よォ~~コソ!!!

はじめまして。ワタクシ、ケシと申します。
このサイトはシティーハンターの二次創作を綴っております。

イチャラブ・メインでっす!!

今後とも、宜しくお願い申し上げます 



※ それから、原作者様並びに関係者様には、一切無関係でございます。
  あくまでも一ファンの妄想の産物でございます。
  また、イメージをさせて戴く楽曲並びに、アーティスト様にも一切無関係でございます。

※ リクエストに関してですが、キリのイイ数字を踏まれたお方は、
  セルフサービス(自己申告)となっておりますので、ご一報下さいませ。
  またその際、死にネタ直接的なエロカオリンがリョウちゃん以外は、
  ワタクシの力量不足故、書けませんのでそれ以外でお願い致します(平謝)
                             
※ 当ブログは、リンクフリー・アンリンクフリーです。
tears of a clown

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※ 尚、当ブログ内の如何なる記事・画像も、著作権はケシ、もしくは絵を描いた絵師様に帰属します。
  無断転載・コピペなど、断じてお断り致します。あしからず。


急に思いついて書いてみた

↓↓↓
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[ 2030/04/14 00:00 ] ごあいさつとお知らせ | TB(0) | CM(25)

4.戸惑い微熱

自分自身のことなのにわからないことが沢山あると、槇村香はここ最近気が付いた。
20歳もとうに過ぎ、漸く自覚しつつある初恋が、多分世間一般的にみれば、
随分スロースターターであるらしいことも何となくはわかっている。
特に理由はない。10代の頃、周囲の友人たちが恋愛絡みで一喜一憂している姿を、
ぼんやりと眺めてはいたけれど、それはどこか他人事だったし興味はあまり無かった。
友達としての好きと、恋愛対象としての好きの違いもよくわからなかった。




『香さんって、わかり易いよね。』

そう言いながらニッコリと微笑んだのは、香より少し歳上の(でも撩よりも歳下の)
イケメンの依頼人だった。
自分でも自分のことがよくわからないのに、
大して知りもしない他人には『わかり易い』らしい。
依頼の間の数週間、なにかと一緒に過ごすことの多かった依頼人に、香は何度か口説かれた。
普段は鈍感で、然り気無いアプローチ程度では天然でスルーしてしまう香でも、
流石に理解できるくらい直球で彼は香を口説いた。
曰く、彼の人生の中でも決して逃してはならない運命的な出逢いだと、
初対面の時にそう思ったらしい。


『でも香さんって気持ちが全部、表情(かお)に出るから誰のことを考えてるのかバレバレだもん。』

『ホラ、また。そんなに真っ赤な顔してたら、図星だって言ってるのと同じだよ。』


撩のことを好きだと思う香の気持ちは、傍からみてとてもわかり易いらしい。
仕事の性質上(それだけでもないけれど)、香は出来るだけ自分の気持ちがバレないように、
心に秘めているつもりだったのに、そんなにわかり易いのなら当の撩本人にバレていたらどうしようと、依頼を終えてから数日経過して、ふと心配になったのだ。

仕事の為とはいえ同じ屋根の下で暮らす撩とは、
人生の経験値から、考え方から、行動パターンから、何から何まで全く異なる相手過ぎて、
香にとって撩は未だ未知の領域だ。到底、香の太刀打ち出来る相手ではないので、
気持ちを告げるなど絶対に無理だし、絶対に嫌だ。
そもそもスケベで意地悪でぐうたらな撩なんか、ムカつくことのほうが多いのに。
何故だか香の心の中のずっと奥の奥のほうで、
「でも好き」っていう小さな感情の塊が、香を頑なに支配するのだ。

撩は香が夕食を作っていても、そのまま帰らずに飲みに行ったりする。
香にだけは口が裂けても言わない甘い言葉を、
その辺を歩いている女の人や美人の依頼人には惜しげもなく大安売りしたりする。
そのくせ香には、口を開けば憎まれ口のオンパレードだったりする。
正直、香にしてみれば納得はいかない。
それは自分が日頃やっていることに対してのレスポンスとしては、
とても酷い仕打ちのように感じるけれど、別に誰に強いられている訳でもなく、
香は香自身の意思で撩のそばに居ることを選んでいるので、仕方ない。自己責任だと香は思う。
だからいっそ、好きも嫌いもなく、それこそ友達と恋の違いがわからなかったあの頃に戻れたら、
どんなにか楽だろうと香は思うのだけど、戻り方はわからない。
撩のバカ(でも好き)、撩の意地悪(でも好き)、撩なんて大嫌い(でも好き)。
「でも好き」の力は絶大だ。
完全に香の心を縛り付けて、前にも後にも進めない。雁字搦めだ。



この数日、相棒は何やら思い悩んでいるらしいと、冴羽撩は感じている。
少しだけ機嫌がよろしくないことは、言葉は無くとも肌感覚で察知している。
恐らく不機嫌の始まりは、先日の男の依頼人からの仕事を請けた辺りだったような気がする。
依頼料も入って財政事情は悪くないのに、香の表情は晴れないし、
自分への当たりも普段よりキツいと感じるのは撩の気のせいでは無い筈だ。
直接的に苦情を言われる訳でもないし、自分の為に用意された食事も日常の些細な色んなことも、
至っていつも通りだけれど、時折、視線や言葉の端々に棘を感じる。飯はいつも通り、旨い。
(因みに、この日々の食事に対する撩の感想は、言葉になって香に伝えられることは決してない。)





ちょっと訊きたいことがあるんだけど。



香がこう切り出した時、
撩はちょうどキャベツと油揚げの味噌汁をひとくち口に含んだところだった。
ゴクリと嚥下した撩の喉仏が上下するのを見ながら、香は頬が火照るのを感じたけれど、
たった今、訊こうとしていることを思って気を引き締めた。



何?

···アタシって、わかり易い?

何が?

だから···その、考えてることとか···



そう言った香の目が激しく泳ぐ。
茶色の癖毛から覗く耳朶の先が真っ赤で、今しがたの当人の質問の答えを如実に表している。
ああ、そのことか。と、撩は思う。あの依頼人は胸糞悪い男だった。
表立ってそれに意見する立場に撩は無いので、敢えて静観の構えをとってはいたが、
チャラチャラと香を口説くその男に、撩は内心ムカついていた。
香は撩に気付かれていないと思っているけれど、
撩は香と依頼人のやり取りはきちんと観察し、概ね把握している。
これだから男の依頼人は嫌なのだと、撩は思う。
逼迫した冴羽商事の財政事情を盾に、半ば無理矢理に香によって請けさせられた依頼だったけど、
結果として香はここ数日、色々と思い悩むこととなったらしい。



んなもん、バレバレだろ。

···。



嘘を吐いても仕方が無いので正直に答えた撩を、香は恨めしげに無言で見詰めている。
その無意識の表情は、反則だろうと撩は思う。
薄らと涙を湛えた丸い瞳と染まった頬、眉根を寄せてきつく結ばれた朱い唇。
撩の体温が、0·3℃ほど上昇する。脈が若干、速くなる。
取り敢えず心の安定を図る為、撩は平静を装ってもうひとくち味噌汁を啜る。
やっぱり旨い、出汁が効いている。



ま、でも言わなきゃ無いのとおんなじだ。



撩がニヤリと笑った。わかっている。撩は香の気持ちは知っている。そして自分自身のことも。
二人がこうして共に暮らしていくためには、
互いの感情は秘めたままでいるほうがなにかと都合が良いと思うから。だから言葉にはしない。
言葉は人を縛る枷になる。言葉は難しい。
想いの全てを端的に的確に表すことなど、撩には出来そうにないから、はじめから言わない。
撩は常に、そのスタンスだ。



別に何もかもオープンにする必要も無いだろ。大切なことは自分がわかってりゃ良いんだよ。



確かにその撩の答えは、秘密主義の彼らしいものだと香は思う。
普段は大嫌いな撩の秘密主義だけど、香はその言葉に救われた気がした。
香がどんなに撩を好きでいても、心に秘めて大切にしているだけならば誰にも迷惑は掛けないし、
心は自由だ。
傍からみれば、撩と香の関係は変なのかもしれない。
香の心は他人には丸見えで、わかり易くて馬鹿なのかもしれない。
それでもこの世で一番香の恋心をそっとして放っておいて欲しい当人が、
こうして香の秘密に触れないでいてくれることは、香にとっては有り難いことだ。
もっとも、撩には撩で探られたくない色々があってお互い様ってことかもしれないけれど、
とにかく何であろうと、何事もなく平穏にこの日常を営む為の利害は一致したので、
それで良いと香も納得することにした。

槇村香には、まだまだ沢山わからないことがある。
一番近くにいて生活を共にする男の本心など、
全く気付かずに生きているけれどそれで何の問題もない。




「りょおの秘密主義者め(でも好き)」

「お前がわかり易過ぎるんだよ(可愛いなチクショー)」

「アンタが嘘つきなだけよ(でも好き)」

「お前が単純なんだよ(上目遣いやめれ)」

「アンタが複雑過ぎるのよ(でも好き)」





「ま、でも、それがお前の良さでもあるんじゃねぇの?」
「何よ、急に。調子狂うじゃん。」



香の抗議の声は聞こえない振りをして、撩は肩を竦めるとご飯を口一杯に頬張った。
撩はスケベで意地悪で、労働意欲に欠けるのに遊んでばっかりで大嫌い。でも大好き。

これは恋だ。
香は現在進行形で、全く手応えの無い恋をしている。
友達の好きと恋の好きの違いがわからなかった香には、まだまだ恋の方程式は解けそうにない。


[ 2021/07/15 00:55 ] 初恋10のお題 | TB(0) | CM(1)

【お知らせ】こちらのカテゴリーについて追記です

こんちわ、ケシでっす。

『初恋10のお題』

このカテゴリーのお題は途中で更新が止まってしまっていまして、
当初の予定ではお題のナンバリングに合わせて、
カオリンとりょうちゃんの進捗度も進めて書いていこうかなと思っていたのですが・・・

数年間、放置することによって見えてくることもありまして(笑)
お題を何度も何度もじっくり読んでいると、
これはどうも初期から中期にかけてのモヤモヤ期を書くための、
お題な気がしてしょうがなくなってきました。
なので、そういうコンセプトで書いていくための、
お題リストってことにしようと私の中で決めました。
ま、どうでもいいお知らせかもしれませんが、
少しづつ書き進める気になってきたと受け止めて下されば幸いです。

ここ2~3ヶ月の当ブログの動きでもお分かり頂けると思いますが、
少しづつ中途半端だったお話の続きを書き進めて完結させたりと、
今まで忙しさにかまけて放置気味だった二次創作のほうも、
今出来るペースでやっていきたい気持ちになっています。
とはいえ、以前のように毎日更新をやれる生活ではなくなってしまったので、
ゆっくり更新になるとは思いますがまたボチボチ書いていきたいと思います。
それでも期待せずに待ってるぜ、というお方がいらっしゃれば大変嬉しいです。
(私が犬だったら嬉ションして庭駆け回る勢いで嬉しいです。)

それでは、またその内に~~~ヽ(´∀`)ノ
[ 2021/07/14 03:40 ] 初恋10のお題 | TB(0) | CM(0)

№9 いのち短し恋せよ少女(おとめ)

「香、仕切り直しさせてくれ」
「は?」


食後のコーヒーを淹れてリビングに持っていくと、
いつになく改まった面持ちの撩が香にそう言った。
麗香からの依頼で撩が奔走した数日後、麗香は改めて依頼料を冴羽商事宛に振り込んできた。
本来の麗香の依頼主も、まさかあれほどの騒動に発展するのは想定外だったらしく、
ずいぶん上乗せされた報酬を支払ってくれたらしい。
報酬は折半で冴羽商事にも齎されたわけだが、それでもまあまあの額だった。
麗香は香にだけ電話を寄越し、しばらく留守にすると告げた。
今回の報酬で、パァーッと気晴らしに一人旅に出るらしい。
傷心旅行よ、と言った麗香に、香は何と答えるのが正解なのかわからなかった。
普通に考えて点と線を繋ぎ、麗香の発言と冴羽撩のこの表情を見れば、
彼が何を言いたいのか、ある程度の察しはつきそうなものだが、
察することが出来ないのが、まあ槇村香らしいといえばらしい。


「何を?」


本当になんの心当たりもないといった様子でキョトンとした香をみて、
撩はここから先の道のりの長さを覚悟した。


「何って、デートに決まってんじゃん」

ブフッ

香は思わず、口に含んだコーヒーを吹き出してしまった。
そういえば今回の件で、せっかくの美樹からのお膳立てがドタキャンになったことすら、
香は忘れかけていた。
あの時、香は撩がなにか奢ってくれたらチャラにしてやると言って、
軽く受け流していたのだ。


「牛丼、奢ってくれるの?」
「京王プラザホテルのラウンジに、今夜19時 粧し込んで来い」

「え? ちょっ なに?急に」


香は香で激しく動揺していたけれど、撩も撩で意を決してデートに誘ったのだ。
用件だけ言うと、まだ冷め切らない熱いコーヒーを一気に飲み干して、リビングから逃げ出した。
撩の耳たぶの先がほんの少し赤かったことに、香は気が付かなかった。
しかし、残された香はぼんやりと撩の言葉を復唱した。


京王プラザホテルの・ラウンジに・今晩・19時


「っって、なんでアイツはいつもいつもいつもこう急なのよ‼ 時間ないじゃん‼」


香はテレビの横に置かれたシンプルな置時計を見遣る。
もう既に昼の13時を回っている。昼ごはんの後のコーヒーを飲んでいるところだったのだ。
仕方ない。
粧し込んで来いと言われても、香は完全にパニックになっていた。
頼れるのは親友の彼女しかいない。
香は早速、多忙を極めているだろうデザイナーの友人へ、連絡を取った。
今夜のデートを成功させる為のコーディネイトを相談するのだ。








端的に言って、約束のラウンジに現れた撩の相棒は、美しかった。
フォーマルに着飾ってもしっくり馴染むその場所で、彼女は一際人目を引いていた。
粧し込んで来いと言ったのは確かに撩だけど、
想定以上に美しく仕上がった香の裏で、北原絵梨子が暗躍したことは想像に難くない。
限りなく黒に近い紺色のオーダーメイドのタキシードを身に纏った撩と、
ローズグレイの光沢のあるタフタ素材のイブニングドレスを着た香は、
まるで誂えたかのように調和がとれていた。
なんの打ち合わせも無いままのデートの約束にしては、上出来だ。


「お待たせ」


ヒールを履いた香が頭ひとつ分背の高い撩を、無意識に誘惑するように見上げる。
ショートヘアの耳元で、いつかの横浜のデートの夜に着けていたゴールドのイヤリングが揺れる。
あの晩、片ほうだけを撩の元へ置き去りにして、帰って行ったシンデレラは、
翌日のジーンズのポケットから出てきたそれのカラクリには言及せずに、
今も撩の傍に居てくれている。


「いや、俺もいま来たとこ」


嘘だ、実をいうと撩はドキドキしながら15分前には到着していた。
そんな素振りも見せずに、撩が右腕を差し出すと香は慣れた手付きでそっと手を添えた。
これまでに何度もこうして腕を組んで歩いたけれど、それは全て仕事の為で。
デートとして撩が香をエスコートするのは、これが初めてだ。
今夜、撩は彼女と公私共にパートナーとなることを誓うつもりでいる。
本当に想っている相手には、きちんと言葉で伝えないと伝わらない。
それを教えてくれたのは、撩に報われない恋をして振られた女探偵だ。
まるで撩の曖昧さを許さぬように、彼女は香にあって自分にないものは何かと、撩に訊いた。
あれからずっとそのことを、撩も考えていた。
撩にもその問いの答えはまだわからないけれど、あえて言うならば、撩にとって香は光だ。
光は希望だ。
真っ暗な夜を照らしてくれるちっぽけな星のひとつだけれど、
沢山ある星々の中で撩は見付けてしまったのだ。
撩の為だけに、撩の行く道だけを、明るく照らしてくれる小さな星を。

撩は彼女がまだ、少年のようなあどけなさを残したあの頃から、彼女のことをずっと見てきた。
撩の傍でどんどん綺麗になっていく彼女は、これまでで今夜が一番綺麗だ。
今日という日は、再び訪れることはない。
きっとこれからも毎晩、今夜の彼女が一番綺麗だと思いながら、歳を重ねていくだろう。
その気持ちが揺るぎの無いものだと確信できたから、撩は香をデートに誘った。

相棒(パートナー)に「愛している」を伝えるために。


(おわり)



え~と、完結までに長々とお待たせしてしまい申し訳ありません(汗)
なんとか当初書きたかったお話には纏まった気がしています。
麗香ちゃんの恋と向き合うのは難しいです。
最終的には、りょうちゃんとカオリンの二人が進んだ関係になるっていうのがもっともしっくりきますね。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます( *´艸`)
[ 2021/06/17 21:26 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(1)

№8 ここには誰れも来ぬものを

小さくて愛らしい外見には似つかわしくない渋めのエンジン音と小さな振動を感じて、
麗香がブランケットから顔を出すと、赤いミニクーパーは静かに動き始めるところだった。
砂利敷きの林道なのに、驚くほど滑らかに進み出したのは多分、撩の気遣いだ。
助手席へ一瞬チラリと目線を寄越した撩は、信じられないくらい埃まみれだった。


「起こしちまったな、すまん」


仮眠しろ、と言って麗香を置いて暗がりへ消えた撩は、どうやらあの後独りで片付けてきたらしい。
どの位の時間が経ったのか麗香には判らなかったけど、
真夜中だった空の色に少しだけ明るさが混ざり始めていた。
夜明けはまだだけど、少しだけ朝の気配がする。


「ごめんなさい、最後まであなたに頼りっきりで」
「別にぃ、どってことないさ 俺にとっちゃ何てことない相手だ」


麗香が一人で探偵事務所を開いてもう数年になるが、
今回ばかりは己の力量を超えた依頼に関わってしまったと反省している。
基本的に非合法の世界に足を踏み入れるつもりは無い麗香だが、
自分のやっていることが、限りなく黒に近いダークグレイであることを今回、痛感した。
その割には、麗香自身の実力は素人に毛が生えた程度である。
麗香はこれまで、心の何処かで香のことを、
撩に守られているだけの素人だと見下していたことに気が付いた。
それでも麗華自身がこうして、撩の仕事を目の当たりにしてみて少しだけ思い直したことは、
槇村香という人間は、麗香が考えているほど素人という訳でもないのかもしれないということだ。
麗香とて数年間は、警察官として様々な世の中の修羅場を見聞きしてきた自負はあるが、
香が撩の傍で実際に経験してきた全ては、法律の外側の最も暴力的な世界の修羅場なのだ。
同じ場面に遭遇したとして、麗香が香よりも上手く立ち回れるのか、正直麗香にはわからない。
どちらがより彼の役に立てるのかなんて、比べること自体そもそも無意味なことなのかもしれない。
ひとつ確かに言えることは、彼女は彼の隣でずっと彼をサポートしている。
何より、彼がそれを望んでいる、その事実。それが全てだ。



新宿に帰り着いたのは、早朝だった。
冴羽アパートのガレージにミニクーパーがするりと滑り込み、いつもの定位置に収まった。
撩と麗香は示し合わせた訳でも無いけれど、自然と地下の射撃場へと向かった。
撩は今回の仕事で使った銃火器の類を手入れして仕舞う為に、
麗香は地下で繋がった自宅へと帰る為に。


「ありがとう、撩 助けてくれて」
「いや、礼はいい これは俺のやるべきことなんだ」
「…どういう意味?」


麗香には本当に、意味が解らないのだ。
撩が自分自身の危険も顧みず、こうして何も言わずに体を張って協力してくれる意味が。
麗香が初めて撩とあった時の、友村刑事の時のことも、
本当ならば撩には何の得もない、関わりもない事柄をまるでスーパーヒーローのように解決して、
だからといって何の見返りも求めないことが。
確かに表向きには、一発やらせろだの何だのとふざけるけれど、こちらが応じようとすれば、
それはただの冗談に過ぎないことを思い知らせるように、サッと引いていく。
そんなことをされたら、好きになってしまっても仕方ないじゃない?と麗香は思う。

あまりにも真剣な表情で麗香が訊ねるので、撩は思わず苦笑してしまう。
昔の撩ならば多分、不必要な面倒事に首を突っ込むことなど無かっただろう。
海坊主とも、ミックとも、昔のしがらみには、
複雑な事情が絡んでいて、敵対していた時期もあった。
どんなに軽口を叩き合っても、懐の銃の引き金はいつでも引ける心構えでいた。
『仲間』だなんて何の他意もなく言えるようになったのは、本当にこの数年の話だ。
何よりも、海坊主やミックとまた昔のようにやり合えば、香が悲しむ。
撩はまず一番に、そう考えてしまうようになった。


「仲間だから」


きっと香なら、麗香が困っていれば助けてやれと言うだろうから。
今回、撩と麗香が組んで仕事をしていることについて、
恐らく香が多少なりとも傷付いていることは、撩もわかっている。
それでも尚、香なら麗香の窮状に際して、
力になってやれと言うだろうと思ったから、撩は麗香を助けた。
誰かの為に自分の持っている力が役立つのであれば、
それを使うことは当然だと考える相棒に影響されて、撩はこの数年で考え方が変わった。
頑なな撩を変えることの出来る能力を持った強い女は、それでも毎度、己の非力を嘆いている。


「仲間以上には、なれないの?」
「…。」


麗香の視線に含まれる熱の意味を知っている撩には、答えてやれる言葉は持ち合わせていない。



   香さんにあって私に無いものってなに?



麗香の問いは真っすぐに撩を射る。正直、撩にはわからない。
どうして自分がこんなにも香に惹かれるのか。
麗香だって、充分に良い女だということはわかっている。
麗香でもなく、冴子でもなく、他の誰でもなく香でないと駄目な理由。
そんなことは、撩にだってわからない、理由などない。
でも、この期に及んで麗香をこれほどまでに追い詰めてしまっているのは、きっと。
撩の煮え切らなさが招いてしまっている事態には違いない。
言葉や約束で縛れない分、曖昧さと狡さで香に甘えてしまっている撩は、
それと同じだけの残酷さで、『仲間』なんて口当たりのいい言葉を使って麗香を傷付けている。
それは、香に対して『相棒』という言葉を使うのと根本は同じだ。
時にはハッキリと拒絶する優しさも、必要なのかもしれない。


「なれないよ、俺が惚れてるのは香だ」
「はっきり言ってくれたの、はじめてね」
「今更だろ?俺みてたらバレバレじゃん?」
「そうだけど、言って貰わなきゃ諦めがつかないこともあるのよ」
「…そうだな」


好きの気持ちを言ってやらないと伝わらないのと同じように。


「もう此処も塞がなくちゃね」


そう言った麗香は笑っていた。
この恋で人知れず何度も涙を流したけれど、最後に胸に残ったのは不思議な清々しさだった。
もしかすると麗香は、ほかの誰にでもなく、撩自身に引導を渡して貰いたかったのかもしれない。
本当のところでは、撩の気持ちなど、彼自身の言葉通りにバレバレだった。
空気を読んで察して自分から身を引くのと、言葉にして貰ってあっさり振られるのと、
どちらが良いかは人それぞれだろうけど。
麗香が心の奥底で求めていたのは、後者だったのだと麗香自身もやっと気が付いた。
撩が自分のことを仲間だと思ってくれているのなら、それだけで充分だと麗香は思えた。


「ああ、そうして貰えると助かる うちの相棒、やきもち妬きだから」


やっぱりそう言って笑った撩がイケメン過ぎるから、未練がましい気持ちになる前に、
麗香は射撃場に背を向けて何も言わずに手を振った。





(つづく)

[ 2021/06/14 09:36 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(1)

46. 願わくば

「家族の形に決まりってないけど、やっぱり嫌な仕事だったな」


ひとしきり求め合ってようやく熱も収まりかけた寝室で、そう香が呟いたので、
まだそのことを考えていたのかと、撩は苦笑した。
ヘッドボードに凭れて煙草を吸う己の隣で、枕に俯せた彼女の裸の背中と尻は眩いほどに白い。
ベッドサイドのオレンジ色の照明だけが灯った薄暗い部屋で、
彼女の肌はまるで発光しているかのように輝いていて、撩は無意識に彼女の背中を撫ぜた。

依頼人は、親との関係を抹消したいと相談に来た。
子供の頃からあらゆる虐待を受け、まともに育てられた記憶は無いという。
親元を離れられる年齢になって社会に出た時は、清々した気持ちになって自由を味わった。
そして社会に出て、所謂世の中の『普通』というものを知り、
自分の子供時代が如何に失われたものだらけだったのかを知ったという。
そのことが原因で、幾つかの心の病気にも悩まされた依頼人だが、今では仕事での成功を収めた。
親元を出て以降、連絡を取ることは無かったが、何処で嗅ぎ付けたのか、
親は現在の依頼人の居場所と地位と、年収を知っていた。
独りの力で何とかこれまでやってきたと自負する依頼人が、
そろそろ恋人との結婚を考えようかと思い始めた矢先の、最悪のタイミングだった。
依頼人は別に、親に対して暴力的な復讐心がある訳でもない。
ただひたすら、もう関わりたくないのだという。
彼の人生に必要なのは、自分に害しか齎さなかった両親ではなく、
彼を支えてくれた大切な『他人たち』だった。
そういう話なら、うちよりも弁護士事務所のほうが適任では?と提案したのは香だった。
一応、何でもやります、とビラに書いてはいるけれど、
どう考えても冴羽商事に出来ることがあるのかどうか、疑問に思えたからだ。
撩は特に何も言わず、香と依頼人のそんなやり取りを静観していた。

「弁護士を交えて話す、ということは少なからず相手と話し合う余地があるということです」

依頼人は、ジッと香の目を見ると、穏やかにそう言った。
依頼人曰く、彼等(両親)と今更、話し合うことなど何もなく、
ただ生物として親であるという事実だけで、幼い子供を蹂躙し、
その上この先、搾取する気で近付いてくる人間と、まともに話し合う時間や労力を使いたくない。
大切なのは、今自分の傍に居てくれる人間関係だけだという。

「私たちに、何をご依頼ですか?」

そう訊ねた香に彼が言った依頼内容は、彼の両親に彼が死んだと思わせて欲しいというものだった。
自分の存在がこの世から無くなれば、彼等も諦めるだろうと。
実際には、彼は死なないし、これから先もこれまで通り生きていく訳だけども、
彼の両親にだけ、彼が死んだと思わせる。
少しばかりいつもと毛色の違う依頼ではあるものの、
困惑の表情を浮かべる香をよそに、それまで沈黙していた撩があっさりとその依頼を請けたのだ。
彼の両親に突き付ける為だけに、幾つかの公的な書類を偽造し、
SNSなどのネットで拾える彼の情報について、ごく限られた範囲で抹消もしくは捏造する。
それには撩が使える様々なコネクションが活かされた。
彼の毒親の元に、撩と香は弁護士を名乗って訪れた。
彼が死んだという証拠となる偽造された書類を渡し、彼の遺言に則りこちらに赴いたと説明し、
生前の彼の意思に基づき、財産も然るべきところへ寄付し、両親に遺すものは何もないと伝える。
勿論、(書類の偽造以外に)法的に問題が無いかどうかは、
新宿の片隅に怪しげな法律事務所を構えている、強面の不良弁護士の監修済みのシナリオだ。
依頼人の言葉通り、一般的な常識や教養とは無縁の初老の夫婦に、
これ以上ことの真相を追求する能力も熱意もないだろうことは、撩も感じた。
ただ彼等はこれから先、
経済的に世話になろうと目論んでいた当てが外れて苦々しい表情をしただけだ。
依頼人は実際には死んでいないけど、両親の戸籍から分籍し、表面的には姿を消した。
これが今回の依頼の全てだ。


確かに香ははじめから、この依頼に乗り気でなかった。
撩が何も言わずに依頼を請けた後も、何度か件の不良弁護士に振ってはどうかと、
撩に詰め寄ったが撩は頑として首を縦には振らなかった。
香とて、頭では理解している。
生物学的に親子でも、埋まらない溝がある親子など星の数ほどいるし、
本当に子供にとって、悪魔か鬼でしかない親も存在するということは。
それでも親に死んだと嘘を吐かないと生きていけない依頼人も、実の子供に嘘を吐かれる親も、
悲しくて香はやりきれなかった。
関東の北の外れの依頼人の実家から新宿へと戻るミニの車内で、
香は撩に、こんな依頼は二度と請けないから、と言うとすっかり黙り込んだ。
いつもなら仕事で遠出して長丁場のドライブを余儀なくされても、
香が何かと話し掛けてくるから撩が時間を持て余すことは無かったが、
今回の香は色々と思うところがあったらしい。

しかし、思うところがあったのは、撩も同じだ。
望むと望まざるにかかわらず、撩の『親父』はこの世であの男一人だ。
もしも撩が親父に拾われることが無かったら、あの時にとっくに死んでいただけだ。
生きていて何か得があったかと訊かれれば、別に何も無かった気もするけど、
少なくとも生きていなければ、香と出逢うこともなかった。
撩の中には、確かに大きく矛盾する感情が存在する。
ひとつは、海原神に対する愛情と感謝、もうひとつは彼に対する激しい憎悪の感情だ。
海原神は、まるで楽しい玩具を手に入れた撩からそれを取り上げるように、撩の相棒たちを殺した。
海原にとって何の関係もないような人間も、撩が気を許し、好意を向けた瞬間に殺しに来た。
まるで撩が海原以外の誰かを慕い、愛着を抱くことを邪魔するように。
そうする内に、撩は誰かと深く関わることを意識的に避けるようになった。そして、今がある。
海原を己の手で葬って、こうして香を愛するようになった今、
海原によって生かされてきた自分の運命を思うと、
これまでの不幸よりも少しだけ、これからの幸運が上回ってきたように思える。
依頼人が害悪だらけの親を憎む気持ちが、撩にはよく理解できる。
一度リセットして、自分の人生を生きたいと願う依頼人の気持ちを後押ししたかった。
依頼人が両親に対して復讐したいなどとは思わずに、
唯々そっと別の道を歩きたいと願うことが、とても善良に思えた。
撩は海原を殺すことでしか、彼と向き合うことが出来なかったから、尚更そう思うのかもしれない。


撩はサイドボードの上の灰皿で煙草を揉み消すと、彼女の横に寝転んだ。
横向きに肘をついた姿勢で、彼女の背中に見惚れる。


「世の中にはどうしようもない親もいるからな」


撩がそう言うと、香は横目で撩を見詰めた。しばらく二人は言葉もなく見詰めあった。
撩にそれを言われると、香は何も言えなくなる。
きっと二人が思い出すのはあの白い船でのことや、香の兄の死やミックが日本に来た経緯の色々だ。
それにソニアの父であるケニーのことも、海坊主の視力を奪った元々の原因も。
全ての元凶は、あの撩の毒親のせいである。
香が兄と血の繋がりの無いことを知ったのは、高校受験前の中学3年生の時だった。
香は自分の経験上、家族に血の繋がりは必要ないという考えだ。
けれどそれと同時に、槇村家へと養われてくる以前の、本当の自分の親のことは何も知らない。
どんな親であれ、香の親には違いないだろうけど、
その親は香が今こうして生きて、幸せでいることを知らない。
それだけは、とても悲しいことのように思うのだ。
勿論、家族という意味ならば、香の家族は死んだ父と兄と、今は撩だけだ。


「家族ってさ、自分で作れば良いんじゃない?俺たちならば痛いほど良くわかるだろ」


撩は穏やかで、驚くほど心の広い人間だと、香はいつも思う。
香の想像の及ばないほど、過酷な人生を背負ってきた筈なのに、
いやそうだからか、途轍もなく優しい。


「そうだね、彼にも幸せになって貰いたい」
「なるさ」
「うん」


依頼人は毒親ときれいサッパリ縁を切って、恋人にプロポーズをするつもりだと言った。
香は裸のまま俯せているのを肌寒く感じて、
二人して足元に蹴飛ばしたタオルケットを胸元まで引き上げると、包まって仰向けになった。
撩と愛し合った後はいつも、汗をかくほど暑くなるけれど、
だからといって調子に乗って、撩みたいにいつまでも裸でいると風邪を引いてしまう。


「香」
「ん?」


撩はタオルケットの中の香の左手を握ると、そのまま持ち上げた。
隣同士に寝転んだ二人の顔の前に持ち上げた左手を翳す。


「そのまま、腕あげてて」


撩がそう言ってウィンクしてみせるので、香は思わず意味も解らぬままに頷く。
撩は香によく見えるように、自分の右手の親指と人差し指で小さな輪っかを作った。
その撩の作った小さな輪っかが、二人の目の前に翳された香の左手の薬指に嵌められる。
輪っかは、香の薬指を囲むと、少しだけ力を込めて巻き付いた。


「俺の家族になってください」


その言葉の意味を、香は確かに受け止めた。
指輪など要らない。
撩がただ傍に居てくれれば、それでいいと香は思った。
とっくに自分の家族は撩だと思っている。
返事のキスをして、耳元で囁いた。


「勿論、喜んで」






続き物と別の、お題の更新です(о´∀`о)

№7 隙間

その電話があったのは、もう深夜といっても差し支えない時間だった。
前の晩に、いつものように出掛けて行く撩を玄関で見送った。
明け方か、遅くとも昼前までには戻るだろうという、
香の予想に反して撩は暗くなっても戻らなかった。
撩の分もいつも通りに作った夕食は、ラップをかけて冷蔵庫に仕舞った。
何度見たところで変わらないのに、ベランダに出て表の通りを探してしまう。
夜でも煌々と明るい街灯の下を、赤い小さな車が走っていないか目を凝らす。
何度も確認している時計の針は香を焦らすように、遅々として一向に進まない。
そんな時に、リビングの電話が鳴ったのだ。


「…もしもし」
「俺」
「うん」


繋がった瞬間に、小さくプーッという音が聞こえて、
撩が何処かの公衆電話から掛けてきたことがわかった。
それ以前に、そんな時間に電話を鳴らすのは撩だろうと、香には出る前からそれがわかった。


「無事だから、心配すんな」
「うん」
「朝までには、帰る」
「うん」


言いたいことはもっと沢山あるような気がするけれど、
いつも通り言葉に変換できない二人の間には、沈黙が味方する。


「麗香さんは?大丈夫?」
「ああ、二人とも何ともない。ちゃんと戸締りし…」

プツッ、プープープー


撩の声は、中途半端なところで途切れてしまった。
それでも香は、昼間からの心配が少しは軽くなるのを感じた。
電話の向こうの撩は、至っていつも通りで緊迫感の欠片も感じさせてはいなかった。
けれどすぐに帰って来られない程度には、差し迫った状況なのだろう。



NTTの回線によって、二人の会話を強制終了させられた撩は、
暫く緑色の受話器を憮然と睨んでいた。
ポケットの中の小銭ではそれまでが限界だったので、
もっと彼女を安心させることのできる言葉を探っていたかったけど諦めた。
小さな虫が誘われるように群がった強化アクリル製の箱を出ると、撩は気持ちを切り替える。
この数日、撩を煩わせた連中を一人残らずブッ潰す。
撩にしてみれば間の悪いことに、折角の相棒とのデートをふいにさせられたのだから、
三割増しで仕返ししてやる目論見だ。


香は撩のサンダルを突っ掛けて、もう一度ベランダへ出た。
ブカブカの撩のビルケンシュトックは、撩が履くよりむしろ、香が履く頻度のほうが高い。
夜の空気には、夏の終わりの匂いが混ざっている。
朝までには帰ると言った彼の姿が、表の通りにあるわけもない。
さっきまでの胸を引絞られる様な激しい焦燥感は消えた代わりに、
今度はまた、別の感情が香を苦しめ始める。
今回、撩は麗香と行動を伴にしている。
最初、あのデートがドタキャンとなったあの時に、香は自分に出来ることがないか撩に訊いた。
撩の言葉と表情はこういう時、とてもキッパリと香を拒絶する。
その度に香は、相棒という言葉の意味について深く思い悩んでしまうのだ。
香はこの数年間で、その拒絶の瞬間を上手く躱す術だけが上達してしまった。
撩が望まないことには、どんなに心が折れそうになっても決して踏み込まない。
撩が香に詮索されたくないことを、詮索しない。その代わり、撩を信じて撩を待つ。
ただ待つだけじゃ能が無いから、
撩が帰って来た時に心底安心できるように、空かせたお腹を満たせる食事を用意して撩を迎える。
撩の居場所の番人のように留守を守る。
それでも本音を言えば、香は撩の隣に立って撩と一緒に闘いたい。
撩がどんな相手に向かって、孤独な闘いを続けているのか、
相棒としてそれを分かち合いたいと思っている。
先日の麗香からの電話で、今回の件が彼女絡みの依頼であることを知り、
彼女と行動を共にしていることを知らされて、正直、ショックじゃなかったといえば嘘になる。
色々なことを撩と二人で乗り越えて、撩から色んな言葉を貰った筈なのに。
実際には、肝心な時に自分は彼の役に立てないのだ。

いつまでこんな自分なんだろう、麗香や冴子や美樹たちみたいに、
この世界を渡っていける本当の強さを、一体自分はいつになったら持ち得るのだろう。
香がそう思い、涙が零れそうになった時に、またしても電話が鳴った。
一瞬、撩の顔が脳裏に浮かんだけれど、それをあっさりと打ち消した。
すぐ向かいの大きな窓の向こうで、見慣れた友人が電話を片手に手を振っているのが見えたからだ。


「こんばんは、カオリ」
「こんばんは」


明るい友人の声は、沈みがちだった香を少しだけ明るくさせた。
自然と声に笑いが含まれるのを感じる。


「リョウのやつ、まだ帰らないの?」
「…うん、昨夜から帰ってないの」
「Oh そりゃ心配だね、大丈夫?カオリ?」
「さっき  電話があったの、無事だから心配要らないって」
「あぁ、そうか、なら良かった」
「うん」


優しい友人は、優しいうえにとても勘が鋭いので、
少ない言葉の中に隠れた香の感情は、すぐに読み取られてしまう。いつものことだ。


「でもなんだかとても悲しそうだ、カオリ?なにがあったの?」


こういう時に、こんな風に、優しく気遣われると、
堪えようと思っていた涙が思いがけず溢れてしまう。
涙は一度溢れてしまうと止め処なく、感情も一緒に流れ出てしまう。
電話越しに泣きじゃくってしまった香を、ミックは優しく沈黙で包む。
心配でたまらなかった撩の安否は、本人の至っていつも通りの元気な声を聴いて安心できた。
今夜も世界の何処かで彼は、生きて自分に課せられた宿命と向き合っている。
彼はちゃんと生きているから。
だからそれはもっと、別の涙だ。
悔しい気持ちや、嫉妬の気持ちや、不甲斐なさや、自己嫌悪の気持ち。
そういう全部がぐちゃぐちゃに入り混じって、
何処かで今も一生懸命に闘っている撩にだけは、絶対に見せたくない汚い自分。

なんで麗香は連れて行くのに、自分はダメなのか。
彼女にあって自分にないものと、自分にあって彼女にないものの違いについて。




「違うの、アタシはアタシが嫌いなの」
「カオリ?ボクはキミが好きだよ?」



「撩、いま麗香さんと一緒に仕事してるの」



暫く泣いた香が、鼻声でそう言ったので、ミックにもその涙の意味が理解できた。
香を危ないことに近付けたくないのは、単なる撩のエゴだ。
汚い世界を見せたくないのも、罪を犯した自分を見せたくないのも。男のエゴでしかない。
けれども、例えばそれがミックだったとしても、きっと同じようにする。
香には綺麗なものや楽しいものを、沢山みて笑っていて欲しいから。
それというのも、香のことが好きだからそう思うのだ。
でも、撩の全てを知ったうえで、それを分かち合いたいと思う香の気持ちも理解できる。
ましてや周囲の女達と自分自身を比べてしまうだろうことも。


「そっか、ツライね。…でもさ、カオリ」
「ん?」
「リョウが望んでるのは、家に帰った時にキミが居るいつもの日常なんだよ?」
「…でも、アタシは…、撩と一緒に闘いたいの、撩を苦しめる全部と」
「うん、知ってる、でもボクは撩の気持ちがよくわかるんだ、キミのことが好きだから」


そう言ったミックの言葉を、香は泣きすぎて頭痛のする頭で考える。
黙り込んだ香とミックの間に、静かな沈黙が流れる。
そんな時間でさえ、ミックは好きだ。
ミックは彼女が好きだから、どんな彼女であっても常に彼女の味方でいるつもりだ。
どんなに嫉妬に狂っていても、自己嫌悪で泣きじゃくっていても、
撩にはこんな姿を見せられないと言って、苦しむ彼女ですら可愛いと思う程度には頭がおかしい。
それがミック・エンジェルという男だ。


「カオリ、それをリョウは望んでいるんだ。
 キミが無事で、キミに危害が及ばない場所で、キミの元に帰りたい一心で、
 きっと大急ぎで仕事を片付けてるはずさ。」


リョウのやつってば、健気だなー、とミックが笑いながらそう言うので、香もつられて笑った。
ミックの言葉にはきっと、香の気持ちを紛らわせる為のジョークも含まれているので、
香はいつも話半分で聴いてはいるものの、
確かに少し、胸に仕えたモヤモヤは晴れたような気がする。
誰にでも心の中には、他人に見せられない領域というものがあって、
どんなに強く思い合っていたとしても、
互いに埋められない心の隙間というものはどうしようもなくて。
それはきっと、自分以外の誰かに埋めて貰うような性質のものではないのだろう。
それを埋める為の課題には、皆それぞれが向き合わざるを得ないのだ。



「どんなにキミがキミ自身に失望しても、ボクはキミの味方だから、忘れないで」

「ありがとう、ミック」



友人はいつもこうやって、朝を迎える為の勇気を香にくれるから、香もついつい甘えてしまう。
もしも、このミックと香の遣り取りを撩が知ったら、嫉妬しまくって不機嫌になるだろうことなど、
当の香だけが、いつまでも知らないでいる。


(つづく)





[ 2021/06/07 20:20 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(0)

№6 恋

不本意ながら麗香が実家で両親のご機嫌伺いをした翌日、
撩からRN探偵社の事務所へと電話が入った。
撩の寝室へ繋がる直通電話や、射撃場に掘って繋げた地下トンネルを、
半ば強引に図々しい振りで利用する麗香とは対照的に、
撩は決して麗香に対する一線を踏み越えてくることはしない。
撩は麗香の自宅のほうの番号はたぶん知らないし、別に知りたくもないらしい。
麗香としては、撩に訊かれれば何だって包み隠さず答えるつもりでいるけれど、
きっと撩は、彼の中で決めたある一定の距離を越えて自分に近付く気は無いのだろうと、
麗香はほんの些細な彼の気配や振舞いを通して悟っている。
撩が決めた撩と麗香の距離は、あくまでも仕事を介した知人。
それ以上でも以下でもないのだろう。
だから撩は用があれば事務所へとアクセスしてくるのだろう。
別に何の矛盾点もないその事柄ひとつに、麗香は毎度思い知らされるのだ。
わかっている、本当は。
彼にとって自分が、取るに足らないその辺の知り合いの一人でしかないことを。
それは麗香が最も受け入れ難い現実だったりする。


「…恐らく、今晩あたりケリがつく」
「そう、じゃあ覚悟してあたるわ」
「それなんだけど、お前は来なくてもいい、俺一人で大丈夫だ」


一瞬、麗香は撩の言葉を上手く飲み込むことが出来なかった。
否、頭ではわかっている。これは彼の優しさだ。
恐らくは修羅場になるであろう今夜の仕事を、彼は独りで被る気でいる。
彼とはそういう男だ。
元はと言えば麗香が持ち込んだ面倒事を、誰に不平を漏らすでもなく、
自身の危険をも顧みることもなく、ただ粛々と片付けていく。
彼のそういうところが好きなのだ。
表面的にはどうしようもないチャラ男にみえる撩の、
この本質こそが他人を惹き付けるのだろうと麗香は思う。

『彼女にあって自分に無いものと、彼女に無くて自分にあるもの』

ここ数日、彼と一緒に仕事をしながら、麗香はそのことをずっと考えていた。
今ここで、お前が来なくても大丈夫だと言われたからといって引き下がってしまえば、
何故だかこのまま一生、彼の核心には迫れないような気がした。
彼の優しさという庇の下で囲われた彼女と、自分は違うのだということを伝えたかった。



「これはうちの案件だから、当然私も同行するわ」
「…危険が伴う現場だ」
「ええ、承知の上よ」


少しの間、撩が何事か思案しているのが、電話越しに伝わる。
麗香は撩の答えを待つ間、受話器を握る手が震えるのを感じた。
本当は怖い。
警察に属していた時も、友村刑事の件でひとり暴走した時も、
本当の意味では、法律や組織や身内に守られていた。
最終的には何処かに、心の拠り所となる何かがあったから、大胆に行動できたのだ。
けれど彼の(彼等の)棲む世界を、本当の意味で麗香はまだよく知らない。
撩が危険だという事柄を、軽視しないほうが良いのではないかという考えも麗香の脳裏に過る。
彼女への対抗心が、己を衝き動かしてはいないか。
それは逆に、この間の晩の出来事のように、撩を危険に晒すことに繋がるのではないか。
撩の腕に弾が掠めた記憶が、一瞬で蘇る。


「俺は俺の仕事をするまでだ、ついてくるのなら自分の身は自分で守れ」
「わかってる」


麗香は撩の言葉を聴いた瞬間に、本能で怖いと感じた己の直感を封印した。
覚悟を固めた。
中途半端な優しさなら、要らない。
自分が巻き込んだ事件で、撩に迷惑を掛けるくらいなら、撩が負傷をするくらいなら、
自分の身を自分で守れないのなら、その時は死ぬまでだ。

撩は彼女に対して、何が何でも守り抜くし、生き延びると誓ったらしい。
奥多摩で派手にやらかして、無事に彼女を奪い返したあの修羅場の後で、
そう言って彼女を抱き寄せたらしい。
別にそんなことは聞きたくもなかったし、興味も無かったけれど、
仲間内では一時期、その話題で盛り上がったので麗香も知っている。
心はもう既に同じ方向を向いたコンビなのだろう、でも恋人としての確固たる進展はまだ無いのだ。
可能性はゼロではない。
きっと撩がその命を懸けて守り抜くのは、彼女だけなんだろう。
それならば自分は、意地でも足手纏いにはならない。
完璧にアシストしてみせる、麗香はそう思った。
何故なら麗香には、その選択肢しか残されていないのだから。







それでも現場は撩が想定した通り、非常にタフなものだった。
自分の身は自分で守れと、麗香に言ったものの、実際には撩は独りで動く時以上に気を遣っていた。
ただ麗香もそれ相応の覚悟をもってこの場に臨んでいるらしいことは、撩にも理解できた。
時折、撩は「大丈夫だから、力を抜け」と、緊張した麗香に助言しなければいけなかった。
今回の仕事の最終局面において、死を予感するほどの身に迫る危険は無かったが、
思いの外、相手方の警戒心は強く想定外の長期戦を強いられていた。
当初の撩の予定としては、
夜の闇に乗じて駆け回り、夜が明ける頃には新宿に帰り着いている筈だった。
けれど気が付くと、もう丸一日が経過しようとしていた。
目に見えて、麗香には疲労の色がみられた。
三日三晩獲物を追ってジャングルの中を彷徨っても堪えない撩とは、そもそも違うのだ。
敵が潜伏している山奥のアジトから、撩はわざと離れた場所へ移動すると、
静まり返った安全な林道の脇道へ、愛車を停めた。
誰も通らない真夜中の林道の奥で、ミニは一時的な避難小屋のような役割を果たしてくれるだろう。


「ここなら安全だから、お前は束の間でも仮眠をとれ」


何かと思えば、撩は林道の片隅の目立たない場所に、隠すようにミニを停車して麗香にそう言った。
麗香の重苦しい雰囲気をまるで和ませるかのように、笑顔を作って見せて冗談交じりに言った。


「もっこり虫はその辺うろついとくから安心して休め、しっかり鍵掛けてブランケットに潜ってな」


ほれ、と言って後部座席に置かれたブランケットを撩が放ると、
ふわりと優しく柔軟剤の薫りが漂った。


「で、でも…撩は?」


すまなそうに眉根を寄せる麗香に、撩は小さく肩を竦めてみせただけで車から出た。
四つのドアの全てがきっちりと施錠されているのを確認して、林の中の暗闇へと消えた。
確かに麗香は、正直クタクタだった。
撩の足手纏いにならない為に、縋り付くだけで精一杯だった。
悔しいけれど、麗香の力ではこれ以上、意地を通して我儘できるのも限界だった。
そんなことは全て、撩には見透かされていたのかもしれない。
窓の外から自分の姿が見えないように、麗香はブランケットを頭から被った。
何処かで嗅いだことのある匂いだと思ったら、それは彼女の匂いだ。
撩と香の生活の匂い。
彼女が洗濯で使う柔軟剤や、二人で使うシャンプーや彼女の使うボディクリームや色々が混ざった。
複雑な気持ちに飲み込まれる暇も与えずに、疲労は麗香を急速に眠りの底へと引き摺り込んだ。


麗香を休ませている間にケリをつけようと、撩は林の中の道を進んだ。
途中、山越えの峠になっている国道へ出た。
これまでの山道とは違い、数は非常に少ないけれど等間隔に道を照らす灯りがある。
そのずっと奥に、薄ぼんやりと電話ボックスの明かりが見えた。
半日ほど経った頃から、度々撩の脳裏を掠めていたのは、撩の身を案じる相棒の顔だった。
撩は無意識に、ポケットの小銭を探る。


(つづく)



[ 2021/06/02 16:38 ] ゴンドラの唄 | TB(0) | CM(1)

お久し振りでございます(о´∀`о)

おはこんばんちわ、ケシです。

唐突ではございますが、
当ブログで書きかけになったままだったお話の続きを完結させたい欲に駆られまして、
完結させていこうと目論んでおります。
そのお話というのも、ゴンドラの唄というタイトルの麗香ちゃんとRKのお話です。
超久し振りに続きを書き始めようと思い立ったので、
とりあえずまずは自分が何を書きたかったのかを思い出してみようとノートに書いてみました。
最終的には何だかんだ麗香ちゃんはやっぱり当て馬で、
RKのお話になった気がしないでもないですが、
なんとか最後までどういう風に書くかの道筋は決まりましたので、
近々アップしようと思います。
やっぱり間をあけると良くないなーというのが率直な心情です(笑)
だってあの話の最終の更新は丸3年前ですよ?
サボりすぎてごめんなさい・゜・(つД`)・゜・

今度から長めのお話を思い付いたら、間を開けず一気に突っ走ろうと思ってます。
それではまた、
いつもこんなおサボりブログに来てくれて
どぉぉおおおもありがとぉぉぉぉヽ(o´3`o)ノばいちゃ
[ 2021/06/02 12:27 ] 未分類 | TB(0) | CM(2)

最終話  不確定な未来

カーテンの隙間から差し込む光が鋭くて、香は目を覚ました。薄いグレイの遮光カーテン越しの室内の明るさで、もうそれが早朝と呼べる時間ではないことが窺い知れる。
覚醒と同時に感じたのは酷い喉の渇きと、二日酔い特有の吐き気を伴う頭痛だった。
そこで香は昨夜の酒盛りを思い出した。確かに昨夜はいつになく酒を飲んだ。
アルコールに関しては、別に強くもないけれど特段弱いわけでも無いはずだ。
それでもさすがに昨夜の酒量は限度を超えていた自覚はある。
完全に寝坊だし、それに気付いた今この瞬間ですら布団から起き上がるのが億劫だ。
いつもは腹が立って仕方ないぐうたらな相棒の朝の様子も、今朝ばかりは共感できる。
自分がこの状態なら、今頃きっと相棒も7階の自室で鼾をかいて寝ているだろうと思ったところで、
ふと香は我に返った。

そういえば昨夜は、いつ眠りについたのかさえ皆目覚えていない。そもそもこの数日間、香は5階の空室に仮住まいしていた筈で、この客間兼香の部屋には依頼人がいた筈だ。でも、今ここには昨夜の部屋着のままの二日酔いの自分がいるだけだ。

(…あれ?健太は?)

そこまで考え始めて漸く、香の頭が働き始めた。
とりあえず寝床でウダウダしていても仕方がないし、たかだか二日酔いくらいでダウンしていたら相棒の奴に何を言われるかわかったもんじゃない。普段から夜中の酒の名残を色濃く残したままのだらしの無い彼に、朝から口煩く小言を言うのは香自身なのだ。そっくりそのままブーメランを投げ返されるのも癪なので、意を決して起き上がると勢いよくカーテンと窓を開けた。

「やべ、吐きそぉ」

目の裏を直撃する午前中の日光が恨めしいし、眩暈も酷いけど、それでもとりあえずは朝ごはんを作らねば。あと、昨日無事に事件が解決した依頼人の所在確認と、撩も起こして、多分散らかり放題であろうリビングの片付けもしなくてはならない。やること目白押しだ。





吐き気を気合で無理矢理封じ込めた香がキッチンで見た光景は、いつもとは真逆の現象だった。
部屋着を洗濯済みの別の部屋着に着替えただけの、冷たい水で顔を洗っても浮腫みが否めないぼんやりした顔の、所々直らない寝癖を半ば諦めて開き直った香とは対照的に、嬉々として朝食を作る冴羽撩の姿がそこにあった。昨夜の酒程度では何の不調もきたさない鋼の肝臓の持ち主は、香の様子に笑みを浮かべた。

「よお」
「おはよ」

席に着いた香の前に焼いた塩鮭と卵焼きを並べながら、何か言いたげにニタニタしている撩。味噌汁の具がシジミなのは自分が二日酔いだからだろうかと香は深読みする。それでも香の薄い白磁にピンクの小花柄の茶碗に、見るだけで食欲が減退しそうなほどに大盛りの白米をよそう撩。そして撩は、深鉢で2人分の納豆と浅葱を混ぜている。にやにやと笑いながら。

「何よ?」
「何が?」
「変な顔でずっと見てるじゃない」
「誰が変な顔だよ、失礼な」

アンタがよ、と香が言うと撩は声を出して笑った。

「だっていつもと逆だからさ」
「…」
「たまにはこういうのも悪くねえな」

こういう時の撩は香をからかうのを楽しんでいるので、
香はもうそれ以上何も言わず食事を始めることにした。味噌汁に口をつけたところで思い出した。
あまりにも意表を突かれて、一瞬忘れていたことがあった。

「そういえば、健太は?」
「…ぁ?帰ったよ、今更かよ」
「いつ?」
「昨夜」
「…全然おぼえてない」
「そうだろうな」

なにせ酔っ払って眠りこけていたのだ。撩が抱きかかえて客間に運んだことすら知らないだろう。どうやって部屋に辿り着いたのかを訊かれたら、撩は曖昧にすっとぼける気満々だったけれど、香がそれ以上質問しなかったので少しだけ肩透かしを喰らった気持ちになった。
もしも相棒がこのラインを越えた時にはこう言おう、こう訊かれたらこう答えよう、撩はいつも先回りをしてリアクションを一度脳内でシミュレートする癖がついている。







香は少しだけ遅い日課をこなしながら考えた。
朝食を終えてリビングに向かうと、予想に反してそこは綺麗に片付いていた。しかも撩はなんと洗濯機も回していおいてくれたらしいし、一昨日の夜まで健太の使っていたリネン類まで洗って乾燥機に放り込んだらしい。極めつけがあの完璧な和定食の朝食だ。なんだか拍子抜けした気分で、香は撩が洗った洗濯物をベランダに干していた。

「やれば出来るんだから、たまには自分でやってくれればいいのになぁ」

そう呟いても、やれば出来る男・冴羽撩は香の食べた後の食器を洗い、楽しそうにコーヒーを淹れると香を独り残して出掛けて行ったので撩には届かない。ただの独り言だ。香も香で、それでもなんだか満更でもない気がしていた。相変わらず二日酔いは残っているし、出来るなら日頃からやれと思うのも事実だけれど、朝から楽し気に香を構う撩のことが嬉しくなかったと言えば嘘になる。





撩がコーヒーを淹れていたので一緒に飲むものだとばかり思っていたさっきの香は、諦めていた寝癖が気になったので自室に戻り、ドレッサーの前に座った時に初めてそれに気が付いた。小さく折られたメモ用紙が化粧水の瓶と乳液の瓶の間にひっそりと挟まれていた。その文字は決して上手ではないけれど誠実に丁寧に書かれていて、書いた本人の善良な人柄と丸刈りだった少年の頃の面影を香に思い起こさせた。昨日までここにいた健太からのメッセージだった。



『槇村へ
 君はもっと自信を持ったほうがいい。君自身が思うよりずっと、君は綺麗だ 』


そんなものを見付けてしまって数分間惚けていたら、キッチンに戻った頃には撩はもう出掛けた後だった。テーブルの上には淹れたての湯気を上げるコーヒーのマグカップと、これまた撩の殴り書きが残されていた。


『二日酔いには昼寝が一番、とりあえず寝ろ』


元同級生の彼とは真逆で、いかにも撩らしいその短い置手紙がまるでラブレターみたいに嬉しいなんて。多分、撩が知ったら笑い飛ばすか、変な顔をして暫く口を利いてくれなくなるだろうと、香は思う。だから香は撩には本当の気持ちは言わないでおくのだ。






撩のパンツを干しながら、ついさっき小さな紙切れを弄びつつキッチンでコーヒーを飲んだことを思い出す。友達は、もっと自信を持てとアドバイスをくれたけど、香にはまだ自信も勇気も足りない。撩の傍で頼れる相棒でいられる自信も、撩の心の奥にアクセスする勇気もまだない。香の言葉が届かない時にだけ、こっそり本音を漏らせるのだ、本人のパンツに向けて。


ねえ、りょお。
こう見えてアタシにも綺麗だって褒めてくれる男の人のひとりくらいはいるらしいよ。










その頃、冴羽撩は駅前の雑踏をぼんやりと眺めながら考え事をしていた。日課のナンパをする名目で家を出たけれど、気分は乗らない。昨夜、香の寝顔を見ながら自分のような男が縛り付けていていい女ではないな、と毎度お馴染みの自虐プレイに浸っていたけれど、そんな自分自身と矛盾するように、今朝は彼女を甘やかしてリアクションを楽しんでいた。一体、この先彼女に何を望んでいるのか、彼女とどうなりたいのか。どんな未来を思い描いているのか。
そんなことは誰より撩自身がわからないし、何より向き合うことから逃げている。撩にはずっと傍に居て欲しいと懇願する勇気もないし、約束の言葉で縛り付ける覚悟もない。彼女から沢山の幸せを貰っている自覚はあるけれど、彼女を幸せに出来るかどうかなんて自信がない。
全部が曖昧で、でもちょうどいいぬるま湯のような陽だまりのような、温かいあの2人の暮らしがあるアパートで白黒つけずに生きていたいだけだ。それが卑怯であることは、撩も重々解ってはいるけれど、どうにかこのまま可愛い彼女と手を取り合って、行けるところまで行くわけにはいかないだろうかと考えている。




まーいっか、今日も生きてるし。お前は笑ってくれるだろ?香。
俺が生きて帰ってくるだけで。







まだこの先の未来など誰にもわからないし、未来は不確定だから生きていかれる。
互いを想い合いながら、まだ今は初めの一歩を踏み出せないでいる2人の物語も、
きっと沢山の不確定な未来という名の障害物を乗り越えながら紡がれていく。
今この一瞬も、次の瞬間には過去になり、未来も今になる。
きっとそうやって気付いた頃には、
あんな時もあったねと笑いながら話せる時が来ることを、2人はまだ知らないでいる。


(おわり)

[ 2021/04/22 01:32 ] pretend | TB(0) | CM(1)

第11話  エンドライン

岡崎健太がどういう人間で槇村香とどういう関係なのかを充分に理解し、今回の依頼は嫉妬に値するような事案ではないと判断をした筈の撩は、それでも軽く嫉妬を覚えていた。


岡崎の命を狙っていた暴力団関係者と地方議員は、冴羽商事の描いた計画通りに身柄を警察に引き渡すことで、今回の事件は幕を閉じた。午前中のまだ早い時間帯に事件は落着し、すでに昼のニュースでは速報として大きく取り沙汰された。
その短時間に詳しい事件のあらましが発表できたのは、ほかでもない岡崎のこれまでの命懸けの取材の賜物だ。依頼人の無事を護れたのは勿論だが、香は同級生の仕事が良い形で成果を上げたことに対しても喜んだ。今夜はお祝いしようと、この数時間、何やら張り切って香がキッチンに籠っていたのは撩も岡崎も知っている。


それにしても張り切ったな、というのが撩の感想だ。
通常の食卓の風景も多分、標準的な2人暮らしの食卓よりもボリュームがあるほうだとは思うけれど、やや大きめのファミリーサイズのダイニングテーブルには、所狭しと香の手料理が並んでいる。この宴の主役が自分ではなく、依頼人だという事実に撩は嫉妬を覚えたのだ。
それにいつだったか、2人で飲んでねと言って歌舞伎町の顔見知りのオカマから貰ったワインのボトルも並んでいる。多分この先、撩と香の2人きりで、そのワインを開けるようなシチュエーションは当分訪れないと思われるので、今このお祝いと称した宅呑みで開けなければいつ開けるのか、撩にもそれは判らないのだけども、兎にも角にも撩が思わず、それ開けちゃうんだ…という微妙な心境になったのは事実である。香が鈍いのはきっと、こういうとこだ。




「いや、凄いな。これ全部槇村が作ったの?」

「お祝いだからね」




撩の複雑な心境など知る由もない同級生コンビは、他意は無いのだろうけどニコニコしている。
香には撩の心の内など知りようもない。



「食べてみないことには凄いかどうかわかんねぇぞ、胃薬準備しとくか」

「アンタはいつも一言多いのよ」


撩は確かに一言多いが香はいつも言葉より先に手が出るので、隣に並んでいた撩の鳩尾には綺麗に香の拳がめり込んでいた。そのようなやり取りはこの依頼の間に幾度となく目にしてきたので、はじめは驚いていた岡崎も完全に見慣れていた。多少荒っぽい2人のコミュニケーションも、このコンビを理解してしまえばそれは傍目には愛情表現にしか見えない。






結果から言えば、料理の出来は満点だった。食べてみなくてもわかりきっている。
そんなことは誰より撩が知っている。3人ともよく食べて、よく飲んだ。
ワインのボトルは早々に空になったし、撩はストックしてあるバーボンを持ってきて岡崎と一緒に飲んだ。香もワインだけでなく、更にビールまで飲んだのだ。料理がなくなって酒だけになってもダイニングから場所を移して、盛り上がった。
岡崎は撩の知らない頃の香の話を沢山話したし、香はそれを聴いて本当に楽しそうに昔を思い出した。撩はそれでも不思議と嫌な気持ちにはならなかった。槇村秀幸の目線で語られる香、一度だけシュガーボーイの頃に出会った香、自分の目で見て今目の前にいる香。そして撩の知らなかった友達の目線で見てきた高校生の頃の香。きっと可愛くて、しっかり者で、でもどこか抜けてて、屈託なく笑う香を、多分岡崎は、撩に教える為に話してくれているだろうことが、撩にも解った。
きっといつか時間が経った頃、その少女の香も撩の心の中に棲み着くのだろう。

夜も更けて日付が変わる少し前には、
香はリビングのソファでしっかりと酔い潰れて眠りこけていた。



「槇村が寝てる内に帰ります」

「泊ってけよ」


柄にもなく、撩は自分の口から出た言葉に自分で驚いた。
岡崎はまるで、ずっと昔からの友達だったような笑顔を撩に向けて首を振った。


「そんな野暮じゃないです」

「なんだよ、それ」


まだこの時間なら表でタクシー拾えるから、と岡崎は言った。
彼は気を利かせているつもりかもしれないけれど、残念ながら前にも後ろにも進めない雁字搦めの自分を、撩は情けないと思った。玄関先で見送りながら、ありがとうと言った撩に、岡崎は意外そうな顔をして笑いながら帰って行った。本当に撩はありがたかったのだ。
自分と暮らしていることで過去の人との繋がりを、香は意識して断ってきたのではないかと撩は前から思っていた。別に撩がそうしろと言った訳でもないし、そうすべきだと思っていた訳でもない。でもきっと物分かり良くお利口さんであろうとしがちな相棒は、誰に言われるわけでもなく自分で考えてそうしている。だから岡崎が少しの間だけでも現れて、香が楽しい気持ちになってくれてたのなら、撩はありがたかった。撩には同じことはできない。
撩はとりあえずソファで眠りこけている相棒をそのままにして、客間のシーツを取り換えた。
昨夜まで別の男が寝ていたその布団に彼女をそのまま寝かせるのは、絶対に嫌だから。









月明かりが忍び込む薄暗い部屋の中に、彼女が眠っているだけで撩の胸は締め付けられた。
酒の飲み過ぎとかでは断じてない。
香にとって今夜の酒は、己のキャパを超えた飲酒量だったかもしれないが、
撩にしてみれば、むしろいつもより全然少ない。ほろ酔いといったところだ。
理由などひとつしかない。
彼女の髪や肌に触れたら甘いのは判り切っている。でも、同時に胸が痛むことも撩は知っている。
触れられないとわかっている彼女に焦がれているからこんなにも胸が苦しいのだ。

そっと髪を撫でる。
でもただそれだけだ。
それ以上、彼女に踏み込む資格は自分には無い。
もっと違う自分であったら、殺し屋なんかじゃない普通の男として、
ただの何処にでもいる平凡な人間だったなら、
彼女の気持ちに甘えることだってきっと出来たはずだ。でも現実は違う。
現実は時に、撩に様々な試練を突き付けてきたけど、
一番きついのは彼女と出会ってしまったことかもしれない。
いつもいつもいつも、考えても仕方の無いことを撩は考えてしまう。



「…りょおのバカ」


寝言すら可愛いと思ってしまって、撩はさすがに悪酔いしたかもしれないと思い込むことにした。
そろそろリビングに戻って呑み直さないとやばいかもしれない。
もう一度だけその癖毛に触れた。



うん、俺はバカだよ。間違いない。
そしてお前は綺麗だ。


決して穢せない類の綺麗さだと撩は頑なに信じているから、
岡崎には申し訳ないが、彼が思っているような関係には多分この先なれないと思っている。

(つづく)
[ 2021/04/14 02:11 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第10話  ロマンス  

無事に解決したのを祝って、今夜はみんなで飲もうと言い出したのは香だった。

午前中には事件も解決して、岡崎をアパートに匿う理由ももう無くなったはずなのに、
香は何故だか、解決祝いと称したその日の夜の予定を着々と決めてしまった。
いつも以上に夕食のメニューに力を入れ、その料理の腕を如何なく振るうことにしたらしい。
フリーという立場柄、時間の融通の利く岡崎に、この夜までアパートに滞在して明日帰ればいいと、
遅めのブランチを食べながら無邪気に言った香を、撩が全く止めもしなかったことが、岡崎には意外だった。
この依頼の間、きっと撩にとって岡崎は招かれざる客なのだろうと、岡崎自身が感じていたからだ。
当然のように岡崎が今夜泊まることを前提に話を進める香に、撩は何も言わず目を細めているだけだった。






「なんか、すみません。」


食後のコーヒーを飲んで、岡崎は屋上にむかった。
案の定、撩はそこにいて感情の読めない顔で手摺に凭れて煙草を吸っていた。
岡崎の声に振り返ると、撩は半分ほどに短くなった煙草を灰皿に押し付けて火を消した。
屋上のコンクリートの上に吸殻を散らかすと香が怒るので、
撩は自然と、屋上に上がる際に灰皿を持参するのが習慣になっている。
気が付くとこうして香によって馴らされた撩の習慣は、日常の至る所にありすぎて、
今ではもう、撩自身にもあまり自覚はない。


「なにが?」

「いや、事件は解決したのに、なんだか図々しく居座ってしまって。」


撩はまるで、岡崎が面白いことでも言ったかのように破顔した。
初めて会った日の冴羽撩とは、まるで別人のような表情をする人だと、岡崎は思った。
そんな風に笑うことも出来るんだと、意外に思った。


「アイツぁ、言い出したらきかないからな。」


彼にそういう顔をさせているのは、紛れもなく槇村香という存在なのだということに、
岡崎はその撩のひとことで全て理解した。
彼は決して、自分の言葉で香に対する気持ちを表すことは無いのだろうけれど、
全身全霊を込めて彼女を愛しているのだろう。
それを彼女を守るという行動で、体現しているのだ。


「ま、良いんでない?アイツが楽しんでたら、とりあえず平和だから。」

「怒らせたら結構めんどくさいですからね、槇村。」

「そーゆーこと。」


たった数時間前に、埠頭の倉庫であったことがまるで嘘のように穏やかな時間が流れている。
正直、岡崎には彼や香の生きている世界が、現実のことのようには思えなかった。
だからこそきっと撩と香には、通常では考えられないような葛藤があるのだろう。
今回は、彼らの周到な作戦によって、原田と山岡とその手下達を罠に嵌めたけど、
毎回このような展開に持ち込めるとは限らないのだろう。
本当に香が捕らえられ、ギリギリのやり取りの中で撩の判断一つで、生死を分かつ場面だってあるだろう。
岡崎にはそれは、想像を絶するような世界だ。


「冴羽さん。」

「ん?」

「俺、高校の頃、槇村のことが好きでした。」

「そっか、物好きなんだな。」

「この間、久し振りに会って、めちゃくちゃ大人になった彼女を見て、正直少し気後れしたんです。」


撩は彼の言葉に、何を言ったらいいのかわからなかった。
撩が知っている制服姿の香は、まるで男の子のような生意気な女の子だった。
兄貴のことが心配で、心配するあまりに関わってはいけない危ない男の傍に近付くような、
世間知らずで無鉄砲で、でもそれと同時に放っておけない庇護欲を掻き立てる儚さを併せ持っていた。
澄んだ目で撩の深淵を無遠慮に覗き込んでくるから、撩はあの頃から香といると調子が狂う。
それまで何をやろうが誰を殺ろうが咎めたことなど無いような良心の欠片を、香は撩の喉元に突き立てる。
いつの間にか撩の心の中には、香がいつも居座っていて、
何をするにも彼女ならこういう時、何を思うだろう、何て言うだろう、と撩に問い掛ける。
撩がこれまで独りで作り上げてきた世界に、香が棲みつくことで、色と匂いと温度が加わった。
欠けていたピースや、独りでは見付けられなかったピースが、撩の心に音を立ててはまる。
たったひとりのちっぽけなあのシュガーボーイに出会ったばっかりに、撩はずっと調子を狂わせっぱなしだ。



「思わず咄嗟にお茶に誘ったけど、自分が同級生じゃなかったら並んで歩くことすら無いんじゃないかって。こんな槇村の隣にいても引け目を感じない、堂々と胸を張って歩ける人ってどんな人だろうって。」

「アイツは、そんなこと全く気にしないさ。」

「勿論です。これは勝手な俺のコンプレックスというか、だから余計に質が悪いというか・・・」


岡崎の言葉は、撩にも痛いほど突き刺さる。
自分という人間がもっと違う人間で、もっと違う出逢い方をしていれば。
何度そう願ったか、天地がひっくり返っても有り得ない望みはただ虚しさを増すだけだ。


「初めて会った時、冴羽さんなら槇村と一緒に居てもきっと、堂々と居られるんだろうなと思ったんです。」


岡崎は最初、本当にそう思った。
背の高い美しい彼女に似合う、格好いい彼だったら、
彼女の隣でなにも気負うことなくさり気無く、手を取って歩けるのだろうと。
けれど。
第一印象というものは、大概、覆されるものだと相場は決まっている。




「俺は、 」


撩は何かを言い掛けて、言おうとした途中で胸ポケットから煙草を取り出した。
何を言うのか岡崎はなんとなく分かるような気もしたけれど、撩の次の言葉をゆっくり待つことにする。
少し喋り過ぎたから、今度は撩のターンだ。

手の中で少しだけ弄んだ煙草を軽く唇に挟む。
火を点けて深く肺に吸い込む。吸い込んで、吐き出す。


「同級生っていう関係が特別に見えて、羨ましいと思ったよ。」


もしもあの春の嵐の日に、彼女の大事な家族を奪った原因を作るような男じゃなくて、
自分の素性も分からない、本当の名前も生まれた日も国籍も分からないような男じゃなくて、
彼女を泣かせてばかりのこんな自分じゃなかったら。
撩にはもう今更、やり直しなど出来ない人生について、何度もしもを考えたかしれない。


「ですよね、そうだと思った。ずっと考えてたんです。」

「なにを?」

「俺には資格が無いって言った、冴羽さんの言葉を。」




同じなんです、俺も、冴羽さんも、そこら辺にいる誰か知らない人だとしても。
みんな誰でも平等に人は死ぬし、死ぬまで生きるから。
だから資格が無いなんて言ったら、

槇村が悲しみます。




「冴羽さん、俺、単純なことに気付いたんです。要するに、槇村が誰と一緒に居たいかってことじゃないですか?」



知らず、撩は小さく微笑んでいた。はじめはこの依頼人に苛立っていた。
依頼人にというよりも、依頼人と相棒との関係に。
自分の知らない彼女を知っている男に対する嫉妬、撩の苛立ちの原因は、ただそれだけだった。


「ま、たしかに。」

「だから、色々考え込んでも無駄ですよ。」

「アイツが俺のとこに居たいと思ってるって言いたいの?」

「それ以外、何があります?」

「・・・。」

「俺のダチ、泣かせたら承知しませんよ?」



撩の可愛い相棒は世間知らずだから、きっともっと世の中には良い男がいるだろうに。
なんの因果かわざわざ面倒くさい男を選んで、いつも危ない目に遭っている。
やっぱり、もっとシンプルな世界で、彼女に出会いたかった。




「そんなに単純な話でもないんだよ。」

「単純でいいんですよ、槇村なんか超単純ですよ。」

「知ってる。」




類は友を呼ぶのだろう。
香の友人は、お節介でお人好しだ。
無遠慮に踏み込んで、撩の逡巡などくだらないことだと一蹴する。
撩もいつかそのうち、こんな風に軽やかに単純に未来を思い描けるようになるのだろうか。
それは撩にとって、ずっと遠くに輝く星を掴むような憧れのようなものだ。




(つづく)

[ 2020/03/21 08:27 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第9話  奪還

「確かに奴らはここに現れるんだろうな。」

「・・・フンッ しつこい。何度も言わせるな。奴はこの女を連れ戻しに来る。その時に全員まとめて片付ける。」


山岡と原田はその男の放つ独特な空気に気圧されて、それ以上は口を出せなかった。
山岡が雇ったヒットマンは、人質に女をひとり連れて来ていた。
女は身動きが取れないように両手を後ろ手に組む形で、上半身を縛り上げられていた。
彼女は例の、岡崎というライターが雇ったボディーガードの仲間らしい。
ヒットマンの言うには、男にとって重要な相方だという彼女を必ず連れ戻しに来るのは間違いないという。
女は妙に落ち着き払っていて、涙ひとつ見せるわけでもなく、
気の強そうな目付きで、ただ黙って山岡と原田を見据えている。
山岡は、万が一に備えて倉庫の周辺に、組の男たちも配備させている。






到着するとそこは、埠頭の端にある裏寂れた倉庫だった。
どうやらあの赤い光点は、その場所を表していたらしい。
岡崎は如何にもな場所に誘われたことに少しの恐怖を感じたのと同時に、高揚感を覚えていた。
勿論、実際に標的に対峙するのは撩ではあるが、せめて足手纏いにならないように、
もしも可能であれば、なにか少しでも彼らの為に協力出来たらと考えて、
考えた途端にガタガタと奥歯が鳴った。武者震いというやつだ。
早朝、岡崎が5階の部屋へ香の様子を見に行って、撩と現場へ駆け付けるまでに1時間と経っていない。
遠目に、都会に架かった高速道路の橋脚が見える。
街にはいつも通りの一日が動き始め、静かに渋滞が始まっている。
近いような遠いようなよくわからない場所から、今朝はやけにサイレンが聴こえる。
けれど東京の街中にあって、昼夜を問わず警察車両のサイレンの音が聴こえることは、別に珍しくもない。


「行くか。」

「はい。」

「しっかり俺の後ろに付いてこい。離れるなよ。」


岡崎は神妙な面持ちで頷く。
撩が錆びの浮いた重たい鉄のシャッターを持ち上げると、埃っぽくて薄暗い空間に大きな音が響いた。
恐らく、長いこと使われていないような古い倉庫だ。
周囲の現役感が漂うメンテナンスの生き届いた倉庫とは、明らかに違っていて異様な雰囲気が漂っている。
所狭しと古い木箱が重ね置かれ、一見して奥まで見通すことの出来ない中を、撩の後に続いて奥へと進んだ。

突然、照明が点いたのと、視界が開けたのはほぼ同時だった。
目の前には、自動小銃を構えた大きな男と、縛り上げられた香の姿があった。
男の後ろに隠れるように、原田と山岡の姿がある。



「遅いぞ、撩。」

「悪ぃ悪ぃ、海ちゃん。こんな朝っぱらから呼び出すんだもん、道混み始めてたからさ。」


撩もそう言いながら、コルトパイソンを構えている。互いに向き合って獲物を構えながら、軽口を叩いている。
岡崎は面食らった。
向かい側で自動小銃を構えている彼は確か、撩と香の行きつけの喫茶店のマスターだった気がするが。
どういうことなのか、理解が追い付かない。
岡崎同様、殺し屋同士の会話に山岡と原田は合点がいかない表情を浮かべ始めている。










遡ること数時間前。
冴羽アパート5階の1室の呼び鈴を押したのは、海坊主だった。
香はもう既に身支度を整えていて、すぐに応じた。


「すまんな、ちょっとそこまでドライブに付き合ってくれ。」

「喜んで。」


全てシナリオ通りだ。
この日のこの時間、海坊主が冴羽アパートを訪れることも。香が人質役として連れ去られることも。
何なら、岡崎が冴羽撩というボディーガードを雇ったらしいという情報も、撩があえて相手方に流した。
相手の出方くらい読めている。
山岡の組の若い衆が、撩と渡り合える裏の人間を探している所に、
撩は懇意にしている情報屋を使って、海坊主を紹介したという訳だ。
だからこれは全て、シティーハンターとファルコンの張った、巧妙なトラップなのだ。






「で?野上冴子のほうには?」

「連絡した、今こっちに向かってる。」


撩はアパートを出発する前に、岡崎に原稿をメールで雑誌編集部に送るよう指示し、
自分はすぐに警視庁の牝豹へゴーサインを出した。
今遠くで聴こえているサイレンはきっと、その内この埠頭の周辺へ収斂されて来るだろう。
役者が揃った所で、あとは全員まとめて片付けるだけだ。



「お、おい、ききき貴様らっっ どういうことだっっ。」


薄々、気が付き始めた山岡が、怒声を上げた。原田はいまだ状況が飲み込めずにいる。


「悪ぃね、おっさん。もうすぐしたら、あんた等の悪事、全部残らず世の中に知れ渡ることになってっから。」


撩の言葉を聴いて、山岡は合図した。
木箱の陰に隠れていた組の男たちが、一斉に姿を現す。
さすがにやくざの世界で長年生きてきただけあって、
昨日今日会った殺し屋を、丸ごと信用していた訳では無いらしい。
まあほぼほぼ素人同然の田舎ヤクザ達の殺気はダダ漏れで、
撩も海坊主も、倉庫に入る前からこうなることは予測していた。


「おーおー、流石やることが汚いねぇ、まぁ化かし合いはお互い様ってか。」


撩は軽口を叩きながら、海坊主の背後に配置した組員をひとりづつ仕留めていく。
海坊主は黙々と、撩の周囲に潜んでいる組員を仕留めた。
後々、警察が出張ってくる案件なので、あくまで生け捕りにこだわって、軽く動きを封じる程度でおさめておく。
ものの数分で、片は付いた。
呻き声を上げながら蹲るやくざ達と、青い顔をして震え上がっている黒幕のおっさん2名。
岡崎は一連の流れるような展開に、狐に摘ままれたように呆けていた。
海坊主は既に、おっさん2名が逃走を図るのを予防するために縛り上げている。
銃撃戦の真ん中で拘束されていたはずの香は、自力で縄を解き椅子に座って呑気に背伸びをしていた。
演技とはいえ数時間、拘束されていて両肩が強張っていた。

撩は何も言わず、まっすぐに香の元へと向かった。
手を差し出すと、香も何も言わず撩の手を取った。



「お疲れ。」

「どういたしまして。」

「腹減ったぁ~~。」

「帰って朝ごはんにしよっか。」

「ああ。」



そのやり取りを、岡崎健太はただ見ているだけだった。
気が付くとすぐ傍で、大きなサイレンの音が鳴り続けている。
ようやく終わった。
この数カ月、追い続けてきた事件が解決した。


「健太も、お疲れ。」


冴羽撩を見ていたはずの彼女の視線が岡崎に向けられ、彼女はニッコリと笑った。
本当に、彼女は驚くほど綺麗だ。
岡崎健太の胸の中には、一連の事件のことなど綺麗さっぱり消え失せ、そのことだけが強く印象に残った。
朝の光の輪の中に舞う埃すらも、彼女を包んでキラキラと美しく見えた。



(つづく)

[ 2020/03/19 04:12 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第8話  誘拐

事態は、思いもかけず突然に急転する。



撩との打ち合わせに基づき、冴羽アパートに身を隠した岡崎は不法投棄問題とそれに付随する一連の問題、
また取材の過程で受けた様々な妨害工作と、殺人未遂に関する事実を詳細に記事に起こしている。
撩は依頼を受けて数日後に、岡崎にある提案をした。
撩が調べてきて新たにわかったことや、掴んだネタは逐一岡崎に伝える。
その情報を元に岡崎はどの点について裏取りをしなければならないか、更に必要な情報は無いかを精査し、
それを撩に伝え、更に撩が外に出て必要な情報収集を行う、というものだ。
撩が必要なパズルのピースを探しに行き、岡崎が謎を解くのだ。
撩はまるで鼻の利く優秀な狩猟犬のように、岡崎の求める情報を速やかに拾ってくる。
撩と岡崎は自然と、午前中の数時間をそのような打ち合わせに充てるようになっていた。
午後から岡崎は原稿に取り掛かり、撩は夜行性なので夜に備えて睡眠時間に充てる。
香はそれぞれのサポート役に徹した。
こうすれば狙われている岡崎が表に出る必要はないので、アパートの守りさえ固めていれば安全だ。
向こうが岡崎の居場所を突き止めて襲いに来るのが早いか、こちらが悪事を公表するのが早いか、
それは時間との勝負だ。



「冴羽さん、どんな手法を使ったらこんなにきめ細かな情報を、この短時間で持って帰って来れるんですか?」


実際、岡崎は驚いている。
かつてこれほどまでに仕事の早い人間を、見たことが無い。


「・・・まぁ、別に普通に色々調べてるだけ。」

「冴羽さん、ライター向きですよ。今すぐにでも、転職できる。」

「いや、文章書けるかどうかの問題もあるじゃん?普通に無理だろ。」

「あ、そっか。や、でも冴羽さんなら出来るんじゃないかな。」

「俺、漢字とか苦手だからな~。」

「そうなんですか?」

「うん。フツーに難しいじゃん?漢字。」



妙に香と馴れ馴れしい依頼人の彼と、はじめこそ撩は複雑な心境で向き合っていたけれど、
いつの間にか気が付くとそんなわだかまりは、消えてなくなっていた。
自分の命が懸かっているというのに、岡崎は目の前の巨悪を暴きたいという一心で原稿に取り組んでいた。
確かに調べを進めていくと、ターゲットは思いのほか危険な人物で、
逆に言えばよくもここまでたった独りで調べてきたものだと、撩は言葉にはしないものの密かに感心していた。







「冴羽さん!! 槇村がっっ」


慌てた様子で岡崎が撩の寝室に飛び込んできたのは、まだ早朝7時半頃のことだった。
撩は夜通し動き回って明け方前にアパートに戻り、
香の作るブランチにありつく頃に起き出してくるのがこのところの、タイムスケジュールだった。
香はどうやら毎朝6時頃には、6階に『出勤』し、
朝食の準備を始め、その気配で岡崎は毎朝7時頃に目を覚ましていた。
それがどうにも、今朝は様子が違った。
7時を回っても香は6階に姿を見せなかった。不審に思った岡崎は、5階の部屋を訪ねたらしい。
ドアに鍵は掛かっていなかった。物色された形跡は無かったものの、香だけが忽然と姿を消していた。


「来たか。」

「え?」

「おい、原稿のほうの進捗はどうなってる?公表できる形にはなりそうか?」

「まだ、完全にとはいきませんけど、ある程度インパクトのある告発ができる位のボリュームはあります。」

「編集部のほうは?速やかに掲載できる状況なのか?」

「一応、この記事に関しては自分が持ち込んだ時点の最新号で特集を組むことで話はついてます。」

「よし、行くぞ。」

「え?何処に?」





アイツを取り返しに行くに決まってんだろ。



岡崎がそれほど真剣な表情の冴羽撩を見たのは、後にも先にもその時だけだった。
いつも飄々としていて、ふざけているのかと思えば意外と真剣だったり、かと思えば真顔で冗談を言ったり、
ようやくそんな撩のあしらいに慣れてきた頃の岡崎にしてみれば、
それは唯一、撩の剥き出しの感情の表れのように見えた。
平和な冴羽アパートの中に、ほぼ軟禁状態だった半月ほどで忘れかけていたけれど、
香が何者かの手によって誘拐された事実を目の当たりにし、
如何に今のこの状況が非日常であるのかを岡崎は改めて突き付けられた思いだった。
命を狙われた自分の身代わりに、初恋の人が連れ去られてしまった。

それからの撩の行動は迅速だった。
2人でミニクーパーに乗り込み、撩は勢いよくアクセルを踏み込んだけれど、
何処に行くのか、香が何処にいるのか、まるで初めから解っているかのような素早さだった。


「あの、冴羽さん、訊いてもいいですか?」

「何を?」

「槇村の居場所がわかるんですか?」


撩の横顔がニヤリと笑ったのと、前方の信号が赤に変わったのはほぼ同時だった。
それまでの荒々しい運転とは対照的に、滑らかに信号待ちの列に加わった撩は、
助手席側へ手を伸ばし、ダッシュボードを開いた。
岡崎には見方がよく解らないけれど、どうやらその液晶パネルに表示されたのは東京23区の地図のようだ。
そこに赤く点滅する光点がひとつ。


「そこにアイツがいる。」

それ以上、撩は余計なことは語らなかった。
流れで一緒に着いては来たけれど、今から何が起こるのか岡崎には全く予想もつかなかった。
そもそも何故香が連れ去られたのかすら、上手く理解が出来ないでいる。
それは即ち、岡崎が彼らにガードを依頼したことを、先方にも知られているということか。
その上で香を連れ去ったのならば、香の命が危ないのではないかと随分遅れてハッと気が付いた。
何しろ、駅のホームでしつこく突飛ばそうとしてきたり、
夜道で車を使い尾行した挙句に轢き殺そうとしてくるような輩なのだ。
まるで岡崎の心の内を見透かすように、撩が口を開いた。


「心配すんな、アイツはそうそう簡単に殺られるようなタマじゃねぇ。」

「冴羽さん、槇村のことどう思ってます?」

「どうって?」

「少しは意識してたりします?仕事仲間以上の相手として。」

「俺にその資格は無いから。」

「どういう意味ですか?」


それ以上、撩の返事は無かった。
多分、彼はこの生業でいる限り、彼女を危険に晒すリスクが常にあるからこそ、
言葉の枠の中に彼女という存在を当て嵌めてしまうことを、極端に恐れているんじゃないかと岡崎は想像した。
でも、彼には気が付いていないことがひとつある。
それはただの形式的な彼の中での線引きに過ぎず、
気持ちや感情を無いものとして扱うことはナンセンスだ。
だってそこに確実に、それはあるから。
香は同じ意味合いの質問を岡崎にされて、そう見えるのならばきっとそうなのだろうと言った。
けれど、それでは足りないとも言った。
『好き』だという言葉では小さいと。
きっとそれは撩にとっても同様ではないのだろうか。
たとえ見えない振りをしたとしても、気持ちの在り処までは消せない。


今はただ、一刻も早く彼女を連れ戻しに向かうだけだ。


(つづく)

[ 2020/03/18 04:45 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第7話  縁

「ごめん、変なこと訊いて。」


岡崎は自分の言葉が、香の表情を曇らせたことを後悔した。
確かに自分も彼女も、あの頃に比べて大人になったのだ。
他人に立ち入られたくない領域のひとつやふたつ、誰にだってある。
香はそれでも首を横に振った。


「いいの。」


死んだのよ、アタシがはたちの時。仕事中に。
元々、撩は兄貴の仕事仲間で。
だから行く宛ての無くなったアタシが転がり込んでも、何も言わずに受け入れてくれたの。
アイツのこと意地悪だって言ったけど、本当は優しい奴だってことアタシが一番良くわかってるの。



香はそう言って笑った。もう、悲しそうな顔はしていなかった。
ということは、この数年はこうして冴羽撩と生活を共にしてきたということかと、岡崎は考える。
確か、香にとって兄はたった独りの家族だったはずだ。
その彼を喪ったあとの香を慰めたものは、もしかすると撩との生活の中にこそあったのかもしれない。
だから、2人のやり取りの中には、時に独特な絆のようなものを感じることがあるのかもしれない。
もしもその岡崎の考えが間違いでなかったら、到底、そんな2人の間に割って入ることなど出来ようもない。
香と撩の両方が口を揃えて、ただの仕事仲間だというのならそうなのかもしれないけれど。
それ以前に、2人はもう既に家族だ。



「好きなのか?冴羽さんのこと。」

「そういう風にみえる?」

「うん。」

「じゃあ、そうなのかもしれないわね。」

「なんだよ、それ。」

「だって、そんな小さな言葉ひとつじゃ表せないもの。撩のことは。」



その香の言葉で、岡崎の初恋は完膚なきまでに終了した。
そもそも、これまで付き合った女性の数人ぐらいは居たし、
別に槇村香のことだけを高校生の頃から思い続けていた訳でも無いから、そんなに凹んでいる訳でもない。
どちらかというと、やり残した小さな謎解きの答え合わせが出来た感じだ。
きっとあの日、新宿駅で彼女と出逢えなければ、彼女がこの仕事をやっていなければ、
もしも自分が命を狙われていなければ、もう二度と彼女には逢えなかったのかもしれないから。
この数年の間に悲しい思いもしてきただろう彼女が、今こうしているとわかったことがただ単純に嬉しかった。









「どうやら、あのライター、ボディガードを雇ったらしい。」


山岡がそう言うと、原田は苛立たしげに煙草を灰皿で揉み消した。
チョロチョロと自分たちの周りを嗅ぎ回って、目障りな存在だった。
山岡とは政治の道に進む以前から、持ちつ持たれつの間柄なのだ。
今までの色々を公表されると、社会的立場が脅かされるような事柄も少なくない。
こういう時に、邪魔な存在を排除してきてくれたのが正に山岡であって、
互いにズブズブの間柄はもう今更、どうすることも出来ないので後戻りはないのだ。


「どの程度の輩なんだ?そのボディガードとやらは。」

「噂では、かなり腕の立つ相手らしいが、なにこっちもうちの若い衆とは別に、裏の人間に手を回しといたさ。」

「大丈夫なんだろうな、もしもあの小バエみたいな男にあんな記事を書かれちまったら、次の選挙は厳しいぞ。」

「わかってるよ、不法投棄の件が明るみになれば、一番の痛手はうちだからな。」


山岡が雇ったのはやくざとはまた種類の違う裏の人間だ、所謂ヒットマンと呼ばれる殺しをも厭わない男だ。
そのボディガード諸共、あの目障りな記者を闇に葬ってしまえば一件落着だ。








撩がアパートに帰った頃、6階も5階もとうに灯りは消え、寝静まっていた。
撩は階段を昇りながら、この先の展開を思案していた。
要するに岡崎がこの先、邪魔の入った取材を継続して進め、
確証さえ掴めれば早急に記事にして公表してしまうのが、相手にとっては最も不都合なはずだ。
社会的制裁は免れない。
この数日、撩が情報収集を行う間、岡崎健太はアパートに籠り原稿を書き進めている。
撩の調べで、まだ岡崎が掴めていなかった情報もチラホラ出てきている。
撩が秘密裏に情報収集を行い、裏を取って、岡崎が記事に起こす。
流れとしてはそれが一番、効率的だろうと撩は考える。
依頼人の目的は、命の危機を回避しながら不正を世の中に公表することなので、
彼の書いた記事が雑誌に無事掲載されれば、それで良いのだ。









「それで、その冴羽とかいう男はどうなんだ?殺れそうなのか?」


山岡はその薄らでかい体躯のヒットマンに、多少怯みながらも威張って訊ねた。
若い衆が色々とリサーチを重ね、信頼できる筋に紹介を受けたというその男は、
異常に無口でこれまでの経緯を語る山岡の話を、黙って聴いていた。


「・・・フンッ、探偵に毛が生えた程度の男だ。任せとけ。俺を誰だと思ってるんだ?」

「おぉ、さすがに心強いな。頼んだぞ。」


ニヤリと笑った髭の口元が不気味さを演出し、
長年極道の世界で鎬を削ってきた山岡をもってしても、計り知れない恐怖を感じた。









撩はこのところ、階段の途中で足を止めるのが癖になっている。
あと1フロア昇れば自宅玄関なのだが、その手前の5階で寄り道する。
香がその扉の向こうで眠っている。
確かに、初めの1~2年はこんな風に同じアパートとはいえ、部屋は別だったのだ。
あの頃は別段、それが淋しいとも感じていなかったけれど、
一旦近付いた距離が遠のくことは、意外と淋しいものだと、撩は妙に可笑しな気持ちになる。
離れなければいけない、自分が傍にいて良い相手ではない、ただの仕事相手だと嘯きながら、
就寝時以外は、いつもと何ら生活に変化はないというのに、それでも離れがたい気持ちが滾々と沸いて出る。
冴子の言うように、もしも今後、久し振りに再会した元同級生と香の間に恋が芽生えたら、
その時、自分は彼女のことを祝福し送り出してやれるのだろうかと、
撩はこのところ無意味な自問自答を繰り返している。
自分とは違い堅気の世界で、社会のために意義のある仕事をしている男ならば、
香の隣にいて相応しいのか。
離してやれないその手の先に繋がるのは、香の幸せに繋がる未来でないといけないのだ。
それだけは確かだ。
撩はそっと、その冷たいスチールの扉に触れる。
一番近くにいるのに触れられない、一番遠い彼女を想いながら。


(つづく)



[ 2020/03/16 21:42 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第6話  過去  

岡崎が週の内、3度も背中を押された駅のホームには、防犯カメラが数台設置されている。
勿論、岡崎は仕事柄、あのような目に遭った場合の対処法については心得ている。
すぐに一番近くにいた駅員にことの次第を報告し、警察への被害届を提出している。
怖かったけれど、内心の動揺を押し殺し冷静に対処した。
さすがに同じ人物がごく短期間に、このような被害届を立て続けに出す状況に、警察の動きも迅速だった。
その際、防犯カメラでの検証は警察によって既に行われている。


「ごめんなさいね、確かに不審な人物がカメラには映っていたけど、特定が出来てないの。」


野上冴子はそう言いながら、愛車のルームライトを点けて撩に渡された写真を確認する。
岡崎が例の疑惑絡みで命を狙われていることは明白だ。
彼が疑惑に気付き、追っていた人物は後ろ暗い覚えがあるから動機は充分である。
そもそもその身辺を岡崎は探っていたのだから、彼の取材ノートに基づき、
撩が探るターゲットもある程度、初めから絞られている。
今回の依頼は、その点では非常にスムーズに事が運んでいる。
地元産廃業者と癒着が疑われるのは、関東某県の地方議員で原田という男だ。
元々、土建業から成り上がり、その街ではそこそこの地盤を固めている有力議員である。
そしてその地で最大手の産廃業者は、原田の同級生でもある山岡という男が経営する企業だ。
ただし、その顔は表向きのものだ。
山岡は広域指定暴力団の傘下に下っている小さな組の実質的なトップであり、所謂、組長という立場だ。
ただ、普通の一般市民には、そのような事実は判らない。
反社会勢力が、みかじめ料や用心棒といった昔ながらのしのぎだけで稼いでいける時代ではない。
今の輩は、きちんとした会社組織の体を保った資金源を、ちゃっかり確保していたりする。
山岡の組の構成員について、撩はこの数日間丹念に調べていた。
その中で、撩の琴線に触れた数名をピックアップした写真が、今現在冴子の見ているそれである。


「映像で判るのは、被害者が確かに何者かに背中を強く押された事実と、不審な人物が居たってこと。」

「顔は?」

「判別不能、黒っぽいジャンパーに明るめのボトム、革靴を履いてカーキ色の帽子を目深に被っている位の風体しか特定できないわ。体格からいって恐らくは、男性。」

「3件とも同一人物?」

「えぇ、多分。」


そう言いながら冴子も、数名の中から防犯カメラの犯人に繋がるような手掛かりが無いか、
時間を掛けて観察する。


「これ、一旦持ち帰ってもいいかしら?」

「うん、全然いーよ。俺はもう奴等の情報は、だいたい頭ん中入ってるし。」

「ありがと。」


そんなことより、撩。と、冴子の雰囲気がガラリと変わる。
これは冴子が明らかに面白がっている時の表情だ。
撩の何について冴子が面白がるのかといえば、それは香絡みの事柄しかない。


「今回の依頼人、香さんの同級生ですってね。」

「てか、どこ情報よ?それ。うちの依頼人の素性がそんな易々と漏洩してるなんて由々しき問題だな。」

「新宿の某喫茶店情報。」

「・・・ったく、どいつもこいつも。裏稼業の自覚あんのかね。口軽すぎだろ。」


冴子同様、面白がっているのだろう喫茶店の女主人とゴリラ顔のマスターを思い浮かべて、
撩は溜息をついた。
今に始まったことでもないけれど、彼らは少し誤解していると、撩は考える。
撩と香は確かに相棒ではあるが、あくまでそれだけだ。
それ以上でも以下でも無く、彼らが面白がるようなノリで、どーのこーの出来るような女ではないのだ。
撩にとっての、槇村香という女は。


「だから何?」

「気にならないの?」

「何が?」

「だって、数年振りの運命の再会ってやつでしょ?同窓会で恋が芽生えるなんてよくある話だし。」

「くだらね、たとえそうだとしても俺にゃ関係無ぇし。」



同級生だとか、同窓会だとか。
何がそんなに大切なことなのか、撩にはさっぱり理解不能だ。
そういえば今回のターゲットの原田と山岡も、
『同級生』という名の昔馴染みという繋がりが、重要な意味を持っているのだろう。
もう還暦もとうに超えたようなジジイ同士が、同級の好もなにも関係無いだろうに。
撩はこういう時に、やっぱり自分の生きてきた世界と、今現実を取り巻くこの世界が、
混じり合わない全く別の世界線のように感じてしまう。
撩が幼い頃に一緒に育ったあの貧しい村の少年たちが、今も生きているのかどうかなんてわからない。
多分、大半が生きてはいないだろう。
今日の食事にありつける、明日を生き延びる、ただそれだけのことがラッキーだったような世界だ。
撩にとって過去とは、その時間のその場所にそっくりそのまま置いてくるべき存在だ。
捨ててくるといってもいいだろう。未練などない。
撩には、大半の人間が思い描くであろう些細な未来でさえ、想像するのが難しい。
他人が難しいと感じることを難なくやってのけることが出来るのに、
とても簡単で単純なことが撩には出来ない。
約束を交わすことはきっと、他人の未来を縛り付けてしまうことになってしまう。
3月31日に、3人で誕生日の食事をしようという約束をしたあの時のように。







「はい、どうぞ。」


香が、リビングで寛ぐ岡崎に食後のコーヒーを出すと、岡崎は嬉しそうに微笑んだ。
いつもありがとう、と小さく呟く。
香は思わず、そんな些細なことでさえ、相棒と比べてしまう。
撩はお礼なんて言わない。
当たり前みたいな顔をして、くだらない冗談を言いながら悪態をついたりする。
こうして冷静に思い返してみると、碌な奴じゃないけれど、香はやっぱり撩のいないリビングは淋しいと思う。
憎まれ口を叩く撩が、その同じ唇で香の名を呼ぶその声が好きだ。
この数日、撩は依頼の件で連日労働に勤しんでいる。
近県とはいえ、結構な距離を何度も行き来して、情報収集をしているらしい。
翌朝のブランチを食べながら、進捗を報告してくれる。


「槇村、お兄さんはお元気?」


岡崎は、数日前から気になっていることを訊ねた。
香が毎晩、5階に降りた後、岡崎も客間に戻り寝るまでの時間を過ごす。
その写真立てを毎晩見ていると、香が彼のことを一言も語らないことが不思議に思えた。
当時の香の口振りでは、とても兄妹仲の良い印象だった。
でもその質問をしたことを、岡崎は口にしてすぐに後悔した。
香のそのような顔を見たのは、初めてかもしれない。
一瞬、泣いているのかと思うほどに悲しげな表情は、
その質問に、どのように答えればいいのか考えあぐねているようにも見えた。



(つづく)

[ 2020/03/15 02:02 ] pretend | TB(0) | CM(1)

第5話  慕情 

「ちょっとこの後、出てくるから。留守頼むな。」



撩が不意にそう告げたのは、夕飯も終えようかという頃合いだった。
香はとうに食べ終え、岡崎ももうそろそろ食べ終わる頃だった、
空いた皿から順に下げながら、香はこの後のことを脳内でシミュレートしていた。
撩だけはいつも通り、何度目かのおかわりをしながら結構な量をマイペースに食べている途中だ。
食後のコーヒーを淹れたら、男たち2人のために風呂の準備をするつもりだった。
この日の午後に岡崎の依頼を受けて、そこからトントン拍子に話は進み、
香は急遽ではあるが、これからしばらく5階で眠ることになる。
勿論、それ以外は普段通りだ。
依頼人と撩の為に、食事や生活の世話をしながら、その時が来れば撩と共に現場へ赴くだろう。
どうせ5階で寝るのだから、風呂は5階で済ませるつもりだ。
いざという時の為に、香が以前使っていた1室はすぐに使えるように備えている。


「出てくるってどこに?」

「ん~、ちょっと気になる点があってな。調べ物。」

「そう、コーヒーくらいは飲んで行くでしょ?」

「・・・いや、やめとく。コイツにだけ淹れてやればいい。」

「そう。気を付けてね。」

「ああ。」


一連の2人のやりとりを何気なく目にしながら、岡崎は先ほどの香との会話を思い出していた。
香曰く、2人はただの仕事仲間であり、それ以上でもそれ以下でもない、ということらしい。
けれどこうして2人の生活の様子を垣間見ていると、仕事仲間というよりは殆ど家族に近いものを感じる。
付き合っているのだとばかり思っていたが、確かにその雰囲気は恋人のそれというよりも、まるで夫婦だ。
けれどそうではないらしいので、やっぱり色恋の介在しない家族関係といったほうが、適当なのかもしれない。
香には確か、兄が1人居たと岡崎は記憶している。昔の香との会話の中には、頻繁に兄の話が出てきたし、
1度だけ高校の卒業式の日に、岡崎もその姿を見たことはあった。
今の香からは、そういえば彼の話は一言も出てこないな、と岡崎はフト気が付いた。
ただ、間借りすることになった客間のキャビネットの上には、
今より少し前、岡崎が良く知る香に近い香と一度だけ会ったことのある彼女の兄が写る写真が飾ってあった。







「じゃ、行ってくるから。戸締りしっかりな。」


撩が愛用のサイドゴアブーツを履くのをぼんやり眺めながら、香は見送っていたけれど、
撩がそう言ったタイミングで、香は少しだけバツの悪そうな表情で頭を掻いた。
『戸締り』という言葉を言われると、さすがに香の計画を告げない訳にはいかない。


「あ、あのさぁ、りょお。そのことなんだけど・・」

「?」

「戸締りはしっかりするよ?勿論。そこは任せといて欲しいんだけど、アタシ、今夜から5階で寝るから。」


・・・はぁ?!


「・・・だって、しょうがないじゃん?客間には健太が寝るんだし、アンタの部屋には寝れないから、そうなるでしょ?必然的に。」




香の何とかするという言葉は、要するにそういうことだったらしいと撩はこの時初めて理解した。
確かに現実的に考えると、結局はその方法しかない。
香にそれを聞かされるまで、じゃあどういう解決策があるのかといわれれば、撩は何も考えていなかった。
というよりも、どうせ香はきっとあの時みたいにリビングのソファを使って眠るつもりだろうから、
自分もなんだかんだ言って、香が寝入った頃を見計らって香を自分の寝室へ寝かせ、
入れ替わりで自分がソファで眠ればいいと思っていた。
とんだ計算違いだった。


「おまっ、マジで言ってんの?」

「大丈夫よ、仕事はいつも通りちゃんとやるから。それよりホラホラ、遅くなるわよ、行ってらっしゃい。」


言い出しにくいことは、相手がちゃんと向き合いにくいタイミングで切り出すに限るので、
香は撩の背中を急かすように押しながら玄関の外へと押し出した。
まだ何か言いたげな撩に手を振って、反論を許す前に玄関の扉を閉めた。


「よし、なんとか有耶無耶の内に誤魔化せたわ。」


香は満足げに頷いたけれど、扉を隔てて反対側の撩は、ちっとも誤魔化されてはいなかった。
確かにわがままを言っているのは自分の方だという自覚はあるけれど、
まさか香がそんな作戦を打って出るとは思ってもみなかったので、撩は何となく釈然としなかった。
予定調和でことが進むものだと、勝手に考えていたシナリオ通りに動かない相棒の掌の上で、
撩は結局上手に転がされているのかもしれない。

撩はいつまで睨んでいても仕方の無いドアに背を向けて、仕事に行くことにした。
香には、今回の件で調べ物があると誤魔化したけれど、本当は今夜、殺しの依頼が入っていた。
冴子経由で持ち込まれた案件だ。
岡崎の依頼の件が無ければ、今夜撩は飲みに行く振りをして仕事をするつもりだった。




「健太、お風呂沸いたからいつでもどうぞ。タオルは籠の中に出しといたから使って?」


岡崎が香の淹れてくれた食後のコーヒーを飲んでいると、香がリビングに顔を出してそう言った。
香は5階の風呂を使うから、終わったら湯は落としていて構わないとのこと。
撩の帰りは何時になるか分からないし、シャワーで済ますことのほうが多いからそれで良いらしい。
この後、香は5階へ降りるがそのタイミングで玄関を施錠するので、
セキュリティ上、それ以降は申し訳ないが外へは出ないで欲しいと告げられた。
後は、眠るまで好きに過ごしてくれて構わないとのことだった。
岡崎に異論は無いので、しっかりと頷いた。


「槇村。」

「なぁに?」

「今日はなんか、色々あり過ぎて上手くまだ気持ちの整理が出来てないんだけど。」

「当然よ。」

「ありがとうな。」

「お礼なんて要らないわ、友達でしょ?当り前のことをしてるだけよ。」

「変わんないな、槇村は。」

「健太もね。それに、依頼料頂けるんだもの。アタシ達も助かるのよ。」


そう言ってにんまりと笑う香が一瞬、高校生の男勝りで駆け回っていた頃の彼女に見えて、
岡崎は不意に切なくなった。
どうしてあの時、いつでも学校に行けば顔を合わせることが出来たあの時に、
自分の気持ちに気付けなかったのだろうと思った。
もしも、あの時に自分の気持ちに気付いて、彼女に想いを伝えることが出来ていたら。
今の彼女と生活を共にしていたのは、冴羽撩ではなく自分であった可能性もゼロでは無かったかもしれない。
けれどそんな風に考えることは、きっと無意味だし、
たとえ好きだと伝えていたとしてもその先があったかどうかなんて、誰にもわからない。
あの時はあの時だし、今は今だし、きっと彼女の運命の人は自分では無いのだろうと岡崎は思う。




岡崎が風呂から上がると、香はもう5階へ降りていた。
岡崎もそれからすぐに客間で眠り、深夜に一度トイレに起きたらリビングに灯りが点いていることに気付いた。


「冴羽さん。」

「まだ起きてたのか。」

「トイレに起きたら、灯りが点いてたので。」


冴羽撩は、暖房の入っていない冷えたリビングのソファにジャケットを羽織ったままの恰好で座っていた。
気の抜けたような表情でぼんやりと佇む彼に、岡崎は思わず声を掛けたのだ。


「アイツが高校生の頃って、どんなだった?」


岡崎は撩の突然の質問に驚いたけれど、思わず笑みが零れてしまった。
今の彼女のことは、確かに彼の方が詳しいに違いないけれど。
昔の彼女のことならば、幾らでも覚えている。


「槇村は、曲がったことが嫌いで、正義感が強くて、怖い物無しで、相手が男子だろうが不良だろうが臆することなく意見したんです。仲間が困っていると放っておけなくて。」

「ふふ・・・変わってねぇな。」


そう言うと撩は何処か呆れたように、けれど愛おしげに目を細めた。
ジャケットのポケットから出した煙草を咥えた。
吸う?と、岡崎に問うと、岡崎は首を振った。あいにく、岡崎は喫煙者ではない。
撩は構わず、煙草の先に火を点ける。
ローテーブルの上には、香が綺麗に洗った灰皿が置いてある。
撩は昔の彼女を知らない。勿論、香も出会う前の撩のことを殆ど知らないのと同じことだと撩は思うけれど。
いつもより煙草がやけに苦い。

撩は仕事を終えてここに帰り着く前に、5階に立ち寄った。
香が眠る部屋の玄関の扉に耳を当てて、香の気配をしばらく感じていた。
人を殺して帰って来た。
もしも自分が、こんな男じゃなくて、子どもの頃に両親と乗った飛行機がジャングルに墜落することなく、
何も思い煩うこともなく普通に育って、学校に通い、就職し、何でも無い普通の毎日の中で、
彼女に出会えていたら。

考えても仕方の無いことを考えてしまうのは、撩の悪い癖だ。
人生にもしもなんて無い。
きっと彼女の隣に居ても良いのは、自分なんかじゃない。
撩はいつだってそう思っている。


(つづく)

[ 2020/03/13 04:44 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第4話  別居   

「なんか、良かったのか?槇村。」

「何が?」

「いや、この部屋のことで揉めてたろ?冴羽さんと。」

「あぁ~、そのことなら良いのよ。気にしないで。」



槇村香はそう言いながら、必要最低限の身の回りの物を整理していた。
下着を含む衣類は、岡崎を部屋に案内する前に大きめのボストンバッグに詰めた。
それでもタンスの中に残した物に関して、絶対に中を見ないで、と香は岡崎に念を押した。
あいにく、彼は撩と違って下着を物色するような趣味は持ち合わせていないので、
若干心配し過ぎな香に苦笑しながら頷いた。
普段、あまり物を持たないように暮らしている香だが、
それでもこうして急に部屋を移動するために片付けてみると、細々としたものは沢山ある。
結局、依頼人・岡崎健太を今夜から冴羽アパート6階客間に、匿うことになった。
キャッツアイを出た3人は、一旦岡崎の住まいに出向き、
彼が一通りの荷造りを終えるの待って、アパートに戻った。
それからの撩と香は、客間に彼を泊めることについて数十分の検討会議という名の言い争いを再開した。
喫茶キャッツアイでの、言い争いの続きである。
一応は依頼人に聞かせないよう配慮して、撩の寝室で話していたが岡崎にはほぼほぼバレていたらしい。


7階寝室を半分に仕切って撩と香で一緒に使うか、撩の部屋に健太を泊めるか、香の提案はその2択だった。
しかし、撩はそのどちらにも納得する気はない上に、
『アイツをここに泊めるって言い出したのはお前なんだから、お前が一緒に仲良く寝ればぁ?』
などと憎たらしいことを、ニヤニヤしながら言い放ったので、香の堪忍袋の緒は切れた。
確か前にも同じようなことがあって、同じくからかうような撩の言動に怒り心頭になったことを香は思い出した。
あれから随分経ったのに、自分と相棒の距離感は一向に縮まらなくて、
何の成長も進歩もない自分達に、香は無性に悲しくなって言い争いを終えた。


「あっそう、撩の気持ちはよ~くわかりました。もういい、撩にはお願いしない。自分で何とかするから。」

「何とかって、どうするんだよ。」

「撩には、関係無い。」


香とて、無策ではない。
たまに浮上するこの手の問題は、今に始まったことではなくて、香にとって頭の痛い悩みの一つだ。
撩は依頼人が女性なら喜んでアパートに匿うくせに、相手が男性だといつもこの調子だ。
本当に命を狙われていて、危ないからここに居て貰いたいのに、そこに性別は関係無い筈なのに、
撩のわがままに、いつもこうして振り回される。
今回だって、別に香としては何も、依頼人が同級生だから特別に感情移入しているつもりもない。
これが普通に伝言板を介して齎された見ず知らずの依頼人であろうと、香は同じ主張をした筈だ。
香はこのような際にどうすれば良いか、少し前から考えるようになっていた。
冴羽撩という男がどういう思考回路の持ち主なのか、これまでの経験に基づくデータを脳内で分析し、
対策を講じることが、彼との長年に亘る共同生活を維持していくコツである。
香は撩の協力を得られない場合の、自分の居場所についてちゃんと考えていた。
むしろ何故、今までそのことに気が付かなかったのか不思議なくらいだ。5階を使えばいいのだ。

香が撩の相棒に志願してこのアパートに転がり込んだ当初、香は5階の空室を使っていた。
公団住まいだった槇村家の荷物を、選別する間もなく運び込んだ5階の部屋には、
兄が居なくなって以来使われることの無かった、兄のベッドもある。
いつか処分しなくては、と思いながら手を付けられずにいた物だ。
撩も特に何も言わないし、どうせ空いた部屋だから好きに使えばいいというスタンスらしい。
だから、香は好きにさせてもらうことにする。こうなることを予測していた訳でもないが、
各階の空室も月に2~3度は空気の入れ替えと埃落としくらいはやっていたのだ。
備えあれば憂いなし、である。




「でも、正直少し驚いたよ。」

「どうして?こんな仕事してるから?」

「ん~、それもあるけど。」

「けど?」

「まさかあの槇村が、男の人と同棲してるとは思わなかったから。」


香は私物を仕舞っているキャビネットの前に座り込んで、
簡易ベッドを兼ねたソファに座る岡崎には背を向けていた。
それまで荷造りをしながらの会話だったが、思わぬ岡崎の言葉に振り返って固まってしまった。


「え?なんか俺おかしなこと言った?」

「同棲じゃないから。同居よ、ど・う・き・ょっっ!!」

「どう違うんだろう?」

「そんなの、全っ然っっ違うわよ。アタシと撩はただの仕事仲間だから。」

「あ、そう、そうなんだー。付き合ってるのかと思ったー。」


岡崎は香の剣幕に、それ以上はこの話題に触れるのは得策ではないと感じた。
実は内心、香と撩は恋人関係なのかと勘繰っていたのだけど、
今の香の受け答えから察するに、どうもそうではないらしい。
確かに、恋人同士なら部屋の使い方に関して、あれほど揉める必要も無いかと、ようやく合点がいった。
岡崎がその話題に口を噤んだ後も、香は盛大な独り言を呟いている。
曰く、誰があんなクソもっこり馬鹿だとか、あの変態男だとか、もっこり意地悪男、という様なことだ。
どうやら、複雑な事情があるらしい。というのが、岡崎健太の感想だ。


「あ、でも・・・」


と、香は色々を詰め込んだボストンバッグのファスナーを締めながら、
少し言い過ぎたことを反省するようにフォローを開始した。


「ああ見えて、仕事は完璧だから安心して。アタシに対しては意地悪だけど、あれで意外と優しい奴だから。」

「いや、普通に冴羽さんは優しそうにみえるよ。」

「そう?それなら良かった。アイツが健太に何か意地悪したら、ちゃんとアタシに報告してね。」

「子どもじゃないんだから、槇村は変わってないな。」

「健太は知らないからよ、アイツ男には冷たいの。」



そんなことを言いながら、冴羽撩のことを話す時の彼女は、
妙に生き生きしている気がするのは考え過ぎだろうかと、岡崎は思った。
先ほどの件があるので、心の内に留めるけれど彼等には彼等にしか無い繋がりのようなものを感じる。
喧嘩するほど仲が良い、って言葉もあるから。
岡崎は思わず微笑んでいた。
数日前に、偶然再会した槇村香は驚くほど美しく成長していた。並んで歩くのに気後れするほどに。
冴羽撩ならきっと、何の劣等感も抱かずに彼女の隣を歩くのだろう。
少しだけ、彼のことが羨ましいと思ったのが本音だ。
誰にも言ったことは無いけれど、岡崎健太の初恋の人は槇村香だ。
実は高校生の頃には、岡崎自身も自覚はしていなかった。
ずいぶん後になって同窓会が開かれる度に、彼は槇村香の姿を探したけれど再会することは1度も無かった。
皮肉にもこんな形でまた彼女に出会えるとは、岡崎は予想もしていなかった。









「・・・何とかって、どうするつもりだよ。香のやつ。」


寝室を出て行った香が怒るのも、撩だって理解できない訳ではない。
だがしかし、香の提示した2択はどう考えたってどっちも受け入れ難い。
男と同室っていうのが嫌なのは勿論だが、何があっても絶対に手を出せない女と同じ部屋で眠るのは、
前者に輪を掛けて拷問に等しいと撩は思う。
不毛な攻防だとは、常々思っている。けれど、仕方が無いのだ。


槇村香が束の間の別居生活を画策していることなど、冴羽撩はまだ知る由もない。


(つづく)

[ 2020/03/12 02:22 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第3話  真相

冴羽撩は、苛立っていた。
この数日間、撩を地味に悩ませていた相棒に関する一連の懸案事項は、想像していたものとは少し、
否、だいぶ趣が違っていた。
結果的に良かったのかどうかを判断するには、まだ時期尚早ではあるものの、
とりあえず今のところ、槇村秀幸に代わって『香さんを僕に下さいの儀式』には参加せずに済んだ。
情報屋のオッサンが妙に煽って報告してくるもんだから、撩も少し冷静さを欠いて焦ってしまった。
結果として、数日前から香に接触していた件の男は、依頼人だったらしい。


だがしかし撩は、このやり場の無い苛立ちを誰にぶつけて良いものやら分からない。
撩の眉間には無意識に、深い縦皺が刻まれている。
いつもの喫茶キャッツ・アイのボックス席で隣に座る相棒を睨んでも、
撩の不機嫌の意味が解っていない彼女はすっとぼけた表情で首を傾げる。


「何?」

「うんにゃ、別になんも。」


それでも男性の依頼になると、俄然撩のテンションが下がることなど今に始まったことでもないので、
特に気にも留めない香のリアクションとしては、呆れて肩を竦めて見せるに留まった。
そんなことよりも、目の前の元同級生・岡崎健太の窮状を報告するのが先である。


「健太、コレは冴羽撩。実働担当よ。」

「カオリン、コレって酷くない?言い方よ。」


香は撩の抗議は聞こえない振りをした。
いちいち構っていたら、肝心の本題までなかなか辿り着かないのだ。


「なんか槇村がすみません、失礼で。あ、はじめまして岡崎健太と申します。」

「どーもー。冴羽でーす。」


2人は高校の時の同級生らしいが、撩は気に入らない。
何がって、まずは香が奴のことを『けんた』なんて親しげに呼ぶところ。
そして、香の口の悪さなんていつものことだし、それもひっくるめて相棒だと撩は思っているのに、
岡崎とかいうこの男は、まるで親しい友達みたいな面をして『槇村がすみません』なんて言いやがる。
撩には良く分からない距離感だ。
そもそも高校時代なんて撩には無かったし、親しい友達なんていない。
どうせ今回は撩が渋ったとしても、友達思いの香的には、依頼を請けることは決定済みなのだろう。
撩に選択肢など、初めから無いのだ。


「で?依頼の内容は?」

「珍し、アンタのほうから仕事の話を進めるなんて。」


茶化した香の頬を抓りながら、撩は岡崎に話の続きを促した。
モッコリちゃんでも無いのに茶飲み話なんてするだけ無駄だから、撩はサクサクと事を進めたいだけである。





岡崎健太は、フリーでライターをやっている。
主に原稿を依頼されるのは、政治経済、社会問題などを主として取り上げる雑誌週刊誌だ。
本来、やりたかった仕事とは毛色が違うが、フリーで食っていく為には仕事の選り好みは出来ない。
最近ライフワークとして取り組んでいるテーマは、日本国内の環境問題について。
シティーハンターに助けを求めることになった事の発端は、この仕事の内容にある。
岡崎にはこの数カ月、追っているネタがある。
関東某県の山間部で、かなり広範囲に亘って産業廃棄物の不法投棄が行われているのだ。
現場付近には、数軒の産廃業者が作業場を構えてはいるが、
行政の書類上では違法な投棄は、どの業者も行ってはいない。しかし実態は杜撰なものだ。
この件については、深堀りすればするほど様々な疑惑が浮上してくる。
産廃業者と暴力団と地方議員の、あまり宜しくない癒着やその他諸々である。
かなり慎重に調べを進めてはいたものの、何処かで岡崎は虎の尾を踏んでしまったらしい。

1週間の内に、駅のホームで背中を押され線路に落ちそうになったことが3度あった。
自覚はあるので常に身構えている成果か、今のところ全て未遂で終わっている。
夜道で不審車両に尾けられていることもあった。
見通しの悪い緩やかにカーブした通りで、危うく轢き殺されそうになったこともあった。
犯人の心当たりなら、数パターン思い当たる節がある。但し、確証は無い。


「ま、おたくがある程度は調べてるし、黒幕はきっちり〆てやっから、おたくは悪事を全部暴いてやんなよ。」

「ありがとうございます。」


それまで緊張した面持ちでこれまでの恐怖体験を語っていた彼が、撩の言葉に漸く安堵の表情を見せた。
撩としては別に、岡崎の為に依頼を請ける訳ではない。
相棒の旧友のこの状況を見て見ぬ振りしてしまうと、
後々、絶対に面倒くさい事態に陥るのが目に見えているからだ。
ハンマーで伸されたり、飯抜きの刑に処されたり、口を利いて貰えないという状況は、
撩の生活の質を著しく低下させる。
だから、この依頼を請け負うことは即ち、香の為でもあり、撩自身の為でもある。
この際、依頼人は二の次なのだけど、それを口にすると香に殺されるので撩は口が裂けても言わない。


「よし、そうと決まれば善は急げね。健太、うちのアパートに暫く身を隠すから。」

「はぁ?!なんでだよ?おま、何処に泊めんだよ?」

「客間よ、当然でしょ?命狙われてんのよ?」

「・・・。」


客間、それは冴羽アパート6階において、香の寝室も兼ねた一室である。
依頼人が女性の場合、何の問題も無くその部屋へ泊まってもらう。いつものことだ。
だがしかし依頼人が男性である場合、いつもこの問題が付いて回る。
その間、香は一体何処で就寝するのが正解なのかということだ。


「別にアンタの部屋に、健太を泊めてくれたって構わないのよ?」

「ぜっったい、い・や・だ。何でりょうちゃんが男と同衾せにゃならんのだっっ。断るっっ」

「じゃあ、客間しか無いじゃん。ハイハイ、この話は終わり。しゅーりょー。」



いつもの2人の遣り取りを唖然として見詰める岡崎のカップに、
いつの間にか忍び寄った美樹がお代わりの珈琲を注ぎ足す。


「気にしないで、いつものことだから。」


そう言ってニッコリ笑った喫茶店の女主人は、このいつも通りのコントのような展開が結構好きなので、
冴羽商事の依頼人が男性だと、いつもこうして楽しみながら傍目から観察している。勿論、今回も。

(つづく)


[ 2020/03/08 09:25 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第2話  噂

香がまたしても岡崎健太に会ったのは、新宿駅東口伝言板前だった。
数日前に会った時は、午前の日課の時だったけれど2度目は午後だった。
あの時は香に気が付いた彼が背中から声を掛けたけど、今度は逆だった。
彼はまるで何か思い詰めたかのように何度か躊躇い、チョークを握ってはまた戻した。
何か悩み事でも抱えているように、香には見えた。
あの時、久し振りに色んな話をしたのに、彼はそんな素振りなどまるで見せなかった。


「健太?」


香の呼び掛けに応じたのは、やはり同級生の彼であった。
彼は一瞬、驚いた表情を見せたけれど、それが香だとわかるとすぐに嬉しそうに微笑んだ。


「やぁ、また会ったね。」

「どうかしたの?」

「え?」

「あ、ぅん、なんか思い詰めてた感じがしたから。」


岡崎は俯き加減で小さく笑った。
前回、ここで香と会った時に気の重い用事を済ます予定だったけど、止めにして真っ直ぐに帰ったのだった。
ここ最近の悩み事は、あの香とのひとときの一瞬だけは忘れていられた。
それが単なる現実逃避だということは重々承知で、日延べをしてしまった。
槇村香と再会した日を、台無しにする勇気が無かった。
けれど現実は切迫していて、藁にもすがる思いでまたここへ来てしまった。
もう一度、香に会えたのは全くの想定外であった。
それでも彼女に、こんな悩み事を打ち明けて良いものかどうかはわからない。
何より彼女に迷惑を掛けてしまうことになっては、取り返しがつかない。


「大丈夫?健太。」


心配そうに覗き込む香の薄茶色の瞳と目が合うと、岡崎は高校時代の香を思い出した。
ちっとも変わらない澄んだ眼差しに、油断すると泣きそうになった。


「なぁ、槇村。新宿駅東口の噂って知ってる?」

「···噂?」


香はこの位から何となく、気が付き始めた。
彼がチョークを手に取って目の前の黒板に、何を書き込もうとしていたのかを。



“ここに、XYZって書いたらどんな悩みでも解決してくれる、腕利きの仕事人とコンタクトが取れるって噂。”



香が思った通り、彼の目的は自分達へのSOSだった。
あの躊躇い方を見る限り、この間の偶然の出会いの時も、
もしかすると依頼をしようかどうしようか考えあぐねていたのかもしれない。


「何か困ったことがあるのね。」

「え?」

「大丈夫、それ噂じゃないから。」


槇村香はにっこりと微笑み、大きく頷いた。
何故だか頼もしげに見える彼女は、あの少女の頃の正義感に溢れた、
いじめっ子や不良の粗暴な振る舞いを許さなかった槇村香そのままな気がした。
そういえば数日前に一緒にお茶をした時に、
今現在の香が何をしているのか訊きそびれていたことを岡崎は思い出した。
香も香で、特に訊かれなかったので答えなかった。


「アタシ、その“仕事人”のパートナーやってるの。」



とりあえず連絡先を、と香に言われ岡崎は名刺を渡した。
依頼の内容をざっくりと説明すると、香は変に意識もせずに岡崎にハグをした。
大丈夫よ、安心して。そう言って背中を擦ってくれた。
多分ただ純粋に、慰めてくれているのだということは岡崎も充分に理解している。
それ以上の他意はないし、彼女は昔からそういうタイプだった。
でももう、彼も香も高校生の頃のように子供じゃないのだ。
新宿駅の雑踏の中で、こんな風に気安くスキンシップをしても良いような女じゃ無いのだ、今の彼女は。
近付いた彼女からは仄かに柔軟剤の清潔な薫りが漂って、
こんな状況下なのに岡崎だけが妙に狼狽えてしまった。

相棒を連れてくるから、とりあえず待っているようにと、とある喫茶店を指定された。
岡崎にしてみれば、まさかの展開だった。
自分が連絡を取らなければと思っていた、まるで都市伝説のような噂の主が彼女だったなんて。
正確には、彼女とその“相棒”らしいけれど、とにもかくにも岡崎は今、命の危険を感じている。
救って貰えるのならば、藁にもすがる思いだ。









またしても撩にその不穏な報告が入ったのは、情報屋からの連絡だった。
日課のナンパを終えてアパートに戻ると、香は不在だった。
別に不思議でもなんでもない、この時間なら香は恐らく伝言板の確認に行っている。
リビングの電話に出ると情報屋は、新宿駅東口で香と例のあの男がハグをしているのを見たという。
まさか香に限って、そんな街中の雑踏で、自分達のホームと言っても過言ではない身近な場所でそんなこと。

「有り得ない。」

撩の独り言は妙に情けなく、リビングに響いた。
何が起こっているのか、撩には理解できなかった。
確かにこの数年、ひょんなことから香と組むことになって、仕事はおろか生活までも共にしてきて、
何度、危険な自分の元から彼女を遠ざけなければいけないと思ったか知れない。
本来ならば自分と一緒にいて良いような女じゃないのだ、彼女は。
きっと死んだ彼女の兄も、こんな未来を望んではいなかった筈だ。
それでも何故だか離れられずにこれまでやってきた。
チャンスは何度かあった。今後のことについて彼女と向き合うチャンスは。
けれどその度に、妙に名残惜しくて時間稼ぎをしてしまった自覚はある。
気の無い素振りをして、互いに核心には触れずにきた。

タイムアウトってことなのか



撩は頭の中が真っ白になって、ぼんやりしてしまった。
力なくソファに身を委ねる。
いつかは彼女を自分の元から立派に自立させねばなんて、偉そうにする必要もなく、
彼女はもしかすると自由意思を持って、ここを旅立って行くのかもしれない。



そんな撩の気も知らないで、元気の良い足音が階段を駆け上がってくる気配で撩は我に返った。
玄関のスチール製の扉が勢いよく開けられ、
その扉が閉まるか閉まらないか微妙な間合いでもう既に、スリッパを履いた足音が廊下を駆けて来る。
その気配だけで、相棒がいつになく慌てていることが判る。
撩が胸の内で香のリビングに入ってくる間合いを読んだのと、ほぼ同時にリビングのドアも勢いよく開いた。



りょおっっ!!


香は肩で息をしている。多分、駅からここまでかなり急いで帰って来たらしい。
妙に真剣な目をしてジッと撩を見詰める。


「あん?どったの?カオリン。」

「会って貰いたい人がいるの。」

「・・・。」



はぁ?!
ド直球で来やがった。
この場合、もしかしたらこれから自分は香の兄貴でもないのに、
香さんを僕に下さいとか言われるんだろうか、などと撩は瞬時にリアルに想像してしまった。
ダラダラと自分の気持ちに言い訳を重ね、見て見ぬ振りをしてきたツケがとうとう回って来たのかもしれない。
撩はこれまでの人生において、最も大きな修羅場を前にして己の頭に血が昇るのを感じた。


(つづく)

[ 2020/03/03 13:27 ] pretend | TB(0) | CM(0)

第1話  邂逅

槇村香の日課のひとつは、午前と午後の2回、JR新宿駅東口伝言板に赴いて依頼の確認をすることである。
槇村香と相棒の冴羽撩に用のある人間は、そこへXYZの3文字と連絡先を書き込むのが依頼の合図だ。
但し、書き込んだからといって、まだ正式な依頼人とはならない。
書き込まれた連絡先に、香からの連絡が入り大まかな依頼内容と素性を訊かれる。
それから撩と香による面談を行い、依頼人に不審な点が無いか依頼内容の緊急性や危険度などを鑑みて、
主に撩が判断をする。香は窓口担当で、実働は撩の担当だ。
撩が動く必要があると思えばその時点で、正式な依頼人となるわけだ。


「・・・今日も依頼は、無し、かぁ。」


香は無意識に小さく溜息をついた。
先に述べた冴羽商事の依頼に対するスタンスは、あくまで基本であり、例外も存在する。
家計の状況によっては香の強硬によって、撩の気乗りのしない依頼でも請け負う場合もあるし、
依頼人が妙齢の女性であれば、香の気乗りしない依頼でも撩が勝手に引き受けることもある。
要はケースバイケースだ。
このひと月、依頼を意味するXYZの書き込みは無い。
依頼が無ければ収入も無いので、香にとっては死活問題なのだけれど、
当の相棒は一応、香の雇用主でもあるくせに、その辺りについては非常に呑気に構えている。


「もしかして槇村?」


解かり易く落胆している香の背後から、そんな声が聞こえたので香は振り返った。
学生の頃は、よく同級生にそう呼ばれた。今、この街で香のことを名字で呼ぶ人間はあまりいない。
みんな親しみを込めて『香ちゃん』と呼ぶ。
それもこれも、香が撩の相棒だという前提でこの街の住人に認識されているからにほかならない。


「うん、やっぱりそうだ。槇村だろ?」


そう言って、香の背後2mほどの場所に穏やかそうな笑みを湛えた男性が立っていた。
チノパンに薄い水色のボタンダウンのシャツを着て、紺色のシンプルなジャケットを羽織っている。
ノーネクタイだけどPCを持ち歩けるタイプのブリーフケースを持って、
革靴を履いているので勤め人であることは推測できる。
短く刈り込まれた短髪と、日に焼けた肌、がっちりしているけれどそれほど高くはない身長。
人懐こそうな笑顔に見覚えがあった。けれど、数年前に卒業した高校の同級生は、すっかり大人だった。


「もしかして・・・健太?」

「そうそう、岡崎健太。」

「うわぁ、元気してた?すっかり大人になっちゃって別人みたい。」



香はそう言ったけれど、それはそっくりそのまま岡崎の気持ちだった。
気の重い用があって普段は利用しない新宿駅に立ち寄ったら、
久し振りに再会した同級生は驚くほど大人の女に変貌していた。
昔から美少女であったことは勿論知っていたけれど、それ以上に男勝りで元気の良い彼女は。
そのイメージが若干先行気味で、多くの男子生徒にとっては憧れの女子というよりは、
『気の置けない親友』みたいな存在だった。
けれど、岡崎健太は実のところ、彼女が綺麗だと当時から気付いていたし、
そういう男子は自分だけでは無かったんじゃないかと思っている。
彼女は活発で快活で親しみやすい雰囲気はそのままに、めちゃくちゃ良い女に成長していた。








「大丈夫?お仕事中じゃなかったの?」

香はそう言いながら向かい合った席で、コーヒーのカップに口を付けた。
岡崎が偶然に再会した記念にお茶でもどう?と誘うと、香も警戒することなく軽やかに応じた。
彼は普段、そんな風に気軽に女性をお茶に誘うようなタイプではないけれど、
高校時代の同級生という気安さと懐かしさと、ほんの少しの名残惜しさに思わず、誘う言葉が口を吐いて出た。


「あいにく、自由が利く身でね。全然大丈夫。」

「そう、何やってるのか訊いてもいい?」

「フリーのライター。主に環境問題に関するルポを書いてる。」

「ふーん、高校の時そういうことに関心があるって知らなかった。」

「あぁこれは、最近始めたテーマだからね。昔はスポーツライターになりたかった。」


野球部だった彼を、香は思い出した。
副キャプテンだった高校最後の年は、怪我でレギュラーは外れていたけれど野球部のムードメーカーだった。
部活以外の教室の中でも、彼はムードメーカーだった。
誰かがいやな思いをして落ち込んでいると、そうとは悟らせずに明るく励ましてやれるようなタイプだった。
高校を卒業して以来、同級生と会うことは無かったし、
撩の相棒になってからは職業柄、自分から過去の人間関係を意識的に遠ざけてきた自覚はある。
久し振りに偶然会った同級生とこうして向き合うと、当時の懐かしい思い出が蘇って香は自然と笑っていた。
伝言板に依頼が無かったことも、束の間だが忘れていた。










そのお節介な報告をしてきたのは、撩が懇意にしている情報屋のひとりだ。
いつもなら惰眠を貪っているはずの時間帯に、撩の寝室に直接繋がる電話を鳴らして起こした。
用件は実にくだらない。
相棒のデート現場を目撃したとの報告だった。
なんなら今現在、その駅前のカフェに見知らぬ男と向かい合って、楽しそうにお茶しているらしい。
その店のすぐそばにある公衆電話から掛けてきているのだという。
撩は至極めんどくさそうに返事をすると荒々しく受話器を置いた。
向こう側では、『良いのかい撩ちゃん、香ちゃんが・・』という声がまだ何か言ってたけれど、無視して切った。

確かに枕元の時計を確認すると、香は伝言板の確認に行っている時間帯だ。
あと1時間後にはこの寝室に転がり込んで、ブラインドと窓を開け放ち騒々しく起床を促すのだろう。
彼女のルーティンは、撩を酷く安心させる。
表面的には口煩い相棒にうんざりしている顔をしながら、
もしも香が小言を言わなければそれはそれで多分さびしい。
撩はもうそれ以上眠気は訪れない気がして、大きくひとつ溜息を吐くと勢い良く布団を蹴った。






「依頼、あったのか?」


新聞を読みながら朝食のトーストを頬張って、撩が自分のほうからそんなことを訊くから、香は驚いた。
普段から労働意欲に欠ける相棒は、依頼のあるなしにそれほど興味が無いのだと香は認識していたけど。


「無いよ、けど珍しいね。撩からそんなこと訊いてくるなんて。さっきも部屋に行くともう起きてたし。」


雨でも降るのかな?さっき布団干したのに勘弁して欲しいわ、と言いながら香は洗い物をしている。
そんな彼女の背中を見詰めても、答えなんて出ないのは解かっているけれど、
撩は先ほどの光景を、もう一度思い返す。
普段、撩も香も利用しない喫茶店に香とその男は居た。
窓際の良く日の当たる席で、楽しそうに喋りながらコーヒーを飲んでいた。
天気の良い午前中の光が反射したガラス越しでは、
香の唇を読むのは難しく、会話の内容まではよく判らなかった。
結構ながいこと彼女と暮らしてきたし、彼女のことなら良く解かっているつもりでいたけど。
それは撩の見たことの無い類の笑顔だった。
香が誰か見知らぬ人間を前にして、屈託無く笑っている。
その事実が朝っぱらから、香に関しては意外と打たれ弱い撩を更に気弱にしている。

ド直球で、あの男が何者なのかを訊けたらいいけどそれは、
撩にはそんな権限など無いことのような気がして、思わず尻ごみしてしまう。
依頼人ではないことくらい判るはずなのに、
そんな風に遠回しに探りを入れてしまう自分は自意識過剰だと、撩は思う。


「なに?なんかあった?変な顔して。」


そう言って撩を覗き込んだ香は、とっくに洗い物を終えてコーヒーの豆を挽いていた。
何かあったのはそっちのほうだろ、とは言えずに撩は里芋と油揚げの味噌汁をグッと飲み込んだ。
本心を巧く誤魔化す術ばかり身に着いている。
いつも通りを演じている限り、日常は維持される。
彼女の酷く安心なルーティンは、撩に心の安定を齎してくれる。
この相棒同士の距離感は、少なくとも撩にとっては意識的な心の持ちようによって維持されている現実だ。


「別にぃ、変な顔はお前のほうだろが。りょうちゃんは朝から絶好調にイケメンだし。」


新聞を突き破った香の拳が、軽口を叩く撩の顔面にクリーンヒットして、撩はようやく安堵する。
歪んでいるのかもしれない。
けれどもそれは、撩の自信の無さの表れなのだ。



(つづく)

[ 2020/03/02 23:21 ] pretend | TB(0) | CM(0)

チョコレートブラウン

「こうやってご飯の支度してるのを見てると、なんか子どもの頃に戻ったみたいな感覚ね。」



小さい頃の夕方、外で遊んで家に帰ると、夕餉の匂いがした。それを思い出したから。
北原絵梨子はダイニングテーブルに頬杖をついて、楽しげにそう言った。
そぉ?と言って背を向けたまま応える香にとって食事の支度は、毎日の日課なのでよく解からない。
支度と言っても今日は絵梨子が来ることはわかっていて決めた献立なので、それほど準備も要らない。
万年金欠の冴羽商事にしては大奮発の、すき焼きだ。
メインを華やかに彩る豪華黒毛和牛の薄切り肉は、
この家の家主である大食漢の為に驚くほどの分量を用意してある。
瑞々しい白菜や、丸々と太くて甘そうな長葱をまるで計ったように均等に切り揃えて大皿に盛る。
その手つきの迷いの無さに、絵梨子は親友が毎日こうして料理をしていることを改めて考える。
絵梨子は普段、忙しさにかまけて自炊はしない。
都会の真ん中で生活していれば、それは別段困ることでも無い。
誰かしら食事を共にする相手はいるし、美味しい料理を提供する店は星の数ほどある。
仕事関連の相手と会食する場合も多いし、ある意味では食事も仕事の延長線上にある。
たまに自分でご飯を炊いて独りぼっちの部屋で適当に食べても美味しくないから、作らない。
いつからそういう生活をしているのか絵梨子はもう、忘れてしまった。

高校時代の親友に再会したのはもう、2年以上前のことだ。
奥手でボーイッシュで不器用な彼女しか知らなかった絵梨子は当時、
香が男性と同居しているということにまず単純に驚いたし、
色々あってボディーガードとして依頼することになり、
このアパートに数日間滞在した時の彼らの生活ぶりに、更に驚いた。
ほとんど夫婦のような同居生活を送っておきながら、やはり親友は親友だった。
奥手で不器用なところは、ひとつも変わっていなかった。
彼女が彼の為に作る三度三度の食事を、絵梨子も数日間とはいえ一緒に囲み、
驚くほど癒されたのを覚えている。
例えればそれは、まるで実家に帰った時のような安心感にも似た安らぎだった。
お陰で絵梨子は、実家は都内なのに暫く帰っていなかったことまで思い出したくらいだ。

あの時の再会以来、忙しい合間を縫って親友同士の交際を続けている。
あの時、全てが片付いた後にささやかながら絵梨子なりのお膳立てをして2人をくっ付ける手伝いをしたが、
成果は出なかった。それ以降、機会を窺ってはこのアパートを訪れて、進捗状況を香に聞き出しても、
呆れるほどに焦れったい2人のプラトニック関係は暫く続いた。
それでもやっと数ヶ月前に、晴れて恋人同士になったということを香から報告された時には、
まるで自分のことのように嬉しくて、彼女をハグして一緒に泣いた。
とにもかくにも、絵梨子はこうしてたまに用があるとこのアパートを訪れて香に甘える。
今月に入って、絵梨子は2人に仕事を依頼した。
絵梨子が専属契約を結んでいる若いモデルが、ストーカー被害に遭っていた。
犯人の行為はどんどんエスカレートし命の危険を感じるほど深刻な状況になったので、絵梨子は2人を頼った。
ガード対象者は美人モデルで撩が依頼を断る理由も無ければ、
年が明けて1件の依頼も無かった所に舞い込んだ親友からの依頼に香が断る理由も無かった。
冴羽商事の手に掛かれば、すぐに依頼は片付いた。

依頼料を直接渡しに行くついでにそっちに遊びに行く、という絵梨子に夕食を準備するからと応えたのは香だ。
ちょうどタイミングが良かった。バレンタイン前日の今日なら撩は飲みにも行かないだろうし。
絵梨子が電話を寄越したのが午前中のことで、豪華黒毛和牛を頂戴したのが昨日のことだった。
そもそも撩と2人ですき焼きをしようと思っていたので、そこに親友も合流したら香としては申し分ない。
撩がどう思うかは知らないけれど、香はあまりそういうことは気にしないタイプだ。
ご飯は大勢で食べたほうがきっと、楽しいし美味しい。
因みに豪勢なお肉の出所は、教授だ。
撩が頼んでいたらしい資料を取りにおいでと、
撩ではなくわざわざ香を呼びつけたのは教授からのサプライズだった。
用があったのも確かだけど、本当の用件はバレンタインデイのプレゼントを香に渡す為だったらしい。
プレゼントはお肉だった。


「なに?珍しいね、こんな時間に。」

ご飯の炊ける匂いと、割り下の甘辛い匂いがダイニングに立ち込めた頃、彼はようやく帰って来た。
夕飯時に来客があるのは珍しい。
普段、絵梨子がここに遊びに来るのは大抵昼間なので、撩の第一声はそれだった。
その後、ダイニングテーブルに並べられた食材と、真ん中に据えられた鉄鍋とガスコンロを見る。
見るからに上等そうな肉に、撩の視線が止まる。


「なに?今日は。何の日?」


いつもは締まり屋の相棒にしては気前の良過ぎる光景に、撩は警戒心を露わに訝しむ。

満面の笑みの北原絵梨子
妙に上機嫌の槇村香
見るからに上等な黒毛和牛と思しき大量の薄切り肉

これはもしや、可愛くて恐ろしい相棒に何か無理難題を押し付けられる前兆ではないかと、撩は身構える。
香はそんな撩を見ながら少し呆れたように笑うと、ご飯にするから手ぇ洗ってきなよ、と洗面所へと促す。




「で?どうしたの、この肉。」

洗面所から戻り、改めて自分の席に着いた撩がそう問えば、絵梨子も同じように頷いた。
たまに会うだけの絵梨子ですら、
この上等な肉の並ぶ食卓が、普段の冴羽商事では考えられないことだということくらい理解できる。


「もらったの、教授から。バレンタインのプレゼントだって。」

そう言って香は嬉しそうに笑った。
そもそも、バレンタインに女性から男性にプレゼントをしなければいけない決まりなんてないし、
プレゼントがチョコレートでないといけない決まりもないから、と言って老人は優しく笑った。
その量は明らかに撩と一緒に食べるのが前提のものなので、それは多分、2人に対しての贈り物である。

「あ、そういえば。」

撩がふと、思い出したかのようにリビングに戻った。
帰宅してダイニングに入る前に、リビングのソファの上に放っておいたものを今の話で思い出したのだ。
戻ってきた撩の手には、幾つかの紙袋があった。
上等なセンスの良い小さめの紙袋の中身など、改めなくてもチョコレートだと判る。毎年のことだ。
毎年、2月14日前後に撩が街中をうろつけば、こうやって義理チョコを貰って帰宅するのが恒例だ。
ホイ、と言って手渡されたその紙袋を、香は苦笑しながら受け取る。どうせ貰った張本人は食べないのだ。

「毎年、お返しのほうが大変なのよね。この習慣、そろそろ無くなっても良いんじゃないかなぁ。」

そんなことをぼやく香に、撩と絵梨子は思わず顔を見合わせる。
そんなことを言いながら、彼女は毎年何かしら撩の為にチョコレートを用意している。
きっと明日も。


「2人とも、ビールで良いよね?」

撩から受け取った紙袋をそっくりそのまま冷蔵庫に押し込んだ香は、満面の笑みで振り返った。
キンキンに冷えた缶ビールを3本、香がテーブルに並べる。
撩は早々と、小鉢に生卵を割り入れている。
鍋の中の食材は整然と秩序良く並べられ、沸々と煮え始めて割り下色に染まっている。
撩はいつも通り良く食べたし、絵梨子も久し振りの親友の手料理に舌鼓を打った。








「冴羽さん、これ忘れない内に。」

リビングで食後のコーヒーを飲む絵梨子が、同じく向かい側のソファでコーヒーを飲む撩に紙袋を手渡した。
品の良いベージュ色の紙袋には、エリ・キタハラのブランドロゴがゴールドの箔押しで記されている。
受け取ると、見た目よりも重さは無かった。
香は2人の為にコーヒーを淹れると、
自分も一緒に座ってゆっくりと飲めば良いものを、さっさとキッチンに戻って片付けをしている。
香曰く、明朝はゴミ出しの日なので、片付けと軽い掃除を先に終わらせておきたいらしい。

「チョコレートじゃないから安心して、どうせ貴方食べないでしょ?」
「何これ?」

ふふふ多分、貴方が一番欲しいものよ、
そう言うと絵梨子はウィンクをしてカップに残ったコーヒーを飲み干した。
あまり遅くまで居座ったら、恋人同士の2人に申し訳ないので絵梨子はそろそろ退散する時間だ。

「お邪魔虫はそろそろ、退散ね。キッチンで香に挨拶したら帰るわ。」
「送らなくて大丈夫?」
「はじめからそのつもり無いでしょ?その辺でタクシー拾うから大丈夫。」

この後、彼らがどう過ごすのかなんて絵梨子には解かりきっていて今更だ。
幸せそうな親友を見れば、彼女が彼に充分に愛されていることなど一目瞭然である。
楽しそうに冷蔵庫からビールを取り出す香を、愛おしげに目を細めて見詰める撩が、
はじめから客を送って行く気など無いことくらいバレバレだ。豪快に肉を喰らいながらビールを飲んでいた。
バレンタインにチョコを渡す習慣なんか終われば良いのに、と言っていた香はきっと。
義理チョコの話をしていたのだろう。本命となると、話はまた変わってくる。


「バレンタイン、仲良く過ごしてね。」


お節介な香の親友は、そう言い残して帰って行った。
何をやっているのか、香はそれでもキッチンやお風呂場などを忙しなく行き来している。
撩の一番欲しいもの、そう言われるとこの紙袋の中身のことが撩は、俄然気になってしまう。
香がリビングに戻らない内にと、中身を確認するとそれは、

上質なチョコレートブラウン色のシルクサテンのランジェリーだった。
さすがは北原絵梨子、香のボディサイズは抜かりなく把握している。
艶やかなミルクチョコレートのような色合いはきっと、香の白い肌の色に良く映えるだろう。
上品なブラとショーツに、同じ素材のシルクを数枚重ねた贅沢な作りのベビードールには、
まるでアラザンを散りばめたように、シルバーに輝くガラスビーズが縫い止められている。
こんなものを貰ってしまっては、明日のバレンタインは余所に飲みに行ってる場合じゃないなーと、
撩は独り言など呟いてみる。
元から香と過ごす筈だったなんて照れ臭くて認めたくないから、
この下着一式を言い訳にして一晩中彼女と過ごすことにする。

甘い甘いバレンタインを甘い彼女と一緒に。



[ 2020/02/13 20:46 ] 短いお話 | TB(0) | CM(0)

81.日常のすぐ隣

向かいのアパートから騒音が聞こえる深夜2時、ミック・エンジェルは少しだけ複雑な気持ちになる。
きっと腐れ縁のアイツは歌舞伎町で飲み歩いてきた振りをして、相棒に制裁を喰らったのだろう。
ついさっきまで一緒にいたミックと撩は確かに数杯の酒を引っ掛けて家路に着いたけれど、
飲み歩いたというほどのものでも無いし、かわい子ちゃんが接客してくれるような店で飲んだわけでもない。
教授経由で請けた依頼は、情報収集をミックが行い、実働を撩が行った。
今夜、都会の片隅でしょうもない輩が始末されたことを知っているのは、ごく限られた関係者数名だけだ。
道化を装ってパートナーにお仕置きをされるのと、こうして恋人が不在の真っ暗な部屋に帰るのと、
果たしてどちらが幸せなのだろうとミックは思う。
別に汗を流して労働したわけでも無いけれど、後味の悪い「仕事」と煽ったアルコールの臭いを消す為に、
シャワーを浴びたらまだ、締め切りの迫っている仕事を幾つか片付けなければいけない。
生憎、ミックの恋人は仕事熱心なので、ミックが外で何をして何時に帰ろうが、
残念ながらお向かいの彼女のようなかわいいお仕置きなんて用意して待っててくれることは無い。
日常と非日常は、意外にも隣り合わせに存在している。
同じ夜を沢山の人々が安らかに過ごしている時に、闇に乗じて汚れ仕事を黙々とこなす男もいたりする。




やぁ、カオリ。


まだまだ爆睡中だった相方を放置して見に来た伝言板には、待望の3文字は記されていなかった。
軽く落胆の溜息をついたところで、香は声を掛けられた。向かいに住む友人だ。


おはよう、ミック。


朝から彼女は清々しいと、ミックは無意識に目を細める。
結局、あの後3つの記事を書き終えてベッドに入ったのは、明け方近くだった。
窓際のデスクで仕事をしながら観察をした結果、彼女は撩に制裁を加えて15分ほど後に、
自室に引き上げて就寝している。彼女の生活パターンは概ね、把握している。
起床時間は、決まって6時30分だ。
逆算すると彼女の睡眠時間は正味4時間ほどだが、
まるでしっかりと8時間くらい睡眠を摂ったかのような清々しさで、無意識にミックのハートを射抜いてくる。
それでもこの後、ミックの言葉で多少なりともこの笑顔が曇るのは解かってはいるのだけれど、
ミックとしては言わなければならないのだ。
その為に、こんな時間にここに待ち伏せていたのだから。



昨日はごめんね、カオリ。

何が?

カズエが不在だったからさ、リョウを飲みに誘っちゃって。遅かったろ?昨夜。

ミックだったのぉ、もうっっ。

おぉ、ごめんよ。昨夜はボクの奢りだったからツケは増えてないからさ、カンベンしてくれよ。

んもぅ、仕方ないわね。

そのお詫びといってはなんだけどさ、カオリ。

ん?

駅の向こう側に出来た新しいカフェに行かないか?勿論、ごちそうするよ。

でも、撩の朝ごはんのお世話しなくちゃだし・・・

良いじゃん、どうせまだアイツ寝てたんだろ?放っておけよ、たまには。

ん~、でもぉ・・・






昨夜の「仕事」には、まだ続きがあった。
香をミックがこうして暫く足止めしている間に、撩はアパートのすぐそばの歩道橋から、
通り過ぎる黒塗りの車の後部座席を狙って狙撃する。
タイミングはほんの一瞬で、一か八か一発勝負だ。
この瞬間を逃すと、この次チャンスがいつ到来するか読めない相手なのだ。
撩とミックはうまいこと役割分担をして、恙無く依頼を遂行した。








りょお、起きて!!朝ごはん出来たわよ。



そう言って香が撩の寝室に入って来たのは、もう朝とは言い難い時間であった。
朝から一仕事終えた撩は、また何事も無かったようにベッドに潜り込んで今に至る。
このままうだうだと布団に潜っていたら、その内彼女は痺れを切らして布団を捲るからそれを待つ。
毎朝恒例のいちゃいちゃタイムだ。
ブラインドが勢いよく開けられ、突き刺すような午前中の光が部屋中に溢れる。
彼女の足音がベッドのすぐ傍まで近付く。
彼女が布団の端に触れたその瞬間、撩はすかさず彼女の手首を掴む。
不意を突かれた彼女がバランスを崩して盛大に、撩のベッドへとなだれ込む。
腕の中に囲い込んだ香の匂いを、まるで野良犬のように撩がクンクンと嗅ぐ。


なんか、旨そうな匂いがする。


そう言われて、香はギクリとした。心当たりは大いにある。
結局、ミックの魅惑的な誘いに乗ってモーニングプレートをごちそうになった。
ミックは美味しそうなタンドリーチキンとレタスのサンドイッチが乗ったプレートで、
香はメイプルシロップとホイップクリームたっぷりのパンケーキのプレートを食べた。


きききき、気のせいじゃないの?


近付いてくる撩の唇を避けるように、香はひらりと身を翻すと間一髪ベッドから抜け出すことに成功した。
白々しく明後日のほうを向いて乱れた衣類を正す。
最近の撩は油断ならない。少しでも隙を見せるとこうして付け入ってくるから、香もかわすのが上手くなった。
ご飯出来てるよ、そう言って撩に背を向けた香の耳朶が真っ赤になっているのを見て、
撩は思わず笑いを噛み殺した。大丈夫だ、ミックと撩の作戦は、無事彼女に悟られることなく成功した。
別に今更なことは撩にも解かっている。
今更、撩が請け負う仕事の内容に関して、香がどうのこうの口を出すとは思ってもいないけれど、
知らないなら知らないほうが良い世界もある。
それに関しては、ミックとも見解は一致している。
大事な女に、薄汚い醜悪な世界など見ていて欲しくはない。
それは彼らのエゴに過ぎないのかもしれないけれど、
彼女に似合うのは朝の清々しい空気のような、平和な夜の静寂のような何でもない普通の日常なのだ。
たとえ、日常のすぐ隣にぽっかりと開いたブラックホールのような暗闇が広がっていたとしても、
撩は必ず彼女の手を取って、その暗闇に落ちてしまわないようにエスコートする。
恥ずかしそうに階下に降りて行った彼女の背中を見送りながら、
撩はキッチンに用意された朝食を思う。
夜と朝のギャップが大きければ大きいほど、その朝の大切さが身に沁みる。
今日も2人の日常が始まる。





5.誤算

撩がアパートに戻ったのは、午前2時を過ぎた頃だった。
自宅前の歩道から6階のベランダを見上げると、黄色みがかった電灯の明かりが点っていた。
香はまだ起きている。
撩は冴子に言われた言葉を思い出していた。
香の幸せが自分の傍にあるということ。
それは確かに可能性としてあり得ない話ではないと、撩も思う。

銀狐に狙われて、お前には俺の相棒は務まらないと撩が告げた時も、
マリーの来訪で、撩以外の人間から撩の過去の話を聞かされた時も、
美樹の制止を振り切って墓地に入り込み、邪魔をするなと撩に突き放された時も、
そして負傷した撩をみて、自分には相棒は務まらないかもしれないと自信を失いかけた時も、
沈みゆく船の中で、必ず生き抜くとガラス越しに誓った時も、香は。
結局、最後には撩の手を取って、笑ってくれたから。
だからもしかすると冴子の言うように、香は香の意思で撩の傍に居てくれていると考えても、
それは撩の勘違いではないのかもしれない。
ただそれが、香にとっての幸せなのかどうなのか、撩にはそれは良く分からない。
もしも香の前に撩ではない別の男が現れたとして、そいつが撩以上に香のことを幸せに出来るとしたら。
撩には自分の元に彼女を縛りつけておくだけの、資格も権利も持ち合わせていないのだ。
ある日、彼女が心変わりをして、ふらっと何処かへ出て行ってしまっても、引き留める術もない。

けれど撩はもう、とうに自覚している。
あの温かな明かりと仄かな生活の匂いを、渇望しているのはきっと他でもない、撩自身であることを。




お風呂、今ならまだ温かいよ。


リビングで髪を乾かしながら、香はそう言った。
それの意味するところは、光熱費を無駄にするなということなので、撩は大人しく従って風呂に浸かっている。
肌寒い3月の夜に外をうろついて帰った撩の体は自分で思っていたよりも冷えていて、
酔いはいつの間にか醒めていた。
このところ、色々と考え過ぎだ。
数年前からの記憶が撩を雁字搦めにする。
これまで撩は、何にも執着せず囚われず、思うままに生きてきた。
槇村秀幸に香を託されたことは、ある意味で重い大きな枷を填められることに似ていた。
槇村もまた、少年の頃、父親から妹を託されて同じ思いに押し潰されそうになりながら生きてきたのだと、
今の撩になら理解ができる。
そして、香の境遇にも撩はシンパシーを感じることができる。
誰にでも普通に平等に与えられる産みの親との縁は、撩も香も薄かった。
撩は秀幸でもあり、香でもあったのだ。
そして、大きな枷でもある彼女の存在が、今では撩が生きる意味でもある。
彼女は撩の中でどんどん大きな存在になり、撩の思考は全て彼女中心に回っている。
春はどうしても考え過ぎてしまう。彼女と出会った3月、彼を喪った3月。
彼女が撩の元に転がり込んできた、4月。



はい、どうぞ。


風呂上がりの撩がリビングへ行くと、香は珈琲の入ったカップを目の前に置いた。
半乾きの髪をタオルドライしながら、撩はカップに口を付ける。
撩が風呂に入っている間に豆を挽いてくれたらしい。
酔いは醒めていたけれど、アルコールを摂取してぼんやりしていた頭がスッキリした。
香も向かいに座り、自分用に牛乳を足したものを飲んでいる。



冴子さんに会ったの?

ぇあ?なんで?

匂いでわかる。



野上冴子と2時間ほどバーで同席した間に染み込んだ移り香を、香は鋭く嗅ぎ分ける。
帰ってきてすぐに、風呂場へ直行させられたのは、もしかすると光熱費の問題ではなく、
移り香のせいだったのかもしれない。



たまたまな、同じ店で偶然あった。

ふーん。会うのわかってたら、言っとけばよかった。昼間、こないだの依頼料、振り込まれてたから。

そんなのいつでも良いんでない?別に。

だめ。明日、電話しとく。確かに受け取りましたって。



香は妙に律義なところがあるので、冴子からの依頼を受けて報酬を受領すると、
そうしてマメに連絡を取り合っているらしい。
香が冴子に初めて会ったのは、槇村が死んで撩の相棒になって暫く経った頃だった。
槇村の死は、撩と香の絆を結んだけれど、香と冴子もまた槇村を介して繋がった人間関係だ。



兄貴と冴子さん、付き合ってたんだよね、昔。

ああ。


これまでの思考の渦を香に読み取られてしまったような気がして、撩は焦ったけれど、
別に他意は無く、香は何となく兄を思い出したらしい。



全然、気付かなかった。兄貴が香水の匂いを付けて帰って来たことなんか無かったもん。一度も。



香の前では槇村は、煙草も吸わなかった。
それでも煙草の匂いはしていたし、上着のポケットに煙草やライターが入っているのを見たことがあるので、
吸っていることは香も知っていた。
けれど、香水の薫りを付けて帰ることも、朝帰りも滅多に無かった。
遅くとも日付が変わる頃くらいには帰って来ていた。



兄貴ね、モテないんだろうと思ってたの。でも、冴子さんみたいな彼女がちゃんといたんだと思うと嬉しかった。

槇ちゃん、ああ見えて意外とモテるんだぞ。

そうなの?

うん、まあその他大勢は眼中に無いみたいだったけどな。きちんと丁寧にお断りしてた。

そりゃあ、兄貴は撩みたいにもっこりスケベじゃ無いからね。

槇ちゃんはもっこりスケベじゃなくて、ムッツリスケベだからな。



にんまり笑いながら撩に憎まれ口を叩く香に、撩がしょうもない反論をすると、
香は撩の顔めがけてテーブル用の布巾を投げ付けた。
昔の撩ならばこんなことは決して、望んでいなかった。平和ボケに浸るのは、命取りだ。
こんなことになるなんて、想定外の大きな誤算だ。
真夜中にこうして冗談を言い合える、家族のような存在が傍にいることに幸せを感じているのは、
自分だけだと撩は思っているけれど、もしも香もこの他愛もないひと時を大事に思ってくれているのならば。
撩は自分が香を幸せに出来るかどうかについては、
全くもって自信が無いけれど、ひとつだけ確かなことがある。

香が撩の傍にずっと居てくれるのならば、撩はきっと永遠に幸せだ。




なぁ、香。

ん?



いつになく真剣な目をした撩に、香は訝しげに首を傾げる。
香はこの目の前の男のことがずっとずっと好きだった。
はじめは兄を悪の道へと引きずり込んだ悪い男なのかと思っていた。
後を付けて、撩の本当の姿を暴いてやれば、
兄は目を覚まして、また立派な警察官へと戻ってくれるんじゃないかと考えていた。
あの頃の香は、まだまだ子どもだった。
それでもそんな子どもの香に、恋という感情を植え付けたのは冴羽撩だった。
大人になって、撩のことをもっと深く知っても、香の恋心は大きくなる一方で。
撩が香を失望させるようなことは、ただの一度もなかった。
むしろ撩を知れば知るほど、ただの恋は深い愛へと形を変えた。
圧倒的な力の差や器の大きさを見るたびに、憧れは強くなり。
彼の幼い頃の境遇を知ることで、守ってあげたいと願うようになった。
撩の強さと逞しさと包容力と狭量さと脆さと危うさを全て包み込んで、
彼の眠る夜が平らかなものであるように、彼の目覚める朝が健やかであるように香はいつも祈っている。




ずっと傍にいてくれるか?



何を言うのかと思ったら、撩が真剣な顔でそんなことを言うから。
香は思わず可笑しくて、吹き出してしまった。
そんなことは、今更だ。
これまで何度でも言ってきたはずだ、アンタの死に様を見届けるまで死ねないとか。
毎年、生きて互いの誕生日を一緒に過ごそうとか。
愛する者を守るために何が何でも生き延びるし、守り抜くとか。
2人でシティーハンターだとか。
だからそんなこと。



当り前じゃない。アタシの居場所はここだもん。



香の居場所は、撩の隣だ。
撩の帰ってくる場所は、香の隣だ。
撩も香もずいぶん人生を迂回して、ようやくここまで辿り着いた。
香は兄を喪い、撩はかつて父親と呼んだ相手を葬った。
生まれながらにして手の中にある筈だった形の無いものを、見失いかけて2人は生きてきた。
けれどそれは、撩にも香にも確かにまだあったのだ。
目には見えない形の無い、愛情という名の一番大切なものだ。




テーブル越しに身を乗り出した撩が香の唇に触れた時、珈琲の匂いがした。
妹の幸せが最終的には、槇村秀幸の幸せなのだとすれば、
彼がたとえ死んでしまっていても、香が元気で幸せに生きている限り、
彼の幸せも同時に叶え続けることが出来るということだ。

4.未練

あら、この間はどうも。助かったわ。




撩が行きつけのバーの扉を開けると、カウンターに見知った顔があった。
もう少しで日付が変わるかどうかといった頃合いに彼女を見掛けるのは、久し振りだ。
夜の深い時間でさえ彼女のメイクは一切崩れることもなく、濃密で新鮮なゲランの薫りを纏っている。
まるで武装だ、隙がない。
撩の行きつけに槇村が現れるようになって、いつの間にかコンビを組んだ。
この店に初めて野上冴子を連れて来たのは、槇村秀幸だった。

元相棒だ。

槇村がそう言って撩に冴子を紹介すると、
冴子は“現相棒”を値踏みするかのように挑戦的な視線を撩に寄越した。
撩は撩で、槇村がわざわざ2人を引き合わせる意図が読めないので警戒した。
そんな尖った場の空気も物ともせず、槇村は飄々と酒を頼んでいつもの席に腰を降ろした。
槇村にはそういうところがあった。空気を読めないのではない、あえて読まないのだ。
仕方が無いので撩もいつもの左隣に座ったら、冴子は槇村を挟んで右隣に座った。
仏頂面の新旧相棒に挟まれて、槇村は何故だか少しだけ楽しそうだった。





久し振りじゃん?ここで会うの。



撩は当たり前の如く、冴子の隣に座る。
こうして偶然会うことも無くはないけれど、随分久し振りのような気がした。
冴子はワンレングスの髪を耳に掛けながらメンソールの細い煙草の先に火を点けた。
たっぷりと肺に煙を送る間を取って、溜め息を吐くように煙を吐いた。
撩の酒をバーテンがテーブルに置いたのをちらりと見ながら、答える。


忙しいのよ、貴方達と違って。

へーへー、さいですか。野上警部。

やっと大きなヤマがひとつ片付いたの、息抜きよ。

ふーん。


相手も優雅に紫煙を燻らすので撩も遠慮すること無く、ジャケットの懐からソフトパッケージと火を取り出した。
バーテンは見逃すこと無く絶妙なタイミングで、灰皿を撩の前にも置いた。
槇村に連れられてここへ来た後、冴子も時々顔を出すようになった。
撩と槇村と冴子の3人で飲むこともあったし、撩1人のところに冴子が来ることもあった。
槇村と冴子の2人の時もあったのかもしれないが、
撩は別にそんなことはどうでも良かったのであえて聞いたことはない。
聞かなくても2人がただの元同僚同士では無いことくらい、察しがついた。
地味で冴えない風貌のくせに、槇村が意外と良い女にモテることはコンビを組んでみて撩が分かったことのひとつだ。

槇村が警察を辞めると言い出した時、冴子は激怒した。
槇村に対してというよりも、槇村がその頃夢中になっていた撩の存在にだ。
面識は無かったけれど、槇村の言葉の端々から何となく撩の存在は感じられた。
冴子の知っている槇村は、警察官という仕事に誇りと使命を感じて情熱を持って取り組んでいた筈なのに。
いつの間にか彼は、非合法で危ない橋を渡る素性の知れない男に心酔していた。
ほとんどの現場を一緒にコンビを組んでやってきた槇村に、冴子は否定された気持ちになった。
相棒としての感情とは別に、
男としても彼に惚れていたので冴子は公私の別無く彼に思い留まるよう説得を重ねた。
見知らぬ男に嫉妬して(そうあれは今思えば、嫉妬だった)批難する冴子に、槇村は困ったように苦笑した。


君を俺の人生に巻き込みたくないんだ。


けれどその言葉は優しさに見えて、酷く傲慢だと冴子は憤った。
そう思うのならば、警察を辞めるなどと言わずに何故今まで通りでは駄目なのか。
彼は自分の人生だと言うけれど、そこに他者の介在は端から想定していないように、冴子には聞こえた。
それに槇村には最も大切な存在があるじゃないかと思った。
嫉妬すら覚えるほどに恋人よりも何よりも最優先の、最愛の妹が。



じゃあ、どうして私と付き合ってるの?

好きだから。

香さんはいいの?彼女を巻き込むことにはならないの?



冴子がその質問をした時にだけ、槇村の表情にごく僅かな揺らぎが見えた。
いつもこうだ。彼の心を本当の意味で揺さぶることが出来るのは最愛の妹だけだ。
ほんの少し間が空いて、槇村は穏やかに微笑んだ。



香は良いんだ、アイツのことは。



冴子には槇村のその言葉の意味が解らなかった。幾通りにも解釈できる。
妹は兄のことを最も理解してくれているから良いということ?
妹はもう既に兄の人生の一部なので巻き込んでも構わないということ?
恋人よりも妹のほうが大切だということ?
冴子が感情と論理と嫉妬をごちゃ混ぜにして考えた解釈はそのどれもが的外れな気がしたけれど、
その全てが正解のような気もした。
槇村秀幸はわからず屋だった。
冴子が形振り構わず彼の人生の濁流に巻き込まれたいのだ、ということを全くわかっていないように見えた。
冴子はあの頃、撩にも香にも嫉妬していた。
槇村が大切に思っている全てに対して、嫉妬した。
警察を辞めると言われた時に、冴子の知っている世界の外に、
槇村にとって冴子よりも大切なものが出来たのだろうと不安になったのだ。






この間は私、お邪魔虫じゃなかったかしら?



そう言って冴子はからかうように、撩のリアクションを待った。
先日、協力を依頼した現場で冴羽商事の2人はいつもの様に完璧な役割を果たすと、
吹き晒しの外階段で肩を寄せ合って仲良く冴子の来るのを待っていた。
普段ならダルそうに表情の読めない顔で居るくせに、
何となくあの時の撩は冴子の登場に名残惜しそうな顔をしたのだ。
何事も無かったように振る舞っていながら、
直前まで撩が香の肩を抱き寄せていたことくらい容易に想像できた。
香が気付いているのかどうかは知らないけれど、最近の撩の変わり様は驚愕に値する。
そんな表情が出来たのね、というくらい香に対する感情を隠すことをしなくなった。
というよりも、出来なくなったというほうが正解に近いのかもしれない。



はぁ?何言ってんの?馬鹿じゃねーの?



言葉とは裏腹に、撩の耳朶の先がほんのりと朱く染まっているので説得力は無い。
手練れのスイーパーが色恋絡みでわかり易く動揺している様は、見ていて結構微笑ましい。



いつまでストイックに我慢してるのよ、さっさと手ぇ出しなさいよ。

別にそんなんじゃねぇし、なんか勘違いしてんじゃないの?

あら、勘違いかしら?そんな欲求不満みたいな顔してるから、てっきり悶々としてるのかと思ったわ。



冴子がこれ以上無いという華やかな笑顔を浮かべてそんなことを言うから、
撩は思わず無意識に己の頬を撫でて考え込んでしまった。
顔に出るくらい溜まってるか?と。
もしもそれが本当なら、結構事態は深刻だ。
確かにあの時、奥多摩の湖の畔で緊張と緩和の後のひとときを経て、
撩の気持ちはグラグラに揺らぎまくっている。
これまでと何ら代わり映えのしない香の一挙手一投足に、いちいち振り回されている自覚は大いにある。


槇村が警察を辞めて撩とコンビを組んで暫くしてから、冴子は撩を紹介しろと槇村に詰め寄った。
面白がるように槇村は、撩と自分の行きつけの店を冴子にも教え、2人を引き合わせた。
その3人の新しい出会いの後、槇村は冴子の部屋のベッドの中で煙草を吸いながら愉しそうに冴子に訊いた。




どうだった?アイツの印象は?

···んー、まぁ思ってたよりは、良い奴かな。



確かにそれは冴子の本当の感想だった。
冴羽撩は警戒心を隠そうとはしていなかったけれど、それほど感じが悪いわけでもなかった。
冴子が力んで奴を値踏みしてやろうという気持ち満々でその場に臨んだ勢いを、
なんだかよく解らない雰囲気で萎えさせた。
自分から大事な相棒を奪った男は、裏の世界の男だと聞いていたのとは裏腹に、
どこか憎めない少年ぽさを持った男だった。
不思議な透明感を持っていた。この世の何処とも何も繋がっていないような、浮世離れしたような。
槇村が彼を放っておけないと感じたのだろうことが何となくわかった。
きっと乳飲み子の妹が本当の家族から切り離されて、
宙ぶらりんになったのを放っておけなかった頃のことのように。
冴子の現相棒への評価を聞くと、槇村は嬉しそうに笑ってもう一度彼女をベッドに組敷いた。
口付けは煙草の味がした。



君なら、わかってくれると思ってた。



槇村が法の枠から外れて裏の世界に足を踏み入れることを、冴子には止めることが出来なかった。
それならば、彼と離れない為には冴子自身がそれ相応の覚悟を決めるしかなかった。
冴子は彼が大切だと思っている自分以外のもの全てに嫉妬をしていたのに、
当の槇村は無邪気に冴子を大切にしてくれた。
まんまと冴子は彼の濁流に巻き込まれてしまったし、覚悟していた未来が現実になった。





新宿の種馬が形無しね。



冴子が完全に面白がって笑っている。
冴子だけじゃない。
ここ最近、撩と香を取り巻くお節介な連中全員が同じように思っていることなど、撩も重々知っている。



手ぇ出したら、槇ちゃん化けて出てくるだろ?祟られるなんて勘弁だしな。



冴子は会話の中で一言も香の名前を出さずにいたのに、撩が香のことを話すのは即ち。
全て認めているということだ。
撩ほど頭の良い男がこんな誘導尋問に引っ掛かる訳は無いので、
暗黙の了解として色恋沙汰を否定する気は無いのだろう。



良いんじゃないの?槇村の口癖忘れたの?

口癖って?

俺の幸せは妹が幸せになることだ、って。

ぁああ、言ってたね、そう言えば。



撩と香にはこれまでの誰にも分かち合えない2人だけの絆と歴史がある。
それと同様に、撩と槇村にも、槇村と香にも、槇村と冴子にも、そして撩と冴子にも。
過ごした時間の分だけそれぞれが分かち合う記憶がある。



香さんの幸せは貴方のそばにしか無いわ。



冴子には解る。
自分が槇村秀幸のそばに居ることに幸せを見出だしていたように、香はきっと撩のそばに居たい筈だと。


そうかな。

そうよ。



男はわからず屋だ。他人の幸せを勝手に自分の尺度で測ろうとする。
冴子は結局、秀幸の人生に好き好んで巻き込まれたし、彼を喪った。
冴子には未練と想い出以外に彼に纏わるものは何も持たないけれど、それで充分幸せだ。
伴侶を得て家庭を持って責任を伴う幸せも勿論あるけれど、
何も持たない自由さが生み出す幸せだって幸せには変わらない。



ていうか相棒の座は貴方に譲ったんだから、もうそろそろ槇村のこと独占させてくれないかしら?



この先永遠に彼の想い出という呪縛に捕らわれているのは、自分だけでいい。
彼の妹にも彼の相棒にも嫉妬せずに、冴子はただ穏やかに今を楽しんでいる。



3.心音

ほら、羽織っとけ。

へへ、ありがと。





撩はぶっきら棒にそう言うと、己のジャケットを香へ放った。
撩の分身でもあるコルトパイソンは身に着けたホルスターに収まっているので、
ジャケット自体の重みは然程なかった。
香の装いはヒラヒラと心許ない深紅のドレスで防火扉から非常用の外階段に出ると、
香の二の腕は肌寒さに薄らと粟立った。
不特定多数が出入りするパーティーに潜り込み、
とある依頼に応えた2人は招待客に紛れるために扮装している。
香の着ているドレスと撩の着ているタキシードは、某デザイナー先生からの借り物だ。
ターゲットを炙り出し不意打ちを喰らわせると、程よく現場を撹乱させた2人は気配を殺してその場を去った。
後は冴羽商事の2人と同時進行で同じく現場に潜入していた警察の連中に任せて、外に出たのだ。
大騒ぎの捕物帖が展開されている大広間のパーティー会場が落ち着いたら、
今回の仕事を持ち込んだ野上冴子とこの外階段で落ち合うことになっているので、
2人は寒空のもと彼女の登場を待っている。
現場のリゾートホテルは海沿いの立地で、外階段に容赦なく吹き付ける風には潮の匂いが混ざっている。



駐車場で待つことにすりゃ良かったな、しくった。



胸元にピンタックの入ったクラッシックなウィングカラーのシャツに、
愛用のヌメ革のホルスターを着けた撩がそう言うので、香は心配そうに撩を見上げた。
ジャケットは自分が借りてしまっている。



大丈夫?寒いの?



暦の上ではもう春というカテゴリーになるらしいその晩は、
ヒラヒラのドレスとタキシード姿で待ちぼうけをくらうには少々肌寒い。
それでも撩がそう思ったのは無防備に肌を晒した相棒を慮ってのことだけど、
当の相棒は申し訳なさそうに撩を気遣う。
撩はありがたく香の勘違いに乗じて頷くと階段の途中に腰を下ろした香の隣に、わざとくっついて座った。
数ヵ月前に湖の畔で本音を漏らして、
もうすぐ何度目かの3月26日が来るけれど2人はまだ適切な互いの距離感を掴めずに揺れている。
仕事上の距離感ならばこの上なく息の合った相棒同士だが、私生活の2人はどこかまだぎこちない。
2人には少しの勇気とスキンシップが足りないのだけど、
互いにその点には触れないように目を瞑って毎日をやり過ごしている。

大柄な2人が並んで座るには少し窮屈な階段に座り込み、
少しだけ触れ合う肩の温もりの分だけの親密さは今の2人の穏やかな距離感だ。
香はいつかの日のことを思い出して、思わず微笑んだ。



ねぇ、覚えてる?

あ?何を?

あたしが家出してた時にたまたま撩に会って、ブティックで囮に使われた時のこと。




勿論、撩も覚えている。2回目の3月26日だ。
あの時香は下着姿で、撩のいつものジャケットを羽織っていた。
長居は無用だずらかるぞ、と言いながら背中を押す撩と一緒に、
ブティックの裏口からビルとビルの隙間に出ると、呆れたように怒る秀幸が立っていた。
数日ぶりにそんな場所で兄と鉢合わせて怒られているのに香は妙に可笑しくて吹き出したりして、
撩と一緒に更にお説教を受ける羽目になった。
その時の香には裏口の向こう側の店内で冴子たちが後始末をしていたことなどもわからなかった。
まだ子どもだった。



おまぁあん時、槇ちゃん激オコなのに吹き出したりして逆撫でするから、俺まで巻き添えで説教喰らったしな。

撩だって笑ってたじゃん。




撩も香も、あの時嬉しかったのかもしれない。
久し振りに会えた時にはもう、2人は秘密を共有した共犯者だった。
槇村秀幸の抱えた最大の優しい嘘を、優しく守る共犯者だ。
最終的にはどこか浮かれた相棒と妹を前にして、槇村秀幸は呆れたように肩を竦めた。
結局、あの後、撩に託された優しい嘘と指輪の真実を、撩が改まって香に告げることは未だにない。
本当の肉親は1度、香を訪ねてきた。
幸か不幸か香の母親と秀幸はもう既に他界していて、香を巡る骨肉の争いとはならなかったものの、
まるで運命の悪戯のように判断を委ねられた撩の脳裏に浮かんだのは、あの日の槇村の横顔だった。
妹を離したくないと呟いた見たこともない表情をした相棒の気持ちが、当時の撩には解らなかったけれど、
香の姉だというその女性に香の将来の為の最良の選択をと迫られて、撩は柄にもなく狼狽した。
ヤツはこういう気持ちだったのかと、その時はじめて腑に落ちた。
確かに家族の愛というだけでは言い表せない、
男女の愛という陳腐なものでは片付けられない、
同情なのかといえば決してそうではない。
名前の無い感情。
それまではいつでも香を追い出せると思っていた撩は、
本当は追い出したいわけなど無いのだという真実に気が付いてしまった。
香の姉は、“香の知っている真実のほうが私の知っている真実より、より真実だ”と、
本当のことを告げずに帰って行った。
それでは、撩にとっての真実はなんなのか。
撩はずっと何年も考えている、考えすぎて煮詰まって、
耳の穴から煙が出てくるんじゃないかというくらい考えても。正解なんか解らない。
これは多分、人生の行き着く先を神様に問われているのだ。




そうだな、でもあん時の槇ちゃんの顔、面白かったじゃん?

うん、面白かった。




そう言って笑う香の肩を抱き寄せても良いものかどうか、撩は激しく迷って掌に汗を握る。
潮風が無防備で無邪気な相方の癖毛の先を揺らして、甘い薫りを撩の鼻先に運ぶ。
カップルを装った大広間で彼女をエスコートしながら抱き寄せた細いウエストを思い返す。
その全てであり言葉では言い足りない、撩の愛情の在処である彼女自身そのものを、
撩は果たしてどのように取り扱えば良いのか。
正解はどこにあるのか考えて、手を伸ばすことを躊躇ってしまう。
槇村秀幸が撩に託したのは、本当にこのような結末だったのだろうか。
遺された者にはもう、知る由もない。



それでもそんな些細な撩の葛藤に、無邪気に小さく踏み込んでくるのは、いつだって香だ。
冴子さん遅いね、と言いながら触れ合った撩の肩口に頭を凭れさせてくる。
きっと香は無意識だ、大好きな兄貴にしていたように甘えているだけだと、
撩は己に言い訳をしながらぎこちなく肩を抱く。
呆れて心配しながらも寒そうな妹を気遣う、あの時の相棒のつもりで。

香の心臓が小さく跳ねる音が聴こえた気がしたけれど、
それが香ではなく自分のものであることを、撩は仕方が無いので認めることにする。
このままもう少し、野上冴子が来なければ良いのにと願いながら。



2.追想

3月31日、夕方。昼間には晴天だった空模様は、
次第に真っ黒で不気味な雲が垂れ込め今にも降ってきそうな気配がした。
相棒にその話を聞かされた時、撩は素知らぬふりで初めて聞く話のように振舞ったけれど知っていた。
今日が相棒の妹の20歳の誕生日で、6日前に3年振りに再会した彼女は確かにあの頃よりも大人びていた。








おにいさん、何してる人?


撩はあの時そう言って、槇村秀幸に初めて声を掛けた。
その少し前から、撩の行動範囲内をちらつくその男に少しだけ興味が沸いたのがきっかけだった。
幾つかある内の撩の行きつけの店のカウンターに彼の顔を見付けて、撩は声を掛けたのだ。
独特の雰囲気を纏っていた。
普通の勤め人には見えなかったし、
どこか自分と同じ匂いを漂わせているようでけれど暗い所は微塵も無かった。単純に不思議に思えた。
この多少平和ボケしている感の否めない大都会の真ん中で、
自分は特殊で異様な存在である自覚くらいは撩にもあったけど、彼もそれと同じくらい異質に思えた。
彼の場合、一見するとその人波に紛れて凡庸に映るからこそ、撩には尚一層異質に見えた。
いつの間にか居ついた新宿の街で、自分が懇意にしている情報屋と彼が親しげに話しているのを見て、
撩は確信を持った。彼は恐らく同じ種類の人間だと。



何に見える?



槇村秀幸は簡単には素性を明かさなかった。
それから何度も同じ店で顔を合わせるようになり、
会えば数杯のバーボンを一緒に飲んで、彼は顔色一つ変えずに日付が変わる前には帰って行った。
帰る場所があるのだろうと、撩は皆まで訊かずとも理解した。







3月26日、彼女と2度目に会ったあの日。
撩の通報で冴子たち警視庁の連中がブティックの店内を調べているのをよそに、
槇村は撩と香を目の前にして驚きながらも呆れていた。
確かに数日間家を空けて兄に心配を掛けていた彼女を、
依頼の合間に探してくれと撩に頼んだのは槇村本人だけれども。
まさか下着姿の妹が相棒のジャケットを羽織って、
この数週間に亘って目星を付けていた例のブティックにいるなんて槇村の想像の域を遥かに超えていた。
香を囮に使った撩は相棒に大目玉を喰らったし、家出娘は兄にこっぴどく叱られた。
互いに何となくはその存在に気が付いていても、
あえて触れずにやってきたこの数年間が何だったのかというくらい、あっさりと3人はその場にいた。
まるでずっと前から良く知っている間柄のような雰囲気で。








今日はまたずいぶん酔ってるな。


撩が声を掛けると、槇村は今にも眠りこけそうな眼をしてグラスに残ったバーボンを飲み干した。
初めて撩が槇村に声を掛け、一緒に酒を飲むようになってから3~4ヶ月が経った頃、
珍しく正体を無くすほどに酔った槇村がその店にいた。
日付はとうに変わり、いつもの彼ならばとっくに店を出ている時間だった。
撩は面倒事が嫌いだが、カウンターに突っ伏して潰れたそこそこ上背のある男に、
閉店の片付けが出来ない店主はほとほと困っていた。
情報屋でもあり顔馴染みでもある店主の為に、撩はその酔っ払いを持ち帰ることにしたのだ。



ほら、水だよ。飲みな。


遠くて近いような男の声と、固い床に横たわった感触。
頭のすぐそばに水道水で満たされたロックグラスが置かれる音。
槇村が意識を取り戻したのは、馴染みのバーでもなく公団の自室の畳の上でもなく、
コンクリート打ちっぱなしの酷く味気ない部屋だった。
顔見知りだがいまいち素性の怪しい男が、
簡素な椅子の背凭れに頬杖をついてニヤニヤしながら槇村を観察していた。そこで漸く正気に戻った。
槇村は慌てて上体を起こし、己のトレンチコートのポケットを弄った。



探し物はこれかなぁ?



撩は楽しそうに笑いながら、少しだけ草臥れた警察手帳とずっしりと持ち重りのする手錠を揺らして見せた。
槇村は苦笑すると、床の上に置かれたグラスに手を伸ばし遠慮なく水を飲んだ。



槇ちゃんって、刑事さんだったんだ。



そう言って撩は笑った。
本当ならば、酔い潰れて手帳と手錠をかくもあっさりと市民の手に委ねるなどということは、
あってはならないことだけど、その日の槇村にとってはそれは至極どうでもいいことのように思えた。
後輩の婦人警官が殉職した。
彼女は自ら志願して人身売買組織への潜入捜査の囮となることを願い出た。
あの時に先輩として止めておくべきだったと、今更悔やんでもどうしようもない。
彼女が囮だと感付いた組織は彼女を見せしめに殺し、それ以降の足取りはぷっつりと途切れてしまった。



酔い潰れてこんな所に連れ込まれてしまう、ポンコツ刑事さ。


モチベーションはダダ下がりだった。
大事な仕事仲間を喪い、捜査は暗礁に乗り上げた。
素性の知れない男にお持ち帰りされて、自分の帰りを待って茶の間で眠りこけているだろう妹を想う。
とっくに日付は変わっている、酒の臭いをさせて午前様で帰るなど最悪だ、と槇村は思わず笑ってしまった。








俺と妹には、香には血の繋がりがないんだ。



表情の読めない顔で槇村がそう言った。
遠くで小さく雷の音がゴロゴロいっている。まだ雫は落ちて無いものの、春の空気は湿り気を孕んでいる。
生温い風が頬を撫ぜる。
撩はとうの昔に、その話を知っていた。
3年前に、当事者である槇村香の口から聞かされた。
けれどそれが何だというのだろうと、正直撩はそう思う。
槇村秀幸という男に出会い、コンビで働き、数年間そばで彼を見てきた。
彼がどれだけ妹を大切に思っているかなんて、撩は誰よりもわかっている。
戸籍のない透明人間みたいな殺し屋だってすぐ目の前にいるのだ、
少なくとも彼らには法的に正式な家族関係があり、20年間の彼らの歴史の積み重ねと絆がある。
槇村秀幸は妹の香を愛しているし、香も兄を愛している。
それ以外、必要なものなど無いだろう、と撩は思う。
それが家族としての愛だろうがそれ以外だろうが、撩にとってはその違いは些細なことのように思える。










酔い潰れて朝帰りをした槇村が、それでもなんとか次の事件に向き合えたのは諦めなかったからだ。
その時点では一旦、事件は暗礁に乗り上げたけれど地道に捜査を続けて、
いつか大事な後輩を無残に殺した奴らを、 同じ目に遭わせて 殺してやる。
そう考える自分はきっと、警察官という枠から少しづつ逸脱し始めていたのだろうと、槇村は後に思い返した。
きっとターニングポイントはあの時だった。
殺風景な撩の部屋で酔いから醒めて正気に戻ったと思っていたけれど、
実は狂気が芽生えていたのかもしれない。

次に追いかけていた犯人は薬の売人だった。
よくわからない怪しい薬が出回り始めていた。
まだまだ詳しい実態は警察にも把握できていないが、
強力な副作用と禁断症状は命も脅かすほどのものらしい。




奇遇だね、槇ちゃん。



歌舞伎町の奥の奥、野良ネコとドブネズミくらいしかいないような薄暗い路地裏に撩がいた。
咥え煙草で飄々とした言葉とは裏腹に、足元には骸が転がっていた。
それまで槇村が追っていた薬の売人だった。


そっちのホシとこっちの獲物、同一人物だったらしいよ。


これ適当に始末しといて?と言って、撩は懐から茶封筒を取り出すと槇村に渡してその場を去った。
擦れ違った撩のジャケットからは、硝煙の匂いがした。
意識したとたん、辺り一面に濃密な血の臭いが立ち込めているのに気が付いたけど、
その時にはもう撩はいなかった。
その後のことはまるで夢でもみているかのようだった。
撩に渡された封筒の中身は、警察もまだ把握していなかった売人に関する背後関係をまとめた資料だった。
何故だか冴羽撩に関することは、伏せておいたほうが良いような気がして槇村は口を噤んだ。
あくまでも己が発見した時には、すでにあの状態で売人が死んでいたことにした。
封筒は証拠資料として提出した。
出所は歌舞伎町の信用のおける情報筋からのものとしても、それ以上追及されることなどない。
刑事それぞれに信用のおける情報屋と呼ばれる人間が存在し、
聞き込みの際の重要な戦力になっていることなど、暗黙のルールだ。

そんなことがあった数日後、槇村は公安部に呼び出された。
何も理由は聞かされず、ただ例の薬物事犯に関しては今後、公安部が取り仕切ると告げられた。
そして一枚のメモを手渡された。とある住所の書かれたそのメモの場所に独りで訪ねるよう勧められた。
勧められるというよりも、半ば命令のようなものだった。







香の母親が香の為に買ったというその指輪を眺めながら、槇村は苦しげに眉根を寄せた。
この世の何処かに、香と血の繋がった本当の母親と姉が存在するらしい。
子どもの頃に父親にそう聞かされて以来、槇村が心配してきたのはそのことだった。
いつか本当の家族が香を取り戻しに来たら。
可愛い妹を奪うのが誰であれ、それが本当の血の繋がった母と姉であれ、槇村は渡したくはない。


これはおかしいことかな?撩。香がもしも望めば、香を帰すしかないんだろうか?


だとすれば、黙っておく訳にはいかないだろうか、離れたくない、あの子と離れるなんて俺は・・・
そう言って暗い顔をして俯く相棒の表情は、今まで撩が見たことのないものだった。
家族愛なのか男女の愛なのかなんて撩には解からない。
そもそも家族なんて、撩にはいたことがない。




要するに槇ちゃんは惚れてんだよ、妹に


馬鹿いうな、お前には解らないよ。撩。




確かに撩には解からない。
何が正解かなんて解かっていたならば今頃、
こんな世界の片隅で小汚い奴らを始末してまわる掃除屋なんかやってない。
でも良いじゃないかと思ったのだ。
別に兄妹でも愛おしくて互いが大切で、掛け替えのないものを沢山抱えて生きていけるのなら。
撩からすればそれは、眩しくてとても幸せそうなことに思えた。
そして槇村の大切なものを、撩も相棒として遠くからでも護ってやれればそれで良い。










槇村がメモを頼りに訪ねた先は、立派な日本家屋のお屋敷だった。
そこには優しそうな老人が住んでいて、けれどどうやら彼は只者ではない人物らしい、
ということだけはわかった。
槇村を応接間に通すと、老人はニッコリと微笑んで思いもかけない言葉を発した。



新宿におる大きなねずみみたいな男と仲良くしてくれてるらしいの。



それが誰のことを示すのか槇村にとって心当たりは、冴羽撩だけだ。
彼から渡された謎の資料が絡んでいることくらい、もうこの辺りで槇村も気が付いていた。
きっとこの老人は警察の人間では無いだろうけど、公安部とはなんらか関わりのある人物なのだろう。



それは冴羽撩のことですか?

ふぉふぉふぉ、ああ見えて友達がおらんからのぉベビーフェイスは。仲良くしてやってくれ。



老人はまるで孫の心配でもするかのように、優しげに笑った。
槇村には、その老人の素性も撩という男の素性も、何もかも解からないことだらけだったけれど、
この出来事のすぐ後に警察を辞めた。











槇ちゃん

ん?

やっぱ俺が行こうか?シルキィクラブ

いや、依頼人との折衝は俺の担当だ

まぁそうだけど

それより撩、おまえは遅れずに家に来い 香が待ってる

やっと酒が飲めるな、妹と

ああ

雨降りそうだから気を付けて





撩がそう言うと、槇村は背中越しに手を振った。
あんなに妹と相棒を引き合わせることを躊躇っていた槇村は、
意外にもあっさりと撩を槇村家の団欒に招いてくれた。
家族のいる温かさに撩が触れようとした時に、それはいつも訪れる。
そのことにもっと早くに気付けていたらと、
後に撩は何年も後悔することになるのだけれど、この時はまだ幸せだった。


1.憂慮

「要するに槇ちゃんは惚れてんだよ、妹に」





尊敬する警察官の父親がその子を抱いて家に帰って来たのは、槇村秀幸が9歳の時だった。
その頃の秀幸にはまだ全ての事情を明かすことの無かった父親は、ひとこと

この子は今日からお前の妹だよ

そう言って、おくるみに包まれたその温かな小さな子を秀幸の腕に抱かせた。
母親はその数ヶ月前に大病を患って他界していたし、父親は刑事という職業柄まいにち多忙を極めていた。
この子の面倒をいったい誰が見るのだろうと不思議に思いながらも、
秀幸の胸には初めての感情が芽生えていた。
その子は茶色がかった丸い瞳で秀幸を見上げると声を立てて笑った。
まだミルクしか飲まない小さな子が他所の家庭に貰われてくる事情がなんなのか、
秀幸には難しいことは分からなかったけれど。それがとても不憫であることは理解していた。
父親は乳児でも預かって貰える託児所を探してきて、香は昼間そこで面倒を見て貰うことになった。
香が来る前から、秀幸と父親は毎朝通学路の途中まで一緒に歩くのが日課だった。
どんなに遅く帰っても父親は朝のその時間、秀幸と会話をすることを欠かさなかった。
そこに小さな香が加わった。
朝は父親が香を託児所に送り、帰りの遅い父親に代わって夕方は秀幸が香を迎えに行った。
おむつも換えたし、風呂にも入れて、ミルクも飲ませた。泣き出せば抱き上げてあやした。
本棚には母親が残した育児書があったのでそれを読んで、
かつて母親が自分の為に作ったのであろう離乳食を秀幸は作った。
香はいつも秀幸を見付けると、嬉しそうに笑った。


香の本当の両親の話を、唐突に父親が語ったのは秀幸が10歳の時だった。
香は1歳になっていた。
香の本当の父親は事故で死んだけど、生き別れた母親と姉がまだ何処かに居るらしいこと。
その人たちが香を返して欲しいと言ってきたらどうするの?
確か秀幸はその時、父親にそう訊いた。
父親はただ何も言わずに、小さく微笑みながら秀幸の頭を大きな手で撫でたのを覚えている。
頑張ったんだ。
1年間、楽しいことのほうがいっぱいあったけど、
小学生の兄にとって言葉も通じない小さな妹の面倒を見るのは楽しいことばかりでもなかった。
けれどいつか誰かがこの子を自分の元から連れて行こうとするのなら、その時は多分絶対に渡さない。
秀幸はまだ子どもだったけれど、そう思っていた。
香は槇村家の娘だ。自分の妹だ。香も秀幸のことを「にーたん」と呼んでいる。
それが秀幸にとっての現実の全てで、香にとっての全てだった。


父親が捜査中に死んだのは、秀幸が14歳で香が5歳の時だった。
その頃が秀幸にとっては一番辛い時期だった。
秀幸はまだ義務教育が終わってなかったし、香はまだ未就学児だった。
頼れる身内も近くにはいなかったので父親の同僚であった人達が骨を折ってくれて、
槇村兄妹の行く末を案じてくれた。
絶対に香とは離れ離れになりたくないと意固地になる秀幸に示されたのは、
1年間の期限付きで離れ離れになることだった。
あと1年だけ頑張れば、秀幸は高校生になるし香も小学校に入学する。
父親が遺してくれたもので慎ましく生活できるようになるまでの間、
香は児童養護施設へ預けられることになった。
秀幸はこの時期に、父親と同じ警察官になることを目標にした。
志望校に合格して香を迎えに行けるように、毎日必死に勉強をした。
香は槇村家に来て2年後に、正式に父親と養子縁組をして槇村家の娘になっていた。
父親の亡くなったあと、同僚であった警察の人に聞かされた。
結局、別れ別れになった母親と姉が香を迎えに来ることはなく、
色々と煩雑な手続きを経て正式に香の家族が決まるまでに2年の月日が必要だったということだ。
本当ならば、産まれながらにそこにあるべき家族という存在を持たずに、
宙ぶらりんになってしまった可哀そうな妹。
かわいくていとおしくて不憫な香を守るのは自分なのだと、
秀幸が赤ん坊の香をはじめて抱いた時に芽生えた感情は、愛だった。



秀幸が18歳で高校を卒業し晴れて警察官になった時、香は9歳だった。
高卒で警察官になった秀幸には、10ヶ月間の警察学校での訓練という課題が待ち受けていた。
9歳の香はまたしてもその間、児童養護施設へと預けられた。
同じ頃の秀幸は手探りで妹の世話をしたけれど、自分には頼れる父親がいた。
けれど香にはいなかった。
香には、秀幸しかいなかった。
兄妹2人には互いしか頼れる者もなく、2人を繋ぐのは愛情だった。

秀幸が刑事課に配属を希望し、父親の後を追うように刑事になった時、香は中学2年生になっていた。
初潮を迎え、ブラジャーをするようになり、身長はどんどん伸びた。
寝ぐせが付くということを聞かない癖毛を気にするようになって、
朝は身だしなみに時間が掛かるようになった。
思春期がやってきた妹はそれでも素直で、2人は仲の良い兄妹だった。
いつしか仕事に忙殺される秀幸に代わって、家のことは香がやるようになった。
料理を作り、掃除をし、洗濯をして秀幸の帰りを待っていた。
ようやく平和な槇村家を2人で築いて歩き始めていた。
香は頑張って学費が掛からないようにと、都立の高校を受験し合格した。
秀幸は順調に階級を上げて、警察内でも若手有望株と呼ばれた。
キャリアの道を約束された有能な女刑事の野上冴子とコンビを組むことが増え、
夜の街に顔が利くようになった。


秀幸が新宿の片隅で撩に出会ったのは、その頃のことだった。
自分には無いものを持っているように見えた撩に、秀幸は魅せられた。
ひどく自由な男だと、その身軽さに憧れたのかもしれない。
秀幸には大切なものが沢山あって、けれども9歳のあの頃から身軽に生きることなど許されなかった。
その代わりに得た掛け替えのない愛すべき存在を手の中に収めたまま、
秀幸は同時にその自由さに憧れてしまった。
秀幸が警察を辞めたのは、香が高校1年生の時だった。







香は己が槇村家の養女であることを既に知っているようだ。
秀幸がそのことに気付いたのは、香が高校に入学して少し経った頃だった。
それでもその話題を口にすることは、これまで無かった。
2人とも意図的に避けてきたと、今にしてみれば秀幸はそう思う。
2人とも頑張ってきた。頑張って幼い力で、形の無い家族をいちから作り上げたのだ。
血の繋がりなど関係なかった。
それでももうすぐ20歳になる妹に、兄として本当のことを告げなければいけないと秀幸は考えている。
香には自分の人生と向き合う権利があるのだ。
香は賢い子だから、きっと本当のことを聞かされても笑い飛ばして現実を生きるだろう。
それでもこの役目だけは、いつかの父親にやって欲しかった。
優しく微笑んで秀幸の頭を撫でた父親に。

秀幸はただただ、愛する妹に幸せになって欲しいだけだ。
殺伐とした恐ろしい世の中の醜悪なものに触れることなく、明るい世界だけに触れて生きていて欲しい。
自分と相方の暗躍する世界など知らぬまま、妹に悪いことが忍び寄ることのないように。
秀幸が憂慮するのは妹に害が及ぶこと。
けれど秀幸はこの目の前の相棒に、全幅の信頼を寄せている。
この男の凄さはこれまで充分に目の当たりにしてきた。
きっと大丈夫だ、自分と相棒ならば。



「馬鹿いうな、お前には解らないよ。撩。」


そんな訳はない。
これはあくまでも、家族としての愛情なのだ。
あの子を父親が連れて帰って来た時から、あの子を守ると心に決めたのだ。
惚れてるなんて、そんな次元の話ではないんだ。
あの子が、香が20歳になったら笑ってこの指輪を渡しながら、一緒に酒を飲むんだ。
平和で温かな槇村家で。


それは秀幸が依頼人の待つシルキィクラブという店に出向く前の、相棒との短いやりとりだった。
秀幸が29歳で、香はもうすぐはたちになる。
雨が静かに降り始めていた。








切ない恋にまつわる5つのお題

書きたいテーマにしっくりくるお題を見付けたのでお題に沿って書き進めたいと思います。
お兄ちゃんのことを軸に書いていけたらと思っています。
なんとなく続いてるような、けれども単体でも読めるようなシリーズとして書く予定です。


1.憂慮
2.追想
3.心音
4.未練
5.誤算



お題配布元:天球映写機さま
        (いつもお世話になっておりますm(_ _)m)

2020 あけおめ

今年は暖冬だから、大晦日にしては温かい。
それでも香は硝煙の匂いが燻ぶるモッズコートに包まれた己の二の腕を無意識に擦った。
コートの中身は体に馴染んで動きやすい作業用のつなぎで、
更にその中には防寒対策の機能性インナーを着込んでいる。足先に鉄板の入った安全仕様のワークブーツは、この半日で仕掛けたトラップの成果を示すように泥だらけだ。
ようやく一仕事終えて緊張の解けた香の隣には、撩が同じように立っていて同じように眼下を見下ろしている。
撩はいつものジャケットの上にモッズコートを羽織ってはいるけれど、
前は全開に肌蹴ていてコートとジャケットの下に赤いTシャツ一枚だ。同じように硝煙の匂いを纏っている。
つい先ほど眼下に広がる広大な敷地を有する廃工場を、爆破してきた。
誰もよりつかない郊外の山の中の古い工場跡をアジトにしていた一味は、撩が殲滅し、
香が広大な敷地の周りに幾重にもトラップを張り巡らして撩を援護した。
勿論、警視庁の女豹、野上冴子の許可は貰っている。
そもそも暮も押し迫って厄介事を持ち込んだのは彼女なので、
冴羽商事の2人共後始末に関しては彼女に丸投げするつもりだ。
大晦日だからという訳でもないが、火薬の量が少しばかり多かったかもしれないと香はその光景を眺めながら苦笑した。



今日はまた、火薬2倍サービスデーかなんかなの?カオリン。



そう言いながら撩はジャケットの内ポケットから取り出したマールボロを1本咥える。
爆風を避けるようにして2人で山道を駆け上り、
上った所の少し開けた高台の雑木林の隙間から、現場は一望できた。
幸い、周りには民家も無いし、あるのは点在する産廃業者のスクラップ置き場だけで、
もうすぐしたら色っぽい刑事のお姉さんが手下を引き連れてやってくるので、多分大丈夫だ。
山火事にはならないだろうと撩は呑気に構えている。
ジッポーの蓋を開ける小さな金属音が、思いのほか澄んだ冬の空気に響いて溶けた。



あはは、ちょっと計算違いしたみたい。てか、寒くないのアンタ?



撩の薄着は今に始まったことでもないけれど、
大きくコートの前を開いた撩の首元を見るだけで香は寒気がした。
対照的な香はコートのファスナーを首の一番上までしっかりと上げて、
ファスナーに被る形で防風も兼ねた前立てのスナップボタンもきっちりと留めている。
つなぎの裾はワークブーツの中に収まっているし、
爪の中に泥が入ってかさついた両手はポケットに突っ込んでいる。



うんにゃ、別に。



撩の表情からは特に何も読み取れなかったけれど、2人は昼過ぎから労働に勤しんで腹が減っている。
12月の頭に1件、依頼をこなしていたし、
撩が香を通さず勝手にやってる”仕事”のほうも年末特需なのか連日立て込んでいた。
表向きにも裏側も冴羽商事的には充分潤っていたので、
今年はぬくぬくと炬燵に入って鍋でも囲んで紅白歌合戦でも観ようかと目論んでいたはずが、
何の因果か大晦日にこの有様だ。
2人とも泥だらけで硝煙の匂いに塗れている。
一応、山火事の心配はなさそうだけど、
冴子たちが到着するまでは遠目に現場を見ていようと、撩は手持無沙汰に佇んでいる。
冴羽商事の代表が現場を後にしないので、部下である香も横に並んで燃え盛る工場跡地を見詰めていた。
蓋を開けたジッポーから煙草に火を点ける一連の動作の中で一瞬だけ、撩は香の横顔を盗み見た。
眼下に広がる炎の赤を映して、オレンジ色に染まる香の頬に、
少しだけ見惚れてしまいそうになって目を逸らした。
まるでカウントダウンの花火を見守るカップルのような高揚感をおぼえる。
大晦日の現場は2人にとってはもしかするとデートみたいなものかもしれない。
撩の命懸けでスリル満点のデートに付き合ってくれるような奇特な女は、槇村香ただひとりだ。


今年の初夏に、香の幼馴染とかいうトチ狂った男とやりあった。
留学先のアメリカで極端な理論の虜になった彼の野望を打ち砕き、
寸でのところで世界中が火だるまになるのを阻止した。
あの男の初恋の相手というのが香だったことはきっと嘘ではなかったのだろう。
もしも彼がウォーフェア理論に染まらずに、真っ当なビジネスだけで成功を収め、
あの時自分たちの前に現れていたら、香の手を離したのだろうかと撩はあれから時々考えてしまう。
行き掛かり上とはいえ、ウェディングドレスを着た香の姿は今でも鮮明に瞼の裏に焼きついている。
いつか誰かがあんな香の隣に並んで幸せを噛み締める日が来るんだろうか。
それは俺じゃ駄目だろうか。などと、撩は今年一年を振り返る。


表情の読めない撩の思考回路など、香に解りようもない。
半分ほど吸った煙草を足元に放るとブーツの先で踏み消した。
香が無意識に両腕を擦りながら白い息を吐いた時、不意に撩が抱き寄せた。
気が付くと香は撩の腕の中に囲われ、撩のコートですっぽりと覆われていた。
驚いて首だけで振り返る香に、撩はニヤリと笑った。



ほら、見てみ。



そう言って撩がポケットの中から取り出したケータイの画面は、もうすぐで午前零時をお知らせしている。
あと5秒。
カウントダウンの花火ではないけれど、廃工場の爆破だけれど。






年が明けた。






綺麗だな。

さすがにそれは悪趣味だってば。




撩の言葉を香はまた誤解している。
撩が綺麗だと言ったのは、腕の中の泥まみれの相棒のことであって、
カウントダウン爆破パーティーの話ではない。
そりゃあ勿論、綺麗な服に身を包んで綺麗に化粧を施せば彼女が何処の誰より美しいことは知っている。
けれど撩は、香が作業着だろうがハンマー担いで走り回っていようが鼻水垂らして泣いていようが大口開けて馬鹿笑いしていようが世界で一番、彼女を綺麗だと思っている。
ただ、それを言葉にするのは照れ臭い。







今年もよろしくな、相棒。

うん、こちらこそどうぞよろしく。



暗闇の林道に赤色灯が連なってやってきた。
そろそろ裏稼業の2人は退散して今度こそ炬燵で寝正月を決め込む為に、デート現場を後にした。










ありがとう、CHY(シテハンイヤー)
ことよろです。
[ 2020/01/01 00:21 ] 短いお話 | TB(0) | CM(1)