雨で洗われた空には綺麗な月と星が出ていた。窓から僚は1人、そんな空を見た。
どうして、せっかくこの部屋にいるのに、自分は1人でこの月を眺めているのだろうと思った。ゆっくり香を寝かせといてやりたい気持ちの反面、この綺麗な月と星を2人で眺めたかった。
と言うよりむしろ、
綺麗なモノを眺めて喜ぶ香を、眺めるのが僚は好きなのだ。
窓際から室内を振り返ると、ベッドの上で、香が寝息も立てずに眠っている。
鏡台の横の棚の上に、写真立てと小さなテディベアが佇んでいる。
あれを、僚がプレゼントした時の香の顔を思い出していた。
まるで無邪気な子供の様に可愛くて。それでいてゾクゾクする程美しくて。



もしも、今度は
小さな赤いビロード張りの箱の中に
リングを入れて渡しても
彼女は同じように
微笑んでくれるだろうか




僚が香に付き添って、10時間ほど経過した真夜中。
小さくうめき声をたてて、香が目覚めた。

香が目を覚ますと、自分の部屋のベッドの上だった。
それなのに、すぐ目の前には何故か僚がいて、
心配そうに自分の事を見詰めている。
今がいつで、眠るまで何をしていたのかがすぐには思い出せない。
僚がこれまでにみた事も無い様な、悲しげな顔をしている。
僚はいつだって香には、笑顔しか見せなかったのに。
酷く何かに傷付いた様なその表情に、香の胸は締め付けられるように痛んだ。
香は思わず体を起こした。
いつものように、僚に笑っていて欲しかった。
僚は香が突然起き上がったので、少し驚いて、でも思ったよりも元気そうだった事に、ホッと安堵した。

「課長?」
そう呟いた香の声は少し掠れていた。
「大丈夫か?どこも痛いとこは無い?」
そう言って、漸くいつもの僚の顔に戻ったのを見ると、
香は嬉しくなって、笑いながら首を振った。
僚は香のおでこに手を当てて、頷くと、
「うん。熱も無いみたいだ。」と言った。
彼等のチームワークによって、迅速な対応をした事が、功を奏した。

僚は自分でも無意識のうちに、香をきつく抱き締めていた。
よく帰って来てくれた。
ずっと眠り続けて、何処か僚の手の届かないところまで、行ってしまうんじゃないかと、そんな馬鹿げた事に僚は香の寝顔を見ながら怯えていた。
僚は優しく香の背中を撫でると、
「怖かったな。よく頑張った、偉いぞ。」と言った。

香は僚の腕の中で、昼間の事を少しづつ思い出した。
順序はグチャグチャだった。
総務課の人に、呼び止められた事。
肩をグッと押された事。
ミックに領収書を持って行くように頼まれた事。
階段の踊り場から、4階のドアを見詰めた事。
見下していると言われた事。
色目を使っていると言われた事。
途中で、屋上の入り口の方へ逃げようとした事。
心の中で、何度も僚を呼んだ事。
僚の笑顔が瞼の裏に出て来た事。
香は声も立てずに、静かに涙を流し続けた。
僚は何も言わず、ただ背中をさすり続けた。
僚のYシャツの胸を、香の涙が濡らし続けた。

どれくらいそうしていたのか、漸く香は泣き止んだ。
僚は香の頬を両手で包んで、真っ赤に潤んだその瞳を見詰めた。
おでことおでこ。鼻先と鼻先が、ギリギリまでくっ付いている。
初めてのその至近距離に、香の心臓が跳ねた。

「香、俺に色目を使え。俺を誑かせ。俺はお前にだったら、喜んで骨の髄まで誑かされてやる。・・・だから、俺を欲しがってくれ。」
これまで香が、色んな人に言われた酷い言葉を、
僚が発すると、それがとても甘美な口説き文句に聞こえた。
僚の優しさと、愛に満ち溢れている。
香は僚の背中に腕を回した。
「課長、私は課長が大好きです。」
真っ赤になってそう言う、愛しい人のその唇に僚は自分のそれを重ねた。
それはこれから何年先までも、何千回、何万回キスするうちの、初めの1回だった。

唇を離して、僚が香を見詰めると、香はこれ以上無い程真っ赤だった。
「か、課長。私、やっぱりなんか熱が出てきたかもしれません。」
そんな事を言う可愛い彼女に、僚はニヤッと笑うと、
「安心しろ?それ風邪じゃ無いから。」
と言って、もう一度その唇に口付た。


図らずも僚の、
香の部屋へ来る事と、香の恋人になる事という2つの目標は、
ひょんな事から、達成してしまった。
次の目標は、
まずは香に、“課長”と呼ぶのを止めさせる事。キスから先に進む事。
そして最終目標は、
親父に孫の顔を見せる事だろうな、やっぱり。

これから先の2人には、まだまだやらなければならない、
楽しい事が沢山あって、香の生きる理由も見付かった。




・・・とりあえず(完)











オフィス・パラレル、完了いたしました。
執筆中、沢山の拍手やコメントを戴いた皆様に、
この場を借りて、お礼申し上げます。ありがとうございました。

パラレルと前置きしたのを良い事に、やりたい放題やっちゃいました。
お話しによっては、不快に感じる方もあるかと思いましたが、
皆様の温かいコメントや、拍手に勇気を持って書き進める事が出来ました。

どうやら、ワタクシは思い付いたら一気に書かないとダメなようで、
(自分でも今回、初めて気付きました。)
コメントのお返事を書きたかったのですが、更新を優先させちゃいました。
ごめんなさい m(_ _)m
個別のお返事は、また改めて、おいおい書かせて戴きます。

最後に、“とりあえず”としたのは、
もしかしたら番外的な短編なんかも書けたらいいなと思ったからです。

この後にもう1話、「余談 その他2名」というお話がありますので、
良かったら、そっちの方も読んで下さいませ。

ホントにホントに、ありがとうございまっす!!!!
愛してまっす!!!          ケシ

余 談 その他2名

局地的な秋雨が降って、女子社員が4名解雇になった翌日。

4階、編集部別室では、2人の社員が呑気にコーヒーを飲んでいた。
コーヒーだけは、この社内でも群を抜いて、贅沢な部署である。
廊下の外にまで、遠慮なくその芳香を撒き散らしている。
そもそも、ミックも伊集院も、昨日僚が香を連れて帰った時から、
今日は、2人の出社は無いなとは思ったが、案の定である。

まぁ、それは良しとして、連絡も無しにとは、これ如何なモノかとミックは思う。一応ああ見えて、アイツはココの課長では無かったか。
彼等があと何日間出社して来ないか、ミックと伊集院は今朝一番で賭けをしている。昨日の嵐が一転、実に平和である。

コーヒーのお供に、2人はモグモグとロールケーキを食べている。
「出来れば、昨日のうちに食べたかったな。」
と伊集院が呟いた。
有名店のクリームたっぷりの、フルーツを贅沢に使ったそれは、確かに美味しいが、一晩冷蔵庫に入れられ、生地のシットリ感が、半減している。
「ボク達が食べちゃって、カオリ拗ねないかな。」
言葉とは裏腹に、楽しそうにミックが言う。拗ねた香も最凶に可愛いのだ。
「フンッ、槇村の機嫌を取るためなら、アイツは10個でも20個でも、また買って来るだろ。」
伊集院の言葉に、ミックは心底イヤそうに顔を顰める。
「Oh~!!冗談キツイよ~、ファルコン。前のシュークリームだって、結局カオリは、3個しか食べれなかったじゃないかっっ。あれを誰が処理したと思ってんだよ。ボクとファルコンだよ?しかも、今度はロールケーキだよ?Oh,ジーザス!!!」
ミックは大げさに、胸の前で十字を切る。

「まぁ、責任は下の階のバカ女共にとって貰えば良いんじゃないか?」
伊集院が、ボソッと呟く。
ミックは、パチンと指を鳴らすと、
「ファルコン、それナイス・アイデア♪」
と言った。

ミックは、想像する。
大量のロールケーキを嫌がらせのように差し入れて、
「いやぁ、ごめんねぇ。ウチの姫の食べ残しで悪いケド。」
と、嫌味を言う自分を。
昨日の胸糞悪い一件の、溜飲が少しは下がるというモノだ。
香をあんな目に遭わされて、ムカついているのは何も僚だけでは無い。
ミックや伊集院や美樹とて、同じ気持ちだ。

ミックは小さい頃、内気で人見知りだったから、意地悪な子供に良くからかいの対象にされた。ミックの父はコンサバで、ミックを事あるごとに、男たるもの強くなければと、ボーイスカウトやサマーキャンプへと送り込んだ。
それはミックにとっては、地獄の様なモノで、必ず僚と一緒じゃ無ければ行かないと駄々をこねた。
そして、出掛けた先でミックはイジメに遭い、僚がキレて相手を殴り倒し、大騒ぎになるのが恒例だった。
僚は乱暴だったけど、とても優しかった。
弱いモノを苛めるバカが、昔から反吐が出る程嫌いだった。
ミックはいつも守られる方だったけど、僚のこんな心意気だけは誰よりも受け継いでいるつもりだ。

香を苛めるやつは、絶対に許さない。
ケンカでも何でも、売られたら買ってやる。

4人は大切な仲間なのだ。
ミックはそんな事を思いながら、コーヒーを飲み干した。

番 外 ハッピー・ハロウィン 

※ このお話しは、オフィス・パラレル『よくある恋の見つけ方』の、
番外・短編でっす。本編をお読みで無い方は、先にそちらを読まれると面白いかもでっす(´σ`)(てへ。ちゃっかり、宣伝)






10月下旬、僚が香と恋人になってから、早半月。
僚にしては珍しく、スローペースで愛を育んでいる。
今までの僚を知るミックや伊集院は、
そんな僚を、まるで珍獣か何かを見るような目で見ている。
しかしながら、香は至って幸せそうであり、それが何よりなので、
驚愕しつつも、2人の恋路を陰ながら生温く見守っている。

この夏に翻訳課の面々は、何度となく飲み会(BBQ)を重ね、
以前にも増して、すっかり同僚というより、飲み友だ。
何か事あるごとに、口実を付けては集まって酒を飲んでいる。
香の加入により、彼らの絆もより深まった事は確かである。

しかしそんな絆より、香との仲を深めたいのが、冴羽僚である。
今まで、無駄に女性遍歴だけは重ねてきたけれど、
本気の恋愛は、これが初めてである。
しかも、相手は超奥手の生娘である。
これまでの、手練手管など通用しないのだ。
10代の頃に、うぶな恋愛をすっ飛ばして、ヤリまくって来た男は、今。
まるで、中学生のような交際に胸をときめかせている。
この際、外野の奇異の視線は二の次だ。
大切なのは、姫のゴキゲンと、タイミングなのだ。
未だ、キス止まりの、甘酸っぱい関係をもう一歩進展させたいのだ。

今年のハロウィンは、平日のど真ん中なので、
1番近い週末に、僚のアパートで仮装飲み会を催す事となった。
勿論、発案者は伊集院夫人である。
メンバーもいつも通り。
僚と香に、ミック、伊集院夫妻である。
もし、時間が取れれば、かずえも来るかもしれない。
それに先駆けて、先日の日曜日。
香は美樹に呼び出され、ショッピングに出掛けた。
衣装選びだ。

実は美樹には、もう既に今回の仮装のイメージがほぼ固まっていた。
香を連れて行ったのは、下着屋だった。
「これなんか、絶対に似合うわよ♪香さん。」
それは、ふわふわで真っ白な、シフォン素材が幾重にも重なった、
ベビードールと、タップパンツの上下だ。
香は真っ赤になって、固まっている。
「・・・あ、あの美樹さん?こ、これって下着ですよね???」
「ふふふ。本来はね♪でも今回は、アウターよ?仮装ですから。それに、その後普通に使えるでしょ?下着として。冴羽さん、きっと好きだと思うわよ?こういうの。喜ぶわよ♪彼。」
そんな、美樹の言葉に香は更に赤くなる。
課長が、喜ぶ。という事は、つまりは・・・そういう事で。
香には、想像の外の世界で、思わず眩暈を覚えた。

その内いつか、自分も課長とそんな風な関係に、発展するんだろうか?
でも、どうやって?
何がキッカケで?
香には、サッパリわからない。
でも、解らなくてもイイのだという事すら、解って無い。
その様な事は、僚に丸投げで一向に構わない。
香が考えずとも、彼は勝手に考えまくっているのだから、任せればイイだけだ。

香がついボンヤリとしている合間に、美樹はサッサと選んでしまった。
香には、件の白い上下。
片や美樹は、対照的に色違いの真っ黒の同じモノの上下。
「お揃いね♪」
そう言って、ニッコリ笑う美樹に、香も思わず微笑む。
たとえそれがどうであれ、まるで姉のような大好きな美樹に、
選んで貰った、可愛らしい下着。
香は次の週末に、自分がそれを着るのだという事もすっかり忘れ、嬉しくなった。
その後、ヘアアクセサリーが沢山並んだ店に行った。
美樹は自分に、黒いクリスタルガラスのビーズで編まれた、ヘッドドレスを。
香には、ゴールドにこれまたクリスタルガラスで、
キラキラにデコられた、ティアラを選んだ。
香には、美樹の意図は解らなかったけれど、
週末は、僚の家へ行く前に伊集院家に顔を出して、着替えをする事を約束した。

そして、仮装飲み会当日。
伊集院家のインターホンに応えて、玄関ドアを開けたのは伊集院隼人だった。
思わず、香は吹き出した。
「・・・プッ、い、伊集院さん。お似合いです、とっても。」
「おぉ、そ、そうか。美樹が考えてくれたからな。」
真っ赤になって照れる伊集院の出で立ちは、フランケンシュタインだ。
赤と白のボーダーの、だぼっとしたツナギは美樹の手作りだ。
囚人服をイメージしている。
そして、顔や頭には美樹の手で、無数の傷痕がメイクによって描かれている。
何処からどう見ても、立派にフランケンシュタインだ。

数十分後、香は姿見の前で真っ赤になってポカンとしていた。
この間、購入した白い下着の上下。
それと、美樹が用意してくれていた羽根を背中に付ける。
ハーネス状になっている、パーティグッズだ。
パーティグッズを扱う店に行けば、売っているらしい。
仕上げに、キラキラ光るティアラを乗っける。
『天使』の出来上がり。
一方美樹は、香とお揃いの黒の上下。
コチラは、ベルト状になった矢印のシッポ。
黒いヘッドドレスを装着する。
『悪魔』の出来上がり。
「思った通りっっ。完璧だわ!!!」
美樹は、満足そうに微笑む。
かおり天使とみき悪魔の完成だ。

さすがに、この恰好で近所とは言え、
冴羽宅まで歩いて行くにはあんまりなので、
フランケンの運転する車で僚のアパートへ向かった。
あそこの1階には、広々としたガレージがあるので遠慮はいらないのだ。
3人が6階に着いた時、玄関を開けた僚は、激しくドキドキした。
目の前には、リアルな天使が舞い降りていた。

カワイイ、カワイ過ぎて死にそうだ。by.僚

「か、課長。こんにちは。課長の仮装、素敵です★」
そう言って、頬を染めて俯く香の前にいる僚は、ドラキュラ伯爵だ。
黒いタキシードに、カマーバンド、赤い蝶タイ。
黒いマントまで、羽織っている。
普段は、ボサボサの真っ黒の髪の毛は、
キレイにオールバックに撫で付けられている。
瞳には、赤いカラーコンタクト。まるで、本物のドラキュラ伯爵のようだ。
香は、ドキドキしすぎて心臓が止まるかと思った。
「カオリンの方こそ、超カワイイ。すっげぇ、似合ってる。」
そう言った、僚の口には牙の付いたマウスピース。抜かりは無い。

「ハァーイ、やっと来たか・・・ヒュー。カオリもミキも、良く似合ってるよ♪ 
  so,cute!!」
そう言って、奥から登場したのはミックだ。
黒い革のピッタリしたツナギを着ている。
柔らかそうなブロンドを、リーゼントにして、
本物そっくりのブロンドの、もみあげを付けている。
きっと、付髭のようなモノなのだろう。
いつもの、蒼い瞳は黄色いカラーコンタクトで、
まるで猫のような目になっている。
異様なのは耳で、茶色い毛が生えた尖った大きな耳が、ピンと立っている。
そしてミックもまた、牙を生やしている。
「まぁ、ミックは狼男なのね?」
そう言った美樹に、ミックはウィンクをすると、ガルルと、唸ってみせた。

この日の料理は、ドラキュラと狼男のお手製だ。
彼等は、これまでの経験上、モテる事や人を楽しませる事に長けている。
料理だって、器用にこなす。
残念ながら、かずえは来られそうに無かったが、
それでも5人は、よく食べよく飲み、盛り上がった。
初めの内こそ、恥ずかしがってモジモジしていた香も、
仮装も慣れれば平気で、無邪気に楽しんだ。
そんな香の様子は、僚にしてみればまさしく、リアルなエンジェルだった。
何度か、他のメンツの目を盗んで、キッチンや廊下で香の唇を貪った。
バレバレだったけど。




数時間後、リビングのソファにはクッタリと眠り込んで、
スースーと寝息を立てている、天使がいた。
随分無防備な、特上A5ランクの天使。
一体テーブルの上の、何を飲んだのか、
他の全員が気付いた時には、
ビールを1缶飲むのがやっとの天使は、キッチリ酔い潰れていた。
「あら、ホントに気持ち良さそうに眠っちゃたわね♪」
美樹は、まるで悪魔の如き微笑みを浮かべる。
「車から、彼女の荷物を降ろしとくか。」
伊集院は、そう言うと1階のガレージの愛車のトランクから持って来た、
彼女の着替えその他諸々を、僚に手渡す。
「ガルルル~~~」
そう言って、ヨダレを垂らすミックの後頭部を、僚がはたく。

「まぁ、いずれにしてもこの状態じゃ、このまま寝かせといた方が良いわね♪冴羽さん、後はヨロシクね♪そろそろ、帰りましょうか?ファルコン。」
「そうだな。まっ、しっかり頑張れ。」
そう言って、伊集院は僚の肩をポンと叩くと妻と2人仲良く帰って行った。
何を、頑張れと言うのだろう?
僚は、一瞬首を捻ったが、まぁ『ナニ』だろうな、と苦笑した。
相変わらずヨダレを垂れて、香をニヤニヤ見詰めているミックに、
「おら、おまぁもとっとと、帰れ。」
と帰宅を促す。正直これ以上、こんな彼女をミックに見せるのも勿体無い。
「ムフフ。羨ましいな、リョウ。こんな据え膳めったに無いぞ?がんばれよ?」
そう言いながら、帰って行く幼馴染みに、僚は苦笑する。
俺、どんだけこいつらにヘタレ扱いされてんだと。

みんなが帰って行ったリビング。
ソファに猫のように丸くなった天使と、その横で微妙な表情のドラキュラ伯爵。
これで、何も無かったって言ったら、完璧にヘタレ認定だな。
僚はそう思いながら、香の柔らかなクセ毛を撫でる。
でもなぁ、周りは結局関係無ぇしなぁ。
大事なのは、彼女だ。
酔い潰れて眠った彼女にどうこうするなんて、ましてヴァージンだし。
それは僚とて、据え膳喰らいたいのは山々だ。
それでも、もしも彼女の信頼を損なうような事になれば、
きっと僚は、一生立ち直れない。
「2回目だな、お泊り。」
僚は、ヒッソリと笑ってそう呟くと彼女を抱き上げ、自分の寝室へ向かった。



僚は1晩中、香の隣で寝顔を見ていた。
あれから香を、自分のベッドに寝かせた。
1度目と違って、今度は正真正銘『恋人』なんで遠慮は止めた。
僚は香の髪飾りと羽根を外してやり、静かにベッドに横たえた。
そうすると、ただの下着姿の恋人だ。
僚は、途端湧き上がる煩悩に苦笑した。
己の煩悩を鎮める為にも、一旦頭を冷やす為に香をベッドに残し、
シャワーを浴びた。
香はまだ僚の事を、『課長』と呼ぶ。
実際、会社では一応課長なのだから、仕方ないのかとも思うが、
職場の仲間は、アイツらだけである。
誰一人、僚を課長などと呼ぶ人間はいない。
なので、僚は香に名前で呼べ、と言ってはいるが、
週末のリビングでも、相変わらず『課長』だ。
そういう時は、ペナルティとしてキスをする事に2人の間で取り決めている。
だから週末2人は、しょっちゅうキスばかりしている。
それはそれで、僚としてはオイシイのだけど。

香が目覚めると、そこは僚の寝室だった。
と言っても、この部屋へ入るのは初めてだった。
毎週末ここへ来ているけれど、必ず夜どんなに遅くなっても、
僚は香を自宅まで送ってくれた。
そもそも、ここが僚の寝室だと香が認識できたのも、
すぐ隣の至近距離で、
横になった僚が、自分の事をニコニコと見詰めていたからだ。
その事に気付いた香は、たちまち全身真っ赤に染めて起き上がった。
「おはよ。」
僚がニコニコしながら言った。
「か、課長。おはようございます。」
そう言って、香は更に赤くなる。
僚も起き上がると、香を抱き締め口付る。
そして耳元で、まぁた課長って言ったな、ペナルティ。と囁いた。
「昨日、何飲んだの?」僚が訊く。
「なんか、ジュースみたいなヤツです。甘くて。だから、ジュースかと思って。」
そう言って、困ったように眉を下げた香に、
「うん、それ多分ジュースじゃねぇな。」
と言って、僚は爆笑する。ひとしきり笑うと、もう一度香を抱き締めて、
首筋にこれでもかという程、吸い付いた。
唇を離すと、鮮やかなキスマークが残っていた。
真っ白な肌に、真っ白な下着。
そこに、ひと際映える真っ赤なキスマーク。


僚は、必ずや近々に素面の彼女に、お泊りして戴こうと決意を新たにした。
冴羽僚(33)、一応立場は彼氏だが、まだまだ課長だ。











え~、課長と槇村君。
のんびりと愛を育んでまっす♪♪♪
如何せん、付き合い始めが秋口なので、季節外れでっす(爆)
どうか、ご容赦を(´Д`)

番 外 秋の夜長に①

※ このお話しは、オフィス・パラレル『よくある恋の見つけ方』の、
  番外・短編でっす。本編をお読みで無い方は、そちらをお読み戴くと、
  よりお楽しみ戴けるかと思いまっす!!宣伝でっす♪テヘ★
  まずは、カオリン目線で。





11月第1週の、金曜日。
香は僚に、夕食に誘われた。
2人で何度か行った事のある、もつ鍋屋だ。
午前中に、コッソリ誘われた。
勿論、2人の交際は周知の事実で、別にコソコソする必要は皆無だが、
最近、ヘタレの称号を欲しいままにしている僚は、
ミックや伊集院に、いらぬ冷やかしを受けたくないので、
2人の目が無い所(2階・資料室である)に、
用があるフリをして香を連れ出して、誘った。
ついでに、誰もいなかったのでキスもした。職権乱用である。


先週の土曜日、僚の部屋でみんなで、ハロウィンの仮装飲み会をした。
あの日、ドラキュラになった僚はとてもカッコ良くて、
香はずっとドキドキしていた。
香が、キッチンや廊下に出るたびに、僚がやって来て何度もキスをした。
マウスピースを付けた僚とのキスは、とても不思議な感じだった。
だから、キスをした後で、2人でクスクス笑った。


僚はとても優しい。
初めの出会いこそ衝撃的で、
まさか恋に発展するなんて予想だにしなかったけど、
今の香は、どんどん僚を好きになっていて。
多分、こんなに誰かを好きになってしまったのは、香は生まれて初めてだ。
恥ずかしいし、照れ臭いから、
僚の事を、つい『課長』と呼んでしまう。
自分から好きだなんて、言った事はまだ1度だけだ。
あの、雨に濡れて僚がずっと傍に居てくれた、あの時だけ。
でも好きな気持ちは、あの時よりももっと強くなっていると、香は思う。


仕事の時の僚も、週末の2人きりの時の僚も、香は大好きだ。
仮装飲み会の前の日曜日、美樹と一緒にショッピングをした時、
香は、何気ない美樹の一言から、僚との関係の事を考えた。
あれ以来、香は1人きりの時、時々考える。
自分は近い将来、僚と深い関係になって行くんだろうか、と。
香は、正直言うとそれがどういう事か、良く解っていない。
今まで、ちゃんと付き合った人もいなかったし、
こんな気持ちを恋と云うのなら、香の初恋は僚だ。
兄が初恋だと思っていたけど、兄を好きな気持ちと僚を好きな気持ち。
これは、明らかに大きく違う。
やはり、兄は兄だった。
僚の存在が、その事に気付かせてくれた事にも、香は感謝している。
あのまま、死んだ兄だけを想い続けていたら、
香はきっと、心を病んでいたかもしれないと今はハッキリと自覚している。


何より、僚と一緒に居るととても楽しい。
僚は何かというと、すぐに賭けをして、その賞品として香にキスをしてくる。
大抵、僚が勝つような賭けばかりで、
最近ではさすがの香も、
ただキスがしたいだけじゃん、と僚の意図が薄々読めて来た。
勿論、そんな僚も香は好きなんだけど。
香も、実を言うと僚とキスするのは、大好きだから。
だから、賭けなんかしなくても、僚とキスしたいんだって言ってみたいけど、
なかなか、自分から言う勇気は無い。
もしも、勇気を出してそう言ってみたら、僚は何て言うだろう。
そう思うだけで、香は真っ赤になってしまう。


先週の土曜の飲み会で、香はまたも失敗した。
ジュースだと思い込んで飲んでいたモノは、どうやらお酒で。
目が覚めたら、僚のベッドの上だった。
かなり恥ずかしかったけど、不思議とすぐにリラックスしていた。
僚と2人でベッドの上で、クスクス笑ったりもした。
あの時に、香は確信した。
“深い関係”と云うのが、どんな事をするのか。
具体的には良く解らないけれど、もしもそうなるのなら相手は僚以外いない。
僚がもしいつか、香をそういう意味で求めてくれるとすれば、
香は応えようと思っている。
勿論未知の事で、凄く怖いケド。
きっと、僚となら大丈夫だと、何も根拠は無いけれど、香はそう思える。



昼休み、4階女子トイレで香は歯を磨いていた。
いつもお弁当を食べた後には、こうして1人でボンヤリしながら、歯を磨く。
最近は、大体僚の事ばかり考えている。
午前中に、資料室で今夜のデートに誘われた。
そして、キスをした。
いつも、僚の部屋や、小さなカワイイ赤い車の中ではキスをしてばかりだけど、
幾ら誰もいないからといっても、会社の中でキスをするなんて。
香は少しだけ、ワクワクしていた。
前に勤めていた会社で、同期だった女の子で社内恋愛をしているコがいた。
その彼女が良く言っていた。
会社のどこそこで、キスをしただの。それ以上の事も。
その時の香は、まさか会社でそんな事。
きっと、話しを面白おかしくする為の、彼女のリップサービスだと思っていた。
でも香はとうとう、あの彼女の言ってた事と同じ事を、経験した。
そして少しだけ、会社が面白い場所に思えた。


口を濯いで、香は鏡に映る自分の首筋を見た。
今も少しだけ、薄赤く残っている僚の目印。
初め香は、全く気が付かなかった。
確かに先週ベッドの上で、僚から首筋にキスをされたけど、
まさか、痕になってたなんて知らなかった。
週明けに会社に出て来て、僚に教えて貰った。
僚はあの時、怒らないの?と、香に訊いた。
香は不思議に思って、どうして、私が課長に怒るんですか?と訊き返した。
僚が言うには、女の子は目立つ所に、
こんな痕を付けられるの、嫌がるみたいだし。との事。
香は、そんなモノなのかな?と思う。
香にしてみれば、それはまるで僚が付けた目印みたいで、
家で1人で居ても、僚を感じられると思うと、むしろ嬉しかったのだ。
けれど、僚の言葉に寄れば、あまりそういう事を考えるのは、
一般的ではないのかと思われたので、僚には言わずに、1人で喜んでいたのだ。
可愛くて愛おしい、僚の目印。
もう、殆ど消えかけていて、香は少し淋しい。


今夜のデートは、もつ鍋だ。
香もその店は、大好きだ。
最近では、ビールなら少しだけ飲めるけど、
今日は絶対に、アルコールには近付かないと、
香はポーチに歯ブラシを仕舞いながら、心に誓った。
もう、失敗したくない。
晩ご飯を食べたら今日のデートは終わりで、
僚はきっとタクシーで家まで送ってくれる。
まだ、デートが始まってもいないのに、終わりの事なんか考えて、
香は心の何処かで、少しだけ淋しいなと思っていた。
まだそれが、どういう気持ちなのか、香は自分でも良く解ってはいない。


もしも、香の心の中を全部、僚が覗く事が出来たなら。
彼はきっと喜んで、力の限り抱き締めるだろうけれど、
今の所、もどかしい程に純情な駆け引きを、2人は楽しんでいる最中だ。


(つづく)






すみまっせん(汗)
続いちゃいましたっっ(´Д`;)
もっと、頑張りまっす、自分。呆れないで(涙)

番 外 秋の夜長に② 

※ こちらは、オフィスパラレル「よくある恋の見つけ方」及び、
  その番外・短編 “秋の夜長に”の第2話でっす。
  設定など、原作とは全く異なりますので、
  前のお話しを読まれていない方は、是非読まれてみて下さい(´∀`)ノ






冴羽僚は、悶々としていた。
先日、彼の恋人は酔い潰れて、彼の寝室で夜を明かした。
僚が近頃、主に考えている事は、
如何にして彼女と、最後の一線を突破するかという事ばかりだ。
恐らく、彼女が僚を受け入れてくれるだろう事は、僚も解っている。
拙いながらも、香が僚を好いていてくれて、
それを一生懸命、伝えてくれようとしているのも、僚には解っている。
『好き』だという言葉は、たった1度言って貰っただけだ。
だけど、触れる唇や、指先から伝わる彼女の雰囲気で、
彼女が紡ぐ言葉の端々で、
恥ずかしそうに僚を見詰める、潤んだ瞳で、
言葉よりも雄弁に、その好意を僚に伝えてくれる。
精神的には、それだけで僚も十分に満足している。


しかし厄介な事に、男には、物理的本能的欲求というモノもあるワケで。
その点に於いては、今現在の僚は、激しく欲求不満だ。
身も蓋も無い表現で言えば、溜まっているのだ。
僚には、10代のまだ早い内から、セックスフレンドなど掃いて捨てる程いた。
正直、これ程までに飢えているのは、僚の人生で初めての経験だ。
十数年振りにマスターベーションというモノに、
手を出してしまった、三十路の秋である。
哀愁漂う、禁欲生活を送っている。
そしてかの恋人は、そんな男の生理など、
きっと良く理解していない、うぶな相手で。
うぶなクセに、最強で。
その極上のルックスや仕草で、僚のツボをガンガン突いてくる。
それは、一種拷問に近い。


相手が気のおけないセックスフレンドや、
後腐れの無い1晩限りの、ノリのイイ女なら、
僚とて、体裁など繕う必要も無い。
本能の赴くまま、野獣のようなセックスを繰り広げた所で、
誰にも迷惑は掛けない。
むしろ相手も悦んでくれるだろう。愛情なんか必要無い。
しかし、相手が香となると、それは全く別の次元の話しだ。
僚にとっての、香とのセックス。
それは決して、性欲処理の行為であってはならない。
それは、愛情を示す為の行為であり、
何ならそれは、子供を作る為の行為である。
きっと今までのように、奔放な放蕩の結果では無く、
もっと、神聖で崇高な行為でなければいけないのだ。


まぁ、理屈としてはこんなモンで。
要は、香が嫌な思いをしないように、
今後、僚と一生セックスをしていく上で、
まず記念すべき第1回目を大切にしたい、と柄にも無く僚はそう思っている。
僚はこの歳にして漸く、
本来のセックスの意味と目的に、真摯に向き合う事を余儀なくされたのだ。
しかしそれは、僚にとって決して辛い事では無い。
セックスを我慢しているというストレスは勿論あるが、
それ以上に、そんな相手に巡り逢えた事。
そしてそれが、香である事にこの上も無い喜びを、僚は感じている。
己と香を結び付けた、甘美な運命に僚は心から感謝している。


今週末もまた、僚は香と過ごすつもりだ。
いつも土曜日は、ほぼ丸1日を香と2人で過ごしている。
今まで2度、香がお泊りした時には、翌日も一緒に過ごした。
もしもこれから毎週、香がお泊りしてくれれば、
もっと長い時間を、一緒に過ごせる。
それは僚の目下、1番の目標だ。
本当ならば、毎日1日中、一緒にいたい。

一緒に暮らしたい

僚はこの前、天使の寝顔を見ながら、そう思っていた。
僚がこんな事を考えたのもまた、生まれて初めてだった。
香は僚に、今まで知らなかった“生まれて初めて”を、沢山与えてくれる。
僚は今週、金曜日の夜に香を誘おうと思っている。
これはある意味、僚の最大の賭けだ。
もしも上手く、金曜の夜に香を落とせたら、
土曜・日曜と、なし崩し的に丸2日、香と過ごすつもりでいる。
今週末が2人の、大きな山場になる事は必至だ。


僚は今、
甘くて切ないオアズケ期間を、悶々としかし一方では、
甘美な人生の一時として、心ゆくまで堪能している。
本当のお楽しみは、これからだ。




(つづく)







すみませんっっm(_ _)m
また更に、続きまっす(汗)
流石は、秋の夜長でっす(冷や汗)
しかし、次回こそは・・・頑張りまっす!!!
引き続きUPしまっす(´∀`*)

番 外 秋の夜長に③

※ このお話しは、オフィスパラレル「よくある恋の見つけ方」及び、
  番外・短編“秋の夜長に”の、第3話でっす!!
  しつこいようですが、いきなりココからやって来ちゃった人は、
  是非是非、前のお話しから辿って見て下さいね♪その方が、楽しいょ♪







その店は、その日割と混んでいた。
少しだけ、肌寒くなってきた週末の夜。
そこは、もつ鍋と焼酎と、サラリーマンで溢れていた。
僚と香のような、見目麗しい恋人同士という客は、他にはいない。
そもそも、女性客がいない。
そういう店なのだ。


そんな中にあって、香には終始、不躾な視線が集まっている。
それは、そうだ。
彼女は、地味な出版社で、
退屈なOLをやっているのが、不思議なぐらいの上玉だ。
僚としては、こんな予定では無かった。
この店がこれ程混むなんて、滅多に無い珍事だ。
他の店にすれば良かったかなとも思ったが、
ココは香もお気に入りだ。
香が周囲の視線など気にも掛けず、楽しそうにしているので、
僚も、不本意ながら、気にしない事にした。
それに何より、香が僚とのデートを心底楽しんでいる事が、1番重要な事だ。


香は、今日はビールは飲まないと言った。
僚が、どうして?と訊ねても、香ははにかんで答えなかった。
きっと、先週の事を思い出して、恥ずかしがってんだろうと思うと、
僚は香が可愛くて仕方なかった。
それに今日は、僚にとって“勝負デート”の日だ。
また、酔い潰れられるよりは、素面の方が断然助かる。
ただ、
ホンのちょっとだけ酔っ払う程度なら、申し分無いのにと僚は思う。
頬をピンク色に染め、少しだけ呂律の怪しくなった香は、最強だ。
だから僚は和やかなムードを保ちつつ、食事を終える頃には、
小さなグラスに2杯ほどのビールを、香に勧める事に成功した。
かくして、その店を出る頃には、
僚の最も好きな加減に、ほろ酔いの香が出来上がっていた。
帰したくない。
僚は、心からそう思った。


店を出て、2人は少し歩いた。
少しだけ酔っ払った香の手を、自然と僚は繋いだ。
驚くほど、華奢な手だ。
僚の手の中に、すっぽりと収まってしまう。
こうして、ずぅっと繋いでいたいと、僚は思う。
いつか2人とも年を取って、シワシワのじいちゃんと、ばあちゃんになっても。
このまま歩いて、新宿駅のタクシー乗り場に行くのだろうと、香は思っていた。
いつも、外での食事デートの後は、僚は大抵アルコールが入っているから、
香を、タクシーで送ってくれる。
香の自宅も、新宿からはそんなに遠くは無いし、
香が1人で帰れるからと言っても、
僚は必ず香の家の前まで付いて来て、玄関ホールに入って行くまで見届ける。
そして僚はまた1人で、新宿まで帰ってゆく。


店を出た辺りから、香の口数が少なくなっていく。
明日はまた、僚の部屋で逢えるけど、
それでもバイバイするのは、やっぱり少し淋しい。
もっと。
いや、もう少しだけでもイイから。
僚と一緒にいたいなぁと思いながら、香は歩いた。
ふと香が気が付くと僚は、
駅を素通りし、ズンズンと僚の自宅の方へと向かっている。
何気なく香は、車で送ってくれるのかな?とボンヤリ思ったけれど、
次の瞬間、ハッとした。
いけない!!
飲酒運転は、危険だ。
もしも、僚の身に何か起こったらと思うと、
香はそれだけで、目の前が真っ暗になる。


「課長っっ、ダメです!!!」
僚が何と言って、今夜香を引き留めようかと思案していたら、
香が切羽詰った様子で、そう言った。
僚は、え?何が?と、不思議に思って、香の顔を覗き込むと、
香は、今にも泣きそうだ。
やばい、俺のスケベ心、見破られたか?と、一瞬僚は焦ったが、
次の香の一言に、またもや僚の謎が一層深まった。
「車。運転したら、ダメです。」
「ん?どういう事?」
真剣に意味が解らない様子の僚に、香が説明した。
てっきり、タクシーに乗るもんだと思っていたのに、
家に帰っているから、車で送るつもりなんだと思った事。
僚はお酒を飲んでいるから、車に乗せちゃダメだと思った事。
もしも僚の身に、何か怖い事が起こったらと思うと、悲しくなった事。
きっと、少しだけ酔っているからだろう。
そこまで説明すると香は、本当に悲しくなったのか、
ポロリと、涙を1粒零した。
僚は、そんな香を見て堪らない気持ちになった。
胸を締め付けられるような気持ちで、無意識に香を抱き締めていた。


「送ってかないよ。」
そう呟いた僚を見上げて、香は首を傾げる。
僚は苦しげに眉を寄せると、まるで香に懇願するように続けた。
「今夜は、送って行きたくないし、帰したくない。一緒に俺の家に帰ろう?」
そう言って僚は、香を抱き締める腕に力を込めた。
僚の家までは、もうあと少しの所だった。
香は気付いたら涙を流していて、僚の腰にしっかりと腕を回した。
「私も、今夜は帰りたくないです。」
香は、小さな涙声で、けれどしっかりと僚に気持ちを伝えた。
暫く抱き締めあって、お互いに少しだけ恥ずかしくて、
真っ赤になった顔を見る事は出来ないまま、
抱き締めあったままで、2人はクスクス笑った。
2人とも、同じ事を考えていたんだと思った。
2人とも、敢えて何も言わなかったけれど、それが手に取るように解った。
まだ、セックスはこれからやるんだけど、
俺達は絶対に相性はイイ筈だと、僚は確信した。


僚がふと目覚めて、枕元の時計に目を遣ると、時刻はAM4:08だった。
腕の中には、スヤスヤ眠る愛しい人がいる。
僚は自分が、夢を見ているんじゃないかと思った。
それでも腕に乗せられた、軽やかな重みと、柔らかな猫毛が、
それが夢では無い事を、証明している。
この腕の中の存在が、愛しくて堪らない。
数時間前の出来事が、大変じゃ無かったと言ったら、嘘になる。
これまで、あんなに気を遣ってセックスした事なんか無かった。
ヴァージンの子と寝た事なんか無かったし、
本気で好きになった子もいなかった。
香も全てが初めてで、きっと大変だったろうけど、
僚にとっても、それは初めての連続だったのだ。
大切にしたいと思った。
これから先、この愛しいヒトを、
1㎜も傷付ける事の無いようにしたいと、心に誓った。
1秒でも長く、彼女と繋がっていたくて、歯を食いしばって耐えた。
だけどそれを、脆くも決壊させたのは、なんと彼女だった。


それは、小さな小さな声だった。
震える小さな声で、りょお、と名前を呼ばれた。
たったそれだけの事で、僚は自分の意志とは裏腹に、アッサリと果てた。
1番驚いたのは、他でも無い僚自身だ。
これまで、セックスに於いて、僚は多少なりとも自信があった。
逝くタイミングなど、どうにでもコントロール出来るモノだと思っていたし、
実際、出来ていた。
それなのに香にたった一言、名前を呼ばれただけで、我を忘れた。
逝ってしまった後、僚は香を腕に抱いたまま、思わず吹き出してしまった。
香と一緒にいると、自分でも知らなかった自分が見えてくる。
香がぐったりとしつつも、そんな僚を不思議そうに見詰めたので、
僚は、優しく説明した。
カオリンが名前を呼んでくれたから、気持ち良くなっちゃたんだよと。
「そんだけ、カオリンに惚れてんの。」
僚がそう言って、香の額にキスをする。
「名前、呼んだのが、嬉しかったって事ですか?」
香は真っ赤な顔をして、僚に訊ねる。
僚は穏やかに微笑むと、コクンと頷いた。


そうだったんだ、と香は思った。
今まで、照れ臭くて、恥ずかしくて、なかなか名前で僚の事を呼べないでいた。
それでも、自分の大好きなヒトが、
自分に名前を呼ばれた、ただそれだけの事でこんなに喜んでくれるのならば、
これからは、ちゃんと名前を呼ぼうと、ごく自然にそう思えた。
そして香は、僚の耳元に口を寄せると、
まるで内緒話をする子供のように、小さな声で何度も僚の名を呼んだ。
そして、2人でクスクス笑った。
これ程までに、親密で温かいセックスをしたのは、僚はこれが初めてだった。


そして、もう1つ。
香が眠る少し前に、実は・・・と、打ち明けてくれた話しは、更に僚を喜ばせた。
その打ち明け話とは、
またこの前みたいに、僚の目印を付けて欲しいと言う、香のお願いだった。
香には、普通他の女の子がキスマークを付けられて、
どう思うのかなんて知らないけれど。
香は、あの僚の目印がとても大好きで、嬉しかったのだと、告白した。
照れながらそんな事を言う香を、僚はもう1度強く抱き締めて、
お望み通り、『目印』を付けた。
ただし、今度は見えない所に。
香の左胸、ちょうど心臓の真上に印を刻んだ。
ずっと、ずっと。
僚の想いが、香の心に真っ直ぐ届きますようにと願って。


僚は腕の中で眠る香を、もう1度見詰める。
まさか、エレベーターで出逢ったあの時には、
こんな自分達を、想像すら出来なかった。
香がこれまでに遭った辛い出来事を知ってからの僚は、
まるで自分の事以上に、腸が煮えくり返った。
いつか、香の心の傷を、分け合える存在になりたいと願った。
今夜、漸くそのスタートラインに、1歩踏み出せたような気がする。
兎にも角にも、明日と明後日の2日間、香と何をして過ごそうかと、
楽しい考え事をしている内に、
いつの間にか僚も、健やかな寝息を立てていた。
これから、冬がやって来る。
2人がいちゃつく口実も、沢山待っている。
幸せな季節の始まりだ。





(たまに、つづくかも?)








課長、とうとう念願叶って、やっちゃいました♪
とうとう、正真正銘『彼氏』でっす(*´∀`*)
めでたし、めでたし

番 外 冬支度

※ このお話しは、オフィスパラレル『よくある恋の見つけ方』の、
  番外・短編でっす!! 本編をご覧になっていない方は、本編を
  お読みになると、一層お楽しみ戴けるかと思いまっす(′∀′●)
  それではGO!!  ↓↓↓↓↓








11月の初めに、正真正銘“恋人”になった僚と香は、相変わらずラブラブだ。
香は漸く、僚の事を『課長』では無く、
『りょう』と呼んでくれるようになった。
でもそれは、2人で居る時限定だ。会社では、相変わらず『課長』だ。
しかし、切り替えの早い僚は、それはそれでオイシイと思ったりする。
昼間はお互い上司と部下を演じ、デートの夜に恋人へと変わる。
まぁ、演じるも何も、仕事仲間にはバレバレなんだけど。
言ってみれば、シチュエーションプレイみたいなモンで、気分の問題だ。
何より、ベッドの中ではにかみながら、上気した頬と舌足らずの甘い声で、
『りょお』
なんて呼ばれた日にゃ、否が応でもボルテージが上がるってモンだ。


初めて、僚と香が結ばれた翌日の土曜日は、2人でドライブに出掛けた。
鎌倉まで出掛けて、美味しいモノを食べて、色んな所を観て回った。
1日中手を繋いで、ひと気が無い所でこっそりキスをした。
自然と、その夜も2人は僚の部屋へ帰った。
その次の日は、対照的に1日中部屋で過ごした。
香は、金曜日の仕事帰りのデートから僚の部屋に居たので、
勿論着替えなんか無いワケで、僚がパジャマを貸してくれた。
2人とも、パジャマでテレビを観たり、キスをしたり、お喋りをして過ごした。
さすがに翌日は月曜日なので、夜には香を送って行くつもりだったが、
僚は夕方になるにつれて、香を送って行くのがイヤだなぁと思い始めた。
テレビから、サザエさんのテーマソングが流れ始めた所で、僚は切り出した。
「あ、あのさぁ、カオリン。」
妙に改まった僚に、首を傾げて不思議そうにする香。
「家までね、送ってくから明日の着替えとか、お化粧道具とか取りに行かない?」
半ばやけくその、僚の苦肉の策だ。何が何でも香といたい。



香は、一瞬僚の言葉の意味が良く解らなかったけれど、
少し考えて、僚の言いたい事が解って、みるみるウチに真っ赤になった。
要するに僚は、今日も泊まってけと言ってるのだ。
しかも一回家に帰って、翌日の出勤の準備に困らないようにして、
改めて、自分の家に泊まれと言っているのだ。
確かに、金曜と土曜と続けて2晩泊まったけれど、
それはどこか流れというか、初めての夜を過ごした、延長線上という感じだった。
それでも、今夜は改めて『恋人』として、誘われているような気がして、
香は照れ臭い反面、とても嬉しかった。
さすがに今日は家に帰らないと、明日が困ると思っていたからだ。
それなのに僚は、きちんと準備して、今夜も泊まればいいと言ってくれたのだ。
この週末で、香は僚と離れる時間が一層淋しいと感じるようになっていた。
何で僚は、こんな自分の気持ちをこんなにも解ってくれるんだろうと、香は思う。
しかし何の事は無い。
香は全く解っていないが、僚とて気持ちは同じなのだ。
離れるのが淋しい、ただそれだけなのだ。


「うん、じゃあ、そうします。」
香はコクンと頷いて、恥ずかしそうに頬を染めて俯いた。
そんな香が可愛過ぎて、僚は悶絶死しかけた。
僚は香をそっと抱き寄せると、自分のパジャマを着た可愛い人にキスをした。
それから2人は、1度香の自宅マンションへ向かい、
香が着替えや、必要な諸々を抱えて僚の待つ、愛車の赤い小さな車に戻ると、
また元来た通り、僚の部屋へと戻った。
これで、心置きなく今夜もお泊り出来る。
その晩、2人は2度目のセックスをした。
初めの時ほど、香はガチガチでは無かったものの、まだまだ馴れないし、
何が何だか解らない。
僚にしがみ付いて、必死についていくのが精一杯だった。
それでも、僚に触れられたり、優しくキスされると心の底から、幸せを感じた。
僚は、初めての時よりも幾分落ち着いて、事に臨めた。
落ち着きさえすれば、そこは百戦錬磨の僚である。
香の細かなリアクションや、表情までよく観察しながら、
香のペースに合わせて、ゆっくりと進めた。
それは、とても幸せなひとときだった。
香はまだまだ、とても楽しむどころじゃ無さそうだが、
それでも、少しだけ手応えはあった。
香の表情や仕草を見て、こうしてゆっくりでも馴らして行けば、
近い将来きっと、僚好みに育っていくだろう事が予測できた。



週が明けて、11月の第2週は水曜日に、僚が香の部屋に泊まった。
晩ご飯デートだけの予定が、やはり2人は離れがたくなってしまって、
香の部屋の、小さいシングルベッドで、抱き合って眠った。
勿論その週も、週末は金曜日から日曜日までずっと一緒に過ごし、
月曜日は一緒に出勤した。


こんな風に冬の始まりを過ごすうちに、
少しづつ、僚の部屋には香のモノが増えていった。
パジャマや、下着や、数着の衣類。メイク道具。歯ブラシ。生理用品。
いつ突発的にお泊りしても、全く困らない。
香の部屋にも、僚のモノがある。
ボクサーパンツ。白Tシャツ。Yシャツ数枚。歯ブラシ。灰皿。コンドーム。


気が付くと、週末どころか平日も、どちらか一方の部屋で一緒に過ごした。
週末には外食したが、平日は香が手料理を作ってくれたりした。
2人で一緒に作る事もあった。
何をしていても、2人はクスクス笑った。
日曜日には、遠出をしたり、ショッピングをしたり、
デートスポットに、足を運んだりした。
お互いに、どんどん相手の事が好きになった。


気が付くと、いつの間にか街には、ジングルベルが流れていた。
去年の今頃、僚は忘年会と称して、夜毎、歌舞伎町のキャバクラを巡っていた。
僚はそれが、淋しいなんて思いもしていなかった。
高価なプレゼントを涼しい顔でねだる“恋人”など、僚には、興味が無かった。
まさか1年後に、可愛い恋人へのプレゼントを考えている自分がいるなんて、
想定外だった。
去年の今頃、香は一緒に過ごす友達も、恋人も、家族さえいなかった。
香はその頃、本当に精神的にギリギリで、死ぬ事ばかり考えていた。
まさか1年後に、こんなにも幸せに満ちた生活を送っているなんて、
予想だにしていなかった。
2人は、出逢えた奇跡に感謝していた。



もうすぐ、クリスマスがやって来る。










え~~~、まず。
相変わらずの、季節度外視。
申し訳ありません(深々)m(_ _)m
ホテルマン役の、高嶋政伸張りに謝罪致しまっす。
イチャイチャ課長&槇村君でした。

冴羽課長の焦燥 (9999 キリ番リクエスト)

※ このお話しは、パラレル『よくある恋の見つけ方』(課長と槇村君)の、番外編です。
  時系列は夏ぐらいで、
  必死にBBQアピール中の冴羽課長と、まだ恋なのかどうか自覚の無い槇村君な感じです。
  
  継続中の番外とは別の、単発番外って感じです。
  パラレル平気な方は、どうぞ~~~  (´∀`)ノ   いってらっしゃぁあい♪
















その時、田中聡は声を掛けようかどうしようか、非常に迷っていた。
彼女を会社の外で見掛けたのは、それが初めてだった。
その日田中は、社外で行われている研修に参加する為、1日会社を離れていた。
と言っても、研修の行われている多目的ホールは、自分の会社のすぐ傍で。
昼の休憩の為に外に出たら、彼女と出くわした。
駅ビルの出入り口付近で佇む彼女。



スラリと高い長身。
ブラック・ウォッチの柄のスリムパンツに、パフスリーブと丸襟のフェミニンな白いブラウス。
踵の無いシンプルなパンプス。
明るい栗色の柔らかそうな、ショートヘア。
遠目からでも良く解る、翻訳課の唯一の女性社員、槇村香である。
田中聡と彼女の出会いは、春の終わり。
彼女が中途入社でやって来た、ある朝の事だった。



田中は、総務課係長という非常に中途半端且つ、地味な役を与えられている。
役職手当など、ほんの微々たるものだが、与えられる雑用は鬼のように山積みだ。
そんな田中の仕事の1つに、新しく入って来る社員の配属先への案内というモノがある。
大した仕事でも無いが、人見知りの田中にとっては、ハッキリ言ってイヤな仕事の1つだ。
しかしそんな事は、いちいち言ってられないのが、総務課係長なのだ。
毎度ストレスを抱えながら、無難にこなしている。
しかし、その日ばかりは、自分のその立場に感謝したくなった。
ひと言で言えば、彼女は。


激マブ。


ハッキリ言って田中は、33歳になる今までに、
どんな合コンに参加しても、
上司に連れて行かれた高級クラブにも、
日常のありとあらゆる場面での女性との出会いに於いて、
彼女ほどの別嬪には、お目に掛かれなかった。
何故彼女が、あの変わり者達の巣窟に配属されたのか、正直少しだけ気の毒に思った。
何しろ彼女の直属の上司は、あの冴羽僚なのだ。
それでも彼女が入社して、早数ケ月。
どうやら彼女は、あの課にすっかり馴染んでいる。意外な事に。



この所季節柄か、日中の通り雨が頻繁にある。
彼女も、出入り口に佇み、空を仰いでいた。
どうも傘を持ち合わせていないようで、困っているようだった。
生憎、田中は折り畳み傘を携帯してる。
研修先のホールへは、駅の地下道を使えば濡れずに戻れる。
彼女に声を掛ける、絶好のチャンスではある。
勇気さえあれば。



「槇村さん。」
田中がそう呼びかけると、彼女は振り返りニコッと笑った。
「あ、田中係長。お疲れ様です。」
「おおお疲れ様で、す。」
田中は思わず、しどろもどろになる。
「ま、槇村さん、珍しいですね。外でお会いするなんて。」
「えぇ、係長も。」
そう言って、2人はクスッと笑った。


ココの中にある書店に、伊集院さんが資料を予約してたんですケド、
生憎、受け取りに行く時間が無くて。
私はいつでも手が空いてますので、お使いに。


僕は研修で。
て言っても、すぐそこが研修先なんですケド。
今日は1日、社外なので新鮮です。


お互いの事情を説明し終えたところで、田中は漸く本題を切り出す。
「あ、あの、槇村さん。傘、持ってないんでしょ?」
「えぇ、出て来た時はとても晴れてたから。弱っちゃいました。」
そう言って、眉をハの字に下げる彼女は、殺人的に可愛いと田中は思う。
「これ良かったら、使って?」
そう言って田中は、折り畳み傘を差し出す。
「でもそれじゃあ、係長が濡れちゃいます。」
そう言って彼女は遠慮する。
「あ、いや。僕は地下から移動した先だから、使わないから。会社に戻って、総務の誰かに適当に言付けて渡しといてくれたらいいから。」


あ、あの。じゃあ、遠慮なく お借りします。

そう言ってペコリと頭を下げる彼女を見て、勇気を出して声を掛けて良かったと田中は思った。














その日、冴羽僚が3階の編集部での用を済ませて、廊下へ出ると、
視線の先、廊下の奥まった所に見慣れた2人が何やら親しげに会話している。
1人は僚の同期である。
総務課係長、田中聡。僚の遅刻に、唯一目を光らせる人物である。
そしてもう1人。
ベージュの膝丈のフレアスカートに、白いボウタイカラーの半袖のブラウス。
ストッキングには控え目なラメが光っている。
今日は珍しく、赤いエナメルの8㎝ヒールを履いている。
僚の部下の槇村香だ。
僚は思わず、少し離れたエレベーターホールの脇にある、自動販売機の陰に身を潜める。



「昨日は、どうもありがとうございました。お陰様で、助かりました。あのこれ、大したものじゃありませんケド、良かったら休憩の時にでも。」

「良かったのに、わざわざ。誰かに預けといてくれれば。何か、却って申し訳ない。」


香は田中に、何やら小さな紙袋を手渡している。
中身は昨日借りた折り畳み傘と、ハーブティーのティーパックだ。
3種類9パック入りで、香も時々気分転換に飲んでいる。
仕事場では、専ら伊集院のコーヒーばかりだが。



そんな2人の、昨日からのやり取りなど知る由も無い僚は、
その光景を見て、1人悶々と考え込んでいる。

(一体、昨日何があったんだ・・・・)

しかし冴羽僚は、考え込んで1人悩み続けるようなタイプでは無いので、
2人の間に割り込むべく、行動を起こす。
胸ポケットからメモ帳を取り出すと、何やらサラサラと書き込んで、ピリッと切り離す。
今までコッソリ観察していた事など、まるで無かった事のように、
さも偶然を装って、香に声を掛ける。



「あ、カオリン。ちょうど良い所にいた。悪いんだけど、このメモにある書籍を、資料室から借りて来てくれない?」

「はい、了解しました。課長。それじゃ係長、失礼します。ありがとうございました。」

香はそう言ってニッコリ笑うと、2階の資料室へと向かった。











「・・・何の芝居だ?僚。お前、さっきから自販機のとこでずっと見てじゃないか。」

「その紙袋、何なんだ?昨日、カオリンと何したんだよ?」

田中の質問には答えず、僚は田中に詰め寄る。
田中は一歩後退りする。




傘だよ。

誰の?

俺の。

何で?

貸したんだよ、彼女、雨に降られて困ってたから。

いつ? 何処で? 傘の他のそれは何だよ?

・・・・・僚、オマエ。何か怖い。・・・大丈夫か???

それ何だよ? 何貰ったんだよ。

しつこいなぁ。お茶っ葉だよ。お、俺もうそろそろ戻るから。

ちっっ。

・・・・何だよ、舌打ちって。




冴羽僚の悩みは尽きない。
彼の想い人は、美しい。
しかし当の本人に、注目を浴びている自覚は皆無で。
その上、異常に無防備で、警戒心ゼロである。
僚がどんなにアピールしても、それが果たして彼女の心に届いているのか、
今の所、まだ確証は得られていない。
陰ながら僚が、周りの奴らに睨みを利かせ、奔走している事を彼女は知らない。
きっと今も、資料室で一生懸命、有りもしない書籍を探しているに違いない。
良き所で、迎えに行かなくては。










その数日後、僚が経費の領収書を経理課に提出に行くと、
経理課女性社員から、1枚のA4判のコピー用紙を貰った。
部署を超えた、ビアガーデンでの親睦会のお誘いだ。



今まで、香が仲間入りするまで、この様なお誘いを受けた事は皆無だ。
どうやら僚率いる翻訳課の面々は、積極的に親睦を深めたくなるようなキャラ設定では無いようだ。
どうして今年に限って、この様なお誘いの声が掛かるのか。
そんな事は容易に想像が付く。
女性社員はともかく、男性社員の多くは部署の垣根を超えて、香と親睦を深めたいらしい。
勿論、上司として。
却下である。




忙しいのだ、我々は。
週末は、BBQだし。
て事で、翻訳課全員、不参加っと。



僚は屋上で煙草を吹かしながら、A4サイズの紙飛行機を飛ばした。
大概で、こんな害虫駆除は面倒臭いので、早いとこ彼女をモノにしないとな。と、僚は考えている。
それを密かなヤキモチ、および軽度のストーカーと呼ぶのなら。
いっそ、それでも構わないと、開き直りにも似た気持ちで冴羽僚は、真夏の太陽を見上げた。










え~と、今夜は連載中のお話しは、1回お休みして。
9999で、キリ番を踏み踏みした、愛花様より戴いたリクエスト。

『冴羽課長と槇村君設定で、課長のヤキモチ話』

との事で、ちょっくら考えてみました。
こんなんで、良かったでしょうかぁぁあ? 愛花さま~~~
お粗末様でした m(_ _)m
                 ケシ



課長と槇村君のクリスマス。(第5弾・よくある恋の見つけ方)

12月初旬。
僚は生まれて初めて本気で惚れた女に、プレゼントを選んでいた。


今まで特定の彼女など作らない主義で、遊び倒して来た男は。
いざ選ぼうと思うと、一体何を贈れば良いのやら正直迷いに迷った。
香に出逢うまでの僚なら、こういう事を非常に面倒臭いと思っていた筈だ。
だからこそ、遊びの相手にしか興味が無かったのだ。
それが、変われば変わるモノで。
今の僚は、手に取って見たモノを香に渡した瞬間のリアクションを想像しただけで、笑みが零れる。
僚がプレゼントを吟味するなど、
子供の頃、ミックの家で毎年開催されたクリスマスパーティの時のプレゼント交換以来だ。
(因みに、ミックは今でも律儀に僚にプレゼントをくれる。)


その辺のキャバ嬢や、今まで散々遊んで来たセフレなら、
きっとヴィトンのバッグやら、エルメスのスカーフやら、カルティエのアクセサリーやら。
そんなものが欲しいんだろう。
でも。
香はそんなもの、きっと確実に喜ばない。
贈られたモノの金額で、自分の価値や相手からの想いの大きさを計算する女もいるけれど。
香に限っては、きっとそんな物差しは通用し無さそうである。
香とて、年頃の女子だし、ファッション誌を熟読している事だって知っているケド。
香の場合却って、あからさまな“ブランドもの”なんか貰った日にゃ、恐縮して謝りそうだ。
だから彼女が喜ぶかどうかは、金額の問題では無いのだ。



最終的に僚が手に取って選んだモノは、そんなに高額なモノでは無い。
けれど、多分。
香を喜ばせる事は出来るんじゃないかと僚は考えた。
金額には、意味など無いのだ。
その物自体の本質的な価値や意味や、美しさの方が大切なのだ。







香は僚に贈るプレゼントを何にするか、ココの所ずっと考えている。
男の人に贈り物をするなんて、香には初めてで。
僚が喜びそうなものが、あまり良く解らなかった。
ネクタイやカフスボタンや、仕事で使いそうなものは僚はきっと嫌だろう。
ネクタイなんか以ての外だ。
僚は重要な会議以外は、スーツを着ててもネクタイは外している。
何なら、スーツさえ着ない時もある。
だから、仕事以外の僚を思い返してみた。


私服は意外に、シンプルでデザインより着心地重視のように思える。
けれど身に付けるモノを選ぶなんて、束縛しているような感じじゃないだろうか。
アロマオイルや、バスソルトみたいなリラックス系のモノはどうだろうと考えたけど、
ああいうモノは、好みが分かれそうだし。
女の子になら喜ばれそうだけど、男の人にはどうだろう。


色々と考え過ぎとも言える熟考を経て、香は意外な場所で良いモノを見付けた。
2人で楽しめるモノで。
話題が広がりそうなモノ。
ロマンチックで、2人の大好きな場所でそれを使ってみたかった。
だからそれを見付けた時、意外と高かったけど香は迷わず買った。




2人とも、お互いに秘密で。
数日間、悩みに悩んだけれど、それはとても幸せで悩ましい時間だった。
2人とも、知っているからだ。
結局の所、何を貰ったとしても、お互いが相手の事を想って選んだと言うだけで価値がある。
だから悩ましいケド、幸せだ。
何より、何の約束をしたわけでもないけれど、2人はクリスマスを一緒に過ごすのが前提なのだ。









24日。
2人は、僚の部屋で過ごした。
前日に僚が告げた時間に、香が僚の部屋を尋ねると、
キッチンには、テーブルが完璧にセッティングされ、シャンパンは氷の中でキンキンに冷えていた。
料理は僚が腕を振るったので、ケーキは香が買って来た。
ケーキの箱と、もう1つ。
玄関に立った香は、大きな包みを抱えていた。
僚が作ったのは、牡蠣と鮭を入れたみそ仕立ての豆乳鍋だった。
鍋を食べながら、シャンパンで乾杯して、食後にはケーキを食べた。
香は豆を挽いて、コーヒーを淹れた。
リビングでコーヒーを飲みながらケーキを食べて、2人でプレゼントを交換した。







「あの、課・・じゃなかった、り、僚。」

「はい(笑)」

「これ、クリスマスのプレゼントです////」




そう言って香が差し出したのは、やけに大きな包みである。
玄関で嵩張るその包みを持った香を見て、僚はやっぱり車で迎えに行けば良かったかな、と思ったほどだ。
それでもその箱とケーキの箱を、
一生懸命、傾けないように抱えている香が妙に可愛くて、僚は数時間前玄関先で濃厚なキスをしたのだ。
そして、その箱の中身がとても気になっていたのだ。




「何だろう。開けてもイイ?」

「うんっっ、開けてみて?」



香が楽しそうに微笑む。
可愛らしい赤い包装紙を剥ぐと、出て来たのは星空の絵が描かれた箱。
天体望遠鏡だった。




何にしようか、すっごく迷って・・・
でも、それ見付けた瞬間、これだって思ったの。
一緒に屋上で、星を観ようって。




そう言ってニッコリ笑う香に、僚がお礼のキスをする。
それは、この上なくロマンチックな贈り物だった。
冬には冬の、春には春の、夏には夏の、季節ごとに巡る星々を2人で観ようという約束。
その未来という時間と約束を贈られたようで、僚は予想を遥かに超えた香からのプレゼントが嬉しかった。
そして僚は香の耳元で、ちょっと待ってて。と囁くと、寝室に置いていた香へのプレゼントを持って来た。




「じゃ、俺からはコレ。」

「開けてもいい?」

「どうぞ、お姫様。」



香が楽しそうに、シルバーの包装紙を丁寧に剥がす。
中から出て来たのは、辞書ぐらいのサイズと厚みのベルベット貼りの赤い箱。
見た目より、意外と重い。
香がその蓋を、そっと開く。
中に入っていたのは。
天然のクリスタルを、綺麗な多面体にカットしたモノが幾つか。
綺麗に澄んだ透明のものや、薄っすらピンク色を帯びたもの。
金色の結晶が混ざり込んだ針水晶もある。
どれも丁寧に、それぞれの輝きを引き立てるカッティングが施されている。


僚がその綺麗な透き通った不思議な石を、箱の中から摘み上げた。
その複数の石は銀色のワイヤーで連結されており、絶妙なバランスを保って揺れた。
それは太陽の光を集める、モビールだった。




「これをね、カオリンの部屋の寝室の窓に吊るしたら、朝お日様が昇った時にきっと綺麗だと思って。」



そう言った僚の言葉に、香は泣きそうになった。
兄が死んで、僚に出逢うまでの5年間。
香はずっと、死にたいと思っていた。
朝など来なければイイと思っていた。
眠りに就いたまま、兄の元へ行けたらどんなに幸せだろうと思っていた。
でも。
あの春の終わりの朝のエレベーターで、初めて僚に出逢った日から。
朝が来るのが楽しかった。
会社に行くのが、苦痛じゃ無くなった。
皆で、バーベキューをしたり、花火をしたり、パーティーをしたり。



そして、僚が恋人になって。
香の世界は、180度変わった。
僚がいるだけで、朝が来るのも、過ぎゆく季節を感じる事も、全てが愛おしく思えた。
世界の全てが輝いて見えた。
それでも、そんな事は香が心の中だけで思って来た事で。
誰にも言った事など、無かった筈なのに。
まるで僚は香のそんな心を知っていたかのように、そう言った。
僚はいつもそうだ。
香のこの世に1人ぼっちになって、淋しい気持ちとか。
信じていた同僚に、苛められた悲しい気持ちとか。
全て包み込んでくれるように、こうして温かい言葉をくれる。
香は僚の言葉に、これまで何度も救われて来た。



そのモビールは本当に素敵だし、とっても気に入ったけど。
それ以上に、僚の気持ちが香は嬉しかった。
もう、朝が来るのは怖くないんだよ、と香は心の中で呟いた。
僚がいてくれれば、もう何も怖くない。









僚は、お正月はアメリカに帰るんでしょ?



それはお互いにプレゼントも交換した後の、何気ない会話の中の香の何気ない一言だった。
勿論、僚の父はアメリカにいる訳だし、クリスマスはこうして幸せを一杯貰ったから。
香はそれで、充分だった。
秋に2人が付き合い始めて、殆ど毎日一緒に過ごしている。
もしも、年末年始の会社の休みの間、僚が里帰りをするのなら、暫くはお別れだ。
淋しくないと言えば嘘になる。
香には、お正月を一緒に過ごす家族も友達もいない。
でも、僚には家族がいるし。
それは仕方の無い事だ。
僚と逢えない数日は、モビールを見てきっと僚を思い出す。




ううん、帰らないよ。


へ?そうなの?



僚の予想外の言葉に、香はキョトンとする。
僚は苦笑すると、説明する。



オヤジは、毎年正月はこっちに来んの。で、半月ぐらいはこっちで色々と仕事もあるらしくて。


そうなんだ。でも、ご実家には帰るんでしょ?




僚には一応、麻布に日本での実家がある。
もっとも、そこで過ごすのは年に数日。
父親が帰国した時だけだ。
それ以外そこには、誰も居ない。
僚はむしろ、アメリカの家の方が実家という感覚に近い。



うん、てか。カオリンも一緒だけどな。


え?


オヤジも楽しみにしてるし。カオリンに会うの。


は?


ふふふ、カオリン。さっきから、頭上にクエスチョンマークだらけだぞ?


だだだだだだってっっ。ど、どういう事????


・・・・・こういう事。




そう言って僚は、小さなダイヤモンドが輝くプラチナのリングを、香の左手の薬指に嵌めた。
暫くの間、香には状況が掴めなかった。
それでも。
この指に嵌ったリングの意味する所は。
たった1つで。




正月は未来の嫁さんを、連れて帰る予定。




その言葉によって、香の疑問はアッサリと解決した。
僚は涙を浮かべて真っ赤になった、大切な婚約者をそっと抱き締めた。
もう香は、1人じゃない。
朝が来るのを怯える事も無いのだ。